中島敦に関するメモ書き。

そうげん 作

ほかで中島のことを書くうちに、雑然とするイメージをまとめたくてざっと書き出していきました。
時間のあるときに、続きも記していく予定です。

筑摩書房第三次中島敦全集1-3、別

と、いくつかの中島敦に関する書籍を参考にしています。

2018-06-08

横浜高女で教職にあった中島敦は休職中に、知人の斡旋で「南洋庁内務部地方課国語編修書記」としてパラオへ赴任することに決まる。
教職を辞し、南洋へ渡航。パラオ島コロールの内の寮から、のちに官舎へ移り、国語教科書の編纂等の責にあたる。


教職にあった父のため、幼少期から国内外を転々としてきた。京城(現ソウル)中学校在学期間、1925年(大正14)の修学旅行では大連へ行き(満州事変前)、一高で学んだ後(休学期間あり)、1930年(昭和5)に東京帝国大学に入学。1932年3月1日に満洲国が建国される(⇦wikipedia 「満州国」のテキストより)。1932年(昭和7)8月、大学在学中に旅順、大連、天津、北京などへ旅行する。1933年(昭和8)3月卒業。

つまり、中島は満州事変の前後を見ている。

1934年(昭和9)から長編小説『北方行』の執筆に着手(未完。未定稿として残ってます ⇨ 全集に収録)。

『北方行』は、1930年、青年が大陸に向かう話であって、このころの情勢もはさみながら、民族ごとに持っている言語の別のことや、科学それ自体の前提を問いただすことへの姿勢も含め、(イノセント、純粋、世間知らずの)【黒木三造】と(満州ゴロ、支那浪人と呼ばれるべき存在予備軍の)【折毛伝吉】の二人を作中に対置してある。『ジキル博士とハイド氏』と似ている。際立った差異を有する二視点を設けることで、表現する世界を複眼的に見せ、複雑化し、錯綜させ、そのうえで、多くの人物を立体的に、多面的に描きながら、現代の現実を描こうとする取り組みであった。北方行。男女の愛憎も絡めば、文化論や言語比較論的なものも含まれる。ただしこのときの中島にとって、テーマが大きすぎたために手に余ったようである。作のはじめに、トニオ・クレーゲル(トーマス・マン)やジュリアン・ソレル(スタンダール赤と黒)、ドン・ジョバンニ(モーツアルトの名前とともに)と、海外作品の主人公の名前が出ている。主人公の三造をこれらの人物と対照させることで人物の内実を調節している(これらの名前が十二分に効力を発揮するのはそれを知る人のみでしょうか。固有名詞の出現を嫌う人には避けられてしまいそうです)。これは前述したように未完に終わった。( ⇦ 彼ののちの作品にこの作品の影響を見ることは可能です)

それ以前の(習作)、『虎狩』『プウルの傍で』『巡査の居る風景』では、日本と朝鮮の関係があざやかに描かれている。

『巡査の居る風景』では、関東大震災時の状況を作中人物が伝聞情報として会話している。この内容に関しては、当時東京の中学生だった埴谷雄高は自主的に自警団の手伝いをしていて、(おそらく多くのデマをふくむ)情報の流布がどのように人口に膾炙したかを、現場で見ていた人間として、戦後、エッセイに記している。埴谷氏は、裏付けのない情報に煽動されたところと、落着いて対処していたところのあったことを記している。(⇦ 埴谷雄高『自警団と遁走の論理――大杉栄全集に寄せて』/「読書新聞」昭和39年3月9日を参照)

異なる二か所で発信されたひとつの事件。事件をどのように捉えるかは人による。だからこそ、当時の作家は、複眼で捉え、より複雑なものを提出可能な作品の制作の側へとシフトして行かざるを得なかった。意味がつながります。国のべつでなく、一人の人間として、どのように見るか、どのように在りたいか、そのような姿勢が裏にあると感じられた。

後に記された南洋物(『南島譚』や『環礁』)の描き方にも、現地の人たちに対して可能な限り公平であろうとする姿勢が見られる。レポートとして読んでも遜色ないほどに。文字文化偏重の自身の視点から、無文字文化を見たときに沸き起こるエキゾチズムの感覚。しかし一度獲得した文字を捨てることは不可能だ。近代の精神を持っていると自負したがるアジア人としての自分と、その自分に嫌でも纏いついてくる、さかしらな観察眼のいやらしさ。そういった自分は外から見られれば、きっと滑稽なことだろう、と白人の視点を意識する。これは『北方行』の最初に出てくる英国人トムソンとのやりとりにも色濃く出ている部分である。

『北方行』という長編小説では日本と大陸の民族間を大きく跨いだ問題を描こうとしている(ように読める)。さらにアジアの国をふくみこんで、それとは別に、西洋、西欧の諸国との関係がある。近代という文化文明枠にはめれば、東西の強弱の差はあきらかといえる。意識の上で知識の上で東西のはざまにある作家中島のような存在は、いやでも十重二十重の相関関係が目についてしまう。


関心を抱いたのは、全集に収録の、中島の「手帳」のなかに、

1936年(昭和11)1月23日、ジャンクリストフ読み始める、

という旨の記載があったことだ。ロマン・ロランとトーマス・マンは、第一次大戦、第二次大戦の前後に主に活動している。第一次大戦ではドイツの行動を積極的に擁護したマンに対し、一貫して平和を訴えるロランが批難している。しかしドイツ敗戦後、ナチス台頭にマンは、警鐘を鳴らし、結果ドイツに戻れなくなった。


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●ロマン・ロラン wiki
33歳であった1903年、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーの個人雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表した。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め、1912年に脱稿する。同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウス、ツヴァイク、リルケ、シンクレアらと知り合う。44歳であった1910年にレジオンドヌール勲章を受章する。1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞し、スイスの雑誌に芸術時評を書き始める。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞した。

1914年8月に勃発した第一次世界大戦については、たまたま滞在中であったスイスから、仏独両国に対し「戦闘中止」を訴える。このことから祖国への反抗と受け取られて帰国できない状態になったが、その反面、アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと意を通じ合うことになる。国際的には評価される一方で、母国では好感されぬこうした傾向は、生涯にわたることになる。
65歳であった1931年に父親が死去し、マハトマ・ガンジーが来泊する。この年に起こった日本の満州占領については日本を非難した。

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●トーマス・マン wiki
1912年、夫人カタリーナが肺病を患ったためスイスのダヴォスにあるサナトリウムで半年間の療養生活を送った。この年の夏見舞いに訪れたマンは、夫人から聞いた体験や挿話を元に小説を書くことを思い立つ。当初短編小説のつもりだったその作品はその後12年の間書き続けられたのち『魔の山』として発表されることになった。

1914年に第一次世界大戦が勃発。マンはこの大戦を文明に対する文化としてのドイツの戦いと位置づけてドイツを積極的に擁護したが、この立場はロマン・ロランや実の兄ハインリヒ・マンから批判を受け、一時兄弟で仲違いをすることになった(1922年に和解)。1915年より2年の間『非政治的人間の省察』を執筆、協商国フランスの帝国主義的民主主義に対し、反民主主義的不平等人格主義のドイツを擁護して論じた。1918年にドイツが敗戦すると、マンはドイツにおける市民社会の代弁者として各地で講演に招かれ、1923年の著作『ドイツ共和国について』でヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。1924年『魔の山』発表。1926年より『ヨセフとその兄弟』に着手。旧約聖書の一節をそれだけで図書館が建つと言われるほどの膨大な資料をもとに長大な小説に仕立て上げたもので、その後幾度も中断を経て1944年まで書き継がれた。1929年、ノーベル文学賞受賞。翌年に受賞第1作となる『マーリオと魔術師』を発表する。

1930年前後よりナチスが台頭すると、マンは国家社会主義の新聞に対して論陣を張り、1930年にはベルリンで講演『理性に訴える』を行いナチズムの危険性を訴えた。またこの講演では労働者階級による抵抗を励ますと同時に社会主義と共産主義への共感が増していることを表明している。1933年1月30日にヒトラーが政権を握ると、兄ハインリヒ・マンとともにドイツ・アカデミーを脱退。2月23日から夫婦でスイスに講演旅行中にベルリン国会炎上事件が起き、ミュンヘンにいた長男クラウスから助言を受けてそのままスイスに留まる決意をする。1936年、マンはドイツ国籍およびドイツにおける財産を奪われ、自宅に残してきた日記、書簡、資料やメモ類を永久に失った。

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『北方行』が未完に終わったことについて。
どのように物事を見ているか、どのように受けとめるかは一人ひとり異なる。これまでにたどってきた人生の内容によって、考えることも、程度も、段階もまちまちになる複雑さをもっている。複雑よりも安易を求める人も多い。恐慌に陥った際に冷静な判断に期待することのできない質も人にはある。これらをすべて載せうるところに現実の諸相の表れがあるからこそ、ここを基軸にしての創作はおのずと複雑に向かわねば嘘である。それゆえに『北方行』の未完があると思う。

ドイツとフランスの関係をどのように捉えるか。のちに音楽家として、ひとりの人間として、完成される一人の近代人の遍歴として『ジャン・クリストフ』はある。これが、中島の手に取られたのは、かなり象徴的なことでないかと、多少、拡大解釈の気味を帯びるのを承知しつつも記しておきたくなった。


中島は南洋へ向かうまえに、『狐憑』『木乃伊』『山月記』『文字禍』の四編と『ツシタラの死』(現在の『光と風と夢』)を深田氏に託している。

四編はどれも文字にまつわるもの。
時代も文化もことなる四つの小編である。

   狐憑=スキタイ
   木乃伊=ペルシャ・エジプト
   山月記=唐
   文字禍=アッシリア

『文字禍』には、

   書かれたものが歴史になる、
   ならば書かれなかったものは?
   書かれなかったものはなかったものだ。
   歴史とは(粘土板=書かれたもの、いまなら音楽でも映像でも)表にあらわされたもののことだ、

といった内容の記述がある。

たとえデマであっても書かれたままに定着すれば、それが後の世に歴史の定説として通用しかねない。誤解や誤報の流布がそのままにされ、その記録が膨大となれば、数十年、数百年ののちには、それが正当な歴史として通用する。(『李陵』で司馬遷を描く際の姿勢にも多くの価値ある表明があるように見えました)。

書く側と読む側。情報の発信者と受信者の関係。伝言ゲーム。情報操作。このあたりのことを思いながら読めば、『李陵』の小説のなかに、発信者の側の苦悩の一端も見えそうです。言うべきを言う、書くべきを書く、ことの大切さは承知していても、実践することの難しさは果てないようです。自己の保身や手控えの結果、訛伝してとんでもない誤解の渦の中に叩き込まれるなどざらですし。


『悟浄出世』『悟浄歎異』の二編は、中島にとってのファウストといえる。

ファウスト博士のように、すべてを知ることを望みながら、一方で求め続けたところでけして得られるものでないだろうといった確信と隣り合わせにありながら、遍歴する筋立である。自己の判断か、他者の介入か。どこで折れるか折れないかで人生の意味は分かれるのではないか。『荘子』や『列子』からの用語が多く、『西遊記』自体に、道教や仏教の思想がミクスされている。ここにはずいぶん民間信仰的なものもまじれば、『西遊記』本編は儒教的な考えを批判するものも散見される。

これがまたおもしろいのであって、中島の筆致によって、自己や、客観世界などをはじめ、哲学や神学の影響の強い明治期の翻訳語を用いて形而上的表現でしるされる部分も多い。東西の文化にまつわる思想を自在に扱いながら、我とはなにか、普遍的なものはあるか、と、多くの老獪な哲学妖怪たちのもとを訪ね歩く『悟浄出世』と、流沙河を出てから、孫悟空、猪悟能、玄奘との旅の中での経験から得た気づきをレポートの体裁でまとめている『悟浄歎異』とは、観察と思索と反省と信仰との練磨の上に生活と学問とをどのように一致させるかといった、哲学者的な主人公の内面の手記として読むことへの関心をわたしは持っている。



と、中途で時間来たので、続きはまた時間のあるときに。
書きっぱなしで投げておきます。

中島敦に関するメモ書き。

中島敦に関するメモ書き。

中島敦の全集の内容から、 私的に整理をするために書き始めたレポートです。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-06-08

CC BY-SA
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CC BY-SA