旅するトネリコと冬の詩

このお話は「シラカバ林のまぼろし」https://slib.net/80433 の続編になります。

てんじくねずみの歌

 ひどく強い吹雪でした。トネリコは、前からふいてくる風と雪にうたれながら、どこか風をしのげる場所を探していました。向かい風のせいで足どりはにぶく、目を開けるのもやっとです。手足や耳の先はかじかんで、ひりひりとにぶく痛むのを感じていました。
(暗くなる前に大きな木のうろか、そうでなければ、洞窟のような場所が見つかればよいのだけれど。早くこの風が止んでくれないものか。)
 辺りは森でありましたが、森というにはずいぶん開けていて、細い木がまばらに生えているだけで、トネリコが入れそうなほどの大木はどうやら無いようでした。それに、そうして考えてはみるものの、吹雪は弱まるどころか、しだいに強くなってゆくばかりです。
 トネリコは周りを見わたしました。けれども、辺りは一面真っ白で、もうどちらへ進んでいるのかとか、どこを歩いているのかといったことが、まるで分かりませんでした。足あとはすぐに雪にうもれて消えてしまい、自分が通ったあとでさえも分からないのです。
 それでも彼は、どうにか自分のかんをたよりに進んでいきました。こんな所で立ち止まってしまえば、さらに体が冷えて、動けなくなることが分かっていたからです。
 そうしてまた、少しの間――といっても、彼にとっては、それはひどく長い時間のように思われましたが――一歩いっぽ進んてゆくと、やがてかべのようなものにつき当たりました。さわって確かめてみると、そのかべはどうやら、岩と土でできた、長く続く崖のようでした。
 トネリコはでかしたぞ、と思いました。崖づたいに歩いてゆけば、ほら穴か何かがあるかもしれないと、そう考えたのです。それに目印があれば、晴れてから道に迷う心配もぐんと減るでしょう。彼はかべに手をつきながら、崖にそって進んでゆきました。
 しだいに辺りがうす暗くなってきたころ、幸いなことにトネリコは、夜になる前に、崖のとちゅうに洞窟を見つけることができました。
 洞窟の入口は、彼が少しかがんでどうにか通れるほどのせまさでしたが、入るとすぐに広いトンネルのような場所になっておりました。天井はトネリコの倍ほどの高さで、彼が両手を広げられるほどの横はばもありました。地面は固く、じっとりとしめっています。暖かくはありませんでしたが、ここの空気は、外の寒さに比べればずっとましです。彼はひとまず、マントやリュックについた雪をはらい落とし、それからおくへ進んで行ってみることにしました。
 洞窟の中は真っ暗でしたので、彼は持っていたカンテラに火を灯し、周りをぐるりと照らしてみました。洞窟の中はぱっと明るくなり、それだけでずいぶんほっとします。
 トネリコは洞窟のおくへと歩きはじめました。ひどく静かで、自分の足音が、何重にもなってひびいてゆく音しか聞こえません。カンテラの明かりもおくのほうまでは届かず、ずっと向こうは真っ暗で、音も明かりも、洞窟のかべが全部吸いこんでいるような感じがしました。周りいっぱいに満ちた、冷たくしめっぽい空気は、トネリコのひげをぬらしました。初めは広かったトンネルのはばも次第にせまくなり、彼はなんだか少しずつ、不安な気持ちになってきました。
 歩き進めてゆくと、やがて足元はでこぼこが多くなり、トネリコは度々転びそうになりました。けれども、かべの土はそれほどもろくなかったので、片手をしっかりかべにつけながら、しんちょうに歩いてゆくことができました。
 そうしてしばらく歩いたところで、トネリコは、洞窟のおくのほうから、なにか音がしているのに気がつきました。はじめは、別の入り口から風がふきこんでいる音かな、と考えました。けれど、耳を立ててよく聞いてみると、ひゅうひゅう、という風の音と重なって、水が落ちる音に似た、ぽろん、ぽろん、と鳴る、楽器のような音も、重なって聞こえてきているようでした。この静かな洞窟の中で、おくからたえずひびいてくるその音が、トネリコにはとても不思議に思えました。
 その音に引かれるように、洞窟のおくへおくへと進んでゆくと、それまでのまっすぐした道のわきから、ぼんやりと明かりが差しているのが見えました。どうやらそれは、トネリコの歩いてきたトンネルから真横に枝分かれするように空いている、横穴の中からもれているようでした。そのうえあの不思議な音色も、横穴の中から聞こえて来るようです。トネリコは、その中に興味をもたずにはいられませんでした。
 横穴を注意深くのぞきこむと、だれか小さな生きものがいるのが見えました。それはトネリコより小さな、耳の小さなウサギのように見えました。
 その生きものは、ランプを前に座って、げんが張られた、楽器のようなものをひいているようです。トネリコは、なるほど、音の正体はこれだったのか、と考えました。また、彼のじゃまをしてはいけないと思い、気付かれないように、そっと自分のカンテラの火を消しました。音の主は、楽器を奏で続けていました。
 音の主がひく楽器を、トネリコは今まで見たことがありませんでしたが、その音はとても心地がよく、どこかなつかしいようにも思えました。その演奏は、まるで森のおくにあるわき水のようにも、雨が降る音のようにも、また、きりの中で魚がはねる音のようにも聞こえました。
 目を閉じて、うっとりとその音色に聞き入っているととつ然、ぴた、と楽器の音が止みました。トネリコはつい、はっと息を止めました。
「こんなところに来るなんて、またおかしな客が来たもんだ。」
 音の主は、まるでひとりごとのように、そう言いました。あるいは、本当にひとりごとだったのかもしれませんが、どちらなのか分かりませんでした。トネリコは、自分の胸がどきどきいっているのが分かりました。
「そこにいるのはもしかして、キツネかオオカミかい。腹を空かせて、おれの晩飯をよこどりしようってんだな。」
 音の主が、かくれていたトネリコの方をじっと見てそう言うので、トネリコはあわてて出ていって、自分の姿が見えるよう、彼のランプの明かりが当たるところまで出ていきました。相手はまゆを片方だけ上げて、きわめて冷静に、トネリコの顔をじっとながめました。それからほんの少し口をにやりとさせて、こう言いました。
「ほほう、ネコときたか。お前はネズミを食べるのかい。」
「いいや、ネズミは食べたことないけれど、魚のほうがずっと美味しいに決まってるから、食べやしないよ。」
 トネリコがそう言うと、音の主は急に笑いだしました。わっはっは、と洞窟の中によくひびく明るい声でした。トネリコは、その小さな見た目に似合わない、ごうかいな笑い声に、ほんの少し気おくれがしましたが、どうやら良いひとのようだと安心しました。
 そして音の主は、ひとしきり笑ってから、話しだしました。
「ははあ、そりゃあちがいねえや。いや、さっきのはじょうだんだと思ってくれ。おれは、てんじくねずみのオリーブっていうんだ。お前さんがキツネなんかじゃなくて、心の底からほっとしたよ。何しろあいつらはずるがしこいからな。もしお前さんがキツネだったら、おれは食べられるかくごだってしてたんだぜ。そうならなくてすんで、ほんとうによかった。」
「ああ。ぼくはトネリコ、やまねこの絵描きだ。どうぞよろしく。」
 トネリコは、よくしゃべるオリーブを少しさえぎるようにして、片手を差し出して言いました。オリーブは、それを気にする様子もなく、うれしそうに笑って
「ああ。こちらこそよろしくな、ネコの兄ちゃん。」
 と言い、手をにぎりかえしました。
 そこではじめて、トネリコはあらためて、相手をよく見てみました。てんじくねずみだというオリーブは、大きさはウサギほどでしたが、顔や耳は確かにネズミによく似ていました。クリーム色をした毛は長く、ところどころがくせ毛のようにはねています。長い毛の中からのぞく真っ黒な目は細く、なんとなくねむたそうな顔にも見えました。トネリコは、てんじくねずみを他に見たことがなかったので、彼にこう聞きました。
「てんじくねずみって、この辺りじゃあよくいるのかい。ぼくはアラカシ山の向こうの生まれだけれど、そこじゃ、かやねずみくらいしか見たことがないんだ。」
 オリーブは、アラカシ山の向こう! と、とんきょうな声をあげました。それから感心したように、はああ、とため息をひとつついて言いました。
「それは、さぞかし長い旅だろう。とはいえ、おれだってずっと東のほうの、オーク谷の出身なんだ。あすこじゃあ、てんじくねずみもよく見るよ。まあ、やまねこや、かやねずみはいないがね。」
 そう言ってオリーブは、また笑いました。トネリコもつられて、ほほがゆるみます。ついさっきまであった不安な気持ちは、もうすっかり消えていました。
 彼はほら穴のおく側へ入らせてもらい、そこへかばんを下ろしました。ほら穴は、ふたりが座ってもまだいくらかよゆうがあるほどの広さで、部屋の真ん中にはオリーブのランプが置かれておりました。
 ランプの明かりは届きませんが、音のひびくのを聞くと、どうやらそのほら穴はたてに長く、えんとつのようになっていて、ずっと上のほうに小さなすきまが空いているようでした。強い風がそこを通るたび、すきまは、ぴゅうと笛のような音を高くならしています。トネリコは、なるほど、楽器の音といっしょに聞こえていた風の音の正体はこれだったのか、と思いました。
「外の風はまだひどいようだなあ。」
 オリーブは風の音を聞きながら、そうつぶやきました。それを聞いて、トネリコはたずねます。
「オリーブ、君はいつごろここへ入ったんだい。」
「確か半日くらい前、今朝の夜明けすぐのことさ。あんまり吹雪がひどくなってきたもんだから、ようやっと見付けたここで少し休んでたんだ。兄ちゃんが来てくれたから、これ以上さびしくならなくてよかったってもんさ。なぁそれより、腹は減ってねぇかい? 魚はないが、木の実くらいはあるんだ。」
 トネリコはそう言われて急に、自分がすっかりお腹を空かせていたことに気がつきました。思い返してみれば、今日は朝からほとんど何も食べていません。
「ああ、ありがとう。でも食べるものはあるんだ。その木の実は、君の旅のためにとっておきなよ。」
 彼はかばんの中から魚を干したものを取り出して、そう言いましたが、オリーブは構わずに
「おれよりも大きなお前さんのほうが、きっといっぱい食べるだろう。気にするなよ。」
 と言って、木の実をトネリコにわたしました。トネリコはとまどいながらもそれを受け取りました。それから少し考えて、自分の持っていた別の木の実を、オリーブにわたしました。
「これで、おんなじだ」
 トネリコがそう言うと、オリーブはにやっと笑って「ありがとうな。」と言い、それを受け取りました。
 ふたりは木の実をかるく焼いて、それぞれ食べ始めました。トネリコのは小さなリンゴに似て甘ずっぱく、オリーブのほうはどんぐりのように、外側にかたい皮のついた木の実でした。オリーブは、前歯で木の実の内側の、甘くてやわらかいところを食べながら、トネリコにこう聞きました。
「そういえば兄ちゃんは、どこへ向かってるんだい。」
「ずうっと北のほうだ。今はそれだけ。」
「それなら同じだな。おれも北の果てを目指しているんだ。」
 それからふたりとも少しだまっていましたが、どうやら何か考え事をしていたらしいオリーブが、また口を開きました。
「兄ちゃんは、北の果てに何があるか知っているかい。」
 オリーブはトネリコの目をじっと見て、そうたずねました。トネリコは首を横にふって答えます。
「僕は行ったことがない所へ行きたいだけさ。何があるかは知らないし、聞いたこともない。君は知っているのかい。」
 こう聞かれたオリーブは、はじめいっしゅんだけ、残念そうな表情をうかべたように見えましたが、また何か考えたあと、ひとつせきばらいをして、話し始めました。
「ようし、これも何かのえんだ、昔話をしてやろう。おれがまだもっと小さいころ、旅好きのじいさんから聞いた話なんだけどな。ずっと、ずうっと、星の示す限り北に行った所には、真っ白い島があるんだそうだ。」
 オリーブは興味を示すトネリコを見て、ふっと語るような口調で話しだしました。
「それはある夏のことだったらしい。おれのじいさんは生まれついての旅人で、そのときも今のおれと同じようにオーク谷を出て、旅をしていたんだ――。」
 そうして始まったオリーブの昔話は、こういうものでした。

 オーク谷は、島の西のはずれにありました。東の町のようなにぎやかさはありませんでしたが、そこは暖かな気候で、夏にはナラなどの木々が青々と葉をつける、静かで素敵なところでした。オリーブのいた村には、てんじくねずみややぶいぬ、ハナグマなどが、みな仲良く暮らしておりました。
 オリーブのじいさんは、村にいるよりも、旅をしている時間のほうがずっと長いようなひとでした。それで村の子どもたちは、オリーブのじいさんが帰ってくると、みんなで旅の話をせがみました。この話は、じいさんのした話のうちの、オリーブが気に入って何度も聞いたものの一つなのです。
 さて、それはあるすずしい夏の日のことでした。じいさんはオーク谷から北西に、山をひとつこえ、ふたつこえ、こたびは北の果てへ行ってみようと、そう考えたのでした。
 じいさんは、たんたんと山をこえてゆきました。道中は木の実や野草を食べて、夜にはテントを張ってねむりました。やがてじいさんは、あることに気がつきました。カサゴケ川をこえたあたりで、北へ進めば進むほど、夏だというのにどんどん寒くなっていくのです。
 じいさんはそれからも四日ほど、ずっと北へ歩き続けて、あるとき海に出ました。見わたすかぎり、他の陸地なんてひとつも見えません。
 じいさんは、海をわたって行くと、運が良ければ、別の島に行き着くことがあるということを知っておりました。自分の目で見たことこそありませんでしたが、古い話を聞いて、知っていたのです。
 それでじいさんは、いったん森の中にもどって木を集めて、いかだを作り、それに乗って海に出てゆきました。いかだは簡単なものでしたが、なにより軽いじょうぶな木でこしらえてあったので、しっかりと水にういて、かいでこいで進むことができたのです。
 じいさんは、いかだに乗って何日も進み続けました。とちゅう、いかだの何倍もあるほどの大きなくじらに出くわしたり、あらしに巻きこまれたりしましたが、それはまた別の話。ともあれ、海の上でもたくさんのすさまじいぼうけんをしたのでした。
 そうして何日も海の上を進み続けて、もう他の島にたどり着くことはできないのではないかと考えはじめていたころのことです。ひどく寒い海の上に、ひとりきりだったじいさんは、波の静かな日の夜、ある島にたどりつきました。
 それは、見わたすかぎり、全部が真っ白い島です。木も草も生えてない、だれもいない、まっさらな白い地面だけが遠くまで続いているのを見て、じいさんはおどろきました。

「――真っ白な地面って何でできているか、知っているかい?」
 オリーブは声の調子はそのままに、トネリコに問いかけました。けれどもそれは、ほんとうに彼に質問していたのではなく、おおかた役者のするようなふりであるのは、すぐに分かりました。トネリコが首を横にふると、オリーブはうなずいて続けます。
「そうだろう、じいさんにも分からなかった。じいさんはついに、自分が死んじまったかと思ったんだ。」
 オリーブはまた、話を続けはじめました。

 じいさんは長ぐつをはいて、白い大地に足をつけました。
 地面は白くかたく、さわってみるととても冷たく、まるで氷のようでした。生きものの気配はまるでなく、真っ暗な白い島には、波の音しか聞こえませんでした。
 そうして辺りをしばらく観察し、ここが北の果てなのだろうか、と考えた、その時でした。

「オーロラだ!」
 オリーブがいきなり声を大きくしたので、トネリコは思わず体をびくりとさせました。オリーブは構わず、いっそう大ぶりな仕草で話し続けます。
「寒い冷たい夜空に、オーロラが見えたんだ! 色のついたリボンが夜空に見えたと思ったら、それが今度は雲みたいに広がって、その色もぐんぐん変わっていくんだ。それは本当に、手をのばせばつかめるんじゃないかってくらい、ものすごい大きさだった!」
「なあオリーブ、オーロラっていうのは、生きものなのかい?」
 それまでだまって聞いていたトネリコは、オリーブが息をつく時を見計らって、どうにかそれだけ聞きました。オリーブは首を横にふって続けます。
「いいや、それは寒い空でしか見られない、星の仲間なんだそうだ。けれども星というには大きくて、形や色もずっとちがっていて、時間が経ったら消えてしまうそうだ。トネリコが知らないのも無理ないさ。じいさんはずっと昔に、くじらから聞いたことがあったから、それがオーロラだってことを知っていたそうだからな。でも自分の目で見るのは、それが初めてだったんだ。」
 トネリコはそれを聞いても、いまいちオーロラというものがどのようなものなのか、想像ができませんした。それで、どうにもとても大きい星らしい、ということで納得することにしたのです。
「それでその後、おじいさんはどうしたんだい?」
 トネリコが聞くと、オリーブは少し申し訳なさげにして、こう言いました。
「それがなあ、それから後のことは一度も話してくれたことがなかったんだ。」
 トネリコは少し残念に思って「そうか。」と言うと、オリーブは言いました。
「話の続きはないが、じいさんはこの話をした後、きまって歌をうたうんだ。ふしのついた詩のようなものだけどな。聞くかい?」
 トネリコはうなずきました。オリーブは楽器を構え、そのげんを軽く二、三つまびくと、静かにオーロラの歌をうたい始めました。
 彼のうたう声は、ろうろうとしていてなめらかで美しく、話すときとはまるで別人のようでした。
 それは白く果てしない大地と、空にうかぶオーロラの、その秘密めいた美しさをうたった歌でした。トネリコには、まるで目の前に、本物のオーロラがうかんでいるような感覚がしました。それは一番高いところから果てしない森を見わたすときだったり、歩きながら上に広がる冬の夜空を見上げるときによく似ていて、たいそう心地の良いものでした。
 歌が終わるころには、トネリコもすっかり夢中になって、話を聞いた時よりもずっと、自分もその景色を見てみたいものだ、と強く思っていました。
 オリーブは演奏を終えると、もったいぶるようにして、ひとつおじぎをしました。トネリコは彼に、心からはく手をしました。オリーブはひとつ息をはくと、もうすっかりもとの調子にもどって、笑って話し始めました。
「まあ、こんなものさ。じいさんの歌には伴奏はなかったから、詩とふし以外はおれが作ったんだ。けれどもさ、おれの歌じゃあ、じいさんの詩には全くおよばないんだ。なぜかって、きっとおれが本当のオーロラってやつを、一度も見たことがないからなんだよ。」
「なるほど、それで君は、本物のオーロラを見に行きたい、というわけか。」
 そう言うと、オリーブは大きくうなずきました。
「今度聞かせる時には、じいさんの真似ごとなんかじゃなく、本物のオーロラの歌だ。
楽しみにしててくれよ。」
 そう言ったオリーブとトネリコは、目を合わせて笑いました。
「トネリコの兄ちゃんは、絵かきをしてるんだったか。」
 ふたりがまたしばらく話していると、オリーブはふとそう言いました。トネリコはうなずいて、答えました。
「ああ。旅した先で描きたいものがあれば、それを描いてるだけだけどもね。何度か、街で売ったこともあるよ。」
 オリーブは細い目をもっと細めてうなずいて、いいねえ、とつぶやきました。トネリコは、彼の歌と楽器のお返しに、自分の画材や絵を見せようと思いました。それでかばんの中から、絵を描くのに使う道具をひととおり出して見せました。
 オリーブはその絵の具とパレットを見て、ほう、と感心した声を出しました。
「そのパレットは、貝でできているのかい。面白いなあ。」
 トネリコはうれしくなって、うなずいて言いました。
「むかし川のマナティーに会ったとき、海のものだといってもらったんだ。それでなかなか気に入っているのさ。」
 オリーブは、そりゃあいい、と言いました。それから興味深そうに
「なあ、このスケッチブックの中身を見せてもらってもいいかい。」
 というので、トネリコは快くうなずきました。
 オリーブは面白そうに、ぱらぱらと紙をめくっては、いくつかのページで手を止めて、絵をながめておりました。彼はそうしてしばらく見ていて、あるページで、ふと紙をめくる手を止めました。トネリコは少し気になって、彼の手元をのぞきこんでみると、それはつい先日、雪の降ったシラカバ林で描いたばかりの絵でした。トネリコは言いました。
「それは、少し前にシラカバ林で描いたものだね。ここからまっすぐ南に行った所にあるんだ。」
「トネリコの兄ちゃん、お前さんは、この生きものと会ったのかい。」
 オリーブはそう言って、絵の中の、白いマントの女の子を指差して言いました。その声が、先ほどよりいくぶん真面目だったので、トネリコは少しみょうな感じがしましたが、答えました。
「ああ。ずいぶんと不思議な女の子だったよ。確かに、かなりめずらしい見た目で、何て生きものか……。」
 トネリコはそこまで言って、口をつぐみました。というのも、オリーブがだまったまま、トネリコの絵を一心に、まばたきもせずに見つめていたからです。トネリコが、どうしたんだい、と口を開いたところで、オリーブは言いました。
「これはもしや、人間ってやつじゃあないのか。」
「ニンゲン、だって。それが、この女の子――生きものの、名前なのかい。」
 オリーブはうなずきました。それから言いました。
「トネリコは知らないで会ったのか。いや、おれだって人間のことは、話に聞いたことしかないんだ。でも、その話で聞いた見た目と、あまりに似ているものだからな。」
「もしかして……ニンゲンって、おそろしい生きものなのかい。」
 トネリコが不安になってそう聞くと、オリーブはあわてて、首を横にふりました
「いや、そうじゃないんだ、すまねえな。ただ、これまでに人間に会ったことがあるってやつは、きっと島中探しても、ほとんどいやしないだろうな。そのぐらい会えるのがめずらしいんだ」
 それを聞いたトネリコが、ふうん、とだけ言うと、オリーブは笑って言います。
「なにはともあれ、きっといいことの前兆だ。これからの旅も、いいことがあるぞ。」
「それはうれしいね。ありがとう、オリーブ。」
 オリーブの勢いのある笑い声につられて、トネリコも笑いました。
「人間のことはともかく、兄ちゃんはいい絵を描くなあ。おれは君の絵が気に入ったぜ。いつかおれのことも描いて、売ってくれよ。」
「もちろん。だけれども、お礼は詩がいい。ぼくもきみの詩を、すっかり気に入ってしまったからさ。」
 ふたりはおたがいに、うれしくなって笑いました。
「さて、もうねるとしよう。星も見えないから、時間がよく分からない。夜ふかしするといけねえや。」
 オリーブの言葉に、トネリコは、ああ、と言ってうなずきました。オリーブは丸めた毛布をかばんから取りだし、両手で広げてから、その中にくるまりました。
トネリコも、マントでからだを包んで横になりました。それからランプの火を、ひげがこげないよう気をはらいながら、そっと息でふき消しました。
真っ暗になった洞窟の中で、ただ風のふく笛の音だけが、一晩じゅうひびき続けていました。

ふたりとともだち

 次の日には、嵐はすっかりやんでいました。けれども、洞窟の入り口には雪が深く降り積もっていたので、ふたりはしばらくの間、どうして出ようか、頭をひねらなければなりませんでした。そうしてしばらく思案したあと、トネリコとオリーブは、別の出口を探すことにしました。
 洞窟の中はそれほど複雑ではありませんでしたが、ひとつの道が長いのと、地面がすべりやすいところがあったので、思ったよりも長く時間がかかってしまいました。それで、ふたりが外に出るころには、太陽はすっかり頭の上へのぼっていました。
 どうやら外へ出た場所は、ゆうべトネリコが行きあたった崖の上にあった、森のようでした。
 シラカバ林とずいぶん様子がちがうのは、きっとモミやマツの木が多いからだな、とトネリコは思いました。こういった森は、たいてい一年中、黒っぽい緑の葉っぱがしげっているのです。
 真っ白な雪は、黒い幹と高い緑の葉の上へ、分厚く積もっていました。おかげで地面の雪は、それほど深くありませんでしたし――とはいえ、トネリコよりずっと背の小さなオリーブにとっては、歩くのもひと苦労でしたが――木のすきまから、冬の静かな日の光が差しこんでいました。オリーブは、ほんの時おり折れた枝を見かけては、それを指さしてトネリコに教えていましたが、ゆうべの嵐はうそのようにも思えるほど、森の空気はおだやかでした。
 辺りを軽くうろうろして回った後、オリーブは言いました。
「さあて、トネリコの兄ちゃん。道はなさそうだが、これからどっちへ進もうか。」
 トネリコは、少し考えてから、
「北へ、まっすぐ。」
 と答えました。オリーブは
「そうこなくちゃ。」
 と言って、ちょっとコンパスを見てから、ずんずん歩き出しました。トネリコは、その後を歩きながら、
(たまには、こうしてだれかといっしょに旅をするのも、いいかもしれないな。)
 と思いました。
 そうしてふたりは、昼にはコンパスの指すほうへ、夜にはポラリス星のほうをめざして、何度も休けいをしたり、それぞれのテントの中でねむったりしながら、ずんずん歩いてゆきました。
 一日目は、崖をひとつこえました。オリーブはロープを伝って登りましたが、土がもろく、重たいトネリコは登ることができなかったので、うんと遠回りをして歩くことになりました。
 二日目は、川をひとつわたりました。浅い川でしたので、トネリコは歩いて進みましたが、オリーブには深すぎたため、トネリコのリュックへ乗ってわたりました。
 三日目は、小さな湖に行きあたりました。昼だというのに暗い森に囲まれたその湖は、けっこうな深さがあるようで、どこかぬまにも似たふんいきをしておりました。ふたりはそこで魚をつって、焼いて食べてみました。トネリコは、湖の魚は川のものとはちがう味がする、と言いましたが、オリーブはずっと首をかしげていました。
 そうして、北を目指して進み続けたある日、うっそうとした森を歩いていたふたりの視界が、ぱっと開けました。
 ふたりの行く手をはばむ、崖の向こうにあらわれたのは、どこまでも広く、青いあおい海でした。
 空はうすい灰色の雲におおわれていて、遠くの水平線ははっきりとは見えません。白い波は、ふたりが立っている崖――トネリコの身長の何倍かもある、高い崖でした――にぶつかり、あわをたてて引いてゆきます。向こうのほうからふいてくる風は、強い潮のにおいがして、トネリコの鼻とひげをくすぐりました。
 それはオリーブも同じだったようで、ぽつりと一言
「おれの故郷の海と、おんなじにおいだ。」
 とつぶやきました。トネリコは言います。
「さて、ここからどうしようか。いかだを作るかい?」
「そうだなあ。それ以外に何か出来るとも……。」
 オリーブがそこまで言って、急に口をつぐんだので、トネリコは「どうしたんだい。」と聞きました。オリーブは何も言わず、海のほうをじっと見ています。
 トネリコが同じように海のほうに視線をやってみると、遠くの方の水面に何かがうかんだり、また消えたりしているように見えました。黒くて大きくて、丸っこいもののようです。しばらくじっと見つめてから、トネリコは言いました。
「くじらのようだね。」
 それを聞いたオリーブは目をまん丸くして、とんきょうな声をあげました。
「あれがくじらだって! 大きな魚だって聞いたことはあるけども、あんなに大きいものなのか。まるで、小さな島じゃないか!」
 オリーブは大声で、そうまくしたてました。それから、
「じいさんは、あんなのと会ったんだなあ。」
 と、ため息まじりにつぶやくのでした。トネリコは前にも一度だけ、くじらと会ったことがあったため、オリーブの言うのがもっともだと思い、くすりと笑いました。トネリコはそれから、
「ここから呼んだら、声は届くだろうか。」
 と、半分ひとりごとのように言いました。オリーブはそれを聞いて、片まゆをあげていっしゅんだけおどろいたような顔をしましたが、そのあとにやりと笑って、こう言いました。
「まかせなよ。おれは、音には自信があるんだ。」
 オリーブは、かばんの中から小さなふえ――それはホイッスルに似ていましたが、よく見ると穴が三つほどあいた、短いたてぶえの形をしておりました――を取り出しました。それからオリーブは、それをくわえて短く二、三回、ピィーッと鳴らしました。
 するとくじらは、その音が聞こえたようで、トネリコたちのいる崖のほうへ、ゆっくりと近づいてきました。
「な、聞こえただろう。」
 トネリコはすっかり感心して、じまんげにそう言ったオリーブのほうを見てうなずきました。
 近寄ってきてようやく、そのくじらの姿がはっきりとわかりました。くじらは丸々としたからだつきをしていて、全身が真っ黒で、大きな口の先だけに白いもようがありました。魚のような背びれはなく、それで遠くから見たとき、島のように見えたのでしょう。
 くじらは崖のすぐ下までやってくると、水面から少し頭を出して口を開きました。口の中からは、大きなブラシのようなものがのぞいていました。
「そのふえは、なんて良い音ですこと。私たちの歌によく似ているわ。」
「君、仲間がいるのかい。」
 トネリコが聞くと、くじらははっとして、それからほんの少しだけ悲しそうな声になって、言いました。
「ええ。わけがあって、今はひとりなのですけれど。」
 オリーブとトネリコは、少しだけ顔を見合わせて、それからくじらにたずねました。
「ひとつ、質問してもいいかい。」
 くじらはうなずきます。
「ここから北へ行くと、何かあるのかい。例えば、小さな島なんかが。」
 くじらはまたうなずいて、言いました。
「ええ。ずうっと行くと、ポラリス星の真下に、真っ白な島がひとつ。」
 オリーブは、真っ白な島というのを聞いて、ぱっとその目をかがやかせました。それから、
「ああ、それだ、きっとその島だ!」
 と、ひどくこうふんした様子でさけびました。しかしそれを見たくじらは、また悲しそうな声で、こう言いました。
「あの島に行きたいというのならば、あまりおすすめはできないわ。あなたがたみたいな小さな生きものは、きっとこごえてしまうでしょうから。あの島の上にあなたがたのような生きものがいるところを、私は見たことがありませんもの。」
 ふたりはまただまって、顔を見合わせました。けれども、ここまで来て引き返すわけにはいきません。オリーブのおじいさんだって、きっとその島へ行って、帰ってきたのです。
 くじらが不思議そうな顔をして、ふたりをじっと見つめているのに気が付いて、オリーブは言います。
「おれたちはな、どうしてもその白い島へ行って、オーロラってやつを見に行きたいのさ! それで南からはるばる、旅をしてきたってわけなんだ。」
 オリーブは続けます。
「おれがじいさんから聞いた昔話にでてきた、オーロラが見られる場所ってのが、その島なんじゃないかっていう話なんだ。おれはたとえひとりででも、それが無茶だとしても、その島へ行かなくちゃあならないんだ。教えてくれて――それに心配してくれて、ありがとう。」
 オリーブはふだんと全く同じ、明るい話し方のままで、そう言いました。トネリコがだまってくじらのほうを見やると、くじらもだまりこんで、何かを考えているようでした。やがてくじらは、口を開きました。
「あなたたちがどうしても行きたいというのなら、島まで送っていきましょうか。」
「いいのかい。」
 オリーブは本当に予想外だったようで、おどろいて声をあげました。
「ええ。ぜひ手伝わせてくださいな。あなたがたは小さくて軽いから、乗せて行くくらい、きっとどうってことないわ。」
 オリーブはそれを聞いて、手をたたいて喜びました。けれどもトネリコの頭の中は、ほんの少しだけもやもやしていました。オリーブが喜んでいるのをさえぎって、トネリコは口を開きます。
「きみは、仲間がいると言っていたけれど……仲間を探さなくて、いいのかい。」
 くじらはしばらくだまりこんだあと、言いました。
「私の仲間は、今どこにいるのか分かりませんが、きっとこんな所には来ないのです。ですからここでじっとしていたって、会えないだろうと思うのです。」
 それに、と言ってくじらは続けます。
「そんなに素敵な夢をもった、あなたがたの旅の手助けができるなんて、とても光栄なことだわ。」
 トネリコはそれを聞いて、まただまりこんでしまいました。何を言うべきか、思いつかなかったのです。くじらは明るい声で言いました。
「さ、出発は明日にしましょう。今日はもうおそいですし――それに、なんだか沖のほうは、嵐がきそうな空をしていますわ。」
 くじらはそう言って、空を見上げます。オリーブも口を開きました。
「それじゃあおれたちは、森の出口にもどって、野宿でもしよう。いいだろう? トネリコの兄ちゃん。」
「あ、ああ。ぜひいっしょに行かせておくれ。」
 トネリコはあわてて返事をしました。くじらはにっこりと笑ってうなずきます。
「じゃあ、また明日、えっと……。」
 オリーブがそこで口をつぐんだので、トネリコは軽く笑って、それからくじらに言いました。
「そういえば、自己紹介するのを忘れていた。ぼくはやまねこのトネリコ、こっちはてんじくねずみのオリーブだ。よろしく。」
「わたしはホッキョククジラのシロ。よろしくお願いいたします。それから、また明日。」
 ふたりはシロに大きく手をふって、シロは胸びれをふり返しました。
 それから森へもどると、トネリコとオリーブは、場所を探して、それぞれのテントを張りました。トネリコのテントは、じょうぶな布と細長い木の棒でできています。オリーブのテントは、竹で作ったほねに、水をはじく軽い布を結びつけたものでした。ふたりともかばんからその材料を取り出して、すいすいと組み立てはじめます。
 オリーブのほうはすぐに組みあがってしまったので、彼はトネリコがテントを組み立てるのをながめながら、言いました。
「前から思っていたが、その布は、たいそうじょうぶそうだなあ。」
 トネリコはうれしそうにうなずいて、答えました。
「ああ。いつだか海の近くの町で、浜辺に流れついてたのを、大工に作りかえてもらったのさ。なんでかぬれてもだめになったりしないし、とてもじょうぶでいいものだよ。」
 オリーブは感心したように、ほう、と言いました。
 やがて日も落ちて、ふたりはそれぞれのテントに入りました。‎トネリコが毛布にくるまったとき、テントの布の向こうから、オリーブが「なあ。」と言う声が聞こえたので、彼は「なんだい。」と答えました。オリーブの声は続けます。
「ほんとうに、こんなに簡単に行けてしまって、いいんだろうか。」
 オリーブの声は、あまりうれしそうではありません。
「どうして、そう思うんだい?」
 トネリコが聞くと、少しだまった後、オリーブは答えました。
「くじらに運んでもらうなんてさ。自分でいかだを作ってこいで行ったじいさんに比べて、なんだか楽をしてしまっているような気がしてな」
「そんなことはないだろう。旅っていうのは、ひとや時によって、同じものは一つもないんだからさ」
 オリーブは静かに「そうか。」と答えたきり、もうねむってしまったようでした。トネリコも毛布をかぶりなおすと
「どうにかなるさ。」
 とひとつつぶやき、テントの外を通る風の音を聞きながら、ねむりにつきました。風は暗やみの中を静かに、けれども絶えることなく、ふき続けておりました。
 次の日の朝、空は青く晴れていて、雲ひとつありませんでした。
 日がのぼるころ、ふたりはテントをはい出して、海のある崖のほうへ行きました。海の波は昨日よりもおだやかで、ざざあ、ざざあ、と音をたてて、崖にぶつかっていました。
 けれども海の上に、シロの背中はどこにも見えません。
「まだねむっているのかね。」
 オリーブは言いました。トネリコは首をかしげて言います。
「くじらって、水の中にもぐってねるのかい。息をしなくて、大丈夫かな。」
 こんどはオリーブが首をかしげました。それで
「だって、池の魚は夜に、水面にはうかんでこないだろ。おんなじだろうさ。」
 と言うので、トネリコはもう何も言いませんでした。そのとき海の向こうのほうに、昨日と同じような、島にも似たくじらの背中が見えました。
 シロでした。ふたりはそれがシロだと気付いたとたん、ほっとため息をつきました。シロは昨日と同じように崖のほうに近づいて、言いました。
「おはようございます。オリーブさん、それにトネリコさん。」
「おはよう。」
「おはよう、シロ。」
 ふたりもあいさつを返します。シロは言いました。
「ふたりとも、起きたばかりでしょう。私はもう少しあの辺りを泳いできますから、支度をして、そのあと崖の下までおりてきてくださいな。」
 彼らはテントを片付けて、荷物をまとめました。それから森の中で木の実をいくつか取ってきて、そのうちの少しを食べました。残りはかばんの中にしまっておきます。白い島には食べ物があるかどうか分からないので、あとで食べられるように、考えて残しておかなければなりません。
 そうしてふたりとも準備ができたので、シロの元へ向かうことへしました。けれども、崖を降りて海に出るには、そのままロープで降りるには危なすぎたため、遠回りしなくてはなりませんでした。森の中を通ってから、急な下り坂をしんちょうにおりてゆきます。地面には岩や石が多く、ふたりはたびたび転びそうになりました。
 そうしてすぐ目の前に広がった海は、崖の上から見るのともちがって、たいそうはく力がありました。
「オリーブさんたち。こちらです。」
 シロが、さっきいた崖のそばからふたりに声をかけました。ふたりはそちらに向かおうとしますが、海水の波が足にかかってしまいそうで、なかなか近づくことができません。
「その辺りは浅いので、私は近づくことができないのです。すみませんが、この辺りまで来られますか。」
 ふたりは長ぐつをぬいで――彼らのくつは雪や土は防げますが、海水につかってしまうと、すぐにしみこんでだめになりそうだったのです――そうしてシロのいるほうへ歩いて行きました。冬の海の水はつめたく、トネリコもオリーブも、今すぐにでも足を水からはなしたいと思いながら、早足で歩いて行きました。
 ふたりが近づくと、シロは言いました。
「さあ、乗ってください。後ろの方から乗ったほうが、きっとうまくいきます。」
 大きいと分かっていたシロも、こうして間近で見ると、さらに大きく見えました。細長い体の縦はばでさえも、トネリコの倍以上はありそうです。その大きさといったら、まるでひとつの家みたいでした。
 ふたりはかばんが海水にぬれないよう、よく注意しながら、シロの背中に乗りこみました。そのときふたりとも口には出しませんでしたが、長ぐつだけじゃなくて、上着もぬいでおけばよかった、と思いました。かばんこそ海水にはふれませんでしたが、ふたりとも上着のすそがじっとりとぬれてしまって、からだが重くなってしまったからです。
 シロの背には、オリーブが前に、トネリコが後ろになるように乗りました。トネリコはバランスが悪かったので、かばんをかかえる形に乗りこみました。シロに背びれはありませんでしたが、背中にはなだらかなでこぼこがあったおかげで、乗り心地はかなりいいものでした。トネリコは言いました。
「ふたりも乗って、重くないかい。」
「ええ、大丈夫です。軽すぎるくらいですわ。」
 シロは笑って言いました。それから
「あのう、これから出発するのですが……。だれかを背中に乗せて泳ぐというのは、私はじつは初めてなのです。ですから、乗り心地が悪ければ、どうぞ教えてくださいね。」
 と言いました。ふたりはもちろんだとうなずき、シロも安心したように笑いました。
 シロはゆっくりと、進み始めます。
 彼女はときどき、背中まで海中にもぐりそうになりましたが、それ以外はとても楽しいものでした。海の上をくじらに乗って進むなんて、めったにできることではありません。
 トネリコとオリーブ、それにシロは、広い海をとてもおだやかに、ゆっくりと進んで行きます。それは、とても気持ちの良いものでした。
 進んでいく道中、トネリコはふと、少し気になっていたことをシロにたずねることにしました。
「シロは、ホッキョククジラといったっけか。そのホッキョクって、どういう意味だい。」
 シロは少し考えてから、口を開きました。
「私もよく知らないの。きっと、古い言葉なのね。」
 トネリコは、ふうん、とだけ答えました。それからも彼らは、時々おたがいの話をしたり、いっしょに歌ったりして、北へ進んで行きました。
 そうして、昼も近くなったあるとき、シロはとつ然小さく「あっ。」と言いました。オリーブはそれを聞きのがさずに、
「どうしたんだい。」
 と聞きました。シロは答えます。
「東の方に少し雲が出てきましたわ。進む方角を変えましょう。」
 東の空を見ると、確かに黒い雲が、空のはしをおおいはじめていました。北へと向かっていたシロは進む向きを左に変えました。
 そのとき海の中に、ざあっと素早くシロのとなりに近寄ってきた影がありました。海面から出た背びれは、くじらのよりも細長く、強そうな形をしています。
 その生きものはシロのとなりに並ぶように泳いで着いてくると、こう口を開きました。
「よう、そこの小さなお客様は、どうやら海では見ない顔だな?」
「あなたは、シャチ!」
 シロはかん高い声で、そうさけびました。彼女がとつぜんおどろいてにげようとしたので、トネリコたちは海水のしぶきをあび、背から投げ出されそうになりました。シロはぐんぐんスピードを上げて泳ぎます。トネリコはシロに向かって、波にかきけされないように大声で言います。
「シロ、いきなり、どうしたんだい。」
「あれはシャチです。私たちホッキョククジラは、シャチとは決して話さないようにしろと、つよく言い聞かせられているのです。」
 それを聞いて、こんどはオリーブが言います。
「シャチって、キツネやオオカミみたいなものかい。あいつらもずるっこくて、意地が悪いのが多いんだ。」
「ええ、ええ。そんなものですわ。きっとシャチは、おおかた、あなたがたの持っているものをぬすもうとでも思っているのでしょう。」
 シロはそう話しながら、ぐんぐんとスピードを上げて、泳いでいきます。
 トネリコは海の水が顔にかからないように、またシロの背中からふりおとされないようにしながら、おや、と思いました。どこからか、高いかねの音のような、ごーん、ごーんと大きくひびく音が聞こえます。
(この音は、どこから聞こえているんだろう。)
 トネリコは、そう不思議に思いましたが、なにせごうごうと勢いよく泳ぐシロの背中に、必死でしがみついているのです。質問できる状態ではありませんでした。
 それでもかねのようなその音は、ずっと鳴りひびいています。
 やがてこれまでに聞こえていたものとはちがう、低いひくいかねの音が、耳に入りました。そのとき、
「シロ!」
 と名前を呼ぶ、男のひとの声がすぐそこに聞こえました。だれだろう、と思ったのもつかの間、その声の主が、海面から勢いよく飛び上がりました。
 シロはその姿を見て、喜ぶようなおどろいたような声でさけびました。
「ああ、アワ!」
 アワと呼ばれたのは、シロよりもふたまわりほど大きな、ホッキョククジラでした。シロよりも黒々とした、立派なからだをしています。とつぜん現れたもうひとりのくじらに立ちはだかられて、シャチはひとつ舌打ちをして、すぐにきびすを返して去ってゆきます。
「アワ、それに、みんな……。」
 シロは力がぬけたような声で、そう言いました。うっかりトネリコたちのいる背中までしずんでしまいそうになったので、ふたりはあわててシロの背中をたたきました。
 そのとき、ピイーという、不思議なかん高い音がトネリコの耳に入りました。今度はかねではなく、オリーブのふいていた、小さな笛の音にどこか似ているようです。音はいくつか重なって、やがて小さくなって消えました。
 シャチの消えたほうの真反対から、さっき現れた、大きなホッキョククジラが泳いできました。アワと呼ばれたくじらのほかに、大きさのちがうくじらが、ふたりほどいるのにも気がつきました。さんにんのくじらは、シロに近寄って、次々と声をかけました。
「いったいどこへいたんだね。無事でよかった。」
「ほんとうに、また会えてよかったわ。」
 シロはすっかり安心しきって、なみだを流しはじまました。
「ああ、ごめんなさい。会えてよかった……。」
 トネリコとオリーブは目を合わせて、シロが家族と会えたようで、本当によかったとうなずき合いました。
 やがてシロも落ち着いてきたころ、先ほどアワと呼ばれていたくじらは、彼女に言いました。
「ところでシロ、君の背中の上にいるやつらは、一体何なのだね。」
「彼らは、トネリコとオリーブ。北の島へ行きたいと言っていたので、送り届けているところだったの。」
 シロはそう答えます。アワは、北の島だって! とさけびました。
「なんだって、こんなのがそんなところへ行きたいんだね。シロ、どうして止めなかったのかい。」
 シロはばつの悪そうにもじもじとして、何も言いませんでした。それで、こんなの、なんて言われたのも相まっておこってしまったオリーブが、シロの代わりに口を開きました。
「おれたちは、オーロラを見に行くんだ!」
 トネリコも言います。
「僕らがシロに、行きたいと言ったんだ。シロのことは責めないでやっておくれよ。」
 それを聞いたアワは、むっとして、ふたりにまくしたてるように言いました。
「私はホッキョククジラのアワ。シロの兄だ。君らがどうしてシロを舟にしているかは知らないが、シロは私たちの家族だ。こうしてまた会うことができた今、シロは私たちとともに暮らすのだ。ふたりはもとの島へもどりなさい。」
 ふたりは顔を見合わせます。トネリコもオリーブも、こんなことになるなんて、思ってもみなかったのです。オリーブは、アワがあんまり失礼なので、すっかり腹を立ててしまっていました。けれども、ふたりの助けになろうとしてくれた親切なシロに、これ以上迷わくをかけるわけにも、心配させるわけにもいきません。
 ふたりが謝ろうとした、そのときでした。
「アワ、聞いて。」
 シロが、そう口を開きました。アワはおどろいた様子で、シロのことを見つめます。
「オリーブ達を島まで送りたいと言ったのは、私なの。ひとつの夢をもって、そのために旅をするなんて、私には考えられなかったから――だから、ふたりの話を聞いて、私、とても素敵だと思ったのよ。私はふたりを応えんしたいの。」
 それを聞いて、アワはしばらくだまります。シロは言葉の調子を強くして、さらに言います。
「アワがだめだと言うのなら、私は勝手に旅にでるわ。オリーブとトネリコみたいに!」
 あのおとなしいシロが強気になっているので、背中の上にいたふたりは、目をぱちくりとさせました。アワはしばらくだまりこんで、何かを考えているようでしたが、ひとつ大きくため息をついて、それから口を開きました。
「シロがそうしたいのであれば、私たちは助けになろう。しかし、それはシロが心配なのであって――彼らのことは、知らないがね。」
 シロはほっとした顔をして、それからふたりに、申し訳なさそうに
「ありがとう。それから、ごめんなさいね。」
 とだけ言いました。アワは、それには何も言いませんでした。
 トネリコはシロに言われて、アワの背中へ移りました。ふたりを乗せて必死で泳いだので、シロはつかれてしまっていたのです。それで、重いトネリコのほうを、アワが運ぶことになったのでした。トネリコは言いました。
「すまないね。よろしくお願いするよ。」
 アワは、ふんと鼻を鳴らしただけで、また何も言いませんでした。
 アワはまた彼らの家族に、この近辺でしばらく待っているように、と言いました。ふたりいたうちの片方はシロの母親で、もう片方は妹のようでした。母親のほうはトネリコとオリーブに、
「ありがとう。あなた達がいたおかげで、シロとまた会えたというものです。私たちのことは悪く思わないでください。どうかよい旅を!」
 と言いました。ふたりがお礼を言うと、アワはまた、あきれるように鼻を鳴らして言いました。
「今から北の島まで行くとなると、おそらく明日の夜明けごろになるだろう。もちろん、つかれたシロのことを考えてのことだがね。」
 空を見上げると、太陽がだんだんと真上から西へ動いているところでした。
 トネリコはそのとき、とつ然あることを思い出して「あっ!」と声をあげたので、そこにいた皆は、おどろいてトネリコの方を見つめました。アワは、
「なんだね。」
 と、ひどくふきげんそうに言います。
「ああ、ごめん。ひとつ質問があるのだけれど……。さっき聞こえた楽器のような音、あれはもしかして、アワたちの歌だったのかい。」
 トネリコがそう言うと、シロは、ああ! と声をあげてから、答えます。
「ええ、確かにそうですわ。さっきは必死で、家族でなくともせめて他のくじらがいないか、呼びかけていたのです。」
「私たちの歌は、合図をするのによく使うからな。音で、だれのどんな合図なのか分かるのさ。さ、もう良いだろう。」
 アワはそう言って、早く出発しようと、シロを急かします。
「はい。行きましょう。」
 そうしてアワとシロは、泳ぎはじめました。アワの背中はシロよりも大きく、ほとんどゆれません。トネリコはそのことに、少し感心しました。
 やがて陽はだんだんと落ちてきて、空はだいだい色に移り変わってゆきます。
 ふたりのくじらは北へとまっすぐ泳ぎながら、ときどきゆっくり近づいたり、またはなれたりしていました。そのきょりが少しはなれたとき、トネリコはアワに背中の上から、小さな声でこう話しかけました。
「アワ。君は、シロのことがとても大事なんだろうね。」
「ああ。」
 アワはぶっきらぼうに、それだけ答えました。まだ少しふきげんなのが、あからさまに分かる返事でした。トネリコは言います。
「シロは、僕らのわがままを聞いて、夢をかなえるのを手伝ってくれて……それに、シャチからもけんめいに、にげてくれたんだ。僕が知ってる中で、いちばんゆうかんで優しくて、素敵なくじらのひとりだよ。」
 トネリコの言葉を聞いて、アワはしばらくの間、何も言いませんでした。そうして少し間をおいてから、アワはぽつりと、ほんの小さな声で答えました。
「当たり前だろう。」
 そのアワの声は、さっきとあまり変わらないようでいて、けれどもどこか少しだけうれしそうにも聞こえました。
 彼らは日が暮れた後も、夜じゅう、ゆっくりとおだやかに進み続けました。
 そうして、もうすっかり風が止み、空がうっすらと明るくなるころ、背中の上でうとうとしていたふたりに向かって、シロは言いました。
「見えたわ。」
 その言葉に、ふたりはぱっと目を開けて、前を見ました。
 そこには、海の上にうかぶ、確かに白い島が見えておりました。

氷の島の夜

 ふたりはじっとだまっていました。
 昔話に聞いた、白い地面の島がもう、すぐ目の前にあるのです。
 その島の周りには砂浜がないようで、陸の周りは低い崖のように、垂直にきりたっていました。シロとアワが陸地に近づいていくと、その崖は、思ったよりも高さがありそうでした。
 ふたりの胸は、興奮ときんちょうで、どきどきと高鳴っていました。トネリコはオリーブに向かって、どうにかやっと口を開きました。
「オリーブ、どうだい。」
「おかしな気持ちだよ。夢みたいだ。」
 オリーブもそれだけ答えました。
 シロとアワがゆっくりと氷の島のふちに体を寄せたので、ふたりは陸の上に――はじめにトネリコがよじ登ったあと、オリーブがロープを伝って――そうしてどうにか上陸することができました。オリーブのしていた話の通り、島の地面はかたく冷たい氷でできており、けれどもその表面は少しざらざらとしておりました。トネリコが、本当に地面が氷なんだ、と思っていると
「地面が氷でできてるっていうのは、本当だったんだな。」
 とオリーブが言うので、彼はなんだかうれしくなり、ふふっと笑いました。
 ふたりが海のほうをふり向くと、シロは水面から顔を出して言いました。
「オリーブさん、トネリコさん。確かに送り届けましたわ。どうかお気をつけて。」
「ああ。どうもありがとう!」
「本当に、ありがとう!」
 ふたりは大きく手をふって、シロ達に聞こえるよう、大きな声でそう言いました。
 それからシロとアワは満足そうに、きびすを返して海へと帰ってゆきました。アワがふと、去りぎわに一度ふり向くと、そういえば、と言い、これだけ付けたしました。
「ここから右の――そう、東のほうへ進んで行けば、あなたがたを助けてくれる生きものがいるやもしれません。」
 トネリコがくわしいことを聞こうとすると、ふたりはもうずっと向こうのほうへ泳いで行ってしまって、ずんずんと遠くに行く黒い背中が見えるだけでした。アワがひとつ、おびれを高く上げるのが見えると、もうそれきり、ふたりの姿は見えませんでした。
 トネリコがぼうぜんとしているのを見て、オリーブは言いました。
「きっとまちがいない。ここが、じいさんの言っていた通りの島だ。ひとまずはアワの言う通り、右へ行ってみよう。」
 トネリコはうなずき、ふたりは歩きはじめました。島には高い山も川も、もちろん森もなく、見わたす限り、白く平たい地面が続いていました。ふたりはときどき話しながら、ずんずん進んでいきます。
 やがてむらさき色だった空は、東のほうから、だんだんと白く明るくなっていきました。
「やあ、朝日だぜ。」
 うれしそうに、オリーブが言います。目の前に太陽がのぼってきていて、あまりのまぶしさに、トネリコは目を細めました。
 真っ白な、氷の大地にのぼる朝日は、海で見るのとも、山や森で見るのともちがって、たいへん不思議な心地がしました。
「ああ、きれいだなあ。」
 トネリコは思わずそうつぶやきました。オリーブも
「本当だよ。これだけでも、連れて来てもらったかいがあったってものだ。」
 と言ってうなずきました。
 ふたりはまた、東のほうへずっと歩いていきました。どこまで行っても、白い地面は変わることなく、平らに広がっています。
 そうして、あまりに周りの景色が変わらないのに、ふたりが次第に不安になってきたあるとき、オリーブが口を開きました。
「なあ、トネリコの兄ちゃん。おれの見間ちがいじゃなきゃ、あそこにだれかいるぞ。」
 そう言われてトネリコは、じっとオリーブの指す方に目をこらしました。確かにそれは、見まちがいではありませんでした。太陽がまぶしくて見えづらくはありましたが、氷の上に生きもののかげがありました。氷と同じ真っ白な色をしていたので、気付きにくかったのでしょう。
 ふたりは、あれがアワの言っていた生きものだろうかと考えました。それで、ひとまずはあちらに見つからないように、どんな生きものなのか、様子を見てみようということになりました。
 氷の地面には、かくれるところがありません。それでオリーブの提案で、白い大きな布――トネリコのテントに使う布がいちばん適当なようでした――をかぶって進もうということになったのでした。布は広げるとかなりの大きさがあったので、かばんを背負ったままでも、ふたりをすっぽりと包みこむことができました。
 ふたりは縦に並んで、トネリコが前、オリーブが後ろを歩くことにしました。
 からだをすっぽりおおった状態で進み、ときどき前にいるトネリコが外の様子をうかがい、また進みます。白い布をかぶっているとはいえ、あんまり近くに寄れば見つかってしまうかもしれません。ふたりはそろそろとしんちょうに、生きもののいるほうへ近づいていきます。
 しばらく歩いて、トネリコが生きものの様子ををうかがおうとした、その時です。彼は言いました。
「おや、さっきまでいた所に、何もいないぞ。」
「どういうことだい、トネリコの兄ちゃん。」
 そう言ってオリーブは、布から顔を出しました。
「ありゃあ、本当だ。もしかして、見まちがいだったのかもしれないな。」
「ううん。でも確かに、さっきはそこに生きものが……。」
 そのとき、ふたりのすぐ後ろから物音がしました。ふたりは体をこわばらせます。後ろに何かの気配があるのに、歩いているときは少しも気がつきませんでした。
 ふたりはおそるおそる、ゆっくりと後ろをふり向きます。
 そこには白い大きな生きものが、ふたりのことを見下ろすようにして、立っていました。
 その生きものは、高さがトネリコのおおよそ三倍ほどもありましたから、トネリコの半分しかないオリーブにとっては、いっそう大きく、またおそろしく感じたことでしょう。案の定、トネリコの前に立っていたオリーブはこの時、この生きものからどうやってにげるかということだけに、必死で頭を働かせておりました。
 生きものはこしに、青い布を一枚巻いただけで、こんなに寒い場所であるのに、手ぶくろも長ぐつもつけておりませんでした。白くて長い毛の中に、するどい黒いつめが見えました。ふたりとも、あまりにおどろいてしてしまっていて、何も言うことができません。
 生きものが、するどく大きなきばの生えた口を開いたと思った、その時でした。
「これはまあ、小さなお客さまだこと。」
 高くかわいらしい声が聞こえました。ふたりは目をまん丸くして、辺りを見回しますが、白い生きもののほかにはだれもいません。目の前の生きものは、うふふ、と面白そうに笑うと、さっき聞こえたのと同じ声で、こう言いました。
「私はホッキョクグマのモミ。あなたたち、ここらでは見ない生きものだけれど、いったいどこからいらしたの?」
「海をこえて、ここから南の……。」
 トネリコはおどろきつつ、どうにかそれだけ言いました。モミと名乗るその生きものは、ああ! と手をぱちんとたたいてから、こう言います。
「それはそれは、遠かったでしょうに。よくここまで来られたわねえ。」
 トネリコもオリーブも、楽しそうなモミを前に、しだいに落ち着いてきました。
 改めて見ると、目の前にいる彼女は、確かにひとりのくまでした。トネリコもオリーブも、黒いくましか見たことがありませんでしたし、それでももっと小さいのしか知りませんでしたから、まだしばらくの間おどろいて、何も言えませんでした。
 ふたりがちらちらと目を合わせて、もしかしてこのくまが、シロの言っていた生きものなのだろうか、と考えていると、モミは笑って言いました。
「ねえ、ひとまず家にいらっしゃらない? ここはあなたたちには寒すぎるでしょうし、いたずら好きのカモメに見つかったら、いじわるされちゃうかもしれないわ。」
 ふたりはどうしようかと、いったんひそひそ声で相談しました。オリーブが口を開きます。
「なあ、君は、アワというくじらを知っているかい。」
 モミはそれを聞いて、いったん黒い目をまん丸くしました。それからぷっとふきだすと、笑って言いました。
「もちろんよ。気難しい、ホッキョククジラのアワでしょう。彼は私の古い友人なのよ。あなたたちこそ、どうして彼を知っているの?」
 トネリコとオリーブは、海をわたったときのことを、手短に話しました。話を聞き終わると、モミは
「あのアワがひと助けするなんてねえ。」
 と、面白そうにつぶやいています。
 それでふたりは、モミが悪いひとではなさそうだと、ほっとしました。モミが
「私の家は、ここから少し歩いたところにあるのよ。なかなか面白いところにあるから、きっと案内がないと、気づかないわ。」
 と言うので、ふたりはそのあとについていきました。
 モミは道中、よくしゃべりました。トネリコやオリーブが何も言わないでも、止まることなく、ずっと何かを話しているのです。むしろトネリコは、いつもおしゃべりなオリーブがモミにおされて、すっかりだまってしまっているのが、面白くて、思わず笑いそうになってしまいました。けれども、
「おどろかしてしまって、ごめんなさいねえ。布にかくれてるあなた達が、あんまり可愛らしかったものだから。」
 なんて言われたときは、ふたりともはずかしくて、顔から火が出そうになりました。
 モミはまた、この辺りのことについて、色々なことを教えてくれました。
 ふたりはしばらく歩きながらモミの話を聞いていました。あるとき、モミが
「ところであなたたち、何だってわざわざ南の島から、ここまで来たの?」
 とたずねるので、トネリコが答えました。
「ぼくたち北の果てに、オーロラを見るために旅をしてるんです。」
 それを聞くとモミは、まあ! とおどろいた声をあげました。それから何度もうなずいて、言いました。
「オーロラを見るために、なんて変わってるわねえ。けども確かにあれは、とてもきれいだわ。海をわたってまで見に来たくなるのも、分かるかもしれない。」
 モミは続けます。
「オーロラは夜になれば、運が良ければ見られるものなの。だからそれまで、家でゆっくりしてくといいわ。」
 ふたりはモミの言葉に、同時に
「いいのかい。」
 と言いました。ふたりがお礼を言うと、モミは笑って、
「別にいいのよ。私が、おせっかい焼きなだけだもの。」
 と答えました。
 さて、しばらく歩いたところにあるモミの家は、確かに見つかりにくいものでした。というのも、家がまるでモグラのように、地面の中にあったからです。地面にある、氷でできた戸を開けると、まず大きな縦穴があって、その下にかべが全部氷でできた、広い横穴があるのです。それがモミの家でした。
 地面の中、ましてや氷に囲まれている場所だというのに、モミの家はとても快適でした。白い氷は光を反射して、さらに天井には明かりをとりこむ穴があるので、暗すぎるということもありません。他の部屋は、はじめの大きな横穴の部屋からつながっているようでした。地面には、すべらないよう、じゅうたんがひいてありました。
 これまでに見たことがないような家に、トネリコとオリーブはすっかり感心しました。部屋中をぐるぐると見回すふたりを見て、モミは面白そうに笑って、言いました。
「一番おくの部屋は空いているから、自由に使っていいわ。うちの中を見てもいいけど、とりあえず荷物を置いてきたらどうかしら。」
 ふたりはお礼を言って、モミの言う通りにしました。部屋の中はからっぽで、ふたりはひとまずかばんをおろしました。けれども、家の中とはいえ寒いので、ふたりとも上着と長ぐつは、ぬがずにそのままでいることにしました。
 ふたりは元の部屋にもどりました。そこにはイスがいくつかと、大きなテーブルがあって、モミはそこへ座っていました。モミはふたりが来たのに気がつくと、彼らをイスに座らせました。とはいえ、モミの使うイスとテーブルは、トネリコ達には大きすぎたので、座るのもひと苦労でした。
 トネリコはそこではじめて、モミのことをよく見てみました。モミは全身の毛が真っ白で、目と鼻、それからつめだけが黒く目立っています。耳は小さく、体全体がすとんとした体つきをしていました。
 それからモミの服は、トネリコ達ふたりともが、これまでにあまり見たことがない見た目をしていました。青や白色の布でできていて、ふちにはたくさんのふさかざりがついているのです。服の形は生きものによってちがうのがふつうでしたが、それにしてもモミの服は布一枚を巻いただけのような、不思議な見た目をしていました。
 そのとき入り口のほうから、コンコンと、ドアをノックするような音が聞こえました。氷の横穴には、音がよくひびくようです。モミは、
「‎ちょっと失礼するわ。」
 と言ってドアのほうに向かいました。モミがドアを開けて、やってきた生きものが縦穴をおりてきたとき、オリーブが、モミに聞こえないほどの小さな声で、こっそり
「キツネだ。」
 と、トネリコに耳打ちしました。トネリコがちらと入り口のほうに目をやると、確かにそこに立っていたのは、モミと同じように全身真っ白な毛を生やした、ひとりのキツネのようでした。
 ‎キツネはモミと楽しそうに話しているようです。
 ‎一方オリーブは、キツネがこちらに呼ばれたりしないか、気が気でない様子でした。‎というのも彼らには、キツネやオオカミ、イタチなどの生きものは、乱暴者であったり、れいぎ知らずな無法者であると思われがちであったからです。(そしてそれは、いくらかは本当のことでもありました。)それでトネリコに出会ったときも、オリーブは彼のことに、ひどく神経をとがらしていたわけなのです。
 モミはキツネを部屋へ招き入れ、ふたりに紹介しました。
「彼はホッキョクギツネのトウヒ。この辺りに住んでる、私の友達よ。」
「よろしく。モミの小さなお客人たち。」
 トウヒと呼ばれたキツネは、モミの服に似た色の、ふさかざりのついたワンピースのような形の服を着ていましたが、どうやら男のようでした。年をとったようにも、青年にも見える、不思議なひとでした。
「よろしく。僕はやまねこのトネリコ。こっちはてんじくねずみのオリーブだ。」
 トネリコはそう紹介しましたが、オリーブはじっとして何も言いません。トネリコが小声で
「どうしたんだい、オリーブ。」
 と声をかけると、オリーブはトネリコにだけ聞こえるよう、小さい声で言いました。
「どうしたもこうしたもない。相手はキツネだぜ。きっと何か悪いことをたくらんでるにちがいないさ。おれはあいさつしたくないね。」
 それが聞こえたか聞こえてないかはわかりませんでしたが、トウヒは片まゆをあげてオリーブの方を見、それから言いました。
「ああ、お構いなく。彼らがいやがるのも無理ないでしょう。南の島のひとには、キツネやオオカミがきらいなひとがいることだって、ぼくは知っていますし、慣れっこですから。」
 その言い方は、いやみっぽいわけではなく、どちらかというと、むしろ明るい語調でした。けれどもモミは、トウヒ! ときつく言いました。それを無視するように、トウヒは言います。
「ぼくは君たちに何かをしようだなんて考えちゃいませんが、君らがぼくを好まないのなら、そう言ってくれて構いません。ただぼくは、モミの友達ってだけですからね。」
 オリーブは何も言わず立ち上がって、さっき荷物を置いた部屋に、すたすたともどって行ってしまいました。
「あの、申し訳ない。」
 トネリコがそう言うと、トウヒは顔色一つ変えず
「君は何も悪くないでしょう。ですから、謝る必要はありません。」
 と返しました。トネリコは、彼は難しいけれど、おだやかでかしこいひとなんだな、と思いました。モミはあきれたように、ひとりごとをつぶやきます。
「せっかくお客さんが来てくれたのに、この空気、さてどうしようかねえ。」
「僕、オリーブの様子を見てくるよ。」
 トネリコがそう言うと、トウヒは言いました。
「君が彼の友人であるなら、きっとそれがいい。」
 トウヒの表情は、無表情のように見えましたが、いっしゅんほほえんでいるようにも見えました。ともあれ、トネリコは先ほどの部屋に向かいました。
 部屋をのぞくと、オリーブは部屋のすみで、かべに向かって、じっと座りこんでいました。トネリコがそっととびらを閉めると、オリーブはかべのほうを向いたまま、言いました。
「なあ、トネリコの兄ちゃん。」
 トネリコが「何だい。」と返すと、彼は話し始めました。いつもの彼からは想像できない、落ちこんだ声でした。
「おれはな、あのトウヒっていうやつが悪いひとなんかじゃなさそうだって、分かっているんだ。でも、これまでにキツネに会ったことがあんまりなかったのと、親からキツネなんかには気をつけろって、そう言い聞かされていたから、ついあんなふうに考えてさ……。トウヒが言っていたことも、何も間ちがっていないのに、おれはかっとなっちまって……。」
 トネリコは何も言わず、オリーブの話をじっと聞いていました。そしてそこまで言ってオリーブは、首をふって言いました。
「いや、言い訳はもういいんだ。トウヒは慣れっこだなんて言っていたが、おれがひどく失礼だったことは変わらないんだしな。」
 オリーブはすっくと立ち上がって、トネリコの方を向きました。
「今から謝って、許してくれるだろうか。」
「ああ、彼ならきっと。」
 トネリコは、ほほえんでそう言いました。
 ふたりがさっきまでいた大きな部屋にもどると、モミとトウヒはイスに座っていました。トウヒがオリーブのことをちらりと見やると、オリーブはいっしゅんからだをこわばらせましたが、一つ息をつき、それから頭を下げて言いました。
「さっきは、申し訳ないことをした。おれの勝手な思いこみだったんだ。」
「ええ、そう言ってくれて良かったです。私は全く、気にしておりませんとも。」
 オリーブがぱっと顔をあげると、トウヒはほほえみました。オリーブもほっとして、笑いました。それから
「改めて、おれはてんじくねずみのオリーブだ。どうか、よろしくな。」
「はい。よろしくお願いします。」
 と、あいさつをすませると、さて、とトウヒは話しはじめました。
「モミから、あなたがたはオーロラを見に来たのだと聞きました。」
 ふたりはうなずきます。トウヒはにこりと笑って言いました。
「それならきっと、運の良い方なのでしょう。今年の冬は、よく見られるほうですからね。どうかそこへ座ってください。あなたがたがこの島について知りたいのと同じように、ぼくたちも、南の島にたいへん興味があるのです。」
 そうして彼らは、夜になるまで、色々なことを話しました。トネリコたちはこれまでの旅について、色々なことを話しましたし、また、トウヒやモミからも、この島についてのたくさんのことを聞きました。
 皆が話しているとちゅう、モミは暖かいスープを作ってくれました。トネリコはそれを手伝いました。モミのスープはとても良いかおりがして、体の中がほかほかとしました。
 そうして皆は、ずっと話しこんでいましたが、いつの間にか、部屋の中はすっかり暗くなっていました。トウヒが
「そろそろ、準備をしましょう。」
 と言ったので、ようやく部屋が暗いことに気がついたのです。四にんは支度をすると、外へ出ました。トネリコとオリーブは、それぞれの画材や楽器を、別の小さなかばんに入れて持っていくことにしました。モミは
「荷物は置いていっても構わないのよ。」
 と言いましたが、ふたりは首を横にふりました。彼らにとっては、いつだって身の回りに置いておきたい、大事な道具たちだったからです。
 氷の中の家から外に出ると、日もすっかり落ちていて、空はこい青色にそまっていました。目をこらすと、星がいくつか見えます。
「それにしても、寒いね。」
 トネリコが言いました。トウヒはうなずいて言います。
「ええ。夜は特に冷えますから、仕方のないことです。」
「ふたりは寒くないのかい。」
 トネリコはふと、トウヒとモミにたずねました。上着や長ぐつを着こんでいるトネリコ達に比べて、彼らの服はかんたんなものだけでした。トウヒは答えます。
「ええ。この島にいる生きものは、皆毛皮が厚いですし、それに、ほら。」
 トウヒは、トネリコに手のひらを見せました。手のひら全体が、ふさふさとした白い毛におおわれています。モミも同じように、手のひらと足の裏を見せてくれました。
「それで、くつがなくても、地面の氷が冷たくないってわけか。よくできているなあ!」
 オリーブがひざを打って、言いました。トネリコもうなずきます。
「さ、立ち止まっていても寒くなる一方でしょうから、少し歩きましょう。」
 モミの言葉に、皆はうなずきました。辺りは変わらず白い平らな地面で、ずっと遠くのほうに、山のようなものが見えるだけでした。
 四にんは、辺りを大きくぐるぐると歩き始めました。
「ああ、ポラリスが真上にあるなんて、変な感じだなあ。」
 オリーブの言葉に、トネリコはうなずきました。上を見上げると、木や山などに囲まれることのない空が、大きな丸天井のように広がっています。オーロラなどなくても、これだけでもじゅうぶん素晴らしい景色だ、とトネリコは思いました。
 ‎はしゃぐふたりに向かって、トウヒは言います。
「オーロラは、見える日と見えない日があるのです。ですから、あまり期待しすぎないほうがいい。」
「そんな言い方をしないでもいいじゃない。せっかく来たのだもの、きっととくべつ素敵なオーロラが見られるわ。」
 モミの言葉に、トネリコはうれしくなりました。あいきょうのある、そのかわいい声でまた楽しそうに笑います。トネリコは、モミの話しているのを見ると、少しほほがぽかぽかするような感じがしました。そのとき、モミと目があって、トネリコはあわてて目をそらしました。
 外に出てから、どれほど経ったのでしょう。空はすっかり暗くなって、星がまたたいていました。トウヒが
「今日は、難しいかもしれません。」
 と言いかけた、そのときでした。
 オリーブが立ち止まって、ぽかんと口を開けて、真上を見上げています。トネリコは、どうしたんだい、と声をかけようとして、オリーブの視線の先に目をやりました。
 そこには、これまでに一度だって見たことのない、不思議な景色がうかんでいました。
 暗い夜空に、光る雲がうかんでいるのです。その白っぽい緑色は、まるで、光るホタルの群れが、川一帯をうめつくしている景色のようでした。
 モミが小さな声で
「あれがオーロラよ。なんて素敵。」
 と言ったのがトネリコの耳に入りましたが、もうその声はどこか遠くで、ぼんやりと聞こえるようにしか感じませんでした。
 トネリコは、不思議に光る雲をながめながら、まどろんでいるかのような頭の中で、オリーブから聞いたオーロラの話を思い出していました。
 ――色のついたリボンが夜空に見えたと思ったら、それが今度は雲みたいに広がって――手をのばせばつかめるんじゃないかってくらい、ものすごい大きさだった――。
 トネリコは、それは星というよりも、大きなカーテンが星空全体にかかって、それが風にゆらめいているようだと思いました。
 カーテンは絶えず色を変え、細さを変えて、あるときは白いドレスのように、またあるときは赤いリボンのように、静かにゆれています。その色はまるで、いつか見たエメラルドやルビーのような、あざやかできれいな石を、光にすかしてながめているのにも似ていました。
 なんとも不思議な感覚でした。この美しいオーロラが、星の仲間だなんて信じられない、と思うと同時に、これが星以外に何であるだろうか、とも思うのです。
 トネリコはからだじゅうが、夢を見ているような、不思議な感覚に落ちていくのが、自分でもわかりました。自分の時間がゆっくり止まってしまって、ふわりと気が遠くなって、めまいがするようなのです。
 トネリコは、その感覚を知っていました。
 それは言葉でも絵でも、決してそのすごさをそのまま表すことのできないほどの、美しい景色を見たときの、ひどく幸せなめまいでした。
 空に広がるオーロラを見ながら、トネリコははっと、この景色を絵に描きたい、と思いました。
 決してこの美しさをそのまま表すことができないと、分かっていました。けれども、どうしても描きたいのです。目の前のオーロラを自分の手で描きたいと、彼はもうそれしか考えられませんでした。
 彼はぱっとかばんからスケッチブックとえんぴつを取りだして、描きはじめました。水がないので絵の具は使えませんが、えんぴつを持った手は止まることなく、空で絶えず形を変えるオーロラを、紙の上につなぎとめてゆきます。気がつくともう何ページも描いています。それでも彼の手は、止まることがありませんでした。
 ふととなりを見ると、そこにいるだれもが――ここまでいっしょにやってきたオリーブ、それからモミやトウヒもが――とても幸せそうな顔をしていました。そしてきっと、自分も今同じような顔をしているのだろうと、トネリコは思いました。
 きっと、あのシロやアワも、同じ空を見ていることでしょう。
 オーロラはただずっと静かに、氷の島の夜空を照らしていました。

そのあとのはなし

 次の日の朝、トネリコが目をさますと、モミはだれよりも早く起きて、朝食を用意してくれていました。
「おはよう、トネリコ。」
「おはよう、モミ。わざわざ朝食まで、ありがとう。」
「私は世話を焼くのが好きなだけだから、いいのよ。」
 モミは笑って、そう言いました。トネリコは、モミの焼いてくれた魚を食べながら言いました。
「昨日のことが、夢みたいだ。」
 それを聞いたモミは笑って
「それもそうだわ。昨夜のオーロラは、とくべつ素敵だったものね。」
 と言いました。しばらくすると、やがてオリーブも起きてきて、朝食を食べ始めました。トネリコはオリーブに聞きました。
「これからのことだけど……、どうやって帰ろうか。」
 それを聞くと、オリーブは「あっ、そうか!」と声をあげました。
「そのことを、全然考えていなかった。また運良くくじらが来るのを待つってわけにもいかないよなあ。」
 オリーブが頭をかかえていると、たった今起きてきたらしいトウヒが、言いました。
「ぼくの家に、古いいかだがありますよ。古いものですが、まだ使えそうなものです。」
「ほ、本当かい。」
「よかったら、見せてもらっていいかい。」
 トネリコとオリーブはおどろいて、そう聞きました。トウヒは
「もちろんです。」
 と答えました。彼は支度をすませると、家へ案内してくれました。トウヒは家に向かう道中、そのいかだについて話してくれました。
「何年も前に、いかだでこの島へやってきた生きものがいたのです。」
「それってもしかして、おれのじいさんだろうか。なあ、その生きものって、おれに似ていなかったかい。」
 オリーブは思わず、そう言いました。トネリコはオリーブの昔話を思い出して、確かに同じだと思いました。けれども、トウヒは首を横にふって言います。
「それは分かりません。なにしろ、ぼくが昔父親から聞いた、あやふやな話ですから。」
 オリーブは、かたをがっくりと落としました。
「そう、それでその生きものは、くじらに乗って帰って行ったらしいのです。家にあるのは、そのとき残していったものなのですが、オリーブのおじいさんのものだとすれば――何とも不思議な、えんのある話ですね。」
 トウヒはそう言うと、オリーブのほうを見て、にっこりと笑いました。オリーブは、なんともいえない不思議な気持ちになって、トウヒに
「ありがとう。」
 とだけ言いました。
 トウヒの家は、モミの家からそれほど遠くないところにありました。家の形はモミとそっくりで、地面にドアがあるものです。いかだは家のすぐ近くにある、倉庫として使われているらしい、別の穴にしまわれていました。
 いかだを取り出してみると、それは少し小さいですが、ふたりが乗れそうな大きさでした。海へ行っていかだを下ろしてみると、いかだはちゃんと水の上にうきました。しずみそうな気配はなかったので、トネリコとオリーブはほっとしました。
 ふたりはいったんモミの家にもどり、置いてあった荷物をまとめて、出発の準備をしました。それからふたりはモミに、心からお礼を言いました。モミは、ほんの少しだけさびしそうに笑って、
「ええ、あなたたちに会えて、本当に良かったわ。」
と言いました。
 トネリコとオリーブ、それにモミが、さっきいかだをうかべた所へ行くと、トウヒが待っていました。
「本当にありがとう。お世話になったよ。」
「おれからも、ありがとう。ふたりはずっと友達だ。」
 トネリコとオリーブがそう言うと、モミはふたりにハグをして、言いました。
「たった一日だっていうのに、さびしくなるわ。どうか元気でね。」
 トウヒも言います。
「ぼくも、あなたたちに会えて良かった。無事をいのります。」
 ふたりは大きくうなずきました。そうして、一度あくしゅをし合ってから、ふたりはいかだに乗りこみました。いかだはしずまずに、しっかりとういたままでした。
 モミとトウヒは、氷の島の上からいつまでも大きく、手をふっていました。
 海の上は、とてもおだやかでした。ふたりはトウヒからもらったかいを使って、いかだをこいで進みました。今度はシャチなどに会うこともなく、まる一日ほど海の上を進んで行くと、もとの島が見えました。それは地面の白くない、緑と黒っぽい色をした、なつかしい島でした。
 いかだの上陸した場所は、出発した崖とはちがう場所のようでしたが、それほどはなれたところでもなさそうでした。
 いかだから降りると、トネリコは言いました。
「これから、どうするんだい。」
「おれはオーク谷に帰るよ。じいさんの代わりに、本当のオーロラの歌ってのを、村のみんなに聞かせなきゃならないからね。」
 オリーブはそれから、兄ちゃんはどうするんだい、と聞きました。けれども、トネリコはその質問に、少し困ってしまいました。というのも、彼はいつも、旅の行き先や目的について、あまりしっかりと考えないからです。
 はじめはこれまでのように、また適当に旅をして、気が向けば町に行って絵を売ろうかと、ぼんやりと考えていたのです。けれども、オリーブの話を聞いて、考えてみると、なんだか今すべきことは、ちがうような気がしてきたのです。
 それでしばらく考えてから、トネリコはこう言いました。
「たまには、ふるさとに帰るのもいいかもしれないな。ずっと会ってないひとたちに、みやげ話でもしに行こう。」
 それを聞いてオリーブは、にっこりと笑いました。
 ふたりはやがて、別々の道に分かれます。
 オリーブは故郷に帰って、オーロラの歌をうたったり、子どもたちに旅の話を聞かせたりして、とても幸せな日々を送りました。それからトネリコのほうは、実はそのあともしばらく旅を続けていました。けれどそれは、また別のお話。
 このお話は、これでおしまい。

旅するトネリコと冬の詩

旅するトネリコと冬の詩

やまねこの青年が旅をする、とある冬のお話です。 「シラカバ林のまぼろし」の続きです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 児童向け
更新日
登録日
2018-04-22

Copyrighted
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Copyrighted
  1. てんじくねずみの歌
  2. ふたりとともだち
  3. 氷の島の夜
  4. そのあとのはなし