シラカバ林のまぼろし

栗城はる

 シラカバの林には雪が降りつもり、辺り一面が真っ白にかがやいておりました。風はやんで、林は雪のコートに身をつつみ、冬の朝のよく冷えた空気は、しんとだまりこんでいます。シラカバの白い幹と黒い枝が、雪の中に、細い影をうっすらと落としておりました。
 その真っ白な中に、ぽつんと小さな生きものが立っています。彼はその後ろに、細く足あとの道を残していました。
(へんに静かだな。風のひとつもないなんて。)
 彼は耳をぴくりと動かし、辺りをぐるりと見まわしてから、そう思いました。ふう、とはいた息は、白いゆげになって消えてゆきます。
 彼は、名前をトネリコといいました。シラカバ林よりずっと南の、アラカシ山のそのまた向こうに住む、やまねこ族の一人です。彼は仲間の中ではいちばんのちびでしたが、その栗色のしま模様や毛並みのよさでは、たいへん人気がありました。けれどそれでも、彼はいつだって一人でいるのが好きな性分でしたから、よく一人で旅に出るのでした。彼は、ひとの言うところの絵描きでもありましたので、大きなリュックの中には、絵の具とスケッチブック、それとキャンプの道具を入れて、ふらりふらりと気の向くままに歩きました。旅の道中は、魚を釣ってそれを食べていたので、食べ物を持っていく必要はなかったのです。
 彼は旅をするとき、目的とか理由とか、そういったことを決めることがありません。ただ今日は北へ行こうかとか、海を見ようとか、そういった気分にまかせて歩き続けるのです。ですから、このシラカバ林へ来てみたのだって、単なるぐうぜんだったのでした。
 トネリコは、雪で銀色にひかるその景色をながめながら、なるほど、前にもここへ来たことがあるぞ、と考えました。たしか、その日はもう暖かな春のころで、地面も木の葉も青々としていました。陽の光が林の屋根からこぼれていて、林の中は明るく、すずしかったのを覚えています。冬の林は、春に来たときとはずいぶんちがった姿をしていて、それで気がつかなかったのでしょう。
 トネリコは、真っ白な林の中を歩きながら、前に来た時のことを思い出しておりました。
(あの時はたしか、カワセミに出会ったんだな。)
 春に出会ったそのカワセミは、歌うのがたいそう好きでしたから、トネリコはその声につられて、林の中へ入ったのです。そのピイピイという高い歌声が、シラカバ林の中では、ひときわ通っていたのを、彼はよく覚えていました。
 それに比べて、冬のシラカバ林はおどろくほど、しんとして静かでした。耳をすましてみても、枝をゆらす風の音や、生きものの歌う声はまるで聞こえません。それでトネリコは(たしかカワセミは、夏が過ぎると南のほうへ旅へ出ると言っていたな。きっとそれでこんなに静かなんだ。)と考えたのでした。
 トネリコはしばらく歩いているうち、春とは全くちがう姿をした、このシラカバ林を、絵に描いてみたいと思うようになりました。きっと夏に来たときに描いたシラカバ林とは違った、すてきな絵が描けるにちがいありません。
 それでトネリコは立ち止まり、背中から、その大きなかばんを下ろしました。かばんのふたを開けると、中からスケッチブックと小さなイーゼル、折りたたまれた小さなイスを取り出しました。それから、しばらく辺りをうろついて――雪に余計な足あとをつけないよう、たいそう注意をはらいました――それから丁度いい場所を見つけ、ひとり満足そうにうなずいて、そこへイスを開いて置きました。
 彼はイスに座って、辺りをぐるりと見わたしてから、ああこれは良い景色だ、と思いました。目の前に横たわった大きな木に雪が積もって、林の中でそこだけ視界が少し開けているので、まるで短い道のようになっているのです。トネリコは、まるで林の中に、自分だけの秘密基地を見つけたような、うれしい気持ちになりました。
 それからじっと耳をすましてみると、林はやっぱり静かで、物音ひとつ聞こえません。
(まるで林の木が、みんなだまりこんでしまっているみたいだ。)
 彼はそう考えてから、首をかしげました。胸のおくが、なんだか少しざわざわするような感じがしたのです。
(きっと、少し静かすぎるんだな。何か描いていれば、じきに気にならなくなるさ。)
 そう考えたトネリコは、気をとりなおして、絵を描き始めることにしました。始めに開いたスケッチブックをイーゼルに置いて、えんぴつで下書きをしようとしました。けれど、何度線を引いても、はたしてうまくいきません。トネリコは、また変にそわそわしてきました。林の中は変わらず静かでしたが、不思議なことに、木々の向こうに誰かがいるような気がしてしまって、仕方がないのです。
 そこでトネリコは、いったんえんぴつを置き、目を閉じました。それからひとつ深呼吸をして、周りへようく耳をかたむけました。こうすれば、周りの音や気配を、もっとよく感じ取ることができることを、トネリコは知っていたからです。そうしてじっと集中して、しばらくの間、耳をすませておりましたが、思った通り、シラカバの木を除いては、生きものの気配はほとんどありませんでした。
 トネリコはまたしばらくそのままでいましたが、ふと、おや、と思いました。遠くのほうで小さく、カワセミの歌声が聞こえたような気がしたのです。
 彼はいったん目を開けて、そっと周りを見わたしましたが、やはり生きものの気配はありません。同時に、さっきまでの歌声も、聞こえなくなってしまいました。
 空耳かと思い、また目をつむって、ようく耳をすましてみると、聞こえるのはたしかに、あのカワセミの声のようでした。そのうえ今度は、さっきより少し近くのほうで歌っているようです。
(カワセミは南へ旅に出たんじゃあなかったか。これはやっぱりおかしいな。)
 そう考えて、またそっと目を開けると、いつの間にかトネリコの目の前には、おかしな生きものが立っていました。
「うわあっ。」
 トネリコはひどくおどろいて、腰をぬかしてしまいました。それまでぴんと気をはっていたところに、音も立てず、気配も知らせずに近づいていたので、無理もありません。その生きものは、おどろいたまま何も言えないトネリコのことを、ものめずらしそうに、その真っ黒な目で、まじまじと見つめておりました。
 それは、トネリコと同じくらいの背たけではありましたが、一度も見たことのないような、実にきみょうな見た目をしていました。顔や手足には毛がなく、クリーム色のつるつるしたはだが見えています。それにひきかえ、頭にだけ生えた、こげ茶色の長い毛は、背中のほうにまで長くのびていました。手足もトネリコのものとはずいぶんちがって、肩から指の先まで、細長いかたちをしていました。
 その生きものは、トネリコをじっと見つめていると思うと、急ににっこりと笑って言いました。
「あなたって、とっても面白いのね。」
 声を聞いて、そこではじめて、トネリコはこの生きものが女の子だというのが分かりました。
 トネリコは、その女の子のことをあらためて見てみました。その子は、こんなに寒い中であるのに、真っ白な肩かけマントと、それと同じ布でできた、かざりのないワンピースが一枚だけで、手ぶくろや長ぐつといったものは着けておりませんでした。はだしで雪の上に立っているので、トネリコには、それがひどく寒そうに見えました。
 女の子は、トネリコが何も言わないのを見て、面白そうに笑いました。
「ふふ、変な顔! まるでおばけでも見たみたい。」
「き、君もずいぶん変わっているね。その格好、寒くはないのかい。」
 トネリコはいきなり現れた子に笑われて、むっとして言いましたが、それまでひどくおどろいてしまっていて、とっさには、それくらいのことしか言えませんでした。女の子は、トネリコに言われたことは気にもとめない様子で、言いました。
「あなた、名前は何ていうの。」
 彼は、女の子が自分の話を聞かないのが、どうも少しつまらなかったのですが、がまんして答えました。
「やまねこのトネリコ。」
 女の子はトネリコの言葉に、ふうん、とだけ返しました。
「ねえトネリコ、おにごっこしましょう。私がおにになるから。」
 ぼんやりしていると、女の子が急にそう言いだしたので、トネリコはあわてて言いました。
「待ってくれよ。僕は走るのがあまり得意じゃないから、おにごっこなんてできやしないよ。それに、君は一体ぜんたい、誰なんだい。」
「ふうん、それなら、かくれんぼでもいいわ。私、今まで遊んでくれるひとがいなくって、うんとさびしかったのよ。ねえいいでしょう、ちょっとだけ。」
 女の子はまたしても、トネリコの質問のほうには、まるで答えるつもりがないというふうに、話を続けました。トネリコは昔から、他のひとと遊ぶことがそれほど好きではありませんでした。それで、この知らない女の子にいきなり遊ぼうと言われても、ひどく気がのらなかったのです。けれども女の子が、今までさびしかったと言うのがどうしても気にかかってしまい、断ろうにもためらってしまうのでした。
 返事にしぶるトネリコを見て、女の子はふんと鼻をならして「あなた、かくれんぼもできないなんて言うんじゃあないでしょうね。」と、トネリコのことをあおるように言います。トネリコはあきらめて、ひとつため息をつきました。
「仕方がないな。一回だけなら。」
「そうこなくちゃ。」
 女の子は、得意そうにそう言って笑いました。
「それじゃあ、どちらがおにをやるの?」
「あれ、君じゃあないのかい。さっき、そう言っていたじゃあないか。」
 トネリコは、雪でぬれてはいけないと思い、念のため、スケッチブックをかばんにしまいながら聞き返しました。
「あれは、おにごっこをやるとしたら、の話だったのよ。かくれんぼなら、話は別でしょう。ほら、じゃんけん。」
 トネリコは、この女の子はなんてわがままなんだろうか、とあきれましたが、さそいに乗ってしまった以上は、仕方がありません。じゃんけんで負けたのは、トネリコのほうでした。
「それじゃあ、おにはトネリコに決まり。私はかくれるから、ここで百まで数えていてね。」
「わかった。あまり遠くに行くのはなしだよ。」
 女の子は、もちろんよ、と笑ってみせました。トネリコは近くの、大きく手ごろなシラカバの幹におでこをつけて、顔の両がわを手でおおうようなかっこうをして、数をかぞえはじめました。
「いーち、にーい、さーん……。」
 トネリコがいくつか数え始めたところで、女の子の足音が遠ざかっていくのが分かりました。足音は、ときどき近づいたり、また離れたりして、かくれる場所に迷っているようです。
 トネリコは数えながら、なんだか少しずつおかしくなってきて、顔をおおった手の中で、口元がにやけてしまうのが分かりました。
「……九十七、九十八、九十九、ひゃく!」
 トネリコは、百まで数え終わると同時に、ぱっと顔を上げました。ふりむくと、さっきと何も変わらない様子で、シラカバたちが静かに立っていました。トネリコは、かくれんぼをするのがあまりに久しかったので、どういった順序だったかを思い出しながら遊ばなければなりませんでした。
(たしか、探しにいく前に、何か言うんだったかな。)
「もういいかい。」
 トネリコがそうとなえると、右がわの、少し遠くのほうから、もういいよ、と女の子の声がしました。彼はほっとして、声のしたほうへ歩き出しました。
(きっとすぐに見つかるだろうな。足あとが雪の上に、こんなにはっきり残っているのだもの。)
 彼はそう考えて、女の子の足あとをたどっていくことにしました。ところが、トネリコの考えは、どうもはずれのようでした。はじめは一本道を歩いていた女の子の足あとは、次第にぐるぐるとこんがらがるようになり、あてにならなかったのです。
 トネリコが辺りを見回していると、ふいに後ろのほうから、ピィッピィッと、また季節はずれの鳥の声が聞こえてきました。
(この声はツグミだな。さっきのカワセミの声といい、今日はおかしなことだらけだ。)
 けれどトネリコは、今はあの子を探さなくちゃいけないんだと思い、声の方へ行くのはやめて、かくれんぼを続けることにしました。
 トネリコは女の子を探しながら
(もしかして、女の子と話していたのは、ほんとうは全部夢で、あの子は初めっからどこにも隠れてなんかいないんじゃあないか。)
 と、ほんの冗談のつもりでそう考えたのですが、そういったことは、考えてみると、とたんに不安になってくるものです。
 彼はいったん深呼吸をして、またあらためて、注意ぶかく探し回ってみました。今度は足あとだけでなく、女の子の見た目を思い出しながら、木々の間にようく目をこらします。
 トネリコは、おや、と思いました。ほんの一瞬、シラカバの幹の向こうがわに、女の子が着ていた白いマントの、そのひらひらとした、すそのようなものが見えた気がしたのです。彼はその幹のうしろへ、ゆっくりと回りこんでみました。
「見いつけた!」
 トネリコはそうさけぶのと同時に、つい出てしまった自分の声が思ったより大きかったので、びっくりしました。女の子は、なんでか口元を両手でかくしたまま、少しはずかしそうにはにかんで
「見つかっちゃった。」
 と言いました。それから
「トネリコが私を見つけたから、今度は私がおにになる番ね。」
 と、当たり前のようにそう言いました。トネリコは、なんだ、一回だけだと言ったじゃあないか、と思いましたが、女の子のあまりに楽しそうな様子を見て、それを口に出すのはやめておくことにしました。
 女の子は、じゃあ数え始めるわね、とさっそくその場でしゃがみこみ、目をつむりました。
「いーち、にーい、さーん……。」
 トネリコは、さてどこに隠れようかと、辺りを見まわします。
(細すぎる木はだめだな。きっとすぐ見つかってしまう。)
(あそこの太い木はどうだろうか。いや、でも女の子に近すぎるから、やっぱりすぐに見つかってしまうかもしれない。)
 トネリコは、探すだけでなく、隠れるのもどうやら難しいみたいだな、と思いました。シラカバの木はたいてい細く、見晴らしもいいので、隠れる場所が少ないのです。いろいろ考えた結果、彼は林のところどころにある、低いしげみがちょうどよさそうだ、と考えました。トネリコは向こうのほうから聞こえる、女の子の数える声に耳をすましてみました。
「……八十、八十一、八十二……。」
 どうやら、もう時間があまりないようです。彼はあわてて、いちばん大きなしげみの中に隠れました。もちろん、長いしっぽをしまうのも忘れません。
「九十九、ひゃく!」
 女の子が数え終えてから、もういいかい、と言うのが聞こえました。トネリコは、前に彼女が言っていたのをまねて、もういいよ、と返しました。
 さくさくと、はだしで雪をふむ足音が聞こえます。女の子は、トネリコのところへ近づいたり、離れたりしているようでした。トネリコには、自分の胸がどきどきいっているのが分かりました。見つからないよう、じっと息をひそめて、体を小さくします。
 いくらかして、女の子のくすくすと笑う声が聞こえ、それが自分のほうへ近づいてきました。トネリコをおおったしげみが、がさっとひとつゆらされたと思うと、
「トネリコ、見いつけた!」
 と、すぐ後ろのほうで、声がしました。トネリコはしげみの中からはい出し、ため息をついてふり向きました。女の子は楽しそうに、くすくすと笑い続けています。
「まいったな。こんなに早く見つかるなんて。」
「だって、足あとがこんなに分かりやすいのだもの。」
 トネリコは、しまった、と思いました。隠れる場所を探すことに夢中で、足あとのことを、すっかり忘れていたのです。
「こんどはトネリコがおによ。」
「うん。今度はすぐに見つけるぞ。」
 トネリコは、かくれんぼでこんなに楽しくなったのは初めてだ、と思いました。前に自分が、遊ぶのは一回だけだと言っていたのも、もう忘れてしまっておりました。
 トネリコはまた同じように百まで数えて、女の子を探し始めました。そうして歩き回っている間に、また今度は、遠くのほうからカッコウの声が聞こえました。トネリコは(今日はやっぱり、おかしなことだらけだ。きっと夢でも見ているんだな。)と思い、もう少ししかおどろきませんでした。
 そのあとトネリコは、女の子が太い木の後ろにいるのを見つけました。彼ははじめ、歩き回ってもなかなか見つけられずにおりました。けれど、女の子はトネリコが動くのに合わせて、場所を少しずつ動いていたので、うまく木の横に影になっているのを見つけたのでした。
 それから何回か、二人はつづけて遊びましたが、女の子が探している時は、物音ひとつも聞こえないのに、トネリコが探す番になると、やっぱり森のどこかから、鳥の声が聞こえるのでした。
 トネリコは、この不思議な出来事に似たような話を、昔どこかで聞いたことがあったような気がしましたが、それがどんな話だったか、はっきりとは思い出せませんでした。
 シラカバ林にはいつの間にか、ちらちらと雪が降ってきておりました。何回か遊んだところで、二人が座りこんで休んでいると、女の子はとつぜん、彼にこう言いました。
「ねえ、トネリコは、絵描きさんでしょう。私、トネリコの描く絵が見てみたいわ。」
 トネリコはおどろいて、また不思議に思いました。
「たしかに僕は絵描きだけれど……。かくれんぼは、もういいのかい。」
 女の子はうなずいて、またくりかえすように言いました。
「かくれんぼはもう、あきちゃったもの。私、トネリコの絵が見てみたいわ。」
 トネリコは少し考えてから
「構わないよ。ちょうどさっきまで、描こうと思っていたところだ。」
 と、君が遊ぼうなんて言い出す前にね、というところは口をつぐんで言いました。女の子はぱっと笑顔になって立ち上がり、トネリコの手をとりました。
「ありがとう! それじゃあ、さっきの場所まで帰らなくちゃあね。さ、行きましょう。」
 そうして二人は、イスと荷物を置いた場所へ、歩いて行きました。かくれんぼをした二人の足あとは、新しい雪のおかげで、ほとんど消えかけておりましたが、女の子は、不思議と林の中で迷う様子もなく、トネリコの手を引いて先に進んでゆきました。
 始めの場所へもどってくるころには、ちらちらと弱く降っていた雪も、すっかりやんでいました。
 開いたままのイーゼルとイスの上には、うっすらと雪が積もっています。トネリコは、それを手ではらいながら、スケッチブックをしまっておいてよかったな、と思いました。トネリコはかばんからスケッチブックを取り出し、再びイーゼルの上へ、それを開いて置きました。
 女の子は、ただにこにことして、立ったままトネリコの様子を見つめています。
「どこか、座らないのかい。」
 とトネリコが聞いても、
「ええ。こうして見ていたいもの。」
 と言うばかりでした。トネリコはイスに座り、先ほどのようにえんぴつを持って、描きはじめました。
 彼は手を動かし始めて、おや、と思いました。さっきは上手くいかなかったところが、不思議とすらすらと描けるのです。むしろかえって、いつもより上手く描けているような気さえしました。そうして下書きはあっという間に、満足のいく出来に終わりました。
 それからトネリコは、次は色をぬろうと思い、かばんの中から木でできた水入れを取りだしました。そうして水をくんでこようと立ち上がると、女の子はぱっと、彼の手から水入れを取って
「お水なら、私がくんでくるわ。ここからいちばん近い小川だって、知ってるもの。」
 と、得意そうに言いました。
「そうなのかい。じゃあ、お願いするよ。」
 トネリコがそう言うと、女の子はにこりと笑って、水入れを持って走ってゆきました。
 それから女の子が戻ってくるまでの間、トネリコは絵の具の準備をすることにしました。彼はかばんの中から、太さのちがう二本の絵筆と、赤、青、黄色の三つの絵の具を取りだしました。彼は絵の具を、この三つしか持っておりませんでしたが、それでも絵を描くのに十分なのです。赤と黄色でだいだい色、青にほんの少し黄色を混ぜて空色、それを同じ量だけ混ぜてこげ茶色――というように、パレットの上でさまざまな色を作ることができるのですから。
「トネリコ。」
 後ろから聞こえた声にふりむくと、女の子は水の入った、トネリコの水入れを持って立っていました。女の子が帰ってくるのがあまりに早かったので、彼はほんのちょっとおどろきましたが、すぐに「ありがとう。」と言って、水入れを受けとりました。
 トネリコは、周りを見わたして、パレットで色を作っては、紙のうえに絵筆を走らせて、それからまた周りを見わたす――というふうにして、着々と、シラカバ林の風景を描いてゆきました。
 その間、女の子は後ろに立って、トネリコが絵を描く様子を、何も言わず見ていました。トネリコには、女の子がスケッチブックの中を、食いいるようにじっと見つめているのが分かりました。
 トネリコは、絵を描いている間、何もしゃべりません。シラカバ林は相変わらずしんとだまったままで鳥の歌う声も聞こえませんでしたが、来たときとは違って、今のトネリコにはそれが、林が歌う声を雪が吸いこんでいるようだと思えました。
(ああ、そうだ。あれは「ミズゴケ沼の妖精」の話だったっけ。)
 彼はスケッチブックに筆を走らせながら、ふと、さっきは忘れていた物語のことを、だんだんと思い出しておりました。
 それはトネリコが今よりもずっと小さかったころ、よく面倒をみてくれていた、ひぐまのおばあさんから聞いた話のことでした。おばあさんはまだ小さなトネリコに、それはたくさんの物語を聞かせてくれましたが、その中で何より好きだったのが、この話だったのです。それなのにどうして忘れていたのだろう、と彼は考えていました。
 その内容は、旅人のキツネが、沼に住むいたずら好きな妖精に化かされるのですが、しまいにはそれを見ぬくという、何ら変りない物語でありました。
 けれど、その妖精のいたずらというものが、トネリコには少し引っかかったのでした。沼の妖精は鳥の声を真似して、キツネに道を迷わせようとしたのです。
(だって、あんまり似すぎてやしないか。)
 また、小さなころのトネリコは、おばあさんにたくさんの質問をしていたことを思い出しました。妖精って、どんな生きもののすがたをしているのかな、歌や絵は好きなのかな、いつかぼくも会って、お話しできるのかな――。そういった質問について、おばあさんはよくこう答えました。
「きっと会えるさ。妖精たちはかくれているだけで、本当はどんな所にもいるんだよ。だからいつか、会って聞いてみるといい。」
 それから決まって、くり返し、こう言うのでした。
「妖精はみんないたずら好きで、さびしがりやで、けれどもみんな良い子たちなのさ。だから、もし出会っても、意地悪くしてはいけないよ。」
 それは、どこかぼんやりとした、けれど確かにトネリコ自身の、ふるい思い出であったのでした。
 彼は、はっとわれに返りました。いつの間にか、筆を持った手元が止まってしまっていたのです。女の子は変わらず、後ろに立って、じっと絵を見ているようでした。
(なあに、この子の正体が何だって、構わないさ。今は、絵を描くほうに集中しようじゃあないか。)
 トネリコはそう考えて気を取り直し、またスケッチブックに向かいはじめました。彼はもう、ぼうっとしたり、気移りしたりするようなことは、ありませんでした。
 そうして描き始めてから、どれほど時間がたったのでしょう。陽はかたむいて、林の中は少しずつ、うす暗くなってきておりました。
 トネリコはイーゼルから少し体を離して、スケッチブックの中のシラカバ林をながめました。それから満足げに息をひとつはいて、ぽつりと
「完成だ。」
 とつぶやきました。
「ありがとう。これでもう、さびしくないわ。」
 そう耳元で声がして、ぱっと後ろをふり向くと、もう女の子のすがたはどこにもありません。周りを見回しても、シラカバ林の雪の上には、トネリコの足あとだけが残っておりました。女の子の足あとは、不思議なことに、後にどれだけ探してもありませんでした。
 けれど、トネリコは後になっても、彼女のことを夢なんかだとは、これっぽっちも思わなかったのです。なぜかって、スケッチブックの林の絵の中では、白いマントの、不思議な生きものの女の子が、ただとてもうれしそうに笑っているのでしたから。

おしまい

シラカバ林のまぼろし

シラカバ林のまぼろし

やまねこの少年が旅をする、とある冬のお話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 児童向け
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