14日後の感情譚
なんか気づけば久しぶりの投稿になってました。
書くごとに長くなってる気がする(´Д⊂ヽ
4.22現在、ブース⑩まであげまして完結です。
ちょっと長いので、ゆっくりどうぞ。
1
図書館カードのバーコードを機械に読み込ませると、画面に2項目表示された。カウンターに並べた2冊の本のタイトルと作者名、図書館名、完全に一致。問題なし。2週間後の返却予定日を告げ終わるや否や、本たちは手袋を嵌めた手に連れ去られた。
間を置かず、視界の端から積まれた3冊の本が滑り出てきた。お決まりの挨拶をして図書館カードを受け取ると、いつもは自動的に機器に向かう右手が静止した。黒いボールペンで書かれた4つの漢字に目が留まった。どきりと胸が鳴った。
あの、と声をかけられて我に返った。顔を上げた瞬間、彼も小さく「あ」と漏らした。慌ててバーコードを機械に通して貸出処理を済ませると、
「綾崎さん?」
小声でそう降ってきた。そこで私は思い出した。図書館スタッフのエプロンの左胸には、しっかりと名札をくっつけてある。
お洒落なつば付きニット帽をちょっと深めに被り、黒縁眼鏡をかけて地味な紺色のコートを羽織り、赤いチェック柄のマフラーがアクセント的なファッションの、人気絶頂だった1年前に急に活動休止した芸能人。またの呼称を、私の中学時代の同級生。その彼こと麻橋君が、私の目の前に立っていた。
「偶然だね。ここで働いてたんだ」
麻橋君は順番待ちのお客さんがいないことを確認すると、ちょっとだけ身を乗り出して、あ、とまたもや小さく息をついた。変装しているらしい麻橋君は、身を引きながら眼鏡を微妙にずらしてみせた。
「わかる?」
「わかるけど」
ていうか、私じゃなくてもわかりそうな人がたくさんいるけど。でも麻橋君が訊ねたのは、芸能人の自分ではなく、かつてのクラスメイトの自分がわかるかどうかだ。わからない理由は、私にはなかった。
意外だったのは、むしろ彼のほうが私を覚えていたことだった。
「正規の職員さん? 司書ってやつ」
「学生だよ。これはバイトで」
彼が高校の先に進学しなかったことは、その時期わりと話題になった。麻橋君はほかの同年代の子役やモデルが在籍する芸能科のある高校ではなく、それなりの普通科高校を選び、それなりの成績をキープしていたことも有名だったので、共演した俳優や芸人にしきりに「もったいない」と悔やまれていたのを見たことがある。そのときの彼曰く、「特に学びたい分野がない」とのことだった。
「もしかして美大とか。綾崎さん、絵、上手だったもんね」
と言われたその瞬間、細い針が喉を引っ掻いた。表情を変えたつもりはなかったし、上手いかはともかく普通に頷くつもりだった。結局タイミングを損ねてしまい、気まずいオーラが込み上げた。
黙ってしまった私から顔を逸らし、再び二、三周囲を見て、麻橋君は口元に手を添えた。身長以上の本棚の前で瞑想していたおじさんが、1冊抜いて身体をこっちに向けたところだった。
「邪魔してごめんね。じゃ」
麻橋君は図書館カードを財布にしまい、3冊の本をバッグに入れながら立ち去った。画面に表示されたままの本のデータは、すべて小説だった。おじさんの対応を済ませた後、麻橋君に返却予定日を言い忘れたことを思い出した。
2
麻橋君と同じクラスになったのは、中学3年生のときが最初で最後だった。既にお茶の間の人気者だったその麻橋君と出席番号が並び、おかげで授業によっては年中隣の席だったというのに、いよいよ接点のないまま卒業を控えた2月のことだった。美術の授業をきっかけに、麻橋君のほうから声をかけてくれた。少し仲良くなって、何度か一緒に帰ったりした。わざわざ歩幅を合わせてくれる彼に抱く憧れが、自分とは真逆の性格や教室を含む社会での立ち位置に由縁するものではなく、もっと単純な意味での憧れに変わったのは当たり前のことだった。
結局、直接の気持ちを伝えないままでお別れになった。欠席の多かった麻橋君は、卒業式にも来なかった。卒業証書は後で彼が暮らしていた養護施設に届けると、最後のホームルームで担任から聞いた。その一週間前、麻橋君が春からひとりで暮らすというワンルームに私がいたことは、現在まで誰にも話していなかった。
あのときの湿り気が、今になってまた蘇ってきた。ちょっと載っただけのあの一瞬、頭の中のその映像があるわけないのに外にだだ漏れしているようで、堪えきれず口を覆った。
「おや? どーした?」
声で景色が現実に戻った。ばっちり睫毛を上に向かせ、唇にラメ入りリップを引いたひなが私の隣に立っていた。
ひなの可愛いピンク色のバッグの持ち手には、きらきら光るブレスレットや大きなモチーフがぶら下がったネックレスが巻きついている。こういう使い方なら子供用の安いもので上等、というのがひなの流儀だった。
「初恋進行中の中学生みたいなことしてんじゃん。ついにコレかな?」
椅子を引きながら、ひなは親指を立てた。その爪もピンク色で、角度をつけたグラデーション風に塗られていた。つい私は両手を丸めた。自分の地味な爪が、ひなの目に留まるのが嫌だった。
「古くない、それ」
「わかりやすくていいじゃん。で、なにしてたの? もしかして、もうキスどころじゃなかったか?」
「か、からかわないでよ! そんなのじゃないんだから!」
今日のひなは、明るい茶色の髪を耳の下でひとつにまとめていた。その耳には、彼氏にもらったという小さな星型のピアスがさりげなく光っていた。ひなは高校生のときからピアスの穴を開けていた。
「元気そうでよかった。叔母さんはどう?」
私も座り、ひなに倣ってバッグから教科書からノートやらを取り出していた。今日は久しぶりに座学だった。実技がないだけ多少気楽だ。多少気楽だけど。
「まだちょっと微妙な感じ。もう少し様子見たほうがよさそう」
「そっか。心配だね。じゃ、もう暫くもやし炒めと卵焼きのループかなあ……」
近くに住んでいる叔母さんが体調を崩した。独身で、身近にいる身内は私ひとりだけ。だから少しの間、叔母さんの家に泊まり込む。これが私がひなに吐いている嘘だった。私にいるのは叔父さんだけで、叔母さんはいなかった。
「ごめんね。生活費は今まで通り半分払うから」
「なに気にしてんのよー。いろいろ大変でしょ? それに、桃香、今月ほとんど帰ってきてないじゃん。あたしが持つって」
「いや、でも」
「パパに話したら、当面は仕送り金額を増やしてくれるって。だから気にしないで」
なんで話すの。喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。机の下で爪を押し潰すくらいに何度も拳を固め直し、スカートからはみ出した膝に何度も押し付けた。
手の込んだメイクなんてしてないのに、というかできないのに、瞼がとてつもなく重い。緩い坂を小石がずり落ちるように、世界がどんどん下へとずれた。ひなは私の変化に気づいたふうもなく、ひとりで楽しげに喋り続けていた。あたしもバイトしてみようかな、という部分を聞き取ったので、お金の話をしていたから展開したのかもしれない。
「ねえ、桃香。あたし考えたんだけど、ていうか、あたしが考えるくらいだから、桃香はとっくに考えてるかもしれないんだけど。そしたらごめんね」
「ううん。なに?」
名前を呼ばれて態勢を立て直した。改まったお断りが、友達だ、と不思議な立体感を持って私に迫った。
ひなは視線を斜め下に流し、言っていいのかとまだ悩んでいる様子だった。沸き上がった苛立ちを押さえつけ、穏やかに促した。長い睫毛を数回上下させ、決心したとばかりにひなは顔を上げた。
「図書館のバイト、延長してそのまま正規雇用とかにしてもらえないのかな? あたしなりに調べてみたんだけど、なんか、働きながら資格取って、みたいなやり方があるんでしょ。そりゃ学校出てすぐに、っていうわけにはいかないのかもしれないけど」
ああ、と頷き、私はひなから顔を逸らした。意味もなく教科書を摩った。司書のことは、麻橋君も言っていた。
考えたことがないわけではなかった。今の時点では、それが一番現実的なルートではないかと感じたこともあった。そのとき心の奥で顔を出したのは、親に無理を言って都会から離れた美大に入れてもらったくせに、結局無関係な職を選ぶのかと問う私自身の声だった。そうすればいいじゃないか。少なくとも、進路未定で学校卒業という最悪の自体は避けられる。一応生活もできる。そうすればいい。
味気のない爪が教科書を引っ掻いた。はっとして振り向いたけど、ひなは前を見ていた。掻き痕がついた教科書を、さりげなく裏に返した。
「それとね」
沈黙が続いたことで、話は終わったとばかり思っていた。それにもうすぐ講義が始まる。ひなは正面の大きなホワイトボードを見つめたまま、すっと息を吸い込んだ。
「今から言うのは仮定だからね。このまま桃香の叔母さんがよくならなくて、なかなか就活できなくて、ってなるとするじゃん。その場合、もしよかったら、パパの会社の支店がこっちのほうにもあるからさ」
「……」
善意で言ってくれていることはすぐにわかった。その理解が、却って思考回路を妨害していた。なんの言葉も出ず、一たびずるずると視界の中心をずらしていく私を、ひなは見ていなかった。わざと見ていないように、私には思えた。
ひなの話は続いていた。決して嫌味な空気ではなく、努力して普通を演出しているような話し口だった。その内容が、淡々とイヤリングすらない私の耳をすり抜けていた。お洒落なひなは、透けた布みたいだった。覆っているものの形も質感も目で見て感じ取れるのに、白々しい知らんぷりを継続している。
ひなの就職が決まっている、親の会社とは無関係な小さなデザイン会社。来年の春を待たずして、跡形もなく崩壊するそのイメージ。膝の上に隠した退屈な爪を握り、頭からその映像を振り払った。いつから私は、こんなにも卑しい人間になったのだろう。
3
借りっぱなしのビジネスホテルの鍵は、今どきカードキーではない古い型式のものだった。かちゃりと内側が動く音がして、ドアを押し、番号タグ付きの鍵は再びバッグの内ポケットへ。いつまでこんなことを続けているのかと自分に問いかけてみても、バイト終わりの疲労もあって、重りを詰め込まれたような居心地の悪さがお腹の底で蠢くばかりだった。
バッグと買ってきたコンビニご飯を机に置いて、壁に据え付けのエアコンの電源を入れ、ついでにテレビをつけてベッドに倒れた。横長の画面の中に、見たことのある顔が複数並んでいる。どの顔がどんな名前を持つのか、わからないし興味もなかった。
右に寝返りを打ち、暫く動かずにいた。気が済むと起き上がり、バッグを漁ってスマホを取り出し、また右向きに寝転んだ。20:08。意味もなくメッセージアプリを開き、すぐに閉じた。高校3年生のときに新調したこの機種には、中学生だった当時の麻橋君とのやり取りは残っていなかった。
代わりというのも変だけど、ひなとのやり取りはたくさん残っている。またしてもメッセージアプリを呼び出し、トークをスライドさせた。私のルームシェア受諾に対するひなの返信は、カラフルな絵文字がいつも以上に飛び交っていた。
ひなは私と正反対の女の子だった。快活でよく喋り、新しいものに敏感で、お化粧が得意で活字は苦手。ときどきお洒落すぎて先生に注意されていたけれど、それが年代特有のつっぱりではないことは、まあそれも多少はあったかもしれないけど、ひなの美術の成績が格段によかったことが証明していた。クラスのみんなの関心は、あの麻橋君と同じクラスだったという理由で話しかけてみるものの、地味でおとなしく、さしたる反応を示さない私よりも、派手な見かけに反して写真のような絵を描くひなにすぐに移った。ひなはちまっこいイラストも得意で、クラスの子を可愛くデフォルメ化して描いてみせては喜ばせていた。
「ねえ、それ可愛いじゃん」
ひなが私に声をかけてくれたのは、先生が授業を忘れているらしいので、職員室に呼びに行くべきか否かで静かに論争が起きているときだった。初期だったので、机は出席番号順に並んでいた。苗字があ行なのは、私とひなだけだった。
論争に混ざらず、退屈だった私はノートの端に落書きしていた。手が動くままなんとなく、紙飛行機に跨る猫という不思議な構図の絵を描いていたところだった。
後ろから覗き込まれて驚き、私は咄嗟にノートを閉じた。ひなは「あっ」と間の抜けた声を漏らした後、頬杖をついて無邪気に笑った。明るい茶髪にばっちりお化粧を決めていたひなは、正直ちょっと怖かったけど、同時にとても可愛いと思った。そういえば、麻橋君が声をかけてくれたあのときも、出席番号順に並んだ席だったなと思い出した。
「桃香は進路どーするの?」
時間が過ぎ、卒業後のことを本格的に考えないといけない時期に入っていた。ひなは細い毛先を胸元でいじりながら、何故か気のない口調だった。ひなにはそういうところがあった。重大な関心事ほど、そんなふうに興味なさげにする。
ひなの家は、軽くお屋敷だった。映画の中で犬が走り回っていそうな緑色の芝生を引いた大きな庭で、私とひなは、ひなの家に勤めるお手伝いさんが運んできた紅茶を飲んでいた。ひなの母親が趣味で焼いたというガトーショコラもついていた。
何度か来ているのに緊張して慣れない私は、カップに口をつけながら唸ってみせた。やりたいことはあったけど、それを親に言い出す勇気はなかった。
「あたしね、田舎の大学行きたいんだよね」
「田舎?」
「つっても、山奥とかじゃないからね。都会じゃない地方のって意味」
「どうして? ここのほうがいろいろ勉強しやすそうなのに」
ひなは私と同じことを言うのかもしれない。返事をしながら、ちょっと思った。ひなのほうも、私が同じことを言うかもしれないと考えているかもとも。
フォークでガトーショコラの欠片を突きながら、ひなは浅く呼吸を整えた。
「人が多すぎて息詰まる。昼も夜も平日も休日もうるさいし。それに、パパの会社。今のとこ継ぐ気はないって言ってるけど、近くにいたらなんだかんだで軌道修正されそうだし」
「地方の大学で、誰にも邪魔されずに静かに勉強したいってこと?」
「桃香、あんた美大興味あるって言ってたよね」
胸を抉られたみたいだった。それを言う勇気が私になかった。できれば都会じゃないところで、という希望も。
私が躊躇って口に出せないことを、ひなはばんばん言ってくれる。それは経済的に余裕のある家庭で育ったからなのだ、と密かに思いはしていた。でも妬んでいるつもりはなかった。ひなは確かにお嬢さまだけど、お嬢さまっぽい感じは全然なかった。どちらかというと、制約された世界で制約された世界なりに、自分を臆せず前に出してきたというような。
「あたしと行ってみない? いろいろ考えることとか決めることとかあると思うけど、それもひとつずつ解決していって」
止まっている私の右手を、ひなの両手が包んだ。細い綺麗な指には、薄いピンク色のネイルアートが施されていた。
「桃香のこと、ほんっとに信用してんの。こんなの桃香にしか言わないし、もしダメだったらひとりでも行くつもりだし。でもあんたが一緒だったらもっと楽しいと思ったし、美大に興味あるならもしかしてって思ってね」
ひなの温い手がするりと抜けた。唐突なお誘いにして、やっぱり私と同じ考えだったひなに、知らず頬が持ち上がった。笑うところかとひなは怒ったけれど、その真正直さがとても可愛いかった。
苦労を経て新生活が始まった。3年前のことだった。
決定的な亀裂がなんだったのか、自分でもよくわからなかった。それまでは、それまで通りにお互いの絵や陶芸品を褒め合ったりアドバイスし合ったりしていた。でもある日、思ってしまった。かつてひなが見せてくれた、アトリエ用にしている部屋。紙や絵の具や不思議な匂いで溢れたあの部屋が私にもあればと、私のキャンバスを演技がかって観察するひなに冷めた気持ちを抱いてしまった。
指を下側に滑らせ、会話を最新の日付まで戻してアプリを閉じた。過去の私は楽しそうだった。大事な親友に嘘を吐いてまで、自分だけのつまらない最低な独り相撲から逃げ回る未来なんて、少しも想像していなかった。
背中を向けたテレビから、重なった笑い声が聞こえていた。起き上がり、ちょっとだけ眺めてみた。よくある食レポもののバラエティ番組のようだった。コンビニの袋からおにぎりを取り出し、なんとなく画面の字幕を追いながら食べた。冷たくて硬いお米で、たいして美味しくなかった。
4
「ねえ」
何故か私は、麻橋君は二度とこの図書館に現れないものと思い込んでいた。というのも、あのとき彼が差し出した図書館カードには併用可能の別の図書館の住所が記載されており、貸出処理の際にバーコードで直近の利用状況を読み取っていたからだった。高速道路を通っても1時間以上はかかるその市の図書館に、麻橋君は何度か通っていた。
気紛れを起こして離れたこの街に来てみただけで、返却はきっとあっちのほうに。決めつけていた私は、前借りて帰った3冊の小説と、新たに貸出希望の3冊の小説とともに再び登場したその図書館カードに、しかもその持ち主に話しかけられているらしいことに、虚を突かれて固まっていた。
「いつ終わる? ちょっとだけ時間もらってもいい?」
「え、あの」
順番待ちのお客さんがいないことを一目で確認すると、麻橋君は、再び眼鏡の奥の瞳を私に向けて息を潜めた。
「大通りに出てちょっと歩くと、小さいカフェがあるでしょ。なるべく窓際で隅に近いとこで待ってるから」
「困るよ」
「困る?」
「あ、じゃなくて、困るっていうか」
「困らないならいいじゃん」
どもる私に反し、さすがはその職業とでも言うべきか、麻橋君の物言いは吐息交じりでもはっきりしていた。有無を言わせぬ勢いと例えるより、バイト後の私になんの予定もないことを知っているような。承諾とも拒絶とも判別がつかないふうに首を傾げる私から、処理の終わった図書カードを受け取ると、麻橋君は軽く笑ってカウンターを離れた。また返却日を言えなかった。
そして私は、麻橋君が、本当にバイト後の私がノープランだと知っていたことを知らされた。
「たまたま見えたから、ちょっと気になったんだよね」
何食わぬ顔で、麻橋君は、コーヒーを注文した意味を問いたくなるくらい砂糖とミルクをカップに投入していた。マドラーがカップの側面にぶつかる小気味よい音がする。
本当に来てくれるなんてありがとう、疲れてるのにごめんね、から始まった会話は、本題の暴露へと移った。麻橋君は、私がこの近くのビジネスホテルに数日連続で入っていくのを見ていたらしい。このカフェの窓から、ちょうどこのあたりのテーブルで。
「学生さんだって言ってたし、そんなに続けてビジネスホテルに泊まるかな? って思って。まあ、人にはいろんな事情があるから突っ込むのは野暮だと思ったんだけど、もし家賃滞納で住んでる部屋を追い出されたとかだったら……とか妄想しちゃってつい」
顔から火が出る思いだった。上手に隠していたつもりだったのに、そのために図書館から近い位置にあるビジネスホテルを選んでいたのに、全然あっさりと目撃されている。しかも、ずっと面識がなかったかつての同級生に。
麻橋君は、近づいてくる私に気付くと開いていた本を閉じ、テーブルに積んでいたそれは椅子に下ろした。本題に入る前の僅かな世間話で、麻橋君は、図書館を出た後すぐには帰らず、近くのカフェや公園で何冊かローテーションしながら読書していると聞いた。図書館に行かない日でも、欲しくなったときにジュースや軽い食事を注文できるカフェという環境がお気に入りで、しょっちゅう訪れているらしい。
「いやでも、すぐにそれはないと思ったんだよ? 血色悪いってわけでもなかったし、ちゃんと歩いてたし。でも、もしなにかの事情で家に帰れなくて、ほかにアテもなくホテル暮らししてるっていうなら、俺の部屋でも使えばいいかと思って」
伏せがちに飲んでいたブラックのコーヒーは、どうにか噴き出さずに済んだ。私の中で、時間が止まっていた。顔を上げるタイミングさえも失い、私はただ硬直していた。
カップの淵につけたままの唇に、昔の感触が蘇ってきた。今度は恥ずかしくて顔を上げられなくなった。
「ああ、安心して。一緒に暮らそうっていうんじゃなくて、俺の部屋、借りてるだけでほとんど使ったことないからさ。掃除とかのいろんな管理はそういう依頼ができるところにちゃんと頼んでるし、普通に使えるよ。なんだったら、枕カバーやシーツなんかは、予備があるから適当に収納漁って替えてもいいし」
「そ、それは、その」
なんとかそれだけ絞り出した。麻橋君は、自分がとんでもない提案をしていることに気付いていないような無邪気さで首を傾けた。
「麻橋君はどうするの?」
ていうか、今どうしてるの。麻橋君が言っていたように、人には事情がある。彼が急に芸能活動を休止し、どうしてこんな田舎の図書館に通い詰めなのか、興味はあるけど訊かないつもりでいた。
借りっぱなしの部屋を私に提供しようというくらいだから、私みたいにルームシェアの線はない。もしかして彼女がこっちの人とか? それは十分考えられる。
「どうもしないよ。俺も今、ホテル暮らしだし」
「え?」
「図書カードの住所、見たよね? ちょっと前までそっちの地域でホテル暮らししてて、今はこっちの地域でホテル暮らしってわけ。こっちに来たのは同じ図書カードが使えるし、あっちよりも中心地だから行ってみようと思って。そしたら綾崎さんが受付で座ってるし、俺は俺で借りっぱなしの部屋があるの忘れてホテル長期宿泊の申し込みしちゃうし、ほーんとにびっくりだよねー。それがあるからわざわざ来たって言うのにさー」
呆然とする私を他所に、麻橋君はひとり朗らかだった。笑い声も程々に、はっと麻橋君は息を止めた。
「帰って自分で掃除する予定だったから、業者さんになにも頼んでない。誰も使ってないし、日当たりのいいところだから、そんなに変なことにはなってないと思うんだけど」
「あ、いや、いいよ。私、掃除好きだし」
「え?」
「あ」
言ってしまった。途端に耳まで熱くなった。
最悪だった。外面では遠慮がちな素振りを見せておきながら、というか本当に遠慮すべきなんだけど、内面が滲み出てしまった。
至ってシンプルな話である。率直に言って、もう私には、安いビジネスホテルとは言え宿泊を続ける資金が残っていなかった。もともとバイト代は生活費に充てているし、僅かでも今まで貯金できていたのは、ひなの両親が私たちの部屋代を持っているからだった。これについては当然ながら相当の議論、主に私の両親によるあれこれが介入してきた。なにを言っても、ひなの父親は豪快に、母親は淑やかに微笑むのみだった。そんなことより、これからもひなをよろしくと娘さんに、とお願いされたらしい。聞けば、ひなには小中と家に招待するほどの友達はいなかったそうだ。
だからこそ、私はなにもかもが惨めで、卑怯で、裏切り者で臆病なのだと感じる。お金の尽きかけたこの期に及んで、ひなのいるところに帰りたくない。使っていないから貸すなどという願ってもない申し出に、あっけらかんと乗ろうとしているのだ。
ダメだ。ちゃんとしろ、桃香。激しく頭を左右に振ると、少し自分の倫理観が守られたような気がした。
「別に追い出されたとかじゃないの。なんか気遣わせちゃったみたいでごめんね。それに、久しぶりに会ったばっかりで、彼女でもないのに部屋に上がり込むのも」
「じゃあ彼女になる?」
守られた倫理観が、頭の中に用意していた言葉が、急激に萎んでいった。呆気に取られた私を見て、麻橋君は楽しそうに笑った。
「あはは。びっくりしてる」
まあ冗談はこのくらいにして、と麻橋君は伝票を取った。持っていたリュックタイプのバッグを開き、横に置いた本を入れ始める。
「出過ぎた真似だなとは思ったんだけど、大きい荷物持ってるわけでもないから気になっちゃってさ。気を悪くしてたらごめんね」
謝ったときだけ、麻橋君はしっかりと私の目を見た。咄嗟には逸らせず、ほんのちょっとの間、見つめ合う形になってしまった。
はっとした。また首を左右に振り、私もバッグを持った。
「こっちこそごめん。心配してもらっちゃって。コーヒー、いくらだったっけ」
「俺、綾崎さんを待ってる間にお腹空いて、パスタとかパフェとか食べちゃったんだけど」
「あ、うん」
忙しくバッグの中で動き回っていた手が止まり、麻橋君の視線も動かなかった。
「財布、どうしたんだっけ。カードもいっぱい入ってたんだけど」
「……」
素早く視線を引き上げた麻橋君と、焦点が噛み合う前に勝手に目が動いた。S極に反発するN極みたいな、スムーズな流れだった。
5
私が麻橋君の借りているマンションの一室に来たのは、翌日午前中のことだった。本当は一日でも早くホテルを出て宿泊費を浮かせたかったけど、あまりにも図々しいし、弱い立場のくせに急ぎすぎだ。麻橋君に書いてもらった地図と住所を頼りに、私はそのマンションを目指した。案内しようかと言ってくれたけど、さすがに大丈夫だと言い張った。いろいろと察したのか、麻橋君はすぐに引き下がった。
『絶対言ったらいけないと思うし、余計なお節介極まりないと思うけど、敢えて言うよ』
昨日、取り出した長財布を私に見せつけた後にバッグにしまいながら、麻橋君は言った。
『綾崎さん、お金ないんじゃない?』
そういえば麻橋君は、演技力にも定評があった。ドッキリ企画での仕掛け人はもちろんのこと、声だけの表現でも浮いているのを見たことがない。
給料日まではまだ間がある。固まったのは身体だけで、頭の中は目まぐるしく回転していた。持ち合わせのお金で、コンビニご飯代込みで、ビジネスホテルにあと何日泊まれるか。そんなに経済的な余裕のない家から無理矢理私立の大学に進学している私は、親に仕送りなんて望めなかった。それを条件にこの地を踏んだ。
『事情はわかんないけど、資金と現状が全然合ってないんだよね? 俺の部屋でいいなら使ってよ。綾崎さんが掃除してくれるなら俺も業者に電話しなくていいし、部屋借りてること忘れないだろうし』
『なんで私がお金に困ってるってわかるの』
『困ってなかったら、あんなあからさまに目逸らさないと思う』
『それは麻橋君の主観でしょ。麻橋君にはお金があるから』
『やっぱり正解。そんな言い方するってことは』
一瞬、ついていけなかった。やがて意図に気付き、誤魔化せないと理解した。というか最初に「掃除好きだし」と口を滑らせてしまった時点で、麻橋君の中で結論が出ていたのかもしれない。穴があったら入りたいというのは、こういうときに使うのだと思った。
どうせ行き場なんてない。情けない掠れた声で「タダはダメ」と訴えると、麻橋君は顎を摩った。
『じゃ、ついでに管理してもらおうかな。掃除とか空気の入れ替えとか、水漏れしてないかとか、電波の受信状況はどうかとかそういうのも諸々含めて』
6階建てのマンションは、大学とも図書館とも、少し離れた場所に聳えていた。近すぎず遠すぎず、その気で歩けば20分程度でどちらにも通える距離。受け取った鍵には、ゆるい顔をしたクマのキーホルダーがぶら下がっている。同じようなものが、麻橋君のスマホからも宙吊りになっていた。
ドアノブを押すと、正面のベランダから、薄く春の空気を纏った陽が柔い緑のカーテン越しに差し込んでいた。今日はちょっと気温が高めなこともあるせいか、確かに日当たりはかなりよく感じる。
ワンルームの天井の真ん中あたりにも、カーテンレールがあった。端に寄せられたカーテンは、こっちは深い緑で厚い素材だ。同じ色の留め紐で緩くまとめられている。
『まあ、そんな偉そうなこと言ってからなんだけど、注意して欲しいことがふたつあるんだよね』
そのひとつめが、この真ん中のカーテンだった。退去時はきちんと天井を補修もしくは費用を負担することを条件に、マンションの管理人の許可を得て取り付けているらしい。
『施設で暮らしてたときに、二人部屋をカーテンで仕切ってたからあると落ち着く。これのためだけのワンルーム。気にせず横に寄せといて。で、もうひとつが』
もう一度ベランダを見やった。少し隙間を空けて、その手前に小ぶりのクローゼットが置かれていた。壁と似た系統の質感の可愛いタンスがあるので、部屋に付属していたとすればこっちだろう。麻橋君の言葉を思い出しながら、クローゼットに近づいた。聞いた通り、観音開きの扉には後付けの鍵――ホームセンターで普通に売っている面付き錠というものらしい――が3つ取り付けられていた。この鍵は、予備も含めてすべて麻橋君が持っているらしい。
『変なクローゼットがあると思うけど、無理に開けようとしないでね。絶対誰にも言わず、中身を想像したりせず、ただひたすらそっとしとくって約束して欲しい』
業者に部屋の清掃をお願いするときも、このクローゼットにだけは触らないでくれと強く念を押しているとのことだった。
反芻してみると、興味が沸き上がった。鍵に触ってみたい衝動をお腹の底に閉じ込め、つい伸びかけていた手を引っ込めた。ダメと言われると気になってしまう。でもこれは、麻橋君との約束なのだ。私は私の良心を天秤にかけて、毎時勝ち続けなければならない。
クローゼットに背を向けて、深呼吸した。居直ってみると、抑えていた感情が沸き上がってきた。今の私は、麻橋君と秘密を共有している。これが楽しくなくて、なにが楽しいだろう。残念ながら、このままでは落ち目人生まっしぐらの私を、麻橋君に見つけてもらえたような気がした。もちろん気がするだけだとわかっているけど、今の私には必要な勘違いだった。
再び振り返ってみた。厳重に守られたこの中になにがあるのか、安直に思いつく怖いものはある。でもそれは、あまりにも現実味に欠けていた。もし本当に死体の一部でも入っているとしたら、部屋に誰も寄せつけないはず。それに、鼻を近づけてみても、木製の家具の匂いがするだけだった。
『でも、ひとつだけ訊いていい?』
『なんで自分に部屋貸すなんてことしてくれるのか? まず俺が使ってなくて忘れるくらいだし、家電的にもせっかくだから動いたほうが幸せかなと思って』
気になるクローゼットから離れて辺りをうろついてみると、本当に部屋のどこにも生活の形跡がなかった。ベッドのシーツはぴんと張り、ホテルの一室みたいによそよそしかった。
『どうして使わないのに借りてるの?』
『思いつき』
あのときの麻橋君のあっさり感を思い出した。例えば人の少ないところで落ち着くためとか、つい「ああ」なんて言って同意してしまいそうな理由を想像していた私は、呆けるのみだった。
そんな感じで、麻橋君との不思議な契約から一週間が過ぎた頃だった。麻橋君は図書館に現れず、もちろん連絡もなく、私からもしていなかった。いや、厳密には一度だけ、改めてのお礼のメッセージを送っていた。麻橋君の連絡先は、昔と変わっていなかった。
悩ましいのはこの先だった。なにかしたほうがいいのだろうか。家電は問題なく動きますとか、水回り異常なしですとか。なにかあったときは先にマンションの管理人に連絡しないといけないのだが、ややこしいことになりそうなので、それは自分がするからと麻橋君に言われていた。管理人さんは、管理人さんのくせにあまりこの場所に来ないらしい。わざとそういうところを探したのが幸いした、と麻橋君は無邪気に笑っていた。
疼く胸をそのままに、今日使う画材道具を机に並べた。少し前は見るだけで楽しい気持ちになる魔法のグッズだったのに、今では陰鬱で毒々しい不燃物にしか見えない。こんな気持ちじゃ絶対描けない。でも課題だからやらなきゃいけない。浅く息が漏れた。バケツを持って近くの蛇口を目指した。芸術専門の大学のためか、この場所にはそこここに水道がある。
「あ、桃香」
自分が目を伏せていたことに気付かなかった。顔を上げないわけにはいかない。今日のひなは、活動的なポニーテールだった。左側で揺れる大胆なリボンは、デザインされた髪ゴムではなく本当にバンダナだろう。くっきりした顔立ちのひなに、よく似合っていた。
「今日、出る予定だったんだ。言ってよ」
「ごめん。忙しくて言いそびれちゃって」
隣に行かないのは不自然だった。バケツを置いて蛇口を捻る。ほんのりと可愛いお洒落な匂いが漂ってきた。
「相変わらず?」
「そんな感じ」
「大変だね。あたしにもできることがあったらいいのに」
「ありがとう。大丈夫だから」
大丈夫だから、早く離れて欲しい。遠くでひなを呼ぶ声がしていた。男の声だった。じくじくと身体の内側で棘が伸びていた。前に紹介されたひなの彼氏は、背が高くて優しそうで、でも、その彼氏よりも、私のことを嬉しそうに語るひなの姿のほうが強烈だった。そのときのひなも可愛かった。ひなはいつだって魅力的だった。
講義の内容が違っていたので、ひなとはそれきりだった。バイトを終えた夜遅く、麻橋君の部屋に戻った。一時上書きされていた悩みが、再び色濃くなった。いろいろ自分のせいとは言え、こんなに悩み抜きながら生きていくのが人生なのだろうか。でもその悩みは、ついに解決されることとなった。憂鬱な気分でお風呂に入っていたためか、手からシャワーが滑った。タイルに落下したシャワーヘッドには、稲妻のような亀裂が刻まれていた。
6
翌日午前、講義はなく、バイトは昼からだった。麻橋君がお風呂でシャワーヘッドを交換しているのを、私はひたすら情けない気持ちで眺めていた。
「これでよし」
試運転も問題なかった。麻橋君は古いシャワーヘッドをホームセンターの袋に入れ、お風呂場から出てきた。
「そんな顔しないでよ。ちょっと落としたくらいでヒビ入って漏れ出すってのおかしいんだから。たまたま不良品だっただけだって」
「じゃあお金……」
「いいってば」
「じゃあ手間賃」
「いやいやいや」
管理人さんの許可を得た麻橋君は、まずシャワーヘッドの型を見に来た。自分の家で鍵も持っているのに、チャイムを鳴らしてきたのがおかしかった。
なにもかもいたたまれなかった。ここまでお世話になっているのに、なにもしないのはどうしても気が収まらない。けれど麻橋君はなにも受け取ってくれない。申しわけなさすぎて目を合わせられない私を、麻橋君は見た。今の麻橋君は、眼鏡をしていなかった。
「綾崎さんって、ご飯はどうしてるの?」
「お言葉に甘えて、コンロとかレンジとか使わせてもらってます」
勝手に敬語が出てきた。ホテル暮らしのときはコンビニご飯だったけど、ひなとの生活ではちゃんと自炊していた。ご飯はひなと交代で作っていたが、ひながもやし炒めや味付けなしのスクランブルエッグしかできないので、私が出しゃばらない程度の料理スキルを身につけた。
「じゃ、今度なにか作って。それでチャラってことにしよう」
合わせられなかった目を合わせた。麻橋君はピュアな瞳で、にこにこ子供みたいに笑っていた。
「いつがいいかな。お昼のほうがいいよね」
しかも決定しているらしい。これはいけない。戸惑いを振り払い、私も応戦態勢に入った。
「いや、あの、大したものできないんだけど」
「お茶漬けとか卵掛けご飯とか?」
「カレーとかカルボナーラとか」
「カルボナーラ? いいじゃんいいじゃん! 俺、お手製のカルボナーラなんて食べたことない!」
図書館でカフェに呼ばれた、あのときの勢いだった。麻橋君はポケットからスマホを取り出し、何度か指を滑らせた。
「久しぶりに予定ができたなー。いつにする?」
「あ、明後日なら休みだけど」
「わかった、明後日ね。俺なんもできないから、いい時間に呼んで。本当はやる気で調理器具揃えてるんだけど、まさかここで役立ってくるなんて」
決定が確定した。え、としか言えない私の横を、麻橋君はさらっと抜ける。そして止まった。その目線は、ベランダの傍の鍵だらけのクローゼットに注がれていた。でもそれは、一瞬のことだった。
「じゃ、また。楽しみにしてるね」
持ってきたバッグを肩にかけ、麻橋君は手をひらつかせた。躊躇いなくドアの向こうに消え、また顔を出し、「鍵かけといて」と告げて再びドアが閉じられた。
不自然なクローゼットの存在に、少し慣れてきた頃だった。意味ありげに見つめた麻橋君の背中が、薄れていた興味をちょっとだけ揺さぶった。
でも、そんなことより。
とりあえずドアに鍵をかけて、時刻を確認した。今日はもうすぐ出ないといけないから、今からは掃除でもして時間を潰そう。明日も昼からバイトだから、午前中のうちに必要な具材の買い出しに。そして明後日は――。
考えただけで元気になれた。麻橋君にまた会える。会えるだけじゃなく、私が作った料理を食べてくれる。しかもそれを「楽しみ」だと言ってくれた。素直にとても嬉しかった。同時に影を落とすのが、ひなに吐いている嘘だった。そのうちちゃんと向き合わないといけない。ひなともそうだし、自分自身の劣等感とも。だいたいひなは悪くない。私が勝手な劣等感を抱き、自滅しているだけなのだ。そしてこんな最低な現状に陥っている。
「……」
自分でも出てくる言葉がなかった。気持ちに蓋をするようにベッドに向かい、シーツを剥いだ。今日は天気がいいから、布団を干してから掃除をしよう。忙しく動いているうちに、ひなへの罪悪感は胸の奥に押しやられた。押しやられた分、どんどん広がった。
2日後、連絡を入れてから程なく、チャイムが鳴った。今日はいつになく気温が低い。マフラーで口元まで覆っていた麻橋君は、鼻を啜りながらもテーブルの上のカルボナーラに目を輝かせた。
「すごい! けど、あれ、食器……」
コートから腕を抜くや否や、語尾が消え入る。当然私が視界の中心に据えられた。
部屋の食器棚には最低限の食器しかなかった。お皿もコップもフォークも足りないことに、昨日気づいた。使い捨ての食器も考えたけど、それだと味気ない。わざと柄や形を変えるのもおかしいので、バイト帰りに近くの100円ショップでそれぞれの食器をふたつずつ買った。
そのことを説明すると、麻橋君はちょっと唸った。
「なんか気を遣わせちゃったね。食器のことなんて考えてなかった」
「ちゃんとあとで持って帰るから」
「使うの?」
なんだ、その返し。
「使わないなら置いとけば? またこっちで使うことがあるかもしれないし」
「え、それって」
「おかずがいっぱいある日があるかもしれないし」
考えていた意味と違った。それはそうだ。今この状態が既に夢みたいなのだから、これ以上の夢はあるはずがない。
「うわー、おいしそー。手料理なんていつぶりかなー」
「麻橋君」
早々にテーブルに着き、手を合わせていた麻橋君を呼び止めた。麻橋君は、きょとんと私を見つめていた。
言葉を用意していたわけではなかった。緩く首を振り、私も笑顔を作った。
「ごめん、なんでもない。じゃ、食べようか」
麻橋君は、幸いにも喜んでくれた。私が食器を重ねる手元を、彼が妙に真顔で見つめているので、話を促してみた。カルボナーラを食べ終わる頃には、随分話しかけやすくなっていた。それがかつて何本もラジオやクイズ番組で司会進行していた彼の引き出し故なのか、元クラスメイトの間柄故なのか、恐らく答えは前者だ。思い返してみると、麻橋君は次々と、だがゆるやかに話題を変えていた。私が乗りやすい話の種を探っていたのだろう。
「もしよかったらなんだけど」
そこで区切られた。ちょっと長めの前髪を払おうと指を置き、結局払わずに下ろし、一緒に下がっていた視線がぐっと持ち上がった。
「ときどき来ていい?」
それはおかしな質問だった。来るもなにも、私が彼の家にお邪魔しているのだ。家主の彼が近場でホテル暮らしという特異な状況を、本気で忘却しているような表情だった。
私が言えたのは、ここは私じゃなくて麻橋君の家だということだけだった。食事中のような弾んだリズムにはならなかった。過ぎた感覚だとは思ったけど、麻橋君の本当の顔を垣間見ているような気がした。
指摘を受け、麻橋君は眉根を下げて頬を掻いた。
「あんまり使ったことないから、俺んちの気がしないんだよね」
今度は本当に返答に困ってしまった。どういう言葉が模範解答になるのか、全然わからなかった。
口籠っているうちに、麻橋君は、また純朴な笑顔になった。
「なるべくドッキングしないようにはするよ。同じ部屋に入ってるのを知り合いに見られて、ややこしいことになるのは御免だもんね。綾崎さんって、普段は学校とかバイトとかどんなスケジュールなの?」
ややこしいことか。
深い意味はなかったであろうその表現は、少しだけ私の胸に刺さった。確かにややこしいことではある。でも、そんなふうに締めくくる度に思った。最初にカフェで会ったとき、麻橋君のあの質問を肯定していれば、どんな話をしていたのだろう。
今日も麻橋君来なかったな、と思いながら、図書館を出たときだった。見知った顔が目に留まり、思わず息を呑んだ。
「やっほー」
上げたひなの右手の薬指には、指輪は通っていなかった。学校で課題でもやっていたのか、服にまだ新しい絵の具の汚れがこびりついている。ひなが言う「汚れてもいい服」は、私にとってはいつも斬新なまでに都会的だった。
「待ってたら出てくるかなと思って。今日も叔母さんのとこ?」
「うん。ごめんね。どうしたの?」
横に並んだひなの目を、見られるわけがなかった。だからと言って、全然見ないのはおかしい。一瞬だけ振り向くと、そのときばっちり目が合った。即座に前を向いてしまった。しまった、と思った。
「ちょっとだけ話があるんだけど」
「え」
盗み見た。ひなはもう前を向き、夜の人並みを切って歩いていた。
「時間取れる? ちょっとでいいから」
「……」
頭の中が真っ白になって、声が出なかった。無言の私の半歩前を、ひなもまた無言で歩く。ブーツの底が鳴る音が、よく聞こえていた。
7
少し前まで共同で使っていた一室は、所定通りにふたりでいても、今現在一人用のスペースで暮らしている私には広く思えた。ひなはキッチンに立ち、私の前と自分の前にカップを置いた。少しだけと公言しているためか、わざわざお湯を沸かしたりせず、冷えた市販のお茶が注がれていた。
「ごめん。あたし、言い回しとか苦手だから直球で訊くけど」
伸ばしていた背筋に力が入った。ひなも椅子を引き、私の前に座った。
「桃香、嘘吐いてるんじゃない?」
ああ、もう。膝の上で丸めた掌を、爪が食い込んで痛くなるくらい固く結んだ。そのうち誤魔化しきれなくなることなんて最初からわかっていたのに、目を見て嘘を吐き通すことさえできないのに、その場凌ぎで横に逸れる。私の浅薄な逃げ道は、あっけなく閉ざされた。
「彼氏が近くの100円ショップでバイトしてるの。そこで桃香を見たって聞いた」
違う。まず頭に浮かんだのは、その一語だった。そう思ったから、顔を上げられた。ひなは綺麗に描いた眉を複雑に歪ませ、下唇を噛んで私を見ていた。程なく、その目線は下げられた。
直近100円ショップに行ったのは、不足していた食器を買ったときだけだ。店員はレジ以外にもたくさんいるし、都会に比べれば圧倒的に人の少ない地方のことだ。台車を押したりしながらお店の中を歩いている店員さんたちの中に、自分を見知った顔があっても不思議ではなかった。
ひなはコップに一切手をつけようとせず、俯いたままだった。
「安くても可愛いの、今どきたくさんあるもんね。お皿とかフォークとか、2組ずつ買ってたみたいだって」
「あの、それは」
「すごい嬉しそうな顔してたって」
まじか。咄嗟に遮ってみたものの、そんな補足をされたらなにも言えない。だいたいその補足がなかったところで、続けられる言葉もなかった。今の私と麻橋君のような異質な関係が、一般論で通ずるだろうか。逆の立場だったとしても、嘘を吐かれている前提があるなら尚更で、私だって聞かない気がする。
言い逃れできない状況と見られたらしい。ひなの小さな溜息が、息苦しい沈黙に溶け込んだ。
「あたし、まだ大丈夫だよ」
ひなは真顔で私を見据えていた。その真っ直ぐさに、自分でも跳ね上がるほど胸が波打った。
「桃香、料理得意だもんね。あたしなんかより、彼氏に食べて欲しいのわかるよ。わかるもん。できないけど」
「ひな、私」
こうして半端に横入りするから、余計に変なことになるのに。閉じていられない口が憎かった。21年付き合ってきた自分自身の性格に、一挙に嫌気が膨れ上がった。
「だから正直に教えてよ。あたしら親友じゃん。ひなの彼氏、どんな人なの? 今度紹介して。で、あたしも彼氏誘うから、4人でどっか出かけようよ」
私を許す笑顔だった。優しい表情なのに、私が罪悪感に塗れているから、照準を保っていられなかった。
身体が勝手に動いたのを、理性で押し留めた。けれどもう、私が逃げ出そうとしたその映像が、ひなの瞳に焼きついた。まずいと思った。思った頃には遅かった。臆病で卑怯な自分が、また嫌になった。
ハイライトの差したひなの両目が、不意にくすんだ。脱力したその瞳は、とうに私を中心像から追い出していた。さっきよりも僅かな、底の見えない嘆息が、更に私の喉を締めつけた。
「もういい」
反応できなかった。息もできなかった。ひなは半分下ろしていた瞼を押し上げ、私の目の奥を覗き込んだ。
「出てって。ここ、あたしの家だから」
渦潮が凄まじい勢いを真ん中へ発信するように、記憶が脳で吹き荒れた。高校時代の初会話から、スマホに残った文字や絵文字、手作りガトーショコラと進路の告白。ルームシェアのお誘い、親同士の掛け合い、今しがたの「親友」という単語。絵の具の匂いに課題の彫刻、劣等感からの嫉妬、描けない不振、更なる嫉み。
可愛い爪に確約されたデザイナーの未来と、地味な爪に職未定の未来。彼氏どころか友達すらもいない私。情けないこの現状を、家族にすら打ち明けられずにいる私。
ここは最初から、ひなの家だった。ひなをここまで傷つけた私が、ほんの少しの費用を負担していた程度のことで、それでもその言い方は酷いなんて感じるほうがどうかしている。自分の勝手さに涙が出そうだった。零れる前に、地味なバッグから合鍵を引っ掴んだ。意識してそっとテーブルに置くと、反動なのか、辛うじてピントを維持していた輪郭が二重にぼやけた。一瞬でも早く、この場から消えたかった。でも本当はそうじゃなかった。私は消えたいのではなく消し去りたい。この部屋からでもひなの前からでもなく、世界から私を消し去りたかった。
8
どこにも行きたくなくて、あてもなく歩いていた。肩に掛けたバッグの位置を、何度整えただろう。夜の風が耳に擦れる度、冷たくて痛かった。吐く息の白さの奥から、楽しそうな友達連れや家族連れ、恋人連れが目を突き刺した。自分の心が黒くなっていくのがわかる。ちょっとでも緩和させようと念じるごとに、黒い沈殿が質量を増していくみたいだった。
街道の脇によって立ち止まり、バッグを開いた。ストラップや文房具でもよく見かけるクマのキーホルダーが揺れる鍵を、手の上に載せてみた。氷みたいに冷たかった。もう返したほうがいいかもしれない。今夜いきなり、というのはさすがに非常識だから、明日はバイトも休みだし、片付けと掃除をして、自分の痕跡を綺麗に消して。ひなと暮らしていたほうの家にある荷物は、ええと、どうしよう。ひなだって困るのに、打ち合わせてから脱走すればよかった。
「綾崎さん」
呼ばれて小さく息が詰まった。と、同時に気が付いた。この道を進めば、拓けた公園がある。麻橋君は、公園やカフェで読書するのが好きだと言っていた。行き先なく歩いていたつもりで、無意識に座れる場所を探していたのだろうか。そう思いたかった。
鍵を握りしめ、とりあえずコートのポケットに突っ込んだ。冷たい風から守られ、右手の力が少し抜けた。
街道を横切り、麻橋君は、バッグに肩に掛け直して近づいてきた。
「なにしてんの。寒いでしょ? 雪、降ってきたよ」
言われて空を仰いでみると、柔らかい雪が舞っていた。麻橋君の真っ黒な髪の上にも、白の斑点ができている。そこここを歩く人々も、コートの背中を縮めていた。
「早く帰りなよ。女の子が遅くにひとりで歩いてちゃダメだって。送ってくから」
「どこに?」
考える前に声が出た。髪に被ってしまった粉雪をせっせと払いのけながら、麻橋君は「え?」と何度も瞼を上げ下げさせた。
通行人たちの会話の端や、車のエンジン音だけが聞こえるような時間が流れた。麻橋君は、伊達レンズの裏から私を見つめていた。私は自分のブーツの先を見ていた。やがて視界の上側の麻橋君のスニーカーが、逆の進行方向にターンした。
「じゃ、ちょっとあっち行く? 俺のお気に入りのベンチにでも」
「さっきまでここにいたんだよね。ホテルに戻るとこだったんだけど」
自販機で買ってきてくれたホットのお茶を私に差し出し、バッグを下ろしながら麻橋君はベンチに座った。寒空の下に点々とあるベンチには、同じく点々と何人か腰掛けていた。その中に、先客のいない一脚があった。
お茶を受け取ったまま私が突っ立っていると、麻橋君は、ちょっと不思議そうにしてから、あっと口を開けた。
「直座りが気になるタイプ? ごめん、気付かなくて」
マフラーを外し始めたので、私は慌てて首を振った。ぼうっとして、どこまで愚図なんだろう。音を立てて座ったのがまた恥ずかしくて、俯いたままでしかいられなかった。
目の前に、赤いマフラーが差し出されていた。驚いてつい振り向くと、麻橋君はなんでもない顔をしていた。
「じゃあ巻いとく? 俺のでよければ」
なんと返していいのかわからなかった。促されるまま受け取ると、麻橋君は前を向いた。
「冬にかこつけた変装の一環のつもりだったんだけどね。どうせ誰にも気付かれないから」
想定とは違うところから出てきた言葉だった。でも、これで返事しやすくなった。お茶とマフラーを膝の上で玩びながら、私も口を開いた。
「気付かれたことないの?」
麻橋君は小さく頷いた。
「さすがに眼鏡は取ったことはないけど」
ちょっと寂しそうに角度を緩めた睫毛が、ぎゅっと私の胸を締め付けた。
「田舎だからじゃない? こんなところにいるはずないって」
「忘れられたんだと思うよ。1年もあれば十分だから」
そんなことない、と言おうとしてやめた。麻橋君がいた世界のことは、私は表面しか知らなかった。
「別にいいんだけどね。ちょっと寂しいような気もするけど、気付かれないと安心する。それを見越して都会を離れたわけだし」
「家もあるし?」
「うん、まあ」
「でも、最初はこっちじゃなくて、ちょっと遠くにいたんだよね」
麻橋君は苦笑がちに笑うと、ペットボトルの蓋を開けた。
「別に深い意味があったわけじゃないよ。職業柄いろんなところに行ってたし、家に帰らずお勤めに便利なビジネスホテルに泊まることなんてしょっちゅうだったし、それの延長ってだけ。俺ってどこでも寝れるから」
「そうなんだ」
「綾崎さんは家じゃないと寝にくいタイプ?」
「家以外で寝ることって、そうそうないから。最近は慣れたけど」
「よかった」
頷いてから、その「よかった」の意味を取り違えているのではと思った。私が麻橋君の部屋でちゃんと寝られているのか、その確認だったのかもしれない。私が慣れてしまったのは、家に帰らないことについてだ。
修正するタイミングを失い、私は黙り込んだ。
「まあ、借りっぱなしの部屋の存在を途中から忘れてたのは本当なんだけどね。その意味では、綾崎さんと再会できてよかったと思ってるんだけど」
語尾が曖昧に滲んだ。もちろん私は反応できるはずもない。麻橋君の次の言葉を待つばかりだった。さっきのひなの優しい笑顔が、頭の中でぐるぐる回っていた。
「で、なにがあったの? 俺で」
そこで不自然に区切られた。麻橋君の視線は、私の手に埋もれたままのマフラーに注がれていた。
「もし俺でいいなら、聞くくらいはするけど」
視線の気配が前に戻った。言い直されたのがいたたまれなくて、今更好意に甘えることもできなくて、また泣きそうになった。なんで私はこんなに天邪鬼なのだろう。ひなならきっと、素直に笑ってお礼を言えるのに。
明確に自覚すると、もうどうにもできなかった。拭っても拭っても涙が溢れた。ぽつぽつとあった周囲の目が、わざとらしく分散するのがわかる。それも恥ずかしかったし、無駄に麻橋君をあたふたさせてしまって悪かったし、ますますどうしようもなくて、また泣いた。
バッグを漁り、ハンドタオルを引っ張り出した。ぐっと目に押し付ける。拭くものを探して首を動かしていた麻橋君は、ようやく小さく胸を撫で下ろしていた。
私がビジネスホテル暮らしに至った情けない理由を、全部話した。途中また前が見えなくなってきたけど、目元を拭いながら無理矢理話した。喉がひくついて上手く発音できない私の言葉を、麻橋君は、相槌を打ちながら聞いてくれた。散らされた辺りの目の数々は、そのうち気にならなくなった。
「どうしようもないよね、私」
最後にそう言った。麻橋君は無言だった。
「全部私の独り相撲だもん。ひなのことも、絵を描くことも、私が勝手に嫌いになったの。ひなは全然悪くないのに嘘吐いて傷つけて、ばれてまた勝手に傷ついて、麻橋君を巻き込んじゃうし」
「どうしようもないかなあ」
素朴に疑問を感じているような言い方だった。すっかり冷えたお茶のペットボトルを撫でるばかりだった私の肩が、ぴくりと震えた。
「どうしようもないって言うなら、俺のほうがどうしようもないと思うけど。深いことなにも考えないで、部屋貸しちゃったのは俺なんだし」
「麻橋君は悪くないよ」
咄嗟に否定したけど、麻橋君は首を横に振った。
「そうじゃなくて、俺がだらだらホテルに居座ってないで最初から帰ってれば、妙な提案することもなかったでしょ? 綾崎さんだって、持ち合わせが尽きれば次のこと考えたんじゃない? この時季に野宿なんかしてたら死んじゃうし、今よりはましな形で、そのひなちゃんって子と向き合えてたかもしれないし」
一理ある。反する言葉を思いつかず、間を保たせるためだけに、私はようやくペットボトルの蓋を回した。冷めたお茶が喉を通った。
「ま、たられば言ってたって仕方ないね。俺んち行こうか」
「え?」
立ってお尻をはたき、バッグを肩に担いだ麻橋君は、当たり前のように私に手を差し出した。突然のことに対処できないでいると、マフラーに隠れていた掌を掴まれた。冬の気温に晒された毛糸越しの手から、体温と混ざった温い温度が伝わってきた。
されるままに立ち上がった。私はマフラーを持ったまま、少しの間動けなかった。
「大丈夫だよ。用が済んだらホテルに戻る。なんなら、この手袋も外さないって約束するから」
そういう意味で動けないんじゃないけど。と私が言う隙もなく、麻橋君は、自分が借りているマンションの方向を指差した。
「俺のほうがどうしようもないって理由、教えてあげる」
9
結局巻いたチェック柄のマフラーを外すのがもったいなくて、カモフラージュでコートも着たままだった。麻橋君もコートのボタンを外さなかったから、私のそれも浮かなかった。
バッグの内ポケットから、麻橋君は、なんの飾り気もない鍵を3つ取り出した。前振りも心の準備をしているふうもなにもなく、軽やかな動作で、鍵がクローゼットに据え付けられた面付き錠の穴に差し込まれた。何故か私が緊張して、息を何度も飲み込んだ。
かちゃりと音が3回した。クローゼットの両扉が、ゆっくりと広げられた。妙な違和感が頭の隅をよぎった。隙間が太くなる早い段階で、違和感が消えた。次にわからなくなったのは、その違和感が生まれた理由だった。
クローゼットの中身は、開いた扉の内側も含めて、すべて鏡になっていた。一面の鏡は、マフラーに顎を埋めて目を丸くする私と、とうに諦めたような、嫌気の兆した影のある表情の麻橋君を映し出していた。
「意味わかんないでしょ? 俺が自分で貼ったんだよ」
鏡張りに、毛糸に包まれた掌が伸びた。その上を、一度滑った。
「これと同じのが東京のほうの家にもある」
「なにに使うの?」
「向き合うため」
「向き合う?」
訊き返すしかなかった。麻橋君は手を引っ込め、眼鏡を取った。
「もうひとりの俺と」
「……えーと……」
口籠っているうちに、麻橋君が続けた。
「二重人格ってやつだよ。この治療をするために、俺は芸能界を離れたの。休業ってことになってるけど、本当は戻るつもりなんかない」
突然の休業宣言に、メディアが熱を上げたときのことを思い出した。テレビもネットも、彼が最終学歴を高卒に留めたことを頻繁に取り上げた。理由の明かされなかった休業は、彼が学びたい分野を見つけたことに起因するのではないか。それを言わないのは、言えばまた余計な注目を招き、勉学の妨げになりかねないから。既に契約しているだけの仕事はきちんとするのだから、誰の迷惑にもならない。
もちろん、注目され続けて疲れたんだろうとか、ちょっと休みたいだけだろうとか、そういう声もたくさんあった。本人がなにも言わないのだから、探ること自体野暮だろうという声で、だいたいは締め括られた。
たった今私に明かされたのは、そんな建設的な推測とは程遠い真相だった。しかも二重人格とか。二重人格って、小説でもよくあるあれだろうか。麻橋君がそれ? 頭の中が追いつかなかった。
「引退したかったんだけど、認めてもらえなかった。騒いだら離れるのが却って遅くなるし、マスコミにもうるさくされそうだから、とりあえず休業で折れたってだけ。でも、不思議だよね。みんなに忘れて欲しいのに、忘れられたのが寂しいとも思う。もう誰も俺のことなんて覚えてない」
黙って麻橋君の言葉を聞いていた。聞いているしかなかった。
麻橋君は、再び鏡を撫でた。
「そしたら、こいつがいなくなるのが怖くなった」
鏡に映った麻橋君の瞳が、不意に一瞬遠のいた。そんなふうに見えて、私は軽く目を擦った。
「それ、誰か知ってるの?」
やっとのことで訊ねた。麻橋君は、ほんのちょっと間を開けて否定した。
「今初めて暴露した」
「なんで私に」
「綾崎さんは全然どうしようもなくないって言いたくて。誰かに言う?」
「言わない」
「でしょ」
ナチュラルな信頼を向けられている。戸惑った。鏡越しに目が合っているのを、さっとずらした。でも気になって、また合わせた。麻橋君は、ピントを合わせたタイミングで緩く笑ってくれた。
「でもね、悪い奴じゃないんだ。俺に害のあることはしないし、言うこと聞くし、映画とか本みたいに完全に人格が切り替わるわけじゃない。どっちかが前にいれば、どっちかが後ろでそれを見てる感じ。人格というか、意識が同時にふたつあるのかも」
「今も?」
「今は目も耳も塞いでもらってるよ。そういう便利なこともできるの。綾崎さんと秘密の話をするからあっち向いてろ、ってね。鏡なんかなくても話せるから」
「いつから?」
迷った末に、結局訊ねた。麻橋君は少し上向きがちになった。
「気付けばいたね。中学生のときには既に。ここまで明確になってきたのは、もうちょっと先かもしれないけど。たぶんほかの人にはないことだと思ってたけど、自分が変だとも思わなかった。あいつが言ったんだよ」
ここで一息。話が続いた。
「俺には親も兄弟も姉妹もいない代わりに、自分がふたりいると思えばいいんだって。むしろ、楽しいのも嬉しいのも痛いのも辛いのも直にわかってくれる人がいて、こんなラッキーなことないじゃないかって。俺はそいつを『まあや』って呼んでる」
中学生だった頃、その音は、教室でも飛び交っていた。麻橋君の愛称だった。芸名とはかけ離れたその愛称が、メディアに浸透した理由は私も知っていた。麻橋君が暮らしていた施設の職員さんのひとりが、生放送のインタビューでうっかり『まあや君』と呼んだのだ。
「いい相談相手だし、話し相手だよ。いろんな仕事も、実はまあやと交代でやってきた。けど、いつまでもこんなんじゃダメだと思ってね」
「どうしてダメなの? 上手く共存してるなら、無理に治療なんかしなくても」
「学校でも仕事でもなんでも、嫌なことはほぼ全部やらせてきたから」
無知と未経験が答える邪魔をする。口を開いても、出すべき言葉が見つからなかった。
「……まあや君は、消えたくないとかは言わない?」
かつて、その呼び名に密かに憧れていた。今こんな形で初めて呼ぶことになるなんて、想像もしていなかった。
麻橋君は、曖昧に頷いた。
「あいつは俺に逆らわない。俺はあいつの王様だから」
「じゃあ、命令したら消えるの?」
「心の底からできればね。消えろなんて、今まで何回も言ってきたよ。それを心の底から命令するために、病院に行ってた。変な話だけど、あいつもその命令を待ってる。でもダメ」
あいつがいなくなったら、俺は誰とも繋がってない。麻橋君の声は、寂しそうに消え入った。もし私でいいなら、なんて言えなかった。麻橋君が言っているのはそういうことじゃないし、そういう意味なら、今までに何人でも導けたはずだった。
「自分で啖呵切ってやるって決めたくせに、結局ビビって病院通いもやめちゃって、こんなところまで逃げてきた。現実逃避して本ばっか読んでるうちに、気付けば1年経ってた。あ、ちなみにこの部屋も、意味はないけど借りといてみようとかまあやが言い出したことでね。あいつ、思いついたことなんでも言うから」
クローゼットの扉が閉められた。上から施錠されていき、最後に完全に扉が閉ざされたことを確認すると、3つの鍵はもとあった場所に戻された。
「かなり前から、決別しなきゃいけないとは思ってたんだ。そのためにわざわざこんな特製クローゼットなんか作って、鍵までつけてたんだけど、まったく意味なし。しかも半端に金持ってるもんだから、こうやってぶらぶらしてても困らないから変わらない。どう? 俺のほうがどうしようもなくない?」
なにも言えなかった。麻橋君は動かなかった。私の返事を待っているとわかるのに、なにか言わないといけないとわかっているのに、愚鈍な私はやっぱりなにも言えなかった。
「そう言えば、ご飯食べた?」
「まだ」
話題の転換に安心している自分がいる。もう本当に嫌になった。自棄になった口から、余計な言葉がついて出た。
「だけど、もう今日はいいかな。作り置きもないし、別にお腹空いてないし」
「なにも食べないのは身体に悪いよ」
「食欲もなくて」
「じゃ、食べたくなったらこれでも食べたら? お風呂にでも入ったら気分変わるかもよ」
担いだバッグを前に持ってきて、伊達眼鏡装着済みの麻橋君が取り出したのはコンビニ袋だった。おにぎりがふたつとカップ麺と割り箸、それからメロンパンとオレンジジュースが透けていた。
受け取って、まじまじと見てしまった。胸の奥の奥から、なにか染み出してくる感覚があった。目の奥と鼻の奥が、叩かれた後みたいにじわりと痛んだ。
「パンとジュースは朝食用なんだけど、好きならこれもあげる。もう1回コンビニ行くから気にしないで」
――手料理なんていつぶりかなー。
カルボナーラを振る舞ったあのときの声が、耳を吹き抜けた。
じゃあ、と言って翻った背中を抱き寄せた。思ったより華奢な背中だった。
「貴方の家でしょ」
コンビニ袋より、麻橋君の肩から落ちたバッグのほうが早く音を立てた。ごとり、と固い音がした。硬直している麻橋君が、私の腕に引かれて一歩さがった。
「枕カバーもシーツも変えてないの。貴方のだから使って。私」
声が震えるのに反芻して、結んだ腕に力が篭った。細い吐息を漏れ聞いた。手袋を嵌めたままの麻橋君の指が、私の手首に微かに触れた。
「麻橋君が寂しそうにしてるの、見たくない」
「……」
触れている指に力がかかった。解けと言われているようで、それでようやく我に返った。急いで回していた手を戻し、足を縺れさせそうになりながら離れた。顔全体が赤くなっていくのがわかり、マフラーに顔を埋めたけど、このマフラーも麻橋君がしていたものだ。あれもこれもとんでもない。心の海で、後悔と言う名の荒波が天高くうねっていた。
「あの……」
謝ろうと一歩前に出た矢先、麻橋君が振り返った。眼鏡をコートのポケットに突っ込み、歩み寄って来た。その瞬間、目を瞑った。出しゃばるな、ときっと怒声が響く。
不意の感触に、微かに身体が竦んだ。なにが起きたのか、混乱したのは一瞬だった。その湿り気に覚えがあった。横髪を払われる感触は初めてだった。麻橋君の唇は、受け入れられるのを待っているみたいに、そっと私の唇に載っているだけだった。
ぎこちなく、ちょっとだけ隙間を作った。何故か少し空間ができた。誤魔化すみたいに、また押しつけられた。
10
頬に手を添えられたまま、顔が離れた。私からは、言葉が出てくるはずもなかった。麻橋君は、小さい子供をあやすような笑顔になった。
「平気だよ」
こんな気持ちにさせたくせに、なんで優位に立っているのかわからない。
「慣れてるからでしょ」
「じゃなくて、もう寂しくないから」
語調を強めてそっぽを向くと、そんな一声がかけられた。飛び跳ねそうになったのをなんとか押し込めると、もう振り向く余力はなかった。心臓の鼓動が麻橋君にも聞こえているんじゃないかと、そんなことまで考えた。
「寂しくないようにしてくれるんでしょ?」
はっきりと文章で示されないのがもどかしかった。これじゃ曖昧な態度しか取れない。それに、勢い余って大胆なことを言ってしまったけど、私にはやり遂げられなかった前例があった。
「綾崎さんはどうする?」
ひなのあの笑顔に、また罪悪感がぎゅっと圧縮されたときだった。考えるよりも先に、身体ごと振り向いてしまった。麻橋君は、純粋に私を質す表情をしていた。
「どうするって?」
「ふたりでいられたらいいけど、それだとどっちかは逃げたままになるなと思って」
麻橋君がクローゼットに横目をやり、それで私も思い至った。こんなところまで逃げてきた、と麻橋君は言った。私も麻橋君も、対象こそ違うけれど、向き合うことから逃げ続けて今日に至っていた。
「こっちの病院に変わるのはダメなの?」
「お世話になってた先生がいるから」
「逃げるんじゃなくて選ぶって言い方は」
「俺を? 光栄だな」
前向きなコメントとは違う空気感だった。麻橋君の素朴な笑顔は、ちょっと困ったように輪郭を崩した。
「絶対後悔しないって、綾崎さんが言い切ってくれるなら」
起こり得る様々な後悔が、頭の中を駆け巡った。そのどれも、完全に振り切ることはできなかった。絵も、学校も、ひなとの関係性も、きっと連動して家族との縁も。麻橋君だけを選んだ未来の私は、恋を貫いた強い女などでは到底なかった。着飾ったドレスの裾に見たくないものを隠しただけの、幼稚で我儘な女だった。
貴方だけいればいい、なんて真正面から言えるのは、失わないために戦って、悲しくも敗れた人だけだ。自分が蒔いた種で自滅した私じゃない。
首に巻いたままのマフラーに触れた。暖房をつけていない部屋の空気は冷え切っていて、指先の感覚が随分鈍っていた。
「ずるいと思う。好きなのずっと知ってたくせに。前も今も、知ってて離れる」
「あはは。そうだったね」
ぶつけずにはいられなかった愚痴を、麻橋君は愛想笑いで誤魔化した。誤魔化しながら、堂々と肯定した。話の主軸にして欲しくなさそうだったので、ここぞとばかりに文句を練った。投げつけるために息を吸った瞬間、なにげなく前髪を通った手袋を嵌めた指の影に、歪な細い痣を見た。練り上げた単語の集まりは、即座に収縮して消えた。
「でも今度はそうじゃない。離れないためのお別れだから」
手袋を取った右手を、麻橋君は、マフラーに添えた私の手の下に潜り込ませた。そこで小指同士が結んだ形になった。私の顔の前で、子供がするような約束が象られた。
「ありがとう、綾崎さん」
引っかかっていただけの小指を、少し曲げてみた。触れ合った表面に、返すような力がかかった。そこから伝わる麻橋君の体温は、とても温かかった。
その温度は、私の心にある日付を浮かび上がらせた。
翌朝7時、ベランダのカーテンを開け放した。寝る前にチェックした予報の通り、清々しい快晴だった。メロンパンを食べてオレンジジュースを飲んで、着替えて洗濯機に放り込んだ。ズボンの裾とカーディガンの袖を捲り、シャワーを片手に流しつつ、お風呂のタイルをスポンジで擦った。もう少し陽が出たら、布団を干してシーツも洗う。そうしていろいろ片付くはずのお昼頃、麻橋君がホテルを引き上げて戻ってくる予定になっていた。
指切りの後、麻橋君の熱が移った小指を包み込んだ。時計の音が響くような静寂だった。胸の内に射し込んだ日付とそれに関することを、やっと私は切り出した。
「本、返してないよね」
「ああ、うん。もうちょっと」
その「もうちょっと」が図書館で借りているすべての本を読破するタイミングなのか、それとも私が言い忘れた返却期日のタイミングなのか、恐らく両方だ。床に落ちたままになっていたバッグを開けると、麻橋君は、図書館のものではない分厚い本をつまみ上げた。
「ホテルに届けてもらった教材。芸能界に戻る気はないって言ったでしょ? どっかで雇ってもらわないといけないから」
渡されたので受け取ってみた。ぱらぱら捲って目が疲れた。横文字ばかりで意味がわからないし、字そのものも小さい。活字はいいけどこれは受け付けなかった。
「入りたいところがあるの?」
平常を装いながら返しつつ、耳が痛かった。私にはその問題もあった。進学させてもらった以上、こっちもちゃんと向き合わないといけない。
麻橋君はあっさりと頭を振った。
「今は特に。でも、無資格よりはなにか持ってたほうがいいかなと思って。おすすめって書いてたし、英語だったら、普通科出身で専門知識の欠片もない俺でも取っつきやすいかと」
「麻橋君、成績よかったもんね……」
英語を取っつきやすいと感じるところからして違う。私も勉強ができていたら、と考えかけて振り払った。タラレバはもう飽きた。
「ひとつだけしてたら嫌になるから、あと何個か入りやすそうなのを同時にやってる。読書の合間に」
「じゃあ、それまでにちゃんとする」
「うん」
麻橋君は、手袋を嵌め直して眼鏡をかけた。
「今日は戻ろうと思うんだけど。いろいろ荷物も置いてるし」
今度は私が頷いた。首のマフラーを、麻橋君の首へ移した。麻橋君は、ちょっと笑って私に顔を近付けた。一瞬触れ合っただけのそれは、とても軽かった。
「これで十分なんだよね」
「変なこと訊かないで」
「俺は十分だよ。形なんか別にいらないと思ってたけど、たまにはいいかもね。ふたりだけの秘密って感じで楽しいかも」
経験はないけど、私も一応成人した大人である。麻橋君の考えていることは、すぐに連想できた。恥ずかしくなって俯く私の頭に、麻橋君は手を置いた。
「帰れたらいいね。帰れなかったら、またここに来て――そのときはまだ俺がいるだろうから、カルボナーラでも作ってくれればいいよ」
回想に浸っていては手が鈍る。ようやくお風呂のタイルを磨ききり、壁を擦り終えた。上のほうは届かないから、まあ、これくらいで許してもらおう。次はキッチンを拭いて、部屋の床も雑巾掛けまでしっかりと。掃除は好きだ。ひなと暮らしていたときも、私が隙あらば掃除機を動かすので、スケッチブックと睨めっこしていたひなに怒鳴られたことがある。
夜のうちにまとめた私の荷物は、玄関先に揃えてあった。酷い嘘を吐いて傷つけたひなに、正直、許しを乞える立場だとは思っていなかった。今更図々しい、と突っぱねられたら。自覚が足を竦ませた。でも今頑張らないと、私は今後もこのままだ。勝手に考え込んで勝手に傷ついて、勝手に逃げて人を傷つけて勝手な罪悪感でまた傷つく。どうしようもない自己中心的な人間をやめられない。麻橋君だって、弱い自分を脱却すべく覚悟を決めた。
お昼前、麻橋君が帰る前に、荷物を提げて部屋を出た。鍵は郵便受けから中に戻した。歩いていると、切れるような寒さに身が縮んだ。対抗して背中を伸ばした。今日のひなは学校なのか、家にいるのか。もしかしたら、彼氏の家かもしれないけど。だったらちょっと水を差すけど、それも一緒に謝るとして。
歩道の脇により、ポケットからスマホを取り出した。ひなに繋がる番号をプッシュするとき、手が震えていた。逃げない選択をしたことを、後悔しそうになった。全部振り切ってコールを始めた。まず、コールが始まったことに安堵した。呼び出し音が切れ、僅かな空白を挟んだ後、怒ったような悲しんでいるような、低いような高いような微妙なニュアンスで「はい」と聞こえた。どうしようもない私は、またたじろいだ。踏ん張ってスマホを持つ右手に力を込めた。桃香だけど、と切り出した。
14日後の感情譚
長いことありがとうございました。
これでいったん完結なのかな?と思うけど、桃ちゃんはなかなかのクズだなって自分でも何回も考えた>゜)))彡
けど、人間関係の清算って大事だと思う。
なんというか、自分で自分の決着というか?
そんなんもう望んでないから! とか言われたなら言われたで仕方ないし、そこは感じ方なのかなと思います。
私ができなかったそういう関係のことを、桃ちゃんが頑張ってくれたので、自分でもちょっとだけすっきりはした。
自己満足だけどね。
と言いつつ、次のM君短篇をうっすら考えてある。
学校だ! 学校だ(´艸`*) うぷぷぷ(´艸`*)