塩の短編

satoshiomikawa

  1. 夜間飛行
  2. うさぎ葬送曲
  3. かえる行進曲
  4. りんりんりん
  5. 羽と縄とバスタオル
  6. 海の歌〈波音とエンジン音〉
  7. くじら潮流音
  8. さよならの理由
  9. 世界の境界とアップルパイの話
  10. 砂浜とキャンバスと、その先に
  11. 海風と、色とりどりの飴玉は

夜間飛行

 両親も兄夫婦も寝静まったころ、わたしはそっと部屋を出て、小学四年生になる甥が勉強部屋に使っている一階の和室へ向かった。勉強部屋といっても学習デスクが置いてあるばかりで、実際に宿題をするのはいつもリビングだ。今はそのどちらの部屋もひっそりと静まっていた。

 電気もつけずに窓から差し込む明かりだけをたよりに、襖に手をかけた。スッと音もなくそれは開き、障子の向こうからはうっすらと月の光が透けている。学習デスクの横に立って障子を開け、窓越しに空を仰いだ。

 膝を抱えてしゃがみ込むとまるで外にいるようで、住宅地であるこのあたりはさほど高い建物もなく、向かいの家の屋根が空との境界線になっていた。

 ただじっと座り込んで星をながめた。

 夕飯のあとに甥のランドセルを持って入ったこの部屋で、灯りをつけることも面倒で、誰が閉め忘れたのかは分からないけれど障子が開けっ放しになっていた。そして、この家に十年近く住んでいるというのに、この場所にこんな景色があったことを初めて知った。そのときはまだ月が視界の右上のあたりにあったけれど、半分ほど欠けたその月の姿はもう見えなくなっていた。

 こんなとき、あの人なら星々を指さして(それは決して正確な位置を教えてくれはしないけれど)、漆黒のキャンバスに描かれた神話を、彼なりのツッコミを交えて教えてくれるのかもしれない。わたしはただ彼の柔らかく棘のないその声に、ぼんやりと夜を漂っていた。宙に浮かんでいるようで、草の匂いと、風の温度と、ときおり虫の気配で地面に引き下ろされた。

 ちかちかと瞬く星を横切って、点滅するランプが空をすすんでいく。ひとつは左の空を、もうひとつは右の空を、そしてその中間あたりをもうひとつの飛行機が飛んでいた。

 車の音がし、光が夜を霞ませる。唐突に現実に引き戻され、気を削がれて立ち上がった。学習デスクには子どもに人気のアニメキャラクターのフィギュアが3体並んでいた。「夜になったら動くのよ」というわたしの言葉を信じてくれたのは、もう数年前のことだ。そのわりに夜一人でトイレにいくのを怖がるのは相変わらずだけれど。

 甥の成長を近くで見つめながら、ふとした拍子に頭をかすめるのは彼のことだった。兄が結婚した年、わたしは彼と別れた。翌年には甥が生まれたけれど、噂によると彼とその奥さんのあいだに子どもが生まれたのはそれよりも少し早かったようだ。

 結婚願望はいまだになく、子どもが欲しいと思ったこともない。甥と一緒に暮らしていると話すと「子どもほしくなるでしょ」と友人に同意を求められることがあるけれど、わたしが「甥で満足してる」と答えると「有亜(ゆあ)らしいね」と返ってきた。

 彼とふたりで出かけたとき、彼は通りすがりの子どもに優しげな目を向けていたし、数人の友人とその家族と一緒にバーベキューをしたときには子どもたちに混じってはしゃぎまわっていた。その姿をながめながらビールを傾け、「彼にはきっと父性が溢れてるんだ」と友人に言うと、「ただのガキじゃないの? でもいいお父さんになるわよ、きっと」と笑っていた。わたしは自分がいいお母さんにはなれないような気がして、「ガキかぁ」と、その友人と笑い声を重ねたけれど、彼のそういった姿を見るたびに、自分が彼に相応しくないのではないかと考え続けていた。

「子どもができたら結婚すればいいよ」

 そう言う彼に頑なに避妊を求めたのはわたしで、バーベキューのときに「いいお父さんになるわよ」と笑っていた彼女が彼の子どもを妊娠したと知ったとき、頭に浮かんだのは「仕方ない」という言葉だった。

 甘えるように抱きついてくる甥をかわいいと思いながらもそれは母性ではなかった。大人の目を盗むようにゲームに興じる甥を叱責する義姉の姿に感じるものこそが母性だった。

 甥はあっという間に大きくなってゆく。女としての機能を果たすならそろそろ限界が近づいていると思いながら、結婚へも子どもへも「願望」がなく、それなのにわたしの自室にはいくつかの結婚式場のパンフレットがあった。

「四十になるし、そろそろ」

 四十になるのはわたしではなく恋人だった。十年前、「三十になるから、そろそろ」と彼に言われたとしても、わたしがそれを受け入れることはなかったはずだ。少しずつ居場所が狭まっていく今の家から逃げ出すように、わたしは結婚を受け入れたのかもしれない。

 ――では彼は? 

 彼の居場所を作ってあげられなかったわたしから逃げ出すように、今の奥さんを受け入れたのだろうか。単にわたしに愛想を尽かしただけなのかもしれない。

 ふいに廊下に電気がつき、開け放していた襖からさしこんだ光が、部屋のなかをぼんやりと照らした。トントンと階段を下りてくる足音がし、ひょこりと顔を出したのは義姉(あね)だった。

「あれ、有亜ちゃん。こんなところで何してるの?」

 星がきれいだったから、というと義姉は窓をのぞきこみ「ほんとだ」とわたしに笑顔を向けた。襖をしめて部屋をまっ暗にすると「すごいねえ」と興奮気味に窓に顔をはりつける。
 兄よりも7歳年上で、わたしと9歳年の離れた義姉は、50歳も間近だというのに昔と変わらず屈託ない笑顔で、わたしはときにそれに救われ、ときに疎ましくも感じていた。義姉が甥をその体に宿したのは、ちょうど今のわたしと同じ年だった。

「おめでとね」

 ぽつりとつぶやく声が耳に届いた。

「有亜ちゃんがこの家からいなくなると思うと寂しいけど、同じ市内なんだし、顔出してね」

 義姉はおととしに実母を亡くし、あとを追うようにその父親他界していた。彼女の生まれた家はもぬけの殻で、さんざん悩んだ挙句に売りに出したのはつい最近のことだ。
 他人だったこの人が家族になったのはいつだろう。「願望」なんかなくてもわたしにはいつのまにか「姉」がいて、今のわたしにはその生活が当たり前になっていた。姉にとって、わたしは家族でいられたのだろうか。

「あっ、トイレ行きたかったんだ」

 姉は思い出したように「おやすみ」と部屋を出た。急いでいるのにぴっしりと襖を閉め、先ほどより闇を濃く感じたけれど、それはどこか温かな闇だった。
 空を仰ぐとまたランプがひとつ星のあいまを過ぎっていった。
 流れ星を探してしまうのは彼の名残なのかもしれない。けれど、願うことのないわたしには飛行機のランプで十分だった。

〈了〉

うさぎ葬送曲

【 葬送 】

 校庭には名残のような夏の日差しが照りつけていた。
 全校一同がただ静かに整列し、俺は前に立つゴリの背中を見ていた。視界の右からふらふらと彷徨ってきた小さな虫が、その肩口にピタリと止まる。面倒そうにその虫を左手で追いやるゴリの姿は、後ろから見てもまさにゴリラそのものだ。
「一同、黙祷」
 体育教師の声が校庭に響き、ファーンと汽笛のような音が鳴り響く。薄く目を開けたまま、俺はかすかに見える漆黒の車体に視線を向ける。校庭の周りを、一台のリムジンがしずしずと通り過ぎていく。
 先日の体育祭、突然倒れた女子生徒が帰らぬ人となった。詳細は知らない。彼女の名前も顔も知っていたけれど、話したことは一度もなかった。透明、まっさら――そんな言葉の似合う、薄幸そうな顔立ちの女だった。
 目の前の、馬鹿みたいに広い肩がかすかに上下している。そのうち盛大な「ズズーッ」という鼻をすする音が聞こえてきた。美女と野獣、とでも言えばいいのだろうか。ゴリは、その女子生徒と、どれだけの関わりかは知らないが、教科書を貸し借りする程度には交流があった。
 俺のすぐ隣の列ではほとんどの人間がハンカチを目に当て、鼻をすすり、しゃくりあげ、泣き崩れている。それは亡くなった女子生徒のクラスで、俺の前と後からも感染するようにもらい泣きする声が聞こえた。俺の角膜は未だに乾いている。そして、俺は泣き崩れる一人の女子生徒に目を留める。
 俺は彼女を傷つけたのだろうか。
 一昨日彼女に突き飛ばされたときにできた、左腕のかすかなすり傷。血すらもでず、不格好に皮がめくれただけの、中途半端な傷痕。きっと、俺が彼女につけた傷もその程度のはずだ。彼女を傷つけた人間。その写真はリムジンの中で母親が大事に抱えているだろう。
 人は死ぬとき、辺り一面に小さな刃を撒き散らして逝く。関係が深いほどに、大きく凶暴な刃を。



【 慰め 】

 葬送の前々日のホームルーム。女子生徒の死亡が担任から伝えられ、教室の中は不安と戸惑いと、ある種恐怖のような感情が渦巻いた。当の女子生徒が所属していた隣のクラスにおいてその混沌ぶりは尋常ではなく、それは、現在俺の友達以上彼女未満である悠里も例外ではなかった。
「秋人」
 ホームルームが終わるや否や、戸口で待っていた悠里が俺を呼ぶ。今にも泣き叫びそうな彼女の顔を見て、俺はクラスのやつに軽く挨拶をして彼女の元に駆け寄った。悠里は俺の腕を強引に引いて、三階の渡り廊下の脇にある階段下に連れていく。その場所は妙にしんと静まっていた。どのクラスでも大なり小なり混乱し、モヤモヤとした感情を処理しようと言い訳のような言葉を交わしあっているに違いない。そんなことすら、俺には無意味に思える。
「人美が死んじゃった。死んじゃったよぉ、秋人」
 俺の胸に顔をうずめて、悠里は全ての感情を吐き出すように泣き続ける。こんな剥きだしの姿を見せる悠里が、俺は好きだった。世の中の人間は体裁を取り繕いすぎる。いわゆる「空気を読む」という姿勢が、苦手というレベルではなく、俺には嫌悪の対象だった。
 ――秋人は何考えてるか分からん。
 クラスのやつらはそう言うけれど、俺は自分の気持ちをごまかしたこともなければ、その場を取り繕おうとしたこともない。ただ、どうやら他のやつより死に対する感情が薄い。どうせ、この体の形がなくなっても、この世から完全に消え去ることなんてできない。むしろ、俺は日々自分の残骸を撒き散らしながら生きている。それは何かの形をもってこの世界に存在し、多少の変異はあるにしても、おそらくこの宇宙からなくなることはないのだ。
「秋人……」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにして、悠里は俺の顔を見上げる。崩れかけた彼女の心は、必死に俺を求めているように見えた。だから――。
「……やだっ。こんな時に、どうしてそんなことするの?!」
 突き飛ばされた俺はドアの取っ手に左手をぶつけ、ジン、と軽い痛みが走る。悠里の足音がバタバタと遠ざかり、俺に残されたのは、彼女の涙でぬれた唇の感触と、しっとりと汗に濡れた、細くくびれた脇腹あたりの肌の感触だった。



【 うさぎ 】

 悠里が俺を避けて一週間。他人に執着のないはず俺が、ふいに彼女を目で追っているのに気づき、我ながら苦笑する。――多少は人間らしい気持が芽生えたか。
 例えば、いま悠里が死んだとしたら、俺は泣けるかもしれない。それは少なからず嬉しい発見だった。
『ごめん。悠里』
 そのメッセージに、間を置かず『既読』の文字が添えられる。『遅い。バカ秋人』
「秋人!」
 戸口に手をかけた悠里の姿。人間というものは、たった一週間でこれほどまでに立ち直れるものだろうか。悲嘆に歪んだ眉はそこにはなく、彼女の表情に今みられるのは、安堵、親しみ、恥じらい、そんな柔らかな感情だった。そして彼女はあの時と同じように階段下へと俺を連れていく。
 一週間の鬱憤をぶつけるように、悠里は俺の唇をむさぼる。俺はやはり、この剥きだしの女が好きだ。けれど、制服の裾から差し入れた手が彼女の胸を掴んだとき、悠里はビクリと体を震わせて俺を突き放す。構わず手を動かすと、今度はギュッと俺の体を抱きしめて、その柔らかさで俺の手を強引に止めた。
「学校は、だめだよ」
 悠里は物欲しそうな顔で俺を見上げたあと、欲望を振り切るように俺から体を引き剥した。手の中からなくなったものを確かめようと、俺が自分の手のひらをじっと見ていると、くすっと悠里が小さく笑う。
「秋人は情熱的なのか、淡白なのか、よく分らない」
 それは俺にもよく分らなかった。欲望はある。そのエネルギーの爆発に俺は素直に従っているだけだ。一歩間違えば犯罪になる? それは全く心配していなかった。ルールの範囲外にあるものに、俺は執着しない。――ダメと言われると、やりたくなる。そんな怖いもの見たさのような無為な衝動は俺の中になかった。
 そろり、と一歩ずつ確認するように近づいてきた悠里は、俺のすぐ隣に背をもたせかける。その長いまつ毛を伏せると「人美も、おんなじだった」と呟いた。
「情熱的で、淡白?」
 俺がそう聞くと、うん、とうなずく。そのとき唐突に電子音が鳴り響いた。聞き覚えのないメロディーに、二人できょろきょろと周囲を見回しながら、ふと悠里がその歌詞を口ずさむ。

「うさぎ うさぎ ぴょこぴょこ うさぎ あなたの おうちは あなのなか」

 俺はたいして気にも留めずその歌声を聴きながら、確認のため自分のポケットを探る。スマホはチカチカとランプを点滅させていた。そして、ピンク色の吹き出しのような枠の中にメッセージが表示される。

『うさぎ丸/ 秋人。元気にしてる?』

『うさぎ丸』の文字の横には、ウサギの耳をつけた三十代くらいの男性のアイコン。ハリウッドの特殊メイクさながらのクオリティーで、小さい画像ながらも、ついまじまじと見入ってしまう。
「秋人、知り合い?」
「知らない。詐欺か、変なウィルスにでも感染したかな」
「そのアプリ見たことない。かわいいデザイン」
「さわるとマズイから、あとでどうにかするよ」
 俺がそう言って強制終了すると、悠里は残念そうに口を尖らせる。その口先をペロリと舐めると、彼女のご機嫌は直ったようだった。



【 ゴリ 】

 ――学校では、だめだよ。
 悠里の言葉はそのままの意味で、帰り道もずっと青臭く甘酸っぱいフェロモンを振りまいていた。その日、途中やめになっていたことの続きをした。興奮状態は一気に醒め、俺は初めて場を取り繕うことのできない自分に苛立ちを覚えた。痛みなのか、悲しみなのか、悠里は目尻に涙を溜めてベッドに横たわり、その縁に腰をおろした俺をすがるような瞳で見つめる。その瞳が揺れて、その小さなゆらめきが、俺の中に先ほどまでとは違うふわりとした感情を生んだ。
 ――やはり、俺は悠里と出会ってから何かが変わっている。
 そう頭に浮かんだとき、悠里の表情から陰りが消えて、甘えるように俺の手に顔を擦りつけた。可愛い生き物だと思う。痛みにもだえ、恥じらうように息をはき、悲しげに眉を震わせ、そして今、安心したように口元を緩ませる。
「つながっちゃったね」その悠里の物言いは、SNSで友達を介してつながるような、ずいぶん軽い口ぶりで、俺はそれが可笑しくて声を出して笑った。
 帰りの電車に揺られながら、俺は心地よい疲労感でまどろんでいた。そして、間抜けな電子音に呼び覚まされる。悠里の歌声が頭に蘇った。
「うさぎ うさぎ ぴょこぴょこ うさぎ あなたの おうちは あなのなか」
 俺はポケットを探り、適当にボタンをつついてその音を止めた。きょろりと周りを見まわすと、あからさまな批判の目つきや、嘲るような口元、忍び笑いをしている女子高生もいる。たかだか数秒の電子音で一体何人の人間の感情が揺れたのだろうか。それを考えると不意に笑いがこみ上げる。しかし、そんなことよりも目の前の事象を理解する必要があった。
『うさぎ丸/ 久しぶり、秋人。元気だった?』
 完全に電源をおとしたはずの画面にはピンク色の吹き出しが表示されている。どうなっているのか確認しようとしたとき、再び電子音が鳴った。そして、ようやく気付く。朝からずっとマナーモードにしていたはずだ。
「うさぎ うさぎ ……」メロディーは中途半端に立ち消え、再び現れたピンクの吹き出しをタップすると、記憶にないアプリが起動する。表示された画面の上部には『はなす』と『なかま』の二つのタブがあり、あとは『うさぎ丸』の吹き出しが三つ。既に確認した二つのメッセージのあとに、画面半分くらいの大きな吹き出しがある。

『時間が加速している。決断は早めにしろ。詳細についてはゴリが説明する。知っての通りお前の番は死んだ。よってお前が人型純血種の最後の一匹となる。このような結果になったのは残念だが、連合政府は最終判断をお前に委ねると決定した。死に場所は自分で選べ。お前に再会できることを願っている。春兎』

 俺は寝ているのか、それとも誰かの悪戯なのか。悪戯だとすれば、――ゴリを問いただすしかないだろう。
 ここで俺が返信すれば、何らかの反応があるのかもしれないが、多額の請求でもされたら面倒だ。その場合、ゴリは詐欺集団の一味、ということになるのだろうか。その想像に俺は笑いを堪えることができず、周囲の訝しむ視線を愉しみながらクスクスと肩をゆらした。
 俺が世話になっている養父母はゴリの両親だ。俺にはもらわれてきたときの記憶がないし、実の両親についても大して興味が湧かなかったから、養父母を実の両親として違和感なく受け入れている。ゴリは兄弟のようなものだ。
「ただいま」
 俺が玄関を開けると、いつもなら母の「おかえり」と言う声が聞こえ、ゴリが階段を駆け下りてくる。そして、「遅いよ。腹減ってるのに」と憤慨しながらテーブルにつくのだ。しかし、今足を踏み入れた玄関で、ゴリは上がり框に腰をおろしてこちらを見上げている。
「……おかえり」
 世界の終わりか、高校三年になっておもらしをしたか、そんな情けない絶望感をゴリはまとっていた。詐欺、ではないだろう。――ではゴリは何を知っている?
 リビングには両親が揃っていた。その表情はゴリと変わらず、普段無駄に振りまいている明るさの欠片もない。俺は両親の向かいに座り、ゴリは戸口の前で立ち尽くしたままだ。
「秋人。大事なことを話すから、よく考えて決めてね。でも、その前にあなたに謝らなくてはいけない」
 母のその言葉の仰々しさに、俺は反対に気持ちが冷めていく。とりあえず、現時点での疑問点を解消するために、手っ取り早くさっきのアプリを開いて、テーブルの上にスマホをのせた。両親は顔をつけるようにしてその文章に目を通すと、観念したように顔を見合わせてうなずきあう。やはり、口を開いたのは母親だった。
「謝らなければならないのは、ここにもある『番つがい』のこと」
「ツガイ?」
「秋人の交尾の相手よ」
「交尾って」
 俺はその言葉の響きが妙に気に入った。そして、さっきしたばかりの悠里との交尾行動を思い出して衝動を覚えるが、それが無為なものだと認識すると体の熱はスッと冷めた。

「番は死んだ?」

 俺がそう口にすると、身を縮めるように控えていたゴリが「すまん」と叫び、膝を折って頭を床にこすりつけた。
「言えなかったんだ、人美が秋人の番だって。アイツにそれを伝えるのも、お前にそれを伝えるのも、全部俺の役割だったのに」
 聞き覚えのある名前に、俺は薄幸な面差しを思い浮かべる。なぜあれが俺の番なのだ――そう思ったが、番が存在することについてはさして疑問に感じなかった。番はあるべくしてあるのだろう。
「こちらの世界にいるのは、全て人型亜種だ。純血種は秋人と人美で最後だった。連合政府は絶滅危惧種としてお前らの保護を決め、人型種が感染したウィルスの研究成果が出るまでこちらの世界で時間を稼ぐことにした。俺たち家族は世話役だ」
 きっと彼らにとっては重大な事実を話しているのだろう。けれど、俺は「人型種」ではなく「人間」としてこれまで十八年間生きてきた。――いや、違うのか。ここに連れられてきて以降「人間」として生きてきたのだ。そして、俺にとっては目の前の三人も人間に違いなかった。
「ドッキリっていうオチはないの?」
 それは一応確認しておくべきだと思ったのだけれど、俺は自分の言葉の空虚さにため息が漏れる。知っているのだ、俺は。俺は「人間」であり、且つそうではない何者かであったということを。しかし、だから何だというのだ。俺が死んだからといって、この世界の人間が絶滅するわけではない。頭のなかにぼんやりとすら浮かんでこない、どこかの世界で人っぽいものが絶滅するだけのことだ。しかも、俺しかいないのであれば、向こうの世界には既に存在していない。

「もう、時間がないの。向こうの時間が加速しすぎて、穴が開かなくなってしまう」

 母親の悲痛な訴えに、俺は「ふうん」と相槌をうつ。――だから? だから何だというのだ。
「俺たちは向こうに戻ることにする」
 それまで黙っていた父親が、苦渋の決断というように眉間に深いシワを寄せて俺と視線を合わせる。俺は事の重大さが分かっていないから、彼に共感しようもなかった。それが分かったからといって、共感できるとも限らない。
「浦島太郎どころじゃないわね。きっと、もう誰も生きていないわよ。あの時話したハジーもメルバも」
 そう絞り出すように口にして目元を拭う母親の肩を、父は強く抱き寄せる。そして「早く戻らねばな」と決意を固めたように力強く言った。

「うさぎ うさぎ ぴょこぴょこ うさぎ あなたの おうちは あなのなか」

 今のリビングは、起承転結でいうならば、ちょうど「転」のあたりで、クライマックスに向かう前のシリアスな場面だ。妙に明るい電子音は緊張感を切るどころか、ある種の童謡のように、隠れた残虐さをあたりに撒き散らした。

『じきに限界が来る。できることをしておけ。外来物の持ち込みは厳禁。着衣も不可。下剤で出せるものは出せ。到着から一週間は施設での経過観察。以上』

 彼らは一体どこへ行くというのか。その物々しさに、俺は少しだけ向こうの世界に興味が湧いた。思い立って俺はスマホを手に取る。例のアプリを起動させて『なかま』のタブを開くと、予想通りの画像がずらりと並んでいた。鼠、牛、虎、兎……。そして見慣れた『ゴリラ丸』の面、その下に『人美』の薄幸な顔。


【 人美 】

 両親は二人揃って立ち上がり、大きな体躯をのしのしと揺らしてバスルームへ消えた。
「ゴリは行かないのか?」
 ゴリはずっと頭を床につけたまま、誰に憚ることなく泣きじゃくっていた。もしコイツもいなくなったら、俺はここに一人で暮らすのだろうか。それはそれで、未知の世界だった。――家は売るかな。そんなことを考えていると、ゴリが盛大な音をさせて鼻をすすり、「俺はこっちに残る」と床に向かっていった。
 ――なら、家はあったほうがいいのか? まあ、コイツがいれば何とかなるだろう。一人でないというのは、なかなか心強い。
 うさぎ丸は俺のことを「最後の一匹」と言った。「最後の一人」とでも言われれば多少の感慨もあったのだろうか。彼の言葉は俺の心にピクリとも触れはしない。
 最後の晩餐どころか、げっそりするほどトイレに通う両親を尻目に、俺とゴリはカップラーメンをすすった。あれだけの慟哭で腹が減ったのか、彼はいつにも増して食欲旺盛だ。それはずいぶん獣らしい姿だった。
「ゴリ。お前はあっちの人間なのか?」
 俺の質問にゴリは鼻で笑う。
「あっちに人間はもういない。俺はこっちで産まれた。両親もこっちで産まれた。こっちの世界に来たのは人型と、少数の猿型だけだ。そして戻れなくなった」
「戻れなくなった? 今戻るという話をしてるじゃないか」
「彼らが戻るのは、今戻らなければ戻れなくなるからだ。選択の余地が残されているのなら、彼らはここに留まったはずだ。今となっては、俺にとっても両親にとっても向こうが異世界だ。向こうの世界は時間の流れが早く、そして加速している。俺らが戻ったところで、原始人が現代にタイムスリップするようなものだ。ついていけるはずがない。それに、誰も知っているやつがいない」
「じゃあなぜ二人は戻る」
「どちらで死ぬかという問題だ。あれぐらいの年になったら俺にも分かるかもしれん。そのころには向こうの世界は遥か彼方まで進んでいる。父の欠片も母の欠片も残ってはいまいよ」
「ゴリ、お前は阿呆だな。彼らの欠片が消えることはないだろう。向こうの物理法則がこちらと同じとは限らないから断定はできないが、こちらの世界であれば欠片は消したくても消えない。お前がこっちに残った理由はそれだろう」
 俺のその言葉で、ゴリの涙が再び洪水のように溢れはじめる。感情を剥き出しにする目の前の生き物が愛おしく、俺はダメ押しのように口にする。
「お前は人美の欠片の中で死にたいのだろう」
 ゴリの目からは面白いほどに涙が流れ出し、俺は仕方なくバスルームから大判のバスタオルを取ってきて彼に渡した。脱衣所で、俺は両親二人がいる浴室を磨りガラス越しにながめた。
生存本能だろうか。俺は初めて両親が交わる際の声を聞き、やはり彼らのことも愛しく思った。感傷――そんなものが自分の中にあるとは思わない。けれど、俺は心に小さな傷を負った気がした。


【 春兎 】

『対象は二匹で間違いないな。穴が出現したら落ちろ。残留二匹は影響が及ぶ可能性があるため二階で待機。完了次第通知する』

「元気でね二人とも。こちらの時間だと一瞬で私達も死んでしまうわ」
 母は悲しげに俺たちを見たけれど、まさか素っ裸の両親と最後のお別れをすることになるとは思ってもみなかった。
 ゴリは完了時間がいつになるのか危惧して、非常食とポット、水を自分の部屋に持ち込み、俺はポテチとコーラを持ってヤツの部屋に落ち着いた。両親と別れたのが零時を回る少し前。俺とゴリは深夜番組を見ながらダラダラと過ごし、それはいつもと変わらぬ風景だった。
 十二時半を前に、二人でチャンネルの奪い合いを繰り広げ、俺がリモコンを奪ってドラマに切り替えた瞬間、またあの電子音が鳴った――かと思った。

「うさぎ うさぎ ぴょこぴょこ うさぎ あなたの おうちは あなのなか」

 歌声にあわせて、トントンと階段を上がってくる音がする。それは電子音なんかではなく、小さな子どもの歌声のようだった。

「コンコン、お邪魔します」

 声の主はノックすることなく「コンコン」と口にして、そのドアがフッと開いた。けれど、隙間からは誰の姿も見えない。
「ゴリ、秋人でもいいから、助けて」
 先程の声がドアの陰から聞こえ、ドアの下から三十センチ程のところに何か動物の足のようなものが見える。ドアの裏側で、掴んだドアノブから降りることができずにいる兎らしき生き物は、可愛らしくジタバタと後ろ足をばたつかせる。ゴリがその脇をひょいと抱えて床に下ろしてやると、そいつは通常の兎よりも長い前足で首の裏あたりを掻き、「こっちの世界は、いちいち物がデカすぎるんだよ。お前らも含めてな」と体の小ささからは想像もつかないくらい尊大な態度で、ふんぞり返って俺らに見下すような視線を向ける。
「お前、ハルトか?」
 俺がそう尋ねると、そいつはまん丸な目をキラキラと輝かせて、鼻をヒクヒクと嬉しそうに動かした。その顔の中心部には毛がなく、人間に近い面差しをしている。
「秋人、分かるのか? 俺のこと覚えてるか?」
 彼はずいぶん親しげに俺を呼んだけど、俺には全く記憶がない。
「知らん。メールに『春兎』と書いてあったから、そう思っただけだ」
 俺の言葉にがっかりするかと思いきや、彼は「ああそうか」とあっさりその瞳から輝きを引っ込め、「よく読めたな」と小馬鹿にするように言った。



【 番 】

「うさぎ うさぎ ぴょこぴょこ うさぎ あなたの おうちは あなのなか」
 春兎は乱立するディスプレイの真ん中に座って、前足で器用にキーボードを叩く。彼は極小のキーボードを自分で作り上げ、鼻歌交じりにデイトレードで稼ぎまくっている。
 俺とゴリは、こちらの世界に残った人美の養父母の家に身を寄せ、元住んでいた家は売り払った。そして、なぜか春兎も同じ家で暮らしている。
「春兎はなぜこっちに来たんだ。下剤使ってまで」
 俺がそう聞くと、春兎はいつものようにヒクヒクと鼻を動かす。それから呆れたような顔つきで、
「好奇心だよ。未知の物があれば知りたいと思うだろう。見るなと言われれば見たくなるだろう。それが世界の発展につながる」
「そうか? 春兎はもう向こうに戻らない。その好奇心は世界の発展にはつながらない。それに、向こうから見ればこっちは太古の昔、未知ではなく既知の世界だ」
 俺の言葉に、春兎は可愛らしく首をかしげる。その仕草だけならペットにしてやってもいいが、現状で養ってもらっているのは俺達だ。
「そうだな。俺の好奇心が役に立つとすれば、あちらの世界ではなくこちらの世界だ。俺の時間はすでにこっち側にある。けれど、ここは既知の世界ではない。確かに何千年にも渡ってこちらの世界の分析をしてきたが、その間こちらにはほとんど変化がない。向こうから見れば時間がほとんど流れていないのだからな。かと言って既知の世界とは言い難いのだよ。君たち人類はこの世界のどれだけのことを知っているというのだ。目の前に広がるこの世界のことを」
 春兎はそこで言葉を切り、時間を惜しむように再びキーボードに向かう。俺は点滅しはじめたスマホのランプを見てその部屋を出た。
『そっち行ってもいい』
 悠里はすっかりこの家に入り浸っている。春になって俺は地元の大学に入学し、悠里はトリマー養成所に通いはじめた。それは明らかに春兎の影響だろう。悠里はこの家を訪れるたび、やつの毛並みをとかして幸せそうに顔を緩める。春兎も春兎で目を閉じて恍惚の表情を浮かべるものだから、俺は一人で部屋に籠もることにしている。兎に嫉妬しているなんて、なんとも情けない話ではないか。
 俺が一人部屋でゲームをしていると、再びスマホのランプが点滅する。
『そっち行ってもいい』
 彼女は同じ文言のメッセージを寄越し、俺の部屋のドアを開けると意地悪く口元をニヤつかせる。俺はそんな彼女に得も言われぬ情動を感じて、それは彼女が仕向けているものであろうけれど、その彼女の罠に敢えてはまるようにして肌を合わせる。
 俺は自分の中の何が変わったのか分からない。
ただ、彼女に感じる執着のようなものは徐々にその範囲を広げ、ゴリや、あの兎、この家の住人のみならず、大学の仲間や、地域、この世界にすら愛着を感じ始めている。気怠くベッドに横たわる彼女を、俺は添い寝するように抱きしめて、そして耳元で囁く。

「俺の番つがい」

 彼女は少しだけ首をかしげ、そして汗ばんだ肌をギュッと押し付けてくる。彼女からこぼれでた残骸を俺はまとい、そして思う。
 ――この世界で生きたい。
 その願いはすでに叶い、俺はそのことになぜか涙がこぼれた。

《了》

かえる行進曲

〈記憶とアルバム〉

 盆にある同窓会は、じいちゃんの家の近くの居酒屋だった。俺は何年ぶりかでその家を訪れ、朽ちかけたボロ屋に足を踏み入れた。
 ――夏だ。
 夏に、俺は何かをしなければならなかった。じいちゃんが居なくなった時から、俺は夏が来る度に言い様のない焦燥感に駆られる。
 じいちゃんは俺が小学五年生の夏に死んだ。ガソリンスタンドの爆発。俺もその場にいたらしいが全く覚えていない。
 その夏は何かがおかしかった。俺は終業式前からひどい夏風邪で、学校に行かないまま八月の初めまで寝込んでいた。――いた、らしい。正直にいうと、その事すら覚えていない。体調が悪くなって学校を早退したあたりまでは記憶がある。次の記憶は、じいちゃんが死んで、その事故を含めた数件の爆発事故、それと無差別な建物破壊に世間が大騒ぎをしていた頃に飛ぶ。
 じいちゃんの住む街で起こった原因不明の事故と犯人不明の破壊は、オカルト現象としてワイドショーだけでなくゴールデンタイムに特別番組が組まれる程になっていた。俺も家族もそんな番組を観ることはなかったが、夏休みが明けても学校はその話で持ちきりだった。それもそうだろう。俺たち家族には悲痛な現実を突きつけるその話題も、我が身に火の粉がかからなければ格好のネタにすぎない。親たちは数十キロ離れた場所で起こった一連の事故に戦々恐々としていたのかもしれないが、小学五年生のガキには生生しい現実としては受け入れられなかったようだ。俺の周りでは多少の気遣いがみられたが、それでも噂話は耳に入った。
「真吾の従兄弟が、でかい恐竜を見たんだってよ。それが高須小学校の体育館の窓に白い息を吹き掛けたら全部ガラスが割れたって」
「友達が言ってたんだけど、ガソリンスタンドに烏人間が何匹もいて、それが一斉に飛び立ったと思ったら急に爆発したって」
 子供達から提供される目撃情報は腐るほどあったらしく、それはテレビを通じて全国に広まり、その後数年間は『未知の~』とか『怪奇!~』とかいう番組には必ずと言っていいほどその街が登場した。
 あれから十年近くが経ち、最近では話題にのぼることさえ滅多になくなった。
 ――俺は、なぜか確信している。あの一連の事故及び事件の犯人達がこの世界の住人ではないということを。

 家というものは住人がいなくなると死ぬ。埃というにはあまりにも大きなゴミや木の欠片が一面を覆い、洗面所の床板は湿気で腐りかけていた。俺は比較的安全そうな縁側を奥へとすすみ、目的の場所へとたどり着く。なぜそこが目的地なのか。頭のなかに霞がかかったようにはっきりしないけれど、毎年この時期に感じる焦燥感は必ずこの部屋を思い出させる。
 突き当りは便所。縁側のカーテンを引き開けて向かいの障子に手をかける。勢いよく開け放とうと思ったその戸は一センチほど動いて止まった。俺は両手でガタガタと上下に揺らし、ようやく入り込めるくらいの隙間を作って部屋に足を踏み入れた。
 障子越しに差し込む光を頼りにぐるりとその和室を見回し、部屋の隅に置かれた文机に目が留まる。
 じいちゃんが生きていた頃、俺は夏休みに入るとお盆過ぎまでこっちにいて、家に戻ってから慌てて自由研究と工作を仕上げるというのが夏の過ごし方だった。そのとき勉強机として使っていたのが、あの文机だ。今、文机の上には一冊の本が置かれている。俺はその本に見覚えがあるが、たしか数年前の春頃この部屋に入った時にはそんなものは置いてなかった。あったら遺品を整理した際にどこかに片付けられているはずだ。
 文机に向かって歩を進めると、畳に積もった埃が舞い上がり部屋の中に光の筋を作る。茶色いはずの机の上も埃で真っ白だったが、本の上はそこだけ切り取られたように塵一つ落ちていない。真紅の表紙、A4サイズ程度のその本は、――そうだ、アルバムだ。
 吸い込まれるように手に取り表紙をめくろうとした時、突き上げるような強い焦燥感が俺を襲う。自分の手の動きをもどかしく感じながら表紙を左へ繰ると、二枚の写真が目に入った。
 これは俺か?
 透きとおった海。白い砂浜。小学四年生くらいの俺が砂の城を作っている。城の向かいには同じくらいの年の少女。そして、深い蒼の空には帆を張った船が浮いている。
 もう一枚の写真は草原だった。遠く丘の上には古城が見え、俺は龍のような生き物に跨っている。その腰辺りには少女の手が巻きついていた。ページを何枚繰っても、背景はこの世界のものではなかった。ページを繰るごとに俺は幼くなっていき、最後のページは、たぶん小学一年の頃。少女もまた同じだった。
 俺はアルバムを閉じてリュックの中にしまう。このあとすべきことは明らかだった。
 彼女に問いたださなければならない。アルバムの中の少女。彼女と、これから向かう同窓会で顔を合わせるはずだ。



〈不躾な女――1〉

 高校の入学式。一年一組、相田友樹は新入生代表として挨拶をした。成績がいいわけでもなく、スポーツが得意なわけでもない。一番最初のクラスの出席番号一番という理由で、その高校は俺を代表に選んだ。
 あの女が初めて俺に話しかけてきたのは講堂の脇だった。身体測定か何かのときで、人がごちゃごちゃと行き来していたような気がする。
「友樹、ちょっとこっち来て」
 俺は見ず知らずの女に手を引かれて講堂の裏に連れて行かれた。名前は代表挨拶の時に知ったのだとしても、その女に呼び捨てにされる筋合いはなかった。俺は壁際に追い詰められ、目の前には憤慨を体中で表現する女がいる。
「友樹、どうしてあの時来なかったのよ! 分かってるでしょ、あなたのせいで街は大変なことになったんだから」
 俺は意味もわからず責め立てられ、ただ「あ、いや」と言葉を見つけられず言い淀む。彼女はため息をついて、くっつきそうなくらい近かった鼻先を俺から離した。
「全部が友樹のせいってわけじゃないわ。私達の後任の門番が未熟だっただけよ。それでも私は待ってたんだから」
 彼女の怒りが再燃しそうな気配がし、俺は必死で頭に浮かぶ言葉を口にした。
「ごめん。俺、君が何を言ってるのか分からないよ。人違いじゃない?」
 彼女は眉をしかめて俺の顔を凝視し、それから何故か泣きそうな顔をする。
「ねえ、……相田くん。小学五年の夏休み、あなたは何をしてた?」
 彼女の質問に答える必要はないし、例えばこれが中二の春休みとか、小五の冬休みとかだったら「関係ないだろ」で済ませていたと思う。
 俺は彼女の質問に、何故かあのときと同じ焦燥を感じる。
「覚えてない」
「覚えてない?」
「夏休み前に風邪をひいて寝込んだ。そのあとガソリンスタンドの爆発に巻き込まれたらしい。けど、俺は寝込んだことも事故にあったことも覚えていない」
 彼女は息をするのも忘れたように俺を見つめていた。その目は俺を通り越して、どこか知らない世界に向けられているようだった。
「小学四年の時の夏休みは覚えてる?」
 ――小四?
「さあ? じいちゃんの家に行って、適当に過ごしてたはずだ」
「何か、……覚えてない?」
「何かって、何を」
 俺の言葉で、彼女の顔に落胆の色が浮かぶ。「ごめんね。私の勘違いだったみたい。人違い」そう言って俺に背を向けた。

 高三の選択授業。その日、生物はカエルの解剖の予定だった。俺は腹痛と偽って保健室へ避難した。隣のクラスと合同のその授業で、俺はあの女と同じ班だった。だから、俺達の班は大変だったらしい。
 唐突にカーテンを引き開けた彼女は、ベッドでのんびり寛ぐ俺を強引に起こし、屋上へと連れて行った。
「ねえ、友樹」
 彼女はなぜかまた俺を呼び捨てにした。
「友樹はやっぱり、人間より蛙のほうが好きなの?」
 言っている意味が分からなかった。「やっぱり」?
 カエルの解剖をボイコットしたとはいえ、その二つは同列に並べるべきではない。
 ――並べるべきでは、ないのか?
 本当にそうだろうか。俺は自分のなかに浮かんだ疑問と、目の前の彼女にまた焦燥感を覚える。
「質問の意味が分からない」
 俺はこれ以上話すのが怖くなり、彼女に背を向けた。彼女が追ってくることはなかったけれど、投げつけられた言葉に俺は足を止める。
「友樹、もうセックスしちゃった?」
 ダメだと思いながら振り返った俺の目の前にあったのは、彼女の縋るような眼差しだった。
「馬鹿じゃないの」
 そう言い捨て、俺は彼女を残して屋上を後にした。


〈不躾な女――2〉

 夜九時。ぐだぐだとした空気が蔓延する同窓会の端で、俺は彼女に話しかける機会を伺った。それは周囲にバレていたようで、隣に座った田村がニヤニヤしながら俺を小突く。
「相田。お前、沙弥ねらい?」
 沙弥――代田沙弥は、高校のとき田村と付き合っていたはずだが、今日の様子を見る限り関係は既に破綻しているようだ。
「いや、カエルの解剖を思い出していただけだ」
「ああ。あのあと噂になってたな、お前ら。そのせいで俺は焦ってアイツに告白したんだ」
「別れたのか?」
「ああ、卒業して半年も続かなかった。あいつ、させてくれないんだよね」
 田村は一度言葉を切って俺に顔を向けた後、「エッチ」と嫌らしく口元を歪めた。俺は、屋上で見た彼女の顔を思い出す。
『もうセックスしちゃった?』
 あの言葉で、俺は彼女が性に奔放な人間だと認識した。どうやらそれには疑問符がつきそうだ。
 沙弥と話をする機会は唐突に訪れた。訪れたのではなく、向こうからやってきた。男子トイレのすぐ目の前で、俺は用を足して出てきたところだった。
「友樹、まだ童貞なの?」
 年月を経て、彼女の恥じらいは少々なくなってしまっていた。俺のプライドも年月を経て、それなりに高くなっている。
「馬鹿じゃないの」
 高校の時と同じように俺は彼女に背を向けたけれど、今回はすんなりと逃してはくれなかった。俺の腕を彼女は強引に引っ張って店の外へと連れ出す。それから、きょろきょろと辺りを見渡して細い路地へと入り、裏口らしい古びたドアの前で立ち止まった。そのノブを回して数センチだけ開けると、再びバタンと閉める。彼女は「よし、オッケー」と小さく呟いた。
「友樹、もうセックスしちゃった?」
 俺は訳の分からない状況にうんざりして、「したよ」と嘘をつく。すると彼女は、絶望と表現していいくらいの悲しげな顔をしてその場にしゃがみこんでしまった。
「代田さん」
 俺は事実をごまかしたまま慰めるべきなのか、正直に童貞であることを打ち明けるべきなのか分からないまま、とりあえず名前だけを呼んだ。
「ねえ、友樹。やっぱり忘れちゃったまま? 私、今日が最後のチャンスだと思って、ちゃんと鍵入れて来たのに」
「――鍵?」
 鍵。そうだ、――俺は、何かの鍵を持っていたはずだ。そして、沙弥も。
 霞んだ記憶を呼び戻そうとする俺を、彼女は立ちあがってのぞき込む。そして、左の手のひらをこちらに向けて差し出した。俺は、無意識に右の手のひらをそこに合わせる。
「友樹、これで行けないって分かったら、私ちゃんと諦められる」
 彼女は苦しげに言葉を絞り出して、空いた方の手でドアノブを回した――。


〈向こう〉

「なんだ、童貞だったんじゃない」
 沙弥の熱い息を肩のあたりに感じた。薄暗い繁華街の路地に似つかわしくないくらいの眩い光が、ドアの内側から俺たちを包み込んだ。沙弥は合わせていただけだった手の指を絡め、グイと体を引き寄せて俺を見上げる。彼女の頬は紅く上気し、少し荒い息遣いと、薄く開かれた唇。軽く伏せられた瞼の奥には先程までにはない妖艶な輝きがあった。俺は自分の内側が高ぶるのを感じ、彼女に誘われるようにして裏口の向こうへと足を踏み入れた。
 彼女が後ろ手にそのドアを閉めると、弾けるように白い光が全てを覆いつくし、眩しさに手をかざす。その光がおさまり暗闇に目が慣れた頃、自分が洞窟の中にいることを知った。湿気が体にまとわりつき、サウナのような暑さに汗が滲む。沙弥は俺の足元にしゃがみこみ、顔を上気させたまま何かに耐えるように目尻に涙を溜めていた。
 これは、焦燥感? 
 夏が来る度に俺を突き上げるあの感覚が、焦燥などではない、もっと本能的な情動であることに気付き俺は愕然とした。
 俺は、何を求めていた?
 衝動的に彼女に触れようとする自分を押さえ込み、沙弥の前に手を差し出す。彼女はその手に触れて一度ビクリと体を震わせ、大きく息を吐いてから俺の傍らに立ちあがった。まだ、彼女の息は乱れている。
「行こう。友樹」
 彼女にリードされたまま、俺は洞窟を光の差す方へと歩いた。でこぼこな岩場に何度も足をとられ、つまづいて手をつく。その地面の熱さと柔らかさに少々驚いた。
 光のかたまりが眼前に大きく広がる頃、漆黒の影が二つ俺達の行く手を塞ぐ。
「誰だ!」
 ガシャンと大きな音をさせて二本の剣が目の前でクロスした。けれど、それはすぐ鞘に収められる。
「なんだ、トモキとサヤじゃないか。お前らどうしてここにいる。ここの門番はもう既に式典に向かった」
 俺たちに気安く話しかけてきたその男は、真っ黒な瞳に呆れたような光を漂わせる。そして、その全身も真っ黒な羽根で覆われている。
「クロウ、久しぶり。私たちは門番として来たのではないわ。ただ、この世界にお別れをしにきただけよ。ところで式典って、なあに?」
 沙弥は目の前の光景を当たり前に受け止めているようだった。俺は、彼の名前が「クロウ」であることも、「門番」が何なのかも分からなかったけれど、この場所に来たことがあるということだけは確信できた。
「今日は、フロッグ王子の六歳の誕生日だ。早いものだな。お前らとじゃれ合って遊んでいたグルヌイユ姫も、今ではすっかり王妃の品格を身につけ、六歳の王子の母親だ」
「グルヌイユは結婚したのね」
「ああ。実は、姫はずいぶんと渋っていたんだ。姫はずっとトモキを待っていた。それでも、王室の結婚とは単なる恋愛ごとではないから、十三の年になってようやく決心したようだった。俺は、トモキは向こうの世界で大人になったのだと思っていた。まさか、まだだったとは」
「病気で来れなかったんですって。私も知らなかったの。それに、トモキはこの世界の記憶をなくしてるわ」
「そうなのか? トモキ。あんなに好きだったグルヌイユ姫のことも覚えていないのか」
 クロウと沙弥の会話は、俺の記憶の抽斗を何度も開けようとするけれど、完全には引き出してくれない。そのもどかしさに苛立ち「覚えてない」吐き捨てるように口にした。

 その世界の光景は、あのアルバムの中のものだった。洞穴を出ると目の前にはあの草原、そして丘の上には小さく古城が見える。空にはクジラが泳いでいた。
「もうじきパレードがここを通る。グルヌイユ王妃の顔も見られるよ。話はできないがな」
 クロウはもう一匹の烏に「見回りをしてくる」と言い残し、バサリと羽を広げて空に舞い上がった。沙弥は草の上に腰をおろし、残された男に話しかける。彼も漆黒の羽をまとっている。
「コルヴォ。私とトモキの後の門番は誰なの? 向こうの世界は大変だったのよ」
「分かっている。俺達も駆けつけたが、奴らを駆除するのに時間がかかりすぎた。それでも、トモキだけは助けられた。どうやら覚えていないようだがな」
 俺を助けた?
 ふと、あのとき噂になった烏人間の話を思い出す。
「なぜ、じいちゃんを助けてはくれなかったんだ」
「悪いな。俺達は向こうの大人に干渉することができん。子供とて何人助けられたか。こじ開けられた門を閉めなければ被害は拡大する。それへの対処が優先された。どうしようもなかったんだ」
「ねえ、コルヴォ。あの時の門番は今も務めているの?」
「いや。彼らはここを楽しむことができなかった。それは彼らを選んだこちらの責任でもあるが、あの件の後すぐ交代したよ。その後もう一度代替わりしている」
「そう」
 彼らは俺に詳細を説明してくれる気はないようだった。俺も大して深く知りたいと思うわけでもなく、ただ、『門番』と『鍵』という言葉だけが頭の中でガンガンと記憶の扉を突き続ける。
「トモキとサヤは、俺が知る中で最高の門番だった。お前ら程この世界を楽しんだ奴らはいない。だからグルヌイユ姫もお前たちに惹かれたのだろう」
 コルヴォの言葉に便乗して、ようやく俺は口を開いた。
「門番とは、なんだ」
「ああ。トモキは覚えていないのだったな。文字通り門の番人。お前らが今通ってきた門の鍵を強固にする役割だ。奴らの力が増す夏の間だけ、向こうの世界の力を借りて鍵の力を強める」
「奴ら」が決して良いものではないというのは直感で分かった。季節が向こうと対応しているということも。
「コルヴォ。小難しいことを説明する必要はないわ。簡単なことよ。私の鍵を使ってこちらの世界に来て、ただ楽しく遊んでいればいいの。そして友樹の鍵を使って向こうの世界に帰る。私達がしていたのはそれだけよ」
「俺の鍵って――」
 口を開いた時、ずいぶん近くで花火の音が聞こえた。かすかにマーチングバンドの演奏も聞こえてくる。
「そろそろだ」
 知らぬ間に俺のすぐ隣に立っていたクロウが、厳かな口振りでそう言った。

 王女はやはり蛙だった。後ろ足で立ち上がり、綺羅びやかなドレスに身を包んでいるけれど、それは蛙以外の何者でもなかった。俺はその姿にかすかな胸の疼きを感じて眉をしかめる。
「やっぱり人間より蛙のほうが好きなの?」
 沙弥は、あの時屋上で見せたのと同じ、縋るような眼差しを俺に向ける。馬鹿じゃないの、とは言えなかった。
 ラッパの音が鳴り響き、太鼓が軽やかにリズムを刻む。あたりを舞う色とりどりの小鳥は美しい鳴き声でさえずり、虫たちが透きとおるような音色を奏でる。賑やかな行進は目の前を通り過ぎ、王女がこちらに気付くことはなかった。俺は取り残されたような気分になり、遠ざかるマーチングバンドの後ろ姿をじっと目で追い続けていた。
「楽しくないのか」
 クロウは俺の顔を見てそう言った。
「寂しいよ」
「そうだな。お前らはそろそろ大人にならなくてはいけない。こちらの世界で夢想しているよりも、自分の世界を生きなくてはならない」
「なぜだ」
「そういうものだ。お前らは現実の世界と繋がらなくてはならない」
「この世界とはもう繋がらないのか」
 クロウがどこにあるのか分からない鼻でフッと笑った。
「繋がりが切れることはない。お前が忘れなければ。ただ干渉できないだけだ」
「それは、寂しいな」
「お前の世界の何かが、その寂しさを埋める。それが大人になるということだ。繋がれ。お前の世界と」
 不意に俺の腕に何かが絡みつく。それは、見るまでもなく沙弥の柔らかな肢体だった。
「もうここには来ないわ。私たちはそろそろこの呪縛から逃れないといけない。けれど、ずっとあなたたちと共にある。グルヌイユと、この世界と共に」
「俺も、サヤとトモキと共にあろう。お前らの世界と共に」
 クロウは嘴を大きく開いて「クワァ」と一声鳴いた。



〈繋がり〉

「サヤ、お前の鍵はどうした?」
「こっちに着いた時に大地に返したわ。もう必要ないから」
「そうか、そうだな」
 沙弥とクロウの会話はやはり俺には理解できなかったが、理解する必要もないことだった。俺はぼんやりとこの世界のことを思い出し、とは言ってもこの洞窟のことぐらいだが、自分がこのあとすべき事を何となく理解した。俺は、――俺達は、帰らなければならない。俺の鍵を使って。
 洞窟の前でクロウとコルヴォに別れを告げ、俺は沙弥と手を繋いで生暖かい洞窟の中に足を踏み入れた。来た時は気づかなかったが、洞窟の中はかすかに脈動している。湿気が体にまとわりつき、かといって俺は沙弥の手を離すことなく、むしろ強く握りしめて彼女の体を引き寄せた。自分の呼吸が速まっていくのを感じる。俺は、何かと繋がろうとしていた。それはこの幻想的な世界ではなく、もっと生々しく、もっとドロドロとした痛みを伴う何か。そして、その先に待つのは――。
 目を凝らしてようやく扉と分かる二枚の大きな岩の前に立ち、繁華街の裏口でしたのと同じように、沙弥は左手を差し出す。俺はその手のひらに自分の右手を合わせ、岩に空いた鍵穴に「鍵」と呼ばれるものを挿し入れた。
 岩に触れた手に力がこもり、俺は体の中から溢れそうになるエネルギーをかろうじて制御する。息が荒くなり、首筋を汗が伝った。体が熱い。そう思ったとき目の前が真っ白になり、再びまばゆさに手をかざす。
 徐々に収まる光の中で、俺はこれからたどり着くであろう場所を予測し、乱れた着衣を空いた手で直した。右手はまだ沙弥と繋がっている。

 その暗闇は目を慣らすまでもなく、あの裏口だとわかった。繁華街の路地特有の、食べ物なのかゴミなのかよく分からない匂いが鼻につく。
「友樹、しようか」
 暗闇の中、沙弥の声が聞こえた。妖しくくびれた体のラインが分かるくらいに、彼女と俺は密着している。高ぶった息を整えながら俺は口を開く。
「馬鹿じゃないの」
 肩口あたりに「フッ」と笑った彼女の息がかかる。それを頼りに俺は彼女の顔を手探りで探し、指先に唇を発見した。
「なぜ、田村としなかったんだ」
 彼女はもう一度笑い、その息が俺の指先にぬるい湿気をまとわせる。ずいぶん無粋な自分の言葉に、俺は少しだけ後悔した。
「したら、向こうに行けなくなるもの」
「――――ああ。そうか」
 言われてようやく理解した。俺も沙弥と同じだったのだ。――大人になったら、あの世界に行けなくなる。頭の中の引っかかった抽斗の中に、それはこびり付いていたのだろう。俺は無意識に女たちと関わるのを避け、何かを恐れるように大人になることを拒否していた。
「私たちは、そろそろこちらの世界と繋がらなければならないわ。こちら側で繋がれば向こうへの入り口は閉じてしまう。それは仕方のないことよ」
 沙弥は「ね」と薄ぼんやりとした暗がりの中で微笑み、閉じた唇で俺の指を咥える。俺はその指を外し、彼女の顔から手を離した。
「友樹は、まだ大人になりたくないの?」
「大人とはなんだ?」
「他人を受け入れられる人よ。他人の欠けた部分を補ってあげられる人のことよ。あなたはそうなりたくないの?」
「他人とは誰のことだ」
「さあ? 分からない。全ての他人を受け入れる自信なんてないし、きっと、受け入れる必要もないわ。私が補ってあげられることもあるし、そうでないこともある。それはやはり、仕方のないことよ。――でも友樹のことを受け入れたいと思っているのよ。私は寂しかったの。あなたが私を覚えていないことが、悲しかったのよ」
「俺はまだ沙弥のことを思い出していない」
「それでもいいの。これから、私を知ろうという気にはならない?」
 ガラン、とドアベルの音が聞こえてきた。路地の向こうを、同窓会で見かけた面々が通り過ぎて行く。どの女も似たような化粧をし、似たような笑みを浮かべていた。この目の前の不躾な女を除いて。
「友樹が蛙を選ばなくてよかったわ。私はまだあなたに干渉する機会がある」
 沙弥は俺の前を通り過ぎ、同窓会の群れに加わろうとした。俺はその腕を掴み、強引に彼女の体を引き寄せる。
「沙弥に干渉してもいいのか?」
 彼女の顔が不意に近づいて唇が重なる。その瞬間、背負っていたリュックがほんの少し軽くなった。例のアルバムのことを思い出し、俺はその場でリュックを開ける。
「ない。向こうの世界の、あのアルバムがない」
 俺は焦って、救いを求めるように沙弥を見る。
「もともと夏にしか現れないのよ。大人になってしまえばもう見ることはできない」
「なぜ? 俺達はキスしかしていない」
「繋がるのは体だけとは限らないでしょう?」
 馬鹿じゃないの、と沙弥は呆れたように肩をすくめ、くすりと笑う。彼女の眼差しに、俺は心のどこかがじわりと埋まっていくのを感じていた。


〈了〉

りんりんりん

 あの時はね、怖いっていうよりも、ああやっと解放されるって思ったのよ。

 隣りに座る女の子は、そんなふうに言ってため息をつき、手を伸ばして僕の目の前にあるフライドポテトを3本抜きとった。それをまとめて口の中に突っ込み、窓の外に目をやったままモグモグと頬を動かしている。
 
 郊外にあるショッピングモール、そのなかにあるファーストフード店、の二階にある窓向きのカウンター。深夜0時前。そこに僕と彼女は隣り合って座っている。

 左右に人影はない。

 背後からも人の声はしない。

 一階から、自動ドアの開く音が聞こえた。いらっしゃいませー。数人の店員の声が重なる。窓の外は真っ暗で、車のヘッドライトが、モールの駐車場を我が物顔で突っ切っていった。

「それで、君はその熊に食べられちゃったわけ?」

 僕はそう言って数本残っていたポテトを立て続けに口に運んだ。ちらと見ると彼女は恨めしそうな目をこちらに向けている。食べられちゃったのは私じゃなくてポテトよ、そんな気持ちを込めて彼女はため息を吐いたようだった。彼女が話しはじめて、これで36回目のため息になる。僕はそのあいだ、彼女の死に様を15くらい聞いた。

 流行り病で、全身からどろどろに血が流れるの。蛆虫がもぞもぞと動くのよ。熱で朦朧としてるし、息をするのもしんどい、ぴくりとまばたきをするのさえ苦痛だった。

 彼女がそう言ったのは、僕が半分くらいになったチーズバーガーにかぶりついた時だった。彼女はズズッと音をさせてコーラを啜った。

「あまり食事どきに聞く話ではないね」

 そうね、と彼女は笑い、またコーラを啜った。

「死ぬのが嫌だとは思わないのよ。ただ死ぬときに痛いのとか、苦しいのは勘弁して欲しいの。もしかしたら楽に死ねたときもあったのかもしれないけれど、覚えてるのは全部そんな苦しい死に方ばっかり。年とって山に捨てられて、寒くてお腹もぺこぺこで、最後には熊に腹を食い千切られるとか。逃げ遅れて木戸の下敷きになって、煙で目も開けられない、熱気だけが近づいてきて、這っても這っても、足が千切れるくらいに懸命に力をいれてもどうにもならなくて、喉は熱くて声も出ないのに、絶叫したのよ。それとか、理不尽に刀で切りつけられて、それが、ひと気のない夜中の話で、夏場で虫はたかってくるし、さっさと意識が切れればいいのに、朝方、空が白んでくるまで野ざらし。烏かなにかに突かれて、たぶんそこらへんで死んだのかな。とにかく苦しい記憶しかないの。でもそれって生物の本能みたいなものよね」

 彼女はコーラの入った紙コップのストローを咥えたけれど、スコー、スコーと液体の枯れ果てた音がするだけだった。不満げに口を突き出して、彼女は紙コップを振り中身を確認する。ザラザラと氷の溶け残った音がし、彼女はその蓋を開けて口をつけた。

 がりがりぼりぼり。

 彼女に噛み砕かれた氷は、飲み込まなくてもそのまま喉を通っていくようだった。

「空腹は嫌いなの。姥捨て山の記憶が戻るから」

 僕は彼女の代わりにため息をついて、手にしていた照り焼きバーガーを差し出した。三分の一ほどしか残っていないそれを、僕の歯型のついたその食べ物を、彼女は躊躇いもなく受けとって、そして満足気にかぶりつく。

「あなたって優しいのね」

 それはどうやら「ありがとう」という意味らしかった。彼女の中には「ありがとう」という言葉はないらしい。

 深夜のファーストフード店の二階でただ一人チーズバーガーにかぶりついていた僕に、彼女は「隣りに座っていい?」と、それがさも当たり前のように声をかけてきた。客は僕しかいない。席はどこでも選び放題だ。僕は彼女にそう教えてあげる代わりに、首を回してぐるりと店内を見回した。ギィと椅子を引く音がし、彼女は「座ってもいい?」ともう一度口にしたけれど、その時にはすでにカウンターに頬杖をついていた。口の中のチーズバーガーを飲み込んで「どうぞ」とようやく僕が言うと、彼女は「あなたっていい人ね」と、まだたっぷり入っていたコーラをズーッと啜った。
 
 僕の食べかけの照り焼きバーガーは跡形もなく彼女の胃袋におさまり、彼女は氷をざらざらと口の中に含んでばりばりと噛んだ。ばりばりと音がするたび、彼女のお下げ髪がゆらゆらと揺れた。

「わたしね、きっとあなたのことはすぐに忘れてしまうわ。だって、あなたは嫌な感じがしないもの。隣りに座っていて、まるで空気みたいに居心地がいいもの」

「僕は君のことをすぐに忘れられる気はしないよ。だって、初めて会った女の子に、ただファーストフード店で隣に座っただけの女の子に、当たり前みたいに食べ物を取られる事なんてないからね」

「わたしのこと、不快に思った?」

「まったく思わなかった、とは言えないな」

 彼女はまた小さくため息をついたけれど、それは単に笑っただけなのかもしれなかった。 

「わたしはあなたをいい人だと思うけれど、忘れてしまう。あなたはわたしを多少不快に感じたけれど、忘れない。これって、なんだか理不尽な気がしない?」

 そうだね、と肯くと、彼女は「そういうことなのよね」とつぶやいて、残っていた氷をすべて口のなかに流し込み、顎を上げたまま紙コップの底を右手でトントンと叩いた。カリカリと軽い音が聞こえてきた。

「幸せな記憶だけだと、人間滅んじゃうのよ、きっと」

 彼女は意思のこもった口調でそう云い、じっと窓にうつる闇をにらんだ。りんりんりん、と鳴ったのは彼女のスマホで、画面を確認したその眉が不穏にゆがむ。押し殺すようなため息は、そういえば何度めだろう。

 ……うん、……うん。……分かってるって。明日はガッコ行くから。……いま帰るところ。……うん、先に寝てる。じゃあね。

「帰るね」

 彼女は出会ってから一番の笑顔で僕にそう言ったけれど、それは一番嘘っぽい顔だった。手を振って階段へとむかう彼女を呼び止める。ねえ。

「僕が忘れられないあいだは、君も僕のこと忘れないでよ」 

 振り向いたその顔はずいぶん幼く、はがれ落ちた笑顔もそのままに、彼女は階下へと消えていった。

〈了〉

羽と縄とバスタオル

 今日は特別な日だ――――

 タルトをこんな夜中に焼くなんて、という由香からのメッセージには「イミフ~」というスタンプが後に続いていた。
  外はざんざん降りで、思い立ったら猪突猛進なところがたまに顔を出すわたしは、ジーンズの裾が濡れるのもかまわず、学生向けのような安いワンルームマンションを出た。誕生日にもらった真っ赤な傘は、雨粒をはじいてバラバラと鈍い音を立てた。
 血管のなかにいるみたいだ。
 ふたり並んで一つの傘のなかに身を寄せ、(せい)はそんな風につぶやいていた。彼よりも十センチ背の高いわたしの、二の腕あたりをぐいとつかんで、聖は甘えるように顔を近づけてくる。わたしはちらりと周囲をみまわしたあと、傘をかたむけ唇を重ねた。
 記憶は、あまりにも鮮明だ。見上げる傘は夜の闇をうつし、わたしは隣に彼がいないことに安堵と、そして罪悪感をおぼえる。雨が降り、傘をひらくたびに、彼の声が聞こえる。
(よう)はひどいね」
 ごめんねと謝ることができなかったのは、そうするしかなかったからだ。聖からもらった傘を、わたしはなぜか使い続けている。風に飛ばされないように持ち手をぐっと握りしめ、ぼんやりと雨に煙る酒屋の看板をめざして足を早めた。ジーンズの裾はすでにぐっしょりと濡れている。 
 その酒屋はグローサリーコーナーが充実していて、輸入品のおしゃれなパッケージをながめるだけで気持ちがあがる。以前はワインとチーズくらいしか買わなかったけれど、最近はじめたアルバイトの影響でお菓子作りに目覚めつつあり、果物の缶詰やドライフルーツ、ナッツの売り場もチェックするようになった。
 今日のお目当てはダークチェリーだ。サブレ生地とクレーム・ダマンドはすでにタルト型に敷き詰めて、ラップをかけた状態で冷蔵庫に眠っている。そのまま冷凍にして、後日チェリーを買ってから焼けばいいかと考えていたけれど、なぜか猪突猛進スピリットが発動してしまった。
 前へ、前へと、わたしは逃げているのかもしれない。
 こんな風に勢いで動くのは、最近では珍しいことではなかった。数ヶ月前、まだ居酒屋で聖と顔を合わせていた頃からは想像もつかない。
 自分の内面のどの部分が色濃く表に出てくるか、それはその時々で違うし、関わる人間によっても変わる。由香といるときの私と、聖といるときの私はまったくの別人だった。

 聖と出会ったのは一年半ほど前だった。
 バイト先の居酒屋に彼が新人として入ってきて、同じくバイトだけれど古株なわたしは、彼の教育係になった。聖は昼間にも別のバイトをしているらしく、二十五歳だというのに正社員のクチを探す気はないのだろうかと頭をかすめたけれど、同い年で十時間労働アルバイトをしている身では、特に深く突っ込むほどの疑問も感じなかった。
 小柄で華奢な体つきの彼は、その童顔な顔つきもあいまって学生アルバイトにしか見えなかったけれど、実際の学生と比べると、いつもどこか冷めた目つきをしていた。
 実家暮らしで両親と七つ年上のお姉さんと一緒に住んでいる彼は、なんの会話の折りか「自分の洗濯は自分でするよ」とぽろりと溢した。たしか、居酒屋とは別棟にある、洗濯機のまえでの会話だった。
「実家暮らしなのに? 何それ、おもしろい」
 くすくすとわたしが笑うと、その反応を彼は異様によろこんでいた。
「おもしろいって人、初めて。陽子(ようこ)さんの方がおもしろい」
 まだ出会って二週間ほどだったと思う。独特のしゃがれ声のあと息を漏らすように笑った彼は、「(よう)」と他のスタッフと同じように呼び捨てにし、ぐいとわたしの腕を引いた。キスをねだるように顔を近づけた彼は、強引にそうするでもなく、わたしを試すように小さく口角をあげる。「ねえ」とだけ囁いて彼は口をつぐみ、どちらかといえば高く、ビブラートがかかったような声の響きは、喉の震えが直接わたしの深部まで振動を伝えてくるようだった。わずかにかがみこむように彼の唇をとらえると、しがみつくようにギュッと腕がまわされた。このときわたしの胸にあったのは、性的な感情ではなく母性本能だ。けれどそれは、ある種の人間においてはたしかに男女の関係につながるものなのだろう。
 甘えたい。
 甘えてもらいたい。
 感情というのは、ひとたび回りはじめると行く先を自分の意志で決めることは難しい。ブレーキを踏むことすら不可能で、足を踏ん張ったところで流れはなかなか向きを変えることがない。その車輪が上るのか下るのか、重い舵はひとりではぴくりとも動かず、冷静になればまわりから差し伸べられた手にも意識を向けることができるのだろうけど、如何せん視線は一点に集中していた。
 狭窄した視野はすがるべきものを直感的に認識する。聖の冷めた眼差しにわたしが見たのは彼の闇で、そして自分自身だった。合わせ鏡のような彼に、闇を抱えるのは自分ひとりではないのだと、そのことに救いを感じた。
 聖とわたしは仕事終わりにファミレスに行き、ふらふらと街をぶらついたりした。つきあってと言われたけれど、受け入れることはなかった。彼は友達で、その頃わたしにはずっと好きな人がいた。それは聖も知っていることだった。
「まだあの人が好きなんだもん」と言うと、「(よう)もダメ女だよね」と聖は薄く笑っていた。
 私が想いを寄せていたのはアルバイト先の正社員だった。出会って三年近くになるその彼は、わたしの告白を「タイミングが悪かったね。もう少し前ならよかったのに」と気を持たせるような言葉であっさりと振った。そのくせ思い出したように電話をしてきては、もともとは店のスタッフだった恋人の愚痴をこぼす。
 どこにでもいるダメ男なのだろうけれど、それを引きずるわたしもただのダメ女だ。わたしが振られたという噂は批判的な色を帯びて店の女性スタッフのあいだに広まり、彼らの結婚が決まっても平然と彼と話すわたしに、女性スタッフの一部が陰湿な嫌がらせをしてきた。
 伝えるべき情報を伝えない、わたしが管理しているファイルを見つけにくい場所に移動する。正面切って文句を言っても「知らない」と言われればそれまでというような彼らの行為は、発散する場所もなく鬱々とした闇がからだのなかに蓄積していった。そんな女たちの行動に男どもは無頓着で、見かけは「サバサバした話しやすい女」だったわたしに、変わらず軽口を叩いてきた。そのなかには彼も混じっていて、「ホント、陽は男らしいよね」なんてケラケラと笑う彼に、わたしは傷つきながら「でしょ」と笑い返し、女たちは陰でひそひそと何か囁きあっていた。からだが傷つけられたりしないだけマシなのだろうと、わたしはもっぱら男性スタッフたちと話し、それがまた彼女らの顰蹙を買ったようだった。
 電話のやりとりは、彼が既婚者になった今でも続いている。
 報われない恋が聖のかかえる傷と同調したのか、それとも人間関係に疲れ果てたのか、自分の価値なんてごみくずだと思っていたわたしは、躊躇うことなく聖の前で脚を開いた。
 体なんてただの物質。さみしさは人肌を求め、それは聖も同じだったのだろう。
「セックス依存症」を公言する聖にはわたし以外にも女がいて、わたしも聖も、からだを重ねたから恋人同士だなんてちらりとも思わなかった。
「『17歳のカルテ』観た?」と問われ、レンタルショップで借りた。「よかったでしょ」と聞いてくる聖に「うん、よかった」と答えた。
 感想みたいなことを言葉にすると価値観の違いを浮き彫りにしてしまいそうで、わたしはそれ以上の言葉を続けることはなかった。
 なんとなくでいい。なんとなくお互い病んだものを抱えている。そんな世界に浸っていたかったのは私だけで、聖はただそこに沈んでいた。馬鹿なわたしは、ちっとも分かっていなかった。
 ある夜、はじめて訪れた聖の家の玄関口で、彼の母親と顔をあわせた。
「あら、背が高いのねえ」
 世間話のようにするりとやり過ごし、母親はわたしと視線をあわせることなく下駄箱に手をかける。この人は、何人の女にこんな風に声をかけたのだろう。そう考えて少しだけ心が痛くなった。他の女に嫉妬したわけじゃない。
「部屋行くから。放っておいてくれていいよ」と、わたしを紹介するでもなく当たり前のように階段をあがっていく聖の背中にむけた母親の、その笑顔に違和感をおぼえた。不自然ではない。けれど穏やかなはずのその笑みは、腫れ物を刺激しないようにそっと距離を置いているように見えた。
 恋人ではない私は彼の実家でお風呂を借り、彼のベッドの上でからだを絡ませた。必死で声を押し殺すわたしに、
「声出して。亜紀(あき)は仔犬みたいな声だよ」
なんて言いながら、情動というよりも実験か観察でもするように、ひとつひとつの動作のあと、わたしの反応を確かめては満足げな笑みを浮かべていた。
「亜紀」とは聖の元カノだ。彼らふたりの関係が家族公認であるのは確認するまでもないことで、「別れた」と云うわりに亜紀は頻繁に聖の家に出入りしていた。躁鬱でクリニックに通っている聖を亜紀は車で送り迎えし、それは別れた今でも続いている。
 亜紀がわたしのことをどう思っていたのか、彼女は聖の新しい恋を邪魔するつもりはないようだった。なんとなく三人で飲みに行ったりもしたし、「三人一緒に暮らせたらいいね」なんて聖は夢見がちに口にしていたけれど、きっと本気でそう思っていたのだろう。
 傷は舐めあっているうちは心地いい。けれど癒えた傷がまだそこにあるようなふりをして、聖の傷を延々と舐め続けることに、わたしは少しずつ疲れはじめていた。
 治りきって瘡蓋もはがれた傷痕を、「ほら私も傷ついてるの」と構ってもらいたかっただけだ。子どもの嘘泣き、悲劇のヒロイン、なんでもいいが、端から見ればその嘘はきっと一目瞭然で、ヒロインを演じることに疲れて、ようやくわたしは周りの声が聞こえるようになった。世界は聖とわたしだけではないと、そんな当たり前のことを知ってしまった。
 聖の傷は生の証。
 傷が癒えてしまったら、聖はこの世から消えてしまう。彼の傷は何度も何度も上から引っ掻くようにして、いつまでも生々しい内部の血肉が露出している。自身の存在がたしかにそこにあるということを、彼はその痛みで確認している。
「腕切っちゃった」
 そんな電話が夜中にかかってきたとき、わたしがパニックになりながら電話したのは亜紀だった。ミミズ腫れのような傷痕が彼の腕には幾筋もあったけれど、それは彼の弱さであり、その弱さこそが聖と私を結んでいると思っていた。
 腕を切り、彼が私に突きつけたのは何なのか。生の自分を見せつけて、寄るのか離れるのか、わたしはそのどちらも選ぶことができず、ぬかるみに嵌ってようやく自分の現状に目を向けた。
 寄ればそれは終わることなく、戻ることもできない。離れ、聖の視界から立ち去れば、彼は何かにすがるだろうか。すがるものを見つけられなったら、いや、すがるものを探すことすら放棄してしまったら。
 一緒に抜け出すことができるかもしれないと、わたしはそんなことを思っていた。救ってあげられるかも、彼の傷もいつか癒えるかも。それは幻想か理想か、向かうべき先なのか。亜紀はただ見守っていた。
 わたしが「傷」と言って見せびらかしていたものは、次第にわたし自身の足枷となっていった。上昇志向や好奇心はわたしの内にあり、一時それが鬱々とした感情のうねりに飲まれていただけで、時間を経て当たりまえのようにそれらが顔を出しはじめると、足を縛る枷から逃れることを考えはじめた。
 気持ちが楽になるよと聖から渡された向精神薬に頼ることもなくなっていたし、浮上していく感情と、まどろんでいた世界が次第に乖離しはじめ、わたしは出口のないぬかるみから物理的に距離をおくことにした。
「夜の仕事はキツイから、辞めることにした」
 居酒屋の面々から送別会に花束を贈られ、聖はふたりきりになりたがったけれど、朝までオールでいつのまにか聖の姿はなくなっていた。マンションに帰った私はポーチにいくつか残っていた向精神薬をゴミ箱に捨てたけれど、それは多分儀式のようなものだったのだ。
 聖との関係が完全に切れることはなく、そして、わたしの気持ちはどんどん彼の世界から離れていった。それは新しい人たちとの関わりだったり、お菓子作りという新しい興味だったり、そのうちあの世界に戻ることが怖くなり、聖からの着信を無視することが増えていった。
「どうして亜紀からの電話には出るの」
 聖の着信を無視した直後にかかってきた亜紀からの電話、そこから聞こえてきたのは独特の振動をもった聖のあの声で、その姿が目の前になくても彼の喉仏が震えているのが見えた。それが私の深部に届き、後悔と恐怖が急速にわたしの体を支配していく。
 ざっくりと彼の心をえぐったのはわたしだ。あいまいだった拒絶がそのとき明確に世界にあらわれ、自分が引いたその線が今にもこの身に食い込んできそうだった。聖の心にはもう深く食い込んでいるはずなのに、彼は息の漏れるような音をさせて笑っていた。
 呼び出されたカフェで、聖と亜紀と、何度か顔を合わせたことのある「聖の親友」を名乗る(おき)とテーブルを囲み、彼らはみな「陽はひどいね」と口々に言って笑った。「聖のプリン食ったのお前だろ」くらいの軽いノリで、なんとなく私はその場に馴染んでしまったけれど、薄っすらと膜が張ったように、彼らとの距離を感じていた。彼らもそれは分かっていたのかもしれない。亜紀のように寄り添いつづけることは、わたしにはできなかった。聖と沖のように分かりあうことも無理だった。沖の過去が聖。沖は過去との(はざま)にいる。
 

 買ってきたダークチェリーの缶詰をあけ、汁を切ってから仕込んでいたタルト生地の上にちょんちょんと置いていった。
 予熱完了を知らせる電子音が鳴り、オーブンのスタートボタンを押してから、ほうっと一息ついてリビングのソファに身をあずける。ハンガーに吊り下げたジーンズの裾は濃い色をしていて、除湿機からの送風でゆらゆらと揺れていた。
 なんとなしにテレビをながめていると、タルトの焼ける香ばしいバターの匂いが部屋のなかを埋めつくしていく。時刻は午前一時をまわっていたけれど、一人で暮らしているわけだから、誰に迷惑をかけることもない。タルトは焼き上げてそのまま朝まで冷ましておけばいい。この時刻ならそろそろ厨房の片付けをはじめるころだろうかと、ふと前のバイト先のことを思った。
 夜中に一人で起きていると、どこかで同じように活動している誰かのことを考える。闇の恐怖というのはたぶん遺伝子に刻み込まれていて、そこから逃れるために人肌を求めるのは防衛本能のようなものだ。けれど、今のわたしに温もりを恵んでくれる男のあてはなかった。
 聖はまだ働いているだろうか。それとも薬と一緒に缶チューハイを飲んだりしているのだろうか。彼の肌に最後に触れたのは、もうずいぶん前のような気がする。
 焼き上がりまでにはまだ時間があるけれど、わたしは匂いに誘われるようにオーブンをのぞきに行った。表面は焼きあがりつつあるけれど、まだ生地が白っぽい。柔らかくなった生地は、チェリーを飲み込むように中に沈めていく。
「おいしくなぁれ」
 そんなふうに歌うカフェ店長の髭面を思い出した。眼鏡にふっくりとした体つきの、中年のおじさんだ。「陽ちゃん、背ぇ高いなあ」と、仕事終わりに飲みに行くとハグを求めてくるセクハラ親父は、まわりも認める愛妻家だった。誰でもウエルカムなその人との布越しの抱擁は、わたそのなかの何かを溶かしていった。それが聖の世界との膜を厚くしていく。
 亜紀から電話があったのはタルトが焼きあがったほんの少しあとだった。今更のようにジーンズに匂いがついてしまうことに気づき、眠気の侵蝕するあたまで「もういいや」と数枚のタオルと一緒に洗濯機に突っ込んだとき、キッチンから着信音が聞こえた。時刻は深夜一時半。
「陽ちゃん、聖が死んじゃった」
 キャパシティーオーバーになると人は笑うのだと、このときに知った。自分の口角がひくひくと震えながらも上を向いていることにどうしようもなく嫌悪を感じながら、まともな人間ならここでなんて返すべきなのだろうと必死で考えた。なんと言ったかは覚えていない。

 緊張でハンカチを握り締めながらセレモニーホールにたどり着くと、ロビーには同年代の女がそこかしこで涙をぬぐっていた。親戚らしい年配の男性の「女の子ばっかりだなぁ」というひそひそ話に、わたしはなぜか緊張が和らいだ。
 亜紀は葬儀のあいだずっと聖の家族の側にいて、迎える側として女たちに控えめに声をかけていた。
「陽ちゃんも来てくれてありがとう」
 その言葉がしっくりと馴染んでいて、わたしは亜紀を差しおいて涙を流してはいけないと思った。けれど、スクリーンに聖の写真が映し出され、焼香する沖の背中が震えるのを見ると、するすると涙がこぼれ落ちていた。
 数いる女たちのなかにわたしは埋もれていたけれど、火葬場へのバスを見送るとき「陽ちゃんも行こう」と亜紀に引かれた手が、聖にとってわたしはホールに残された女よりも近かったのかと思わせた。それはどんぐりの背比べのようなもので、やはり埋もれた女でしかないと気づいたのは、それまで涙を見せず参列者や家族に気遣いを見せていた亜紀が、火葬炉のまえで棺にすがりついて泣き叫んだときだった。その姿にまわりからすすり泣きが起こり、そこにはわたしの嗚咽も混じっていた。
 マイクロバスがセレモニーホールに戻った時すでに日は暮れかかっていて、「これから精進落しだけど」と語尾を濁した亜紀に「帰るね」と返した。どんな顔をしていいか分からないまま、亜紀の疲労をねぎらうよう小さな笑みを口の端につくると、彼女はじゃあと踵を返して聖の母親のもとへ小走りに向かい、あたりまえのように家族のなかに溶け込んでいく。亜紀の目元は少しだけ赤く腫れていたけれど、あの激しい感情は火葬場に置いてきたのか穏やかで気怠るげな笑みを浮かべていた。
 わたしはまっすぐマンションに戻る気にもなれず、近くのショッピングモールへ向かった。喪服姿の自分とあまりにも日常の風景。空間がねじれたような感覚を覚えながら婦人服売り場をぶらぶらと歩いていると、鞄のなかでスマートフォンが鳴った。非通知の文字に警戒しながら電話を受け、その声に息が止まる。
「こんなとこで何してんの」
 空間がねじれているのか、わたしの頭の中がねじれているのか、それとも時か。鼓膜を震わせるのは独特のビブラートがかかったあの声で、わたしの思考が停止しているうちにその声は同じことを言った。
「何してるの?」
「あの、……どちらさまですか」
 ザザと雑音が混じる。
「誰って、分からない?」
 息の漏れるような笑い声が聞こえてくる。その名前を、わたしは口にすることができなかった。
 怖かったから? ――そうかもしれない。聖なのかと問うて、否定されることも肯定されることも、どちらも受け入れられなかった。だから、ただ「誰ですか」と重ねて言い、そのうち雑音が大きくなって通話は切れた。
 後悔した。なぜ問わなかったのか。もう一度聖と言葉をかわせるなら、それが幽霊だろうがなんだろうが話さなければいけなかった。
 スマホの右上に表示された電波状況を確認しながら婦人服売り場をぬけ、階段を降りた。左にベーカリーと、真正面は出入り口。電波は良好で、わたしは再び着信音が鳴ることを祈りながら自動ドアを駆け抜けた。
 外はすでに真っ暗だった。空には星が出ているようだけれど、建物の明かりで霞んでいた。
「陽」
 不意にかけられたその声に振り返ると、立っていたのは喪服姿の沖だった。
「沖。こんなとこで何してんの?」
 そっちこそ、と返す沖は、わたしと同じく真っ直ぐ家に帰る気になれずここに足を向けたらしかった。せっかくだからお茶でもしようかと腰を落ち着けた喫茶店で、沖はわたしの知らなかったその日の出来事を教えてくれた。
「今日は特別な日だ、ってラインが来たんだ」
 沖はわたしにスマホのメッセージ画面を見せる。聖のその言葉のあとには、
「何の日?」
「あとで教える」
「もったいつけんな」
と続いていた。
 聖の部屋の惨状を最初に目にしたのは彼のお姉さんで、それは通常に比べると惨状とはいわないのだと沖は言った。
「ご丁寧におむつはいて、ビニールシートにバスタオル。縄かけても足がついてたみたいで、よっぽど意思が強くないと死ねないんだってさ。居酒屋のほうはしばらく休みをとってたらしいし、昼の仕事の方は葬儀の今日が定休日。一人で飛び立つにしても、もっとさ、後を濁していってもいいのにな」
 はは、と笑った沖の声は乾いていた。お互い思考はぼんやりとしていて、わたしは雰囲気に流されるように、さっきの電話のことを話した。あの電話がわたしと沖を引き合わせたように思えたから。
 聖はきっと葬儀場から沖と一緒にやってきて、そうしたらわたしがたまたま居たものだから、あんな風に電話をかけたのかもしれない。そんなことを口にすると、沖は「かもね」と否定するどころか妙に納得した顔をしていた。
「お疲れさまって、言ってやりたい」
 そうだね、とは口にできず、わたしはただ小さくうなずいた。聖が生きていくことにどれだけ翻弄され疲弊していたのか、それでも生き続けた彼に「お疲れさま」と声をかけていいのは沖と亜紀だけのような気がしていた。
 昼夜のアルバイト。帰りには飲みに行って、ふらふらと街を歩く。彼の心のうちはそんなありきたりな生活のなかでひどく激しくのたうちまわり、わたしはその表層をなぞっていただけだ。
「陽も言ってやりなよ、お疲れって。たぶんそこらへん飛んでるから」
 お疲れ、とつぶやいたら唐突に涙があふれてきた。なに泣いてんだよと言う沖も袖口で涙をぬぐっていて、もしかしたら単なるイタズラだったかもしれないその電話に、不本意にもわたしは少し救われてしまった。だから、この電話のことは沖以外の誰にも話さなかった。聖からの電話だと信じたかったから。誰にもそれを否定してほしくなかったから。

「その電話、沖って人がかけたんじゃないの?」
 由香の言葉に呆然となったのは三十代も半ばになったある夜の居酒屋でのことだ。亜紀とも沖ともあれ以来すっかり疎遠になり、なぜか由香とだけはだらだらと交友が続いている。
 聖が腕を切って以来、わたしは安易に股を開くことも心を開くこともなくなり、気づけば独り身のまま、恋愛とはほど遠い生活を送っていた。それは薄い膜に覆われた穏やかな日々で、ただ心のなかに聖と過ごした時間が小さな塊のように居座っていた。あの頃好きだったあの人は今どこで何をしているのやら、いつのまにか意識にのぼることもなくなっていた。
「でも、沖はわたしの番号知らなかったし、それに声が……」
 つい必死で言い返したわたしに、由香は「そっか」とあっさりうなずき、持論を押しつけてくることはなかった。
「もっと早く打ち明けてくれたらよかったのに」
 十年近くの時を経てようやく言葉になった聖との日々。
 頬杖をつき、沈黙の十年に「もう」と不平をもらす由香の左手の、少し前まで薬指におさまっていたリングは今そこにはない。「お互い様じゃん」と視線をそこに向けると、まあね、と由香は宙に視線を泳がせた。
 飲みかけの中ジョッキをチンと合わせ、「お疲れ」と何に向けたのかも分からない言葉に、わたしはまた救われたような気がした。

〈了〉


※本作は自殺を肯定する意図のものではありません 

海の歌〈波音とエンジン音〉

「……しょっぱっ」
 そう言って口元を拭う僕を、彼女はクスクスと笑いながらチラリと見て、そのあとザブンと漆黒の海の中へと一瞬の躊躇もなく潜る。ゆらゆらと揺れる海面は、雲間から覗く満月の光で優しく照らされていた。
 あまりにも長いあいだ潜り続ける彼女に、出会った頃は溺れてしまったのではないかとずいぶん狼狽した。あのとき、兄貴と二人で、服が濡れるのも構わず夜の海へと飛び込んだ。
 途方にくれて呆然と立ち尽くす僕と兄のちょうど真ん中に、突然ザブっと顔を出して、二人の顔を交互に見る彼女の顔は、僕らの心配なんかまったく気づいてないようだった。
 そしてまた今夜も、海の中で呼吸しているのかと思うくらい静かに僕の足元をスルリと泳いで、少し離れたところで半身を海の上に出した。砂浜の向こうを走る国道を見つめる彼女は、僕には一瞥もくれず波打ち際へと歩いて行く。
「今日は、兄貴は来ないよ」
 その言葉に、彼女はひどく悲しそうな目で僕を見返し、うつむいた彼女の瞳からポタリと雫がこぼれ落ちる。雫は小さな真珠のような玉になって、ぽとんと海に落ちた――ように見えた。
 真っ白のはずのワンピースは彼女の体にぴったりとはりついて、下着すらつけていないその美しいラインをくっきりと闇夜に映し出している。僕は彼女の次の行動を予想して先に海からあがり、岩場にかけたバスタオルで体を拭いて服を着た。
 いつもどおりなら、僕の背中の向こうで彼女はワンピースを脱ぎ、それをギュッと絞ってもう一度袖を通す。僕は彼女の見つめていた国道に目をやり、今ごろこの美しい彼女ではなく別の女性を抱いている兄のことを思った。
 ツン、と肘を突かれて振り向くと、絞ってシワシワになったワンピースを纏った彼女がそこに立っている。
「花火もってきたんだけど、する?」
 僕の言葉に彼女はキラキラと目を輝かせて、急かすように僕の手を引いた。
 両手に花火を持って、くるくると回る彼女の姿は、海に捧げる祈りのように見えた。彼女の願いが叶えばいいと思う。
「ねえ」
 そう声をかけると、両手を広げたそのままの姿で彼女はピタリと動きを止めて、問いかけるように首をかしげる。
「いつも、兄貴を待ってるの?」
 その質問の意味が分からないのか、少し考えるように彼女は眉をしかめて、それからフルフルと首を横に振った。そのあと、消えかかった花火の片方を僕のほうに向けて、それからもう一方を車の走る国道へと向ける。そして、ニッコリと無邪気な笑顔で僕を見た。
「なんだ。僕のことも待っててくれてるの?」
 彼女はこくこくと首を上下させて、いつのまにか消えてしまった自分の手の中の花火に気付くと、急に泣きそうなほど淋しげな顔をする。それからタタタッと僕の近くに駆け寄って、おねだりをするように僕の顔を見上げて服の裾を引っぱった。
 間近で見る彼女の濡れた髪は月光に照らされて妖艶な輝きを放ち、あどけない仕草とは裏腹にその瞳は全てを見通すような深遠な光をたたえていた。
 手の中のライターがぽとりと砂浜に落ちて、僕は彼女の頬を包み込むように首元に両手をそえる。ひんやりとした髪の感触と、温かく脈動する肌のぬくもり。彼女は不思議そうに少し首をかしげて、僕はその瞳に吸い込まれるように、少しだけ開いた彼女の唇に僕の唇を重ねた。
 そっと顔を離すと、彼女はやはりまだ不思議そうに僕を見つめていて、それからくすっと笑う。くすくすと笑いながら、花火も持たないまま泳ぐように滑らかに踊り出した彼女の体から、何かキラキラとしたものが夜の浜辺に飛び交い、その美しい何かは月の光に導かれるように空へと舞い上がっていく。
 ヒラヒラと舞い上がるその一片を、ホタルをつかまえるように優しく両手で包み込み、そっとのぞきこんだ。それは、虹色に光る透明な鱗のように見えた。その光を確かめるように両手を広げると、全てが幻だったかのように、もうそこには何も存在していなかった。
 僕は少しだけ目を離した隙に、鱗とおなじように彼女も消えているような気がして慌てて顔をあげると、あいかわらず彼女はそこに立って僕のことをじっと見つめている。ほっとした僕に彼女はニコリと笑いかけると、一つずつ発音を確かめるように口を形作り、三文字の僕の名前を口にした。
 初めて聞く彼女の声は、少しかすれていたけれど、人魚の歌のように美しく心地よかった。それから彼女は思い立ったように波打ち際へと駆けていき、そのまま海へと身を沈める。五つも数えないうちにザバッと水しぶきを上げて顔を出すと、驚いたような顔で苦しげに息をし、いつもと違う彼女を心配して服のまま海に入った僕の顔を見て突然ケラケラと笑い始めた。
 よく分からないまま彼女のそばまで近づくと、目尻を拭った彼女はこれ以上ないくらいの親しみを込めた笑顔で僕の胸に抱きついて、ひとこと
「しょっぱい」
そう言ってからまた「ふふっ」と可笑しそうに笑う。
 彼女の笑顔の前では全ての疑問が些細なことのように感じて、僕はギュッと彼女を抱きしめ、その唇にもう一度キスをした。
 国道を走る車のエンジン音と絶え間なく響き続ける波の音が、二つの世界をつなぐように僕らの周りを覆いつくした。


〈了〉

くじら潮流音


それは雲
それは霧
それは、僕にしか見えないくじら

くじらは撓り
海へとダイブする。

 カーラジオからはビーチボーイズの「ココモ」が流れていた。音はまどろむように耳をかすめ、夜通し運転しつづけた体に心地よく馴染む。
 暁の空は毒々しいコントラストを描いている。青紫と混じりあう橙赤色。そして幾重にもたなびく筋状の雲は、夜の名残なのか暗く濁っていた。
 半分ほど開けた窓から冷やりとした潮風が吹き込んだ。雨上がりの路面は時折りジャッと水音をさせ、一日の始まりだというのに気分は安定して低空飛行を続けている。
 フィルターぎりぎりまで短くなった煙草を、吸い殻の隙間を探して灰皿に押しつけた。紫煙とは違う、紙の焼ける匂い。
 目についたガソリンスタンドに入り、吸い殻を捨てた。手のひらサイズの灰皿は、そのなかに四次元空間でもあるのか大量の吸い殻を吐き出した。
 自動販売機でコーヒーを買い、運転席のドアにもたれかかった。
 海の音。
 潮の匂いと、スニーカーの底をジャリジャリとざらつかせる砂粒。
 目の前の国道を、サーフボードを積んだ車が通り過ぎて行った。
 コーヒーを飲み干して運転席に乗り込み、ダッシュボードの底からジャック・ジョンソンのCDを取り出した。彼女が置きざりにしたCDは、車を買い替えた今も変わらずそこで眠っていた。カーオーディオのボリュームを上げ、再び国道を走る。

 彼女の素肌を知ったあの日、僕には『くじら』が見えなくなった。遠く遥か意識の外にある「そこ」への行き方を、僕は失ってしまった。
 彼女は僕を現実の世界へと繋ぎとめ、僕は大人になり、そしてくじらは消えた。
 きっとくじらはまだこの空を泳いでいる。けれど僕にはそれが見えない。
 きっとそこはまだこの世界にある。けれど僕はそこに行くことができない。

 灰色の筋雲はいつの間にか消え去り、青空とかすれた白い雲が広がりつつあった。対向車線の交通量が徐々に増えていく。日常の群れが僕の車とすれ違い、ベルトコンベアで運ばれて現実へと向かう。
 大きく右にカーブした上り坂のてっぺんで、展望駐車スペースに車を停めた。この坂を下れば僕が育った町へと辿り着く。どうやら、僕が町を出ているあいだに登坂車線が整備されたようだ。
 色褪せた木の柵に手をかけ、岩肌を伝って吹き上げてくる潮風は、低く唸りを上げる。僕は来た道をなぞるように海岸線に目を滑らせ、それから水平線をぐるりと見渡し、雲を見上げて深呼吸した。
 そこにあるのはただの雲だった。動いてはいるけれど風に流されるばかりで、意思の欠片など探さずともなかった。
 海に背を向け柵に背をあずけた。車の行き交う国道の向こうには緑の木々。視線をずらして向かう道の先に目をやると、遠く丘の上には三つの風車があった。

 くじらは潮を吹き、風車を回す。そして自らその流れに乗って天高く浮上する。町をすっぽりと覆い尽くしてしまうその巨体は、軽やかに雲の波間へと泳ぎ出し、青空に身を晒した瞬間、解き放たれたように海へとダイブする。

 そこへ行くにはくじらの背に乗らなければならない。

 どこか自分の深いところから湧き上がる確信は、いつの間にか僕自身への懐疑を伴うようになった。
 僕は、頭がおかしいのかもしれない。

 坂を下りてしばらく車を走らせ、コンビニに入った。アスファルトの駐車場には普通車用スペースが六台。左右それぞれの端に軽トラックとSUVが停まっていた。建物の裏手にはトラックが二台停まっている。
 僕は国道を入ってすぐの、歩道に近い場所に車を停めた。道を挟んですぐそこには砂浜が広がっている。目の前には海があった。
 横断歩道はなく、少し先に歩道橋が架かっている。形は昔と変わりないが、以前は陰気臭い薄青緑だったその歩道橋は、こげ茶色に塗り直されていた。歩道橋の下にあったバス停はなくなってしまったようだ。
 コンビニも様変わりしていた。目の前にあるのは街でよく見かける大手コンビニチェーンの青い看板で、窓ガラスの向こうには見慣れた店内の風景、馴染みのある制服。街なかのコンビニと違うのは入り口に風除室があることだ。たったそれだけの違いでも現実逃避のとっかかりにはなるかもしれない。
 ここに、僕の日常はない。
 そして今、息をしている。
 元々この場所には『西川酒店』という酒屋があった。小学校の頃、僕は歩道橋の下でバスを降り、酒屋の前でアイスクリームが売られているのを横目に見ながら家まで駆けて帰った。子どもの足で十分。じいさんの機嫌が良ければ小遣いをもらい、自転車で酒屋へ向かった。棒付きのアイスキャンディーを買い、歩道橋の海側の端で座り込み、背後に波音を聞きながら丘の上の風車をながめた。
 中学生になり、自転車で隣町まで通った。そのころには酒屋の看板は建物の端へと移動し、建物の四分の三が『コンビニエンスストア・ウエストリバー』という朝六時から夜十一時までのコンビニになった。
『西川酒店』の看板は、西川富二さんの通夜と葬儀の日程が有線放送のスピーカーから流れた一ヶ月ほど後には撤去された。西川富二さんの息子が経営するそのコンビニの脇には西川酒店の抜け殻が物置として残っていたが、今はそれもなくなっている。
 僕は中学生になっても歩道橋の端で空を見上げ、風車をながめた。そのころはじいさんの機嫌をうかがう必要もなく、月三千円の小遣いからアイスキャンディーではなくコーラを買った。
 くじらは深く潜るようにして僕のそばまで近づき、腹の底で地をかすめ、再び空へと浮上していく。時には風車を覆い隠すほど地表近くを這い、町を白く霞ませた。
 小学生の僕も、中学生の僕も、それをながめることしかできなかった。
手を触れるには、小学生の僕は背が低すぎた。
 手を伸ばすには、中学生の僕は臆病すぎた。
 その巨大なくじらが僕のいる世界のものではなく、目に見えない世界のものだと知り、小学生の僕はくじらの住むの世界に憧れた。
「くじらぐも」
 国語の教科書に載っていたその短い話は、大人たちが僕の言葉を空想で片付ける格好の理由となった。
「今度くじらさんが来たら教えてね。先生にも見えるかなあ」
 あの頃の僕からすれば十分にオバサンだった担任の先生は、今振り返れば駆け出しの新人だと分かる。僕は彼女の言葉と、その時まわりにいた同級生の言葉で、くじらが誰にも見えていないことを知った。あんなにも大きな体で街を覆っているというのに。
 僕はくじらの半透明の体を透かして見える、ゆらゆらと漂う空が好きだった。不意に差し込む陽の光が好きだった。黒くどんよりとした雨雲さえも、宝石のように輝いて見えた。
 見上げる空をくじらが通り過ぎるあいだ、深い海の底で巨大な生命の心音を聴くような、不思議な音が僕の鼓膜を震わせていた。中学の終わりの頃に観たNHKの教養番組か何かで、羊水の中で胎児が聞く音というのが放送されていた。くじらの音はそれに似ている。
 強い憧憬を抱きながら、僕は中学のあいだそれに手を伸ばすことを畏れた。未知なるそれが僕自身の脳に起因するものなのか、僕以外のところにある何かに拠るものなのか。どちらにしろ、本当のところを知りたくはなかった。知ってしまえばすべてが壊れてしまう気がした。
 高校生になっても、相変わらず僕は自転車で通学した。コンビニエンスストア・ウエストリバーを通り過ぎ、真っ直ぐ家に帰る。二十四時間営業になったコンビニに、日付が変わる頃自転車で向かった。
 あの頃はまだ年齢確認の必要もなく、酒も煙草も金を出せば高校生でも買えた。けれど苦いビールと煙いタバコのおいしさはその頃の僕には理解できず、ほどなくコーラに戻った。コーラを手に、僕は歩道橋の階段を上がった。
 眼下の道路沿いには雑草の生えた更地があり、夏になればそこは有料駐車場になる。それ以外の季節は雑草も放置されたままで、よくサーフボードを載せた車が停まっていた。深夜には数台の車がある程度の間隔をおいて停まり、高校の頃の僕にはそれがゆらゆらと揺れる意味も分かっていた。
 道路に背を向けて揺れ動く車から、透きとおった夜空へと視線を移し、くじらの向こうの星をながめる。くじらの発する音と車の揺れ動くリズムは僅かなゆらぎをもって同調し、くじらは車の動きが止まるのと同時に夜空に浮上して、一度大きく身を捩り、漆黒の海へとダイブした。
 僕は車の中の人間がくじらの背に乗ったのだと確信した。腹の底だけながめている僕には彼らの姿は見えない。けれど、彼らの意識がくじらとともにそこへ旅立ったように思えた。地べたを満たす日常から、僕の知らないそこへ脱出したように見えた。
 ただ、くじらのことをまともに考えるには高校生の僕は少し大人になりすぎた。そう思っていた。
 どうやらあの頃の僕は、くじらに手を伸ばすには少し背伸びしすぎていたようだ。

 隣県の大学に進学し、人付き合いの苦手な僕にも仲間と呼べるような人間が何人かできた。それは主に酒の力によるもので、僕はある程度の理性をもって酒に酔い、ほどよい塩梅で僕自身の内面を吐露した。
 その夏、僕は中古の車で実家へと帰省し、その車中には僕を含めて三人の男と、二人の女が乗っていた。
 男のうち一人は大学の近くに実家があり、もう一人は実家まで飛行機で一時間かかった。一人の女は僕と同じ県内の遥か彼方の出身で、もう一人は隣町の中心地に家があるらしかった。
 土曜日には例の道路沿いの駐車場でレゲエイベントがあり、荷物を僕の家に置いたあと、五人揃って昼から酒を呑み、音楽に身を委ねた。
 脇道を入ればすぐ民家が立ち並ぶその場所では、空が闇に包まれるとほどなく祭りは終焉した。僕たちは家に帰り、汗を流してそれぞれの部屋に入った。男は僕の部屋に雑魚寝し、女は奥の和室に布団を敷いた。隣町に実家があるはずの彼女も、なぜか僕の家に泊った。
 日付が変わる頃、僕は酔いつぶれた男二人を部屋に残し、電気を消して外に出た。見上げた空にはくじらが泳いでいた。
 僕の通う大学のあたりにはくじらはいなかった。山に囲まれた盆地の街で、水音といえば川のせせらぎか、雨音くらいの場所だった。代わりに、僕には形を捉えようもない巨大な何かが、その街をじっとりと覆い尽くしていた。

 高校のときに使っていた自転車は倉庫の奥で錆びついていた。僕はビーチサンダルの音を夜道に響かせ一人コンビニへと向かった。そして、歩く先に彼女の姿が見えた。
 僕の足音に気付いた彼女は恐る恐る振り返り、ほっと肩の力を抜いた。闇のなかでも表情豊かなその影は、足を止めて僕が隣に並ぶのを待っていた。
「襲われるかと思った」
 彼女の身長は同じようなビーチサンダルを履いていても僕より少し高く、上目遣いをするために顎を引いて、ずいぶん前かがみになった。首元からのぞく肌は、昼間であればその陰影をくっきりと浮かび上がらせたかもしれない。彼女の纏った孔雀青のワンピースは、夜空を透かせるくじらに見えた。
 コンビニで彼女は炭酸水を買い、僕はビールを買った。歩道橋の下の駐車場には三台の車が停まり、そのうち一台がゆらゆらと揺れていた。
 彼女の手を引いて階段を上り、海側の端で座り込むと、くじらが巨体を撓らせて地へと潜り降りてきた。歩道橋のまわりをぐるりと一周してから僕らの頭上を悠々と泳いでいる。
「ねえ、君はこの空に何が見える?」
 左に座る彼女は、僕の肩に頭をのせて空を見上げた。
「星、それと黒い空。あなたには何が見えているの? とても遠い目をしてる」
 孔雀青の夜空には小さな星がいくつか瞬いていた。星は水面に映り込む外灯のようにゆらゆらと移ろい、くじらの音に合わせて僅かに震える。不意に肩の重みがなくなり、星が消えた。目の前の孔雀青は彼女のワンピースで、その向こうには夜空ではなく、けれど未知のなにかが隠れていた。
「ねえ。君は隣町に実家があるのにどうして僕の家に泊ったの?」
 夜の海が見たかったのと彼女は言い、そのまま僕の唇を塞いだ。
 鼓膜はくじらの音とともに振動し、彼女の舌もそれに同調するように小さく痙攣した。それはどこか生命の営みを感じさせ、彼女の脚は僕のからだに跨り、孔雀青のワンピースがふわりと僕の体を覆った。僕は孔雀青の麻布の内側にある未知のからだに触れ、なぞり、探った。
 陸に上げられた魚がからだを反らし、跳ねる。
 水を求め、空気のなかを喘ぐ。
 ぱくぱくと動く口は、生きるのに必要な何かを渇望していた。
 僕はその姿に羨望をおぼえ、破壊衝動がからだの内に芽生えた。さらに深く彼女を探り、孔雀青の尾鰭が夜空の下で躍り乱れる様をながめながら、僕は彼女の動きがくじらの音と重なっていることに気が付いた。
 ふと、彼女の瞳が僕を見下ろした。頬にかかる髪は海藻を纏ったように艶めき、薄闇のなか、彼女の頬だけが人間らしく仄かに上気していた。彼女は肩で息をし、小さく首をかしげる。
「あなたは一緒にいきたくないの? そこに」
 僕は生ぬるい指を彼女から離し、孔雀青のワンピースに擦りつけた。彼女が、微かに眉をしかめた。
「僕はそこに君と一緒に行くの? ねえ、君にはくじらが見えている?」
 くじら? ――聞こうとした彼女の声は、彼女自身の小さな叫び声でどこかへ消えた。
孔雀青のなかで僕たちはつながり、彼女はキラキラと鱗を撒き散らし、すべてがくじらの音に合わせて揺れていた。僕の呼吸も鼓動もくじらと一体となり、世界のすべてがひとつに溶けた。
 喘ぎ、渇望し、くじらの心音は次第に速まっていく。
 夜空を覆う巨躯が大きくうねり、ふっと拡散した光のなかで、僕はくじらの内側にいた。その体内で、僕は、僕がいるはずの世界を見つめた。360度すべてが揺らめき、あやふやで、向こうとこちらは曖昧に隔絶されて、穏やかさを取り戻したくじらの音が、得も言われぬ安堵をもたらした。
 溺れた人魚が岩場に縋るように彼女は僕の体を掴み、深く息を吐いた。彼女の体も言葉も、仕草も息遣いも、すべてが「女性」そのもので、すべてが『くじら』だった。逞しく、たおやかで、慈愛に満ちた、それはまるで――
「母のようだ」
 僕が耳元で囁くと、彼女はおかしそうに口元を歪めた。
「マザコンなの?」
「違うよ」
 彼女の息が鼻先をかすめ、潮の匂いがした。
「象徴的な意味での『母』だよ。全人類、全世界を包み込むような『母なる海』『母なる大地』のようにね。それはつまり、君がとても魅力的だということだよ」
「そう。けれど女性に対する褒め言葉として相応しくはないわ」
 彼女はそう言ったけれど、怒っている素振りは見せなかった。『母』ではない部分を見せつけるように、陸の生き物のような甘やかな声を出した。
「ねえ、一緒に行きましょう。二人ならもっと先までいける気がするの。私ひとりだと酷く現実的になってしまって」
 彼女の孔雀青のワンピースがゆらゆらと揺れ、微かな染みが僕らを現実とつなげていた。
 熱い息を吐き、抱き合って見上げた夜空にはくっきりとした星々。そこに孔雀青のゆらめきはなく、黒い夜空と、切れ切れの雲が浮かんでいた。聞こえるのは彼女の息遣いと潮騒、歩道橋の下を通り過ぎる車の音。あの心音は初めから存在しなかったように、空気はしんと静まっていた。
 僕らは手をつないで歩道橋を下り、店のゴミ箱にペットボトルと缶を突っ込んで、むかし『西川酒店』の看板が置かれていたあたりでキスをした。僕は煙草を一本ふかし、そのあいだ彼女は隣で空を見上げていた。
「あなたにはくじらが見えるの?」
 思い出したように問いかける彼女に、昔はね、と答えた。そう、昔のはなしだ。
「『くじらぐも』っていう話を知ってる? 僕は小学生の頃あの妄想にとりつかれていたんだ」
「小学生のあなたは、雲にのってどこに行きたかったのかしら?」
「日常ではない、どこか僕の知らない素敵な世界に。君は僕をそこに連れて行ってくれたんだ」
「それは違うわ。あなたが私を連れていったのよ。私にとってあなたとのつながりは生活のなかの一部で、ごく日常的な欲望の顕れよ。ただ、あなたは他の人より少し現実から遠い所にいるわ。遠い所で、もっと遠くを見つめている」
 その言葉に誘われ、遠く水平線近くの夜空に目を向けた。そこにある闇は現実の暗闇で、そこへの入口が塞がれたように妙にのっぺりとした黒が貼り付いていた。くじらが泳ぐための風もぴたりと止んでいた。
「僕にはもう遠くは見えないかもしれない」
 彼女はそう、と感情も込めず相槌をうった。
「そこは素敵な世界かもしれないけれど、限りなく現実と繋がっているわ。私たちは現実から抜け出すことはできないし、抜け出したと思った先も、やはり現実でしかないのよ。その証拠に、私はあなたとの関係を今後どうするか考えなければいけない。曖昧にやり過ごせるほど私は大人ではないし、それ以上にあなたと現実的につながっていたいと思っているの」
 彼女の提案に僕は賛同し、その艶やかな髪をなで、浅く焼けたの首筋にキスをした。
 僕らは大学を卒業するまでの間、現実的にお互いを求め、生活に干渉し、曖昧なやりとりで適切な距離を模索し、その生活は居心地の悪いものではなかった。が、やはりすべてが酷く現実的だった。
 僕は大学の近くのマンションに身を置いたまま現実的で申し分のない企業に就職し、彼女は今後の生活を現実的に考えて実家近くの小さな税理士事務所に就職した。僕らはそれぞれ現実的な選択をしたにも関わらず、僕にとっては酷く非現実的な結果をもたらした。
 彼女は僕の生活にあまり干渉しなくなったし、二人で模索した適切な距離は現実的な理由によって引き離され、お互い干渉し合うには色々と忙しかった。それはそれで居心地の悪いものではなかったけれど、やはりすべてが酷く非現実的だった。
 山に囲まれた盆地は気怠い日常が辺り一帯を覆いつくし、あらゆるものが群れた生物のようにもぞもぞと蠢き、一部は従い、一部ははみ出した。それはとても「現実っぽい」感じがした。僕は時折りくじらの体内から見た景色を思い出し、周りのすべてが揺らめき、あやふやで、僕と現実は曖昧に隔絶されていた。頭にはくじらの音が響き、けれど言いようもない焦燥と得体の知れない不安が僕を襲った。

 コンビニで炭酸水を買い、歩道橋へ向かった。駐車場のトラックの中で運転席の男が欠伸をしている。歩道橋の先には新聞の地方欄で見たことのある真新しい道の駅があった。それを横目に階段を上がり、歩道橋を渡って砂浜におりた。背後の国道には長い渋滞ができていた。
 砂浜を波打ち際まで歩き、スニーカーを脱いで踝まで海水に浸した。ザッという波音は規則的で、僕は空を仰いで目を閉じた。その音は、ほんの少しだけくじらの音に似ていた。
 波の音。
 風の音。
 車のエンジン音に、苛立つクラクション。
 コンビニの入店音、トラックがバックする時のピーという警告音。
 飛行機。
 人の声、犬。
 僕の、呼吸。
 すべてが混じり合っていた。足元でゆらゆらと揺れる液体が、僕を現実へと繋ぎとめている。
 目を開けると、大きな白い雲が浮かんでいた。鯨のように細長く、端には尾鰭がついている。じっと見つめるうち尾鰭は千切れて二つに別れ、形はひしゃげ、鯨でも何でもない、ただの雲になった。
 僕はズボンのポケットから携帯電話を取りだし、彼女の番号を押した。小さなディスプレイの上で数字が右から左へと動き、わずかな緊張を覚えながら耳に当てる。プルルルという電子音が、僕の鼓動を少しだけ速めた。つながった電話の向こうから彼女の声が聞こえた。
「もしもし」
 条件反射で口から溢れたようなその声に、何ら感情はこもっていなかった。
「おはよう。君はこれから仕事に向かうの?」
 僕の問いかけに返ってきたのは彼女の息遣い。
「ねえ、君はまだ生活のなかに僕との繋がりを求めている? 日常的な欲望の顕れとして僕を必要としているの? 僕と君との距離は遠くなってしまった。それは君の現実から僕を遠ざけたのかもしれない」
「日常的な欲望を満たすには物質的な何かが必要よ。触れることのできる何か。こんな小さな機械を通して声を聞くだけでは満たされないの。あなたが少しずつ私の現実から薄らいでいるわ。けれど、それは私の望むところではないの。それだけは分かってくれる?」
 彼女の言葉は悲しげで、彼女の暮らす現実はあまり楽しそうに思えなかった。それとも、悲しそうな素振りをして、僕と離れることへの罪悪感を埋めようとしているのかもしれない。
「僕は物質的な何かがなくても君と繋がっていたいと思うし、それは僕の日常的な欲望だ。僕のいる世界は限りなく現実と繋がっていて、そこは必ず君と繋がっている。僕たちは現実から抜け出すことはできないし、抜け出したと思った先も、やはり現実でしかない。その証拠に、僕は君との関係をどうするかきちんと考えなければいけない。すべてを曖昧でやり過ごせるほど僕は大人ではないし、それ以上に君と現実的に繋がっていきたいと思っているんだ」
 彼女は黙ったままで、僕は彼女の呼吸音に耳を澄ませて目を閉じた。それは波の音と心地よく混ざり、彼女が目の前にいるような錯覚をおぼえた。艶やかな黒髪、浅く焼けた首筋と湿った肌、そして孔雀青のワンピース。
 くじら、と言葉が漏れた。
「くじら?」
 ようやく聞こえた彼女の声はあの時のように闇に消えることはなく、そっと僕の鼓膜を震わせた。
「君との距離が遠くなってから、僕は現実から少し遠くなっていた。そして君のことを考え、くじらのことを考えていた。僕は小学生の頃からずっと、くじらの背に乗って、ここではない、どこかへ行きたいと思っていたんだ。けれど、君に触れて僕は現実に留まり続けた。それは酷く現実的で、そして居心地の悪いものではなかった」
「私は一人でいると酷く現実的になってしまう。何もかもが日常で満たされて、日々がベルトコンベアのように淡々と過ぎていくわ」
「僕は一人でいると酷く非現実的になってしまう。現実からはぐれて、日常に溺れ死にしそうになる」
 彼女が笑い、吐息が震えた。
「くじらの行き先はきっと現実と繋がっていて、きっとそこは僕の行き先であり、僕が来た場所のような気がする。くじらは逞しくて、たおやかで、慈愛に満ちた母のようだ。それは君と同じくらいに魅力的で、けれど僕は現実に触れることのできる君と一緒にいたいと思っている」
「あまり、女性に対する口説き文句には思えないわ」
 彼女はそう言ったあと、またおかしそうに吐息を震わせた。
「ねえ、夜の海が見たいと思わない? 僕は昼の海でも構わないけれど、君にはきっと現実的な仕事があるんだろう? でも、君にこの音を聞かせたいんだ」
 僕は耳元から携帯電話を離し、海に向かってそれを掲げた。そのまま二度深呼吸をし、再び彼女に話しかけた。
「今、僕と君の距離は縮まっているんだ。歩道橋が僕のすぐ目の前にある。君の住む街へもほんの三十分で着くことができる。それって素晴らしいことだと思わない? 僕はきっと、君といることで現実と上手くやっていける」
 そうねと彼女はつぶやき、きっと電話の向こうで小さく首を傾げている。頭上の雲は徐々に天色の空に吸い込まれ、風車は海風を受けてゆっくりと回っていた。
「私は、あなたといることで酷く重苦しい日常から少し離れることができるの。私はきっと、あなたといることで現実と上手くやっていける。今日はカゼで会社を休むことにするわ。一緒にいきましょう。二人ならもっと先までいける気がする」
「そうだね。ここは心地良い風が吹いている。君の欠勤理由もあながち間違いではないよ」
 電話を切ったあと僕はコンビニでもう一本炭酸水を買い、車に乗り込んだ。ジャック・ジョンソンを聞きながら歩道橋の下を通り抜け、波音と海風に包まれながら彼女の住む街へと向かった。

〈了〉

さよならの理由

『夕飯おごるから、今晩ちょっとだけ時間もらえない?』

 昼過ぎに届いたメールは安住さんからだった。何度か同じチームで仕事をしたことのある彼からの、こういった曖昧な誘いは初めてだった。
 プライベートな誘いか、社内の人間に知られてはマズい話なのか。『大丈夫ですよ。何おごっていただけるんですか?』と返したメールに『ごめん、近くで待ってて』と返信があったのは、終業時刻の少し前だ。

 定時で仕事を終えた私は、クライアントと打ち合わせ中の安住さんと視線だけ交わしてオフィスを後にした。夏も間近に迫り、社屋を出てもまだ日は高い。エアコンで冷えた体が外気の熱でぶるりと震えた。
 ひとまず近所の本屋に足を向け、十分ほど売り場をフラフラとしたあと隣のコーヒーショップで時間を潰すことにした。便利な場所にも関わらず、この店に入るのはずいぶん久しぶりだった。

 カフェラテを手に窓際のカウンターに座り、スティックシュガーを半分入れた。懐かしい苦味と微かな甘みがほっと疲れを和らげてくれる。

mono(モノ)cafe(カフェ)にいます』

 安住さんにメールを送ると「了解」の二文字だけ返ってきた。目の前の摺りガラスの向こうを人が駆けていく。自動ドアの音がし、無意識に顔を向けると安住さんが立っていた。なぜか、背格好も何も似ていないあの人(・・・)のことを思い出した。


「安住との仕事、やりにくくない?」
 彼にそう聞かれたのは、私が初めて安住さんと同じチームになった日の夜だった。

「あいつは自分が正しいと思ったら曲げないから、他のメンバーとぶつかることもあってさ。俺は安住のそういうところがうらやましくもあるんだけど。ユイ、無理矢理あいつの意見に従わされたりしてない?」

 彼は私の部屋のソファで胡座をかいていて、その手には発売されたばかりの『演劇ぶっく』があった。テーブルにはすだち酎のボトルとソーダの瓶が一本。彼はいつもロックで、私はソーダ割りだった。

「そうねえ」

 安住さんの姿を思い出しながらグラスに口をつけた。カラと氷のぶつかる音がし、表面の結露が水滴となって指先を濡らした。

「私は意見らしい意見なんて持ってないから、安住さんちょっと苛ついてた気がする。だめだよね、私。こっちの意見にうんうんって肯いたすぐあと、反対の意見にそれも分かるって言っちゃう」

「ユイ、自分のことに関しては結構頑固なのにね」

 それはコースケでしょと言うと、彼は「そうだね」と手元の雑誌に目をおとした。
 地元の小さな劇団で活動している彼は、学生のころ本気で役者を目指していたらしい。会社での彼はどこか私と似ていて、何を考えているのか捉えどころがなかった。彼に惹かれたのは舞台での姿を目にしたあとだ。あやふやな彼の内側に強い芯を見つけたような気になり、彼を見ていると自分にもそれがあるように思えた。
 あのとき、彼が何をもって私を「頑固」と言ったのか、未だに分からない。


「お待たせ」
 ガタと椅子を引く音で我に返った。安住さんは氷のたっぷり入ったアイスコーヒーを手に私の隣に座る。そのあと後ろを振り返って店内を見回し、ほっと安心したように息をついた。

「安住さん、ここ、おごってもらえるんですか?」
「おごらないよ。おごるのは次の店。〇〇町の『のん』って居酒屋なんだけど知ってる?」
「いえ」
「だろうね。駅向こうだし、会社の連中はほとんど知らない穴場」

 少し歩くけど帰りはタクシー代出すからと言われ、警戒心が顔に出たらしい。

「まだ会社には内緒にしておきたい話なんだ。△△コミュニケーションの鍛冶田って知ってるよね。あいつと、あと何人かで会社立ち上げる」

 え、と漏らした声は声にすらなっていなかった。安住さんがいなくなったあとを考え、しわ寄せがくることもすぐに想像できた。
 困る。けれど水を差すようなことは口にできなかった。

「そうなんですか。寂しいけど応援しますね。がんばってください」

 口のなかが渇いてカフェオレを口に含んだ。物足りなさを感じてスティックシュガーの残りをすべて入れ、ふたたびカップを口に運んだ。隣からはズッとストローを啜る音がする。彼のアイスコーヒーは半分以上なくなっていた。

「新倉さん、相談なんだけど」

 声を潜めた安住さんは「一緒に新しい会社に来ない?」と言った。言葉を失い、間を埋めるようにまたカフェオレを口に運ぶ。もう一本スティックシュガーが欲しくなった。

『のん』への道は、初めて歩く土手沿いの道だった。向こう岸の町並みが逆光で影絵のように見える。
 鉄橋を渡るのは二両編成の朱色の列車、ガタンガタンという音がゆっくりと夜を引き連れてくるようだ。茜空は棚引く雲に陰影をつくり、なぜかしら不安をかきたてられる。

「今のところ脈なし?」

 安住さんの声は責めるふうでもなく、どちらかというと探られているように思えた。私の歩調に合わせるようにゆっくりと自転車を押しながら、彼は私の言葉を待っている。
 一方通行の道を正面から一台の車がこちらに近づいてきて、彼は足を止め、私も無意識に立ち止まっていた。

「まだ混乱しててなんとも。でも応援してます。がんばってください」
「やっぱり、他人事みたいだ」
「……まだ他人事にしか思えません。それに、私じゃあ役にたてそうにないし、迷惑かけるだけかも」

 空色のハイブリッドカーが徐行ですぐ脇を通り過ぎて行く。先程まで光を反射していた川面は、眠りにつくようにひっそりとそこにあった。

「役に立つと思ってるから誘ってる」
「買いかぶり過ぎですよ。私よりできる人、他にいるじゃないですか。人材はちゃんと選んだ方がいいですよ」

 ほんのわずかの間があり、「かもね」と呟く声が聞こえてチクリと胸が痛んだ。彼は歩きはじめ、またカラカラとチェーンの音が響く。その隣に並ぶのが躊躇われ、私は一歩後ろから彼の背中を追った。

「新倉さんは、峰岸と別れたときもそうやって一人で勝手に終わらせたんだろうね」
「え?」

 安住さんは歩を緩め、振りかえって私が隣に並ぶのを待っていた。

mono(モノ)cafe(カフェ)。新倉さん、あそこでよく峰岸(みねぎし)のこと待ってたでしょ。あいつがいなくなってからも一人で行ってた?」
「いえ。あそこに行ったのは久しぶりで……」

 峰岸コースケ。彼と別れたのは一年半ほど前の話だ。
 役者、諦めきれないんだ。彼はそう言って、会社を辞めて上京した。
 それから数ヶ月経ったある夜、稽古終わりの彼からの電話の、その奥で楽し気な笑い声が聞こえた。彼を下の名前で呼ぶその女性の声は、たんなる友人だったのかもしれない。けれど、自分のなかに湧き上がる汚い感情を直視したくなかった。
 いつも通りに「おやすみ」と電話を切ったそのあとで、好きな人ができたから別れたい、応援してるからがんばってとメールを送った。何度も書いては消して、メールを送り終えてふと見ると、カーテンのすき間からのぞく空が白んでいた。
 数時間寝て起きたら「分かった。今までありがとう」そのあと、がんばるから応援しててという返信が届いていた。私はそれに何も返さず、彼とのやりとりは終わった。

「新倉さん、峰岸とは連絡とってないんだよね?」
「はい」

 だよね、と安住さんは溜息をついた。その溜息の意味が分からなかった。

「今回の、新倉さんを新しい会社に誘う話ね、先に峰岸に話したんだ」
「え?」

 報告義務があって、と誤魔化すように彼は笑った。私は混乱したまま彼の言う報告義務の理由を考え、答えを導き出せないまま問うこともできず隣を歩き続けた。

「もし峰岸から連絡があったら、新倉さんはあいつのところに行く? 舞台観に来てほしいって言われたとしたら」

 想像してみたけれど現実感はなかった。未練があるわけでもなく、彼の存在は私のなかで静かに過去のものとなっていて、もし連絡があったとしても、私はまた「がんばってね、応援してる」としか言えないだろう。

「気が向いたら行くかもしれません」

 そう、と安住さんはまた溜息ついた。「こっち」と土手から下る坂道へと向かい、その先には赤ちょうちんがいくつか並んでいる。

「この路地を入ると『のん』、もう一本先の路地を入ると俺のマンション。どっちにする?」

 突然の質問に呆気にとられたけれど、安住さんが笑いを堪えきれず吹き出してほっとした。

「からかわないでください」

 本当にどっちでもいいんだけど、と彼は平然と言いながら自転車のハンドルを左へ切り、その先には『のん』と書かれた暖簾が見えた。
 うなぎの寝床のような店内のカウンターは半分くらい埋まっていて、安住さんは店主らしき人に「座敷空いてるよね」と声をかけて奥へ歩いていく。突き当りの左手に座敷があり、そこは大人四人座るのがせいぜいの広さで、どこか秘密基地のような雰囲気があった。襖も障子もなく、店内の喧騒は筒抜けに聞こえてくる。

「何飲む?」
「安住さんと一緒でいいです」
「じゃあ泡盛」

 え、と顔をしかめると、安住さんはイタズラ成功とばかりに声を出して笑う。

「だから最初に聞いたのに。何飲む?」
「じゃあ、すだち酎のソーダ割で」
 
 了解と通路に顔を出した安住さんは、「すだ酎ソーダ割と生ひとつ。あと適当に今日のオススメお願い」と言い、「はいよ」と店主の声が返って来た。

「泡盛じゃないんですか? 安住さんがビールなら私もそうしたのに」
「なんで?」
「なんでって……」

 妙な居心地の悪さ覚えたけれど、あっけらかんとした声でそれは一気に吹き飛んだ。

「はーい、お待たせ。こっちがビール、お嬢さんはすだち酎ソーダ割ね。安住君。今日はデート?」

 グラスと小鉢ののったお盆を手に現れたのは、エプロン姿の中年女性だった。安住さんは「うらやましいでしょう」と気安い笑顔を返している。ふたりの間で世間話のようなやりとりが始まり、それは「すいません」というカウンター客の声で打ち切られた。

「おつかれ」
 グラスをカチンと合わせると、安住さんはグビグビと音をさせて半分ほどを一気に飲み干してしまう。
 店主の奥さんらしい先ほどの女性が料理を運んで来て、そのたびに安住さんは楽しげに言葉を交わし、奥さんは笑いながら去っていく。その様子を眺めながら、私は割り勘にしてもらおうかと考えていた。誘いを断るなら食事代もタクシー代も出してもらう訳にはいかない。

 当たり障りのない世間話から流れが切り替わったのは、私がミョウガと青ジソがたっぷりのった茄子の揚げ浸しを口に入れたときだった。

「強引に誘うつもりもないし、土下座して頼み込むつもりもない。新倉さんがやる気になったら言って」

 咀嚼することを忘れて顔をあげると、安住さんは頬杖をついて私の顔をながめていた。

「あ、仕事の話ね。このあとのことじゃないよ」
「このあと?」
「タクシーか、俺のマンションか」

 またまた、と笑うと、彼は頬杖をついたまま「またまた」とオウム返しに口にし、その目はじっと私の顔を見据えていた。

「新倉さんの好きな人って、誰だったの?」
「え?」

 彼の口にした質問の意味が分からなかった。二杯目に注文したビールもほぼ飲み干し、少しだけ眠気もさしていた。

「峰岸に言ったでしょ。好きな人ができたから別れたいって」
「ああ、あれは……」

 嘘です、と言いかけてすんでのところで押しとどめ、「過去の話ですから」と取り繕った。
 安住さんは仕事のときより寛いだ雰囲気で、それが彼の表情を読みづらくしている。どちらかといえば感情を真っ直ぐに出すタイプなのに、今夜の彼はどうも様子が違っていた。

「新倉さんの好きな人って俺じゃないかって。そんなこと峰岸が言ったことがあるんだけど、それ当たり?」
「はずれ、です」
「ほんと?」
「はい」

 そっかあ、と息を吐いた安住さんは、悲しんでいるようでも残念がっているようでもなく、ほっとしたように見えた。

「そんなことないって峰岸には言ったんだけど、俺が否定したら余計に頑なになって『絶対そうだ』って。どっちにしろ自分は新倉さんの傍にいてやれないから、変なやつに捕まらないよう見てやってくれって。もう一年くらい前のハナシ。たぶん二人が別れた直後だよね」

 新倉さんって変なやつには捕まらないタイプだと思うんだけどね。安住さんはそう続けた。
 変なやつどころか、私を捕まえようとする奇特な人はなかなか現れそうになかった。安住さんがその「奇特な人」にあたるのか、彼の今夜の言動が峰岸への「報告義務」の延長なのか、体を巡るアルコールが考えることを放棄させる。

「新倉さんと話してるとたまにイラッとするんだよね」

 グラスに口をつけたまま、私は安住さんの顔を見た。

「他人の意見に左右されるっていうか、自己犠牲? そういうの」
「なら……」

 ならどうして誘うんですか。その言葉さえすぐに口にできないからこそ、彼は苛立ちを感じるのだ。

「なら、どうして新倉さんを新しい会社に誘うのか。新倉さん自身の意見を聞こうとすると苛々するけど、新倉さんを通して他のやつの対立意見を聞くと、たしかにそういう考え方もありだって思うことがある。エゴが抜け落ちてクリアに見えるっていうのかな」

 はあ、と間抜けな返事をすると、安住さんは「よく分かんないけどね」と口にした。彼のビールは空になっていて、私は手の中のグラスをぐいとあおる。

「安住さん、ビールでいいですか?」
「いや、すだち酎ロック」

 彼はそのまま通路に身を乗りだし奥さんに声をかけた。すだち酎ロックで、と言った彼に、奥さんは「あらあ」と目を丸くして笑う。

「峰岸君には『そんなクソ不味いのよく飲めるな』なんて言ってたくせに、どういう風の吹き回し?」
「久しぶりに飲んだらうまいのかもしれないと思って。あいつ、年末あたりに地方公演で市民ホールに来るんだって。端役みたいだけど、良かったら観に行ってやってよ」
「本当? じゃあチケット予約しなきゃ」

 ぽかんと目の前のやりとりを見つめていた私に、不意に安住さんが顔を向けた。いつも通りの顔で、私はなんだか拍子抜けした気分になった。

「新倉さんは何飲む?」
「日本酒、冷やで下さい」

 これでいいかしらと奥さんが指さした先には、地元酒造の日本酒の銘柄が半紙に書かれていた。はい、と肯きながら、安住さんの口元が楽しげに歪んでいるのが見えた。奥さんが空いた皿を下げていなくなると、彼の笑みは音となってその口から漏れ出す。

「おかしいですか?」
「新倉さんって、変なところで頑固だよね」
「そうですか?」
「峰岸の舞台、誘ったら一緒に行く?」
「行きません。行くなら一人で行きます」

 安住さんは頬杖をついて、面白そうに私を観察していた。奥さんは私たちの会話を知らないまま「お待たせ」とグラスを二つ置いて去っていく。

「新倉さんには不可侵の部分があるよね。それ以外のことについては判断ぬきでただ観察してる。峰岸が、新倉さんのことを鏡みたいな人だって」

 カガミってミラーね、と彼は注釈した。

「どういう意味でしょうか?」
「さあ、自分で考えたら?」
「私、鏡みたいですか?」

 安住さんは少し考えたあと、「そうだね」と二回頭を上下させた。

「マジックショーの消失トリック。峰岸のいう意味とは違うだろうけど」
「意味が分かりません」
「そう?」

 苛立ちが胸のなかにあった。その理由が分からないまま、すべてを煙に巻かれた気分で私はその日タクシー代を受けとることなく自腹で帰途についた。


 安住さんが会社を辞めるという話が社内に広まったのは、『のん』に行った夜からちょうど一ヶ月後のことだった。そのあいだ彼から再び誘いを受けたということもなく、私も返事をしないまま。正式に彼が退社するのは九月末で、その日が近づくにつれ、私はそわそわと落ち着かない日々を過ごすようになった。

 初めて風のなかに秋らしい匂いを感じた日、ふと思い立ってmono(モノ)cafe(カフェ)に足を向けた。そしてカフェオレを飲みながら峰岸のことを考えた。

「あの役は安住になったつもりで演じたんだ」
 それは、私が初めて観た峰岸の舞台のことだった。峰岸とは正反対のその役柄は、一言で言うならば「正義の使者」。自分の価値観のみを「正しい」と信じる者の傲慢さを、たしかに安住さんから感じたことがあった。
 己のなかに「正しさ」を持つ人間が、どうしてその「正しさ」を信じることができるのか、私はいつも不思議でならなかった。峰岸もきっと私と同じだ。そして、その疑問の答えを探すために虚構の世界で他人を演じているのではないかと、私は勝手にそう思っていた。

「分かる気がするけど……」
「けど?」
「安住さんの第一印象はそうだったけど、一緒に仕事したらイメージ変わった。あの人、思ってたほど頑固じゃないね」

 ふうん、と相槌をうった峰岸の顔を、私はうまく思い出すことができない。カップの中で揺れるカフェオレの液面をながめていたのかもしれない。だから今こうして、あのときのことを思い出しているのだ。


 ふと顔をあげると、目の前の擦りガラスの向こうを人影が通り過ぎた。その影は店の前を素通りし、見えなくなる。
mono(モノ)cafe(カフェ)にいます』と安住さんにメールを送ると『了解』の二文字だけが返ってきた。

「お待たせ」
 彼はカフェラテのカップを手に隣に座る。漂ってきたシナモンの香りが少々意外だった。

「うちに来る気になった?」
「まだ分かりません」
「呼び出した理由は?」
「峰岸コースケと別れた理由を聞いてもらいたくて」

 安住さんはわずかに目を見開いたあと、「どうぞ」とでもいうようにカウンターに頬杖をつく。峰岸はいつも椅子に背を預け、腕組みをしていた。

「彼が東京に行ってしまって、遠く離れた場所で変わらず会社勤めを続ける私が何をしてあげられるのか分かりませんでした。そもそも、彼がどうして私と一緒にいてくれたのか、私を気に入ってくれたのか。本当に気に入ってくれていたのかどうかさえ分からなかった。私よりも女らしくて気遣いのできる人は沢山いるし、同じ夢を志して励まし合うような相手が見つかるかもしれない。私は彼のことが好きでした。彼のなかにあるものを信じたかった。少しずつ彼からの連絡も間があいて、私がいなくても彼が前を向いて進んでいけるなら、私は不要だと思ったんです。煩わせたり、足枷になるまえに、まだいい思い出でいられるうちに消えてしまいたかった。捨てられるのも嫌だったし、彼を嫌いになりたくなかったんだと思います」

 言い終えると、途端に気が抜けて大きな溜息が漏れた。ふわりとシナモンの香りが届く。安住さんはカフェオレとともに私の言葉を飲み込もうとしている気がした。

「それを俺に話した理由は?」
「なんとなく、安住さんと話してるとたまに苛つくから」

 彼は満足げな顔をし、腕時計にチラと目をやる。外はすっかり真っ暗で、帰途を急ぐ人の姿もまばらになっていた。

「鍛冶田と『のん』で落ち合う約束してるんだけど、行く?」

 はい、と肯く。
 私はまた理由を探していた。『のん』に行く理由、このあとすだち酎をロックでたのむ理由、鍛冶田と会う理由、会社を辞めるかどうかを考える理由、チケットを買う理由。そこにはすべて目の前のこの人が絡んでいるようだった。
 終わらせない理由を、私は探しているのかもしれない。そんなことを考えながら、『のん』の暖簾をくぐった。

〈了〉

世界の境界とアップルパイの話

 千里(ちさと)からお茶の誘いが来た。

「彼氏、今週末出張でいないんだ」

 紅葉には早く、駅前広場を囲うイチョウの木々もまだ青さを残している。「三時にいつものとこね」と指定された駅前の時計塔を正面に眺めながら、いつも通りにベンチに腰かけ文庫本を広げ、うつむくと背の中ほどまで伸びた髪が読書を邪魔するように風で揺れた。唯一女らしいといわれるこの黒髪が、最近ではずいぶん重苦しく感じられる。夏のあいだよく我慢したものだと自分のことながらに呆れつつ、重苦しさに温もりを感じるようになってからこの髪に別れを告げようとしていることにまた自嘲する。
 時計塔に目を向けると、ちょうど発車のベルが聞こえた。

「おまたせしました」

 かしこまった響きの声は女性のものだった。それは隣のベンチからで、そこには男女の待ち合わせシーンがあった。十分ほど前から一人ベンチでスマートフォンをいじっていた男性は、「今来たところ」とぎこちない笑みを浮かべて立ち上がる。五十センチほどの距離を保ったまま、ふたりは街へと歩いていった。
 先週末の自分も傍から見ればこんな風だったのかもしれない。遠ざかるその背を追っていると、「おまたせぇ」と待ち人の声が聞こえた。

「全然。今来たばかりだし、続きを読む暇もなかった」

 栞をはさみ直し、本を閉じて立ち上がる。いつものところでいいよね、と千里はスカートの裾をひるがえして先を歩きはじめた。

「あれ、千里髪切った?」
「気づいた? やっぱり女同士じゃないと気づいてくれないよね」

 風をはらむ栗色の髪を、千里は右手で梳いてみせる。一時立ち止まり、隣に並ぶと「伸びたね」と重苦しい黒髪に指をかけた。

「願掛けでもしてるの?」
「そろそろバッサリ切るよ。寄付するの」

 千里は「へえ」と感心した様子で、カフェへ向かう道すがらしきりにそのことを聞いてきた。「千里もする?」と聞くと、あまり乗り気でないのか思案顔になる。彼氏のことを考えているのだろう。その人と付き合うようになって、千里は以前よりも柔らかい印象の服を選ぶようになり、その髪にはゆるくウェーブがかかった。
 大通りから路地へと入ると、レンガ造りのカフェが見える。花壇の脇に置かれたメニューボードにはコーヒーカップのイラストが描かれていた。季節限定マロンラテとある。

「やばーい。おいしそう」

 千里は歓喜の声をあげ、メニューボードを端から端までながめつくす。「悩むよね」と言いながら木戸を押し開けて店内へと足を踏み入れた。ショーケースの前でふたたび足を止め、今度は上下二段に並ぶケーキとにらめっこする。

「ねえ、もう決めちゃった?」

 前かがみの姿勢のまま顔だけをこちらに向け、千里は「もう少し待って」と目で訴える。「いつものやつにする」と答えると、彼女は「やっぱり」と小さく笑った。
 案内された席で向かい合って座り、千里はマロンラテと洋梨のタルトを注文した。そのあとチラリとこちらを見て、「あと、アッサムティーとアップルパイください」と店員に笑顔を向ける。

「アップルパイの季節だね。季節かまわず注文する人もいるけど」

 千里はくすくすと笑い、「好きなんだからいいでしょ」と言うと、「そうね」とまた笑った。
 この店には彼氏とは来たことがないと、いつかこの同じテーブル、同じ席で千里が言ったことがある。理由を問うと、「ここは女子会専用だから」と返ってきた。まわりを見回せば、同じように女同士で話し込む人たちばかりだ。男女の恋人らしい二人客の姿もみえたけれど、男性の方は居心地悪そうに窓に目を向けている。
 ともすれば膝同士がぶつかってしまうくらいの小さなテーブルで、向かいの千里は頬杖をついて「マロンラテまだかなあ」と首をのばした。じきに運ばれてきたホイップクリームたっぷりのラテに、「しあわせ」と口をつける。

「半分こしよう」

 彼女は洋梨のタルトをフォークで真っぷたつにすると、こっちが「いいよ」と返事をするまでにナイフとフォークでアップルパイを二つに分けた。それぞれを一切れずつ入れ替える。

「千里はホント、いい奥さんになるよ」
「またまたぁ」

 彼女はまんざらでもなさそうな笑みを浮かべ、そして今がそのタイミングとばかりに「で?」と詰問口調で言った。

「で、って?」
「どうだった?」
「なにが?」

 意図して焦らすと「もう」と頬をふくらませ、不機嫌な顔のままタルトを口に突っ込む。表情はくるりと変わり「おいしーい」と満足気に言うと、次はこっちとばかりにアップルパイにフォークを刺した。ポロポロと崩れるパイ生地に苦戦しながら、「これこれ。この味だよね」と、あっという間にそのお皿は空になる。
 マロンラテでひと息つくと、彼女はふたたび「で?」と身をのりだした。
 千里の紹介で笠外(かさがい)さんという男性に会ったのはちょうど一週間前のことだ。千里の彼氏の友人だというその人は、なんというか、何といいようもない普通の人だった。

「いい人だったし、友人としてなら」

 いい人だよね。どれほどその人のことを知っているのか、千里はケーキを前にしたときと同じように目を輝かせて言う。
 千里の口から語られる彼氏との惚気話、愚痴話を聞くのは吝かではないけれど、こと自分絡みのそういう話となると嫌悪感と苛立ちに劣等感と罪悪感をブレンドしたものが胸のなかで渦巻きはじめる。それでも笠外という男性と会ったのは、断るのが面倒になったからだ。
 梅雨あたりから千里はその話を匂わせるようになり、断ると「じゃあ、気が変わった頃にまた」としばらく間を空けて同じ話を持ちかける。それも四度目となり、一度会って断れば彼女も満足するかと渋々話にのったのだけれど、会ってみればやはり会わなければ良かったという後悔しかなかった。この一週間のあいだ着信画面を見るのが憂鬱で、彼からの誘いは無理やり理由をでっち上げて先延ばしにしている。

「笠外君は楽しかったみたいだよ。紹介してくれてありがとうって、私にお礼のメールが来ちゃった」

 千里はスマートフォンを手に取り、メールの履歴を探している。その口元に浮かぶ笑み。現実世界の人間ふたりで恋愛ゲームでもしているつもりなのか、彼氏との生々しい恋愛とは別の、他人事の恋愛で楽しんでいるように見えた。
 ありがとうございましたという店員の声がし、寄り添った男女が店から出ていく。名残のようなドアベルの音に小さな苛立ちをおぼえ、パイからこぼれ落ちた林檎の、最後の一切れにフォークを突き刺した。

「友人ならいいけど、彼氏は無理。向こうがそういう人探してるなら他あたって。直接言うと角が立つから、千里から伝えてくれない?」

 念押ししておかなければ、千里は好きなように話を進めてしまいそうだった。「それは」と彼女は言葉を濁す。

「……せっかくだし、何回か会ってみたら?」
「せっかくって言われても、たぶん変わらないよ。笠外さんのために時間を割きたいと思わない」

 誘いを断わりつづけているとは言えなかった。
 一日は二十四時間、一週間は七日。一ヶ月はおよそ四週間で、それが一ダースで一年。ひとりでいるのが長くなると、ひとりで過ごすのが当たり前になる。何のために、誰のために時間を割くのか。「割く」という言葉を使っていること自体、その対象に価値を感じていない。千里との時間は共有するものだった。
 ある程度の場所には一人で行ける。会いたい人には会っている。会いたい人に会っているにも関わらずこれまで恋愛関係に発展していないのだから、会うのも面倒な相手に会ったところで、向こうの望む関係になれるはずもない。
 言葉を全部のみこみ、ううんと唸ることで返事に代えた。

「たった一回会っただけじゃ分からないって。笠外君、お勧めなんだけどな」

 千里は不満げだった。彼女の求めるものと、自分のそれがピタリと重なり合うことはない。ケーキを分け合うにはちょうどいいけれど、押し付けられた価値観が彼女との境界をはっきりとさせていく。
 凝り固まった考えに固執して、限られた人間関係のなかに蹲ることにもそろそろ嫌気がさしてきた。だからこそ、笠外さんにはわずかな期待をしてもいた。この硬直した世界を百八十度ひっくり返してくれる人が現れたなら、重苦しい平穏から脱出する術が見つかるかもしれない。けれど、期待は期待でしかなかった。
 千里が懸命に笠外さんを――”恋愛”を勧めるその親切心が疎ましく、つい頑なな態度をとってしまう。恋愛できないことになぜ劣等感を覚えなければいけないのか。嫉妬というよりも絶望。一般的な女の人はどうやって男の人に興味を持つのだろう、そんなことを考えながら千里に曖昧な笑みを返した。どうやら人として、女として、この脳みそには何かが欠如しているらしい。
 弱り顔の千里は、小さくため息をついてスマートフォンの上で指を動かしはじめる。千里の頭の中にはどんな恋愛ストーリーが描かれていたのだろう。物語の登場人物が、『退場したい』と叫んで勝手に消え去ることはできない。

「笠外さんにメール?」
「うん。向こうは多分そういう(・・・・)つもりだから、傷つかないように適当に言っとくね」

 千里の時間(ストーリー)は前へ前へと進みつづける。新たな章の始まりに目をかがやかせ、ありきたりな展開には「やっぱりこれだよね」と言いながら、千里は決してアップルパイを選びはしない。選びはしないけれど、目の前に差し出せば突き放すことはない。
 千里の指の動きは美しくリズミカルだった。こんな風にして、彼氏とも毎日メールのやりとりをしているのだろう。
 恋人のためにスケジュールを調整し、友人の誘いも断って、千里の生活は恋愛があるからこそ充実している。恋人と別れるたび一週間泣きつづけ、それが禊であるかのように間をおかず新たな恋を見つける。それは彼女から惚れ込んではじまるものではなく、「良さそうな人だったから」という理由で好意を向けられればほとんどが恋愛関係へと移行する。
「恋愛至上主義なの」と冗談のように口にする彼女の生活すべてが唯一人のためにある。どれだけ断ってもこうして”恋愛”を勧めてくるのは、恋愛など必要ないという真逆の価値観がその心をかき乱すからだ。
 甲斐甲斐しく恋人の世話を焼く千里は、そうすることで自分の存在価値を確認している。人の役に立つことで充足感をおぼえ、それは弱いわけではなく、ただ単に「ふたり」に慣れているだけだ。ふたりでワンセット。片割れがいなくなれば涙を流し、失われた半身を弔えば次の章が幕を開ける。
 もともとみんな一人なのに。一人でいるのも、二人でいるのも、慣れてしまえばきっと同じようなものなのに。
 一人に慣れてしまったこの身に恋人ができるとしたら、相手もきっと恋愛不要論者だ。干渉されなければ一緒に住むくらいのことはできる。想像し、それは「同居人」に過ぎないと気づいて苦笑した。もし千里と暮らすことがあったとしたら――。
 スマートフォンを操作していた千里が、その手を止めて冷めたラテを啜った。

「とりあえず友達からならって伝えた。向こうもそれでいいって」
「友達から、じゃないよ。友達なら」

 困ったように下がる眉尻は、呆れているのかもしれない。「近いうちにまた会おうって」と、彼女はそれまでの勢いを引っ込めて、機嫌を伺うようにこちらを見る。表情に出ているのかもしれない。千里に会うのさえ月に一度あれば多いくらいで、友達にも満たない笠外さんに割くその時間が、どうしようもなく無駄に思えてならなかった。

「四人でどこか行こうって話になったんだけど……」
「四人って?」
「私も彼氏と行くから」

 それなら、と返すと、千里は「やった」と早速スマートフォンに何か打ち込みはじめた。

「笠外君ほんとうにいい人なんだよ」

 動かす指も止めることなく千里が言う。その口調はやはり他人事だった。
 たった一度しか会っていないけれど、たしかに笠外さんは「いい人」だ。当たりさわりのない会話で、普段は何をしているのと聞かれて「読書」と答えると、あまり本を読まないらしい彼は「どんなものを読むの?」と質問で返してきた。その受け答え方に「世の女子はこういう人が好きなのかもしれない」と頭の片隅で考えつつ、自分の内側をさらすことに抵抗を感じ、映画化された本のタイトルを口にした。予定通り会話は映画へと移り、彼は徐々に饒舌になっていった。あとは適当に相槌をうち、うなずいていただけだ。時々まぬけに挟まる間は、彼が勝手に埋めてくれた。「いい人」だった。それは「どうでもいい人」で、できることならば私も「どうでもいい人」でありたかった。
 恋愛は苦手だ。駆け引きも、共感も、そんなもの幻想にすぎない。伝えようとして伝わるものなどなく、隠しておきたいことを必死に抱え込み、それはいつしか飽和状態となって世界との境界をぶち破る。破ったところで壊れるのは世界ではなくこの心で、結局はひとりなのだ。生まれるのもひとり、泣くのも、叫ぶのも、笑うのも、恋も、愛も、死ぬのもひとり。自らの外側にある別の存在に触れ、確認するのは決して消えることのない境界。
 境界を知るから相手を求める。物語の内側と外側では、世界はどうしようもなく隔絶している。

「男なんて必要ないんだけどね」
「そんなこと言ってると、幸せ逃しちゃうよ」
「千里に会って、だらだら喋ってるだけで幸せ」

 それじゃだめだよ、と彼女は笑った。千里の幸せについて考え、ウェディングドレスと羽ばたく白い鳩が浮かんだ。自分のウェディングドレス姿ほど想像のつかないものはない。幸せってなんだっけ。
 ダブルデートは今週末のオクトーバーフェストに決まりそうだった。楽しみだねと言う千里が楽しみにしているのは、きっと現実の恋愛だ。
 千里の手のなかでスマートフォンが震え、「あ」と彼氏の名を呟いて彼女は席を立つ。

「じゃあ、今週末決定でいいよね」

 無言でうなずくと、「すぐ戻るから」とスマートフォンを耳元に当てて店から出ていった。
 夕方からのそのイベントで、ダブルデートの四人はいずれ二人と二人になる。千里はちらちらとこちらを気にしながら、そのうち虚構の物語を放り出して現実の恋愛しか目に入らなくなる。取り残された二人は必然的に一人と一人になり、あとは孤独を確認しながら適当に相槌をうって、うなずいておけばいい。お酒が入れば多少の間もすぐに埋まるはずだ。
 恋愛なんて不毛だ。会いたい人に会えれば幸せ。そんなのは嘘。不幸のどん底で恋愛なんて必要ないとうそぶきながら、懸命に恋ではない、恋ではないと繰り返し唱えて恋をなかったことする。そうすればまだ幸せでいられる。
 曖昧な言葉はこの胸のうちにあるものを一切伝えることなく、空気の振動するあいまにその意味は捻じ曲がり、彼女の鼓膜に届いたときにはまったく別のものに形を変えている。たとえ好きだと伝えても、「私も」と軽い笑みを返され、こっちが傷ついているなんて思いもしないだろう。
 千里が戻ってくる気配はなく、トイレにと立ち上がった拍子に黒髪が視界を覆い、毛先には皿に残っていたクリームがついた。拭った髪はべとつき、重苦しくぶら下がるそれが、自分の内側から排出された黒い汚物に思えてくる。

「すいません」

 レジで店員に声をかけ、「これ借りていいですか」と問うと笑顔で「どうぞ」と渡され、背後でドアベルの音がして振り返ると、ようやく千里が戻ってきたところだった。彼氏との会話はまだ続いており、小声で「また夜電話するね」と言ってスマートフォンを耳から離した。

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 千里は「いってらっしゃい」と小さく手を振り、席に戻らずショーケースを眺めている。アップルパイはなくなっていた。
 背を向けトイレへ向かいながら、帽子でもあれば良かったと思う。自分のしようとしていることがあまりにも馬鹿らしく、洗面所の鏡に映る自分は笑っていた。
 
「伝わらないよ。何も変わらない」

 ひと束握りしめた黒髪に鋏を入れた。毛先が頬をなで、手のなかの汚物は想像以上に重い。棄てたいのか、変わりたいのか、振り向いてほしいのか、忘れたいのか。

「壊したいんだ」

 境界を。
 髪を掴み、鋏を入れた。

〈了〉

砂浜とキャンバスと、その先に

 笹原(ささはら)友弥(ともや)
 その名を初めて耳にしたのは、ギャラリーのオーナーである八角(やすみ)さんとの会話だった。
「ギャラリーやすみ」なんていう年中休業のような名前のギャラリー、その隣にあるのがフレンチレストラン「ラ・ブランシュ」。駅前の大通りから一本入ったこの場所で、オーナーシェフとして独り立ちしたのはもう十年近く前のことだ。
「今度、笹原友弥君の個展をうちでするんだけど、槇村(まきむら)君ってたしか青谷高校だったわよね。年同じくらいだし、もしかしたら知ってるんじゃないかと思って」
 午後二時近く、真っ白なクロスの掛けられたテーブルには今運んできたばかりのココナッツソルベがあり、その華奢なグラスは冷気で白く曇っている。八角さんはそれを口に運んで大袈裟すぎるほどに「おいしい」と顔をくしゃくしゃにし、それが嘘ではないと証明するようにあっというまにグラスを空にしてしまった。八角さんの向かいに座るギャラリースタッフの女性は、「おいしいです」と一口ずつゆっくり味わっている。
「ココナッツって夏が来たって感じがしますね」
 ふと海が恋しくなった。波の音、風の音、全身を浸す海の感触。脳内の逃避は八角さんの一言で引き戻された。
「知らない? 笹原君」
「知らない名前ですね。それって本名なんですか?」
 あ、と八角さんは鞄をあさってタブレットを取り出し、「そうそう本名じゃないんだった」と言いながら画面をこちらに向けてみせた。
「この人、知ってる? 本名は――」
相良(さがら)
 タブレットには垂れ気味の細い目をした、相良(さがら)友弥(ともや)の写真があった。
「高校のクラスメイトです。あいつ、絵続けてたんですね」
 続けてるどころじゃないわよ、と八角さんは嬉しそうに彼のホームページをスクロールする。なにやら小さな字で賞の名前がいくつか書かれていたけれど、芸術に疎くそれがどれだけのものなのかは分からない。八角さんの丸っこい指がポンと画面の上で踊り、相良の作品が表示された。風景画が多く、柔らかい印象の色彩が使われていて、何となく流し見をしていたのだけれど、ふとある絵に目がとまった。――絵にとまったというよりは、絵ではないものに目がとまった。
「やっぱりこれ気になるでしょ?」
「見たことあります。たぶん料理雑誌か何かで」    
 それは丸いキャンバス。シリーズで描かれるその絵は、真っ白な、まるで一枚の皿のような絵(と言っていいのか分からないが)から始まり、前菜からデザートまで、キャンバスがすべて皿に見立てて描かれている。遠目に見るといかにも料理らしいその絵は、しかしよく見ると風景画だった。そして最後のキャンバスは白地の上に落書きのようにスマイルマークが描かれる。
 波の音が蘇った。潮の匂いと夕闇と、制服姿で砂浜を歩いたあの日、この道へ足を踏み入れると決めた。相良もそうだったのだろうか。

「――じゃあ、クラス委員は槇村君と糸井さんということで」
 名前を呼ばれて立ち上がり、「よろしくー」と手を振ってみせると、まだクラス替えをしたばかりで緊張気味だった教室に笑い声が響いた。もう一人のクラス委員は真面目そうな女子だったから、バランス的には悪くない。
 クラス委員に選ばれたのは悪い気分ではなかった。向いているかどうかと問われれば正直どうかと思うけれど、頼りにされれば盛り上げたいし、クラスが仲良ければ高校生活も楽しくなるはずだ。何にしても要はバランス。学校と家がすべてになってしまえば小さなことでそのどちらもが苦痛になるのかもしれないけれど、とりあえず俺には別の繋がりがあり、そこで関わる大人たちが「なんとかなるさ」というタイプだったから、親や教師よりも、俺はその人達の影響を多分に受けているのではないかと思う。
 朝起きてパソコンでライブカメラをチェックし、その頃にはお世話になっているサーフショップの息子から「先行ってる」と連絡が入る。俺より一つ年下のそいつは、高校は違うけれど地元が同じだから付き合いは長い。自転車を飛ばして海岸沿いのサーフショップの裏手に乗り付け、その息子の便宜で置かせてもらっているボードを手に浜へ向かう途中には数人の顔見知りと挨拶を交わす。
 世の中が動きはじめる前の景色。水平線の向こうから一日が訪れ、波に沈んで海面から顔を出すたび、空は朝の色へと変わっていく。自然の力に呑まれ揉まれ漂い揺られ、立ち上がった板の上で波の圧に抗いそのパワーを全身で制御し、翻弄され、藻屑のようにもみくちゃにされ、波間に引きずり込まれる。小ささを知り、身を投げ出す。包まれる。そうしてまた、空を見上げる。時間は瞬く間に過ぎていった。
 (おか)の上のことは海に流せばいい。

 父親と顔を合わせることはほとんどなかった。俺が朝飯を食っているときは市場に仕入れに出かけているし、夜は仕事の真っ最中。自宅の隣に併設されたレストラン「シェ・マキムラ」は、どうやら気軽に入れるような店ではないらしかった。
 父親と夕飯をともにするのは店の定休日くらいで、高校に入って以来俺はなんとなく理由をつけて店休日に出かけることが増えた。普段食卓に並ぶのは母の作るふつうの家庭料理で、時々店の余りものの洒落た料理がそれに加わることもあった。休みくらい料理をしなくてもいいのではないかと思うけれど、父はおよそ家の台所には似つかわしくない長い包丁を手に肉やら魚やらを捌き、作るのは凝った料理というよりは煮込むだけとか焼くだけとか、そういったシンプルなもので、どこで買ってきたのか怪しげな調味料を取り出しては「いける」だの「これはナシ」だの、ともに食卓を囲みながらも頭の一部はレストランに置き去りにしたままのようだった。
 小さな頃の俺は将来の夢を聞かれて「コックさん」と答えるくらいには父親のことを慕っていた。レストランが家と離れた場所にあればそのまま父を尊敬していられたのではないかと思う。たまたま通りかかった店の裏手で父が従業員を叱責する声を聞くこともなかっただろうし、従業員たちが「頑固」だの「古臭い」だのと父の料理を評しているのを耳にすることもなかった。
 母は「大学に進む? それとも辻調?」なんて冗談めかして聞いてきたけれど、あれほど重い冗談はこの世にないのではないかとその時の俺には思えた。父がどう思っているのかは知らない。中学に入ったあたりまでは父親を尊敬していられたおかげで、同年代の男たちよりも包丁は上手く使えるし、そこら辺の主婦よりも上ではないかと思う。ただ父の作るものはそれとは別次元の場所にあった。俺が知るのは砂糖、味噌、醤油、味醂といった母のレシピ。母は意図的に洋食を作ることを避けていたのではないかと勘ぐってしまうくらい、和食がいつも食卓に並んでいた。父の作るものとはあえて違う、日本の家庭の味。
 高校に入って初めての進路調査で、俺は大学進学を希望した。その時はまだ将来がどうとか、受験がどうとかいう実感もなく、はじまったばかりの高校生活のことで頭がいっぱいだった。高校二年になり俺はまた大学進学を希望した。
相良(さがら)君、美術系の大学に進むの?」
 選択授業の時間、教室を出ていく相良に声を掛けたやつがいた。相良は当たり前のように「うん」と肯いて美術室へと向かう。部活じゃなくて、どっか絵画教室通ってるんだってよ、と噂する声が聞こえてきた。以来、鳩尾あたりに重しがのっかっている。
 母は何も言わなかった。辻調という言葉も口にしなくなった。父も何も言わない。レストランの従業員が「将来は継ぐのか」とか「継いだら雇ってくれよ」と笑いながら話しかけてくるのを適当に笑ってごまかした。
 塾帰りの夜、日が暮れて時間が経つと料理の匂いは香ばしく家のまわりを漂い、それをやり過ごして母の作ったカレイの煮付けに箸をつける。さっさと寝て朝早く起きればそれでいい。波があることを願って眠りにつく。
 同い年のやつがサーフィンの大会で優勝したとネットニュースで見たけれど、「すげえな」くらいにしか思わなかった。サーフショップの息子に一緒に大会にエントリーしないかと誘われて、俺にとってサーフィンは競技ではないと自覚したのも高校に入ってからのことだ。

 あれはいつだったか、ブレザーではなくカーディガンを羽織っていたから春か秋。俺はその日、学校が終わってから海へ向かった。ウェットスーツも何も持っていなかったし、ベタ凪で、ただ海に沈む夕日をながめてみたくなったといったらセンチメンタル過ぎるだろうか。父が健康診断で引っかかって、再検査したら異常は見つからなかったという、たったそれだけのことで、俺は思った以上に心をかき乱されていた。
 相良に会ったのは海岸沿いの駅近くだった。同じクラスとはいっても親しくつるんだりすることはなく、けれど俺は彼のことが気にかかっていたし、嫌いではなかった。群れず、逆らわず、ただ穏やかに波に揺られ、ボードの先、ノーズだけは自らの進む方向に向けている。そんな印象が彼にはあった。
「帰り?」
 自転車を止めて聞くと、
「夕日見たくなって」
と返ってきた。彼のカバンからのぞくスケッチブック。どこか浮世離れした雰囲気のある相良にはその台詞が妙に馴染んでいた。
「相良、絵描くの?」
「夕日の?」
「そう」
 描かないよと相良は沈みかけた太陽に顔を向け、目を細めた。元々細い目が、糸のようになる。
「今は描きたい気分じゃない。瞬きするだけで見える景色は変わってくから、全部見終わってから描くかな」
「夜空を見ながら夕日を描くのか?」
「そいういう意味じゃないよ。でもそれもいいかもね」
 相良は柵を乗り越え、「じゃあまた明日」と一人砂浜へと歩いていく。俺は自転車を降りて相良の後を追った。
「俺も夕日見に来たんだ」 
 相良の隣に並ぶと、彼は落ちていた棒切れを掴み、砂浜に線を引きながらあてもなくフラフラと歩き、少しずつ波打ち際へと近づいていった。
 潮の匂い、風はヒヤリと夜の気配をまとっている。
「雨かな」
 西の空には所々に灰色の雲が棚引き、真っ赤な光を受けて不穏な影をつくっていた。太陽は時おり雲に身を隠しながら水平線へ迫っている。
 見上げた空はわずかに青さを残し、波の音が心地よかった。
「相良は美術系のガッコにすすむのか?」
 うん、と躊躇いなく返事が返ってきた。それ以外の選択肢など思いつきもしないというように。
「槇村は進学?」
「分からない」と答えると、相良は興味深そうにへえと唸った。
「就職?」
「いや、……専門学校っていうか、そういうの」
「大学じゃないんだ」
「うん。……調理師ガッコー。うち、実家がレストランしてて」
 店の名前を教えると意外なことに相良は行ったことがあると口にした。「親戚のねえちゃんが結婚したとき内輪で食事会をした」らしく、それはそう昔のことではなさそうだった。
「料理って芸術だって思った」
 すげーな、と続けた相良の言葉が、料理全般に向けられたものなのか、父に向けられたものなのか、俺が問い返すことはなかった。
 相良は持っていた棒でぐるりと自分のまわりに円を描き、空を見上げる。つられてその視線の先を追うと星がうっすらと瞬いていた。
「皿はキャンバスだ」
 その相良の台詞を自分が口にできなかったことが悔しかった。幼い頃は邪魔になるからと店から遠ざけられ、小学校のころに数回、まだ店の開いていない時間に厨房をのぞいたことがある。完成された料理がそこにあることはほぼ皆無で、けれど一度だけそれを目にしたことがあった。
 真っ白な皿に、あの肉がなんだったのかその時の俺には分からなかったけれど、濃厚な肉の匂いと、わずかに柑橘の香りと、ソースは鮮やかなオレンジとワインレッドの二種類が筋を引き、ひょいと父がつまんで俺の口にいれた緑色の葉はきっとクレソンだった。顔をしかめながらも「まずい」という言葉を我慢していると周囲から笑い声がおこり、フォークに刺さった一切れの肉を差し出される。口に入れるとそれは家で食べる牛肉、豚肉、鶏肉とも違っていて、赤みを帯びたその肉は何か特別な人たちだけが食べるもののように思えた。あれは試作品だったのだろう。
 俺は相良の持っていた棒でその円に描き足した。彼はそれを見て笑う。
「芸術とはほど遠い」
 俺がそこに描いたのはスマイルマークだった。
「そうか? 相良にとっての芸術ってなんだ?」
「なんだろう。自分と、世界と、そのもの……うまく言えないけどそんな感じ」
「俺は、皿に描いた芸術で誰かを笑顔にしたい」
 なるほど、と相良は納得したようにうなずき、ふと遠い目をした。
「沈む」
 その瞬間はあっという間で、夜と昼の境目はあいまいだった。

「大盛況ね」
 うふふと満足気に頬を緩める八角さんの向かいには、糸のような目で相良――笹原友弥が座っていた。食べ終わったデザートの皿の中央にはソースのあとが薄っすらと残り、彼はフォークの先を使ってそこにスマイルマークを描く。
「槇村の料理を食べる日が来るとは思わなかった」
「俺も、相良の料理を食べたような気分だ」
 俺の言葉で、相良は壁に掛かる自身の作品に目を向けた。八角さんの提案で笹原友弥の個展にあわせて「ラ・ブランシュ」で会期限定のコースメニューを振る舞っている。飾られた絵は「追憶の海」と名付けられ、これも会期限定で展示していた。
 直径五十センチほどの白く丸いキャンバスが左端に、前菜は暁の海。描かれる海と空は朝を迎えて次第に青く輝き、夕空は茜に染まり、デザートは星のきらめく夜空だった。締めくくりの右端のキャンバスには当然スマイルマーク。それは俺が描いたものだ。
「ササハラ先生」
 俺がそう呼ぶと相良は苦笑する。
「ササハラ先生はいつ絵で食っていこうって決心した?」
 彼は特に悩むでもなく「覚えてない」と表情も変えぬまま口にした。
「槇村シェフは?」
 あの暮れていく夕空を思い出しながら「俺も覚えてない」と答えたあと、その言葉は間違いでなないと、幼いころ見上げた父のコックコート姿を脳裏に描いた。来年で七十になる父親は、まだ現役で「シェ・マキムラ」の厨房に立っている。
「料理は芸術だね」
 相良はそう言って、スマイルマークとは程遠い、緩い笑みを俺に向けた。彼はこれからも白いキャンバスに芸術を、「自分と、世界と、そのもの」を描いていくのだろう。俺はこれからも皿の先にある笑顔を求めて、数え切れないほどの白いキャンバスに想いをのせていく。
「芸術じゃなくていいよ。食べた人が笑顔になればそれでいい」
 俺の言葉に、相良は「なるほど」と納得したように頷いていた。

〈了〉

海風と、色とりどりの飴玉は

 レースのカーテンが揺れていた。
 もとは真っ白だったその布は、柔らかく風を纏いゆらゆらと乳白色の陰影を浮かべ、くすんだ色が経た時の長さを感じさせた。
 窓を開けたのはいつぶりだろう。
 閉ざされた扉の向こうに、この部屋はずっとあり続けていた。

 姉は美しい人だった。
 真白なカーテンの脇に立ち、ゆるりと吹き込んだ風がその髪をかきあげ、陽を透かし、ふと彼女が私に気づいて身をかがめると、白い肌に朱の唇が際立っていた。
 ヒロコのほっぺはりんごみたい。
 口の端をあげ、ガラス瓶からいくつか飴玉を取り出して私に握らせる。姉の手はいつもあたたかかった。
 テーブルには封のあけられた手紙があり、便箋には右上がりのひどい癖字で何か書いてあるようだった。私がのぞき見ようとすると姉は優しくダメよと言い、するりとその紙を隠してしまう。ヒロコはこっちと差し出されるのは裏の白いチラシと色鉛筆で、居間でお絵描きしようと手を引かれた。
 ときおり、姉と二人で出かけた。手をつなぎ歩く海沿いの道で、「仲良しねえ」といつも同じ言葉をかける干物屋の小母さんがいた。姉は遠目にその干物屋をうかがい、避けるように足早に海だけ見つめて歩いていた。そうして、その先にある円筒型の古びたポストに手紙を投函するのだった。幼い私に読めたのは宛名のほんの一部で、誰への手紙なのかと問うても「遠くのお友達よ」と、姉がそこにある漢字の読み方を教えてくれることはなかった。
 一度だけ、おねえちゃんはあのおばさんが嫌いなの、と聞いたことがある。ポストの前でふたり佇み、ちらと姉が背後を振り返るのにつられて干物屋に目をやると、そこには前掛け姿の小母さんが立っていた。手を振ってくるその人に、姉は会釈を返した。
 そんなことないわ、おばさんはいい人よ。
 諭すように私にそう言った姉はどこか居心地悪そうで、私はふうんとうなずいて、もうこの話はしないことにした。
 あの頃の姉はたしかに姉であり、そして一人の大人の女性だった。

 ある朝、それは何かの予感のように、私は普段よりずいぶん早く目を覚ました。まだ父も母も布団のなかで、体を起こすと母がなあにと眠そうに目をこすり、私はトイレと答えて部屋を出た。
 階段を降りると、姉の部屋の扉がわずかに開いており、そろりと中をのぞき込んだ。二日に一度は共に眠る姉のベッドに、私はこの時もぐり込むつもりでいた。と、潮の匂いが風とともに頬をなでた。
 カーテンが風をはらみ、半分ほど開いた窓がカタカタと小さな音を立てた。波と、車の音がかすかに聞こえた。おねえちゃんと口にしながら、そこにあのぬくもりがないことは明らかだった。
 不意に、姉はいなくなったのだと悟った。残り香をすべて消し去るように風を入れ、朝の冷やりとした空気が、ここには誰も戻ってこないのだとささやいた。
 テーブルのうえにはガラス瓶があり、飴玉は目一杯に詰め込まれていた。私はその飴を一日にひとつずつほおばり、それが半分ほどになっても姉が戻ってくることはなかった。
 両親が慌てふためいたのは姉がいなくなったその日だけで、父がかけた何本目かの電話のあと姉の部屋に二人でこもり、そうして出てきた時には「おねえちゃんはしばらくおでかけだから、さみしいかもしれないけどがまんしなさい」と父は私の頭をなでた。母は口をつぐんだままで、口元に小さく笑みを浮かべていたけれど、その目元は赤く腫れているようだった。
 父が出張で家を留守にしたある日、私は母が買い物に出かけている間にこっそり姉の部屋に忍びこみ、あの手紙を探した。けれど、姉が持ち去ってしまったのか、それとも両親が隠してしまったのか、一通たりとも見つけることはできなかった。

 姉が姿を消してひと月ほども経った頃だったろうか。母と手をつないで海沿いの道を歩いていると、干物屋の小母さんが「元気?」と声をかけてきた。母はいつかの姉と同じように居心地悪そうな笑みを浮かべ、ちょっと待っててねと私を遠ざけて二人で話しはじめた。
 道の端で寄ってきた野良猫と戯れながらチラチラと二人の様子をうかがい、何度か小母さんと目が合った。私はどこか居心地悪く、姉があの小母さんを避けた理由がなんとなく分かるような気がしたのだった。
 私が姉からの手紙とも呼べない小さな紙片を見つけたのは、ガラス瓶のなかの飴玉がもう残り少なくなってからのことだ。瓶の底に小さく折りたたまれた紙があり、「ヒロコへ」と青みがかったインクの文字が見えた。

 ごめんねヒロコ。いつか必ず迎えに行くから親子三人で暮らそうね。

 走り書きの文字を前に、両親には見せてはいけないものだと思った。
 どくどくと心臓が鳴り、頭は真っ白になる。階下から私の名を呼ぶ母の声が聞こえ、我に返ってガラス瓶の底にその紙を戻した。私はその瓶を部屋に持ち帰り、自分で買った飴玉を蓋が閉まらないほどいっぱいに詰め込んで引き出しの奥にしまい込んだ。
 親子三人。
 その意味から目を逸らし、私はあの部屋のことを頭の端に追いやった。

 小学校を出て中学に入り、高校になっても姉からの連絡はなかった。ときおり姉に似た後ろ姿を見つけては逃げるように駆け出し、そっと後ろを振り返ってその人ではないことに胸を撫で下ろした。と同時に言いようのない寂しさが雨のように降りそそぐ。
 干物屋の先のポストはいつのまにやら撤去され、そのうち干物屋の暖簾が軒先に掛からなくなり、デイサービスの車がその前に停まるようになった。小母さんと最後に挨拶を交わしたのがいつだったのか、よく覚えていない。
 この頃になると、自分が誰のお腹から生まれたのか、その事実から逃れることは考えなくなっていた。懐かしいぬくもりを私の心は変わらず求め、その一方で置き去りにされたという気持ちは拭い去ることができずにいる。
 姉――いや、「母親」が突然迎えに来るかもしれない。そんな緊張もいつしか麻痺していた。
 高校の卒業式が終わったのは二週間ほども前のことだ。私はまだ、あの日の姉の年齢にはとどかない。そして、今日この家を出る。
 レースのカーテンが揺れ、潮の匂いがした。
 キィとドアの軋む音とともに、ヒロコと名を呼ばれて振り返る。ドアの脇に立つその人は、どこか淋しげな笑みを浮かべていた。

 いつだったか、引き出しの奥にしまっていたガラス瓶の色とりどりの飴玉が、瓶のなかで微妙に色の位置を変えていた。あの走り書きの紙切れは瓶の底に入れたままで、そのとき私はふと肩の荷が下りたように感じた。
 両親から姉の話をしてくることはなかった。もともとこの家の子は私一人だったというように、姉の存在は部屋のなかだけに閉じ込められていた。けれどその部屋はとっくの昔にもぬけの殻で、私はそのことをようやく今になって知ったのだ。鍵などかけられてはいないのに、頑なにそこに立ち入ることを拒み、ざっくりと引き裂かれた自分の内側から目をそらしていた。
 いつの間にかタブーになっていた「おねえちゃん」という言葉を耳にしたのは、昨夜の夕飯のあとのことだ。
 ヒロコ、おねえちゃんに会いたいか?
 緊張しているのか父は膝のうえでぎゅっと拳を握りしめ、母は食べ終わった食器を手に椅子から立ち上がった私を、縋るような眼差しで見上げていた。言葉を失った私に、母はエプロンのポケットから一通の封書を差し出す。宛名は母の名前で、裏を返すとそこには姉の名が、知らない名字の下にくっついていた。その横に右上がりのひどい癖字で男の名が並んでいる。
 私はそこにある文字を見つめ、自分が二つに引き千切られるような感覚をおぼえた。
 裂けたのはその手紙だ。
 衝動のままに破った封書を手に自室に駆け上がり、引き出しをあけた。とっくの昔に色をなくし、紙片だけがポツンと取り残されたままのガラス瓶。それを両手で掴んで、思い切り床に叩きつけた。手紙もくしゃくしゃにして壁に向かって投げた。
 その音を聞きつけたのか、私の泣き叫ぶ声が階下まで響いたのか、勢いよくドアを開けて部屋に飛び込んできた両親は、散乱するガラス片を脇に避け私を抱きしめた。
 きっと、あの時から私の時間は止まっていたのだ。溜め込んだ十年分の涙は、海の水のようにしょっぱく、そして姉の手のひらのようにあたたかかった。

 カーテンが風をはらみ、半分ほど開いた窓がカタカタと小さな音を立てた。波と、車の音がかすかに聞こえる。
「なあに? お母さん」
 母はまぶしげに目を細めた。
 自分の口から出た「お母さん」という声、その言葉にはこれからも違和感が添いつづけるのだろう。
 母であり、母でない人。その手にはテープで繋ぎ合わせたあの手紙があった。皺をのばした小さな紙片とともにそれを私に握らせ、両手で私の手を包み込む。
 あの人は、この手のぬくもりを覚えているのだろうか。私のぬくもりを懐かしむことがあるのだろうか。
 まだ読むことのできないその手紙は、けれど確かなぬくもりをもって私の手のなかにあった。それをスーツケースの奥にしまい込み、私は生まれ育った海沿いの家をあとにした。

〈了〉
 

塩の短編

続きます(新作が出来次第追加掲載。掲載順は変更することがあります)

塩の短編

他サイトにて砂東塩名義で書いた作品 エブリスタ掲載

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