カンフー少年

金 盛民


                              一

 うっそうたる杉の森が延々と連なる山道を、少年はマウンテンバイクを押して登りはじめた。
 そびえる大木の木々が傘状に広がり、ところどころに青空が顔をのぞかせる。渓流の流れがこんこんとほとばしり、日差しにぴかりときらめく。鳴き続ける鳥のさえずりが、静かな森の上空でこだまする。
 なだらかな坂を登ったところに、こじんまりしたあずまやがあった。マウンテンバイクを道路わきの木によせかけ、少年はバックを持ってあずまやに向かった。
 ベンチに腰をおろし、バックから手ぬぐいを取り出し、汗にまみれた顔を拭いた。背中を柱にもたせ、大きく息をする。さわやかな空気が胸に流れ込み、疲労困憊がとっさに抜けるような気がした。
 緑豊かな森が果てしなく伸び広がり、遠くの山腹にうっすらと雲が浮いている。美しい南アルプスの景観を目の当たりにして、感激で胸が躍り出した。ここであらたな人生をスタートさせ、修行の日々を送るかとおもうと、心底期待が膨らみかけた。おもわず過去の苦しい思い出が脳裏に浮かんだ。
 名だたるk大付属高校に入り、竜司は張り切って勉学に励んだ。成績はつねにクラスのトップを走り、スポーツ神経も抜群だった。小学校からはじめた空手が得意で、周りから熱い視線を浴びせられた。しかし、おもわぬ試練が、突如頭上にのしかかった。
「てめえ、おれと勝負しようぜ!」
 ある日、学校の裏庭で鉢合わせになった、三組の山井昇が彼を睨みながら吠えた。背が高く、筋骨隆々な山井は格闘技が優れ、気性も荒っぽく、名を知られた恐れられる存在であった。
「俺はまともな人間だ、あんたとは違う」
 竜司は冷静に答えた。やくざっぽい相手を心底さげすんだ。
「みんな聞いたか、こいつはビビっとるぜ」
 山井はニヤニヤしながら吠えた。周りの仲間らが笑いを飛ばした。
「あんたなんか、こわくないぞ!」
 竜司は目をむいて叫んだ。
「じゃ、かかってこいよ!」
 山井はせまりよってきた。竜司は口をゆがめて身構えた。
 突如、一発のパンチが彼の頭を打った。竜司は目に火花が散り、おもわずよろめいた。二発目のパンチをかわし、足払いで相手のすねをけった。山井は少し体を揺らした。
 しばらく、激しい打ち合いが交わされた。竜司は段々力が弱まり、つい数発の連打を浴びてしまい、その場にくずおれた。
「てめえ、これから俺の犬になるんだぞ!」
 山井は彼の髪をつかんでどなり散らした。竜司は怒りの目で相手を睨み返した。
 この日を境に、屈辱的な日々が続いた。折れようとしない竜司に対し、山井は同級生らが見守る中、悪罵を浴びせたり、殴り飛ばしたりした。
 やがて、竜司は登校を拒むようなり、家に引きこもってしまった。一日中テレビと向き合い、時には奇声を上げたり、手当たり次第に物を投げたりした。壁はボロボロになり、部屋中がゴミだらけになった。
 優しい言葉でなだめる父と母に目もくれず、ドアを閉めて殻に閉じこもった。大手電機メーカでつとめる父は真面目な性格で、ドア越しに優しい言葉をかけてくれたりした。母は悲嘆にくれながら、毎食の食べ物をお盆に載せてドア口に置いてくれた。用をたすに限り、彼は廊下に足を運んだ。
 荒れ狂って一カ月も経ったある土曜の昼下がり、叔父がドアを蹴破って入ってきた。やせぎすの父とはまるで違い、背が高く、筋肉隆々たる大男である。頭はみじかく刈り込み、日焼けした顔は威厳に満ちあふれる。大阪の某私立大で空手監督をつとめ、竜司に空手を教えてくれた師匠でもあった。
「お前、なにさまのつもりだ!」
 叔父は顔を真っ赤にしてどなり散らした。竜司はおもわず腰を浮かして頭を下げた。父と母がドア口に立って見守っている。
「お前がこんな弱い男とはおもいもしなかった。さ、おれと散歩に行こうぜ」
 叔父は威厳に満ちた目つきで彼を睨んだ。竜司は肩を落として、呆然と床をみつめた。
「俺の話が聞こえんか!」
 叔父は大きな手で彼の胸倉をつかみ、ドア口へと突き放した。彼はよろめきながら廊下を歩き、階段を下りていった。
 母のクラウンの助手席に押し込まれ、竜司はぼうっとした目つきで前を見つめた。叔父は無言でハンドルをさばき、田園調布の閑静な住宅街を走り抜けた。
 しばらく走り、クラウンは多摩川玉川公園に乗りつけた。叔父はいかつい顔で彼をみやり、大股で歩き始めた。竜司は肩を落とし、ふらふらとついていった。家に一か月も引きこもり、体がすっかりよわっていた。
 叔父は川辺の歩道にあるベンチに腰を落とし、座るよう目くばせする。竜司はゆっくり腰をおろし、川面をぼうっと眺めた。
川水はゆったりと流れ、初夏の陽光に燦然と照り返した。
「きみのことは耳にしとる。相手に打ち負かされたって、そこまで落ち込むとはお前らしくないな」
 叔父はおだやかな表情で切り出した。先とは打って変わり、柔和な目つきで彼を見つめる。
「お前の人生はまだ始まったばかりだ、長い道のりが待ってる。今弱いからといって、将来も弱いってことはない。目立たぬ弱者が強くなって、偉いことを成し遂げた事例はいくらでもある。お前はくだらない敗北で落ち込こんで、めそめそと悩んどる。みっともないとおもわんか」
 叔父はじっと彼を見つめながら言い含めた。竜司は依然と川面を眺めながら、黙々と聞いていた。
「それところか、お前は死にたいとまでやけっぱちになっとる。死とは何を意味するかわかっちゃいない。ほら、あれ見ろ。死んだら朽ち果てて、土に戻るにきまっとるぜ」
 叔父は目先の草地にころがる、動物の骨らしきものに蟻が群がっているのを指さした。骨を這い回る蟻の群れを、竜司はぼうっと見つめていた。
「死にたいなら、むしろそのパワーを振り絞って、明日へ向かって頑張ればいいだけの話だ。この難関さえ乗り越えれば、必ずやあらたな道が切り開かれ、素晴らしい将来を迎えられるぞ」
「……」
 竜司はちらっと叔父を見返した。
「どうだ、心を入れ替えて、明日から再スタートしようぜ」
 叔父は左手で彼の肩を抱えながら、優しい声でさとした。
「わかりました」
 竜司はか細い声で答えた。
「俺の知り合いで、郭泰宇というカンフーの名士がいる。推薦状を書くから、南アルプスの山の中で修行したらどうだ。勉強は高校通信教育を利用すればいい。カンフーで体と心を鍛え、強い男になって戻ってくるんだ」
 叔父は両手で彼の肩を掴んで自分に振り向かせ、決然とした口調でいった。
「わかりました」
 竜司ははじめて顔を上げ、叔父を見つめながら答えた。消え失せた精気が、瞳に浮かびかける。
「さ、決まったぞ。のちほど自転車販売店にいって、マウンテンバイクを買ってやるから、来週早々出発しなさい」
 叔父は顔をほころばせていった。……
 突如、けだものの吠え声がなりひびき、竜司ははっと目が覚めた。いつしか、ぐっすり寝入ってしまったのだ。
 夕焼けが西空を真っ赤に染めていた。
 竜司は急いでバックを取り上げ、足早にあずまやを後にした。マウンテンバイクに飛び乗り、下り坂を駆け下りていった。


                              二

 森の真ん中に伸びる石畳みの道を、竜司はマウンテンバイクを押して歩いた。杉の大木が林立する森は夕暮れに溶け込み、いささか不気味さを募らせる。
 しばらく歩いたら開けた芝生が現れ、垣根越しに瓦屋根のほこらが目に飛び込んだ。開けっぱなしの木の扉を踏み入ると、右手に白い三階建てがあった。
 マウンテンバイクを建物のわきにおき、ドアに近寄ってベルを押した。
しばらくしてドアが開かれ、中年女性が顔をのぞかせるのだった。紅潮した顔で来意を告げると、女性は笑顔で通してくれる。
 玄関入口の正面に大きな仏像がおかれ、左手に螺旋階段が伸び広がる。廊下の最初のドアをはいったら、二十畳ほどのリビングルームがあった。真正面に大型テレビと、ソファセットがおかれ、壁には南アルプスの山水画の額がかけてある。
 竜司はバックを床において、ソファに腰掛けた。中年女性がお盆を持ってきて、茶碗をテーブルにおいてくれる。
 しばらくして、階段から足音がひびき、紺色の装束のおじいさんが降りてきた。竜司はあわてて飛びあがり、深々と一礼した。
「滝川竜司と申します。よろしくお願いします」
 おじいさんは座るようにいいながら、向かいのソファに腰を下ろした。日焼けした顔は威厳が漂い、白いひげは仙人をほうふつさせる。
 竜司はバックから封筒を取り出し、両手で差し上げた。
「きみの叔父さんは誠実で、正義感が強い立派な男だ。きみも叔父さんのような人物になるべきだ。さっそく本題に触れるが、武術を身につけるためには、まず心を清め、確たる信念を持つべきなんだ。」
 おじいさんは手紙を折り畳み、彼をじっと見つめながらいった。
「おじいさんの教えにしたがいまして頑張りますので、ぜひよろしくお願いします」
 竜司は赤らんだ顔で懇願した。
「武術を習うには、まず基礎からしっかり勉強するのが大事だ。毎朝起きたら、まずほこらに入って合掌し、心を引き締めるんだ。それから水桶をもって滝壺にいって、水を運んできなさい。ちょっと遠くでしんどいが、この難関を乗り越えられなければ話にならない。なにかあったら、美千代さんに相談しなさい」
 おじいさんは言い終えると、腰を折って一礼する竜司を一瞥し、部屋を後にした。
 美千代が現れ、竜司を廊下の奥のほうに通してくれる。廊下を歩き、突き当たりの部屋の前で停まり、ドアを開けてくれた。
「シャワーしてから、ダイニングルームにきなさい」
 美千代はやんわりといいながら、ドアを閉めてくれる。
 竜司は立ったまま、室内を見回した。八畳ほどの部屋の一角にベッドがおかれ、窓の前に机と椅子があり、壁にはエアコンがかかっている。窓越しには緑の木々が伸び続く。
 押入れを開けたら、上段に蒲団が積み重なっていた。バックを開け、衣類を一枚ずつ畳み、下段に積んでおいた。
 裸でバスルームに入り、蛇口を開けると、熱いお湯が噴き出した。熱いお湯を浴びながら、竜司はしばらく目を閉じておもいに浸った。

 翌朝、目ざまし時計の音に目が覚めたら、時計の針は六時を指していた。竜司はバスルームに駆け込み、歯磨きをし、顔を洗い、ジャージを着て部屋を飛び出した。
 ほこらに踏み入ると、真正面に鉾を手にした古代武将の彫像が鎮座する。威厳に満ちた顔に、みごとなあごひげが目を奪う。竜司は一目で、「三国誌」の英雄、関羽であるとわかった。その漫画をこよなく愛し、いくどとなく読み返したのだ。
 竜司は合掌しながら、深々と腰を折った。これからは武術に励み、将来社会に役立つ人間になりたいと心に誓った。
 美千代から渡された天秤棒を受け取り、二つの水桶をひっかけて肩にのせ、よろよろと庭を後にした。
 林の中を伸びた狭い坂道を歩いたら、すんだ森の空気が肺を満たし、清々した気分に浸った。鳥のさえずりが森の空でこだまし続ける。
 やや一キロ歩いたら、だんだんと水音が大きく鳴りかけた。やがて、真っ白い水柱がほとばしる滝が現れた。滝壺の水は澄み渡り、底が透けて見える。
 竜司は天秤棒をおろし、着物を脱ぎ捨て、真っ裸のまま滝壺に飛び込んだ。冷たい水に体がこわばる。
 竜司は両手で水をさばき、白い水煙へとすすんだ。滝の真下にたどりつき、ややたいらな岩にのぼり、滝の水を頭から浴びせられた。しばらく目を閉じ、瞑想にひたった。
 滝壺から這い上がり、タオルで体を拭いた。ジャージやズボンを身にまとい、水桶で水を汲み入れ、天秤棒で担いで歩こうとしたら、よろめいて水が飛び散った。
 竜司はふたたび天秤棒を肩にのせ、ゆっくりと歩き出した。よろよろと数十メータすすみ、またも天秤棒をおろした。同じ動作をくりかえしているうちに、だんだんと慣れてきた。
「疲れたでしょう、そのうち慣れてくるわ」
 天秤棒をうけとりながら、美千代が笑顔でいった。水桶に半分しか残っていない水をみやりながら、竜司は顔を赤らめた。
 朝食の後、竜司は部屋に戻り、ノートパソコンを開いた。
 学校での同じ科目の授業を、インターネット通信講座を通して勉強することになった。頭の回転が速く、とりわけ理科はお手の物だった。勘がとびきり鋭く、一を習えば十を知り尽くすのである。
 昼食後、竜司は玄関を飛び出し、森の中へと駆け込んだ。
 うっそうとした森の中を歩き回り、自分なりの思いをはせた。一年前の夏休みに、友たちと御嵩山に遠足に行ったことがあった。その時の楽しい思い出が胸に浮かんだ。叔父に勧められたとき、すんなり受け入れたのも、その思い出に駆られたからだった。しかも、ここはスケールがはるかに大きく、壮大な山と森の絶景が延々と広がるのだ。
 杉やヒノキの大木が天を衝く勢いでそびえたち、緑の枝が天幕を張って伸びる。枝葉の隙間から無数の筋の光が漏れ差し、神秘な色彩を放つ。
 ふと、ヒノキの枝の上で飛び回るリスに目がとまった。リスは彼を無視するかのように、跳ねまわっている。
 竜司はとっさに大木の枝をつかんで登りはじめた。リスは彼を挑発するかのように、わずかの距離を置いて彼を睨む。五メーターほど登ったところで、竜司はあきらめざるをえなかった。所詮、自分はリスにはかなわないからだ。
 

                               三

 朝日が昇りかけるころ、森の開けた草地で、竜司はゆっくり両手を広げながら太極拳をおさらいしていた。あっという間に二か月が過ぎ去り、心も体も一段と成熟しつつあった。
 恒例の合掌礼や、天秤棒での水運びをして二週間たったころ、おじいさんはカンフーの基本を教えてくれた。
 足蹴り、回し蹴り、逆蹴り、迅速かつ俊敏に跳ねまわる。蛙飛びとは、うずくまった姿勢で飛び上がったりして、足の筋肉を発達させる。
 十キロほどのハンマを取り上げ、地面に食い込んだ杭をめがけて数十回振りおろし、手や腕の筋肉を鍛える。両手にレンガをつかみ、力強く前へ突き出し、指や腕の筋肉を鍛えた。
 木の枝につるしたサンドバックを素手でたたきつづけ、拳の強打の力を鍛えた。両のすねに一キロの砂袋をくくりつけ、数百メータを走り抜け、急な坂道を往復する。坂道を登るときは息切れし、苦しかった。
 この一連の基本動作を、朝夕に二、三時間ずつくりかえしトレーニングした。体はびっしょりと汗でまみれたが、心は充実感に満ちあふれた。
 カンフーの基本がしっかり身につき、日に日に発達する高揚感に胸が躍った。この基本的修練を三、四年、毎日のように積み重ねてこそ、武術への入門が成り立ち、真の武術家になれると念を押されたのだった。

 シャワーを浴びてから、竜司はTシャツ姿でダイニングルームに向かった。
「あなたは辛抱強く、有能な少年だと、おじいさんがほめていたわ。勘がすぐれて、立派な武術家になれるって」
 お盆で運んだみそ汁、煮魚、海鮮サラダ、焼き鳥、ご飯を食卓に並べながら、美千代は笑顔でいった。竜司は紅潮した顔を食卓に向けたまま黙り込んだ。内気な彼は、褒められるのが苦手だった。
「今月分は入金されましたか?」
 竜司はやっと口を開いた。月額十八万の代金を、毎月月末に振り込む約束だったのである。
「ちゃんと入金しているの、安心しなさい」
 美千代はビール瓶とグラスを持って、向かい合って座りながらいった。
「おじいさんは最近みえないですね」
 竜司はやっと口を開いた。美千代とは食事の時にだけ顔を合わせるが、黙々と箸を動かし、耳を傾けがちだった。
「おじいさんはご多忙な身なの。町で漢方クリニックを経営なさいまして、平日は町の自宅に泊まり、週末だけにここの別荘に戻ってくるの」
 美千代はグラスを片手に、静かな語調でいった。
「漢方クリニックですって?」
 竜司は目を大きくして問い返した。クリニック経営のことは初耳だったのだ。漢方とは、せんじ薬や、針きゅうで病気を治すことだと知っている程度だ。
「おじいさんは有名な漢方医なの、多くの人々が難病を治療するために駆けつけてくるの」
 美千代は微笑みながら彼を見つめ、グラスを傾ける。
「……」
 竜司は手をとめて、しばらく思いをめぐらした。
「どうしたの?漢方に興味があるの?」
 美千代は微笑みながら冗談口でいった。
「いいえ、わたしは一生懸命に武術で心身を鍛え、カンフーの達人になりたいです」
 竜司は真面目な顔で答えた。彼は心底切望していたし、日々の過酷な修練を積み重ねてきたのだ。
「あなたはきっと、カンフーの達人になれるのよ」
 美千代は笑顔でいった。
「ありがとうございます」
 竜司は微笑をたたえながらいった。

 真夏の夕立が降り注ぐ森の中を、竜司はゆっくりと足を運んだ。雨の中で森を散策するとは、爽快な気分にひたる気がした。
 うっそうとした森へと伸びた細道をたどりながら、自分なりのおもいをめぐらした。大木が天を衝く勢いで延々と広がり、不気味すらもよおされる気がした。森が深く、猿や熊が横行するから危ないよと、おばさんに念を押されたものだった。
 しかし、冒険心に駆られ、竜司はわざわざ駆け込んできたのである。カンフーを修練するからには、強い意志を鍛えるのが大事だと奮い立ったのだ。
 いつの間にか雨が上がり、空は青々と広がる。竜司は濡れたシャツを脱いで肩にかけ、なだらかな坂を登っていった。ヒノキの大木が群がり、背丈ほどの草がぼうぼうと生い茂る。
 坂を登りきったら、やや開けた草地が見えてきた。草地の端には、平らで、大きな岩があった。岩にのぼったら、開けた景色が一望に広がる。
 山の稜線が起伏して連なり、緑の森が果てしなく伸び広がる。
 下をのぞいたとたん、おもわずはっと息をのんだ。なんと、数十メーターもある絶壁が下へと伸び続き、めまいがする気がした。清らかな渓流が真っ白くつらなり、夕日にきらりと光りをはなつ。
 竜司はシャツを広げて岩の上にしいて、仰向けに寝そべった。片手を額にのせ、眩しい光を遮った。
 先日、両親への初の手紙を書いたのだ。家を出るとき、自分から連絡しない限り、手紙を出さないよう、母に念を押したのである。全身全霊武術の修練に集中するためだといった。手紙の冒頭で、落ち込んで家に引きこもり、両親に心労を与えた自分の非をあやまった。なお、二か月余の生活ぶりや、おじいさんの教示のもとで武術が上達した概要をしたためた。
 ふと、けだものの吠え声が遠くの森の中で響き渡る。竜司は両足で宙をけって飛び上がり、シャツを拾って駆け出した。
 しばらく走ったら、吠え声が断続的に聞こえてきた。大木が天を衝く勢いで群がり、枝葉が空を遮り、森の中は薄暗かった。
 やがて、吠え声がはっきりと聞こえてきた。竜司は木々の上を仰ぎ見ながら、歩を進めた。
 突如、甲高い吠え声が耳をつんざいた。高い枝に一匹の猿がうずくまり、警戒に満ちた目つきで彼を睨みつける。隣の木の枝にも二匹の猿が枝の間を飛び回り、吠え声を放つ。
 竜司はゆっくりと前へ進んだ。高い枝のところどころに猿が陣取り、敵意に満ちた目つきで彼をにらんだ。吠え声が騒々しく鳴り響き、竜司は背筋に寒気を覚えた。
 突如、くぐもった吠え声がひびいた。目を向けたら、体が一回り大きな猿が怒りに満ちた目で彼を睨みつける。こいつがボスだ、竜司はとっさに身構えた。
 動物漫画やアニメに興味深い彼は、さまざまな動物への知識を持っていた。アフリカの猿は獰猛で、豹とも闘うほどの迫力の持ち主であると知っていた。
 ボスは枝を飛び降りながら、じっと彼を睨んだ。彼の頭上の枝にうずくまり、吠え声を上げ続ける。竜司はシャツを手に握り、じっとボスを睨み返した。
 突如、ボスが枝から飛び降りて、彼をめがけて飛びかかった。竜司は首をすくめ、さっと相手をかわした。
 ボスは地面にうずくまり、すごんだ形相で彼を睨む。口をゆがめ、両の犬歯をむき出して威嚇する。竜司は一歩も引かず、ボスを睨み返した。木々の上の猿の群れは緊張した顔で、ボスの動きを見つめていた。
 野太い吠え声を上げながら、ボスが猛然と飛びかかってきた。竜司はさっとかわしながら、右手にしたシャツを振りまわした。
 ボスは立てつづけに彼に飛びかかり、鋭い爪で彼をひっかきまわした。湿っぽいシャツが鞭と化して、ボスの顔や体に命中した。
 しばらく交戦が続いた後、互いに面と向かってにらみ合った。ボスは怒りを湛えた目つきで竜司を睨みつける。
 竜司は額ににじんだ汗をシャツで拭きながら、ボスを睨み返した。さすがにボスの勇猛な戦いには心から脱帽した。
「いてえ!」
 竜司は、おもわず顔をゆがめながら弱音を漏らした。左の腕をみたら、一筋の赤い傷が走り、血がにじみ出ている。
「お前!よくもこの俺を傷つけたな。今日はお前の勝ちとしよう。でも、今度会ったら懲らしめてやるからな」
 竜司はボスを睨みながら、ゆっくりと後ろに引きさがった。ボスは赤い口を開けて吠え声を上げ、勝者の威勢を誇示する。鋭い両の犬歯が、すごんだ形相をさらけ出した。
 竜司はボスを睨みながら、一歩ずつ下がっていった。もし身をひるがえしたら、ボスがまたも獰猛に飛びかかってくるからだ。
 薄暗い森の中を歩きながら、竜司はボスとの戦いを思い返した。
 ボスはさすがに勇猛果敢な闘士さながらだ。群れを守るために、縄張りに侵入した敵を容赦なく攻撃する。そのみごとな瞬発力、目まぐるしく突き出す鋭いパンチ、素早く飛び回る俊敏さ、実に鮮やかな戦いぶりである。
 もし闘い続けたなら、体に無数の傷を負ったに違いない。適時に引きさがった自分なりの冷静な判断に、竜司は胸をなでおろした。そうだ、ボスの闘い本領を見習うべきではないか。自分の武術に組み合わせ、さらに強いカンフーを身につけようじゃないか。
 竜司はシャツに腕を通し、暗闇に覆われた森の中を勢いよく走り出した。

「どうしたのよ?」
 美千代は彼の左腕の傷に、消毒液を塗りながらたしなめた。竜司は染みる痛みに眉をひそめた。
「ちょっとすりむいただけです」
 竜司は平然とした顔でいった。
「あの南の山麓の森に入ったでしょう?」
 美千代は咎める口調でなじった。
「……」
 竜司は黙々と、ダイニングルームの壁に据え付けたテレビの画面を眺めていた。
 「いったでしょう。あの森には猿の群れや、毒蛇や、熊など、危険な動物が横行しているって」
美千代は薬を塗りながら、怒った表情で彼をみつめる。
「わかりました」
 竜司は淡々とした表情で答えた。
「この前、おじいさんの友人がいったの。あの森には猿の群れがそれぞれの縄張りをもっていてさ、王様と呼ばれる猿が率いる群れがもっとも危険だって。体がでかく、獰猛で、群れを連れて町を襲ったりしてさ、人の家に侵入しておいしいものをかっさらって逃げるってね。それところか、人を襲ってけがすら負わせるって。あの王様は何人もけがをさせて、その首に賞金をかけて追っかけているって。猟友会が何度も待ち伏せしたが、まんまと逃げられちゃったそうよ。王様は動きがとびきりすばやくてね、銃弾ですら避けるって。ね、信じられないでしょう」
美千代は彼の腕にガーゼを巻きながらいいまくった。
〈今度こそ、俺がやつを懲らしめてやるからな!〉
 竜司は心底毒づいた。
 竜司は食卓に並べられたおかずをぼっと見つめながら、おもいにふけった。牛肉ジャガイモの煮物、わかめサラダ、アジの焼き魚、レバニラ炒めなど、いずれも彼の好物だった。
「どうしたの?食欲ないの?」
 美千代は芋焼酎のウーロン割りのグラスを手にして、向かいの椅子に座りながら訊く。
「いいえ、ちょっと考え事をしただけです。おばさんの手料理はほんとうにおいしい、しかも毎日のように違った料理を作るってすごいです」
 竜司は微笑みながら賛辞を口にした。毎日の三食はとりどりの肉や、魚や野菜など料理が並べられ、栄養満点かつおいしかった。
「ありがとう」
 美千代は笑顔で答えながら、ウーロン割りを一口あおる。
「おばさんはここで長いですか?」
 竜司は箸で牛肉をとりながら訊いた。三か月の生活を経て、手厚い配慮に心を打たれ、実のおばさんみたいに慕うようになった。
「ここにきて、もはや十年も経っているわ」
 美千代はグラスを傾けながら、ぼそっとつぶやいた。さびしい色が顔に浮びあがる。
「立ち入ったことを訊いてすみませんが、お手伝いさんとして働いたんですか?」
 竜司は焼き魚をほおばりながら訊いた。
「実はね、おじいさんに命を救われたの」
 美千代は顔をくもらせつつ、焼酎ボトルをグラスにかたむける。
「それはどういうわけで……」
 意外な言葉に胸をうたれ、竜司はわかめをはさんだ箸をもったまま、美千代をじっとみつめた。
「悪い男に騙されて、二千万の借金を背負わされ、死ぬつもりで山に入ってきたの。崖を飛び降りようとしたとき、おじいさんに止められたの。それから、住み込みで働くようになったわ。おじいさんは命の恩人なの」
 美千代はグラスをかたむけ、一口飲みながらいった。
「すみません、つらいことを思い起こさせて……」
 竜司はトマトジュースグラスを持ちながら、弱音を吐いた。
「かまわないよ、人生はそういうものなの。楽しいときもあれば、つらいときもある。いかなる絶望であれ、山を越えていけば、新たな人生が繰り広げられる」
 美千代は微笑みながら、竜司を見つめ返す。
 竜司はテーブルのおかずにくぎつけながら、箸をゆっくりと動かした。
 武術の修練で体を鍛えたばかりでなく、確たる人生観が芽生えるようになった。意志が強くなりつつあることを、初めて実感したのである。


                                四

 真夏の昼下がりの森の中はすがすがしかった。
 竜司はきりかぶに腰を下ろし、しばらく瞑想にひたった。いつものように、午前中はノートパソコンと向き合い、通信講義に耳を澄ました。昼食後は二、三十分昼寝をし、パソコンでアニメや動画を鑑賞し、二時過ぎに森へと向かうのだった。
 ボスと戦ってから一カ月の間、竜司は毎日の基礎修練を終えたら、ボスの動きを頭に描きつつ激しい動作を繰り返した。パソコンから猿の動画を検索しては、その敏捷な動きにくぎつけになった。その俊敏さや跳躍ぶりを見習い、自分の武術を高めたいと苦心した。
 なお、ネット上で武術のパターンを調べ、棒術を見習い、日夜切磋琢磨した。カンフー関連ドラマを検索し、達人の棒術をローグインし、目まぐるしい動作を見よう見まねで習った。
 努力のかいがあり、竜司の武術はさらに成熟した。左腕の傷跡をみたとたん、ボスへの怒りが心底沸き起こった。よし、やつと決着をつけよう。竜司は水色のジャージを肩にかけ、棒を片手に足早に森へと向かった。
 ときおり、そよ風が森を通り抜ける。
 竜司はジャージに腕をとおし、下草を踏みながらすすんだ。ボスの群れの縄張りに近づくにつれ、胸が鼓動しだした。
 ふと、猿の吠え声が森の奥からかすかに伝わる。竜司は立ち停まり、しばらく耳をそば立てた。目を見開き、棒をしかと握りしめ、足音を忍ばせてすすんだ。
 吠え声がだんだんと大きくなりかけ、緊張が全身にみなぎりかけた。大木の枝の間を数匹の猿が飛びまわりながら、警戒した目つきで彼を睨みつける。
 吠え声が高く鳴り響きだし、数十匹の猿が大木と大木の間の枝を飛び交っていた。猿の群れは一斉に竜司に怒りの目を向け、合唱さながらの吠え声で威嚇した。
 突如、くぐもった吠え声がひびきだし、ボスが大木の後ろから姿をあらわした。頭の毛がそびえ、目をかっと見開かせて彼を睨みつける。ゆがめた口から鋭い犬歯が剥きだされ、すごんだ形相を引き立たせる。
 竜司は棒を地面に引きずりながら、一歩前に進み出た。軽蔑に満ちた表情で、ボスをじっとにらみかえした。ボスが先手を打って、飛びかかってくるのを待ち構えた。
 ふと、ボスが口を開けて彼に向って吠えだした。大木上の猿たちが息を殺して見守っている。
 ボスは赤い口を大きく開けて、犬歯をのぞかせながら一歩前に進み出た。またも侵入してきた相手を打ち負かそうと、武者ぶるいをして威嚇する。 それは相手を屈服させるだけじゃなく、ボスの貫録と地位をまもるのに決定的な意味があるからだ。負けたら、ボスの座を追われるばかりか、流浪の道をさまよう悲惨な結末が待っているからだった。
 突如、ボスが野太い吠え声を放ち、前足を上げたかとおもったら、彼に向って突進してきた。ボスが飛びかかる一瞬に、竜司は体をそらして相手をかわした。
 ボスは竜司の体を飛び越え、数メーター先で立ち止まった。ボスは振り返るなり、またも猛然と飛びかかってきた。竜司はさっと身をかわしながら、ボスの体に蹴りを入れた。ボスはよろめきながら、なんとか体を持ち直した。
 ボスの顔は怒りで真っ赤になりかけた。二度も当てが外れたことに、動揺が顔にちらほらした。
 ボスはまたもや猛然と飛びかかってきた。竜司の顔や体を目がけて、前の両足をたけだけしく振り回した。
 竜司は右手にした棒を素早く振り上げ、ボスの体を一撃した。ボスはギャッと悲鳴を上げながら、地面にころがってしまった。
 ボスは地面にうずくまり、ややこわばった表情で竜司を見つめる。先ほどのすごんだ形相は跡形なく消えてしまい、悲しい表情すら湛えていた。
 相手が自分よりはるかに強いと、厳しい現実をやっと受け止めたのだ。大木の猿の群れから悲鳴のような声がひびきだし、数匹の猿が驚愕した顔で枝の間を飛び交っている。
 ボスが打ち負かされたことに、群れは驚きにおののいたのだ。王座に君臨する、屈強なボスがあっけなく打ちのめされたのを目の当たりにして、群れはすっかり震え上がってしまったのである。
 ボスはおびえた目つきで竜司を見つめながら、決断を思いめぐらした。このまま引き下がれば、ボスの面目は丸つぶれだし、後釜を虎視眈々と狙っている若い猿の挑戦は必至である。やがては群れから追われ、流浪のひとり旅を発つしかないのだ。もしも決闘に打って出れば、叩きのめされるばかりか、瀕死の重傷に見舞われかねない。とりわけ、あの棒は恐ろしい武器で、頭を一撃されたらあっけなく命を落としかねない。ここはいったん引きさがり、実力を温存して、若い猿との対決に全力したほうが無難である。
「お前、ビビっとるか。さ、かかってこいよ!」
 竜司は棒を宙に振りまわしながら、大声を放った。
 ボスは尻尾を垂らし、すごすごと後ろへと下がっていった。群れの中から悲しい声が騒々しく鳴り響き、森の中をこだました。
 竜司は大木を登るボスの姿を見つめながら、ゆっくりと体をひるがえした。
 これでボスも悲惨な末路をたどるだろうし、町をうろついて人を襲ったりすることはできないだろう。しかし、猿の群れは新たなボスにひきいられ、町への侵入も再開するにきまっているのだ。いかにして彼らの侵入を撃退し、町の平和を守るべきか、竜司は思い悩みながら下草を踏んで歩いた。
 ふと、鳥の鳴き声が騒々しく鳴り響き、鳥の群れが暮れかかる空を舞い上がる。
 忽然、竜司は背中に寒気を覚えた。目を見開いて、前方を注視しながらゆっくり歩いた。動物漫画にくわしいゆえ、鳥の群れが急に飛び立つのは驚きの反応だと知っていたのだ。
 突如、薄暗い樹木の間に、けだものが立ち止まっているのが目に飛び込んだ。
 両眼は爛々たる光を湛え、竜司を睨んでいる。なんと、ほかならぬ熊ではないか。竜司はとっさに背筋を流れる悪寒に体を震わせた。素早く周りを見回し、自分の位置を確かめた。近くには杉の大木が聳え立つっている。
 黒の巨体はのろのろと彼に向ってきた。竜司はじっと相手を睨み返した。アニメなどから、獰猛なけだものに遭遇したら、決して背を向けて逃げてはいけないと知っていた。そのような軽率な動きをしたら、たちまちけだものに襲われ、命を落とすからだ。
 竜司は右手にした棒を掲げ、宙で振りまわした。自分を大きく見せることで、相手に強さをアピールできるからだ。熊は彼を睨みつけながら、足を速めてせまってきた。竜司は相手を睨み返しながら、素早く杉の大木に近寄った。
 熊は突然両足を上げて立ち止まると大声を放ち、彼に向かって猛然と襲いかかってきた。竜司は敏捷に飛び退り、大木の後ろへ身をかわした。
 当てがはずれた熊は振り返ると、またも猛烈な勢いで飛びかかってきた。
 竜司は冷静に相手をにらみ、棒をしっかり握った。熊が飛びかかる寸前、竜司はさっと身を横に飛びのき、棒で熊の頭を殴った。あまりにも力んだせいで、棒が手から抜け出し、地面にころがってしまった。
 熊はいきなり棒で殴られ、一瞬立ちすくんだ。次の瞬間、熊は吠え声を放ちながら、猛烈な勢いで飛びかかってきた。竜司は相手の勢いに圧倒され、すばやく大木の後ろへ逃げ込んだ。熊の鋭い爪が大木の幹をひっかき、樹皮がはがされた。
 熊は振り返り、すごんだ形相でまたも襲いかかってきた。意外にも熊は敏捷な動きで飛びかかり、竜司はすんでのところでやっと相手の攻撃をかわした。
 竜司はとっさに危険を感じた。このまま面と向かって対決すると、熊の鋭い爪にひっかかれて、ずたずたにされかねないのだ。
 竜司は一目散に、後ろの背丈ほどある草むらへと走った。熊は猛スピードで後を追いかけてくる。
 草むらに近づいたとき、竜司は振り返って熊との距離を確かめた。熊は数メーターまでに追っかけてきて、すごんだでかい頭が目前に迫りつつあった。竜司はとっさの判断で、ジャンプする姿勢で草むらに飛び込んだ。
 後一歩のところで、獲物に忽然と姿をくらまされ、熊は呆然と立ちすくんだ。竜司はうつ伏せになり、頭をもたげて、草の隙間から熊をみつめた。
 熊は鼻をクンクンとさせながら、竜司のほうに近寄ってきた。繊細な嗅覚で、竜司が隠れている場所を突き止めようとした。
 竜司は息を殺して、うずくまった姿勢で後ろへと下がっていった。熊は爛々たる両目を見開き、草むらを踏みしだきながら迫ってきた。
 竜司は足音をしのばせつつ、うずくまったまま後ろへと下がっていった。熊との距離は五、六メーターで、熊の荒い息が聞こえた。
 竜司は自分の陥った窮地からいかに脱出すべきか、思考をめぐらした。このままだと、まもなく熊に発見され、さらに攻撃されるに違いないのだ。
 竜司は体をひるがえし、腰をかがめて足早に前をすすんだ。背丈の草に覆い隠され、熊からは見えないはずだった。振り返ってみたら、熊はしつこく追いかけてくる。ただし、距離は十数メーターほど引き離されていた。
 竜司は腰をかがめて、小走りに前へと走り出した。草むらが踏みしだかれ、足音が俄然とひびきだした。幸いにも熊がでかい足で草むらを踏みしだき、自分の足音は熊には聞こえないはずだった。
 突然、足の下が浮いたかとおもうと、竜司は前につんのめってしまった。バランスを崩したまま、竜司はなだらかな崖を転がり落ちた。
 一瞬の出来事に、頭は真っ白になり、竜司は目をつむったまま横たわっていた。頬を流れる熱い液体に気付き、竜司は手でぬぐった。ねばねばした血が手のひらにくっついている。
 ズボンのポケットからタオルハンカチを取り出し、あたまの傷にしかと当てた。幸い、崖はなだらかで、しかも草に覆われていたので、大した傷は負わずにすんだのだ。
 熊が崖の端に立ちつくし、周囲に目を光らしていた。しばらくして踵を返してのろのろと歩いていく姿が脳裏をよぎった。
とりあえず、命の危険だけは免れたのである。


                              五

 けだものの遠吠えが、暗闇に覆われた森の中でこだまする。
 竜司ははっと目が覚めた。いつしか仰向けになったまま、ぐっすりと寝入ってしまったのである。
 竜司はゆっくり立ちあがり、両手で体をまさぐった。さいわい大した怪我はなく、背中に痛みが走るだけだった。腰ほどの草がぼうぼうと生い茂り、柔らかいしとねのように、ころがり落ちる彼の体を受け止めてくれたのだ。
 夜空は星の群れがまたたき、月がこうこうたる光を放つ。
 月の光に照らされ、なんとなく周りがおぼろげに見えた。なだらかな崖を登ろうとしたものの、おもったより険しく、自力で登るのは困難だった。
 下をのぞいたとたん、竜司ははっと息をのんだ。なんと、険しい崖がえんえんと下へと伸びているではないか。緩やかに流れる渓流が月光に反射され、燦然と光りを放つ。
 自分が落ちている場所は、崖の間の平らな草地であると、ようやく察しがついた。下へ降りられる道はなく、ただただ上へと登るしかないのだ。
 竜司は気持ちを引き締め、眼前の草地を眺め渡した。暗がりをすすむのは危険極まりないとわかったのだ。いったん一休みし、明るくなってから行動したほうが無難だとおもった。
 竜司はたいらな草地をさがし、草をかき集めてしとねの形につくり、その上に横たわった。急に空腹感がつのり、はやく帰って温かい食卓をかこいたかった。
 森閑とした暗闇の森に、ときたまけだものの遠吠えがこだまする。
 竜司はさっきの危なかった場面を思い返し、おもわず苦笑いを浮かべた。熊の獰猛さは漫画、アニメなどで知ったものの、まさか南アルプスの森林で出くわすとは夢にもおもわなかった。
 青光りする目玉を見開き、たけだけしく飛びかかる迫力は想像を絶するものであった。最後はすんでのことに、やつの鋭い爪に背中を引き裂かれるところだった。
 竜司は背中を伝わる寒気に体を震わせた。自分がいくどとなくやつの攻撃から身をかわしたことに、より自信が湧いてきた。
 ボスをやっつけたことは、自分の武芸が一段と上達したことなのだ。そうだ、熊の撃退法を研究しよう。やつだって、かならずアキレス腱があるはずなのだ。それさえ把握すれば、やつをかならずや倒せる。竜司は右手のこぶしで、左の掌をパチッと打ち鳴らした。
 鳥の澄んだ鳴き声に、竜司ははっと目が覚めた。いつしか、ぐっすり寝入ってしまったのである。空は明るみかけ、周りの景色がうっすらと目に映った。
 竜司は飛び上がり、のろのろと前へとすすんだ。腰ほどの草にかすられ、ズボンがつゆにまみれて湿っぽくなった。
なだらかな崖に目をやりながら、登れやすいところを探した。
 下をのぞいたら、一筋の白い渓流が遠目に見えた。数百メーターほどの崖が切り立ち、気が遠くなるようなめまいに襲われた。崖の下に降りることはまず不可能だし、崖の上へと登るしかないのだ。
 竜司はのろのろと前へと歩き出した。太ももにからまるつる草をかき分けながらすすむと、露がはねてジーンズが湿っぽくなる。
 しばらく進んだところ、崖を這うように生い茂ったつる草が目に飛び込んだ。
 竜司は足早に駆け寄り、つる草をつかんだ。すねの太さほどあるつる草が、崖から一筋縄のように垂れ下がっている。
 竜司は大きく息を吸い込み、両足を崖のでばったところにのせて、ゆっくりと登りはじめた。だんだんと息が荒くなり、つる草をつかんだ手がひりひりした。体が熱くなり、汗まみれになった。
 ついに崖のてっぺんにたどりつき、草地に仰向けになり、目をつむって息をきらした。空は明るくなり、鳥のさえずりがせわしくこだまする。
 しばらくして竜司は飛び上がり、シャツについた草を払いのけ、足早に歩き出した。
 東の空が赤く染まり、だんだんと空一面に広がりかける。ふと、真っ赤な朝日が浮かびあがり、空高くのぼりつつあった。

 玄関先にたち、竜司はベルを鳴らした。しばらくしたら、階段を駆け降りる足音がひびき、ドアがいきおいよくひらかれた。
「どうしたのよ?森の中で夜を過ごしたの?心配で一晩中眠れなかったわ。110番通報しようとしたところなの」美千代は不機嫌な顔でなじる。
「ごめんなさい、ちょっと道に迷ってしまいまして」
 竜司はバツの悪い表情を浮かべ、玄関に入りながらいった。
「あら、どうしたの?シャツがぼろぼろだわ」
 美千代が竜司の背中に手をかけながら訊いた。
「ちょっと転んでしまいまして……」
 竜司は語尾を濁した。
「大変、血が出ているわ!」
 美千代が驚きの声を上げる。
「大丈夫です」
 竜司は無頓着な表情でいった。
「傷がひどいわ、ひっかかれた傷だわ。きっと熊に襲われたでしょう」
 美千代は驚愕した表情で彼を見つめる。
「ちょっと薬を塗れば……」
 竜司は苦笑いを浮かべながらいった。
「駄目よ、破傷風でもかかったら、命が危ないわ!」
 美千代は小走りに厨房へかけ込んだ。
 しばらくして、美千代はお湯入りの鉢をもってきて、タオルをしぼり、傷口を軽く拭き始める。あまりの痛さに、竜司は顔をしかめた。
「傷がひどいわ。三か所もひっかかれて、真ん中の傷口が深いの。やはり南アルプスの森へ入ったのね。あれほど念を押したのに、どうしてわがままにふるまうの?熊が出没して、危ないといったでしょう?おじいさんが知ったら、きっと怒るわ」
 美千代はたらたらと文句をいいながら、傷口をタオルで軽く拭いてくれる。
「お願いします、おじいさんには内緒にしてくれませんか?」
 竜司は懇願めいた口調でいった。
「それは無理よ。この事件をもみ消したら、あたしが首になるわ」
 美千代はきっぱりと断る。
「わかりました、わたしがおじいさんの医院にいって謝りますよ」
 竜司は開き直った姿勢で答えた。
 どうせ自分の非であり、頭を下げて許しをこうしかないと悟った。おじいさんの逆鱗に触れたら、ここを追い出される羽目になりかねないのだ。それだけは、どうしても避けなければならない。
 突如、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
「おばさん、119番呼んだんですか?」
「そうよ、はやく病院にいって処置しないと、命が危ないわ。さ、はやく部屋に戻って着替えなさい。あたしも支度してくるわ」
 美千代は小走りに階段を駆けのぼっていった。竜司はのろのろと自分の部屋に向かって、廊下の奥へと歩いていった。



                             六

 がらんとした室内の椅子に腰掛け、竜司は開いたノートパソコンにくぎつけになっていた。おじいさんにお詫びするために、マウンテンバイクを飛ばしてきたのである。
 受付では二人の女性事務員が片付け作業に没頭している。壁掛け時計の針は、夜八時に差しかかろうとする。ドクターコート姿の中年男性が受付に近寄り、女性事務員と話をかわす。
 廊下の奥の診察室のドアが開かれ、おじいさんが姿を現した。
「さ、帰ろう」
 あわてて立ちあがり、深々と腰を折る竜司に声をかける。薄茶色のジャケットに、紺色のズボンのいでたちである。
「じゃ、お先に」
 おじいさんの声につられるように、スタッフらのあいさつの声がこだました。
 玄関先には、黒のセンチュリが停まっている。運転手が後部ドアを開け、うやうやしく頭を下げる。おじいさんが腰を下ろすのと同時に、竜司は助手席に体を滑り込ませた。
 センチュリはゆっくり滑りだし、車の流れに紛れ込んだ。夜のとばりに覆われた街は、色とりどりのネオンでまぶしく光った。
 十数分走り、センチュリは住宅街を走り抜け、広々とした庭に乗り込んだ。切りそろえた植え込みが点在し、緑の芝生が庭の一面に広がる。
 白亜の三階建ての車寄せに停まると、おじいさんは車を降りて運転手に会釈し、玄関ドアを押して入る。竜司はバックを肩にかけ、後ろについて入った。
「お帰りなさいませ」
 奥さんらしき、美貌の五十代の女性が腰を折って迎える。おじいさんは階段をのぼっていく。
「竜司さん、こちらへどうぞ」
 奥さんが笑顔で通してくれる。
「お邪魔いたします」
 竜司は広いリビングルームに入り、皮のソファセットの端に腰をおろした。大型テレビ画面には時代劇のドラマが映っている。
「どうぞ」
 奥さんがお盆を持って近寄り、冷たい麦茶のグラスをテーブルにおいてくれる。
「竜司さんは武術の修練に励んでいると、主人からお聞きしています」
 奥さんは優しい笑みを浮かべてほめそやした。
「おじいさんには大変お世話になっております」
 竜司は赤らんだ顔で答えた。階段を下りてくる足音が伝わる。
「ダイニングルームにどうぞ」
 奥さんがお盆をもって、笑顔でいった。竜司は腰を浮かせ、軽やかな足取りで部屋を後にした。
 おじいさんはシャツ姿で椅子にくつろいでいる。食卓には刺身盛り合わせ、鳥のから揚げ、山菜あえもの、海鮮サラダなど、ふんだんに料理が並べられていた。
「お飲み物はなににします?」
 奥さんが笑顔でビール瓶を傾けながら訊く。
「すみません、ジュースでお願いします」
 竜司は紅潮した顔で答えた。おじいさんのお宅にお邪魔するとは、おもいもしなかったのである。
「傷は大丈夫か?」
 おじいさんがビールグラスを傾けながらいった。
「だいぶなおりました」
 すでに四日も過ぎ、傷口はほぼおさまっていた。
「熊と格闘したって、大した度胸だな」
 おじいさんがビールをあおりながらいった。
「大事にいたらなくて、ほんとうによかったわ」
 奥さんが心配顔で彼を見つめる。
「ご心配をおかけしまして、まことにもうしわけありません」
 竜司は赤らんだ顔で答えた。勝手にふるまった自分の行為に、うしろめたさを感ぜずにはいられなかった。
「獰猛な猿のボスもこらしめたそうだな」
 おじいさんは紹興酒入りのお銚子を手にしながらいった。
「一応打ち負かしました」
 竜司はやや緊張した様子で答えた。
「あの猿の横暴さは町では有名なの、群れを率いてしょっちゅう街を襲い、住宅や店に闖入して食べ物をかっさらうのよ」
 奥さんが笑みを浮かべて言い添える。
「たまたま鉢合わせになりましたので、いちおうホッとしています」
 竜司はバツの悪い表情でいい回しをした。
「ね、えんりょせずに召し上がりなさい」
 奥さんは箸で刺身や、から揚げや、サラダをはさんで、彼の皿においてくれた。
 しばらく沈黙が流れ、箸が皿をこする音がひびいた。
「武術を習う者にとって、それも貴重な経験だ」
 おじいさんがお銚子を持ち直しながら彼を見つめる。
「大変勉強になりました。動物のすばやい反応や獰猛な動きには、さすがに脱帽します」
 竜司は真顔で答えた。自分のわがままなふるまいの言い訳を、さらりとにじませた。
「きみの考えはもっともだ。中国には虎、鹿、熊、さる、鳥の動きを模した、五禽術という養生法があるが、なかなかすばらしいものなんだ。ネットで調べて、よく吟味したほうがいいかとおもう」
 おじいさんはお銚子を持って、じっと彼をみやる。
 竜司は真面目な表情で耳をすました。おじいさんと面と向かうたびに、なんとなく畏敬の念にとらわれた。数か月以来、おじいさんと顔を合わせたのは数回しかなく、じきに教示を仰ぐのは初めてである。
「きみの運動神経は抜群だ、数カ月でこれほど上達するとは立派なもんだ。数年頑張れば、間違いなく立派な武人になれる。ただし、大事なのはメンタルの修練なんだ。正しい道を行い、確固たる信念をもち、大義名分を貫くことを肝に銘じるべきだ。もしも悪にくみし、私利私欲に走ったら、いかに武術がすぐれとはいえ、転落するのが落ちである」
 おじいさんは厳粛な表情でいいふくめる。奥さんはおだやかな表情で耳を傾けている。
「かしこまりました、おじいさんのご教示を肝に銘じまして、人生の道を切り開いてまいりたいとおもいます」
 竜司は紅潮した顔でいった。おじいさんの言葉の重みをしかと受け止めたのだ。
「朝六時に庭で待ってくれ、君の武術の基本を一通りみせてもらいたい」
 おじさんはお銚子をとりながらいった。
「はい、ぜひよろしくお願いします」
 竜司は頭を下げつつ答えた。心は喜びの渦に沸き起こった。
 自分の武術への一定の評価はもちろんのこと、欠点を直してもらい、さらなる進歩へと邁進することができるからだ。ひょっとしたら、新たなすべを教えてくれるかもしれないのだ。これこそ、自分が待ち望んでいたことなのだ。
「えんりょせず召し上がりなさい」
 奥さんが箸を動かし、おかずを彼の皿に盛らせてくれた。竜司は感激した表情で箸をとった。御恩を銘記し、いつか恩返しにつとめよ、竜司は心の中でつぶやいた。
「森の生活にすっかりなれたようですね。ご両親と離れてさびしくないの?」
 奥さんがやんわりと訊く。
「大丈夫です。森の中での暮らしがこんなに楽しいとは、夢にもおもいませんでした。一生ここで暮らしたいです」
 竜司はおじいさんと奥さんをみながらはきはきといった。
「でも、再来年は大学に入るし、結婚もしなければならないし、森を離れざるをえないわ」
 奥さんがほお笑みながらいった。
「大学に入っても、今のように通信授業で通したいとおもいます」
 竜司は真面目な顔で答えた。それなりに自信が湧いてきたのである。
「しかし、しょせんお嫁さんをもらうでしょうし、森を離れるしかないでしょう」
 奥さんが笑い顔でいった。おじいさんは笑みを浮かべて、二人の会話に耳を傾ける。
「嫁さんをもらっても、森での生活を維持したいとおもいます。自分の人生が森と切り離されるのは耐え難いことです」
 竜司は真剣な表情で答える。おじいさんと奥さんが笑い声を上げた。
「お嫁さんがいやだといったらどうするの?無理やり森の中で家を建てるわけにはいかないでしょう?」
 奥さんがさらに言い添える。
「自分に同調しないなら、別れるしかありません。この前提条件は確固たるものです」
 竜司の真面目な言い方に、おじいさんと奥さんはまたも笑いだした。


                           七

 森の空き地で、竜司はスンチャクを右手に、俊敏に飛び回りながら左右に振りまわした。
 先日、おじいさんからわたされ、その使い方も教えてもらったのだ。スンチャクはおじいさんの生涯のシンボルであり、いまや彼のもっとも大事なものとなったのである。
 スンチャクは有力な武器の一つであり、独特な威力がある。「燃えよドラゴン」はもっとも好きな映画で、ブルース・リ-のスンチャクを振りまわす鮮やかなアクションは、深い感動とともに脳裏に焼きついたものだ。
 今、おじいさんからもらったスンチャクを手に、森の中で修練に励むとはおもいもよらなかったことであり、必ずやそのすべを身につけよと心に誓った。
 スンチャクを両手に持ち、体を斜めにして立ちつくし、スンチャクをさまざまな形で宙に振りまわす。軽々と飛び上がり、右手でスンチャクをS型にふり、仮想敵に振りおろす。体を前かがみにして、スンチャクを地面に這わせるように振りきる。
 たまには力みすぎて、振りまわされるスンチャクが顔にあたったりした。そのたび、激痛に襲われ、おもわず手をとめてしまう。
 殺傷力があり、防御時には慎重を極めるべきで、あやまって人に致命傷を負わせるようなミスは絶対避けるべきだと、おじいさんに念を押されたのだ。このすべさえ熟練すれば、一人で大勢の相手に立ち向かうことができるとのことだ。 
 忽然、強い風が巻き起こり、樹木の枝がわなわなと揺れ動いた。まもなく、雷が鳴り響き、激しい雨が降り出した。竜司はスンチャクを手にして、家のほうへと走り出した。
 竜司はひと風呂浴びて、シャツに着替えてダイニングルームに向かった。
「どうしたのよ?あの額のコブは?紫色になっているわ」
 美千代がお盆を持って近寄り、焼き魚、みそ焼き肉、わかめサラダ、納豆、みそ汁、ご飯を食卓に並べながら訊いた。
「手を滑らして、自分で自分をぶったのです」
 竜司は指で額のコブを触りながらいった。
「あなた、ほんとうに命知らずね。だって、背中の傷も完全になおっていないでしょう」
 美千代は眉をしかめてなじる。
「武術修練には怪我がつきものです」
 竜司は平然とした顔で答えた。覚悟の上のことだから、なんともおもわなかった。なるべくはやく武術を身につけたい執念に燃えていた。
「ま、好きなようにしなさい、若いころはみんなわがままだからね。で、先日おじいさんの御屋敷にいったときの感想を聞かせてくれる?」
「素敵な御殿でしたよ。庭が広いし、植え込みがきれいだし、白亜の三階建てもなかなか立派でしたよ」
 竜司は口をきわめてほめちぎった。
「おじいさんは資産家なの。あなたも頑張れば、将来豪勢な暮らしができるの」
「ぼくはビジネスセンスがないから、資産家なんかなれません」
「あなたの夢はなんなの?」
「この森の一角で自分の家を建てて、悠々自適な生活をすることです」
「なら、稼ぎはどうするのよ?」
「できれば、自分の土地を所有し、自給自足の生活をしたいです」
「ま、なんて質素な夢なの。それじゃ、原始人みたいな暮らしよ」
「ぼくは、ほんとうにそうおもっています」
「あなたは粘り強いわ。テレビもみないし、午前中は通信講座にくぎつけになり、雨にも風にも負けず、武術の修練は毎日欠かさず、じつに辛抱強いの」
 美千代は笑顔でほめそやした。
「心に誓った以上、とことんやり遂げたいとおもいます」
 竜司は笑顔でいいながら、ご飯を食べはじめる。テレビ画面には、アナウンサーが花火大会のニュースを読み上げている。
「花火大会にいってみようかな?」
 美千代がじっと画面をみつめながらつぶやいた。
「ぼくもいってみたいです」
 竜司はおもわず声を出した。毎年、友たちと花火大会にいったものである。

 屋台でイカ焼きと手羽明太二人前を買い、パック入りのビニール袋をマウンテンバイクのハンドルにかけ、竜司はゆっくりと歩き出した。
 屋台の明りがえんえんとつらなり、見物客の波でごった返した。
 花火はいくどとなく見物したものだが、今夜の感動はひとしおだった。弱弱しかった自分の殻を抜け出し、武術修練の世界に飛び込み、目覚ましい進歩を遂げてきたことに誇りを感じるようになった。人生の真の意義をさとり、未来へのビジョンをえがき、堅実に努力を重ねてまいる決意を新たにした。
 竜司はマウンテンバイクにまたがり、強くペダルをこぎ出した。
 にぎやかな会場の夜景が後ろへと流れ去る。竜司はおもわず口笛を吹きかけた。
 いつしか、閑散とした公園通りを疾走していた。
 街路灯の鈍い光が、道路をおぼろげに映えだす。ここを通り抜けると、国道へとつながり、そこからまっしぐらに走れば山の入口へたどりつくのだ。
  突然、女の甲高い悲鳴が遠耳に伝わった。
竜司は前方へ目を凝らし、スピードを上げて疾走した。数人の人影と、車の影が見えてきた。
 「誰か助けて!」
 甲高い悲鳴がはっきり聞こえた。人影と車の影がだんだんとはっきり映ってきた。二人の男が暴れる女の子をひっぱって、車の中へ押し込もうとする。
 竜司は強くペダルをこいで、車の後ろでブレーキ音をひびかせてとまった。
「やめろ!」
 竜司はマウンテンバイクを歩道の縁石に倒し、大声で叫んだ。二人の男は忽然とひびいた大声にびっくりしたようで、一瞬動きをとめた。二人は竜司を睨みつける。
「てめえのしったことじゃねえ、さっさと失せろ!」
 一人の男が竜司を睨みながら罵声を飛ばした。
「女性に無礼を働くとはみっともないよ」
 竜司は冷静な口調でいった。
 一人はずんぐりした小男で、もう一人は背が高く、いずれも二十前半にみえた。女性は自分とおない年に見える少女で、顔が恐怖で歪んでいた。
「なんだ、こいつ。鼻たれ小僧が説教を垂らすとは」
 小男が皮肉りの笑みを浮かべていいはなつ。
「未成年を拉致するのは重罪です」
 竜司は真面目な顔で言い切った。
「彼女はおれの恋人だぜ」
 のっぽがにやにやしながらいった。
「違います、知らない人です」
 少女は歪んだ顔でうったえる。
「なんだ、さっきまでいっしょに飲んで、楽しんだんじゃ」
 のっぽがにやにやしながら言い添える。
「うそです!」
 少女はつかまれた両腕をもがきながら叫んだ。
「彼女を放しなさい」
 竜司は大声でいいながら迫りよった。
「この野郎、さっさと消えんか!」
 のっぽが凄んだ形相で怒鳴り散らした。小男は怒りの目で竜司を睨みつける。
「女の子を拉致して乱暴したら、豚箱ゆきだぞ!」
 竜司は怒りに燃える目で相手を睨んだ。
「なに?この野郎!てめえ死にたいか」
 小男は少女の腕を放して、竜司の前に近寄ってきた。
 小男は右手を振り上げ、彼の顔をめがけて突き出した。竜司はさっと体を横にかわし、小男の右腕をつかみ、足でみぞおちを蹴った。小男はうめき声を上げながら、腹をかかえてくずれ落ちた。
 のっぽは少女の手を払いのけ、彼に飛びかかってきた。竜司はすばやく体を回しながら、足でのっぽのすねをしたたかに蹴った。のっぽはよろめきながら地面に倒れた。
 のっぽは立ち上がるなり、またも猛然と飛びかかってきた。振りおろしたのっぽの拳が、竜司の頬をかすめた。竜司は右手を振り上げ、したたかに のっぽの顎をぶった。のっぽは仰向けに倒れ込んだ。
 小男は這い上がり、車に駆け寄って運転席に飛び乗った。のっぽはその後をおっかけ、助手席に乗り込んだ。タイヤが地面をきしむ音がひびき、車は急発進して走り去った。
「ありがとうございます。おかげさまで、助かりました」
 少女は彼に近寄り、つぶらな目で見つめながらいった。
「はやく家に帰りなさい。タクシーに乗って帰ったほうが無難だよ」
 竜司はいいながら、マウンテンバイクのほうに歩いていった。マウンテンバイクを押しながら戻ると、少女は立ちつくしたまま、じっと彼をみやる。
「タクシーをひろうまで一緒に歩きましょう」
 竜司はちらっと少女をみやり、ゆっくりと歩を進めた。少女はうつむいたまま、彼のそばで歩きだした。
「人気のない夜道は危ないから、これからは気をつけなさい」
 竜司はしずかな語調でいった。
 少女は顔を上げ、彼を見つめる。あでやかな美貌が、おぼろげな街路灯の光に浮かび上がる。ふと心がおどりだし、竜司は目をそらして闇に沈んだ前方を眺めた。
「帰るとき仲間とはぐれまして、つい道に迷い込んだのです。もし会えなかったら、ほんとうに危ない目に遭うところでした」
 少女は陰りに覆われた顔を俯いて小声でいった。
 竜司はちらっと少女を一瞥し、街路灯にうっすらと浮かんだ路面に目をおよがせた。しずかな夜道に、二人の足音がこだましつづける。
「あたし、島田秋江ともうします。お名前を教えていただけますか?」
 少女ははにかみながら訊いた。
「ぼくは、竜司です。恐竜の竜で、司令官の司と書きます」
 竜司は名前だけ教えた。どうせ、二度と会えない相手だとおもったからだ。
「あたしの携帯番号は09021678888です。よろしければ、携帯番号を教えていただけますか?」
 少女は笑みを浮かべて彼を見つめるのだった。吸い込まれそうな瞳が魅力をたたえる。
「携帯はもってないよ」
 竜司はちらっと少女を見やりながらこたえた。少女の顔にうっすらと陰りがちらほらした。
「格闘技を習っていますか?さっきは、じつにみごとな戦いぶりでした。白馬騎士さながらに勇ましかったのです」
 少女は笑顔でほめそやす。美しい笑顔が、咲きかける花のつぼみのようだった。
「ま、ちょっと習っただけです」
 竜司はみじかく答えた。
 しばらく歩いたら、国道が現れた。車のヘットライトがひっきりなしに流れていく。歩道に立って、車の走ってくる方向に目を凝らした。
 やがて、一台の流れタクシーが歩道に寄せて停まる。
「今日はほんとうにありがとうございました」
 少女は深々と腰を折って礼を述べ、後部座席に乗り込んだ。窓越しに、少女の美しい顔が映りだした。つぶらな瞳が、彼をじっと見つめる。
 車の後ろ影を見送りながら、竜司はマウンテンバイクに飛び乗り、ペダルを強くこぎ出した。



                             八

 五時すぎに、竜司はベッドをぬけだし、化粧室にかけ込み、歯磨きと洗顔をした。シャツに腕をとおし、ジーンズをはき、足早に部屋を後にした。
 ドアを開けて出ると、真っ先にほこらへとむかった。毎朝のように、関羽像に向かって深々と一礼し、合掌しながら心の中で唱える。将来、関羽様のように忠義をつらぬく、真の人間になりたいと心に誓った。なお、武術に通じた達人になれるよう、武芸をみがいて邁進しようと誓った。
 キッチンに入り、天秤棒や水桶をもち、軽い足取りで庭を抜け出した。この日課を、毎日のように続けることをおこたらなかった。
 滝へと通じる道はすっかり慣れたばかりか、目をつむってもたどれる自信があった。
 森の景色は常に目新しく繰り広げられた。雨の日や、曇りの日や、季節の移り変わりとともに、あらたな感動に心を躍らせる。
 秋の訪れとともに、森の景色も変わりつつあった。草木の緑はより深みを帯び、より成熟度をましている。鳥のさえずりはいたるところでひびき、コーラスさながらに耳をついた。
 森への愛着はひましに深まり、あらたな感激をもよおされる。滝の水柱の流れ落ちる音が、だんだんと近づいてきた。やがて、轟音とともに、崖をほとばしる真白い水柱が鮮やかに映った。
 竜司は着物をぬぎすて、水の中に飛び込んだ。両手で水をさばきながらおよぎ進んだ。滝に近づくと、水柱の真下に立って頭から冷たい水を浴びた。
 しばらくして、竜司は滝壺を出て、タオルで体を拭いた。着物を着用し、水桶で水を汲み、天秤棒にかけて肩にのせて帰路についた。二つの水桶はリズミカルに動き、竜司は小走りに家のほうへと向かった。
 水桶をキッチンに運び、茶色の水がめに注いだ。
 庭を飛び出て、「土俵」へと向かって走った。森の空き地にある、武術修練の場を自分なりに「土俵」と名付けた。いつものように、一時間ほどで武術の基本を力強く繰り返した。
 基本修練が終わると、スンチャクを手に持ち、器用に振りまわした。体を敏捷に動かしながら、さまざまな角度からスンチャクを振りまわす。手にしたスンチャクは自在にはね回り、閃光のように宙を切り裂いた。
 ひとしきりの動きを終え、竜司は汗でまみれた体をタオルで拭き、踵を返した。
 
 シャワーを浴びて、シャツに着替え、ダイニングルームへ向かった。
 テレビ画面は八時ニュースを伝えていた。食卓には煮魚、レバニラ炒め、納豆、海苔、漬物、みそ汁、ご飯が並べてあった。
「山菜とりにいったおばあさんが熊に襲われてけがをしたと、アナウンサーがいってたよ。南アルプスの森だって」
 美千代が冷たい麦茶のグラスを彼の前におきながらいった。
「南アルプスの森ですか?」
 竜司は煮魚を箸でとりながら訊き返した。
「あんたを襲ったあの熊かしら?」
 美千代は目を見開いて彼をじっと見つめる。
「そうかもしれません」
 竜司はご飯をほおばりながら答えた。
「ま、想像にすぎないからね。いまや熊の頭数が大幅に増えたし、熊による被害が多すぎるわ」
 美千代は沈んだ顔でいった。
 竜司は黙々とご飯をほおばる。やつの仕業にほぼ違いない、なんとかしてやつをこらしめなければ、竜司はこころの中で毒づいた。

 暮れなずむ森の中を、竜司はゆっくりした足取りで前に進んだ。一度たどったことがあるだけに、なじんだ森の景色が眼前に広がりつつあった。絨毯のような下草を踏みながら、竜司は注意深く前方に目を光らした。
 薄暗い森の中はしんと静まり返り、なんとなく不気味さをつのらせる。この前は歩いていたところ、突如熊に出くわしたのである。
 ここらが、例の熊の縄張りだろうとのおもいがした。あるいは、例の熊がよく出入りするけだもの道だろうともおもわれた。とにかく、この辺でやつと遭遇する可能性が高いと見込んだ。
 自分の行動があまりにも無謀だろうか、勝算はどれほどだろうか、竜司はなるべく冷静に頭をめぐらした。
 この前の対決は、熊の一方的な攻撃に押され、終始追われるはめになったのだ。敏速に飛び回り、熊の執拗な追いかけから、なんとか逃げられたのである。敏速な動きにおいては、決して熊に負けてはいなかった。それに今はスンチャクという、強力な武器を携帯している。なお、熊のアキレス腱を子細に研究したものだ。もしも、そのアキレス腱さえ命中すれば、熊はきっと恐れをなし、しりぞくにちがいないのだ。
 竜司は全身にみなぎる力を感じながら、腰に装着したスンチャクを手で触った。
 大木が延々と立ち並び、あたかも障壁さながらに立ちはだかる。竜司は目を見開いて前を睨んだ。例の熊が飛びだしてくるかとおもうと、緊張がにわかに募った。
 足元では、ときおり踏みならされた草がかすかに音を立てる。熊が見えないところに身を隠し、自分に目を光らしているとのおもいに緊張が走った。敏感極まりない嗅覚で、すでに自分の臭いをかぎ出し、自分をにらんでいるかもしれない。
 ふと、前方の大木の異常な痕が目についた。樹皮が剥がされ、一目で熊の爪痕であるのがわかった。前回、やつと出くわした現場であろうか。竜司は緊張が極に達し、目を大きく開いた。
 またも大木の痕が目に飛び込んだ。大木の腰部辺りに、剥がされた痕が生々しく映った。やはりこの前、やつとやり合った現場なのだ。竜司は立ち止り、しばらく耳をすませた。
 竜司は周りを眺めまわしながら、ゆっくりと前へすすんだ。眼前の大木の群れを見た瞬間、なんとなく心がなごみ、自信が湧いてきた。この前、やつの手を逃れられたのは、ほかならぬこの大木のおかげなのだ。大木を盾に逃げ回り、熊としていくども当てがはずれるはめになったのである。
 突如、大木の群れの中に、黒い影らしきものが目に映った。爛々とした目が、じっとこちらをにらみつけている。
 竜司は足をとめ、鋭い目つきで相手を睨み返した。やはり、ここはやつの縄張りだったのだ。
 熊はのろのろと彼に向って歩き出した。すごんだ形相は覇気に満ちあふれ、鋭い目つきは獰猛な勢いをたたえる。
 竜司は腰に装着したスンチャクをほどいて手にとった。スンチャクを高らかにかかげ、宙に振りまわした。熊は一瞬足をとめ、とまどった様子を浮かべる。
 次の瞬間、熊は猛烈に彼に向って突進してきた。竜司はさっと身をひるがえし、近くの大木の後ろへ逃げ込んだ。
 熊は振り返り、またも彼に襲いかかってきた。竜司はまたもつぎの大木へと逃げ込んだ。
 当てがはずれた熊は怒ったように、またも猛烈な勢いで飛びかかってきた。竜司はすばやく走り、大木を盾に身をかわした。
 しばらく追いかけた後、熊はたちどまって口を開けて息をしていた。いくどもかわされ、やや疲れたようである。自分の作戦が奏功したことに、竜司はさらに自信が湧いた。相手を疲れさせることで、反撃の機をねらうつもりだった。
 熊はまたも飛びかかってきた。竜司は敏捷に横へ飛びながら、熊の顔めがけてスンチャクを振りおろした。スンチャクは熊の顔にあたり、熊は一瞬ひるんだ。
 熊が振り返るとき、竜司はすばやく飛びかかり、さらにスンチャクを振りおろした。スンチャクは熊の鼻を命中し、熊は驚いたように立ちすくんだ。
 竜司は目まぐるしくスンチャクをふりまわした。スンチャクは熊の顔や、体にあたり、にぶい音をだした。
 熊はびっくりしたような目顔で後ずさり、やがて身をひるがえしてしげしげと逃げ去った。
 竜司はスンチャクを振りまわしながら、熊の後を追いかけた。熊はさらにスピードをあげ、森の中へと逃げ込んだ。
 竜司はスンチャクを手におさめ、袖で額の汗を拭いた。ついに熊を撃退したことに、心底喜びが渦巻いた。スンチャクを腰に巻きつけ、竜司は帰路についた。
 澄んだ鳴き声をひきずりながら、雁の群れが列をなして空を飛んでいく。


                             九

 夕日に映える国道を、竜司はマウンテンバイクを駆って帰路についていた。
 昨夜、奥さんが心臓病の発作で急遽入院なさったと聞かされ、美千代とともにお見舞いにいったのである。
 さいわい、適時に治療を受け、病状は安定しているということで、ほっと胸をなでおろした。奥さんは終始おだやかな表情で、美千代と話をかわしていた。竜司は黙々と耳を傾け、ときおり奥さんの問いかけに答えたりした。気丈で、たおやかな奥さんの姿勢に、竜司は鼓舞されるような気がした。
 国道はしんかんとしていて、たまに車が走り去った。
 先日、熊を撃退したことを思い返し、竜司はおもわず苦笑いを浮かべた。スンチャクの威力に圧倒され、熊はあっけなく逃げうせたのである。やはり、鼻をぶたれたのが決定的だったようだ。動物のほとんどは、鼻をぶたれるのを恐れるようだ。
 ふと、騒々しい音楽をひびかせながら、三台の乗用車が猛スピードで走っていく。車窓ごしに若者らの浮ついた姿が映り、暴走族ということが一目でわかった。
 自分を散々いじめてくれた山井も暴走族の一員で、学校では恐れられる存在として横暴にふるまっていた。過ぎ去った光景がよみがえり、なつかしさと怒りとが胸に渦巻いた。いつかかならずや仕返ししてやろう、竜司は胸の中でつぶやいた。
 道路脇を沿うように、三台の車が停まっているのが目に映った。さきほど通り過ぎていった、暴走族らしき車と察した。竜司は警戒心を募らせつつ、スピードを落として走った。
 数人の人影が車のわきに立って、こちらを眺めているのが見えた。不吉な予感が胸をよぎった。
 竜司は若者らを見て見ぬふりをして、車の脇を通ろうとした。
「こら、ちょっとこっちこい!」
 やや背が高く、凄んだ形相の若者が彼に向ってどなり散らした。
 竜司はハンドブレーキを握りながら、マウンテンバイクから降りてきた。十数人の若者が車に寄り添うように立ちならび、軽蔑に満ちた目つきで彼を睨みつける。
「おまえ、この前おれの部下を打ちのめしたって。さっさとあやまれ、さもないと半殺しの目に遭わせるぞ!」
 ボスらしき若者が怒気を湛えた顔でどなる。ボスの隣に立っているのっぽと小男を、竜司は一目でみしった。先日の夜、公園の道で少女を拉致しようとして、自分にぶちのめされたものだった。
「彼らが少女を拉致しようとして、ぼくがとめただけです。なぜぼくがあやまらなければならないですか」
 竜司は冷静な表情で言い返した。
「なんだと?少女拉致って?お前らそんなことやらかしたか?」
 ボスは怪訝な顔でのっぽと小男をみやる。のっぽと小男はバツの悪い表情で目を下に泳がせる。ほかの若者らの視線が、いっせいに竜司に集中した。
「とにかくあやまってもらうぜ!」
 ボスは大声をはなった。
「ぼくはしかるべき行動をとっただけです。彼らこそ、あやまるべきです」
 竜司は真面目な顔でいいきった。またもひと悶着おこりそうだと、胸は警戒心にうずまきだした。すばやくまわりを眺めまわした。ややひらけた砂地が道路沿いにひろがる。
「なんだと!てめえ死にたいか?」
 ボスは顔をゆがめてどなり散らした。
「こいつは格闘技がなかなかのもんだよ」
 小男は小声でいった。
「てめえがいくら格闘技に通じたにせよ、俺らを相手に通せるとおもうか」
 ボスは仲間らを見回しながらいいくさした。仲間らが軽蔑の笑いを浮かべて、彼をみやる。
 竜司はマウンテンバイクのフレームにくくりつけたビニール袋をほどいて、スンチャクを手にした。
「気をつけろ!あいつなにか手にしたぞ!」
 のっぽがおどおどした表情でいった。
「さ、お手並み拝見といこうか」
 ボスがにやにやしながら、一歩前にすすみ出る。仲間らが意気揚々とせまりよってきた。
 竜司はビニール袋をはずし、スンチャクを両手で握りしめた。ゆっくりと砂地へさがりながら、相手を睨みつけた。
 ボスが目顔で仲間らに指示すると、仲間らがいっせいに輪をなしてせまってきた。
 竜司はスンチャクを両手でしかとひっぱりだして、防戦の姿勢をとった。スンチャクのステンレスチェーンが、夕日にきらりと映えた。
 二人の若者がいっせいに飛びかかってきた。竜司は二人に向って、いきおいよくスンチャクを振りまわした。あっと悲鳴を上げながら、二人が地面にころがった。手で顔や頭を覆って呻きをもらしていた。
 数人が彼をはさむように、猛然と飛びかかってきた。
 竜司は右手にしたスンチャクを振りまわしつつ、目まぐるしく飛び回った。悲鳴がなりひびき、数人が地面にうずくまったり、倒れ込んだりした。
 残りの仲間らが怖気づいた様子で、後ろへと下がった。のっぽと小男がボスの後ろから、目を見開いて眼前の光景をみまもる。
 ボスはあっけらかんと見守っていた。少年が一人で立ち向かうばかりか、手にしたスンチャクで仲間らをつぎつぎと叩きのめしたのである。相手の勇ましい雄姿にボスはすっかり感心してしまい、見とれてしまったのだ。
「あいつはすごいよ、格闘技のプロにちがいない」
 小男がボスにささやく。
「あれはアクション映画のワンシーンじゃないか。ブルース・リ-が演じた、有名なスンチャクカンフーだぞ」
 のっぽが感嘆した口調でいった。
「さすがにみごとなお手並みだ。今日はお前の勝ちとしよう」
 ボスは言い残すと、すごすごと車のほうへ歩き去った。小男とのっぽが後ろについていく。仲間らが足早に後を追っていった。
 竜司はスンチャクを手にして、じっと彼らの後ろ姿を眺めた。急発進するエンジン音がひびき、三台の車は走り去った。
 竜司はゆっくりと道路へと歩き出した。
 愛撫するかのように、スンチャクを袖で拭いた。五、六人を相手に立ち向かい、相手を倒した勝利感に胸を躍らせた。


                           十

 夜中、リビングルームから伝わる物音に、竜司は深い眠りから目が覚めた。目覚まし時計は、夜中の一時をまわっていた。
 竜司はベッドから降りて、そそくさと身支度した。昨夜戻ったら、おばさんの姿が見えず、みずから夕飯を作って食べたのである。
 竜司は足音を忍ばせて廊下を歩いた。おばさんと男の言い争う声が聞こえてきた。
「もうあんたの話は信用できないわ」
 おばさんの怒りの声がした。
「なにをいっとるんだ?この十年間、おれはずっとお前を探してたぞ。街で出くわすとは、まさしく天意そのものなんだ。つまり、おれらの縁は天から授かったということだ」
 男の猫なで声が耳をついた。
 竜司はリビングルームのドアの前に立ち、耳をすました。
「あんたのせいで、あたしは崖から飛び降りるところだった。先生が助けてくれたおかげで生き延びたの」
「おれが悪かった、心からあやまる。いままでのことは水に流して、やり直したいんだ。おれとよりさえもどせば、これからはきみを大事にするさ」
「あんたは女たらしで、ゲスのきわみよ。あたしの貯金二千万をばくちにつぎ込んで、あたしを見捨てたくせに、いまさら何を言ってるのよ。よくも鉄面皮であらわれて、また人を騙そうとするの。あたし死んだって、絶対あんたのところにはもどらないわ」
 おばさんは悲痛な声でいいつのった。
「謝ってるのに、このおれをさんざんののしりやがって。おまえ、そこまでおれを馬鹿にしやがって、無事にすむとおもうかよ」
 男は怒声をはなつ。
「あんたの脅しには絶対屈しないわ。これ以上あたしを苦しめないで、あたしもう限界よ。もしもの場合、あんたを殺して、あたしも死ぬわ!」
 おばさんは悲痛な声で叫んだ。竜司はおもわずはっと息をのんだ。この前、おばさんから聞かされた身の上話を思い出し、怒りが心底湧きあがった。
「ほ、おまえはいつから豹変したんだ、まったく理解に苦しむ。あれほど優しかったお前が、魔女の面をさげておれを頭ごなしにののしるとは、まったく考えられないな。最初出会ったころ、お前はおれに首ったけだったろう。ね、昔のように仲良く暮らそうじゃねえか」
「あたしはあんたに騙されたわ。その見かけだけの、男らしい顔に目が狂い、甘い言葉にまんまとのせられちゃったわ。あんたがやくざで、ばくち狂いで、女たらしの正体を見抜けたころは、心がすっかり死んじまったの。もう帰りなさい、あたしの平穏な暮らしを壊さないでほしいわ」
 おばさんはしずかな口調でいいふくめた。
「おまえはほんとうに頑固だな。これほど謝ったら、人の気持ちもわかってくれるはずじゃ。なんでそこまで意地をはるんだ。おれの根性もよく知ってるだろう、やり出したら、とことんやり遂げるたちだからさ」
「もうこれ以上はなすことないわ。あたし疲れたわ、はやく帰りなさい」
「おれを追い出す魂胆か。おれのメンツをつぶしたら、どういうことになるか知ってるだろう」
 男がソファから立ち上がる気配がした。
「あたしに触れないで」
 おばさんの引きつった声がひびいた。
「じゃ、さっさとおれについてくるんだ」
「ほっといてよ」
 おばさんの絶望に満ちた声がひびいた。
「さ、立ちな」 
 男の声と、おばさんのもがきだす気配がひびいた。竜司はドアを開けて室内に踏み込んだ。
「その手を放しなさい」
 竜司は大声で叫んだ。二人はぎょっとして振り返るのだった。
「なんだ、こいつは!」
 男は酒で赤らんだ顔をゆがめながら、するどい眼差しで彼をねめつける。
「なんで無理やりおばさんをひっぱるんですか?」
「おとなのことに口をはさむんじゃねえ!」
 男は大声でどなった。
「おばさんに無礼をはたらくのは許せません」
「なんだって、このガキが!」
 男は顔をゆがめてどなった。
 竜司は二人に近づき、男の手を払いのけた。少年に不意をつかれ、男はすっかりうろたえてしまった。
「この野郎!」
 男は手を上げて、竜司の顔をひっぱたいた。竜司は頭を下げて、さっとかわした。男は狼狽した様子を隠せず、竜司にせまりよった。
「やめなさい、しょせん彼にはかなわないよ。彼はカンフーの達人なの」
 美千代が男に向かっていった。
「おれも若いころは柔道をやったぜ。ガキにやられてたまるもんか!」
 男はすごんだ形相で竜司に近寄った。
 竜司はたたかう姿勢をかまえ、相手を睨んだ。男は猛然と飛びかかり、彼の胸倉をつかもうと手を突き出した。竜司は左手で相手の腕をつかみ、右手で相手の襟をにぎるや、肩を入れて相手を床に飛ばした。にぶい音とともに、男は床にころがった。
 男は立ち上がり、真っ赤な顔で彼をにらみつけ、彼の顔面めがけて拳をふりおろした。竜司はさっと身をかわし、体を宙に浮かせ、右足で男の胸を蹴飛ばした。男は仰向けに床に倒れ込み、胸を押さえて呻きだした。
「いったでしょう、彼は武術の達人って」
 溜飲がさがったかのように、美千代は薄笑いを浮かべて言いくさした。男は床から這い上がり、真っ赤な顔で竜司を睨んだ。
「酒に酔ってないなら、てめえをぶちのめしたところだ。そのうちひどい目にあわせるからな!」
 男はいいわけをしながら、すごすごと部屋を出ていった。
 しばらくして、エンジン音がひびきだし、タイヤをきしませつつ車が走り去った。
「ありがとう、おかげさまで助かったわ」
 美千代が感激めいた表情でいった。
「こんどおばさんに非礼をしたら、スンチャクでこっぴどくやっつけます」
 竜司は怒りをあらわにしていいはなった。
「あの人はやくざよ、人を傷つけることは平気でやらかすの」
 美千代は憂いを湛えた目つきで彼をみやる。
「どうしてあの人に出くわしたのですか?」
 竜司は顔をくもらせて訊いた。
「病院を離れて、久しぶりに会いたい気持ちになってさ、友たちが経営するスナックにいったの。話し合いに夢中になり、夜中までしこたま飲んだの。タクシーでもどって玄関に入ったら、あの人が後ろについてきたので、それはびっくりしたわ。きっと、彼女が漏らしたの。人間ほど信頼できないものはないわ、利害にからんだら、ころりと寝返るんだもの」
 端正な顔に怒りをたたえ、美千代はきっぱりと言い切った。これほど怒った様子は、はじめて目にしたのだった。
「おばさん、心配いりません。ぼくがまもってあげます。ここはぼくが片付けますので、はやくお休みなさい」
 竜司は決然とした表情でいいながら、散乱したものを床からひろいはじめた。
「ごめんね、みっともないところをみせて。」
 おばさんは困惑した表情で部屋を出ていった。


                          十一

 夕方、竜司はハミングしながら玄関ドアを押して入った。いつものように修練を終えての帰宅だった。
 廊下を歩いたとたん、竜司はふだんと変わった雰囲気を感じとった。異様な静けさが漂っているようだった。
 キッチンに入ったらがらんとしていて、おばさんの姿が見えなかった。足早にリビングルームにかけ込んだ。室内はみなれた様子で、とくに変わったところは見当たらなかった。
 ふと、ソファのわきにころがっているサンダルが目に飛び込んだ。竜司は駆け寄り、サンダルを拾い上げた。おばさんのものに違いなかった。一瞬、不吉な予感が脳裏をかすめた。
 竜司は部屋を抜け出し、二階へと駆け上っていった。二階へ上がるのははじめてである。
廊下を曲がり、ドアを押して入る。
 十二畳ほどの室内に、テレビ、ソファ、ベッド、たんすがおかれている。竜司はしばらく室内を眺めながら、おもいにふけった。おばさんのプライバシーに触れることにうしろめたさを感じたが、もはやちゅうちょするところではなかった。なんとか手がかりを探すのが先決なのだ。
 おじさんに電話を入れようかとおもったが、思いとどまった。奥さんが重い病で入院中だし、ご多忙の身分だけに、心配をかけるべきではないとおもった。事件ということを確かめてから、警察に通報し、おじいさんに連絡したほうが無難だと踏んだ。
 竜司はクロゼットに近寄り、扉を両手で開いた。スーツやコートなど、とりどりの衣類がハンガにかけてある。もしかすると、おばさんは着の身着のままで、やつらにらちされたかもしれない。
 たんすに近寄り、引き出しを開けた。ネックレスなど装飾品が入っていた。二段目の引き出しを開けたら、精巧な箱があり、手紙の束が入っている。三段目の引き出しには、B4サイズ大のアルバムがあった。
 竜司はアルバムを取り出し、順繰りにめくってみた。幼いころの両親と兄弟や、中学、高校時代の同級生との写真があった。
 なかほどをめくったところ、派手な身なりで男たちとのツーショットが目を引いた。片手にグラスを持ち、男とグラスをつきあわせるなり、男と寄り添って笑顔でカメラに向かうなり、数枚の写真が並ぶ。
 つぎにめくったら、一枚の写真が目に飛び込んだ。なんと、自分に打ちのめされた中年男と、おばさんのツーショットがあった。ハンサムな男は左手でおばさんの肩をかかえ、右手にグラスをはさんで傲慢な様子でソファにふんぞり返っていた。若い男女はまさしく、熱愛するカップルそのものである。竜司はおもわず顔を赤らめた。スナック、もしくはクラブでの写真に間違いないと踏んだ。
 ふとしたおもいで写真をぬきとり、裏がえてみた。「クラブ『レイナにて』」と書いてあった。竜司は写真を手に、アルバムを引き出しの中に戻した。竜司は身をひるがえして部屋を後にした。
 スナックやクラブを回れば、なんとか手がかりを探せるかもしれないとおもった。しかし、確たる地域名も知らずに、どこにいって探せるだろう。竜司はとっさに暗い気持ちにひたった。
 おばさんに聞かされた話がおもいだされた。絶望に駆られ、ここの山をおとずれたとしたら、この一帯に土地勘があるではないだろうか。
 竜司はさっそく自分の部屋にもどり、パソコンを開けた。レイナという文字をうち込んでクリックしたら、県内の数か所の都市に所在するクラブやスナックがあらわれた。しばらく考えてから、甲府のほうから探すことにした。県内最たる都市だし、そこから調べたほうがよかろうと踏んだ。
 竜司は支度にとりかかった。バックにスンチャクを入れ、着替えの衣類を入れた。財布を開けて、カードをたしかめる。家を離れる際、万が一の場合使いなさいと、母から五十万入りのカードをてわたされたのだ。竜司はバックをとり、足早に玄関へと向かった。
 竜司はマウンテンバイクに飛び乗り、力強くペダルを踏んだ。最寄りの駅から急行電車に乗るつもりだった。

 甲府駅で降りると、竜司は改札口を出てタクシーに乗り込み、繁華街へと行き先を告げた。数分足らずで、タクシーは繁華街の入口で停まった。竜司は料金を払い、バックをとっておりたった。
 ネオンにかがやく繁華街を歩きながら、竜司はビルの看板にくぎつけになった。
 しばらく歩いたら、八階のビルの明りの看板の群れに、ピンク色に染まった「レイナ」をみつけた。竜司はビルの入口に踏み込み、エレベータに乗り、三階のボタンを押した。
 エレベータを下りて、鈍重な扉を開けると、四十代の女性が笑顔で迎える。彼の顔を見た瞬間、ママらしき女性はぎょっとした表情をみせる。
「あなた、未成年でしょう?」
 ママは不機嫌な顔で訊く。
「そうです」
 竜司は素直に答えた。豪華な店内はソファがつらなり、紳士とホステスが群がり、談笑に興じている。
「何の用なの?」
 ママは不機嫌な表情で訊いた。未成年が訪ねるのははじめてのことで、邪魔されたことに怒りをつのらせた。
「ちょっとお聞きしたいですが、この方をご存知ですか?
 竜司はジャケットの内ポケットから、例の写真を取り出して見せた。ママは写真を受け取り、じっとみつめる。
「知らないわ」
 ママは冷淡な表情で写真を突きかえした。
「どうもおじゃましました」
 竜司は写真をポケットに入れながら淡々と答えた。踵を返し、扉を押して出ていった。
 竜司はバックを手にして、のろのろと繁華街を歩いた。ママが知っていても、素直に教えてくれるはずがないとおもった。自分の行動が唐突だったではないか、竜司はいささか自省の念に駆られた。男女のカップルが談笑しながらすれ違っていく。
 竜司はぼっとした目つきで周りを眺めながら、とぼとぼと歩いた。夜の繁華街に足を踏み入れたのははじめてである。
 コーヒ店が目につき、竜司はドアを押して入った。店内は多くの客でにぎわった。竜司は空席にすわり、バックをとなりの椅子におき、水をおいてくれる女性にアイスコーヒを注文した。腕時計をみると、すでに十時をまわっていた。
 竜司は周りを眺めまわした。ほとんどは大人のカップルで、若者は数組しか見あたらなかった。みな向き合って熱く語り合っていて、自分のような未成年に目を向ける者はいなかった。
 一応ここでコーヒでも飲んで、あとは寿司屋にいって晩飯を食おう。それからネットショップにいってパソコンをいじり、夜明けにふたたびあのクラブにいこう。もしここで無駄足をくらったら、ほかの都市に移動せよ。そこでも駄目だったら、東京へもどって探すしかないのだ。たしか、東京の銀座や、六本木にも、「レイナ」というクラブが二三軒ネット上にあらわれたものである。なにがなんでも、おばさんを探して歩こう。おばさんにはつねに世話を焼いてもらい、毎日三食おいしく、バランスのとれた食事をつくってもらい、洗濯もしてもらったのである。おばさんは母のような存在であり、彼は心から尊敬していた。いまごろ、おばさんはどこでどうしているのだろう。あいつらに殴られ、ひどい目にあわされていないだろうか。
 ふと、目がしらが熱くなりかけ、竜司はおしぼりで軽く目がしらをおさえた。


                           十二
 
 エレベータに乗り、三階で降りて、ドアの前の狭い空間に立ちつくした。腕時計の針は二時に差しかかろうとする。クラブは店じまいの潮時であると察した。竜司はドアの脇に立って、おもいをめぐらした。
 しばらくして、一人のホステスが紳士の腕に手を巻いて出てきた。竜司はすかさず近寄り、声をかけた。
「すみません、ちょっとお聞きしたいですが」
 ホステスはぎょっとして目つきで彼をにらみ、紳士は不思議な目を凝らす。
「この人を探していますが、ご存じではありませんか?」
 竜司は写真を差し出した。
 ホステスは華奢な手に写真をはさみ、ちらっと見てから返した。
「知らないわ」
 ホステスはみじかく言い捨て、紳士とともにエレベータに乗り込んだ。
「どうもお邪魔しました」
 竜司は頭をさげながら詫びを入れた。
 しばらく経って、二人の派手な身なりの女性が出てきた。
「すみません」
 竜司は頭を下げつつ声をかけた。
「あ、びっくりした」
 妖艶な女性が驚いた顔で彼を睨みつける。
「この人を探していますが、ごぞんじではありませんか?」
 竜司は写真を差し出した。二人は頭を寄せ合って写真に目を向ける。香水と酒のにおいが鼻をついた。
「あらま、あの江崎さんではないかしら?」
 卵形の顔の女性が声を上げる。
「違うわ、年がけっこう離れているわ」
 妖艶な女性がきっぱりと否定した。
「たしかに十年前の写真です」
「あなた誰?この人たちとはどういう関係なの?」
 妖艶な女性が鋭い目つきで彼を睨みながら訊きかける。
「竜司ともうします。わたしのおばさんとおじさんです」
 彼は素直に名乗った。
「そんなことなら、よそにいって調べなさい」
 妖艶な女性は言い捨てると、エレベータに乗り込んだ。卵形の女性は笑みを振りまきながら、後について乗り込んだ。
 竜司は辛抱強く立ちつくした。しばらくして、数人の女性が相次いで出てきたものの、彼の問いに頭を横に振って立ち去った。
 ママが出てきたので、竜司はすっかりたじろいだ。
「あなた、またここにいるの?」
 ママは怒った表情を露わにしてなじるのだった。
「すみません」
 竜司は頭を下げて詫びた。
「まったく、二度とここにくるんじゃないよ」
 ママは彼を睨みながら、エレベータに乗り込んだ。
 竜司は廊下を歩き非常扉を開けて、階段を下りていった。ママにしかられ、心が沈みかけたが、いささか手ごたえを感じた。とりわけ、卵形の女性が一目で見てとり、江崎という名前を口にしたことに、なんとなく胸がざわついた。
 夜半の繁華街は人波でにぎわった。
 竜司はおもいにふけりつつ、あてどもなく歩いた。やはりやつは裏社会のものだ。ひょっとすると、組のボスかもしれない。だとしたら、手下の一味を引きつれているはずだし、自分一人で立ち向かうのは危険極まりないのだ。警察に通報したほうがいいかもしれない。しかし、なんら確実な証拠もないのに、通報しても警察が動かないのにきまっている。
 例の推理ドラマで見た覚えが浮かび、自分のおかれた状況とにかよったことに気づいた。もうぐずぐずしていられない。最悪の場合、おばさんが危機的な状態に陥るかもしれないのだ。だが、一人ではあまりにも無謀であり、やつらにとらわれる可能性が高いのだ。やつらは熊よりも凶悪であり、なによりも殺傷力のある武器を持っている。なら、どうしたらいいだろう、まず自己防衛に徹するしかないのだ。ふと、中学生のころ、マンションの解体場で仲間と警察ごっこをしたことが思い浮かんだ。自分は探偵役をこなし、やくざにつかまり、隠した針金で手錠をこっそりはずして逃げ失せたのである。仲間に、手錠をはずす技にくわしい者がいて、彼に教わったのである。そうだ、防衛道具を買わなくちゃ。繁華街で待ち伏せしたら、必ずややつを見つけられるだろう。多勢に無勢だが、自分は闇に紛れ込んでいるし、奇襲攻撃をかけるにはもってこいである。自分のスンチャクを存分に発揮すれば、数人を相手に戦うのは問題ないのだ。
 竜司はおもわず心が弾み、拳をしかと握った。流れのタクシーに乗り込み、近くのビジネスホテルへいくよう告げた。

 薄暗い部屋の中で、おばさんは両手を後ろへと手錠をかけられ、椅子にすわっている。男がナイフを手にわめき散らしつつせめよる。おばさんは顔を横向きにしてだんまりをきめこんだ。男は顔をゆがめて、ナイフを宙に振りまわしながら脅しつける。
 竜司は驚きの声をあげながら目を開けた。
 眩しい光がカーテンの隙間から部屋になだれ込んだ。竜司はベッドからおりて、シャワールームにかけ込んだ。シャワーを浴びて、歯磨きをし、急いで身支度をした。腕時計の針は十時を回っている。久しぶりに朝寝坊をしてしまった。
 バックを手に部屋を後にした。エレベータに乗って一階におりて、フロンとでチェックアウトをした。
 外に出て、竜司は足早に歩いた。近くの吉野牛丼屋に入り、大盛りをたのんだ。まもなく店員が牛丼を前においてくれる。みそ汁を一口飲み、牛丼をほおばった。
 店を出て、フロントで教えてもらった方向へと歩いた。しばらく歩いたら、雑居ビルにネットショップの看板が現れた。
エレベータで四階にのぼり、ドアを押して入る。小さなカウンターで身分証をみせ、手続きをすませ、指定席にいって腰をおろした。インターネットを開き、目当ての文字を打ち込んだ。例の画面があらわれ、メモ帳を取り出して書き込んだ。
 例の洋服直しの店のドアを開けて入ると、初老の男性がいらっしゃいませと声をかけてくれる。
「これを入れる、鞘みたいなものをつくっていただけますか?」
 竜司はバックからスンチャクを取り出して見せた。
「つくれないことはないけど、けっこう値がはりますが」
 店主は怪訝な目つきでスンチャクを見ながら答える。
「できれば皮でつくってもらいたいですが」
「三万二千円ほどかかるけど」
 店主はいぶかる表情で彼をみつめる。
「今日中にお願いしたいですが」
 竜司は財布から一万円札を四枚抜き取って手渡した。
「午後四時以降にわたしますので」
 店主は八千円のお釣りを手渡しながらいった。
 そうだ、新しい携帯電話を購入しよう。家を離れてから、ずっと携帯とは無縁の日々を過ごしたのである。インターネットを調べられるし、ゲームもできる、なんとも頼もしいものであろう。ホームセンタにいって、テープや小槌など道具を買おう。万が一の場合、必要不可欠な道具をできるだけそろえよ。万端の用意をすれば、おばさんを救出する道が開かれるだろう。
 歩道沿いに立ち、竜司は片手を上げた。緑色のタクシーが走ってきて急停車した。


                             十三

 夕方、竜司はバックを持って寿司屋から出て、ぶらぶらと歩道を歩いた。夕日がそそぐ大通りを、車の流れがひっきりなしに続いた。
 バックを左肩にかけ、右手で左脇をさわる。Tシャツの内側に、スンチャク入りの皮の鞘がさがっていた。五センチほどの帯で胸を巻き、左脇の上の帯に鞘の口を留め金でつなぎとめ、鞘の下を留め金でベルトに固めた。いざというときには、Tシャツの左脇に手を突っ込み、鞘からスンチャクを引きぬいて応戦できるのだ。ひととおりの用意はできたし、あとは作戦の戦術を練り、闘いを有利にすすめるだけなのだ。
 繁華街は人波でにぎわった。狭い通りをはさんで建ち並ぶビル群はネオンに包まれ、暮れなずむ空に輝きを添える。
 「レイナ」のビルの筋向いの二階に、喫茶店の看板が見えた。竜司は足早にビルの入口に入り、階段を上っていった。客の影はまばらで、軽やかな音楽が心地よくひびいた。
 竜司は窓際の席に腰をおろし、近寄ってお冷やのグラスをおいてくれる女店員にアイスコーヒをたのんだ。「レイナ」の入口がまざまざと見下ろせる。派手な見なりの女性や、豪華な着物に身をまとった女性が、優雅な足取りで歩く姿が鮮やかに目をついた。
 店内はますます熱気をおびはじめ、カップルの談笑の声が高まりつつあった。竜司は眉間にしわをよせ、じっと眼下のにぎやかな光景に目をむけた。夜の帳に包まれる繁華街は、妖艶な熱気に浮かれていた。はたして相手は現れるだろうか。
 ふと、ピンクのスーツ姿の女性が携帯でしゃべりながら、「レイナ」の入口に向かうのが目に飛び込んだ。卵形のあでやかな顔に媚の色をたたえ、興奮ぎみでしゃべっている。江崎という名前を滑らした、例のホステスであると一目でわかった。
 竜司はすかさず腰を浮かし、入口へと小走りに歩いた。
 階下の入口を飛び出し、狭い通りを横切って走った。車の鋭い警笛が背中にひびいた。
 ビルの入口に入ると、女性がエレベータを待っている姿がみえた。
「こんばんは」
 竜司は頭をさげつつ挨拶した。
「こんばんは」
 女性はちらっと彼をみながらいった。
「すみません、店じまいのときにお会いしたものですが」
 竜司は紅潮した顔でいった。
「あの若者なの?」
 女性はすました顔で彼をみつめる。
「あの、江崎のおじさんのことですが、重病で入院しているおばさんにたのまれてぜひ会いたいですが、居場所を教えていただけませんか?」
 竜司は顔をくもらせ、懇願する口調でいった。
「あたしもよくわからないわ」
 女性は警戒じみた表情でことわる。
「先生のお話では、おばさんは余命半年とのことです。はやくおじさんに知らせたいですけど」
 竜司は悲痛な表情をよそおっていいまくった。
「かわいそうに。でも、ほんとうにわからないわ」
 女性はやや同情した表情で彼をみながらいった。
「つまらないですが、気持ちですのでぜひお願いします」
 竜司は財布を取り出し、一万円札を三枚ぬいて手渡した。
「べつにそこまでしなくても……」
 女性はあわてながら、片手で彼の手をさえぎった。
「いいえ、ぜひ受け取ってください。お願いします」
 竜司は札を女性の手ににぎらせた。女性は照れた表情で札を受け取った。
「たしかに中央通り沿いの七階ビルに事務所があったとおもうよ。住所はわからないが、茶色のビルで、中央通りを歩けばみえるとおもうわ」
 女性は記憶をたどる表情でいった。
「どうもありがとうございました」
 竜司は頭をさげて礼をいい、身をひるがえそうとした。
「あたしが教えたと、絶対いわないでね」
 女性は懸念に満ちた表情で念を押すのだった。
「わかりました、絶対内緒にしますので」
 竜司はふたたび頭をさげながら、踵を返して歩き去った。

 繁華街から中央通りまではワンメーターの距離だった。料金をはらい、バックをさげてタクシーを降りて、のろのろと歩きだした。街灯の光にうっすらと映える道路を、車の流れがひっきりなしに駆け抜ける。
  竜司はゆっくり歩きながら、例の七階の茶色のビルを探した。街灯に浮かび上がるビル群は肩を並べてつらなり、夜目には外壁の色が判然としなかった。とにかく、七階ビルをたしかめながら歩を進めた。
 数百メーター歩いたものの、茶色の七階は見当たらなかった。交差点に立ち、信号待ちをした。信号が緑に変わり、道路を渡って反対側の歩道を引き返した。二、三百メーター歩いたところに、茶色の七階ビルがうずくまるよう建っていた。
 玄関ドアを押して入ると、白い光につつまれたエントランスはしんかんとしている。社名が並んだ金属プレートに目を走らせた。「ヒノキ興商(株)」という社名がなんとなく目を引いた。
 竜司は非常口から入り、階段をのぼっていった。四階の廊下に出て、足音をしのばせて歩き、例の社名の表札がかかったドアの前に立った。中から話し声がつたわる。
 竜司は耳をすませて聞きいった。くぐもった声と、しゃがれた声が飛び交う。くぐもった声が、なんとなくおばさんと言い争った男の声に似たような感じがした。
 しばらくして、椅子を引き、机を片付ける音がにわかにひびきだした。竜司はさっそく身をひるがえして立ち去った。ビルの入口を飛び出し、並木の脇に立って入口を睨んだ。
 やがて、一台の黒塗りのベンツが歩道沿いに寄せるように停まった。入口のドアが開かれ、紺色のスーツ姿の男が出てくる。グレーのスーツに身をまとった男が、ゆったりした足取りで姿をあらわした。まぎれもなく自分に打ちのめされたあの男である。竜司は飛びかかりたい衝動を押さえ、並木の後ろに立って相手を睨んだ。
 紺色の男がベンツの後ろドアを開けると、ボスは後部座席に腰をおろす。竜司はすかさず走ってくる車の方向に目を走らせた。ちょうど一台のタクシーが目に飛び込んだ。竜司が手を上げると、タクシーは彼の前で停まった。
 助手席に座ると、走り去るベンツを指さしながら追っていくようにといった。初老の運転手は車を急発進させ、ベンツの後ろを追いかけて走り出した。


                            十四

 ベンツは中央通りを走り抜け、若竹通りに入ってしばらく走り、ある路地へ乗り込んだ。ベンツを下りたボスは、二人を従えて小料理屋「夢星」の暖簾をくぐって入る。
「あの、貸し切りたい場合、料金はいくらですか?」
 竜司は運転手に訊いた。
「何時間の予定ですか?」
 運転手は怪訝な表情で彼をみつめる。
「三、四時間ぐらいはかかるとおもいますが」
「三時間だと二万五千円、四時間だと三万五千円です。時間が長ければ、その分だけ追加料金でお願いしております」
「わかりました、お願いします」
 竜司はあっさりと答えた。バックを後部座席に投げ、助手席をおりて、後部ドアをあけて入ってすわった。
「もうちょっと後ろへ下がっていただけますか?」
 竜司は懇切な口調でいった。相手に気付かれないように、一定の距離をたもつべきだとおもった。
 運転手はバックギアを入れ、頭をめぐらして後ろを見ながらゆっくりと車をバックさせる。
「相手に気付かれないように後をつけてください」
 竜司は沈んだ顔でいった。
「わかりました」
 運転手はすんなりと応諾する。
 やや一時間過ぎたころ、三人の姿が現れた。
 ベンツはのろのろと発進し、走ってきた方向を引き返して疾走した。数台の間隔をおいて、タクシーは後ろをついて走った。
 繁華街に入り、狭い通りをゆっくり走り、ネオン看板がきらめくビルの前に停まる。ボスと紺色の男はビルの中へ入っていった。ベンツはゆっくりと走っていった。
「ベンツについていってください」
 竜司は運転手に早口でいった。タクシーはスピードを落として走り出した。
ベンツは繁華街の端に建つ、ビルの地下駐車場へ走り込んだ。タクシーはビルから離れた道路わきに停まった。腕時計の針はすでに夜十時を回っていた。
 十一時半を過ぎたころ、ベンツが地下駐車場の出口から姿を現し、狭い通りを走っていった。
 二人が乗り込むと、ベンツはゆっくりと滑りだした。繁華街を走り抜けると、スピードを上げて疾走した。タクシーは後ろをついて走った。
 二十数分走り、ベンツは閑静な住宅街に乗り込んだ。タクシーは一定の距離をたもち、ベンツの後をつけて走った。
 ある一戸建ての前で停まると、ベンツの運転手が飛び降りて後ろへ回り、後部ドアを開けて慇懃に頭をさげる。紺色の男も助手席を降りて、うやうやしく腰をかがめる。ボスは車を降りて、二人にみじかく言い残し、庭先の扉を開けて入っていく。
「どうもありがとうございました」
 竜司は財布を取り出し、一万円札四枚を運転手にわたした。お釣りをもらい、バックをさげて車を降りた。タクシーが頭をめぐらして急発進した。少々間をおいて、ベンツがスピードを上げて走り去った。
 竜司は一戸建てに向って足早に歩いた。庭の扉を開けて入ると、こじんまりした庭に植え込みが整然と立ち並び、常夜灯の光にうっすらと浮かび上がる。
 玄関ドアに近寄ってノブを回したら、はたして鍵がかかっていた。住宅侵入という罪の意識にさいなまれたが、もはやそれところではなかった。おばさんを救出する自分の行動が正当だと、みずから納得した。
 足音を殺して建物の周りを見まわった。小さな窓が頭の上にあった。竜司はバックを開け、中からテープと小槌を出した。テープをちぎり、窓にX字に貼り付け、小槌で軽くたたいた。数回叩いたら、窓ガラスにひびが走り、小さな穴が開いた。手袋をつけ、小心翼翼と割れたガラスを取り除き、地面に置いた。ガラスをきれいに取り払うと、仰向けになり、両手でしかと窓枠を握り、体を宙に浮かせた。頭から窓を通り抜け、体をゆっくりと窓の内側に引き上げ、足を窓から抜け出した。足をおろしてみたら、化粧室の中に立っていた。
 ドアを少し開けてみたら、廊下は闇に覆われていた。抜き足さし足で階段をのぼっていった。ドアに近づくと、テレビの音が聞こえる。
 竜司はドアのノブを握り、深く息を吸い込んだ。次の瞬間、ドアを開けて室内に踏み込んだ。
 ソファにふんぞり返ってテレビ画面にくぎづけになっていた男が、びっくりした顔で彼を見やる。
「なんだ、お前!」
 江崎は体を起こし、驚愕した顔でどなった。
「おばさんはどこにいるのよ?」
 竜司は怒りの声を上げた。
「かってに人の家に踏み込みやがって、住宅侵入罪で警察に通報するぞ!」
 江崎は顔をゆがめてわめき散らした。
「おばさんを拉致した罪で告訴するぜ!」
 竜司は怒りをあらわにして大声をはなった。
「お前とは関係ない。おれを誰だとおもってるんだ?さっさと出ていけ!」
 江崎は威厳に満ちた表情でどなりちらした。
「おばさんを呼んでくれ!」
 竜司は命令調でいった。
「竜……、竜司!なんでここにいるの?」
 つづき部屋のドアが開けられ、美千代がふらりと姿を現した。酒に酔ったらしく、寝ぼけ眼で彼をぼうっとみやる。
 江崎はテーブルの上におかれた携帯をすばやくとって押しまくり、「早く戻るんだ」、と大声で叫んだ。
 竜司はおばさんに小走りに近寄り、その手をひっぱってドアに向かった。美千代はよろよろと。おぼつかない足取りでひっぱられていった。
「おれの部下がもうすぐ戻ってくるぞ!」
 江崎が背後から口をゆがめて吠える。ガキのわがままな振る舞いに、手をこまねいている自分がふがいなくおもわれた。ガキに打ちのめされただけに、到底太刀打ちできないとあきらめた。
 竜司はおばさんを両手でささえながら、ゆっくり階段を下りていった。江崎が階段の上から睨みつける。
 玄関ドアを出て、庭の扉を開けて道路に立った。美千代はぼうっとした目で彼をみつめ、ふらふらとした体を彼の腕にあずけていた。竜司はポケットに入れた携帯を取り出した。タクシーを呼ぶつもりだった。江崎がドア口に立って見つめている。
 タイヤがきしむ音がひびき、ベンツが道路わきに停まった。二人の男が飛び降りて、足早に近寄ってきた。
「あのガキをとっちめろ!」
 江崎がさけんだ。
 竜司は携帯をポケットに戻し、両手を握って構えた。紺色の男が飛びかかり、パンチをふりおろす。竜司はさっととびすさってかわすと、相手の胸に一発浴びせた。男はよろめきながら振り返る。運転手役の、ずんぐりした男が突っかかり、両手を突き出して連打する。一発が竜司の頭を命中した。さいわい、頭をさげてかわすところだったので、たいしたことはなかった。やくざだけに、いささか格闘技に通じていると察した。
 二人を相手に数回交戦したら、さすがに息切れがした。このままだと、相手に一発くらって倒れかねないのだ。竜司は右手をシャツの左脇の内側に突っ込み、スンチャクを引き抜いた。両手でスンチャクを振りまわしながら、二人にせまりよった。
 二人は互いに見かわすと、いっせいに彼を挟みこむように飛びかかってきた。竜司はスンチャクを紺色の男の頭をめがけて振りまわした。あっと悲鳴がひびき、紺色の男は顔を両手で押さえながらくずれ落ちた。
 一発のパンチが竜司の胸をしたたかに打ち、竜司は後ろへとよろめいた。ずんぐりした男は凄んだ形相で、匕首を内ポケットからぬきとってせまってきた。竜司はスンチャク振り上げ、相手の腕をしたたかに打った。あっと悲鳴をあげながら、男は右腕をかかえてよろめいた。匕首が地面にころがる。
 竜司がスンチャクを振りまわしながらせまりよると、ずんぐりした男は右腕をかかえて後ろへと逃げ込んだ。紺色の男は両手に顔をうずめ、地面にうずくまっている。
 江崎が驚愕した表情で立ちすくんでいた。
 突然、サイレンがなりひびき、パトカーが姿を現した。
 竜司はスンチャクを脇の鞘に差し込み、ぼうっとした顔で突っ立っているおばさんに近寄った。江崎が青ざめた顔で、彼をじっと見つめていた。
 パトカーが近くで停まり、三人の警官がと飛び降りてきた。


                             十五

 ダイニングルームの食卓に向かって腰をおろし、竜司はコーラを一口あおった。夕方、マウンテンバイクで山道を駆け抜け、国土沿いのコンビニーからから揚げ串や総菜などを買って戻ったのだ。
 甲府での二日間の出来事は、鮮やかに記憶にきざまれた。警察署で数時間の取り調べを受け、お昼やっと自由の身になれたのである。彼の正当防衛が認められ、なによりも未成年であることが釈放のおもな要因であった。
 警察署の玄関で、美千代が笑顔で彼を迎えてくれた。タクシーでイタリアンレストランに直行した。
「このたびはほんとうにありがとう」
 美千代はビールグラスを取り上げ、彼のジュースグラスに軽く合わせながらいった。
「昨日、あの人にひどい仕打ちをされたんですか?」
 竜司は心配そうな様子で問いかけた。
「そんなことないよ。彼は裏社会の人間だけど、根は悪くないの。あたしにぜひもどってほしいとせがまれたの。あたしも動揺しちゃって、だいぶ酒を飲んで、ぐでんぐでんになったわ。あなたが居間で彼とけんかしたとき、やっと目が覚めてふらふらと出ていったの」
 美千代はいいきると、ビールを一口飲んだ。
「ぼくがはやとちりしたということですね」
 竜司は苦笑いを浮かべた。
「あなた、ほんとうにすばらしかったわ。白馬の騎士さながらに勇ましかった。彼もすごくショックを受けているの。少年に打ちのめされ、手下の二人もあっけなく倒されたもの。警察は住宅侵入罪であなたを追及するつもりだったけど、あたしが事実を説明したの。あなたがあたしのために、少々無謀なことをしたのだと言い張ったわ。江崎も同意してくれたの、そこまでは追及しないって」
 美千代は笑みを湛えていいまくった。
 レストランを出て、それぞれタクシーに乗り込んで帰途についた。美千代は財布から五万円を取り出し、断る彼の手に握らせてくれた。
 竜司はコーラをひっかけながら、おもわず苦笑を漏らした。自分があまりに性急に行動したと、自責の念にひたった。しかし、自分がさらに成長したとの自信に胸が躍りだした。ここ数日、またも正常な生活にもどり、武術の修練に励むようになった。十年、二十年不動の努力で邁進し、武術の道をきわめよ、竜司はあらたに決意した。

 この日の夕方、汗にまみれたシャツを手に玄関ドアを開けて入ると、お帰りなさいといいながら、おばさんが笑顔で迎えてくれるのだった。
「はやくシャワーして食事しなさい」
 食卓にはとりどりの料理がふんだんにならべてある。竜司は会釈しながら、廊下の奥へと歩いた。
 しばらくして、竜司はジャージ姿でもどり、椅子に腰をおろした。
「この一週間自炊したの?」
 美千代がコーラグラスを前におきながら訊く。
「いいえ、国土沿いのコンビニーから総菜を買ってきて食べたのです」
「ま、それは大変、マウンテバイクで往復しても四十分以上かかるわ。でも、若いからね」
 美千代は笑みをたたえ、優しい口調でいった。
「おばさん、これからどうするつもりですか?」
 竜司は箸で刺身をとりながら訊いた。おばさんが江崎との復縁をためらっているのを見抜いていたからだ。
「このところ、あたしずっと悩んでいたの。とにかく、あの人はばくちからは手を引いたそうよ。数年前から不動産仲介や、道路工事関連会社を経営して、うまくいっているらしい。あたしからくすねた二千万も返してくれたの。去年新築したあの建物も、あたしの名義に変えるって」
 美千代は微笑みながらいった。幸せへのあこがれの色がありありと浮かんだ。
「おばさんが幸せになるなら、それに越したことはありません」
 竜司は柔和な目つきでいった。
「あの人は道をあやまったけどね、根っからの熱血漢なの。あたしの初恋の人だし、どうしてもにくめないわ。あなたもこれから恋をするでしょうし、あたしの言葉が理解できるとおもうわ」
 美千代はこんこんと言いつくした。
「ただ、おばさんがいなくなればさびしくなるからです」
 竜司はやや顔をくもらせた。
「ほんとうにごめんね。一昨日、おじさんのお宅にいってお別れのご挨拶をしたの。奥さんも退院なさって、元気を取り戻したようだった。年内にお手伝いさんを募集するとおっしゃっていたわ。しばらくは自分で掃除や洗濯をこなし、自炊もできるように頑張ってね」
「わかりました、これから料理も勉強したいとおもいます」
「ネットで調べなさい。いろんな料理のレシピがあるとおもうわ」
「わかりました、頑張ります」
 竜司の気合の入った答えに、美千代はほほえましい表情で見つめていた。


                          十六

 うららかな冬日和が映える校庭を歩きながら、竜司は沈んだ顔で眺めまわした。一年ぶりの登校で、第二学期期末試験に参加するためだった。
 昨日の午後帰宅したとき、母は彼を抱きしめて熱い涙にむせんだのだ。夜七時、父はいつもより早く帰り、彼の両手を握って賛辞をかけてくれた。
 母が運転するクラウンで近くの焼き肉屋にいき、一家団欒を祝って祝杯をあげた。彼は森での生活や武術の修練など、過ごした日々をとめどなく語った。息子のたくましい姿に、両親はすなおによろこびをあらわし、引き続き森での生活に励みたい決意に賛同してくれた。夜、叔父との長電話で、森での暮らしや武術の進捗をえんえんとはなした。叔父は彼の進歩をほめてくれたし、さらに奮闘してまい進するよう励ましてくれた。
 突如、見覚えのある姿が目をついた。のっぽの山井が仲間たちを連れて、彼に向って歩いてくるのだった。顔は横柄な色に塗られ、軽蔑に満ちた目つきで彼をにらみつける。
「おまえ、また戻ってきたか。よくもネズミのように逃げ隠れていたな」
 山井は口をゆがめて毒づいた。
「ここは学校だよ、お前にいわれる筋合いはないさ」
 竜司は相手を睨み返しながら言い放った。背丈の高い山井は、百七十センチの彼を頭半分は超える。
「おい、みんな聞いたな。こいつはおれに口答えしてるぜ!おれに反抗したらどういう目に遭うかしらんか?」
 山井は大声でどなり散らした。
「力任せに人をいじめるのは許さんぞ!」
 竜司は大声で言い返した。周囲は高嶺の見物を楽しむ人山でにぎわった。
「この野郎!」
 山井がすごんだ形相で、彼にせまってきた。竜司は両手をにぎり、姿勢を低くしてかまえた。
 山井の大きな体がすばやく動き、パンチが彼の頭めがけて飛んだ。竜司はさっと体を横にとびすさり、相手のパンチをかわした。山井は顔を赤らめ、猛然と飛びかかってきた。竜司は腰をかがめ、体を回しつつ右足をくりだした。足は山井の腹部を命中し、山井は体のバランスを崩してよろめいた。
 山井は目をかっとみひらき、彼に向ってパンチを振りまわしながら突進してきた。竜司は敏捷にはね回りながら、相手のパンチを軽々とかわした。当てがはずれたことに、山井は焦りを募らせた。格闘技に通じた自分のパンチをかわすとは、相手がプロ並みの技を備えたということを意味する。こいつはどこかのジムで、格闘のトレニングをしたにちがいない。山井の顔に動揺の色が浮かび上がった。周囲の野次馬らは息を殺して、眼前に広がる格闘にくぎつけになっていた。
 山井はボクシングの姿勢をとりなおし、彼に向ってせまりよった。山井はすきをみて、強いパンチを繰り出した。パンチはしたたかに、すばやく動き回る竜司の頭をかすめた。竜司は腰を低くかがめつつ、右足で相手のすねをはらった。山井はあっけなく仰向けに倒れ込んだ。周囲から喝采の声が湧きおこった。
 すかさず飛び起きた山井は真っ赤な顔で彼を睨みつけ、彼に猛然と飛びかかり、パンチの連打を浴びせた。一発が竜司の肩にあたったが、敏捷に飛び回る竜司にとっては軽いものだった。竜司は目まぐるしく飛び回りながら、山井の猛烈な攻撃をかわした。いくどとなく相手にかわされ、山井は息を切らしながらパンチをゆるめた。そのすきを狙い、竜司は反撃に出た。
 竜司はまたも、すばやくとびまわりながら、彼の顎をめがけてパンチを繰り出した。一発が山井の顎を、もう一発が顔面を命中した。山井はおもわず足をふらつかせた。顔にただよう横柄な色は消え失せ、動揺がありありと浮かんだ。山井は体勢をととのえ、さらにパンチをふりまわしてきた。しかし、力はだいぶそげられ、パンチはざつになりだした。
 竜司は深く息を吸い込み、両手をしかと握った。はね回りながら近寄り、両手を繰り出し、連打を浴びせた。山井は慌ててパンチをかわした。竜司は体を斜めに宙に浮かせ、右足で相手の腹に蹴りを入れた。みぞおちに蹴りが入り、山井は呻きを漏らしながら、両手で腹をかかえて地面にくずおれた。雷鳴のような拍手が沸き起こり、喝采する声がとどろいた。
 仲間らが近寄り、山井を支えて起こした。山井は両手で腹をかかえ、屈辱に満ちた目で彼をみやる。衆人環視の中、自分の無様をさらけ出したことに恥をおぼえたのだ。相手は強くなって戻ったばかりか、軽々と自分を打ちのめしたのである。相手の格闘の技が自分より一枚上だと、すなおに認めざるをえなかった。
 すごすごと歩き去る山井を、竜司は誇りに満ちた顔で見守った。かつて自分を侮辱し、窮地に追い込めた敵はついに倒され、彼の足もとにひれ伏したのである。勝利者の誇りが胸に広がり、自信が湧きあがった。
 竜司は微笑を湛えた目顔でみんなに軽く会釈し、足早にビルの玄関へと向かった。試験を終えたら、その足で森に引き返し、さらなる武術の修練に励もう。竜司は心に誓いながら、前へとすすんだ。
 玄関扉のガラスに日差しがあたり、燦然と輝きを放った。


                            〈 了 〉

カンフー少年

カンフー少年

高校一年生の竜司は学校でいじめに遭い、登校を拒み、家に引きこもる。私大で空手監督をつとめる叔父に勧められ、武術の修練を目指し、森の中の別荘に住みつきで武術の修練に励む。森の中で獰猛な猿のボスと格闘の末、ボスを打ちのめす。クマに追われた教訓を生かし、スンチャク技を身につけて熊を撃退する。少女を拉致する二人の男を打ちのめす。失踪したおばさんを救出するため、敢然とやくざと立ち向かう。学期末試験に学校にもどり、自分をいじめた宿敵を打ち倒す。

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