帝国の花

あでやかな諜影

 初春の夜、南京の迎賓館ではカクテルパーティーが盛大に催されていた。
 国民政府の政財界のお歴々が勢揃いし、派手な身なりの人々は華やかな雰囲気の中で酒興を添えていた。紳士の鷹揚な笑い声と麗人の嬌声が飛び交い、酒宴はなごやかなムードに包まれた。
 岱機騰は片手にウイスキーグラスを持ち、柔和な顔で一人の高官と話し合っていた。総統の盟友で、政府の元勲の一人として、岱機騰はまさに官途の絶頂期を迎えていた。多忙を極める総統の身代わりに出席したのである。
 要人や高官らが先を争って近寄り、おもねる顔で氏に挨拶の言葉を述べた。
「お世話になります。ちょっとご紹介させていただきます。こちらは楊麗氷女史で、日本留学から帰国したばかりの才媛です」
 参議の鄭民が近寄って挨拶し、ひとりの若い女性を紹介するのだった。すんなりしたプロポーションに、つぶらな目は吸い込まれそうな生気に溢れ、婀娜めく面持ちは魅惑的な笑みを湛える。
「ご紹介におあずかりしました楊麗氷と申します。よろしくお願いいたします」
 麗人は腰を折って挨拶した。
「こちらこそ」
 岱機騰は微笑む目で彼女をみつめる。心は未練と憂いとが交錯して渦巻いた。しばらく応酬した後、用を足すと断り、人垣を縫うようにしてテラスに向かった。
 まん丸い月が中天にかかり、煌煌たる光を闇に沈んだ大地に降り注ぐ。静まり返った庭園には、切り揃えた木々が薄っすらと影絵を浮き立たせる。
岱機騰はスーツのポケットからタバコ箱を取り出し、一本抜き取って口に銜え、ライターで火をつけた。ほのかな炎が、沈んだ顔を一瞬映え出した。閉ざされた記憶の扉が開かれ、一昔の思い出が堰を切ったかのように浮んだ。
 弱冠十四歳で渡日し、日本大学の法学部で法科を専攻した。後日、孫文の同盟会に参加し、そこで蒋介石と知り合うこととなった。辛亥革命後、上海で「民権報」を創設し、翌年に孫文の秘書として勤めた。一時は中国共産党の創始者の一人として活躍したが、その後袂を分かち、孫文の陣営に舞い戻った。まもなく政府法制委員会委員長や、元帥府の秘書長、中央常務委員、中央宣伝部長など要職を歴任し、国民政府の上層部の要人として活躍した。
「よろしかったら、シャンパンでもいかがですか?」
 色っぽい嬌声が背後にこだました。振り返った彼に、楊麗氷が艶めかしい笑顔で、きゃしゃな手にしたシャンパングラスをそっと差し出すのだった。
「ありがとう」
 岱機騰はシャンパングラスを受け取り、うっとりした目で彼女をみた。
「すみません、お邪魔しまして」
 楊麗氷はあだっぽい顔を紅潮させた。
「日本の、どこの大学で勉強なさいました?」
 岱機騰が好奇めいた口調で訊いた。
「東京女子大学で日本文学を専攻しました」
「なかなか立派なものですね、今のご時勢に女性として留学するとは。もっと多くの女性が留学なされば、国の改革にも大きな力を添えることになるでしょう」
 岱機騰は慨嘆じみた表情を滲ませた。眼前の麗人をみつめながら、日本での初恋の追憶に胸を躍らせた。
「先生のご芳名はとうに耳にしています。先生は弱冠十四歳で日本に留学され、帰国されて清朝を倒す革命に身を投じられました。袁世凱に逮捕され、投獄されても節を曲げずに戦いまして、優れた闘魂には大いに鼓舞されます。先生は数多の著作をお書きになりまして、日本語版のマルクスの「資本論」など多数の著作も翻訳され、中国革命の普及に大いに貢献なさいました」
 楊麗氷は敬意に満ちた眼差しで、賛嘆の口を極めた。
「これからは、あなたがた若い世代が大いに役割を果たせる時代です」
 岱機騰は顔をほころばせ、じっと彼女をみやった。
「とりわけ『日本論』は独特な見地に基づいた、すばらしい論述だとおもいます。日本神道と日本国体の宿命的な連携性こそ、歴史発展の重大な時期において民族の力量を凝縮させ、かつ役割を果たした奥義を鮮やかに論じられています。まさに日本に関する初の、独創性に満ちた立派な論述です」
 楊麗氷は、さらに歯に衣着せぬ語調で言いまくった。
「きみはまさに優れた才媛だ。日本論についてこれほど深い理解をもち、完璧に述べるなんて、たいしたもんだ」
 岱機騰は目を見開いて、彼女の婀娜めく面持ちを凝視した。その爽やかな弁舌に胸を打たれ、おもわず初恋の恋人の美しい面影が思い浮かんだ。大学卒業後、巡り会えた山村比沙子と恋に落ち、三年余の同居生活をしたのである。
 そのとき、ダンスホールから優雅な舞曲が鳴り響いた。
「よろしければ、一曲付き添わせていただけますか?」
 楊麗氷は魅惑的な瞳で彼を見つめる。岱機騰は逸り出す心を抑え、柔和な顔で会釈した。
 楊麗氷はそっと岱機騰の腕を抱え、室内へと歩を進めた。

 四川料理で名だたる「川翔楼」の個室を行き来しながら、岱機騰はおもいを巡らした。
 感傷的で、心がこまやかな気質のゆえ、つねに気まぐれな挙動に駆られた。なお、文人特有の風流洒脱に富んでいて、数々の浮名を流してきた。権勢や富にものをいわせる時勢だけに、上流社会においては情事やら、妾を囲うのはありふれたことであった。
 週末には常に高級料理屋で個室を予約し、お気に入りの愛人とともに美食をとるのが慣わしとなっていた。その費用は、毎月支払われる接待費から賄った。美味好色は、もはや切っても切られない嗜好として身に染まったのだ。
 半月前に、迎賓館で開かれたパーティで巡り会って以来、彼女のあだっぽい面影が脳裏にまとわりつき、なかなか振り払えずに悩んだ。初恋の恋人の麗しき面影と重なり合って、なおさら心をざわつかせた。
 一昨日、彼女から電話がかかったとき、彼はとっさに心を渦巻く暖かい流れに打たれた。初恋に溺れたころのときめきに似合わしいその情感であった。
 ノック音が軽く響き、マネージャーがうやうやしくドアを開いた。紅チャイナドレス姿の楊麗氷が、片腕にハンドバックを提げて入ってきた。
「すみません、遅くなりまして」
 楊麗氷は笑顔でやんわりと謝った。
「大丈夫だよ、まだ宵の口だから。さ、おかけなさい」
 岱機騰は上擦った声でいいながら、じっと彼女をみつめた。マネージャーが引き出してくれた椅子に、楊麗氷は腰をそっと下ろした。テーブルにはグラスや、四川泡菜、キュウリ漬けなど六種の前菜が並べてあった。
「ところで、この半月は何をなさって過ごしたんです?」
 岱機騰は微笑みながら詮索めいた目をちらつかせる。恋焦がれる気持ちに駆られながら、今や今やと電話を待ち侘びただけに、彼女のことが気になってならなかった。
「上海にいる友たちが職業を紹介するというので、しばらく帰っていました」
 楊麗氷は巧みに言いつくろった。実は新たな急務に追われ、駆け戻ったのである。
「どんなお仕事です?」
「新聞社のレポーターの仕事ですが、応募者が殺到して、なかなか厳しいかと思います」
「仕事なら、わたしが紹介してあげましょう」
「ありがとうございます。友たちの父が市政府で宣伝部長を務めていまして、そのつてにあやかって何とかなるとおもいます」
 ノック音がして、二人の給仕がトレイを持って入り、棒棒鶏(鶏肉)、樟茶鴨(四川ダック)、水煮肉片、エビチリ、回鍋肉など料理皿を円卓の上に並べた。
「お飲み物はなににします?」
「よろしかったら、ワインでお願いします」
 給仕がフランスワインのボトルの栓を抜き、めいめいのワイングラスに注いで、静かに引き下がった。                  
「では、あなたの幸せな未来のために乾杯します」
 岱機騰はワイングラスを取り上げ、うっとりした目つきで彼女をみやる。楊麗氷は白い指で挟んだワイングラスを差し出し、そっと突き合わせた。
「社会活動には参加しています?反日デモなりなんなりとね」
「ときどき友たちと一緒に参加します。愛国は青年たちの義務だとおもいます。中国が日本軍国主義に踏み躙られるのを、こまねいているわけにはまいりません」
 楊麗氷は決然たる表情でいった。
「まったくその通りだ。新時代の青年として、国が瀬戸際に瀕した今こそ、身を挺して革命に投じるべきだ」
「日本軍がそろそろ関内(山海関以西)に攻め込むという噂でもっぱらですが、はたして中国全土を席巻するでしょうか」
「それは時間の問題だ。今の日本は軍部が政治を主導しているだけに、国を挙げて侵略戦争に突き進むのは必然たる趨勢だ。満州事変からして、日本軍が全面戦争拡大に打って出る野望は火を見るより明らかだ。それに、張学良の東北軍が抵抗せずに逃げ失せたのが、最大の誤りなんだ。敵軍に弱みを見せたら、ますます付け上がるにきまってる」
 岱機騰は興奮した口調で言い募った。
「しかし、国民政府の上層部には、親日派も少なくないといわれていますが」
「彼らは鼠の眼目の寸光ごときで、見識が狭すぎて、自分の身の上しか考えておらん。あなたがた青年はいまこそ大義を掲げ、国のために奮戦すべきだ」
「日本軍が圧倒的な優勢を誇るのも事実ではありませんか。制空権、海軍とも言うに及ばず、装備や士気にいたるまで、すべての面で強いのは確かです。上海、南京を占領するのは時間の問題だということが、世論の一致した見方です。差し迫る戦局へのご見地はいかがでしょうか?」
「軍事実態からみると、きみのいったとおりだ。わが方にとっては苛酷な現実が迫っている。強大な軍勢の進攻に圧倒され、一時撤退を余儀なくされるだろう。しかし、戦争は武力だけによってきめられるのではない。大義名分がもっとも大事なんだ。つまり、人の国を侵略する行為自体が大義を背反したことであり、いずれはその国の民の反撃によって追い出されるはずだ。歴史の紐を解けば枚挙に暇がないのだ。数年間は中国を支配下におけるかもしれないが、その惨めな末路はナポレオンに勝るとも劣らぬはずだ」
 岱機騰は滔々たる弁舌で言い尽くした。
「実に見事な雄弁でございます、今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
 楊麗氷は色気を滲ませつつ褒めそやした。
「きみと話してると、心の安らぎを取り戻せる気がする。きみさえよければ、いつでも話の相手になってあげるよ。じゃ、話ばっかりしないで、料理を食べなさい。よかったら、のちほど別荘で映画でも鑑賞したら?」
 岱機騰は情熱が宿る目つきで、ちらりと彼女を見やった。
「わたし、映画が大好きです」
 楊麗氷は色っぽい目つきを投げかけつつ嬌声を上げた。
 しばらく、料理をつつく音が静かにこだました。



   二

 乗用車が別荘地の前に停まると、後ろをついていたジープから一人の護衛が飛び降り、小走りに歩哨所に駆け寄り、警備兵と話し合う。二人の兵隊がバリケードを横に移して、気をつけの姿勢で挙手の礼をする。
 鉄の扉をくぐり、乗用車は芝生に伸びた車道をゆっくり走った。
 欧風の建物が、暗い帳に覆われた広い庭に点在している。南郊に位置する、緑豊かな林に囲まれた別荘地には、政府の要人たちの別荘が建ち連なる。
 乗用車は白い二階建ての前で停まった。
「ご苦労様」
 車から降りて、岱機騰はドアを開けてくれる護衛に声をかけ、楊麗氷を玄関に通した。執事がうやうやしくドアの側に立っている。
 一階のリビングルームは香ばしい香りが漂い、壁際には高価な骨董品が台座を飾る。
 正面壁に白いスクリーンが降ろされ、ソファセットが数列立ち並んでいる。大の映画好きの岱機騰の指示にしたがって格別に造作され、映画鑑賞のために造作されたものであった。
 二人がソファに腰をおろすと、若き女給仕がトレイを持って近寄り、果物盛り合わせの大皿と、お茶の湯飲みをティーテーブルに置いてくれる。
 やがて明かりが消され、スクリーンに画面が繰り広げられた。洋画で、戦場に赴いた新婚ほやほやの夫と別れたヒロインが苦しい生活に虐げられつつ、夫の帰りを待ち焦がれる物語だった。ヒロインが貧困に喘ぎながら、病床に寝込んで苦しむ姿が映されたとき、岱機騰の頬を滂沱たる涙が伝わった。
 楊麗氷はそばに置いたバックからハンカチを取り出して、そっと彼の頬を拭いてあげた。
 岱機騰は身につまされる悲しみに、すっかり心を打たれてしまった。一昔の辛い思い出が胸に大きな音を立てつつ、堰を切ったかのように沸き起こったのだ。
 日本での四年間の留学を終え、帰国した彼は弱冠十九歳で「天鋒報」の編集長を務めた。清朝を打倒する革命の潮流が押し寄せる中、彼は筆をふるって数々の反体制文章を発表し、やがて清政府から指名手配されるはめになった。身に危険が押し迫り、やむを得ず日本へと亡命した。恋人と住んでいた、高田馬場駅の近くのアパートを訪ねたが、山村比沙子はとうにいなくなっていた。数人の旧友を訪ねて回ったものの、知る由がない始末であった。彼は悲しい気持ちを抑え、同盟会に参加し、革命の道を辿りはじめた。
 悲しい涙に暮れる彼を慰めるかのように、彼女はその手をそっと握った。
 映画が終ると、岱機騰は彼女を二階へと通した。
 居間を入るなり、彼女は彼の首に両手をかけ、赤い唇でそっと口付けした。二人は突っ立ったまま、長いキスを交し合った。
 ベッドに横たわるなり、彼女はきゃしゃな手で彼の身体を優しくなでた。彼女の優しき指の愛撫にさらされ、岱機騰の身体中がかつてない情欲にもだえ出した。
 初恋の恋人の面影が重なり合い、心は昔の情愛の波に渦巻いてやまなかった。彼は彼女をしかと抱きしめ、激情に駆られるままエクスタシーに登り詰めていった。
 この日を境に、二人は週末には別荘で逢瀬を重ねるようになった。岱機騰は美貌の彼女にすっかり首っ丈になった。二十四も年が離れた彼女の美貌だけではなく、優しき心遣いに胸を打たれた。五十代にさしかかったものの、彼は初恋ごときの情愛に翻弄され、心ゆくまで情交を楽しんだ。
彼はたびたび豪邸にも彼女を呼び入れては、三階の書斎の隣の寝室で情事にふけったりした。二度目に結婚した奥さんは大人しい女性で、彼の放蕩ぶりに目を瞑るしかなかった。彼女は夫を敬い、なお畏敬するばかりか、ひたすら尽くす義務を忠実に守り通した。豪華な暮らしを与えられた自分の地位を大事にし、自己保全に貫く意義を自覚し、子供や家庭に尽くすことにだけ気を遣った。
 ある日の午後、二人が本皮の長椅子に寄り添って話し合っていたところ、電話ベルが鳴り響いた。お客がいらっしゃいましたと、執事のうやうやしい声が伝わった。
 岱機騰は嫌な表情を浮かべ、のっそりと身体を起こした。彼女が広げてくれる上着に腕を通し、ゆっくりと部屋を後にした。
 楊麗氷はハンドバックから万年筆を取り出し、部屋を抜け出し、隣の書斎に入った。
 壁の一面が天井まで書棚ではめ込まれ、精巧な書籍や本がぎっしり並べられていた。窓脇に置かれた机に歩み寄り、引き出しを次々と開けて書類を調べはじめた。
 真ん中の引き出しから、目当ての書類が見つかった。書類を机の上に広げ、万年筆の蓋を回すと、筆の先に小さなレンズが現れた。万年筆のレンズを書類にあててクリップを押した。数ページに及ぶ書類をレンズに納めるなり、書類を引き出しに元通りに戻し、足早に書斎を立ち去った。
 後日、彼女は万年筆を所属する機関の上司に渡した。それは、上海吴淞口における要塞防御施設に関する機密文書で、日本軍が上海を侵攻するに当たり、要塞を爆撃し、突破するに大きな役割を果たした。

 ある日の昼下がり、楊麗氷はいつものようにフォードを運転して、泊まっていたホテルを後にした。
 岱機騰の威光を笠にして、彼女は気ままに立ち振る舞ったばかりか、幾度となく重要な機密文書を手に入れた。彼の寵愛を一身に集め、巧みに周旋して回り、暗々裏に活躍していたのである。
 しばらく走っていた彼女は、後ろをつけてくる一台の車に気がついた。彼女はアクセルに載せた足に力を入れ、スピードを上げ、前の車を縫うようにして疾走した。後ろの車もぴったりとくっついてきた。信号が黄色から赤に変わろうとした交差点を突っ切ると、後続車は赤信号を無視して追っかけてきた。
 彼女は車を繁華街に向かって走らせた。やがて渋滞した車の列にぶつかり、のろのろ運転を余儀なくされた。バックミラーをのぞくと、運転席と助手席に坐った二人の男が、陰気な顔で彼女を睨んでいた。軍統の特務に違いないと確信した。
 彼女は車を東へ駆らせた。しばらく走ったら、閑静な住宅街の道路に入った。
 新緑が映えだす並木の両側を、庭付きの豪邸が立ち並ぶ。政府の要人らが住んでいる界隈で、厳重なパトロールが敷かれていた。
 彼女は急ブレーキ音を響かせつつ、車のスピードを落として右折し、鉄の扉の中へと乗り付けた。武装した守衛は、笑顔を見せる彼女に片手を振って通してやった。
 後ろをつけてきた車が道路脇に停まり、車を降りて玄関ドアを押し入っていく彼女の後姿に目を凝らした。
「ここは岱機騰の御殿だぜ」
 助手席の男が扉の表札を睨みなが声を上げた。
「なんだ、あの女がここを訪ねるなんて!」
 運転席の男が呆れた表情を浮かべた。数週前から女スパイの写真を頭に叩き込んで、軍統の特務らが市内を隈なく嗅ぎまわっていた最中であった。
「ま、どうせ出てくるから、ここで見張ってればいいさ」
 助手席の男がシートを後ろへ倒しながら言い放った。
「これはやばいぞ、もしも守衛に気付かれたら、おれたちの首が飛びかねないから」
 運転席の男がアクセルを踏み、車を発進させた。上層部の要人の豪邸を監視することがばれたら、ただじゃ済ませないばかりか、自分の身に火の粉が降りかかるからだ。
 淡黄色のチャイナドレス姿の楊麗氷は颯爽たる足取りでホールを渡り、二階へと両手にうねうねと伸びた階段を上がっていった。
「すみません、先生は今外出ですが」
 初老の執事がむっとした表情で声をかける。
「いいわ、居間でお待ちします」
 楊麗氷は淡々とした表情で答えた。執事は唖然とした顔で彼女の後姿をみつめた。
 夜六時を過ぎて、岱機騰がやつれた表情で居間に入ってきた。楊麗氷は足早に近寄り、彼の頬にそっとキスをした。
「ごめんなさい、勝手に上がりまして」
 楊麗氷は笑顔で嬌声を上げた。
「何も遠慮することないよ、ここはきみの家だと思って好きなように出入りなさい」
 岱機騰は相好を崩していった。
 彼女が仕事で飛び回って、月に数回しか逢瀬を楽しめないのが何よりの不満であった。彼女と一緒にいると、鬱々たる気分も消え失せたし、常に快楽を催せるのだった。彼女の優しい愛撫に心身ともに爽快感に見舞われたし、離れていると寂しさが募るばかりであった。彼女は頭が切れ、知識も豊かで、政局や社会への確たる見地を持していた。彼女との会話は楽しい限りで、時には彼女を囲いたい衝動にも駆られた。しかし、彼女は決して家庭に縛られる女性ではないと見据えていた。
「またもご無沙汰して、ほんとうにすみませんでした。仕事柄上出張がつきものでして、なにとぞご了承賜ればありがたいとおもいます」
 楊麗氷はそっと相手の手を握りながら言いつくろった。もっともらしい口実を考案するに、その都度頭をフル回転させた。彼が自分に入れ込んでいると見透かしたし、とっておきの存在を長らくつなぎとめるべきだと思った。
「ま、仕事だからしようがないさ」
 岱機騰は寂しい色を浮かべながら、寛大の意思を口にした。政府機関での役職を斡旋するといったものの、彼女から婉曲に断られたのである。
「あの、実はわたし、明日の午後の飛行機でホンコンにいくことになったのです。友たちの熊佳玲の父親は不動産業を営む富豪でして、国内の抗日戦争にたびたび寄付する愛国者としても有名なの。しばらくホンコンに滞在して取材しながら、募金活動を行うつもりです」
 彼女ははきはきした語調でいった。
「それは大変有意義なことだ。ただし、きみと離れるのが心寂しいんだ」
 岱機騰は寂しい表情で彼女を凝視する。
「せいぜい一ヶ月ぐらいのことです。あたしなるべく早く帰ってきます」
 彼女は嫣然と笑みを振り撒き、彼の頬に口付けした。
「どうぞ、ダイニングルームに降りてください」
 ドアをノックする音が響き、執事の声が伝わった。
「さ、食事でもしよう」
 岱機騰はやっと顔をほころばせ、彼女の腰に手をまわしつつ腰をあげた。


 満天の星空に明るい月が懸かり、煌煌たる光を解き放つ。静かな湖面に月の倒影がくっきりと浮かび上がる。新緑が広がる林が湖岸を張り巡らし、ときおりヨタカの鳴き声がこだました。
 千五百年の歴史を誇り、「中華名泉」で名を馳せる湯山温泉は、南京市の南郊から三十キロ離れたところにあった。国きっての温泉地は豪華な療養所とも知られ、洋風の別荘が立ち連なる。その名声を慕って、年がら年中高貴な人々が訪れ、華やかな雰囲気で賑わった。
 ホテル「聖泉閣」の大広間は幽雅なムードに包まれ、にぎやかなダンスパーティで盛り上がっていた。軽やかなメロディーに誘われ、豪華な身なりの紳士や淑女が対をなして、優雅なポーズで舞っていた。色鮮やかな眩しい光を浴びつつ、燕尾服や、ドレスの群に混じった、カキ色の軍服姿が目立った。
 ダンスホールの一角には、ブラケットから漏れさす薄光の中に、円卓を囲って酒興に興じる男女らの姿がおぼろげに浮き立つ。ときおり、男らの鷹揚な笑い声と、甲高い嬌声がこだました。
 前列のソファに体を反り返らせ、五十代の中将が葉巻を銜え、厳つい表情で妖艶な麗人の囁きに耳を傾けていた。後ろのソファには、副官で、中佐の李匡が寄り添う女と喋り捲っている。
 国民党第十三軍団司令官の薛雷は週末の休暇を過ごすため、副官の李匡に付き添われてきたのである。心身を癒し、元気を取り戻せる名湯をこよなく愛し、美女とたわむれる極楽にうつつを抜かした。彼の趣味を知り尽くす副官は、そのつど好みのタイプの女を連れ込んでは、司令官の身辺に侍らせた。
 社交場の花と知られる夏梅は、妖艶な容貌の持ち主で、影のように司令官に付き添っていた。彼女は愛人としての安泰な座を密かに望んだものの、相手は無頓着な素振で通した。眼前の貴人にとって、女ったら慰み物にすぎず、手当たり次第弄べるからだった。
 メロディーが一区切りをつけ、ダンスに興じていた男女らがめいめいの席へと戻った。
「中将閣下、お久振りです」
 スーツ姿の五十がらみの男が近寄り、満面に笑みを湛えて慇懃に挨拶するのだった。
「おー、翟副市長。元気でおるか」
 中将は微かに笑みを浮べて応諾した。南京市副市長の翟鸿とは、宴会でたびたび顔を合わせたものであった。
「おかげさまで元気です。ちょっとご紹介させていただきたくぞんじます。こちらは楊麗氷ともうしまして、社交界の新女王として名を知られています」
 副市長はおもねる口調で、隣に立つ麗人を紹介した。
「楊麗氷ともうします。どうぞよろしくお願いします」
 麗しき顔に笑みをこぼしつつ、楊麗氷は深々と腰を折った。
「こちらこそ」
 中将は威厳に彩られた顔で軽く会釈した。副官は女との喋りを止め、凛凛しい麗人の姿をうっとりした目つきでみつめる。
 またも和やかなメロディーが鳴り響いた。
「ひとつ付き添わせていただけますか」
 副市長は腰を折って一礼し、夏梅にダンスの要請をした。夏梅はやむをえぬ表情で腰を浮かし、楊麗氷を睨みながらのっそり歩き去った。
「中将閣下、ダンスに付き添わせていただけますでしょうか?」
 楊麗氷が嫣然と笑いを浮べ、腰を折って懇願した。中将は葉巻を灰皿に載せ、ゆっくり腰を上げた。楊麗氷は華奢な手で中将の腕を抱え、優雅な足取りで前に進んだ。
「ふん、どこの馬の骨かも知らないものが、よくも女王の面を下げてしゃしゃり出るわ」
 秀麗な顔に冷気を湛え、女は副官に向かって愚痴った。
「さすがに優雅な気品に溢れた別嬪だな」
 美しいプロポーションを眺めながら、三十後半のハンサムな副官が褒めそやした。
「あなたも惚れたのね」
 女は口を歪めながら情夫を睨んだ。
「とんでもない、おれにはきみこそ好みのタイプなんだ」
 副官は付き合って間もない情婦ににんまりと笑いかけた。
 虹色の光が眩しく放ち、優雅な旋律が漂う中、華やかな身なりのダンス伴侶らが軽快なステップで舞い込んだ。楊麗氷はしなやかな腰を太い腕にあずけ、軽やかなステップで中将をリードして舞い込んだ。やや腹が突き出た中背の将軍は、おもいのほか弾んだステップで合わせてくるのだった。
「ダンスはお上手ですわ、きっとプロの方に教わったのでしょう」
 彼女は色っぽい流し目で中将をみつめた。
「ま、若い頃好みで習ったことがあるさ」
 中将は彼女の華奢な手を握り、腰に当てた手に少々力を入れながら、彼女の麗しき顔に熱き視線を注いだ。
チャイナドレスにくるまれたボディラインがみごとにくびれ、膨らんだ胸には大粒のダイヤのネックレスが下がり、ちらりと光を映え出した。つぶらな瞳が魅惑的な光を湛え、引き込まれそうな魔力をちらつかせる。
ほのかな香りが鼻をつき、中将はおもわず陶然たる気分に浸りかけた。あまたの麗人をもてあそんだものの、一風変わった優雅な気品は特たる魅力を催し、心がくすぐられた。
「きみは上海人のようだな」
「どうしておわかりになったでしょう?」
 楊麗氷は婀娜めく顔をそらして見上げる。
「言葉の訛りが滲み出てるからさ。よかったら夜食でも一緒にどうだ?」
 中将は威厳たっぷりとした表情で誘った。
「喜んで付き添わせていただきます」
「さ、いこう。ダンスはいつでも楽しめるからさ」
 中将は気まぐれな表情を露わにして、彼女の体から手を下ろし、ゆったりした歩調で人波を縫って歩いた。楊麗氷は品をつくりつつ、後ろをついていった。翟副市長に抱えられて舞い込む夏梅が、怒りの目つきで二人の後姿を睨んだ。
 情婦と談笑していた副官は中将の姿をみるや、すかさず飛び上がって起立姿勢で立ち尽くした。さっさと二人の後ろについて、周囲に警戒の目を光らして歩いた。
廊下の入り口の両脇に、直立不動の姿勢で立っていた二人の護衛が、中将と一行に向かって挙手の礼をする。玄関ドアの内と外の両脇に、四人の護衛がライフル銃を握って突っ立っていた。
「あずけたバックをもってきますので、ちょっと失礼させていただきます」
 楊麗氷は足早に衣類を預かるカウンターに歩み寄った。
 中将と楊麗氷が、続いて副官と二人の護衛がエレベーターに乗り込んだ。


 六階のレストランの個室に中将と楊麗氷が入るなり、副官は二人の護衛と一緒にドアの両脇に立ち尽くした。司令官の外出に当たっては、重々しい守衛任務に追われ、禁酒はむろん、鉄の軍紀を守らなければならなかった。
 二人の白い制服姿の若き女給仕が椅子を引き出してくれる。二人が腰を下ろすと、給仕らはワゴンに載せた前菜やら、銘酒やら、グラスやらを円卓に並べる。一人の男の給仕が片手にトレーを持って近寄り、フカヒレ、蒸しアワビ、黒酢の酢豚、貴妃鶏翅(鶏手羽先の醬油煮込み)、紅焼猪脚(豚足煮込み)を並べる。廊下に出た時、副官が支配人にさっそく手配するよう言いつけたのである。
「お酒はなににします?」 
 中将はやっと顔をほころばせ、丁寧に訊きかける。初のデートの女性へのせめての礼儀だった。
「お任せします」
 楊麗氷は魅惑に満ちた瞳を中将に投げかけた。軍の要人に付き添う鉄則や礼儀を知悉したし、半ば強引でしつこい無作法への応酬も体よくこなせた。
「さ、『茅台酒』にしよう」
 中将は慇懃に腰を折る若き女給仕をちらっとみやった。女給仕は白いボトルを傾け、手際よくお猪口に酒を注いだ。
「奇縁をお祈りして、一つ乾杯せよ」
 中将はお猪口を取り上げていった。
「中将閣下のご健勝、ご活躍を心よりお祈りします」
 楊麗氷はお猪口を指に挟んで立ち上がり、上半身を乗り出し、そっと相手のお猪口につき合わせた。胸の膨らみがやけに目をつき、中将は思わずうっとりした目を投げかけた。
「ほー、けっこうな酒豪だな」
 中将はナプキンで口を拭きながら、一気に飲み干した彼女をみつめながら褒めちぎった。二人の女給仕が匙で料理をとり、それぞれの小皿に盛らせてくれる。
「職業柄上慣れました」
 彼女は箸で、そっとフカヒレをとりながら答えた。
「いつからここで仕事についたんだ」
 中将は蒸しアワビを頬張りながら訊いた。
「この春からです」
「三ヶ月ほど前からということだな」
「閣下は黄浦軍校一期生を卒業され、北伐戦争で軍功を立てられまして、弱冠二十後半で師団長に昇進されたと聞いております」
「ほー、どこから聞いたんだ。裏調査でもしたかい?」
 中将は得々たる顔で、冗談交じりにいった。
「国民政府で務める知り合いの方からお聞きしました。もっとも、軍の有力な実力者でございまして、蒋介石総統にも寵愛される将軍として名を馳せていらっしゃるそうですね」
「ま、大仰なことをよくいうな。さて、よかったら知り合いのお名前を聞かせてもらえるかな」
「今すぐにはもうしあげられませんので、ご寛容のほどよろしくお願いします」
 楊麗氷は婀娜めく顔をやや上向きにして、悪戯っぽい表情を浮かべた。
「ま、それはどうでもいいさ」
「ひとつお聞きしたいとおもいますが、よろしいでしょうか?」
「いいさ、おれの知ってる範疇なら」
 中将は太い指に挟んだお猪口を取り上げ、彼女のお猪口につき合わせた。
「目下の国内情勢につきまして、閣下のご見地をおっしゃっていただけますでしょうか」
 楊麗氷は嬌笑を振り撒き、横向きにしてお猪口を傾けた。
「きみは政治にだいぶ関心を持ってるようだな」
 中将の顔に不審な翳リがちらほらする。
「あたしは大学では哲学を専攻しまして、国際政治も勉強しました。本来の願望は記者でしたが、運命の悪戯に翻弄されるまま、ここに流れ着いたのでございます」
 艶めかしい頬に赤みが差しかけ、妖艶な色を浮き立たせる。
「さすがに立派な才媛だ、この世界に身を任せるにはもったいないな。ま、記者のインタビューは鼻も引っ掛けないが、きみには一応余談として話してもかまわんさ。目下、我が方にとって最大の急務は、陝北地区の延安にこもってる共産党軍を掃討することなんだ。羽が揃わぬうちにもぎ取るべきだ。わが軍は滔滔たる勢いで、遠からず彼らを殲滅するだろう」
 中将は厳つい表情で彼女を一瞥し、お猪口を傾けて飲み干した。女給仕がさっそく酒を注いだ。
 「さすがに優れた戦略的見地でございます。閣下の戦略戦術の成功をお祈りしまして、乾杯させていただきます」楊麗氷は上半身をかがめ、お猪口を差し出しながら嬌声をかけた。
 中将はお猪口を彼女のお猪口に突き合わせるなり、首をそらして一気に飲み干した。赤らんだ目つきは好色をたたえ、じっと彼女を見やる。
「勝手に口をはさんでまことに恐縮でございますが、日本軍が間もなく上海を攻め込む噂でもっぱらですが、将軍のお考えを聞かせていただけますか?」楊麗氷はつぶらな瞳で中将を見つめながら問いかけた。
「それは言うまでもない。わが軍は全力を尽くして、奴らと戦う一言に限るさ」
 中将はむっとした表情で言い放った。
「将軍様のご健闘をお祈りしまして、乾杯させていただきます」楊麗氷は指に挟んだお猪口をもって立ち上がり、あだっぽい目顔で囁きかけた。豊かな胸の谷間にかかったネックレスのダイヤが、明かりにちらっと映え返した。中将は焼け酒した顔に得々たる表情を浮べ、恍惚な目で盛り上がった胸をねめ回した。
 互いは酒盛りに興じながら、しばらくたわいないことで談笑し合った。
            
 二人が護衛に守られ、五階でエレベーターを降りた頃は、もはや夜半の一時にさしかかろうとした。いつものように五階フロアは貸切られ、スイトルームのほかは、護衛らが寝泊りし、二組に分かれてビルの内外を警護した。
 ボトル一本を二人で飲み干しただけに、中将は副官に支えられ、おぼつかない足取りで歩いた。楊麗氷は赤く染まった顔をうつむけつつ、静かに後ろをついていった。
 スイトルームに入ると、中将はソファに反り返り、副官が冷蔵庫から持ち出してきたミネラルウォータを受け取り、一気に飲み込んだ。
「ごゆっくりお休みなさい」
 副官は中将に向かって挙手の礼をし、ドアを閉めて出ていった。二人のライフル銃を握った護衛が、ドアの両側に突っ立っていた。
 ソファに反り返り、じっとみつめていた中将はふらふらと立ち上がり、側に坐ろうとする彼女を抱きしめてキスを降らせた。彼女は顔を仰向け、両手で相手の首を抱えてキスを交わした。
 中将は彼女の腰を抱えてベッドルームに入った。ベッドに倒れこむなり、荒々しい手つきで彼女のドレスをめくり上げた。彼女は彼の両手を遮り、軍服の上着をそっと脱がせてやった。
 シーツで裸を包む彼女を、中将は荒っぽい手つきでシーツをめくって床へ投げ捨てた。彼女の真っ白い体が、スタンドの光に妖しく映えた。
 中将は傷跡のある上半身を彼女の上に覆いかぶさり、彼女の盛り上がった乳房を揉みだした。彼女は蕩けた顔で天井を睨みながら、とぎれとぎれに呻き声を漏らした。やがて、中将の体が激しく、律動的な動きを繰り返し、まもなく彼女の上でぐったりと伸びた。
「水持ってくれる?」
 中将は仰向けになり、目を瞑ったままいった。
 彼女はすかさず冷蔵庫に駆け寄り、ミネラルウォータを取り出して栓抜きで蓋を開け、左手の中指に嵌め込んだおおぶりの翡翠の指輪の先端を開け、白い粉末を瓶の中に叩き入れた。
 ミネラルウォータを受けとるなり、中将は口を大きく開けて飲み干した。漏れ出した水が口元や胸を濡らした。彼女はバックからハンカチを取り出し、口元や胸をそっと拭いてやった。
 中将が鼾をかきはじめるのを尻目でみやりつつ、彼女はくびれた腰を振りながら浴室へと駆け込んだ。
 暗闇に包まれた部屋中に、鼾の音がこだまし続ける。
 楊麗氷はサイドテーブルに置いたハンドバックをそっと取り上げ、肌着姿でベッドを抜け出した。裸足のまま腰を屈め、抜き足差し足で反対側のサイドテーブルに近寄った。テーブルの上に載せたブリーフケースを取り上げ、応接間に足早に向かった。
 ティーテーブルにブリーフケースを置いて、ハンドバックから化粧箱を取り出した。開けられた箱の中から細長い鉄片を抜き取り、ブリーフケースの鍵穴に差し込んだ。指に抓んだ鉄片を手際よく操作し、十数秒でブリーフケースを開けた。
 化粧箱の裏側の米粒状の抓みを押したら、箱の一端から一筋の光が差し込んだ。ブリーフケースから取り出した書類に素早く目を走らせ、取り出したライターの蓋を開けて、点火つまみを押した。極秘書類が一枚ずつ小型カメラに収められた。十分足らずで作業を完遂させ、書類を元通りにブリーフケースに戻した。
 ベッドに戻り、サイドテーブルにブリーフケースを置いたとたん、鼾が止まり、中将が寝返りを打って自分に向かった。
 彼女は素早く身を翻してベッドの反対側に戻り、身を投げるようにして横たわった。
 右手を伸ばして中将の胸を抱え、相手の寝顔を確かめ、仰向けになった。しばらくして、彼女は夢の境地へ滑り入った。


 江陰は揚子江の下流地域にあり、狭い河口をなしていた。昔からか揚子江の軍事攻防要衝として重んじられ、「揚子江の喉」ともよばれた。
 当時、江陰から漢口に至る百キロにわたる川岸には、日本軍の七十隻あまりの戦艦が停泊し、上海攻略の戦のために待機していた。
 真夏の蒸し暑い夜、旗艦[出雲]の、日本海軍第二艦隊司令官長谷川清から発せられた緊急撤退命令が全艦隊に伝わった。
 夜の帳に包まれた揚子江の川面を、日本海軍の戦艦が数珠繋ぎに駆け抜けた。攻撃命令が下らず、河岸の国民党軍は手をこまねいてみつめるしかなかった。
 翌朝、出撃した戦闘機が川面の上空を旋回して回ったが、艦隊の影すら見当らなかった。なお、河岸の日本人住民が集中する居住地を捜索したところ、すべての部屋はもぬけの殻と化していた。食卓には食べ残したご飯とおかずがそのまま残され、扇風機が回っていたままの有様であった。
 河口のもっとも狭い、幅わずか1キロあまりの航路に船を沈没させ、袋小路に閉じ込められた日本軍艦隊を、上流からの戦艦と戦闘機の襲撃に加え、河岸からの砲撃で一挙撃沈する計画は水の泡と消え失せたのだった。

 広々とした執務室の真ん中に、三人の男が真っ青な顔をして肩を落とし、暗い視線を床に這わせていた。
「てめえら、一体なにさまのつもりだ。百人態勢で臨んでも、手がかりはとんとつかめてないじゃねえか。それでも軍統の幹部の面をさげてのうのうとしとるつもりか。まったくけしからん。わが軍統の名誉に泥をかけ、おれをどん底に落とし入れ、やがては総統の偉業に支障をもたらす羽目になる。重責を果たせないなら、さっさと引っ込んでもらうぜ。三日内に犯人の正体をつかめないなら、てめえらを軍事法廷でさばいて、『渣滓洞』(共産党員を拘置する悪名高き強制収容所)にぶち込めるからな。よくおぼえとけ!」
 戴笠は首に青筋を立てて、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
 国民党の特務機関である、「伏魔殿」として悪名高き軍統(軍事委員会統計調査局)は創立以来、要人をはじめとする数多の共産党員を逮捕し、壊滅的な打撃を与えたほどの悪行を果たした。そのトップとして君臨してきた戴笠は、みずからを総統の忠実な僕と称し、犬馬の労をとっていとわなかったのである。 
 先日、総統の官邸に呼ばれた際、激怒した総統に罵倒され、戴笠をしてすっかり震え上がらせてしまった。
 彼は総統の前で跪き、自分の両手で自分にビンタをくわせつつ、自分をバカ呼ばわりしてやまなかった。当局の最高機密情報が漏洩され、日本軍の七十隻軍艦を一網打尽する計略が水泡と帰したのだった。総統の鶴の一声で首が飛んでもおかしくない有様に、彼は涙に塗れた顔を真っ青にさせ、頭を床にぬかずきながら、涙声で謝罪の言葉を連発した。
 縮み上がった眼前の側近らを、戴笠はピストルで打ち殺したい衝動に駆られた。
「てめえらの無様な姿を鏡でみてみな、まるで水に溺れた犬そっくりじゃねえか。天機を漏らしたやつを捕らえねえかぎり、貴様らの明日はないことを頭に叩き込むんだぞ」
 ビンタを頭ごなしに食らわせたい衝動を抑えながら、戴笠は拳を握り締めて何とかこらえざるをえなかった。
「軍の首脳部の一握りの人間しか把握していないだけに、その人物を特定するのは大変なことです。たとえ特定したとしても、その人物をわたしたちの手でさばけるのはほぼ不可能でしょう」
 副局長の婁強が戦いた目つきで上司をみながら、小声でいった。
「黙れっ、この野郎。てめえにそんなこといわれる筋合いはないぜ。いかなる人物であれ、この案件にかかわった容疑者はその位や背景を無視して抹殺するんだ。これは総統からのご命令だぞ」
 戴笠は怒りに満ちた目を瞠って怒鳴り込んだ。
「実は……、第十三軍団司令官薛雷の身辺に潜り込ませた、夏梅の報告によりますと、一ヶ月前の週末の夜、湯山温泉のダンスパーティに、楊麗氷という女性が司令官に接近し、夜食に付き添ったばかりか、一夜をともに過ごしたそうです」
 情報部部長の僑盟が恐る恐る口を開いた。
「なんではやくいわなかったんだ」
 戴笠はやっと怒りの顔を和らげて詰った。
「すみません、あまりにもご立腹されていましたので……」
 僑盟は小声で言いよどんだ。
「ま、いいさ。おれもつい頭に血が上っちゃって。で、あの女の正体とは?」
 戴笠が弁明じみた口調で言いつくろった。
「日本軍スパイという疑惑が濃厚です。追跡指令は手配済みでありまして、まもなく情報を入手できるとおもいます」
 僑盟が自信に満ちた語調で言い切った。
「よし、みんなを叱咤激励して、早くあの女を捕まるんだ。捕まったやつには二階級昇進させ、たっぷり賞金を弾むといってくれ」
 戴笠は厳つい顔に威厳を浮べて声を張り上げた。側近らは一礼して、身を翻して静かに退室した。
 戴笠はつかつかと執務机に戻り、本皮の椅子にどかっと腰を落とした。
 机の端に黒と赤の電話機があり、さっさと赤の受話器を取り上げた。総統官邸に直通する電話で、緊急時にだけ連絡することになっていた。


 戦乱で渦巻く大都会とは丸っきり異なり、平穏な空気に包まれた租界は別天地の様相を呈していた。
 夕日が燦燦と降り注ぐ街に立ち並ぶ欧風のビルには、インギリス、アメリカ、フランスなど国旗がそよいでいる。乗用車がゆっくりと道路を走り、犬を連れて遊歩道を散策する外人女性や、行き交う外人の姿が目立った。
 黒塗りの乗用車がフランスレストランの車寄せに滑り入って停まった。
 ドアマンがうやうやしくドアを開けると、水色のドレスに、サングラスをかけた麗人が降り立ち、優雅な足取りで玄関を入った。
 黒のスーツ姿の外人マネージャーの男が慇懃な笑顔で近寄り、英語で訊きかけると、麗人は流暢な英語で答える。マネージャーは前を歩き、奥の個室へと通してくれる。
 麗人が室内に入るなり、マネージャーはそっとドアを閉めた。
「遅くなりまして、大変もうしわけございませんでした」
 麗人はサングラスを外して、円卓を挟んで坐っている二人の中年男性にやんわりと謝った。
「どうぞおかけなさい、われわれもついたばかりです」
 日本軍特務機関の影佐昭禎大佐は笑い顔でいった。
 外人マネージャーが横の椅子を引き出し、彼女が静かに腰を下ろすと、踵を返して退室した。
 影佐大佐とは、数年前のある宴会場で挨拶を交わしたことがあった。つい先月、上層部からの指示が伝わり、影佐昭禎大佐が新たな直属上司という旨を伝えられたのだ。
「こちらは南京大使館で大使を務める駒沢毅少将です。わが特務機関の『帝国の花』として名だたる、坂田雲子さんです」
 影佐大佐が四十後半の、グレーの背広姿の男に紹介した。眼前の二十半ばの麗人とは、土肥原賢二将軍が手塩にかけて育てた超一流の女スパイだけに、いくら上司とはいえ、丁重に扱わざるをえなかった。もっとも、男勝りの度量を持し、特務機関でもトップレベルの彼女は、脚光を浴びる鮮やかな存在であった。
「よろしくお願い申し上げます」
 雲子は嫣然と笑いを湛え、駒沢に向かって丁寧に腰を折った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 駒沢は知的な顔に笑みを浮べて会釈する。
「わが軍は無敵の勢いで進撃を続けていて、まもなくこの大都会も掌中に収められることとなるでしょう。その勝利の暁には、わが『梅機関』が堂々と産声を上げる手筈になっています。駒沢少将殿をわが特務機関の顧問にお招きし、ご指導を仰ぐこととなりましたので、これからは少将殿と直接連絡し、具体的な指示を仰いでください。駒沢少将殿は経験豊かな外交官でして、国民政府筋にも広い人脈をお持ちでございます」
 影佐は慇懃な表情でいった。
「まことにありがたくぞんじます。今後ともご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いもうしあげます」
 雲子は立ち上がり、腰を深々と折って礼を述べた。新たな異色の上司に、心から尊敬の念が沸き起こった。なにしろ、国民政府筋に広い人脈を持つことが心強くおもわれた。とりわけ外交畑を一筋歩んだお方だし、しかも敵国の上層部に人脈ルートを持つだけに、期待に心を躍らせた。
「さて、このたびはきみのみごとな活躍により、わが軍の海軍が甚大な打撃を免れたことに、特務機関の一同も大変喜んでいる次第です。土肥原将軍のご配慮により、軍上層部から格段なる褒賞を与えることになり、衷心よりお祈りします。これはきみに授与する勲章である。なお、きみの優れた業績を称え、少佐に任命することを告げる」
 影佐は腰を浮かして、精巧な小箱と任命証書を手渡した。雲子は立ち上がり、起立した姿勢で挙手の礼をし、両手でうやうやしく受け取った。
「それでは、わが軍の偉大な勝利と、わが同志のさらなる活躍をお祈りして乾杯しましょう」
 影佐はワイングラスを取り上げ、駒沢と突合せ、慇懃に上半身を乗り出す雲子のグラスに合わせ、一気に飲み干した。二人もつられるように、グラスをそっと口に運んだ。
「このようなささやかな酒宴で恐縮ですが、目下の情勢下では仕方がありません。本来でしたら、華やかな宴会場で祝杯を上げるべきですが」          
 影佐は遠慮じみた表情を浮かべていった。
「このような栄光にあずかりまして、まことに感無量でございます。今後ともご指導のもとで、全身全霊奮戦してまいる所存であります。よろしくお願いもうしあげます」
 雲子はあでやかな面持ちに悲壮感を湛え、はきはきした口調でいった。
 軽やかなノック音が伝わり、二人の白い制服姿の給仕がワゴンを押して入り、牛肉赤ワイン煮、小鴨の胸肉ポワレ、オーマルエビのソス、ワゴンデザートなど皿を円卓の中央に並べる。ホークとナイフを手にして、手際よく皿に分け入れ、めいめいの前に置いてから身を翻した。
しばらく、三人は静かに舌鼓を打ち続けた。
「今現在、軍統が必死になってきみを追い回してるそうだ。きみの現在の状況は危険極まりない。しばらく後方へ身を潜めたらどうだ。北平か大連にいったほうが無難だとおもうが」
 影佐はナプキンで口を拭きながら、厳粛な表情で彼女をみる。
「お言葉は大変ありがたくぞんじます。この世界に入ったときから、わたくしは帝国の覇業に全身全霊尽くす誓いを胸に暖めてまいりました。たとえ命を危険にさらされても、わが軍がこの国きっての大都会に攻め入る瀬戸際に、敢然と立ち向かうのが自分の使命だとおもいます。わたくしの切ないお願いを、ぜひお汲みいただきたくぞんじます」
 雲子は艶めかしい面持ちに、決然たる表情を湛えて言い尽くした。
「わかった、きみの願いは実に素晴らしい一言に尽きる。わが特務機関においては、最たるお手本として讃えられてしかるべきだ。ただし、きみの身辺守護を強化せざるをえない」
 影佐は威厳に満ちた顔を彼女に向ける。
「あなたが無事に任務遂行に当たるよう、わたしも微力を尽くしたくおもいます。国民政府の上層部には、親日派の要人もけっこうおりますので、その力を借りられるようお手配いたす所存です。赴任以来、上海総領事館に常駐しているので、もし危地に立たされた場合は、なるべく早く連絡してください。できる限りのお力添えをしたいとおもいます」              
 終始沈黙を守っていた駒沢が、柔和な笑みをこぼしていった。
「心より感謝いたします」雲子はまたも立ち上がり、深々と腰を折って礼を述べた。さらに、つぶらな目を大きく開いた。「わが軍がまもなくこの地を席巻する歴史的な瞬間を迎えるために、しかるべき決行に立ち向かわせていただきたくぞんじます。ご指示のほどよろしくお願いいたします」
 「きみのような傑出たる部下を持ったことを誇りにおもう。歴史的勝利を目指して、わが『梅機関』を挙げて奮発するつもりだ。具体的行動は後日連絡させるから、しばらく羽を伸ばして鋭気を養ってください」
 影佐は厳つい顔をほころばせた。
「承知いたしました」
 雲子は笑顔で答えた。
 影佐は駒沢とたわいない余談を交わし合っていた。
 雲子は端座して、お二人の談笑に耳を傾けながら自分なりの思いを巡らした。


 広々とした執務室の窓外を、無数の雨の筋が伝い流れていた。天井の扇風機が高速に回転しつつ、室内にこもった暑苦しい空気を追い払う。
 薛雷は執務机の背もたれの高い椅子に反り返って葉巻を吹かしつつ、ソファに坐ってお茶を啜る馬面の男を目尻でねめつけた。招かれざる客の不意の来訪に、すこぶる機嫌を損ねられた。黄浦軍校六期生の後輩を鼻から軽蔑したものの、総統の懐刀で、伏魔殿のトップでもある相手を無視するわけにはいかなかった。
「中将閣下、ご無沙汰いたしまして、大変もうしわけありません。将軍の輝かしい業績には心を打たれ、深く感銘しております。先輩をお手本にして頑張るつもりですので、一つお手柔らかにご指導のほどよろしくお願いします」
 戴笠は馬面に笑みをたっぷり湛えて褒めちぎった。
「ま、遠慮せんで、来意を聞かせてくれ」
 将軍は堅苦しい表情で相手をみやる。
「大変心苦しい限りでございますが、先般湯山温泉に行かれたときのことでちょっとお話しさせていただきたくぞんじますが」
 戴笠はやんわりといいながら、柔和な目つきで中将をみつめた。総統の手塩にかけられ、一介の副官から今の軍統のトップにまで登り詰めたものの、軍部の上層部からは毛嫌いされ、荒い風当たりにさらされている自分の立場も飲み込んでいた。
「それがどうってことだ」
 中将は勃然といきり立った。
「ご存知のように、先般、わが軍の『江陰作戦』の極秘機密が何者かによって漏洩されまして、日本軍軍艦七十余隻が袋小路から脱出したわけです。計画が順調にはかどったならば、河口を封じられた狭い川面で、空中や川岸の両側からのわが軍の攻撃によって壊滅されたはずです。しかし、この情報が敵のスパイによって盗られたことが、そもそもの敗因でございます。総統閣下も大変ご機嫌斜めでございまして、全力を尽くして犯人を検挙するよう厳命されたわけでございます」
 戴笠は長たらしい言葉を切り、湯飲みを口に運んで一口飲んでさらに続けた。「大変言いづらいことでございますが、あの夜のダンスパーティで、将軍に付き添った楊麗氷という女性は、実は日本軍の女スパイであることが判明しました。今現在全力で追跡しているところで、必ずや逮捕することになるでしょう。あの夜、ホテルで一夜を御伴なさったということでございますが、心当たりはありませんでしょうか?」
 戴笠は馬面を紅潮させつつ言い尽くした。
「なんだ、このおれを疑ってるのか?」
 中将は怒りを露にした。しかし、心の中は懸念が沸々沸き起こった。
 あの日、軍の上層部で開かれた軍事作戦会議に出席し、夕方終り次第温泉へと出向いたのである。自分が持参したブリーフケースには極秘書類が収まっていて、規定では本部に即座に戻り、極秘書類を扱う機密室にあずけるべきであった。それはそれにして、自分がうつつを抜かした一夜情の女が、なんと日本軍の女スパイだって、なんたることだ。中将ははじめて事の深刻さをひしと受け止めるようになった。しかし、ここでもし認めたら、軍法制裁にかけられるのは必至の事だし、なにがなんでも否定せざるをえないのだ。
「聴くところによりますと、閣下は軍事会議が終わり次第、温泉へと直行されたそうですが、もしかしたら極秘文書を携帯されたではありませんか?もしそういうことでしたら、非常にややこしいことになろうかとぞんじますが」
 戴笠はやんわりといいふくめた。
「いや、おれがそんな粗相するはずないぜ。副官に持たせて、さきに本部に帰らせたんだ」
 中将は憮然とした顔で弁明じみたことを口にした。お前がかりに閻魔殿の大将だとて、おれの本部の裏まで調べ尽くせるはずはなかろう。中将は軽蔑の目つきで馬面を睨み返した。
「これは大変なことになりましたね。率直にもうしますが、事ここに至っては、失礼ながらわたくしとしても決行せざるをえません。近々、当方の特別捜査チームが貴殿の本部に乗り込み、徹底調査をさせていただくしかありません。どうかご勘弁のほどよろしくお願いします」
 戴笠は厳粛な表情を浮かべて、軽く頭を下げた。
「ま、好きなようにしな。しかし、よく覚えとけ。もしも、お前らが証拠らしきものを探せなかったなら、必ずやそのつけを払わせてもらうぞ」
 中将は厳つい顔に怒りを露にして吠えながら、ごつごつした手で執務机をしかと叩いた。くぐもった音が室内にこだました。さらに指で執務机の端にある内線のボタンを押して大声を放った。
「さ、客の見送りだ」
 戴笠は決まりの悪い表情で中将を盗み見した。
 ドアが開かれ、副官の李匡が二人の護衛を連れて姿を現した。
「では、失礼させていただきます」
 戴笠は立ち上がり、軽く会釈して身を翻した。
 ドアに近寄った参謀長の趙奇が足を止め、出て行く戴笠を睨みつける。
「閣下、なぜあいつがここを出入りするんですか?」
 少将参謀長の趙奇が近寄り、小声で問いかける。中将はソファに坐るよう黙示しながら、ゆっくりと腰を上げて室内をぶらつきはじめた。
「ちょっとややこしいことになったさ」
 中将は一部始終をかいつまんで語った。
「それなら、先手を打って、あの女スパイを捕らえて処刑すれば済む話ではありませんか」
 趙奇がせっかちな口調で言い募った。
「ま、それに越したことはない。一応諜報部に命じて手配しな」
 中将は苛立った口調で命じた。
「わかりました。さっそく手配いたします」 
 趙奇はすっと立ち上がってドアへ歩いた。
 中将は不安に躍り出す胸を抑えつつ室内を行き来した。
 軽はずみな行動でもたらした深刻な結果に、おのずと自省の念に駆られてやまなかった。数々の戦功を打ち立ててきたものの、ひょんな過ちから、当局をして重大な損失をこうむることになり、自分が裁かれても至極当然なピンチに至ったのである。



 楊麗氷は頭を振って、自分の心に淀んだ余計な邪念を振りはらうかのように、決然たる表情で立ち上がり、クロゼットに歩み寄った。仕事に全身全霊を傾け、すべての煩悩を振り払う慣わしは身に染みていた。
 ぼやけた虹色に混じり合い、透かしたバラの模様がうっすらと浮き立つドレスに着飾り、胸におおぶりの翡翠のブローチをつけ、化粧台の鏡に自分の姿を照らした。髪を束ねた、楚楚たる美貌の娘が笑みをこぼして映っていた。
 バックから精巧な小箱を取り出し、蓋を開けて親指大の小瓶をつまみ出した。掌に褐色の小瓶を載せて釘つけになった。
 ドイツ製の媚薬スプレーで、体に少し吹き付けるだけで数日間も香りを漂わせる。もっとも、雄性ホルモンを誘発する絶大な効果があり、近寄る男性をしてその香りに煽られ、異性にぞっこんさせる特効があった。あまり知られていないこの媚薬は、ドイツの生物学者が数十年かけて発明したもので、女スパイの奇抜な役目を果たせるに一役買った。
 彼女は小瓶の丸い蓋を回して開けるや、ドレスの脇や胸に数回吹きかけた。ほんのりとした霧状の液体が、微かな香りに包まれて吹き付けられた。

 鉄条網を載せたレンガ壁が張り巡らされた正門越しに、灰色のコンクリートの六階建てが威勢よく佇む。ここは上海防衛に当たる二十七軍軍部が入っているビルである。
 鉄扉の両側には自動小銃を脇に抱えた二人の兵隊が突っ立っていた。
 一台の黒塗りのフォードがゆっくりと前で停まり、運転席のウインド越しにあだっぽい顔が覗かれた。
「程峰師団長にお会いしたいですが」
 楊麗氷は、近寄ってきた若き兵隊に笑顔で声をかけた。
「すみません、守衛室で手続きをしてください」
 若き兵隊は柔和な顔でいいながら、扉の内側にある小屋を指差した。
 彼女はありがとうといいながら、車をバックさせて道路脇に停め、エンジンをかけたまま、ハンドルブレーキを引いた。車を降り、しなやかな腰を振りながら歩を進めた。兵隊らの視線がくびれた姿に注いでいる。
「あの、程峰師団長にお会いしたいですが?」
 楊麗氷は小屋の窓口越しに、歩み寄る軍人に訊きかけた。
「すみませんが、身分証明書をみせてください」
 軍人は柔らかい口調でいいながら、擦れ切った厚い登記簿を差し出した。彼女は手渡された万鉛筆で住所や、名前を書き殴った。
 軍人は身分証明書を片手にして、受話器を取り上げる。
「もしもし、来客でございますが。お名前は楊梨という方でして、程峰師団長にお会いしたいとのことです」
 軍人は受話器を耳に当てたまま、ちらっと彼女に視線を投げた。
「はい、かしこまりました」
 軍人はうやうやしく頭を下げ、受話器を戻して窓口に戻った。
「あの、ロビーに副官がお出迎えにまいりますので、そこでお待ちください」
「車でまいりましたが」
「じゃ、車をあのビルの横に停めていただけますか」
 軍人はいい終えると、挙手の礼をするのだった。彼女は嫣然と笑みを振り撒きながら踵を返した。
 ロビーに入ると、副官が満面に笑みを湛えて迎えてくれた。さっそくエレベーターに乗って、六階で降りた。
 執務室の重厚な扉が開かれると、ぴかつく執務机の椅子に座っていた程峰師団長が笑顔で立ち上がり、ソファに坐るよう勧める。
 彼女は笑顔で一礼し、ドレスを両手で押しながら腰を下ろした。
「突然いらっしゃるとはおもいもしませんでした」
 ソファに向かい合って坐るや、三十後半の細面の師団長は満面に笑みを浮べていった。若き護衛がトレイに二つの湯飲みを載せて入り、ティーテーブルにそっと置いてくれる。
 マレシアで不動産やゴム園を営む、億万長者の華僑の令嬢と知り合ったのは、つい一年半前の、ある豪華な晩餐会でのことであった。上海工商連合会会長の紹介により、はるばると故国を訪れた楊銘社長とその令嬢と知り合ったのである。美貌の令嬢に彼は一目ぼれし、滞在期間の三日間自ら車に同乗して、観光スポットを案内したり、夜は盛大な酒宴を開いたりして、慇懃に振舞ったのである。
 帰国してからも、彼女はたびたび情熱に溢れた手紙を寄こした。彼女の情愛めいた言葉に、程峰はすっかり舞い上がってしまい、甘い夢に心を揺さぶられた。
「昨日のお昼、ホンコンから飛行機で着きました。あなたの執務室を見学するつもりで、突如まいりましてもうしわけありませんでした」
 楊梨は艶めかしい顔に笑みをこぼしていった。
「どういたしまして。さて、今度は何日泊まる予定ですか?」
「一応二週間の予定をしております」
「じゃ、ゆっくり観光でもなさって。必要なことがあったら全力を尽くすよ」
 師団長は躍り出す胸を抑えながら、じっと彼女をみつめた。
「ご多忙中にご迷惑をおかけしまして、ほんとうにすみません」
 彼女は笑顔で謝った。
「とんでもありません。ご尊父は戦闘機を贈呈なさったりして、抗日のために大いに貢献なさいまして、まことに感激の一言につきます。あなたに敬意を払うことは、しかるべき義務です」
 師団長は柔和な顔でいった。眼前の麗人の父上、楊銘の国への卓越な貢献は広く知られ、総統からも勲章を授与されたのである。
 突如、机の方から電話ベルがけたたましく鳴り響いた。
「ちょっと失礼します」
 師団長は立ち上がり、つかつかと執務机に戻って受話器を取り上げる。
「はい、閣下、程峰でございます。……わかりました。後ほどさっそく緊急会議を招集します」
 師団長は受話器を戻し、黒のカーテンがかかった正面壁に歩み寄り、脇にぶら下がった紐を引っ張った。カーテンが両脇に開かれ、壁をほぼ埋め尽くす軍事地図が現れた。
 師団長はさっさと近付き、地図に釘つけになった。右手を伸ばし、地図の真ん中から下へと滑らして、調べ出すのだった。
 しばらくして、師団長は手を下ろしてズボンのポケットを探り出した。
 彼女はバックを取って足早に近寄り、取り出したタバコ箱を手渡した。さらに金ぴかのライターを取り出して火を点け、両手で口に銜えたタバコに近づけた。        
「ありがとう」
 師団長はちらっと彼女をみやり、タバコ箱を返し、またも地図に向かって目を凝らした。
 彼女はタバコ箱から一本抜いて口に銜え、ライターで火をつけた。
「お急がしいようですので、これで失礼させていただきます」
 向きを変えて自分をみつめる師団長に、嫣然と笑いながら暇を告げた。
「緊急作戦会議の連絡が入ったので、お持て成しできなくてすみません。じゃ、明日の日曜は休みだから、よかったらどこかに案内するよ」
 師団長が遠慮じみた表情を滲ませた。
「ご都合がよろしければ、一緒に植物園にでもいってみたいとおもいます」
 師団長はちょっとためらったが、即刻頭を縦に振った。
「けっこうです、楽しい一時を過ごせるよう手配します。で、どこで泊まっています?」
「錦江ホテルです」
「じゃ、明日の午後二時半にしたらいかがですか。迎えにまいりますので」
 師団長は柔和な表情で彼女を見やる。  
「ご多忙かと存じますが、別に大事なことでもありませんので、後日ゆっくりしてもよろしいかとおもいます」
「大丈夫です、たまには気晴らしするのも必要なもんで」
 程峰師団長は柔和な顔で彼女をみやる。
「ありがとうございます。では、失礼させていただきます」
 彼女は灰皿に煙草をもみ消し、会釈しながら身を翻した。
「じゃ、副官に見送らせますので」
 師団長は机の上の内線ボタンを押して言いつけた。


 二十七軍軍部の正門を滑り出して、楊麗氷はアクセルを踏み込み、大通りを南へ向かって疾走した。開戦を間近にして、案外やすやすと手に入れた極秘情報をはやく届けたい一心に胸が躍り続けた。
 二十分足らずで黄河街道に辿りつき右折したら、蘇州河の岸に佇む日本総領事館の建物が見えてきた。インギリス、ドイツ、アメリカ総領事館に並んで佇んでいた。
 車を建物の脇に乗りつけ、エンジンを止め、ハンドブレーキーを引き、キーを抜いてドアを開けて飛び降りた。
「どちらにいかれますか?」
 守衛室の初老の方が笑顔で問いかける。
「すみません、急用で駒沢大使にお会いしたいですが」
 彼女はせっかちな語調でいった。
「では、こちらにご記入お願いします」
 守衛は来客登記簿を開けて差し出した。彼女は渡された万年筆で名前を書き殴り、さっさと階段を駆け上っていった。
「すみません、身分証の提示をねがいます」
 守衛は彼女の背中に声をかけつつ、受話器を取り上げた。
 三階の廊下を小走りにして、奥の大使執務室の表札が掛ったドアを開けて入った。
「なにかあったんですか?」
 執務机の前に立って、駒沢が受話器を戻して彼女をみつめる。ソファに坐るよう手振りでしめすしながら大股で近寄り、差し向かって腰を下ろした。
「これを大至急、機関長に届けてください」
 彼女はハンドバックからライターを取り出して、大使に手渡した。
「ちょっとお話を聞かせてくれますか?」
 駒沢が笑みを浮べながらいった。彼女は先ほどの一部始終をかいつまんで話した。
「お疲れ様でした。このような重要な情報は、わが軍にとっては大切なものです。本日は、機関長が軍部においでになったそうで、後ほど連絡が取れる次第さっそくまいります。よかったらお茶でも出しますが」
「いいえ、また用事がありますので、これで失礼させていただきます」
 楊麗氷は腰を上げ、やんわりと暇を告げた。
「最近入手した情報では、軍統がきみに狙いを定めて必死に追い回してるそうだ。なるべく慎重に行動して、無謀な冒険は控えてください。明日の行動はキャンセルした方が無難かとおもうが」
 少将は懸念に満ちた表情を露にして諭した。
「ありがとうございます、なるべく危険を避けるように努めます。程峰師団長はまだ利用価値のある人物ですので、もうしばらくつき合わせてまいる所存です」
 楊麗氷は決然たる色を浮かべて言い切った。

 日曜の午後二時二十分頃、楊麗氷は梅花が刺繍された臙脂色のチャイナドレスをまとい、右手にハンドバックを提げて、ホテルの玄関先を出た。彼女は近寄るドアマンに車のキーを渡しながら、短くいった。ドアマンが一人のボーイを呼んで言いつける。
 しばらくして、ボーイが車を車道の脇に停め、楊麗氷にキーを返した。
 ちょうどそのとき、一台の黒塗りの乗用車が車寄せに入ってきて、彼女の前で停まった。運転席に一人が、助手席にもう一人がライフル銃を抱え、いずれもカキ色の軍服姿の護衛が厳粛な面持ちで坐っていた。
「こんにちは、師団長閣下」
 彼女はドアマンが慇懃な姿勢で開けたドアに近付き、後部座席に座っている師団長に向かって挨拶した。ドレスの胸に下がったおおぶりのダイヤのネックレスが、燦然たる陽光にきらりと光った。
「こんにちは。どうぞお乗りください」
 程峰師団長は顔をほころばせていいながら、豊かな胸にちらっと視線を投げかける。
「よろしかったら、あたしの車にお乗りいただけますか。二人きりのドライブを楽しみたいですが」
 彼女は熱っぽい眼差しで相手をみつめながら勧めた。
「それは願ってもないことですね」
 程峰はのっそりと身体を起こして降りてきて、彼女について車のほうへ歩いた。
 駆け寄ったドアマンがおもねる笑顔で後部ドアを開けてくれる。程峰はそれを無視して、助手席のドアをみずから開けて乗り込んだ。
「高貴なご身分のゆえ、後部座席にお坐りになった方がよろしいかとおもいますが」
 彼女はキーを回してエンジンをかけ、ジョーク混じりに勧めた。
「いや、きみの側に坐ったほうが気楽なんだ」
 程峰は意味ありげな視線をちらりと投げながらいった。
 車はゆっくりと発進して大通りに入り、勢いよく走り出した。後ろの車が後を追って走ってきた。
「昨日の新聞報道によりますと、日本軍がたった数日で上海を攻め落とすと吹聴していますが」
 彼女はさらりと問いかけた。
「それは自信過剰です、わが軍の実力をあまりにも見下してる。われわれの堅固たる防御施設は無敵の力を潜めてる。確かに、わが軍は装備が古いなど弱点があるが、祖国を守る士気は天を衝く勢いに満ち溢れてる。日本軍は装備が優良で、士気も高いが、大儀を背いて他国を踏み躙ってるし、軍事的にも戦線を拡大した、兵家のタブーに触れてる。長い目からみて、日本軍が敗北するのは必然たる結末にきまってる」
 程峰はじっと前を睨みつつ、滔滔と言いまくった。
「華僑の皆さんも大変心配しています。もし敗北したら、国の運命はこれからどうなるかと、おもっただけでも背筋が寒くなります。あなたの身の上も心配でなりません」
 彼女は憂いに染まった顔で彼をみた。
「一人の軍人として、国を守る戦で最後まで戦い抜くのが義務です。命を惜しむのはもってのほかです」
 程峰の顔に悲壮な色が漂った。
「抗日大業へ貢献するために、父さんも率先して行動し、義捐金を募っているところです」
「帰ったら、お父さんによろしくお伝えください。ご尊父の優れた品格には心を打たれています」
 程峰が賛嘆の言葉を口にした。
「でも、ほんとうにあなたが心配で、夜もろくに寝られません。万が一の場合、あなたと一緒にマレシアに帰ったらと、夢見るときもたびたびです」
 彼女は情熱をこめたつぶらな目で、彼を見返した。
「お言葉はありがたいですが、わたしには軍人としての天職をまっとうする義務があります」
 程峰は厳粛な面持ちを彼女に向ける。
「できましたら、前線の防御施設を見学したい気持ちで一杯です。帰り次第、あなたをはじめとする、わが軍の将兵の英雄的精神や雄姿を記事に載せたいとおもいます」
「それなら、わが軍の防御陣地へと案内しましょうか」
 程峰は心を動かされたらしく、躊躇わずに快諾した。
「よろしかったら、ぜひお願いします」
 彼女は笑顔で懇願した。
 程峰は道順を教えはじめる。後ろから護衛の乗用車がくっついて走ってきた。
 北へと三十分ほど走り、吴淞口の手前にたどり着いた。
「あちらは湿地森林公園だよ、揚子江と黄浦江が交わり合うところで、軍事要塞となってる」
 程峰は緑の林が伸び広がる一帯を指差しながらいった
「実に見事な景色です」
 楊麗氷は感嘆の声を上げた。
 遠くにおぼろげにみえる、数人の兵隊の姿がだんだん近付いてきた。鉄条網でくるまれた大きな丸太が、道路を遮断している。道路脇には仮設の木造歩哨所が佇む。
 車が停まると、一人の大尉が助手席に近寄って挙手の礼をし、やんわりと言いかけた。
「こんにちは、将軍閣下。すみませんが、身分証をお見せください」
「きみはどこの所属だ」
 下ろしたウインド越しに、程峰は厳つい表情で身分証を手渡しながら訊いた。後ろの車から飛び降りた護衛がライフル銃を握って小走りに近寄り、大尉に向かって言いかける。
「はい、18軍の第二歩兵師団、大尉の魯寧です。総司令部からの特別許可証がなければ、通行禁止になっています」
 大尉は真面目な表情でいいながら、身分証明書を両手で程峰に返した。
「おれの親友である、李鉦師団長に電話をかけな」
 程峰は沈んだ表情で言いつけた。
 大尉はやむ得ぬ表情で少々躊躇ってから、颯爽たる足取りで歩哨所のドアを開けて入り、受話器を取り上げる。
 しばらくして、大尉は小走りに戻ってきた。
「通してあげるように命じられました。失礼ですが、こちらのお方はどなたでしょうか?」
 大尉は楊麗氷に目を凝らした。
「かの著名なマレシアの華僑の実業家、楊銘社長の令嬢だ」
 程峰は威厳に縁取られた顔で相手を睨んだ。
「かしこまりました」
 大尉は起立した姿勢で挙手の礼をしながら答えつつ、振り向いて右手を振った。二人の兵隊が丸太をゆっくりと脇にどかした。
 車は十数分走り、やや高い丘に登り、開けた砂地に乗り付けた。二人が車を降りると、護衛が走ってきて、双眼鏡を両手で差し上げる。
 近くに黒い砲台が列をなして鎮座し、砲口を斜めに伸ばして、河の方に向かって睨みを利かしていた。周りは鉄柵がぐるりと張り巡らされている。
 鉄柵に歩み寄ると、下が十数メータ高さの崖になっていて、広々とした川面に夕日が降り注ぎ、眩しく照り映える。河岸のいたるところに、鉄条網にくるまれた丸太が縦横無尽に横たわっていた。
「ここがわが軍の誇り高き防御陣地だ、さ、ご覧なさい」
 程峰は双眼鏡を彼女に手渡した。彼女は嫣然と笑みを振り撒き、両手で双眼鏡を受け取り目に当てた。
 河岸から数十メーターの方に、掘り起こされた土がくねくねと伸び続き、塹壕のようなものが薄っすらとみてとれる。その後ろを、ところ所にトーチカが草木に覆われ、銃口を露にして蹲っていた。
「さすがに立派な防御陣地です」
 彼女は双眼鏡を目にしたまま、賛嘆の言葉を発した。眼前に広がる情景を、彼女は頭にしかと叩き込んだ。天賦の優れた記憶力に長けた彼女は、眼前を流れる瞬時の出来事を、つまびらかに覚えられる能力を持していた。
「これでしたら、いくら強大な敵でも防げるわ」
 彼女は双眼鏡を下ろして、程峰に向かって褒めそやした。
「昨日の夕方、司令部から副軍長に任命されたんだ」
 程峰は静かな口調で言い漏らした。
「おめでとうございます。今夜、あたしがささやかな酒宴を催して、あなたと二人だけの祝杯を上げましょう」      
 彼女はあだっぽい顔に笑みを湛え、彼の手をそっと握りながら嬌声を上げた。
「ありがとう」
 程峰は胸に沸き起こる暖かい流れを抑えつつ、熱い眼差しで彼女をみつめ、きゃしゃな手を握り返した。振り向いてみたら、二人の護衛がやや遠いところに突っ立って、みて見ぬふりをして言い交わしていた。
 二人だけであったなら、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。今宵こそ、恋焦がれた彼女との情愛を実らせたい、甘ったるい夢に胸を躍らせた。


 二十世紀三十年代初頭に建てられた『百楽門』は、上海きっての娯楽世界として名を馳せた。市の西側に位置する貴族地区に佇み、「東方きってのエデン」と呼ばれた。
 一階は宝石屋、骨董屋、レストランなど店舗が立ち並び、二階は二百坪ほどのダンスホールが広がり、周りには喫茶コーナーや、バーが連なる。三階は「オシドリの巣」で知られたホテルで、情交にうつつを抜かす客らを迎え入れた。
 ダンスホールは究極な社交場として脚光を浴び、政財界をはじめ、金満家や名士らが群がるエデンでもあった。戦乱の時勢とは隔離された桃園郷で、はめを外した豪華な身なりの男女らが羽を伸ばして享楽に浸りきった。
 楊麗氷はたびたびここを訪れては、ダンス伴侶の腕に身をあずけて、恍惚な一時を堪能した。プロのダンサー顔負けの舞姿はやけに目をつき、妖艶な容姿は男子らの心を虜にした。
 もっとも、彼女のとっておきの狩場でもあって、一旦目当ての獲物に狙いを定めたら、必ずや手中のものにするのが落ちであった。
 この夜、いつものように自ら車を運転して乗りつけた。
 彼女は友人とともにダンスホールで舞い込み、ソファに身を寄せて高級ウイスキーを飲みながら歓談し合った。
 国際情報社、上海支局支局長の鳥居元雄は記者上がりであるが、諜報部員としても暗躍していた。
 三十代のハンサムな男は中国、インギリス、ロシアの三ヶ国語を流暢に操り、中国通としても名を知られた。外交手腕も優れ、新聞界はむろん、国民政府内にも人脈を持っていた。数ヶ月前のある酒宴で知り合うこととなり、たちまち楊麗氷に一目ぼれし、たびたび誘いの声をかけたのだ。
 楊麗氷は知的で、ハンサムな鳥居が好きだったが、恋の扉は心底閉じたままにしたのだった。
 冷徹な気立ての彼女は、恋にはまる危険をはっきり自覚したし、自らの心を鬼にして立ち振る舞った。恋におぼれたあげくに、敵のスパイに足元をすくわれ、自滅の途をたどる同僚の苛酷な運命をたびたび目にしてきたのだった。
 二人は取り繕った挙措で付き合い、友情の一線を越えない立場を貫いた。互いのプライベットを詮索せず、あくまで同僚並みの接し方に留まった。
 楊麗氷はいたって冷静に振舞い、堅苦しい態度すらみせるほどだった。任務遂行に当たっての妖艶な面影はすっかり消え失せ、淡々として余興に応じるのだった。
 しかし、その冷厳な美しさこそ、鳥居の目には限りなく魅惑的に映った。鳥居は終始笑みを湛えた優男を装ったが、ときおりその目に一閃する情熱を、彼女は見逃さなかった。そのつど、彼女は冷たい素振りをみせつつ、無情にも相手に水をかけたりした。
 新たな舞曲が鳴り響き、二人は手をとってダンスホールに歩を進めた。
 二人が優雅なポーズで軽やかなステップを踏み出したとたん、近くで俄然と騒ぎ出した。
 一人の若者がやくざっぽい男と喧嘩していた。
「てめえ、勝手に人のダンサーを誘うんじゃねえ!」
 凄い形相をした中年男が若者に怒鳴りこんだ。
「おれが誰と踊ろうって、関係ないだろう」
 若者は真っ赤な顔をして突っかかった。
「なんだって、この野郎。彼女に二度と触れたらぶっ殺すぞ!」
 中年男がさらに罵声を飛ばした。若者の隣に立っているダンサーが真っ青な顔で見守っていた。
「おれは金を払ってるぜ、おれの好き勝手じゃ……」
 若者の話が終わるやいなや、一発の拳骨がその顔面をしたたかに打った。若者はよろめきつつ、仰向けに倒れた。鼻から飛び散った血が、白い背広の胸辺りを濡らした。
 中年男は飛び掛って、若者の胸倉を掴んでさらに手を振り上げた。
「やめなさい!」
 近寄った楊麗氷が、甲高い声を上げた。バンドの演奏が止まり、人々の視線が一斉に麗人に注いだ。
「どこのどいつだ、勝手に口を挟みやがって」
 男は若者を突き放して、彼女に向かって吠えた。
「弱い者をいじめるって、卑怯な行為よ」
 彼女が怒りの目で相手を睨んだ。鳥居が心配そうな目で彼女を見やる。
「卑怯って!?どこの馬の骨かもしらん尼が、よくもでけえ口を叩きやがって」
 男は冷やかな表情でののしりつつ、隣の仲間らをちらっと見ながら嘲笑った。二人のやくざっぽい男がにやにやしながら見守っている。
「下品極まりないわ」
 楊麗氷が怒りの目を瞠って、大声で叱責した。
「下品だって、お前は死にたくてむずむずしたか。おれ様が誰か知っとるか?」
 男は険悪な形相で迫り寄った。
「下種の者ほかならないわ」
「なんだって?このくそ尼!」
 男は大きな手を振り上げて、彼女の顔面を張り飛ばそうとした。
 楊麗氷はさっと身をかわし、ハイヒルで男の脛をしたたかに蹴った。男は体のバランスを崩して倒れた。
 隣の屈強な仲間が猛然と飛び掛ってきた。
 彼女はすばやく体を反転させ、右足で男の股間に蹴りを入れた。男は低い呻き声を漏らして蹲った。
 立ち上がった男と、もう一人が、両方から挟み撃ちで襲いかかろうとした。
 そのとき、一発の銃声が天井で炸裂した。鳥居が手に拳銃を握り、男らを狙っていた。
「貴様ら、死にたくないなら、さっさと消え失せな!」
 やくざらは一瞬、足が地面に凍て付いたかのように立ち尽くし、呆然とした目つきで鳥居をみやった。一人が中年男に近寄り耳打ちした。
「覚えとけ、ここはわれわれ『青幇』のシマだぜ。いつか必ず仕打ちするからさ」
 中年男は言い捨てると、踵を返してすごすごと出ていった。二人の仲間も後ろを追っていった。
 周りの男女らが怪訝な目つきで二人をみつめていた。数人の女性が頭を寄せ合って耳打ちするのだった。優雅なメロディーが再び鳴りかけた。
「ちょっと危なかったじゃないか。でも、格闘技はなかなか素晴らしかった。さすがに見上げたもんさ。拳銃は携帯してないか」
 鳥居が拳銃を背広の内ポケットおさめながら賛辞を口走った。
「携帯しないはずがないでしょう」
 彼女はやんわりと答えた。左の脇の下に取り付けた、小さなホルスターに精巧な拳銃を挿してあった。
「用心したほうが無難だ、『青幇』は大掛かりなマフィアで、悪魔のような存在だ。人殺しなんか平気でやらかすからな」
 鳥居は気遣う表情でいった。
「よく知っているわ。なにも怖がるほどでもないの」
 彼女は冷静な表情で答えた。
 冷気に縁取られたあでやかな顔が、色とりどりの光に美しく映えた。鳥居は微笑みながら、彼女の腕を抱えてダンスホールへ歩き出した。
 翌日、主力紙の朝刊第一面トップに、「麗人徒手空拳で三人のやくざを撃退」との大文字が飾られ、市中にセンセーションを巻き起こした。
「百楽門」のダンスホールで、若き麗人がやくざらを次々と倒した経緯が仰々しく綴られてあった。少林寺で武功を身につけた女武人だの、軍統の女スパイだの、様々な憶説が飛び交った。
               

十一

 広東料理がふんだんに盛った円卓を挟んで、楊麗氷は中年男性と向き合って坐った。
 四十半ばの丸気味の顔に苦笑いを浮かべた男は、畏まった姿勢で彼女を見ながら口を開いた。
「このたびは、不肖の息子を助けてくださいまして、まことにありがとうございました。ご恩は肝に銘じておきます」
 男は頭を下げ、慇懃に謝意を述べた。
 国の一流名門大で知られる、上海名門大学で歴史を専攻する息子は勉強を疎かにし、常に百楽門のダンスホールで酒色にうつつを抜かしていた。それところか、劉燕というダンサーに入れあげたあげくに、マフィアの組長の情夫ににらまれる羽目になったのである。  
 先ほど、息子は命を助けてくれた麗人に挨拶をするなり、人との約束があるといって、さっさと立ち去ったのである。
「どういたしまして、しかるべきことをしたにすぎません」
 彼女は真面目な顔で答えた。             
「このような者ですが、もしお力添えになれることがありましたら、いつでもご用命ください」
 男は名刺入れから一枚を抜いて体を乗り出し、両手でうやうやしく差し出した。
 楊麗氷は両手で受け取り、ちらりと目を通した。
 国民政府総統府機要室室長、浩雄という文字が鮮やかに浮き立った。機要室とは、極秘文書を取り扱う部署である。
 彼女の目に驚喜の光がちらっとよぎった。勿怪の幸いに巡り会えたことに彼女は宿命的な縁を感じ、心底驚喜の渦に巻き込まれた。
「ご多忙中にご足労を賜わりまして、なお晩餐にお招きいただきまして、まことに感激の極みでございます」            
 彼女はつぶらな目つきで相手を見つめた。
 相手は数時間もの列車に揺られながら、南京からわざわざ足を運んでくれたのだった。
「とんでもありません。ご恩に比べたら、足元にも及ばぬほど微々たるものでございます。あなたへの心よりの謝意を表して、一つ乾杯させていただきます」
 浩雄は知的な顔にたっぷりと笑みをこぼしながら、上半身を乗り出して「茅台酒」を注いだ盃を差し出した。楊麗氷は立ち上がり、華奢な指に挟んだ盃をそっと合わせた。
「どうぞ召し上がってください、広東料理がお口に合うか心配ですが」
 浩雄は片手を差し出して勧めた。
「あたし、広東料理が大好きです」
 艶めかしい顔に色っぽい笑みがこぼれた。
 浩雄は立ち上がり、小さなドグでフカヒレや、蒸しアワビなどを挟んで、彼女の前の小皿に入れてあげる。しばらく、フォークが皿と擦れ合う微かな音が、静かな部屋にこだました。
「南京はさすがに由緒ある古都ですわ。あたしは行く度に古い遺跡地を歩きまわり、そのつど偉大な歴史の軌跡に新たな感動を催されます」
 楊麗氷は横の椅子に置いたハンドバックからハンカチを取り出し、赤い唇を軽く押さえつつ話題をそらした。
「歴史に興味がおありでしょうか。今の時節に、そのような立派な若者はそう多くはいませんよ」
 浩雄が賛嘆の目つきを投げかける。
「南京は二千五百年の歴史を誇る古い町で、六つの王朝の古都としても知られています。 紀元三世紀の三国時代には、呉の都として栄えまして、とりわけ『赤壁の戦』は天下に知られています。曹操は百万の大軍を率いって攻め込みましたが、結局は孫権が指揮した十万の呉の軍勢の反攻に遭って、惨敗を余儀なくされたのです。弱者が強者を打ち破る、古代においても輝かしい戦績の有名な事例です」
 楊麗氷は爽やかな弁舌で言いまくった。
「さすがに歴史にも通じた才媛ですね。さて、楊さんはどこの大学を卒業なさいましたか?」
 浩雄は目を大きく開いて、艶めかしい顔を凝視した。
「実は、八年前に日本に留学しまして、東京女子大学で日本文学を専攻しました」
「わが国が派遣した留学生ったら、女性は数えるほどですから、さすがに驚きました。実は、わたしも日本の早稲田大学で歴史文化学科を専攻したのです」
 浩雄はうっとりした目つきで彼女をみた。
「日本が東洋随一の近代国家と発展したのは、ひとえに明治維新によるものだとぞんじます。もし『戊戍变法』維新が成功したなら、わが国も相当な発展を遂げたはずでしょうが」
 楊麗氷はつぶらな目で相手をみつめながらいった。
「まったくおっしゃったとおりです。今のわが国の状況は非常に由々しきもので、このままだと破滅しかねない瀬戸際に立たされるでしょう」
 浩雄は顔を曇らせ、悲観的な口調で言い漏らした。
「確かに現実は厳しいですが、道はまだまだ開かれているとおもいます。このようなことを申せば、僭越ととられるかも知れませんが、たとえば日本の先進的文明を取り入れ、協調の道をたどるのも時代の流れに沿ったものであるとおもいます」
 楊麗氷は真面目な表情で言い含める。
「まったく理にかなったお言葉だとぞんじます。日本との協調路線を貫くことは、一つの活路には間違いありません。総統が唱える、外敵を排除するより、内患を治めるほうが先決であるとの方針に一致します。つまり、共産党を殲滅するのが、目下の最大の課題だとおもいます」
「反対派を率いる汪精衛先生こそ、当代きっての優れた指導者であるとおもいます。先生は若い節に日本へ留学され、帰国後は清朝を打倒する革命に身を投じました。摂政王載沣暗殺を敢行しましたが、失敗して牢獄につながり、苛酷な拷問にも屈せず、節を曲げませんでした。先生が唱えられたように、日本の現代文明を導入し、協調方針を貫き、中国の革命を推し進める、これこそ最適な路線ではないかとおもいます」
 楊麗氷は溌剌した表情で、自分なりの見地を唱えた。
「さすがにすぐれた見解ですね。わたしも同感しております。ただし、軍事的実権を握っている総統と対等に振舞っているのは、どうかとおもいますが」
 浩雄は微かに顔を曇らせて言葉を濁した。
 圧倒的な優勢で突き進む、敵側の勢いに押された戦局を目の当たりにして、彼は心底動揺を禁じえず、親日派の協調路線に傾きつつあったところであった。
 しかし、かつては総統と袂を分かち、反総統勢力を束ねて反旗を翻し、失敗してホンコンへ逃亡を余儀なくされたこともある汪精衛一派の基盤の脆弱さを考えると、不安を覚えずにはいられなかった。
「先生のお立場は重々ご理解いたします。しかし、時代の曲がり角に立たされた今、賢明なる選択をなさった方が無難かとおもいます」
「ご見地は十分理に適うとぞんじます。さて、話題をそらしてすみませんが、この前息子が助かったとき、徒手空拳でみごとに二人のやくざを倒したそうですが、その武功はどこで身につけたのですか?」
 浩雄は興味津々たる表情で問いかける。
「実は日本で留学した頃、大学の空手クラブに入りまして、有名な監督先生から手解きを受けました」
「さすがに驚きましたね。武功に通じた女性武人とは、稀にみるものでございます。凛々しい勇姿にはまことに頭が下がります。実に立派な女傑そのものでございます。あなたの輝かしい前途をお祈りして、乾杯させていただきます」
 浩雄は立ち上がり、手にした盃をうやうやしく差し出した。楊麗氷は嫣然と笑みを振り撒きながら、上半身を乗り出してそっと相手の盃につき合わせた。
「よろしければ、『百楽門』のダンスホールに付き添わせていただきたくぞんじますが」
 楊麗氷はつぶらな瞳を相手に注ぎながら勧めた。
「それは大変ありがたいことですね、ぜひよろしくお願いします。もし南京においでになるときは、ぜひご一報ください。歓迎宴を催してお迎えしたいとおもいます」
 浩雄は満面に笑みを湛えて快諾した。麗人からの願ってもない要請に、彼はすっかり舞い上がってしまった。
 あでやかな顔に釘つけになりつつ、心は甘い流れに躍り出した。


十二

 汽車は汽笛を鳴らしつつ、夕日が降り注ぐ南京駅のホームにゆっくりと滑り入った。上海から発車して、六時間の行程を経て終着駅にたどり着いたのだった。
 楊麗氷が小さなスーツケースを持って列車を降りると、満面に笑みをこぼしながら、浩雄が迎えてくれるのだった。
「お疲れ様でした、ご来訪を心待ちしておりました」
 浩雄がスーツケースを受け取りながら、やんわりと口を開いた。
「お出迎えありがとうございました」
 楊麗氷は挨拶を返した。
 出発の前日、電話通話のとき週末にたぶん行けると仄めかしたが、はたしてホームまで出迎えてもらい、心からうれしかった。
 改札口を出たら、運転手がうやうやしく挨拶しながら、スーツケースを持って黒塗りの乗用車に近寄り、後部ドアを開けてくれる。楊麗氷が後部座席に座ると、スーツケースを手渡し、浩雄は助手席に乗り込んだ。
 乗用車が大通りを勢いよく走り、お馴染みの街の景色が流れ去った。十分足らずで、ヒルトンホテルの車寄せに入って停まった。 
 ドアマンが慇懃にドアを開けてくれる。浩雄がスーツケースを持って、近寄ったボーイに渡した。
 楊麗氷は悠然とした足取りで玄関に入った。
 一人の部下らしき若者が足早にきて、鍵を浩雄に手渡す。
「スイトルームを用意しましたので、しばらくお休みください。六時に部下を迎えにいかせます」
 浩雄は笑顔でいった。
 若者が彼女をエレベーターホールへ通してくれた。
 熱いシャワーを浴びて、バスローブに身をくるみ、髪をきれいに梳かした。冷蔵庫からミネラルウォータを取り出し、栓を抜いて一口飲んだ。
 応接間の窓よりのソファに腰を下ろし、窓越しに映る街の宵の景色にうっとりした目を向けた。この旅の重みをしかと噛みしめながら、しばらく思考にふけった。
 電話ベルが鳴り響き、彼女は浸りきった沈思からやっと我に返った。十分後に迎えにまいりますと、若者の声が伝わった。
 彼女はさっさとクロジェットに近寄り、扉を開けた。薔薇色のイブニングドレスを着飾り、扉の内側の鏡の前に立って前後を照らしてみた。
 若者に通され、エレベーターを出てロビーを歩いていたら、ふと正面から、一人の華やかな身なりの麗人が紳士の腕を抱えて歩いてくるのだった。
 見覚えのある妖しい面影に目を注いだとたん、楊麗氷はおもわずはっと息を飲んだ。なんと、自分に冷やかな視線を投げかける麗人は、薛雷中将に寄り添っていた夏梅ではないか。彼女から毒々しい視線を浴びせられ、おもわず背中を伝わる不気味な寒気にひやりとした。

 フランス人が経営するクラブ「レイナ」は、南京きっての社交場として名高かった。
 広々としたダンスホールは色とりどりの光に包まれ、白と赤の混じり入った大理石の床は眩しく映えだした。続き間はバーで、一枚大理石のカウンターの真ん中に、黒のスーツに蝶ネクタイのバーテンが突っ立ち、鮮やかな手つきでシエーカーを振っていた。
 薔薇色のイブニングドレスに身を包み、楊麗氷は淑やかな姿勢でダンスホールに踏み入った。艶めかしい容姿がまぶしい光に美しく映えだし、優美な気品を浮き立たせる。
 白の背広の上下に身をまとい、浩雄がゆったりした足取りで楊麗氷に付添って歩いた。知的な顔に鷹揚な笑みを浮べ、上品な気質を漂わせる。
優雅なメロディーが漂い流れ、豪華なファッションに身をくるめた紳士や淑女らを包み被さった。
 浩雄は両手に身をあずけた楊麗氷を抱え、軽やかなステップで舞い込んだ。さすがにダンスの達人で、二人の優美な舞姿は一段と際だった。
 舞曲が一段落すると、二人はアーチ型の門をくぐり、バーに足を運んだ。テーブルを挟んで坐ると、給仕が近寄ってお水のグラスをおいてくれる。
「飲み物はなににします?」
 浩雄が訊きかける。
「ブランデーでお願いします」
 楊麗氷のあだっぽい顔が明かりに映えた。
 夕食は、フランス料理で舌鼓を打って、高級ワインを一本空けたのである。
「お酒は強いですね」
 浩雄は賛嘆の声を上げた。
「さすがにダンスの達人ですわ、今まで付き添ったお方の中でもっともお上手ですもの」
 楊麗氷も相槌を打って褒めそやした。
 月並みの容貌ながら、ダンスの技量はプロに近かっただけに、連れ合うのが楽しみであった。
「あなたこそプロの顔負けの名手ですよ。しかも、眩しき限りの美しさに輝いています」
 浩雄はさらに賛辞を口にした。
 給仕がブランデーのボトルと氷り入れのボウルや、グラスをめいめいの前に置いてくれる。
 浩雄はトングを取り上げ、彼女のグラスに氷を入れ、ブランデーを注いだ。彼女はトングを受け取り、グラスに氷を入れ、ブランデーを注いで両手で渡した。
「あなたの輝かしい前途に、乾杯させていただきます」
 彼女は華奢な指でグラスを取り上げ、そっと浩雄のグラスに合わせた。
 麗人の激励めいた言葉に胸を打たれ、彼は躍り出す胸を抑えつつグラスを突き出した。力がやや入れすぎて、グラス同士がぶつかってしまい、橙色の液体がこぼれて二人の手を濡らした。
「す……、すみませんでした」
 顔を真っ赤にさせつつ、浩雄は慌てふためいて言いよどんだ。
「どういたしまして」
 彼女は色っぽい流し目をちらりと投げかけ、グラスを傾けて飲み干した。浩雄も釣られるように、首をそらせて一気に飲み込んだ。
「もう一曲付き添っていただけますか?」
 彼女は長い睫毛に縁取られたつぶらな目で、ちらっとみやりながらいった。
「喜んで付き添わせていただきます」
 浩雄はさっと立ち上がり、まぶしい目つきで彼女をみつめる。
 楊麗氷は颯爽とした足取りで前を歩いた。くびれたボディラインが鮮やかに目をついた。

 タクシーが滑るように走り、ヒルトンホテルの車寄せの前で停まった。
 助手席から降りてきて、浩雄は近付くドアマンを制して、自ら後部ドアを開けてやった。
 楊麗氷はハンドバックを右手にして、ゆっくりと降りてきた。歩きかけたとたん、少し体を揺らした。浩雄がさっそく右手で彼女の腕を支え、左手でハンドバックを受け取った。
 にぎやかな雰囲気が失せたロビーを渡り、エレベーターホールに着いた。+
浩雄がボタンを押したら、エレベーターの扉が開かれた。二人が乗るや、くぐもった響きとともにエレベーターがやや振動しつつ昇り始めた。その弾みに、楊麗氷は体のバランスを崩し、彼の肩に倒れこんだ。浩雄が慌てて両手で支えてやった。
 彼の胸にしなやかな体をあずけ、彼女は紅潮した顔を反らせ、うっとりした目つきで彼をみつめる。浩雄はすっかりどぎまぎし、彼女の体を両手で支えたまま見つめ返した。
 ふと、彼女が両手で彼の首にしがみつき、しかと赤い唇を押し付けた。浩雄はとっさに電流に打たれたように身を震わせ、彼女の腰を抱えてキスをかわした。
 十二階で降りて、絨毯を敷き詰めた通路を二人は抱き合って歩いた。
 ドアを開けて入るなり、二人は抱き合ってベッドルームに直行した。
 二人は抱き合ったままベッドに倒れこみ、ハンドバックが床に落とされた。互いに服や肌着を脱がせ、しかと合体した。
 応接間から差し込んだ薄い光が、激しくうごめく二人の裸体をおぼろげに映し出した。


十三

 昼の太陽が眩しくホームを照らし、ごった返す人並みを嘗め尽くしていた。
 徐々に滑り出す列車のデッキの開かれたドアから身を乗り出し、楊麗氷はあでやかな顔に笑みを湛え、手を振って見送る浩雄に、華奢な手を振り返した。
 情熱的な面影が遠のいてから、やんわりと中へと勧める車掌を一瞥し、彼女は一等車のコンパートメントの狭い通路を歩いて、三号室のドアを開けて入った。
「こんにちは」
 ベッドに坐って、新聞を広げている女性に挨拶の声をかけ、スーツケースを上の棚に置いて、ハンドバックを持って向かいのベッドに腰を下ろした。
「こんにちは」
 新聞をおろして、妖艶な面持ちの女性が挨拶を返すのだった。相手を見た瞬間、楊麗氷の顔はとっさに色を失せた。なんと、夏梅が冷やかな目つきで自分を射抜いているではないか。
 しかし、老練な彼女はすかさず笑みを戻して、やんわりと訊きかけた。
「どこかで、お会いしたような気がしますわ」
「そうよ、あたしたちはこれで、三度目の顔合わせになるのよ」
 夏梅が冷やかに答えた。吊り上った眉に縁取られた大きな目が、鋭い光を放つ。
 しばらく、重苦しい沈黙が頭上にのしかかった。
「坂田雲子少佐」
 夏梅が突如、甲高い声で呼んだ。手にした小型拳銃が鈍い色を放つ。
 楊麗氷は心にちくりと驚いたが、すかさず取り澄ました表情を装った。沈んだ目つきで、相手の妖艶な顔をじっと見つめ返した。
「さすがに海千山千の女スパイね、実にみごとな演技よ」
 夏梅が冷気を湛えた目つきで揶揄した。
「人違いです」
 楊麗氷は冷静な表情で言い返した。
「とぼけるんじゃないよ。正体はとっくに暴かれたの、もう手遅れよ」
 夏梅が口を歪めて叫んだ。
 楊麗氷は冷やかな目つきで相手を見つめ返した。相手が敵側の同じ身分であると、はっきり見て取ったのである。しかも、自分を狙った以上、必ずや連中がついていることも意識した。彼女単独では、到底自分に太刀打ちできないはずなのだ。
「色仕掛けで中将を誑かし、極秘文書を盗み取り、袋小路に封じ込められた日本海軍艦隊を救い出して、なんてみごとな手腕なの」
 夏梅は相手を睨みながら言い募った。面持ちは軽蔑の色を湛えて罵っていたものの、心底相手の手腕に脱帽した。同じ道をたどって五年が経ったが、ささやかな任務をやり遂げただけで、目立った功績は上げられずに苛立っていたのだ。
 ドアが横に滑り出し、強面の中年男が入ってきた。
「そのバックを寄こしな」
 男は野太い声で吠え出し、あらっぽい手つきで横に置いてあるハンドバックをひったくった。
 バックを開け、逆さまにして中身を床に落とした。化粧箱や、金ぴかのライターとタバコ箱や、ハンカチや財布などが床一面に散らかった。
男は蹲って一つずつ入念に調べ、ライターに目をとめた。ライターを開けてみて、男は得々たる表情を浮かべ、ジャケットのポケットに入れた。
 楊麗氷は緊張した顔で、男の挙動をみつめていた。
 男はさらに棚からスーツケースを下ろして開けるなり、ごつごつした手で中を無造作に掻き回した。イブニングドレスや数枚の肌着しか入ってなかった。
 スーツケースから手を離し、男は楊麗氷に向き直った。
「立ちな」 
 男は凄みをきかせて吠え出した。楊麗氷はのっそりと腰をあげた。夏梅が拳銃を手に握り、鋭い目つきで彼女を睨んでいた。
 男は両手で、彼女のドレスにまとった全身を荒っぽく触りまくり、脇の中に手を突っ込み、小型拳銃を取り上げた。さらに太股の間を触りまくり、やっと手を止めた。
 男はちらりと夏梅を見やり、立ち尽くしている楊麗氷を睨みつけた。
「坂田少佐、もう観念しなさい。このたびの狙いはなんだったの?例の人物とは、情交に限られたお相手じゃないでしょう」
 右手にした拳銃で相手を指しながら、夏梅が嘲笑いを浮べていった。昨夜特別な使命を担って、狙いの人物につきまとったあげくに、楊麗氷への追跡を見逃すしかなかったのだった。しかし、見送りの人物をみて、ただならぬものを感じ取った。敵国のスパイをいっそうのこと、引き金を引いて撃ち殺したい衝動に駆られたが、軍統のトップからの厳命があり、素直に服従するしかなかった。
 日本軍の核心的スパイを懐柔して、寝返らせて利用したいトップの目ろみは見え見えだった。現に、双方のスパイ合戦は白熱化し、酷刑に耐え切れず、寝返る者が続出し、二重スパイとしてこっそりと工作する者も少なからずいた。もっとも、国民政府側のスパイ変節者が続出し、大半を占めている有様であった。
「ご想像に任せるわ」
 楊麗氷は冷やかにいった。
「このくそ尼!」
 激怒した男が手を上げて、彼女の右頬をしたたかに張り飛ばした。楊麗氷は上半身をそらしてよろけたが、すかさず姿勢を取り戻した。一筋の鮮血が鼻から滴り落ちた。
 床に落ちたハンカチを取り上げて血を拭きながら、彼女は男を睨み返した。
「さっさと吐き出さんか!」
 男はまたも手を上げて脅かした。
「麗人にはお手柔らかにしなさい」
 夏梅がわざとらしき口調でなじった。男はやむを得ぬ表情で手を下ろし、凄んだ形相で彼女をねめつけた。
 突如、軽いノック音が響いた。夏梅は拳銃を内ポケットにすばやく戻した。
 ドアを開けて、五十代の車掌が笑顔を覗かせていった。
「切符をお願いします」
 片手に改札鋏をもち、皺めいた顔に笑みを浮かべていた。
 夏梅はスーツの内ポケットから切符を取り出して手渡した。
 車掌は改札鋏で切符の端に刻み目を入れて返した。男が険悪な形相で車掌をねめつける。
 楊麗氷は床に落ちた財布を取りあげ、切符を抜き取って手渡した。
 車掌が怪訝な目つきで、床に散らかった物を見やる。
 次の瞬間、彼女は右手の食指と中指をハサミ状に開かせ、車掌を睨んでいる男の両眼をしたたかに突っついた。
 あっと悲鳴を上げながら、男は両手で顔を覆った。
 夏梅がスーツの内ポケットから拳銃を取り出したところ、楊麗氷が素早く手を振って拳銃を叩き落した。
 車掌は突っ立ったまま、突発した情景を呆然と見やっていた。
 二人の女は取っ組み合って、必死に相手の髪を掴んで戦っていた。男は顔を覆ったまま、呻きを漏らしていた。懸命に目を開けようとしたが、激痛にのたうち回った。
 廊下を走る足音が響き、数人がドアに寄り添って中の修羅場を見やっていた。
 楊麗氷は渾身の力を振り絞り、右手を手刀状にして夏梅の首を打った。夏梅が悲鳴を上げて、彼女の髪を掴んだ手を放した。
 楊麗氷が拳でその頭を数回殴ると、夏梅が目をとろんとさせて気を失った。
 男が赤く腫れた目を微かに開けて、後ろから楊麗氷の腰を抱え込んだ。楊麗氷は必死にもがいたが、男の力強い両手を払い除けられなかった。
 そのとき、一人の国民党将校が人垣を掻き分け、ドア口に突っ立って怒鳴った。
「あんたら、なにやってるんだ!」
 男がひるんで手を緩めた隙に、楊麗氷は力を入れて男の手を振り払い、ドアを飛び出した。
「この男は卑劣な痴漢よ」
 楊麗氷は悲痛な面持ちを将校に向けて訴えた。将校は怒りに満ちた眼差しで男に迫り寄った。
「あの女は……」
 男が言いかけたところ、将校が振り下ろした拳骨が男の顔面を叩きつぶした。男は呻き声を漏らして、ぐったりと床に伸びた。      
 楊麗氷は廊下を走り、客車車両連結部のデッキに立ち止まり、ドアを開けようとしたが、鍵がかかってびくともしなかった。
 彼女は後ろの車両へ走りこんだ。食堂車内は森閑としていた。
 その次の車両に踏み入ったら厨房であって、二人の白い服をまとった男がせわしく動いていた。
 鍋を振っていたデブの男が彼女を見るなり、「何の御用ですか?」と訊きかける。
 楊麗氷は答えず、すかさずドアに駆け寄って引っ張ったら、ドアは軽々と開けられた。通常、厨房のドアは鍵をかけないようだった。
 三段のタラップの最下段に降り立ち、楊麗氷は両手で取っ手をしかと掴んで息を吸い込んだ。
 列車は六十キロスピードで疾走していた。
 楊麗氷はダイビングするように、身を横様にして飛び降り、草叢が広がる線路の斜面を転がり落ちた。
 デッキの上から、デブの男が顔をのぞかせていた。


十四
             
 気を取り戻したら、背丈ほどの草叢の中に横たわっていた。数メータある線路の斜面を転がり落ちたことがやっと分かった。
忙しく鳴き続けるこおろぎの鳴き声が、やけに耳をついた。すぐ隣には、合体した一対のヒキガエルが微動だにせず、じっと自分をみつめている。
 楊麗氷はゆっくりと体を起こした。体中に痛みが走り、彼女はおもわず顔をしかめた。体を触ってみたら、幸い大した傷や骨折はなかった。ベージュ色のチャイナドレスが草や泥に塗れていた。かつてのサバイバルトレーニングで身に着けた技が役立ち、幸いしたのである。
 ついさっき、繰り広げられた決闘の情景が夢ごときに頭をよぎった。彼女はのっそりと立ち上がり、しばらく周囲を眺め渡した。
 一面にトウモロコシ畑が伸び広がっている。
 果てしなく伸び続くような光景を前に、彼女は気が遠くなるような眩暈に襲われた。歯を食いしばって歩を進め、線路の斜面を登り始めた。一歩ずつ登るたびに全身が疼き出した。
 やっと線路の脇にたどり着き、彼女は息を切らしながらレールに腰を下ろした。
 極に張り詰めた神経の糸が切れ、とっさに力が抜けていく気がした。反対側に目を向けたら、やはりトウモロコシ畑が広がりつつあった。
 遠くに蠢いている車の影らしきものが、おぼろげに映った。目測で数十キロはあるだろうと推定した。
 突如、汽笛が遠くから伝わった。
 彼女は振り向いて、だんだんと近付いてくる汽車の影を見据えた。白い煙を後ろへと靡かせつつ、黒い機関車が力みながら、長蛇の貨物車を引っ張って走ってきた。
 機関車が耳をつんざく汽笛を鳴らし、横から真っ白い蒸気を噴出しつつ、楊麗氷の側を走りぬけた。スピードはせいぜい、四十キロしか出ていないとおもわれた。
 彼女は線路脇の狭い小道に後ろ向きに立ち尽くし、しばらく貨車が通り過ぎるのを見守った。最後尾につながれた、係りが乗る小さな車両が近付いてきた。
 楊麗氷は貨車に平行して走り出した。
 最後尾の車両と並んだとき、彼女はスピードを上げて走り、車両の端の取っ手を両手で握り、体を浮かせて飛び上がり、デッキのタラップの下段に脚をかけた。
 三段のタラップをのぼり、デッキに立ってドアの小さなガラス窓越しに覗いたら、鉄道員制服姿の中年男性が長椅子に座ってうとうとしていた。
 彼女はそっとドアを開けて車内に踏み込んだ。
 ドアの軋む音に、男性がはっと目を開けて、彼女に不審な目つきを投げかける。
「誰だ?」
 男性は警戒に満ちた目つきで、突如降って涌いたかのような、あだっぽい女性に向かって問い詰めた。扁平な顔に不興を露にしたものの、敵意はなかった。
「すみません、列車で痴漢に襲われて、やむをえず飛び降りたんです」
 彼女は笑みを湛え、静かな口調で言いつくろった。
「そうでしたか?それは大変な目に遭いましたね」
 男性の顔から警戒の色が失せ、同情めいた言葉が口をついて出た。
「気持ちですので、ぜひご笑納ください」
 彼女はドレスのポケットに手を入れ、一枚の紙幣を取り出して手渡した。万が一のために、ポケットに常に数枚の札を入れていたので、着の身着のままの苦境から、わずかながら望みをつなげられた。
「どういたしまして、こちらにお坐りください」
 男性は遠慮がちに立ち上がり、長椅子に坐るよう勧めた。高貴な身分であるとは、一目でみてとれたからだった。
「ありがとうございます」
 楊麗氷は長椅子に腰を下ろした。
「どこにいかれますか?」
 男性は埃だらけの古い机から赤色の魔法瓶を取り上げ、湯飲みに少しお湯を入れ、さっと床の端にまいた。
「上海です」
「それはよかったですね。上海駅でしばらく停車するので」
 男性は湯飲みにお湯を淹れながらいった。
「よかったら、お湯でもどうぞ」
 男性は湯飲みを彼女に手渡した。
「ありがとうございます」
 彼女は笑顔でいいながら、両手で湯飲みを受け取った。
 男性は机の下から椅子を引っ張り出して坐り、業務日記帳を開いて記入しはじめる。
 彼女は息をふきかけながら、お湯を少しずつ飲んだ。
 お湯を飲み終え、彼女は椅子の背もたれに体をもたせ、目を瞑っておもいを巡らした。自分の正体は完全にばれたばかりか、軍統の追手がまたも必死に追いかけてくるに違いないのだ。わが軍が攻め入るまでは、なんとか無事に任務をやり遂げなくてはならないのだ。 
 彼女はいつしか夢の境地へ滑りいった。
「もうそろそろ上海駅ですよ」
 男の声に、楊麗氷ははっと目を醒ました。
 汽車はスピードを落としながら、駅のホームを通過していった。係りの男性が旗を手にしてドアを開けて出て、デッキに立ち尽くした。
 彼女は立ち上がり、十元札一枚を机の湯飲みの下におき、ドアに歩み寄った。
「ありがとうございました」
 彼女は男性に腰を折って暇を告げた。
「どういたしまして、気をつけて帰りなさい」
 男は顔をほころばせていった。
 汽車は駅から離れた、縦横に伸びたレールの一角でゆっくり停まった。
 彼女はタラップを降りて、振り向きざまに手を振り、颯爽とした足取りでレールを突っ切って進んだ。
 男がじっと、遠ざかる彼女の後姿に目を注いでいた。


十五

 租界の「アイリス」ホテルの八階のスイトルームの窓越しに、街の景色が広がる。
 三日前の宵の口、駅からタクシーを拾い、このホテルに直行してきたのである。貿易商社の名義で年中借りきり、特務機関の出張居住となっていた。彼女のようなトップレベルのスパイなら、年がら年中ホテル暮らしができたし、割高な遊興費も自由自在に費やせた。特務機関から支出される莫大な費用は、陸軍本部の特別機密費から捻出されたものだった。
 あいにく、ここ数日は空いていて、安全な部屋で泊まることにしたのである。連絡時の通話はすべて隠語で交し合ったので、外部に漏れる心配はなかった。租界で息を潜める限り、身の安全は確保できたのだ。
 二日間スイトルームにこもったまま、読書するなり、ラジオを聴くなりして過ごした。朝食はルームサービスをたのみ、昼食と夜食はレストランでとった。体の擦り傷もすっかり治り、心身ともに爽快な元気を取り戻した。しかし、一日でも特命仕事から離れると、かえっていいがたい寂寥感に襲われがちだった。
 三日目の午前、南京路の繁華街にあるデパートにいって、イタリアブランドのハンドバックと、三着の豪華なドレスを買い、店内をぶらついた。
昼食を済ませて部屋に戻り、楊麗氷は応接間のソファに腰を下ろし、ティ-テーブルにおかれた受話器を取り上げた。交換台の女の声が伝わり、番号を教えた。
 信号音が鳴るやいなや、鳥居の声が響いた。
「もしもし」
「あたしよ、今忙しいの?」
「今どこにいるんだ?連絡をくれないから、心配してたよ」
 鳥居の愚痴めいた声が耳をついた。彼女への懸念と愛情とに交錯した、焦れたい気持ちが伝わった。
「ごめんなさい、いつものように仕事で飛び回っていまして」
 彼女は静かな語調で謝った。もっとも信頼する友人だけに、相手に不安を与えた自責の念に駆られた。
「いや、こちらこそ。毎晩夜更かし続きで、『あかつき』を迎えてやっと寝入れるありさまだ。とりわけ身の回りの安全が大事なんだ。なにかおれが手伝うことでもある?」
 鳥居は恋焦がれる気持ちを露にした、自分の粗相に恥じらいを感じた。相手は特別使命を負わされ、懸命に奔走していることを忘れがちだったのだ。
「いいえ、ただあなたの声が聴きたくて……」
 彼女は甘ったるい嬌声をぽろりと言い漏らした。しかし、すかさず自分の甘えた表現にうろたえてしまった。
「おれもだ、きみにはやく会いたい。今晩一緒に食事でもしよう」
 鳥居はせっかちな口調で誘いをかけた。
「すみません、ここ数日は急用がありますので。来週なら会えるとおもいます」
 彼女は丁寧に断った。
「わかった。来週の電話を楽しみにしてるから、忘れないでくれ」
 鳥居は命令じみた語調でいいきった。彼女への一日千秋の気持ちを吐露してしまったことに、またも内心自責の念に捉われた。
「わかったわ、必ず約束を守ります」
 彼女は静かに受話器を戻し、弾みかけた心を抑えながら思いにふけった。
 彼の熱愛めいた言葉が、重々しく胸にのしかかった。今までは使命感に燃え盛り、純情も青春もかなぐり捨てて、やみくもに闇の淵を突き進んできた。水面下でのサバイバル戦場をがむしゃらに駆け抜けてきたし、恋などタブーには今生触れまいと心に誓った。社交の世界でわが青春を謳歌し、誇り高き愛を餌にして、数多の上流階層の男を虜にした。おもねる追随者のバラに囲われ、わがままに振舞ってはばからなかった。
 しかし、鳥居との巡り会いは、彼女をして胸の奥に閉じ込めてあった恋心を醒ましてしまった。彼の一途な情愛と、寛容な理解にすっかり心を打たれ、恋の芽吹きを抑えられずに、引きずられる自分を何とか押しとどめようともがいた。が、決然たる努めも、やがては徒労に終わるのが落ちだった。
 ふと、鳥居の隠語にはっと気がついた。そろそろ破竹の勢いで攻勢を仕掛ける大事な時期だけに、私情に絡まれている自分の情けなさに忸怩たる思いをした。   
            
 優雅な旋律が漂い流れ、抱き合ってダンスに興じる豪華な男女らを柔らく包み込んだ。異彩に躍り出す光が目まぐるしく飛び交い、興奮じみた豪華な面々を彩らせる。
 浩雄は楊麗氷のしなやかな腰を抱え、右手で華奢な手を握り、軽やかなステップで舞い込んだ。彼女は上体をやや後ろへそらせ、彼の腕に身体をあずけ、ときおり色ッぽい流し目を投げつつ従っていた。
 ここ二ヶ月余、毎週末一日二泊で上海に出向いては、彼女との情交にうつつを抜かした。彼女に愛撫される究極な一時は、彼をして魂の蕩けるような甘美な境地に浸りきり、至上の幸せや快感を堪能した。彼はもはや自力では抜け出せないほど、愛の淵にどっぷり浸かってしまった。たとえ死んだとて、彼女のためならすべてを捧げる覚悟を決めていた。
 数日前、彼女から真実を聞かされたとき、彼は一瞬戸惑いを隠せなかったが、即刻笑顔で快諾したのである。月給の三倍にのぼる手当てに、機密情報を渡すたびに弾まされる多額の報酬に、彼は嬉々としてうなずいたのである。自分の売国行為がいかなる結末をもたらすか、彼は誰よりもはっきり意識していた。
 しかし、彼は自分なりの理念に燃えていて、自己弁明の立場に自惚れた。政府の上層部は、蒋介石総統をはじめとする抗日派と、汪精衛をはじめとする親日派とに分かれ、水面下では激しい権力闘争が繰り広げられていた。側近として総統を慕う一方、親日派への思いの丈も募るばかりであった。むしろ、汪精衛がかかげる「曲線救国」との方針に首っ丈になった。万が一の場合、親日派の懐に飛び込みたいと腹をくくった。上海はせいぜい数ヶ月で攻め落とされ、南京もやがては陥落され、国民政府が内陸へと撤退を余儀なくされざるを得ぬ苛酷な現実を、上層部の機密を把握する彼は知り尽くしていた。
 汪精衛が新たな国民政府を樹立しようと企み、日本政府が全力でバックアップしていると、彼女から耳打ちされたとき、彼は驚きとともに新たな期待に胸を震わせた。親日派の動きはうすうす気付いたものの、これほど目前に逼っているとはおもいもよらなかったのだ。その暁には、新たな政権に加わり、要職についたらとの彼女の提議を、彼は頭を縦に振ってすんなり受け入れた。
 舞曲が終り、一息入れるためにバーへと足を向けたとたん、ソファの一角に突っ立って自分をねめつける不気味な剣幕に、楊麗氷は背筋を流れる寒気を覚えた。
 グレーと紺色の背広姿に、ベレー帽を頭に載せたこわもての二人の男が、ゆっくりと彼女に向かって歩を進めるのだった。
「浩さん、はやく租界のアイリスホテルに行って!」
 彼女は命令調で不審な表情を浮かべる浩雄を促し、踵を返して後ろへと足早に歩き去った。二人の男が小走りに追ってきた。
 そのとき、楊麗氷は右手をドレスの左脇に突っ込み、小型のブローニングを取り出し、燦然たる光を振り放つミラーボールに向けて引き金を引いた。
 くぐもった音とともに、ミラーボールが粉々と砕かれ、ダンスホールはとっさに暗闇に沈んだ。女性たちの甲高い悲鳴が鳴り響き、ダンスホールは修羅場と化してしまい、人々は頭を抱えて出口へ殺到した。
 壁のブラケットから漏れさす薄暗い光に、逃げ惑う人々の狼狽振りがおぼろげに映された。ソファやテーブルが倒され、倒れた女性の泣き声がこだまし、暗いホール内は殺伐した雰囲気に包まれた。
 楊麗氷は人垣に紛れ込んで、出口へと駆け込んだ。後ろからピストルを手にした二人の男が逃した獲物を探して、盛んに首をめぐらしていた。
 人波に押し出されるようにして、出口を飛び出した彼女は階段を駆け下りて、一階のロビーを突っ切り、玄関ドアを抜け出した。
数台の乗用車がエンジンをかけたまま、主人の到来を待ち侘びていた。自分の車は駐車場に入れていて、もはや構うところではなかった。
 楊麗氷は一台の乗用車の運転席に近寄り、悠然とタバコをふかしている運転手に拳銃を向けた。
「車を降りなさい」
「誰だ、お前は?」
 運転手は驚いた表情で、じっと彼女をみやる。
「速く降りなさい」
 彼女は怒りに満ちた表情で叫んだ。
「おい、お前気は確かか。これは市政府秘書長の車だぜ」
 運転手は怒りを露にして言い返す。
「死にたくないなら、速く降りて!」
 彼女は拳銃の銃口を、運転手のこめかみに当てて言い放った。
「わかった、わかったよ。おれは死にたくないさ」
 運転手はすごすごとドアを開けて降りてきた。
 彼女は素早く運転席に飛び乗り、耳をつんざくタイヤの摩擦音を響かせて走り去った。
 玄関ドアを飛び出た二人の男がその場に突っ立って、ぼやけた闇に消え失せる車の後ろを眺めていた。

 一路租界へと走っていた彼女は、眼前に現れたセラトンホテルに右折して入った。車寄せで車を停めて降りると、ボーイがうやうやしくキーを受け取り、番号札を手渡し、運転席に乗って駐車場に向かって走り去った。
 彼女は待機している最前のタクシーに歩み寄り、後部座席に乗り込んで租界へ速く走ってくれといった。
 タクシーは発進して大通りに出るや、スピードを上げて疾走した。制服姿のドアマンが怪訝な目つきで眺めていた。
「アイリス」ホテルの玄関を踏み入り、カウンターに近寄った。慇懃な姿勢で迎える支配人に、浩雄という人がきたら、八階のスイトルームに通すよう頼み、エレベーターに向かった。
 部屋に入るなり、ドレスや肌着をソファに脱ぎ捨て、浴室に駆け込んだ。
 シャワーを浴びて、バスローブに身をくるみ、ヘアドライヤで髪を乾かせ、きれいに梳かした。シルクのガウンに着替えたところ、ドアにノック音がした。
 ドアを開けると、浩雄が真っ青な顔で入ってきた。
 ソファに重い腰を落とすなり、しばらく呆然と彼女をみつめるのだった。
「びっくりしたんでしょう」
 楊麗氷は冷静な表情で彼を見た。露な胸が明かりに白っぽく映え、彼の目を引いた。
「しかし、きみの凛々しい姿には胸を打たれたよ。銃をぶっ放して、まんまと逃げ失せる雄姿はみごとなもんだった」
 彼は銃を握ったことすらない自分に後ろめたさを覚えながら、彼女を褒めちぎった。
「このような危険は日常茶飯事よ」
 彼女は平然とした口調でいった。
 眼前の愚かな文人を心底蔑んだが、とっておきの価値に引き込まれる誘惑を抑えきれなかった。反吐を吐きたい気持ちを抑えながら、彼女は渾身の 色香を漂わせ、妖艶な容姿で相手を翻弄させ、意のままに操った。
週末に近付くと、身体を寄せ合わざるを得ぬ嫌気に駆られつつ、またもや甘美な美食にありつける魅惑に心を躍らせた。来るたびに、彼は何らかの価値ある情報を彼女に手渡すのだった。
「あいつらは軍統の特務に違いない、おれはやつらを一目見ただけでわかるさ。戴笠のやつ、いい気になりやがって。やつは総統の飼い犬にすぎん。総統の前では尻尾を振り撒き、その威光にあやかってやり放題さ。部下の女性らを手当たり次第てごめにしやがって、やつは鬼畜そのものだ。軍部から政財界に至り、やつを毛嫌いしない者がいない。まさに極悪閻魔そのものさ。やつは遅かれ早かれ地獄行きさ」
 浩雄は口をきわめて罵った。
「あたしはすでに軍統に睨まれているの。でも、あなたは絶対ばれてはいけないわ。もうこれからは上海にこないで、危険極まりないわ」
 彼女は立ち上がり、彼のソファの肘掛にお尻をあずけ、片手で彼の頭をなでてやった。
「きみと離れていたら気が触れそう。きみなしで生きることは考えられないんだ」
 彼は首を回して、彼女をみつめながらつぶやいた。
「ね、お願いよ。もしもあなたがばれたら、それこそ地獄行きなの。わが軍が上海を占領するまで、しばらくの辛抱よ。これは影佐機関長からの命令なの。勝ち鬨はもうすぐ目の前に迫っています。そのときになったら、ずっと一緒に付き添うわ」
 彼女は心ばかりのことを言い添えた。そのときになったって、彼は依然として、彼女のために甲斐甲斐しく情報運び屋として働くべきであり、それこそ彼が生きる唯一の価値であるからだ。
「ま、しようがないな。さて、情報はいかにして送るんだ」
 彼はやむを得ぬ表情を露にして訊き返した。
「こうすることにしたの。つまり、あなたが信頼できる者を使わせて、『フィナレ』というコーヒー店でうちの者と落ち合うの。詳しいことは後日連絡するわ」
「わかった、君の連絡を待つことにしよう」
 浩雄は気がぬけた顔で応諾した。
「レストランにいって食事しましょう、あなたが好きなフランス料理で」
 彼女は嫣然と嬌笑を振り撒きながら、彼の頬にそっと口つけした。彼は彼女の腰を抱え、厚い唇を押し付けた。二人はしばらくキスを交し合った。
 浩雄はやおら腰をあげ、彼女を抱き上げ、足早にベッドルームへ入っていった。




煉獄の日々

                
十六

 本皮の長椅子に反り返り、戴笠は沈んだ顔で耳を傾けていた。情報部長の僑盟が立ち尽くして、慇懃な表情で言いまくった。
「……、あの女スパイはなかなかのやり手です。ダンスホールで追い詰め、捕まえようとしたとたん、眼下からまんまと逃げ失せたのです」
 一部始終を報告して、畏まった姿勢で上司をみつめる。
「まったくふがいないやつらだ。一人の女に二人かかっても駄目だって、どうしようもないバカどもだ。問題は頭から相手を見下したからだ。女だからって軽蔑しやがって。相手は正真正銘のスパイだぜ、超一流のレベルを備えてるんだ。例の著名な川島芳子って知ってるだろう。彼女だって、楊麗氷の足元にも及ばないぜ。川島芳子ったら、せいぜい満州国の后を護送して、長春に送り届けたのが逸話だ。功績らしい功績ったら、みみっちい情報くらいだ。ただ虚名を馳せただけなんだ。わかっとるか、楊麗氷を一日も速く捕らえない限り、おれたちは頭が上がらないさ」
 戴笠は眉を吊り上げて、部下を睨み返した。
 部下らの間抜けぶりに、心頭怒りが発してやまなかった。総統に御目見えするたびに、跪いて自分を罵るしかなかったのだ。軍統のトップになって以来、このような辛い目に遭わされるのは初めてであった。
 しかし、数百人の女スパイを抱えながら、一人とて楊麗氷に匹敵する人物はいないばかりか、その足元にも及ばない有様である。なんとしてでも、彼女を捕らえてやらなければ。彼女のあでやかな美貌を頭に描いたとたん、心がむずむずしてならなかった。彼女をして自分の前に跪かせ、命乞いしながら自分の懐に飛び込む姿を妄想した。彼女がわが方に寝返りし、敵の情報を持ってくるなら、それに越したことはないのだ。甘酸っぱい夢を脳裏に描きながら、おもわず涎をたらしてしまった。
「この前、夏梅の活躍で、列車のコンパートメントに追い込んだものの、やはりすんでのことに逃げられました。それがどうしても腑に落ちません。大の男が目をつぶされたばかりか、夏梅は激闘の末、絞殺されるところでした。まったく考えられないほどの恐しい女です」
 僑盟が口を歪めて言いまくった。
「夏梅って?」
 戴笠がうろたえた表情で訊き返した。
「例の、薛雷中将の身辺に潜り込ませたスパイです」
「あ、あの女か」
 戴笠はやっと思い出した。
 二年前に、自分の目にとまった、妖艶な女子を数日間弄んだ情景が浮んだ。部下はむろん、しょっちゅう女を取り替え、女体を通り越した数え切れないものだけに、ほとんどは記憶から遠のいたままだった。
「ま、きみが陣頭指揮をとって、力を入れてくれ。人数をもっと増やして、徹底的に洗い出すんだ。これは、今の君にとっては死活の問題と覚悟してくれ」
 戴笠は目を瞠って言いつけた。
「かしこまりました、さっそく手配します。それに、もう一つ問題がありますが」僑盟は上司の顔色を伺いながら続けた。「二十七軍の程峰副軍長が先日、一人の女性を同伴して吴淞口防御陣地を見学したそうです。マレシアの有名な実業家の楊銘先生の令嬢だと名乗っていましたが、調べた結果、偽者であることが判明しました。それところか、その女性こそ楊麗氷ということがわかりました」
「なんだって?まったく驚きの連続だ。実に大胆不敵な女だな、本当に敬意を表したい気持ちで一杯だ。な、あれほど凛とした女性像が、なんでわれらが陣営には生まれてこないんだ。まったく呆れたもんさ」
 戴笠は馬面に苦笑いを浮かべて、頭を横に振り振りした。
「あの程峰という者に面と向かって、確かめるべきだとおもいますが」
「じゃ、安祈副局長ときみが出向いてくれ」
「やはり、閣下みずから、お出でになさった方がよろしいかとおもいます。あの男は気立てが荒っぽいことで有名ですので、われわれの手には負えません」
 僑盟は顔に怖気を露にした。
「よし、わかった。おれがじきに出向くことにしよう」
「これは軍法にかけてもおかしくない機密漏洩罪です。ブタ箱に閉じ込めるのは必至ではありませんか」
「もちろんさ。しかし、彼はかつて日本軍と戦った勇猛果敢な将軍で、総統からも寵愛されてる。われわれとしては、責任追及名義で追い立てるしかないさ。後は総統の一存に任せるだけのことだ」
「それに、日本軍の『梅機関』という特務機関が、じきに当市で正式に発足するとのことですが」
「そう、かの影佐昭禎という大佐は中国通で、諜報専門家としても名を知られてる。わが方にとっては手強い相手だ。これからはサバイバル対決が長期にわたって繰り広げられるだろう。決死の覚悟でのぞむべきだ」          
 戴笠は顔を曇らせた。
 突如、電話ベルが鳴り響いた。僑盟が受話器を取り上げる。
「もしもし、……、ちょっとお待ちください」
 僑盟が両手で受話器を手渡す。
「はい、戴笠です。え、……なんですって……、そうですか。わかりました、さっそく手配いたします」
 戴笠は受話器を戻し、しばらく考え込んだ。
「なにかあったんですか?」
 僑盟は恐る恐る問いかけた。上司の深刻な表情から、ただならぬ出来事が起こったと察した。
「またも大変な事件だ!なんてことだ!」
 戴笠は立ち上がり、室内をぶらつきながら思案に暮れた。


十七

 秋空の昼下がり、イギリス国旗を靡かせつつ、一台の乗用車が戦乱で殺伐とした市街地を駆け抜けた。
 後部座席にはイギリス駐南京大使館の大使が乗っていた。仲裁立場にある欧米の関係国は中立対象とみなされ、脅威にさらされることはなかった。
 突如、上空に現れた日本軍戦闘機が急降下し、大使の車を目掛けて爆撃した。轟音とともに乗用車は大破し、炎に包まれた。重傷を負った大使はすかさず救出され、病院へと搬送された。
 重大事件は、瞬く間にゴシップと化して街中に広まった。
 
 執務室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 戴笠が両手を後ろへ組み、室内を行きつ戻りつした。数人の幹部が曇った顔をうつむけて坐っている。
「しかし、国際世論もはばからず、日本軍がイギリス大使の車を爆撃するなんて、常識では考えられないよ」
 情報部部長の僑盟が理解に苦しむ表情で切り出した。他の幹部は、じっとトップの顔を窺っている。
「実は、おれも後で知ったことだが、あの車には総統が同乗して戦線視察に赴く予定だったんだ。しかし、急用でスケジュールをキャンセルし、すんでのことで助かったわけだ。このような極秘情報を敵が入手できたのは、上層部に内通者が潜ってる証ほかならない。総統はすこぶるご機嫌斜めで、全力をつくして犯人を検挙するよう指示された。よく聴け、こんどこそ心を引き締めて、速やかに犯人を捕らえるんだぞ。もしもの場合、おれは地獄に落とされるかもしれんが、お前らも道連れにするから覚悟をきめるんだぜ」
 戴笠は怒りを露にして喚き散らした。一同はこうべを垂れて、視線を床に這わせた。

 広々とした執務室は淀みきった空気が漂っている。明るい窓越しに、土砂降りの雨が横殴りに吹き付ける。
 軍事委員会副委員長の白崇禧はソファに反り返り、翳りが宿る目つきでじっと窓外を狙う。
 向かい側に坐っている戴笠は、馬面に笑みを浮べて副委員長をみつめていた。
「大変心苦しいことですが、総統のご指令に従いまして公務執行に当たる身のほどでして、なにとぞご了承賜わりたくぞんじます」
 戴笠は静かな口調で切り出した。軍の最高指揮者の一人である要人に、自ら尋問せざるを得ぬ辛さを抑えながら、面は平静を装った。
「ご存知のように、この度の爆撃事件は、もっぱら総統を狙っての仕業でございます。つきましては、もし心当たりがございましたら、ぜひおっしゃっていただきたくぞんじます」
 戴笠は馬面に慇懃な表情を浮かべた。
「おれに心当たりって?おれを疑ってるか」
 白崇禧は怒気を湛えた目つきで、彼をにらみつけた。
「とんでもございません、言葉が足りなくてすみません。ということは、あの日に在席なさった方々の中に、不穏分子とおぼしき者がいたなら、おっしゃっていただければとおもいまして」
「おれは戦局のことで頭が一杯なんだ。そこまで頭を使う余裕はないぞ。確かに、総統閣下がイギリス大使の車に同乗されるように勧めたのは、このおれだ。その方が安全だと思ってからの心遣いだったんだ。こういう大変な結末になろうとは思いもよらなかった。在席した者を疑うなら、きみがじきに面と向かって責めな。それこそきみの職責ではないか」
 副委員長はむっとした表情で言い返した。 心は懸念と不安とで渦巻いてやまなかった。
「まったくおっしゃったとおりです。これから一人ずつ、じきにお会いしてお話しするつもりです。総統の暗殺を企てた陰謀を暴いて、必ずや犯人を検挙する所存でおります。本日は大変失礼させていただきました」
 戴笠は笑顔で立ち上がりながらいった。

 戴笠は机の書類に釘つけになりながら、側近の僑盟の報告を聞いていた。
「当時、在席した方々を再三洗い出したところ、四人の要人はなんら疑惑がないことが判明しました。残りの二人は、機要室の浩雄室長と、局長の李境ですが、もっとも疑惑が濃厚だった者は浩雄です。当年、日本に留学していて、現職についてからも親日派との付き合いが密接で、おおやけに日本側の肩を持つ言論を振り撒いています。私生活も大変淫らで、数人の女生と関係をもっているそうです」
 僑盟は厳粛な表情で報告した。
「やつはとうとう馬脚を現したのか。よし、これからは四六時中やつを見張るんだ」
 戴笠は立ち上がり、馬面を紅潮させ、拳で机をしたたかに打った。
             
 天地が揺るがさんばかりに、砲声が絶え間なく轟き続けた。戦地近くの市街地は砲撃に見舞われ、建物が壊され、焼け爛れた跡地から煙がもくもくと沸き起こる。戦乱を逃避する車や人波が大通りを埋めつくし、惨憺たる修羅場と化していた。
 イギリス大使が乗った車の爆撃事件以来、楊麗氷は市内や租界のホテルを転々としながら息を潜めていた。軍統の特務が群をなして、血眼になって追っかけてくる足音を背中にひしひしと感じた。
 浩雄からの情報のお陰で、世間をあっと驚かせる大事件を引き起こす算段がふいになったことに、はなはだ遺憾の念に捉われた。
 この日の昼下がり、ハンドバックを肩にかけ、セラトンホテルを出てタクシーに乗り、繁華街の錦江デパートに出向いた。
 数日間もホテルで缶詰状態になり、読書やら、新聞やら、ラジオなどで暇をもてあました。常に戦局に関する報道に耳を傾けたし、遅々としてはかどらない戦況に、苛立ちを覚えてならなかった。
 戦乱時勢とは裏腹に、繁華街は乗用車や、人波でごった返した。
 デパートの前でタクシーを降りて、楊麗氷は颯爽たる足取りで玄関を入った。水色のチヤイナドレスがみごとに身体をフィットさせ、気品に溢れた美しい姿を浮き立たせる。
店内は買い物客で賑わっていた。
 彼女は階段を歩き、二階に上がっていった。紳士服やレディ服の売り場が連なり、派手な身なりの紳士や淑女の連れの姿が目立った。
彼女はお気に入りのチャイナドレスの売り場に歩み寄り、ハンガーにかけられた色とりどりのドレスに釘つけになった。すでに数十着を持っているが、流行のものを新調するつもりだった。
 若き女性店員が近寄り、笑顔で話しかける。最新の流行や、年齢別の色彩や模様など、詳しく説明をしてくれるのだった。
 彼女は耳をかしながら、鋭い目を周囲に光らした。この世界に飛び込んでから身に染みた特質で、どことなく忍び寄る危険に神経を尖らした。
ふと、向かい側の紳士服売り場に、人垣に紛れている一人の背広姿の男が目に映った。紳士服を買う素振りは不自然で、一目で追手であると見透かした。
「お手洗いはどこですか?」
 彼女は静かな口調で訊いた。
「三階に上がって、右の曲がったところです」
 店員は笑顔でいった。
 彼女はハンドバックを手にして、足早に階段に歩み寄った。
 背広姿の男が早い足取りで追ってきた。三階への階段を二段飛びで上り、右に曲がったら女性お手洗いの表札がみえた。
彼女は小走りで中に飛び込み、個室のドアを開けて入った。
 ハンドバックを扉の後ろのフックにかけ、さっさとドレスを脱いでフックに掛けた。白のブラウスに紺色のスカートの姿に豹変した。非常事態に備え、常に二セットの衣類に身を固めていたのだ。
 バックを持って個室を離れ、手洗いの鏡の前に立った。
 バックの中から睫毛やパーマ状のかつらや、化粧道具を取り出した。財布を取り出し、財布の中から紙幣を抜いてスカートのポケットにおさめ、財布をバックに戻した。睫毛やかつらをつけはじめた。
 その間、相次いで二人の女性が入ってきて、個室に入るのだった。
 精巧な小箱を開け、ファンデーションで顔を塗りたくり、頬紅をつけた。口紅を取り出し、厚く唇を塗り直した。
 鏡には、さっきとはまるきり異なった、厚化粧の容貌が映り出された。化粧道具をバックに入れ、脇に置いてあるゴミ箱に押し込んだ。
 しばらくして、一人の女性が出てきて、蛇口に近寄って手を洗い、バックからハンカチを取り出して手を拭き取り、出ていくのだった。 
 楊麗氷は後ろについて出てゆき、取り澄ました顔で階段のほうに歩いた。
 近くに突っ立って、前の女性に目を凝らしていた男が首を回して、じっと彼女をみつめる。戸惑った表情を露にして、視線を手洗いのほうに向けるのだった。
 楊麗氷は従容として階段を降りていった。二階に降りて、彼女は足を速めて一階へと飛び降りていった。
人垣を縫うようにして玄関を飛び出すと、やや広い歩道の脇に数台のタクシーが並んでいた。最前のタクシーに乗り込んで、はやく車を出せと言いつけた。
 初老の男が怪訝な目つきでバックミラーを一瞥し、車を発進させた。車は急発進して歩道を降り、道路を走る車の列に紛れ込んだ。
 振り向いてウインド越しに眺めると、背広姿の男が玄関ドアを飛び出して、頭を左右に巡らして狙いの標的を探っていた。
 彼女は冷笑を浮かべながら、車窓を流れる街の景色を眺めた。

        
十八

 庭付きの白い二階建てのドアが開かれ、使用人の三十代の女性が買い物かごを腕に下げて出てきた。十数メーター先の鉄の扉に歩み寄り、扉を開けて出て、右折して歩きはじめる。
 道路脇に停まっていた黒塗りの乗用車から一人の男が降りて、女の後ろをつけていった。
「阿青」
 男は端正な顔に笑みを浮べ、女の愛称を呼んだ。女ははっと振り向いて、色気を湛えた顔に恥じらいを滲ませる。
「びっくりさせないでよ」
 女は品をつくっていった。
「買い物にいく?」
「そうよ、これをみればわかるでしょう」
 女は嬌笑を湛えて彼を見上げる。
「あの喫茶店に入ってお茶でもしよう」
 男は彼女の腕を抱えながら囁いた。
つい一週間前に女をなんぱしたばかりで、二人はたちまち愛の温もりに浸った。
「二十分ならかまわないけど」
 女は色目を投げかける。
「わかった」
 情夫は彼女の腰に手をまわし、近くの喫茶店に向かった。
 二階の階段を上り、個室のドアを入ったとたん、女は驚愕した顔で男を振り向いた。
 一人の黒い背広姿の中年男性が、じっと彼女をみつめていた。
「どうぞ、お坐りなさい」
 中年男は顔をほころばせて声をかける。女はかごを下げたまま、しぶしぶと椅子に腰を下ろした。
「こちらは、軍統の情報局の僑部長さんだ」
 情夫は上司を紹介した。
「このたび、ぜひあなたの力を貸してほしいです。後ほど彼から詳しく話すことになるが、本日から浩雄のすべてを調べてくれ。もちろん、報酬はたっぷり払うつもりだ。浩雄は敵と通じた国賊だ。彼は遅かれ早かれ、軍法により懲罰されることになる。だから、この邸を出入りする者や、彼の不信な行動などについて見張り、随時にこの人と連絡してくれ。ただし、絶対相手に気付かれないようにしてもらいたい。もしも裏切った場合は、きみはもちろんのこと、きみの家族も皆殺しにするからな。大儀を貫き、賢明な行動をとってもらいたいんだ」
 僑盟は厳粛な表情を滲ませて言い含めた。
「かしこまりました」
 女は恐怖に満ちた目を床に落としながら、小声で答えた。
 軍統の閻魔殿のことは誰でも知っていて、まさに自分が狙われるとは夢にもおもわなかったのだ。やっと、情夫の罠に引っかかった自分の情けなさに身を震わせた。
「じゃ、おれはさきに失礼するから、よく話し合ってな」
 僑盟は立ち上がり、つかつかとドアを押して出ていった。
「阿青、ごめん、おれは君が好きだ。このような任務に当たらなかったら、きみに巡り会えることはなかったはずさ」
 情夫は彼女の側の椅子に腰を下ろしながら、慰め口調でいった。
「あまりにもひどいわ」
 女の頬を涙が伝った。
「ね、おれを信じてくれ。この任務が終わったら、おれと一緒に暮らそう」
 情夫は涙に暮れる彼女の肩をそっと抱き寄せた。

 四日目に、使用人からの情報が僑盟の手元に届いた。
 侯越という三十代の男が訪れ、浩雄と密談したという。さっそく、数人の特務が昼夜を問わず、侯越を尾行した。
 数日置きで、侯越はコーヒー店「フィナレ」を出入りした。特務は客に扮して入り、少し離れたテーブルに坐って監視した。
 侯越は店に入るなり、ベレー帽をハンガーにかけ、テーブル前に坐り、注文したコーヒーを一人で黙々と飲み終えると、店を後にするのだった。疑わしいところは見当らなかった。
 しかし、監視を続けて数日経ったある日の午後、興味深いことを目の当たりにした。
 この日の夕方、いつもと変わらず、侯越は一人で新聞を読みながらコーヒーを啜っていた。
 このとき、一人の背丈の低い男が入ってきて、ベレー帽をハンガーに掛け、窓脇の椅子に腰を下ろした。なんと、色や柄がまったく同じものであった。
 しばらくして、侯越が席を立ち、ハンガーに近寄り、背丈の低い男のベレー帽をとって頭に載せ、出て行くのだった。
「やつらは同様のベレー帽で、情報交換してるに違いありません」
 特務は僑盟に報告した。
 僑盟はしばらく沈思し、ゆったりした口調で指示を与えた。

 雨模様のある日の午後、コーヒー店の周囲の路地に数人の人影がたむろしていた。すでに三日間にわたり、十数人の特務が周囲の主な路地で代わり番こに張り込んだ。
 夕方に近付く頃、例の背丈の低い男が自転車で姿を現した。路地を曲がったとたん、一人の男が自転車の前に急に飛び出した。男とぶつかってしまい、自転車の男は地面に自転車とも転倒した。したたかに頭を地面にぶつけられ、背丈の低い男は頭から血を流して気を失いかけた。ぶつかった男はすかざす相手を助け起こし、お詫びを連発するのだった。
 ちょうどそのとき、一台の車が通り過ぎようとした。男は車の前に両手を広げて立ちはだかり、運転席から頭を車窓外に突き出して罵る運転手に助けを求めた。
 たちまち人垣が幾重も車を取り囲んだ。二人の男が運転手を脅かし、ドアを開けて負傷者を後部座席に押し込み、男も乗り込んで病院へと走っていった。
 自転車の男が転倒したとき、一人の男がベレー帽をとって素早く路地の裏へ走り去った。帽子の裏地を剥がしら、中から紙が出てきた。紙を伸ばして目を走らせながら、コーヒー店に向かって歩いた。
 男は取り澄ました顔でコーヒー店に入り、ハンガーにベレー帽を掛けて椅子に坐りこんだ。寄ってきた給仕にコーヒーを注文して、周囲を見回した。壁際のテーブルに、侯越が新聞を広げている。               
 しばらくして、侯越がおもむろに腰を上げ、コーヒー代をテーブルに置き、ハンガーに歩み寄り、男が掛けてあったベレー帽をとってドアへ向かった。
 ドアを押して出た瞬間、侯越は驚きの目を瞠って立ちすくんだ。数人の特務が前に立ちはだかり、一台の乗用車が道路脇に待機していた。
 その夜、酒宴から帰宅した浩雄は乗用車を降りて、自宅の鉄扉に手をかけたところ、肩を叩かれてはっと振り向いた。二人の男が突っ立って、睨みをきかしていた。

 タクシーの後部座席に身体をもたせ、楊麗氷は車窓外を流れる街の夜景を無心に眺めた。
 繁華街の広東料理屋の個室のテーブルを挟んで、駒沢少将に近況報告をした。
 戦局に話題が及び、敵の頑強な抵抗に阻止され、侵攻作戦がはかどらないと聴かされた。激烈極まりない戦は延々と続き、膠着状態に陥ったままである。別れ際に、身の安全に気をつけなさいと念を押された。
 租界の静かな道路を走り抜け、タクシーは「アイリス」ホテルの車寄せで停まった。
 楊麗氷は代金を払い、車を降り立った。
 突然三人の屈強な男が現れ、彼女を取り囲んだ。
 彼女は沈んだ顔で男たちを見回し、なす術無しに立ち尽くした。租界までに闖入してくるとは、おもいもよらなかったのだ。
 一台の黒塗りの乗用車が前で急停車し、二人の男に腕を引っ張られるようにして、彼女は後部座席に押し込まれた。
 耳をつんざくタイヤ音を響かせながら、車はスピードを上げて走り去った。
 ドアマンが唖然として表情で見守り、やっと気付いて玄関ドアを押して入った。


十九

 急ブレーキ音を響かせつつ、乗用車はやっと停まった。
 車を降りたら、周りはひっそりと暗闇に沈み、聳える大木や、眼前の建物がおぼろげに浮んだ。
 二人の男に挟まれ、楊麗氷は重い足取りで歩いた。ドアに近寄り、一人が鉄のドアを開け、もう一人が彼女を後ろから押した。玄関に入り、下に伸びる階段を降りていった。
 地下室の正面には丸太が天井を貫き、ごつごつしたコンクリート壁伝いに、鞭や棍棒やかせなど様々な刑具がかけられている。
 壁の一角には大きな鉄製の火鉢が置かれ、炭火が赤々と燃えさかっていた。
 口髭を生やした男が彼女の腕を引っ張って丸太に近寄り、彼女を丸太に立たせ、ふとい縄でがんじがらめに縛った。
「どうだ、ご感想は。お前さんも、この日がくるだろうとおもってたか。さ、洗いざらい吐き出すんだぞ」
 扁平な顔の男がにやにやしながら言い放った。楊麗氷は口を閉ざしたまま、じっと男を睨んだ。
「お前のために、おれたちがどれほど苦しんだかわかっとるか」
 もう一人の細面の男が怒鳴り散らした。
「さ、白状しろ」
 口髭男が背広を脱いで、つかつかと壁に近寄り、鞭を手にして戻った。
「なんで黙っとるんだ、この尼」
 口髭男が手中の鞭を振るった。くぐもった音が響き、ドレスの胸辺りが引きちぎられた。激痛に気が遠くなりかけ、彼女は唇を強く噛んだ。
 扉が軋む音がこだまし、かき色の軍服姿の女が現れた。大尉の肩章をつけた上着に、黒いネクタイをし、妖艶な顔に冷笑を湛えて彼女を睨みつける。
「あら、坂田雲子さんじゃないの。ここでお会いできるとは、夢にもおもわなかったわ」
 妖艶な顔に冷笑をこぼしつつ、夏梅が彼女を睨み付ける。楊麗氷は沈んだ表情で相手をみつめ返した。
「あなたは実に立派な妖精よ。ね、あなたはどんなお手並みで高官たちを骨抜きにしたの。あたしにも教えて頂戴。あなたに師事するから」
 夏梅は冷やかに揶揄した。楊麗氷は鋭い目つきで睨んだ。
 三人の男がじっと二人のやりとりを静観していた。
「ね、聴いているの。あの列車の中で、あなたのこぶしにぶたれ、死ぬかとおもったわ」
 夏梅はさらにいいくさした。
「女同士の立場を尊重したいからよ、哀れな存在は殺すに値しないわ」
 楊麗氷は冷やかな目で睨みつつ言い返した。
「ま、なんて崇高なヒューマニストなの」
 夏梅は嬌声を上げて揶揄した。
「こいつには焼きを入れるしかないさ」
 口髭男が火鉢に近寄り、挿し込んである火箸を取り上げて、にやにやしながら楊麗氷に近付いた。
「さ、早く白状しなさい。さもなければ、きれいな顔が台無しになるわ」
 夏梅が冷やかにあざ笑った。
「はやく吐きな!」
 口髭男が真っ赤に焼かれた火箸を、彼女の顔に近づけつつ吠えた。楊麗氷は背筋を走る悪寒に襲われ、おもわず目を瞑った。
 突如、鉄のドアが軋み、僑盟が大股で近付いた。
「バカ野郎!麗人に手荒い真似をするなんて、何様のつもりだ!」
 僑盟は顔を歪め、三人の男を怒鳴りつけた。
「さっさと解いてやらんか!」
 さらに大声で怒鳴った。
 口髭男が火箸を火鉢に投げ戻し、近寄って彼女を縛った縄を解きはじめる。
「これは失礼しました。さ、上にいきましょう」
 僑盟は顔をほころばせて、うやうやしくいった。夏梅がむっとした顔で先を歩き出した。
 楊麗氷はゆっくりと歩を進めた。相手が懐柔策に打って出る常套手段を見透かしたのだ。

 夜食を済ませ、楊麗氷はソファに反り返って目を瞑った。打たれた胸がひりひりと疼き出した。
 静かな廊下を歩く音がこだまし、ドアが開かれた。僑盟と一人の若い女性が姿を現した。
「すみません、辺鄙なところで、あまりおいしい食事は出せなくて」
 僑盟は相好を崩して切り出した。
 秀麗な容貌の女性は壁際にある机の前の椅子に坐り、タイプライターをいじり出した。さらに、キャビネット上に置いてある録音機にスイッチを入れる。
「ご馳走様でした」
 楊麗氷は姿勢を正し、静かな語調で答えた。鯉姿蒸し、青梗菜炒め、牛肉高菜炒めなど、料理はそれなりに美味かった。
「さて、もう時間も遅いので、さっそく本題に触れたいとおもいます。ここにお招きした理由はいうに及びません。あなたのような優れた才媛には余計な話は無用です。ここで一つ確かめたいですが、江陰作戦機密盗撮や、インギリス大使の車両爆撃事件などは、あなたによる仕業でしょうね」
 僑盟は狡猾な目を回しながら問いかけた。
「そうです」
 楊麗氷は短く答えた。
「はたして女傑の気魄に満ち溢れていますね。しかし、この二つの重い罪状からしても、当方の軍法にのっとりましたら、厳重な処罰は免れないことを率直にもうしあげざるをえません。それに、あなたはほかにも余罪が多々あること、すでに把握している通りです。残念ながら、われわれとしては国益を守るべく、しかるべき軍法にのっとって行動するしかありません」
 僑盟は一転して厳しい顔色を浮べ、鋭い目つきで彼女をみつめる。
「この世界に飛び込んだときから、わたしは自分のすべてを国に捧げた覚悟でまいりました。今さら命乞いするつもりは毛頭ありません」
 楊麗氷はあだめく顔に悲愴感を湛え、決然とした口調でいった。
「さすがに豪快で勇壮なヒロインですな。ま、これから辛い日々がはじまることになるでしょうが、何とぞゆっくり考えなさってください。もしわたしの助力が必要でしたら、いつでもご用命ください」
 僑盟は感嘆した表情を浮かべた。
「……」
 楊麗氷は黙ったまま、つぶらな目を床に落とした。
「あなたのような超一流のスパイが脆くも薄命に帰することは、実に悲痛の極みであります。ま、これが宿命だといったら、それに尽きるしかありませんが、まことに惜しい気持ちで一杯です。しかし、世界歴史の紐を解けば、二重スパイのほとんどは傑出たる人物です。これはあくまでもわたし個人的な見方ですが、その線で考えるのも一つの微かな望みではなかろうかとおもいます」
 僑盟は真面目な表情で彼女を見据えた。美しく、頭が切れ、たぐいまれな女スパイを寝返らせば、自分の功績は言うに及ばず、当局にも貢献できるからだ。
「国賊に成り下がるなら、むしろ死んだほうがマシです」
 楊麗氷は沈んだ面持ちを相手に向けた。
「いままで数多の共産党分子を捉えてきたが、大半の者は跪いて命乞いするが落ちです。いくら意志が強かったって、ここに入ったらお仕舞いです。ま、そのうちあなたも体験なさるでしょうから。今夜はひとまずここまでにしましょう」
 僑盟が曇った顔で立ち上がり、つかつかと部屋を出ていった。タイプライターを片付け、録音機を消して、若い女性が堅い表情で彼女に口を開いた。
「わたしについてきてください」
 楊麗氷は腰を上げ、ドアへ向かって歩いた。ドアが開かれ、二人の屈強な男が彼女を睨みつける。
 静まりかえった廊下に、足音がむなしくこだました。


二十
            
 鉄格子の四角い窓から月明かりが差し込み、監房のコンクリート壁に一筋の光を描いている。葉っぱもまばらな幹が窓を斜めに伸びていて、寒風にわなわなと震えていた。
 いつしか初冬が間近に迫りつつあった。南京の陸軍監獄に移され、もはや三ヶ月が立とうとしていた。上海はつい半月ほど前に攻略され、日本軍の支配下に置かれたそうだった。「梅機関」が晴れ晴れと檜舞台に登場し、鮮やかな役割を果たして邁進しているだろう。
 硬いベッドに横たわり、古い毛布に身をくるみ、楊麗氷は壁に映えた、微かにわななく虹色の光をみつめながら思いを巡らした。
 軍事法廷に立たされたときから、彼女は終始だんまりを決め込み、ひたすら殉国のときを待ち続けた。
 先日、浩雄は自分が立っている同じ被告席で、死刑宣告を言い渡されたのである。彼の罪に勝るとも劣らぬ自分に、同じ道を辿るのは疑う余地がなかった。
 裁判長から死刑猶予を宣告されたとき、楊麗氷は自分の耳を疑ってやまなかった。つぶらな目を見開いて、じっと裁判長をみつめたのである。まさか夢の中ではあるまいかと、目をしばたたかせた。やっと真実だと気付いたとき、彼女の目に涙が滲みかけた。
 監房に戻って冷静を取り戻したとき、彼女はやっと大まかな推測に心を弾ませた。自分を救い出すために、恩師である土肥原将軍をはじめとする同志らが、国民政府の上層部のルートを探り尽くし、全力で働きかけてくれたのだ。なお、国民政府からしても、自分のような上等な獲物を抹殺せず、生かしておくだけで特たる価値を利用できるからだ。敵の手に落ちた将軍やらと交換するなり、様々な選択肢があるからなのだ。
 この日から、楊麗氷は食事抜きがちだったやけっぱちから一転して、正常な生活を維持するようになった。娑婆に出る一抹の望みに胸を躍らせた。新たに羽ばたける夢を胸に暖めながら、彼女は頭をフル回転させた。
 鉄の扉が軋む音が廊下にこだまし、彼女は沈思から引き戻された。看守の不機嫌な声がしばらく響き、またも静寂に覆われた。
 なかなか眠れず、彼女はてんてん反側しながら、またも思い出の淵に引き込まれていった。

 楊麗氷は、上海虹口区の日本人居住区アパートで暮らす、日本人の両親の長女として生を受けた。
 父の坂田憲介は日本人学校の校長を務め、母は家庭主婦として甲斐甲斐しく働いていた。
 東京外事専門学校で中国語を専攻した父は流暢な中国語を操り、中国文化にも通じていた。美貌の母は生粋の江戸っ子で、水産物販売を営む家庭でお嬢さんとして育った。
 坂田雲子と名づけられた彼女は、日本人小学校に通いながら中国語も勉強した。
 天性の才覚に恵まれた彼女は兄妹面倒見がよく、弟と妹への思いやりが深く、つねに一緒に遊んだりした。小学校から中学校まで成績はトップを走り、スポーツでもなかなかのやり手であった。小学校から柔道を習いはじめ、中学校では射撃、騎馬などを習い、男勝りの度量と技量で注目を集めた。
 中学校卒業後、母国での高校進学を目指して横浜行きの客船に乗り、初の国帰りの旅に出た。
 東京の祖父の一家に身を寄せ、高校を通った。新たな環境にたちまち適応するようになり、成績もクラスのトップに名を連ねた。
 射撃クラブに入り、射撃選手になりたい夢に心を躍らせながら、日々のトレーニングに励んだ。しかし、これが生涯の運命を左右する選択肢になろうとは、夢にも思わなかったのだった。                
 高校二年生の秋に、東京で開かれた「第十三回全国射撃競技大会」で、彼女は女子個人金メーダルを獲得した。新聞にその記事が載せられ、彼女は一躍有名人として脚光を浴びた。
 ちょうどその時、彼女を綴った華やかな記事は、女子スパイ養成に着目していた、中国駐在特務機関のトップである、土肥原賢二の目にとまった。
 1912年から北平(北京)の特務機関に在籍した土肥原賢二は、中国政治、歴史、風土人情を知悉し、流暢な北京語を操り、数種の方言も話せ、中国通として知られた。
 当時の中国軍閥や政界に広い人脈やルートを持し、数年足らずで特務機関の三代目のトップの座に登り詰めた。
 女子スパイ養成を最大課題の一つとして頭を悩ませていた氏は、自ら坂田雲子を特別養成対象として指名した。中国で生まれ、中国語に精通し、美貌でかつ射撃、騎馬など技量の優れた女子は、まさしくとっておきの存在そのものであった。
 かくして、坂田雲子は陸軍神戸専門学校に転校し、三年にわたる特殊訓練に勤しんだ。午前は、中国政治、文化、歴史、中国語、英語など、午後は射撃、空手、サバイバルゲリラトレーニング、爆破、化粧など、多岐にわたる特殊訓練を受けた。
 数十人が在籍する学年で、彼女は常にトップ成績に名を連ねた。美貌の彼女に思いの丈を寄せる男子学生も多かったが、彼女は淡々とした挙措で振舞った。もっとも、学校の軍紀では許されざる行為であり、端から頭に入れていなかったのだ。
 卒業後、彼女はすかさず上海行きの客船に乗り、新たな船出に乗り出した。両親や兄妹との団欒した数日を過ごした後、ホンコンへ長期出張することになったといい繕い、北平行きの列車に乗り込んだ。
 北平特務機関特務二課に配属された彼女は、楊麗氷という名前でせっせと仕事に投じた。
 数日後、彼女は初めて恩師である、土肥原賢二に御目見えした。
「ようこそ、坂田雲子さん。きみの到来を心待ちしていたよ。これからはきみの出番だ。きみにしか成せない役柄が待ち受けてるんだ。きみが『帝国の花』としてみごとに役割を果たし、託された使命を立派に成し遂げると信じてるよ」
 威厳に彩られた顔をほころばせながら、土肥原機関長はゆったりした語調で激励した。感激の表情で耳を傾けながら、彼女は心から使命感に燃え盛った。
 一ヶ月も経たずして、彼女は見事な活躍ぶりで、北平の社交界の名花として名を馳せた。
 半年後、楊麗氷はスーツケースを持って、上海行きの列車に乗り込んだ。中国きっての華やかな大都会で、彼女はおおらかな挙措で檜舞台に立ち、鮮やかな本領を発揮した。
 まもなく、上海の社交界でも名を知られるようになった。その後の七年余にわたり、彼女は様々な紆余曲折をくぐりつつ、数多の重要機密を手に入れ、超一流女スパイとしての役割を完璧に果たした。

 看守の甲高い呼び声に、楊麗氷ははっと目を醒ました。いつしかぐっすりと寝込んでしまい、夢路を流離っていた。
 彼女はさっさと起き上がり、ベッドをきれいに片付け、小さな洗面器で顔を洗い、歯磨きをした。
 粗末な朝食を終え、いつものように読書にふけった。監獄の図書館から歴史や、小説など様々な書籍を借りては読みまくった。水面下でのサバイバル世界を駆け抜けてきただけに、ろくに読書することはとうてい不可能だった。皮肉にも牢屋につながれてから、読書の世界に浸り、ささやかな慰めに心を弾ませた。
「五十二番、面会です」
 突然、看守が扉の錠前を鍵で開けながら、のぞき窓越しに叫んだ。
 楊麗氷ははっと顔を上げ、不思議な表情を浮かべた。のっそりと立ち上がり、部屋を後にした。
 面会室に踏み入ったとたん、彼女は凍てりついたかのように立ちすくんだ。
 柔和な顔つきで、鳥居元雄がじっと視線を投げかけるのだった。
「ご苦労様でした。元気なようでほっとしました」
 鳥居が笑い顔で切り出した。
 楊麗氷はやっと笑みを浮べ、鉄格子越しにゆっくりと椅子に坐った。
「わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」
 彼女もやんわりと答えた。録音盗聴装置が仕掛けられ、看守もわざとその場を空けてくれるのだった。後ほど録音を再生させて詳しく記録し、うっかりと言い漏らした言質をつかむ魂胆である。
「ご家族のみなさんも元気でいらっしゃるので、安心しなさい」
 鳥居は微笑を浮べて彼女を見据えた。
「ご配慮いただきましてありがとうございます」
 楊麗氷は感激に満ちた眼差しでお礼を述べた。自分を慰めるために、わざわざ実家に行ってくれた真心に心を打たれた。
「食事はどう、身体は大丈夫か?」
 鳥居が心配そうな表情で訊いた。
「大丈夫です、あまり心配しないでください」
「それがなによりだ。きみをおもうたびに、心が引き裂けられそうだ。きみが健やかな姿で出られるその日を心待ちしてるよ」
「あたしはここで年取るかもしれないわ。あなたにそこまで代価を支払わせたら、それこそ罪を重ねることよ。立派なお嫁さんを迎えて、幸せに暮らせるようお祈りします」
 彼女は真面目な表情でいった。牢屋にまで足を運んで、せつない愛を訴える彼を、冷然とはねつける自分の情けなさに気が咎めた。
「そのような言い方は二度としないでくれ、とりあえずきみとの再会を待ち続けるからな。そうだ、先日泥棒に入られて、大事な金を盗られたのさ。一応警察にも届け出を出してるが、近々目処がつくらしい。態勢がととのえる次第、全力で検挙するといわれた。ま、そのうちうまくいけるとおもうさ」
 鳥居は情熱をこめた表情で言い聞かせる。
 そのとき、看守がドア口に現れた。
「もう時間ですよ」
「じゃ、お達者に」 
 鳥居は未練がましい表情で、じっと彼女をみつめる。
「あなたもお体に気をつけて。ありがとうございました」
 楊麗氷は立ち上がり、腰を折って一礼し、身体を翻して立ち去った。
 一瞥するつぶらな目に宿る翳りが、心に重くのしかかるような気がした。後姿を見届けてから、鳥居はのっそりと腰を上げて部屋を後にした。
冷たいベッドに座り、身体を壁にもたせ、彼女は思いにふけった。
 最後の一言が脳裏に響いてやまなかった。隠語の意味はそれなりに見当がついた。上層部は全力をつくして、自分を救出しようとしているのだ。それに相応した行動をどうとるべきであるか、彼女は思考を巡らした。

 監獄長の事務室に踏み入るや、楊麗氷はドア口に立ち尽くした。
 端麗な装飾に彩られた室内は芳ばしい香りが漂い、カビ臭い監房とはまるで別天地であった。一昔の豪勢な暮らしぶりが、おのずから思い出された。
「どうぞお掛けなさい」
 角ばった顔に威厳を滲ませながら、四十後半の施良中佐が勧める。目にとまった女囚人を呼び入れては、陵辱する悪趣味にうつつを抜かし、背後では「色魔」呼ばわりされた。
 楊麗氷は静かに歩み寄り、灰色の囚人服の裾を手で延ばしつつ、向かい側のソファにそっと腰を下ろした。奥の壁際に閉じられた扉がやけに目をついた。その中は、「色魔の巣窟」と呼ばわりされるベッドルームである。
「どうですか、身体の具合は?」
 監獄長は淫らな目で、彼女の盛り上がった胸をねめ回した。
「どうも、お陰さまで」
 楊麗氷は艶めかしい顔に笑みを湛え、やんわりと答えた。
 妖艶な立ち振る舞いに、施良は心底むずむずし出した。通常なら、とっさに襲い掛かってはキスをしまくり、抱き上げてベッドルームへと走りこむはずだった。しかし、相手は軍統に目をかけられた重要な女囚だけに、いくらここの主宰者であれ、みだらに踏み躙るわけにはいかなかった。
「才色兼備たるあなたの才覚は、とっくに耳にしている。名だたる業績は、つい先日同僚から聞かされた。まことに心から感服してるよ」
 施良は感嘆めいた目つきで彼女を見やる。
「あたしを褒めるために、呼び入れたのではないでしょう」
 彼女は色っぽい流し目を投げかけつつ訊き返した。
「その通りだ。担当者の話では、毎週定例の反省書の内容はいい加減ということで、もうちょっと真面目に書いたら。今の立場を十分弁えてもらいたい」
 監獄長は柔らかな語調で言い含めた。先般威張りくさった態度とは打って変わった様子に、彼女は違和感すら覚えさせられた。
「わたしは書くのが苦手です。それに、週に一回出すことは、誰にでも難儀なことでしょう」
 彼女は嫣然と笑いを振り撒きながら弁明した。施良は電流に打たれたかのように、恍惚な目つきで彼女を見据えた。
「中佐閣下、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 楊麗氷は色っぽい目つきで相手を見ながら訊いた。
「どうぞ、お好きなように」
 監獄長の顔から威厳は消えうせ、うっすらと笑みがこぼれかけた。
「ご存知のように、上海はすでにわが軍に攻略されまして、そろそろ破竹の勢いで南京に攻め込んでくるところです。国民政府はもはや風前の灯の瀬戸際に追い込まれています。たとえ内陸に撤退せよと、遅かれ早かれ滅亡の運命は免れません。あなたはご自身の近い将来について、どう考えていらっしゃいますか?」
 彼女は厳粛な色を湛え、鋭い目つきで角ばった顔を見据えた。
「それは言い過ぎだよ。国民政府がそうやすやすと打ち負かされるはずはないぞ」
 施良は威厳たっぷりした顔で言い返した。
「あなたは盲目的に楽観視しているだけです。それはさておいて、あたしが知りたいのは、あなたご自身の身の処し方です」
「ま、そのときになって考えたらいいだけの話さ」
「もしも、今のまま国民政府に従ったら、あなたは決してよい結末がないことを、十分意識なさるべきではありませんか」
「一体なにをいいたいんだ?」
 監獄長は、懸念にちらつく目つきで彼女を見ながら声を上げた。
「今まで、あなたがさんざん働いてきた不徳はすでに周知のことでして、当局は決して見過ごせないでしょう」
「ちょっとお前、いいたい放題じゃねえか」
 監獄長は顔色を変えて言い放った。今まで、女囚から詰られたためしはなかっただけに、怒り心頭に発してやまなかった。
「率直にもうしあげてすみません。しかし、冷静に考えれば、あたしの話が正しいことだと、やがて現実が証明するでしょう。あたしのいいたいことったら、光明な前途を目指したほうが無難ということです」
「というと?」
 監獄長は相手の意味深な言葉に引き込まれ、思わず問いかけた。
「実は、国民政府の上層部では数年前から、抗戦派と親日派が水面下で激しく闘っていました。汪靖衛とはじめとする親日派は、近々国民政府と袂を分かち、この地で新たな政権を打ち立てようともくろんでいます。あたしは国民政府の要人から内情を聞いていますので、確たる情報には間違いないです。もしあなたがご希望でしたら、微力をつくして、上海市政府の局長クラスに推薦するつもりです」
 楊麗氷は歯に衣着せぬ語調で言いまくった。
「……」
 監獄長は唖然とした表情で、かつての敵軍の女スパイをぼうっとみつめた。
 親日派のことは耳にしていたものの、まさしく新政権を打ち立てることは寝耳に水だった。それはともかく、彼女がいった通り、自分が散々女囚らを暴行したことはすでに上の者に知られ、たびたび警告じみた言葉を頂戴していた。もしも撤退するとならば、自分は軍法に裁かれる羽目になりかねないし、先が真っ暗いなのは火を見るより明らかである。もし、彼女が約束をはたしてくれるなら、それに越したことはないのだ。すでに大勢の者が鞍替えし、汪精衛の麾下に馳せ参じるのは確たる事実である。
「あなたはあたしを疑っているの?あたしは約束を徹底的に守る主義です。あなたとご家族を迎えるよう、一戸建ての家も用意してあげますから、もし覚悟を決めましたらいつでもおっしゃってください」
 楊麗氷は艶めかしい顔に笑みをこぼし、つぶらな目でじっと相手を見据えた。
「ま、ちょっと考えさせてくれ」
 監獄長は肩を落とし、ぼそりとつぶやいた。先日の朝、一通の封筒が自宅の鉄格子の扉とドアの間に突っ込まれてあった。封筒を切ったら、中から一通の手紙と一発の銃弾が出てきた。手紙の送り主は、「梅機関」と印されていた。彼女が喋ったのと同じ旨が綴られ、寝返りを呼びかけるものであった。なお、近々彼女の無事救出に協力してもらいたく、家族を連れて同行して、輝かしい将来を目指せとの趣旨であった。もしも従わない場合は、彼はいうに及ばず、家族の不幸も招きかねないと云々してあった。彼は真っ青な顔で身体を震わせた。「梅機関」は敵のもっとも恐ろしい組織であることは、軍統に勤める友人から耳打ちされたのだった。現に上海では、潜伏していた軍統の特務らが次々と逮捕されている最中である。今しがた、この辺りや、自宅の周りを、相手が使わした手先がうろうろしているかもしれないのだ。
「では、これで失礼させていただきます」
 楊麗氷は色っぽい流し目を投げつつ立ち上がり、優雅な姿勢で歩き出した。
 監獄長はのっそりと腰を上げ、彼女をドア口に見送ろうとした。相手の威勢に気圧され、おもわず失態をさらしたことに気付き、うろたえながら足を止めた。
 その時、彼女が急に立ち止まり、やおら振り向きざまに彼に近寄り、彼の頬に口付けした。
 相手の突発した挙動に、監獄長はびっくりした顔で呆然と突っ立った。
 次の瞬間、彼女は彼の首を抱え、その唇にキスを降らせた。監獄長は微かに身震いしながら、両手で彼女のしなやかな腰を抱え、キスをむさぼった。
 彼女は彼の腰を両手で抱えながら、壁際の扉へと歩き出した。監獄長は戸惑った顔で彼女を見つめながら、彼女のしなやかな腰を抱きかかえた。
 ベットルームは香りが漂い、内装はピンク色ずくめだった。彼女は彼の首を両手で抱え、のっそりとベットにあおむけになった。
 彼女は華奢な手で、施良の軍服や、シャツやら、肌着やらを一枚ずつ脱がせた。
 施良は真っ赤な顔で彼女の唇をむさぼりはじめ、両手で荒々しく彼女の獄衣やシャツをちぎりまくり、真っ白い乳房の中に顔を埋めた。
 鉄扉の軋む音がかすかにつたわった。

 二十一      
                        
 夜中、楊麗氷は激しい腹痛に襲われ、身体を折って呻き声を上げた。静かな監房の中に、呻き声が不気味にこだました。
「五十二番、どうしたの?」
 女看守が覗き窓越しに顔を覗かせて訊いた。
「あ、痛い!」
 楊麗氷はベッドで身体をひねりながら呻き声を漏らした。女看守は懐中電灯で照らした。楊麗氷の痛みに歪んだ顔が映された。
 二人の看守が担架を持って入り、楊麗氷を載せて監房を出て医務室へ向かった。
 中年医師がベッドに近寄り、楊麗氷の腹部を軽く押さえて診る。
「あ、痛い!」
 顔を真っ青に歪ませ、彼女は呻き声を連発した。
「どうしたんだ?」
 駆けつけてきた施良監獄長が、厳つい表情で問いかける。
「急性盲腸炎のようです。すぐ手術が必要ですので、さっそく病院に搬送しなければなりません」
 医師は沈んだ声でいった。
「さ、警備隊におれの命令を伝えな。はやく車で送ってくれって」
 監獄長は看守に言いつけた。
 一台の囚人護送車が医務室のドアの前で停まった。二人の看守が女囚人を載せた担架を持って護送車に乗りこみ、真ん中に担架を置いた。
 二人の自動小銃を握った警備兵が乗り込んで、車体の内側に固定されたベンチに坐った。警備担当大尉がむっとした顔で、助手席に腰を落とした。
 護送車は鈍重な鉄扉をくぐり、漆黒の闇へと走り去った。

 監獄副長の曽茅少佐はけたたましい電話ベルに目を醒まし、欠伸を殺しながら受話器をとった。
「なんだと……、楊麗氷が病院に搬送されたって?わかった」
 一旦電話を切り、指をダイヤルにかけて番号を回した。
「もしもし」
 監獄長のしわがれた声が伝わった。
「夜分お邪魔しましてすみません。さっき楊麗氷が急病で病院に搬送されたそうですが、不審なことはありませんか」
「医師の診断では、急性盲腸炎で至急手術が必要だって。なにが不審だ?」
「病院から医師チームを呼んだほうがよろしいかとおもいますが」
「それは無理だろう、手術を医務室で行うことは不可能だ」
「しかし、臨戦態勢で緊迫した事態だし、もしも仮病にかこつけての芝居だったら、大変なことかとおもうよ」
 少佐は疑る口調でいった。
「医師の診断でなにがおかしいんだ」
 監獄長は不興めいた口調で声をあげた。
「軍統の僑盟部長がいらしたとき、楊麗氷に異状があったらさっそく連絡しろといわれたが、もう連絡はしたんでしょうね」
「これからするところだ」
「なぜ搬送する前に連絡をしないんだよ」
 少佐は怒りの声を上げた。
「おまえ、おれに指図するつもりか」
「とにかく、この件で異常事態が起こったら、責任をとってもらうよ」
 少佐は厳しい口調で言い放った。
「おまえにいわれる筋合いはないぞ」
 監獄長は受話器をガチャンと戻した。
 ソファから立ち上がり、居間を眺め回した。がらんとした室内に重い空気が淀んでいた。
 先日、「梅機関」の金井中佐からの手紙が届き、上海市警察局副局長のポストや、一戸建てを用意したので、早いうちに一回きてほしいとのことだった。
 その翌日、彼はスーツ姿で上海行きの列車に乗り込んだ。影佐機関長から両手で任命書を受け取り、彼は感激に震える口調で謝辞を述べた。つい一昨日、妻と二人の子供を先に上海に行かせたのだ。
 彼は寝室や子供部屋を見回し、ソファに置かれたトランクを手にし、テーブルにある乗用車のキーを取り上げ、大股でドアへ歩み寄った。
 
 闇に沈んだ道路を二筋の光が切り裂き、囚人護送車は疾走していた。
 楊麗氷は毛布を首にまでかけ、目を瞑っていた。二人の警備兵は自動小銃を握り、ベンチに坐っていた。
 助手席に坐った大尉はタバコをふかしながら、沈んだ目つきで前方をみつめている。
 突如、ヘットライトに照らされた前方に、検問所が浮かび上がった。数人の兵隊がライフル銃を握って立っていた。
 護送車はバリケードの前で急停車した。
「通行許可証をみせなさい」
 国民党軍服姿の少佐が、助手席ウインド越しに声をかけた。
「通行許可証って、なんで急にそれが必要なんだ」
 大尉が不審な顔で少佐をみながら訊き返す。
 一人の兵隊が運転席に近寄った。
「ちょっと降りてきて!」
 少佐がドアを開けて、いきなり拳銃で大尉を狙いながら吠え出した。
 運転席のドアが開けられ、兵隊が運転手にライフル銃を突きつける。四人の兵隊が車体の後ろへ忍び込んだ。
 大尉はきょとんとした顔で降りてきて、両手を挙げた。
 異常に気付いた二人の兵隊がベンチから立ち上がり、自動小銃を後ろドアに向けようとした瞬間、ドアが開けられ、四人の兵隊がライフル銃で狙いを定めるのだった。
 二人の兵隊は自動小銃を持って、驚愕した表情で突っ立っていた。毛布を蹴って飛び上がり、楊麗氷は両手を広げて飛び掛り、二人の兵隊を外へ突き出した。二人の兵隊が道路に転がった。
 四人をがんじがらめに縛りつけ、口に猿轡をし、道路脇のトウモロコシ畑に引っ張っていった。さらに両足を紐で縛り、畑の中に押し込んだ。
「お疲れ様でした、坂田少佐。わたしは、『梅機関』の大尉の丸山です。こちらは同志のみなさんです」
 丸山が挙手の礼をしながらいった。五人の兵隊が挙手の礼をしながら、彼女をみつめていた。
「みなさん、ありがとうございました。早くここを離れましょう」
「よければ、これに着替えてください」
 丸山が剥がしてきた大尉の軍服とライフル銃を手渡した。
 楊麗氷は軍服を持ち上げ、囚人服の上に着込んだ。ややだぶついた気がしたが、もはやかまうところではなかった。
 五人が首にライフル銃をかけ、次々と乗り込んだ。
 丸山が運転席に飛び乗り、エンジンをふかした。楊麗氷が助手席に飛び上がると、護送車は急発進した。
 護送車は闇に覆われた道路を勢いよく駆け抜けた。
 しばらく走り、右折して上海方面への国道に入った。長い間隔をおいて、薄っすらと明かりが点った電柱がぽつんと佇んでいた。
 楊麗氷は助手席に坐って、じっと前を睨んだ。
 後ろの車内には三人がベンチに坐り、二人は床に敷いた毛布に坐っていた。天井に薄い明かりが点り、張り詰めた空気が車内に淀んだ。
「道順はおぼえているでしょう?」
 楊麗氷がちらっと見ながら訊いた。
「何度か下調べを済ませたので、大丈夫です」
「前に検問所が敷かれているとおもいますが」
「あと数キロのところにあるとおもいます。みな偽造身分証を所持しています。これを持ってください」
 丸山はポケットから軍医身分証を渡した。
「軍統の特務がそろそろ追ってくるでしょうが」
 楊麗氷が懸念じみた表情を浮かべた。
「計画では、五十キロ先の道路を右折し、十二キロほど走ったところに河があり、そこで巡視船が迎えてくれる手筈になっています」
 丸山は自信に満ちた表情で言い切った。
 突如、電柱の薄い光の中に、検問所が浮んだ。護送車はバリケードの前で停まった。
 道路脇に木造歩哨所があり、三人の兵隊が自動小銃を握って立っていた。
「身分証をお願いします」
 運転席の脇に近寄った中尉が挙手礼をしつつ、声をかける。
「お疲れ様」
 丸山は挙手礼を返しつつ、ポケットから身分証を出して渡し、流暢な中国語でいった。
「あの方の身分証もおねがいします」
 中尉は楊麗氷をみながらいった。楊麗氷は身分証を取り出して渡した。
「どこにいきますか?」
「重病の犯人を病院へ送るところだ」
「お電話です」
 歩哨所のドアが開かれ、一人の兵隊が顔を覗かせて叫んだ。中尉は大股で歩き去った。
 受話器をとって、受け答えしていた中尉が急に飛び出し、右手にした拳銃を運転席に向けた。楊麗氷はライフル銃を上げて銃弾を浴
びせた。中尉は手にした拳銃を宙に向けながら倒れこんだ。
 二人の兵隊が銃口を運転席に向けたとたん、車体の後ろから三人が現れ一斉に掃射した。二人の兵隊はあっけなく斃れた。
運転席から飛び降りた丸山がピストルで、歩哨所を飛び出た兵隊を一発で倒した。二人が急いで駆け込み、バリケードを道路脇にどかした。
護送車は急発進し、猛スピードで走り去った。
「そろそろ奴らが追ってくるはずよ」
 楊麗氷がライフル銃を握りしめた。
「後三十キロあまりです」
 丸山はアクセルを強く踏み込んだ。護送車は車体を震わせながら猛スピードで疾走した。
 突然、連発の銃声が鳴り響き、車体の後部に当たって火花を散らした。
「やつらは追ってきたぞ!」
 後部のベンチに坐っていた五人が飛び上がり、銃を構えた。二人が銃床で後部ドアの、小さな鉄格子の四角の窓ガラスをぶち抜き、ライフル銃を構えた。
 数台のオ-プンジープがだんだん近付いてきた。最前の車に四人の兵隊が乗り、カービン銃で発砲してきた。
 ヘットライトがだんだん明るく近付き、車体に乗った兵隊の姿が闇の中におぼろげに浮んだ。護送車の後部ドアの両脇に立っている二人が、鉄格子窓越しにライフル銃を構えて発砲し始めた。
 銃弾が雨あられと飛び交い、静寂な夜空に鳴り響いた。
 最前のジープが二十数メータまでに接近してきた。銃弾が後部ドアに当たり、火花が飛び散った。
 一発の銃弾が鉄格子窓から飛び込み、一人の兵隊の肩に当たった。負傷者は後ろへと倒れこんだ。後ろに立っていたもう一人が代わってドアの脇に立ち、発砲しはじめた。
 一人が負傷者を支え、斜めにかけたバックから包帯を取り出して、血が流れる肩を巻きかける。負傷者は歯を食いしばっていた。
 ジープは十数メータに追いつき、人影が薄っすらと映った。銃声がけたたましく鳴り響き、銃弾が両側へと飛び交った。
 一発の銃弾がジープの運転席のフロントガラスを突き破り、運転手に命中した。ジープは斜めに突っ走り、道路脇の草地に突っ込んだ。
 二台目のジープがまたも近くまで接近してきた。
 数発の銃弾が鉄格子窓越しに雪崩れ込み、兵隊の頬を掠めた。
「この野郎!」
 二人は腰から手榴弾を外し、ピンを引き抜いて、鉄格子窓越しに次々と落とした。しばらくして、轟音とともに、ジープがやや宙に跳ね上がって横転した。後ろを走ってきたジープが横転したジープに追突し、炎が燃え盛った。走ってきた後続車が急停車した。
 護送車はさらにスピードを上げて疾走した。後ろの炎がだんだん小さくなりかけた。
 しばらく走り、ある交差点を右折し、砂地の道を走った。でこぼこした道を、護送車は車体を震わせながら走り続けた。
 十数分走り、丸山はハンドルを左へ切って、泥だらけの馬車道を走った。水溜りを通るたびに、泥水が脇へ跳ね上がる。
 護送車はスピードを落とし、馬車道を斜めに下り、ぼうぼうと生い茂った葦の茂みの中で停まった。
 丸山と楊麗氷は車を飛び降りた。後部ドアから二人が降りて、中の二人に支えられた負傷者を抱えて降ろし、一人が負傷者を支えてゆっくり歩き出した。
「北村君、傷はひどいか?」
 丸山が近寄り、片手を部下の肩にかけながら訊いた。
「大丈夫です」
 負傷者は弱弱しくいった。
「流血がひどいわ」
 楊麗氷が懸念に満ちた目つきで、しっとりと血に濡れ染まった右肩の包帯を見ながらいった。
 丸山は眉をしかめつつ前へと歩いた。川辺に突っ立ち、滔滔と流れる川面を眺めた。
 闇に覆われた川面は静寂に沈み、川水がゆったりと流れていた。月影を潜めた夜空は厚い雲に覆われ、光を失せた星たちがおぼろげに映っている。十数メータしか見通しがきかず、視界は混沌とした。
 丸山は肩にかけたバックから懐中電灯を取り出し、三回点滅させ、光を飛ばした。
「大丈夫かしら?」
 後ろに近寄った楊麗氷が、心配そうに首をめぐらして彼を見た。
「特務二課の松山君が乗ってるから、間違いないとおもいます」
 丸山は自信満々と言い切った。
 突如、車の走る騒音が遠くから伝わった。二人はさっさと踵を返した。
 四人の兵隊が護送車の両端に寄り添い、ライフル銃を構えた。
 丸山と楊麗氷が、河岸に聳える大木の後ろに寄り添って前を睨んだ。
「丸山大尉、ぼくが掩護するから、みんなはやく撤退してください」
 北村がライフル銃を持って近寄り、声を絞り出した。
「バカをいうんじゃねえ。そこでしばらく横になってて」
 丸山がせっかちな口調で詰った。北村はやむを得ぬ表情で、大木の下に腹ばいになって銃を構えた。
 一台のジープと軍用トラックが、百数十メータの砂地の道路に停まった。トラックから十数人が飛び降りて、車を掩体に銃を構え、火を噴き出した。
 雨あられと銃弾が飛び交い、けたたましく夜空に轟いた。護送車や、大木に銃弾が打ちこまれた。
 丸山は振り返って拳銃を渡し、北村からライフル銃を取り上げて撃ちまくった。楊麗氷は目を瞠って、ジープ目掛けて掃射した。護送車の両端から銃弾が発射された。
 数人の人影が地面に腹ばいになって、匍匐前進してきた。楊麗氷が両手にしたライフル銃で狙いを定め、真ん中の人影に連射した。あっと悲鳴を上げながら、両手が宙に伸びて倒れこんだ。ほかの数人が向きを変え、慌てふためいて逃げ込んだ。
 突如、川面から汽笛が鳴り響いた。
 次の瞬間、くぐもった砲声が轟き、数発の砲弾がトラックやージープの周りで炸裂した。
 砲弾が次々と炸裂し、トラックに炎がのぼりかけ、瞬く間に燃え盛った。ジープも一発の砲弾に命中され、車体がばらばらになった。暗闇の中を、走り去る数人の人影がおぼろげに映った。
「もう帰るぞ」
 丸山がみんなに声をかけた。
 四人がライフル銃を手に提げて戻ってきて、二人が北村を支えて船の影に向かって歩いた。
 丸山と楊麗氷がその後ろを続いた。
「みなさん、お疲れ様でした」
 巡視船の甲板に突っ立って、松山が両手を振るって大声で叫んでいた。その隣に、数人の人影が凛凛しく突っ立っていた。



虹色の空へ

二十二
 
 黒塗りのフォードが鉄扉をくぐり、芝生に伸びる車道を滑り通り、車寄せで停まった。
「柳さん、夕食をしていきなさい」
 楊麗氷はドアを開けて降りて、ウインド越しに顔を覗かせる、専属運転手の中年男性に声をかけた。
「ありがとうございます、まだ用事がありますので失礼します」
 車はゆっくりと滑り出した。
「ただいま」
 玄関に入り、彼女は笑顔でいった。
「お帰りなさい」
 リビングルームから両親が現れ、笑顔で迎えてくれた。
「先にお風呂に入りなさい」
 母が彼女の手を握りながら勧める。彼女は笑いを振り撒き、正面の赤い絨毯を敷いた階段を駆け上った。
 湯船の湯気の立つお湯に浸かり、彼女は目を瞑っておもいにふけった。
 その夜、巡視船が上海の埠頭に接岸すると、出迎えにきた鳥居がしかと抱擁してくれるのだった。巡視船からの無線連絡を受けた関係者から聞いたのだった。
 彼の運転する車に乗り、虹口の閑静な住宅街にある彼の自宅に乗りつけた。小さな庭がある一戸建てであった。
 久々の風呂に浸かり、魔境から生還した夢うつつに心を弾ませた。九死に一生を得た実感がなかなかとれなかった。
 風呂を出て髪をとかし、ガウンに身をくるめ、出前の日本料理を飾ったテーブルを囲って、微笑む鳥居とビールグラスを合わせた。  
 刺身や揚げ物をつつきながら、恍惚した表情で問い続ける鳥居に淡々と答えた。
 食卓を離れ、ほろ酔い気分に浸かり、二人は長椅子でキスをむさぼった。
「結婚してほしいんだ」
 しばらくして、鳥居は情熱っぽい口調でプロポーズした。
「帝国の覇業が成し遂げられた暁に、あなたの嫁にいくわ。あたしはやはり帝国の花として散る宿命よ」
 彼女はあだっぽい顔に笑みを湛え、冗談を飛ばした。鳥居の顔を寂しい色が掠める。
「そしたら、しばらく同居したら……」
 彼はどぎまぎしながら、虚ろな目で彼女を見た。とうてい無理な話だと知りながら、つい口にしてしまった。
「あたしたちは特別使命を背負わされているの。家庭生活の雰囲気にさらされたら、仕事に支障をきたしかねないわ」
「せめてもの、週末には一緒にいてくれないか」
「わかったわ、できるだけ貴殿の命令に従うわ」
 彼女は悪戯っぽい笑みを投げかけ、苦笑いを浮かべる鳥居の頬にそっとキスした。
 無事に生還した彼女を、「梅機関」は盛大な祝宴を開いて祝ってくれた。
 黄浦飯店の二百人を収容する大広間で開かれた宴会に、軍や政府の要人をはじめとする人々が一堂に会し、彼女を迎えてくれた。彼女の傑出なる功績や、不屈の闘魂で戦い抜けた意志を称え、勲章が授与された。
 翌日、「梅機関」に初登場した彼女に、影佐機関長から中佐任命証書が渡された。なお、元国民政府の高官が住んでいた庭付き一戸建てと、専属運転手付きのフォードが贈与された。
 彼女は豪勢な一戸建てを両親に差し上げた。七年ぶりの再会に、両親は彼女と抱き合って感涙に噎んだ。自分の安否を気遣う両親を慰めるため、商社に就職したので海外に長期出張すると言いつくろったのだ。弟と妹は東京に戻り、それぞれ早稲田大学と、御茶ノ水女子大で勉強に励んでいた。
 母の呼び声に、彼女はやっと思い出から目が覚めた。
 ダイニングルームで、豪華な食卓を前に坐った。日本料理屋から買ってきた刺身の盛り合わせや、母の手料理のから揚げや、山菜など料理が盛り沢山飾られていた。
「母さんの手料理はほんとうにうまいわ」
 彼女は笑顔でエプロン姿の母をみつめた。
 四十後半の母は微かな皺が見て取れたが、依然と美貌の名残を湛えていた。優しき母は常に淑やかに、甲斐甲斐しく家事に専念し、子供の教育に心血を注いできた。自分が母に似ていたら、今頃はよきお嫁として子供の養育に励んでいただろう。彼女は思わず小さく笑いを漏らした。
「何を笑っているの?」
 食卓におかずを並べながら、母が笑顔でいった。
「お母さん、美しいわ」
 彼女は笑みをこぼして、じっと母を見据えた。
「冗談はよしなさい。あなたこそ、ご自分の縁結びを急がなくちゃ」
 母が真面目な表情で娘を見返した。
 父が高級ワインボトルを片手にして、食卓に歩み寄った。
「仕事で頭が一杯で、まだその気になれないわ。健太郎と幸子は元気で勉強に励んでいるでしょう」
 彼女はさらりと話題をそらした。
「みな元気で頑張っているの。お姉さんに会いたいって、口々にいっているわ。後ほど手紙をお読みなさい」
 母がグラスを並べながらいった。
「和食は食べられるか?」
 父が栓を抜いたワインボトルを食卓に置きながら訊いた。
「え、たびたび日本人が営む居酒屋にでかけます」
 彼女はボトルを取り上げ、父のグラスに注ぎながら答えた。
「海外じゃ、不便なところも多々あるだろう」
 父がワイングラスをとりながら訊いた。
「慣れましたので大丈夫です、シンガポールはすごくきれいなところですよ。いつか案内して上げますわ」  
「あなたが無事に仕事し、生活するのが何より大事よ」
 母が懸念に満ちた表情でいった。
「そう、われわれにとって、きみが健康に、無事でいられるのが最大の慰めなんだ」
 父が真面目な表情で言い添えた。
 娘が何年も音信不通なのに対し、尋常ならぬ仕事に身を投じているとは薄々察しがついたのだ。心は懸念に渦巻いたが、娘が選択した志向に口を挟む気持ちはしなかった。自分に似て、がむしゃらに突き進む天性の姿勢に、反対したって無駄だとわかっていたからだ。
「しばらく上海にいるでしょう?」
 母が心配そうな表情で訊いた。戦乱の渦中を奔走する、娘の身の上が気がかりでならなかった。
「一週間ほどです。来月から青島に出張します」
「列車が爆破されることが珍しくないそうよ、出張はなるべく断ったら?」
「お母さん、心配しないで。あたし気をつけるわ」
 彼女は笑顔で答えた。
「今のところ、日本軍は北から南の沿海部に至り、ほぼ半分の中国を占領して勝利に沸いているが、これからが大変なんだ。歴史を振り返ると、他の民族を征服した例は枚挙に暇がないが、せいぜい一時期に限られたもんだ。いずれはその地の住民の反撃によって、追い出されるにきまってる」
 父が厳粛な表情で言い尽くした。
「お父さんのおっしゃったことはごもっともだとおもいます。でも、おおやけの場ではおっしゃらないでください。お父さんが面倒に巻き込まれるのが心配です」
 彼女はやんわりと勧めた。頑なな気立ての父が不用意な言動で、不利な立場に立たされるのが懸念であった。父は肯きながら、ワイングラスを傾ける。
「上海に戻ったときは、なるべく週末は帰ってほしいの」
 母が微笑みながら彼女をみつめる。
「わかったわ、週末も仕事で出かけることが多いですが、できるだけ帰るようにします」
 彼女は笑顔で父と母を見交わした。愉悦と哀愁とがない交ぜになって胸に渦巻いた。
 久々の談笑が室内にこだました。


二十三

 週末の夜、楊麗氷は数人の部下を従えて、「百楽門」の玄関を踏み入り、二階へと駆け上がった。
 軍統のスパイが数多く潜伏し、それらの検挙がもっとも重要な課題となった。女スパイも少なからず暗々裏で蠢いていて、夏梅も必ず潜んでいると確信した。
 ダンスホールには派手な身なりの麗人らが紳士の腕に寄りかかり、優雅に舞い込んでいた。曲が終わると、連れたちはめいめいの席に戻っていった。
 最前のソファに、初老の男性が鷹揚に笑い声を飛ばしながら喋り捲っていた。隣の二十半ばの妖艶な女は寄り添って嬌笑をあげる。
 楊麗氷は近寄って声をかけた。
「こんばんは、夏梅さん」
 女はびっくりした表情を滲ませたが、さっさと平静を装うのだった。
「人違いかしら」
 女は冷やかにいった。
「しらばくれるんじゃないわ。いくら扮装したって、わたしの目はごまかせないの」
 楊麗氷は鋭気を湛えた目で相手を睨んだ。
「あんたは何者だ」
 初老の男が怒った顔で楊麗氷を睨みつける。屈強な二人の護衛がソファに近寄ってきた。
「『梅機関』の楊麗氷中佐です。あなたのお連れは軍統のスパイです」
 後ろに立っていた山城中尉が厳つい表情で言い放った。
「違う、彼女は柳敏だ」
 初老の男が大声を放つ。
「あなたは騙されています。彼女は軍統のスパイに違いありません」
 楊麗氷は厳しい語調で言い切った。
「それでなんだというんだ、このおれの前で彼女を逮捕したい魂胆か?」
「市長閣下に無礼だぞ」
 後ろに立っていた一人の護衛が大声で叱った。
「貴様、反抗する気か?」
 山城中尉がホルスターに手をかけながら怒鳴った。
「失礼いたしました」
 楊麗氷は山城を制しつつ、軽く会釈して颯爽と立ち去った。傀儡政府の長とはいえ、ここはひとまず引き下がったほうが無難だとおもった。
 しばらくして、女が初老の男性の腕を抱え、玄関に姿を現した。階段を下りて、黒塗りの乗用車の後部座席に乗り込んだ。車が走り出すと、後ろから一台の車がついて走った。
 四十分ほどの距離を走り、草木が切り揃えられた広い庭に走り入った。後をつけていた車は街角に停まった。
「さっそく後援チームを手配するので、彼女が出てくるまで、二十四時間体制で見張るのよ。もし標的が出てきたら、後をつけなさい。それに、わたしにさっそく連絡ください」
 楊麗氷は山城中尉と二人の部下に言い残し、車を降りて歩道を歩いた。通りかかる人力車を止めて乗ると、近くのホテルへいくようにといった。

 三日目の夜、楊麗氷は車に飛び乗り、セラトンホテルへと直行した。部下からの連絡が入り、標的がそっちへ向かったとのことだった。
 ホテルの車寄せで降りると、山城中尉が迎えてくれる。
 二人はホールを突っ切って、大宴会場へ向かった。紅チャイナドレスに、太いフレームのメガネをかけ、宴会場の扉を開けて入った。
 百五十人ほどのカクテラパーティーは華やかな人波でごった返し、熱いムードで盛り上がっていた。
 正面に飾られた長大なテーブルには、初老の市長と、日本軍の将軍など要人たちが坐って酒盛りをしていた。市長に寄り添うように夏梅が笑顔で坐り、隣のスーツ姿の男と話していた。
 楊麗氷はウイスキーやビールグラスを載せた給仕のトレイから、ビールグラスをとって一口飲み、壁際に立って前に視線を注いだ。いかに夏梅を市長から引き離すか、思考を巡らした。
 パーティがお開きに近づく頃、夏梅が腰を浮かしてハンドバックを抱えて出口へ足早に向かい、扉を押して出て行くのだった。
 化粧室の鏡に向かって化粧を直している夏梅の後ろに、楊麗氷が近付いた。鏡に彼女の姿が映るや、夏梅ははっと振り返るのだった。
「こんばんは、夏梅さん」
 楊麗氷が笑顔でいった。
「人違いよ」
 夏梅は冷やかにいった。
「もう芝居はここまでよ、ちょっとご足労いただきたいの」
 楊麗氷の言葉が終わるやいなや、夏梅はいきなりバックを彼女の顔に投げつけ、彼女がひるんだ隙に出口を走り出た。飛び出したところ、一人のスーツ姿の男と危うくぶつかりそうになった。
「おとなしくしろ」
 山城がピストルで狙いながら、低く吠えた。
「さ、いきましょう。もし逃げ出したら、彼の銃弾があんたの脳天をぶっ飛ばすわ」
 楊麗氷は笑みを湛えて脅しながら、夏梅の腕を抱えて歩き出した。夏梅は真っ青な顔を下げ、引きずられるようにして歩いた。
 ホールを渡り、玄関ドアを出たら、車寄せに黒塗りの車が停まっていた。
 ドアマンが慇懃にドアを開けてくれる。楊麗氷は夏梅を押し込むように後部座席に座らせ、隣に坐った。反対側のドアが開かれ、城山が入って頭を下げている夏梅の隣に腰を下ろした。
 車は急発進して走り出した。

 石造五階建てが大木の点在する庭に鎮座し、周りを鉄条網が挿された灰色のレンガ壁が張り巡らしている。こここそ、もっとも恐れられる「梅機関」のアジトであった。
 様々な刑具が連なる地下室の部屋は、寒々とした空気に包まれていた。
 壁際に炭火が赤く燃え立つドラム缶が置かれ、胸毛が露な上半身を裸にした屈強な男が突っ立っていた。もう一人も裸の上半身で鞭を手にして、凄んだ形相で睨みつける。一人の制服姿の若者が机の前に坐り、タイプライターをいじっていた。
 椅子に坐らされた夏梅は恐怖で歪んだ顔をうつむけ、両手を膝の上に握っていた。
「夏梅大尉、荒っぽい真似はしたくないので、さっさと白状しなさい」
 楊麗氷は冷峻な面持ちで切り出した。
「あのとき、あんたを一発で殺したらよかったのに」
 夏梅が歯を食いしばって言い漏らした。
「いまさら虚勢を張っても無駄よ。あなたにあたしを殺す権限はないはずよ。痛い目に遭う前に、さっさと吐き出しなさい」
 楊麗氷が声を上げて詰った。
「……」
「ここに入ったら、自首するか、地獄行きか、どっちかよ。くだらない期待は捨てなさい。南京もわが軍に占領されたし、重慶に逃げ込んだ国民政府も、あなたのような小物を助けるなど余裕はないの。どうせ重慶も、そろそろわが軍の手に落ちるからよ。わたしと手を組んで一緒に仕事したら、もっと楽しく、豪華な暮らしができるわ」
 楊麗氷は笑みを浮べ、柔らかい語調で諭した。
「あたしを殺してちょうだい!」
 突然、夏梅が妖艶な顔を上げて、ヒステリックに叫んだ。
「あなたは美人で、頭が切れて、才覚の持ち主よ。このまま死んだら惜しいわ。いざ地獄の扉に近付いたら、あなたは跪いて、あたしに命乞いするでしょう」
「……」
 夏梅は今にも泣き出しそうな顔を低く垂れた。
「さ、上海に潜伏している仲間を教えなさい。これからはわが方のスパイとして活躍するのよ。重慶を行き来しながら、あなたの腕を存分に発揮して高官らを誘惑し、機密を持ち出すのよ。こちらの情報も向こうに提供するよう手配するわ。そうすれば、向こうもあなたを疑るはずがないでしょうからね」       
 楊麗氷は笑みを湛えて、朗々たる声で説得した。
「あたし、何も知らないわ」
 夏梅は顔を真っ青にして喚いた。
「こいつにひとつ焼きを入れよう」
 日本語で言いながら、胸毛の男がつかつかとドラム缶に近寄り、真っ赤に焼かれた三角形の鉄棒を取り上げて戻った。鞭を手にした男が椅子に近寄り、彼女の両腕を後ろへとひねった。
「彼のいっている意味は、あなたの顔にスパイの烙印を押してやるって」楊麗氷が通訳をしながら続けた。「彼らは自分の義務を忠実に遂行するの。 彼らの手にかかったら、口を開かない者はまずいないよ。あたしにも止める権限はないわ」
 胸毛の男が真っ赤な三角形の鉄棒を取り上げ、彼女の顔に近づけた。熱気が妖艶な顔に当たる。
「やめて、やめなさい!」
 夏梅が甲高い泣き声で叫んだ。黙示する楊麗氷をみながら、胸毛の男は脇に下がった。
「ね、夏梅さん、あたしに従いなさい。あなたが幸せに暮らせるよう、一戸建てに住み、高額な手当てをもらうよう手配するわ。あなたの協力次第では、もっと豊かな収穫がとれるわ」
 楊麗氷は近寄り、彼女の手をそっと握りながら囁いた。
「わかったわ」
 夏梅は涙に濡れそぼった顔をうつむき、小声で言い漏らした。赤い唇を開いて、たどたどしく語りはじめた。
 タイプライターを打ち続ける音が、静かな部屋にこだました


二十四
             
 夏梅の寝返りにより、数人の軍統のスパイを捕らえたが、その勢力は広い範囲で息を潜め、ただならぬ脅威と化していた。
 毎日のように暗殺が引き起こされ、偽政府の要人や、新聞社などの親日派の者、いわゆる売国奴が血の海に倒れこんだ。日本軍の軍事施設や、空港などがたびたび爆破にさらされた。
 数ヶ月の試練を経て、影佐機関長の許可のもと、楊麗氷は夏梅を餌に敵の頭目をおびき寄せることにした。むろん、数人が常に監視するものの、その気にさえなれば、夏梅が逃げ失せることは十分あり得ることだった。しかし、同志を売った罪を背負い、なによりも味をしめた眼前の栄華を手放すとはおもえなかったし、一通り試すことにした。
 夏梅は雀躍して仕事に取り掛かった。このことさえ完遂できれば、さらに豊潤な報いを与えられるからだった。
 彼女はホテルや、レストランなど、目星をつけて飛び回った。まず、そのありかを探り出すのがカギだが、どぶねずみのように逃げ隠れているだけに、困難極まりなかった。しかも、相手ったら上海に潜伏するスパイのボスで、なおさらであった。
 ある日、派手なドレスに身をまとい、夏梅は新亜飯店で開かれた舞踏会に赴いた。
 彼女の妖艶な容貌とあでやかな舞姿は、たちまち注目の的となった。紳士らは争って彼女にダンスを要請した。
 数曲も踊り続けた後、息抜きしようとバーに踏み入った。テーブルで独り酒を飲んでいると、ある紳士が近寄って声をかける。
「すみません、夏梅さんでしょうね」
 痩せぎすの男は笑顔で訊く。
「そうですが、どちらさまですか?」
 彼女は淡々とした表情で訊き返した。
「前、南京軍統局で勤めていた曲炎ともうしますが」
 男はおもねる表情で答える。位では自分の上だけに、慇懃な姿勢をとるしかなかった。
「どうぞお坐りなさい」
 夏梅が席を勧めた。
「たぶん、あなたは覚えていらっしゃらないかとおもいますが、わたしはなんども御目見えしています」
 男は遠慮がちにいった。高官ばかりを狙って飛び回る相手だけに、自分のような下っ端の者は目にとまるはずがなかった。
「そうですか。いまはどこで勤めているの?」
 彼女は男をちらっと一瞥した。
「実は、上海転属になりまして」
 男は小声で囁いた。
「そうだったの?」
 彼女はつぶらな目を見開いて、相手をみつめた。
「前は、確かに極秘任務についていらしたと聞いておりますが」
 男は詮索めいた目つきで彼女を見る。
「よかったら一緒に食事でもしない?あたしがおごるわ」
 彼女は笑みを浮べて腰をあげた。

 春の微風が街を和やかに掠め、穏やかな気象を漂わせる。
 夏梅はタクシーを降りて、「鹿鳴閣」の玄関を踏み入った。広東料理で名を知られる店内は、人波でごった返した。
 二階を上がって、7番の個室でドアをノックして入った。
 一昨日の夜食の後、曲炎がボスに一応話してから連絡をくれるといって分かれ、昨日電話がかかってきて、ボスが会ってほしいとの旨を伝えてきたのである。
 中年の優男は、満面に笑みを浮べて席を勧める。夏梅は差し向かいの椅子に腰を下ろした。
「夏大尉、お久ぶりです」
 優男は柔和な表情で切り出した。一瞬、相手を見分けられず、夏梅はぼうっとみつめた。
「すみません、どこでお会いしたでしょう」
 彼女は戸惑った表情で訊いた。
「ま、あなたのような、高貴な人物ばかり付き合っている方には、われらみたいな小物は、覚えるはずがないのも自然なことですな」
 軍統駐上海特務機関長、江武中佐は冷やかな目で彼女をねめ回した。
「あなたは江武じゃないわ、あたしをごまかせるとおもったら大間違いよ」
 夏梅は勃然と怒りを露にして叱責した。
「どうして怒るんだ、おれは江武だぜ」
 偽者はどぎまぎしつつ弁明した。
「帰ってボスに伝えて、あたしを誑かしたら決していいことないと」
 夏梅は言い捨てるなり、立ち上がって部屋を出ていった。
 偽者は呆然と彼女の背中に目を注いだ。ボスの命に応じて、その影武者としてきたものの、相手に一目で見破られたのだった。
 偽者は「鹿鳴閣」を出て、客を待っているタクシーに乗りこんだ。タクシーは発進して、大通りへ出た。その後ろを一台の車がつけて走り出した。

 週末の夜、夏梅はセラトンホテルのロビーを歩き、バーに入っていった。三十数ものテーブルの大半は、客で埋められていた。
 壁際に坐る一人の中年男子が、じっと彼女をみつめる。
「こんばんは、江武中佐殿」
 夏梅は笑顔で挨拶した。丸みの顔をこわばらせ、鋭い目つきで睨みつける男は、写真と瓜二つの様子だった。
「こんばんは、夏梅大尉」
 特務ボスはやっと顔をほころばせていった。
「ここでお会いできまして、うれしい限りです」
 夏梅は笑みを振り撒いて、相手を見返した。
「たしかに、昨年の夏頃、南京のダンスパーティでお目にかかったとおもいます。わたしが間違っていなければ、あなたは五十八軍軍長の羅宏に付き添っていたはずですが。どうしてここにいらっしゃるんです」
 江武は詮索の目つきを、じっと彼女に注いだ。夏梅は緊張した顔に薄っすらと笑みを浮べ、相手をみつめた。
「重慶に撤退するとき、新たな指示を頂戴しまして、ここに忍び込んだのです」
 彼女は静かな語調で言いつくろった。
「いま、どこの所属です?わたしに会う目的はなんでしょう」
 江武は堅苦しい表情で、身体を椅子に反らせた。
 位では下の者だが、その背景は権勢の威光でちらつくだけに、遠慮がちな挙措を装った。なお、好色家の彼はつい心の衝動を抑え切れず、彼女の美貌に引きずられるまま足を運んだのである。
「南京特務局に属しています。このたび、貴殿との連携をはかるために、焦雲局長から指示を仰いでまいりました」
 夏梅は小声で囁いた。周囲の男女らは笑い声を上げながら談笑している。
「そうか、なにか文書でも持ってるか」
 江武はやっと笑顔でいった。焦雲とは保定陸軍学校の同期生で、南京に潜伏した特務局の長である。二人は昵懇の間柄で、ライバルでもあった。
「今日は持参していません、後日差し上げますので」
 夏梅は妖艶な顔に笑みを湛えて囁いた。江武は心が弾み出すのを抑えながら、彼女のあだっぽい面持ちを見据えた。
「わかった。ま、上のレストランにいって、食事でもしながら話そう」
 江武は腰を上げ、ゆったりした足取りで歩き出した。夏梅はその後ろをついていった。二人の男が立ち上がって、ドアに向かって歩いた。
 江武と夏梅がエレベーターに乗ると、二人の男も一緒に乗りこんだ。エレベーターが八階で停まると、江武と夏梅が降りてきて、後ろを二人の男がついた。
 そのとき、エレベーターの両側の端から数人が飛び出て、二人の男を制した。
 はっと振り返る江武に、楊麗氷が銃口を向けた。
「江武殿、おとなしくついてきなさい。あの女を連れていって」
 楊麗氷が冷やかに芝居ぶった口調で言い放った。
 一人の男が力づくで、夏梅の両手を乱暴に後ろへひねりあげた。二人の捕まった男は拳銃を没収され、しょげた表情で頭を垂れていた。
「楊麗氷か、さすがに女傑そのものだな」
 江武が口を歪めて揶揄した。
 次の瞬間、江武は右手を振り上げた。袖口から飛び出した小さなナイフがきらりと一閃し、楊麗氷の頬を掠めた。素早く反応し、頭をかわしたのが幸いしたのだ。
 一発の銃声が響き、江武は右腕を押さえて顔を歪めた。
「お前さんを殺すにはまだ速いわ。さ、この男をつれていきなさい」
 煙が靡く銃口を振りかざしつつ、楊麗氷がいいくさした。
 一人の男が大股で近寄り、江武の腕を引っ張ってエレベーターに乗り込んだ。三人の男が銃で二人の捕虜の腰に突きつけ、一緒に乗り込んだ。その後ろを男に腕を掴まれた夏梅と楊麗氷が続いた。
 レストランの入り口に給仕や、数人の客が顔を覗かせ、驚愕した目つきで見据えていた。
 地下室に連行された江武は、数回の鞭に打たれるなり、洗いざらい吐き出した。鞭の気勢に度肝を抜かれ、もっとも飴の誘惑に魂を抜かれ、組織の全員を売り飛ばしたのである。
 大都会の街の隅々を、サイレンを鳴らすジープを先頭に、兵隊を乗せた軍用トラックや囚人護送車が連日駆け回った。              
 ジープの助手席に乗り、楊麗氷は陣頭指揮をとった。
 夏梅の活躍で江武を捉えられ、潜伏していた軍統のスパイらが芋ずる式に捕まった。中には、傀儡市政府の役員、貿易会社の経営者、新聞編集者など、様々な仮面の人物がいた。
 「梅機関」の地下室は、逮捕された犯人を尋問する声で響き渡った。罵声やら、呻き声やらが、荒々しくこだました。
 楊麗氷は自ら尋問の現場に出向き、脅したりすかしたりして情報を吐き出させた。
 大半の者は苛酷な拷問に耐え切れず、洗いざらい自白するが落ちだった。一部の者は頑として節を曲げず、堂々たる姿勢で刑場へと向かった。
 このたびの掃討作戦により、数十人のスパイが捕らわれ、軍統に甚大な打撃を与えた。が、終りなき戦いは延々続いた。
 雨後の竹の子のように、軍統から送り込まれたスパイらが密かに忍び込んでは、様々な破壊工作を敢行した。偽政府の要人をはじめとする売国奴を暗殺したり、日本軍の機密を掻っ攫ったり、橋梁や軍事施設を爆破したりして、荒っぽい手口で奇襲を仕掛けてきた。
 占領下の大都会は黒雲に覆われ、新たな局面にさらされていた。


二十五
           
 四十年代初頭、汪精衛偽政府が南京で正式に発足された。  
 「曲線救国」との売国奴を標的にした、軍統の反撃が激化の一途を辿る中、その特攻組織を打ち立てるのが急務となった。
 影佐機関長の指示を仰ぎ、楊麗氷は自ら陣頭指揮をとって奔走した。特務組織の長たる人選に当たり、楊麗氷は李士群という者を推薦した。
 若い節に中国共産党の一員となり、二十七年初頭にソ連に赴き、「東方大学」で諜報科を卒業して帰国した李士群は、蜀聞通信社の新聞記者として秘密活動に加わった。三十二年、国民党の軍統に逮捕された彼は、苛酷な拷問に耐え切れず転向し、国民党中央組織部調査科の情報員として勤めた。
 楊麗氷が脱獄し、上海に戻って間もない頃、軍統の特務に追われていた李士群を救ってやったのだ。組織からもらった特務活動費用を猫糞し、偽政府に鞍替えようとして発覚され、軍統の特務に追い回されていたのだ。
「梅機関」の応接室で、楊麗氷は李士群とテーブルを挟んで座った。
「先般は、お陰さまで助かりました。ご恩は一生肝に銘じておきます」
 李士群は腰を折って礼を述べた。軍統としても肝胆を寒からしめる凜凜しい女性スパイを、彼は畏敬に満ちた眼差しでみつめた。
「ここにお呼びしたのは、例の政府特攻本部の設立に関することです。ご存知のように、国民党軍統の地下活動は猖獗を極めています。したたかに反撃しない限り、政府の正常なる運営は窮地に陥りかねません。当機関としては、あなたが率先して行動を起こし、特攻組織を立ち上げ、迅速なる行動に移してほしいです」
 楊麗氷は厳粛な面持ちでいった。
「ご提案には諸手を挙げて賛成します。わたくしも腹案をまとめて、政府の上層部に建言したいところでした。今週中にさっそく報告書を提出することにします」
 李士群は興奮した口調で言い切った。諜報活動一筋で歩んできた彼は、はやくも時代の流れを読み取っていたし、檜舞台で脚光を浴びるこのときを狙っていたところだった。
「では、あなたを主として、特攻総部の人選を速くまとめていただきたいですが、お考えはいかがですか?」
「わたしの考えとしたら、特攻総部のトップは、政府の少将参議である丁黙邨にお願いしたほうがよろしいかとおもいます。わたしは副部長として支えさせていただきたくぞんじます。その他の幹部人選については、一通りの案はできておりますので、再検討して決めることにします」
 李士群は得々たる顔で並べ立てた。
「ひとつ覚えてほしいですが、これからの重大な行動においては、必ず事前報告を提出してください。わが軍とわが機関にいかなる迷惑ももたらさないことを、誓っていただきたいです」
 楊麗氷は毅然たる表情で念を押した。
「承知いたしました、心より誓わせていただきます。それに、具体的な援助内容について、よかったら教えていただけますでしょうか」
 李士群は目を見開いて、最大の関心事を口にした。
「それならご心配いりません。必要な武器と弾薬、活動費用は、後日リストを作成してあげますので」
 楊麗氷は淡淡とした表情で、頭を縦に振った。

 「梅機関」での密室会談から一週間経って、汪精衛偽政府の特攻総部は正式に発足した。
 丁黙邨、李士群をはじめとする百数十人の特務が一堂に会し、旗の前で宣誓をした。
 特攻総部の所在地である、公共租界のジェスフィールド76号にちなんで、組織は「七十六号」と命名した。
 有刺鉄線の柵が連なるレンガ塀に張り巡らされた庭園の中に、洋風の三階建てが佇む。元国民政府の高官の邸宅で、鉄扉の前はバリケードが横たわり、自動小銃で武装した四人の門衛が二十四時間交替制で見張りに立っていた。
 かつて、ソ連でスパイ教育を受けた李士群は腕によりをかけ、鮮やかに本領を発揮した。軍統で数年間特務を勤めた彼はその内幕を知り尽くしていて、常に裏をかいて奇襲攻撃に出た。
 国民政府と偽政府との、血で血を洗う凄惨極まりない戦いが幕を開いた。日本軍のバックアップもあり、偽政府が常に優勢に立っていた。
 夏のある夜、共同租界に佇む偽政府の新聞社の前に、一台の車が乗り付け、数人が手榴弾を投げ込み、自動小銃で乱射した。夜勤で働いていた数人の工員が死傷した。
 数日後、上海四馬路にある偽政府の機関紙の事務室が、またも軍統の特務による襲撃に見舞われた。
 李士群の指令を受け、特攻総部はすかさず反撃に出た。
 国民政府側の日刊紙「申報」は抗日反汪の急先鋒として、宣伝活動を繰り広げていた。
 この日のお昼、共同租界の道路を一人の中年男性が歩いていた。「申報」の編集長の金星で、昼食を終えて会社に戻るところだった。
 一台の乗用車が側で停まるなり、開けられたドアの中から銃声が轟いた。身体に十数発の銃弾を浴びせられ、金星は即死した。
 日刊新聞「華昇」は国民政府の御用紙として知られた。ある日の夕方、社長の廉銘が自宅の庭の扉を押して入ろうとしたところ、走ってきた車から ピストルで連射され、あっけなく事切れた。
 テロや暗殺は、日常茶飯事のように繰り広げられた。黄浦江の水面には、毎日のように水死体が浮かび上がった。
 特攻総部の反撃行動はさらにエスカレートした。しかも、なんの前触れもなく、突発的に引き起こされたのだ。
 ある日の昼下がり、上海商工銀行に数人の覆面した男がピストルを持って押し入った。お客らを壁際に押し込み、二人の行員を射殺したばかりか、支配人を銃で脅かし、金庫室から巨額の金を掻っ攫って逃げ失せた。
 市中を震撼させたこの事件は、たちまち信用不安を引き起こした。
 その翌日の午前、楊麗氷はフォードに乗って、76号の玄関先に乗り付けた。
 満面に笑みを浮べ、李士群がリビングルームに通してくれる。
「あんたたちは法も神も眼中にないの?一体どういうつもりなの?」
 楊麗氷は怒りを露にして怒鳴った。
「誤解を与えたとしたら、まことにもうしわけありません」
 李士群はきまりが悪い表情で弁明した。
「すでに証人や、証拠を押さえているの。信用危機を招いたら、あなたの首を差し出しても問題解決にはならないわ」
 楊麗氷は烈火ごときに息巻き、鋭い目つきで相手を睨んだ。
「手下らの無謀な行動でご迷惑をおかけしまして、まことにもうしわけありませんでした」
 李士群は紅潮した顔でお詫びの言葉を口走った。
「最近、あなたはますます付け上がっているの、お陰であたしの立つ瀬もなくなったわ。わが機関を差し置いて、自分の縄張りを拡大して振る舞うなんて、絶対許されません。早く目を醒まさないと、遅かれ早かれ天罰にみまわれるわ」
 楊麗氷は言い捨てると、立ち上がって部屋を後にした。李士群がおどおどした顔で後ろをついてきて、玄関先から走り去る車を見送った。   
 その後も、李士群は調子に乗って暴れまくり、数々の不手際の過ちを犯し、「梅機関」の上層部の逆鱗に触れる羽目になった。ついに特高課の手にかけられる末路を辿るとは、本人すら夢にもおもわなかったはずである。
 だが、総体的にみなせば、李士群が率いる特攻総部がしかるべき役務を果たせたのは確たるものであった。
 重慶側の軍統スパイらの破壊工作を抑制し、汪精衛政府を守るにおいては、「梅機関」の指揮のもとで一定の役割をはたしたものであった。そのお膳立てをした功臣の一人として、楊麗氷も欠かせぬ役目を果たしたのである。


二十六
               
 血生臭い風雨に塗れた月日は、目まぐるしく流れ去った。占領地の殺伐とした雰囲気とは裏腹に、大都会は依然と変わらぬ景色をさらけ出した。
 脱獄して以来、楊麗氷は人生のもっとも華やかな一時を満喫していた。命を賭けたサバイバル世界をくぐり抜け、わが世の春を謳歌する桃園郷さながらの享楽に浸りきった。
 狩られる受け身から一転して、狩りたてる女神の誇り高き立場に立たされ、がむしゃらに地下に潜り込んだ獲物を探して飛び回った。
 鞭と飴を盛り合わせた常套手段を駆使し、軍統のスパイらを次から次へと捉え、手玉にとっては気ままに虐げた。
 彼女の名前は雷ごときに轟きわたり、軍統のスパイらをして肝を冷やされた。どぶねずみのように暗い溝を忍び回っても、いつしか網に引っかかる運命に見舞われるが落ちだった。
 上海軍統地下組織は幾度となく設けられたものの、やがては俎上の魚ごときの惨めな結末に見舞われたのだった。
 戴笠はかんかんと怒りに狂い出し、いかなる代価も惜しまず、楊麗氷を抹殺するよう指令を出し、えり抜いた精鋭のスパイを遣わした。
 捕まったスパイから聞かされ、楊麗氷は冷やかに笑いを漏らした。端から相手を軽蔑したし、毛頭気に留めなかった。

 この日の午後、楊麗氷は「大世界」娯楽場へやってきた。
 淡黄色の四階建ての真ん中は、十二本の円柱に支えられた六角形の多層の尖塔が聳え、ユニークな模様を浮き立たせる。マーケット、劇場、映画館、児童娯楽場、浴場、賭博場など多目的娯楽施設は、全国からの客を誘き寄せ、大繁盛をきたした。
 楊麗氷はまっしぐらに一階の賭博場に向かった。捕まった一人のスパイから、組長がここを出入りしていると自白したからだ。彼女の後ろを、紺色のスーツ姿の男がついていった。
 入り口のところで、一人の男が充血した視線を床に這わせ、しょげた表情で突っ立っていた。細面は青白い色に塗られ、小さな目は曇っている。三人の男が囲み、凄んだ形相で責め立てていた。
「お前は、今日必ず返済すると約束したじゃないか。できないくせになぜ人を騙すんだ。もうこれ以上お前を放っておくにはいかん。じゃ、いっしょにいくんだ」
 ちびの男が凄んだ形相で言い募った。手先らしい二人の屈強な男が相手を睨みつける。
「すまん、もうちょっと大目でみてくれ。今度こそ必ず巻き返してやるからさ。そしたら、利息を倍以上に返済するから」
 細面は哀願じみた口調でいった。
「お前はいつも、そんな口調でおれたちを騙してるんじゃないか。おまえにつきが回ってくるはずないし、おれらもこれ以上騙されるわけにはいかん。さ、いこう。もうけりをつけるべきだ」
 ちびの男が大声で責め立てた。二人の屈強な男が、細面を両脇から挟むように近寄った。
「ちょっと待ちなさい。人をむりやり責めるんじゃないよ」
 楊麗氷が近付いて声を上げた。
「あんたは誰だ、この人の情婦か?」
 ちびが揶揄した。男らが一斉に彼女を見やる。
「友人よ」
 彼女は凛とした姿勢で、男らを睨み返した。細面はうろたえた表情で、彼女の艶めかしい顔をみつめる。
「なら、この人の借金を肩代わりするということだな」
 ちびがにやにやしながらぬかした。
「もちろんよ」
 彼女は冷やかな目つきで睨み返した。紺色の男が近付いて、男らをねめつける。
「さ、今すぐこれを払ってくれ」
 ちびがポケットから借用証を取り出してみせる。彼女はひったくるように受け取り、ちらっと目を通した。
「三日内に払うって、陳経理に伝えなさい」
 楊麗氷は借用証をちびの顔めがけて放り投げた。
 一人の仲間が腰をかがめて借用証を拾い上げ、ちびに手渡した。賭博場の隣の一室は高利貸しの闇金融のブローカで、頭目は陳林という者であった。
「あんたは一体誰だ、なんで勝手に口をはさむんだ」
 ちびの男が勃然といきり立った。屈強な男らが彼女と、紺色のスーツの男を睨みつける。
「てめえ、おとなしく下がるんだぞ」
 紺色のスーツ姿の男が目を瞠って怒鳴った。
 二人の屈強な男が向きを変えて睨みをきかす。細面はおろおろした顔で見交わしていた。
「いくら闇金融って、暴利をむさぼったら決していい結末がないと、あんたらのボスに伝えたはずよ。そのうち呼び出すからって伝えなさい」
 楊麗氷は冷やかな目つきで睨んだ。ちびの男はやっと飲み込めたかのように、目をぱちくりさせた。
「この方は『梅機関』の楊麗氷中佐だ。お前らのボスにいっとけな、近いうちに貴様らの巣窟をひっくり返すから」
 紺色のスーツ姿の男が口を歪めて怒鳴った。
「さ、いきましょう」
 楊麗氷は細面の男に声をかけた。
 しょげた顔をうつむけていた細面の男は、突如懐から拳銃を取り出して彼女に狙いを定める。
 一発の銃声が響き、拳銃が床に落とされ、細面の男は左手で右腕をつかみ、顔を歪めて呻きを漏らした。
 紺色のスーツ姿の男が手に拳銃を握り、細面の男の襟を掴んで出口へ向かった。
 楊麗氷も後ろを歩いていった。ざわめく賭博場内では、博徒らが依然と賭け事に首っ丈になっていた。
 三人の後姿を、ちびの男が口をぽかんと開けてみつめていた。
 尋問室に入るなり、細面の男は洗いざらい吐き出した。もっとも、多額の報奨金に釣られ、さっさと寝返ったのである。
 数日の捜索により、上海に潜伏してまもないスパイ網が殲滅され、仮装したスパイらが次々と網に引っかかった。
 大掛かりな殲滅作戦は絶え間なく行われたが、それは鎮まりかけた一区切りにすぎなかった。やがて、軍統から送り込まれた新入りのスパイが、密やかに忍び込んできた。
 止む無き戦いは延々と続き、楊麗氷は心機一転して、新たな戦いに飛び込んだ。


二十七
              
 晩秋の夕日が染めつくす大通りを、楊麗氷はフォードを運転して「百楽門」へ向かった。街路樹の葉っぱが彩られ、紅葉の風情を鮮やかに浮き立たせる。
 半ば同棲生活を通し、二人の愛の絆はきつく結ばれた。鳥居の一途な真心の愛情に、彼女はついに心を動かされた。
 今宵の逢瀬にあたり、自分の思いの丈を打ち明け、彼のプロポーズを素直に受け入れようと決意した。たとえ、いかなる試練が立ちはだかろうと、二人して艱難曲折を乗り越えていこうと腹をくくった。
 車は「百楽門」の前で停まった。
 運転席を降りたら、ボーイが笑顔で近寄り、運転席に乗って駐車場へ走りこんだ。歩道には行き交う人波でごった返した。
 ベージュ色のチャイナドレスに身をまとい、楊麗氷は颯爽たる足取りで階段を上っていった。
 そのとき、一人の黒のスーツ姿の男が忽然と姿を現し、ピストルで彼女の背後から発砲した。
 三発の銃声が鳴り響き、彼女はあっけなく前につんのめった。男は脱兎のごとくに走り去り、人波に紛れて姿を消した。
 ロビーのコーヒー・コーナの椅子に坐り、新聞を広げていた鳥居が足早に玄関を飛び出した。
 驚愕した顔で駆け寄り、階段の上にうつ伏せになっている楊麗氷を抱き起こした。ベージュ色のドレスの背中が赤く染まっている。
「雲子、雲子!」
 悲痛な呼び声が周りにこだました。人々は足を止め、眼前の光景に目を注いでいる。
 楊麗氷は微かに目を開け、鳥居に向かって笑みをこぼした。唇の端を、一筋の鮮血が伝った。
「雲子、しっかりしろ。今すぐ病院にいくからさ」
 鳥居が顔を歪めて、必死に叫んだ。
 一台の車が隣に走ってきて停まり、車から降りてきた日本軍制服姿の憲兵二人が近寄ってきた。
「いいえ……、このまま……、あたしを抱いて……」
 彼女はかぼそい声で、とぎれとぎれに言い漏らした。鳥居は階段にうずくまり、彼女をそっと両腕で支えてやった。
 彼女は頭を彼の胸にあずけ、目を大きく開いて、夕焼けに染まった西空を見上げる。
「父と母に……、悲しまないって、……伝えて……」
 彼女は微笑を含んだつぶらな目で、彼をじっと見つめながら弱弱しく囁いた。二人の兵士が沈痛な面持ちで見守っていた。
「わかった……」
 鳥居は涙ぐんだ目で彼女をみつめながら、軽く会釈した。右手を差し出し、彼女の温もりのある華奢な手を握り締めた。
「あなた……、いいお嫁さんを……もらって、……幸せになるのよ……」
 彼女は笑顔を作りながら、声を絞り出した。
「雲子!……」
 鳥居の頬を熱い涙が伝った。彼女の麗しき頬に、一滴の涙がこぼれた。
「あの……、虹の空……、美しいわ……」
 彼女はつぶらな目を見開いて、じっと夕焼けの西空をみつめる。
「雲子、お願い、死なないでくれ!」
 鳥居は滂沱たる涙を流しつつ、泣き声を漏らした。
「あたし……、故里に……帰りたいわ……」
 彼女のつぶらな目に、精気が消え失せかける。
ふと、彼女の手が鳥居の手からだらりと抜け落ちた。焦点を失った瞳が固まり、夕焼けに燃える西空をみつめる。
「雲子!……」
 鳥居は大声で呼びながら、涙に濡れそぼった顔を彼女の顔に覆わせた。涙ぐんだ顔をうつむけ、兵士らは手で軍帽を取り、頭を深く下げた。
 サイレンを鳴らしながら、憲兵らを乗せたオープンジープが駆け抜けていった。



           〈 了 〉

帝国の花

帝国の花

梗 概 本作品は日中戦争時に、日本軍の超一流女スパイの鮮やかな活躍ぶりを描いた物語である。 楊麗氷と名乗るヒロインは、社交界の新女王として登場し、国民政府の要人らに巧みに接近し、相手を篭絡してまんまと機密を手中にする。 ついに敵の罠に陥った彼女は必至の覚悟で過酷な試練を耐え抜き、臨機応変に監獄長を寝返らせ、同志の果敢な協力にたより脱出する。 帝国の覇業の成し遂げたい雄志を胸に、がむしゃらに突き進む「帝国の花は」、ついに敵の銃弾に見舞われる。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-03

Copyrighted
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