ちっぷあっぷ! ぼくらの記念日

秋邑 茨


     一. 給食やめます



【学校給食が廃止(はいし)になります。お昼はお弁当となりますので、ご家庭でご用意・・・・・・】
 やったあ。
 いちばん嬉しそうにしてたのは、学級だよりを配っていたトキワ先生だった。
 学校給食はハッキリ言ってまずい。あまった給食を集めたら、味噌汁が入ってるずん胴鍋があふれてしまうかも。それほど不人気だ。
「栄養バランスを考えて作ってくださっているのだから、残さずに食べないといけません。」 一日おきにそう話していたトキワ先生が、アレルギー体質を理由にして、急に可愛らしいお弁当を持ってくるようになったくらいだから、先生方もきっと、ずっと問題だと思っていたのだろう。
 でもぼくからすれば、どうでもいい、関係のないお話。 「 残すくらいなら食うな!」 食堂をけいえいしてる父ちゃんにそう言われて育ったぼくは、食べ残すことがわかってる給食を、ボイコットしてるところだから。それに、それだけじゃなくて、
ぼくにはジジョーがあるから。
「キョウヘイ、待ってよ」 
 チェッ。ついて来るなよ。
 幼馴染みのミクは、ウチの三軒隣りに住んでいる不動産屋のひとり娘。運が良いのか悪いのか、幼稚園から四年生までずっと同じクラスだ。
「たぶん、ブーブー言うわ。お母さん」
 ミクは学級だよりを広げて、となりに並んだ。
「家事の負(にな)が増えるでしょ。出費も」
 思っていることをそのまま口にするのはいつものこと。似たようなことを考えているところも。だけど最近のミクは、難しいことばかり考えているような気がする。ぼくよりも。
「ウチには関係ないや」
「わたしだけかな。嬉しいと思ったの」
 嬉しいってなんだよ、おばさんがブーブー言うって言ったくせに。
 おかしいぞ、最近。人の話しは右から左に、スルーだし。
「何が嬉しいんだよ」
「自分で作ろうかなと思って」
 え? 自分で? ウチじゃ、母ちゃんだって、厨房(ちゅうぼう)には立たせてもらえないんだぞ。
 ああ、そっか。
「冷凍食品はよくないぞ。料理は、食材がだいじなんだから」
 余ったご飯と、レンジでチンしたものをつめるくらいなら、ぼくにだってできるさ。
「ぷっ」
 ミクは吹き出して立ち止まった。
 食堂の息子らしいことをキョウヘイは言うが、店の手伝いもしたこともないキョウヘイに、料理など出来るはずがない。
 言ってから自分でもおかしくなる。
「ねえ。いい機会だから食べなさいよ、お昼」
「慣れたからいいんだ、もう」
 ミクは妹のタエ子のことを、ほんとうの妹のように思っていて、とうぜん、タエ子の事故のことも、ウチの事情も知ってる。きっと、ずっと気に掛けてたんだろうな。
「わたし、作ってあげる」
「ミクが? ぼくのぶんを!?」
 思わず声が裏返ってしまった。
「うん。おかずのつめ方を変えたり、ふりかけをかけたりして見た目を変えるの。同じように見えないようにすれば、恥ずかしくないでしょ」
 タエ子が入院していなかったら、給食をボイコットするまでは、しなかったかもしれない。それなら・・・・・・
 いや、ダメだ。そんなこといつまでもつづくわけないし、ミクに負担をかけることになる。それより何より、病院でつらい治療にたえてるタエ子に申しわけない。
「お料理、習ってるの。お母さんに」
 キョウヘイの頭のなかに、元気だった頃の、タエ子の姿が浮かんだ。
 よく、ママゴトをしたよな。ミクとふたりで。商店街の端っこの公園で、砂や土をねってごはんにしたり、雑草や落ち葉をおかずにしたりして。
「お母さんだって喜ぶわ。きっと」
 おばさんだったら、ダメとは言わないだろう。でもやっぱり、「頼むな」 なんて言えない。
「調理師になるの。わたし」 ミクが恥ずかしそうに言って、学級だよりを折りたたむ。
 ミクは何をさせても器用だし、頭もいいし愛想だっていい。案外、合ってるかもしれない。
「調理師って言ったって、何をする気なのさ」 どうせフレンチとか和食とかの、こじゃれた店なんだろ。
「ヒミツよ」
「夢ってのは、口に出した方が叶うらしいぞ」
 ミクは立ち止まって、西の方にからだをひねった。
 (だいだい)色の空が山の(はす)面にまで広がり、肩まで届きそうなミクの黒髪が、チカチカ光ってる。
「十年もすればわかるわ」
 十年ってさ・・・、まだ十年も生きていないんだぞ、ぼくらは。
「って言うか、不動産屋はどうするのさ。ミクがやらなきゃ、」
「たたむんだって。東京の不動産屋さんで、働くんだって。お父さんとお母さん」 
 この辺りは五階建ての団地が何十棟もあって、二、三十年前はずいぶん賑わったらしい。だけど今は、空き部屋ばかりで、杖をついたおじいさんとシニアカーを押すおばあさんばかり。しかも駅から離れた郊外だ。不動産屋をしていても(もう)かりそうにないのは、ぼくにだってわかる。
 でも、ミクの店が無くなったら、ウチと床屋とひげもじゃ先生の診療所だけになってしまう。いったいどうなっちゃうんだろう。商店街は。この町は。
「お年寄りが通う、デイサービスになるそうよ。ウチのお店と、お隣りの(かし)店舗を改装(かいそう)して」
 なるほど。人が集まれば、ウチの店もひげもじゃ診療所も儲かってにぎやかになるぞ。
 いや。ウチは無理だ。 『たらふく食堂』 は、食べ盛りの学生さんとか職人さん向けの店。味付けが濃くて、ふつうに頼んでも大盛りなみの量で、しかも和食も洋食も中華もへったくれもないメニュー。ぼくは大好きだけど、お年寄りにはドク。ガンコな父ちゃんが味付けをかえるなんて、考えられない。
「ウチもやばいかもしれないな。つぶれたらどうしよう」
 不安を口にするつもりなどなかった。つい思っていることが、口からもれ出てしまったのだ。
「やり方しだいでどうにでもなるじゃない、食堂だったら」
 やり方しだい。って言うか、父ちゃんのやる気しだいなんだ。 「残すなら食うな。」 「客に出す調味料なんぞあるわけねえだろ。」 「黙って食え。」 あれじゃ、客が減るのは当たり前。わかってるのに、父ちゃんは直そうともしない。
「やり方って言ってもなあ」
「出前を始めるとか」
「簡単に言うなよ」
 確かに、給食廃止は、たらふく食堂にとってチャンスかもしれない。だけど出前には出前の味付けがあるし、人手も必要だし、自転車だって買わなけりゃいけない。給食費さえ払うよゆうのないウチでは、出前なんて無理だ。
「プロデュース、してあげようっか」
 プロデュース?
 それって、要するに・・・・・・新メニューを考えたりとか、シャレた店に作りかえたりして、お客さんがいっぱい来るようにするって、ことだろうか。
「まずは営業から」
 えいぎょー !? 
「何だそれ」
 またまた思い浮かんだことが、口からもれ出てしまった。
「明後日にでもおじさんに話してみる。早いに越したことはないもの」
 キョウヘイはいがぐり頭をぼりぼり()いて、スキップをふむミクを見送った。白いカーディガンの背中を、赤とんぼが追いかけていた。



     二. タエ子の友だち不思議な子



 病院までは、自転車を飛ばせば十五分もかからない。自転車があったら、一時間は、タエ子といっしょにいられるのに。
 神社の脇道に出たキョウヘイは、落ち葉のうえをわざと踏んで坂道を駆け上がる。ランドセルを揺らさないように走るのはイライラするし、なかなか前に進んでくれない。ザッ、ザッ、シャシャシャッ―――落ち葉の鳴る音で、ムカムカをまぎらわせたかった。
 チェッ、気楽なもんだな。
 外野スタンドの向こうで、野球チームが練習試合をしてる。隣りの西小の生徒がほとんどだけど、顔見知りもいるはずだ。
 休日にランドセルを背負っているところを見られるのが恥ずかしくて、ベンチから聞こえる棒読みのようなかけ声と、秋風に舞う土ぼこりを避けるように、キョウヘイは桜並木の太い幹に隠れながら町工場の脇を抜け、病院へむかった。

「待ちなさい」
 ふう。毎日来てるんだからいいじゃないか。
「いつも言ってるでしょ」
 看護師に呼び止められたキョウヘイは、ナースステーションのカウンターに(きびす)を返し、面会票に名前と住所を記入する。 「個人情報のろうえーだよ。何かあったら、どうすんのさ」
 ずっと言おうと思っていたことが初めて言えて、胸のもやもやが少しだけ、すーっした。 
「患者さんの為に書いてもらってるの。はい、どうぞ。ごゆっくり」
 かんじゃさんのため? どうしてかんじゃさんのためになるのかを言わなきゃ、わかんないだろ。わかるように言ったらどうだい。大人なんだから。
 キョウヘイは心の中でもんくを言って、番号が書かれただけのバッジを受け取り、タエ子の病室に向かう。
 それにしても、どうしてぼくはこうなんだろう。
 思っていることを、そのまま口に出せない自分がもどかしい。父さんと母さんみたいに、ケンカになるのが嫌だからだろうか。まだ子供だからだろうか。
 ま、いいや。忘れようっと。 ―――余計な心配かけんじゃねえぞ。タエ子にはよ。
 困った顔なんて、見せられないもんな。タエ子には。 
「持ってきたぞ」
 キョウヘイは勢いよく病室のドアを開けると、ベッドを斜めに起こしているタエ子に駈け寄った。 ―――病院食なんかじゃ栄養がとれねえからよ。
 学校が休みの日には、父ちゃんの言いつけを守って差し入れを持ってきてるのだ。
「ありがと。重たかったでしょ」
 黒目勝ちの目をうすく開けたタエ子は、母ちゃんが作った薄い生地のキャップに手を当てて身なりを整える。手術でつるつるに()った髪も、もうショートヘアと呼べるほどまで、伸びているというのに。
「たらふく食べて、退院に備えないとな」 キョウヘイが耳元でささやく。
 ふだんはお昼を抜いているキョウヘイも、休みの日はタエ子といっしょに食事をとるようにしている。
 看護師さんに見られたら、 「食事カイジョしてるって言ってごまかせよ。」 父ちゃんにはそう言われているけど、やっぱり見つかるのはイヤだ。
「ビーフシチューだぞ」
「わあ。ビーフシチューだあ。お父さんの、」
「しぃーっ」 ぼくは口の前に人差指を立てた。バレたら大変だ。
 タエ子の代わりに言うと、父ちゃんのビーフシチューは、 「本格料理がおなかいっぱい食べられる店なんて、今どき無いわ。」 「毎日食べに来られたらしあわせ。」 そう言ってくれるミクとトキワ先生のイチ押し。父ちゃんの自信作なのだ。
「おいしそうな香り」
 香りでわかるんだ、ビーフシチューの味ってのは―――。
 匂いだけはごまかせないもんなあ。
 ま、いいや。
「あ。リンちゃん」 えくぼをできたタエ子の顔が、扉に向く。
 リンちゃん? 
 振り返ると、あめ玉くらいのいちごの絵柄が入った、ベージュ色のパジャマを着た女の子が立っていた。
 ぼくより少し伸びたツンツンヘアーが男の子のようで、大きなマスクが、顔のほとんどを隠している。 
「しまづリンちゃんよ。院内学級で、お友だちになってくれたの」
 小児科ではリハビリや精神的な安定をかねて、勉強の時間を設けている。入院期間の長いタエ子と一学年下の一年生のリンは、自然と仲良しになったのだと言う。
「リンちゃん。立ったままでいないで、こっちに来て」
 リンは細いからだを折って、ていねいに頭をさげると、うつむいたままベッドに向かった。
 そんなリンちゃんは気になったけど、タエ子の明るい声が聞けたことの方が、ぼくは嬉しかった。
 あれ?
 ・・・・・・【しまづ ゆう___横浜市×区××町・・・・・・】
 リンちゃんは、 『あの』 しまづゆうさんの家族かも。きっとそうだ。
 思いながらもキョウヘイは、尋ねることができなかった。リンが背中を向けてしまったからだ。
「いい匂いでしょ。お父さんが作った、ビーフシチューよ。えんりょしないで、食べて」
 リンちゃんは、右がわに首をかしげた。
「ごめんね。わからないよね」
 ほんとうに悲しそうにタエ子が言うと、リンちゃんは否定するように首を振った。病室の外にまで漂っているはずのコクのある香りが、リンちゃんはわからないのだ。
 こういう場合、思っていることを口に出していいのだろうか。
 ―――余計な心配をかけないこと。
 リンちゃんだって同じだ。余計なことを言って、心配させちゃいけないんだ。入院患者なんだから。リンちゃんは。
「どうしたの? 急に、だんまり」
「ん? いやあ」
「リンちゃんが可愛らしいから、きんちょう、してるの。お兄ちゃんったら」
 タエ子のほほが赤くそまって、事故の前と同じに見えた。
 ぼくはますます、嬉しくなる。
「リンちゃんって、横浜の子だよね。ユウさんって、お母さん?」
 リンはうつむいたまま、ゆっくりと首を縦にふり、横に振った。
「ごめん。面会票に書いてあったから、そう思ってさ。さ、温かいうちに食べよう」
 キョウヘイは答えようとしないリンの横に立って、移動式のテーブルの脇にタッパーウエアを広げる。
 あっ。
 リンの横顔が目に入ったキョウヘイは、危うく声を上げるところだった。
 右のほほが枯れた葉っぱみたいにくしゃくしゃで、耳から首もとにかけては、なかなか乾かない、ぬかるんだ土みたいにデコボコだ。ひどいヤケドの跡だった。
 誰だって見られたくないよ、変わってしまった自分の姿なんて。
 ごめんねリンちゃん。驚いたりして。
「あ。きたわよ、リンちゃん」
 リンが男の子のような髪をなびかせるように、扉のほうを振り向く。キョウヘイは顔を見るのが悪気がして、同じように素早く、からだをひねった。
 しまづユウさんは、ぼくと変わらない年の、色の白い男の子だった。
オッパ(おにいさん)
 ?・・・・・・
 初めて聞いたリンちゃんの声は、明るくて、透き通っていた。



     三. ミクだったらきっと



 父ちゃんは、お客さんには強いけどミクには弱い。 「とっても美味(おい)しいわ。」、なんて言われたら、見ていて恥ずかしくなるほどデレデレだ。 「もう少し、うす味の方がいいかも。」 なんて、他のお客さんに言われたら中華鍋を投げつけるようなことを言われても、 「そうかい。じゃあ、作り直すよ。」、なんて頭をかいて作り直してしまう。
 父ちゃんの料理の腕が上がったのは、週に一度は通ってる常連の、ミクのおかげかもしれない。
「名まえを変えることにしたの。お店のネーミングを」
「名まえを!? 無理だよ。父ちゃんのお気に入りだぜ、 『たらふく食堂』 は」
 校門を出てまっすぐ行けば商店街。公園を通り過ぎてすぐの車道を左に下りれば、自転車屋と床屋がある区画に、ミクの家はある。
 この頃のミクはまっすぐ家に帰らずに、店に寄って、父ちゃんとこそこそ話をしている。店を通り過ぎてまっすぐ団地に帰るぼくには、何をしてるのかわからなかった。例の、たらふく食堂のプロデュースの話しをすすめていたんだ。二人で。
「承諾したもの。おじさん」
 しょーだく!? 父ちゃんが、OKした? 
 母ちゃんとぼくが土下座して頼んだって、ぜったいに父ちゃんはゆるすわけない。でもミクはしょーだくさせた。
 たらふく食堂は父ちゃんの、信念だったはずなのに。
「どうしたの?」
 別に驚くことじゃないじゃない―――。そんな顔をして、ミクはキョウヘイを(のぞ)き込む。
「それで、なんて名まえだよ」
「食堂ちっぷあっぷ」
「ちっぷあっぷぅ~!?」
「わたしも折れたのよ」
“食堂” の二文字は残す。カタカナとアルファベットはいやだ。父ちゃんはそこだけは(ゆず)らなかったらしい。
「残すんなら食堂より “たらふく” だろ」
 ふぅ~。
 ミクが 「あきれた」 という顔をする。
「ちっぷあっぷっていう名まえにはね・・・」

 ・・・食堂にはいろんなお客さんがくる。
 お腹を減らして、グーグー音を鳴らしてる人。ヘトヘトに疲れて、テーブルに突っ伏して居眠りをする人。うつろな目でぼーっと一点を見ている、悩みを抱えてるような人も。
 ちっぷあっぷとは、そんな人の肩に手を添えて、立ち上がる手助けをしたい。元気になって、またがんばろう。また始めようという気持ちになれるような、食事を提供したい・・・

「・・・そんな意味が込められてるのよ」
 なあんだ、 < チップ(料金とは別のお金)をはずめ > じゃないのか。
 キョウヘイは言わなくてよかったと思う。
 でも考えてみると、ちっぷあっぷもたらふくも同じ意味だ。名まえを変えても信念は曲げない―――。父ちゃんのゆれる気持ちを、ぼくは理解した。
「それより、もうすぐ退院でしょ。タエ子ちゃん」
 ミクは話を変え、余計なお世話だけどと断わってつづける。
「プロデューサーの責任としてわたしも手伝うけど、キョウヘイもそろそろ手伝った方がいいと思うの。わかるでしょ?」
 母ちゃんには、退院してくるミクの世話がある。まだ登校できないミクのそばについていなければならないのだ。考えてるさ、ぼくだって。
「わかってるよ」
 でも・・・・・・タエ子が退院したら、リンちゃんはどうなるんだろう。
 皮ふを移植(いしょく)すれば元どおりになるの。何度も繰り返せば―――。
 タエ子の話をキョウヘイは思い出す。
 枯れ葉のような肌を隠すリンの声は、今までに聞いたことがないほど()んでいて、やさしかった。リンちゃんの目は、見たこともないほどきれいだった。
 どうして、あんなにひどい事になってしまったのだろう。ぼくはずっと気になっていた。ヤケドを負った理由を。お父さんとお母さんが、お見舞いに来ないことを。
「山ほどあるんだから。プランが」
「他に、何をするのさ。やっぱり出前か」
 つまらなさそうに言った。
「いろいろよ。出前はやめることにしたの。効率が悪いから」
 なんだよ。
 出前を手伝うって言えば、自転車を買ってもらえるかもしれない。そう考えていたキョウヘイは肩を落とす。
「その代り午後からは、お弁当をつくって売ることにしたの。夕方からの二、三時間は、配達もして」
「配達!」
「そう。キョウヘイがやるのよ」
 やったあ! キョウヘイは心のなかで叫ぶ。
「提供するから。ウチの自転車」
 ええ~っ。
 ミクの自転車はピンク色の女の子用。あとはおじさんがたまに乗る、新聞配達で使ってたのを譲り受けた、ゴツゴツした古い自転車だけだ。
 ミクの家のそばの自転車屋で売っていた、パリだかニューヨークの町で走っていそうな、オレンジ色のピカピカなロードバイクで走るのが、キョウヘイの夢だった。
「いっしょうけんめい配達すれば、きっと買ってくれるわよ。これからぐんぐん背丈も伸びるんだから、もう少しがまんしなさい」
 母ちゃんみたいなことを言うミクは、ぼくの気持ちも店の事情もよくわかってる。
 そうだよな。
 キョウヘイはリンの兄、ユウのことを思い浮かべた。
 ユウは横浜から四、五十分かけて自転車で病院へ通っていて、しかも着る服はいつも同じで、おまけに、リンちゃんの病院食の余りを持ち帰ってるとも言ってた。ぜいたくなんて、言っていられないな。ぼくも。
「いっしょに頑張りましょ。わたしもがんばるから」
 ミクは朝早く店に来て、仕込みの手伝いとぼくの分の弁当を作ると言う。
 学校に美味しい弁当を持っていって宣伝効果を狙うの。 『食堂ちっぷあっぷ』 は美味しい―――。そうみんなに印象づけて、クラスの家族の人たちや先生が食べにくるようにするのよ。きっと口コミで評判(ひょうばん)になるわ。 「いやなの?」
 黙っているキョウヘイにミクが訊く。
「いやじゃないけど」
 キョウヘイは、リンとユウのことを口にするか迷っていたのだ。
 病院食を夕食替わりにしている子がいるいっぽうで、給食のおかずを残し、美味しい食事をまんぷくになるほど食べたがる子がいる。たらふく食堂は、食堂ちっぷあっぷは・・・・・・ユウやリンちゃんみたいな子のための、お店であって欲しかった。
「タエ子のとこに行こう」
 はっきり口にするキョウヘイに、一瞬ミクは目をみはる。
「そうね。お店のことに掛かりっきりで、ずっと気になってたの。タエ子ちゃんのこと」
 ミクは決して嫌だとは言わない。偉いな。ミクって。
「いっしょに自転車で行こっか。お母さんたちに、断わらないといけないし」
 ミクは言い終わらぬうちに回れ右して、道を引き返す。 「早くおいでよ」
 ちっぷあっぷか。ミクらしいや。
 ミクならきっと、あの子たちを笑顔にさせられる。キョウヘイは腕を振って走り出した。
 冬の夕暮れは早い。かじかんだ手は氷みたい。夕陽に手をかざしてみる。
 少しだけ温まった気がした。


     四.父ちゃん。大人だなあ



 悪いことばかりがつづくのも嫌だけど、良いこと? がいっぺんにつづくのも困りものだ。
「考えてくださいましたか。ご主人」
 ごっつい自転車で配達をすませたキョウヘイは、カウンター席を挟んで話す校長先生を見かけると、裏口の扉のかげに身を隠した。
「何度来たってダメなものはダメだ。全校生徒の給食なんか、作れっこねえだろうが」
 学校でいちばん偉くて、父ちゃんの父ちゃんよりもっと年上の校長先生にだって、父ちゃんはお(かま)いナシ。
 まずいなあと思いながらもキョウヘイは、父親の姿が格好よく見えた。
「毎日食べたいんですう。村山さんのお料理。先生方もみんな言ってるんですよ」
 あんなに甘えた声を出すトキワ先生なんて見たことがない。色じかけは無理だもんな、トキワ先生じゃ。
「んなら、毎日食いにくりゃいいだろ。だいたいな、あんたら勘違いしてるぞ」
 ちょっと父ちゃん。毎日顔を合わせるんだぜ、ぼくは。先生と。
 キョウヘイは、ニヤニヤとハラハラを繰り返しながら、三人のやりとりをうかがう。
「一年生から六年生まで同じメシを食わせておいて何が食育だ、六歳の子と十二歳の子じゃ必要な栄養が違うんだぞ。メシってのは、子供の成長に合わせて、親がつくって食わせるもんなんだよ。ハッキリ言ってやりゃいいんだ、他人(ひと)に丸投げしてねえで、テメエで作れってよ」
「私もそう思うんです。でも、」
「思ってるなら言えばいいだろ、ネエちゃん」
 ネエちゃん! 
 まずいぞ。見さかい、失くしてるよ完全に。
「商売の邪魔だっ。ケエってくれ、おっさん」
 おっさん!
「うふふ」
 まいったなあ。断わり方っていうのがあるだろうに。

「先生も、おじさんにはタジタジね」
 厨房の隅で、平然と菜ばしを動かしていたミクが言った。
「そんなに給食にしてえなら、保護者とせんこーで作りゃいいんだ」
「そうはいかないのよ。仕事に出てるお母さんが、ほとんどなんだから」
 ミクがちっぷあっぷのプロデュースを始めて四か月がたつ。父ちゃんの言葉づかいにも、すっかり慣れたみたいだ。
「それが気に食わねえってんだよ。仕事と我が子とどっちが大事なんだ。仕事をしなけりゃ()え死にする、ってわけでもあるまいしよお」
 ミクの表情がくもったことにぼくは気づいた。
 ミクの母さんは仕事をしている。おじさんだけでは不動産屋の仕事は、立ち行かないからだ。
「悪ぃ。おじさんから、頼んでやるか。家にいるようにさ」
 冬だと言うのに父ちゃんのひたいには、汗がにじんでる。母ちゃんに店の手伝いをさせないのは、ぼくとタエ子のためだったのかもしれない。
「いいの。お母さんとお父さんは、いっしんどうたいだから」
「ふぅ~、あっちいなあ」
 両親が仲がいいのは、ミクの自慢である。
「それよりおじさん。お願いがあるの」
「今度はなんやね」
 ミクは箸をとめ、チラッとこっちを見てから話し始めた。 「パートの人を、やとって欲しいの」
「パート!?」
 驚いたのは父ちゃんだけじゃない。ぼくもだ。
「やめちまうのか。ミクちゃん」
 父ちゃんがぼくが言おうとした事を言った。
「やめないわよ。おじさんさっき、 『仕事をしなくたって飢えて死ぬことはない』、って言ったでしょ」
「ああ言った。こんなご時世でも、我慢するとこをグッと我慢すりゃ、」
「いっしょうけんめい仕事をしてもね、一日置きにしか食べられない人がいるの」
 やっぱり。
 ミクはぼくと同じことを考えていたんだ。ユウとリンちゃんのことを。
「今どきいるのか? そんな人間が」
「いるんだよ」
 キョウヘイは、二人の会話に割り込んだ。
「ノレン降ろせっ」
 父ちゃんが料理の手をとめて、ミクをテーブル席にさそう。大事な話をするときの父ちゃんは、いつもこうだ。
 ミクはぼくやタエ子さえ知らない、ユウとリンちゃんと二人のお母さんのことを、順をおって話した。誰とでもすぐに打ち解けるミクだけど、何も喋ろうとしなかったあのリンちゃんと親しくなっていたことに、ぼくは驚いた。
「ひでぇオヤジだなおい。親じゃねえや、そんな親は」
 話を聞いた父ちゃんはテーブルを叩き、ぼくはからだが震えるほど悔しかった。リンちゃんのあのひどいヤケドは、父親に負わされたものだったのだ。
()えたぎる熱湯をかけられたり、焚火(たきび)の火を押しつけられたり殴られたり蹴られたり。ほんとうにひどいわ。かわいそう」
 個人でトラックの運転をしていた父親は、事故を起こして足を骨折し、働けなくなって失業した。収入の途絶えアパートで暮らせなくなった島津家(しまずけ)は、しばらくの間親子四人で川の橋の下で過ごしていたと言う。
 リンのヤケドは、パートの仕事を再会した母親とアルミ缶を拾って日銭(ひぜに)(かせ)ぎに出ていたユウがいない時に起きた、父親による虐待(ぎゃくたい)であった。
「犯罪じゃないか。警察にうったえて捕まえなきゃ」
「病院から、連絡が行ったそうよ。警察に」
 父親は、重症を負ったリンが発見された時にはすでに姿を消していて、半年ものあいだ行方をくらましたままでいる。
 つまりリンちゃんは半年間も、辛い思いをしながら治療に耐えてきたことになる。お母さんとユウもその間、いや、アパートを出てからずっと外で暮らしているのだ。
「そんなヤツのことは忘れるこった。それよりウチで働いてもらうから、すぐに連れてこい。メシも三食、ちゃんと出すからよ」
「ありがとうおじさん。でも、住むところがないの」
 ヤケドの痛みがおさまり体力の回復したリンは、病院から退院をせまれている。病院を出て行くということは、路上での生活が待っていることになる。
 こんな真冬に外でなんか寝たら、下手したら死んでしまうかもしれない。いやぼくから言わせれば、生きていられることの方が信じられない。そんな厳しい状況のなかでユウとお母さんは生きてるんだ。毎日。
「ここじゃダメか、父ちゃん」
「お座敷にお布団敷いて、ここで暮らせない?」
 キョウヘイとミクは、テーブルに身を乗り出してうったえる。
「ユウとリンの将来のことを考えてみろ。こんなとこで身を隠して生活するより、役所にまかせた方がいいに決まってる」
 父ちゃんの話によれば・・・・・・、
(1)母親が生活保護の申請をする。衣食住の援助(えんじょ)を受けながら生活を立て直す。
(2)子供たちを施設(しせつ)にあずける。子供らしい生活を送らせしっかりと教育を受けさせる。
 三人の将来を考えれば、 『父ちゃん案』 に賛成。ちっぷあっぷで暮らすよりもずっといい。
「もちろん母親は、ここで働いてもらって構わん」
 母ちゃんはひと月前に退院したタエ子につきっきりだし、配達のうわさが口コミで広まって、ますます忙しくなるちっぷあっぷは、人手は足りない。 「お店を広げたいくらいよ」 そうミクが言うくらいだから、リンちゃんのお母さんが働いてくれるのは大歓迎だ。
「さっそく知らせてくる。リンちゃんに」
 ミクは髪を(おお)っているバンダナをとって、かっぽう着をぬぐとキョウヘイを見た。 < いっしょに行かないの? >
「ぼやぼやしてねえで、お前えも行くんだよっ。かき入れどきなんだからな、一時間で帰ってくるんだぞ」
 怒鳴る父ちゃんの顔が嬉しそうだ。
「うん、行ってくる」 
 ぼくも嬉しかった。ぼくの方が。



     五.黄色いマスクの下で



「ごめんね。つき合わせちゃって」
 キョウヘイは、息を切らせながら自転車を押す、ミクの横顔を見た。
「お駄賃(だちん)、ソンしちゃったね」
「そんなこと、気にしてないよ」
 配達のお駄賃は一軒につき20円。その他に一時間店を手伝うと、500円のお駄賃がもらえるけいやくを、ぼくは父ちゃんとむすんでいる。ちなみにプロデューサーのミクは、お駄賃がない分、食事食べ放題とジュース飲み放題のけいやくをむすんだ。
「あら。つぼみ、ふくらんだわ」
 ミクが歩みをとめて、神社の桜の木を見上げた。西日がまぶしくて、色まではわからない。でもたしかに、堅そうな豆みたいなものが、枝に散りばめられている。
「今年は、早く咲くかもな」
 交通事故でタエ子が頭を手術する―――。そう聞いたとき、キョウヘイの心に浮かんだのは、家族四人で花見にきた時の、元気なタエ子の姿だった。父ちゃんの膝の上で、口のまわりをベタベタにしながら綿菓子を食べる、幼稚園生のタエ子を。
「何してるの~、時間ないのよお」
 坂の上でミクが叫んだ。

『父ちゃん案』 をミクが伝えると、リンちゃんは、白い左手と枯れ葉のような右の手で顔を覆って泣き出してしまった。黄色いマスクの下から、すすり上げる声が聞こえる。
「だからリンちゃんは、何も気にしなくていいのよ」
 ミクの言うとおり。生活を立て直さなきゃ。
 でもそれが、解決ではない。リンちゃんのヤケドの跡を消さない限り、三人の人生は始まらない気がする。
「でも」
 リンちゃんの声を聞いたのはこれで二度目。初めて聞いたのは、確か 「おっぱ」。どこかの方言(ほうげん)なのか、意味はわからなかった。だから意味がわかる言葉を聞いたのは、初めてという事になる。
「困った時はお互いさまなんだから、おじさんの言うとおりにするといいわ。国民の権利なんだし」
 出がけに聞いた両親の言葉を、ミクは口にした。
「一人じゃ決められないよ。お母さんとユウと、話さなくちゃ」
「ちゃんと、話せる? リンちゃん」
 リンは顔を上げてしっかりとうなずく。何日も使いつづけている、マスクの上の目が真っ赤だ。
「でも・・・・・・」
 また 「でも」。でもたった二文字でも、ぼくは嬉しかった。リンちゃんの声がとってもやさしくて、清んでいたから。
「でもなあに?」
「もういいよ、ミク」
「気持ちを聞きたいのよ。リンちゃんの」
「困らせるなよ」
 強い口調で言うキョウヘイの目と、リンの目が合う。
 なんでだよ。そんなにきれいな目をしてるのに、どうして顔を上げていないの。
「わかったわ。それで、いつ来るのお母さん」
 リンが小首をかしげる。
「お仕事が忙しいのね。お兄ちゃんは?」
「たぶん、日曜日」 五日後だ。
 シゴトをしているユウは、週に一度来られるか来られないかで、母に至っては、医者に呼ばれた時だけだと言う。一家の事情を考えれば、誰も責めることなどできない。ユウも母親も生きるために、懸命なのだから。
「お金ためて、たべに行く。お兄ちゃんとオモニといっしょに」
 ?・・・・・・
「チプ、アップに」
 ああ。三人そろって、来てくれるんだ。ちっぷあっぷに。
 キョウヘイとミクが笑顔になる。
「嬉しいね。キョウヘイ」
 キョヘイは思った。今度くるときは、真っ白なマスクを買ってこようと。



     六.ちっぷあっぷに春がきて



 緑色だった桜のつぼみが、うす赤に色づいてきた。
 神社のお花見は一週間後。リンちゃんに父ちゃん案を伝えてから、もう一か月が経つ。
「ちゃんと伝えてあるんだろうな。母親によ」
 父ちゃんは、返事がないことにいらだっていた。
 まだ小学二年生のリンが、気の毒なこともある。でもそれだけではない。ミクのプロデュースの成果でお客さんが確実に増え、睡眠不足だからだ。
「病院も、迷惑してるみたいなの」
「入院費は払えてんのか。どうせメシ代とかフロ代なんかを削ってんだろ。いつまでムチャする気だっつうの、ごちそうさん」
 昼ご飯をかっこんだ父ちゃんは、わき目も降らずに厨房に直行し、配達用の弁当づくりに取りかかる。油でくもった壁時計の針は三時になろうかとしている。最近の父ちゃんは昼の休憩の十五分以外、十三時間ぶっ通しで働きづめだ。
「来週から大変ね、おじさん」
 それもあった。イライラのわけ。
 春休みももうすぐ終わる。ミクが不在のちっぷあっぷは、父ちゃんひとりでち切り盛りしなければならないのだ。
「なあに、儲かって儲かって笑いが止まんねえさね。ははっ」
 母ちゃんが言っていたら、こう言い返すだろう。 「食いたいヤツは、テメエで作って食えやいいんだ!」って。父ちゃんはヤケクソなのだ。
「ごめんなさい。でも、おじさんが倒れたりでもしたら、お店開けられないんだから。無理しないで」
 プロデューサーミクの、申し訳なさが伝わってくる。
「店で死ねるんなら本望さ。そん時ゃ、頼むよミクちゃん」
 幅広い年齢層にうけるメニューを考案したのも、配達を考え出したのもミク。ミクが店を繁盛(はんじょう)させたのは確かだ。だけどな・・・・・・
 配達しかしていないキョウヘイは、少し寂しかった。
「店のことは気にしねえで、しっかり勉学に励めよ。リハビリをかねて、タエ子とウチのに手伝わすから。だいたい、ひげもじゃの診療所には来られて自分の店には寄りもしねえなんて、」
 ―――がらがらがら。
 やってますか。
「寄りもしねえなんて道理が通らねえんだ。家族だっつうのによ」
「やってますか・・・・・・」
「あんっ!? 休憩中って書いてあんだろうが!」
 あっ!
「リンちゃん!」 キョウヘイとミクは同時に声を上げる。
 リンとユウと、深々と頭をさげる母親が、とば口に立っていた。
「リン?」 
 父ちゃんがしかめっ面を上げる。
「キョウヘイ! ノレン降ろしてこいっ!」 父ちゃんが叫ぶ。
「降りてるよ」
 昼休みなんだから。
「看板もしまえってんだよっ!」
 マスクを外したリンを見ないようにして表に急ぐ。あの剣幕(けんまく)だ、何をしでかすかわからない。テーブルのものを片づけなきゃ。
「いやあ。お待ちしてましたよお」
 んん?
 猫なで声を出す父ちゃんはデレデレ。タエ子にさえ見せないような顔をしてる。
「んまあ、人それぞれ事情はありますからねえ。んで、いつから来られますか。こっちとしては、早えほうがいいんですがね」
 大した挨拶もせずに、確信に迫るのは父ちゃんらしい。でも、いかにも働き手が欲しいって言ってるようなもので、子どもとして恥ずかしくなる。
「それよりおじさん。住まいの事とか、学校の事とか、先ずはこれからのことを、ちゃんと話さないと」
 ミクが母親のようなことを言う。
「お店が忙しくて大変なの。ごめんなさいね」
 父ちゃんのことは、ミクに任せておけばいい。ぼくはリンちゃんのことが気になって仕方がなかった。
 家族で暮らせることが嬉しいのだろう。リンちゃんは、病院では見せたことのない明るい表情をしていた。
「きれいよ、りんちゃん。ねえキョウヘイ」
 ぼくに振るなよ。ミクだって、関係のないことを口にしてるじゃないか。父ちゃんのことは言えないぞ。
「もう、いらないね。マスク」
 退院祝いにミクが贈った化粧でメイクをしているリンちゃんは、色が白くて、少しだけお姉さんに見えて、お母さんにそっくりだ。
「ミクちゃんのおかげよ。ありがとう」
 声までそっくりなおばさんは、リンちゃんをそのまま大人にしたみたいな人。優しそうでおだやかで、(うらや)ましいほどきれいだ。
「そうそう。なんか食い、召し上がりますか」
 父ちゃんは立ち上がって厨房に向かう。 「たらふくだな」
 たらふく定食は分厚い牛肉の鉄板焼と、野菜をたっぷり使って炒めた豚肉の生姜(ショウガ)焼きをミックスさせた、ラグビー選手も満足のスペシャルメニューだ。
「うふふっ」
「んだよ、ミクちゃん」
「ううん、何でもない」
 何でもあった。父ちゃんは耳まで真っ赤だ。
「でも私たち・・・・・・」
「大丈夫ですよ。お金は頂きませんから。(まかな)いみてえなもんですから」
「そういうわけには・・・」 父ちゃんを見る美香(みか)おばさんの目が、ぼくの方に向く。
「ぼくも手伝うよ」
 ぼくまで火照(ほて)ってきたじゃないか。
 ―――親子そろってシャイ(てれや)なの。
 背中から聞こえるミクの声を無視して、ぼくは厨房に入った。逃げたと言った方がいいかもしれない。でも手伝ったことがないから、何をしていいのかわからない。
「キョウヘイドリンク! を用意しない」
 父ちゃんはふつうじゃない。明らかにソワソワしてる。ふだんの父ちゃんだったら、 「出てけ」 って怒鳴られるところだ。サンキュー父ちゃん!

 勢いよく箸を動かしては止め、背中を震わすユウを見たぼくは、目がジーンとしてきた。父ちゃんも頭に巻いたタオルを外して、目に圧しあててる。
 カウンターの先の父ちゃんの姿を見た美香おばさんは、ユウの涙をとめようと、左手にハンカチを握らせた。
 たまらなかった。泣きながら料理を食べる人がいるなんて思ってもみなかったし、ただお金を稼ぐために父ちゃんが料理人になったわけじゃないような気がしたからだ。誰かを助けるために仕事をしてる父ちゃんが、大っきくて、頼もしくて、やさしく見えた。
「美味しいでしょ、リンちゃん」  ミクの声もしめってた。鼻の頭が赤くなってる。
 ―――うん、うん、うん。何度もうなづいてこたえるリンちゃんが、いじらしい。
 リンちゃんがタエ子より年上に見えるのは、いろいろな事に耐えてきたせいかもしれない。
「ユウ。遠慮しねえでおかわりしろよ」
 皿を持って残った汁をすするユウに向かって、父ちゃんが言った。
「ありがと。おなか、いっぱい。ダイジョブ」
 泣いてるのを隠すように、ユウはとつとつとこたえた。リンもそうだが、ユウも進んで話をするタイプではないようだ。
「んなことねえだろ。食え食え」
 配達用の中華丼の調理にとりかかっていた父ちゃんは、深皿を手に取ると、炊飯釜の前にすべらす。
 キョウヘイの厨房での初仕事は、お皿にご飯を盛りつけることだった。
「食いながらで悪いんですがね」
 配達の分を作るからとつけ加えて、父ちゃんは手を動かしながら話し始めた。
 ―――子供たちを育てるには、まずは生活していくための拠点をカクホしなくてはいけません。食事を摂って眠る場所があれば何とかなるのは大人だけです。―――
 やさしい言い方に聞こえたけど、父ちゃんは力説したつもりだったみたいだ。
「その方がいいと思っています。私も。でも、どうしても施設に入ることだけは・・・・・・」
 美香おばさんは言って、斜に座るユウに目を向ける。
 児童養護(ようご)施設 ―――さまざま事情で親といっしょに暮らせなくなった子が入所する施設――― のことを調べたミクが、
< 施設は決して怖いところではないし、お母さんと離れ離れになって会えないわけでもない。>
 と説得してもユウは、
「ぜったい、イヤだ」 同じ言葉を繰り返すだけだった。
「キョウヘイ」
 キョウヘイは “オムランチ” と取り皿をテーブルに並べ終えると、リンの前に竹串にさした 『旗』 と、色鉛筆のセットを置いた。
 どうしてコレなんだよ。と思いながら。
 実はこれな。おっぱいのかたちをイメージして作ったんだ。うひひひ―――。
「書いて」
「何でもいいのよ。好きなキャラクターの絵でも、お母さんへのメッセージでも」 これはミクの発案。
 半円のオムライスのてっぺんに旗をさしたオムランチは、父ちゃんのエッチな発想で生まれたメニューから、子供が喜ぶお子様ランチの替わりに変わったのだった。
「ボクは、そんなとこに入るくらいなら、死ぬ」
 死ぬ!?
 みないっせいにユウを見た。ひとり言のように言ったユウのからだが震えてる。
「どうしても、いやなのね」
「ぜったい、入らない」
 無理やり連れて行っても無駄なことは、誰にでもわかった。ご飯を食べてるときも、ずっと考えてたんだね。君は。
「今までどおり、暮らすんだ。ぼーくーごーで」
「何いっ!? 防空壕(ぼうくうごう)に居たのかお前らっ」
 街道を越えた山や神社の近くには、立ち入り禁止の柵が設けられた防空壕が、いまだに残っている。もしかしたら・・・もしかしたらだけど、ユウだけなら何とかなるかもしれない。でもまだ通院が必要なリンちゃんには、無理に決まってる。
「リンちゃんは退院したばかりだぞ。むちゃなことを言うなよ」
 キョウヘイは怒りを抑えられなかった。
「そうよユウくん。女の子には無理よ。ね、おばさん」
 美香おばさんはリンちゃんの髪をなぜるだけで、答えようとしない。
 そんな苦労はさせたくない。でも私たちは、そうして苦難(くなん)を乗り越えてきたの―――。美香の思いに、ミクとキョウヘイは気づいていない。
「横浜に戻って、何とかします。リンも退院したことですし」
「横浜に行けば何とかなんのか? いや、なるのですか奥さん」
「リンが生まれる前まで、中華街で働いていました。料理には自信があるんです」
「中華料理を!?」
 父ちゃんの顔が引きつった。自己流の中華丼を出さないで良かったと思っているのか、無難な軽食にしておけば良かったと思っている、そんな顔。
 店の名前を聞いた父ちゃんは、息が止まったみたいに驚いていた。美香おばさんの働いていたお店は、中華街の中にとどまらず全国的に有名な老舗(しにせ)中の老舗。ミクでさえ聞いたことのある、有名な店なんだだそうだ。
「おじさん」 
 ミクのニヤニヤが始まった。アイデアが浮かんだに違いない。
「うちで面倒みます、いや、面倒見させていただきます。住まいも仕事も学校のこともリンの病院もぜんぶ。だから力を貸してもらえませんか。頼んます、このとおり。いやお願いします、どうか」
 カウンターに頭をこすりつける姿が、父ちゃんの本気を表していた。
「わたしからもお願いします、ちっぷあっぷはあっぷあっぷなんです」
 もしそんなにすごい人が加わったら、ちっぷあっぷは繁盛してしまう。すると配達のぼくが、いちばん大変な思いをすることになる。
「ボクはヤダ。ニッポン人、しんよーできない」
 なに?・・・・・・
 日本人が信用できないって? ぼくらのことが?
 ミクも同じような顔だ。
「私たち・・・在日(ざいにち)なんです。ニッポン人ではないんです」
「何いっ!?」
「日本人じゃないって」
 ぼくらの驚きように、美香おばさんはうつむいてしまった。口にしたくなかった。そんな、苦しそうな顔をしてる。
朝鮮(ちょうせん)人です。私たち」
「ちょうせん人だって!?」
 朝鮮人と言えば・・・・・・
 拉致(らち)をしたり、核兵器を打ち上げたり、同じ国の人を処刑(しょけい)したりする、ひどい事をする印象しかない。正直ぼくは、おばさんが怖くなった。
「んなもん関係あるかよ、チクショー!」
 何がちくしょうなのかは分からないけど、そうかもしれない。
 いや、そうだ。関係ないんだ、そんな事は。父ちゃんの言うとおりだ。 
「同じ人間だもん。困っている時はお互いさまよ」
 先に言われちゃったけど、ぼくも同じ気持ちだ。気持ちは同じなんだけど、なんと言って声を掛ければいいのかわからない。 「ぼくは、リンちゃんが好きだ!」
 ええっ?? ―――いちばん驚いたのは、このぼくだ。
 嘘ではなかった。本当の気持ちなのかどうかはわからない。心の言葉をぜんぶひっくるめた、ぼくの思いだったのかもしれない。
「あん?」
 みんながポカンとした顔をする中で、なぜかリンちゃんだけは真剣な目をしていた。メイクの下のヤケドのあとがデコボコしていることに、ぼくは今になって気づいた。
「どさくさに(まぎ)れて何を言ってんだ、このガキゃ。気にすんなよ、リン」
 出会ってまだ数十分しか経っていないというのに、父ちゃんは呼び捨てにする。竹を割ったような男だってよく言われるらしいけど、ちょっと恥ずかしかった。
「ユウ。ここはどうだ。二階でもここでも寝られるしテレビだってある。冷暖房も完備だ。日本人とだってつき合いたくなけりゃ、つき合わなくてすむ。フロはウチのを使えばいいしよ。なっ」
「ここにいればタエ子にも会えるよ」 力になりたいんだ。君たちの。
「でも学校は? 住民票のこともあるし」
 子どもらしくない事をミクが訊く。
「先のことは先のこと。そん時がきたら考えりゃいい。落ち着くまでここで自由にすごして、働く気になったら働いて、それから生活保護の申請をして。ゆっくり決めてきゃいいんだ」
「申請はしません」
 ぜったいにしない。美香おばさんの固い意思が伝わってくる。ユウと同じだ。
「あんたも頑固だな、きれいな顔して。お前さんはそれでいいかもしれねえ。でもちっとは、ユウとリンのことも考えろよ」
 母ちゃんに言うようなキツイ言い方にも、美香おばさんは動じない。 「飲食店のご主人って、お父さんみたいな人ばかりだもの」 父ちゃんの失礼をお()びした時に言った、トキワ先生の言葉を思い出す。
「でも・・・・・・」
 ニッポン人は信用できない ――― おばさんも同じ気持ちなのだろうか。ユウと。
「と・に・か・く、あせらないでゆっくり考えましょ。ね、おばさん」
 トキワ先生が言うようなことを、ミクは口にした。
「はい」
 お兄ちゃん、どうする?
 困った顔をリンが向けると、ユウは初めて笑顔を見せた。
「働いていただけますね。奥さん」
「はい。でも、奥さんではありません」
 美香おばさんの表情が明るい。
「ごちそうさまでした。おいしかったわ、おじさん」
 リンちゃんは旗を持って、父ちゃんがいる厨房に向かう。
「こりゃ、きれいだ」
 手にした旗には、ハイビスカスのような、うす紫のやさしい花が描かれていた。
「ムクゲって言うの」
 首をかしげるリンちゃんに、よく似た花だ。
【よろしくおねがいします】
 小さい字で書かれた、メッセージが嬉しかった。



     七.成長



 桜の花を見ずに春を迎えたのは初めてかもしれない。何だか、忘れ物をしたような気分だ。
「五年生はね、とっても大事な学年なのよ。六年生になる心の準備をしなければいけないし、みんなの心も体も、グンと成長する時期なの」
 体が成長する―――。言葉を聞いただけで、キョウヘイの胸が波打った。
「先生は成長がにぶかったんだね」
「んまあ。どうして」
「だってさ、」
「自分の胸に手を当てればわかるよ」
「ボクらと変わりないもんな」
 教室が笑いに包まれるなかで、真っ赤に火照った顔を見られまいと、キョウヘイは体を丸めた。
< 実はおっぱいのかたちをイメージして作ったんだ。いひひ―――。> ニヤついた父ちゃんの顔が浮かび、オムランチよりずっと大きい美香おばさんの胸が頭から離れない。なぜか、おちんちんがむくむくする。考えまいとすればするほど。
「は~い、お喋りはお仕舞いよ。みんな五年生としての自覚を持たなければいけませんね」 みんなのことを相手にせずに、トキワ先生は黒板に向かう。 
 そうだよ。学校は勉強をしにくるところだぞ。ぼくらもう、五年生じゃないか。
 キョウヘイは落ち着け落ち着けと繰り返しながら、真新しい国語の教科書を開いた。

「ごめん。今日は行けない」
 ミクは言って、キョウヘイに背を向ける。
 ちっぷあっぷを手伝い始めて半年。ミクが店を休むなんて初めてだ。今までなら帰り道で話すことを、教室で話すのも。 
「具合悪いのか。先生のとこには行けるだろ」 ミクのそばに近づいて、キョウヘイは訊いた。お昼前に保健室に行っていたことが、気になっていた。
「ごめん」
 ミクはランドセルを手に取ると、勢いよく教室から出て行ってしまった。具合が悪いようには思えない。
「村山く~ん。なあに? 話ってえ」
 キョウヘイに向かって先生が言った。
羽鳥(はとり)さんから聞いたわよ。話があるんでしょ」
 苗字(みょうじ)で呼ばれて、一瞬、誰に言ったのかがわからなかった。
「ミクといっしょに話そうって・・・」
「羽鳥さんは、都合が悪いの。談話室行こっか」
 なんの都合だろう。いっしょに話すって約束したのに。
 そう思いながらもキョウヘイは、先生のあとに従った。
「考え直してくれた? お父さん」
 何のことを言っているんだろう。
 授業ではむずしい言葉を使ったり苗字で呼んだりして、むずがゆい感じがしたけど、トキワ先生は四年のときと同じ、トキワ先生だった。
「お母さま方から、要望書が出てるのよ。給食にしてほしいって」 まだそんな話をしてるのか。
 キョウヘイは呆れた。
 父ちゃんと美香おばさんなんて、朝から晩までヘトヘトになりながら料理を作ってるって言うのに。 「テメエで作れ!」 父ちゃんと同じ気持ちだ。
「無理です。それどころじゃありませんよ、ウチの店は」
「そうよね。行列ができるお店になっちゃったものね。ちっぷあっぷ」
 新メニューをたずさえた美香おばさんが厨房に立つようになったちっぷあっぷは、インターネットの口コミで評判になって、繁盛する店になってしまった。困ってしまうほど。
「お昼に抜け出して行きたいところなんだけど、禁止されてるの」
 新学年が始まる準備で忙しかったトキワ先生は、店に顔を出せないでいた。いかにも残念そうな言い方が嬉しかった。
「なあに? 話って」
 どうやって、何から話せばいいのだろう。ミクがいないと話すことも出来ない、自分が情けない。
「リンちゃんたちのこと」 ことは島津家三人の未来に関わる話だ。とにかく話さなきゃ。
 キョウヘイは、リンとの出会いから、島津家の三人と関わるようになった経緯。そして島津家が抱える複雑な事情を、順をおって、途切れ途切れ話した。
「ユウもリンちゃんも、勉強したいんです。ぼくには信じられないけど」
「義務教育だからねえ」
 先生の言葉には、“義務教育だから、二人に勉強をさせてやりたい” という気持ちと、 “勉強が義務だから、キョウヘイが勉強嫌いなのかもしれない”。 そんな気持ちが含まれている気がした。
「教えてあげられませんか」
「二人の先生をしろって? 先生に」
 朝鮮の人たちが通う学校に行っていた美香おばさんは、ユウとリンちゃんには、日本の教育を受けさせたいと思っている。
「お金は払えないけど、 “食べ放題” にするって。父ちゃんが」
 トキワ先生が、考える顔になる。
「たらふく定食でも?」
「もちろん」
 絶対にノムぞ。あのネエちゃんなら―――。
「どうしよ」
 いい返事が貰えそうだよ。父ちゃん。
「お昼食べたい。キョウヘイくんとミクちゃんと同じお弁当」
 ぼくらのお弁当は、父ちゃんが作ってるわけではなく、ちっぷあっぷの食材を使ってミクが作ってる。見た目を変えて。
 先生はわかっているようで、わかっていなかった。
「ビールも飲み放題」
「んむ・・・・・・」
 大丈夫かな。お弁当に加えて、ビールまで勝手に飲み放題なんて。
 大丈夫、父ちゃんならきっとこう言うだろう。 < ユウとリンの将来がかかってるんだぞ。ぜってえに、ネエちゃんにオーケーもらってこい! > って。ミクだって。
「中ビン一本」
「頑張って行くようにするわ」
 こうして、ユウとリンの特別授業の契約は締結したのであった。



     八.トキワ学校



「うふふ。私って太らない体質なの」
 休憩所と物置だったちっぷあっぷの二階は、綺麗に片づけられて、今は島津家の仮住まい兼 『トキワ学校』 の教室になっている。
「ここが学校だったらいいのになあ」
 ユウとリン、それに事故による入院で勉強の遅れが心配されるタエ子のテストのさなか、汗をふきふき焼きうどん+チャーハンを平らげたトキワ先生は、夢見るような目をして言った。トキワ学校が開校してからひと月。先生は平日の二日だけじゃ少ないと言って、日曜日まで教えにやってくる。
「そう?」
 どうしてぼくまでテストを受けなきゃいけないのさ。ミクにはさせないで。
 簡単な実力テスト。復習よ―――。
 そう言われたキョウヘイだったが、頭をひねる問題ばかりだ。学校に通っていない、同学年のユウには負けるわけにいかない。
「は~い、時間よお」
 教室と同じ調子で、トキワ先生が言う。
「どう? ユウくん」
「まあまあ」
「リンちゃんとタエ子ちゃんは?」
「できたぁ」
 トキワ先生が無言でキョウヘイを見る。 「村山くんは?」
「ぼく準備があるから」 んだよ、ぼくだけ村山クンって。
 キョウヘイは逃げるように階段を駆け下りた。
「もう終わったのか」
 狭い厨房が窮屈(きゅうくつ)に見える。父ちゃんとミクと美香おばさんと、それに珍しく母ちゃんがいるせいだ。
「テストだって?」
 余計なこと言うなよ。キョウヘイはミクをにらんだ。
「うん。四年生の時のね。楽勝だよ」 テストの話なんてこりごりだよ。
 キョウヘイは配達リストに目を移す。 「ひげもじゃ先生のところも? 食べにくればいいじゃないか。目と鼻の先なんだから」
 もうすぐ六月。商店街の隅に咲くアジサイの花が色づき、蒸し暑くてからだはベタベタ。早く配達をすませたかった。
「急患がきた時に体裁が悪いでしょ。 『ちっぷあっぷで食事中です』 なんて」
 タエ子の診察のときに、直接母ちゃんに頼んだらしい。
「すぐそこに届けて20円稼げるんだ。有難えじゃねえか」
 言われてみればそうかもしれない。リンちゃんをタダで診察してもらってるんだし。
「もういいよ、お駄賃」
 思ってることが喋れないのも困りものだけど、この頃ぼくは、心の中にしまってあることが、ポロっと口から出てしまう。
「あん?」
 どうしたんだよ―――。父ちゃんの顔がそう言っている。
「だから、いらないって。配達代も時間給も」
 ちっぷあっぷのために一生懸命働く美香おばさんや、ボロボロの自転車を大切に使って配達するユウ。おもちゃひとつ持っていないリンを思うと、自分がひどく贅沢(ぜいたく)しているように思えてきた。
 そうなんだ。ぼくは本当の思いを、口にしたんだ。
「とにかく、いらないから」
 父ちゃんは何も答えない。
 ほんとうの友だちになりたいんだ。ぼくは。

「おじさん、杏仁豆腐とアイスクリームください。それとアイスコーヒーも」
 生徒の保護者におじさんはないだろ。
「遠慮することぁねえけどよ。太っちまうぞ、食い過ぎっと」
「ああ~っ、うら若きレディに向かってひど~い。それってセクハラですよ」
「小難しいこと言うなって。年取った時のことを考えて、言ってやってんだからよ。もう四、五年もすりゃ、体重も肉も落ちなくなるんだ。落としたくてもな」
「その時が来たら考えま~す。スタミナつけないとやってられないのよ、教師って仕事は」
 美香おばさんの特製杏仁豆腐は、一度食べたお客さんのほとんどが次に来た時も注文するほど、評判の逸品(いっぴん)だ。
「それにしてもみんなすごいわ。ちゃんと見ていたんですね、お勉強」 トキワ先生は、美香おばさんに言った。
 ユウは日中、図書館で勉強してるらしい。釣りとか、冒険とか、町のデパートまわりの方がよっぽど楽しいのに。
「みんなの中にゃ、コイツは入ってる・・・わけねえわな」
 ちっぷあっぷで授業をすると決まったときは嬉しかった。トキワ先生が来てくれることもだけど、リンちゃんとユウの夢が叶うと思ったからだ。
 でも少しだけ嫌だなとも思った。自分の不勉強があらわになる不安があったから。不安的中だ。
「先生、ありがとうございます。アイスはあとにしましょうね。コーヒーも」
 美香おばさんはカウンターに座った先生にお礼を言って、杏仁豆腐を置く。
 厨房の端にいるキョウヘイの目に、杏仁豆腐を何十倍にもしたような美香の胸が、プルンと波打つ様子がうつった。
「キョウヘイ配達っ」
 ミクが怒ったように言った。
「まだ早いだろ」 もしかして、見てたのか。
 あ、お前。
 真ったいらだったミクの胸が杏仁豆腐くらいに盛り上がって、ピンクのTシャツにブラジャーが透けていた。

「それにしても暑っちいなあ」
 配達をすませたキョウヘイは、ユウの自転車のとなりに自転車を並べる。
 トキワ学校がある日の配達は、ユウの勉強を優先させるようにしている。
 普段どおりでいいよ―――。ってユウは言うけど、ぼくは勉強が好きなユウに、いっぱい勉強をしてほしかった。
 ミクはブラジャーし始めたしな。
 キョウヘイは、自分だけが子供のまま、取り残されたような気分になる。
 仕方ないじゃないか、嫌いなものは嫌いなんだから。好きになんかなれないよ。
 キョウヘイは勢いよく裏口のドアを開けた。
「どうしたの。ミク」
 ミクがいない。代わりにユウがいた。
「勉強だ」 父ちゃんがあごをしゃくる。
 母ちゃんはタエ子を連れて家に帰り、ミクは二階でリンちゃんといっしょにトキワ先生の授業を受けていると言う。考えてみれば、五年生のミクが店に立つ方が不自然なのだ。
「テスト、どうだった?」
 皿洗いをしてるユウに訊いた。
「まあまあだった」
 トキワ先生に答えたのと同じ答えがかえってきた。
「満点だと。すげえな、ユウは」
 ほんとにすごい。学校に行ってないのに100点を取れるなんて。 「図書館で勉強してるからな。ユウは」
 ユウは参考書を持っていない。有るのは先生が揃えてくれた使い古しの教科書だけだ。ほんとうに、すごいんだよユウは。
「別に成績をとやかく言うつもりはねえけどよ。感謝だけは忘れんなよ。学校で教えて貰えることのな」
 父ちゃんの言うとおりだ。これからは感謝するよ。勉強ができることを。
「勉強をしに行ってるつもりはないんだ、ボクは。ただ、本を読んでるとつい夢中になっちゃって、リンにも教えてやりたくなる。教えるには、理解していないと出来ないだろ」
「理解してなきゃ、教えられねえか。大したもんだな」
「すごいなあ、ユウって」
 ユウには 『思いやり』 という言葉が合っている。リンちゃんだけでなく、ぼくにもミクにも、父ちゃんにもタエ子にもやさしいし。美香おばさんのえいきょうに違いない。
「凄くないよ、ぜんぜん」
 アニキなんだから当然だよ―――。いちばん大事にしている言葉を(はぶ)いて言った気がした。
 美香おばさんは子供たちのためを思って働き、ユウはリンちゃんのためを思って勉強し、家族のことを思って、店を手伝う。
 リンちゃんは・・・・・・みんなの幸せを願って生きてる。ぼくにはそう見える。
 ぼくは、リンちゃんが好きだ!―――。
 口を()いた言葉を、ふと思い出す。ぼくだって、リンちゃんの助けになりたいって思ってるさ。
 ぼくはほんとうに好きになんだ。リンちゃんのことが。



     九.つくられた事情


 
 茶色いイナゴ。紫色のナスの花。大人の背丈よりも高く伸びたススキの葉っぱ。薄緑の硬い葉に、色とりどりの花をのせたアジサイ。
 六月になってからの配達は、先月の梅雨(つゆ)の走り以上に(こた)える。雨合羽はサウナスーツみたいに蒸れるし、食中毒が心配な季節で早さが要求されるせいだ。
「タダってわけにはいかねえ」
 お駄賃はいらない―――。喜ぶと思ったけど、父ちゃんは意外な反応を示した。
 と言っても、ぼくに気をつかったわけではない。配達と厨房の仕事を手伝うユウまで、タダ働きをさせられないからだった。
 いくらくらい貯まったんだろう。机の下のコーヒーのビンはもうすぐいっぱいだ。お駄賃と時間給だけでなく、お小遣いも入れているから、めちゃくちゃ重い。
< そんなに貯めて、何に使うの? >
 タエ子は訊くけど、ぼくは誰にも言うつもりはない。言いたいけど、同じように貯金をしてるという、ユウが言わないんだからぼくが言うわけにはいかない。同じ目的で貯金してるんだから。きっと。
「今のままでいいのかしら」
 トキワ先生が、父ちゃんと美香おばさんの両方に言った。ユウはたったいま、店から遠い、西小学校のそばまで配達に向かったところだ。
「何が」
「学校よ」
「辞めちまうのか? まさかウチで塾を開こうなんて考えてるわけじゃねえだろうな」
 父ちゃんが早口でまくし立てる。最後まで話を聞かない父ちゃんも父ちゃんだけど、何が今のままでいいのかを言わない、先生も先生だ。
「違いますよ。ユウくんのこと」
「初めっから言えよ」
 父ちゃんにとってトキワ先生は、もうふつうの 『ネエちゃん』。何だかんだ言って、二人は気が合うように見える。
「どう考えてるんですか。美香さんは」
 ぼくだってユウとリンちゃんのことは考えてる。ユウだってリンちゃんのことを考えてるし、リンちゃんだって、ぼくたちみんなのことを考えてる。
 みんな考えてるんだお互いに。お互いのことを。
「・・・・・・・・・」
 ・・・が長い。勇気が必要なんだな、美香おばさん。
「リンは、養子に出そうかと」
「ようし~っ!?」
 父ちゃんとトキワ先生とぼくは、同時に叫んだ。
「話しが、あるんですか。どこかから」
「ええ。実は・・・・・・」
 美香おばさんの話を聞いて、父ちゃんとぼくは目を見合わせた。リンちゃんを養子に迎えたいと言っているのは、なんと、ひげもじゃ診療所の、ひげもじゃ先生だ。
「そんで、リンはなんて言ってんだ」
 美香おばさんの話では、知らない人のところよりはひげもじゃ先生の方がいい。そう言っているらしい。
 でもひげもじゃ先生は、 “お父さん” って言うには無理のある、けっこういい歳の、どちらかと言えばおじいさん。ぼくには親子という、イメージがわかない。
「リンにはまだ話していませんが」
「あのジジイが死んだら、またひとりぼっちだぞ。リンは」
「結婚すれば、ひとりきりってわけじゃないわ」
 確かにそうだ。結婚すれば親とは離れ離れ。母ちゃんだってそう。ほとんどの人が、そうなんだから。
「まだ七つか八つだろうが。適齢期まで早くても十五年。いや、二十年後だろ今は。それまでもたねぞ、あのじいさんは」
 確かにそうだ。
「あのう・・・・・・」
 また、 『・・・』。でも、さっきの点点点とは明らかに違う。
「まだ、四十九歳だそうです。先生」
「何いっ!?」
「ぷっ」
 三歳しか変わりないことにショックを受けた、父ちゃんの顔が引きつった。
「笑ってられんのかよ。お前だって、もう三十だろうが」
「馬鹿言わないでよ」
 トキワ先生ももう、父ちゃんのことを保護者だなんて思っていないみたいだ。
「キョウヘイいくつだ。こいつ」
 こいつ!?
「知らないよ。美香おばさんと変わんないじゃない」
「んまあっ! 本気で言ってるのキョウヘイくん」
 本気って言うか、本当に思ってることを言っただけなのに。なんだよ―――。
 言えなかった。村山くんからキョウヘイくんに戻ったことにも気づいてないし、先生が目が飛び出しそうなほど驚いていたから。
「うふふ」
 みんなの顔がいっせいに美香おばさんに向けられる。ぼくも。
 いつもうっすらと笑った顔をしてる美香おばさんが、顔いっぱいに笑顔を貼りつけてる。
「ま、リンしだいってことだな」
「でもリンちゃん、二年生よ。まだって言うか、もうって言うか」
 美香おばさんと離れて暮らすことになるだけでなく、母親が変わってしまうことになることにぼくは気づく。
 トキワ先生の言うとおり、物心がついていない年齢か、もっと大人に近い年齢だったらまだいいのかもしれない。ぼくが二年生だったらぜったいに、母ちゃんと別れるなんてイヤだし、深く傷ついてしまうだろう。
「なんて言うだろう。ユウくんは」 キョウヘイは、机の下のビンを思い浮かべた。
 リンちゃんのためになるのなら、そうした方がいい―――。ユウはそう言うに決まってる。
「とにかく話さないとな。リンに」
 父ちゃんはいたわるような、優しい声で言った。

「どうするつもりだい。お前さんは」
 美香おばさんにはいつも、中途半端な言い方をする父ちゃんだけど、今日は普段以上だ。
「できれば、こちらでずっと、働かせて頂けたら・・・・・・」
「こっちだってそう考えてるよ。そうじゃなくて、いろいろあるだろうが。国籍のこととかこれから先のこととか」
『在日』 というのは、日本に永く住みつづけている外国人のことを言うらしい。
 在日なんです。ニッポン人ではないんです―――。父ちゃんも美香おばさんの言葉を、ずっと気にかけていたのだ。
「私は、今のままで。朝鮮籍のまま・・・・・・」
 しばらく考え込んでいたおばさんは、とつとつと話し始めた。
 それは太平洋戦争が始まる前の、キョウヘイが聞いたこともない、韓国(かんこく)と北朝鮮が、まだ一つの国だった頃の話だった・・・・・・
 島津美香という名まえは、日本でふつうに暮らしていくための < 通名(つうめい)(日本人名) >で、ほんとうの名まえは、ピョン・ミヒャン( 辺 美香 )。ユウは、有るに一を書いてピョン・ユウイル( 辺 有一 )。リンは、凛にお花でピョン・リンファ( 辺 凛花 )。衝撃的な告白だった。
 ―――三人には悪いけど、ぼくはユウとリンと美香おばさんが、別の世界に住む宇宙人のような人に思えてしまった。―――


 ―――日本の植民地(しょくみんち)になる前の朝鮮は、多くの国民が農業を営み、生計(せいけい)を立てていた。
 その朝鮮を植民地にした日本は、朝鮮の人々のものだった土地や建物、農地に高額の税金を課し、税金を納められなくなった人からそれらを没収(ぼっしゅう)し、日本人に売った。働く場所を失った多くの朝鮮の人々は、日本で仕事をすることのほかに、生きる道がなくなってしまったのだ。
 日本に渡った美香のおじいさんとそのお父さんは、鉱山(こうざん)石炭(せきたん)を掘り出す炭鉱夫(たんこうふ)として働き、おばあさんとそのお母さんは、炊事(すいじ)係や子守りなどの仕事をして、どうにか生活をしのいだ。
 戦争が終わり、百万人とも言われる朝鮮人が祖国(そこく)朝鮮に引き()げるなかで、美香の祖先 『ピョン一家』 は日本にとどまった。帰る家がなかった。敗戦国の一部にされた朝鮮に、仕事などあるはずもない。日本に国の一部を乗っ取られた中国。日本との戦いに勝利したアメリカ。朝鮮や北海道を支配しようとしていたソ連。敗戦国となった日本。 「それらの国の動向を見極(みきわ)め、朝鮮人がどのような立場に置かれるかを見定める。」 自らにそう言い聞かせ、日本に残った。
 朝鮮人の立場は変わった。生活に必要な物資を売買するヤミ市( ひそかに物を売り買いするところ )で商売をする朝鮮の人々は頼られるようになった。日本人の目が、人間を見る目に変わった。
 だが長つづきはしなかった。終戦から三年が過ぎる頃になると、次々と法律が整備され、高まる復興の機運とともに団結する日本人は、用の無しになった朝鮮人を、ふたたび邪魔者扱いした。朝鮮半島に、二つの国ができた頃のことだった。
「朝鮮に帰りたい、祖国で暮らしたい。」 そう願った時にはもう遅かった。北朝鮮と韓国、朝鮮民族同士の戦争が激化し、日本に残るしかなかった朝鮮の人々は、帰れなくなっていた。―――

分断(ぶんだん)されてしまったのね。国も。ご家族も」
 トキワ先生の声が沈んでいる。
「北朝鮮じゃ帰れねえな。帰りたくてもよ」
 父ちゃんの声には怒りが込められていた。
「朝鮮半島が、私たちの祖国なのです。北朝鮮の者という意識など、私たちにはありません」
 在日の朝鮮出身者には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国籍の者はいない。
 韓国籍でも日本国籍でもない、 『朝鮮籍』 なのだと言う。日本との国交(こっこう)がないからである。
「隠してきたのです。朝鮮人であることを。隠さなければ、日本では生きていけません」
 朝鮮からきた人たちは、いまだにじゃま者にされてるの? どうして。
 わけがわからなかった。いったいどこの誰が、そんなじじょーを作ってしまったのだろう。
 ――― 「ボクはヤダ。ニッポン人、しんよーできない。」 
 ユウの気持ちは痛いほどわかった。
「でも日本人と結婚したのだから、日本人になれたはずでしょ。少なくとも子どもたちは。なのにどうして」
< 入籍も認知もしない――― >
 そんな男に言えなかった。朝鮮人であることを。子どもたちを日本人にしてやってほしいと。
「美香さん。ユウくんにとって、今がいちばん大事な時なのよ。帰化(きか)を申請すれば日本人になれるんじゃない? このまま、うやむやにさせてはいけないと思うの」
 ニッポン人は信用できない―――。
 日本人が嫌いなユウが、日本人になりたいなんて言うわけない。でも、先生の言うとおり、このままでいいはずがない。
「信じてるのです。祖国がひとつになることを」
「でも美香さん、」
「もういいだろ。配達すませてこい、キョウヘイ」
 父ちゃんは言って、仕込みをし始める。
「ユウが頑固なのは、お前さん譲りだな」
 背中で聞こえる声が湿っていた。



     十.それぞれの将来。そして夢



「やっぱり、ちょうせんに帰りたいの?」
 二人きりになったら訊こう。思っていながら口に出せなかったことを、キョウヘイはようやく訊くことができた。
「いいお父さんだな。おじさんって」
 ちっぷあっぷの二階。床に足を投げ出して並ぶユウは、違うことを口にした。新調した薄いカーペットに笑顔を向けながら。
「父ちゃんのことが?」
 リンちゃんをひどい目に合わせたお父さんしか、ユウは知らないのかもしれない。考えてみれば、ぼくだって、他の家のお父さんのほんとうの姿なんて、知らないのかもしれない。
「そうかな」
「だって、ボクもキョウヘイにも同じだろ。トキワ先生やお客さんにだって、区別しないじゃないか。おじさんは」
 確かに父ちゃんは、人を区別したりしない。でも先生に向かって、 “ネエちゃん” は良くないに決まってる。 “こいつ” も。
「言葉づかいがなってないからな、父ちゃんは」
 微笑を浮かべるユウの顔は、リンちゃんにそっくり。ほんとうにいい兄妹、いい人だな、君たちって。
「言葉づかいなんかより、人間はみんな同じだって本気で思ってることの方が大事なんじゃないか。やっぱりすごいよ、おじさんは」
 そんな風に考えられる、君もすごいよ。いったいどんな大人になるんだろう。ユウは。
「向こうで暮らしたいと思ってるんだ」
 え?
 ああ。ユウが話を元に戻したことに、ぼくは気づいた。
「でも、帰れないだろ。実際の話し」
「ボクも母さんも、向こうで生まれたわけじゃないし、暮らしたことすらないんだぜ。帰るって言うのはおかしいよ」
 ユウは言った。確かに帰るって言うのはヘンだ。
「怖くないか」
 怖い? ユウがそんな顔をする。
「怖いと思わない? 北朝鮮って」
「ニッポンの方が怖いよ」
 図書館やスーパーマーケットで。日本人とすれ違う度に、ボクはニッポンが嫌いになる―――。
 そう話すユウの(さび)しそうな顔が、美香おばさんに似てる。何だか放っておけない気持ちにさせる。幸せになってほしいと心から思う。
「ぼくも怖いかい。ミクのことも」
 ユウの “怖い” は、 “日本人”のことだとぼくは思った。
 ?・・・・・・
「そんなわけ無いじゃないか」
 少し間を置いてユウが笑い出した。声を出して笑うのは初めてだ。
「ごめん。誰も彼も嫌いっていうわけじゃないさ。何て言ったらいいんだろう・・・結局は、社会が怖いんだろうね。ニッポンの」
「なあんだ」
 キョウヘイは安心した。
「何が、何だなのさ」
「父ちゃんだって、同じようなことを言ってるもん」
「おじさんもかい。なら、ボクは在日で良かったのかもしれないな」
 妙なことを言う。
 ザイニチ、だから辛い思いをしてるんじゃないか? 君たちは。
「どうして、在日で良かったの?」
「帰る国があるからさ。在日のボクには」
 ユウがキョウヘイの肩を小突く。
「キャッチボールでもやろっか」
 キョウヘイはミットを叩く仕草をしてみせる。
「おじさん、忙しいもんな」
 すごいなユウって。父ちゃんから誘ってくれたのは二、三年前まで。ちっぷあっぷが繁盛し始めた今は、こっちから誘うことは出来ない。ちゃんと分かってくれていたんだね。
「サッカーにしないか。キャッチボールはおじさんとやる事にして。きっと喜ぶよ、おじさんも」
「そうだね。誘ってみるよ今度」
 ユウは体を丸めて、勢いをつけて立ち上がる。 「代表になるのが夢なんだ」
 どこの国の? 訊けなかった。
「ユウならぜったいになれるさ」
 力を込めて言った。ぜったいに叶えてほしかった。

「おばさん、白髪が増えてきたわね」
「昔から多いんだ、こいつは」
 何気ないミクの話しに、父ちゃんがこたえる。
「違うわよ、美香おばさんのこと。おばさんはもう帰ったでしょ、怒られるわよ」 ミクが大人のような口を利く。
「そうだったか」
 診療所の帰りに店に寄った母ちゃんは、タエ子を連れて家に戻った。連日三十度を超える猛暑だ。もう心配ないとは言っても、脳を手術したタエ子に負担を掛けさせたくない。母ちゃんは父ちゃんと違って、何ごとも慎重だ。
「大丈夫? 堪えない? この暑さ」
 トキワ先生が心配して言う。
「何年やってると思ってんだ。夏は暑い。承知のうえでやってんだよ、こっちは」
 自分を鼓舞(こぶ)するように言う父ちゃんだが、うだる暑さに目はうつろだ。
「違うわよ。美香さんに言ってるの」
「可愛くねえなあ。心配しろよ」
「私は平気よ」
 働き始めて四か月。美香おばさんは、くだけた言い方をするようになった。若々しいのは、ちっぷあっぷに慣れたせいかもしれない。
「染めたら私と変わらないのに。もったいないわ」
 うらやましいといった顔をして言う、トキワ先生の気持ちはよくわかる。白くてつやつやした顔をした美香おばさんは、三十五歳にはとても見えない。
「今のままでいいの」
「あら。気にならない?」
「まったく。ありのままでいいんです、私は」
 白髪を気にするのは日本人だけなのかな。
 キョウヘイはそんな事を思いながら、二人の会話に耳を傾けている。
「もったいないわ」
「おかしなこと言うなあ。染めるのと染めねえのとどっちが自然だ? 学校じゃ染めるな、年取ったら染めろ。理屈に合わねえじゃねえか」
 目いっぱい伸ばしてバッサリと坊主頭にする父ちゃんは、ほどんどが白髪。母ちゃんが赤茶色に変えると、とたんに不機嫌になる。不自然だと言って。
「そういうのを屁理屈って言うの。ま、いいわ。それより、リンちゃんのことはどうするの。養子とか移植のこととか」
 ひげもじゃ先生は、リンちゃんの皮膚移植を勧めている。養女(ようじょ)に迎えたいからというわけではない。ヤケドのあとを残したままにしておく事は、虐待の記憶を刻みつづけるようなもので、イジメの原因にもなって孤立(こりつ)する要因(よういん)になり兼ねない。と言って心配しているのだ。
「できる限りのことはさせて貰うよ。ウチも」
 フライパンを返しながら父ちゃんが言う。
「でもタエ子ちゃんのことで大変でしょ。おじさんのところも」
 気をつかってくれるトキワ先生の気持ちが嬉しかった。
 そうだよな。すっかり良くなったとは言っても、ぼくはタエ子やウチのことを、もっと真剣に考えなければいけないんだ。もう五年生なんだから。
「だからよ、できる限りって言ってんだろうが」
 父ちゃんは苛立(いらだ)ってる。真夏の厨房の、尋常(じんじょう)でない暑さにへばっているのだ。
「募金、集めたらどうかしら。ほら、心臓移植とかをするために募金活動する話、聞くじゃない」
 さすがはちっぷあっぷのプロデューサー。ミクの案にみんなの目が輝く。その手があったか。
「そりゃ、いいや。ニュースでやってるもんな、何千万貯まったとかよ」
「きっと実現するわ。一度の手術で終わりっていうわけじゃないんだし。美香さん、そうしましょうよ」
 右に立ったときのリンちゃんはふつうの女の子。いや、すごく可愛い女の子。でも左から見たときのリンちゃんは・・・ぼくは見ることができない。悪気はないのだけど。
「でも。甘えてばかりいては」
「おい、ミカっ!」
 !?・・・・・・
「ちょっと、失礼じゃない。自分の女房じゃあるまいし」
「右も左もわからねえんだぞリンは。変な気遣いばっかしてねえで、お前はリンの将来のことだけ考えりゃいいんだ!」
 リンにお前―――。ちゃんやさんを省いて言うのはおかしいし、顔を向けずに言うのは格好悪いと思うけど、父ちゃんの言うことは間違ってない。リンちゃんに、 “ありのまま” を押しつけてはいけないと思う。
「ひげもじゃ先生と三人で、しっかり話し合ってみたらどう?」
 にっこり笑った顔が、美香おばさんの答えだった。
 オムランチくらいに胸がふくらんだミクが、いちばん落ち着た大人に思えた。



     十一.責任という思いやり



「あなたたちの気持ちが聞きたの」
 シャッターを閉めた商店街は、秋をつげる虫たちの鳴き声もやみ物音ひとつしない。寝床に帰ったんだろうな。
 ユウはそんなことを考えて、気持ちを落ち着かせていた。幼くして重い課題ばかりを負ったリンは、混乱している。兄らしく在りたかった。
「わたしはいや。ずっとオンマー(おかあちゃん)とオッパといっしょにいたい」
 美香はゆっくりと、うなずいてみせる。懸命にうったえる愛娘(まなむすめ)が愛おしかった。
 リンが幼児語を使うたびに、美香は、小さな手を乳房(ちぶさ)にあてて乳を吸う、赤ん坊のリンの姿を思い出す。
 まだまだ、子供だものね―――。
「でもなリン。先生の子どもになれば、ヤケドの跡が消えてきれいになるし、学校にも行けるようになるんだぞ。友だちだって、いっぱい出来るんだぞ」
 ユウは言ってから思った。学校に行かず、友だちもいない、自分が言うのはおかしいと。
「ガッコウなんて行かなくてもいい。このままでいい」
 リンはいつもの言葉を口にして、いつものように涙を流した。
 学校に通っていないユウは、トキワ先生の授業と夜の復習だけでテストで満点をとり、小学二年生のリンも学力は優秀だと言う。それよりも、ふつうに子供らしく育てたい。ふつうの人間になってほしいのオモニは。お母さんは。
「ユウ。あなたはこれから・・・・・・」
 ふたりの将来のことを聞きたいんだ、母さんは。
 すぐにでも仕事に就いてリンのヤケドの跡を治したい。母さんにふつうの生活をさせてあげたい。でも働けるようになるまでの五年間は余りにも長すぎる。
 結局ボクは、今のままでいるしかないんだ。 「母さんは、どう思ってるの?」
 母さんの願いを、思っていることを聞きたかった。ボクのことなんかよりも。
「・・・・・・二人そろって、学校に行ってほしい。リンはきれいに、お顔を治してね。幸せになってほしいの。オモニは」
 望んでいるとおりに歩ませてやりたい。美香は、ほんとうの思いを告げられなかった。
「学校に行ったって幸せになんかなれないよ」
「見た目なんてどうでもいいっ」
 顔をそむける二人のからだを、美香は引き寄せる。
 尚早(しょうそう)だったのかもしれない。
 二人を強く抱いた。


 ――――高齢者向け配食サービス始めました―――― 自転車に立てた(のぼり)が、音をたてて秋風になびく。
「ご高齢者向けのメニューを作って配達するの」
 ミクの新たなプロデュースは見事に当たった。ミクの両親が経営していた不動産屋跡地がデイサービスとなったのを契機に、配達に加えて、安否確認サービスを取り入れたことが(こう)(そう)したのだ。
「んもう。本業は勉強よ」
 トキワ先生がキョウヘイに困った顔を向ける。配達の手伝いが忙しくなったキョウヘイは、トキワ学校の授業どころではなくなっていた。
「ミクちゃんはどうなんだ。本業のほうは」
 余計なこと訊くなよ。
 にらみつけた先の父ちゃんの顔が真剣だ。父ちゃんは心配しているのだ。高齢者向け配食安否確認サービスを始めたおかげで、厨房の一角を担わざるを得なくなったミクのことを。店主として。大人として。
「ミクちゃんのことはいいのよ」
 先生はぼくのことをかばったつもりなのかもしれないけど、 「心配なのはキョウヘイくんだけよ」 そう言われたようなものだ。
「いいじゃねえか。社会勉強してんだから二人とも。他の子にはできねえ勉強をな」
「でもねえ・・・」
 テンテンテンテン、チクチクチクチク。トキワ先生の目がスローモーションみたいに動いて、ぼくの目をとらえる。
「まさかひと桁台なんてことぁ、あるまいし。いくらなんでもよ」
 ・・・・・・・・・・・・
「まさかお前え、0点取ったんじゃねえだろな」
「そんなわけないじゃん。父ちゃんの子だよぼくは」 言ってからぼくは、あれ? と思った。言って良い言葉だったのかどうかを。
「0点っていうのは、取ったとは言わないの」
「んじゃ、1点は、2点は3点は、9点は取ったって言うのかよ」
 ぷっ。
 くすっ。
 聞かないふりを決め込んでいたミクと美香おばさんの吹き出す声―――。
「ちょっと父ちゃん」 笑いのネタみたいなこと言うなよ。
「0点も9点も10点も同じよ。勉強が、ホ・ン・ギョーだっ、て言ってるの」
 学校の話題はユウが配達に行っている時か、リンに勉強を教えている時だけ。学校に通っていない二人がいない時だけという、暗黙(あんもく)の了解があって、そんな時はあまりいい雰囲気とは言えない。
 ま、いいか。なごやかになれば。
「ま、ちゃんと言って聞かせっからガミガミ言わないでくれよ。こんなクソ忙しいときにコイツに抜けられたら、仕事になんねえからよ。いくらバカでもよ」
「バカ!?」
 ん? 違うか? 父ちゃんがそんな顔をする。
「言いません。私にも責任がありますから」
「何の責任だよ」
「学校での教え方が悪いのかもしれないし。私の」
 トキワ先生は先生らしくないことを言う。授業参観ででも言いようものなら、大問題にされる問題発言だ。
「そんな事ないわ。上手よ、先生の教え方」
 美香の指示を聞きながらギョーザを包んでいるミクが、先生をかばう。かっぽう着を着たミクの頭が、いつの間にかに、美香おばさんの肩のところにあった。
 最近のミクは、早く大人になろうとしてるように見えた。ぼくよりも先に。
「だとよ。生徒が言ってんだ、自信持てや」
 上手に教えてもらっているくせに成績が悪い。けっきょく責任があるとしたらぼくの方だ。
「そうは言ってもね」
「自信・実行・反省が大事なんだって。本に書いてあったわ」
「ミクちゃんが言うなら間違いねえ。反省しろよキョウヘイ」
 父ちゃんは前ほどキツイことを言わなくなった。キツクなくなりつつあると言った方がいいかもしれない。
 とにかく、配達を手伝わせている自分にも責任がある。そう思ってるのは確かのようだ。
「もったいないなあ」
 ミクが手を動かしながらぽつりと言う。
 店のアイデアのほとんどはミクが考えたもの。ミクの 「もったいないなあ」 は、新しいアイデアが浮かんだ時の口ぐせなのだ。
「今度は何だいミクちゃん」
 それ来たっ。父ちゃんがそっと尋ねる。今度はどんなアイデアでしょうか。お嬢ちゃん。
「ユウくんとリンちゃんのことよ」
 父ちゃんは少しだけ肩を落としたみただけど、ぼくは気になった。学校のことかな。それとも住まいのこととか。
「調べたの」
 四角いステンレス容器にギョーザを並べ終えたミクに、みんなの視線が集まる。
「再生医療を推進している国があるのよ。人工皮膚移植を」
 リンちゃんのことだった。
「そんなもん、日本でもやってるだろうよ」
「費用がぜんぜん違うのよ。日本でするよりずっと安いの。しかも国策として取り組んでるから、安心」
 安くて良いもんなんか有りゃしねえよ―――。父ちゃんの持論を引っ込める説得力が、ミクの話にはあった。
「その国ってのはどこだい」
「おとなり。韓国よ」



     十二.友だち



 教室の窓ガラスが、西日に反射してまぶしい。
「あそこがぼくの教室だよ」
 ユウを誘って学校にきたキョウヘイは、少しかじかむ指を三階の隅に向けた。
「トキワ先生もいるのか。あの教室に」
 目を細めるユウの顔が、 『少年』 に戻っていることに気づいた。日焼けしたユウは、大人に見える時があった。
「うん。 『トキワ学校』 の授業の時と同じだよ。先生は」
 キョウヘイは言って、ユウに向かってサッカーボールを蹴った。
 ユウが学校に来れば、休み時間に思い切りサッカーが出来る。ぜったいにヒーローになれるのにな。転がるボールを見ながら、キョウヘイはそんなことを思った。
「タエ子ちゃん。慣れたかな」
 妹のタエ子は二学期の始めから学校に通い始めた。三年生になって初めての登校にタエ子は、一、二年生からの友だちが少ないと言って不安を口に出している。
 タエ子のことを気に掛けてくれるユウは偉いと思う。大人に見える。やっぱり。
「大丈夫だよタエ子は。大人しそうに見えて、社交的だから」
「君やミクちゃんもいるしね」
 そうだよ。ぼくらがいるんだから、君もリンちゃんも来ればいいだよ―――。思っていながら言葉に出せなかった。リンのことでピョン一家はいま、重要な岐路に立たされているからだ。
「リンちゃんのこと、決めたの? どうするか」
 三人で話し合ってるのは知っていた。リンちゃんを養女に出すことと、じんこー皮膚移植の話をしてることは。
 でも、結論を出せないのだろう。 「何も言ってことねえとこを見っと、決められねえんだろうよ」 父ちゃんが言うように。
「話しはしてるんだけどね。毎日」
 狭い部屋で、肩を寄せながら話す姿が目に浮かぶ。
 三人がちっぷあっぷで暮らすようになってから半年が過ぎた。他の国の人だなんて感じることはまったくなく、三人は、日本人としか思えない。
 でも理解できない言葉で会話をする三人を想像してみると、別世界の人のように思えることがある。想像しなければいいだけのことだけど。
「簡単には決められないよね」
 もう訊くのはやめよう。
 ボールの上に足をのせたままのユウを見て、ぼくはそう思った。
「母さんがさ・・・・・・」
「おばさんが、なに?」
「韓国にさ。行きたいって言うんだ」
 もちろんリンちゃんの移植のこともあるよ―――。そう言ってユウはつづける。
「朝鮮で。ムクゲの花に囲まれて、みんなで暮らすのが夢なんだって」
 キョウヘイは、ユウたちが初めてちっぷあっぷに来た時のことを思い出した。 「ムクゲって言うのよ」
 ムクゲは、リンちゃんがオムランチの旗に描いた、リンちゃんのような花だ。
「そう。夢って、大事だよね」
 夢がないぼくには、どのくらい大切なものかはわからない。でも夢って、やっぱり大事なものだと思う。
ハラボジ(おじいさん)ハルモニ(おばあさん)の夢を叶えたいんだよ。母さんは」
 枝の先へ先へと花を咲かせるムクゲの木は、朝鮮のこころ。おじいさんやおばあさんも、そのまたおじいさんもおばあさんも、みんなムクゲを見ながら育った。
 淡紅(あわべに)、白青、薄紫(うすむらさき)・・・の花が姿を消したのは、植民地になってからなんだよキョウヘイ。
 半島から次々と朝鮮人が消えていくのと同じように、 「日本人に抜き取られたんだよ、朝鮮じゅうのムクゲが。朝鮮人は悲しかったんだよ。キョウヘイ」
 美香おばさんの両親は朝鮮人だ。でもユウとリンちゃんの父親は日本人。だけどユウは日本人だと思っていない。ユウは、何ジンなんだろう。何ジンになりたいのだろう。
「悲しいよね。ひどいよそれは」
 ユウは日本人じゃないほうがいい。ぼくはそう思ってる。その方が幸せのような気がする。どうしてかは、わからないけど。
「でもどうして韓国なの? 朝鮮に行くのが難しいから?」
 ユウがサッカーボールを胸に抱えて、ゆっくりと近づいてくる。どう話したらぼくが理解できるかを考えてるんだ。
故郷(ふるさと)で暮らすのは無理かもしれない。でもね、キョウヘイ。韓国も北朝鮮も朝鮮なんだ。だから母さんは韓国に行って、待ちたいんだよ。朝鮮半島が一つの国になるのをね」
 何となくしかわからなかった。
 でも美香おばさんがユウやリンちゃんのことだけでなく、先祖や朝鮮という 『国』 や人を、大切にしたいという気持ちだけはよく理解出来た。
「そっか。そうだよね。ぼくもその方がいい気がするよ。リンちゃんも学校に行けるし」
 おだやかな三人は、自然の中でおおらかに暮らしたほうが似合う。ちっぷあっぷの二階なんかより。日本よりも。
「ボクも学校に行って、いっぱい勉強するんだ」
「そんなに好きなの? 勉強が」
 キョウヘイが苦虫を噛みつぶしたような、不愉快な顔をする。
「うん。サッカーと同じくらいかな」
「ええっ!?」 
 たらふく定食と勉強が同じくらい好き。そう言ってるようなものだ。
「おかしいかい」
「おかしくないけどヘンだよ。勉強とサッカーが同じくらい好きだなんて」
 言ってからキョウヘイはおかしくなる。
「やっぱり偉いよユウって。ぜったいに代表になってよ。応援してるから」
「うん、絶対になる」
 ユウが反対側のゴールに向かって、思い切りボールを蹴った。
「韓国に行っても、ずっと友だちだよね。ぼくたち」
 友だちでいようよ―――。友だちならこうは言わない。だからぼくはそう言った。
「当たり前だろ。キョウヘイのおかげで、日本人が好きになりそうだよ。ボクは」
 ユウが言って駆け出した。
 キョウヘイが後を追い掛ける。ならんで走りたかった。



     十三.親友と・・・何だろう



 六年生になって担任が変わった。彫刻刀でほったような顔の高柳先生は、物静かで硬くて冗談を言わない男の先生。トキワ先生はこうなることを考えて、苗字で呼ぶようにしたのかもしれない。始めだけだったけど。
 そのトキワ先生は四年生の担任になって、タエ子のクラスを教えてる。ちっぷあっぷでのトキワ学校はつづいてるけど、生徒はユウとリンちゃんの二人だけになった。タエ子ひとりだけをえこひいきするわけにはいかない。そういう理由で。
 じゃあどうしてぼくには、勉強を教えてくれたのだろう。
 答えはかんたんだ。テストでひと桁ばかりのぼくに教えたところで、誰も文句は言わないから。タエ子はぼくと違って、成績がいいからね。
「やあ、いらっしゃい」
 父ちゃんは、頭に巻いたタオルをとって言った。
「やってるな」
 鼻の下にひげをはやしたおじさんが、カウンターのミクの前を選んで座った。ミクのお父さんだ。
「さまになってるじゃないか」
 ミクはちょっとうなずいただけで、野菜をきざみつづけてる。何も言わないところを見ると、お父さんがくることを知っていたのかもしれない。
「めずらしいですね」
 店のお昼休みまであと十五分。お客さんはぽつぽつ。父ちゃんはフライパンを動かしながら、嬉しそうにおじさんに話し掛ける。
「頂いてからにしましょうか」
 おじさんは言って、考える顔になった。 

「んで、話ってなんでしょう」
「いやあ。少し、困ったことになりましてね」
 人と話をする仕事をしているおじさんは、高柳先生みたいに、短くわかりやすいように話をした。父ちゃんはまるで、叱られている生徒みたいだった。
「そりゃ、困りましたね」
「まったく」
 困っているのか喜んでいるのか、ぼくにはわからなかった。何て言でばいいんだろう。喜んであげないといけない―――そんな、話だった。
 ミクのお父さんとお母さんが働き出した東京の不動産屋さんは、大きなグループ企業の中の一つ。グループで一番えらい会長さんが、いちばん力を入れている会社らしい。
 その一番えらい人が、お客さんからの信頼があついおじさんとおばさんに、不動産事業を任さると言い出した。つまり、おじさんが東京の不動産屋さんの社長さんで、おばさんがセンムになる。そんな話だった。
「ここから通勤。ってわけにはいかねえもんな。社長ともなれば」
 おじさんとおばさんは東京に引っ越しして、仕事に集中しなければならないと言う。つまり・・・・・・
「んで、ゴネてるわけですか。ミクちゃんが」
「ぜったいに引っ越さないからねっ」
 ミクが怒るなんてめずらしい。ぼくは一度も見たことが無い。口をあんぐり開けてる父ちゃんもきっと。
「どうしてだミク」 ―――。
 おじさんがいくら訊いてもミクは答えない。ミクがこんなにガンコだったとは、思ってもみなかった。
「嫌なものはイヤっ!」
 父ちゃんは頭を振り、ぼくは固まってしまった。ミクの目に、涙がいっぱい盛りあがっていたからだ。
「何とか、ならないものですかねえ。社長」
 ほんとうに何とかしてほしい―――父ちゃんは、ほんとうに困った、ほんとうに弱った顔をしてる。
「どうしてミクを連れて行かなきゃダメなの。ミクが働きに行くわけじゃないのに」
 間ぬけな言い方だと思う。だけどミクはイヤがってるミクを連れてくなんて、ぼくは鳴っとく出来ない。
 それにミクがいない学校なんてつまらないし、美味しいお弁当も作ってもらえなくなるし、ミクがいないちっぷあっぷはポカンと穴が開いたようになっちゃって、
 あっ!
 ぼくは大事なことに気づいた。
 美香おばさんはリンちゃんとユウを連れて韓国に行きたいと言ってる。
 ミクが引っ越しでいなくなったりしたら、どうなっちゃうんだろう。食堂ちっぷあっぷは。ぼくと父ちゃん、ウチの家族は。
「よく言い利かせま、」
「イヤッ! 絶対にイヤ!」
「ぼくもヤダ!」
 ぼくは叫んでいた。からだのどこかにあった、ほんとうの気持ちを。
 ぼくはリンちゃんが好きだ―――。
 リンちゃんはほんとうに好きだ。前よりずっと好きになったような気がする。
 でもミクのことだって好きだ。前よりもずっと好きだ。ミクがいない生活なんて考えられない。ぼくは、ミクのことが大好きだったんだ。ずっと、ずーっと前から。
「キョウヘイ・・・・・・」
 唇を震わせているミクを、ぼくは抱きしめたくなった。守りたいと思った。
 ミク。
「イヤ~!」
 ミクがカウンターに突っぷして泣き出した。一年生の子どもみたいに。
「家族いっしょの方がいいに決まってる。けどな・・・・・・」
 父ちゃんはギュッと唇を噛みしめた。おじさんも。
「考えてあげてよおじさん。東京にも、たくさん良いことや楽しいことはあると思うよ。でもさ・・・・・・でも、ずっと心のなかに、傷が残っちゃうと思うんだ。こんな気持ちのまま行ったらさ」
 たぶんユウとリンちゃんもそうなんだ。学校に行けないのも友だちが出来ないのも、日本人になれないのもいつも寂しそうな顔をしてるのも、大人の都合に巻き込まれてしまったからなんだ。どんな事情があるにしても。

「変わったでしょ社長。団地も。商店街も」
 父ちゃんの声が、悲しそうでやさしい。
“たらふく食堂” は、若いお客さんにお腹いっぱいご飯を食べさせてやりたくて付けた名まえだ。昔は、団地に空き部屋なんてなかったって言うし、学校は教室が足りないくらいで商店街も賑わっていたはず。
 団地に長く住んでる父ちゃんは、何十年も前の商店街を知ってる。だから寂しいのだ。商店街が変わってしまうのが。人がいなくなるのが。ちっぷあっぷからミクがいなくなるのが。商店街で姿を見られなくなることが。
「ふる里がなくなるってのは、淋しいもんですよ」 父ちゃんの声はとぎれとぎれ。 
「おじさん」 「おじさん」
 ミクは父ちゃんに。ぼくはミクのお父さんに言った。
「何とかなりませんかね。ミクちゃんのために。商店街のためにも」
 オレの為にも―――。ぼくにはそう聞こえた。
「小学校は、卒業させます。ゆっくり考えます。後のことは。いいね、ミク」



     十四.別れは出発だから



 ぼくもミクも学校を休むのは初めてだった。
 平日のせいか、横浜に向かう駅のホームは空いていて、拍子抜けするほどもの静か。ぼくらが喋らないせいも、あるのかもしれないけど。
 電光掲示板を見上げているミクは何を考えてるのだろう。
 明るく見送ろうね―――
 電車が遅れてくれないかな。来なければいいのに。そんなことばかりを考えているぼくは、ミクとの約束を果たせそうにない。
「もうすぐね」
 ミクの声にいつもの元気はない。掲示板を見てたわけじゃなかったことは、ミクの赤い目を見ればわかる。
 でも声を出してくれたことが、ぼくは嬉しかった。
「何から何まで。ほんとうに、お世話になりました」
 美香おばさんの言葉には、 「ごめんなさい」 と 「ありがとう」 が込められてる。顔を隠すようにして頭をさげる、ユウとリンちゃんも。

 リンちゃんの皮膚移植と三人が韓国で暮らすお金は、ひげもじゃ先生とトキワ先生と、ちっぷあっぷが呼びかけた募金と支援のお金、それに父ちゃんとミクのおじさんと、ひげもじゃ先生とトキワ先生の寄付でまかなえた。 「ユウとリンちゃんのために」――― そう言って、断わる美香おばさんを説き伏せて。

「礼を言わなきゃ /// なんねえのはこっち ///// の方だ。ありがとな、ほんと /// によ。とにかくからだ ///// だけは気をつけて /// な。なっ」
 せっかくの父ちゃんの話し声は、電車の接近を告げるメロディと、人なのか機械なのかわからないアナウンスがかき消してしまった。

 父ちゃんがぼくの背中をこづく。
 何かしゃべれ。
 そんなこと言われても。

     飛行機で行けよ。飛行機で。
     ハラボジやハルモ二と同じようにしたいんです。どうしても。

「酔い止め。飲んだ?」
 どうでもいい事ではないけど、いま話す事ではない。でも他に浮かばなかったし、ありがとうとか、がんばれよ。なんて言ったら・・・顔がクシャクシャになりそうだ。
「船は揺れっからよ。慣れるまで、甲板に出るといいって言うぞ」
 似たような事しか言えないのかよ、父ちゃん。
 でも気持ちはよくわかった。あらたまったりしたくないし、照れくさい。みんなそうだ。昨日まではふつうに喋っていたんだから。
 あっ。そう、これだけは言わなきゃ。
「タエ子にさ。手紙書いてよ」

     ユウお兄ちゃんのお嫁さんになりたかったのにぃ。
     また会えるよ。タエ子ちゃん。

 忘れないでよユウ。タエ子のことを。
 タエ子はぜったいに忘れないから。もちろん、ぼくたちみんな。

「うん。絵ハガキを送るよ」
「ミクちゃん。そろそろこれ」
 父ちゃんがミクにトートバッグを渡す。父ちゃんとミクとぼくが早起きして作った、お弁当と手紙が入ってる。
「またぜったいに、会いましょうね」
 ミクは笑顔をつくって、ユウの胸にバッグを押しつけると、エビみたいに後ろに引っ込んでしまう。気持ちはわかるけどミクらしくない。ぼくだって同じようにしただろうけど。
「うん、絶対だ」
「親友だもんな。ぼくたち」 
 ぼくの言葉のせいで、美香おばさんとリンちゃんが泣き出してしまった。ミクも。ユウまで。
「ボクは、家族だと思ってたよ。みんなのことを」
 ユウは大粒の涙して言った。
 駅員が電車の到着を告げる。
「練習、しろよ。二人で」
 ユウの涙声が、ぼくの涙腺をゆるめる。
「練習って何のことだ」
「サッカーボール、プレゼントしてくれたんだ。ユウとリンちゃんが」
 もうだめだ。
 いいじゃない、泣いたって。それだけの、仲なんだから。わたしたたち。
「わたしたち、サッカー選手になるの」
 ミクの顔が、打って変わって明るくなる。
「ちっぷあっぷは、どうすんだ。プロデューサーだぞ、ミクちゃんは」
「サッカーやりながらやるわよ」
「いつか戦うんだよおじさん。日韓戦で。日朝戦かもしれないけど」
 ユウが笑顔になった。

     どっちがいいだい? 韓国と北朝鮮。     
     代表に選ばれるまでには一つの国になってるよ。きっと。

 ぼくも祈ってるからね。ミクとタエ子といっしょに。ユウが代表になるのを。一つになった国の、代表になることをね。

「そりゃ楽しみだ。代表選手のお袋さんと妹だな。美香ちゃんとリンちゃんは」
 父ちゃんが屈んでリンちゃんの頭に手をのせると、
「楽しみぃ」
 恥じらいながら言うリンちゃんが、最高の笑顔を浮かべた。
 ―――おじさんが来て良かったわね。ミクが耳元で言った。
 ぼくも同じ気持ちだよミク。父ちゃんがいなかったら、笑うことも泣くことも出来なかっただろうからね。
 ずっと泣いてたかも。わたし。

     これ。つかってよ。
     リンにかい。
     二人に。いや三人に。

 いくら入っているのかわからないコーヒーのビンは、タエ子だったら持ち上げられないほど重くなっていた。

     ありがとう。大切に、使わせてもらうよ。
     いくらもないと思うから、何か、楽しいことにでも使ってよ。
     ボクの先祖はね。モノを大切にしてきたそうなんだ。
     だから大切に使う。君らしいな。
     どうしてかわかるかい?
     ・・・・・・わかるような、わからないような。
     何も持っていなかったからだよ。
     何も持ってないから、物を大切にするのかあ。
     君のお父さんと同じさ。大切に使わせてもらうよ。

 そっか。わかったよ。
 ボロボロの自転車も使い古しの教科書も、ノート1枚も大切にするから、君たちはやさしいんだね。ぼくも見習うよ、君たちのやさしさを。これからは。

 ユウ。
 ぼくは夢だったような気がするよ。君たちがいたことが。
 きっと君は、こう言うだろうね。
 ―――また会えば、夢じゃなかったってわかるよ。なんて。
 ユウ。ぼくはこう思うんだ。
 君たちと過ごした日々は、記念日だったって。
 君はこう言い返す。
 ―――運命だよ。
 ってね。
「キョウヘイ」
「なにボーッとしてんだ。帰るぞ」
 レールのはるか先に、米粒くらいの電車が見える。動いているのか停まっているのか。ユウが乗った電車なのかもわからない。
「さ、気合入れてくぞ」
「気合って」 まさか、
「仕事に決まってんだろうが」
「ええ~っ、休みじゃないの~」
 ミクと同時に声をあげた。
「休めるわけねえだろが。大黒柱が二人もいなくなったてのによ」
「札、出してきたじゃない。休業の」
「仕方ねえだろ。ホントにあっぷあっぷになっちまったんだからよ。ちっぷあっぷは」
 父ちゃんがぼくらに構わずに歩き出す。
「イタイよな、美香おばさんとユウがいないのは。ダイジョブかな」
「グズグズ言わない。やるしかないでしょ」
 キョウヘイの肩を叩いて、ミクは駆け出した。
「頼むぞプロデュース!」
 慌てて後を追いかけるキョウヘイが叫ぶ。
「わかってるって!」
 すごいよなあ、ミクって。やっぱり大人だよ。ミクは。
「頼りにしてるからな~!」
 ミクの小さいからだが、みるみる遠ざかっていく。
「甘えるな~!」
 デッカイ声が飛んできた。
 
 大丈夫。ちっぷあっぷは。
 大丈夫。ミクがいるんだから。
 大丈夫。ぼくたちは。
 夢があるから。

「さっさとこいや! そんなじゃ代表になれねえぞ!」
 大丈夫。父ちゃんも、いるしね。


                                                           (了)  

ちっぷあっぷ! ぼくらの記念日

< 参考文献 >
 〇「消えた国旗」 / 斎藤尚子 作 : 岩崎少年文庫
 〇「むくげとモーゼル」 / したかしん 作 : アリス館・少年少女教養文庫

ちっぷあっぷ! ぼくらの記念日

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted