献帝

三国志に登場する皇帝劉協(献帝)視点のお話。

1

 壮烈な個性を持った人物とばかり関わりを持ってきたことを思い返すと、帝位を失った朕の人生もまた、一筋縄ではいかない、浮沈を繰り返した、波乱万丈の人生であったと思いなすことができようか。あの男、董卓の力強い生命力の中に見受けられた粗暴の気。漢王室の伝統を意に介することなく、朕を皇帝として担ぎあげることだけはためらいなく行って、自身は決して皇帝の地位にのぼり地上を睥睨しようとしなかった男。どうしてあんな男が朕と同じ大地に生を受けて、同じものを喰い、同じ空気を呼吸しているのかと訝ったものである。あの北戎の権化のような男に見守られて朕は成長した。しかし子供ながらに、彼のあの生命力は朕にはないものであり、また、あってはならぬものであるという意識を強く持ったことを憶えている。
 ――劉協、そなた、北の大地を見たことはあるまい? あるとき董卓はこう訊ねた。朕はこの質問にどう答えればよいか、わからなかった。漢の皇帝である朕に向かって、「そなた」というは他にだれあろう董卓のみであったし、またそれを不敬であると思わせぬだけの周りの空気を巻き込むような強引さを彼は雰囲気として纏っていた。朕はそれにどのように答えたのであったか――確か、一度、見てみたいものである、とでも答えたような記憶があるが、定かでないのはおそらく董卓の印象が強すぎて、朕の感情が細切れにされてしまっていたからに相違ない。
 董卓が都城洛陽に入る前、朕は十常侍の張譲に連れられて洛陽郊外に出ていた。それは彼が他の十常侍と図って大将軍何進を宮中に呼び出して暗殺し、そのために董卓と内通して朕を引き渡そうとしたのであったが、その張譲も、盧植に追い詰められて命を絶ったということである。その後、董卓に庇護されて再び都城に戻ったはいいが、それからはもう、緊張を解くいとまもないほどに、ぴりぴりした日々を送るしかなかった。
 いま遠き日のことを思うと、あれほど辛いと思っていた時代が、実はそれほど苦労を必要としていたわけでなく、自分さえ強く持っていれば、さほど心を砕くこともなく、生活を保つことができていたという点で、幸せであったのかもしれない。むしろ、この今の状況、無理やり玉璽を奪われ、帝位を剥奪され、曹操の息子である曹丕の前に傅かねばならなくなったいまの自分のみじめさの方を辛く思ってもみるのである。とはいえ、それを屈辱と感じていない自分がいることはまったくの不思議でもあった。むしろ、董卓によって異母兄の先帝劉弁から帝位を受けるに至ったときからずっと考えていた、朕は皇帝でありながら、実は下吏以上に自由を束縛された存在ではないかという一種の憂鬱。その頃から、いつかはこういう日が来るであろうことを予測していたのである。
 董卓は私が皇帝であることを利用したのではない、とは強く主張できることである。私が皇帝でなく箏曲の名人であったとしても、おそらく、私を見て、傍に置いたものであろうということが意識されるのだ。それは自身を買いかぶっていっているのではない。そうではなくて、むしろ、あの董卓の心を敲つような、何かほんの些細な面で普通ではない何かがこの朕の中にも秘められていたことをあの男は見定めたのであろう。
 恐ろしいことである。あの董卓に見染められたということ。 それは恥ずべきことであるかもしれない。また、朕自身が持っている悲劇性を現わしているのかもしれない。董卓、字を仲穎。何の因果でこの男を仰ぎ見ながら漢の皇帝として立ち続けなければならなかったのか。朕はそれを思うと、胸が苦しくなってくる。

2

 あの董卓に睨まれながら、朕は成長した。
 華美な衣装に身を包んだ楽団の出し物を見ながら、心は常に心底解放されることなく、ひたすら董卓の顔色を窺わなくてはならぬ日々であった。しかし不思議なことに董卓の方から朕に要求をしてくることはなかった。あれをしろ、これをしろ、あの者を篤く遇せよ、かの者を罰せ。そういう要求をしてくるものは董卓以外にもあった。家臣といえるたくさんの諸侯らが、そういう要求はすすんでしていたのであったが、ひとり董卓のみは朕の威光を利用しようという腹積もりもなく、ただ朕を皇帝という駒として眺めるだけに留まっていたのである。利用しなかったのは他者に依存しなくとも、自分の力のみで物事を推し進められる自信を持っていたからではないか。いま思うと、そうであったと見られるのである。
 また、董卓は荒淫を楽しんだ。宮中にいる女官たちにも容赦なく手を出した。しかし好きなのは乙に澄ました女官でなく、過度に淫靡な芸妓たちであった。そんななか、董卓の侍女として彼の夜の相手もしていた女を、もともと丁原の部下であった呂布が見染めて、それによって彼に彼女を与えるということがあった。その女の名すら、朕は知らない。しかし、呂布という男を初めて見たときは、こんな粗暴な人間が自分と同じ大地に存在しているのかと思えるほど、きわまった特性を持った人物はある種の畸形であると強く思ったことを昨日のように覚えている。
 爾後、董卓と呂布は親子の契りを交わしたということである。
 董卓の暴虐と呂布の横暴はうまく協調しあった。それによって、他の部下は生きた心地がしなかったというのが正直なところであったろう。斯くいう朕もそのなかの一人であったことを隠さずに宣言しておこう。
 初平三年四月、ここで董卓にとって大変な事件が起こる。
 暗殺である。
 呂布の反乱であった。
 呂布は参内しようとする董卓を捕まえて、斬りかかったということであった。それは元司徒の王允と結んでのことであった。一説には、呂布に払い下げられた元董卓付きの侍女というのは、この王允の娘であるという説があって、亡くなってしまったいまの状況ではそれを確かめることはできないものの、なにかそこに含みがあったのではないかという気持ちはおろそかにすることができないものである。
 呂布は常識の通用しない相手であった。
 董卓が命を落とし、それによって新たな時代が来たかといえば、それもまた異なっている。董卓亡き後の世は、また別の地獄が現出するだけのことであった。そして、朕はそこで詔勅を出すということもできず、皇帝らしい威光を示すこともなく、呂布政権の不備をただじっと眺めることだけしかできないのであった。
 朕は長安を抜け出し、洛陽へ戻りたいと強く念じていた。
 そしてその気持ちが嵩じ、本当に長安の都を抜け出して洛陽への道を急ぐことにした。
 洛陽は遠い。
 それを実感したのは、実際にその距離を、籠などを使わず自分の足で歩いたからである。
 それは受難の旅の幕開けといっても良いかもしれなかった。

3


 それは朕が洛陽に着くよりも少し前のこと。
 朕はともに道を歩いてきた侍官にこのようなことを問われた。
「洛陽の都にはかつてのような栄華はなく荒廃していると聞き及んでおります。そのうえで天子様はなぜに、あそこへ戻ろうとされるのですか?」
 その疑問は尤もであった。
 朕はそれに答えた。
「天とともにあると思える場所は、朕にとっては洛陽しかないのだ。それ以外の場所では、朕は、羽衣を隠された天女のようなものだということを強く感じている」
 侍官はそのまま押し黙った。沈黙が同意の役目を果たしたのである。
 朕は臣下を説得し、旅を続けた。
 一ヶ月以上掛かる長旅であった。
 長安から洛陽というと相当な距離がある。
 そして洛陽に着いたとき、朕の希望は、絶望に変わった。あの煌びやかで荘厳だった建物は完全に焼き尽くされ、かつて宮廷のあった場所は、もはやぼろぼろになっている。宝物は盗まれ、建物は壊され、荒れるにまかされている。朕は死を思った。もはやこの地と同じく死するしか手段は残されていないのではないかと絶望を深く思った。
 しかし朕の思いの中に、ひとつの希望が生じた。
 誰か信頼のおける者を脇に置いて、また一から国政を始めていけばいいではないか。
 そんな希望が胸に萌す。
 ――しかし誰にその大役を任せればよいのか?
 袁紹か――袁術か――劉表か――?
 しかし、いい名が浮かんでこない。といって、今更呂布に頼るわけにもいくまい。ならば、一体誰を――。
 そのとき一人の男の名が心に浮かんだ。
 曹操。そうだ、曹操だ。
 あの男なら、もしかすると、うまくやるかもしれない。
 朕はそう思い定めて、曹操を呼び寄せることに決めた。
 曹操はほどなくしてやってきた。荒れ果てた洛陽の都を脇目に見つつ、朕の待っている宮殿へとやってきた。
 曹操は初めて見たわけではないが、その姿はなかなかの美男子である。
 小柄ではあるが、程よい筋肉を持ち、武術の腕も相当なものがあるとのことである。
「朕とともに国政を司ってくれぬか?」と曹操に告げると、彼は答えていう。
「私はまつりごとは行ってもかまいませぬが、この地では遠慮させていただきたい。つきましては帝にはわが城、許昌に移っていただき、そこで国政を執っていただきたい」
「なに? 許昌だと?」朕は訊ねた。
 しかし問い直しても答えは変わらなかった。
 朕はなんと弱い皇帝であるのか。その曹操の押しに敗れて、許昌に移ることにしたのだったが、そのときは何が何かわからなかった。そのわからなさ、えたいのしれなさが曹操という男の正体であったのかもしれない。いまこの曹操亡き後の魏の国に居ても、曹操の正体は完全にはわからなかったという負い目がある。曹操は永遠の謎であった。

4

 曹操は董卓や呂布とちがい、洗練された美を身裡に抱いているような男であった。華美を好む卑しさもなければ、享楽にうち興じるような堕落的精神も持ち合わせていない。欠点をあげるとすれば、色を好むという点において、他の英雄と変わらぬどころか、それ以上に旺盛な興味を持っていたことくらいである。しかし、それによって内政がおろそかにされることはなかった。
 朕は許昌に来て、あることに驚かされた。
 この漢の国を騒がせた大事件のひとつ、張角率いる黄巾党の残党である青州の部隊をまるまる吸収し、自分の軍隊として使役していたのである。正確な数はわからぬが、一説には三十万ともいわれていた。当時、それだけの軍兵を持っている勢力は四海の内にはなかった。これは誇張ではない。朕もはじめは、まさかという気持ちでその噂を聴いていたのであるが、訓練風景を見るにつけ、また、黄巾党の家族がこの都市の一隅に住まわっていることを思うと、それが本当であるのだという事実がよりはっきりと浮かび上がって来たのである。
 曹操はその軍隊を手にしてすぐに、父である曹嵩を殺されるきっかけになった陶謙を討つためにその軍を動かした。父の敵として討ちにいったという名目ではあったが、朕はそうではないだろうという思いを強く持っている。あの鬼のように冷たい曹操が、身内を討たれた恨みだけで揚州を血祭りにしようとしたとは思えないのである。そこには曹操なりの権謀術――曹操なりの戦の狙いが存在していたのではないかと思うのである。
 結局、曹操が揚州に攻め入ったとき、背後から呂布の軍団が予州に攻め入った故に、曹操は退却せざるを得なくなり、またそれによって何の運命か、病没した陶謙に代わって、客将の身分であった劉備という男の元に揚州が転がり込んだのである。
 朕はそれまで劉備という男を見たことがなかった。
 噂では中山靖王劉勝の子孫であるとのことだが、それは本当であるのかどうかは知らなかった。劉姓は世間にごまんとあるし、亜流傍流も存在している。あの董卓などの意見では、あんなものはまやかしでしかないと決めつけてもいた。しかし、そういう少しでも朕の血筋と関係のあるものが、天下で軍勢を率いて戦っているのだと思うと、それもまた嬉しいことである。
 劉姓というと、他に劉表や劉焉という存在もある。
 そのすべてが朕に関係ある劉姓であるかどうかはわからぬ。
 が、あの時代、関係を深めるに、血縁というものが大きな要素として影響してくることを思うと、これは捨て置けぬものであることが意識される。
 その劉備の脇には、関羽、張飛という武将があるという。
 いずれ劣らぬ武の戦士であるときく。
 かつての戦、虎牢関つまり汜水関の戦いでは呂布と関羽が戦ったという。
 関羽は呂布といい勝負を繰り広げたらしい。
 その戦には曹操も参陣していて、近くで見たといっていた。
 一将と一将の戦いはもはや何の意味もないというのが曹操の意見であった。一人の働きで、戦の大勢が決まるなどというのは、結局、気分で戦をしているだけのことであり、そんなことでは万の兵士を自在に動かすことは出来ぬというのが曹操の主張であった。あの見るからに恐ろしい青州黄巾党を率いる人物らしい意見であると朕は思ったものである。

5

 董卓のように倨傲でもなく、呂布のように暴虐でもない、あの曹操という人物は、考えようによってはこの二人よりもさらに朕を苦しめる人物であったのかもしれない。
 朕は皇帝でありながら、政治にまったく関与することなく、ただひたすら、鄴に拵えられた仮の宮殿のなかで、まるで籠の中の鳥のように囚われていたのである。この窮境をいかにして脱せばいいのか、それがわからなかった。そこで曹操の眼を盗んで、勅を出すことに決めた。
 勅を与える相手は、あの勇猛な戦士を連れている劉備に決めた。
 劉備に左将軍の位を与えるという名目で、下賜させる物品のなかに勅を忍ばせた。幸い、曹操にはその勅を見破られることもなく、うまくことは運んだのであったが、とうの本人である劉備は、まったく動かない。
 勅に気づいていないのかと思い、使者を派遣したものの、その使者にも横柄な態度をとって、土いじりにかまけていたという。しかし、無視しているのではなく、機会を窺っていたのであろう。あるとき、曹操の前で劉備は演舞を行うことになったのだが、そのときも、劉備は動かなかった。
 そしてそのまま鄴から離れて、以降は、諸所を転々とする生活になったのである。
 その頃には曹操は、朕が劉備に下した勅の存在を噂で知っていたようである。劉備が勅を持っているという噂は諸将たちの耳にはいり、しきりに囁かれていたようだ。
 が、その勅はやがてうやむやになって効力を失ったのである。
 曹操はそれからも、夏侯惇や曹仁といった武将とともに覇権をかけて連戦した。戦にはほとんど勝ち、下邳において、呂布も破ったのである。
 もはや中原に曹操を牽制する勢力は袁紹のみとなった。
 その呂布との戦いにおいて、張遼という武将を手に入れた曹操は、それに力を得て、袁紹との戦いに駒を進めた。
 朕はあとからその話を聞いたのみであって、そこは市井の民草とまったく変わらぬ知識しか持ち合わせていないのであるが、官渡の戦いはそれは熾烈であったということである。曹操率いる青州黄巾軍が旺盛な殺戮欲――兇猛な殺戮に向ける情念をそう呼んで差し支えないなら――が全軍を牽引し、寡によって衆を討つということを実現したのであった。
 その戦によって、来たるべき世が、曹家のものになることが確定した。
 もちろん、江南には孫策が居たし、劉表や、馬超といった勢力もあったが、そこまで強力になった曹操の軍にまともに戦える勢力はもうないに等しかった。
 と、そこまでいってしまえば、曹操の天下は確実であったろうが、しかし、それからしばらくして、中華の大勢が変わってきた。
 劉備はそのとき劉表のもとに身を寄せていた。
 曹操は人材を多く獲得しようと、能力のある人間ならば、誰でも登用すると決めたのである。
 そんな曹操に呼応するかのように、劉備もまた、荊州の地において、後の世のかなめになる人材を獲得したのだ。
 諸葛亮である。
 諸葛亮というと、臥龍という名で知られている人物で、鳳雛とともに、どちらかひとりでも味方にすれば、天下を取ることもたやすいとされた人物であった。
 劉備はそのどちらをも手に入れたのである。
 天下が動乱する前触れであったのかもしれない。
 しかし曹操はそんなことなどまったく意に介さぬほど、いまはもう、破竹の勢いを得ていたのである。

6

 時は過ぎ、劉備は蜀の地を得て、孫策の弟孫権は呉を樹てた。
 曹操は呉と蜀と討つために、あの会猟せんという文章を敵方に送り、長江を船で下って行った。それはかなりの規模の水軍であった。が、曹操はその戦に大敗したのである。大敗の原因は連環の計にあったとされるが、それを実現させたのは、あの諸葛亮であるという噂であった。
 曹操はそのとき、諸葛亮の天下三分の計の考えを耳にしたそうである。
 この中華を平かにしてひとつの国にすることの困難を考えさせられる思想であった。天下を三つに分ける。つまり、魏、呉、蜀の三国である。
 袁紹を破って力を得た曹操にはもはや敵はいないと思われていたのに、呉も蜀も攻略しがたしという思いを抱くに至ったのである。
 あのころの曹操は苦しんでいたのだと思う。
 頭痛も持つようになっていて、神医といわれた華陀という医師を傍においたこともその苦しみを物語っているようである。
 曹操はそのころ銅雀台を作った。二喬をそこに侍らして快楽を求めることを希望してつくったものであり、それは確かに実現した。が、それに対する気兼ねが小喬にはあったようで、姉ともども早世してしまったのであった。
 それからは小競り合いはあったものの、それほど大きな戦はなかった。
 曹操は政治に重きを置くようになり、またその活動の中で、朕を振り返ることが少なくなっていった。朕に対してどういう意識を持っているものであるのかわからぬというのは不安で、とても心細いものであった。
 曹操はやがて亡くなった。
 曹操亡き後のことは考えたくなかった。
 そのあとを継いだ曹丕は冷血なところがあり、朕を冷遇するようになっていった。しかし、それは生まれたときから後継ぎとして増上慢を示していた印であったのだろうけれど、朕を皇帝として崇めるよりも、もう風前のともしびである漢王室の生き残りという憐みの眼で視ていたような気がするのである。
 そして、曹操が亡くなった後、曹丕は朕に禅譲を迫ってきた。
 魏の国に朕の味方は少なかった。
 朕は折れ、曹丕に位を譲ることに決めた。
 はかない人生であったと思ったが、新国である魏で山陽公に封じられることになった。朕の妻の曹節はその決定にずっと首を振らなかったが、しぶしぶ玉璽を差出し、それからは火の消えたような雰囲気を醸すようになった。
「兄上がこのような仕打ちをしようとは思いもしませんでした」
 妻はいった。それは苦しげな表情で、見るからにその決定を受け入れることに難儀している様子であった。
 朕は――皇帝の位を譲ってからも、曹丕は朕に「朕」の称を使うことを許してくれていた――それもまたよかったのではないかと思っている。
 が、それにしても、朕ほど、波乱万丈の人生を送ってきた皇帝もあるまい、とそう思う。
 苛烈な存在がつねに身の回りにあった。
 であるからこそ、いまのこの山陽公に封じられてからの落ち着いた人生は貴重なものであるな、と思える。
 民草はそういう幸せを心に抱いて、これまで生活してきたのだなとそんなことを思いつつ、今日もまた物思いに耽るのである。

献帝

献帝

三国志に登場する皇帝劉協(献帝)視点のお話。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-10

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