天界騒擾

『西遊記』の冒頭から、孫悟空が三蔵法師に値遇奉るまでのストーリーを翻案して描きました。

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 この山は五行山というらしい。
 菩薩が自身の五指を変化させて俺を押しつぶしやがったのだ。以来、五百年、「おんまにはつめいうん」の六字の金書の札を貼られたこの山の下敷きになって、身も細る思いで救いの手の差し伸べられるのを待っている。しかしここは僻地であるゆえ、人が通ることは滅多にない。獣を駭かすような大声を上げても空谷に谺するばかりで、すでにそれはなんの甲斐もないことと諦めている。確かに初めのうちはここから脱出したくて、もがいたり、変化の術を使ってみようともした。が、無駄骨であった。金書の札が影響しているのか、あれほどゆうに誇った力がまったく発揮できないのである。これでは手足をもがれたも同然であった。
 そんな折、飢えを凌ぐために定期的に与えられる鉄の玉を喰い、銅の汁を飲んでいると、土地神が声を発した。
「そなたもなかなかの悪猿よのう……」
「あん?」
 土地神をきっと睨みつけると、彼はそれ以上言葉を継がなかった。
 土地神が鷹揚な態度で立ち去ると、場は静かになった。俺の飲啄の音だけが聞こえている。口の中に残る金属の臭いは好ましいものではない。が、これでも食べないよりはましであるし、確かに天界で飲み食いしたものとは雲泥の差があって、それを考えるといまの自分が惨めになる。とはいえ、そんなことを嘆いてみても仕方がない。
 俺は山中をぐるりと見回してみた。すでに山に圧されて五百年が経っている。その間に季節は輻輳のように巡り、春には草花が萌え出でて小鳥が啼き交わす、夏には暑いなかに夕立の涼しさがあって雲は白く見るからにすがすがしい、秋には草叢から鈴虫や蟋蟀の鳴き声がさかんにして耳を楽しませてくれる、冬は――冬は気候的に厳しいものもあるけれど、天上から降って来る雪が俺の鼻先にくっついてふわっととけていくときの心地よさといったら、なかなか味わえるものではない。そんな四季の巡りを思うと、この五百年もまんざら捨てたものでもなかったと感じられる。
 自分はこれまでに、四季などに目を向けたことがあったろうか?
 世界は常に安定していて、自分というものを中心に回っているとばかり思って来たのではなかったか? しかし俺がここに固定されて、周りのものが回っているのを見ていると、世界はそんなに単純なものではないと思えてくる。やはりそこには機微とでも呼ぶべきものが働いていて、運不運、幸不幸といったものが厳然とあるのである。
 世界は単純ではなく、強さは腕っ節だけでは決まらないのだということを意識する。あの観世音菩薩の神通力ときたら、普通でないことは対してみてよくわかった。世のなかにはどんなに鍛えても、それ以上の存在というものがあるのだということがよくわかった。俺は菩薩に敗北した。それによる気持ちの萎え方があまりに激しかったゆえに、俺は油断して、この山の下に封じられたのである。もし万全の気持ちでいたなら、こんな山に封じられる前にやすやすと脱出できていただろうと、いまになって思う。が、それは重要なことではない。山に圧されて身動きがとれないいまであっても、どうして菩薩は俺にとどめをささなかったのだろうと、その方を気にしていた。菩薩はたとえ畜生の身であろうと、命を奪うことは罪悪であると感じていたのか? 確かに道術を学んだときに、仏の教えというものを少々齧ったことがあった。たしか一切悉有仏性というのだったか? 一寸の虫にも五分の魂とは昔からいうものの、その五分の魂のなかには、しっかりと仏になれるだけの天性が秘められているという一歩進んだ考え方をしているのが仏教であるらしい。菩薩ともなれば、妙果を得て、これ以上、それ以上の悟りを得ているのであろう。しかし、癪だ。
 どうして菩薩はあんなに柔弱そうなのに、勝てる気がしないのか……。陽剛の気を以ってしても、陰柔には勝てぬ。つまりはそういうことか。俺は菩薩に敗れたというよりも、自分に敗れたというが正しいのやもしれぬ。自分のことをしっかりと見定められていなかったから、増長して、こんな事態を招いたのだ。また、こんな反省をすることができるようになったのも、この五行山に封じられた五百年という歳月の効用であろうか。
 と、そのとき一羽の小鳥が眼の前の柿の木にとまった。
 柿は青い実ばかりで食用に適さない。
 鳥はぴーぴーと啼いて、しきりに葉のところをつついている。
 よく見ると、小鳥のくちばしにもぞもぞと動くものが見えている。
 毛虫か……と俺は見定める。
 毛虫も鳥には御馳走であるのだろう。俺も鳥なら、こんな鉄の玉を喰ったり銅の汁を飲んだりせずに、もぞもぞと動いている美味いやつを二匹、三匹と口に入れるのにな。
 羨望の気持ちを抱きながら、その鳥が口の中に毛虫を送り込むさまをじっと見る。鳥は腹がくちくなったのか、それ以上は柿の木に用はないとて飛び立っていった。
 あの鳥のように自由に飛べたらな……。觔斗雲も長い間操ってないな――と考える。
 ――そうだな、どうせ何も出来ないのなら、これまでの自分の行動をもう一度思い返してみるか。何も出来ないんだから、そういうことでもしていないと退屈で身が持ちそうにない。
 哪吒や二郎真君との戦いは気持ちが高揚して、本当に心地よかった。好敵手とはこういうものをいうのだろうと欣喜雀躍したものであるが、二郎真君には法力くらべで負けてしまったという負い目がある。これは自分にとってとても痛いことであった。それがなければ、今頃良い気分でまた気楽に花果山の皆と一緒にこの世を謳歌できていたであろうに……。
 あと何年辛抱すればいいのか。
 目標がわからないというのはとんでもなく体力を消耗するもので、何もしていない今であっても、急に何歳も老けこんだような気持ちを持ってしまう。確かに西王母の仙桃や太上老君の金丹を喰ったおかげで不老不死の身体にはなった。が、肉体の上での老いと、気持ちの上での老いとはまったく別物であって、この五百年の肉体的沈黙は、俺を老いさせるに十分なものであった。
 が、そんなことをいいたてても仕方がなかろう。
 いずれ来たるべき時が来たなら、ここを離れられるはずだ。
 そうしたら、また以前のように毎日を過ごしていけばいいのだ。が、果たしてそんな日が来るのであろうか――。
 確かにこれまで好き勝手にこの世で暴れてきた。が、そろそろ落ちついてことに当たらねばならぬときが来ているのではないか……。不安であった。

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 生まれは、東勝神州は傲来国、花果山であった。
 東勝神州の名称もそのときは知らなかった。
 もともと日月の光を浴びて精を宿した岩が石卵を生み、その中から生まれたのが自分であることを、俺は天界で下吏の口から聞いたことがある。そのときはそうなのかと感じいったが、確かに自分には普通でないところがある。花果山のほかの仲間と比べても、身体の組成上、まったく異なっているといってもいいくらいに違っていた。
 花果山での皆との生活は楽しいものだった。
 山中に滝が流れていたが、その中に入り、水の出所を探りあてた者を花果山の王にするという約束を取りつけて、俺は滝の中に入っていった。そこには「花果山福地、水簾洞洞天」という扁額のかかった、格好の隠れ場所が蔵されていたのである。俺はその発見を仲間に伝え、そのうえで、花果山の王となったのである。
 しかしそんな俺にも心を塞いでしまう思いがあった。
 それは己の身にいずれ降りかかるであろう災厄、死に対する恐怖である。死は生ける者に必ず訪れ、免れることのできぬものである。それを防ぐにはどうすればいいのかと仲間に相談すると、そのとき一匹が前に進み出ていった。
「生死を司る閻魔大王に対し抵抗できる者が三種ございます」
「その三種とは?」と俺は訊ねる。
「仏、仙、神聖であります」
「ほう……それらはどこにおる?」
「閻浮世界の古洞仙山のなかに」
「そうか、ならば、俺も彼らに不老不死の術を教えてもらいに行くとしよう……」
 その夜は宴が催された。
 王に道心が生じ、今後、ますます発展するであろう自分たちの王国を思ってのことだった。
 そこには桜桃あり、梅あり、茘枝あり、林檎あり、枇杷あり、梨あり、棗あり、桃あり杏あり、李に楊桃、西瓜、柿、石榴、芋栗、胡桃、銀杏、椰子、葡萄、榛、松の実、榧の実、蜜柑、山芋、黄精、茯苓、薏苡、芝蘭、香蕙、瑤草、奇花ありといった様子。
 美猴王として君臨した数年、山谷を我がものとして闊歩し、珍味佳肴を食し、天下円満であった。いざ不老不死の道を求めて旅に出んとしたことは幸いであった。
 旅を続け、東勝神州を出、南瞻部州を越えて漸くに仙人に相まみえる。
 祖師は初めこそ俺を忌視していたものの、道果を得んとて遠くより旅してきたことに免じて、弟子にしてくれた。そこで孫悟空という名を得、道術の修行を始めることになったのである。
 と、修行といっても初めはつまらぬ雑事ばかりであった。
 敷地内を清掃したり、畑を耕作したり、花・木を育てたり、薪を集めたり、水を運んだり――。そういう些細な作業にもなにか得るところがあるのかしらんと思って修行に明け暮れていたあの頃を思うと、とても懐かしくて、またそこを追い出された時の無念も思い返されて切なくなってくる。
 道術の修行の根本を得ることができたのはその修行を数年加えたのちのことであった。漸進的に進んだわけではない。それは突発的な出来事であった。祖師が皆を集めて説法をなさったときのことである。祖師の話を聴いているうちに、その言葉のありがたさに嬉しくなり小躍りしているところを見咎められたのである。無礼な猿だと周りからは非難の視線を浴びせられたが、祖師は私の中の道心を見抜かれたようで、道術の門に教え導いてやろうと仰った。
『道』字門のなかのどの道を得んとするかと尋ねられ、俺は、次々にその道の奥妙なところを説明された。
 占いの道を学ぶ『術』字門、
 儒家・釈家・道家などの道を学ぶ『流』字門、
 木食・無為・座禅・斎戒などを学ぶ『静』字門、
 陰陽の道に通じ、武具を手に取り、練気を行う『動』字門、
 など。
 しかし、どれも最終目的である不老不死の道には通じておらぬということを説明されて、どれひとつ自分にしっくりくるものはないと告げると、祖師は怒りを示されてその場を後にされた。
 他の弟子たちはお前のおかげで大事な話を聴くことができなかったではないかと俺を責めたが、俺は知っていた。祖師は謎をかけていらしたのだと。
 その謎を解くと、夜半過ぎ、儂の寝所に来い、そこで道を伝授してやろうということであった。俺はそのとおり、祖師の元へ向かった。祖師は俺の機知の素晴らしさをほめると、道について教えを垂れてくれた。

 顕密に円通するは真の妙訣にして、性命を惜修するには他説なし、すべてはこれ精・気・神の三つなり。謹んで固く労蔵して漏泄することなかれ。漏泄することなかれ、体中に蔵せよ。汝は吾が道を伝えるを受けておのずから昌えん。口訣を記え来たらば、多く益有らん。邪欲を屏除すれば、清涼を得ん。清涼を得れば、光、皎く潔く、丹台において明月を賞でるに好からん。月は玉兎を蔵し日は烏を蔵し、おのずから亀蛇有りて相盤結す。相盤結すれば、性命堅く、却って能く火の裏に金の蓮を種えん。五行を攢簇し、顚倒して用いなば、功完るや随って仏と仙に作らん。

 祖師の口訣は霊験あらたか、忽ちに俺の身中に神仙の気が萌してきたのである。それからまた数年がたち、祖師が特別に俺に問いかけられた。永遠への道を歩み始めた者には三つの殃いが降りかかるものであると。
 それは天地の創造を奪い、日月の機構を犯す道であるゆえ、丹が成ったあかつきには鬼神が許しておかぬ。ゆえに、雷の災い、火の災い、風の災いというものが生じてくる。それを防ぐには、変化の術を修するがよいであろう。
「それはどのようなものですか?」と俺は訊ねた。
「天罡数の三十六般の変化に、地煞数の七十二般の変化がある。どちらがいい?」と祖師。
「私は多くのものから選べることを好みますので、地煞の変化でお願いいたします」
「そうか、ならば近くに寄るがよい」
 そうして、祖師は俺に口訣を伝授してくれた。
 が、それがすべての災いのもとになったのでもあった。

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  3

 祖師に口訣を教えてもらってから暫くしたころのこと。
 斜月三星洞の前で夕焼けに頬を染めていたとき、祖師が声を掛けてくれた。
「修行は進んでおるか?」と祖師。
「はい、空を飛ぶことができるようになりました」と俺は答えた。
 祖師はその腕前を披露するようにと俺に告げられた。
 俺はその言葉を受けて、その技術を披露したが、どうも不格好であるというので、見かねた祖師は、觔斗雲の術を授けてくれた。これはとんぼ返りで雲に乗り、ひととびで十万八千里を飛ぶことのできる技である。それによって俺は距離の遠近を感じることなく移動できるようになった。
 俺は祖師に礼の言葉を述べた。

 ある日、兄弟子たちがひとつの提案をしてきた。
「お前は変化の術を学んだんだ。ひとつ俺たちに技を見せてはくれまいか?」
 俺は二つ返事でその提案を受け入れた。
 松の樹に変化して仲間たちと盛り上がっていると、祖師が姿をお見せになった。
「何を騒いでおるのだ?」と祖師。
「はっ、悟空に変化の術を見せてもらっておりました」
「なんと嘆かわしい……」祖師はそう漏らされた。
 祖師の言葉によると、修行中の者は口を開けば、身中に貯めこんだ真気が逃げてしまって修行の妨げになる。なのにそんなふうにバカ騒ぎをするとは何を考えているのだ、とのことであった。
 弟子たちはただただ怖れ畏まって、それ以上、何もいえなくなってしまった。そうして祖師は俺にだけ場に残るように仰せになって、こう示された。
「そなたはここを出ていくべきであるな」と。
「どうしてです?」と俺は訊ねた。
「このままここに居ても、災いになるだけだ。変化の術は人に見せびらかすものではない。見せれば、人はそれを学びたいと思うだろう。教えなければ妬まれる。妬まれれば、ごたごたに巻き込まれる。いいか悟空、儂に教えてもろうたなどと間違ってもいうでないぞ。儂はそういうごたごたから離れていたいのであるからの。おそらくそなたはこのまま野に下ればろくなものにはならぬであろうな……」その言葉は今思えば、予言めいたものであったかもしれない。
「わかりました」俺は恩を受けた祖師に辞去の言葉を述べて、立ち去ることにした。觔斗雲を呼び、その技でひさしぶりに花果山に戻ることに決めた。
 花果山に戻ると、仲間の猿は元気がない。
 どうしたと聞くと、山向こうに混世魔王という化け物が現れて、財宝は奪うわ、珍味佳肴はすべて没収されるわ、仲間は連れて行かれるわという始末であるらしい。
 俺はその混世魔という奴を退治するため、奴の根城である水臓洞に向かった。そこで大喝一声、出てきて尋常に勝負しろと叫んだ。
 魔王は出てきて俺を見るや侮った。
「見れば身の丈四尺にもならぬこわっぱではないか。得物も持たぬお前がこの俺と勝負だと? ふん、戦うまでもなく結果は見えているではないか」
「そうかな、得物がないとて油断していては勝てるものも勝てないぞ」
「ほざくな」魔王はいって、目をぎろりと光らせた。「お前が素手で戦うというのなら、俺も刀を使うのはやめてやろう」魔王はそういうと、脇の地面に刀を置いた。「行くぞ」
「来い」と俺。
 魔王が構えから動きを見せて飛びかかって来る。
 拳の動きを見定めて、俺は魔王の攻撃を防ぐ。隙を見て脇腹に一撃を加え、股座をついて急所を狙う。魔王はたまらず一歩引いて、最前自分が地面に置いた鋼の刀を手にして、再びうち掛かって来る。俺はその攻撃を躱けて、自分の体の毛を抜くと、口に入れて、それを空に向けて吹き散らす。
「変われ!」と叫ぶと、それらの毛の一本一本は残らず俺そっくりの小猿に変化する。それは祖師のもとで学んだ変化の術の一端であった。
 混世魔王は闇雲に刀を振るが、素早い動きの小猿にはそんな攻撃はまったく効かない。刀の軌道を読んで躱けると、そこに出来た隙をついて魔王を、ひっぱったり、股座にもぐったり、足をねじったり、蹴ったり、なぐったり、毛をむしったり、目玉をほじくったり、鼻をひねったり、胴上げをしてひっくり返したりして子供扱いにする。
 俺は魔王がたまらず手から離した刀を手に取ると、魔王の脳天に切りかかり、とどめをさした。
 水簾洞に平和が戻った瞬間であった。

 ことが落ちついてから、俺は自分に合った武具を手に入れたいと思い、仲間に提案して見た。すると、一人の猿が前に進み出ていうに、橋の下の水の中が東海の龍宮に通じていて、そこで武器を所望されれば、きっと満足のいくものを手にいれられるでしょうとのことである。
「龍宮か……」と俺は答えた。「よし、行ってみよう」
 俺は「閉水の法」で水を押し分けながら東海の海底に向かうことにする。
 やがて巡邏の夜叉が俺を見つけて、龍王のもとに案内するという。
 俺はその導きに従って龍宮に入り、そこで東海龍王敖広に会う。
 俺は龍王に来意を告げ、武器を所望したいと告げた。
 龍王は部下にめぼしい武具を持ってこさせるがどれひとつとしてしっくりくるものがない。あるものは小さいし、あるものは軽いし、あるものは気に入らない、そんなことを繰り返すうち、宝物庫に向かうことになり、そこで一本の大きな棒を見つけたのであった。
 龍王に訊くと、それは「如意金箍棒」というらしい。
 重さは一万三千五百斤、意のままに大きさを変えることができるという。俺はこれだと思い、これを所望したいと龍王に申し出た。
 龍王は快諾した。
 しかし俺がさらに着物がほしいと告げると、龍王はそれを渋る様子であった。
 もしそれが用意できぬならいま手に入れたこの如意棒でそなたを肉塊に変えてもいいのだぞと俺は脅しつけた。
 龍王もそれはたまらぬと思ったのか、すぐに他の兄弟に連絡して、適当なものがないか探してみようと告げたのである。
 暫く待つうちに他の三人の龍王が東海の龍宮に姿を見せた。

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 四海の龍王たちは鳩首してどうするか算段をつけた。
 重い如意棒をやすやすと持ち上げる俺に対し、いま盾突くのは得策でないというのが彼らの意見であったように思う。そして、北海龍王敖順は歩雲履を、西海龍王の敖閏は黄金の鎖帷子を、南海龍王の敖欽は鳳凰の羽つきの紫金の冠をそれぞれ出すことに決めた。
 俺は素直に感謝の言葉を述べて龍宮を後にしたが、それからすぐに龍王たちは天界へ奏上したようである。いまではもう彼らを責める気持ちは無くなっている。が、表でへこへこしているくせに、裏でそういう風に画策するというのは俺の好むところではない。奴らの陰湿なところが俺は嫌いである。

 と、それからしばらくしてのこと。
 得物の如意棒の伸縮自在なところを見せてみたり、牛魔王・蛟魔王・鵬魔王・獅駝王・獼猴王・【ぐうじゅう】王、そして自分美猴王の七兄弟が一堂に集まって文を講じたり、武を論じたりする。そんな会を催したある夜、寝静まった俺の夢の中に幽冥界からの使者という男が二人、姿を見せた。どうやら、彼らによると、俺の寿命はそろそろ尽きるということであるようだ。そして彼らに連れて行かれた先には、十王である秦広王・初江王・宋帝王・忤官王・閻羅王・平等王・泰山王・都市王・卞城王・転輪王が居る。
 俺はその威圧感に気圧されることもなく、ただちに生死簿を持って来いと指示した。持ってこられた生死簿の中に俺の名を見つけると、俺はそれを墨で塗りつぶした。これで俺は死ぬことはなくなったのだと満足して帰ることにする。如意棒をちらつかせると、十王は、まったく俺に刃向かうことはなかった。と、そんなことをしているうちに、夢から覚めた。起きてみると、もう夕方近くで、ほぼ一日眠っていたことになる。
「王さま、よくお眠りでしたね」と部下の猿が訊ねてくる。
「ああ、あれは夢だったのか?」俺はぼやくように告げた。「が、夢の中で俺は寿命を永遠にしてきたぞ、もう死ぬことはないはずだ」
「それは羨ましい限りです」
「いや、そなたらの名前も生死簿から消してきた。そなたらもまた不老不死になったのであるぞ」
「なんと……」部下の猿たちは色めきたった。
 その日も花果山はにぎわいを見せ、猿たちはひと時の平和を謳歌していたのである。

 そんな折、天界にひとつの知らせが舞い込んだ。
 天界の玉帝が金闕雲宮の霊霄殿に出御されていたときのことである。
「陛下、東海龍王の敖広が上奏を申し出ております」と邱弘済真人が告げた。
 玉帝はここに通すようにと告げられる。
 龍王は上奏文を玉帝に献じた。
 玉帝はそれに目を通されると、龍王を帰らしたが、ちょうどそのとき、冥府の秦広王も地蔵王菩薩の上奏文を持って来た。図らずも二種の上奏のどちらも孫悟空の横暴が記されてあるということで、玉帝はこの妖怪猿に注目された。
「この猿はどのようなものか?」
「は、三百年ほど前、天が生んだ石猿にございます」千里眼と順風耳が列から出てきて告げる。「いつのまにかこの猿は仙術をわきまえるようになり、龍を降し、虎を伏し、上奏にあったようなことをなすようになったものでございます」
「そうか……それは困ったものであるな。いかにしてとらえればよいだろうか?」
「陛下、この三界にあるもののうち、九つの穴を体に持つものはひとしく仙を修めることができると申します。ゆえに、この猿も天地から生まれ、日月が育てたものであるうえは、招安の聖旨を下されて、天界でなんらかの職を与えて仕えさせるのが至当かと存じます。そのうえで、もし何か天の意向にそむくことがありましたら、そこで初めて捕えるということを考えられてはいかがでしょう?」
「なるほど、それは良い考えだ」
 玉帝は、太白金星に指示して悟空を招安するようにと指示されたのである。

 俺は天界の招安にのって天界へと急ぐことにした。
 天界は壮麗で、万道の金光は紅霓を滾[なが]し、千条の瑞気は紫霧を噴く。かの南大門は、碧沈々として瑠璃もて造りなし、明晃々として宝玉もて粧いなすといった風情。地上にあるものとは雲泥の差があった。
 玉帝は見ると、確かに一人物のようであるが、俺はそれほどすぐれたる人物のようには見なかった。どこにでもいるわけではないが、人ごみのなかで見分けがつくかといわれると、それは判断に困るところで、だが、その服装の秀でたるところを見れば、それだけでも、普通とは異なっていることは明らかであった。
「そなたに『弼馬温』の任務を与えよう」
 玉帝はそう告げられた。
 俺はその弼馬温の職のなんたるかを弁えていなかった。
 が、俺は天界に職を得たとて喜び勇んでその職につくことにした。
 それは馬の世話係であったのだが、その職の高低についてはまったく考えなかった。あるとき、馬番たちの集まりで飲んでいたときに俺は何気なく訊いてみた。
「弼馬温という職はどれほどの位であるのだ?」と。
「位なんてないよ」と同僚は告げる。
「ない? いえないくらい高いということか?」
「まさか。位がないくらい低い地位にある職ということだよ。馬を最高の状態に仕上げていても、よくやったと声を掛けられるだけだし、もし細らせようものなら厳罰が下されるというようなものだよ」
「なんだと!」花果山で王にまでなった俺にとって、その説明は怒りの炎を心頭に発させるものだった。「おのれ……」
 俺はそのまま觔斗雲で地上に戻った。
 行く先はもちろん花果山である。
「おお、王さま」と仲間が応じてくれる。
「元気だったか?」
「遅いですよ、王さま、もうあれから十数年が経ってますよ」
「十数年? 俺が居たのは半月ほどであるぞ」
「天界の一日は下界の一年に当たりますからな。それででしょう」
「そうか……」
 それから俺は、天界での無礼な人事について仲間に説明を加えていった。

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 天界の無礼なことをひとくさり仲間の猿に告げると、とりあえずは気も治まった。しばらくすると来客があった。俺が通すように告げると、独角鬼王という奴がやってきた。
 彼にも天界でのことを告げると、殊勝にもこう告げてきた。
「貴方さまを『弼馬温』の位にするなど、なんと無礼でありましょう。貴方さまの武勇を見れば、『斉天大聖』と名乗られてもいいほどですのに」
「うん?」俺は驚いた。「『斉天大聖』……これはいい、さっそく俺の旗にその名をつけさせてもらうことにしよう」
 そういって、俺は独角鬼王を前部総督先鋒に任じ、その場を引かせた。
 それから数日は何事もなく過ぎていった。
 が、俺を除こうとする勢力の画策はすでに着々と進みつつあったのだ。
「王さま、大変にございます」ある日、唐突に俺のもとに知らせが飛び込んできた。
「大変とは、いったい何がだ?」
「門口に天界の大将が参っております。大聖さまを弼馬温と呼び、ここに玉帝の聖旨があるゆえすぐに来い。征伐してやるとのことです」
「なんだと……俺さまとやろうてか。面白い」
 そういって俺は、黄金の甲冑に、金箍棒、歩雲履を装備して大聖らしい威厳を保って水簾洞の門口に向かった。
「お前はどこのものだ?」と俺は誰何する。
「ふん、この悪党猿が! 儂は托塔李天王が配下、巨霊天将。お前を征伐するように命令されている」
「ほう、口だけは達者だな。この旗が読めるか? もし俺を本当にこの地位に任じるなら、ことを荒立てるのはやめてやろう。もしそれが不服というなら、霊霄殿に攻め寄せて玉帝をその地位から追放するのみぞ!」
「なんという無法猿。己を斉天大聖というも烏滸がましいのに、玉帝陛下を云々とはますますの無礼者。そこに直れ、成敗してくれるわ!」
 巨霊神は宣花斧を手に持ち、振り上げる。片や俺は如意棒を持って応戦する。久々の戦いに心は躍り、体は血の巡りの活発さに喜びの汗を噴きいだす。俺は方術を用いて、雲霧を起こし、砂塵を舞い上げる。片や天将も術を用いる。俺は龍が水に戯れるごとくに棒を挙げ降ろし、天将も鳳が花を穿つがごとく斧を往還させる。が、いかに巨霊が武術に達者とはいえ、俺の業[わざ]に敵することはできず、俺は棒をぐるぐると回し、それを裂帛の勢いで巨霊の頭に振りおろす。
 巨霊は自身の斧でその攻撃を防ごうとするが、さすが元は龍王の宝物・如意金箍棒。斧はポキンと二つに折れ、巨霊は命からがら逃げ出していく。
 巨霊が去ってしばらくすると、今度はまたひとりの青年が水簾洞にやってきた。
「あんたは誰だ? まだ年若であろうに」
「俺は托塔天王が第三子、哪吒太子、このたびは玉帝の御使者としてお前を捕縛しに来た」
「ほう……あんたみたいな坊っちゃんが来るとはね。手柔らかにしてやるから、まずはこの旗を見てみろよ。この旗に書いている官職に俺をつけてくれるなら俺は矛を収めようじゃないか。しかしこれを受け入れられぬなら、霊霄殿を攻めることになるだろうがな」
「無礼な妖怪猿め、『斉天大聖』だと。こんな名を名乗ろうとは、増上慢も極まれり」哪吒は攻撃の構えを見せる。
「ならば、そなたの攻撃をこのまま受けてやろう。さあ、掛かってこい」
 それを聞いた哪吒は変化の術を用いて、凶悪な三面六臂の姿に変じ、六本の手に六本の得物。そは斬妖剣・砍妖刀・縛妖索・降妖杵・綉毬・火輪の六種。それらを露骨に動かしながら俺の顔目蒐[めが]けて打ちかかってくる。
 ――これはたまらん。この坊っちゃん、こんな芸当ができるのか。
 俺は体を飜すと、変化の術を用いて、哪吒と同じ三面六臂に身を変じ、金箍棒を三本にして六本の手で巧みに操る。
 常にない緊迫した戦いになる。
 初めは、得物と得物とががっきと咬みあって力比べになる。それから互いに法力比べとなって、俺は一を化して千とし、千を化して万とし、空いっぱいに虬[みずち]を舞わせる。神兵の怒気は空を曇らせ、金箍棒は風を唸らせる。俺と哪吒の戦いは周りの者を怯えさせ、勝敗はどちらに傾くかなおも判らなかった。
 と、そこへ俺は自身の毛を引き抜いて、口に入れると、プッと噴き出し、「変われ!」と叫ぶ。もう一人の俺が現れて、その二人で哪吒を眩惑する。変わった方が正面に向かい、本物の俺が裏に回る。そして哪吒の左腕に向かって棒を振り下ろす。
 哪吒は一発、攻撃を喰らって怯み、そのまま負け戦となって去っていく。

 降魔大元帥に任じられていた托塔天王李靖は、同じく三壇海会大神に任じられた息子の哪吒太子と孫悟空の戦いを見ていたため、悟空の手ごわいことを知って手段を講じ始めた。
 そこへ哪吒が告げる。
「門口に旗が見えると思うのですが、そこに『斉天大聖』という文字が翻っております。あの弼馬温はその斉天大聖に任じられたなら、何もしない、また、もしその通りにしなければ、霊霄殿に攻め寄せると申しておりました。ゆえに、玉帝にそのことを奏上すればすべては片がつくと思います」
 天界の勢力はそう話をして、水簾洞から去ったのだった。

 数日後、天界より使者が水簾洞を訪れた。
 それは弼馬温の職を得たときと同じ、太白金星であった。
「おお、金星殿、いかがなされたのだ?」俺は気安く声を掛けた。
「このたび大聖殿にふさわしい官職を授けることとあいなったのだ」
「ほう……」
「李天王さまと哪吒さまとが、『大聖は旗を立てて、斉天大聖になる所存である』と知らせたので、天将らはいきり立ったが、それがしが玉帝に奏聞してその願いを叶えさせるように申したのです」
「すまぬことだ」俺は素直に礼をいった。「が、『斉天大聖』などという官職が天界にあるのか?」
「それがし、聖旨を賜ってまいりした。一緒に来ていただけますかな?」
「ああ、ならば参ろう」
 そうして、俺は天界に新たな官職を得ることになった。
 が、官はあれども禄はなしというような状況。
 することがないので、天界で仲良くなった者たちを集めて、一緒に飲み食いするくらいしか楽しみがない。俺は新造された斉天大聖府で暇を持て余していた。
 そんな折、玉帝からまたお召しがあったので、参内することになったのである。

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  6

 斉天大聖府は蟠桃園のそばに建てられた新造の建物であった。
 俺はそこで日がな一日することがないために、天界で知り合った人物を招いたり、押しかけたりして交流を深めていた。
 その人脈は、上は三清に、四帝、九曜星・五方将・二十八宿・四大天王・十二元辰・五方の五老に、天の星々、天の川の神々ともつきあいを深めるといった具合。そんな折の、玉帝のお召しであった。
「大聖よ」と玉帝は告げる。
「はい」と俺。
「そなたは毎日暇なようだから、ひとつ任務を授けよう。しばらく蟠桃園の世話をさせようと思うゆえ、毎日しっかりと任務に励んでくれ」
 俺はその知らせに喜んだ。玉帝の御配慮に手をすりあわせて、「どうも」と告げる。さっそく俺は任地である蟠桃園に向かった。
 そこで土地神に見咎められる。
「大聖さま、どちらへ行かれますので?」
「ああ、俺は玉帝の指図でここの世話を任されたゆえ、様子を見ておこうと思ってな」
「左様ですか」土地神は改まっていった。
 彼は蟠桃園で働いている鋤樹力士・運水力士・修桃力士・打掃力士たちを呼び寄せ、俺に見合わせた。
「この木は何株あるのだ?」と俺は訊ねる。
 土地神は答える。
「三千六百株でございます。手前の千二百株は花も実も小さいのですが、三千年に一度実が熟し、それを食べると、仙人になれ、道術を覚えられるとされています。そして中ごろの千二百株は花が八重で実が甘い、六千年に一度熟し、食べると、霞に乗って天翔けり、不老不死になるとされています。そして、奥の千二百株は、実に紫の紋様があって仁はあさぎ色、九千年に一度熟し、食べると、天地と寿[よわい]を斉しくし、日月と庚[とし]を同じくします」
「ほう……それはなかなか」俺は心中に欲の炎がぽっとついたことを意識した。これを食べてみたいとの気持ちがどうにも抑えられなくなってきたのである。
 毎日、桃を眺めて過ごしていたが、ある日、我慢しきれず、休息したいからと偽り、供のものを余所へやって自分ひとりになり、辺りに人の気配のなくなったのを確かめてから冠や服を脱ぎ捨てて桃の木に登った。そして熟しきった甘いやつを木からもぎとってつぎつぎと口の中に入れていく。
 とろけるように甘く、これまでに食べたことのあるどんな珍味佳肴もその味にはかなわない。こんなものが世にあるのかと俄かには信じ難かった。
 そんなことを二日、三日置きに続けているうちに、西王母主催で瑤池にて「蟠桃勝会」が催されることになった。色とりどりの衣をまとった仙女が籠を手にして蟠桃園の中へと入ってくる。もともと蟠桃園への入場には俺の許可が不可欠であったが、遅れれば勝会の開催にも支障がでるということで、土地神たちは、仙女たちを中へ入れたということであったらしい。
 俺はそのころ、いつものように裸になって木の上に登り、桃を食した後、ゆっくりと憩っていた。そこへ仙女たちがやってきて、俺はがばっと飛び起きた。
「そなたら、何者だ!」俺は耳の穴から小さくした金箍棒を取りだして大きくし、仙女たちの正面に立ちふさがった。
「大聖さま、申し訳ありません、このたび、西王母さまが『蟠桃勝会』を開催されることになり、ここの桃が必要になったのです。土地神さまからは、中に大聖さまがいらっしゃるから、出会ったら、そのことを説明するようにとの仰せでありました」
「そうか……」と俺は告げる。「で、王母さまが宴会を開かれるということだが、それには誰が招待されておるのだ?」
「はい……この前の宴会では――」仙女は屈託のない笑みを浮かべて俺の質問に応じる。「お招きしたのは、西天の仏さま・菩薩さま・聖僧・羅漢、南方の南極観音、東方の崇恩聖帝、十州・三島の仙人さま、北方の北極玄霊、中央の太乙天仙たち、中の八洞の玉皇・九塁・海岳神仙、下の八洞の幽冥教主・注世地仙たち、また、各宮各殿のさまざまな尊神、そのような方々を呼んでの催しになっています」
「ほう、で、俺は呼ばれぬのか?」俺はむっとして訊ねた。
「それは聞いていませんね」と仙女。
「俺も大聖なんだ。呼ばれてもいいのではないか?」
「私にいわれましても、困りましたね」
「そりゃそうだ。あんたにいっても仕方がないものな。ならば、ここはひとつ直接聞いてくるとしよう……」
 俺は印を結んで呪文を唱え、仙女たちに定身[かなしばり]の法をかけると、瑤池に向かって觔斗雲を飛ばすことにした。
 その途中に、赤脚大仙に出くわした。
 俺は彼の姿を見るや、一計を案じた。
 この大仙をだまして、自分がなりかわって会に出てやろうと。
 そこで俺は大仙に告げた。
「玉帝が、私の觔斗雲が速いのを見越されて、このたびの会に集まる人々皆に伝令をと頼まれたのです。まず、皆さまには通明殿へ行っていただいて、そこで式典に出席なさってから、宴会に出向かれるようにとのことでございます」
「そうか」と大仙はいう。「しかし、いつもは瑤池で謝恩の祝典が行われるのに、なぜに通明殿に出向かねばならぬのでしょうな……」大仙は納得がいかない様子であった。「まあ、行ってみるとしましょう」
 俺は去っていく大仙の姿を見送ってから、身を変じて赤脚大仙と化し、また觔斗雲を飛ばして瑤池に辿りつく。
 そこを見れば、すでに宴会の準備は整っていて、あとは来客を待つばかりという様子。俺は自分の鼻のききすぎることをこれほどに恨めしく感じたことはなかった。見てみると、珍味佳肴はどれも垂涎の品で、美味しそうな香気を漂わせている。酒の匂いもこちらを誘惑するように芬々たる状況。
 俺は自分の毛を抜いてそれを口に入れて吐きだす。
 毛を睡眠虫に化して、場に居る皆の顔に飛ばしていく。
 効果は覿面で、皆は仕事を放棄して眠ってしまった。
 ――よし、これで喰いたい放題だ……。
 俺は卓上の珍味佳肴を口にして、酒で喉を湿しながらしたたかに飲み食いした。
 やがてへべれけになったころ、冷静な心もやってくる。
 ――このまま客が来たら、俺がやったということはいい逃れできん。いまのうちに役所に帰って眠るとしよう。
 俺はそう思って、その場をあとにしたのだった。

7


  7

 俺はしこたま酔っていたために、常とはことなる感覚で道を歩いていた。
 斉天府に帰ろうとしたのに、足は違う方向を向いていたらしく、兜率天宮についてしまった。兜率天というと三十三天の上部に位置し、太上老君の住まいがあるらしい。俺は以前から老君に会ってみたいと思っていたので、この機会にと中へ入っていく。
 部屋をいろいろとまわり、老君を探してみるが、姿は見えない。
 建物は深閑としていて、あまりにも沈黙がつづくので、ちょっと大きな声を出してみたくもなる。そんな衝動をぐっと堪えて、俺は炉のある部屋に出くわす。見ると、炉の左右にひょうたんが五つ置かれている。
 ――これはもしや、と思いひょうたんを手にとって振ってみると、中には無数の丹が入っているらしくがさがさと音がする。
 俺は嬉しくなった。
 これまで道心を得て修行に励んできたが、ずっとこの仙家最高の宝である丹を所望したいと思っていたのである。それがいま叶おうとしている、内外相同の理を得てこのかたの思慕である。
 俺はあとさきも考えず、それを片っ端から口の中に入れていった。
 すべてを喰い終わって、それからはたと気がつく。
 蟠桃勝会を散々にして、そのうえ、老君の丹までかじった今となっては、天界にいては追及の手がかかるのは時間の問題であろう。これはまずい。花果山に帰り、王に戻るとしよう。
 俺はそう考えると、兜率天を後にし、元来た方には戻らず、西天門から隠身の法を用いて逃げだすことにした。
 花果山に戻ると、そこでは、四人の健将と七十二洞の妖王たちが勇ましく訓練をしている。見れば、旗が翻り、矛が屹立している。
「これは王さま、お久しぶりにございます」と健将の一人が声を発する。
 ほかの健将や妖王たちも、俺の姿を見て、まぶしいものを見るように、目を細めている。
「此度はなかなか遅いお帰りでしたね」
「そうか? ほんの半年くらいしかいなかったと思うんだがな」
「こちらでは百十数年の月日が経っておりますよ」
「そうか」
「で、天界ではどのような職を授かられたので?」
「ああ」俺は素直に答える。「玉帝の配慮で、俺は『斉天大聖』の地位に立つことができた」
「それはよかったではありませんか」
「しかしな――」と俺はいい渋る。ここでためらいを見せたのは、自分の行いを客観的に見て、悪いのは自分であると悟ったからでもあった。が、素直に話すうちに、わからぬのは天界のやつらのほうだという気持ちが強くなってきた。俺は話した。「俺はそこで桃の園の管理を任された。はじめはそれを遂行していたのだが、ある日、西王母が桃を賞味する会を開くといわれたのだ。しかし、その会に招待する中に俺の名が含まれていなかったので、こっそり忍び入って蟠桃勝会の喰い物をぜんぶ腹におさめ、そのあとに太上老君の丹を盗み喰いした。これがばれたら、きっとお咎めがあるだろうと思って、逃げてきたわけなのだ」
「そうでしたか。しかし王が戻られたのはありがたいことです。とりあえず、一杯どうぞ」
 そういうと、健将たちは倉庫から椰子酒の甕を持ってきて、俺の盃に注いだ。俺はそれをひとくち飲んでみたが、味はうすく、香りも秀でたものがない。
「これはまずいぞ」と俺は不平をいう。
「そうですか、私にはなかなか美味しいのですが」と健将。
 もうひとりの健将が告げる。「大聖さまは天界で、仙酒を飲んでこられたので、それで下界の飲み物をまずく感じられるようになったんでしょう。どうすればいいものか……」
 俺は一計を案じた。「よし、もう一度天界に戻って酒をもってきてやろう。お前らも飲んでみるといい」
「おお」仲間たちは色めきたった。
 俺は觔斗雲に乗ると、天界へ駆けもどり、瑤池の勝会の会場に向かった。着くと、そこではまだ召使たちが眠りこけている。俺は毛を分身にして人数を集めると、奥の方から、残っている仙酒の甕をいくつも持ってきて、また花果山へと戻った。
 仲間は大喜びで、その酒を賞味した。

 天界では玉帝のもとにさまざまな奏上がなされていた。
 西王母からは蟠桃園の桃が大聖によってほとんど喰い尽くされていたこと、そして酒造りの連中が、蟠桃勝会のために準備していた酒や珍味が何者かによって喰い逃げされたこと、太上老君が、『丹元大会』のために準備しておいた『九天金丹』をこれも何者かによってすべて盗まれてしまったこと等々。
 玉帝は顔をお曇らせになった。
 そのとき伝令がやってきた。「陛下、斉天府の大聖が今朝、どこにも見当たらず、職務を放棄してしまったようにございます」
「なんと……」玉帝はますます困惑なさった。
「このことからもあきらかでしょう。天宮を荒らしたのは斉天大聖でございます」
「そのようだな……」
 とそのとき、赤脚大仙が天宮に姿を見せた。
「陛下」と大仙はいう。
「どうしたのだ?」
「それがし、斉天大聖に、勝会はまず通明殿で開かれる式典に出席してから瑤池で会が催されるからとの説明を受けました。なのに、通明殿にいってもそんな気配はまるでなく、どうしたことかと思いまして、まかりこしましてございます」
「なんと……それも大聖の仕業であるか」
 天帝は怒りをあらわになされた。
 そこで、四大天王を遣わし、李天王、哪吒太子、二十八宿・九曜星官・十二元辰・五方掲諦・四値功曹・東西の星斗・南北の二神・五岳四瀆・普天の星相など、合計十万の天兵を出動させて、十八の天羅地網を布かせて花果山を取り囲むことになった。

   天の産める猴王、変化多く
   丹を偸み酒を偸み、山窩に楽しむ
   只 蟠桃会を攪乱したるに因り
   十万の天兵 羅網を布く

 俺は外が騒がしいのを見て、うたたねから起き上がった。
 外には粗暴な怒りの気が満ちているのが感じられた。
 ただならぬことであると思って構えていると、仲間が報告に来た。

8


  8

 俺が外に出てみると、そこには複数の天将の姿があった。
 彼らが九曜であることは一目見て分かった。
 九曜星をはじめとする天兵たちは花果山を囲んで、容赦しない様子である。俺は耳から出した金箍棒を大きくして、彼らと渡りあった。彼らは当然のことながら力不足で、ちりぢりになって逃げていく。
 次に現れたのは、それよりは幾分ましな四大天王と二十八宿だった。
 俺の側からも、独角鬼王や七十二洞の妖王たち、そして四健将が応戦した。
 戦いは辰の刻(朝の八時)から、日が落ちるまで続いた。
 結果、独角鬼王と七十二洞の妖王はことごとく天兵に捕まってしまった。
 日が暮れてきたのを見定めて、俺は体中の毛を分身にして、哪吒や天王たちを退けた。
「こちらにも相当な被害が出ましたね」と健将のひとりが声を低めていった。水簾洞の奥でのことであったが、いまはわずかに猿の配下と健将のみが残っているという状況であった。
「しかし、見てみるがいい。たくさんの仲間がやつらに捕まったが、それは他の種族ばかりで、我ら猿は一匹たりとて捕まってはおらぬではないか。まだまだ、盛り返すことはできるであろうし、ここは美味いものを飲み食いしてしっかりと休養をとり、明日も善戦しようではないか」
 俺はそういって、仲間たちを鼓舞した。
 鼓舞したというのは適当でないかもしれない。とにかく、事実を受け入れ、その中で何ができるのかとしっかりと見定めることが重要になってくるのである。
 翌朝、戦が始まるときになって、新顔の人物が姿を見せた。
 彼は、李天王の第二子、観音菩薩の弟子の木叉恵岸であると名乗った。
 李天王の息子ということは、哪吒の兄であるということか……と一人納得する。
「南海で修行をせず、俺と勝負などと、よくそのようなことがいえるな」
 俺はいきり立った。
 恵岸は渾鉄の棍を得物に俺に勝負を挑んでくる。
 俺は八分の力で応戦する。
 恵岸は哪吒ほどには腕達者でもなく、案の定、すぐに片がつく。彼は武器を収めると、潔くその場を去っていった。俺はそれはおそらく自分の実力が伴っていないことを意識してのことであろうと思っていたが、どうやらそれは間違いで、実は、俺の実力をはかるためだけに勝負を挑んできたのだということが、いまさらであるが、うすうすわかってきたのだった。
 そのつぎにやって来たのが、顕聖二郎真君という人物であった。
「我は玉帝の母方の甥、勅命によって昭恵霊顕王に封じられた二郎よ」
 俺は記憶をたぐった。
「ほう……確かそなたの母は天界から下りて下賤な地上の人間と夫婦[めおと]になったのだったかな」
「下賤だと……」
「まあ、それで生まれた人物であるとは聞いている」
「ふん、いいたいようにいうがいい。そんなことをいえるのもいまのうちであろうからの」
「ほざけ」俺は口汚くいった。
 そうして、真君と俺は得物を手に渡りあった。得物の咬みあうこと三百余合、しかし決着はつかない。真君は力を発揮して身の丈万丈の体になって三尖両刃[みつまたりょうば]の神鋒を操って相手の優位に立とうとする。俺も同じように身の丈万丈になって、それに合わせて如意棒を大きくする。得物と得物の克ちあう音は、壮烈なものとなって空間に響きわたる。
 俺たちがそのような勝負を繰り広げているうちに、真君の配下である梅山の六兄弟という者たちが、神兵を水簾洞に向かわせて散々に蹴散らし、四健将も、猿たちも捕縛されてしまった。
 その様子を見て己の不利を悟った俺は、逃げの一手に出た。
 俺は身を雀に変じて、周りにとけこもうとする。が、すぐに真君に見破られて彼は鷹に化けて打ちかかって来る。俺はたまらず鵜になって空へ飛び立つ。二郎は体をゆすって大海鶴となって追いかけてくる。俺は下降し、川に入って魚となる。
 真君は魚鷹[かわう]に化けて様子を見守る。
 暫しの膠着状態に入るが、俺はすぐに二郎の姿に疑念を抱き、川から飛び出すと、ふたたび身を変じて水蛇となる。二郎は丹頂鶴となって応戦の構えを見せるが、その間際、鴇[ほう]となって水際に立った。鴇は下賤な鳥であるので、その習性に嫌悪を覚えて二郎真君はそれ以上、近寄れなくなった。その隙に俺はまた逃げだし、今度は土地廟に身を変じる。
 が、その化け方には間違いがあったらしくあっさり二郎真君に見破られ、彼に、格子窓をたたきつぶし扉を蹴破ってやろうか、と告げられる。
 格子窓は目であるし、扉は歯である。そんなことをされてはたまらぬとて俺は元の姿に戻って再び逃げる。
 真君はあらかじめ李天王に渡していた変化の術を見破る照魔鏡を使わせて俺の姿を見破る算段だった。
 照魔鏡の存在はそのときはまったく知らなかったが、それからすぐ捕縛されて真君から教えてもらったのである。
 道具というと、太上老君の持っている『金鋼琢』もやっかいな代物で、二郎真君に変化を見破られてから再び得物で相手と渡り合っていたときに、空中から俺目蒐けてその道具が用いられたのである。
 これは老君がむかし、函谷関を出たときに、胡人を化して仏としたときに用いた道具であるとの説明であった。
 それが二郎真君と六兄弟と渡り合っているときに頭目蒐けて落ちてきたので、俺は立っていられなくなって、ばたりと倒れた。
 俺は逃げようとしたが、真君の犬に追いつかれて、ふくらはぎに噛みつかれたのである。俺はそのまま真君および六兄弟に取り押さえられ、これ以上の変化ができないように、琵琶骨[鎖骨]に勾刀を突き刺された。
 俺はそのまま捕縛されて天界へと連れて行かれることになった。
 その場には老君の他に、玉帝や観音、西王母、仙卿らもいたようであったが、そのときの俺はまったくそんなことは気がついていなかった。
 老君は金鋼琢を収めて、そのまま皆と一緒に天界に去っていく。
 真君も雲に乗って天上へ向かった。
「四大天王ら、妖怪猿の斉天大聖を捕えてまいりました。あとのことはよろしくお願いいたします」
 そう告げられた玉帝はさっそくこれまでの不埒な行いを叱責して、大力鬼王と天丁にいいつけて、俺を斬妖台のところまでつれていった。そこは処刑の場所であり、玉帝は俺を寸刻みにするつもりであるようだった。
 しかし俺は根拠のない自信をそのとき持っていた。
 大丈夫だ、俺はまだ死なない。そう強く信じていた。

9


  9

 斬妖台に連れていかれて降妖柱に括りつけられた俺はそこで処刑されることになった。しかし気息をととのえて、身を固くした俺に向けて、傷をつけることはできず、大力鬼王らは大いに弱っていた。
「こいつ、どこでこんな妖術を手に入れたのだ」
 鬼王は感嘆するように声を発した。
「これは上に相談する方がいいかもしれませんね」と部下の者が告げる。
「そうであるな、上奏するとしよう……」

 大力鬼王は玉帝に上奏した。
「いかが致しましょうや――」と。
 そのとき、脇にいた太上老君が口をはさんだ。
「陛下、あの猿めは、仙桃をかすめとり、蟠桃会を荒らし、私の金丹をすべて腹におさめ、それを三昧の炎で煉りあげました。あいつの体の頑丈さはそのためにございましょう。ここはひとつ、私に良い考えがあります。あの猿を兜率宮に連れてきていただけますか?」
「そのように計らおう」玉帝はそのように告げた。

 果たして俺は太上老君の住まいに連れられてきた。
「俺をどうするつもりだ、老君……」
 鎖骨につけられた勾刀を抜きとられるとともに、俺はあの丹を練成するために用いられてきた八卦炉のなかに入れられた。そこはすでに火が入っていて、あまりに熱く、身も焦がさんばかりの勢いをもっていた。
 八卦炉は文字通り、八角形をしている。俺は卦に対して若干の知識を持ちあわせていたので、巽の方角に逃げ込むことにした。巽は風の通り道であり、同じ八卦炉のなかでも、煙の量が少なく、熱もいくぶん控え目になるのである。俺はそこで、幾日も燻されつづけた。
 それが原因で目が充血し、火眼金晴となったのであるが、鏡を見る習慣のなかった俺がそのことに気付いたのは、この五行山に圧されて土地神の世話になるようになってからのことだった。
 それはさておき、数日後、八卦炉の火は弱まり、蓋が開けられた。
 老君はすでに俺が灰になったであろうことを疑っていなかったのであろう。が、俺はその責め苦に耐えられた。これ以上の苦痛はないというくらい辛かったが、それでも俺はなんとかこの試練を乗り切ることができてほっとした。しかし、すぐにこのような所業をなした老君に対し、怒りの炎が心中に点火された。
「なに、まだ生きているとは――」老君は俺がぴんぴんしているのを見て、驚いた様子だった。俺はそのまま兜率宮を逃げだすことにした。老君から知らせが行ったのか、天兵たちが追いかけてくる。俺は彼らとやりあい、自身の有利を微塵も疑わなかった。
 天兵を退けると、次は三十六の雷将・神兵たちの出番であったが、それも俺は退けた。もう敵する者はないだろうと思っていると、そこへあの如来が姿を見せたのだ。
「私は西方極楽の釈迦牟尼尊者、阿弥陀仏である。そなたの乱暴狼藉を押しとどめようと思い、ここへやってきた。改心する気はないのか?」
「何をいうか。俺は石猿として生を受けてこのかた、道心を得て修行し、七十二般の変化の術をおぼえ、不老不死となり、觔斗雲はひととびで十万八千里を飛ぶことができるのだぞ。そんなものはこの俺しかあるまい。如来がなんぼのもんだ。俺に対する無礼な言葉は忘れてやるから、謝ってもらおうか――」
「ほう、十万八千里を……しかしそれはどうだろう。そなたは私の掌のなかから出ることもできぬと思うのですけれどね」
「なんだと?」俺はそう告げると、「ならば、その言葉が本当かどうか確かめてやろうではないか。いいか、お前の掌のなかから出ればいいんだろう? そんなものは簡単なことだ、いくぞ」
 俺はとんぼ返りをして觔斗雲に乗った。そのままいつものように觔斗雲を飛ばしてまっすぐに進んでいく。これまでにそんなに飛ばしたことはなかったというくらい飛ばしたのであるが、そのとき雲の向こうの視界の隅に、柱のようなものが五本立っているのが見えた。
 ――ははーん、あれが境界なんだな、と俺は思い、そこの前でとまると、『斉天大聖到此一游』と墨書した。そのまま元の場所へ帰り、そのことを如来に告げた。
「天の端まで行って来たぞ。嘘と思うなら、そなたも行ってみるといい。証拠の言葉も残してきたからな」
「そうなのか?」如来は訊ねた。
 俺は得意になっていた。自分の勝ちは間違いないと考えていたからである。
「ふむ……その言葉とはこれのことか?」
 如来は自分の五指を俺の目の前に見せた。
 その指には小さく言葉が書かれてあった。
『斉天大聖到此一游』と。
「なんだと……」俺は唖然とした。
「身の程知らずの猿めが……そなたにはしばらく自分を見つめ直す時間が必要なようであるな」
 如来はそういうと、自身の五指を山と変じて、俺を押しつぶしにかかった。
 それがいまもこうして俺の動きを封じている五行山の由来である。
 もがいて頭と腕を出したまでは良かったが、そのことを見咎められて、山に「おんまにはつめいうん」の六字の札を貼られて、それ以上、身動きがとれなくなってしまったのである。
「しばらく反省しなさい」と如来は俺に告げた。
 それ以来、口に入れるものといえば、鉄の玉と銅の汁のみという状態が続いている。それにはうまみなどというものはまったくない。ただ空腹を満たすための役割しか担っていないのである。
 俺には自分の身の不遇を嘆くだけの心の弱さはなかった。
 それもまた経なければならない試練のひとつなのだと、妙に悟ったような気になり、ここから自由になったら、何をしたものだろうとそんなことを考える。
 あれ以来、如来の顔は見ていない。
 見る顔といえば、土地神のそれくらいである。
 土地神は俺に対して、好意も悪意も抱いていないらしい。すでに何百年もこの地を守っているし、俺がここに圧されてそろそろ五百年が経とうとしているが、いっこうに老いた様子を見せないのは、おそらく、土地神自身も不老長生のようなある種の特性を身につけているせいであろう。
 俺は考える。
 ここから脱出しようと考えるのはまず無理だろう。この道を通る者といえば、胆力のない無力な人間ばかり。俺のことなどに構う余裕もないし、もともと人通りも少ない。俺は本当にここから出られるんだろうか?

10


  10

 俺は考えをそこまで来[きた]らせて、ひとつため息をついた。
 いつまでここにいればいいのか……。
 俺の人生において、ここまで停滞していると感じることは一度もなかった。生産的なことをなにひとつできないということを嘆くのではない。生産的という言葉であるなら、そんなものはなにひとつこれまでに成したことはなかったのだから。
 ずっと同じ光景を見ていなければならないことは確かに苦痛ではあった。苦痛ではあったが、最近では、それもまた良いものであるような気がしてならなかった。自然の営みである四季の変化をしっかりと感じ取ることができるし、三寒四温の時期があったかと思えば、猛暑という時期もあり、極寒という時期も経過する。それは常に身の上に山が存在しているゆえに気付かされたことであり、貴重な体験であると思っている。
 土地神は必要以上に俺には干渉してこない。
 あくまで傍観者を決めこみ、厄介事を託されたという雰囲気も見せず、ただありのままに物事を見ているような印象が彼にはある。
「悪猿よ」と、土地神は俺に訴えかけてきたことがある。
「なんだ?」俺は答える。
「そなたは悪行三昧であったらしいな」
「それがどうした?」
「いや、天晴だと思ってな」
「天晴だと? 何をいいやがる」
「いや、本心からそう申しておるのだ――」
「ほう……」
 俺は土地神の顔を見返した。
「それが本心だとしたら、俺に同情でもかけようてか?」
「いや、そういうわけではない。しかし、世のなかにはこういう奴もいるのだなという思いを強くしたまででな」
「ふむ」俺は素直に受け答えた。
 山に圧されて不自由している俺にとって、唯一の話し相手である土地神の機嫌を損ねることは望むところではなかったから、彼の言葉はしっかりと受け入れていた。
「なかなか難しいものであるな」
「そうか?」
「出る杭は打たれるし、衆にまぎれれば存在感がなくなる。いったいどちらが良いのであるか……」
「そうだな」俺はしみじみと土地神のいうことに耳を傾けた。
「まあ、いい。そら、今日の分だ」
 土地神はそういうと、鉄の玉と銅の汁を持ってきた。
 俺は飢えているわけでも、渇いているわけでもなかったが、それらを腹の中に収めていった。
「信じられぬことよ……」と土地神はいう。
「うん?」と俺。
「こんなものを喰うことができるとは、やはりそなたは常のものとは異なっておるな」
「ふん、おだてても何も出ぬよ」と俺は答える。
「いやいや、おだてておるつもりはない。そうではなくて、感心しておるのだ」
「そうなのか?」
「ああ」
 土地神はそれから切々と俺のことを見てきて、どう感じているかを口にしはじめた。初めは、落ち着きのない、粗暴そうな、野卑に傾く得体のしれない妖怪猿という認識でいたけれど、こうして付きあって行くうちに、憎むことのできない面白いやつであるということが分かってきたというのである。俺は苦笑を禁じ得なかった。俺もここで山に圧し潰されていなければ、これほど気さくに神のようなものと話をすることはかなわなかったと思うのである。
 確かに、斉天大聖府にいるとき、まだ蟠桃園の管理を任されていなかったときには、この土地神のような人物と交流を持ったことはあった。しかし、ここまで純粋に、真心で接することはなかったという気持ちを強く持っている。なかなか難しいことであるが、確かに五百年も顔を合わせていれば、気安くもなるものである。
「そなた、ここから出られたら、何をしたい?」
 あるとき、土地神がこう訊ねてきた。
「それは……」俺はいいよどんだ。
 うまく言葉が出てこなかった。
 ――自分は何をしたいのか……。
 そんなやり取りがあって数日後、観世音菩薩は恵岸尊者をつれて五行山の麓にやってきた。
「これは菩薩さま……」俺は顔に笑みを浮かべて、しかし心の中をざわつかせながら声をかけた。
「あの石猿ですね」と恵岸は告げた。
「そのようですね」と菩薩。「そなたはこの五百年、しっかりと反省していましたか?」
「反省しました。しましたとも……」
「そうですか……」
「ですから、ここから出してください」俺は懇願するようにいった。
「それはまだ出来かねます」
「どうして?」
「これより後、ここを僧侶が通ることがあるでしょう。その僧侶は西天に赴き、ありがたい経文を手にするために旅に出るのです。その供をいま探しているのですが、そなたにその役目を任せても大丈夫ですか?」
 菩薩は慈悲の念を帯びた表情で、俺の方を見た。
 俺はしばらく考える。
「大丈夫です。大丈夫ですとも。私はそのお坊さんの無事を願って、どんなことでもするとしましょう。なんなら、私がその西天まで行って経文を手に入れたって良い」
「それは駄目です」と菩薩。「取経の旅で出会う困難もまた、仏果というものですよ。困難を乗り越えて目的を達成するところにまた目的も存在しているのですからね」
「難しいのですね」
「そうなのですよ」菩薩はほほ笑みを絶やさない。
「ならば、そなたはその旅に参加できますね?」
「はい」
「では、僧侶の通るのを待ちなさい。そなたの未来はその先に存在しています」
「はい」
 俺はそうして、僧侶玄奘三蔵の弟子となったのである。

天界騒擾

天界騒擾

誰もが知っている『西遊記』の二次創作。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-10

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