燈明租界
燈明租界
もう、何だか関わりたくないの。
あの場所の一切から手を引きたいの。
走れば走るほど、景色が、記憶とかけ離れていく。
知らないものへと移り変わる。
『ーー殿?』
その声が最後の記憶。
逃げ出した私の最後の記憶。
***
目に光が染みる刺激で、私は意識を取り戻した。次に襲うのは頭の痛み。痛みを寝台の中で耐えているとやがて周囲を見回す余裕が出てきた。
記憶にない天井。知らない寝床。何より匂いに違和感を受けた。
他人の家。
そうとしか考えられないのだが、それならば私はなぜ人の家などで寝ていたのだろうか。
「ここは……?」
こぼれただけの独り言であったが、思わぬことに反応があった。
「目覚めましたか……!」
若い女性と思われる声。こちらの返事など待たずに、あっと言う間に足音が遠ざかっていく。何のために声をかけたというのだ。本当に目を覚ましているか確認しなくていいのだろうか。
しかし、私は彼女に構うことよりももっと重要な事があった。
記憶に無いのは場所だけではない。
ーー“私”と言う存在がなんなのか全く覚えがなかったのだ。
次の声はやや間が空いてからかけられた。
「荷葉様、失礼します」
時間があったおかげだろうか。彼女たちが部屋に入ってくる時私は身を起こしておくことが出来た。
先に入って来たのは初老の女性である。灰色の着物は細かく刺繍がされていて、一廉ではない雰囲気を漂わせている。そしてその横に白い割烹着をした中年の女性。更に数名の若い娘が居た。あの中の誰かが先程声を上げたのだろう。
自分が何者なのかわからない不安は依然として押し寄せている。だからまずは気になった事が口に出た。
「カヨウ?」
「……先生、お願いします」
私が投げた問いは答えられることもなく、部屋に集まっていた女たちが忙しげに動き回る。体を動かすのが億劫であったから、割り込むこともできずに寝台の上から見ることしか出来ない。
そのうちに割烹着の女性によって「口を開けて」「腕をだして」と、私はされるがままであった。そんなやり取りを繰り返せば流石に彼女が何者なのか想像がつく。
「お医者様。あの、私……」
「大丈夫ですよ、全て順調のようです。傷もそんなにひどくなさそうでよかった」
彼女は私の頭に包帯を巻くと直ぐさま離れる。
何度か口を開きかけたが、結局私を置いてきぼりで物事は進んでいった。
医者であろう女性は初老の女性と喋り、その合間に他の女たちが私を着付けていく。「苦しい」と言葉を上げれば無言で帯が緩められ、髪に櫛が入れられていった。
鏡がほしい、そう思った。頭の怪我はどれほどのものなのだろうか。手を伸ばす隙すらなく身支度が行われる。横目で確認する限りどうも部屋に鏡はないようだった。
辛うじて着付けられる前の着物は見ることが出来た。黒い長い髪が時々目の前に流れてきた。けれども私は私がどのような顔をしているのかわからない。
やがてその一連の作業が終わると、部屋に私と初老の女性の二人だけになった。
「若様がいらっしゃいます」
「…………」
つんけんどんとした言葉に、私はもはや返事を諦めた。
若様、とやってきたのはまだ十代の後半くらいの少年だった。
「椛、下がっていいよ」との言葉でずっとこの場を仕切っていた初老の女性が椛と言う名だということを知る。彼女は「若様」には少しだけ表情を柔らかくしていた。
「記憶はどうです? 荷葉殿」
「……!」
とっさに言葉が出てこなかった。彼は私に記憶が無いことを知っている。
少年は少し派手な顔立ちで、薄く笑っただけなのにやたら華やいだ印象があった。彼は部屋の中央に置かれていたテーブルに腰を掛けた。
「……かよう、それが私の名前ですか」
先程、返事が来なかった問いを再び口にする。
「僕の知る限り、貴女は荷葉と言う名ですよ。ハスの葉を意味する名前。そして夏の薫りも意味します」
果たして、とうとう求めていた答えが返ってきた。
私の名は荷葉。
何度か口にしてみるが、馴染んでいるのか馴染んでいないのかわからない。
「その、貴方のお知り合いの荷葉さんと間違えては……いないでしょうね」
こうして顔を突き合わせながら人違いをするのはなかなか難儀なことに思えた。しかしこちらの方といえば全く記憶が無いので、知り合いです、と言われても自信がないのだ。
ところが少年は思いがけないことを言う。
「知り合いじゃ無いです」
「えっ……」
「まあ間違えては無いでしょう。顔を見ればわかります」
ああ、まただ。鏡がほしいと私ーー荷葉は思った。
「知り合いでないとするならどうして私に良くしてくださるのですか? もちろん嬉しく、思っておりますが……警吏にでも後を任せても良かったでしょうに」
「あれ? 僕が助けた側だと思いました? 助けたかどうかは見る人によって違うと思いますよ」
彼はにへら、と笑ってテーブルに置いてあった花瓶をいじっている。
「貴方は気を失っていた私をここへ連れてきて、医者を呼び、身支度をさせて下さった。私の知っている限りでは私の事を助けてくださったように思います」
「付け加えるなら、最初に見つけた時点で貴方は目覚めていましたよ。その時のやり取りで記憶を失っている事に気がついたのですが」
「なるほど」
彼の言うことは私の数少ない記憶とも合致したので間違っていないと感じた。
「僕は追跡者でもなければ貴女の保護者でもありません。知り合い未満ではありますが、これも何かの縁ということで、滞在なさるならこの部屋をどうぞ。お代は結構です。困窮しているわけでもないので」
ありがたい申し出であった。
と、同時に、私を家に帰さないのは何故なのかわからなかった。名前を知っていて、口ぶりからすると他のことも知っていそうだ。家人に連絡をするか、もっと簡単な手段として私に帰るべき家を告げればそれで済むだろう。
「私は気を失う前何を言いましたか?」
“荷葉”は彼に助けを求めたのかもしれない。
それすら記憶の彼方へ行ってしまったけれど。
「言ってない、と思います。ああ、僕、そろそろ出ないと行けないんです。お話はまた今度」
少年の手の中にあるものがいつの間にか置き時計に取って代わっている。針は昼の十一時ちょっとを指していた。
「あの、ではこれだけ。貴方のお名前は」
「芦取です」
「アトリ……」
その音を聞くと心がさざめいた。
『……りはうちのアトリにさっき……たの』
「……………………」
「それでは、また次の機会に、荷葉どの」
彼が部屋を出ていったのを合図に再び女たちがやってくる。
一人はお茶を、もう一人は熱物と粥が乗った盆を手にしていた。
私は先程まで少年が座っていたテーブルへとに案内される。椅子に腰掛けるのを見届けると女中たちは部屋を出ていった。
私は朝食とも昼食とも言えない食事を静かにすすった。
提供された部屋は質素に見せかけて、置いてある家具、一つ一つが高価でありそうだった。そして、机一つを見て「高価なものだ」と判断できる知識が、自分の中にあることに安堵する。すべてを忘れてしまったわけではない。ただ「荷葉」と言う人物につながる情報が抜け落ちてしまっているのである。
私がこの屋敷に滞在を初めて十日が経った。
芦取はその後一度だけ朝の診察に付き合ったが、それ以降顔を一度も見せない。私はというと身体には問題がなかったらしく、特に寝込むこともなく過ごせた。
記憶はまだ戻っていると言いがたかった。
芦取の名を聞いた時の世界が震えるような不安感は既視感であろう。同じような体験を出来ないものかとペンで「荷葉」と名前を書いて見たりしたけれど、文字を書ける技術があるという確認しか成果は出なかった。
しかし、見知らぬ屋敷ーー私の覚えている家があるのかがまず疑問であるがーーに滞在するというのはなかなかに大変なことである。勝手にうろつくこともままならず、仕事中の使用人へ声をかけることも出来ず、ひたすら部屋で思索をすることしかできなかった。そしてその思索も記憶の欠落ゆえにままならない。
手詰まりを感じた私は“どうしても不味いことであったら誰かが止めるだろう”と高をくくり、屋敷内を見物することにした。
部屋を出てすぐに女中とすれ違ったが、特別何も言われないようだった。軟禁されているわけではないということか。彼女たちは私の事をどういう風に説明を受けているのだろう。あるいは、そもそも知っている? 道を空け、壁際で軽く礼を取っていく姿からはどちらとも読めなかった。
廊下は程よく飴色になった柱が張りめぐらされており、扉の先に畳の敷き詰められた部屋も見つけられた。部屋数は十分に多く、使用人が多く使われていることと合わせてそれなりの家なのが改めて感じられた。
「荷葉様」
玄関ホールまで来て初めて声がかけられた。白髪交じりの初老の女性。確か芦取は椛と呼んでいただろうか。
「外にお出でになるのでしょうか」
「出ては不味い?」
「良いも悪いも、私共は“ただ荷葉様のお望みのままに”と命を受けておりますゆえ。ですが、出ていかれるならば芦取様に報告をしなくてはなりません」
芦取の言葉をただ伝える椛は機械的で、無機質で、距離がある。
「素敵なお屋敷でしたので少し拝見させていただいてました。ここの屋敷を建てた方は随分風流な方なのでしょうね。それに、手入れもとても行き届いていらっしゃる。建物だけではなく置かれている調度一つ一つが素晴らしいですわ」
そう言ってまわりを見た時、ふとある花瓶に目が留まった。
白い体躯をしたそれは折れそうなほど細い部分とどっしりと丸みを帯びた部分とが絶妙な美を誇っていた。
他にも使い込まれた家具は飴色に輝いていて、長い年月を経て魅力が増しているのが見て取れたし、障子の破れに色とりどりの押し花が使われて、ただ新品であるだけのものより美しかった。
のに、荷葉は花瓶から目が離せなかった。
『……が帰って来た時のために部屋は綺麗にしておきなさい』
「え?」
慌てて周囲を見回すが数歩先の廊下で相変わらず椛が佇んでいるだけだ。
「どうかなさいましたか、荷葉様」
荷葉は少し考えてから「今何か言ったかしら?」とだけ聞いた。椛は少し間を開けてから首をひねって否定する。
「そう、ならばちょっと空耳だったみたい。今日はこのまま部屋に戻って休ませていただこうかと思います。ああ、でもそうだわ。現在の主は芦取、殿なのでしょうか。私滞在させていただいて、部屋まで用意してもらっているのにまだ挨拶もろくにできていませんの」
あの少年に敬称をつける瞬間妙な引っ掛かりを感じながらもなんとかいい切れた。だが椛の表情が少し強張った。
「私共は芦取様にお仕えしております」
「そう……では彼にお会いしたいとお伝え下さい」
芦取はその日の晩には現れた。
「女中を一人お借りできませんか?」
女中はお茶の一揃いを置いて既に退出した。向かい合ってテーブルに着き、お互い自分の分だけ注いでいくという、変わったお茶会の様相を呈していた。
「かまわないけど……何に使うの?」
「外に出てみたいと思うのですけど、流石に一人では戻ってこれる自信がございません」
「ああ、戻ってくるつもりあったんだ。ってか従僕じゃなくて女中でいいの? 追っ手に見つかったら暴力沙汰になるんじゃない?」
追っ手ーーその可能性は考えていなかった。確かに、力任せに連れ去られそうになったら、女手だけではどうしようもない。それに、自分だけでなく女中を危険に晒すというのも気分の良いものではなかった。
だが、従僕ーーつまり男性と道を歩くのはなんとなく気が進まなかった。
ああ、もしかすると自分はあまり男性と接しない生活を送っていたのかもしれない。自然とそういった予想がたった。
「何かしたいことあるの? 方法ではなくしたいことを言ってくれればもう少し力になれるかもしれないよ」
「本当にただ外に出てみたいだけなんです、と言ったら嘘になるでしょうね。自分が誰なのか自信がないとどうも落ち着かなくて。本当に荷葉なのか何か自信を持てるものくらい見つけたいと思っているのです」
「記憶を取り戻したいわけじゃないんだ」
記憶ではなく自信と言ったのが鋭く指摘される。
「……私は記憶を取り戻した方が良いのでしょうか?」
この少年は私が何者かを知っているはずだった。それだと言うのに積極的に教えようとしてこない。自ら気がついて欲しいと言う素振りも見せない。だから、私が記憶を取り戻すのは必ずしも必要とされていることではないのかと思っていた。
もちろん、このまま好意ーーとしか現状は言えないので、そういうことにしておくがーーに甘え続けるのも差し障りはある。何らかの手段でお金を稼ぐか、あるいは正しい家にかえるべきだとは思う。
「どっちでもいいんじゃないかな」
芦取は相変わらず不思議な対応である。親切があって助けたとしても、下心あって助けたにしろ、策略に嵌めているにしろ、もう少し別の対応があるのではないかと思う。この曖昧な対応が荷葉の身の振り方を迷わせるのだ、と恨めしくなる。
とても当てつけがましい。
己のことも自分で決められないなんて。記憶喪失というのは、こんなにも判断が難しい存在だなんて、そう言い訳するけれど、しっくりと来ない。
「では、芦取様はどちらが助かりますか? 私は、一箇所に居ると滅入ってしまう質のようなので外へ出かけたいと思いますが、現在世話をしていただいている恩人に迷惑を掛けるつもりはございません。記憶は芦取様のおかげで困っておりませんので、思い出せたら思い出す、位のつもりでおります」
「……困ったな、心底どっちでも良い。強いて言うなら遠出して余計な人に会われたら困るかな……?」
どんどん曖昧になっていく言葉にとうとう苛立ち始めた。
ああ、記憶を取り戻せと背を押してほしいのかもしれない。私は怯えている。甘えている。でも押されない。自分で決めろと投げられる。そのとおりだ。
でも拾ったのは貴方でしょうに。道に捨て置いてくれれば親切な人ならばそれ相応の場所に連れて行かれ、悪人であればそれ相応の場所に落とされていただろう。
芦取は生ぬるい場所に私を置く。
ただ、出ていく自由があるのだから、結局は自分が甘えているということなのだけれども。
「租界に居る限り大丈夫だと思うけど」
荷葉の自問の合間に芦取が胸に響く言葉をつげた。
ーー租界。
私はその言葉を覚えている。
「ここはもしかして燈明租界なのですか?」
口に出した瞬間、たくさんの事が胸に湧いてきた。
租界とはある国にありながら別の国の決まりが通る土地のこと。
ただ租界と言うならば、それは燈明租界に置いて他ならないこと。
燈明租界は常国に有りて高国の支配下の場所。
考えてみればこの屋敷の様式は高国風であった。常国と高国は文化の混じり合いが進んでいるので、特別意識していなかったのだ。目の前の彼がその手に持っている器もまた高国式の器だ。手の中に小さく収まり、飲むたびに杯から入れてできるだけ香りを楽しむ。2つの国の事に思いを馳せて、そして私は一つの事を理解した。
ーー私は荷葉は常の国の人間である。
一つだけだけれど荷葉と言う人間の事が見に染みて理解できた。
「あれ? 言ってなかったっけ。そうだよ。燈明租界の中心からちょっと離れたところかな。邸宅が多くて静かで良い場所だよ。そうか、租界はわかるのか。だったら良いかな。今度僕が連れていく」
「えっ」
「外、行きたいんでしょ? 僕が居れば変な所に行く前に引きかえさせられるし。それとは女中はつけるから、屋敷内で使ってやって」
そう言った次の日には女中が用意された。
彼女は今まで無言で世話をしてくれていた一人だった。少しばかり気詰まりがする相手ではあるが、いい出したのが自分である。
外に出ること以外に「荷葉」の手がかりを探ってみることにした。
「私が身につけていたものはどこでしょう?」
今着ているものはこの屋敷で用意されたもので、荷葉のものではない。日毎新しい着物が用意されるのでそれをそのまま着ている。余りに丈が合っているので、自分はこの家の人間なのか、と疑うほどであるが、使用人たちのぎこちなさを見る限り考えられない。
「荷葉様のお召し物はしみ抜きのためにお預かりしております」
「では、何か荷物は持っていなくて?」
「私どもではわかりません。ですが、お衣装の一つに簪がございました。あちらは手入れをし終えたので、若様にお渡しております」
また一つ芦取に頼むことが出来てしまった。出かける時にでも還してもらおう。
「そう、では私は何をしていいのかしら。屋敷の外は芦取、殿が連れて行ってくださるまで待ちますけど庭先に降りたりしても大丈夫?」
「屋敷内の部屋や物は自由に使って下さって構わないとおうかがいしております」
彼女は以前老女椛と同じように返す。
芦取の計らいは隅々まで行き届いていて、不気味なほど過ごしやすい。屋敷は美しいだけではなく、好ましい気持ちも多く湧いてきて、荷葉の暮らしていた家もまたこのような物であったのだろうかと思いを馳せられた。
やがて街へ出る日がやってきた。
「出かけるならこれを」
芦取が取り出したのは螺鈿細工の簪であった。
「アナタのだよ」
「私の……荷葉の物……」
「……一思いに刺す?」
「えっ」
薄ら笑いにドキッとする。
思わず半歩後ろに踏み出してしまった。
芦取は今度は面白そうに笑った。なるほど、確信犯の冗談だったようだ。
「今ならやれる人、いるから。出先でやっぱり刺したいって言われても僕は無理。女のことなんて出来ないよ」
「いえ、持ってます」
まだ少し見足りない。私は断ると胸元にそれを閉まった。
「それに鏡がありましたら自分でつけることも出来ます。手巾も手鏡も持たずに出歩くというのはいささか身だしなみに落ち度がありそうますね」
「……あ、そ」
屋敷を出てそうそう、自分は本当に常の国の人間なのだと言う確信を強めた。外に出た途端、違和感がとめどなく襲ってくるのである。そうやらそれは家々の外観にあるようで、大ぶりの屋根に
読むことの出来ない看板。店先に並ぶ見慣れない道具。同じ年頃の娘たちなのに私が今来ている着物とは全く違う衣。それに、顔立ちもどことなく違和感があった。
「私はなぜ燈明租界に居るのでしょう」
常の国の人間なのに。
「……さあ?」
数歩先を歩く芦取は、町の案内はしてくれないけれど、話しかければいくらでも返してくれる。
「わたくしが倒れていた場所は結構遠かったのですね。運ぶのは大変じゃありませんでしたか?」
「流石に車を捕まえたよ。逆に普段歩いてるような距離だし。すぐ着くよ。それで? 何か記憶は戻った?」
「土地が高国風だと言うことは……」
「……高国の様式に詳しい?」
「比較できる記憶をもってはおりませんが、屋根の柱が朱塗りで鮮やかですよね。そういえばお屋敷の調度も高国の物が多かったように思いますけど芦取殿は高の国の方ですの?」
「…………そう、だと思ってるよ」
今日何度か目の歯切れの悪い返事だった。
芦取と話した回数は数度であるが、まっさらな記憶では一番深く関わっている人物である。荷葉の中での“芦取”という人物像が少しずつ出来上がりつつあった。
穏やかな人物であるということ。それは心根の優しさから来るものというより、関心の薄さから来るものであること。打てば返すが、自ら打ち出す事は少ない。
そうした心持ちはあまり聞こえが良くないようだが、実のところ非常に居心地が良かった。荷葉と言う人物もまたあまり物事に執着しない人物のようであったからだ。記憶を取り戻したいという気持ちが薄すぎて不安になる程だ。
(ああ、でもそう、いつまでもお世話になり続けると言うのも嫌なものね)
芦取の人となりについではまだわからない部分もある。疑問というのは自らに関わることで「何故荷葉を助けたのか」ということがひたすらにわからなかった。
遠くはないと言うけれど、芦取のような人物がわざわざ家人でもない人間を連れて帰るにはずいぶん遠く感じた。いっそ屋敷が見える範囲の事だったから、と言う予想は全く正しくなかった。
「そこののぼりが見える。淡い緑色の」
「ええ」
「あれは茶屋のものだけど、ちょうどあの前でと会ったんだ」
「随分と大きな通りのようですね」
道幅は十分に広く、こうして少し見ているだけで車夫に引かれた車が通り過ぎていった。この道なら人通りが途切れることはないであろう。
「燈明租界の繁華街にすごく近いんだ。通りを二本向こうに行けばそれが中心地ですよ。活動も何軒かあったと。流石にそんな格好じゃないかな?」
その瞬間、髪の毛が流れ落ちるのが目に入った。女中たちが髪に手を加えなかったのは芦取に手渡された簪をさすためだったのではないかと今更ながら思い至った。
手ぐしで髪を整え、懐から出した簪をさす。見えていなけれど、人前に出ても良いくらいのまとまりに出来たのではなかろうか。
「そうあらためて言われますと、気になったもので」
「行きます?」
「そういったつもりではなかったのですけれども。どちらかと言うとその時のお話を聞きたいですわ」
「ではせっかくだからお茶でも頂きながらしましょうか。ちょうど目の前ですから」
「なんだか、芦取様とお話しする時はいつでもお茶を頂いている気がいたします」
「お茶がないと話に詰まった時困るじゃないですか」
そう言って店に入ろうとした時だった。
視界の端で“誰”かをとらえた。
「芦取、ここに居たの? いくら待っててもお屋敷に来ないから探しに来たのよ」
その女性を見た瞬間、頭がムズムズするというこれまで味わったことのない感覚に襲われた。記憶喪失が何を言っているのだと言われても仕方がない。私はポカンとその体験をもたらした女性を見ていた。
少し派手な顔。新しい時代の女性らしい少し露出のおおい洋装。ただ、布地や小物に高国の意匠が盛り込まれていた。
「あら、あなた……もしかして……ふふ、橘のお嬢ちゃんね。分かったわ。芦取はお可哀想なお嬢ちゃんを見つけて保護してくれていたわけね。それでこそ橘家の跡取りとしてふさわしいわ」
「母さん、とりあえず行けよ」
「ああ、はいはい、分かりました。でもね、明日には来てちょうだい。全く、私は次期当主の母親だっていうのに、あの屋敷の連中ときたら気がきかないのよ。貴方が来るまで待たないといけないことが多すぎて。母さんすっかり困ってるんだから」
「ああ」
「じゃ、失礼しますわね、橘のお嬢ちゃん。これから貴女がお嫁に行くまで短いお付き合いになるんですから、ほほほ」
彼女の笑い声が頭にこだまする。
これを私は聞いた。
あの時に。
母は青ざめていた。
蝶が舞う着物は彼女の少女のような美しさが加わっていた。
『……なんのおつもりですか、川澄夫人』
『とぼけたってダメよ。橘財閥の跡取りはうちの芦取にさっき決まったの。貴方の娘は負けたのよ。まあ、アナタはこのまま妻の座に据えておくらしいけど……でもそれもいつまで持つかしらね』
『何を馬鹿なことを仰るのか』
『バカでもなんでもないのよ。旦那様に聞いてみたら?』
ほほほ、と父の愛人……芦取の母親が笑い声を上げた。
妾を、正しく玄関まで見送り、後ろに立っていた娘を見た時、あの人は狂っていた。
花瓶を投げつけてきたーーと思った次の瞬間には破片が私目の前に広がっていて、やたらに周りが騒がしかった。直撃ではなかったらしい。私の体には一つも傷がつかなかったが、ただ青臭い水が着物にはねて気持ちが悪かった。
『ふふ、ふ』
罵倒すらなかった。
ただその人は焦点の合わない目で誰かを探していた。腕からは血が流れているが気に留める素振りはない。破片で切ったのだろうか。「奥様!」と女中たちが慌ててその姿を追いかけていった。
もう、私はいらないだろうな。
せいぜい橘家に有利な家に嫁に出されるのだろうか。ただの女として? つまらない、本当につまらない人生。
別に女で不満はなかったけれど、後継者に足りなかったのが性別だけだったのならーー私は名前も知らない弟に嫉妬した。
いつの間にか手を引かれて道を歩いていた。
「……母さま。馬鹿な人」
「今度は覚えてたんだ」
今度、と言う事は前回、もあったわけで……と考えた時、たしかに記憶に引っかかるものがあった。私は、二週間ほど前もまたこうして手を引かれて歩いていった。
「車なんて嘘じゃない」
「うん。だって近いから」
表情を変えずに嘘をつけるのはなかなか素晴らしいことだと思った。
「随分くだらない理由で記憶を失ってたみたい。なんだか納得がいかないのだけれども……ねえ、暴行の跡とかはなかった?」
「割と普通にお着物を着てたよ。梅の匂いはさせてたけど」
「ああ……あの花瓶の中身はそういえば梅だったかもしれないわ」
包みを解けば中からは朽ち葉の着物一式が出てきた。しっかりと染み抜きされて、新品のような仕上がりだ。
「ひと目見て気がついたよ。あんたの顔は……嫌になるくらい僕に似ている。ついでに我々の父親にもな」
「じゃあ後で鏡を見ないと」
彼は私と同じ真っ黒の猫毛をかきあげた。
「僕だったら切れて一人や二人手にかけてそうだけど、執着はないの?」
「ない……わけではないと思うの。だってずっと十八年間私の物になるって言われてきて、そうやって両親……いいえ、母ね。母の評価の原動力だったのだから。でもね、それよりもなんだかがっくりと来てしまって。だってあの人、そうそうにあちら側の人になってしまったんだもの」
「あちら側?」
「頭がおかしいって事よ。元々だけど」
「よくゆう。まあうちも似たようなものか」
「ああ、そうだわ、実感もない気もするわ! だってまだ一月も経っていないし、記憶だけで判断するならまだ二日目ってことでしょう? これから失ったものの大きさを味わう度につらい気持ちになってから初めて弟を殺したくなるのよ」
おお怖い、と肩をすくめている芦取は余り信じていないようだ。かなり本気なのに。花瓶を投げつけておしまいなどそんな生ぬるいことはしない。きっちりと短刀でもって首を掻っ切るつもりだ。
でもそれは今ではない。
「で、貴方どうなさるの? もう橘家に入る準備は整ったのかしら? とりあえず一緒に行こうと思うのですけど。邪魔をする気はないけれど、この目で見て確かめてあわよくば少しくらい引っ掻き回したいの」
「あんたを拾ってから考えてたんだけど、まだ、もうちょっと考えてみるさ。こんな面白いことあんまりないし」
「そう」
芦取が立ち止まる。顔を上げればそこは先程出てきたばかりの屋敷があった。
「橘荷葉」
それは私の名前。
今は身に染みている名前。もしかするともうすぐなくなるかもしれない名前。
「僕は川澄芦取といいます。覚えておいて下さい」
「忘れなければ、覚えておきます」
「頑張って」
彼はそれで満足したのか私を屋敷の中へと引っ張っていく。しかしこのままでは私の方に心残りが出来てしまう。
だから、玄関の扉に手がかけられるその直前に、言った。
「私は橘荷葉ですわ、よろしくお願い致します、芦取様」
燈明租界