訪問者《カフカ「審判」に刺激されて》

奇妙な男が現れて、「あなたは在宅起訴されました」と告げる、その日から主人公の生活に変調を来していく。

「人間を返せ」、どこからともなく現れた奇妙な男の着けたゼッケンに書かれた言葉の意味とは何か、それが男

    訪問者
《カフカ「審判」》
           作・三雲倫之助

 或る日の午後、これということのない日で、嶺井はアパートで何をするのでもなく漫然とテレビを見ていた。ノックの音がして、ドアを開けるとスーツを着た男が立っていた。見るとゼッケンを付けており、それには「人間を返せ」と書かれていた。嶺井は目を丸くして、しげしげと男を眺めた。ゼッケンを除けば身なりはきちっとしていた、きっと県庁職員か銀行マンかそこら辺だろうと察した。それにしても「人間を返せ」はないだろう。誘拐されたのか、殺されたのか、戦争反対か、考え行くうちに見当が付かなくなった。
「どうしました」と嶺井は呆れ顔で言った。
 ゼッケン男は咳払いをして言った。
「あなたは風(ふう)紀(き)紊(ぶん)乱(らん)により国家安全と平和の会より在宅起訴されました、よって国外への渡航を禁止します、なおあなたには本件に関して黙秘が認められています」
「納得できない、私は今まで罪を犯したことがない模範的な市民だ、それを起訴するとは言いがかりだ、まったく身に覚えのない罪だ、誤認起訴だ、冤罪だ、出直してこい、このバカが」
「いいえ、我が会に間違いません、確かな調査を元に起訴しているのです、あなたはこの三年要注意人物としてマークされていたのです」
「ああ、そうですか、そうですか、それで私が実際に何をしたというのですか」
「それは極秘です」
「実際私が何をしようと、表現の自由でしょう、それに警察に逮捕されるくらいの法は犯してないでしょう」
「無神経な、なんと身勝手な言い草でしょう、表現の自由と、あなたの腐った口が言わせるのですか、身震いがする」
「聞き捨てならないな、言うに事欠いて、腐った口とは何ですか」
「そうとうあなたは鈍感らしい、事の重大さをご存じないようだ、ほんとの自分を考えてみなさい」
 嶺井は雷に打たれたように体が震えだし、「ほんと」「ほんと」と何度も呟いたが、ほんとの意味したものが掴めなかった。
ほんとの私とは何か、嘘の私、ほんとの人生、偽りの人生、ほんとのことを考えてみる、それは一体何なんだ、
ほんとの○○、そのようなことがあり得るのか、全てが棄却される、全てが漂白される、全てが無駄、無意味、無気力、嶺井の体や思いは萎えていき、立っているのがやっとの事であった、「ほんと」と呟いてみた、力がすっと抜けてその場に坐り込んでしまった。いつの間にかゼッケン男はいなくなっていた。
 その日から嶺井は変調を来し、なんとも言いようのない異風な気分に悩まされた。
 嶺井は町役場の職員で「すぐやる課」に属している、最近ではゴミの不法投棄の確認と犬の死骸の片付けだった。
 役場の軽トラに乗り、喜屋武と嶺井は町内をパトロールして回る、とくに山林を重点に回る、不法投棄が絶えないからだ。
「住民課の上原さん、スロットが問題で、離婚したらしいんですよ、ギャンブル依存症というやつでしょうかね、酒を飲まないから、ギャンブルで発散するんですかね。
 アルコール依存症、薬物依存症、タイガーウッズはセックス依存症と診断されて、病気は治すべきものだと言い訳し、浮気の評判での低下を防いだ、何にでも依存症はあるでしょう、オタクも依存症でしょう、金持ちだって金銭依存症でしょう、この世では何でもかんでも依存症だ。でも度を超すぐらいじゃないと、エキサイトしませんから、面白くないですよね。難しい、世の中難しい、どんどん生きるのが難しくなる、すると嫌になってくる、そして鬱になり、首を吊るんですよ、どうしてこんな世の中になったですかね、首を吊るほど苦しみたくないですね、ほどほどに苦しんで、ほどほどに楽しんで過ごす、これが人生の極意ですかね。でも夢中にならないと楽しくないですからね、楽しくないと人生やってられませんよね、難しいですよ、私はどう生きてゆけばいいんでしょうか、誰に聞けばベストなんでしょうかね、宗教は除きます、あの世なんて糞食らえだ、有りもしない世界をでっち上げる無罪の詐欺だからな、それに教祖が神様になる、結局死ぬはずのない神様が死んで身内が継ぐことになるのが新興宗教だ、教祖はほんとにあの世を信じているのか、私には最も浮世にまみれた奴に見える」
 嘘かもしれないということか、そのようなことは誰にも分からない、本人に聞いても嘘をつくことだってある、教祖だからな、だがペテン師はまずは自分から騙して神様になった気でいるから、それを信じている、信じるのに嘘もほんともないだろう、UFOを信じている奴も、悪魔も幽霊も信じている奴もいる、ほんとの場外で信じている、だが反証可能性がないから、科学的には嘘だ、物語ということになる、宗教こそ人類最大の依存症だ、入れあげて全財産を巻き上げられる人もいる、どうやって生きるんですか、結局、誰も頼れないのなら、自分が生きたいように生きるのが一番だろう、それしかない、正解かどうかは分からないが、それぞれが決めることだ、誰に相談しなくてもいいのか、その誰かは信じられるのか、信じられる人格者なのか、人格者なら、人生を知っているのか、信念とかで偏った生き方をした人じゃないのか、それに楽しい生き方をしたのか、ただ博愛主義だのに没頭した人生を送り人格者と呼ばれたのではないか、オタクこそが最善の生き方か、だが変わり者と見られる、それでもいい、好きなことをしているから、好きなことをしていれば、地位も名誉も財産もいらないのか、それがベストな生き方なのか、ベストではなく、楽しい生き方なのか、もし途中でオタクから冷めたら、残りの人生をどう生きるのか、何も残ってはいない、無いものばかりが目に付き、それまでの人生を呪うのではないのか、オタクでよかったと言えるのか、言えるとしたら、それは強がりでしかないのでは、一生オタクを通せば、幸福だと言える、一生オタクで送れる人生はあるのか、それこそ物語のハッピーエンドの夢、戯言ではないか、オタクの末路は生活保護を受けてやっと生きているだけの状態ではないか、依存症でも依存して生活に困らず一生過ごせれば幸せだ、だが好きなことに走らないのが常識人と呼ばれる人々だ、数的に最も多い、常に確率の高いところに賭ける、それが苦労を最小で済ませることを知っているからだ、転ばぬ先の杖、冒険もしないで確実な道を選び大けがしないように生きる、平穏無事、それで幸福、それでも不幸は訪れる、不治の病、親しい者の死、いずれは死ぬ、それを言ったらお仕舞いだ、人間誰でも死ぬ、全員不幸か、そうではない、周りを見れば幸せに過ごしている、しかもあの世を信じているようでもない、死など死の直前に頭に浮かぶ程度でいい、死ぬ死ぬ死ぬと四六時中嘆いている人はいない、それなら考えなければいい、ただ生きているだけ、衣食住足りれば、それで幸せ、目的や価値はどうするのか、なくても幸せ、考えないことが一番、バカほど幸福、そのような世の中は成立しない、世の中、そのようなものではない、個人の幸福度を言っている、誰それがどうのこうのではなく、私個人は幸せか、私だけの問題だ、他人と比較することではない、他人がいてこそのあなたです、あなただけでは生きられません、他人と比較するからこそ、幸せがどうのこうのと言えるのです、あなただけなら変化もせずにそのままで成長し、年老い、死んでゆくだけです、あなただけなら善くも悪くも幸も不幸もない、比較するものがないのですから、無です、真っ白です、遮るものはなにもない高低もないのっぺらぼうの世界です、そのような刺激のない世界では生きてゆけません、
 嶺井は当てもなくただ悩ましかった。
「不法投棄もありませんね、平和ですね。でも世間では相思相愛と思い込んでいるストーカーで女性を殺す事件も多くなりましたね、思い詰めるんですかね、もうこの女性しか目に見えない、結局は思いのままにならないから殺す、愛するから殺すのか、可愛さ余って憎さ百倍の憎しみで殺すんですかね、でもドラマでは愛しているんだよと叫びながら相手を殺しますよね、変な気分になりますよ、愛するって憎しみ、憎しみって愛、だからお前を殺すと喚いているように聞こえるんです、ただ片思いというのが悲惨ですよね、相手はそいつのことをなんとも思ってない他人の一人にしか過ぎないのですから、諦めが肝心と言うことですか、危ない奴には分からないことでしょうね、するとまったく反対の無差別殺人はどうなるんですか、誰でもいいから、殺して死刑になりたかったなんて言い出すんですから、どちらが酷いものなのでしょうか」
 愛は憎しみ、そんなこと言ったら世の中が回らなくなるよ、善は悪、美は醜、表は裏、本当は嘘、上は下、こちらは向こう、言葉の意味が確定できなくなり、会話不通になる、ストーカーは片思い、相手はいないも同然、意のままにできる物と同じで人格もなく何も存在しないようなもの、自分の幻想に魅入られて、つけ回している、無差別は標的の区別ができない、手の付けられない自暴自棄で身勝手だ、死ぬのが怖くなければ何をしてもいい、極刑が死刑と言うことで、死ぬのが怖くなければ、笑って死ぬだろう、ただ遺族や一般市民の気は晴れないだろう、報復の意味があるからだ、刑法は報復、目には目を、歯に歯をだ、そこで最も重いのが死刑、死なんて怖くない、そのような変わり種がたまに出てくる、たまにだ、だから仕方ない諦める、それに死刑にしたら、受刑者が再び罪を犯すことはなく、二度と顔を見ることもない、それで満足する、満足しないと言ったらどうなる、受刑者に恐怖を味わわせて殺すことができないのだ、それとも肉体的苦しみを与える拷問をし続けて殺す、そうなればリンチと同じだ、違わないのか、復讐している、リンチと極刑とは似てくる、それは最後には暴力に訴えるからだ、なぜ警察や軍隊がどの国にもあるんだ、暴力を行使する組織だ、結局は国民の暴力に頼ることになる、暴力を振るう人間が出てくる、犯罪を犯す人間が出てくる、隔離するには暴力が必要だ、刑務所に入れて受刑者を監視する、人間は言葉だけでは取り締まれない。

 嶺井は大学時代の仲間二人、金城と前城で町の居酒屋で酒を飲んだ。店は満杯状態で騒がしかった。
「どうだ、町役場の仕事は」と銀行員の金城が笑って聞いた。
「のんびりしていていいよ、銀行は大変だろう、お金を扱う仕事だからな」
「旅行会社はまあまあってとこかな、良くも悪くもなくで安定路線」と前城がジョッキのビールを飲んだ。
「仕事の話は止そう、面白くないからな」と金城は刺身を口に入れた。
 それは仕事に興味がないと言うことだ、それで仕事を続けている、矛盾してないか、まったく面白くない仕事をまじめに働けるか、それに給料まで貰えるか、自分で選んだ職業だろう、それなりの動機があって選んだのではないか、動機って、最低で賃金が高いから選んだ、お金を得るために選んだ、それでもどうせなら楽しくなるように対処するだろう、面白くないものでも面白くしてしまうんだよ、人間は、それが大多数かもしれない、生き甲斐、ノスタルジックな響きがする。
「この年で楽しい物って何だろうね、テレビ、暇潰しって感じだよね、中学までは野球部で夢中になったけれど、そんなのないよな」
 金城は溜息を吐いた。
「確かに」と嶺井は相槌を打った。
 後は三人で何となく会話が続いたが何を話したか曖昧で、その内にお開きとなった、それがいつものパターンだった、それでも又三人で集まり飲むのだ。

 隣に住むキャバクラ嬢の玲奈がタンクトップに半ズボン姿で嶺井の部屋にマヨネーズを借りに来た。嶺井は笑って冷蔵庫からマヨネーズを持ってきて貸した。
「嶺井さん、たまには店に遊びに来て下さいよ」
「嫌だ、お隣さんだよ、見る目つきが変わってくるから」
「案外、真面目なんですね」
「サービスされて、翌朝はどうやって顔を合わせればいいの、店のようにはできないし、かといって、店のことは忘れて、普段通りにもできないし、面倒くさいでしょう」
「仮面ライダーになればいいでしょう、変身前と変身後」
 嶺井は玲奈の言葉に面食らった、人格の二面性、そのようなこと言えるほど賢い子だったのか、ファッションと色気だけの頭の軽い子だとばかりに思っていた、風俗に勤める子はバカ、頭が悪い、そうではなく貞操観念が低いことを気にしている、誰にでも靡く、自分の彼女ではないのだから、そんなことはどうでもいいと、売春、女性の最も古い仕事、いいではないか、体の所有者の判断次第だ、第三者がとやかく言うことではない、今では家庭が貧しいから、仕方なくなったのではなく、自から選んでなった、だからいいのでは、それで本人たちは世間になんと思われようといいと覚悟している、水商売は日の当たる商売か、それは風俗の仕事してない奴の好きに言わせたらいい、それでも風俗を選んだ、職業選択の自由、それに男は風俗に行って、結婚するなら風俗ではない子がいいとか、虫の良すぎる話では、風俗嬢でもいいの、できるなら汚れてない女の子がいい、自分勝手でも一般的にそうなんだ、数が多ければ多い方が善なんだな、頭ではほんとじゃないが、体ではほんと、言い繕って言い繕って、最後にはどっちでもいい、いい加減なんだ、風俗は悪いとは思っているが、現実はたまに行っている、一般性と固有性の違い、これを一つに纏めようとしてはならない、それってなんとも思ってないのとは少し違う。
「でも、見る目が違ってくるからな、君を見るとき、いつも色気を出した君を思い浮かべてしまう、これって男の本性だろう」
「別に気にしないけど、それって私が魅力的という意味でしょう」
『嫌らしい目で見ている、この変態、盛りが付いた犬、発情した猫と一緒、いやそれ以上だ、何を想像しながら、私を見ているのだ、裸だ、それも朝っぱらから、夜だけで十分すぎるのに、他に考えることはないのかよ、風俗を見下すんじゃない、あなたみたいな男が性犯罪を犯さないのは風俗のお陰だ、その罪をお金で帳消しにいているのが私たちなんだ、拝まれても、蔑まれる言われはない』
 嶺井は不意を突かれたように狼狽し、現状を把握しようとしたが、心臓が高鳴るばかりで、「そうですか」と言い、部屋に引っ込んだ。ドアの後ろで、しゃがみ込んで息を整えた。何が起こったのだと思った。確かに玲奈が反論、罵倒していたのだ、だが彼女は言ってない、多分、そんなことがあり得るのか、不可解なことが起こった、一遍に賛成と反対の声が同時に聞こえたのだ、いや反対の声はちょっとずつずれていたか、同時通訳のように、そうだ、玲奈が言ったことが通訳されていた、翻訳されていた、いや、解釈されて聞こえてきた。こんな事があっていいのか、でも空耳ってこともある、気のせいだろう。

 今日は日曜日、嶺井に予定はなくすることはない、無聊である。そこで転がっていたリモコンを何気なくとり、テレビを付けた。
「沖縄県・沖縄ニュースによると、与那町の四十代の男が占い師に告げられた『お告げ』が元で警察に逮捕寸前で逃亡しました。そのお告げとは、『女性の紫の下着を盗んで身に付け宝くじを買えばロト6一等が当たる』というものである。男はこれをまともに受け、下着泥棒を繰り返し、ロト6を買っていた」
『沖縄県・与那町ニュース、与那町の四十代の男が占い師に見て貰ったところ、女性の紫の下着を着け、ロト6を買えば一等が当たると告げられ、下着を盗んでロト6を買い、引き返すところを取り押さえようとしましたが、すんでの所で逃げられた模様です、伝聞では与那町役場MDさんだと言うことです』
 嶺井は驚天動地のニュース、それもテレビから、「町役場で四十代、MD、Dの名前は私だけだ、私しかいない、嶺井大地、私のことだ、私が下着泥棒、紫の下着を着て、ロト6購入、そして逃亡」と報道された嶺井を奈落の底へ突き落とし、顔面蒼白になり、ぶるぶる震えだし、全身を毛布で覆い、真っ白な頭を整理しようとした。
 私が下着泥棒、まったく身に覚えがない、冤罪だ、誰かの策略だ、私を陥れた、もう町を歩けないじゃないか、情けない下着泥棒で、それを着て一等を祈願してロト6を買う、他人事なら全くの笑い話だ、腹を抱えて笑い、ビールで乾杯するところだ。なぜ私が下着泥棒にされる、確かに庭先に干された色取り取りの薄手のパンティに目が行くことはある、だそれを盗もうなどとは露程も思わない、犯罪ですよ、これでも公務員ですよ、警察に捕まるようなことは絶対にしません、あるとすれば軽い交通違反ぐらいだ、セクハラもしたことがない、私は人権には敏感で、考慮する方だ、他の職員よりモラルの意識が高く、道徳を遵守している、紫の下着を着た私が町民に、町役場の職員全員に笑われ、軽蔑されている光景がありありと浮かんできた、とんでもないことが起こった、よく考えてみよう、私は干された女性の下着に目が行くことはある、だから下着泥棒だと決めつけるには無理がある、それなら殆どの男性が下着泥棒だと言うことになり、この世は変質者だらけになる、心で姦淫した者は実際に姦淫した者と同じである、バカな、それは西洋の神様、イエスの戯言だ、好みの女性を見てみだらな想像するのは自然の発露であり、自分の心の内だけに収めるなら疚しいことではない、紫、私の好きな色だ、なぜ知っていた、ロト6、運試しで買うことがあるが、験担ぎはしない、なぜ知っていた、なぜ私が下着泥棒にさせられたのか、どう考えてても思い当たる節がない、私とそっくりな人がもう一人いて、下着泥棒をしてロト6を買っていた。そいつが罪を全て私に被せた。
「先ほどのニュースの訂正です、伝聞の姓名のMDは間違ったイニシャルであり、下着泥棒とはまったく無関係であることが判明しました、関係者の皆様に心よりお詫びいたします」
 嶺井は耳を疑った、ニュースの訂正、誤報でMD、訂正のニュースを聞かなかった人たちはどうなる、名誉毀損だ、慰謝料の請求、抗議の電話だ、しかし、そもそも与那町ニュースなどない、町役場にそんな課はない、だがどうして放映されていたんだ、画面は女性のアナウンサーがニュースを読んだだけ、きっと玲奈の露出の多い姿を見て知らないうちに欲情している自分に気付き、罪の意識で下着泥棒とされた自分のニュースと聞き間違いしてしまった、そうに違いない。

 お昼時になったので、嶺井は着替えて近くの定食屋へ行った。殆どの席が埋まっていたが壁際に一席空いていたのでそこに座り、天ぷら定食を注文した。
『あいつ、あいつだよ、変態だろう、女の下着を着けているんだと』
『ロト6、一等当たるなら、私だって男物のブリーフを着けるわよ。でも当選はしてないわね、ここに食事に来るんだもの、最高金額六億円よ』
『でも、買った下着じゃなくて、泥棒した女性下着だよ、紫の』
『下着の持ち主は確かめるのかしら、だって婆さんの物だったら、気色悪いし、運気も下がるんじゃない』
『俺だったら、持ち主は美人で色気むんむんの女性を選ぶね、熟女ね、どうせリスクを冒すのなら、それぐらいの楽しみは当然だよ』
『ヤバ、あなたその素質があるんじゃないの、ああ、嫌だ嫌だ、鳥肌が立っちゃった』
 嶺井は凍り付いた、周りから聞こえる話し声は彼を嘲笑するものばかりであったからだ。冗談じゃない、あれはデマだ、それを面白可笑しく語るなど人権侵害だ、なんて無知な奴ばかりが与那町民なんだ、前々から思っていたが民度が低い、本を読むなり、新聞を熟読するなり、リテラシーを高めるべきだ、こんな国民なら国が戦争しましょうと旗を振ったら、そうしましょうと尾っぽを振って盲従するだろう、それでいいのか、是々非々は精査と熟考が肝要だ、どのような偏見も先入観も排除しなければならない、マスコミが間違っていると少しは思わないのか、その辺が与那町は田舎者なのだ、すぐ何でもかんでも鵜呑みにして、訳知り顔で語る、それでインテリの積もりだ。
『あそこ、あそこ、下着泥棒、よくのこのこ出られるな』
『恥を知っている奴が下着泥棒はしない、恥知らずだからできるんだ』
 何を偉そうに言っているんだ、謝金してスナックで飲んで、スロットで負けて、首の回らないような奴が何を、学生の頃は不良で建築現場簿の臨時雇いで、聖人君子のようなご託を並べやがって、少しは自分の将来を心配しろよ、老後は生活保護だろう、その面だと貯金はしていない、そのような未来に備える頭はない、バカが偉そうに、能書き垂れるんじゃないよ、自分の老後を心配しろ、その頃には苦労をかけた両親はいないぞ、この馬鹿野郎が。私もバカじゃない、ハイそうですかと頷いているばかりでは見下されるだけで、相手は図に乗るばかり、ガツンとやらないと分からない無神経な奴でその上バカだ、
『台湾』『あいつ』『これ』『それ』『だれ』『赤い』『晴れ』『海』『歩道』
 一斉攻撃をしてきやがった。言ってる奴が誰か特定させないためだ、それと脅すには一対多数で、労使交渉か、定食屋を言葉が回り出して吐き気を催してきたので、目を閉じ拳を握りしめ息を整えた。台湾、若い頃に一度行ったきりだ、遊んだよ、それっきりだ、あいつ、それ、これ、誰、ちゃんと名指ししろよ、物とは違う、人間だぞ、それくらいの礼儀も知らないのか、赤い、酒飲んで顔が赤くなったんだろう、それをどうして非難する口調で言うんだ、晴れ、それでいいじゃないか、海、すぐそこにある、歩道、いつも歩いているよ、お前らと付き合いたくないんだ、私は天ぷら定食が食べたい、それだけだ、私に構うな、暇人が、お前らと付き合うと、忙(せわ)しくなって考える時間が、一人の時間がなくなる、それに気が滅入る、付きまとうな、迷惑だ。
 食事はしたが、何を食べたかは記憶になく、野卑な連中の笑い声が店を出る嶺井を追い掛けてきた。

 公民館の五時の「七つの子」が流れて間もなく、ジャージにTシャツの玲奈が新しいマヨネーズを嶺井に持ってきた。
「新しい物でなくても良かったのに」嶺井は車を借りてガソリンを満タンにして返す事と同じだろうかと考えたが、とにかく義理堅い子だと言うことで、玲奈の評価は高くなった。
全部使ったんで、仕方なく新しいのを持って来ただけ、五日が経っている、すぐ持ってくるのが常識か、翌日が妥当だろう、私が必要なときはどうする、持ってきただけでも有り難いことか、そうだ返してくれると思っていたか、それは半信半疑だった、いや呉れてやるつもりだった、半分は使っていたから、いや、取りに行く積もりだったが、マヨネーズを返してと言うのも沽券に関わるようで気が引けた、五百円もしない、半分だけだから二百五十円、二百五十円を返してくれとは言いにくい、相手が言い出すのを待つしかない、そんな感じだった。
「全部、使っちゃったから」
「そうですか、でも何だか悪いね」
 人のを借りて、全部使うか、相手のことは考えないのか、相手が使いたかったらどうするんだ、私が使っていますから待ってください、勝手な言い草だ、実に厚かましい、そんなに細かいことまで気にするか、しているじゃないか、例えばの話だろう、持ってこなかったら、怒るだろうけど本人には言わないね、半分残ったマヨネーズを返せ、そんなこと絶対に言えない、自分で買って使った方が気が清清する、やはり、持ってこなかったら、日が経つにつれて腹が立ってきただろう、僅かばかりだから、返さなくていいという魂胆が気にくわない、返すべきは多少に関わらず返すべきだ、それが道理だ、だが道理だからと言って、マヨネーズ半分返してくれと言えるか、とてもじゃないが言えない、そこの所が実に悩ましい、だが妙にそのことが気にかかり苛々してくる、その素振りは見せない、きっと男の面子、甲斐性、どちらだか分からないが、そのようなものが纏わり付いて、身動きできなくなる、男らしく、実際に男らしいか疑問だが、借りたマヨネーズを、使ったらすぐ返すのが礼儀だろうが、そんなことはどうでもいいんだ、彼女がマヨネーズを返した、それで一件落着でしょう、文句を言ったらきりがないが、文句の一つも言いたい、なぜこうも拘るのか皆目見当が付かない、考えたら切りがない、底が見えない、まどろっこしい、止めた、それ以上追っかけたらバカになる。
「今日、お店も休みで、私の部屋でお酒でも飲みます」玲奈は屈託のない笑顔で言った。
 私を誘っている、単に酒だけか、それ以上のことか、若さを持て余している、誘惑、二十代の女子から、年の差大体二十、微妙な差だな、親だと若すぎるか、考えすぎだ、万が一っていうこともあるからな、避妊用具は数年経っているが箱に入ったままだから、使えるはずだ、一応空けて膨らまして検査して、ポケットに二つ、三つ入れとけ、それ以上は体力の限界だ、いやもう一つ、箱から全部出してポケットに入れよう、避妊具は最重要だ、妊娠でもしたら、結婚、父親になる、最悪の事態をシミュレーションする、百戦百勝危うからず、準備段階で悩むのは失敗の元だ、鼓動が激しくなってきた、静かにひっそり気付かれないように息を整える、鼻息が荒くなっては元も子もなくなる、下心を見破られて追い出されてしまう、いや下心を見せた方が相手も安心して迫ってこれるのでは、下心、数年振りに蘇った溌剌青春。
「いいですね、お酒、ジョニーウォーカーの赤取ってきます」嶺井は部屋に戻ると甲虫清涼剤を噛み、引き出しの底からコンドームの箱を出し、検査して異常なく、全部ポケットに詰めて、ジョニーウォーカーの赤を手に取り外へ出た。
 玲奈の部屋奥の壁側にシングルベッドが置かれ、居間には小さなテーブルがあり、氷と水とグラスを持ってきた。
「とにかく、乾杯」玲奈が笑った。
 いざ二人で飲むとなると、話すことがない、世間話と言っても、二人とも世間との付き合いは少なく、これと言うこともなく酒が進んだ。
 嶺井は玲奈の胸を見ては俯き、ちらりと見ては俯き、溜息を吐いた。若さとは掛け替えのないものだ、それだけで肉体が充溢している、頭から足下までそれとなく見た、女性の体に触れたのは何年前だろうかと年月と年齢を感じ、深い溜息を吐いた。
「嶺井さん、なんで結婚しないんですか、離婚有りですか」
「離婚なし、縁がなかった」嶺井は縁とはずいぶん古びた言い方だと肩を落とした、チャンス、出逢い、縁談どれも古い感じがする、スマホ使えないのでPCの出会い系サイトでアタックしたけど全部ダメ、男女の出逢いか、難しい、こうして飲んでいるのも正(まさ)しく男女の出逢いだが、それ以上になる切っ掛けが欲しい、向かい合って坐ったのが悪かった、横に坐るべきだった、全然酔わずに鼓動だけが激しい、こんなに苦しい酒も初めてだった。
「案外、真面目なのね、それとも若い頃、遊びすぎたの」
「中途半端だ、遊びも勉強もそこそこ、そこそこに大学を出て、そこそこに町役場に入った、そこそこの現在がある」、ベストな選択だったと思っているだろう、頭がいいわけではない、何かの資格を持っているわけでもない、ビジネスでリッチになるという気概もない、無い無い尽くしの私にぴたっと填まったのが町役場の職員だった、夢はなかった、挫折もなかった、いい人生だったのだ、恵まれていた人生だ、それを上から目線でそこそこだったとどの口で言えるんだ。
「最高、それが一番、無理しない方がいい、無い物ねだりは子供のすることよ」
 最悪、努力をしない人生、少しは無理をしろ、欲しいものがあるから金を稼ぐ励みになるんだろう、確かにもっと頑張れば人生が変わったかもしれない事はあった、もっと勉強すればいい大学に行けた、現実はしなかった、ほどほどに、いつから染まってしまった思考回路なのだろうか、冷めた目、いつから自分を見下す視線になったのか、それは自分ながら悲しいとは思わず、ほどほどにの魔法の言葉でさっと片付け忘れてしまう、後悔、先に立たず、そのようなことをするのは時間の無駄、嘆き悲しむのに何のメリットがある。
「声」だ、あの声だ、ゼッケン着けたスーツの男の声だ、いや似たような声だ、いや含意の声、「声」としか言い様がない、あの声、心のどこかから、いや空気の裂け目から漏れてくる声だ、いつからか憑いて回るようになった「声」、玲奈のもう一つの声、声の持ち主の別人格が発する声、そのようなことがあり得るのか、ないないないはずだ、だが声が聞こえる、どうして、疲れているのだろうか、そんなはずはない、疲れが残るほどに労働はしない、私の黄金律だ。それにしてもふくよかな体だ、むちっとしている、そそるような脂肪の反発力、すると、淫乱だ、肉欲だけで女を見る、繁殖は望まない、色情狂か。
「そうだ、そうだ、ご尤もだ」そうは言ったものの、嶺井の心は沈んでいたが、それに反発するかのように酒を飲んだ、すると益々玲奈が色気づき妖艶な姿態が迫ってきて、これはいけないと目を閉じ首を二度三度と横に振った。結婚しないとセックスしては駄目、そんなことあるか、性欲のためにセックスをする、それだどちらもフィフティだ、だが覆い被さるのは男だ、だができない、拒否された翌日から、どの面下げて玲奈に会えばいい、いつまでも避けられるものではない、あの時はごめん、ついつい欲望に負けて、勘弁してよね、許して、そのような軽い乗りで話せいない自分が恨めしい、やっぱりここは我慢だ、我慢。
「嶺井さん、公務員で、悠々自適に生きているんだ、羨ましい」
『風俗でもこちらは全力投球で働いても、歩合制だから収入は不安定、お得意さんをゲットするために無い知恵を絞る、でも効果はなし、きつい仕事をこちらはしているのに、そこそこで生きて行けるんだ、前世が良かったのか、でもそんな徳のある顔には見えないな、マジかよ、そこそこで収入安定、運だけがいい奴、それなのに幸せにお暮らしですか、いい気なもんだ、罰が当たって車にでも撥ねられればいいのに』
 声だ、声が邪魔をする、真実の声、そんなことはない、だが完全に否定できない嶺井がいた、どちらを取るか、でも応対は相手の声に対応しなければならない、それぐらいは推し量れるが声は聞こえ続ける。
「そうだな、刺激はないけどね、のんびりと生きる、金持ちにはなれないけど、それだけが救いだね」
 何を慌てている、何でもない声なら無視すればいい、刺激が欲しい、金持ちになりたい、だけどなれない、だから最初からなる気はなかったと嘯く、負け惜しみが強く、諦めが悪く、いつまでも心のどこかで不満を零している、この世に不満だらけの人間だが、興味のない振りをしている、なにがそこそこに、ほどほどにだ、結局、実力がお前にはなかった、根性がなかった、世の中で成功する全ての資質が欠落していた、ほどほどにか、よく言えるものだ、虚しくはならないか、ならないとしたら、ほんとのペテン師だ、完全に自分を騙している、それが証拠だ。
 嶺井は酔いが回り、しゃべり出したが何を言っているのか分からなかった、そして不覚にも眠りに落ち込んでしまった。目覚めた頃に明け方で玲奈のリビングで毛布を掛けられて眠っていることに気付き、はっと立ち上がり横を向くと、ベッドで玲奈が熟睡していた。昨晩、襲わなかったことを後悔した、玲奈は美しかった、少し手荒くしても合意の上だと判断される、これは週刊誌の悪影響だと笑い、嶺井は部屋に戻り、出勤の支度をすることにした、性的対象の欲望は恋愛、詰まり玲奈に恋をしていると言うのか。

「すぐやる課」は住民課総人数十二人に間借りするわずか二名の課である。嶺井はデスクに坐り、町民からの苦情を待っていた。
『紫の下着は効果がなかったようね、貧相な顔しているもの、ロトが当たっていたら恵比寿顔、それに役場なんて辞めるわよ、それとも札束を夜な夜な出しては眺めて見とれてよだれを垂らしているのかしら』
 ロトだとたまにしか買わないよ、それに紫の下着泥棒は私とまったく無関係だ、あのテレビ放送の影響だ、人の秘密を嗅ぎ付けたと思い、ほくそ笑む、卑しい品性の持ち主たちだ、無視無視、バカどもは無視するに限る、くずが。
『嶺井さん、昨晩、女の部屋に期待して行ったらしいけど、物にはできず、がんがん飲んで、眠り込んだって』
『ああ、見えて、いざという時に度胸はないのよ、押し倒さなければ駄目なのよ、だって女性は欲しくて堪りませんと言えないでしょう、それを察してやる、それが男よ』
『それからさ、コンドームを一箱分ポケットの入れ込んだらしいわよ、でも一つも使わず、捕らぬ狸の皮算用、嶺井さんて楽天家だったのね、世の中、町役場のように甘くはありませんから、みっともないわよね、性欲丸出し、ああ、恥ずかしい、恥ずかしい』
 どうして昨夜のことまで知っている、見張られてる、小さな監視カメラや盗聴器が仕掛けられている、私のプライバシーは筒抜けで、裏サイトで密かに流されている、それに蟻のように集っているのが町役場職員であり、与那町民だ、低劣な趣味だ、昨日、玲奈を無理矢理にやっていれば、強姦魔にされるところだった、酒で酔わせ昏睡させてやっていたら、卑劣な男と唾棄されるところであった、あいつらは覗き魔だ、それが楽しみなのだ、しかし、なぜ私の所に覗きの誘いが来ない、一万四千人町民の中から私が一人だけ選ばれた、なぜだ、ランダムに選んだが偶然に私が選ばれた、一万四千分の一、ロト6の六百十万分の一の当選確率に比べれば無理な数字ではない、どういうつもりでそんなことをする、楽しいから、それならば、なぜなら名もない普通の人間を選んだことだ、不通なら有名人か、前科者か、変態を選ぶだろう、その方が刺激があるし、わくわくする、否(いや)、普通の人間が大勢いるから。
『もう無理、紫の下着がちらついて、目を合わせられないわよ、私を見ても下着を想像しているのよ、これからは視線に注意しよう、セクハラで首にできないの』
『セクハラ、痴漢の、変態の証拠が、現場でなかなか押さえられないからな、ひっそりと行うからな、抜き足差し足忍び足だ、忍者なんだよ、怖いぞ、風呂入ったら、窓は開けるな、覗いているぞ』
 一斉に嶺井の耳に自分の噂が蔑みが飛び込んできて、気が動転した、もうひたすら固まり続けて聞き流すしかなかった。隣の女性の部屋に行ったことがそんなに足蹴に言われるほどのものか、私以外は皆聖人君子とでも言うのか、人を批判するときは善人になる、食わせ物だ、それが世間だ、確かにそうだ、弱みを握られた私が悪い、そこにつけ込み徹底的に笑いものにする、だが昨日まで全員談笑
したではないか、それが人が変わったように一変し、ひそひそと私にだけ聞こえるように陰口を言い始めた、私に友人は一人もいなかった、そういうことか。
「嶺井さん、パトロールに行きましょう、犬や猫が轢かれてなければいいんですがね」喜屋武が笑いながら言った。
 こいつ、昨夜の私を、紫の下着の件で笑っているのか、気にしないことだ、何を笑ってると突っかかれば、笑って何が悪いんですと、変ですよ、嶺井さんと返されたら、逆に役場で益々肩身の狭い思いをすることになる、ここは穏便に行くべきだ。
「よし、行こう」
 二人きりの状態になると、嶺井に緊張も和らいだが、喜屋武が何を言うのかと不安もあった、心が安まらない、どうすればいいのか、解決の糸口さえ見つからない。
『水商売の女の子と二人きりになったのになぜ最後まで行かなかったんですか、弱腰ですよ、強気、強気で行かないと行けないんですよ、女は待っているんです、自分から行くと尻の軽い女だと思われるから、狡いんですよ、それをインプットしておかないと、いつまでも女を物にすることはできませんよ、遠慮のしすぎと考えすぎ、こんなのはやりたいからやる、欲望の赴くままにですよ、相手だってそう期待しています、そうでなければ、一人暮らしの女性が男性と酒を飲むはずがありませんよ、それに風俗で働いているんでしょう、男が酒を飲めばむらむらくるのを百も承知ですよ、誘われたのに、お行儀良くしてしまったんですよ、肉を見た犬のように、がぶり付くのが正解だったんですよ、食べてしまったら良かったんです、諺にもあるでしょ、出された料理は喰わなければならないと、善し悪しなどどうでもいい、喰うそれが礼儀です』
 空間が喜屋武の表情が声がぐにゃりとなった、嶺井は異様で異風な状況に立ち入ってしまったのだと気付いた。
『女なんて、人類の半分もいるんです、そんなに気を遣うものじゃありませんよ、ダメ元で試せばいいんです、失敗したら、別な女を探せばいいんです、きっと最後まで言っていたら、二人とも笑ってより親密になっていたでしょう、でも一度やってしまうと、もう結婚する気で凭れかかる女もいるので、それは面倒ですよ、喚いて泣いて暴れる、それを繰り返しやっとの事で別れるんです、それでも女にうんざりになると言うことはない、性欲は強烈ですよ、人格なんて関係ない、上半身は部外者で、下半身の問題です、それでも女はいいものですよ、ほんとに女がこの世にいてよかったと、つくづく思います、そうでなければ、嫌な仕事に、退屈な日常に耐えられません、これを思うと神様に感謝したくなりますよ』
 昨晩のことを知っていて話している、君は男女関係の評論家か、もし強制的に実行していたら、彼女が笑って私を迎えるか、それは一か八かじゃないのか、相手に嫌われ、どう思われてもいいという肉欲だけの行動ではないか、好きだから嫌われたくない、当然だろう、どうでもいい子なら肉欲は湧いてこない、思いを達すれば、相手はどうでもいい、そんな身勝手なことができると思うか、好きな女性だから、痺れるような燃えるような交わりが可能になるんだ、それを喜屋武は知らない、こいつは甘い顔をして、とんでもない男尊女卑の男だ、人は見かけによらない、よくよく話し合ってみないと本性までは分からないものだ、しかし、なぜ私のプライバシーを公然のように語って話しても、喜屋武が違和感を持たないのか、いつもの彼なら他人のプライバシーに立ち入る面倒なことはしないし、繊細さも持ち合わせている、それが人の心に土足で踏み込む真似をするか、何が起こったのだ、町役場、与那町、世の中も、よく言い表せないが、何かが変わった、変なのだ、それに奇妙な感覚が消えない、いつ頃から始まったのだろうか、それも分からない、喜屋武は他人に興味など持たない我が道を行く楽しむタイプだ、それがべらべら私の女性問題につい て語っている、それも可笑しい、彼は知識を見せびらかすような奴ではない、バカな振りをして相手に洗い浚い話させて観察して喜ぶタイプだ、とにかく世事に長け、ことに仕事場で揉めるようなことはしない、それが喜屋武が仕事はできなくとも皆から愛されている理由だ、それを誰よりも彼自身が知っている、そんな彼が私の癇(かん)に障(さわ)ることを話し続けるわけがないのだ、ならどうして皆が私を罵る、下着事件、昨夜の酒盛り、これは虐めだ、元はと言えば下着事件の濡れ衣で始まり、私の言動の一つ一つが悪く解釈されてこの世の中に思わぬほどの早さで拡散している、そうだ全ての原因は下着泥棒の放送によるものだ、間違いの報道に人生を翻弄される、まるでテレビのドラマのようだ、それが都会ではなく田舎の与那町で起こった、町民の一人の言いがかりなら目と向かって否定もできる、それに一人なら信憑性も小さい、だが公の放送局のニュースならこちらは勝ち目がない、何しろ公、警察の発表が元だ、それを嘘だという人間が怪しまれる、それが当然だ、私でさえ信じて疑わないだろう、皆が変わってしまった、それとも私が……、私が変わる、こうして皆の誹謗を受けて苦しんでいる私が変わっている、それなら自分の考えに迷うはずがないはずだ、否、そうとも限らない、正常と異常の狭間にいる、バカらしい、彼らが私を罵倒し始めた、あの間違った放送のせいだ、
「君の女性観は分かったよ」嶺井は言った。
「今、何て言いました、女性観、何の話をしているんですか」喜屋武が笑った。
 あくまで白(しら)を切る気だ、私の耳に聞こえているのに言わなかったと言うのか、どんなバカが聞こえてきたのをそうですねと納得するんだ、耳は悪くない、それとも君は私を虚(こ)仮(け)にしているのか、いつから見え見えの嘘を吐くようになったんだ、しかし喜屋武は仕事はできないが、人はいい、今まで彼が他人の悪口を言うのを聞いたことがない、そんな奴がずけずけと本人の前で嫌みを言うか、それも仕事のパートナーだぞ、ぎくしゃくした関係で仕事ができるか、なら聞こえてくる声は誰のだ、腹話術でもやっているのか、確かにハンドルを握り口は動かしてなかった、腹話術、バカげている、そんな声じゃない完全に他人の声だ、外部から聞こえてくるからだ、車には喜屋武と私、それなら彼が喋っていると考えるのが辻褄が合う。思い出したぞ、スーツのゼッケン男が現れ時から、世の中がおかしくなった、風紀紊乱によりとえいか言わない国家安全と平和の会より在宅起訴されましたとか言っていた、だが顔は思い出せない、不通の銀行員か公務員顔というだけで特徴はなかった、だから思い出せない、ゼッケンには「人間を返せ」と書かれていた、死んだ人間を蘇らせろとのシュプレヒコールか、間が抜けているんだ、そんな社会批判があるか、無論、これが私に対するものなら尚更意味不明になり、闇の中だ、何も見えない、あれ以来なぜか「ほんと」と言う言葉に纏わり付かれたがこれも無事克服し、その言葉を使わなくなった、よく考えると「ほんと」をつけると今まで自明だったのが、疑わしく、嘘っぽく、ペテン師か、新興宗教の勧誘者の使用する言葉となってしまう、胡散臭い言葉だ、それを反省したのだから罪はないだろう、罪、そんなに重い言葉ではなく、道徳的なn問題で、罰せれる法律的な問題ではない、「ほんとに」、これ以上何を探せというのだ、告白することもない、この言葉は一度使い出すとウイルスのように言葉に感染する、「ほんとうの私」そんなものあるか、青い鳥はどこにいた、結局は自分の家、自分を捜し求めて考え続け、辿り着くのは今の私が本当の私だ、結局は回り回って自分に戻ってくる、奇妙な言葉だ。忌避すべき言葉に筆頭だ、これも差別用語と呼べるのか、悩ましいことだ。
「悪かった、忘れてくれ」
「疲れているんじゃないですか」
 皮肉か、わたしはほどほどにだ、疲れるほど仕事はしない、疲れるほど遊びもしない、それを知っての上の言い草、いつから皮肉屋になったのだ、頭に来る。

 仕事が終わり、アパートに戻ると、テレビを付けニュース番組にセットした。火事の現場の映像が流れていたが音声は違っていた。
「また下着泥棒が多発しているようです、紫の女性用の下着が取られているとのことで、以前容疑者として浮かび上がった人物を参考人として事情聴取したようです、限りなく黒に近いグレーと言えるでしょう、地元住民の間からは事件を起こす前にどうにかして欲しいとの要望が相次いでいます」
 嘘だろう、音声は私への言いがかりだ、なぜそこまでして私を追い詰める、何が目的だ、金を要求されるほどの大金はない、資産家でもない、町役場職員だ、安月給だと知っている、世の中のが狂い始めた、言論統制が敷かれている、社会を丸ごと利用して私を抹殺しようと企んでいる、きっと第三次世界大戦のような惨劇が幕を開けようとしているのだ、そうでなければごく普通の一般市民をターゲットにするはずがない、しかし、私はいつどのようにして虎の尾を踏んだのだ、もしかして、お隣さんの玲奈が総理大臣か閣僚の娘、それとも広域暴力団の会長の娘、大物の娘、それなら家に連れて帰るだろう、それに風俗で働くことを許すはずがない、喜屋武だって玲奈の店で遊んだと言っていた、実際、店で働いている、それならゴシップ誌にスクープされているはずだ、こんなにおいしい獲物をハイエナどもが見逃すはずがない、訛りも地元丸出しだ、原因はどこだ。
「皆さん、危険人物はコミュニティの力で排除していきましょう、いつ誰が襲われるか分からないのです、最初は下着泥棒ですが、犯行はどんどんエスカレートしストーカー殺人にまで及ぶことがあります、皆さんの周りへの注意深い目配りが必要です。よく観察すれば、異常者は尻尾を出すものです、できれば現場を見つからないようにスマホで撮影して、それを証拠として警察に提出しましょう、皆さん、痴漢は子供や女性の敵です、軽微だからといってけして許してはなりません、すぐ一一〇番してください、痴漢は許してはならない犯罪です」
 車の急停車の音がけたたましく聞こえた。
「こら、出て来い、男らしくないぞ、嶺井、何を家に籠もっているんだ、薄気味悪いんだよ、何を考えている、ロト6の当たり籤でも隠しているのか、紫の下着は着けてるか、次はどこの誰の下着を狙う、近場ではなく、隣町まで遠征する気か、獲物は何着ぐらいだ、聞かせてくれよ、当たりは付けているのか、お前の好みの女の物だよな、そうでなきゃ、吐いててぐっとこないからな、それでこそ運気もぐっと上がるってなもんだ」
 ドアをどんどん叩く音がして、「ヘンタイ」と子供たちが逃げていく足音が響く、それが三度ぐらい続き、我慢ができずドアを開けると人影は全くなく異様に静かだった、ドアを閉めると壁から声が漏れてきた、蛇口からも、天井からも、蛍光灯の光からも這い出てきた、部屋中が蔑みや嘲笑の気層となって部屋がゼリー状になり左右に揺れ始めた。嶺井はテーブルの前で正座した、そうせざるえない雰囲気に圧倒されてのことだった、だが何がどうなっているのか、まったく状況が掴めない、五里霧中をさ迷っている、誰もいない、それが全て、そこに湧きだしてくるのは文字の映像なのか声なのか判別が付かない、ここにいれば、他人に馬鹿にされることもない、少なくとも私だけ、人間が一人、何を待っているのだろうかと考える、最後の審判が開かれる、私は天国行きか、地獄行きか、しかし私はクリスチャンではない、仏教信者でもない、無宗教だ、地獄も天国もない、わざわざ何で自分を宗教で縛るんだ、そんなに自由が嫌か、そいつらはバカだ、封建時代にでも生まれれば良かったんだ。
「嶺井さん、嶺井さん、いますか、ドアを開けて下さい、国家安全と平和の会の者です」
 嶺井は坐ったまま返答した、「お前に用はない、帰れ」
「ドアを開けてください、お願いしますこれも私の仕事なんです」ゼッケンの男はドアを激しく叩いた。
「五月蠅い」嶺井はノブを握ったままドアを開けて驚いた、誰もいないが声だけは聞こえた。
「まったく反省していないようですね」
「スーツにゼッケンの男だ、お前だな、ありもしない下着泥棒をでっち上げて濡れ衣を着せたのは」
「在宅起訴の理由を本当に気付いてないようですね、可哀相に」
「何、その件で私がどんなに世間から白い目で見られ、蔑まれているのか、お前は分かっているのか」
「そんなものはあなたの空想です、紫の女性下着にロト6、皆が良く思いつくことです、気にしなければすぐ消えますよ、あなたも薄々気付いているでしょう、本当の理由は別にあると。変態なんて、軽犯罪でしょう、そんなものを一々議題に挙げますか、警察に任せればいい、それも大事な彼らの仕事です」
「何、変態で捕まえられると汚名は一生消えないぞ」
「あなたはほんとに下着を盗んだのですか」
「盗んではない」
「なら、気にしないことです、あなただけが気にして、世間が騒いでいるように勘違いしているだけです、よく考えて下さい、本当に下着を盗んだなら、警察に逮捕されます、それがまだされてない、無罪だと言うことです、私は世間がそんなにあなたのことを気にするか疑問に思っていますけど、あなたはタレントでもなく、国会議員でもなく、県会議員でもなく、官僚でもなく、県庁職員でもなく、末端の末端、ただの役場職員です、それを世間が騒ぎ立てますか、自分を買い被りすぎますよ」
「では、なぜあなたは私を訪ねてきたんですか」
「人生罪、不真面目罪、不遜罪」
「聞き慣れない、犯罪ですね、ここでは近所に変に思われますので中にお入り下さい』
 声だけだが嶺井はまるでゼッケンの男が存在するかのように不通に部屋へ招き入れドアを閉めた。
「私が聞こえるものが妄想ですって。よく言えますね、私は睡眠時以外は聞こえてくるのですよ、他人がこれ見よがしに罵る声が、そのお陰でずっと憂鬱で凹んでいます、苦しいですよ、あなたも経験すればすぐに分かると思いますよ、世界が全部的になるんですから」
「嶺井さん、あなたの空想です、それはあなたの真実から離れていくばかり、だから私はこうして来たのです、私にとって紫の女性下着もロト6も趣味の問題しかありません、露見すれば警察で事情聴取され、釈放され、再犯すれば刑務所に収監されようが、それは解決済みで、落着し文句も言いませんし、興味もありません、日常茶飯事です、食事をすることと変わりません、当たり前すぎるのです。本当に自分の罪にお気づきありませんか」
「下着泥棒の無実の件を除けば、まったく思い当たる節はありません、仕事も休みませんし、税金も納めています、よき町民だと思いますよ」
「嶺井さん、表面上は実に立派で、可もなく不可もなく良き町民です、欲もなく、パチンコもしない、たまに買うのがロト6千円分、老後の預金も毎月蓄えています。そのような非の打ち所のない人生設計で、何故、根も葉もない噂に狼狽えるのか、聞き流せばいいことです」
「そう言いますけどね、この耳にはっきりと聞こえるのですから、いい気はしません、赤の他人からも言われるんですよ、正確に言うと聞こえるんです、だから私も黙って耐えているし、暴力も振るってきませんから黙っていますよ、警察にも訴えられもしませんし」
「あなたは逃げているんですよ」
「藪から棒に何を言うんですか、あなたは私のカウンセラーですか、私の何を知っていると言うんですか」
「知りませんか、人生からです」
「何を言い出すのかと思ったら、人生ですか、どうしてですか、ニートでも浮浪者でもありません、大学を卒業してから転職もせずずっと町役場の職員で、税金も納めています、言いがかりは止して下さい」
「何事も一所懸命にはしない、仕事もほどほどに、遊びもほどほどに、結婚もしない、配偶者がいるとほどほどにができない、子供がいれば何かと金が必要となる、時間も割かれる、ほどほどにができない、絵に描いたような無事息災、これで人間として生まれてきた価値がありますか。創業者を夢見て破れた浮浪者、ヤクザになって組長を目指したが、結局は刑務所入る羽目になったヤクザ、道は違えど、やる気があった、それが世の中を社会を前進させるのです、所があなたと来たら、無気力、何をしても中途半端の可もなく不可もなく、まさに人生を停滞させ、世の中を停滞させる重罪です、あなたのような人間が社会の成熟期に現れる悪性ウィルスです、早いこと処置しないと、病気が蔓延してしまい、社会が動かなくなり、機能を停止し、住民は疲れ果て、そして無気力になり、全てが死にゆくだけの者となります、ほどほどに、希望も夢も見られない世界、それをあなたは今作っているのです、大罪です、昔はそれを封建時代ではそれを施政者がやったものです、『生かさず、殺さず』、今は市民から出てきているのです『生きず、死なず、長寿』、社会の宿痾になっているのです、その自覚さえもないあなたは今最悪の状況にいるのです」
 まさに嶺井は虚を突かれた、今まで一度も疑ったことのない自分の人生の処し方を一斉に一切を否定され、狼狽えて自分の一生を振り返っていた。
 目立つことを幼い時から嫌った、特に評判になる、人気者になるのが嫌だった、まあまあでいい、それが緊張しなくて済む方法だった、カメレオン、周囲に合わせて自分の色を変えて周りに溶け込んで目立たない、それこそが嶺井の棲息する場所だった、感激も落胆もない平穏な日々、それこそ、彼が望み続けたものであった、その牙城をゼッケンの見知らぬ男がハンマーで叩き割っている、彼の立っている場所がどんどん揺れて危うくなっていく、彼の心が震え身も震え真っ青になった。
 ほどほどに、それこそ過不足なく暮らす幸せの鉄則だ、その幸せを享受してどこが悪い、だがこの男の言うように、何かにひたすら打ち込んだこともなく、夢中になったこともない、それが幸せであり、世の中に貢献する、世の中を底辺で動かしてゆくと言うことか、ならば私はそのために指一本動かしたことはない、上を望まず、下を望まず、それは私の人生そのものだ、褒められることもなく、蔑まれることもない、だが間違っていた、』確かに喜怒哀楽もなかった、それなりの自分を忘れない程度のものだ。すると何かが唐突にに込み上げてきた。私は人生を捨てていた、無難に生きる、それだけ、何の気概もない、つるりとしたのっぺらぼうの人生、嶺井の目に涙が溢れ出した、それは嶺井が初めて流した熱い後悔の涙であった。

 三日も無断欠勤している嶺井を、喜屋武が安否を気遣ってアパートに遣ってきた。声をかけるが出る気配はなく、そっとノブに手を当て押すとすっと開いた。薄暗い部屋でテーブルの前で話している嶺井が見えた、だが相手がいないのだ。その異様さに喜屋武は身が震えだし、嶺井さん大丈夫ですかと、大きな声で話しかけた。
「喜屋武、失礼だぞ、国家安全と平和の会が見えてるんだぞ、少しは気を遣え、喜屋武、私は間違っていたんだ、完全に間違っていたんだ今まで無意味に過ごしてきていたんだ、猛省して遣りなおす、やり直させて下さい」嶺井は嗚咽した。
 それに気が動転し立ち尽くしていた喜屋武は携帯を取りだし一一九番に電話し、一人で喋っている嶺井を眺めた。

訪問者《カフカ「審判」に刺激されて》

世の中の奇妙な出来事が、個人を犯し、狂気へと向かわせる、あなたの隣人の物語

訪問者《カフカ「審判」に刺激されて》

「人間を返せ」、どこからともなく現れた奇妙な男の着けたゼッケンに書かれた言葉の意味とは何か、それが主人公を狂気へと向かわせる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-20

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