同人坩堝撫子 01 陰花寺異聞
一
梅雨初めの煙るが如き雨をやり過ごさんと百段余りの石段を駆け登りつ。息上がり冷たき雨に感じ入る暇なし。覚えず寄り掛かりたる山門のじくじくに滑鯨の五つ、六など這いずる心地し、「不吉」の念にわかに沸き立ちけり。見れば、眼前に無粋なる貼り紙墨痕鮮やかなる達筆にて曰く「当寺拝観一切禁」と。(中略)
あちらが紫陽花寺なればこちらは萼紫陽花と植えも植えたり二万有余株。八重の花弁を持てぬ萼紫陽花のぬれそぼる風情そこはかなし。陰花の契り結びたる者の密詣次第に増え通名「陰花寺」と称す。ついに第7代住職「陰花萼世恩菩薩」なる秘仏建立せしと聞こえたり。霊験新たかなる秘仏御開帳の奇祭は60年に一度とかや。されどこれなる奇祭を見し者古今一人だに無しと。(後略) (全国宗門訪帳より「萼紫陽花寺」 一部抜粋)
ニ
雨宿りの山門で、雨垂れに向かって左右の拳を内角に抉るように打つべし、打つべしと気合の入った女導師と軒先の縁を結んだ。
「どこからですか?」
「各務原。よくカクムハラって読まれるけどじつはカガミハラなんだっていうとわりと驚かれる難解地名本州編ベスト20には必ず入ってる、あの各務原なんだけど、ご存じ?」
「なるほど。そんなに遠いところじゃありませんね。僕は三方原ですから」
「残念。関ケ原じゃないんだ。やっぱり何とかケ原なら関ケ原よね。メジャーだもの」
僕は決して歴史が好きな方ではなく、だから、歴史探訪らしい彼女の話し相手としては不足なのが申し訳ないと思いつつ、そのことをいつ告白しようか、それとも適当に話しを合わせていけるところまで行ってしまったほうがいいだろうかなどと思案していた。雨はそのどちらとも決めかねる程度に降り続いている。
「何かの研究ですか?」
「そう見える? まあ、似たようなものかしら。不真面目なんだけど、欲望の赴くままにってところ。あなたは? こんな里山にぶらりと一人旅っていう風情だけど、ディスカバージャパン派? それともチャレンジ2万キロ系かな?」
彼女は僕より年上だろうか、今度はそんなことが気になりはじめた。人見知りしないさっぱりした物言いは、雨宿りの友としては申し分がない。もちろん、雨を抜きにした友としてだって、文句があるはずはない。
「懐かしいですね。でもディスカバージャパンは、経験してないんです。チャレンジ2万キロの頃は小学生でした。でもどちらかというと僕は切手少年でしたから」
彼女はちょっと半身になる。青きベレーに黒髪余る、なんて句が唐突に浮かんでくる。長い睫毛が微かに震えるところは、その下の大きな瞳がついに決壊間近か!? と危惧されたりもする。見た目には16歳から35歳までのどれにでも当てはまりそうな面立ちだ。もちろん、肌目の細かさを天眼鏡で観察すれば角質年齢から本性が知れるというものだろうが、こうして知り合えた偶然の、重箱の隅をつついて蛇を出すこともないだろうと、そのあたりは俄然、草枕的な心境になってくる。
「だからですね、僕がいましていることは時代の懐かしさに根ざしているということではなくて、どちらかというと個人的な懐かしさに根ざしているというような感覚で…」
僕が照れて語尾を濁すと、彼女はぱっと顔を上げた。肩を少し下るくらいの長さでたゆとうていた髪が一斉に跳ね、雨の匂いにシャンプーの香が混じる。そして低い位置から右のアッパーカットが見事に決まり、雨垂れが弾けて彼女の顔に飛沫がかかる。剥き卵を逆さにしたような輪郭と肌つやが、分厚い雲の隙間から漏れ出る初夏の日差しを集めて輝きを増した。三十代では無いなと、直観する。となると年下だ。彼女は軽やかに足を使いはじめた。
「それじゃ、何? もしかして、傷心旅行? 傷心旅行なんて久しぶりに聞いたわ。でも嬉しくなっちゃうな。同道二人ってわけだ。この陰花寺が懸想黄泉路第二六番札所と、知ってる人が他にもいたなんて、よくやったっ。感動したっ」
細身の体に白のトレーナーをブカブカと着て、スリムジーンズにオレンジ色のスニーカーを履いた彼女は、先程から片時も休まずに1・2・1・2と、雨垂れを速いジャブで的確にヒットしていたのだが、その勢いのまま、すっと体をこちらむきにしたかと思う間もなく、舞うようなフットワークでたちまち間合いを詰めて来て、ニヤニヤとわらいながら、私にボディブローを何発も入れてきた。親愛の情なのだろう。なのだろうが一発一発が相応重い。私はたまらず体を曲げてガードを固める。
「目はまだ死んでないな。傷心なんていって、まだ未練たらたらなんでしょう」
頭が下がったところで、彼女は左右のフックを織りまぜ始めた。上下を打ち分ける彼女のテクニックになんとか対応しながらも、私は「このままでは、やられる」と本能的に悟っていた。なんとか、ペースを取り戻さなければジリ貧だ。
「会うが別れの初めなら、別れは愛の初めじゃないですか。偶然偶然。君がいまここにいるってことが、君にとっての必然なのだとしても、僕がここにいるのは全くの偶然だった。陰花寺懸想黄泉路第二六番札所か何か知りませんけど、ここで君と会うために、僕はここに導かれてきたのだとしたら、この先、君と僕とは同じ遍路を辿らなけりゃ嘘だ。未練、未練というのなら、君がここに来た事だって未練に違いないのでしょう。君は知っていてここに来た。僕は知らずにここにいる。でもそれはみんな過去の話なんだ。振り向くな、振り向くな。後ろには道が無い。人生はワンツーパンチ。汗かきべそかき楽あり苦あり。くじけりゃ誰かが先に行く…」
打ち疲れか、それとも僕の攪乱が功を奏したのか、彼女の連打に隙が生じた。私は一度ダッキングしてから彼女の懐にもぐり込み、そのままクリンチした。彼女の頬は濡れていた。汗か雨かは定かでない。彼女はもがきながらコツコツと左右の脇腹を叩いていたが、私が体重を預けるとさすがに苦しくなったのか、手を背中に回してぎゅっと体を密着させてきた。荒い息づかいと速い鼓動が、二人の中で溶け合った。判り会えたような気がした。二人きりの世界に雨だけが降っている。孤独な二人の求めるものが例え傷のなめあいだったとしても、それが、みっともない、なんて誰にも言わせない。
「ブレイクブレイク」
頃合いを見て僕は両手を広げた。しかし、彼女はまだきつく僕を抱きしめている。そっと覗きこむと彼女は顔を真っ赤にして震えていた。やはり、強がっていたんだな、と僕は彼女がいとおしくなり、優しく髪を撫でてやろうとした。彼女はまだ僕をぎゅっと抱きしめている。抱きしめて… 強く強く抱きしめて……
僕はまだまだアマチュアだったのだ。すでに警戒を解いていた僕の体は棒立ちだった。彼女はさらに顔を真っ赤にして僕の胴を、締め上げた。抱きしめる、なんてものではない。体こそ持ち上がってはいないが、明らかにこれはベアハックである。息が詰まってきた。彼女の声が胸骨にこだまする。まるで自分の体の中から響いてくるようだ。
「呼吸をしないと生きていけないでしょう。人は呼吸をするように恋愛をしていないと生きていけないの。分かる? 恋愛の苦しさが今のあなたの苦しさなの。分かるでしょ。胸がしめつけられるみたいに苦しくて、息を吸うことすらままならない。なのに呼吸しないといけないの。そうしないと、死んじゃう。息を吐く時、私たちはなんて無防備なんでしょう。今度いつちゃんと息を吸えるか分からないのに吐いちゃう。吸う息も吐く息も片一方だけじゃだめでしょう。恋愛は呼吸なの。そうして圧迫なの。苦しくなったら、死ぬしかない。でも死ねないでしょ。息、吸いたくなっちゃうよね。でもそれは何のためなのかあなたには分からないでしょ。だから、分からせてあげる」
視界の周囲が黒ずんでチカチカしている。間もなく自分は落ちるだろうと思っている。落ちたら、彼女は僕をどうするだろうかと思っている。このまま濡れそぼる石段から突き落とすだろうか。一人で転げ落とされたら、いったい誰と入れ代わることになるのだろうか。尾美としのりはすっかり老けた。僕はそのとき生きているだろうか。そんな事を考えている。
―愛する人を殺人者にしたくないなら、殺してあげるしかない
そんな文句が脳内を一閃した。義務感が僕をつかのま現実に還した。その時、すでに人生の走馬灯はくるくる回りはじめていて、場面は大好きな『宇宙大作戦』を見ている情景だった。カーク船長は、戦う時いつも鯖折りみたいな体勢に押し込まれていた。まさに今の僕そのものだった。船長はどうやって戦っていたっけ。カークはいつも、キリスト教のお祈りの時のように両方の掌を組み合わせて、それを相手の背中に打ちつけていたっけ。脊髄への打撃、というよりも肺裏への一撃。スポックだったら、ちょっと首筋を掴んでやれば相手はぐったりと倒れるし、心を読むことだってできるのに。スポック。君は地球人とバルカン人とのハーフで祝福されずに生まれてきた。しかし、カーク船長はいいことを言った。
「この苦しみは、自分が生きていくためには必要だ」と。
あれは何本目の映画だったか? スポック、マシュマロはおいしかったかい…
鈍い傷みとゴリという音で、僕は三たび意識を取り戻し、取り戻さなければよかったのに、と後悔している。断末魔とは今の事だな、とわりと冷静に判断している。全身が痺れている。多分失禁脱糞警報発令かもしれない。女性の胸の内で、そんなかっこわるいまねは出来ないぞ。僕は最期の抵抗を試みる。そう。俺はカーク提督だ!
ガチャ
「あっ!」
これは僕の声だったかそれとも彼女の声だったか、それとも誰か他の人の声だったのか分からない。奈落へ引き込まれる感覚が、むしょうに心地よかった。
三
手首に鈍痛が継続している。新鮮な空気が気管をざらざらと擦り立てる。通常の呼吸を取り戻すまでの苦しさ。生きていくのはこんなに辛いことなのかと、泣きそうになる心を
「元気な男の子ですよ、かよっっ!」
と自分にツッコミを入れてテンションを上げ、
「小さなことからコツコツと…」
と言い聞かせながら、目を見開いて体勢を整える努力を始めた。
山門前で両手両膝をがっくりと折り、咳き込む男。目の前にはズボンが汚れるのにも構わずにしゃがみこんで、リュックの中を覗き込んでいる女。客観的に俯瞰すると、この二人には何の因果関係も見つからないだろう。むしろ石段の下の草むらから、じっと山門の方を見上げている黒いコウモリ傘の男の方がずっと訳ありだ。当人にしか分からない因果というものなら、いくらでもあるのだろうが。
僕は渾身の力を祈りの拳にこめて降りおろしたのだった。無事ですむはずは無い。僕は彼女の傍らへ這いよった。戦いは終わっているか? 僕はそんな事すらも考えていなかった。
「だ、大丈夫だった? 必死だったから思い切りやっちゃって。でも、君ものすごく強いよね。何か体術を習っていたの?」
彼女は背後の僕を無視してリュックの中をまさぐっている。そうか。僕は彼女の背中ではなくて背負っていたリュックサックに渾身の一撃をお見舞いしたのか。と変に納得して落ちついてしまう。手首に鈍痛が継続している。
「粉々よ。粉々」
リュックから引き出した彼女の手は真っ赤だった。僕は思わず自分の手首を凝視した。血が出ているかと思ったからだ。だが傷は無い。ただ赤く不規則な螺旋模様みたいな蚯蚓腫れが出来ていて、鈍痛が継続しているだけだ。
「怪我をしたの? 大丈夫?」
僕は慌てて彼女の両手首を握って引っ張った。彼女は相変わらずリュックを見下ろしたまま、腕だけを僕の自由にさせている。握りしめた小さな拳は透き通るように白く、華奢だ。拳を染める赤いものは、血ではなかった。血よりももっと赤茶けた塗料のような、そう、故郷三方原の赤土のような色だ。あの時手首に感じた固く、そしてガチャという時の脆い感触が蘇る。須恵器かなにかだったのだろう。どこかの発掘現場で採取した弥生式土器だったのかもしれない。
「何か大事なものだったの?」
僕は彼女の手を撫でながら彼女の顔を覗き込んだ。すると、彼女は、きっ、とこちらに向き直り、手を振りほどくと ばん、と立ち上がった。
「大事? 大事だったかですって? これが大事じゃないといったら、いったい大事って何なのかしら。あなたのセンチメンタルな旅? 生きるの死ぬのって大げさに騒ぎ立てたかった癖に、身を引くことがダンディズムだ、みたいなやせ我慢をして、それで雨に降られて慌てて石段を駆け登ってきた小さな男の相手をしてあげた代償がこれ? あなたの一瞬の気の迷い、感激屋さんの一過性のナルシズムと引換えに、私は私が私であるために絶対に必要だったかけらの一つを失ったのよ。分かる? 分からないでしょうね。それが分かる人なら、会社止めてこんな辺鄙なところまでのこのこやってこないでしょうしねと、だいたいこんなもんでいいかな。結構いいせんいっていたと思うんだけど、どう思う?」
彼女はそう言いながらも僕の答えなど求めてはいないようで、あっけに取られる僕を尻目に、彼女は再び雨垂れに手をかざした。だが今度は拳ではなく汚れた手を雨垂れで洗うように、パンパンと手を叩たり擦ったりしているのだ。表情はごく落ちついた、出会ったころの彼女である。
「まあ、元気でよかった。元気があれば何でもできる」
ようやくそれだけ言って、僕はほうっとため息をついた。人の気持ちを洞察する能力に関して、僕はかなり自信をもっていたが、彼女に関しては全くの謎だ。コミュニケーションが取れているようで、実は何一つ、かみあってはいない。全く彼女の独壇場だ。こんな目に会わされながら、僕はますます彼女と離れがたくなっていた。
「僕は、小宮知行。君が言った通り、会社をやめてふらふらしている三十一歳。君は?」
僕はそう言って彼女を見上げ、彼女の掌を見つめ、そこからタラタラと流れていく赤い水を見た。手が白くなるにつれて、石段が赤く染まっていく。僕は覚えず流れを追った。血の色は次第に広がっていき、石段の中程で吸い込まれるように消えた。
「私の名前と石段とどっちが大事なの? どっちも大した問題じゃないんでしょ。違う?」
気がつくと彼女は石段の二、三段下に立ってこちらを見ていた。縁のない眼鏡に雨滴がついていて、瞳が曖昧に揺らめいて見える。もし唇の片方が悪戯に持ち上がっていなかったら、泣きだすのではないかと勘違いするところだ。僕はこの時、彼女は精神的に不安定なわけではなく、非常に安定しているのだと気づいた。思えば、今まで僕が知っていた女性はみんな、感情的に不安定なところがあり、その不安定さに押し切られているか、押し殺そうと躍起になっているか、のどちらかだったのだ。結局、僕はそのどちらのタイプの女性とも上手くはいかなかったが、そこで培った教訓など彼女に対しては全く無効なのだった。
「うん。多分違わないだろう。名乗りを上げてから言うのもかっこわるいけど、きっと僕は君に関しては君の足元にも及ばないほどの青二才に違いないと思うよ」
「随分、素直な人なんだな。私、お追従する人には不自由してないんだ」
「僕も女王様には不自由してないよ」
そう言うと彼女は体をのけぞらせて笑った。だが、笑い声のほとんどは、腐りかけた山門に吸い込まれていったので、濡れそぼる里山の風情は少しも損なわれなかった。
「傑作よ。天晴れよ。ああお腹がいたい。ああ苦しい」
彼女は笑い続けた。笑いは伝染する。笑いの起源を問う術もないままに、僕も笑いに感染した。麻痺的な笑いだった。彼女のように大きな声を伴う笑いではない。引きつけるような、度を越えた苦痛がもたらす笑いのような、自分自身が撓んでしまうような笑いが僕を捕らえていた。
「あーはっはっはっ」
「ヒィーヒィーヒィ」
長い時間が経過したような気がした。僕は見ていた。彼女の笑いが急速に引いていき、あれほど支配的だった笑いの最期の息が、なんなく吸い込まれていく瞬間を。けれども僕は泥まみれで、腹をかかえてのたうっている。戦いは、まだ終わっていなかったのか、そんな意識すらも引き笑いを加速する。
「ヒィーヒィーヒィーヒィ」
彼女が石段を上がってくる。オレンジ色のスニーカーが僕の目の前にやってくる。靴下のワンポイントは水色の刺繍だ。エンブレムらしい。だがそれが何を意味しているのかは分からない。
オレンジのスニーカーが視界から消えた。僕は身悶えしながら彼女の足を探した。その直後、僕は腰に重い蹴りをあびて、石段を三段ばかり転げ落とされた。信じられないようなこの仕打ちが、さらに笑いを加速する。
「ヒィーヒィーヒヒィヒィー」
「間に合っているって? あなたにそんな事言う権限は無いの」
今度は頭を踏まれた。さらに二段ほど転げ落ちた。意外と近くにあるものだと、僕は考えていた。たかだか八百段下に、それはあった。地獄というやつだ。
「あなたが叩き壊したものは、そんなものでは済まされないの」
脇腹を踏みにじられて、さらに数段転げ落ち、勢いで側頭部を痛打した。痛みが笑いを加速する。
「イテェーヒィーヒィーイテェーッツンデーヒィーヒィー」
ジャッキーチェン曰く、笑いは痛みを鈍らせる。さらに竹中直人ネタ、笑いながら怒る人。さらに女ったらし曰く、怒りには笑いで対処すべし。そんな雑多な情報の、あまりの役立たなさが、笑いを加速する。
「クダラネーヒィーヒィークダラナスギルーヒィーヒィーヒィー」
蹴られ、踏まれ、僕はじゃんじゃん落ちていく。もう彼女の姿は見えない。ただ地獄の底が近づいていてくるのが分かる。
―パーソナルメルドダウンって、かっこよくない?
という自分の声が聞こえてきた。かつて、同人誌を作っていた時にそんな事を言ったことがあった。人格融解。これは『解体屋外伝』からの剽窃で、僕は当時から剽窃なんてちっとも構わないと思っていた。おもしろければいい。知らない人にとってはかっこいい言葉だし、知っている人には、優越的共犯意識を与えられる、と思っていた。自分の言葉なんて無い。そう開き直ってきたつもりだった。だが、今、蹴り落とされる度に、僕は見切りをつけていたはずの「自分」というもののタガが緩んでがたがたになっていくのを感じていた。そのための恐怖は笑いで誤魔化されてしまっていて、もはや崩壊を止める術は無いのだ。ふと、先程の赤土の軌跡を思い出す。あの故郷の土が消失したあたりまで、あと少しなのだなと気づく。あれが予言だったのかもしれない。だとしたら、これは案外、物語に出来るかもしれない。そう気づいた時、僕は、僕の笑いを取り戻していた。
『同人緋牡丹灯籠 最終号 陰花寺異聞(仮題) 作 小宮知行』
「いける。いけるよ。これで有終の美が飾れるってもんだ」
彼女の足が止まった。だがそんな事はどうでもよかった。今、僕は腹のそこから笑っていたのだ。そして自分からゴロゴロと石段を転げ落ちていた。
「ちょっと。どういうことよ。ちょっとちょっと」
彼女が僕をおいかけてきた。だが転がる僕のほうが速い。彼女は慌てすぎ、濡れた苔に足を取られた。二人はもんどりうって石段を転がり落ちていった。途中から上手い具合に僕たちは抱き合う形になって、微笑みとともにこんな会話を交わしたりもした。
「ちょっと出来すぎって感じもするけどね」
「こんなこともあるよ」
石段が尽きた所で、僕たちは並んで空を見上げた。ここが地獄であっても構わない、と思った。同道二人ならどこへだって行ける、そう思った。僕はゆっくりと体をおこした。彼女の瞳に凄まじい速さで動いていく叢雲が映っていた。その視界の端を黒こうもり傘がそそくさと走り去っていくのが見えた。
「あれ、誰?」
と僕は尋ねた。
「私のストーカー」
と彼女が答えた。
やがて、彼女もヨイショっと起き上がり、意外と震えているお互いの体をしっかりと抱きしめ合った。今度のはごく普通の抱擁だった。天候は急速に回復していた。それから僕たちは笑いながら再び石段を登った。二人の四つの膝も笑っていた。みんな笑っていた。
四
山門の前に到達すると、そこに一つ、笑っていない顔が増えていた。瞬時に彼女は踵を返した。だが手をつないでいた僕の、踏み出していた足と、腰の角度と、手の動きとはバラバラで、結果的に彼女を引きずり倒す羽目になってしまった。彼女は一緒に逃げようとしてくれたのに、僕は応えることが出来なかった。僕の手の先で、彼女は石段の上に両足を投げ出してぶらぶらと仰向けに揺れていた。
「たいへんなことですな。手当てをしてあげますから、よっておいきなさい」
小さな丸い紫の頭巾はそう言った。
「はあ」
と僕が曖昧にうなずくと、彼女が思い切り僕の手を引っ張った。見ると、怖い顔で僕を睨んでいる。
「でも、大丈夫ですから。これから宿へ帰って、それでゆっくりと温泉にでもつかってですね、それで…」
小さな丸い紫の頭巾は、ゆっくりと首を振った。
「まあ、そういわずに、荒れ寺で何もないが、お茶ぐらいは出しましょう」
静かな声だった。腰が直角近くまで曲がっているので、よくは見えないが、どうやら尼僧のようだった。
「お構いなく。こんな恰好ではお寺を汚してしまいますから」
僕はなおも遠慮しながら、これだけ腰が曲がっていたら、山田風太郎の忍法に出ていたブーメラン男みたいな事も出来るだろう、と思い、笑みがこみ上げてきた。そこへ、体勢を建て直した彼女の、レバーブローがめりこんだ。的確な角度で、僕はしゃべることができなくなった。
「私たちは帰ります。それじゃ、さよなら」
僕は脂汗を垂らして体をくのじに折り曲げたまま、彼女に引かれて階段を下りた。一足一足が腹に響いた。これじゃ僕がブーメラン男だ、と思った。尼僧はそれ以上引き止めもせず、静かに山門の中へ引っ込んだようだった。
「何か、訳ありなの? あの尼さんと」
おそるおそる尋ねてみると、彼女は意外にも怒っている様子ではなかった。
「今夜、ゆっくり聞かせるから。とりあえず温泉に入って一休みしたい」
僕はいろいろ気にかかる事があったが、大筋で異存などあるはずもなく、そのまま黙って彼女に付いていくことにしたのだ。 (同人坩堝撫子2 般若湯村雨 へ続く)
巻末付録一 著者之序(の口)
同人坩堝撫子 第一回を読みおえてしまった皆様へ
この小説の慣性(←ママ)によって、それまで発表した幾つかの作品は、いずれも路傍の雑草のごとく、哀れ果敢ないものになってしまった。のみならず、本編がこちらに連載された暁には、褒められるにも、誹られるにも、悉く最大級の無視を以ってせられるやもしれず。事実、その危惧の中で、私は散々に揉み抜かれたのである。恐らく、ネット上に素人作家が出現して以来、かくも私ほど無視された作家も、例しなかったことであろう。が、また一面には、狂熱的に指示してくれる読者も、二三あって、殊に、平素私になど見向きもせぬと思われるような方面から、霰々たる激励の声を聴いたのも、空耳であった。
しかし、毫も私は、この怖ろしい戦場を見捨てて、退却する気にはなれなかったのだが、そうして回を重ねていくうちに、案外、生え抜きの小説読者の間にも、私の読者が少ないのを知って、心強くなった。ともあれ、この一遍は、いろいろな意味からして、私にとると、貧しい知識の集積とも云えるのである。
さて、此処で一言述べておきたいのは、これまでも頻繁に問われた事も無かった事だが、この長編を編み上げるに就いて、そもそも着想を何から得たか-という事である。勿論主題はゲーテの「ファウスト」であるはずはないが、大体私の奇癖として、なにか一つでも視覚的な情景があると、書き出しや結末が、労せずに浮かんで来るのだ。それが本編では、どこにつかわれるかは未定の、―すなわち、かつての朝の生放送中のマイスタ前を訪れる場面にあたるのである。それ故、坩堝撫子の着想を「ズームイン朝」から得たといっても過言では無いと思う。(以下省略)
つまり、全てが剽窃、全てが引用、全てが本歌取り。駄洒落と誤魔化しで糊塗した行き当たりばったりの代物で、どこまで書けば終いなのかは、作者自身にも分からない。ネタが尽きるまで、普段は禁じている観念連想を解き放ち、物語と小説の狭間で勝ったり、負けたりしながら、楽しむゲームの記録なのである。
書き手としてこんなに楽しい遊びはない。良いゲームを期待していただきたい。さらに読者諸君にも、参加していただく余地は多数あるはずである。これはバトルロイヤルなのだから。しかし、ご注意あれ。倒すべきは作者ではない。敵は使徒か、あるいはDADARNの如き変幻自在の化け物である。きたれ戦場へ。共に戦おう。
同人坩堝撫子 01 陰花寺異聞