チョコと写真とシャンデリア

直接的な表現があるわけじゃないけど、まあまあ女性向けだと思います。
男性同士であれこれそれなんで。

前に投稿した短編と似たタイトルになっていますが偶然です。
でも読んでくれると嬉しい(。´・ω・)
ほかのM君シリーズを読んでたほうが、繋がるっちゃあ繋がります。

ちょっと長いので休憩しながらどうぞ。

1

 読み通り、コーヒーを淹れた直後に浴室のドアが開いた。適当に身体を拭いて、服を着て脱衣室を出る頃には湯気が引いている。ソーサーを持ってリビングに向かった。フローリングの床をスリッパで歩く音が、後ろから追ってきていた。
「ありがと。美坂(みさか)さんのコーヒー、好きだよ」
 M君は私の手からカップをひとつ奪うと、肩にバスタオルを掛けたままソファーに腰を下ろした。濃色の液面が波打ち、零れそうになったのを、慌しく姿勢を変えて防護している。無邪気な動作につい頬を緩ませながら、右手に虚しく残されたソーサーだけをM君の前に置いた。
「ブラック飲むんだもんねー。俺もすっかり大人だね」
「どうだか」
「あ、またそうやって子供扱いするんだ。俺がもう子供じゃないってことは、美坂さんが世界でいっちばんわかってると思うんだけどなー」
 温められたM君の指が、隣に座った私の太腿の上で滑った。視線が勝手に引き寄せられた。壁面に細かい宝石を鏤めたローマ数字の時計は、早朝5時過ぎを指していた。
 足の芯から焼けつく感覚が蘇った。置かれた温度を持つ指が、見えないコードを直進させていくみたいだった。
「なんちゃって。今はもうダメだけど」
 コードが急に先を曲がりくねった。それきりぱったりと動かなくなった。太腿から感触が消え、その指を彼は再びカップに添えた。
 M君の今日のスケジュールは、昨晩聞いていた。それを思い出し、少々残念な気持ちを拭いきれないまま、平常を装い私もカップを傾けた。
「喉の調子は万全かい?」
「おかげさまで。病院行く暇なかったしほとんど神頼みだったけど、市販薬でもいいのあるね。でも長引かないでよかったよー。俺、小さいときは風邪引くといつまでもこんこんやってたからさー」
 バラエティ番組MCのほかにラジオパーソナリティ、ナレーターも数多くこなしているM君に、声優の話が出たのは自然な流れだと思う。とある番組企画で一時期多くの人気者が誕生したが、その企画の責任者だった私自身も、澄んだ透明感のある彼の声質は活かせるのではと感じていた。
 先月、M君に初めて正式な声優のオファーがあった。有名な映画会社のCGアニメ映画の日本語吹き替え役だ。公開はまだ先になるが、その業界からも、彼の演技には目を剥くという声が聞こえている。
「ずっとやってみたかったんだよね。いきなり主人公なんてさすがに荷が重いし申しわけないと思ったけど、勇気出して受けてみてよかった。そう考えると、俺と美坂さんって巡り合わせだよね。あのとき再会してなかったら、たぶん引退発表してたし」
「しないほうがよかったかい」
「そうでもないね。これはこれでスカッとするし、切り替え早いのが自分の長所だと思ってるしね」
 M君は空になったカップをソーサーに載せると、丁寧に手を合わせた。それから横目を私に這わせ、いきなり私の肩を掴んだ。
 柔らかい温度と苦味が、雫を垂らしたように口の中に染み込んだ。ややあって離れると、彼は私の両肩に手を置いたまま、僅かに肘を伸ばした。彼の肩からは、バスタオルが消えていた。
「男同士ってこともそうだけど、普通以上に人目を気にしないといけないのが難点だよね。俺も同罪になっちゃうし」
「もう妻と先はないと思ってる」
「でも離婚はしてない」
「関係ないだろ」
「関係あるよ。俺は付き合ってるつもりだもん」
 黙ってコーヒーを飲み干した。抱く感情は、特になかった。
「ずっと言いたかったんだけど」
 私は無言で並んだコーヒーカップを見つめていた。それをM君がどう捉えたのかは計れなかった。
「家の鍵渡してよ。わざわざ作らなくても、奥さんが置いてったやつがあるんだよね」
「ここだって私の家だが」
「別宅じゃん。本宅のが欲しい。どうせ家族は誰も帰って来ないんだから、俺がいたっていいじゃん。クリスマスくらい家に帰らないの?」
「帰っても仕方ない。年末で忙しいから帰らないかもしれないし」
「ほーんと寂しいオジサンだよねー。だから一緒に帰ってあげるって言ってんのに。まあ、無理にとは言わないけど」
 M君はカップとソーサーをそれぞれ重ね、持ち上げて腰を浮かせた。キッチンに向かう背中に、浅く溜息が漏れた。
「別に構わないが」
 振り返った目が、意外そうに丸くなっていた。
「構わないが、不公平だと思う」
 踵を返して戻ってきそうだったので、先にカップを水につけるよう命じた。時間を置くと、乾いたコーヒーがカップの底にこびりついてしまう。
 M君は、再びソファーに腰を埋めた。
「私が本宅の鍵を渡す代わりに、君もなにか提示すべきじゃないか」
「してんじゃん。人の恥ずかしいとこ散々見てる」
「付き合ってるつもりなんだろ」
「あー、はいはい。じゃ、ご所望をどうぞ」
 何故か不機嫌っぽく、M君は片手を振った。その目が忙しく時計に向けられた。彼は毎回一度家に帰っているので、その余裕が削られていくのが気に入らないのだろう。M君には、今どきの若者に珍しい、却って古めかしいほどのきっちりとした時間概念があった。
「ご両親は?」
 それが根付いているのは、彼がずっと養護施設で暮らしていたことに起因しているのかもしれない。常に集団生活の中にいたのだから、さすがに分刻みではないにしろ、一般的な家庭で育つより時間の認識が濃いことは想像しやすかった。
 テーブルの上で無意味に動いていた人差し指が、不意に止まった。故意に踏み込んだ自覚は、もちろん私にもあった。
「知ってるけど」
 声に波がなかったことに、私は意表を突かれた。耳に入った情報によると、M君は、両親どころか親族からすらもプレゼントひとつもらったことがない。当然会ったこともない。それを直接訊ねたことは、今までになかった。
 知っていると回答されたことが、少々意外だった。私が求めた対価はその真相ではなく、誰もが遠慮して避けてきた話題を差し出す権利だった。
 M君がどうやって両親の所在に至ったのかはわからないし、誰かから聞き出したと言うなら、それが本当かどうかは疑問だった。それらとは関係なく、M君が語る家族の像に興味があった。彼が話し始めるのを、私は腕を組んで待っていた。
「教えてもいいけど、そっちこそ不公平じゃない?」
 まるで想定外の一言だった。M君は、このときようやく床に落ちたバスタオルに気付いた。屈んで拾った拍子に、胸元の濁った痣が見えた。
「知ってるからね、あらゆる角度から動画撮影してること。普段からカメラ相手にしてる俺が気付かないわけないじゃん。なんでそれ黙って人のこと不公平とか言ってんの? うけるんだけど」
「笑ってない」
「ほら、そういう感じ。美坂さんのことだから、結局俺なんかまだガキだと思ってんでしょ? じゃあもうそれでいいけど、ガキ舐めすぎると痛い目見るのは覚えといたほうがいいよ。俺に限った話じゃなく」
 不本意ながら、言葉が出てこなかった。今こうしている間も、複数仕掛けた隠しカメラが稼働している。M君がじっと俯いているのも、さすがにありえないと自ら否定しつつも、それぞれの場所まで把握しているからのような気がした。
「でもまあ、嫁にも子供にも逃げられちゃった可哀想なオジサンだもんね。俺の親がどんな人だったか正解できたら、後でこっそり振り返るくらいのことは許してあげる」
 切り替えが早いと自負するのはこの部分なのか、直前の低い口調が嘘みたいな軽い言い口だった。むしろ上機嫌に指を振り、M君は得意げに胸を逸らした。
「挑戦する価値くらいはあるんじゃないの? だってそうしないと、美坂さんの歪んだ性癖が大暴露されちゃうんだから」
「映ってるのは君だぞ」
「データをばらすんじゃなくて、噂を流すの。真偽不明の噂でも、信頼を失うには十分じゃん。特に、美坂さんみたいな若くしてのし上がったエリートは、なんにもしなくても敵多いんだからさー」
 振っていた指を、M君は唇に置いた。
「別に俺は本当のこと言ってもいいんだよ。今はともかく、最初は中学生だったんだから」
「ヒント」
 遮った。間が開いた一瞬、M君とがっちり視線がぶつかった。悪戯を楽しんでいるような、他意のない双眸だった。
「そんな提案をするくらいだから、君のご両親は、まるっきりの一般人というわけでもないんだな」
「そうだったらこんな問題出さないよ。正解できるわけないし。親族の一端にも拒否されるんだから、これは相当の事情があると見るべきだね」
「今はどちらに?」
「知ってるけど教えない。ヒントはもっと抽象的じゃないと」
 そうだねえ、とM君は顎に手を当てて目を閉じた。暫く頭を捻った後、人差し指と親指を天井に伸ばした。
「チョコと写真とシャンデリア」

2

 私とM君が初めて会ったのは、企画の一次合格者を募った二次審査の会場ではなかった。審査と呼んでも、責任者だった私と雑談のような面接をするだけの簡単なものだった。企画そのものが若い才能を発掘しようと躍起になっていたわけではなく、もちろん発掘できればそれに越したことはないのだが、若い子に将来語れる思い出を提供できたらというささやかなプロジェクトだったからだった。それだけの余裕が、当時放送していた番組と制作チームにあった。それが却ってブランド力を高めていたのだと思う。
 向き合って座ったとき、胸の奥が微かに波立った。愛嬌のあるくせっ毛と、控えめに突き出した右上の八重歯に馴染みがある気がした。やっと答えに辿り着いたのは、何日か後のことだった。
「うちの子、どうだった?」
 突然従妹から電話があり、浮き足だった口調でそう切り出された。うちの子もなにも、彼女は独身だった。
「そうじゃないわよ。うちの施設からひとり応募してるの。二次審査に行ってきたっていきなり言うからびっくりして」
 敢えてとぼけてみただけなのだが、従妹は口を尖らせていた。が、次の瞬間にはもう、電話口に立った当初の明るい声音に戻っていた。私の中でも、そういうことかと既に合点がいっていた。
 ADをしていた15年前、養護施設の職員をしている従妹に、幼稚園の運動会を見に来ないかと誘われたことがあった。今年は近場の保育園と日取りが被っており、施設の園長先生が終日残れないので、片付けの手伝いなどがあるので男手を確保しておきたいとのことだった。建前だとはすぐにわかった。各々のシートで父母なりそれ以上の親族なりで小さな主役を見守っているのに、一組だけ若い女性がふたりで座ったシートがあっては浮いてしまう。そこに帰る子ども自身はよくても、周りが色眼鏡を使う。
 幸いにも、私の息子の運動会は終わっていた。従妹の頼みを快諾して当日を迎え、午前中までは順調だった。異変があったのは、午後の年少生・年中生・年長生でそれぞれ親子対抗のリレーが始まったときだった。
 次は年中生の番、というときだった。ビデオカメラ越しに映っていたゲートの外側に、置き去られた大人と子供の姿を捉えた。ビデオカメラを下げて二度見した。ふたつの影は、置き去られたのではなくわざと居残ったように見えた。
 M君、と従妹が呟いた。M君と言うのは、職員のひとりが話のネタにと名前を漢字で書いて見せたときに発祥した愛称だと聞いていた。
 結局、ひとりでシートに残された。15分程経って、疲れた表情のふたりが戻って来た。M君だけは、従妹に手を引かれながら、なに食わぬ顔でストローでジュースを飲んでいた。リレーはとっくに始まっていた。
「普通に並んでたんだけど、急にやりたくないって言い出したみたい」
 従妹は眉根を下げた。M君はシートの上で開いたままになっていたチョコレートのナイロン袋から、赤い包装を取り出していた。
「ときどき強情になって、どうやったって聞かなくなるの。泣いたり大声出したりとかはないんだけど……普段はすごく聞き分けがいいんだけど」
「叱らないのか?」
 従妹は遠慮がちにM君の横顔を覗き見た。何故か私は、間違った感想だと自覚しながらも、言及したことを少し後悔し始めていた。
「チョコ、好きかい」
 口の周りについていた溶けたチョコレートをおしぼりで拭い取ってやりながら、そう訊ねた。M君は私を見上げ、ジュースを飲んでから関心をチョコレートに戻した。
「すき」
「もうひとついる?」
「いらない」
「じゃ、それ食べたらあっちで追いかけっこでもして遊ぼうか」
 M君の目と同時に、従妹ともうひとりの職員の目も向けられた。私が指差していたのは、グラウンド周辺とは打って変わった寂しい裏庭のほうだった。
「うさぎ組でいちばんはやく走れるよ」
「それはいい。私も速く走るぞ」
「男の人なのにわたしっていうの? へんなの」
 なにを言っているんだと私の腕を掴んでいた従妹が、M君の楽しそうな笑い声で力を緩めた。M君はチョコレートのナイロン袋からひとつ引っ張り出すと、満面の笑顔で差し出してきた。
「やっぱりもうひとついる」
 微妙に不揃いな段を作って、小さな歯が並んでいた。
 M君は、本当にすばしっこく走り回った。
 あのときあの幼稚園に通っていたのはM君だけで、その一度きりの機会以降、従妹の職場と関わりを持つことはなかった。従妹が示す子は、M君ただひとりだった。
 番組の企画にM君の書類を送ったのは従妹だった。どうせ通らないだろうと遊び半分で勝手に投稿し、それきり忘れていたということだった。ところがM君が従妹より先に一次審査合格の通知を見つけ、これはなんだと詰め寄ればいいものを、二次審査に行ってしまったのだとそれこそドラマのような展開を私は耳元で聞かされた。
「まあその、勝手なことして反省はしてるのよ。でも、こういう言い方ってよくないけど」
「彼に会いたい人が世界のどこにもいないから?」
 M君が家族とまったく接点を持たないことは、従妹から聞いた。事情によるが、施設に預けられたからと言って、親に愛されない子供とは限らないのだそうだ。定期的に顔を見に来る親もいるし、それを楽しみにしている子供もいる。直接干渉せずとも、施設に寄付金を振り込んだり備品の援助を行う親もいるらしい。
 よくないと思いながらも、M君の我儘を許してしまう職員の気持ちを察した。M君だけが保育園ではなく幼稚園に通っていたことも、なにか意味があるようにさえ感じた。
 そういうツテがあったから、M君を二次審査で通し、最終的にテレビ出演まで至らせたわけではなかった。声質に魅力を感じたのも、最初の収録が終わって暫くしてからだった。90点にはならないが、80点を割ることもない。なにをやっても上位であり、だから逆に目立たない。そうした埋もれた存在の彼は、既に番組企画は当初と違う思惑に染まりつつあったが、初期のコンセプトに最も合致していた。
 チョコレートと聞いて思い出すのは初対面のエピソードしかないのだが、あの出来事が彼の両親とどう関係するのか。しかもそこに写真とシャンデリアも繋がらなければならない。途方もないパズルを押し付けられたようで、つい嘆息した。
「お疲れですね」
 映像編集をしていた島谷(しまたに)が、マウスに右手を置いたまま振り返った。元来毒のない性格のこの男は、最近結婚して更に純度を増している。誰もが私が作業場に入って来たら空気を変えるというのに、島谷だけは常に自然体だった。
「元気出していきましょうよ。もうすぐクリスマスだし、これにかこつけて、奥さんと息子さんを連れ戻してパーティーとかどうですか?」
 しかも、こういうことを本当に嫌味なく口にする。島谷は周りの気圧が急に下がったことを気にした様子もなく、私は苦笑するしかなかった。この男のこういうところは嫌いではなかった。
「そういえば知ってます? MAミキサーの多部(たべ)さん、入籍するそうですよ。来年からは加賀(かが)さんって呼ばないと。慣れるまでちょっと変な感じしますよねえ」
「君の奥さんも、今そう言われてるんだろうな」
「へへ。もうすぐ産休に入るんですよ。そこらへん、ちゃんとしてる会社でよかったです」
 幸せオーラを振りまく島谷は、伸びをしてモニターに向き直った。黒縁の眼鏡を指で押し上げ、声のトーンを安定させた。
「でも、本当に今がしんどいときですよね。年末年始の特番が多くて制作現場も余裕ないし、出演してるタレントさんたちも、裏ではめちゃめちゃ疲れた溜息ついてるみたいです。さっきの美坂さんみたいに」
「そんなに疲れてたか?」
「M君とか俺も嫁も好きで見てるんですけど」
 急に名前が登場し、心臓が大きく跳ねた。その名前になんの意図もないことは、すぐに明らかになった。
「見ない日がないですもんね。この前用があってスタジオのほうに行ったんですけど、たまたまいたんでラッキーと思ったら、カットの度にめっちゃ眠そうに目擦ってました。共演者さんに顔洗って来いって背中叩かれてましたよ。あ、叩くって言っても愛ある感じで」
 悟られないように胸を撫で下ろし、思い返した。問題開示から一週間、2回会っているが、いつも通りだった。私の別宅で過ごし、早朝、私の運転を拒んで電車で帰宅する。泣き言は一言も聞かなかったし、至って元気だった。
「今度会ったら労ってあげてくださいよー。M君も、美坂さんのことは特別に思ってると思いますよ。美坂さんがいなかったら芸能界に入ってなかったかもしれないし」
「まあ、会うことがあれば」
 再度振り返り、島谷は微笑んだ。この男の子供は綺麗な歯並びだろうなと、ちらりと思った。
 

3

 番組やラジオの中で、家族の話が出てくることは間々あったと思う。意識して避けていたとしても、些細な拍子で話題は変わる。その中で、M君がどう立ち回っていたのかというと、どうということもないのがインターネット上での評価だった。まあ彼にとっては家族はいないのがデフォルトであり、幼い頃はともかく、他人の話を聞いたところでさほど感じるものはないのかもしれない。実際M君は、親と暮らさなかったのは相当の事情があると言いながらも、日常の軽い言い口だった。
 年のせいか、目が疲れる。ひとり本宅でPCモニターをスクロールさせていた私は、一度椅子を引いた。インターネットを使えば噂のひとつくらいは拾えるかと思ったのだが、その逆だった。12歳のときにデビューして以降、順調に役を大きくしながら生き残って来たM君は、当たり障りのないものから無関係な第三者が暇潰しに書き込んだとしか思えないものまで、とにかく情報が溢れていた。この中に真実が紛れているとして、判定する材料はない。想像していた展開ではあったが、ここまでとは思っていなかった。
 となれば、やはり、彼の生年付近の時事を参考にするしかない。リストアップしていた項目を、M君が出したヒントと照らし合わせながらひとつずつ調べていくことにした。
 外れが続き、午前2時を廻ろうとしていた。これを潰したら一区切りと思っていたところに、目に留まる記事があった。
 とある有名政治家の不倫が発覚した、というニュースだった。ニュース自体は残念ながら珍しくもないのだが、その相手の女性が賞を冠した経歴のある写真家だったのだ。言われてみれば記憶に残っているのだが、この女性が当時高校を出たばかりの18歳で、しかも既に妊娠しているとかしていないとかで尚更お茶の間の注目を集めていた。
「写真……」
 思わず呟き、公表されていた彼女の活動名を検索バーに打ち込んだ。大抵のページは親子以上に年齢差のある不倫の件ばかりを書き立てていたが、18の若さでその道の受賞歴があるくらいだ。少し探ると、彼女の趣味や生い立ちが掲載されたサイトに行き着いた。そこでまた瞼が知らず開いた。彼女は大のスイーツ好きで、休日の度に専門店やケーキバイキングに足を運んでいたということだった。
 これだと思った。結局妊娠していたのか否かはわからないが、していたとすればヒントと噛み合う。あとはどうにかシャンデリアと関連付けばいい。もしかしたら、そっちは政治家のほうと繋がるのかもしれない。一応調べる必要はあるが、ここまでわかれば今日はもう十分だ。そんな爛れた最中で生まれた子供なら、政治家の父親側はもとより、母親側の親族が拒否するのも無理はないことまで説明がつく。急激に疲労が襲ってきたが、頭の上の重しが取り払われたことのほうが、私の中で大きな比率を占めていた。その日はとてもよく眠れた。
 クリスマスイヴからクリスマスに日付が変わった後、別宅に入るとM君はソファーに座っていた。
「遅かったね。クリスマスくらい早めに切り上げようとか思わなかった? 俺、待ってたんだけど」
 答えに行き着いて以来、会っていなかった。口元が緩みそうになるのを堪えた。M君はそれを見逃さなかった。
「なんかいいことあった?」
「答えがわかった」
 ばれているのだから隠す必要はない。白状すると、M君は、一瞬わからなそうな顔をしてから綻んだ。
「あの話ね。本当にわかったんだ」
「苦労したんだぞ」
「そう。じゃ、これ。お祝いとクリスマスを兼ねて」
 身体を捻り、M君はソファーの裏から赤いラッピング袋を取り出した。リボンは緑色で、片手に載るサイズと載らないサイズでふたつ用意されていた。
「どうせプレゼントとか気の利いたことしないと思ったから、俺がふたつ買ってきた。こっちがロゼワイン。恋人で過ごすクリスマスにおすすめなんだって。広告に出てた」
 次に小さいほうが持ち上げられた。
「で、こっちがアロマキャンドル。クリスマス限定デザインセット。これ今日使っていい?」
「随分浮かれてるな」
「そりゃ浮かれるよー。だって初めてのクリスマスだし。あとケーキ……はさすがに今の時間だと重いから買ってこなかったんだけど、美坂さん、いつもみたいになんか軽く作ってよ」
「言われなくても」
 横を抜けようとした私の手首を、M君は掴んだ。一瞬、景色が一色になった。ただそれだけの後に、M君はにっこりと八重歯を見せた。
「こっちじゃないほうの家で。問題解けたんでしょ? 答え合わせでどっちにしろ本当のことわかるんだから、鍵ちょうだい。そういう条件だったよね」
「君は私の車に乗らないだろ」
「ほんっとに空気読めないオジサンだね。もう電車止まってるし、行きたいって言ったら乗せてけってことに決まってんじゃん。今のこの状況と、今までのその情報って関係ある? それに、言ってなかったけど、撮られてる俺って演技だからね」
 どうにか本宅を教えずに済まないかと思案していたところに、最後の一言だった。好奇心をくすぐられた。本宅のカメラはとっくにバッテリー切れになっていることを、M君はきっとすぐに見抜いてくれる。
 交互にシャワーを浴びてから、ロゼワインで乾杯した。ベッドに潜ると、M君は心持ちいつもより解放的に見えた。暗がりの中に焚いたアロマキャンドルの香りが、柔く寝室に漂っていた。
「シャンデリアだけ」
 一区切りがつき、ふたりで横になっていたときだった。M君は、私から受け取った本宅の鍵を見やった。妻が置き去ったその鍵は、M君の枕元の小棚に置かれていた。
「チョコレートと写真はわかった。でも、シャンデリアだけわからないんだ。どんな形で君のお父さんに結びつくのか」
「お父さん?」
「ほかのふたつはお母さんに繋がるんだから、あとはお父さんだろ。調べたんだがわからない」
「ああ、そういうことか」
 どういう調査をしてどんな結論に至ったのか、もうM君には話していた。ところがどういうわけか、M君の反応は希薄だった。どの角度から調べてもシャンデリアだけがM君の両親に繋がらず、しかも出題者当人の味気のなさも加わって、私の胸には墨を垂らしたような不安が広がっていた。
 だが、まったく関連性のない3個のキーワード中、2個が該当するのだ。残る1個との矢印が不明でも、正解と見做すのが不自然とは私には思えなかった。
「まあいいじゃん。よく頑張ったと思うよ。偉い偉い」
 温もった指先が横顔を這い、同時に髪を撫でられた。そのままM君は私に身体をずり寄せた。
「疲れたんじゃない? ちょっと寝たら?」
「正解は?」
「結構複雑なんだよね。話せば長くなるから、一回寝たいんだけど。美坂さんは眠くないの? 俺よりお酒弱くなかった?」
「そうだけど気になる」
「寝てからにしようよ。俺、なんかすごい疲れてるかも……」
 末尾は欠伸に吸い込まれ、ほとんど聞こえなかった。それを見るとなんだか私も眠くなり、目を擦った。自分でその仕種をしてから、島谷との会話を思い出した。
「話の続きは朝だな」
 M君は既に動く気配がないので、私が身体を起こした。アロマキャンドルを吹き消し、床に放っていたローブを纏った。面倒でも着て冷やさないようにしておかないと、ここから年末までは本当に休めない。
 M君はもう眠っていた。仕方なく毛布を多めに被せ、私はベッドの隅で丸くなった。

4

 唐突な冷たさで、糊を剥ぐように両目が開いた。眠る直前と視界の色彩が変わっていた。ややあって、自分が今いるのはダイニングキッチンだと認識した。その中心にいるのは、つけ置き用に使っている器をシンクに戻したところのM君だった。
「おはよーございます! 希望の朝ですよ!」
 シャワー後に着ていたローブではなく、その前に着ていた服だった。M君ははにかみ、敬礼のポーズをしてみせた。
 私がまず探したのは時計だった。まだ早朝と言うにも早すぎるような時間だった。磨りガラスの窓の先も暗かった。
 前髪から滴る水滴を拭うことはできなかった。両手は椅子の背面で、両足はそれぞれ脚に、細いタオルできつく巻かれていた。
「はいじゃあ、待望の正解発表です。美坂さんが唯一わからなかったシャンデリアなんだけど、実はこれ」
 テーブルの端に置いていたアロマキャンドルを、M君は私の前に移動させた。セットになっていた残りのものだった。ライターを摺り、小さな火が灯ると、その周辺がぼんやりと縁取られた。
「シャンデリアって、フランス語の蝋燭立てが語源なんだって。もともとはラテン語だって説もあるみたいなんだけど、どっちにしろキャンドルってこと。あとのふたつは美坂さんがお話作ってくれたし、これで伏線回収ばっちりだよね!」
 上品な香りが舞っていた。それに混ざり、覚えのある匂いが浮いていることに気付いた。なにが起こっているのか、混乱している私の脳は、その正体に辿り着けなかった。
「作ってくれたって?」
 辛うじてそれだけ言えた。M君は指を立てると、私の眼の前でわざとらしく左右に振った。
「だから、チョコも写真もシャンデリアも、俺の親にはまったくもって関係ないんだよ。思いついた単語を言っただけ。あ、チョコは食べたいと思ってたけどね」
 あはははは、と豪快にM君は笑った。その声が外に聞こえないかと思ったが、聞こえないと思った。この家の敷地は広い。
「でもまさか、本当に調べてくるなんてね。スイーツ大好きな10代の写真家と、大物政治家が不倫? で、産まれたのが俺なんだ。興味ないけど。大爆笑。あっははははは!」
 どこから考えていいのかわからなかった。言葉が出てこない私の傍を、M君は何歩か歩いた。
「ねえ美坂さん、ニュース調べてたんでしょ? そんなどうでもいいのじゃなくて、もっとセンセーショナルな事件なかった?」
「十分センセーショナルだろ。当時の政治家たちの頭が、自分の子供より年下の女の子を愛人にしてたんだから」
「ああ、そっか。価値観はそれぞれだもんね。美坂さんにとっては、それが最も衝撃的なゴシップだったと」
「なにが言いたい? そんなことより解いてくれ」
 これだと思った時点で、その年代の時事を振り返る作業はやめていた。それを言うのはプライドが許さなかった。一見共通項のない単語を結んだのだと、絶対の自信があったのだ。
「まあでも、仕方ないか。俺もまったくの無関係だったら、そっちのどうでもいい不倫騒動のほうを覚えてるかもしれない。専門のジャーナリストかなんかでもなかったら」
「だから、なにが言いたいんだ」
「だって身内による殺人事件とか、悲しいことに珍しくもなんともないんだもんね」
 急に時間が停止した。息を止めた私の周りを、異臭の浮く辺り一帯を、M君はにこやかに歩き回った。
 やがて私の前に戻ってきて、顔をぐっと私に近づけた。冷えた目の、悪魔のような笑顔に見えた。
「20年前の7月に、妊婦が惨殺された事件があったんだよ。急に家に男が押し入ってきて、包丁でざくざくやられて」
 腹で氷が溶けだしたみたいだった。冷たい水が、ゆっくりと筋を伸ばして行き渡った。
「臨月だったのに、可哀想だよね。それなりにニュースになったけど、逃げた犯人の男がすぐに捕まったからあっさり解決。動機は……えーと、なんだったかな」
 悩んだ一瞬だけ、M君は視線を宙に浮かせた。その間、悪意の欠片もなかった。
「とにかくそういう感じで、事件は終わった。でも、報道の一端で、ちょっとだけ触れられてたんだよ。お腹にいた赤ちゃんは生きてたこと。通報したのは、まだ息のあった被害者自身だったこと。警察を待つ間に力尽きたことまでね。ここまで聞いたらわかるよね。性癖歪んだ盗撮マニアで根性曲がりの美坂さんでも」
 当時眺めていたニュースの概要が、薄く頭の中に蘇っていた。インターネットから大きな時事を書き留めていたときも、妊婦惨殺事件の項目は目についた。リストには入れなかった。M君が「両親の居所を知っている」と言ったからだった。でも本当は、彼が知っていたのは両親の居所ではなく、親が一般世間のどこにもいないことだった。
 だが違和感が残った。芸名とは違うM君の本当の苗字は、ニュースで見た被害者の苗字と違っていた。
「運よく俺は生き残ったんだけど、問題があった。被害者――というか俺のお母さんである(はし)アサミさんは、入籍していない上に若くして既に天涯孤独の身となっていたのです。お父さんは結局不明だけど、合鍵を使って家に入ったくらいだし、橋さんの男性関係は至ってシンプルだった様子なので恐らく加害者の男だろうと推測されますが」
 その男がはっきり言わないから、とM君は肩を竦めた。
「身寄りがないから施設に入ることになるけど、ちょっととは言えメディアで発表されちゃったからね。不幸中の幸いとして記事にしたいのはわかるんだけど、それは子供に影を差すって判断した大人がいたんだよ。間々ある苗字だとしても、時期が被ってたら暇人に出生を特定されかねないから」
 この臭気、なんだっただろうか。思い出せそうな気がするのに、アロマキャンドルが邪魔をする。
「だからと言って、母親の形跡を完全に消しちゃうのは憚られる。なんせお母さんは、お腹の子供をもう名前で呼んでて、ひとりきりで強く逞しく育てていくことを決心してたからね。母親になることを勉強してたらしいノートが見つかってて、そこで何度か語りかけてたんだって。『真也(しんや)、早く顔を見せてね』って」
 久しぶりに聞いた、愛称とも違う本名だった。黙ったままの私に、M君は無垢に笑いかけた。
「というわけで、お母さんの面影を残しておくことにしたんだよ。アサミから麻の漢字を当てて、もとの苗字の橋をくっつけたの。めでたく麻橋(あさばし)真也の誕生ってわけ!」
 おめでとう、と声を高くし、M君はわざとらしい拍手してみせた。私は唖然として、そんなM君を見つめていた。
「これ全部、昔、根負けした園長先生に聞いたんだ。なかなか大変だったけど、やっぱ俺にも両親のことを知る権利くらいはあるからね。このことは職員さんも知らないから、みんなには絶対内緒にしておきなさいって言われた。別に内緒になんかしなくていいと思うけど、園長先生のこと好きだったからそうしてた。今となってはよくわかるよ。そんなの、一瞬のキャラ付けにしかなんないもんね」
「は? キャラ?」
「あ、ちなみにだけど、捕まってるお父さんと思しき男性はとっくに自殺済みらしいよ。さすがにこれは確認しようがないけど、っていうか面倒だからしてないんだけど、まー別にどっちでもいいかなって。お父さんとか興味ないし」
「……」
 目を見開くしかできなかった。次第に浮き彫りになってきた。M君は殺人鬼の子供なのだと。私はその殺人鬼の子供に、両手両足を拘束されている。

5

「はいじゃあ、立て続けになりますが、ここから真の解答編に移ります」
「解答編って? もうわかったからさっさと解け!」
 上機嫌なM君に焦りを覚えた。心臓が今にも皮膚を破って飛び出しそうだった。どうやって固定しているのか、手も足も全然動かなかった。椅子と床が虚しく擦れるだけだ。
 暴れる私の両肩を、M君が叩きつけた。そのまま耳元に口が近づいた。
「じゃあ教えてよ。縛られてる理由は? この臭いの正体は?」
 吐息が横髪を揺らした。硬直する私としっかり目を合わせてから、M君は満足そうに退がった。間の抜けたスリッパの音がした。
「エレベーターでさ、間違ってふたりになっちゃったよね」
 12月に入る前、局内のエレベーターでM君とふたりきりになった。俯いたまま乗ってきたM君は、私を見て明らかに動揺した。その動けない一瞬間で、もうエレベーターは扉を閉めていた。
 彼にとっては気まずい時間だと思っていた。M君は私から一歩離れ、なるべくすぐに外に出られるところで、背中を向けて立っていた。一言も発しなかった。
 そこで私が声をかけた。正規の発表はまだだったが、M君に芸能界引退の意思があることは噂で知っていた。M君はすぐには答えなかったが、小さな声で「期間が終わったら」と振り返らずに言った。期間と言うのは、彼が企業と結んでいるイメージキャラクターの契約期間、各社との事務的なやり取りのことだとすぐにわかった。その後にまた小さな声で、「完全に決めたわけじゃないですけど」と続いた。彼にずっと興味のある声優の話が来ていることも、私の耳には届いていた。
 お願いだからもう話しかけないでくれ、と彼の背中が言っていた。だから私はまた話しかけた。引退ではなく休業はどうか。M君くらいの人気者なら、多少時間が経った後でも復帰できる見込みがあった。それにそうしてもらったほうが、あらゆる面で経済的にスマートだった。
 M君は首を横に振った。休業するくらいなら引退したいと言い切った。理由を訊ねると、M君はなにも言わなかった。
 自分が降りる予定だった階を素通りし、M君を追った。M君は振り返らず、足を速めた。私も速めた。人のいるほうへ向かうM君を、先回りして腕を引っ張った。トイレには誰もいなかった。5年ぶりに見るM君の赤らんだ顔は、かつてと同じように見えた。違っていたのは彼が成長したことと、最初から私のスマートフォンを睨んでいたことだった。
「あんなの露呈しちゃったら、イメージダウンどころじゃないもんね。こっちは被害者なのに、その上で途方もない違約金支払命令だけが残る。さすがに払えないから相手してあげたけど、ほんとに嫌だったんだよ」
 データを餌に、M君を別宅に連れ込んだ。嫌がりながらも、望んだ通りに応じる姿が愉快だった。撮影されていることに気づいた様子はなかった。始発が走る頃に私が目を覚ますと、もうM君の荷物は別宅のどこにも残っていなかった。
「仕返しか」
 少しだけ濃さが淡くなった磨りガラスから、M君は目線を移動させた。小動物のような丸い瞳が、一層喉を圧迫した。
「本当に悪いことをした。許してくれ。別宅に残っているものと合わせて、データはすべて処分する。約束する。コピーの類は一切ない。もちろんどこにも流出してない。命を賭けてもいい」
 M君は小首を傾げ、頬を掻いた。誠意が足りないのか。今の私の言葉に、嘘なんてひとつもなかった。次の一言を発する前に、M君が踏み出した。
 両手を添えたキスは深かった。何度か角度が変わり、ようやく顔と手が遠ざかった。
「今は嫌じゃないんだよね」
 口元を手で拭い取り、M君は言った。なんでもない顔をしていた。
「なんでかわかる?」
「付き合ってるつもりだって言ってたけど」
「はい外れ。付き合ってるとか思ったこと一度もないから。付き合ってなくてもあんなことそんなこと普通にできちゃうってことくらい、オジサンよくわかってるでしょー?」
 痛いことを言われ、口籠った。今までにM君以外に目をつけた子が何人もいたことも、すべて見透かされているような気がした。
「じゃあどうして? 家を知るため? 手段として?」
「あー、違う違う。合ってるけど違う。そっちの意味じゃなくて、あんなに嫌だったくせに、なんで急にノリノリになったのかってこと」
「それは」
 言葉が続かず、視線が彷徨った。M君は退屈そうに床を蹴っていた。M君と交わしてきた会話の中に、必死にヒントを探った。
 思いつくことがないわけではなかった。でも本当にそうなのか自信がなかった。自信がなくても、差し出してみるしかなかった。
「切り替えが早いのが……長所なんだろ」
「どういう切り替えなの?」
「これはこれでスカッとするって」
「ああ、そういやそんなこと言ったね。俺って素直だから」
 堪えきれなかったらしい。最後のほうは潜めた笑い声に掻き消され、ほぼ聞こえなかった。
 やっぱり違っていた。次に献上できる答えはなかった。
「ねえ、美坂さん。本当に気付かない? どんな突拍子ないことでもいいよ。思いつくこと言ってみてよ」
「思いつかない」
「嘘言わないで。じゃあ、今のこの状況がドラマかなんかだったらどう? 美坂さんはソファーに座ってワインとか飲みながら、でっかい液晶で、ゆったりとこの構図を眺めてるの」
「本当に思いつかないんだ」
「『こいつ最初と印象違いすぎないか? 二重人格じゃないのか?』」
 私の声音を真似して、妙な渋面を作って、M君を顎を片手で覆った。
「俺だったらそう思うけどね」
 目の前で、時間どころか世界が止まった。ポーズを崩してM君が笑ったところで、錯覚だったと気付いた。
「告白……したのか?」
 情けない掠れた声しか出なかった。構わず、私は喉に力を込めた。
「最初のときとは違う人格だから、抵抗がないということか」
「うっわー、ようやく正解できたね! よかったよかった、このままひとつも答えられなかったら、敏腕テレビプロデューサーとしての面目丸潰れだもんね。俺と真也君は、ちょっとだけ価値観が違うからさー」
 もう言葉が出なかった。少し低くなったアロマキャンドルの炎が、ゆらゆらと揺れていた。
「でも仲良くやってるんだよ。記憶はちゃんと共有してるし、どっちが前に出てるときでも、いつでも交代できるし話もできる。意図的に意識を閉じとくことも、当然できる。だから、俺が美坂さんとぐちゃぐちゃやってたのは真也君は見てないから安心して。やってたことは知ってるけど」
「待ってくれ。ついていけない」
「待たない。だってもうクライマックスなんだよ。時間がないの」
 M君が横目に流したのは、ふたつ並んだコンロだった。いや、その向こうのゴム管だった。全体像は見えない。続けてM君の目が追った先を見て、血の気が引いた。ガス警報器のプラグ接続がずれていた。
 私の視線も、M君の視線も、アロマキャンドルの先端に移っていた。胸が猛烈に波打ち始めた。不快な臭気はガスだったのだ。そこに火を焚いている。
 構造上、このリビングより奥側の密封はできない家だった。だがそれがなんの気休めになるというのか。このままだと、遅かれ早かれ爆発が起きる。
「自分も吹っ飛ぶぞ」
「悪役はみんなそう言うよねえ」
「ふざけてる場合じゃないだろ!」
「ふざけて人を家畜以下に貶める人間がなに言ってんの?」
 椅子の脚で床を傷つける私の周りを、M君は呆れたように歩いた。
「大事なのはここからだよ。美坂さんは、まだ仕返しされてる理由がわかってない」
「わかったって。謝っただろ!? データも全部処分する! 過去の分も合わせて処分する、誓うから! 嘘を吐いてたら、それこそ殺していい!」
「ほーんとにどこまでも傲慢でバカで自己中だよねー。爆発ばっかり気にしてるけど、この場で滅多刺しにでもできるのに」
 身体が勝手に動くのをやめた。静かになったダイニングキッチンに、M君の足音が響いた。
「最初……というか今年のことだけど、トイレに連れ込まれたときね。俺、真也君に代わってくれって再三お願いしたんだよ。その後のおうちで本気モードのときも。でも代わってくれなかった。真也君って女の子とすら経験ないから、ああ、俺はそうじゃないんだけどさ、とにかくダメだと思ったんだよ。感情は共有しないけど、伝わってはくるから」
「いつでも交代できるんだろ? 私が言うのも変だが、強引に押しのければよかったんじゃないのか」
「それは無理。俺は真也君に逆らえない。真也君がダメって言ったら、いくら真也君が泣いてようが喚いてようが見てるしかできないんだよ。極端に言うと、殺されてるときでも」
「意味がわからない」
「そうだろうね。そのへんのあれこれは関係ないからどうでもいいよ。真也君は殺されたってことをわかってくれればいい。俺はそれを内側から見てたことと合わせて」
 直球の表現に視界が揺れた。それを嘲笑うように、M君は声をあげた。
「安心して、言葉のアヤだから。真也君はちゃんと生きてるよ。今も俺の中から美坂さんを見てる。なんなら今の気持ちを訊いてみようか。ちょっと待ってねー」
 ターンすると、M君は黙った。すぐに振り返った。色に例えると純白としか言いようがない、素朴な笑顔だった。
「もう能書きはいいって。別に能書き垂れてるつもりはないんだけど、ここを早く出ろってお達しみたい。綺麗なお姉さんならともかく、汚いオジサンと心中なんて絶対御免だもんね」
 狂っていると思った。暴風に海面が幾重にも飛び散るように、私の全身も静寂を失っていた。もう一度ガス管を見て、臭気を吸って、指の一関節分にも満たないサイズの炎を見た。収縮する息遣いが、より嗅覚を押し広げた。
「風邪引いてたのは冬だからじゃないよ。美坂さんが真也君を襲ったときに、帰って冷たいシャワー被ってたから」
「わかった。勘違いしてた。脅して無理強いしたのを怒ってるんじゃないんだな。傷つけて本当に悪かった」
「眠かったのは疲れてたんじゃなくて、薬飲んでたから。派手に弾けた後は、絶対俺より早く寝てもらわないといけなかったからね。耐性つけようと思って」
 ロゼワインをすぐに連想した。私がシャワーを浴びている間に、M君は、ボトルそのものに持参していた睡眠薬を混ぜた。どのタイミングでグラスに注いでもいいように、自分もその薬を飲む計画で。
「意外にしつこくて一芝居打つ破目になったのだけは計算外だったけど、全体的には順調だったよ。いちいち帰ってトイレに籠って、出せる分は出すとこまで。そこまでしなくていいって言ってくれたけど、せめてもの毒抜き代わりに。俺じゃなくて真也君の身体だもんね。真也君がやってたようにやんないと」
「窓を開けてくれ」
「真也君が嫌だったのは、無理矢理裸にされたことなんかじゃないんだよ。無理矢理裸にされて、それで身体が熱くなったのが嫌だったの。俺にもよーくわかったよ。でも見てるしかできなかった。真也君が返事してくれないから。それから、ずぅーっと俺が前にいる」
「二重人格なのは誰にも言わない」
「だから俺が提案したの。おんなじに、熱いのを嫌だと思わせようってね。あからさまに放火するわけにはいかないから、ガス爆発を起こしてやろうかと」
「M君、お願いだ」
「でも、ちょっと待って。今の話はおかしいよね。俺は美坂さんを焼き殺すべく爆発を起こそうとしてるわけだけど、落ち着いて考えると、爆発したからってその中にいた人が確実に死ぬわけじゃない。幸運が重なって奇跡の生還、ってテレビでもあるでしょ?」
 最早思考回路を無視して流れ出ていた懇願の声が、ひたと止まった。そうだ。規模にもよるが、巻き込まれたからと言って死亡するとは限らない。ときどき見かける爆発事故の報道では、工場単位でもなければ、怪我人で済んでいるものもある。
 生き残れるのかもしれない。細い希望が胸の奥を照らした。
「それじゃあ困るんだよね。後遺症でも残って喋れないならいいけど、変に元気でいられると俺がやったって言い回られる」
「絶対言わない」
「ところで美坂さん、これって本当にガスの臭いだけなのかな?」
 M君は語尾を跳ね上げ、テーブルに手をついた。
「まだなにか仕掛けてるのか」
「だって火種を大きくしないと。確実に火事になるような」
「もういい加減にしてくれ。確かに私は悪いことをしてきた。でも人殺しよりはましだ!」
「だから、価値観は人それぞれ。そうやって自分の尺度でしかものを考えないから、こうして痛い目見てるんじゃないの? ガキ舐めんなって忠告したよね」
 なにを言われても、もうどうでもよかった。とにかく逃げたかった。逃げられなかった。
「じゃ、最後に残ってる疑問を解決しよう。どうしてわざわざ面倒な手順を踏んでまで、この本宅を突き止めて計画実行したのか」
 M君はテーブルから離れた。いよいよ撤退しようとしているようで、私の焦燥は増すばかりだった。
「美坂さんが嫌いだから。真也君じゃなくて俺が。俺が許せないの。俺の大事な真也君をぶち殺しておいて、なんで普通に生きてんの? あんたが存在した痕跡をちょっとでも多く焼き尽くして消し去ってやりたいから、家族と住んでたこの本宅じゃなきゃダメだったんだよ。息子さんがちょくちょくお金をせびりにくるんだってね。俺と同い年の、少年法が適用されない息子さんが」
 下品に改造した高級車を路肩に停め、挨拶もなく小遣いを要求する息子が目に浮かんだ。いっそ親子の縁を切ってもいいとさえ思っていた。それもあって、私はこの家に帰っていなかった。
 あのバカな息子が利用される。M君の考えていることが頭に流れ込んでくる。
「あとこれはついで。真也君と俺は交代で仕事してきたけど、声優をやってみたかったのは、俺じゃなくて真也君だから」
 じゃあね、とM君は身を翻した。持ってきた荷物はもう玄関先にでも置いてあったのか、手ぶらでリビングの扉から消えた。
 ガス爆発は、ガスの成分と空気が一定量混ざったところに火の気があって発生する。一度解放され、再度密閉されたことで、猶予を引き延ばされた。その恐ろしく長い時間までもを、M君は最初から頭に入れていたのかもしれない。
 無常な施錠音が、遠くで鳴った。

6

 どのくらい経ったのか。目を開けると、磨りガラスの先の景色は白んでいた。時計を見上げると、とっくに朝を迎えていた。こんな状況で信じられないが、眠ってしまったようだった。
 急に身体が飛び上がり、拘束されていることを思い出した。昨晩の記憶が脳を駆け抜け、息が上がった。アロマキャンドルの火は消えていた。まだ高さに余裕はある。容量が終われば勝手に消えるのだろうか。そんなに使ったことがないし、消えるまで灯していたこともないのでわからなかった。
 鼻をつく臭いが部屋のものなのか、それとも部屋に居続けた自分に染み込んだ臭いのなのかもわからなかった。視線を巡らせ、留まったのはガス警報器だった。見張られていたからできなかったが、縛られているのは椅子なので、少しずつ移動はできる。床に無残な傷が増えていくことなんて気にならなかった。
 引っ掛かったままの警報器のプラグに接近し、意を決して脛で押し込んだ。身構えたが、警報は鳴らなかった。時間が酷くゆっくり流れるように思えた。無理矢理目線を引き剥がし、キッチンの収納棚をどうにかこじ開けた。しまってあった予備の、なるべく小さな包丁を後ろ手で取り上げ、長いこと四苦八苦した末に手首のタオルを切った。包丁を投げ捨て、転げる勢いで足の拘束も解いた。たまたま警報器が故障しているだけかもしれない。胸を押さえながらガスのゴム管を覗き込んだ。手で触れ、確認した。傷はどこにもなかった。ひとりでに涙が溢れた。暫く声を出さずに泣き続けた。
 生きている。熱いシャワーをくぐりながら、私は何度でも噛みしめた。考えてみればおかしかったのだ。いくら恨みがあったとは言え、人をひとり殺すなんて並のエネルギーでは不可能だ。肉体的にも精神的にも相当の負担が掛かるし、自分の人生を棒に振ることになる。苦しめられた相手を殺して自分の居場所までもを殺すというのは、あまりにも理に適っていない。中学生のときから大人の中心に立ってマイクを取るほどに賢いM君が、そんな強引な手段に出るはずがなかった。まして引退まで考えていた彼が、世間に名前を晒す要因を作るなどありえなかった。
 しかし、二重人格とは驚いた。いや、あれは私への仕返しの一部だったのかもしれない。デビューする前から、彼はなにをやっても80点を下回らない子供だった。つまり、本気で挑めばいつでも90点を上回る子供だったのだ。現にM君は、やりたかった声優業にチャレンジし、ベテランが舌を巻いたというではないか。聞かされた二重人格の概要が、あまりにも都合がよかったのも怪しい。
 出勤用のスーツを着てキッチンに戻った。橋アサミと麻橋真也。よくできた話ではあった。だが殺人被害者とその子供でネタ作りなど、からかうにしても度を超している。なにより不謹慎だった。
 電気ケトルのお湯が沸く間に、朝食を作ろうとフライパンを取った。今日はいつものコーヒーと、ハムエッグトーストでも作ろうか。なにげない食事がこんなにも楽しみなことは、家族を失って初めてだった。次にM君を呼びつけたとき、どうやってお仕置きするかを想像しながらコンロのレバーを動かした。その瞬間、フライパンが火に包まれた。驚いて手放し、床に落ちると、そこから示されたように火の柱が駆け抜けた。上にも下にも左右にも、くすんだ橙色の炎が燃え広がった。
 理解ができず、立ち尽くしていた。異常な速さで侵食した火は、テーブルやソファーや絨毯や剥き出しの壁に、少し速度を緩めて移っていった。はっと息をついた頃には、もう私は火の手に囲まれていた。
 呆然と突っ立つ私の頭には、抜け掛かったガス警報器のプラグの画像が蘇っていた。同時に無傷のガス管も輪郭を露わにした。私はそれに安堵した。M君は、最初からガス爆発を起こす気などなかったのだと。ガス警報器のプラグを完全に引き抜いておかなかったのは、自分が去った後、拘束されたまま惨めに動き回る私にすべて狂言だと気付かせるためだと解釈していた。
 ガスは漏れていなかった。では、あの臭気はなんだったのか。瞬きするような速度で散った炎。火種を抜いた火そのもの。瞬時に導き出す要素。
 ガソリン。その単語に行き着くと、もう立っていられなくなった。M君は私が眠っている間に、ここまで乗ってきた車からガソリンを拝借していたのだ。タオルなりなんなりに染み込ませて備品に塗り、一度拭き取り、更にコンロから四方に伸ばして道を作る。冷静さとは程遠かった私は、臭いの正体がガソリンだと気付けなかった。アロマキャンドルの妨害もあり、M君の嘘の種明かしを信じ切ってしまった。ガスの臭いだけかと問いかけたのは自分のくせに、答えを明かさず最後の疑問の解決などと進行を変えた不自然を、不自然だと思えなかった。
 私が椅子で眠ってしまった後に、M君が戻ってきたことになる。なにかの拍子にアロマキャンドルの火が散ってしまったら、私に嘘の安心を与えることができないからだ。では、私が眠らなかったらどうするつもりだったのか。さりげなく戻ってきて、また役を演じる気だったのか。そうなったときのプランを用意してあったのかもしれない。別宅に残っているデータの類を、上手く処分する方法と合わせて。
 指先ひとつ動かなかった。まさか彼がそのまま持ち去るはずもないので、鍵は本宅敷地のどこかに捨てられただろう。なにがどうなろうとも、今更私には関係のないことだった。
 関係がないのに、情景が目の前に透けて現れた。幼稚園児の息子と、年若い妻と、その当時の私だった。二度と戻らないその幸せな家族像を、焼け落ちた屋根の板が押し潰した。

チョコと写真とシャンデリア

このあと、M君は例のブツを処分しに行くのかな?
結局ばらしたかったことのうちの半分ちょっとしか書けなかったので、まだ続くと思います。
どうもありがとうございました。目をよくよくお冷やしください。

ショタが足りない

チョコと写真とシャンデリア

今回はいわゆる女性向けになったと思います。ほんのり。 芸能人M君シリーズ最新作。 若い男子とおじさんで多少不適切の、それなりにミステリー仕立てです。 いろいろ想像で書いてるところは愛嬌だと思ってください。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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