放置された空き地で雑草が陰鬱な表情で生い茂っていた。そこには大きな真っ白の奇妙な形をした(かめ)があった。それは人一人が入りそうなほどの大きな瓶で、言い知れぬ衝動で惹きつけられ、瓶の方へと近づいていった。白い瓶の縁に手をかけ、中を覗いた。
 だが中は空っぽだった。
 私は何故この瓶にこれほど惹かれたのだろうか? その瓶が放っている妖しげな香り、美しい輝きと色彩、絶妙な奇怪さを持った、冷たい、柔らかい人肌のような質感、どれも私を惹きつけるには十分なような気もしたし、また不十分なようでもあった。
 何も入っていない空虚な瓶の暗闇を覗きながらも私はどうしても解せなかった。が、頭を巡る疑問の答えを探すことをやめ、顔を上げた。
 するとそこはさっきいた場所、あの陰鬱な表情の雑草たちは何処へいってしまったのやら、そことは全く違う、私が今まで見たこともない世界が広がっているのだった。
 真紅の世界。世界が紅に染まり、黄昏のようで、ただ一つ違うのが全方面から鮮烈な紅が迫り、圧迫しているということだった。
 以前にこんな場所来たことない、それは確かだった。
 血を思わせる鮮やかな紅、不思議とその紅は私を穏やかな気持にさせた。じわっじわっとその感情が胸の奥底から湧き出してくる、というより染み出してくるような感覚だろうか、どちらにしてもそれは心地良く、私は全身を温かな安堵で包まれていった。
 しかし私はその安堵をじっくりと味わう余裕もなく、驚くべき光景を眼にした。
 紅の世界には私以外に二人の『わたし』がいた。
 それは私を完璧に模倣した鏡のようなものというより、それぞれどこか微妙に異質の感を伴った類似であった。二人の『わたし』は私の後ろにそっと寄り添って、自己憐憫と自己陶酔とに陥ったような表情で佇んでいた。片方の『わたし』は白くて丸くて大きく、高潔な雰囲気を醸していた。もう片方の『わたし』は黒くて細くて小さく、寂寞とした雰囲気であった。
 紅い空には二羽の林檎の兎が飛んでいた。兎は羽と数えるのだから飛んでいてもおかしくないかもしれないが、この世界で空を舞うのは林檎の兎なのだ。
 林檎、兎、羽と繋がって、その意味の結合が空飛ぶ林檎の兎という表象としてこの世界に存在しているのだろうか。
 だらだらと紅い空を飛ぶ林檎の兎は少しどこかおかしいような気がしたが、私は眼の前の存在を受け入れる以外に仕方がなかった。
 白と黒の『わたし』の後ろには、顔が黒く塗り潰された細長い達磨が数体ぐにゃぐにゃと立ち、そこからはだらしなく虚脱感が漏れ出して辺りを占めていた。
 瓶の脇には銀白の繭が四つ綺麗に一列に並び、世界の紅を反射して銅のように輝いていた。繭の一つはふるふると振るえ、生命が誕生する瞬間を思わせるどこか厳格な雰囲気が漂っていた。
「この瓶は、自己の瓶だよ」
 白い『わたし』が私に話しかけた。
「自己の瓶?」
「わたしたちの自己の瓶。この瓶の中に無意識の中のわたしたちがたくさんいるの。わたしたちみんなが調和し複合し、統一しているからあなたは一人として存在していられるの。同時にその統一があるからこそ他者を認識することもできるの。もしその調和が崩れたらあなた自身もここにいるわたしたちも、正確に言うならばあなたの中の他者すらも、当然もう生きられないわ」
 わたしは瓶を覗いているうちに、曖昧な意識と無意識との隙間、あるいは自我を越えた大きな自己の世界、無意識の複合の世界、夢の世界、どう言い表せば適当だろうか、そんな明瞭な説明が困難な世界へと落ちたようだった。
 だからこそ私はこの世界に平穏と郷愁を感じる何かがあったのだ。それは自分の内部世界なのだから当然と言えば当然なのだった。
「じゃあ、林檎の兎や顔が黒く塗り潰された達磨もわたしなの?」
 私はあの奇妙な林檎の兎や達磨が気になったので訊いてみた。
「そう。全部あなたの一部ね。でもまだ彼らは性質をもっていないの。だからあなた自身に影響を与えるようなことはまだしないわ」
 言っていることがよくわからなかった。
『わたし』が私に言っているのだから理解できて当然だと思う、ここにいるわたしたちは、私が認識することのできる私自身とは異なるものらしかった。
 でも何も理解できないというのは、私の知らない『わたし』が自己内部に普遍的に存在しているということを証明し得るものだ、あるいはそれは私とは無関係な何かが、私の外部世界の不確かな存在が私の内部へと浸透していることを証明するのだ。
でも後者ではなさそうだった。
 確かに私はそれらの存在たちを私だと感じずにはいられず、だからといってその『わたし』が私だとも理解していなかったのだった。
「……でも、よくわからないわ。こんなに沢山の私が認識できない『わたし』が必要なのかしら? みんながいるから私は私ってことなの? 私自身としては私一人でもちゃんと私だって気がするんだけど……」
「そうよ。あなた一人でも完結したあなた。でも、この中の一人一人もあなた。あなたを作りあげているのは、あなたが知っているあなただけではないってこと」
「みんなは私だし、一人一人も私……? じゃあ本当の私はどこにいるの? 私は本当の私ではないの? 私一人では私にはなり得ないの?」
「心配しなくてもあなたはここにいるわ。いつだってここにいる。それがここにいる全てのあなた、あるいはわたしによってあなたができるとしても、あなた自身は何も変らない。でも少なくともこの世界にはたくさんのあなたがいるの。それを忘れちゃいけないわ。きっと忘れた時にはあなたはあなたではなくなってしまうもの」
 私は自分の中に『わたし』が無数に存在することを知った。
 意識しているわたしはわたし自身の極一部分であり、無意識のほうが遥かに大きいもので、その『わたし』の複合体が本来の私の大半の部分を占めるものなのだ。
瓶の脇にあった銀白の繭のひとつが、またふるふる振るえていた。薄絹の柔らかい膜を裂いて中から黄色く細長い達磨が出てきた、やはり顔は黒く塗りつぶされていた。
 白いわたしが言っていたようにまだ何ら性質を持たないのだろう、だから顔がないのだ。細部まで見渡してもどこか捕らえどころがなく茫漠としたものしかその中に見出せなかった。
 白い『わたし』がまた話しかけてきた。
「わたしはもうあなたと一つになることができます。わたしを殺してください。一つになるには儀式が必要です。死を伴う儀式によって初めてわたしの人格を越えることが出来るのです。そうして初めて複雑な混合が統一されて一認識として現れるのです」
 殺す? 儀式? 何を言っているのであろうか?
 私の手にはいつの間にか鋭く美しい刃のナイフが握られていた。
 私が私の中の『わたし』を殺すことによってそれと一つになることが出来る。何故?
 私は自分自身を殺すことによってしか自分自身を越えることができないのだろうか?
 そんなに虚しいことはないのではないだろうか?
 その虚しく悲しい連鎖はいつになったら断つことができるのだろうか?
 私は自然とそのナイフを白い私に突き刺していた。
 何故か? そんなことは私には分らない。だがそれが自然だとしか言えないのだ。
 ナイフは紅い血に染まり、世界はさらに鮮烈な深みを増していった。私に刺された白い私は、刺された刹那蒸発し、もうそこにはいなかった。
 わたしは白いわたしを殺すことによってそれと一つになれたのだった。その白い私はじゃあどこへ行ったのだろうか? 私の内へ? ならばこの私の自己の世界内部に留まっていてもよかったのではないのか? 私と完璧に融合し一つになったことでそれそのものの存在が消えてしまったのだろうか? 認識世界への移行することによってかえって私がそれ自体を客観的存在として認識できなくなってしまったのだろうか?
 白いわたしはもういなかった。私は少し寂しさを感じた。
「大丈夫。一つになっただけだから。いつでもいっしょにいるよ」
 黒いわたしが諭すように言った。
 黒いわたしが私に言った。その儀式によって私は白いわたしという人格を乗り越え、取り込んだだけであって、白いわたしを失ったわけではない、と。白いわたしはやはりまだここにいるのだ、と。だが私は確かに喪失感を抱いていた。胸に穴が穿たれた。僅かだが呼吸が苦しかった。
 こうやってその度に胸に穴が穿たれ続け、穴だらけになり、それが最後のいたると人格その物はどうなるのだろう。認識は壊れてしまうのではないのか? 私は喪失感と共にその穴から溢れ出る残酷な理不尽に恐怖を感じていた。
 そうこうしていると、ぐにゃぐにゃ立っている青い達磨の中から、新しいわたしが出てきた。それは青いわたしだった。青いわたしは潔癖で、どこか繊細さを感じさせた。その青は、青春の青、あるいは空の青、海の青のような清澄さを思わせた。
 ぐにゃぐにゃ立っている赤い達磨の中からも新しいわたしが出てきた。当然それは赤いわたしだ。それは情熱に満ちて活発に動き回っていた。その活動性は本来私には備わっていないもののような気がしたが、それが私の内部から生まれたのだから否定することはできない。確かにその赤い私も私の一部分なのだ。
 私の中で二つの新しい『わたし』が生まれた。
 赤と青の抜け殻が無造作に地面に転がっていた。虚無的なその抜け殻はやがて地面に溶け、混ざり合った。その様子はまるでイチゴやブルーベリーのアイスクリームのようで私にとっては甘く贅沢な陶酔を感じさせるものだった。
 青と赤のわたしが生まれてくるのを見て、白のわたしが目の前から消えてしまった寂しさが少し和らいだ。穿たれた穴はこうしてまた新たなるものによって埋められるのだろう。
 人は薄情だ、と思いつつも、消えてしまったのは自分自身だと思えば、それは自信に対する情であり、薄情であるほうが好ましい気がした。自身に対する情は単なる自己愛だ。
「はじめまして、こんにちは。青いわたしと赤いわたし」
「はじめまして」
 青も赤も何故か陰気な声の調子だ。私はこれほど陰気な声なのだろうか?
「また新たなわたしが生まれたんですね」
 と私は問うた。
「はいそうです」
「よかった。たくさんのわたしがみんないなくなってしまう気がして少し寂しかったの」
 私は素直にその内的喪失感を打ち明けた、それを全て向うは知っているものだと思い、急に恥ずかしくもなった。
「大丈夫。瓶の中のわたしたちは、いなくなってしまうことはありません。一つになっただけです。一人一人は少しずつ大きくなって、そのうちあなたと一つになってさらに大きくなります。そうやってあなたは成長していくんです。いつだって彼らはあなたの中にいます。大きくなって成長したあなたの中にいます」
 切々と語る『わたし』。正確には黒い私。その物憂げな表情は辺りに緊密で静謐な空気をつくりだし、その瞬間に何故か私は狂気のような昂ぶりと凍えるような冷静さが胸中で互いに相反発しあっているのを感じた。
「うん。よかった。私、もっとたくさんのわたしと出会いたい。もっと大きく成長したい。もっともっと大きく成長したい。そうやって、どこまでも大きくなりたい」
 私はかろうじて平常を保って言った。
「そうですか…。でも新しいわたしが生まれることは、良い事ばかりではありませんよ」
「どうゆう意味? 新しいわたしが生まれるのがなんでいけないの? それはきっと、すばらしいことに違いないはずよ。だって私はそれで成長できるんでしょう?」
 新しいわたしが生まれ、私が成長していくことが何故いけないのだろうか。私は不安になった。
 さらに問うべきか、問うべきではないかと逡巡していると、「気をつけなきゃいけないわよ」と突然誰かに話しかけられた。
 また新しいわたしが生まれたようだった。私の内部では次々に何か生まれるのだ。
「誰? また新しいわたし?」
 振り向いてみるとそれは緑のわたしだった。緑、厳しさと冷たさと暖かさとを兼ねた『わたし』だ。私の内部にそんな部分が本当にあったのだろうか? その緑のわたしに疑問を感じつつ、その新しい『わたし』に訊いてみた。
「何に気をつけなければいけないの?」
 状況は切迫しているのだろうか、次々と別々のわたしが私に警告してきた。気をつけなければならない、良い事ばかりではない、と。
「もしあなた以外のわたしが大きくなってしまったら、そのわたしと一つになるのは難しいの。だから気をつけて。そうなってしまったら、そのわたしが記憶や意識を支配し始めるかもしれないんだから。認識が全てそのわたしに乗っ取られてしまうのよ」
 新しい性質、新たに生まれた『わたし』が人格を占める、つまりは私が死に、新しい『わたし』が私として存在することになる可能性があるということだった。
 『わたし』たちが作り出している緊張感はこの事実のせいなのだった。
「そうなんだ……。自分の中にたくさんわたしが生まれるっていいことばかりではないんだね」
 もし私以外のわたしが大きく成長して記憶や意識を支配し始めたら今の私は死んでしまうのだろうか。それとも新たな認識世界の私の中で今の私は生き続けることが可能なのだろうか。
 私が自分を強くもっていないとすぐにでも自分の中の別のわたしに支配されてしまうかもしれない。
 でももし別のわたしに支配されたとしても、それがやっぱり私なのだ。あるいはどれも私であって私ではないのかもしれない。
 それほど一個人というのは大きく、宇宙全体をのみ込んでしまうほど複合と連続と統一という矛盾を孕んだ奇妙な存在なのだ。
 人の外に世界があるのでなく人の内に世界がある。
 紅一色だった世界が黒い闇に徐々に包まれていった。四方八方から紫色の闇が迫って来た。
 この世界には太陽がない。闇は東だけでなく全方面から迫って来る。真上の空だけは最後まで真紅の、記憶の黄昏の残滓を抱き、その真紅は天高くから悲哀に満ちた闇を見下ろしていた。
 林檎の兎は活発に、生気に満ち、空を悠々と飛びまわり始めていた。紫色の闇に、紅い糸のような幾筋もの光線を織り成し、官能的な光で辺りに旋風を起していた。
 林檎の兎は夜行性なのだ。
「もう帰ります。いろいろ教えてくれてありがとう」
 私はもう帰ることにした。この奇妙な世界、恐ろしくもあり、安堵を与えてくれるこの世界から。
「わかりました。また会いましょう」
 たくさんのわたしたち、あるいはたった一人の私自身が答えた。
「はい。必ずまた来ます。ではまた……」
 私の体は地面の中に混ざり合って溶け、消えていった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-05

Public Domain
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