『学園生活』 ~ミウの物語

「ミウちゃん。そろそろ起きないとお昼休み終わっちゃうよ?」

クラスメイトの声でミウは目を覚ました。
身体は鉛のように重く、真夜中に目覚めたかのように不快だ。

着なれない学生服の感触、天井には規則的に配置された蛍光灯。
ごおごおと、空調の音がする。窓の外は強烈な太陽光。
教室内はそれとは無関係に涼しくて快適だ。

「顔色悪いけど、家でちゃんと寝てる? 
 保健室連れて行こうか?」

「……いや、体調は悪くないから。
 ごめんね。心配かけて」

ミウの前に座るのはメガネをかけたおとなしそうな女子だった。
この世界ではミウの少ない友達の一人なのだ。

「おまえら、おっす。席に着け。授業はじめんぞ!!」

いかつい風貌の世界史の教師が入って来た。
筋肉質でどうみても体育教師に見える。

彼は語り口調が独特で面白く、どのクラスでも人気があった。

(ここは高校の教室なのね。私、また別の世界に飛んだんだ。
 あの鳥居をくぐったら別の世界に行くことはなんとなく
 想像していたけど、それにしても急展開過ぎるよ)

ミウが通っていた学校とは違う。そもそも彼女は一学年の時に退学したのだ。
ここは二年生の教室だった。黒板に書かれている日付は6月の下旬。
もうすぐ梅雨が明け、過酷な夏が始まろうとしていた。

「世界史の授業中にね、太盛君がミウのこと
 心配そうに見てたよ。気づかなかった?」

帰り支度をしていると、髪の長い女の子にそう告げられた。

「え? 太盛くん……太盛君って……だれ? 太盛……さま?」

「はぁ? あなた太盛君を忘れちゃったの?
 あの有名人の太盛君を? それってブリテンジョーク?」

「いや、冗談じゃなくて……」

その女の子が男子達の方を指すと、ミウのよく知っている男がいた。
間違いなく太盛である。ミウの知っている彼よりずっと若返っている。

夏服姿の高校生の太盛である。

長めの黒髪。童顔で女性的な顔立ち。
女装すれば似合うだろうと噂されていた。

成績優秀。落ち着いた性格でいわゆる優等生タイプ。
先生の推薦でクラス委員をしていた。壇上に立つと
ハキハキしゃべるリーダーシップのある人物だ。

(太盛様って、女子みたいな顔してたんだ……。
 すごくかわいくて草食系男子ってイメージね)

ミウはカバンにとりあえず教科書やノートを適当にしまい、
帰ろうかと思ったが、そもそも帰り道が分からない。

帰る家がどこにあるかすらわからないのだ。

「さっきからキョロキョロしてなにしてるの?」

女子が不思議そうにミウを見ている。

まさか自分の家が分からないと言えるわけがない。
頭のおかしい人と思わること必至だ。

「高野さん」

と男子に呼ばれて振り返った。ミウの席は、廊下側の一番後ろの席。
ミウの後ろにいたのは件の太盛だった。彼女の本名は高野ミウという。

「午後の授業から具合が悪そうだったけど、大丈夫?」

「え、ええっと、いえ。だ、だだ……大丈夫ですよぉ」

「大丈夫なようには見えないな。
 話し方とか普通じゃないよ。熱でもあるんじゃないか?」

「私もそう思って心配してたのよね。
 この子、さっきから言ってることがおかしくて、
 家まで1人で帰れるのかしら」

髪の長い子がケラケラ笑うと、太盛が不快そうな顔をした。
女子は彼の雰囲気を察してすぐに笑みを消した。

「太盛君」 と、太盛に声をかける女がいた。

「部活に遅れるといけないわ。早く行きましょう?」

小鳥がさえずるような高いトーン。
ゆったりとしていて優雅だが、威圧的に
話す人物は、間違いなくエリカだった。

エリカも夏のYシャツ姿だ。ベージュのサマーセーターに
紺色のスカートと、どこにでもいそうな学生の姿。

屋敷時代も年齢を感じさせないほどの美女だったが、
10代のエリカは肌がきれいで美しさの次元が違った。

「でもね橘(たちばな)さん。俺は一応クラス委員だし、
 高野さんの様子がおかしいからほおって
 おくわけにはいかないよ」

「うふふ。エリカって呼んでいいのに。
 女の子には女の子の悩みがあるものだから、
 関わりすぎるのも良くないのよ?」

エリカは視線だけを髪の長い子に向けた。

「そこのあなた」

「は、はい?」

「高野さんを保健室に連れて行ってほしいのだけど。
 もし病気だとしたら素人の私たちより
 保健の先生に見せるのがベストだと思わない?」

なんで私が、と嫌そうな顔をしたらエリカに見透かされた。

「あら、ごめんなさい。こんなこと急に頼まれても迷惑よね?
 やっぱり私が」

「と、とんでもない。私暇ですから! それじゃあ、行ってきまーす」

またこんなカースト制度みたいなことを、と太盛が小さく溜息を吐いた。

エリカはお嬢様で成績も抜群で、クラス内の女子の中で一番高い地位にいた。
外国風の美人であり、知的な話し方からクレオパトラと陰で噂されるほどで、
太盛の近くにいたいからという理由だけでクラス委員にも立候補していた。

「太盛くぅん。今日も一緒に部室に行きましょう?」

ぴったりと太盛の近くに寄り添い、まるで夫婦のように廊下を歩くのだった。
太盛はもう慣れたもので、特に感じることは何もない。しかしエリカにとっては
放課後の校内を彼と歩くことは一種の儀式になっていた。

エリカは大胆が過ぎるのである。普通なら校内で悪いうわさが広がるものだが、
誰しもエリカに逆らうのが怖くて見て見ぬふりをした。
上級生たちからも何も言われないのだから、相当なものである。

ここは美術部の部室だ。絵具の独特の匂いがする。
エリカは自分の席に座ってイーゼルにキャンバスを置く。

なかなかデッサンを始めようとせず、ペットボトルの紅茶を飲んでいた。

「暑くなってきたわね。エアコンがないとこの時期は辛いわよね」

「そ、そうですね。ほんとじめじめして嫌な季節ですこと」

隣の席の一年生の女子が恐縮して話す。

「でもね、ここのエアコンは少し効きすぎなのではないかしら?」

「あ、寒かったすか? ちょっと下げてきますね」

気を利かせた男子がエアコンのリモコンを操作した。

この美術部は特殊な部活であり、なんと三年生が一人もいなかった。
少し前までいたのだが、エリカと喧嘩してみんな辞めてしまった。
三年生の先輩はみんな女子だった。

部員はほとんどが女子で、男子は三人しかいない。
二年の太盛の他には一年生の男子が二人。二年生はエリカを初め女子のみ。

先輩たちが喧嘩した理由は単純で、エリカの態度がでかすぎること。
常に太盛とイチャイチャしているのがうざかったことだ。

しかもエリカは吹奏楽部から転部してきた身なのに、
女王のように振舞うものだから先輩たちの怒りを買った。

転部の理由は単純。太盛と同じ部活に入りたかったからだ。


「最近パステル画に興味があるのよね。
 油絵よりさっぱりしていて楽しそうじゃない?」

「はい。いいですよね、パステル」

「私ね、部活は音楽ばっかりだったから、美術には詳しくないのよ。
 良かったら教えてくださらない?」

「わ、私でよろしければ」

部室内ではエリカが文字通り女王様。後輩部員はもちろん、
同級生の部員も彼女の機嫌を損ねないように神経を使って過ごしていた。

ちょっとトイレに。そう言って太盛が席を立った。

行き先は保健室だ。エリカにばれたら嫌味を言われそうだが、
部活中なら大丈夫だろうと急ぎ足で向かった。

「高野さんはまだ寝ていますか?」

「ずっと起きていますよ」

中年の保健の先生がそう答える。
丸みを帯びた体でガマカエルのような
顔をしているが、生徒思いの先生だと評判だ。

「私ね、もうすぐ会合に出ないといけないのよ。
 月一の会議があってね。堀君。よかったら高野さんの
 そばにいてあげてよ」

「分かりました。僕はクラス委員ですから、
 よろこんで引き受けますよ」

ありがとー、と先生はフランクに言い、さっさと廊下に消えてしまった。

「せ、太盛様……」

仕切られていたベッドのカーテンを自ら空けたミウ。
こんな形で彼と再会できるとは思っていなかった。
驚きと緊張でどんな顔をしていいのか分からない。

「さま?」

太盛が疑問に思ったのはそこだった。

「なんで様なんだ?」

「いや、クセで」

「いやいや。そんな王族じゃあるまいし。
 クラスメイトを偉い人みたいに扱わないでよ。
 俺は橘エリカみたいに威張ってるつもりは
 なかったんだけどな」

「あ、そういうつもりじゃなくて」

「いいよ。気にしてないから」

といって太盛は笑った。

「でもさ。高野さん、なんか変だよ」

「そうかな……?」

「うん。カンで分かるんだ。なんか君、別人みたいだよ」

「そんなに私のこと、見ててくれたの?」

「君だけじゃなくて、クラスの人のことはみんな心配してるつもりだよ」

それはクラス委員だからって意味ね、とミウは少し落胆した。

「ちょっと心が不安定なの」

「……クラスの女子に嫌がらせとかされたの?」

「そういうのとは違うの。全然違う。問題はもっと別のことなの」

「あっ、ごめん。男の俺があんまり聞かないほうがいい話題かな?」

「いいの。聞いてほしいの。ただ、本当のことを話したら、
 なんて思われるか心配で」

「いったいどんな話? まさか実は二重人格で
 今は別の人格が出てるとか?」

「それに近い……。実はね」

「うん」

「帰り道が分からなくて困ってるの」

太盛は本気でミウの頭の心配をしてしまった。

英国からきた帰国子女なのは聞いていたら、ジョークの一種だと
笑い飛ばしたかったが、ミウは真剣に悩んでいるようだった。

太盛は困っている人をほおっておけない性格だった。

「嘘ついてるわけじゃなさそうだね。
 言っちゃ悪いけど、病院で見てもらったほうが……」

別の世界から来たことなど説明しようがない。
太盛は本気でミウの心配をしてくれてるのが分かるから、
余計に辛い。

ミウは耐え切れず泣き出してしまった。

「ご、ごめん。泣かせるつもりはなかったんだっ!!」

おろおろし、あたりを見渡す太盛。
はたから見たら太盛が女の子を泣かせているように見えるだろう。
事実そうなのだが、別にいじめたわけではない。

「あーら。太盛くん。こんなところでおしゃべりしてたのね?」


「あーら。太盛くん。長いトイレだと思ったら、
 こんなところでおしゃべりしていたのね?」

タイミングよくエリカが保健室に入って来た。

しくしく泣いているミウと、あわてている太盛。
エリカは一瞬だけ視線をミウに向けたあと、
命令するような口調で言い放つ。

「早く部室に戻りましょう?」

「な」

太盛はミウのことを気にも留めないエリカに腹が立った。
薄情を通り越して冷徹である。

「今日の部活は中止だ。それより高野さんのことが心配だよ」

「それは私たちの仕事じゃないわ。保健の先生にお任せしましょうよ」

「クラスメイトが困ってるのにそんなわけにいくかよ。
 それに保健の先生は会議に出てて不在だよ」

「太盛君、もしかして高野さんと二人きりになりたくて
 保健室に来たの?」

「そうじゃないよ!! おれはただ彼女のことを心配して!!」

屋敷で見ていた夫婦喧嘩とまったく同じ展開だった。
ミウは哀しみより懐かしさがこみ上げてきて、少し笑いそうになった。

なにより太盛が自分のことを心から心配してくれていることが
うれしかった。屋敷にいる時の太盛もこんな感じだった。

そしてミウは、屋敷時代のエリカがミウに
強く出れないことを思い出していた。

「わ、私は!!」

何事かと太盛とエリカがミウに注目する。

ミウは、美人だが人前に出ることが苦手な生徒だった。
授業中も挙手することはめったになく、中学時代の女子の
嫌がらせのせいで内気な性格になっていた。

「私は太盛様にいてほしいです!!」

ツッコミどころはたくさんあった。

当たり前のように様づけのこと。
そして学園では逆らう者がいないと思われたエリカに
対して積極的に意見したこと。(反抗ともいう)
声もでかい。

(今ので確信したわ。この女、病弱なふりして
 太盛君を誘おうとしてるのね)

エリカの瞳に嫉妬の炎が宿る。太盛はエリカの怒りの
オーラのすさまじさにたじろぎそうになった。

「なんで太盛君なの? さみしいなら他の生徒じゃダメ?
 その辺から暇そうな女子でも連れてこようか?」

「私は太盛様といたいです!!」

「あなた、それだけしゃべれるなら元気じゃない。
 もう保健室にいるのはやめて、一人で帰りなさいな」

「家に帰るのは事情があって、その。家の場所とか分からないし」

「はぁ……? 何言ってるのかしら。家の場所が分からない?
 仮病かと思ったけど、ほんとに頭でも打ったの?」

「奥様。お願いです。ここは引いてください。後生ですから」

奥様と呼ばれ、思わず阿呆のように口を開けてしまうエリカ。

どうやら自分を奥様と呼んでいることが分かると、
ますますおかしくなって笑ってしまった。

「あはははは。ばっかみたいなこと言うのねー。
 なにそれ、ドラマのセリフの練習?
 使用人みたいなしゃべり方じゃない。
 高野さんってこんなにおかしな子だったのねっ。
 どおりでいつもクラスで目立たなくしてるわけだわ」

「おいエリカ、あまり笑うと悪いよ。
 彼女だっていろいろあるんだよ」

「さっきからこの子の肩を持つのね。
 太盛君、髪は長めの方が好み?
 私も少し伸ばしたほうがいいかしら」

「容姿のことじゃなくて、
 俺は高野さん個人のことを心配してるんだよ」

「最低ね。浮気よ浮気」

「俺と君は付き合ってないじゃないか」

「でも世間的にはそうなっているみたいだけど?
 先生方からも公認だし」

「君がいつも俺と一緒にいるからそういう流れに
 なっただけじゃないか」

ミウはこの貴重な情報を一字一句漏らさず聞いていた。

太盛とエリカの関係は夫婦になる前からそう変わらない。
やはりエリカの方から積極的に迫っていくスタイルだ。

それにしても二人が知り合ったのは大学時代と聞いていたから、
時系列的にも滅茶苦茶。しかも17歳のミウと彼らが同級生になっている。

当たり前のことだが、マリンやレナ達はこの世界で生まれてすらいないのだ。

prrrrrrr

「ちっ。こんな時に電話」

エリカがスマホを取り出し、
家の使用人たちと電話で何事かを話していた。

「え? もうそこまで迎えに来てる?」

エリカの顔が険しくなる。どうやら急用なので
すぐに帰らなければならないとこのこと。

「そういうわけだから、ごきげんよう。
 太盛君。今日のことは明日詳しく聞かせてね?」

それとミウさんとも話をしないとね。
そう付け加えて早足で去っていった。

太盛が保健室のカーテンを開けると、校庭のすぐ近くまで
黒塗りの高級車が迎えに来ていた。

「す、鈴原さんだ!!」

運転手が会釈する場面をミウは見逃さなかった。
初老のはずの鈴原はずっと若くてりりしかった。

エリカからカバンを受け取り、後部席の扉を開けてあげた。
あのいぶし銀な動作。他人のわけがなかった。

「君は鈴原さんのことをよく知っているな」

「せ、太盛様も知ってるの……ですか?」

「なんどかエリカの家に食事に呼ばれたからね。
 鈴原さんにはお世話になったよ。
 あの家で長年勤めている使用らしいね」

「知ってる人に会えてうれしい……。
 後藤さんもいるのかな?」

「後藤? 後藤って料理係の後藤のことかい?」

「はい」

「いるよ。いるもなにも、うちの使用人なんだけど」

「えええっ」

今すぐに会いに行きたいくらいだった。だが、間違いなく初対面のはず。
ここで下手なことを言うとまた頭の心配をされそうなので
慎重に言葉を選んだ。

「使用人がいるなんて、せ、太盛様の家はお金持ちだよね? 
 じゃなくて……ですよね?」

「うちは別に大したもんじゃないよ。それより様はいらないから。
 あと敬語も変だよ。普通同級生に敬語は使わないと思うけど。
 気軽に下の名前で呼べばいいじゃないか」

「せまる……くん」

「うん」

「太盛くんでいいのね?」

「ああ」

「わ、私のことも」

「ん? さっきから震えてるけど大丈夫?」

「緊張してるだけ……。気にしないで。
 私のこともミウって呼んでほしいの」

太盛が考え込む動作をした。

「あれ? 嫌だった?」

「俺はいいんだけどさ。君のこといきなり下の名前で
 呼んだら周りの人間がうるさいと思うけどなぁ」

「それでも呼んでほしいの!!」

太盛が椅子から転げ落ちそうになった。
それほどミウの声量は大きかった。

「あっ……急に怒鳴っちゃってごめん」

「いいよ」

太盛は深呼吸してから

「ミウ。分かった。君がそこまで言うなら名前で呼ぶよ」

「ありがとう。太盛君。とりあえず、お願いがあるんだけど」

「なんだ?」

「帰り道、案内してくれない? 私の家までさ」

太盛は、ミウが何か企んでいるのではないかと疑ったが、
エリカの件もあるし、それはないだろうと判断して一緒に帰ることにした。

(しっかし、こうして近くで見ると)

太盛は長身のエリカと違い、小柄なミウがセミロングの髪を
なびかせて歩くのを感心するように見ていた。

ミウは愛らしい容姿から学内で絶大な人気があって、
一種のアイドルと化していた。内気で人前に出ようと
しないところも人気に拍車をかけていた。

(ミウってこんなに可愛い子だったんだな。
 泣いた直後ってのもあるけど、守ってあげたくなる
 オーラを発してるよ。これで世の男子はイチコロってわけか)

校庭を歩くと、練習中の野球部、ラグビー部、陸上部の面々とすれ違う。

彼らの一部は練習の足を止めてまで太盛とミウを指さして騒いでいた。
ミウは大量の視線を感じるので意味が分からなかった。

(なんであの人達、こんなに見てくるんだろう?)

(まずいなぁ。明日から尋問会にならなければいいが……)


校門を出て、西の方角へ進む。
ここは進学校。田舎の私立高校だ。

広大な田園風景の中に住宅が点在する。
太盛とミウは、梅雨時の蒸し暑さの中肩を並べて歩いた。

車道も歩道も広い。車はめったに通らず、快適だった。

たんぼの稲が順調に育っていて、トンボがあちらこちらを飛んでいる。

田園の先には雄大な山が並んでいる。
山の先に見える沈みゆく太陽が、2人の影を作っている。

この時期は日が長いので、夕日が沈むまでまだ時間がある。

「ここは本当に田舎だね」

「そうね。ところでここって何県だっけ?」

「栃木県。栃木県の北部だよ」

ミウはカバンを落とした。太盛は無言で拾ってあげた。

「ミウは本当にすべてを忘れちゃったんだね?」

「そ、そうなのよ。驚いた?」

太盛は気の毒そうな顔でミウを見ていたが、
やがて面白くなって笑った。

「……バカにしてるでしょ?」

「いや、むしろ新鮮かな。君にだから言うけど、
 正直エリカといると気が休まらなくて疲れるんだよね。
 君は逆に面倒見てあげたくなるから不思議だよ」

「太盛君って優しそうだよねー。
 将来良いお父さんになりそうじゃない?」

「俺がお父さんか。想像もつかないな」

「娘がいそうなイメージ。三人くらい」

「はは。娘がいたらきっと可愛いんだろうな。
 だけどあいつの血を引いてる子は少し嫌だな」

「あいつって?」

「エリカだよ。実はね、エリカが親と勝手に話し合って
 婚約の話を進めているんだよ。
このままだと将来本当に結婚するかもしれない」

これが運命の歯車だとミウは理解した。
この世界でも普通に進めば太盛とエリカは結婚する流れなのだ。

ミウが知っていた世界と違うのは、大学時代よりも先に知り合って、
高校で有名なカップルになっている。

ミウは、自分がこの世界に送り込まれた意味を正しく理解した。

ここで太盛とエリカの仲を引き裂かなければ、この世界でも
エリカの犠牲者が出る。ユーリのような犠牲者は二度と出したくない。

「太盛君にはもっとふさわしい人がいると思うよ」

すごく意味深な言い方だが、太盛はあえて突っ込まずに笑って済ませた。
太盛はミウの言いたいことがなんとなく伝わったのでうれしくなった。

「あそこに踏切があるだろ?」

「うん」

「あの先に大きなマンションがある。
 君の家はあそこのマンションのはずだよ」

「ありがとうね」

「どういたしまして。それじゃあ、俺はここまでだな」

「太盛君の家はどこなの?」

「ここからだと結構離れてるよ。
 学校の最寄駅から、三駅ほど離れた場所にある」

「そうなんだ」

「ここまでくれば大丈夫だろう。それじゃあ、また明日」

「待って。一応連絡先を」

「うん。LINEでいいかな?」

こうして何気なく連絡先まで交換してしまったのだが、
これが翌日大問題になったのだった。

「それがどうかしたか?」

朝、太盛が教室に行くと、エリカが仁王立ちして待っていた。

「話は聞いたわよ。昨日はミウさんと一緒に帰ったそうね?」

ざわっと、教室内の視線が集まる。

浮気か。修羅場か。クラスメイト達がうわさ話を始める。
運動部の人達が彼らの下校シーンを目撃しているので、
校内では昨日のうちにうわさになっていた。

「それがどうかしたか?」

太盛はそれだけ言って席に座った。

やっぱり喧嘩だよ。と女子達がささやきあう。

「どうかしたかじゃありませんわ。大問題よ?
 まさかミウさんの家にあがってないでしょうね?」

「そこまではしてない。マンションまで道案内してから帰ったよ」

「昨日は私のメールを無視したわね?」

「眠かったからラインするのが面倒だったんだよ」

あまりにもそっけない態度にますますエリカがいら立った。
エリカは彼に冷たくされると悔しくてたまらなかった。

太盛が「話はそれだけか?」と言うものだから、
教室内は冷凍倉庫のように空気が凍り付いてしまった、

「お、おはよー」

小動物のように登校してきたミウ。

何年振りかの学生生活。教室の扉を開けるのがこんなに
緊張するとは思わなかった。

浮気相手が来たぞ……。

男子達が口々に言い、騒然とする。
なんと、朝からエリカ、太盛、ミウが一堂に会してしまったのである。
(クラスメイトなのであたりまえだが)

ミウはすでに渦中の人になっていた。

「おはよう。ミウさん」

「おはようございます……橘さん」

「エリカでいいわ。それよりあなた、
 いったい、どういうつもりなのかはっきりして。
 堂々と人の男に手を出すなんて、恥を知りなさい」

「そんなに大事にしなくても。
 たまたま一緒に帰っただけじゃないですか」

「私、太盛君と付き合ってるんだけど」

「彼はそうじゃないと言ってましたよ」

「は?」

「付き合ってるって、エリカさんが言ってるだけですよね?
 彼に認めてもらったことあるんですか?」

ざわざわ……  ざわざわ……

朝からクラスのテンションは最高潮に達した。
クレオパトラの再来と称されるエリカに
口答えするなど言語道断である。

これは、プトレマイオス朝のエジプトで
奴隷の反逆が起きたのに等しい暴挙である。

その禁忌を破るミウには、エリカの支配を
望まない勢力から称賛の声まで上がるほどだった。

「おい、録画しとけよ」 「わかってるって」

男子達が次々にスマホを構える。
他のクラスからも野次馬が集まり、大所帯となった。

発言記録を残すためにノートを準備する者もいた。
この辺りの無駄な几帳面さはさすが進学校だった。
真面目な生徒が多すぎて話題に飢えていえるのだ。

ちなみにこの学校では提出物の期限が数日過ぎただけで
不良扱いされるほどの優良校だった。

ドガアアアアアアン

その平和な学び舎に重砲がうねったのかと思われた。
轟音(ごうおん)を発した主は太盛だった。

彼は怒りに震える拳を自らの机に叩き落したのだ。

「みんな、落ち着いてくれ」

彼は非常にリーダーシップのある人物で教師からも信頼されている。
何よりエリカの恋人の地位だ。みんな静粛にした。

「もうすぐHRの時間だ。朝から騒ぐのはやめてくれ。
 何か聞きたいことがある人は、休み時間に
 俺のところに直接来てくれないか?」

それでこの場は収まった。

時間でやって来た担任の若い女教師は、戦場の
ような教室の雰囲気に圧倒されそうになったが、
いつも通り朝のHRをやり過ごした。

その日の午前中は大変だった。

セマエリ・カップルが喧嘩して修羅場など。
太盛が学園のアイドルと浮気して三角関係など。
とにかく学園内はうわさで持ち切りになった。

そして昼休みが訪れた。

「太盛君。朝はひどいこと言っちゃってごめんなさい。
 あとでミウさんにも謝っておくわ」

「……俺も少し気が立っていたよ」

「あなたとゆっくり話がしたいの。
 久しぶりに外で食べない?」

「そうだな。ここにいるとみんなに見られちゃうからな」

太盛はエリカに付き添われて校庭へと行く。
校庭には多数の雑木林が埋め込まれているゾーンがあり、
木陰でカップルなどが昼食をとる場所となっている。

芝の上にシートを広げて、思い思いの時を過ごす生徒たち。
今日は雨雲が目立ち、風が吹いているので生徒の数が少ない。

「私は太盛君のこと愛してるの」

「それ聞くの、もう百回目かな」

「朝考えたんだけど、ミウさんの言う通りだなって思ったの。
 私から太盛君に気持ちを伝えるだけで太盛君からは
 愛をもらってないわ。一方通行の愛よ。それは分かっているわ」

「愛か。俺たち結婚してるわけでもないし、
 そんな気軽に使っていい言葉なのかね。
 もっと重い響きがある言葉だとおも…」

「私のお父さんがね、太盛君のことすごく気に入っているのよ。
 またいつでも遊びに来なさいって言ってたわ」

「ちょっと話が急すぎるかな。
 俺たちは2年に進級してから同じクラスになったばかりで、
 まだお互いのこと良く知らないじゃないか」

「知らないことなんてたくさんあると思うわ。
 これからゆっくり知っていけばいいじゃない」

「君は前向きなんだな」

「世の中は楽しい方向に考えないと損よ?」

「それはそうだけどさ」

太盛はさっさとお弁当を食べ終えてしまった。
頼んだわけではないが、エリカが太盛の分まで作ってくれる。
毎日ではないが、こうして一緒に食べる日は必ず作ってくれる。

「ご両人。お食事中、失礼しますが」

「君は誰だ?」

太盛達の前に立ったのは、太った男子生徒だった。
赤いバンダナを頭に巻いており、よほど汗かきなのか
メガネを外してはハンカチで顔の汗をぬぐっている。

「隣のクラスの飯島(いいじま)です。堀君が休み時間なら
 質問を受け付けると言っていたそうだから、
 実際に来た次第であります」

「確かに俺はそう言ったな。いいよ。何でも聞いてくれ。
 あ、だけどその前に、その胸に付けたバッジは……」

「はい。ミウ様を慕っている者です」

彼らは、表向きは世界史研究会という同好会に属している。
実は裏の活動があって、高野ミウのファンクラブだった。
高野ミウの健全な学生生活を見守るために、変な男が
近づいたら排除するのも仕事としていた。

「単刀直入に伺いますが、ミウ様と堀君はどういうご関係で?」

「別に恋仲じゃないから安心してくれよ」

「恋仲ではない? では、なぜ昨日は一緒に帰ったのですか?」

「ミウに道案内してほしいって言われたんだよ。
 帰り道が分からないとか言ってたからな。嘘じゃないぞ?」

「ミ、ミウですと……」

メモを取っていた男はペンを落としそうになった。

「その親しげな呼び方は……やはり堀君はミウ様と
 付き合ってるようにしか思えません」

エリカも飢えたライオンのような顔で太盛をにらんでいる。
ここで受け答えを間違えれば、ファンとエリカの双方から
抹殺されかねない。

「付き合ってないよ。だって今まで話したこともなかったし。
 あえていうと友達かな?」

「友達ですと……」

男は怒りでプルプル震え、背負ったリュックをボスンと芝に落とす。
その中から高級そうな手帳を取り出した。

「彼らは別れる前にLINEを交換した。その様子は実に親しげだった。
 ミウ様は照れ臭そうにしながらも終始笑顔で会話を…」

「こらこら。何を読んでる? てかなぜ知ってる?」

「失礼ながら、ミウ様の登下校にはこっそりと尾行の者が
 ついておりますゆえ。ちなみに交代制です」

「尾行がいるなんて全然気づかなかったぞ。
 それってミウの迷惑にならないか?」

「むしろ感謝していただきたい。我々が遠く離れた場所から保護している
 からこそ、ミウ様がいじめなど事件にあうことを未然に防いでいるのです」

「いじめか。あの子、中学時代は女子に集団無視されてたって…。ぐっ」

エリカからお腹に思い肘鉄(ひじてつ)を食らい、呼吸が止まる太盛。

「ちょっと、太盛君。携帯見せて」

エリカが太盛から強引に携帯を奪うと、
一瞬でミウのLINEのデータを消してしまった。

「おま……なんてことするんだ!!」

「私以外の女の連絡先は
 必要ないって、いつも言ってるでしょ」

「人の携帯を勝手にいじるなよ!!
 エリカにはプライバシーの概念がないのか!!」

「あなたこそ、私に隠れて他の女と仲良くしちゃだめじゃない。
 あ、そこのあなた、飯島さん? 教えてくれてありがとうね」

太盛とエリカが犬も食わぬような喧嘩を始めてしまったので、
世界史研究会の飯島は立ち去ることにした。

彼は心中穏やかではなかったが、
エリカが嫉妬する限り
太盛とミウの関係が進展することはないと判断した。

彼らはミウが余計な事件に巻き込まれなければそれでいいのである。
だが、嫉妬の鬼エリカはそれだけでは終わらなかった。

無題


「太盛。今年の海外旅行に行きたい国があったら早めに考えておきなさい。
 ホテルの予約をしないといけないから、
 できれば学期末のテストが終わる前までにな」

「分かりました。お父さん」

太盛は夕飯を食べたあと、自室で地球儀を眺めていた。

「もうすぐテストか。めんどくさいなぁ。
 でもそのあとは長い夏休みだぞ」

太盛の家は、毎年夏に海外旅行に行くのだ。
党首である父が西洋好きなので、
西ヨーロッパの主要な国は今までにほとんど旅した。

そろそろ欧州も飽きてきた。
ロシアや中東、南米には行ったことがない。

太盛は父に似て歴史や遺跡巡りが好きなので、
なんとなくエジプトに行ってみたいと思っていた。

「エジプトは長い間、英国の植民地だったんだな。
  英国といえば、ミウは英国育ちだったようだな。
  英国は大英博物館が有名だな。いろいろ話を聞いてみたい」

スマホを手に取り、ラインを送ろうとするが、

「あっ、ミウのデータ消されたの忘れてた。
 エリカの奴め、どんだけ嫉妬深いんだよ」

どうやらミウは記憶喪失のようなので、太盛がいろいろとお世話を
してあげようと思っていた。実は下心も少しあって、
アイドル顔の純粋な美少女と話すと心が癒されるのだ。

(あの子はファンがいるのもよく分かるよ。
 俺があの子を独占しちゃったら大変なことになるだろうな。
 世界史研究会の奴らに囲まれてフルボッコにされるかも)

キングサイズのベッドに横になる。
天井を見ながら頭に浮かんだのはミウの笑顔だった。

(美少女……。美少女ねぇ)

太盛は彼女の顔が頭から離れなかった。
ただのクラスメイト。そのはずなのだが、まるでどこか別の
世界であったかのような、不思議な感じがした。
これは既視感なのか。それともただの偶然なのか。

彼女から『太盛君は将来娘が三人いそう』と言われた時にも同じ感覚がした。
ごくわずかな頭痛と耳鳴りを伴う、本当にわずかな感覚。

「太盛様、お風呂の準備ができましたよ」

「分かったよ。いつもありがとう」

使用人の女性から言われ、太盛はベッドから上体を起こした。

入浴後、うれしいことに着信履歴があった。
ミウからだった。

「LINEとは別に電話番号も交換してたんだっけ。
 エリカの奴もこっちには気づかなかったか」

さっそく電話すると、2コール目で出た。ほぼ一瞬である。

「こ、こんな時間にごめんなさい。迷惑だったらかけなおしますけど」

「いや、かけているのは俺の方だから。それと敬語はいらないって」

「そうだったね」

「それで、どうしたの?」

「今日、太盛君にLINEが送れなかったから」

「あー。それか。実はちょっとした手違いで
 ミウのデータを削除しちゃってさ」

「え?」

「言っておくけど、俺じゃないよ?
 昼休みにエリカが勝手に消しやがったんだ。
 ほんとわがままだよな。
 初めて会った時はこんな奴じゃないと思ってたのに」

「エリカ奥様はやっぱり嫉妬深いですね」

「そう。エリカ奥様がな」

電話口で太盛は楽しそうに笑った。

「エリカさん……ですよね」

「どっちでもいいよ。奥様って言ったほうが様になるな。
 あの年で女王の貫禄があるからな」

「ええ。本当に。あはは」

緊張しつつも、ミウも笑った。かつての主人である太盛が相手である。
しかもミウの知らない昔の太盛との電話である。
彼は高校生の時から落ち着いていて、童顔なのに内面は大人だった。

「俺さ」

「はい」

「保健室で君と話した時から、不思議な感覚がしたんだ。
 カン、なんだけどね。俺は君と会ったことがある気がする」

ミウは衝撃で携帯を落としそうになった。

「小さいころに会ったことがあるとか、そういうのとは何か違う。
 なんか……なんていうのかな。どこかで君と話すと懐かしい感じがした」

なつかしさ。それはミウも同じだ。

あの世界で太盛は収容所に送られた。

その後の経過をミウは知らないが、遅かれ早かれ死んだはずだ。
あの世界にいる限り、太盛と再開できることはなかった。
ユーリとマリンも失った。

使用人のことは家族の一員だと思っている。
生前の彼の言葉は決して嘘ではなかった。

それなのに何が狂ってしまったのか、家族全てを
捨ててユーリと蒙古へ逃亡すると言う暴挙を犯していしまった。
彼は最終的にユーリに家族以上の情を抱いた。

エリカが元凶か。太盛の心の弱さが原因か。
今となってはどうでもいい。

これは、失われてしまった家族の絆を取り戻すための小さな旅なのだ。

「ミウの記憶喪失の正体を知りたいな」

「記憶喪失ですか」

「俺はキリスト教徒だから、天使や精霊とか、目に見えないものの
 存在を信じているんだ。実は俺の親父殿がこっちの専門家でね。
 本業とは別に何年もずっと研究していたみたいなんだ。
 霊的な力によって記憶を一時的に失う事例も過去に存在したらしいよ」

(なるほど。どうりでご党首様がご神鏡を持ってらっしゃるはずだわ)

「実は私もけっこうオカルト系って信じちゃうタイプなんですよねー。
 特に日本の神道とか、意外とユダヤ系と関係があるとか
 ネットで言われてますよね」

「話が合うね。そうそう。うちの親父もそれについてよく口にしていてさ」

太盛が得意げに知識を披露するのを、ミウは辛抱強くよく聞いていた。
太盛は屋敷時代も興味のある分野の話をすると止まらなくなるくせがあった。

聞いてる方は退屈かというと、最後まで聞いてると意外と勉強になる。

「イングランド国教会のこととか、
 君から聞きたいことはたくさんあるんだ」

「私も太盛君ともっとお話がしたい。
 記憶がないから分からないこと、たくさんあるもの」

「それならさ、今度休みの日に会おうよ。
 エリカがいない日を狙ってさ。あとファンクラブの奴らもうざいな」

「ファンの人達は私の方から邪魔しないように言っておくよ」

「そうかい? あいつら意外と凶暴だから気を付けて。それじゃあ」

「Yes. good night. sir」

「Don’t call me sir please? Good night my friend.」

思わず英語が出てしまったところでも、敬称を使うなと
さりげなく言ってくれた太盛。

(太盛様の英語、発音がうまくなってる。
 前はすごくたどたどしい英語だったのに)

色々と元の世界と設定が異なっているが、記憶喪失のために
太盛と接近できたのは大きな収穫だった。

実はLINEがエリカに消されたことは予想がついていた。
むしろ電話するきっかけを作ってくれて感謝したいくらいだった。

ミウはこうしてゆっくりと、確実に彼との距離を縮めていくのだった。

「雨が続くわねぇ 屋内でデッサンをしてもネタが尽きるわ」

放課後の部活動の時間だった。
エリカは偉そうに足を組みながら鉛筆デッサンをしていた。
テーブルに置いたマネキンの腕をよく観察している。

「基礎を学ぶには屋内デッサンの方がよろしいかと。
 慣れるまでは果物などの静物画を中心にすると良いですよ?」

一年生の女子にすごいお嬢様がいて、エリカに
負けないくらいの家柄だった。それが今話している子だ。
彼女らは気が合い、友達同士のように接していた。

「何を書くにしてもまずはデッサン力ですわ。
 基礎的な練習を怠ってはいけません。
 あの巨匠のダ・ヴィンチもデッサンの達人として有名でした」

「ふーん。そんなものなのかしら」

テーブルクロスの上に置かれたワイングラス、リンゴ、靴。
その一年生はキャンバスの上で鉛筆を走らせて
あっという間に下書きで埋めてしまう。

細い指で油彩筆をしっかりと持ち、色を付けていく。

「いつ見てもエキゾチックな色合いね。
 日本風に言うと極彩色と言うのかしら。
 あなたはゴッホのように原色を好むのね。マリーさん」

「ファン・ゴッホを意識したわけではありませんが、
  見たとおりに描いてもつまらないでしょう?
  機械の力を借りる写真と違って、
  絵画は画家の想像力と感性の世界ですから」

マリーの絵は、端的にいうと濃くて派手だ。
着色は筆のタッチが残るほどの荒々しさ。
テーブルの背景は異世界を思わせる赤で統一させている。

部屋の小さな窓、窓から見える校庭も描かれており、
観る者を飽きさせないようになっている。

果物や靴は平面で描かれ、写実性を放棄している。
さらに何気なく置かれた椅子も背景の一部になっている。

イスもテーブルもカーテンも、背景に溶け込むほど
赤い色で塗られている。なぜ背景と色を対比させないのか。
その理由は書いた本人にしか分からない。

「マリーちゃんの絵は」

メガネをかけた一年の女子が言う。

「アンリ・マティスにそっくり。荒々しくて野性的。
 ジャンル的にはフォーヴィズムよ」

「そういうジャンル分け、いかにも日本人らしい考え方ね。
 私は自分が感じたとおりに描いているだけよ?」

「ごめんね」

「いいえ。怒ってるわけではないの。
 こういう口調だからつい勘違いさせてしまうけど」

マリーは長い髪をハーフアップにしている。
亜麻色の髪。後ろにリボンの髪留めをつけているのが特徴的。
ぱっちりした瞳に長いまつ毛。ぷっくりと丸みのある唇。

一学年で超有名な美少女だった。

彼女は視力が弱く、乱視も入っていて、
集中して作業するときは眼鏡をかけることが多い。

「みんな私のこと、マリーって呼ぶのね」

「だってあなたの署名、Marieじゃない」

マリーは絵の右下あたりに署名する。
そして決まってアルファベットで書くから、
本名のマリエではなく英語読みのマリーと呼ばれる。

「ところで先輩」

マリーがエリカに問いかける。

「今日は愛しの殿方のお姿がお見えになりませんが」

「太盛君なら用事があるらしくて先に帰ったわ」

「まあ」

マリーは驚いた顔をして筆を止めた。

「一緒に行かなくてよかったのですか?」

「私がベタベタしすぎると、彼が嫌がるでしょ」

「先輩ったら、どういう風の吹き回しですの?
 どんな時でも彼のそばを離れないのが
 先輩のスタイルだったのではないですか」

「今日の占いで言ってたのよ。強気に出るより好機を待てって。
 グイグイ行くより待った方がうまくいくらしいわ」

マリーは嘘だと見抜いたが口にはしなかった。

「それはそれは。心中お察しいたしますわ。
  先輩も気が気でないでしょう?
  最近太盛先輩の良くないうわさを聞くものですから」

「どんなうわさ?」

「あの美人さんですよ。高野ミウさん」

エリカはため息を吐いた。

「太盛君があの女に惹かれてるのはよく分かってるわ。
 授業中もちらちら後ろの席を気にして。彼、一番前の席なんだけどね、
 用もなく後ろを振り返ってあの女のこと観察してるのよ」

「殿方の反応は分かりやすいですね」

「あの女も太盛君と話したいらしくて、休み時間とか事あるごとに
 視線を合わせてニヤニヤしてるのよ。気持ち悪い。
 私に隠れて陰で連絡を取り合ってるって話も聞いたことあるわ」

「なんてことを!! それは完全なる浮気ですわっ!!
 太盛先輩ったら、顔に似合わず好色な方でしたのね!!」

ダンっ

一同の呼吸が止まる。
鉄砲の弾でも飛んできたのかと思ったが、
エリカがペインティングオイルをぶん投げた音だった。

「こ、紅茶でも淹れてきますわ」

気を利かせた女子がエリカ持参のティーポットでお湯を入れる。
この部室は喫茶店のように電気ポットやティーカップなどが常備されている。
もちろん先生の許可は取ってない。

「先輩はこんなところで油を売っていてよろしいのですか?
 今すぐにでも太盛先輩を追いかけるべきだと思いますわ。
 太盛先輩が今何をなさっているのか、私たちには知る由もありませんもの」

「今は、何もしないわ」

「え?」

「私からすることは何もないって言ったのよ」

「で、でもそれでは!! 
 太盛先輩の浮気を黙って見過ごすのと同じですわ!!」

「いいのよ。今は我慢の時。私が幼稚園の頃、おじいさまが
 良く言っていたわ。戦いは潮の満ち引きのごとく。
 攻めるべき時もあれば引く時もある」

「エリカ先輩には作戦があると?」

「そうよ。太盛君ね、本気でミウと付き合いたいみたい。
 だから全部報告してやったわ。あの世界史研究会に」

「せ、世界史研究会にですか……。なんて恐ろしいことを。
 これはもはや天変地異の前触れですわ」

うれしさ、楽しさ、驚き、全てが混ざってマリーは笑ってしまった。

マリーは腹黒い娘だった。表向きはエリカと仲の良い後輩を
演じつつ、陰では太盛とエリカの仲をこじらせて暇つぶしの道具に
しようと考えていた。

美術部にエリカが転入してきて三年生の先輩たちと騒動があった際、
一番エリカを嫌っていたのは実はマリーだった。

彼女も最初は部を辞めようかと思ったが、次第に太盛に興味を
持つようになり、彼がいつエリカに愛想をつかすか楽しみに待っていた。

(世界史研究会が動くってことは、近いうちに太盛先輩は
 病院送りにされるのかしら……うふふ。面白くなってきたわ。)


六月某日。天気は快晴だが、梅雨はまだ開けてない。
予報によると今年の梅雨が明けるのは7月の第一週だという。

テスト二週間前になって部活動の練習は中止された。

「これは何の真似だ?」

太盛は、帰り際に学校の中庭に呼び出された。

「いえいえ。こちらとしても時間を
 取らせるつもりはありませんよ。
 なにより堀先輩は上級生なわけですから」

「君たちは一年生か?」

「その通りでございます」

「こんな大人数で俺を囲むなんて、
 まるで一昔前の不良漫画みたいな展開だな。
 君たちは世界史研究会の人間か?」

「左様です。そしてここに会したのは、全て堀先輩に 
 不満を持つものばかりでございます。ここまで
 言えば大体の事情は察していただけるかと思っておりますが」

「ここはこの辺では有名な進学校だ。
 暴力事件なんて起こしたら停学になるのはそっちのほうだぞ?」

「ぐふふふ。わたくしたちとて、バカではございませぬ。
 先生方が介入されないよう、すでに裏方で手を打っておりますゆえ」

研究会の人間はオタク気質な人が多く、しゃべり方が非常に変わっていた。
まるで江戸時代の悪徳商人のようである。

彼らに共通するのは世界史研究会のバッジを、
校則バッジの隣(えりもと)につけていること。

そして極端にやせているか、デブのどちらかしかいないこと。
女にモテなさそうな顔をしているのも特徴だった。

太盛を包囲した数は十を超える。

「堀先輩はミウさまと友達だと主張しておきながら、
 休みの日にデートする約束までされていたようですな?
 エリカ先輩という美女を手にしておきながら、
 別の女にも手を伸ばそうとする。まさに畜生にも劣る所業」

「弁解させてくれ。まず俺はエリカと付き合ってないし、
 ミウもそのことは認めてくれている。俺はミウと遊びに行くだけだ。
 クラスメイトと遊ぶのがそんなに気にいらないのか?」

「嫉妬です」

「はぁ?」

「我々研究会は、ミウ様を遠くからお守りし、保護するのが務め。
 彼女は誰の者でもなく、自由奔放に生きていただきたいと
 願っている次第なのであります。
 ミウ様は所有されるものでもなければ、束縛もされない。
 その女神に等しい彼女を、ただ一人の男が独占しようとすることは
 断じて、断じて認めるわけにはいきませぬ」

太盛を囲んでいる戦闘集団のうちの一人が、
奇声を上げながらつっこんできた。

「ぐおっ」

これは完全な奇襲となり、タックルを食らった太盛は吹き飛んだ。

「次」

とリーダー格の一年が言うと、配下たちが太盛に殺到し、
殴る蹴るの暴行を加える。

「相手はリア充だ。遠慮はするな」

太盛は袋のネズミだった。なんとか一人にだけ殴り返すことができたが、
その何十倍もお返しされ、ついに力尽きて倒れてしまう。

一年生たちの拳は鋭く重かった。
それに訓練された兵隊のように機敏に動く。

倒れてもわき腹を蹴り飛ばされ、痛いのでそこを
かばうと、今度はスキだらけの背中を蹴られる。

数の暴力だ。こうなったら相手の暴力が
過ぎ去るのを待つしかなかった。

太盛の体中に鈍い痛みが蓄積していった。

「勉強ばかりが得意のお坊ちゃんには、
 少しきついお仕置きだったようですね」

リーダー格の男が言う。
地に這いつくばる太盛の手を強く踏みつけ、絶叫させた。

「制裁のあかしとして、片方の腕を折っておきますか。
 先輩。左手が動かなくてもテスト勉強には支障ありませんよね?」

問題大ありだった。まず、テスト前の大事な時期に
大けがをしたことを親父殿に厳しく叱られるし、
夏の海外旅行の計画も台無しになってしまう。

何より恐ろしいのが、このファンクラブの面々の冷たい視線だ。
まるで暗黒の中世からタイムスリップしてきたかのような、
残虐さ、冷徹さ。太盛より年下なのが信じられないくらいだ。

ここに世界史研究会の飯島というバンダナ男はいない。
彼の指示ではなく、おそらく下級生たちが暴走した結果と思われた。

その暴走を誘発したのはエリカか、それとも……


「そこの人達。そこでなにしてるんですかぁ?」

後ろから能天気な声。

殺伐とした一同がそこに目を向けると、優雅に歩くマリー嬢の姿。
わざとらしく目を見開き、手を口に当て、驚いた仕草をしている。

「君は同じ学年の斎藤さんか。我らは神聖なる儀式の最中である。
 部外者は早々に立ち去るがよい」

「そういうわけにもいきませんね。私、部外者じゃありませんから」

「なんだと?」

「太盛先輩と同じ部活ですよ。美術部です」

「そうか。同じ部活か。だが美術部員だからどうした。
 我らの制裁を邪魔する理由にはならないぞ。
 ここは修羅場である。女子供は怪我をする前に去りなさい」

「じゃあ本当の当事者を連れてきますね」

斎藤マリーに遅れてやって来たのは、なんとミウだった。

「せまるくぅぅぅぅん」

泣きそうな声で、遠くからこの中庭めがけて駆けてくる。

「ま、まずい。引けええ。ひけえええええっ」

ミウに蛮行にシーンを見られることはイメージダウン。
研究会の奴らは蜘蛛の子を散らすように去っていった。

「うそ!? ひどい、思春期の中学生でもないのに、
 どうしてこんなひどいことを!!」

ぼろ雑巾のようになってしまった太盛の姿にミウが嘆き悲しんだ。
Yシャツは泥と血とつばで汚れ、ズボンも汚い。

殴られた顔の部分は青あざになってしまい、ジャイアンとの
喧嘩に負けた〇びた君のようになってしまった。

「ほんと、世の中には過激な思想を持った人たちがいるものだわ。
 人って怒らせると怖いですわねー」

「あ、あなたは?」

「私ですか? 太盛先輩と同じ部活の斎藤マリエというものですわ。
 あだ名はマリーです」

「マリーさんね……。あなたが呼んでくれなかったら、
 太盛君がもっとひどいことになっていたわ。ありがとう」

「お礼には及びませんわ。
 それより早く先輩を保健室に運びましょう?」

認知症の老人の介護をするように、女二人で
彼に肩を貸し、保健室まで運んだのだった。

太盛は多重債務を抱えた中年男性の
ような顔になってしまい、生気がない。

吐く息は荒く、一歩歩くごとにあざだらけの身体が悲鳴を上げる。
きゃしゃな体でしっかりと自分の体重を預かってくれるマリー。

太盛は助けられて安心したため涙を流しているが、
マリーは全く気にした様子がなく、
事前に濡らしておいたハンカチで太盛の顔をふいてくれた。

「斎藤さん……。助けを呼んでくれて……ありが、とう。
 あと少しで……本当に、腕を折られるところ……だった」

「うふふ。お礼ならあとでいいですわ。
 今は先輩の治療に専念しましょ?」

(あ、もしかしてこの子……)

ミウは直感でマリーの狙いが分かったような気がした。
鈍感な太盛はそんなマリーの考えには気付く様子はない。

エリカの他にも、陰のライバルがいる。
ミウの前途はまだまだ暗いのだった。

「この、大バカ者が」

「この、大バカ者が」

案の定、太盛は党首から厳しい叱責を受けることになった。

「貴様というものは、高校生にもなってつまらぬ喧嘩をして
 怪我をして帰ってくるとは。おまえはいったい何歳になったら
 堀家の人間の自覚が身に着くのだ?」

食道の長テーブルの上座に座った父。床に正座する太盛。
これが説教の基本スタイルだった。
特に太盛が荒れていた中学時代は事あるごとに説教されていた。

意外に思わるかもしれないが、思春期の太盛は
けんかっ早く、親に逆らえないうっぷんを同級生にぶつけた。

ささいなことで口げんかになり、殴り合った。
素行の悪さから不良に目を付けられ、今回のように
集団でボコボコにされることは初めてではなかった。

女顔なのに意外とキレる系。
勉強のできる暴力男子。
周りからそう陰口を言われたものだ。

実は一部のマニアックな女子から異常に人気があった。

「おまえは推薦で大学入試を望む身である。
白昼堂々とこのような暴力事件を
起こして内申点に響くのが分からんのか!!」

「……はい。自分でもバカなことをしたと思ってます」

「テスト前の大事な時期に貴様ともあろうものは!!
 喧嘩の原因は何だったのだ!!
 またおまえが下級生に食って掛かったのか?」

「違います……」

「ではなにか!? 向こうから一方的に喧嘩を売って来たと!?」

「その通りです。帰ろうとしたら、机に書置きがあって、
 中庭に来いと。そしたら一年生の集団にボッコにされました。
 彼らはちょっと普通の集団ではなくて」

「ふむ?」

「とある女子のファンクラブなのです。
  その子は学年トップの美人で性格も良いって評判で」

「エリカ君のことか?」

「エリカじゃありません。エリカとは全然違う、優しい感じの娘です」

「その娘、なんという名だ」

「ミウさんです。高野ミウさん」

その名を聞いた瞬間、党首の頭の奥に何かが引っかかった。

「むぅ」

思わず頭を押さえる。持病の偏頭痛の発作かと思ったが違う。
党首の脳内に見知らぬ海岸の映像が浮かんだ。理由は全く分からない。

「お父さん。どうしましたか?」

「……その娘。外国育ちのような気がするな」

「生まれと育ちはイングランドだそうです。
 まだ説明してないのによく分かりましたね?」

「いや、なんとなくな……」

党首はなんとなく、その娘を見てみたいと思った。
親として、息子の好きになった女の子が気になるというのもある。

「おまえは、まだエリカ君と付き合うつもりはないのか?」

「いいえ。僕は一方的に女性からアプローチされるのは
 好きではありませんから。自分の好きな相手は自分で
 見つけようと思っております」

「ふむ。その考え方は良い。それとそのミウという娘に
迷惑をかけたのだから、謝罪をしなければな。
応急処置をしてもらった件もある。今度屋敷に連れてくるといい」

「よ、よろしいのですか? エリカがあとで嫉妬して
 大変なことになると思いますけど」

「かまわぬ。私が決めたことだ」

党首の決定は、神の意思決定に等しい力を持つ。
雷鳴のような父の声が食堂に響き渡った時、
太盛は確かな手ごたえを感じていた。

ミウと接近するのにこれ以上ない後ろ盾。
今回の暴行事件が、太盛の運命をより良い方向へ
導くものだと確信できるほどに。

党首は、結婚に関しては自由恋愛主義である。

息子の結婚は親同士が決めた相手ではなく、
できれば学生の頃から交際した相手と
決めるべきだと考えていた。



時は過ぎ、学期末テストの時期がやって来た。
太盛のクラスは優秀な生徒が集まっているので
テスト前だからと慌てる人はいない。

太盛は大怪我をしたが、テスト一か月前から
計画的に勉強を進めていたのでそれほど影響はなかった。

一週間のテスト日程を終えた後は、
テスト返却を兼ねた半日授業になる。

教室内では緊張感が失われ、誰しも夏休みの予定で
頭がいっぱいだ。比較的裕福な生徒が多いこの学校では、
太盛のように海外旅行の計画を立てる者が少なくなかった。

人は長期の休みがあるけで興奮するものだ。
夏祭り。海。プール。花火。カラオケ。
やりたいことはたくさんある。

「太盛君。私がカバン持ってあげるから」

「助かるよ」

帰りのHRが終わり、当たり前のようにミウが太盛を連れて帰ろうとすると

「ちょっと待ちなさい」

エリカが立ちはだかる。

「ミウさん。あなたは頭が悪いのか、それともわざとなのかどっち?
 あなたが太盛君とそうやって関わろうとすると
また研究会の人達を怒らせるのが分からないの? 
間接的に太盛君を傷つけることになるのよ?」

「あっそうですか。
それはエリカさんには関係ないことですよ」

と言って相手にしようとしない。

太盛は明後日の方向を向き、
エリカと目を合わせないようにしている。

エリカはしばらくミウとにらみ合いを続けていた。
エリカの視線は熱量を持って相手を射抜いてしまいそうなほどだった。

ミウは屋敷時代からエリカの恐ろしさをよく知っている。
卒倒しそうなほどの恐怖に耐えながら、視線をそらさなかった。

……修羅場が始まったぞ。

と生徒たちの視線が集まってくる。

『俺、先帰るからあとで結果教えてくれよな!!』
『おう。ビデオ撮っとくよ』
『これ、ようつべにUPしたら再生回数稼げんじゃねえの?』
『リアルでこういうの見れる機会ってなくない?』
『昼ドラより面白いんだけどー』

ミウとエリカは戦うのに必死で
スマホを構えるクラスメイト達の視線を気にしていない。

ちなみに太盛達の写真や動画が全校に流出してるのを
知らないのは本人たちだけだ。

「ミウが親切でやってくれてるんだから、ほっとけよ」

小声で太盛が言うと、エリカは思うところがあったのか、
大きく息を吐いてから走り去った。
例えるなら狩りに失敗したチーターである。

(あー怖かったぁ……。屋敷時代なら収容所行き確定だったよ……)

呆気にとられる教室の面々。今日の修羅場はこれで終わったのだ。
生徒たちは『今日カラオケ寄ってかねー?』など軽いノリで帰っていく。
もう少し派手な争いを期待していた女子達は物足りなそうな顔をしていた。

ミウと太盛は廊下へ出たが、今度は一人の男子が追いかけて来た。

「待て待て2人とも。
 さすがにそのまま帰ったらまずいことになる」

ボーズ頭の黒髪。顔は下膨(しもぶく)れで、若干サルっぽい。
筋肉質で小太り。お世辞にも美男子とはいえないが、
成績は大変に優秀で、常に学年トップ5内に入る。太盛の友人だ。

「高野さん。君の気持ちは分かるけど、ほとぼりが冷めるまで太盛と
 距離を置いた方がいい。今はテスト明けだから奴らに襲われるリスクが高いぞ」

「もう太盛君には手を出さないでって言ってあるから大丈夫だよ」

「そんな簡単に手を引くような奴らだったら苦労しないよ。
 実はあの中の黒幕が学校関係者の息子でね。
 先生方も手を出せないようになってるんだよ」

「え? そうなの……?」

「誤解されないように言っておくが、俺は何も二人の関係を
 邪魔するつもりはないんだ。ただクラスメイトとして心配してるんだ。
 うちのクラス、学園中で超有名になっちまってるぞ。
 太盛の腕さ、折れてるんだろ?」

「いいや。折れてはいないよ」

太盛が首から下げた三角巾から包帯で巻かれた手を出した。

「転んだ時に左手をついてしまってね。ねんざしたんだ。
 念のため三角巾をして保護してるのさ。
 ある程度怪我してるアピールをしておかないと
 また襲われるかもしれないしな。
 心配かけてすまないな、マサヤ」

「いや、おまえが謝ることじゃないさ。
 重症じゃなくて良かったな」

その男子はマサヤと言う名前で、クラスメイト全員から
下の名前で呼ばれるほど人気者だった。

どんな時でも焦らず、のんびり屋なところが不思議と人を引き付ける。
太盛と同じく真面目で委員長気質の人間だった。
というか一年の時は委員長だった。現生徒会役員でもある。

「マサヤ君、心配してくれてありがと。
 でもね、私は今日太盛君とどうしても外せない用事があるの」

「用事? 気になるね。どんな用事か聞いてもいいかな?」

「いいよ。どうせあとでみんなにばれると思うから。
 私ね。これから太盛君の家に遊びに行くの。
 ご党首様にお呼ばれしてるから」

この一言で、教室にまだ残っていた何人かがずっこけた。

「な、なにぃ……」マサヤは驚愕(きょうがく)。

「それこそ火に油を注ぐようなもんだ。
 ヤツラ、それを口実にしてまた襲ってくるぞ。
 しかも党首様って、太盛の親父さんかよ。あの大企業家の」

「うちの父は普通のサラリーマンだよ」

「いやいや。すげーお方だよ」

「あのー」

観衆の一人だった女子が会話に入ってくる。

「いっそ公言したほうがよろしいかと。
 親公認ってことは、お二人は完全に付き合ってますよね?」

「あなたは、この前太盛君を助けてくれた人?」

「はい。一年の斎藤です」

まさかのマリーである。彼女も校内では有名人だ。
いつからここにいたのかと周りがざわつく。

「えっへへー。暇だから二年生のクラスに遊びに来ちゃいました」

「そ、そうなの。久しぶり。この前はお世話になりました」

「ミウ先輩。年下に頭下げないでくださいよぉ。
 困っている人を助けるのは淑女として当然の務めですわ」

このわざとらしいほどに軽い口調。
民放のFMラジオの女性DJのようである。

彼女の明るさで教室内の殺伐とした空気がにわかに和らいだ。

「ミウ先輩。これから太盛先輩の家にお呼ばれですか?
 いいないいな。お金持ちの家。あこがれるなー」

(うわ。今どきこんな分かりやすい
 ぶりっ子っているんだ。ちょっとうざいな……)

とミウは思いつつ

「斎藤さんの家もお金持ちだって聞くけど?」

「太盛様の家に比べたら大したことありません。
 それと呼び名はマリエかマリーでけっこうですわ」

「じゃあマリーさんって呼ぶね……。私一応英語圏の生まれだから」

「お好きにどうぞ。で、私も先輩の家行っていいですか?」

「……マリーさんは午後の部活動があるでしょ」

「部活なら出ませんよ? 今日はエリカ先輩が来れないって
 メールがあったから話し相手がいなくて暇なんですよぉ。
 テストも終わっちゃいましたし」

「なら、友達と買い物でも行けばいいでしょ」

「あれれ? ミウ先輩って冷たい人なんですね?
 なんだかマリーに来てほしくないみたいです。
 太盛さんはマリーと遊ぶの嫌ですか?」

「え……!?」

さすがに返答に困る太盛。マリーは嘘っぽく泣きそうな
演技をする。太盛はこういう駆け引きにうといので
断るのは悪い気がした。

「おい太盛。彼女も連れてってやれよ。
 家で高野さんと二人きりよりまだ世間体が良い。
 それに斎藤さんはあの時に助けに来てくれた恩が
 ある。おまえの家にお呼ばれする口実になるだろ」

「しかしマサヤ……。ミウが怒るんじゃないかな」

「一年生の女子を振ったら余計悪いうわさが立つって。
 悪いこと言わないから両方とも連れていけ。
 ほら、またみんな見てるからさっさと行けよ」

「わーったよ。おまえがそこまで言うんだったらな」

太盛は賢いマサヤの言うことに従う傾向にあった。
それだけ彼を認めていたのである。

太盛は優柔不断な自分よりマサヤの方がクラス委員に
向いていると思っているほどだった。

(マサヤ先輩。グッジョブ♪)

(全部この子の策略通りに進んでてすごいムカつくんですけど。
 どことなくマリン様に似てるような……)

「この辺りはどこまで行っても山ばかりなんだね」

太盛の家を目指す一行。

最寄駅から電車に揺られ、田舎から田舎へと移動する。
ローカル線で真昼ということもあり、席は座り放題。
ミウは窓の外の景色をそれは珍しそうに観察していた。

「この辺りはどこまで行っても山ばかりなんだね。
 町の方から離れたらどんどん山奥になっていきます。
 すっごくのどかで空気がきれい。神社やお寺が多いんですね」

「まるで初めて栃木に来た人みたいな感想だね。
 ミウは本当にここで暮らしていた記憶が無くなっているんだ」

「記憶喪失系の美少女って先輩的に需要有りますか?」

「いや、需要とか言われても……。
 ミウも好きで記憶喪失になったわけじゃないと思うよ?」

「ミウ先輩は何がきっかけで記憶を失ったのですか?
 宇宙人に洗脳でもされたんですか?」

「私が一番知りたいよ……」

と言いつつ、まさか前の世界の記憶を
引き継いでいるとは間違っても口にできない。

「んふふ。それにしても、太盛先輩ったら大胆ですよね」

「なにがだ?」

「エリカさんというものがありながら、
 すぐ他の女に目移りしちゃうんだから」

太盛は驚き、ミウはいらだった。

「エリカ先輩って粘着質だから敵に回すと怖いんですよ?
 あの人、同じ学年で女子の手下とかいるそうですからね。
 それが分かってて浮気してるなら私は何も言いませんけど」

「マリーさんねぇ。さすがにその言い方は太盛君に失礼じゃない?」

「そうでしょうか? 太盛先輩ってモテるじゃないですか?
 そういうタイプの人ってもっと慎重に恋愛するべきだと
 思うんですよねー。適当に女の子を選んでると
 陰で誰かを泣かせてるかもしれませんよ?」

「俺はモテてないと思うけど」

「またまた、そんなご謙遜を。美術部でも先輩に
 熱い視線を送ってる子がいたりするのに」

ミウには面白くない話だった。ミウは部活中の太盛を全く知らない。
部員は女子ばかりという話は聞いていたが、エリカとマリー以外に
どんな生徒がいるのか、想像もつかなかった。

「私も結構さみしかったんです。 先輩が怪我されてから
  全然部活に顔を出してくれなくて」

「さすがに片腕じゃあ、絵を描く気にならないよ」

「お茶だけでも飲みに来てくださいな。
 いつでも歓迎いたしますわ」

「まあ、そこまで言うんだったらたまには行くよ」

「あっ、そろそろ駅に着きます。
 先輩、私の肩に捕まってください」

「悪いね」

「そこまでしなくていいよ、マリーさん!!
 太盛君のお世話は私の仕事ですから!!」

「いえいえ。私は同じ部の後輩ですから」

「マリーさん、小柄だから力ないでしょ」

「自宅で鍛えているからご心配なく。
 私は殿方のお世話をするのが好きですの」

「私は彼の使用人だから!!」

はぁ? とマリーと太盛が素っとん狂な声を上げた。

「い、いえっ。なんでもない。忘れて」

顔を真っ赤にしてうつむくミウ。
太盛の世話はこのままマリーに任せることになった。

(ミウは使用人って言ったのか……? 同級生なのに使用人……?
 どういう発想をしたらそんな言葉が出て来るんだ?
 しかし不思議と引っかかる言葉だな……。
 それより座席を立つのに女子の補助いらないんだけど……)

(彼女じゃなくてメイド願望でもあるのかしら?
 自分のことを使用人って言う女は初めて見たわ。
 どんだけ尽くすタイプなのよ)

「あ、ごめ…」

「お気になさらず。電車が揺れたせいですわ」

太盛が前のめりになり、マリーにずいぶんと
寄りかかる姿勢になったのだ。

鼻先に彼女の髪があるので、かんきつ系のリンスの匂いがした。
日光を浴びて無限に色を変える亜麻色の髪。

(俺は芸能人と一緒に電車に乗ってるのか?
 ミウもきれいだけど、この子もすごくきれいだ。
 今までエリカに邪魔されて他の女子のこと
 ちゃんと見る機会ってなかったな)

(先輩は見た目より筋肉質なのね。中学時代は
 荒れてたっていうの、本当なのかしら)

ミウは一つ確信していた。

(マリーさんは絶対マリン様の生まれ変わりだよ。
 この執着心の強さとか、頭の回転が速いところとかそっくり。
 見た目もマリン様がそのまま大きくなったって感じじゃない)

下車。階段のない小さな駅から道へ出る。

「太盛先輩。のど乾いたでしょ?」

ガコン

「自販機でジュース買ってきました。
 紅茶でよろしかったかしら?」

「あ、ああ……。すまないね、おごってもらっちゃって」

「いいえ。好きでやっていることですから。
 暑いから日傘をさしましょうか」

と言い、堂々と相合傘をするマリー。
田舎道で人目がないとはいえ、大胆である。

もちろんミウは憤慨(ふんがい)した。

「ちょっとお二人さん……。
 そんなに密着してるとさぁ……。余計暑くなるんじゃない?」

「でも真夏の紫外線から、けが人の太盛さんをお守りしないと」

『でも』が多いなとミウは思い、ますますイライラした。

「わ、私一応あなたより年上なんだけど……。年上を
 のけ者にして太盛君を独り占めするのはどうなのかなぁ?」

「いやぁ!! ミウ先輩の目ったら、すごく怖いわ!!
 そんな目で見ないでください。怖くて心臓が止まっちゃいますわ!!」

「あなたねぇ……さっきから……」

ミウは爆発寸前だ。

ただでさえ暑いこの季節。梅雨明けの青天の日差しは
暑いのを通り越して主が与えた罰に等しいほど。

ミウは帽子や日傘(折り畳み)など気の利いた物は持っていないので
日差しから身を守る手段がなかった。

そして、暑さで参っているのはミウだけではなかった。

(まだ家まで二キロあるんだよなぁあ)

太盛の家は歩きで30分ほどかかる。

太盛は自転車より徒歩の方が好きなので
四季の変化を楽しみながら、のんびりとこの田舎道を歩く。

彼は若者の割には田舎が好きで、田んぼや水路、小川など
何でもないものを眺めては心を癒していたのだった。

「せんぱぁーい。ミウさんが私のことにらんでくるんですよぉ」

そして突如として自分になついてくるようになった、この下級生の美少女。
実におしゃべりで、一度話し始めたら止まることがない。
MIグランプリ決勝のような勢いである。

そしてどうやら相手をコケにするのが大好きな性格のようだ。
この頃には鈍感な太盛でも彼女の演技には気づいていた。
現に太盛に媚を売る一方、上級生のミウに対し敬意もかけらも感じない。

そんな彼女に対し、太盛が思ったことは……

(うぜえ……)

ということだった。ウザ系美少女である。


「本日は暑い中お越しいただき、誠に…」

屋敷の玄関先では三人の使用人が頭を下げてお出迎えである。
中年女性と若い女性。そしてミウの知ってる後藤がいたので思わず
声をかけそうになり、口を両手でふさいだ。

「……どうされましたか? 具合でも悪いのですか?」

と当の後藤に心配された。

「ご、ごごごめんささい? なんでもないんですよ。おほほ」

下手な作り笑顔。挙動不審のため使用人たちが本気で心配していた。

「ミウ先輩はたまに発作が出るんですよ。
 ちょっと変な人だけど、気にしないでくださいね?」

「年下のくせに、生意気なこと言わないでよ!!」

「でも早く教えてあげたほうが誤解されなくていいじゃないですか。
 本気で頭の心配をされたらミウ先輩がかわいそうです」

「余計なお世話よ。あんた、さっきからなんなの?
 さっきからずっと私に喧嘩売ってきてさぁ」

「おいおい。玄関先で止めろよみっともない」

「ご学友のお嬢様方。こんなところで話をされていては
 暑さでまいってしまいますよ。中で冷たい飲み物を
 ご用意してありますから、どうぞお入りください」

「そ、そうですよねっ。ああははは。みっともないところを
 見られてしまいました。おバカな後輩でごめんなさいね後藤さん?」

「へ?」 「おや?」

太盛と後藤が顔を見合わせた。メイド達も違和感に気づいている。

「ミウ様は、初対面なのに私の名前をご存知でしたか。
 太盛様が事前にお話しされていたのですね?」

「……後藤の話はしたことあるけど。
 ミウは後藤のことを前から知ってる感じだったね」

全員の視線がミウに注がれる。
さすがに気まずくてどうしようかとミウが思った時。

「さて。みさなん」

後藤が手を叩いた。

「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
 私はこの屋敷で料理人として働いている、後藤と申します」

同じようにメイド達も挨拶し、中へ案内された。
女性たちはミウの知らない人だった。
ユーリがいるかもしれないと密かに期待していたのだが。

案内された大食堂では三人分の昼食が用意されていた。
フレンチのフルコースである。

てきぱきと使用人の人達が食材を運んでくる。
相手が学生だからか、もったいぶらずにどんどん皿を
運んでくるので実に豪華なテーブルになった。

「わー。すごー」 「ほんと、おいしそう……」

はしゃぐマリーと気乗りがしないミウ。

ミウは普段と立場が逆になったので不思議な感じだった。

(使ってるお皿の種類も同じね。持ってくるお皿の順番も
 私が教わった通り。いつものお昼のコース料理。
 後藤さんが作ってるから味なんて食べなくても分かってるよ)

太盛の向かい側の席に女子二人が並んで座っていた。
太盛へ使用人の一人が近づき、耳打ちした。

「え? お父さんはまだ仕事なの? いつ帰ってくるの?」

「それが、ちょっと仕事が立て込んでいるらしくて、
 最悪本日中には戻られないとのことで……」

「そっか、ミウの顔見せてあげたかったのに、残念だな」

「党首様も残念がっております。
 ぜひ次の機会を設けていただければと……」

「分かったよ。仕方ないよね。親父殿の会社も大変みたいだし」

太盛がそのことを二人に伝える。

「えええっ、お父様に会えないんですの!?
 残念ですわー」

「声でかいよ。あとなにがお父様よ」

「だって太盛さんのお父様なら、お父様ってお呼びしないと」

「あんたは初対面の人に馴れ馴れしすぎなの。
 党首様はお堅い方なんだからそんな口調だと怒らるよ」

「党首様に会ったことがあるみたいな言い方ですね?」

「あっ……。いえ、ただ太盛様のお父様は立派な方らしいからさ、
 たぶんお堅い感じの人なんじゃないのかなぁっと」

「じゃあミウさんもその変なくせ直さないといけませんね。
 初対面の人に失礼ですよ?」

「なんですって!!」

「あー怖い怖い。これがテレビでやってた更年期障害だわ」

「あんたと一個しか年違わないよ!!
 私をババア扱いしたわね。もう怒った……!! 
 表出なさいよ。そんなに私が気に入らないんだったら決闘よ!!」

「きゃーこわーい。せんぱーい助けてー!!」

「うん。なんていうかさ……。
 親父殿がここにいなくて良かったよ。
 招待しておいてなんだが、そろそろ静かにしてくれると助かる」

部屋の隅でひかえているメイド達は呆れて声も出ないほどだ。
普段からこの屋敷の食事中に騒ぐ人などいないからだ。

食事中は時計の針の音と、庭の小鳥の鳴き声だけが
聞こえるほど静寂だった。

「太盛様、もう一時半になります。
 そろそろお部屋でくつろがれてはいかがですか?」

「もうそんな時間なのか。分かったよ」

後藤から暗に出てけと言われたのと同じである。
招待された客人としては大恥である。

「マリーはそこの玄関から帰りなさいよ」

食道の巨大な扉を開け、廊下を歩くと中央エントランスの階段に出る。
その階段を登ると二階の子供部屋、すなわち太盛の部屋にたどり着く。

ミウは廊下を歩く最中もまだ怒っていた。

「マリーはそこの玄関から帰りなさいよ。
 あんたが変なこと言うから恥かいちゃったじゃない」

「どうしてですか? 学生は元気があるくらいで
 ちょうどいいではないですか。あの後藤さんとかいう
 素敵なおじ様も笑ってたじゃないですか」

「呆れてたんだよ!! そんなことも分からないのか!!
 後藤さんは女の子に優しいから口にはしないけどさ」

「さっきからミウさんはここの家のことを知ってるみたいな
 言い方しますけど、ちゃっかり太盛さんの奥様アピールでも
 したいんですか? そーゆーの、ぶっちゃけ、うざいんでー
 やめてもらっていいですかぁ♪?」

うざいのはマリーの口調だった。
特に語尾の伸ばし方など、もはやお嬢様というよりギャルだった。
ここまでくると人を怒らせる天才である。

「年上に対してその態度は何なの!? いい加減にしろ!!」

「ぐえっ」

ドナルド・ダックのような声をあげるマリー。
顔はガチャピンにそっくりだ。

「おいおい……後ろから首にチョップするなよ。
 向こうで流行ってるブリティッシュ・コメディの練習か?」

「そんなコメディ聞いたことないよ。
 太盛君からも何か言ってあげてよ。この子、口悪すぎじゃない?」

「まあ……確かにちょっと言いすぎかなぁと……」

「どこで育て方を間違ったらこんな娘になっちゃうのよ!!
 親の顔が見てみたいものだわ!!」

「ひ、ひどいですー。ちょっとからかっただけなのにぃ」

この語尾の伸ばし方がぶりっ子全開でミウを怒らせた。
ミウも他の女子と同様、ぶりっ子する女は大嫌いだった。

「お、おいっ、泣くなよ」

「だってぇ……ミウ先輩がいっぱい怒鳴るから」

「確かに二人とも喧嘩しすぎだからな。
 ほら。もうすぐ部屋だ。
 紅茶でも飲んで忘れよう?」

「太盛君。そいつ、ウソ泣きだよ」

「は……?」

「あれ? ばれてましたぁ?」

ミウが英国伝統のボクシングの構えを始めたので、太盛がなだめた。

そんな彼らの様子を階段の下から使用人たちが心配そうに見ている。
太盛はやりきれなくて部屋に二人を押し込んでしまった。

「太盛様はずいぶん変わったご学友をお持ちのようですな……」

後藤の声は聞こえないふりをした。


「ここが太盛さんの部屋なんですねー。ひろーい」

「普通だよ」

(どこがだよ)とミウは思った。
広さは20畳ほどで豪華なホテル並みである。

一番目立つのは天井まで達する大きな本棚。
漫画はほとんどなく、小難しい絵画や歴史の本が多い。
外国の小説もある。

パソコンデスクの両脇には大きなスピーカーが置かれている。
ヘッドホンもテーブルの上に三種類も立てかけてあった。

「あ、折りたたんだイーゼルだ。
 絵具とか画材も置いてあるんだぁ。
 太盛先輩の絵、見てみたいなー」

「いつも部活で見てるじゃないか。
 君のに比べたら俺の絵なんてしょぼすぎるよ」

「そんなことないですよー。絵は個性なんですから。
 私は太盛先輩の絵、好きですよ?」

「……そうかな?」

可愛い女の子に満面の笑みで言われると正直うれしかった。
マリーは16にして男を虜にする方法をよく心得ていた。

「私も太盛君の絵、見てみたい」

割りと真剣に言われたので、太盛は照れ臭く
なりながらも何枚かの絵を出した。

風景画だった。秋から冬にかけての寂しいさを
感じさせる季節のものだ。

晩秋の森の中の風景だ。
地面一帯は落葉が覆い隠している。
木漏れ日が絵具でよく表現されている。

同じような風景が二枚。
最後の一枚には島を思わせる海岸部分も描かれていた。
波打ち際の美しい風景が、海岸を歩く女性の姿を引き立たせている。

背が高く、一見すると外国の女性かと思わせるほど。
コート姿にブーツを履き、色白で美人だ。
切れ長の瞳が、哀しそうにこちらを見つめている。

「せ、太盛君……この絵をどこで?」

ミウは耐え切れず涙を流していた。
描かれている女性がユーリだと知ったからだ。

「急に泣き出してどうした!? やっぱり体調が悪いのか? 
 今使用人の人達を呼んで……」

「呼ばなくていいから!!」

耳元で叫ばれて心臓が止まるかと思った太盛。
マリーも呆気に取られており、軽口を叩ける状況ではない。

「怒鳴っちゃってごめん。お願い。答えてほしいの。
 どこでこの絵を描いたの?」

太盛は少し間を置いてから答えた。

「これは模写だよ。どっかの雑誌かポスターに
 描かれてたものだと思う。その雑誌は
 もう捨てちゃったけど、たしか……長崎県の風景だったかな」

「長崎県の……小さな島……?」

「どうだろう。長崎は行ったことないから何とも言えないな」

「じゃあ、この女性は?」

「もちろん知らない人だよ。でも大人っぽくて
 綺麗な人だよな。こんな美人さんがモデルに
 なってくれるなら俺も描いてみたいや。はは。あはは」

太盛の乾いた笑い声がむなしく響いた。

「ユーリ……」

耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな声。
他の二人はミウの声をしっかり聴いていた。

「不思議と聞いたことのあるような名前だ……」

「先輩の昔の彼女の名前ですか?」

「いや、そんな女性に会ったことはないはずだ。
 それにその人は20代だろ。俺と年が離れてるじゃないか。
 ミウの知り合いか?」

返事はない。

ミウは絵画を持ったまま石のように固まってしまった。
ソファに腰を沈めてそこから動こうとしない。

(どうしたんだろう?) (さあ?)

アイコンタクトした太盛とマリエにはさっぱり分からないが、
ミウは過去の世界で起きた悲惨な出来事を思い出していた。

憎きエリカ。毒を飲んだユーリ。太盛と蒙古で心中したマリン。

マリン……。そうマリンである。

今目の前にはマリンの生まれ変わりと思われる人物がいるのである。

「な、なんですか!? いきなり気持ち悪い!!」

ミウは無言でマリンの髪の毛を触ったり、肌の感触を確かめていた。

「せ、せまるさん、助けてえええ!!
 ミウさんがレズプレイに目覚めましたわ」

顔の一番の特徴は、愛らしい唇。
目元よりこっちのほうが目立つ。
実は父親の太盛とそっくりの唇なのだ。

太盛はあまりにもミウが真剣なので黙って見守っていた。
口を挟んではいけない気がしたのだ。

「マリーは女に触られて喜ぶ趣味はありませんわ!!」

「あんた、本当はマリンて名前なんじゃないの?」

「へ? マリン? 懐かしい呼び名ですわ。
 小さい頃に両親からそう呼ばれていましたわ」

「何歳まで?」

「そんな細かいことまで覚えてませんわよ」

「答えなさい」

「ぐ……分かったから首を絞めないで。
 うろ覚えですけど、九歳だったかしら?」

マリンが死んだ年齢も九歳だったはず。

前の世界との共通点はこれからいくらでも見つかる。
それはまるで世界中に散らばったパズルのよう。
ミウはそう考えた。

ユーリも太盛が会ってないだけでどこかに存在するはず。
この絵画の存在がそう思わせた。現に後藤と鈴原は存在するのだ。
もしかしたら、レナやカリンも……

(存在する……?)

能面の男から渡された、鏡の裏に書かれた
ヘブライ語の文字を思い出した。

「そろそろお茶の時間だな」

とのんきに太盛が言うと、ちょうど後藤が
茶菓子を持ってきてくれたところだ。

「失礼いたします」

行儀をよくしたマリー達の前に紅茶とクッキーが置かれていく。
夏なのでアイスティーだ。マリーは喉が渇いていたので
遠慮なくストローに口をつけていく。

「あの、後藤さん」

「はい?」

ミウが意を決して話しかけた。

「私は高野ミウって言います」

「……? お名前は存じております。 
 党首様と太盛様から聞いておりますので」

「あの……こんなこと聞くとおかしい人かと
 思われちゃうかもしれませんけど」

「どうぞ。遠慮なく聞いてください」

「では言いますね。後藤さんは、私と会ったことがありますか?」

質問の意図が分からず、後藤は間を置いてから答えた。

「私の記憶が確かならば、初対面のはずです。
 もし記憶違いでどこかでお会いしてるとしたら
 申し訳ありません」

「いえ、いいんです。たぶんこっちの勘違いですから。
 ちょっと……ちょっとね。聞きたかっただけなんです。
 気になっちゃって。ごめんなさい。お仕事の邪魔しちゃって」

「気になさらないでください。焦ってやる仕事では
 ありませんので。また何か聞きたいことがあれば
 いつでもどうぞ」

恭しくお辞儀をしてから去っていく。
30代の若い後藤。ミウの知らない彼だ。

以前の彼は年下で後輩のミウの前で
敬語を使ったことは一度もなかった。

「今のやり取りはなんだったのですか?
 あの二人は愛人か何かですか?」

「いや、俺に聞かれても」

「ミウ先輩はおじさんも好みだったのですね。
 人様の家の使用人の肩にまで手を伸ばすとは色欲が…」

ミウは、太盛達に背を向けたまま泣いていた。
彼女の肩が小刻みに揺れている。

さすがのマリーも黙るしかなかった。

静まり返り、気まずい室内。
ついさっきまでマリーと喧嘩してたのがウソのよう。

太盛はずっと聞きたかったことをつい言ってしまった。

「ミウ。君はいったい何者なんだ?」

その問いに答える者はいない。

太盛が疑問に思っていることは、ミウがこの屋敷を歩く時に
妙になれていたこと。まるで初めから太盛の部屋を知っているかの
ように迷いのない足取りだった。そして後藤を初めから知っていた。

太盛のことを様付け、エリカのことを奥様と呼んだりと、
ふざけて言っているようには見えなかった。

だが、ミウに聞いたところで答えてはくれないだろう。
彼女の背中を見てそう思った。

結局この日はこれでお開きになった。

次は党首がいる日に呼ぶからね。
太盛は明るくそう言ったが、ミウは最後まで暗かった。
そしてマリーもミウが普通の少女でないことはなんとなく気づいていた。

魔の生徒会執行部(夏休み前)

「一年二組の斎藤マリエさん。
 生徒会執行部からお呼び出しです。
 放課後、すみやかに生徒会室へお越しください」

思わず(なんだ?)と思った太盛。

彼のクラスでは夏休み前の最後の授業が終わったところだった。
まもなく担任の先生がやってきて、今学期最後のHRを始める。

「中学年(二年生)だからと気を抜かずに、
 節度を持った学生らしい過ごし方を心得るようにしましょう」

そんなこといちいち口にしなくとも太盛のクラスで悪さをする人はいない。

ここは県内で有数の進学校。太盛のクラスは二年一組の特別進学コース文系。
進学コースは文系と理系があり、さらに特別進学コースと
総合進学コースに分かれている(一年生の時は総合進学のみ)

特別進学クラス希望の人は二年の進級時、成績順に選ばれる。

クラスの番号が若い人ほど一般的に成績優秀なのだが、
クラスごとに偏差値の均衡を図るために、あえて頭の良い生徒を
ばらばらに配置することもある。

(なんで私が進学コースなんだろう……)

とミウは常々思っていた。彼女は英語以外に特に取り柄がなかった。

しかもネイティブの割には、英語の点数はせいぜい70点クラス。
これには教師陣が逆に驚いていた。
日本の英語教育がいかに話す能力と関係ないかが分かる

(テストに出てくる小難しい単語なんて会話でほとんど使わないよ。
 しかも文法も堅くて読んでてつまらないすぎ)

進学コース以外には普通科。音楽の声楽、器楽コース。美術コースもあった。
世間的に音楽コースに定評があり、歴史と伝統のある吹奏楽部(定員120名超)は
毎年全国のコンクールに出場していた。
全校生徒の総数、2000を超えるマンモス高である。

「お、おい、聞いたか?」

「ああ……。あの一年生のマリーちゃんが呼び出しかよ」

「しかも生徒会執行部って、あの会長から
 直に呼び出されたってことか?」

「ほんとだよねー。明日から夏休みなのにさー。
 あの子やばいんじゃない……?」

クラスメイト達には先生の話よりこっちのほうが重要だった。
学校の教師陣でさえ不干渉の立場をとっている生徒会である。
執行部とついているが、普通に生徒会のことである。

彼らは特別な権限を持ち、学内で問題を起こしそうな生徒を
摘発し、指導する権利を有していた。それは本来なら教師の権利であり、
学生が学生を指導するなど、越権行為といわれてもおかしくはない。

ちなみにこれは理事長の決定であるから、
雇われている側である教師陣は認めるしかない。

「くそっ……。気になる」

HRが終わった。
太盛はいてもたってもいられなくなり、C校舎へ向かった。

ここにはABCの三つの棟があり、それぞれ渡り廊下でつながっている。
校舎を上空から見ると、ちょうどコの字につながっているように見える。
三つの長テーブルをコの形にくっつけたといえば分かりやすいか。

太盛らのいる校舎はB。つまり隣の棟へ行ったわけだ。
Cは一番新しく、渡り廊下はピカピカ。廊下の中にまで教室がある。

「生徒会室って、何階だっけ?」

そもそも、生徒会に縁がないので行ったことがなかった。

こんな時に生徒会役員のマサヤがいればよかったと思うが、
彼は妹が風邪を引いていると言って帰ってしまった。
(実は会長と関わるのを恐れていた)

「そこの君」

「はい? 僕ですか?」

「君は生徒会室へ行きたいのかな?」

「そ、そうです。何階なのか分からなくて……」

「あいにくだけど、部外者は入れない決まりだ。
 君、二年生の堀君だろ? うわさは聞いてるよ」

と言ってクスクス笑う三年生の男子。
黒縁の眼鏡をかけた優男だ。

「若いってのはいいね。特に恋愛とかさ。
 相手のことが好きだって気持ちだけで突っ走れて。
 あの橘さんって美人の子に付きまとわれてるんだって?
 校内で有名になっちゃってさ、モテる男は大変だね」

「お恥ずかしい限りです。
 あの、それより生徒会室に部外者が入れないってのは……」

「会長が認めないからさ。あの男はちょっと変わり者でね。
 自分が心を許した相手以外は部屋に入れないんだ。
 奴の権力は圧倒的だ。学年主任でさえビクビクして
 奴に口出しできないほどなんだぜ?」

「じゃあどうして今日斎藤は……」

「会長が話したいほどの事情があるってことなんじゃないのか?
 物見湯山で行くのは危険すぎると思うがね」

嫌な予感がした。

「それでも、行くのかい?」

「行きます」

男子の先輩は太盛の顔をじっと見つめて、
決意が固いことを確認した。

「エレベーターの四階を押すといい。
 四階に着いたら、すぐ左側にある部屋が生徒会室だ」

太盛は礼を言い、エレベーターの中に入った。
エレベーターの扉が閉まり、先輩は一人残された。

「若いってのは……いいねぇ。
 自分の命より他人のことを優先できる……。
 それを人は無謀と言うのか、それとも優しさと言うのか」

深いため息をついた。
その顔は、十八歳とは思えないほど老け込んでいた。

太盛は四階に着いた。
先輩に言われた通り、すぐ横に生徒会室と書かれた大きな部屋がある。
立派な二枚扉の前には、警備と思われる生徒が二人いた。

「そこのあなた、止まりなさい」

二人とも女子だった。襟のバッジで上級生だと分かる。

「間違えてここに来たわけじゃないわよね?
 一般生徒は四階に用はないはずよ」

「用ならありますよ。
 俺は放送で斎藤が呼び出されたのを知っています」

「あなた。あの子のファンの人?
 だったらあとで結果を報告してあげてもいいわ。
 今日は帰りなさい」

「彼女、中にいるんですよね? 
 中で何が起きてるんですか?
 俺、ファンじゃなくて同じ部活なんですよ。
 美術部です」

「なら部の責任者さんに伝えておいてくれる?
 斎藤さんはしばらく休部するってね」

「休部……? なんで休部するんですか?」

「知りたいの?」

ぞっとするほど冷たい視線だった。
だが、太盛はエリカのおかげで怖い女性には態勢ができている。

太盛は廊下の隅に腰かけた。
修行僧(カンボジアのWat Thmei寺院)のように
あぐらをかいている。

さらに厚いためか、Yシャツとインナーを脱いで
上半身裸になってしまった。

「仏教徒の人だったの? ここはインドじゃなくてよ」

「いえ、どちらかというと東南アジアをイメージしました。
 俺はいくらでも待ちますよ。その扉が自分から開くまでね」

「会長の話がいつまで続くか分からないのに待つつもり?」

「そうです」

「強気な子ねぇ。あなた、暑がりなんでしょ?
 ここの廊下のエアコン、切ってあげましょうか?」

「どうぞお好きに。俺はかまいませんよ」

「その恰好はなんのつもり?
 服を着ないのも校則違反。会長に見つかったら
 極刑に処される可能性も否定できないわ」

「別にいいっすよ!! それでも俺は待ちます!!」

太盛の剣幕はすごかった。
その意志は鉄のように固く、本気で怒らせたら
何をするか分からないと思わせるほどの力がった。

そんな時、エレベーターからまた一人降りて来た。

「わ、私も一緒に待っていいですか?」

餌を探している最中のシマリスの一種かと思ったら、
二年生を代表する美少女のミウだった。

太盛に『お邪魔するね』と言って隣に座る。

「なぜ君までここに?」 「太盛君を一人で行かせられないよ」

どういうわけか、ミウを見て先輩二人はひそひそ
内緒話しを始めたかと思うと笑い始めた。

「そ、そんなに私の顔って変ですか?」

「違うわよ」

と言い、よほどおかしいのか、お腹を抱えて笑い出した。
その笑い声はますます大きくなり、修行僧の太盛でさえ
眉をひそめるほどになった。

バン

扉が勢いよく開く。同時に笑っていた女子達の顔が蒼白になった。

「騒がしいぞ。この校舎で騒ぐなといつも言っているだろう。
 淑女らしく静粛にしたまえ」

「か、会長。すみません!!」

「ん? そこに座っている二人は何者だ?
 特にそこ男。なぜ上半身裸なのだ?」

「そ、それが。インドの修行僧の真似をしてるみたいでして」

カンボジアだと突っ込みたくなる太盛。

「君は……堀君と、そうだ。そっちの彼女はミウと
 いう名前の帰国子女だったな。英国生まれの娘か」

会長はゆっくり歩き、太盛の前に立ちはだかった。

「簡潔に述べたまえ。ここへ何をしに来た?」

「斎藤マリエはどこですか?
 見たところ、この部屋にはいないようですが」

「なるほど。彼女を取り戻しに来たのか。
 斎藤なら別室にいるよ。そこで取り調べを受けている」

「いったいなんの取り調べですか!?
 彼女が犯罪でもしたんですか!?」

「当事者のくせによく言う」

と言って会長は席に戻ってしまった。
会長の机は会社役員のように立派だった。

会長は坊主頭でメガネをした男だった。
制服の着こなし方、立ち振る舞い、口調、
全てが他の生徒とは一線を画している。

「どうした? 二人とも入りたまえ。
 堀君は服を着てからにしてもらうが」

まるで初めから人の上に立つために生まれて
来たかのような、王族とでもいうべき風格がある。

席の横に会長に仕える女性が立っていた。
学校内なのに着物姿なので異彩を放っている。
長い茶色の髪をふんわりカールさせた、
おっとりした雰囲気の人だった。

「せっかくここまでお越しいただいたのですから、
 お茶でも淹れましょうか?」

「うむ。任せる」

その女性がもったいぶった動作で急須にお湯を入れる。
こういった仕草が洗練されすぎて高校生離れしている。
太盛は、京都の老舗のお店でお茶出しされている気分になった。

「あのぉ。お茶まで出されてこんなこと言うのもあれですけど、
 生徒会は、部外者は立ち入り禁止だって聞きました」

「ええ。その通りよ」

女性は笑みを崩さずに答える。

「どうして俺たちは普通に入れるんですか?
 しかも俺たち二年生なんですけど」

「うふふ。堀君はねぇ。部外者とは言えないももの」

この笑い方、太盛には聞き覚えがあった。

「先輩は僕と会ったことありますか?」

「そうよぉー。太盛君は覚えてないのかしら?
 前にエリカが買い物している時に一緒にいたのに」

太盛は嫌な汗をかいたのでまた上着を脱ぎたくなった。

「エリカの……お姉さん?」

「ご名答♪」

その裏のある話し方、間違いなく妹と同じ人種だと思わせるに十分。
しかもここは先生方の手が届かない超法規的な空間。
ここにいたら自分たちもマリーのように監禁されるかもしれない。

そう思った太盛はミウの手を取って駆けだそうとした。

「あ……?」

太盛の視線が、部屋中をぐるりと回った。

すぐに背中から床へ落下し、激痛のため呼吸が止まる。

「まだ話の途中よ?」

太盛はエリカの姉に一本背負いされて転倒したのだ。
その一撃を隣で見ていたミウは恐怖で立つことも出来なかった。

「あとで太盛君を呼び出そうと思っていたから、
 かえってちょうどよかったわぁ。太盛君からいろいろ
 聞きたいことがあるの。そこで縮こまってるミウさんも、
 途中でどこかへ行こうとしたらどうなるか、 
 言わなくても分かってますね?」

ミウは首を上下に振り、恭順の意を示した。

「アーニャ。あまり下級生を脅してやるなよ。
 見ろ。二年生のアイドルが震えあがっているではないか」

「これでいいのよ。男子にモテるからって
 調子に乗ってるんでしょうから。
 前から鼻をへし折ってやりたいと思っていたの」

アーニャと呼ばれたエリカの姉。本名はロシア風でアナスタシアと言う。
長いので略してアーニャ。本来のロシア語ならナースチャ、
ターシャのほうが一般的だが、日本語で発音しやすいアーニャと呼ばれている。

「せ、先輩はロシア人ですか?」

「エリカから聞いていないの? うちのご先祖様はソビエト連邦の移民なのよ。
 私が着物を着ているのはね、お父様の代で呉服店を営んでいたからなのよ。
 私は家でずっと着物を着ているから、ここで仕事する時も着物を
 着ている方が落ち着くのよね」

さすが姉妹。エリカに話し方がそっくりだった。
声の調子も似ていて、姉妹より双子のほうがしっくりくる。
顔立ちはエリカよりゆったりとしていて、癒し系だった。

「お茶のお代わりはいかが?」

「け、結構です」

「そう。なら初めようかしら?」

バタン

開けっ放しだった扉を門番の女子達が閉めた。

エリカは会長の隣にリクライニングチェアを持ってきて、そこに座った。
太盛とミウは会長達の反対側のテーブルに座り、向き合う。
企業面接のような形になった。

「気になっているようだから先に教えてあげるわ。
 斎藤さんは隣の部屋でエリカに尋問されているわ。
 あの子、いけない子よね。エリカの味方をするふりして
 太盛君と仲良くなろうとしてたんだから」

「ち、違いますよ。あの子はただ面白半分で遊びに来ただけで」

パシンと叩きつけるようにアーニャが写真をテーブルに並べる。
写真はマリーの部分だけ拡大されていて、多少ぼやけている。

マリーは歩道を歩きながら太盛に密着して相合傘をしていた。
さらに電車内の様子もある。太盛に肩を貸して降車する場面。

「ボリシェビキでは嘘つきは拷問の上に銃殺刑だ。
 つまらぬ言い訳はやめたまえ」

会長が言う。

「アーニャの身内の相談事というから特別に尋問室を
 解放してあげたのだよ。他でもないアーニャの頼みだからな」

「エリカは言ってたわ。ああいう子って一番許せないって。
 表向きはエリカに媚売っておいて、陰でこそこそ動いて
 本当に大切なものを奪おうとするんだから。
 これ、昔の政治に例えたら反革命罪になるわ。
 だから罰を与えるの。当然よね? あの子が悪いのよ?」

アナスタシアの瞳があまりにも冷徹すぎて
ミウは耐えられなかった。先生より何十倍も怖い。

自分と一年しか年が違わないのに、どうしたら
ここまで残酷な人になれるのか。

「もっとはっきり言ってください。
 斎藤マリエは拷問されているんですよね?」

「太盛君はどうしてそう思うの?」

「僕も世界史をかじった人間です。ソ連では拷問のことを
 尋問と呼ぶのを知っています。マリエは……何時間も
 痛めつけられて廃人になるんですか?」

「うふふふ。それはエリカ次第ってところねぇ。
 あまり傷が残らないようにしなさいとは言ってあるわ。
 うふふふ。あははっ。楽しいわ」

アーニャは完全に狂っていた。彼女は今の平和な日本ではなく、
戦前のソビエトの政治の世界に生きていた。共産主義者。
反民主主義。反帝国主義。根本が日本人と違うのだ。

(なんとかして救う方法はないの? なにか……)

ミウはうつむいて相手に顔が見えないようにしながら、
武器になりそうなものを見つけていた。

彼女はある程度予想できていることがあった。
それは、その拷問の事実を知った自分たちも口封じのために
拷問されるということ。

ヒュ

風を切る音。ミウの顔のすぐ横を何かが通り過ぎた。

「今投げたのはただの針よ。お裁縫で使うお針。
 ちょっと手が滑って投げちゃったわ。でも気をつけなさいね?
 あなたの目線だけで何考えてるか分かっちゃうから」

ミウの片目をつぶすのは造作もないと言っているのだ。

「まだ話を始めたばかりだから
 そんなに焦らなくてもいいじゃない?
 大丈夫。その気になればあなたの左手の爪を全部外して
 ファンたちへのコレクションにしてあげるわ」

「ふふふ。アーニャ。君は実に残酷なことを考える。
 みろ。ミウの泣き顔を。笑いが止まらないじゃないか」

「それにしてもおかしいわよね。太盛君とミウさんたら
 自分から生徒会執行部にやって来るなんて……。
 そんなに地獄が見たかったのかしら?
 ぷっ。んふふふ。あははは」

二人はこらえ切れずに笑った。その笑い方は、先ほど扉の前に
いた女子二人が吹いていたのとまったく同じ。

カモがネギを背負ってやってくるというのは、まさにこのことなのだ。

「この間のこと覚えてる? 三年の女子にセクハラ
 して捕まった物理の先生いたじゃない?」

「ああ、あの男か。まだ30前の若い男」

「この学校首になる前に、一度この部屋に呼び出したのよね」

「奴の叫び声は最高だったな。やめてくれ、もう許してくれ。
 最後の方になると俺の足をつかんで命乞いしてきたな」

「大人を拷問するのって楽しいわよね。
 どうせ社会では性犯罪者なんだから、
 どうしようと私たちの勝手よね?」

「まだ初犯だから許されているが、ただちに報道機関に
 実名報道させると脅した時の顔といったらな……。
 最後は奴の親と兄妹まで脅してやったよ」

ミウは絶望しながらその話を聞いていた。
一方の太盛は、何の考えもなしにここに来たわけはない。

生徒会室に来る前に覚悟は決めていた。彼の秘密道具は
腕時計の中に隠したボイスレコーダーだった。

この音声記録をのちに世間に公表してこいつらをつぶして
やろうと考えていた。

ズゴ ドゴ

隣の部屋から鈍い音が響いてきた。

ドドドオ  ズゴゴオ

ソファかテーブルを引きずる音のように聞こえる。
斎藤マリーが暴行されているのは間違いなかった。

だが不思議なことにマリーの悲鳴が聞こえてこない。
これは奇妙だった。どんな人間でも痛めつけられれば
苦痛の声を出すはずである。

「うふふ。やってるやってる」

アーニャはテーブルの上のノートPCを会長と覗いていた。
どうやら隣の部屋の状況を画面に中継しているらしい。

時計の針はすでに二時半。今日は半日授業だったから
この部屋に直行して早三時間近く経っていることになる。

ミウが唇を噛んだ。

「あの先輩たち。そろそろお腹すきませんか?
 今日のことは誰にも言いませんから、帰らせてくれると
 うれしいなぁって……」

「何言ってるの。そんなのだめよぉ?
  まだ下校時間までたっぷり時間張るわ。
 それにね……」

――次はミウちゃん達があの部屋に入るのよ?――

そう言った。 この一言はミウを絶望の淵に追いやった。
さっき投げられた裁縫針を拾って自分の首に刺そうかと思った。

「う……うわぁあ……いやだぁ……嫌だぁ……いやだよぉ……」

太盛は耐え切れず涙を流していた。
恥も外聞もなく、ただ己の不幸の身を呪っていた。

「太盛君ったら、可愛い顔して泣いてるのね?」

「いやだ……お願います……助けてください……なんでもします……」

「そうそう。その顔よ。絶望して、もうどうしよも
 ないってその顔。私は太盛君のそんな顔が見たかったの。
 かわいー♪」

「アーニャさん……なぜですか? なぜ……こんなことに
 なったんですか……ひぐっ……僕が……エリカの誘いを……
 断ったからですか……うぐっ」

「それもあるけど、太盛君は将来の私の義理の弟候補でしょ?
 今のうちによく教えてあげようかなって。正しい上下関係を。
 ほら、こっち向いて。写真撮ってあげるわ」

アナスタシアは子供のように無邪気な顔でスマホを構えた。
彼女は太盛を痛めつけることより太盛の困った顔を見るのが好きなのだ。
人を痛めつける理由もはっきり言ってどうでもいい。

ただ、純粋に痛めつけたかった。
ただ、暴力の要求を満たしたかった。
それだけのこと

日本で人を殴れば暴行罪で訴えられる。
それを合法的に実施するためには、組織の力が必要だ。
アーニャたちはそれを生徒会に求めた。

ちなみに会長は理事長の息子だ。
理事長は息子を信用しているから、まさか
生徒会が悪の組織だとは夢にも思っていない。

「太盛君のかわいい顔、たくさん撮れたわ!!
 次は楽しい声をたーくさん聞かせてね?
 ベッドの上に縛り付けて
 お腹に重たい鉄球を落としてあげる♪」

これが、ソ連邦の内務人民委員部(祖父)から引き継がれた血筋だった。

人権。生きる希望。平穏な日常。

全てをはく奪された若者二人にできることは、
ただ神に祈ることだけだった。

ミウは胸の前で十字を切り、両手を合わせて聖書の言葉を口にした。
英語で、小声で、天にいる神へ届くように祈った。

「この期に及んで神頼みかね。実に愉快である」

「ほんと、祈ればなんとかなるなんて都合の良い考えよねー。
  これだから西側諸国の人間はのんきで困るわ」

宗教を否定した共産主義者たちには滑稽(こっけい)だ。
会長は日本人だが、アーニャに感化されて共産主義に目覚めたのだ。

ミウの脳裏に浮かんだのは、あの白式尉(はくしきじょう)のお面。
人生の重みを感じさせる深いしわを刻み込んだおじいさんのお面。

『ミウ。心配するな』

あの温かみのある声でそう言った。

巨大な振動が発生したのは、その次の瞬間だった。

「ぬぅ……!?」

会長が席から転げ落ちる。アーニャも立っていられなくなり、
壁に手を当ててバランスをとる。

太盛はミウを抱きしなら、床に座り込み、揺れが収まるのを待つことにした。


ズアガアアアアアアアン

揺れはさらに激しくなり、なんと建物そのものが倒壊し始めた。
建物の一階部分でダイナマイトが爆発したのだ。

『えーえー。近隣の皆様にご迷惑をおかけしております。
 ただいまわが校は、校舎の改修工事をしておりまーす。
 危ないので校舎のそばには近寄らないでくださーい』

地上から拡声器でそう叫ぶのは、なんと世界史研究会の飯島(いいじま)だ。
太盛達の隣のクラスの二年生のバンダナ男だ。

「おおっミウ様!!」 「ミウ様がいたぞ!!」 「太盛君も確保しろ!!」

世界史研究会のメンバーが入ってきて、太盛達を非常用の
すべる階段?(脱出シュート)から降ろしてくれた。

ファン達は会長とアーニャには構わず逃げてしまう。
なおも建物の倒壊は続いている。

「ふむ。まさか我々の牙城を崩すほどの猛者がいるとはな。
 外部へ情報が洩れるはずないのだがな」

「向こうにセキュリティのプロでもいたのかしら?
 あとで摘発して歯を全部追ってあげましょう♪ 
 でもワクワクしない?
 人生は命の危険があるくらいでちょうどいいのよ」

その数分後、建物は一気に倒れてぺしゃんこになった。
膨大な土煙が近隣へ広がり、警察や消防が集まって
大惨事となってしまった。なんと全校舎の三分の一に当たるC棟が
なくなってしまったのである。


太盛とミウは病院へ運ばれたが、特にけがはなかった。
最悪なのは斎藤マリーだった。
彼女は拷問のショックから失語症となり、
しばらく精神科に入院することになった。

(ああ、また親父殿に叱れられるのか……)

こうして最悪の展開で夏休み初日を迎えるのだった。

マリーの入院 太盛の中学時代

「ご学友の方々ですか? 娘がいつもお世話になっています」

太盛とミウに対し、マリーの母親が丁寧に頭を下げる。
マリーの親はもちろんエリカではなく、ミウの知らない人だ。
洗練された社交辞令で一見して知的と分かる夫人だ。

「マリエは早熟な子で、小学生の時に親を言い負かして
 しまうほど口が達者だったんです。元気いっぱいの子でした。
 それが……どうしてこんなことに」

ベッドの上でぼーっとしているマリー。以前とは全く別人だ。
病人服と同じように肌は色をなくしている。
泣きそうな母親を見向きもしない。

「ごめんね? ずっていてあげたいけど仕事が忙しくて、
 すぐ支店に戻らないといけないの。他の人達に
 仕事まかせっきりだから……ごめんね? マリエちゃん」

物の抜け殻となった娘は何も返さず。興味すら示さず。
立ち去る母に丁寧に挨拶したのは太盛とミウのみだった。

ところで太盛の学校では爆破事件があったわけだが、
世間にはこう報じられた。

校舎を爆破したのは次世代的な改修工事を実施するためであり、
マリーはたまたま現場の近くを歩いていて被害を受けてしまった。

非現実的な暴論である。これで納得した国民は一人もいなかった。
仕方ないので学園の理事長は、政府の総務省とのコネを
使って国内のすべての報道機関を沈黙させるに至った。

日本は法治国家であるはずなのに、
報道の自由とか国民の知る権利はどこへ消えたのか。
余談であるが総務省は現実世界でも当然のごとく情報操作をしている。

「マリーのお母さんってあまり顔似てないんだな?
 マリーはお父さん似なのかな」

「友達から聞いたんだけどね、マリーのお父さんの浮気癖が
 ひどかったらしくて。結婚した後に他の女の人も妊娠させてたんだって」

「えっ」

「お父さんの浮気がばれたのが、
 ちょうどお母さんが妊娠したころで……」

「あー。なんかドラマとかでよく聞く話だ」

「こういうのって現実でも普通にあるらしいよ。
 あのお母さん、真剣に離婚を考えたらしいけど、
 子供可愛さに今まで頑張って来たんだって」

「頭よさそうだし稼ぎは良さそうだよな。
 キャリアウーマンって感じする」

「信託銀行で働いてるんだよ」

「信託銀行ってなんだ?」

「太盛君、知らないの? 信託銀行はお客さんから
 財産を委託されて資産を運用するところだよ。
 資産ってもちろん有価証券や不動産も含まれるからね。
 普通の銀行とは扱ってる金融商品の幅が違くてすごく幅広いの。
 やりがいはあるかもしれないけど、大変だと思うよ
 あと相続の遺産管理、運用も信託銀行がするんだよ」

「……???」

「さっき、ちょこっとお仕事の話聞いたんだけど、
 あの人はリテール業務の人だよ。個人の資産運用の相談に乗る人ね。
 若い人からお年寄りまで幅広い年齢の人が相談に訪れるから
 すっごい気を使う仕事だよ。本気で旦那に頼らず
 女手一つでマリエを育てて来たって感じがした」

「……え? 今の日本語だったの」

「うん?」
 
「さっぱり分からん。
 君はどうしてそんなに銀行に詳しいの?」

「うちの父、証券マンだから」

「そういえばそうだったね……。
 それにしても詳しすぎだろ」

「英国は金融で食べてる国だから」

(関係あるのか……?)

「あと証券会社と信託銀行は違うからね?
 証券会社は直接株を売買するけど、信託銀行はできないの。
 信託銀行も証券は扱うけど、扱い方が違うっていえば
 分かりやいかな? 信託銀行ではある程度まとめられた証券を…」

「ごめん。もう止めてもらっていいかな?
 たぶんそんな話されても高校生で分かる人いないと思う」

普段とぼけた感じのミウの意外な一面を見せられ、
冷や汗をかいた太盛。ミウに難しい話をされたのは初めてだった。

「失礼しまーす。斎藤さん。そろそろ点滴の交換のお時間ですよー」

看護師が入って来た。

輸液ボトルがそろそろ空になりそうになっている。
ボトルにはシールでマリーの生年月日や日付が書いてあった。

太盛とミウは邪魔にならないように廊下に出た。

看護師や医師がベッドを四人がかりで押して通過していく。
ベッドにいるのは白髪の相当なお年寄りだ。
ベッドの上から点滴のチューブを垂らしていた。

「俺たち、夏休みだから暇なんだよな」

「そうね。時間だけは売るほどあるわ」

「あんな事件のあとじゃ、何もする気にならないな。
 今でも夢だったんじゃないかって思ってるよ。
 マリーがあんな状態なのに、俺たちだけ無事ってのも、
 なんだかな……。申し訳ない気持ちになってくる」

「ずっとマリーのそばにいてあげたいけど、
 私達の力じゃ失語症は治せないからね」

「すべては時間が解決してくれるんだろうか?」

「さあ。私は神様じゃないもの」

マリーはお腹や肩に激しい打撲の跡があった。
傷自体は内出血なので自然治癒に任せればいい。
爪をはがされたり歯を砕かれたりはしなかったのが幸いだ。
エリカとしては軽いお仕置きのつもりだったのかもしれない。

問題は彼女の心だ。

拷問の影響で心が死んでしまったのだ。身体の自由を奪われ、
相手の好きなように痛めつけられる恐怖は想像を絶する。
それを高校一年の天真爛漫な乙女が味わってしまったのだ。

言葉を発さないだけでなく、人間らしい感情を失い、
植物人間のようになってしまった。自らの意思で
食べることも出来ないので点滴生活になっている。

「エリカも会長達も、許せないよ。
 一年生の女の子にどうしてここまで……。
 あいつらは、本来は生徒を守る立場の人はずだよね?
 こんなことするなんて人間じゃないよ」

「俺だって同じ気持ちさ。
 できるなら、あいつらを殺してやりたいよ」

「警察に訴えられないの!?
 太盛君の腕時計で録音したんでしょ!?」

「マサヤからそれはしないほうがいいって言われたよ。
 うちの生徒会は過去に悪事を売るほどやっていたらしい。
 真実が世間に知られたら、最悪、閉校も考えられるって」

「うそ。そんなに……?」

「今思えば、マサヤが会長を怖がっていたのはそのためか。
 俺とミウのこと心配してくれたのも、会長に目を付けられない
 ようにって意味だったんだな。あいつも生徒会で苦労してるんだろう」

「あの生徒会って何なの!? ボリシェビキとか
 わけ分かんないこと言ってさぁ。全員死ねばいいのに!!」

さすがにその声の調子では他の患者に迷惑。
院内は騒ぐな走るなは世界各国共通である。

廊下を歩いている患者に嫌な顔で見られた。

「ああっ、その。ごめんなさいっ」

ミウが謝ると、何も言わずに通り過ぎていった。

患者服を着た20代の男性だった。
一見まともそうに見える彼も、当たり前だが
何らかの病気でここにいるのだ。

ここは総合病院の二階。内科病棟だ。

マリンは当初精神科へ送られたが、母が世間体を気にして
内科へ移させた。ちなみに金があるので当然個室だ。
彼女の父は、仕事が忙しいとのことで一度も見舞いに来ていない。

「くやしいけど今の俺たちに出来ることは何もないよ。
 少し病院から出ようか」

「うん。でもどこに行くの?」

「どこでもいいよ。適当に歩こう」

外は真夏の暑さである。
時は7月の下旬。南関東である都内のエアコンの室外機などの
害をもろに受けた北関東は、想像を絶する暑さと湿度である。

「し、しぬーっ」

「なんて日差しだ!! 素肌をオーブンにさらしたみたいだぞ!!」

太盛の携帯にエリカと思わしき人から着信があった。
太盛はスマホの裏カバーを開き、なんと電池を抜いてしまった。

ちなみにエリカの番号は消したので
画面には着信番号のみが表示されていた。

「太盛君。近くのカスミ(スーパー)でアイスでも買おう!!」

「なんでカスミ?」

「お父さんが株主なんだよ。
 少しだけだけど優待券をもらったの」

「株主優待券……? つまりただで食べられるってことだな」

この近所で一番でかいスーパーがカスミである。
もう少し離れた場所にショッピングモールもあるが、
ミウが人込みを嫌がるのでデートコースから外している。

太盛が買い物かごを手に店内に入ると、
ある買い物中の男を発見した。

太盛は最初、人違いかと思って目を凝らしたのだが

「やっぱりあの野郎かっ!! ぶっ殺す!!」

太盛が元気に駆け出して行った。

その勢いは、餌を見つけたセグロジャッカル
(タンザニアのキリマンジャロ山付近)のごとくだった。
どうでもいい例えだったかもしれない。

男に商品のリンゴを投げつけ、ひるんだところに殴りかかった。
軸足に力を込め、大きく振りかぶった右ストレート。
殴る動作で大切なのは下半身の安定である。男は盛大に吹き飛んだ。

機先を制す。これが太盛の戦闘スタイルだった。
まず先制攻撃を食らわしてその後の形成を有利にしようというものだ。

男は喧嘩慣れしているのか、すぐ起きがあり、すかさず応戦。
足をまっすぐ伸ばしただけのやくざ蹴りだ。
今度は太盛を吹っ飛ばした。

太盛はお菓子棚につっこんで陳列された商品を
めちゃくちゃにした。たまたま近くにコーラのペットボトル
が落ちていたので、よく振ってから男の前でふたを開けた。

男はコーラのシャワーをまともに食らった。
目を開けていられなくなり、そのすきに太盛は突進。
マウントを取って拳を次々に振り下ろす。

太盛の握った拳は石のように固く、重い。

「ちょっとちょっと!? ここ店先だよ!? 
 太盛君、さっきから何してるの!?」

「は……?」

ミウに拳を握られてようやく我を取り戻した太盛。
倉庫から店長と思われる人物が出てきた。
鬼の形相で太盛の方へ歩いてくる。

そういえば、先生から休み中に羽目を外さないようにと
言われていたことを思い出す。

太盛はさっそくやってしまったのである。
店長に捕まれば警察に通報されて補導もありうる。

「ごおっ!?」

太盛は最後に男のお腹の上で拳を降ろしてやった。
みぞおちに入ったようで男は地獄の苦痛にあえいでいる。

そして

「今だっ!!」

ミウの手を引っ張りながら撤退した。
酷暑の中、行く当てもなく走り回った。

日中の激しい運動はひかえるように気象庁から
言われてるのにおかまいなしだ。

当人たちは店長に追われるかもしれない恐怖でそれどころではない。

「なんでっ……あんなことしたの!?
 あの人っ……誰だったの!?」

「むかしのっ……知り合いだっ……
 中学時代にお世話になったんだっ……!!」

話しながらだと息が続かない。

疲れたので立ち止まると、汗が滝のように出てくる。
人間はこんなに汗が出るのかと言うくらい出る。

犬のように口を開けて呼吸を整えていた。

「あっ、噴水だ」

とミウが言う。そこには小さな公園があった。

公園は市の平和記念公園であり、小さな子供たちの
遊び場になっていた。その奥に市役所が建っている。

「くちびるが切れて血が出てるよ?」

ミウが濡らしたハンカチで拭いてくれた。
ちくっと冷たい感触がした。

日傘をさし、ベビーカーを連れたママたちが井戸端会議している。

幼児たちが噴水の中に入ってバシャバシャと水をかけあってる。
小さな浮き輪や水鉄砲を持ったりと楽しそうだ。

水浴びは夏の暑さを忘れさせてくれる数少ない方法である。
微笑ましい光景に思わずミウの顔が緩むが、

「ち……母親か」

太盛が吐き捨てるように言った。
その顔はミウの知っている彼ではなかった。

「太盛君……? 今なんて?」

「なんでもないよ。それよりアッツいなぁ。
  俺暑いのだめなんだよ」

「あっちに木陰のベンチがあるよ。
 ちょっと休んでこうよ」

太盛はおとなしく従った。

「ベンチが暑い!?」

「おかしいな……木陰のはずだったのに」

「日本の夏が異常なんだよ。
 仕方ない。用はないけど市役所に入るか」

本当に用もなく市役所に入った。
大人たちが頼まれても行きたくない場所のトップである。
夏はエアコンがよく効いていて避暑地代わりになる。

太盛達は一階の中央に位置する待合室に座った。
止まらない汗に耐えていると、
やがて収まってきて心が落ち着いた。

実は人間は汗をかくと一定のストレス解消の効果がある。
運動で汗をかくことはとても良いことなのだ。

待合室では暇つぶし用にテレビが流れている。
テレビは天井ぶら下げ式だ。夏休み初日の
行楽地の込み具合を報道している。

当然家族連れが多い。小さな子供たちが母親と手をつなぎながら
新幹線に乗車するシーンを太盛は歯ぎしりしながら見ていた。

「はは……世の中の奴らは楽しそうだなぁ。
 今年はエジプトに行きたかったのに……全部台無しだよ……。
 クソッ。クソ。なんで何もかもうまくいかないんだよ。くそぉ!!」

「落ち着きなよ太盛君。今日はどうしちゃったの?
 いつもはそんな人じゃないじゃない」

「俺は……もともとこんな奴だよ。性根の腐った奴だ。
 俺なんか、本当は学校のクラス委員なんかに選ばれる人間じゃない。
 今の担任は俺が中学時代に荒れてたのを知らないんだよ」

「さっき殴った人も太盛君の昔の同級生だったんだね」

「奴は最低のクズだ。俺の敵だ。表立って俺に逆らわないくせに、
 陰でたくさん悪口を言いふらして他の仲間を先導してさ。
 最後は大人数で俺にかかってくるんだ。俺は負けっぱなしだったよ」

「そういう人って最低。女々しくて男らしくない」

「卒業後、どこかであったら
 ぶん殴ってやろうと心に決めていたんだ」

「私はびっくりだよ。
 太盛君って将来有望な優等生ってイメージだったから。
 リーダーシップがあって立派じゃない」

「立派? 俺が立派に見えるか? 家に帰れば親父に叱られてさ。
 この年になってまだ説教されるんだぜ?
 先生に成績を褒められようが、おまえはまだまだ未熟者。
 おまえが私と同じレベルになるには百年かかるって」

「それは……ちょっとお父さんが厳しすぎるのかもしれないけど。
 でもお母さんは? お母さんからはそんな風に言われないでしょ?」

「母さんは……」

太盛はふと市民課の方に視線を向けた。
ミウも同じ方を見るが、特に変わった様子はない。

「別居してるんだ」

「え?」

「俺が中学の時、最低のクズだったってことは話したろ?
 その時に母がよく担任に呼び出されてさ。母は家で泣いていたよ。
 育て方を間違ったのはあなたのせいだって、俺じゃなくて親父殿に
 きつくあたった。夫婦喧嘩は夜遅くまで続いた。そんな夜は
 うるさくて寝られないから耳にイヤホンして寝たんだ。
 もっとも親父は会社の経営が忙しくてめったに帰ってこなかったけど」

「そうなんだ……。ごめんね。こんなこと聞いちゃって」

「気にするな」

少し間が開いた。

ミウは気になったので続きを聞いてみた。

「まだ離婚はしてないの?」

「してないよ。名義上はまだ俺の母だけどな。
 住んでる場所が違うだけ。実家に帰ったんだよ。
 もっとも何年も別居していたら自動的に離婚になるんだけどな」

「お母さんとは、しばらく会ってないんだ?」

「ああ。俺の高校に進学した時、嘘でもいいから入学式に
 来てほしかった。そして俺の恩師に会わせてあげたかった。
 俺は高1の夏にある先生に言われたのださ。勉強だけできる奴は
 いらんってね。友達を大切にし、親を敬えって言われた。
 おまえが健康な体で学校に行って勉強できるのは親のおかげだって」

「全部あたり前のことなんだけどな。俺は小さいころから父に
 厳しく育てられた。家じゃ自分の言いたいことも言えない。
 我慢の連続だったんだ。なぜお父さんはこんなに俺に厳しい?
 どうやったら認めてくれる? 学生の本文は勉強だ。
 なら勉強を頑張ればいい。その一心で努力はたくさんしたよ」

「中学三年の時だったか。クラスで一番の順位をとった。
 俺は満足した。勉強ができれば何をしてもいいと思っていた。
 それで威張ってたから敵が多かった。年下と喧嘩したこともあった。
 だが家での俺は……良い子でいるしかなかった。
 だって俺が家でも暴れたら、使用人のみんなに迷惑かけるじゃないか」

「太盛君は使用人の人達には特に優しいものね?
 君が外で荒れた生活をしていたなんて今でも信じられないよ」

「まあ使用人の人達には罪はないからな。
 俺が家できつい態度を取ったら彼らがどれだけ傷つくと思う?
 何年か前に後藤さんから帝国ホテルを辞めた理由を聞かされたよ。
 離婚もして、苦労した末にうちにたどり着いた人なんだ。
 意味もなく荒れてる同級生のガキどもとは大違い。
 ああいう苦労してる人達は心から尊敬するよ」

「あの人たちは立場上俺には逆らえないんだ。
 こんな、取るに足らないクソガキにだぞ?
 だから俺は絶対にあの人たちをいじめたり
 冷たくしたりしないと心に誓った。
 使用人って言い方も好きじゃない。
 だって彼らは家族の一員じゃないか?」

恨むような顔で壁を見つめたまま、早口でまくし立てていた太盛。
彼にとって古傷をえぐる行為だった。
今までエリカの前ではこの話をしたことはなかった。

「ははっ……なんでこんなことミウの前で話してるんだろうな?
 悪い。つまらない話を聞かせちまった」

そういって頭をかいた。

ミウは泣き出してしまいそうになった。
太盛が使用人に優しい理由を今初めて知ったのだ
暴力的な面と優しい面が合わさってできたのが今の太盛。

彼は誰よりも弱くそして強い心を持った少年だった。
来年で高校三年になれば、世間的には青年と呼ばれる年齢になる。
ミウが知っているのは成熟した青年の太盛だった。

こんな彼の一面を、当時のエリカ奥様は少しでも
尊重してあげたことがあったのだろうか。

あのモンゴルへの逃避は突拍子のない計画だった。
父に抑圧されて育ってきた彼の弱い心が、
再び逃げ場を求めて暴走したのだとすれば、納得できる。

良いところも悪いところも受けいれることが
良い恋人の条件とはよく言われることだ。
ミウはどんな太盛でも正面から受け止めるつもりだ。

優しい彼が、記憶喪失のミウを
一番に気づかってくれたお礼として。

ミウは無言で太盛の手を握った。

太盛は驚いたが、それも一瞬。すぐに握り返した。

ここに人目がなかったらキスの一つでもしたかもしれない。
愛の言葉をささやいたかもしれない。
お互いにそういった行為を恥ずかしがる性格ではなかった。

言葉はいらずともお互いの気持ちは通じ合ったのだ。

「もう暴力をふるっちゃだめよ?」

「約束できないけど、がんばるよ」



太盛とミウが見舞いに行くのは夏の日課となった。

迷惑じゃなければ、夏休みの間、毎日君に会ってもいいか?
その問いにミウは快くうなづいたのだ。
カップルというより夫婦に近い距離感だった。

平日の面会時間は13時からだ。(休日は10時から)
連絡などせずとも、その時間に合わせるように
どちらかが先に待ってくれている。
お見舞いはデートも兼ねていた。マリーの見舞いなのに
実の母より彼らのほうが多く訪れていたのは皮肉だった。

「先生。マリエの状態はどうですか?」

太盛が主治医の若い男性医師に問いかけた。

「深夜に突然発作を起こすことがある。
 断定はできないがPTSDに近い症状がみらるね」

「PTSD? テレビで聞いたことあるけど」

ミウの問いに看護師が答える。

「最近では日本でも有名になってきましたよね。
 心的外傷後ストレス障害のことを言います。
 命の危険を感じるほどの強いストレスを感じた時に
 その時の恐怖が持続する病気です。突然我を忘れて
 発狂したり、人に襲い掛かったりします」

「俺、歴史の本で読んだことあります。
 PTSDってベトナム戦争や沖縄戦の米兵に多かったみたいですね。
 兵隊は国に帰ってから長い間病気に苦しめられ、
 夜目覚めて家族に銃を乱射した事例があったそうです」

すると医者は感心した目で太盛を見た。

「彼の言う通り、もともとは兵隊さんに多い病気だったんだ。
 現代の日本の例だと事故や天災かな。戦場並みの恐怖とショックだね。
 あくまで一般的に考えれば、斎藤さんもそれほど
 強力なショックを受けたということになりますが……」

太盛とミウはうつむいた。
あの日の悪夢がよみがえる。

「建物の崩壊を近くで見たことが、彼女の精神に
 決定的なダメージを与えてしまった。そういうことでしょう?」

看護師はそれで結論付けようとした。彼女が一番知りたいのは
マリーのお腹や背中に激しい打撲の跡があった理由だ。

マスコミが報じる、たまたまマリーが爆発現場の近くに
いたからでは説明がつかない。どう見ても殴打の跡だからだ。

そして直感で分かっていた。斎藤マリエが事件に巻き込まれた真実を
この高校生達は知っている。だが、彼らは重苦しい顔で
言い訳をするばかり。それ以上聞ける雰囲気ではなかった。


「ふぅ」

看護師の朝は忙しい。

受け持っている患者を巡回し、朝の検温、食事、排泄の世話。
投薬、点滴。他の部屋にヘルプが必要なときは速やかに行く。

臨機応変に動かないとこの仕事は務まらない。
この内科病棟では看護助手の慢性的な人数不足に悩まされているので
患者の身の回りの世話など看護師の負担が増えている。

老人など入院患者が増える一方なのに人手不足。
日本の医療現場は地獄である。

とにかく忙しく、つい早足になってしまう。
人からさばさばしていると言われるが、
忙しさのせいで嫌でもさばさばしてしまうのであった。

毎日辞めたい、辞めたいと思っていて何年もたってしまう。
彼女の周りにはそんな人達が多かった。

患者に感謝されると素直にうれしい。
だが、そんな少しのやりがいの犠牲として
若く美しくいられる時間の大半を消費している。

「ご苦労様。お昼に行っていいわよ」

看護師リーダーに午前中の業務内容を報告したのだ。
これから少し早めの昼食だ。
今日は平穏な日なので11時すぎに次々にナースたちが集まっていた。

休憩所は女たちのおしゃべりの場になる。
一日で唯一リラックスできる時間だ。
もっとも三交代制なので同じ時間帯の勤務の人としかいられない。

「親が結婚しろってうるさくてさぁ。
 良い相手がいたらとっくに結婚してるっての」

「レイナの家は親戚のおばさんが勝手に相手を
 探し始めちゃったんでしょ? 必至だよねー。
 自分のことじゃないのにさ」

「でも私たちもそろそろ結婚考えないとやばくない?
 若くてイケメンのドクターでもいればいいだけどなー」

「うちのドクター、みんな結婚してんじゃん」

この病院は若い看護士が多く、今日の休憩所は
20代から30代前半の人達が集まっていた。
ちなみに年配の看護師はバツイチ率が結構高い。

「レイナのところの若い患者さん。
 精神病で入院でしょ? あれは長引くね」

「あのかわいい女の子。有名校の生徒さんなのにもったいないよねー」

レイナと呼ばれた若い看護士が、今朝マリーの部屋に巡回に来た人だ。
彼女は濃い茶髪と派手な目鼻立ちが特徴の美人だった。
この仕事をしている割に肌年齢が若く、実年齢の31には見えなかった。

「父親は何してんのよ? 入院の手続きの時に来たきりで
 そのあと一回もお見舞いに来ないんでしょ?」

「ちょっと訳ありの家庭みたいよ。お母さんも会社が忙しくて
 最近来ないじゃん。代わりにあの高校生カップルが毎日来てるんだよね」

「あの二人、ほんとよく来るよね」

「カップルの男の子かわいくね?」

「そうそう。超かわいい顔だよね。
 私らお年寄りばかり見てるから癒されるわ」

「私も彼氏ほしーな」

「あの患者さん、体に殴られた跡があったんでしょ?
 学校でいじめられてたのかな?」

「レイナ。あんた何も聞かなかったの?」

「親に聞いても学校で起きたことだから知らないってさ。
  カップルも本当のことを言ってくれないのよ。
   隠したい理由でもあるのかな」

「あの有名な進学校の子なんでしょ?
 あんなお坊ちゃまお嬢様校でいじめとかあんのかな?」

「人間なんだからどこでもいじめはあるでしょ」

「あの患者さぁ、あの年齢でPTSDってやばいよね。
 発作はどんな感じなの?」

「深夜にナースが見回りするとその足音に過敏になって
 暴れだすんだって。女の子だからすぐ止められるけどさ」

「うわぁ……あたし夜勤の時気をつけよ」

「あとでリーダーから夜勤へ申し送りされるよ」

「夜勤まじだりー。この仕事続けてたらお肌がやばいよ」

「夜勤明けとかさ、患者よりあんたの方が顔色悪いんじゃない?」

「あははははははっ!!」

「あっ。もう時間か」

「はやっ」

午後は患者さんたちの昼食のセッティングがある。
自分よりも患者さん優先。それが看護師だ。

患者にはよく噛んで食べるよう指導する割に
自分が早食いなんてよくあることだ。

彼女たちの話題に太盛とミウが出ない日はなかった。
太盛達は自然と院内でも有名人になっていたのだった。

神社の巫女さんは太盛の幼馴染だった

土日は10時から面会時間だ。

太盛とミウは申し合わせたわけでもなく、マリーの病室に来ていた。

「おはよう太盛君」 「ああ、おはよ」

マリーの失語症はまだ治らない。だが少しだけ変化があって、
身体を自由に動かせるようになった。
食事も自分で食べられるから点滴は外してある。

動きはゆったりとし、生気を失った瞳が幽霊のように怖い。
太盛達が挨拶をすると、小さくうなずくのだった。

「マリー。元気ないぞ? 
 たまには絵でもかいてみたらどうだ?」

マリーは驚いたように目を見開き、そういえば自分は
絵が描けたのかと言いたげな顔で驚いている。

「今度、画材道具でも持って来てあげようか?
 ベッドの上でもスケッチならできるだろ」

マリーはこくりとうなづいた。

「マリーちゃん、打撲は大丈夫? まだ痛む?」

マリーは首を横に振った。

口をパクパクと動かし、何かを伝えようとしている。
太盛が彼女の口元に耳を近づけるが、何も聞こえない。

彼女は泣いていた。伝えないことがあるのに声が
出せないことが悔しくてやりきれないのだ。

いったい何が言いたかったのか。
ミウが筆談するための紙とペンを渡すが、
マリーは哀しそうな顔でうつむいて書きたがらない。

その姿があまりもかわいそうで
太盛がマリーの髪を撫でてあげると、
マリーの表情が少しだけ緩むのだった。

(昔の太盛様にそっくり。本当に二人は親子みたい)

もちろん思っただけで口にはしなかったミウ。

「あっ、おはようございます」

「おはようございます。
 今ベッドのシーツ変えちゃいますね」

マリーの担当の看護師のレイナが入ってきた。
太盛達は毎日来るので顔見知りになっていた。

太盛とミウは廊下に出て待つつもりだったが、
そのままでいいと言われた。

「斎藤さん、よく聞いてね? あなたは自分のことが
 自分で出来るようになったから、もうすぐ自宅に帰れるわよ」

マリーはこくこくとうなづいていた。

「来週の火曜日に最後の検査をします。
 それで異常がなければ退院できますよ。
 良かったですね?」

認知症などの老人を多く扱っているためか、
レイナは実に明瞭な口調で話した。

「本当に良かったじゃないかマリー。
 一時はどうなるかと思ったけどな」

「そうねっ。この調子なら来週には退院ね」

マリーはうれしそうに微笑んだ。

太盛は正直全然安心していなかった。
失語症だけでなくPTSDもあるのだ。

夏休みはまだ始まったばかりだが、エリカへの
トラウマを残した状態で新学期を迎えたら
また発作を起こすかもしれない。

太盛は事件の当事者だから、マリーを完治させるまで
どんなことでもするつもりだった。ミウも同様だ。

「二人とも。少しよろしいでしょうか?
 先生からお話があります」

レイナに呼ばれたので病室から遠いく離れた廊下のすみまで歩いた。
そこには主治医の男性がいた。真剣な顔で話し始める。

「これは本来ご家族の方にお話しすることなのですが、お二人とも
 毎日お見舞いに来てくれていますからお話しします。
 斎藤さんの失語症ですが、失語症にはいろいろな種類があるのを
 ご存知でしょうか?」

太盛とミウは顔を見合わせてから首を振った。

「話す内容も支離滅裂になるが、自分ではその異常に
 気づかない状態を感覚性失語症と呼びます。
 理解も比較的よく、比較的発話量も多いが、かんじんの言葉が
 なかなか出てこないようなタイプの失語症を健忘性失語症といいます」

「もっとも重症の失語症で発話もほとんどなく、
 理解力もほとんどなくなっている失語症は全失語症と呼ばれます」

「失語症の発病後、約3ヶ月間は脳の自然回復が進むと言われています。
 この時期を逃さず、集中的な言語訓練を行うことが重要です。
 この期間を過ぎても消えない言語障害は
 何らかの形で後遺症として残ることが考えられます」

「後遺症って……。じゃあ一生治らないかもしれないんですか?」

ミウの深刻な問いに医師は「可能性としては考えられます」と言った。

「彼女の家庭の話ですが、お母さまは大変お忙しい仕事を
 されているようですから、娘さんのそばにいられる時間は
 少ないでしょう。可能ならお友達のお二人ができるだけ
 彼女のそばにいてほしい。そして、どんなことでもいいから
 コミュニケーションを取ってほしいのです」

「普通に話しかければいいんですか?
 まり…斎藤さんの方は筆談でも問題ありませんか?」

「全く問題ありません。
 重要なのは彼女を一人にしないことです」

「どんな病気でも原因があるものです。お友達のお二人は
 斎藤さんが病気になった直接的な原因をご存知ですか?
 もし知っているなら、その原因を遠ざけてあげなければ
 回復が遅れることになるでしょう」

「原因ですか……」

太盛が困り果てる。学校で事件があったことは世間的に
抹殺したい事実だ。この院内で本当のことを話したら
それこそ世間の笑いもの。

だが、治療の専門医に隠したままでいるのもまずい。
何か回復の手立てがあるなら、そう思ってやんわりと説明した。

「女同士のトラブル……とでも言いましょうか」

「……いじめやけんかでしょうか?」

とレイナが会話に入って来た。

「これは……マリエのプライベートにかかわることなので
 詳しくは言えませんけど、ちょっと同じ部活の先輩と
 殴り合いというか、そんな感じの事件があったんですよ」

「では、彼女の打撲の跡はその先輩に殴られたものと?」

「そう考えて間違いないと思います。
 実は僕らも直接見たわけじゃないんですけどね」

「対人トラブルが原因ですか。それにしてもあの学校は
 いろいろうわさが絶えないですね。例の爆破も」

その話題になると太盛とミウは暗い顔で黙ってしまう。
またか、とレイナは思ってそれ以上聞かないことにした。

「斎藤さんの今後に関しては、彼女のご両親とも
 話し合って決めることにします。
 今日話したことはくれぐれも本人には話さないでください。
 彼女の今後が関わっていることです。
 学校でのトラブルが原因なら、転校したほうが
 いい場合もあるでしょう」

医師が最後にそう言って去っていった。レイナも後を追う。
レイナは瞳に焼き付けるようにカップルの姿をよく見ていった。


(受け身になったら何も解決しないぞ。
 医学で無理なら、他の方法を当たってやる)

太盛にはある考えがあったのだ。



太盛は小さい頃からよく神社に通ったものだ。
嫌なことがあると決まってその神社を訪れた。

4百弾もある石段を登った先に本堂へたどり着ける。
階段は途中で曲がる箇所がいくつかあり、
その場所ごとに鳥居が建てられている。

石段登りはトレーニングと呼ぶにふさわしい。
どんな人でも登っている途中で足腰が悲鳴を上げるものだ。
特に夏場はきつい。

太盛は石段を登るのを修行だと考えていた。
何度か休憩をはさみながら、ゆっくりと確実に登っていく。
太ももが痛い。息があがる。喉がかわく。だが諦めない。

ここは神々が宿る大自然。
一段一段登る間に腐った心が清められていく感じがした。

道は深い木々に囲まれていて日中の日差しは入ってこない。
近くで鳴き続けるセミ。汗でびっしょりと濡れるTシャツ。
髪の毛もべったりと顔に張り付くのが気持ち悪い。
ここに来ると、中学の制服を着ていた自分をよく思い出す。

階段を登り切ると下界が一望できる。
田園を中心とした、特徴のない田舎町。

七福伸といって、この町には七つの主な神社が存在する。
ここはその神社のうちの一つだ。

太盛は最上段の石段に腰かけてこの景色を見るのが大好きだった。
ここで受ける風は、地上よりもずっと涼しく感じられる。

「足がもう限界っ!!。日本の夏、もうやだ。国に帰りたくなってきた」

太盛の隣には当然のようにミウがいた。
彼らはもはや一心同体。
どこへ行くにしても一緒にいるのが
当たり前なほど親密な中になっていた。

「あんた……太盛だよね?
 太盛がうちに来るなんてどういう風の吹き回し?」

神社の境内から女性が出て来た。
彼女は巫女だが、今日は行事のある日ではないので私服だ。

「高校に上がってから、しばらくここに来てなかったからな。
 こっから見える景色が懐かしくなって見に来たんだよ」

「あらそうなの?」

と言い、大汗をスポーツタオルでふいてるミウを見て

「あんたの隣にいる子は誰よ?」

「彼女だよ」

太盛がさらりと言うので、
ミウは飲んでいたアクエリアスを吹いてしまった。

「太盛に彼女いたんだ? てかあんたみたいな奴と
 付き合いたいと思う人類がこの世にいたことに驚き」

「エミは相変わらずはっきり言うなぁ。ちょっと傷つくぞ。
 こんな俺でも良いって言ってくれる人はいるんだよ」

エミと呼ばれた女性は太盛の幼馴染だった。
年は彼の一つ上で別々の高校に通っている。
太盛が彼女のことをざっとミウに説明した。

「初めまして……。よ、よろしくお願いします。
 私は高野ミウと申します」

「こちらこそよろしく……。私はエミよ。
 エミでもエミーでも好きに呼んで。そんなに固くなくていいわよ。
 あなたがかしこまっていると、こっちまで緊張しちゃうじゃない」

「俺は堀太盛といいます」

「知ってるわよ!!」

太盛は声を出して笑った。

「暑いから中に入りなさい。
 こんなところにいると汗臭くなるわよ」

「おう。中で冷たい飲み物出してくれる?」

「はいはい」

境内の社務所は住居を兼ねていた。
内部は普通の住宅とそう変わらない。

エアコンの効いたリビングは別世界のように快適だ。
太盛は勝手知ったる他人の家なのか、寝転がってくつろいでいる。

エミがお盆に麦茶を持ってやってきた。
さすが神社の生まれだけあって、どこか神聖な感じがした。

肩より下から癖のついたロングヘアー。髪のボリュームが結構ある。
眼はたれていて、特徴のある顔をしていた。
決してブスではないが、美人というほどではない。

「今日は何しに来たのよ? あんたの彼女を紹介しに来たの?」

「んなわけあるか。ちょっと相談事があって来たんだよ」

「相談? また喧嘩でもしたの? あんたの顔殴られた跡があるよ」

「まあ喧嘩もしたけど、それとは別件。
 最近悪いことばかり続いてるからさ……。
 ちょっと先のことが心配になっちゃったんだよ」

「あらそう。ならそこのおみくじでも引いていきなさいよ」

「そうじゃないよっ!! もっと真剣な悩みなんだよ」

「あははっ。分かってるよ」

二人の息の合ったやり取りにミウの胸が少しだけ痛んだ。
二人が中学時代に親密だったのが伝わってくる。

太盛は真剣な顔でマリーのことを話し始めた。
他言無用のはずの学園の秘密を含めて包み隠さず話した。

(そこまで話しちゃっていいの!?)

ミウが途中で話を割りたくなるほどであった。
エミは太盛の話が核心に迫ってくると目を閉じて真剣に聞いていた。

ミウは彼女の姿を珍しそうに観察していた。
確かに太盛が信用するだけあって頼りになりそうな少女だった。
冗談を言っていた時とは別人に感じられるほど
太盛の話に聞き入っている。

「なるほど。それで私のところに来たってわけね?」

「ああ」

「私はね、超能力者じゃないのよ?
 神の力を医学代わりだと思っては困るわ」

「俺だってそんなつもりはないって。ただちょっと
 話だけでも聞いてほしいと思ったんだよ。
 なにせ医者もお手上げだ。あの子の
 将来のためにも何かできることがあればなって」

「困った時の神頼みとはよく言うわよね。
 普段は信仰心のかけらのない連中が言うものよ」

「エミ、怒ってるのか?」

「むしろ逆よ。太盛が私を頼るなんて中学の時以来じゃない。
 あんた、すっごいバカだったね。喧嘩ばっかして親に怒られてさ。
 落ち込んだ時にそこの階段のところで、よく一人でたそがれていたよね」

「一人になりたかったんだよ。でもしばらくして一人でいるのは
 さみしいと気づいた。そんな時にエミが声をかけてくれて
 本当に助かったんだ。だから今回もエミを頼ろうと思った」

「ふーん。話をする前に一つだけ」

エミは、上品に座っているミウに視線を移す。

「占い好きの女子って多いじゃない? 
 でも根っこの部分で神様を信じてる人はいないのよ。
 ミウさんは神様とか信じるタイプ?」

「私は、生まれがキリスト教の国なんです。
 中学の時に日本に引っ越してきまして」

「あらそうなの?
 キリスト教圏といったら欧州かアメリカ大陸よね」

「イングランドです」

「ってことは英国国教会?」

「そうですっ。よくご存じですね!!」

「いちおう神に仕える身だから他の宗教のことも勉強しているのよ。
 学校での授業でも習ったりするしね。
 イスラム教のことも知ってるわ。最近テロのせいで評判悪すぎよね」

ちなみにミウと太盛の学校はミッションスクールだが、
生徒の9割は信仰心がない。進学校のせいか宗教史の授業に
ほとんどの生徒は関心がなく、適当にやり過ごしてる。

「太盛の彼女すごいじゃない。
 あんた外人フェチだったんだ?」

「ミウの両親は日本人だよ。
 この子もちゃんと日本人の顔してるだろ」

「うん。言われてみればそうね。
 ミウさん。あなた、英語は話せるの?」

「恥ずかしながら、日本語より得意です」

「すごーい。帰国子女なんて初めて見たわ。
 あなた、英国生まれだから
 もったいぶった話し方をするの?」

「たぶん人見知りだからですよ。
 あと日本語はアクセントの関係で
 感情をつけにくいというか」

「そんなもんなのかしらね。
 私は外国語が苦手だから全然分からない感覚だわ」

「なあエミ。少し話を進めてもらってもいいか?」

「あっ、そうだったわね。ごめんごめん。
 私、話しだすと止まらなくなっちゃうのよ」

巫女さんはいろいろと詳しかった

エミが咳払いをしてから真顔になった。

「神頼みの前に、日本の神様について勉強してもらうわ。
 二人はクリスチャンだから神道は詳しくないでしょ?」

「おう。全く知らないぜ」 「私もです」

「ミウさんは言霊って聞いたことある?」

「コトダマ?」

「その様子だと初めて聞いたみたいね。
 これから説明するからよく聞いてね? 
 太盛も寝ないで最後まで聞きなさいよ?」

「おっす」

古来からわが国では「言=事」と考えられ
「良き言の葉は良きものを招き、悪き言の葉は災いを招く」
  といった観念があった。

もし我々が言葉の霊的な部分、内に潜む神秘的な動きを理解し、
目的の言葉を発するだけでその言葉のまま実現できるとしたら……

かくしてこの「言霊の呪力」に心を奪われ、言霊の力を自在に使うべく、
たくさんの神道家や霊術者が言霊の力の研究に没頭した。

「え……言霊の呪力? なんか怖い話なんですね」

「ちなみに日本の起源も言霊に由来してると言われてるわ」

太古、わが国はまだ十分に成りととのわず、水に浮かんだ油のようで
その様子はまるで海の中のクラゲのようにただよっていました。

宇宙神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の
二柱の神に命じ、「このただよへる国を修理り固め成せ」とおおせられ、
天の沼矛(あめのぬぼこ)という「ほこ」を授けられました。

二柱の神は、天の浮橋にお立ちになり、この沼矛をさしおろして、
海の水をコヲロコヲロと音をたててかきまわし矛を引き上げると
矛の先からしたたりおちた塩水が固まって、「オノゴロ島」となりました。

二柱の神はこの島に降られてちぎりを結ばれ、
日本の国土をはじめ多くの神々をお生みになったのです。

                   ※古事記「国生みの神話」より引用

「日本は謎の多い国なのよ。まず私たちが話してる日本語。
 世界のどの語族にも属してない孤立言語。起源も不明」

「そうだったんですか?
 たとえば英語はインドヨーロッパ語族って分かってるのに」

「日本語はモンゴル語みたいな
 アルタイ語族に属するんじゃないのか?
 図書館の本にそう書いてあったぞ」

「太盛が呼んだのは古い本だったんじゃないの?
 今のモンゴル語はモンゴル諸語の一種とされているわ。
 日本語はね、いまだに謎が多すぎてよく分からないの。
 そして神道。いつ、どうやってできた宗教なのか分かってない」

「そんなに神道は謎の宗教だったのか?
 同じ日本の宗教でも仏教はガウタマ・シッタルダ(シャカの本名)が
 修行の末にたどり着いた教えとはっきり分かってるのにな」

「私も気になってネットで調べたことあるんですけど、
 もしかして神道って外来からやってきた宗教の可能性あります?」

「そういう説があるのは事実ね。ユダヤ人やイエスが話していた言葉が
 ヘブライ語なのは知ってるわよね? ヘブライ語と日本のカタカナには
 意外と多くの共通点があって、神道行事にもユダヤとの類似点が
 いくつも確認されているの。こんな話もあるわね」

日本民族は大きく分けて縄文人や弥生人に分かれる。
弥生人は、古代ユダヤ10支族・海部氏(物部氏)、
支那大陸華南地域から来た「倭族」からなる。

このうち海渡人(ウミワタヒト)という海人族が海部氏(物部氏)で、
秦の始皇帝の側近・「徐福」によって連れてこられた数十万人の
古代ユダヤ人の一団という説がある。

「生前の明治天皇がお孫さんの一人にこう語っていたそうよ」

『私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、
 日本は、神道である。しかし神道は、本来はユダヤ教である。
 そしてキリスト教はユダヤ教を完成させるものだ』

「当時の天皇陛下がそんなことを……?
 信じられねえよ。後世の人の創作じゃないだろうな?」

「そのお孫さんはね、自称孫なのよ。世間ではペテン師じゃないかって言われてるわ。
 皇室専用の椅子や天井に六芒星(ダビデ王の星)が必ず刻まれてるけどね」

「あの六芒星がですか? 思いっきりユダヤ教の象徴ですよね。
 偶然にしてはできすぎてるような気がしますね。
 私、そういう話信じちゃうんですよー」

「興味があるなら日ユ同祖論をネットで検索すればすぐでてくるわよ。
 日本では否定する人のほうが多いけど。
 真実なのかは私にもわからないわ。まっ、どれを信じるかは自由ね」

「エミはその話、信じてるのか?」

「んー、生物学的に日本人とユダヤ人が同じ民族ってのは
 ないでしょうね。もちろん天皇家の人達もユダヤ人ではないわね。
 ただ、シルクロードを伝って古代イスラエルの文化・
 風習が日本に入って来たってのはあり得る話ね。
 それも中国から漢字や仏教が入ってくる前にね」

ミウはエミの話に興味津々だ。

こういったオカルト系の話をするのも夏の良い思い出になる。
普段の学校生活とは違う非日常だった。

エミがどうぞ、と言って茶菓子をすすめるのでミウと太盛は手を伸ばした。

「話を戻して言霊についてもう少し掘り下げるわね」

「おうよ」

言霊はなにも日本独自のものではない。

東洋西洋ともに言葉には精霊が宿り、その精霊が振るう不思議な力が
人々を幸にも不幸にも招くものと考えられていた。

言語には超越した力が宿り、その力を神霊や精霊の力になぞらえ
畏れ敬いう気持ちが「言霊」というものに通じた。

そういった言霊の観念は日本においては「祝詞」東洋においては「経文」、
西洋においては「聖書」にこめられ、後世に伝えられた。

祝詞の語源は「祝詞とは宣説言(のりときごと)の略で、神に申し上げる言葉」と
するものや「神を招き奉る場合、一定の宣る場所を必要とすることで、
その宣ることに必要な言葉が“のりとごと”と言い、
祝詞の語源である」という説がある。

「その考え方、すごく共感できます。私も小さい頃から聖書は
 黙読しないで声に出しなさいって教わってきました。
 あと、できるだけ人気のないところの方がいいって」

「聖書なんか分かりやすい例よね。最初の日(創世記)に
 神が光よ有れ、って言って太陽が生まれた。
 大切なのは口に出すことなのよ。
 同じ神を信仰しているコーランも同じね」

コーランをアラビア語で『クルアーン』と言う。
意味は『読誦されるもの』という意味である。
暗記して『声に出して読むもの』ということだ。

「ムスリムの人達は……異教徒だから私はあまり好きになれませんけど」

「まあそう言うでしょうね。ミウみたいにコーランを嫌う人は
 多いと思うけど、あれ、すごい完成度高いからね? 
 たぶん世界中の宗教を探してもあそこまで
 洗練されて完成された聖典はないわよ」

「イスラム教って自爆テロのイメージしかないけどな。
 なんであんなに好戦的なんだ」

「英国でも爆破テロされました。ぶっちゃけ私は今でも恨んでますよ」

「イスラム教は良くできすぎてるから信仰が深い人が多いのよ。
 下手な例だけど、面白い漫画やアニメを一度見たら止まらなくなるでしょ?
 それで中毒になった人を日本じゃ信者とか言うじゃない」

「あー、あれ謎だよな。どいつもこいつも神なんか信じてないくせに
 ○○は神だぁ、とか平気で言うから腹立つよ」

「生まれたころからクリスチャンな私には無宗教の人が
 多いこの国がいまだに理解できません」

「そうそう。普通の日本人は聖書なんか鼻で笑うでしょ?
 世界的に見たら無宗教の人の方が少ないのにね。
 今は地球人類の三人に一人がクリスチャンよ?
 アメリカの大統領だって大統領就任式の時に
 必ず教会で祈りをささげているじゃない」

「さすがエミさんはよくご存じです。
 神社の生まれの方って博識なんですね」

「褒めたって何も出ないわよ?」

「ほんとに何も出ないからやめとけよミウ」

「こらっ」

エミにどつかれて、太盛が楽しそうに笑う。

「言霊って悪いことにも使えるんだろ?
 キリスト教だとサタンを呼び出したりとかさ」

「悪魔を召喚するのは魔法陣が必要だから分野が違うけどね。
 しかもあれは黒魔術。神道では言霊を使った呪術があるわよ? 
 というか実際に使われていたらしいわ。
 霊学秘宝と呼ばれるものにこんな例があるわ」

ひふみよいむなやここのたり ふるべ ゆらゆらとふるべ

物部氏の祖神「ニギハヤヒノミコト」が降臨する際に「タカミムスビノミコト」
に授けたというのが「布瑠の言」である。

この言霊には「十種神宝(とくさのかんたから)」を意味するものが含まれ、
言霊の中で神宝を使うことで霊的な秘技を確立する。

「旧事本紀」では「死者がよみがえる」とも記されている。

ミウは身震いした。

山の中の神社でこういう話を聞かされると、
嫌でも雰囲気が出てしまう。

「そのマリーちゃんって子の病気を治したいんでしょ?
 神道に呪術は確かに存在するわ。もちろん病気を治す類のものもね。
 だけど神のお力を借りようとするのはおよしなさい。
 我々人間がそうやすやすと使っていいものではないのよ。
 下手に使うと逆効果。奇跡と祟りは紙一重よ?」

「ひぃ……」

「ミウちゃん。そんなに怖い? 
 エアコンの温度もっと下げてあげようか?」

「やめてくださいよぉ!!」

「あははっ。冗談だよ冗談。欧州の人なら冗談は慣れてるでしょ?」

神社の巫女にしてはユーモアがある女だった。
次からミウって呼ぶね? と言ってから話を続ける。

「私の意見を言うね。最初に治すべきはエリカって女の方ね。
 会長とアニャー?って女も完全にイかれてるね。
 あっ、イくってそういう意味じゃないのよ?」

「言われなくてもわかってるって!! 話を進めてくれ」

「あらそう。残念。私はこういう家に生まれたからかも
 しれないけど、頭のおかしすぎる奴は悪魔憑きを疑うわ」

「悪霊に憑りつかれてるってことか?
 それはちょっと言いすぎじゃないか?」

「エリカって女はキリスト教徒なんじゃないの?
 キリスト教徒なら悪魔の誘惑とか当然あると思うけど」

「どうなんだろうな。普段学校で信仰の話はしたことないんだよ。
 祖先がソビエトの生まれだって言ってたけど」

「ソ連? ああ、あの無宗教国家ね」

「ソ連って宗教がないんですか?」

「ないよ? レーニンがキリスト教を弾圧したじゃない。
 革命が起きる国はだいたいあんな感じね。
 フランス革命の時も伝統的なキリスト教社会が否定されたし」

「エミはなんでも知ってるな。世界史の知識まであるとは」

「太盛も詳しいじゃない」

「エミほどじゃないよ」

「あの、エミィさんは」

「ちょっと待って。なんで語尾伸ばしたの?」

「すみません。実は伸ばしたほうが発音しやすいんですぅ」

「あっそうなのね。全然かまわないわよ。
 面白いと思ったから聞いただけ。続けて?」

「エミィさんはボリシェビキって言葉を知ってますか?
 うちの生徒会長が使ってたんです」

「ボリシェビキ? ロシア語で多数派って意味よ。
 ソ連を作ったレーニン率いる社会主義政党のことを指すわ。
 まともに選挙しても勝てないから
 反対主義者を弾圧して政権をぶんどったのよ」

「政党の名前だったんですか。
 私は宗教の名前かと思ってました。
 あの人たちは変な宗教にはまって頭がイっちゃったのかと」

「共産主義も宗教の一種と考えても問題ないと思うけど。
 あなたの国のチャーチルは共産主義を麻薬や宗教と
 同列に考えていたそうよ」

「エミのこと、今度からイケ〇ミさんって呼ぶわ。
 高校卒業したら大学の文学部にでも進学しろよ」

「私は専門に行くって決めてるから無理よ。
 この家を継がないといけないんだから。
 つーか今どきの学校でも共産主義者っているのね。
 極左(一番の左翼)の連中は政治家にもいるけど」

「なんだそれ?」

「最近、立憲民主党ができたでしょ?
 幹部が革マル派のメンバーなのよ。
 他にも中核派ってのもあるんだけどね」

「革マル派? なんですかそれ?」

・核マル派と中核派は、1960年前後に生まれた、いわゆる
 『新左翼諸党派』の中の二大党派である。

・『マルクス・レーニン主義の旗』をかかげ革命を標榜する党派であり、
  かつ強固な全国組織を持つ党派は、共産党を除けばこの2つしかない

・革マル派の正式名称は、
 日本革命的共産主義者同盟革命的『マルクス主義派』である。

・日本の体制を『共産主義、マルクス主義』に変えようという団体である。

・ちなみにお隣の『北朝鮮』が社会主義、共産主義国家なのは言うまでもない。

国会での首相の答弁↓
『殺人や強盗や窃盗や盗聴を行った革マル派活動家が影響力を
行使しうる、 指導的立場に浸透していたとみられる団体から
立憲民主党の代表は約800万円の献金を受けてた』 

       ※これは小説の設定ではなく、事実である

「えええええっ!! マルクス・レーニン主義って
 ソ連の手先じゃないですか!?」

「まじかよ……。そんな危険な奴らが国会議員のバッジを
 つけてテレビの前で映ってたりするのか……。
 あいつらを支持してる人達もまさかそっち系の……」

「中には知らずに投票してる人もいるんでしょうけどね。
 はぁ……。あいつらがいる限り、ソビエトの思想は
 永遠に消えないのよねぇ。困ったもんだわ」

そう言いながら麦茶を飲むエミ。太盛達は学校の先生より
賢いと思われるエミの話のとりこになった。

「エミィさん。他にも聞きたいことがあるんですけど」

「はいはい」

結論から言うと雑談ばかりして日が暮れてしまった。
エミィの話は知的好奇心を刺激され、大いに盛り上がった。

中学時代に太盛が元気に殴りあってる時に
エミは図書館で勉強してるタイプだった。
友達と遊びに行くより本を読むのを好んだ。

友達は選びなさい。自分を高めてくれる友達と付き合いなさい。
ミウは理事長の言った言葉の意味がよく分かった。

エミはアドバイスを残した。

『マリーちゃんの病気を治したいのなら、
 他の参拝客と同じようにお祈りを捧げなさい。
 神は「素直な人」を好むから、楽に治す方法とか、
 邪なことを考えずに心を無にして祈りなさい』

太盛とミウはエミと連絡先を交換して別れた。
太盛はエリカに開放されてから二人目の連絡先交換となった。

「あんたに嫌われてLINEを削除されたんじゃなかったんだね。
 ちょっと安心したよ」

エミはうれしくなってその日の夜に太盛にメールした。

『あんたの彼女、強力な背後霊がついてるね。
 もちろん悪い霊じゃないわよ?
 あの子を応援したい、救いたいという思いが伝わってきた。
 あんたもうすうす感づいてるんじゃないの?』 

太盛はあいまいな返事をしてごまかした。
実は太盛もミウについていろいろ考えることがあったのだ。

太盛の別荘生活 その①

7月も終わりに近づいた、とある火曜日。
マリンは検査の結果、身体に異常がないことが
明らかになったので今日が退院日となった。

失語症とPTSDが治るまでもっと入院させてあげたほうが……。
ミウはそう思ったが、あいにく昨今の日本では
病院のベッドは入院患者で奪い合い状態だ。

身体が動く患者は自宅で治療に
専念してもうしかないのである。

「マリエの父です。娘が大変な時になかなか来れなくて、
 申し訳なく思ってます」

父は何度もミウに頭を下げた。

黒縁の眼鏡にスーツ姿。短髪を整髪料で固めている。
顔つきはいかめしく、いかにも役所で勤めてそうな感じだった。
職業はあえて聞かなかった。

ミウは一目見て彼のことが好きになれなそうだったからだ。

「先生方にも大変お世話になりました。
 高野さんも、本当にありがとうね?
 もしお時間があったら、いつでもうちに遊びに来てください」

マリエの母がほがらかに言った。

夫婦は娘を真ん中に挟む格好で、タクシーに乗った。
病院の玄関先で医師や看護師らが明るく手を振る中、
タクシーは動き出した。

その看護師の中にレイナがいた。マリエが問題なく退院できることは
だいたい分かっていたが、レイナが今日一番気になるのは別のことだ。

「今日は、彼氏さんは一緒じゃないんですね?」

ミウは暗い顔をし、ちょっと用事があったみたいですと答えた。

いつも連絡なしに病院の面会時間に来るはずの彼。
用事があったとは聞いていなかった。
そもそも携帯がつながらない。彼は携帯が大嫌いだから、
電源を切りっぱなしにすることは珍しくないのだ。

それにしても、マリエの退院日なのに彼が来ない理由は何か。
マリエに対し後輩以上の気持ちを抱くようになったはずの彼が。

時は数時間前にさかのぼる。

太盛は今日も市内バスに乗って
マリエのいる総合病院へ向かっている最中である。

今日のバスは運転手が道を間違えているのか、
見知らぬ交差点を曲がり、明後日の方角に進もうといている。
バスはそのままインターに入ってしまう。

「ちょっと、運転手さん!! なにしてるんですか!!
 このバスは観光バスじゃないんですよ!?」

マリエの大切な退院日に遅れるわけにはいかない。
太盛が声を荒げるのも無理はなかった。

運転手は太盛のことなど見えていのか、
そのままETCゲートを通過した。

太盛は市内循環バスがETCを搭載していることに
少し驚いたが、今はどうでもいい。

「あんた、日本人じゃないのか!? 日本語が分からないのか!?
 俺は総合病院に行きたいんだ!! 早く戻れ!!」

太盛がバスジャックした犯人のように運転手の近くで
騒いでいると、乗客の一人が立ち上がった。

夏休み中、この地域のバスは過疎の極み。
太盛の他に乗客は一人しかいなかったのだ。

「そこの方、静かにしてもらっていいですか?」

「な……」

若い女性の声だった。麦わら帽子を深くかぶっており、
顔までは分からない。太盛はまさか自分が注意されるとは
思ってなかったので、逆上してその女の方へ向かった。

「これが騒がずにいられるか!?
 そこのバス巡回票を見て見ろよ?
 どこにインターに乗るルートがある?」

「焦りすぎよ。大の男ならどんなことが起きても
 冷静に構えていなさいな。そうしないと、
 あなたのお父様に叱られてしまうのではなくて?」

やはり聞いたことある声だ。

「ごきげんよう太盛君。夏休みに会うのは今日が初めてね」

ターシャ。またの名をアーニャ。
エリカの姉のアナスタシアが乗っていた。

「うわあああああ!!」

太盛は彼女の顔を見た瞬間に生徒会室の悪夢を思い出した。
そして察した。あの運転手はアーニャが差し向けたスパイ。
太盛はこのバスでどこかへ拉致される可能性が高い。

誘拐。拉致。強制連行は共産主義者の常とう手段だ。

このまま相手のペースに乗るわけにはいかない。
いっそ運転手を襲ってバスを乗っ取ろうかと思った。
だが問題がたくさんある。

ここは高速道路。バスは現在、時速110キロで走行中。
例えば運転手がわずかにハンドルを切りそこなえば、
非常に悲惨な事態になる。

そして太盛は高校二年生。当たり前だが運転免許を持ってない。

それでも彼は

「どけえええええ!!」

運転手をぶん殴り、蹴とばし、座席シートを強奪することに成功した。
そして震える手でバスを運転しようかと思ったが、
驚くべきことに気づいた。

「このバス、勝手に動いてる?」

そう。太盛がアクセルを踏まずともバスは前進し、
ハンドルを切らずとも緩いカーブを正確に進んでいく。

「最近の自動運転の技術は本当に進化したわよねぇ?」

クスクス。そんな笑い声が後部座席から聞こえてくる。

この時の太盛は知る由もなかったが、バスの運転手に罪はなかった。
彼はターシャによって中学生の息子を塾帰りに襲撃すると
予告されており、仕方なくバスの運転席に座ったのだ。
ターシャは地元の警察を買収していたから、訴える暇すらなかった。

「高校生のあなたが運転席に座っても様にならないわ。
 私の隣の席が空いてるわよ? いらっしゃい?」

「分かりました。窓から飛び降りて死ねばいいんですね?」

太盛は風圧で硬くなった窓を無理やりこじ開け、片足をかけようとした。

「あなたが飛び降りたら連帯責任でミウちゃんを拉致するわ。
 それともマリーちゃんが良い? マサヤ君でもいいわね」

太盛はかけがえなのない友人たちの顔を思い出し、
おとなしく窓を閉めた。

「二度同じことを言わせないでね?
 私の隣にいらっしゃい?」

アーニャが座っているのは一番後ろの座席。五人掛けの席だ。
遠足や旅行の時に一番盛り上がる席なのが皮肉だ。

「そんなにおびえた顔しないで?
 太盛君に危害を加えるつもりは全くないの。
 この前のこと、反省してるのよ? 
ちょっとやり過ぎたかなって」

太盛は両手を膝の上に置き、面接中の学生のように固まっていた。
アーニャは太盛の隣に密着し、それは楽しそうに語り掛けている。

「妹のエリカがどうしてもあなたに会いたいそうよ?
 私に頼むなんてよほどさみしかったのね。
うふふ。あなたの気持ちがミウさんに向いてるのは分かっているわ。
 でもね、恋愛は早い者勝ちなの。最初にあなたにアプローチしたのは
 エリカだったはずでしょ」

「目的を行ってください。俺をどこに連れていくつもりなんですか?」

「うちの別荘よ。素敵な景色が見れる所よ?」

「日本なんですよね?」

「もちろん日本よ」

バスはジャンクションを経由し、東北自動車道から北関東自動車道へ。
一定速度を維持しながらバスは進んでいく。

太盛は目まぐるしく変わっていく
窓の外の景色を楽しむ余裕すらなかった

「あとどのくらいかかるんですか?」

「一時間半ってところね」

ということは、目的地は関東からそう遠く離れてない場所かと思われた。
詳しい地名を聞くが、アーニャは教えてくれなかった。

太盛は頭を抱え込んでしまう。

今頃病院では検査結果が出てるのだろうか?
マリエはどうなった? 彼女の父親が来るという話だったが。
そして愛しの人のミウは? ズボンのポケットに携帯が入ってはいるが、
連絡したらアーニャを怒らせてしまうだろう。

それより自分はどうなる?
橘家の所有する別荘で夏休みの間、監禁されるのだろうか。
いや、もしかしたら夏休みが終わっても出してくれないのかもしれない。

「そんなに落ち込まないで。小旅行だと考えればいいじゃない」

「別荘にはエリカだけがいるんですか?」

「そうね。使用人を別にすればね」

太盛はまた頭を抱えた。
隣からクスクスと不愉快な声が聞こえてくる。

太盛は、ここ最近ろくなことがない。
最初はミウのファンの一年に暴行されたことだった。
そして生徒会室での残虐な事件。
あと一歩で太盛達まで拷問されるところだった。

マリーの病気。後遺症。
そして今、バスに揺られて自ら死地へ赴こうとしている。

「アーニャさん」

「なにかしら?」

「死んでください」

首を絞めるために伸ばした太盛の腕は、簡単にいなされてしまった。
そして肩の関節を外せる位置までもっていかれた。太盛は今、
床にうつ伏せに寝かされた状態で押さえつけられている。

太盛は喧嘩慣れしている。力もあるほうだった。
なのにどうして。こんなにもアーニャの体術は優れているのか。

「正解は、小さい頃から格闘術の訓練を受けてるからでした。
 ソ連軍伝統の体術は、軟弱な西側諸国のとは次元が違うの」

太盛は、ぐうの音も出なかった。
首を押さえつけられ、さらに腕を
明後日の方向へ限界までひっぱられている。

「抵抗しちゃだめじゃない。あなたを
傷つけたりしたら、私が妹に怒られちゃうのよ?」

「なら解放してくださいよ。
 腕が折れそうに痛いです」

「んふふ。どうしよっかなー。
 この体制のまま太盛君をいじめるの、楽しそうだし♪」

「俺は誰になんと言われようと、ミウのことを愛してます。
 その気持ちは例え拷問されても変わりません」

「あらあら。そんなに好きなのぉ? 
 ちょっと嫉妬しちゃうわね。
 口では何ともでも言えるけどね、人間は
 いざ自分が追い詰められる立場になると
 ころころ考えを変えちゃうものなのよ?」

「アナスタシア。話し合いで解決できる方法はないのか?
 君だって初めからそんな人じゃなかったはずだ!!」

「いきなり呼び捨て? まっ、太盛君ならいいけど♪」

「俺が君に何をしたんだ? 今すぐ俺を解放してくれ。
 俺は自由になる権利があるはずだ!!」

「自由ですって……」

アナスタシアは心底つまらなそうな顔をした。

自由。それは彼女らにとって堕落と退廃の象徴だった。
人は、強制させる何かがないと成果を出さない。
ボリシェビキは自由な市場経済を嫌い、計画経済を導入した。
現場の労働者にはノルマを設定した。

かつてソ連海軍でこんな訓練風景があったという。

ある砲兵が戦艦の大砲を放つ訓練をしていた。
弾は二回連続で目標に当たらなかった。
次に三度目の弾を込めた時、隣で見ていた士官がこう言った。

『次も外したら奴は銃殺刑だ」


アナスタシアは、太盛の首に衝撃を与えて気絶させた。

彼女は妹から太盛を連れてきてほしいと頼まれただけだ。
特に方法は聞いてない。だからバスごと連れてくることにした。

周囲に張り巡らせておいたスパイの情報から、太盛が
平日同じ時間にこの巡回バスに乗ることは知っていた。

太盛は強い西日を浴びながら目を覚ました。

全開に開かれた窓から小鳥の声が聞こえている。
「あの甲高い声は、ヒヨドリかな?」と思い、
ベッドから起きあがって窓の外を見た。

そこは山の頂上の別荘だった。

山のてっぺんによく建物が立っているものだと思った。
下界の景色は青みがかっている。まさに標高の高さを物語る。
まるで童話の物語に出て来るような、非現実的な空間。

そして地元の栃木県と違って、あの地獄のような暑さが感じられない。
肌に感じる風はさわやか。天然のクーラーの中にいるようだ。

「バルコニーにどうぞ? もっと素敵な景色が見えるわよ?」

太盛は言われるがままにエリカにエスコートされた。

「なるほど。こりゃすごいな」

「でしょう?」

「天空のお城って言葉がぴったりだ。
 雲海が広がっているじゃないか」

「うふふ。太盛君は暑がりだって聞いてたから」

「確かに別世界みたいに涼しいよ。皇室の避暑地かここは?
 エリカの家はこんなに素晴らしい別荘をお持ちとはね」

バルコニーに執事の男性がやって来た。鈴原である。
太盛の知っている人だが、顔見知り程度で親しくはない。

「お嬢様、お飲み物はいかがいたしますか?」

「アイスティーをお願い。
もうすぐ夕飯の時間だからお菓子はいらないわ」

鈴原はいぶし銀に礼をした後に去っていった。

太盛はバードウォッチングがしたくなったので
エリカに双眼鏡はないかと問うた。エリカはないと言った。

「どうしても欲しいのなら、使用人に買いに行かせるけど?」

「それは遠慮しとくよ。ここは標高が高いんだろ?」

「うん」

「どのくらいの高さだ?」

「そうねぇ。1900メートルだったかしら」

エリカはさらりと言ったので太盛は青ざめた。

「地上へ降りることができる車は一台だけよ?
 買い出しもそれで行うの。脱走とか考えちゃだめよ?
 飛び降り自殺も考えないでね? 楽に死ねるとは限らないわ」

「下は獣道がたくさんあって、危険な野生動物がいるの。
 ツキノワグマ、マムシ、野犬とかね。特に夜は危険なの。
 あと珍しい植物も毒持ってたりするから気を付けてね?」

「そっか……。で、俺はいつまでここにいればいいんだ?」

「いつまででもいいわよ? 太盛君の気が済むまでね」

「いや、俺が決めていいことなのか?
 俺は無理やりここに連れてこられたんだぞ。
 家の人達が心配してるだろうから今すぐ帰りたいが」

「あっ、それなら心配しなくていいわ。
 太盛君が友達と泊まり込みで合宿するって伝えておいたの」

「そしたら向こうはなんて?」

「分かったって」

本当に? そう問いたいのをぐっとこらえた。
ここまで来てしまった以上、考えても仕方ないことだ。

絶対に家族のみんなは心配してくれているはずだ。
なにより愛するミウに会えないことが最大の苦痛である。

「お待たせしました。アイスティーでございます」

太盛は乱暴に受け取り、コップに口をつけ一気に飲み干した。
ストローすら使わぬ無礼な態度であった。

ガン 

乱暴にコップをウッドテーブルに置き、
沈みゆく夕日を見ていた。

こんな気分でなければ、スマホで写真を
撮りまくっていたことだろう。

この世の光景とは思えないほどの美しさ。
雲海のはるか先へ沈んでいく太陽が、
目に見える全ての空間を夕日の色に染め上げていく。

この世の終わりさえ連想させるほどの感動。

太盛は生涯この風景を忘れることがないだろうと思った。
隣を見ると、エリカもこの風景に見入っている。
黙っていれば、おしとやかできれいな子なのに。

太盛は自然と涙を流していた。

「急にどうしたの?」

やりきれない気持ちになったのだ。
マリーを痛めつけた張本人がここにいるのに、
自分は何もすることができない。

せめてマリーの安否さえ分かれば。
あの子が無事退院できたという情報さえ分かれば。

その思いで絞り出した短い言葉がこれだった。

「俺の携帯は?」

「マリーのことが気になるのね?」

超能力者のように太盛の意図を察したエリカ。
驚く太盛をよそに、エリカは、携帯はここでの生活に
必要ないので回収したと説明した。

「マリーは退院して自宅療養をするそうよ」

「疑うわけじゃないけど、本当だろうな?」

「嘘じゃないわよ。そんなに心配? 仕方ないわね」

エリカは自分のスマホを操作し始めた。

「ほら」

と言って見せて来たのは、マリエが両親に付き添われて
タクシーに乗るシーンだった。なぜか動画である。
実は院内にエリカに通じているスパイがいて、
その人物が秘密裏に撮影したのもだった。

もちろん太盛は知らないが。

太盛はとりあえず納得した。
マリエが無事ならそれでいいのだ。

「おまえの姉はどうした?」

「下界に買い物に行ってるわ」

もうすぐ暗くなるから中に入りましょうと言われ、
リビングに案内された。

いかにも別荘と言う感じで日当たりの良い広大な部屋だ。
いや、広すぎる。屋敷住まいの太盛から見ても広すぎるリビングだ。
大家族が住めるようにと木製のテーブルとソファがいくつも並ぶ。

木のぬくもりがする、いわゆるログハウスだ。
お風呂は全面ガラス張りの露天だという。

使用人の人がいるので生活のことは考えなくていい。
まさに自由な生活。

夕飯のあと、エリカが言った。

「ワインでも飲む?」

「エリカは飲むのか?」

「実は高1の時から飲んでるの。長期休みの時だけね」

「じゃあ一杯だけ」

と言って飲みだすと、すぐ足元がふらつく。
年代物の赤ワインの味は実に濃厚で、ワインに
慣れていない太盛ですら高級感が伝わって来た。

「頭がふらふらする……」

「ビールじゃないんだから、
一気に飲んだらすぐ酔っちゃうわよ?」

「まぶたが重い……悪い。もう限界だ……」

太盛の意識はそこで消えた。
酔いに加えて精神的な疲れやストレスが全部出てしまったのだ。

彼の身体はひたすら休息を求めていた。
その休息の場所がミウのそばでなくて
エリカのそばなのは運命で決められたことなのか。

その日から太盛の別荘での軟禁(なんきん)生活が始まったのだった。

太盛の別荘生活 その②

「一日中好きに過ごして結構よ。何をしても自由。
 用があれば使用人を呼んでもよくてよ。
 ただし、脱走する努力以外はね」

太盛はアナスタシアにそう言われたので逆に開き直ることにした。
太盛の家でもここまで大層な別荘は持ってない。

見晴らしは最高。建物内の設備も豪華絢爛。
素朴なイメージのログハウスなのに壁には絵画が飾ってある。
金色の額が立派で美術館並みである。

ルネサンス期のお堅い時代の作品が並ぶが、
一番多く飾られているのはバロック時代のオランダ人の作品だ。
レンブラント、フェルメール、ルーベンス。

全て模写だろうが、これだけの数を揃えられることに
エリカの家の財力を物語っていた。

映画も見放題。リビングにミニシアターがある。
テレビは大画面。AVアンプ、部屋を囲うように
配置したスピーカーで7.1ch仕様。
その雷のような重低音は部屋のガラス窓まで振動させる。
ブルーレイソフトは太盛の好きな洋画が多かった。

このシアターシステムはもちろん音楽にも対応している。
いわゆるPCオーディオと呼ばれるもので、PCに直接つなぐか、
USBを挿入して聴くことができる。
ジャンルはクラシックのみ。
太盛のよく知らないロマン派以降のソ連系の作曲者の曲が多数見られた。

本もたくさんある。一角に大きな本棚が三つあって、
政治、経済、法学などの学術書、美術、音楽などの芸術関係。
さらに自然科学のことや動物や植物の図鑑まで揃えてあり。
書斎といっても過言ではない。
蔵書は非常に文系寄りで太盛にぴったりだった。

イーゼルをはじめとした画材もあるが、創作意欲はわかなかった。
別の部屋を覗くと、ターシャの者と思われるトレーニング機材がある。
ダンベル、ヨガマット、トレーニングベンチなど。太盛はこれも興味なかった。

太盛は、リビングのソファでダラダラするのを好んだ。

枕をクッション代わりにし、片手で本を読みながらお菓子を食べる。
主婦がお昼のワイドショーを観てる時の態勢と言えば分かりやすいか。
エリカお手製の焼きたてのクッキーは、
嫌なことを忘れさせるくらいには美味しかった。

「ここのトールボーイ(背の高い大型スピーカーのこと)の
 音質すげえな。家に持って帰りたいくらいだよ」

「木の家だからか、よく響くわよねぇ」

アナスタシアはニコニコしながらお茶を飲んでいた。
彼女は京都っぽい人なので日本茶を好む。(父が移住したのは兵庫県)

「プロコフィエフのピアノ協奏曲は新鮮だ。
 破滅的で薄暗くて、独特の美しさがある。
 西洋の曲と全く次元の違う音楽だぞ。
 この人もソ連人なのか?」

「そうね。ウクライナ生まれのロシア人よ。
 その後革命が起きてソ連の人になったわ。
 ペテルブルグ音楽院で学んだあとに、
 パリ、ソ連、アメリカで活動したわ」

「ウクライナの生まれなのになんでロシア人?」

「ウクライナが当時ロシア帝国に占領されてたから」

「なるほど。ウクライナが併合されていたから
 ロシア人扱いってわけか」

「そんなとこね」

「ソ連人の定義って難しくないか?」

「ソビエト連邦内にいるすべての国民がソ連人の扱い。
 例えだけど、もし日本がソ連領だったら、
 日本・ソヴィエトとなっていたわけね」

「じゃあプロコフィエフはウクライナ・ソヴィエトの生まれで
 ソ連系ウクライナ人になるわけか?」

「実はそういう発想自体が西側諸国の考えなの。
 正確にはソ連系とか、人種や国籍を廃したのがソ連だから。
 ただソヴィエトという党の元に集まった諸国民、
 というのがただしい定義ね。名目上、各民族は平等よ」

「わけが分からないぞ。それじゃあ
 どうやって国民を分ければいいんだ」

「西側の人間には分かりずらいでしょうね。
 階級差別や人種差別をなくすためにボリシェビキが考えたことだから」

「そういう変わった国の人だから斬新な音楽が作れるのかな?」

「そうかもね。もちろん彼らもモーツァルトやバッハなど古典も
 しっかり学んだうえでクラシックを発展させているのだけど」

太盛は絵画と同じくらい音楽に熱意のある少年だった。
ドイツ・オーストリアなど西洋作曲家の曲ばかり聴いていた
彼にとって、ソビエト系の作曲家の曲は魅力的に感じられた。

ベートーベン以来のオーケストレーションの天才と
称されるショスタコーヴィチ。
バレエ。火の鳥、ペトリューシュカで有名なストラヴィンスキー。
昨今のフィギュアスケートでピアノ協奏曲第二番が
使われたラフマニノフ。

美しく、澄み渡った天空の空気を吸いながら聴く
ピアノ、ヴァイオリンの音色は最高の心地よさだった。

「また寝ちゃったの?」

ターシャがクスクスと笑う。太盛は眠くなったら寝た。
そして目覚めたら読書をしたり音楽を聴いたりと、
とことんまで自堕落的な生活をすることにした。

どうせ逃げることはできないのだ。ならば
開き直ってしまえばいいと考えるのは自然なことなのかもしれない。

テレビは映画専用なのでニュースは見れなかった。
スマホもPCも触らせてくれないので、世間のことは何も分からない。

「お昼ご飯ができたわよ?」

エリカがパスタをゆでてくれた。
この姉妹は、食事は使用人に頼らず交代で作ってくれた。
こんな生活をしていると、三人での生活にすっかり慣れてしまう

「なんだか自分がダメ人間になったみたいだよ。
 こんなに楽しちゃっていいのかな?」

「夏休みの間くらい、いいんじゃないかしら?
 人生には息抜きも必要よ?」

そう言って太盛のグラスにジュースをついでくれるエリカ。
彼女は太盛の身の回りの世話をするのを好んだ。
ボールに盛られたサラダも
太盛の分を先に盛り分けてドレッシングをかけてくれる。

太盛が冗談で、エリカ、ミニトマトを食べせてくれよ。
と言ったら本当に食べさせてくれた。

アナスタシアは何も言わず、
微笑みながらその様子を見守っていた。

「太盛。今日は晴天だから夜空がきれいに見えるんじゃないかしら」

「本当かいターシャ? 今から楽しみだね。
 ここからの眺めは天国のように美しいよ」

そんな芝居がかった会話も自然とこなせてしまう。

こんなはずじゃなかった。これは太盛の望んだ日々ではない。
心の奥で警告が鳴っていた。だが、人間は一度楽を覚えると
元に戻れなくなってしまう。聖書で人間を創造したのは
失敗だったと記されている理由がまさにこれだ。

太盛はアナスタシアのことをターシャと呼んだ。
その方がロシア人っぽくて彼女にぴったりだったからだ。
ターシャの方は太盛と呼び、弟のように可愛がった。

ターシャは、死を顧みずに自分に襲い掛かって来た太盛を
この上なく気に入っていた。彼の情熱、ひたむきさ。ああいう
生の感情を見せてくれる男の子は大好きだった。
妹から奪ってしまおうとすら思えるほどに。

「宝石箱をひっくり返したことを英語でスターダストと言うのかしら?
 今見てる光景がまさにそんな感じがしない?
 肉眼で見える星ってこんなにたくさんあるのね」

夜空を見上げながらターシャがそう言っていた。
太盛とエリカもワイングラスを片手にバルコニーから空を見上げた。

露出した腕と首筋に虫よけスプレーをかけて、
木の長椅子に腰かけてゆったりと夜を過ごした。
月が出てないこともあって星は見放題。まさに最高だった。

自然は人の心を癒す。まさに言葉通り。
太盛は心がどんどんマヒしていった。

エリカに対する怒りや、ミウに会いたいという思いすら、
消えかけていた。それほど天空の別荘での生活は別格だった。

(そろそろかな?)

エリカはアルコールで真っ赤に染まった太盛の横顔を見ながら思った。
太盛を外界から隔離することで彼の精神を
堕落させる計画は予定通り進んでいた。

ボリシェビキの考えは計画的であり科学的である。
実は太盛に酒を飲ませることも計算通りだった。

彼は血圧が高いほうなので酒には弱いはずと考えられており、
事実その通りだった。

チーズ、ハム、ベーコンなどワインに合う食材も
ふんだんに取り寄せてお酒の楽しみを覚えさせた。
そして、その楽しみはこの別荘でしか味わうことができないのだ。

教育の厳しい彼の父はここにいない。女たちに好き放題に
甘やかされ、次第にエリカたちなしでは生きられないほど
依存させるのが目的だった。

「また眠くなっちゃったよ。エリカ。悪いけどベッドまで運んでくれ」

「はいはい」

三人の寝室は別々だった。エリカは千鳥足の太盛に
肩を貸し、ベッドに優しく寝かせてあげた。

数時間後、真夏の虫の音でなんとなく目が覚めた太盛。
ベッドサイドの明かりをつけると、なんとエリカが横で寝ていた。

(自分の部屋に戻る前に寝てしまったのか?)

そう思ってエリカの肩をゆする。

「……ん。姉さん。まだ朝じゃないわよね?」

寝返りを打った。やるせなさそうに吐息を吐く姿が色っぽい。
深夜のエリカは妖艶だ。パジャマの胸元ははだけていて、
太盛の視線をくぎ付けにした。

エリカはミウより背が高いからか、胸が大きかった。
お尻も大きくて腰のくびれができるほどスタイルが良かった。

太盛は彼女の黒髪に触れた。まだエリカは寝ぼけている。

「んん!?」

太盛に唇を奪われてさすがに目が覚めた。

エリカは呼吸が苦しくなって命の危険を感じ、
目の前の相手を殺すために格闘術を使いそうになった。

相手が太盛だと分かるとそんな勘違いを恥じた。
自分から夜這いをかけたのに睡魔に負けて寝てしまったのだ。
隣にいる彼の寝顔が、あまりにも気持ちよさそうだったので。

「いいよ。きて」

遠慮なく太盛の顔を両手で持ち、自分の顔に近づけさせた。
実は二人ともファーストキスだった。

この時の太盛の脳裏にミウの姿はなかった。
軟禁されているとはいえ、浮気である。

エリカはずっとこの機会をうかがっていた。
太盛が堕落して正常な判断を失うまで、
ずっと彼に尽くしてきたのだ。
エリカのロシア的な我慢強さが買ったのだ。

「あっ」

太盛はエリカに覆いかぶさり、胸を触った。
エリカの胸は片手で握れないほどボリュームがある。

(やめろ……)

ひと夏の過ち。これ以上先に進んでしまうと、
エリカとの関係を認めるしかなくなる。

確かにエリカが最初に太盛を手に入れた。
二人は学校では夫婦のように仲良しで、
世間は彼らをカップルだと認めてしまった。

だが恋愛に順序など関係ない。
太盛はあの記憶喪失の少女をほおっておけなかった。
それもまた運命だったはず。なのに

「あら、ごめんなさい。部屋を間違えちゃったわ」

ターシャが扉を開けた。
そして何事もなかったかのように去っていった。

太盛とエリカは心臓が止まるかと思うほど衝撃を受けた。
彼らはこういうことには初心な高校生だった。
ターシャに見られていたのかと思うと恥ずかしさのあまり
死んでしまいたくなる。

結局、エリカはおとなしく部屋に帰ったのだった。




「太盛君、こっちに来てくれる? 人手がほしいの」

エリカはキッチンで趣味のお菓子作りをしていた。
チョコレートマフィンの生地をボールの中でかき回している。
生地はバターをハンドミキサーでかき回すのだ。
ミキサーの機械音が響いた。

「そこに入れてある卵を混ぜてから、大さじスプーンで
 三回すくってパン生地の中に入れてね」

「すくう時の量はどのくらいだ?」

「少しでいいわ。一度に大量に入れると良い生地にならないのよ」

太盛は最初、何で自分がお菓子作りなど、と思ったが
エリカに的確に指示されると体が勝手に動いてしまう。

「次はチョコレートパウダーを振りかけるの」

「このボールに入っている奴か?」

「そうよ。まず私がやって見せるから」

エリカの見よう見まねでパウダーを均等にふりかけ、
途中で少量の牛乳を混ぜていく。その上にさらにパウダーをかける。

手間をかけなければ美味しいお菓子はできない。
エリカは繰り返しそう言った。

夏休みの間、しばらく太盛と離れ離れだったエリカにとって、
彼との共同作業は楽しかった。もちろんお菓子は自分一人で作れる。
神経を使う作業なので要所で人手がほしいところがあるのは事実だが、
本当は太盛とただ一緒にいたかった。

「レンジは予熱したから、あとは25分温めて終わり」

「こんなにあっさり終わるもんなんだな?
 出来上がるのが楽しみだ」

「うふふ。お菓子作りは奥が深いわよ?
 美術みたいに一つの作品を作り出すのと同じなの。
 休みの日に気晴らしにやってみるとすっきりするわ」

それは、寂しさを埋め合わせる行為。
太盛はあの夜のことを蒸し返したりしなかった。
それがエリカにとって逆に不満だった。

あと一歩で、もう少し先の関係になったのに。
この夏はミウを出し抜くための絶好の機会。
姉に協力してもらって太盛を拉致までしたのに。
なのにタイミングよく邪魔しに来たアナスタシアの真意は。


「まだ三時前か。暇だな。お茶でも飲みながらゆっくりするか?」

エリカはエプロンを脱ごうともせず、立ち尽くしていた。
太盛に背を向けているから表情は分からない。

聞こえてなかったのか。太盛はそう思ってエリカに肩に手を触れた。

「具合でも悪いのか?」

「ううん、そうじゃないの」

珍しく沈んだ様子のエリカ。学園で見せる女王のような雰囲気はない。

「太盛君はここでの生活は、楽しい?」

「楽しいか楽しくないかというより、楽だな。
 至れり尽くせりって感じだよ」

「ずっとここにいたいと思う?」

「来月には学校が始まるじゃないか」

「そうだけど……」

ふとエリカがシンクをみた。太盛もつられてそちらに視線をやる。

銀色のボール、シリコン製のゴムベラ、ナイフ、皿、
生地の残りがこびりついたハンドミキサーが水の中に埋まっている。
道具はしばらく水につけて冷やしておけばいい。

エリカは哀しそうな顔をしてエプロンを外す。
彼女が腰の結び目に手を伸ばした、何気ない動作をした時だった。

「あっ」

太盛がエリカを抱きしめていた。
彼の方から迫ってくるのは初めてだったので、
驚きよりうれしさの方が勝った。

廊下を歩いていた使用人の一人は、若い男女のシーンを見て
気まずそうに奥へ引っ込んでしまった。

「こうしてほしかったんだろ?」

「うん」

エリカの方も彼の背中へ腕を伸ばして、体を密着させた。
彼は喧嘩慣れしていているからか、硬い筋肉質の感触がした。
体温も随分高くてエリカを驚かせた。

「でもどうして? 太盛君は私のことずっと避けてたじゃない」

「この別荘で暮らしてるとさ、若い女はおまえと
 ターシャしかいないじゃないか。俺もいろいろ我慢の
 限界だった。つまりそういうことだ」

今度は唇を奪ってきた。あの夜の続きのつもりなのか。
エリカは彼にされるがまま。抵抗はしなかった。

エリカは太盛について斎藤マリーから聞かされたことがあった。

『太盛先輩は中学時代、女好きで有名だったらしいですよ。
 彼女を作ってもすぐ飽きて振っちゃう感じだったそうです』

彼の悪口を言う後輩を疎ましく思ったものだった。
信じたくはなかった。だが、太盛はミウにぞっこんなのはゆるぎない事実。

別荘暮らしが続き、太盛は獣のような要求を発散させるために
たまたま近くにいたエリカを求めていた。

「太盛君……愛してくれてるんだよね?」

その問いに彼は無言で返した。

キスのあとに胸や尻を触ってくるが、それ以上は何もしてこない。
使用人たちに見られるかもしれないからこれで正解なのだが、
エリカにはむなしさだけが残った。

このあとどうなる? 夏休みが終わって、学校生活が始まったら
太盛はエリカとのことをなかったことにして、
空気のように扱うかもしれない。

エリカは、ミウに勝てないことを本能で悟っていた。
だから今回は親の財力に頼って彼を軟禁した。

彼といる時間が作れればそれでよかった。
しょせん一時的なものに過ぎないと分かっていても。

「お父様から呼び出しがあった?」

「お盆の親戚周りをしないといけないのよ。
 明日にもここを出発するわよエリカ。太盛にも伝えておいて」

「でも姉さん。私達、夏休みはずっと別荘で
 暮らしていいって言われてたじゃない?」

「ちょっと予定が変わったようね。
 お仕事の大切な顧客を相手に接待しないと
 いけないから、私たちも同行するわ」

「そんな……もっとここにいられると思ったのに」

「我慢しなさい。私たちはお父様の計画通りに
 動かないといけないの。家の行事の時は私情を捨てなさい」


太盛はその知らせを聞いて複雑な思いを抱えた。

結局彼がここにいたのは約二週間だった。

時間にすると短いが、内容は濃かった。
ターシャとエリカは太盛を甘やかしてくれるので
脱走する気など全く起きなかった。

そしてエリカを求めるようになってから
心の奥に封印してしまったミウ。
そして妹のように大切なマリエ。
親友のマサヤ。幼馴染で巫女のエミ。

懐かしいみんなの顔が壮大な空の中に浮かぶようだった。

エリカとキスしたことが猛烈な後悔となって彼を襲う。
今更どんな顔してミウに会えばいいのか。
例えるなら、単身赴任中に別の女性と浮気した夫の心境。

最終日の朝。太盛は、バルコニーに立って
この景色を目に焼き付けるようにした。

最後の日だからか、アナスタシアがここの立地を教えてくれた。
ここは長野県の八ヶ岳の頂上だ。八ヶ岳は山梨県と長野県に跨る山塊である。

ここの別荘は姉妹の父が娘へのプレゼントして最近購入したばかりだ。
本来は姉妹と使用人だけで過ごすつもりだったが、エリカの要望で
太盛も呼んだとのこと。太盛は客人のつもりで拉致したから、
危害を加えるつもりはないというのは本当だった。


こうして太盛の別荘暮らしは終わった。

二人は結局話さなかったが、別荘暮らしの最中に
夫婦として過ごしているお互いの姿を夢で見ていた。
そして三人の子宝に恵まれていることも。

二人が同じ夢を見たのは、偶然か、それとも運命なのか。

「マリーはどうなった」

帰宅後、太盛が一番気になったのはそれだった。
太盛の屋敷はお盆の来客の対応で忙しい時期だ。
だがそれもすぐ終わった。

太盛は、エリカによって携帯電話を没収されてから返してもらってない。
仕方ないので新品を買いに行くしかない。
いちいち連絡先を登録しなおすのは手間である。

太盛は親戚一同からお盆玉(お年玉のお盆版)をもらっていた。
それに父に事情を話してお小遣いをもらったのでお金は整った。

太盛は初めから一括でスマホを買うつもりだった。
もちろん分割の方が最終的にはお得になるプランだが、
太盛一家はローンを組まない主義なので太盛もそれにならった。

太盛はバスに乗って町まで出た。太盛の家は山のふもとの
郊外なので町まで行くには使用人の人達に車で送ってもらうか、
自転車、バスになる。

太盛はバスを好んだ。バス停は自宅から歩いて20分ほどの
距離にあるのだ。ちょっとした散歩変わりである。

バスは市の中心に降ろしてくれる。

いかにも田舎町の風情である。都会のような高層ビルはなく、
主要な道路沿いに背の低い商店やレストランが並んでいる。
少しでも街中を抜ければ、あとは田園地帯が広がる。

この地方で一番大きい店はイオンモールだったが、この時期は
激しく混んでいる。太盛は町をのんびり歩きながら買い物をするのが好きだ。

それにしても真夏の日差しは殺人的で、立ち眩みがするほどである。

太盛は近くのコンビニに立ち寄り、冷たい飲み物でも買うことにした。

「ありがとうございました…」

店員の若い女の子は、なんと中学時代の同級生だった。
違うクラスだったので顔見知り程度だが、
店員と客の立場で再開するときまずいものだ。

太盛は、同級生の子たちがバイトをしている中、
働いた経験がないことが少しだけコンプレックスだった。

太盛の学校は家計に問題のある人を覗いて
原則アルバイト禁止となっている。それにしても太盛は
アルバイトをしてみたいと思ったことはあるが、お金に困ったことはなかった。
現に今も財布にはそれなりの数の諭吉さんが入っているのである。

お盆とお正月は学生の太盛にとって稼ぎ時だった。
実の母が家出中とはいえ、親戚のおじさんやおばさんから太盛は
将来を有望視され、それはかわいがられていた。

「棒アイスなんて買わなきゃよかったな」

暑さでアイスが溶け出してしまうのだ。食べ終わる前に
ぼろぼろと崩れ始め、棒を持った太盛の手を汚してしまう。

太盛はやけになってアイスを手でつかんで口に放り込む。
チョコとバニラの風味が一気に広がるが、食べた気がしない。

ベタベタになった手を洗いたいので、市の運動公園に入った。

公園は静かで誰もいなかった。

日光がアスファルトを反射して蜃気楼を作っている。
セミの鳴き声がうるさく、余計に暑さを感じさせる。

太盛はネット越しの野球グラウンドを横目に見ながら進む。
この通りは雑木林が日光から守ってくれる。といっても
湿度と温度が殺人的なので一度かいた汗はじっとりと肌にまとわりつくのだが。

太盛はベンチ横の水道で頭から水を被った。
首筋や腕回りも冷やすと、少しはましになる。

タオルでもないかと思ったところに、突然横から差し出された。

「おまえは……!!」

その少女は太盛がずっと心配していた少女の斎藤マリエであった。

美容室で切ったばかりで少しウェーブのかかったセミロングの髪。
白を基調とした薄手のワンピース。
フリフリしたロングスカートで太盛好みの清楚なイメージだった。

「ありがとうな」

マリーのハンドボールくらいの小顔がこくりと縦に動く。
彼女は病気のせいか、体の線が前より細くなってしまった。

食事制限をしているファッション雑誌のモデルのようだった。
一方の太盛はTシャツに半ズボンにサンダルという、
ラフなスタイルである。

「ずっと心配してたんだぞ。退院日に来れなくなってごめんな。
 ちょっと急用ができてさ……」

マリーはスマホを操作して太盛に画面を見せた。

『大丈夫。ミウさんが来てくれたから。
 それより毎日お見舞いに来てくれてありがとう』

「そうか。それでその後、具合はどうだ?」

『しゃべれないだけで体は普通に動く。
 不安で夜眠れない日が続くけど』

「こんな暑いところにいたら余計具合悪くならないか?」

『ずっと家にいると鬱になる。両親は夜遅くまで帰ってこないし、
 一人でいるのが苦痛。話し相手がほしかった』

「ミウはどうしてたんだ?」

『退院してから何日かは遊びに来てくれたけど、
 それからさっぱり。ミウさんもいろいろ用事があったみたい。
 あと突然太盛先輩に会えなくなったのがすごいストレス
 だったみたいで、エリカ先輩のこと殺すとか言ってた』

「殺すって……。ミウがそんな物騒なこと言うなんてよほどだな。
 てか俺がエリカに拉致されたこと知ってたのか」

『私もエリカが大嫌い』

「そうだろうな……。おまえはあいつを
 殺すくらいの権利があると思うよ」
 
『先輩はこのあと、お暇?』

「携帯を買いに行くんだよ。恥ずかしい話なんだが、
 前の携帯はエリカに没収されちまって帰ってこないんだ。
 俺、携帯のこと詳しくないから一緒に来てくれないか?」

マリーはうなずき、太盛と一緒に歩き出すのだった。

マリーは活発だったころと比べて、歩くのが遅かった。
老女のように慎重にゆっくりと歩みを進める。
彼女は事件後の激しいストレスで
運動機能がだいぶ弱まってしまったのだ。

太盛としても暑さの中を早足で歩きたくないので問題はない。

マリーは、前と同じように太盛にぴったりとくっついて歩いた。
手を握ろうとすると、彼も握り返してくれた。
暑いから、そっと触れる感じで優しく握っている。

マリーはそれで十分だった。


「売れ筋のモデルはこちらになりますね。ドコモを10年以上
 お使いの方でしたら、こちらの特典がありまして」

太盛はあまり興味がないので、定員の話を軽く聞き流していた。
マリーが代わりに真剣に聞き、太盛の予算と目的と合わせて
ベストであろう携帯を選ぶ。

太盛は父の携帯と同じ機種にすると家族割りになるので、
そのプランでマリンが決めてくれた。

「ではこちらの椅子におかけください。
 ご購入される機種の詳しい説明をさせていただきます」

マリーは太盛の隣に座り、ベテランの中年男性の話に耳を傾けていた。
言葉は発せられないのでうなずくことしかできないから、
店員からすれば無口な女の子に見えたことだろう。

「お客様は学生の方ですか。保護者の方はご一緒ではないのですか?」

「いえ、自分だけです」

「では新規でご契約とのことですので、恐れ入りますが
 ご本人確認のための健康保険証や住民票の写しをご提示願います。
 それとクレジットカードか、口座名義と番号が
 分かるキャッシュカードはございますか?」

太盛は保険証と親から預かったクレジットカードを
持ってきたので準備は万端だった。
家族割にしたかったが、めんどうな書類が
必要になるようなので断った。

店員が裏方で処理をするからしばらく席を外してほしいという。
番号札を渡された太盛は、マリンと店内をぶらつく。

マリエは彼が嫌がらないと知っているからどんどん手をつないだ。
店内のエアコンは省エネ設定とはいえ、外にくらべれば格段に涼しい。

「ん? そうだな。ブルーライトカットを買っておくか」

マリエがライトカットの液晶保護フィルムを指したのだ。
太盛のスマホにぴったりなサイズを持ってきてあげた。
液晶のまぶしさを防ぐのはドライアイ防止のために重要だ。

「次はあっちか? スマホケースだな」

またマリエが選んであげた。
スマホケースは太盛が好みそうなシックな手帳デザインだ。
マリンは自分もおそろいを買うつもりだった。

これにはさすがに太盛が戸惑ってしまった。

どうして? そんな意味を込めて首をかしげる。

携帯の機種は違うとはいえ、同じ白である。
手帳型のスマホケースもお揃いだと
ミウに見つかった場合に確実に何か言われるだろう。

『私と同じデザインは、いや?』

また、病室にいた時と同じような暗い瞳になっていた。
マリーは意識したわけではないが、気分が沈むとこうなってしまう。

太盛は彼女が心の奥にひそめた闇の深さを感じてしまい、すぐに快諾した。
医師から言われ言葉を思い出す。できるだけ彼女のそばにいて、一人にしないこと。
だから、おそろいの手帳にすることはなんでもない。むしろ彼女にとって
プラスになるなら、それでいい。そう考えることにした。

「大変お待たせしました。お客様。料金プランになりますが、
 分割払いでしたら、毎月の支払額が二年間の間、下記の通りに……」

太盛が一括で払うと言うと定員は目を丸くした。
マリエも驚いていた。
スマホの定価は結構な額である。

「払う時は得意げだったけど、今になってむなしくなったよ。
 この額稼ぐのってどれだけ大変なんだろうな」

マリーは太盛のTシャツの裾をつかんで自分の携帯の番号を見せた。

「ああ。登録しないとな」

マリンの電話番号、メールアドレス。そしてLINEアプリである。
Facebookはしてないかと問われ、太盛は首を横に振った。

「スタンプ送ってやるよ。どうだ? 届いたか?」

マリンが元気にうなずく。
太盛と最初に連絡先を交換出来たのが自分なので
本当は、飛び上がりたいくらいうれしかった。

入院中毎日お見舞いに来てくれて、彼の優しさに触れたことで
マリンは彼にますます夢中になったのだ。できれば夏の間
彼を独占したいと思うほどに。

「あっ」

太盛が思い出したように言う。

「ミウの番号も教えてくれよ。
 あの子ともう二週間も連絡とってなかったからさ」

ずきっと胸の奥が痛んだ。
ミウは、太盛が拉致されている間、彼に会えないストレスで
よく取り乱していた。マリエは彼女の愛の深さにドン引きした。

ミウは嫉妬深く、負けず嫌いだった。マリエから見ても
ミウは美人だとは思うし、太盛にお似合いだとは思う。
前は遊び半分で奪ってやろうかと思っていたが、今はマリエも真剣だ。

それにしてもまるで神から与えられた使命のように太盛と
接近するミウに対し、マリエは複雑な思いがしていた。

「そ、そんなに嫌なのか?」

マリエは、太盛にそう言われるまで自分が
沈んだ顔をしているのを自覚してなかった。
店内のガラスに映る自分の顔をみると、精神病患者のように暗かった。

こんな顔では太盛に嫌われるかもしれない。
そう思って無理に笑おうとしたら、太盛が頭にぽんと手を置いた。

「やっぱり、あとでいいや」

「……?」

「気分転換にご飯でも食べに行くか?」

マリエは同意した。もうすぐ正午になる。
炎天下の中、町中をぶらつくのは苦痛でしかないが、
太盛と一緒にいられるなら天国である。

太盛は街中を歩くのはマリンの身体に悪いと思い、
ショッピングモールへ行った。太盛もマリンも
進んで入りたくないが、一日時間をつぶすには最適な場所だ。

モールのレストラン街はさすがに混んでいた。まず店内の込み具合がすごい。
夏休み中は町中の暇人が老若男女問わず集まってしまうので
ディズニーランド並みの混雑である。田舎なので近場に暇つぶしの
場所がないので仕方ない。それに涼しさには代えられない。

「レストランはどこも混んでて最悪だな。
 フードコートでいいか?」

『まだお腹すいてないから、お店を回りたい』

そして女性客がたくさんいるブランドの洋服店に行くのだった。
マリンは傍から見たら彼氏付きにしか
見えないから、少し得意げだった。

セール品になってる服を中心に一着一着手に取っていく。
動きやすそうなローヒールのサンダルが可愛かったので
太盛に似合うか聞いてみたくなった。

しかし、彼はなぜか店の外の通路側をずっと見ていた。
夏だから着ぐるみでもいるのだろうか? そう思って
マリエも同じ方向を見る。一人の少女がこちらへ近づいてきた。

二人の良く知っている人物。ミウだった。

「太盛君だよね?」

「ああ。久しぶりだね」

ミウはショートデニムに白のノースリーブのシャツと
涼しいが露出の多い衣装だった。

「ここで何してるの? 買い物?
 それにマリーさんと? いつ関東に帰って来たの?」

「お盆前に帰って来たんだよ」

「あの女に無理やり連れて行かれんたんだよね?
 どこに行ってたの? 大丈夫だった? 
なにもされなかった?」

「いや、なんていうか、その。接待されたというか。
 長野県の別荘で毎日のんびりしてただけだよ。
 使用人の人とかいて至れる尽くせりって感じで」

「じゃあ、何もなかったのね?」

「え……」

「何もなかったのね!?」

太盛とマリーは目が点になってしまった。
周りの客たちもドン引きである。

ミウは、さすがに周囲からの視線で自分が
大きな声を出してしまったことを恥じた。

感情的になると自分でも信じられないくらい声量が
出てしまうのは悪い癖だった。

「I apologize for a bloody noise.」

ミウが何の前ぶれもなく英語で謝罪したので
仕方なく太盛も合わることにした。容赦なしに
しゃべる彼女の英語に着いていくのは大変である。

「Ahh…it is all right. I don’t care.
  so…let’s get out of this shop. Shall we? My princess」

「I agree. Everybody here is watching us.
  I don’t like them. Get some tea and talk. all right?」

「おk」

「I have to know everything. What happened to you, semaru
  In past 2weeks with that fucking bich. but!!! Before that,
  can I ask? why you are here with marie…?」

「え?…excuze me? what did you say again?」

「Only one question. very simple.
  How come you ware shopping with marie here!!!!?」

「Please... give me more time to explain.
  I need a time. It is a long story. miu」

「You called me nothing after you come back your home… !!!
  even you can date with marie. huh???
  thanks for a nice joke…you are great joker」

「Calm down. miu… don’t be so angry please.」

「I am not angry ! I am normal !!!!」

「OK…I know how you feel…anyway, let’s get out of here.」

マリンは、口をぽかんと開けて聞いていた。

(やっぱりあの人、外人なんだ……。
 英語の先生の発音と次元が違う。
何言ってるのか全然分からない……)

ミウの英語は胸から吐き出す音だ。
アクセントの関係で米国英語とリズムが全然違う。
単語ごとの語尾の子音はほとんど耳に残らず、きれいに消えていく。

ミウが時より自分を指して怒鳴っていたから、
よほど込み合った話をしてるのかと思い、おびえた。

実は彼女が学校で習っている英語よりずっと簡単な単語しか出てない。
ミウはマリーと一緒にいる太盛の浮気を疑い、
終始問いただしていたのだ。

とりあえず食事の流れになったので、三人はフードコートに行く。
人気ファストフード店の列に並んだ。

「2人の分は私が払うよ」

「え?」

ミウがマクドナルドHDの株主優待券を出した。
財布に他の飲食店の優待券もたくさん入っていて、
札束より優待券のほうが多かった。

一枚の券ごとに上限金額が決まっていて、
その範囲内は無料で食べられる。ただし期間限定品は除く。

太盛は多額の出費の後に一食分が浮いたのでラッキーだった。

「悪いね。ミウ」

「いいよ。お父さんからもらったものだから」

太盛はミウの冷めた声におびえた。
マリエも恐縮している。

激しい雑踏の中、空いている席に着く三人。
ミウはつまらなそうな顔でポテトをつまんでいた。
時より退屈そうにストローに口をつけ、コーラを飲んでいる。

太盛とマリーは激しく気まずかった。
ミウはイライラしすぎて逆に無言になってしまった。
さっきまであれほど説明しろと言っていたのにである。

ミウは席順が気に入らなった。確かに自分が問い詰める立場だから、
彼らが隣同士の席に座って自分がその向かい側なのは分かるのだが。
二人が初々しいカップルにしか見えないので嫉妬した。

太盛とマリエはもくもくとハンバーガーを
食べてミウに気を遣う格好になってしまう。

太盛がタイミングを見計らって口を開いた。

「そろそろ話し始めてもいいか?」

「Go on?」(どうぞ?)とミウが言われて説明を始めた。

太盛は彼女が突然英語を話し始める理由が分からなかったが、
日本語より英語の方がミウ好みかと思い、
文法を頭で組み合わせながら一生懸命話した。

まずマリエと今日一緒にいた理由。そして携帯を買ったこと。
それとエリカのことも。別荘では平和に暮らしただけで
特に変なことはなく、またマリエの退院日に行けなかったことを
非常に残念に思っていること。

特にミウへの愛が強いことを強調した。

「When I was in a cottage of tachibana sisters, I missd you so much…
  Before I go to bed, I was always thinking about you every night.
  do you know how much you really meant to me????
   I need you, miu. because you are my best partner.
   I’ll never lose you again if I go everywhere」

太盛の英語もなかなか早い。
マリエはせめて単語の切れ端でも聞き取れるように頑張った。

周りの客達は、台湾人の留学生が英語を話しているのだと思い、
太盛達をしきりに指さしていた。

口先だけでは何とでも言えるものだ。
ミウは太盛の気持ちが揺らいでいるのを女のカンで察していた。
現に太盛は別荘暮らしの間、一時期とはいえミウのことを忘れていた。

まさにミウの心境は、単身赴任中の夫の帰りを
待っていた妻の心境であった。真顔で彼の気持ちを聞く。

「You love me?」

「Yes」

「Really?」

「Sure. You don't trust me?」

「…No. you are lair」

「why…?」

「Today I have a jealous when you shopping with marie.
  I know marie wants you. and you want her to be your girl」

「アイム あふれぃど, you are misunderstanding me.
  marie is my firiend. also my little sister」

「Your little sister…?」

妹という言葉がミウの癇に障った。
家族を意味する単語は非常に親密な意味なニュアンスを持つものだ。

ミウが嫉妬して殺気立ってしまう。
マリエは威圧感のあまり背中に冷や汗をかいた。

「Wait. wait. don’t look at her with you'r bloody eyes.
  She is so scared」

「なにその言い方? マリーを睨んだわけじゃないよ。
 人聞き悪いなぁ。ちょっと見ただけじゃない」

「あ……? う、うん、そうだよね。ごめん、ちょっと他に
 単語が思い浮かばなくて。あはは。さすがに英語で話すのは難しいな」

「ちゃんと会話できてたじゃん」

「お世辞でもうれしいよ」

「いやいや、お世辞じゃないって。
  ……あれ? そういえば今何語で話してるんだっけ?」

なぜ途中で日本語に戻るのか。謎であった。
太盛は彼女を怒らせるのが怖いのでとりあえず日本語で話すしかない。

「もう何語でもいいや。めんどさい。私ね、暑き季節
だ からかもしれないけど、すっごくイライラしてるの」

「そのようだね。こんなに怒ってる君を見るのは初めてだよ」

「私、太盛君と付き合うって決まったばかりだったのに、
 なんでエリカと姉が邪魔しに来たの? あいつら絶対許せない!!
 マリーもだよ? 私の太盛君とベタベタするの、やめてもらえる?
  めざわりなの」

ミウは病気の身のマリー相手に大人げないと思ってはいた。
さすがに付き合い始めで彼氏を奪おうとする相手が
目の前にいるのに冷静ではいられなかった。

マリーは怖さと驚きからどうしていいか分からず、泣きそうに
なってしまった。病気をしてから以前のような怖いものなしの
無邪気さが消えてしまい、内気で目立たない少女になってしまった。

(さて)

太盛は選択の時である。

「マリーは今病気で辛い身だ。そう言ってやるなよ。
 俺たちにとってマリーは妹みたいな存在じゃないか」

「妹って言い方、好きじゃない」

「……さ、三人で仲良くしようよ。お医者さんからも
 そう言われたじゃないか。
 マリーが退院してからミウは変わったよな?」

「だってムカつくんだもん。太盛君、私とも連絡先交換してよ。
 マリーばっかり可愛がられてる気がする。私だってエリカの被害者だよ」

ミウが太盛から携帯を奪い取るように取り上げ、
ふるふるでLINEを交換していく。

マリーはそれが哀しくてぽろぽろ涙を流し始めた。

学年トップの美人のミウが太盛を本気で取りに来たら、
自分に勝てる要素は何もないと思っていた。

さっきの英会話も自分だけ蚊帳の外にされてショックだった。
リスニング試験の聞き取りは得意だったのに、
面白いくらいに聞き取れなかった。

ミウは衝動的に英語が出ただけでマリエを仲間外れに
する意図はなかったのだが、結果的にこうなってしまった。

マリーはエリカの事件に巻き込まれてから、入院生活を経て、
苦痛の連続だった。この夏休みに楽しかった思い出など一つもない

せめて太盛が自分のそばにいてくれれば。そう願って彼と再会できたのに

「ちょっと、なにして……」

そうミウが言いたくなるほど、太盛はマリーに甘かった。
マリーに付き添って比較的人気のないところまで移動した。
太盛はマリーが泣き止むまで待ってあげて、それから戻って来た。

マリーは注意されたばかりなのに太盛にべったりしている。
こうしてないと情緒不安定になってしまうのだ。

「マリーを悪く言わないでくれ。ミウのことは好きだよ。
 でも俺はマリーの病気を治さないといけないんだ。
 マリーが病気になったのは俺のせいでもあるんだ。
 俺には彼女の病気を治す義務がある」

二股を取るとでも言いたげな彼の言い方にますます腹が立った。
ミウはここまで嫉妬深い自分が嫌になるが、止まらない。
彼女は恋愛経験の少なさから自分の感情を制御するすべを知らなかったのだ。

またイングランド語(英語のこと)で怒声を浴びせる。

「Damm it !! It's a double standard !!」

「why not? I think there's no problem between us.
  We are friends」

「It's easy for you to choice marie as your new girl.
 she has a lovely baby face you like.
  She is pretty and smaller than me. Sorry? I’m an ugly」

「You are so beautiful」

「No, I'm not. then you don't like me」

「どんと せいざっと ぷりーず!! えぶり がーるず いん あわすくーる
 せいど!! うぃ うおんと とびぃ らいくゆー!! ゆぅのうわい… !?
びこうず。よぅあ あんあいどる おぶ あうぁすくぅる!!」

「あははははは、あははは !!  hahahahaha!! 
What kind of language you are speaking !?」

「ゆぅ らいく まい あくせんと?
 ばっと。あいあむ すぴぃきんぐ べりぃ尻おすりぃ!!」

「wow, It sounds French!! Not English!!」

「べりぃうえる。そう、あいきゃん せいざっと、
あいむあ ふれんち すぴーかー ふろむなう!!」

「So funny I've ever heard!!!  you'r accent is killing me!!!!
あははははははははは!! I'm dying for laughing!!!」

「でぃすいずざ ペン!! あいはぶあ ぺん! あいあむあ ぺん!!」

「lol それじゃあなた、人間じゃないじゃん!!」

太盛はようつべで日本人がわざと日本語なまりの英語を
話す動画を見ていた。全世界で有名な動画だ。
映画の字幕をわざと日本語アクセント全開で早口に話すという荒業である。

これにはミウもたまらず、席から転げ落ちるほど笑っていた。
ちなみにこの技を披露するにはそれなりの英語力が必要である。

先ほどの英会話だが、ミウは自分のことをブスとまで言った。

彼女は謙遜にも自分がマリンほど美しないと思っており、
太盛はモテるから二股をかけられるし、自分はマリーと結ばれるまでの
つなぎにすぎないのでしょう、というニュアンスで言っていた。

そして自分より美人のマリンを選ぶのかと問い詰めたのだ。
太盛は終始否定し続け、最後はジョークでごまかした。

爆笑が収まると彼女の気分が落ち着ていて来た。

「ごめん……ちょっと怒り過ぎたかも。
 私の声、うるさかったでしょ?」

「俺は気にしてないよ? 全部エリカが悪い。
 全部あいつのせいにしよう。そして忘れよう」

ミウは一人席を立った。

「もう帰るのか?」

「うん。買い物をすませてから家で寝たいの。
 ここにいると、周りの視線が……」

「ああ、なるほどね」

二か国語で騒ぎ過ぎたせいで太盛達は学校にいる時と
全く同じくらい周囲の注目を集めていた。

三角関係だの、兄弟げんかなど、人々は興味深そうに
噂話をする。太盛達は暇つぶしの種になってしまったのだ。

ミウの後姿が人込みの中に消えていった。

マリーは何事もなかったかのように
太盛の手を引っ張ってショッピングを再開した。
その日の太盛はマリーの貸し切りだった。



あれから数日間、ミウから連絡はなかった。
太盛は謝罪のメールを送ったが、既読スルーされた。
何気にショックだった。

『You have time today?』 マリエは太盛に
英語でメールをしてくるようになった。
書店で英会話の本を買ってから毎日勉強していたのだ。

ミウとマリーは互いをライバル視していた。
マリーはミウが流暢な英語を使う姿に心から憧れたのだった。

「……に……って……」

マリーはとぎれとぎれに言葉を発するようになった。
ほとんどが空気の音だが、子音と促音(っ、ッ等)が若干聞き取れる。

「なんだい?」

「……n……ん……」

じれったいやり取りだ。
マリーは頭に英会話の基本表現を思い浮かべた。

「あいむ ごおいんぐ to はヴぁ てぃ」

「おおっ。英語を話した!!」

失語症の人が声を発するのに最短でも数年かかることは珍しくない。
なにせ治療法が確立されていない病気なのだ。
太盛と一緒にいることでここまで回復が早いとは奇跡に近い確率だった。

「お茶出しなら一緒に行こうよ。おk?」

「ぐっど」

ここはマリーの部屋だ。彼女の両親は毎日夜遅くまで仕事しているので
家では孤独な生活をしていた。夕飯も自分で作ることが多かったが、
めんどうな時はスーパーで出来合いの総菜を買って済ませていた。

退院後は両親からたっぷりと食事代をもらってるから、
外食することが増えた。

淹れたのはミルクティーだ。よくある粉末状のお得パックだ。

太盛は、薄めに入れたミルクティーのカップを眺めながら、
不思議な感覚に陥っていた。既視感である。この子と一緒の
部屋にいると懐かしいというか、心が落ち着く感じがした。

実はマリーも同じで、太盛のそばにいると、どんな難病でも
治ってしまいそうなほど癒されていた。
病は気からとはよく言ったものである。

マリーの部屋は、太盛の部屋ほどでないにしても広々としていており、
二人が一緒にいても狭苦しさはない。座りやすいソファ、ベッドがある。
部屋の家具は白とベージュを基調とした落ち着いたデザインで
余計な物は置いてない。

年ごとの女の子の部屋としては少し物がなさすぎる感じもするが、
太盛は逆にこのさっぱりした感じが好きだった。

太盛はスナック菓子をつまみながら、茶を飲み干した。
猫のデザインのかわいい時計は三時半を指した。

マリーは少し眠くなってうとうとした。
ベッドで寝てしまいたかったが、太盛がいるのに
悪いと思って遠慮していた。

「寝ていいよ?」

「……?」

「別に良いって。俺はその辺で本でも読んでるから」

「よう かむ うぃずみぃ」

「俺も一緒に?って……おまえ、意味わかって言ってるんだろうな?」

マリンはアイコンタクトで『もちろん』と答えてから太盛に抱き着いた。
太盛がバランスを崩すほどの勢いだった。

太盛は床に押し倒されてしまい、硬い床の感触が背中に当たった。
マリエの顔が目の前にある。さすがにまずいと思って彼女の身体をどかそうと
するが、マリエは全然動いてくれない。彼女の吐息が太盛の鼻にかかった。

「レツ ごう トゥ べっど。 れリっとびー」

「let it be……?
 おまえを襲ってもいいって意味にとるぞ?」

マリーは首を横に振った。まず自分がベッドに横になり、
太盛にも隣に来てほしいと伝えた。添い寝してほしいのだ。

マリーほどの美少女を前にしても出さずに添い寝である。
いくら彼女がいるとはいえ、太盛も健康的な高校生だ。
完全なる生殺しである。

そんな彼の気持ちなど知らずにマリーはまぶたが重くなっていき、
太盛が服に手を伸ばそうとする前に寝息を立てていた。

確かに女の子がしたくないのに強引に迫るのは最低だと
太盛は思っている。しか、しわざわざ家まで来てあげているのに、
世話をしてあげてるのにと報酬を望むやらしい気持ちもある。

『失語症は、現在の医療では治療法が確立されておりません』

『マリエさんのPTSDは、夜一人で寂しくて寝ていると
  発症していることが……』

病院での医師と看護師の言葉を思い出す。
全てはリハビリと治療のため。
そう割り切りると、この子が高校生でなく
自分の娘のように思えてきた。

太盛はマリーの気持ちよさそうな寝顔を
微笑ましく見ながら、自らも寝てしまった。

「君のこと。どうしてマリンって呼んだのか」

それから数日連続で太盛はマリーの家に行った。
マリーは彼が来るのが当然だと思っていた。
彼の優しさに甘えていたのだ。

辛い時に大好きな人にそばにいてほしい。
どの女の子だって望むことだった。

「こうして近くでよーく見ると、マリーはほんっとうに美人だな。
 中学時代に付き合った男はたくさんいたのか?」

マリンは首を振って否定するが、太盛には信じられない。
彼女は明るく社交的でクラスの中心自分物にふさわしいから、
男をいくらでもとっかえひっかえできるタイプだったのだろうと
勝手に思っていた。

「あいむ のっと びっち」

「あっそ。おまえ、日本語は話せないのに英語は喋れるのな」

「あい like english」

「おおっ。後半は良い発音だ」

太盛は英語学習にネットをフル活用するように勧めた。
特に便利なのがラジオだ。BBCのニュース、スポーツ中継、
流行歌などを流しっぱなしにするだけで勝手に耳が鍛えられる。

だいたい二年以上かけて累計500時間ほど聞き続けると、
リズムとイントネーションが脳みそに叩きこまれて、
英国人の息遣いのタイミングまで分かるようになってくる。

そこまでいけば、頭で自然と英作文ができるようになる。
マリーは英文法をよく勉強していたから、基礎文法は飛ばしてよかった。

太盛がヨーチューブでドラマ番組を探してチャンネル登録してあげた。
あとは太盛と英会話の実践訓練。それを毎日やってると、
英語を口に出すのに抵抗がなくなってくる。

「だけど一日中聴いてると頭痛くなってくるぞ?
 息抜きの時間も作るのも大切なんだよ」

太盛がテレビの番組一覧から甲子園中継の時間帯を確認した。

「今日の二時から決勝なんだ。今年も関東の学校が決勝まで来たぞ。
 出場校は埼玉のとこだけど、同じ関東民として応援しないとな」

マリーは乗り気ではなかった。野球は父が好きで甲子園のたびに
盛り上がっていたが、特に興味はない。彼女は美術部ということもあり、
騒がしいスポーツより絵画や音楽などの芸術が好きだった。

太盛は熱心な高校野球ファンだった。
とある高校が最終回に逆転満塁ホームランで
勝ったのをきっかけに小学生の時から毎年見ていた。

「どうしても嫌ならやめるけど?」

今回はマリーが折れた。
毎日部屋にいても退屈だから刺激がほしかったこともある。

決勝初出場の埼玉。その対戦校は、伝統ある広島の強豪校だった。
マリーは、試合前に表示された両校の対戦結果と歴史を見て、
きっと埼玉の高校が負けると考えていた。

彼女は理系タイプのために理屈で考えすぎるきらいがあって、
ほとんどの勝負は統計的に予想ができると考えていた。

太盛は熱くなり、繰り広げられる展開に一喜一憂しながら観戦した。
マリーはルールが分からない。
試合よりも興奮している太盛を見るほうがおもしろかった。

『ここで右中間―――!! 三塁バッターホームイン!! もう一人帰ってくる!!』

勝負が劇的に動いたのが五回の埼玉のチームの攻撃だった。
まるでバッティングセンターのように、打撃陣が長打を量産。
ヒットを打つごとに快速ランナーが駆け回り、点を重ねていく。

次の六回もそうだった。広島の監督はすぐに投手を交代。
代わった投手は、高校生離れした冷静さとコントロールの良さを持つ
超人的な選手だった。だが、それでも失点は止まらない。

外野手のエラーが続き、守備陣は崩壊。ついに10点差がついてしまった。
決勝戦なのに一回戦のようなワンサイドゲーム(圧勝)になってしまった。

栃木県民として関東勢を応援していた太盛は、最初のテンションが
六回が終わる頃から下がっていき、この14-4という結果を不思議に思っていた。
相手チームも全力で戦っていただけに、
応援していたチームを素直に祝福できないほどの大差であった。

「えくすぷれいん ぷりぃ-ず?」 (説明して?)

「いや、おかしいよなこの結果。相手チームも今までかなりの強豪校を
 破ってきたはずだし、打線も活発だ。話題の化け物級の捕手もいるしな。
 むしろ埼玉の打線が規格外だったってことかな。
 うーん。どうもしっくりこない結果だ。俺も専門家じゃないからなぁ……」

太盛は有名なネット掲示板を開くと、あまりの結果に騒然となっていた。

「なあ、マリー。おまえはこの結果予想できたか?」

「No」

「だろうな。きっと全国の人も広島のチームが勝つと思ってただろう。
 だが勝負はやってみないと分からないものさ。選手の疲労や監督の采配、
 トーナメントの組み合わせとかな」

マリーが首をこくこくと振っている。

「これは人生の教訓になるぞ。この先にどんなことが待ち受けていても、
 その時にならなければ分からないのさ。決めつけるのは良くないことだ。
 人生を悲観するんじゃない。未来を勝手に決めつけるな。
 人生はなるようにしかならないんだよ」

マリーは胸の前で十字を切り、天を指した。

「ジーザス セイド the same thing」

「意訳すると聖書にも同じことが書かれてるってか。
 その通りだな」

ジェスチャーをしたマリーが可愛かったので
太盛が髪の毛をなでてあげた。
マリーはうれしそうな顔をしてされるがままになっている。

彼氏彼女の距離感である。
ここにミウやエリカがいたら張り倒されたことだろう。

(ずっと太盛と一緒にいたい。彼がいるとほっとする。
 彼と昔どこかで会ったことがあるのかな?)

遠い記憶を呼び覚ますかのようにマリーは瞳を閉じる。
彼といられる一瞬の時さえマリーは無駄にはしたくなかった。
ただテレビ中継を見ている時も貴重な時間だと思っていた。

「髪、少し短くなったけど、今の長さがちょうどいいな。
 俺は長い髪はあんまり好きじゃないから、セミロングくらいが
 マリンにはよく似合ってるよ。小顔だしな」

「せンキュ」

「あれ? 俺マリンって言ってた?」

「いえす」

「なぜかな。言い間違えちまった」

「まりん いず OK」

「じゃあ二人っきりの時はマリンって呼ぶかな。
 あとでミウにばれたら怒られちまうと思うけど。あはは。
 あいつ、急に怒りっぽくなって怖かったよな」

マリンは視線を明後日の方向に向けた。
不安やストレスを感じると、顔はそのままに
目線だけをずらす癖があるのだ。

太盛はマリー検定2級保持の自覚があるのですぐ察した。
マリーはミウの話題を出されるのを極端に嫌う。
太盛が甲子園中継で応援席の女の子を可愛いと言ったときは
なんともなかった。エリカのことを口にした時も特に変化はない。

「え、英会話の練習でもしよう。英語で質問するから答えろよ?」

どこの美容室で髪を切ったかを聞くが、マリーは答えなかった。

英語はミウの最大の個性。
マリーの知らない先進国の文化が入っている帰国子女。

太盛との英会話はただの茶番だったが、誰の邪魔も
入らない二人だけの世界で話していたのが心から羨ましかった。
彼女はミウのことをどこまでも敵視していた。

薄情といえなくもない。なぜならミウはマリーのお見舞いに太盛と
毎日来てくれたのである。さらに太盛の家にお呼ばれした仲間でもあった。

しかし、偶然か必然か。退院後、マリーにべったりな太盛を見て
ミウは猛烈に嫉妬心を燃やした。太盛を奪い合う間柄だから初めから
友情など存在しえなかったのだ。

これは、男性の太盛には理解しがたい女同士の複雑な関係だった。

マリーは数分ほど黙っていたが、太盛が困り果てた顔で自分を
見ているのに気づき、逆に慌てた。もうとっくにめんどうな女だとは
思われているだろうが、彼に嫌われることはしたくない。

泣きそうになってしまったマリー。
太盛は言葉よりも抱きしめてあげることにした。

彼女を子供のように可愛がることに抵抗感はない。
こうして毎日家で会っていると、二人でイチャイチャしてるのが
当たり前としか感じられない。

ごつごつした男性の力強い腕の中にいるとマリーは安心した。

太盛は逆だ。
こうして密着すると、マリーの匂いと体温がじかに伝わってくる。
服を脱がしたくなる衝動と何度戦ったことか。

太盛は年下の女の子が困っているなら助けたいという正義感と
彼女を押し押して自分のものにしたい欲求と戦う毎日だ。
我慢しきれずにきゃしゃな肩に手を伸ばすが、

「のっと なう」 (まだ、だめ)

マリーが諭すように言う。
彼女の奇跡のような愛らしい童顔が、
太盛の理性をギリギリのところで押さえていた。

実はマリンはとっくに心の準備はできていたが、
そういう関係になるのは太盛がミウと別れてからにしたいと思っていた。
それが彼女なりの礼儀だった。

他方、ミウは心中穏やかではなかった。
ショッピングモールで太盛と大喧嘩して
しまったことを心から後悔していた。

ただ太盛を他の女にとられたくないだけ。
女の子としては正常な感情なのだが、
あとから振り返ったらエリカのような
ヒステリー女と思われてもおかしくない。

太盛が一番嫌うのはしつこく、口うるさい女だ。
自分がそんな女になってしまったら、この世界に来た意味さえなくなる。

エリカはいい。ほおっておけば太盛に飽きられて
捨てられるだけの負け犬。モンゴルでの逃避がそれを証明した。
だがマリーはどうしたらいいか分からない。

あの子は、あのマリンの生まれ変わりである。
マリーの病気がいつまでも治らなかったら、
太盛はずっとあの子のために尽くしてしまう。

『おまえはもういらない』

いつ彼にそう言われるか分からず、怒りと恐怖が交じり合う。
マリエの家に遊びに行く太盛を知りながらも止めろとも言えず、
かといって一緒に行く気にもならず、何日もメールをしていなかった。


「それで私のところに来ったてわけね?」

エミである。

精神的に疲れているだろうからと、
ミウにアイスココアの入ったコップを差し出した。

「はい。最近、自分に自信がなくて……。マリーが退院してから
 すごく怒りっぽくなっちゃって。私、あの子に嫉妬してるんです」

ミウはまたあの石段を登ったのだ。
冷房と扇風機のコンボで大汗を瞬時に乾かしてる。

何度来てもエミの家は和風で居心地が良かった。
神社だけに神様が守ってくれているような感じがした。

「いったいどんな子なの? 美人らしいけど、
 顔見たことないから気になるわね。写真とかないの?」

「そう言うと思って、あの子のファンクラブの人から写真を
 もらってきたんですよ。全部盗撮写真らしいですけど、
 高いカメラを使ってるのでプロ並みによく撮れてますよ」

「盗撮……? あのエリート校で
 そんなバカなことしてる奴らがいるのね」

部活中にエリカと談笑しているマリー。登下校中。
音楽の時間にピアノを弾いているシーンまであり、
もはやアルバムに乗せられそうな勢いである。

彼女は日ごとによく髪形を変えた。ハーフアップを基本に
おでこを出したり、三つ編みにしたり、長髪をカールさせたりと。
何をしても人目を引き、またそれを喜んでいるのだった。

「何これ? 超可愛いわね。童顔だし、笑顔が自然。
 特にこの笑い方、口元の歯がきれいに見えてる。
 芸能人とか業界の人並みに洗練されてるじゃない。
 小さい頃から子役とか務めてた人のレベルだわ」

「誰と話すときもニコニコしてて、本当にむかつくくらい
 可愛い顔してるんですよ」

「うん。これはモテるでしょうね」

「やっぱり太盛君はああいう子がタイプなんでしょうね。
 私、あの子に比べたらブスだし」

「いやいや。ネガティブすぎでしょ。
 あんたがブスだったら世の中の女たちはどうなるのよ」

「男の人は女を顔で選ぶっていうじゃないですか」

「太盛は顔だけってわけじゃないと思うけどな。
 あいつ、病気の治療だからあの子のそばにいるだけじゃないの?」

「失語症は不治の病ですよ。太盛君は完全にマリーにつきっきりです。
 口うるさい私なんて、そのうち忘れられちゃうんですよ」

「外国育ちの人ってもっと陽気なのかと思っていた」

実は英国人は慎重でマイナス思考の人がけっこう多い。
雨が多いことと、島国気質がそうさせるらしい。

「こっちの一枚、あんたの顔でしょ。
 なんでミウの写真も含まれてるの?」

「私のファンの人に頼んで持ってきてもらったからですかね?
  私の写真も入っちゃったみたいですね」

「どゆこと?」

ミウは有事の際に備えてファンクラブの中枢メンバーと
連絡先を交換しておいた。またエリカに襲われた時は守って
くれるだけでなく、マリーの写真を取り寄せてもらうことも朝飯前だ。

「ファンってそんなことにも使えるの? 
 すげー便利ね。私も欲しいな」

「その代わり学校内で盗撮されますけどね」

「有名税みたいなものかしら?
 あんたの写真もきれいじゃない。
 ちょっと顔暗いけど」

「みんなに見られるから緊張して顔が引きつるんですよ。
 私、マリーに比べたらすっごい不細工じゃないですか」

「は? どこが」

「いやいや」

「ちょっと控えめな性格のアイドルって感じだけど。
 これはこれで需要有ると思うけどね」

「太盛君もきれいな顔してるし、
 あの二人のほうがお似合いなんですよ」

「そういうの、もういいわよ。あなたが
 太盛と付き合うようになったきっかけはなんだったの?」

「信じてもらえないかもしれないけど、私の記憶喪失が原因なんです」

「記憶喪失?」

ミウはこの際だからと、自分がこの世界に飛ばされた理由まで
話してしまった。エミならきっと最後まで聞いてくれる。
そう願ってのことだった。

一般人に話せば黄色い救急車を呼ばれるほどの非現実的な内容である。
エミはカウンセラーのように辛抱強く話に耳を傾けた。
エミは真顔で何度も頷き、ミウを馬鹿にする様子はない。

「なるほど」

話を聞き終えて、さっぱりした顔をしていた。ミウは意外に思った。
途中で飽きられて、友達の縁を切られてしまうくらいの覚悟はあった。

「それであなたに変わった背後霊がついてるわけか」

「背後霊?」

「老人の面を被った男の人。たぶんハクシキジョウね」

驚天動地のミウに、エミがその面をスケッチして渡してあげた。
まさしくミウが良く知っているお面だった。

「私、呪われてるんですか……?」

「逆ね。この霊はあなたを見守ってくれているわ。
 あなたの背後霊は、例えば地縛霊と違ってずっとあなたのことを
 守ってくれるタイプ。ふふふ。本当にあなたのことが心配なのね」

ミウはあの端正な顔をした男の姿を思い浮かべた。
夏休み前、ターシャに拷問されそうになった時も
あの男の声が聞こえた。偶然ではないと確信できた。

「私はあなたの話、信じるよ。神社の巫女やってるとね、
 現実ではありえないことが結構起きたりするのよ。
 うちのはすっごい歴史がある神社だから、古い言い伝えとか
 祖父からずっと聞かされて育ってきたからさ」

「ありがとうございます。私の話を真剣に聞いてくれたのは
 エミさんだけですよ。実は太盛君にも話してないんです」

「あいつも少し感づいているみたいだけどね。
 あなた、太盛の家の使用人さんの名前を
言い当てたりしてたんだって?」

「は、はい。後藤さんのことは隠すのが大変でした」

「太盛もこの神社に通うようになってから暴力癖がなくなったのよ。
 中学自体は一時期すごい女好きな時期があって、いろんなクラスの
 女の子に手を出しては別れるの繰り返しでどうしようもない奴だったわ」

「太盛君は女好きだったんですか」

「三年の一時期だけど、まあチャラかったわね。
 家でお父さんに厳しく教育されたストレスでおかしくなってたみたいね。
 女と付き合うことで自分が価値のある人間だって証明したかったんだって。
 完全なバカね。浮気がすごいから、腐った心が浄化するように
 神様にお祈りしなさいってよく言ったのよ」

「浮気?」

「太盛が三年の時、私と付き合ってたのよ」

ミウは驚くよりも納得した。確かに太盛とエミの親密な様子からは、
ただの友達以上のものを感じさせた。付き合っていたとしても
特に複雑な感情はない。

とはいえ、昔の彼女と現在の彼女がここにいるのである。
さすがに分かれた理由までは聞けない。

「私たちはね、太盛が中学を卒業してから自然消滅したわ」

ミウの心境を察したのか、自分から話してくれた。

「太盛が受験で忙しくなってから、この神社にも来てくれなくなった。
 休みの日に電話しても出てくれないし、あいつにとって
 私なんてどうでもいい存在だったのかなって思ったら、
 気持ちが冷めちゃった。ひどいよね? あいつの方から
 付き合おうって言ってきたくせにさ」

「太盛君は今でもエミさんのこと……」

「今は友達よ。でも、あいつが
 遊びに来るんだったら止めはしないわ」

その口ぶりから、太盛に未練があるのが見て取れた。
今は新しい恋を見つけることはせず、一人でいることを好んでいるという。

きっとエミにとって太盛は手のかかる弟のような存在で
可愛くて仕方なかったのだろうとミウは思った。
幼馴染だから誰よりも彼のことをよく知っているはずだ。

太盛も高校進学後は、エリカに付きまとわれている以外に
女を口説いたりはしていないようだ。神社の加護のおかげが、
嘘のように真面目な生徒になり、先生からクラス委員に
推薦されるほどに至った。

エミがそんなミウの考えをさえぎるように大きく溜息をはいた。

「神様の力をお借りしているなら、きっとあなたは大丈夫よ」

「えっ」

「どんなに回り道をしても、太盛は最後にあなたのもとに帰ってくるわ。
 この言葉をよく覚えておきなさい。神の味方する者に敵はない。
 これはキリスト教も神道も変わらないわ」

「そうなんでしょうか……」

マリーの件は、しばらく放置したほうがいいとアドバイスされた。
おそらく向こうも本気で太盛を奪いに来ているから、相手が攻めているときは
いったん引いて、様子を見るべきだと。話に進展があるとしたら
新学期が始まってから。

夏休みの間はおとなしくするように言われたので、ミウはその通りにした。
エミの言うことは聖書の言葉のように不思議な説得力があったのだ。
彼氏を他の女に一時的に奪われている状態なので屈辱だが、耐えるしかない。

それから夏休みが終わるまで、ミウは暇さえあれば神社を訪れて
二人で遊ぶようになった。一緒に映画を見に行ったりと
親友と言っても差し支えない仲に発展したのだった。

お互いに他に友達らしい友達もいなかったので、余計に仲は深まったのだった。
そしてあっという間に夏休みが終わり、新学期が始まるのだった。

「あんたの学校で悪いことが起こりそうね。嵐の予感ってやつ?」

エミの何気ないつぶやきを、ミウはしっかりと覚えていた。



始業式の日に太盛は収容所に入れられた。
収容所は通称で、表向きは反省室となっている。

よくある反抗的な生徒を一時的に閉じ込めておく施設だ。

「君は他校の生徒に暴力を振るったそうだな?」

イスに座らされた太盛の立つのは生徒会の副会長である。
浅黒い肌にデメキンようにギョロッとした目が特徴だ。
背丈は太盛より10センチほど高く、すらっとしていた。

「カスミ〇〇店の店長さん、それと被害者の生徒らから苦情が来ている。
 もちろん心当たりはあるね? それでは君に弁解の余地を与えよう。
 何か言いたいことがあるなら言ってみたまえ。
 言うことがあるとしたら、だがね」

男は口を手で押さえるが、笑いが止まらない様子だ。

太盛は男の不愉快な顔を見ないようにしてこの教室を見渡した。
反省室となっているが、見た目はただの空き教室だ。非常に殺風景であり、
教室にあるのと同じ机と椅子が、部屋の中央に三つ並べられている。
すみには大きな段ボールが乱雑に置かれている。

(あの中身は、拷問器具か)

太盛には一つ確信していることがあった。抵抗は無意味。そして
どんな発言をしたとしても最後は拷問されるということ。

「殴りたいから殴りました。奴には中学時代に
 お世話になりましたから、その礼です。以上です」

太盛は素直に話した。それで十分だと思ったからだ。

「ほう。それで?」

「他に話すことはありませんが」

「まだあるはずだろう? 人を殴る理由とは何なのだ?」

「さっきも言った通り、恨みですよ」

「君の理屈では、恨みを持てば殴っていいことになるのかね?」

副会長は、机の上にIPADを置いた。

見てみなさいと太盛は言われたので、IPADを手に取って画面を見る。
写真が表示されている。一枚一枚スライドさせて見ていった。

太盛の殴った相手である、憎き同級生が椅子に縛られて痛めつけられていた。
彼の顔と胸、肩にミミズばれの後。冗談のように大きく、
真っ赤な跡が残っている。強烈なむち打ちのため
肌の一部が露出し、血が流れている。

彼の口もおかしい。ボロボロになった唇からトマトジュースを
こぼしているのかと思ったら、真っ赤な血だった。

彼は口の中に無数のガラスの破片を押し込まれていたのだ。
むち打ちのたびに歯を食いしばってしまったら最後。
歯肉に、歯の隙間に、舌に、鋭利なガラスが容赦なく突き刺さる。

一度刺さったら自分の力で抜くことはできず、ひたすら痛みに耐えるしかない。
その間も容赦なくむち打ちは続き、痛みと衝撃から口を動かしてしまう。
そのたびに口から、彼らの言うトマトケチャップがだらだらと零れ落ちる。

口腔は、鍛えようがない。その痛みは想像を絶した。

この拷問は彼の精神に決定的なダメージを与えるに至り、
拷問の後半の写真ではヘラヘラ笑うようにすらなっていた。

「彼の名前は高木シンヤ。かつての君のクラスメイトだ。
 両親と妹の四人家族。父の職業は画家で何不自由なく
 暮らしていたそうだ。堀君のことは学校で調子にのっていると 
 いう理由で目を付けたそうだな。そして不良グループを先導して
 君にたびたび暴行を加えていたと」

「なぜですか?」

「彼がこうなった理由か? そうだな。彼は我々生徒会に君の悪事を
 通報したのだよ。だいたんにもな。彼は君のことをそれもう恨んでいたよ。
 すごい勢いでまくし立てられてね。だから拷問して詳しい話を聞いたのだよ」

「だからの使い方がおかしくないですか?
 それじゃ拷問された理由が説明できていません」

「高木が虚偽の発言をしたと仮定したらどうだ? 
 君を反省室送りにするには確かな証拠が必要だ。
 何より君に直接言わずに我々生徒会を頼ろうとするのは気に食わん。
 彼は他校の生徒だがね、少しお仕置きをしてあげたよ」

「罪の意識はありませんか? 俺も奴のことは恨んでいます。
 でも奴は生徒会に歯向かったわけじゃないし、あんたに
 痛めつけられる理由にはならないはずだ」

「いや、ある。理由ならある」

「それはどのような?」

「彼は君の関係者だった。それだけだ」

二時間目の授業終了のチャイムが鳴る。

収容所は時計がなく、静かなので時間の感覚はない。
他の生徒が普通に授業を受けている間も尋問等が行われているのだ。

その頃、ミウはもう学校どころではなかった。

「先生。お願いですから本当のことを教えてください。
 太盛君は今どこにいるんですか? どうして彼だけ特別教室に
 行かされたんですか?」

「彼にも事情があるのでしょう。夏休みにちょっとした事件があったと
 聞いてますが、詳しいことは生徒会のみなさんが聞いてくれますからね。
 ありがたいことです。我々教師陣も生徒のプライベートのことまで口出し
 しないようにしています。ただでさえ個人情報にうるさい時代ですから」

指で眼鏡をかけなおした教師。温和で有名な50代の男性である。

「さてと。次の授業の準備があるので、失礼しますね」

「先生は、生徒会が怖いんですね?」

教師は鬼の形相で振り返ったが、それも一瞬だった。
素知らぬ顔で廊下を後にするのだった。

(大人ってずるい。太盛君が監禁されてるって知ってるくせに、
 自分の身だけが可愛いんだ。何が生徒のことを第一に考えているだ。
 大人は大っ嫌い)

ミウは怒りで震え、立ち尽くしていた。
すると、すぐ近くから失笑が漏れる。

隣のクラスの女子が教室前の廊下に集まっていた。
派手めなファッションで目つきの悪い女子を中心としたグループだ。

「ぷっ。彼氏が収容所行きになってあせってる。
 先生に相談しても無駄だって」

「収容所行きとか、どんだけ不良なんだよ。
 もう生徒として終わってんじゃん」

「太盛君って見た目とのギャップやばいよね。
 優しそうな顔してるけど中身は獣なんでしょ?」

「ロリコンって噂も聞いたことある」

「なんでロリコン?」

「一年の斎藤マリーと付き合ってるんでしょ?
 あの子、超童顔だし、あの子のファンって
 ロリコン多いじゃない」

「まじ? あの男何股かけてんのよ」

「橘嬢と付き合ってるんじゃなかったの?」

「橘さんに飽きて、他の女で遊んでるんだよ」

「じゃあ高野さんも遊びってことか」

「あははは。なんか、かわいそー」

わざと聞こえる声で、本人の近くで噂話をされているのだ。
ミウは激しい怒りが立ち込め、怒鳴り散らしたい衝動にかられる。

『なにがあっても最後はあんたの元に帰ってくる。
 大きく構えていなさい』

エミの説教を思い出し。ぐっとこらえた。

自分の教室に戻る。エリカは、自分の席を中心に女子の
輪ができている。周りにいるのはお付きの女子だ。
みんな品のあるお嬢様ばかりで顔のレベルが高い、

エリカは愛する人が収容所送りにされたのに談笑していた。
ミウにはそれが信じられなくて、本人に直接聞いた。

「あそこに入れられたら、私にはどうにもならないわ」

「お姉さんのアーニャに頼んで助けてもらってよ。
 アーニャは会長の友達なんでしょ?」

「無理ね。だって今回太盛君を拉致したのは副会長なのよ」

「は?」

「察しが悪いわね。会長と副会長は思想の違いから険悪の仲なの。
 副会長に比べたら会長はまだ優しいお方ね。
 私のお願いも聞いてくださったもの」

その願いがマリーの拷問なのは言うまでもない。

「生徒会には派閥があって、今の副会長派が一番強いの。秋の生徒会選挙で
 立候補するのは副会長派の人間のみよ。つまり次の生徒会は裏で副会長が
 支配することになるの。新体制よ」

「太盛君を助けることはできないの?」

「今は無理ね。副会長様の機嫌が直るまで気長に待ちましょう。
 淑女らしく紅茶でも飲みながらね」

エリカのお付きの一人が、買ってきたペットボトルをエリカへ手渡す。
エリカは涼しい顔で午後ティーに口をつける。

「It’s not time for drinking tea!!!!」

「うるさいわねぇ。耳がキンキンするわ。
 ここは日本だから日本語で話してくださる?」

「もっとまじめに考えてよ。このままじゃ
 太盛君が廃人になっちゃうかもしれないんだよ?」

エリカは紅茶を一口飲んでから、

「その時はその時ね」と言った。

「太盛君が入院したらお見舞いに行くし、五体不満足になったら
 私の家で一生面倒みるわ。一応私にも責任があるってことにして
 彼のお父さんを説得するつもりよ」

「何を言ってるのか全然分からない……。
 あなたの方こそ日本語で話してよ」

「чёрт возьми Обезьяна」(クソ日本人め) 
 露語で悪態をつくエリカ。

「副会長に目をつけられた人はもう終わりなの。
 ほとんどの生徒が自主退学するか、精神病棟に送られることになる」

「意味わかんない。どうして太盛君がそんなことされな
 くちゃいけないの? 彼が何したの? その副会長って何者なの!!」

「あの人はね、マリエさんが好きなのよ」

ミウは風邪のうわさに聞いたことがあった。ミウに及ぼないものの、
マリエにもファンクラブがあるということ。少数精鋭の熱狂的な男の
集まりだということ。その中に生徒会の人間も含まれているということ。

その日は半日授業だった。

ミウが急いで収容所のある職員室の隣へ向かうと、部屋は解放されていて、
誰もいなかった。まさかと思って昇降口に行くと、太盛が下駄箱で
靴を履き替えているところだった。

「太盛くぅぅぅうぅぅん!!!」

さっそく彼に駆け寄る。

「太盛君。大丈夫!? 今日は何されてたの? 怪我はない?」

太盛はしばらくためてから。

「ああ」と言った。じつにかったるそうだ。

「帰してもらえたのね? よかったぁ。私、太盛君がずっと
 あの中に閉じ込められてるんじゃないかと」

「家には普通に帰れるよ。明日からしばらく別室授業が続くけどな」

太盛はそれだけ言って、歩き出してしまった。
ミウも急いで靴を履いて玄関から飛び出すが、太盛は早足で遠ざかっていく。

「待ってよ!!」

太盛は振り返らない。両手をポケットに突っ込んだままどんどん離れていく。
彼は校門に差し掛かる、そこを曲がったらミウの視界から消えてしまう。

ミウが悲鳴に近い叫びをあげようとしたところ、斎藤マリーが立ちふさがった。

彼女は門の前で太盛を待っていたのだ。
太盛を見つけると花のように微笑み、いつものように彼の腕を取って
イチャつこうとする。

「よせよ」 太盛は冷たく言ってマリンの手をはたいた。

ミウは嫌われているのが自分だけで
なかったという安堵感より驚きの方が強かった。 

マリーは目に涙をためながらも、諦めずに太盛に着いて行く。

「あゆ あんぐりー、とぅでい?」 (今日機嫌悪いんか?)

太盛は答えず、さらに歩くスピードを上げた。
休み中に英会話の練習に乗ってあげたのがウソのようだ。

マリーは彼に冷たくされたショックで涙がこぼれてしまった。

「マリンがおるで」

「おーいマリンちゃーん。どしたんや? 先輩に泣かされたん?」

昇降口から歩いてきた女の子達がマリーをかこった。
彼女らは一年生の演劇部の生徒たちだ。

この学校は演劇部も活発で大人数だった。
マリーのことをマリンと呼び、可愛がっていた。

「のう。いっつ、のっと」(ちゃうねん)

「違うゆうとるんか? あたし英語苦手だからよう分かんらんわ」

「どっちにしろ、女の子を泣かせるなんてサイテーやんな。
 太盛輩と関わるのやめたほうがええで」

「そうそう。あの人、エリカさんと生徒会にマークされてるやんか」

「校内で有名なチャラ男だったそうやな。あの人と同じ中学の先輩が言っとった」

「私も聞いたことあんで。どの女の子と
 付き合っても長続きしなかったっちゅう話やん」

「それよかマリンちゃん。かわいいんやから演劇部に入りや?
 うちの部長が勧誘しろしろってうっさいねん。もちろん美術部と
 かけもちおっけーや。演劇部は月一で顔出してくれればええわ」

「あい きゃんと すぴーく」(私、話せんやん)

「なに言うとるん……?」 

「あんた、この程度の英語も聞き取れんの?」

「うっさいわ。英語なんて話せなくても生きていける!!」

「しゃべらない役とか、声を失った少女の役とかで良いから。
 マリンちゃん。美人さんなんやから、もっと人前に出たほうがええと思うわ」

ミウはしつこい勧誘に悩まされているマリーを羨望のまなざしで見ていた。
自分は学年の女たちから悪口を言われるばかりなのに、マリーは人気者である。
やっぱりマリーは美人だからかとミウは落胆しつつ、校舎へ戻った。

無駄かもしれないが、偉い先生に直談判しないと気が済まないのだ。

「こらこら。何やってるんだ君。用もないのに校長室の前を
 うろついていたらダメじゃないか」

と三年生に注意された。

「とっても大事な用があって来てるんです。私の大切な友達が
 収容所行きになった件で相談しに来たんです」

「そうなのか。奇遇だね。私もその件で校長君と話をしに来たのだ」

「あ、あなたは?」

「タチバナだ。現生徒会の副会長をやっている」

ミウは腰が抜けそうなほどの衝撃を受けた。
憎むべき最悪の敵が、今目の前にいるのだ。
締め殺してやりたいが、まずは話をしなければならない。

「あなたが太盛君を拉致したはんに…」

「先に部屋に入ろう」

ミウの話を最後まで聞かず、ノックもせずに扉を開ける。
ミウも副会長に促されて入室する。

「ああ、君か」

校長はイスに深く腰掛けている。60代の頭が禿げ上がった男だ。
どこにでもいそうな校長の顔。彼は教師陣からあだ名で
公認会計士と言われていた。顔がなんとなく会計士っぽいからだ。

橘アキラは、無礼にも来客用ソファに堂々と腰を下ろした。
その向かい側にいる校長は、注意するわけでもなく自然に受け入れている。
それは教師と生徒の地位が全く逆転しているようであった。

副会長は書類の束をテーブルに置いた。

「話は聞いている。教員の○○が今年中に退職したいそうだな?」

「彼にも教師としての信念がある。
 この学校の校風にはどうにもなじめなかったようだね。
 彼は家庭持ちだから、うつ病になる前に再出発してもらいたい。
 私は彼の今までの仕事ぶりを認めてあげたいと思っているのだが」

校長はミウのことを見てから言った。

「そちらの女性はなんだ? 君の愛人かね?」

「くだらん冗談を言うな。彼女は君に直談判しに来たそうだ」

「ほう。いったいどのような要件ですかな。お嬢さん?」

全く一般人に対する聞き方である。
ミウは彼の口調がどうにもしっくりこなかった。
お役所の役人に感じられて校長らしくなくないのだ。

「二年一組の堀太盛君が今日、反省室行きになった件です!!
 他の先生に聞いても答えてくれませんでした。
 あなたも知っていて見過ごしているんでしょう!!」

「あー、あー。そうか」

と言って校長は頭をポリポリかいた。

「まさか生徒から苦情が来るとは思わなかったね。うん」

校長はうちわで顔をあおいだ。

室内は寒すぎるほど冷房が効いているのに暑がりなのだ。

「堀君は取り締まりの対象になったから隔離しただけだ。
 秋の生徒会選挙が控えている時期だからね。選挙の前に
 不穏分子と思われる生徒は一斉摘発する決まりになってるんだよ。
 ちなみに彼は休み期間中に他校の生徒と暴力事件を起こしたね」 

「ちょっと待ってください。太盛君は隔離されて何をされてるんですか?
 具体的に彼に何をしたいのか言ってください」

校長はアキラ(副会長)を見てから言った。

「ん? 体に傷が残るようなことはしてないんだろう?」

「ダー(肯定だ) 俺は奴を床に正座させ、二度と反社会的な行動を
 とるなと説教しただけである」

本当にそれだけだった。会長はスタンガンと木刀を携えながら、
太盛に長時間の正座を強いた。苦しくなって足を崩そうとすると、
太盛の目前に木刀が振り下ろし、精神的に消耗させた。

「ところでお嬢さんは高野ミウさんかな?」

「はい」

「ほほう。写真で見たことはあるが、本人を見るのは初めてだよ。
 君のファンクラブの人達からしつこく聞かれて困っているんだが、
 高野さんは堀君の彼女さんなんだよね?」

「な……」

「いや、君の口からはっきり聞いておきたいんだよ。
 うちの学校はね。男女交際は自由だが、誰と誰が付き合ってるか
 はっきりしないといけないんだよ。特に君のような人気者はね」

付き合っているかと言われれば、少し自信はない。
いちおう夏休みから継続して付き合ってるはずなのだが、
エミの勧めでしばらく連絡を取ってなかった。

「たとえばだけど、二股をかけてる人とか、浮気してもめ事を
 起こした人は処罰の対象だね。いい加減な恋愛をする生徒は
 今更生しておかないと将来ろくな大人にならないからね」

ミウは感づいた。副会長はマリーの大ファンらしいから、嫉妬して太盛を……。

「私と太盛君は付き合ってますよ」

「ほう」

アキラが初めてうれしそうな顔をした。

「確かかね?」と今度は校長が念を押す。

「堀君がマリエさんと夏の間、親しげにしていたことは
 ファンクラブの人達から報告を受けているよ。
 ああいうの、世間では浮気って言われちゃうよね? 
 特にマリエさん宅まで通っちゃったのはアウトかな」

「マリーは太盛君の友達です。失語症で寂しがり屋の
 あの子のためにボランティアに行ってあげただけです」

校長はのけぞり、声を出して笑った。

「そうか。君の国ではあれをボランティアというのかね!! 
 ブリテン人はジョークのセンスが違うね!!」

「ジョークじゃなくて真実ですよ。
 あとブリテンってひとくくりにされるの不愉快です。
 イングランドって言ってください」

「どっちも似たようなものじゃないか」

校長はしばらく笑ってから落ち着いた。

「要約すると、彼はミウさんを彼女と認めつつ、マリエさんにも
 手を出した最低な男だね。学内は彼の悪いうわさでもちきりみたいだよ?
 アキラ君の妹のエリカさんとの婚約を認めず、他の女に行ってしまうのは
 よくないねぇ。こんなんじゃあ、極刑に処されちゃうよね?」

(妹のエリカってことは……こいつがエリカの兄?)

まさに驚天動地。ミウがおそるおそる副会長の顔を見た。

肌の色も目つきも妹たちと全然似ていない。副会長は
中東人のように堀の深く、浅黒い顔で、目元だけ変に飛び出ていた。
エリカたちは日本人と白人のハーフといった感じの綺麗な顔立ちだった。

「ここの学校の校長として。明確に。ミウさんの申し出を却下する。
 彼を処罰するのは学園の意思だ。彼を解放する必要はない。理由もない」

「なら理事長に話してやるわ!!」

「私はあの方から、この学園の実務を任されている。実質この学園の
 最高権力者は私だ。そもそも雲の上にいるほどのあの方と、
 どうやって話をするのだね?
 君の国で例えると、エリザベス陛下の晩餐会に貴族でなく
 一般人が招かれるようなものだ。つまり不可能に近い」

私は忙しいから話はそれまでだと言われ、ミウは部屋を追い出されてしまった。
結局、教師陣に話をしても無駄。ならばどうすればいいのか

エミの予想した通り、とんでもない学校生活になってしまうそうだった。

マルクス・レーニン主義的世界観

第17回   マルクス・レーニン主義的世界観

今日も二年一組に太盛の姿はない。
彼の机の上には嫌がらせなのか、菊の花と花瓶が置かれている。

「こんな小学生みたいなことをしたのは誰!?」

ミウが聞き迫る勢いで怒鳴った。朝一番の出来事である。

ミウはクラスメイト達をにらみ、犯人探しをするが
誰もミウと視線を合わせようとしない。

太盛が収容所行きになってから一週間が経過した。
クラスでは彼はもういないものになりつつあった。
その認識に拍車をかけたのが朝のHRである。

「現在男子のクラス委員の席が空いています。
 私は臨時のクラス委員にマサヤ君を指名しようと思います」

担任の女教師は不自然なしゃべり方をしていた。

「生徒会の人達もマサヤ君を推薦しているそうです。ですから今すぐ
 クラス内投票を行おうと思います。方法は簡単です。マサヤ君を
 支持している人は挙手してください。先生は皆さんを信じていますから
 全員が手を挙げてくれると願っています。ちなみに私もマサヤ君に投票します」

担任の一票も含まれている。清き一票である。

ミウもエリカも臨時の委員はマサヤで異存はない。他の生徒も同様。
生徒会の考えに従わなければ、次は自分が収容所行きに
なるかもしれないのだから、無理もない。

担任はさらに話を続ける。

「今学期から、次の生徒会選挙に向けて新しい校則ができました。
 詳しい内容が書かれた回覧を配りますから、廊下側の席から
 順に回していってください」

密告制度が導入されたのだ。反抗的な生徒を教師や生徒会へ
通報する恐るべきシステムである。通報できる対象は教員まで含まれている。
つまり生徒が教師を密告することも可能なのだ。もちろん男女の区別はない。
中国共産党並みの相互監視社会である。

「みなさんは理解力のある人達ばかりですから、
 異論反論はありませんよね? というかお願いですから
 反対とかしないでください。私も生活がかかってますので」

「先生!!」

ミウが元気に挙手したので教師を驚かせた。
いったい何を言い出すつもりなのかと他の生徒もかたずを飲んで見守った。

「今朝、太盛君の机の上に花瓶と菊の花が置いてありました!!
 これっていじめですよね!? 密告システムがあるなら、
 犯人を捜すために使うべきだと思います!!」

「はいはい。ちょっと待っててくださいね」

女教師は手元のバインダーをぱらぱらとめくり、
一枚の紙に目を通しながら言った。

「えーっとですね。堀君は反逆分子として収容され、更生中の身です。
 彼からあらゆる権利をはく奪するべきだと私は思っています。
 ですから花瓶の件で犯人探しをする必要はありません」

誰の目から見ても彼女の本心でないことは明らかだ。
彼女の言葉はたどたどしく、終始書類から目を離さなかった。

「皆さんもそう思いませんか?」

担任は血走った目でそう言うものだから、
クラス内は凍り付いてしまった。

この無限に続くような沈黙に耐えきれず、リーダー格のマサヤが
「そうだな」と言うと、他の人も力強く頷き、拍手する人まで現れた。
みんなに共通するのは顔が引きつっていることだ。

『北朝鮮じゃねえんだからよ……』

小さなつぶやき。男子の声だったのは間違いない。
拍手喝さいの教室内で担任は聞き逃さなかった。

「今北朝鮮と言ったのは誰ですか?」

拍手はすぐにおさまった。

「今なら先生怒りませんから、早く手を挙げてください」

もちろん挙げる人はいない。

緊張と共に完全に静まり返る教室。彼のつぶやきを聞いていた生徒全員が、
彼の席を向いて視線を浴びせている。その一角は明らかに不自然であり、
その輪の中心に犯人がいるのは疑いようがない。

つまりこの時点で犯人が誰なのかは明らかなのだが、
教師はあくまで自己申告にこだわった。

「先生は、うそつきは嫌いです。今から一分だけあげますから、
 さっき北朝鮮と言った人はすぐに手を挙げてください。
 特定の国を悪く言うのは偏見であり、差別主義者です。
 もし誰も手を上げなかった場合は、クラス全員を生徒会の人達に
 頼んで取り調べしてもらいますからね」

教師はストップウォッチを起動させ、教室内はパニック寸前になった。
あのエリカでさえ青ざめている。マサヤはみんなの視線が田中という男子に
集中していることに気づいている。クラス全員の命を救うためだと思い、
席を立ったのだった。

「発言します!! みんながあいつを見ています!! 田中です!!
 田中が犯人なのは状況からみて間違いないと思います!!」

「他に証人は?」

「はい?」

「通報する場合は、最低でも四人の承認が必要なの。まずあなたが一人。
 他に三人必要よ。他に田中君の罪を立証できる人はいる?
 もちろん口頭で構わないから」

また、教室に重い沈黙が訪れた。
どうやら通報も密告も簡単なことではないようだ。

「あと三人の証人が現れない場合は、証拠不十分の嘘の通報を
 したということになり、マサヤ君は取り調べの対象になります。
 最低一週間は反省室で過ごすことになりますが、それでもよろしいですか?」

教師は再びストップウォッチのスイッチを押し、
教室の緊張をあおるのだった。先生は無理に厳しい口調で言っているだけで、
早く証人が出て事態が鎮静化することを心の中で祈っていた。

ミウは、純粋にマサヤを救うために挙手した。
続けて男子と女子が一人ずつ手を挙げて証人となった。

「田中君のことは生徒会の同士たちに通報しておきました。
 お昼までに処分が下ると思いますから、それまで学校内を出ないように。
 逃げたりしたら、あなたの家族がどうなるかまで先生は責任を負えないわ。
 分かったわね?」

田中は恐怖のあまり泣きながらうなずいた。彼は軽い気持ちで悪態を
ついただけなのだが、すでに言い訳が許されないことを知っていた。

教室の四隅に監視カメラ。自分たちの机の下にも盗聴器が付けられている。
つまり、証人などいなくても初めから田中の発言は録音されているのだ。

(完全に狂ってる……ここは栃木じゃなくてピョンヤンじゃない……。
 なんとかして太盛君を救い出して転校してやる……)

ミウの願いは簡単にかないそうになかった。

生徒会の権力は県警にまでおよぶ。なぜなら生徒会役員に
左翼政治家の子息が多いからだ。彼らが所属するのは現与党に対抗する、
第二党の政党である。マルクス・レーニン主義を是正とし、
革命によって国家転覆を狙う極めて凶暴な集団である。

たとえば学校でいじめがあったとして、市や教育委員会、警察に
通報しても、逆に通報した側が罪に問われるといった具合だ。
司法に訴えても無駄であり、市民には提訴する権利すらなかった。
それほど行政の独裁は強い。およそ民主主義の国で成り立つことが
この学園周辺では通用しないのだった。

生徒達は小さな共産圏での生活を余儀なくされた。

さらに一週間が立った。太盛は依然として
収容所登校が続いている。登下校のタイミングを
一般生徒とずらしているため、ミウとの接点はない。
さらに太盛は携帯を没収されているのだ。

残暑厳しい夏の日。ミウは今日も学校へ足を運んだ。

『10月から生徒会の新執行部が発足します。学校の風紀を改善するために、
 執行部に入る人を幅広く募集します。あなたも一緒に
 生徒会の最前線で働き、人の役に立つ喜びを共有しましょう』

このような腐った内容が書かれたビラを校内でよく見かけるようになった。
学園中の掲示板に貼ってあるのだ。登校中にこんなものを見たら
ますます明日への希望が失われるというもの。

風紀委員とは生徒を取り締まる実行部隊であり、武装することが
許可されるのである。ミウの一年生のファン達も似たようなものである。

ミウが憂鬱な顔で教室の扉を開ける。

またしても信じられないものが目に入った。
太盛の机の上に遺影が飾ってあったのだ。ご丁寧に白黒写真。
しかも落書きで『遺影が言った、いええええええええい!!』と書かれている。

ミウは遺影を壁に投げつけ、激怒した。

「Bloody hell!!
 こんなことして楽しい……!? 誰がやったの!? 絶対許さないわ!!」

お通夜のように静まり返る教室。ミウの怒気はすさまじく、
無実の生徒達は黙るしかなかった。そんな中、バトン部の
女子が手を挙げた。

「クラスメイトの高野さん。発言してもいい?」 

「どうぞ?」

「今朝、朝練に行くときに怪しい男子達を見たわ。あれは一年生だと思う。
 そこに置いてある遺影を手に持って校庭を歩いていたわ。
 犯人はあの子達で間違いないんじゃない?」

「一年生……?」

「心当たりない? 堀君に恨みを持っているような感じの、オタクっぽい子達」

ミウは合点がいった。太盛が死んだとして喜ぶのは、
ミウのファンクラブの過激派集団である。

「あの危険なガキどもか……。
 今から一年生の校舎に行って説教してくる!!」

すると男子女子達がわさわさと扉の前に集まり、
ミウの行く手を阻むのだった。モンゴルの家畜のようである。
その先頭にいるのはマサヤだ。

「高野さん。もうすぐ朝のHRが始まるから落ち着いて待とうじゃないか」

「邪魔しないで。あいつらは説教しないと分からないんだから」

「ファンクラブへの苦情ならリーダーの飯島(二年)に言えばいい」

「二年生と一年生じゃ全然違う組織だから駄目だよ。
 私から直接一年生たちに言わなくちゃ」

マサヤをどかして、無理やり扉を開けようとしたら、今度は女子に止められた。

「もうよしなよ」

その女の子は物語の冒頭で出て来た、ミウの友人ポジションの子だった。
眼鏡をかけたおとなしそうな子だ。

「みうちゃん、太盛君をことで必死になりすぎ。
 そんなに彼のことが大切?」

「私は太盛君の彼女だよ? 私の気持ちが分かってるくせに
 よくそんなことが言えるね」

「あの人は強制収容所送りになったの。 
 二度と帰ってこないかもしれないじゃない」

「太盛君が二度と帰ってこないなんて誰が決めたの?
 勝手に決めつけるの、やめてよ。本気でムカつくから」

「……どっちにしろ。生徒会に嫌われた太盛君に
 人権はないんだよ。彼の机がイタズラされても
 私たちには関係ない。だから他のみんなはイタズラを
 知らないふりをして通すことにしたの。
 みうちゃん。空気読んでよ」

空気が読めない帰国子女。国に帰れば? 
中学時代にバカにされたことを思い出し、ミウの怒りは頂点に達した。
クラスメイトでミウと太盛の味方をする人はいないようだ。
ならばいっそ、全員を蹴り飛ばして廊下に飛び出てしまおうかとすら思えてしまう。

「怒ってるでしょ?」

ミウは無言で肯定した。

「誤解させちゃったらごめんね。私たちはみうちゃんを恨んでるわけ
 じゃないの。波風立てずに生きたい。平凡に学園生活を終わらせたいだけ。
 この学校は名門校だから、学校の規則に逆らわずに生きれば
 良い大学に推薦で行ける。誰だって平和だけを願ってるんだよ。
 みんな、そうだよね!?」

その女子に対し、他の生徒達も賛同の声を上げる。

「そうだそうだ!!」 
「朝からクラスでもめ事を起こしたら正しくない生徒だと思わるぞ!!」
「堀太盛なんて最初からこのクラスにいなかったんだ!!」
「つーか、なんであんな男と付き合ってんの? 意味わかんないし」
「きっと高野さんも堀君とグルで反生徒会の人間なのよ。スパイね」

ミウは圧倒的な数の差を感じて委縮してしまった。
クラス内で不信感を持たれたら、即通報されてしまうのである。
これが相互監視社会の恐ろしさ。
少数派になるのは、粛清される側に回るのと同じである。

そんな騒ぎの中、担任が不快な顔をしてやってきた。
小顔で大学を卒業したばかりのこの美人は、最近ダテ眼鏡をするようになった。
AVに出てくるエロ女教師のようである。名前は横田リエと言う。

「発言許可を願います!!」

「朝から早速ですか。許可しましょうマサヤ君」

「今朝のクラスのもめごとは、つまるところ高野ミウさんの交際問題についてです。
 彼女は学園の不穏分子である堀太盛と交際を続けておりますが、これが
 不適切であるとクラス中から指摘されています。なぜなら彼女は太盛に必要以上に
 動揺し、クラスの結束を乱そうとしています。現に今朝も我々を混乱させました!!」

「分かったわ。彼の意見に賛成な人は席を立ちなさい。
 多数決により簡易裁判を行うことにするわ」

ミウとエリカ以外の全員が一斉に起立した。
統率のすさまじさは新体操のごとく。
あのエリカでさえ呆気に取られていた。

マサヤは太盛の親友だったはずなのに、完全に生徒会に染まってしまっている。
リーダー格の彼が生徒たちを先導し、共産主義的思考に導いていた。
誰よりも太盛のことを気づかってくれた優しい彼が。

「橘さん。お手数おかけして申し訳ないけど、お兄さんに伝えてくれる?
 話し合いの調停のために二年一組に来ていただきたいと」

「Хорошо, док」(わかりました。先生 ※露語)

五分後、ついに生徒会副会長のアキラがやって来た。
学園の最高権力者から感じるプレッシャーはすさまじかった。
歩くだけで一同の視線をかき集め、またその視線を一撃で
吹き飛ばすほどの圧倒的な威圧感があった。

クラス中が恐縮して顔を上げることができない。
担任の横田リエも気の毒なほどおびえ、教室の隅でおとなしくしていた。

アキラは教卓に寄りかかるように両手をつく。

「同士マサヤ。起立しなさい」

「は、はい!!」

「エリカから報告を受けたよ。君はミウさんと太盛君の交際を認めないと
 言ったそうだな。それがクラスの総意であると。間違いないか?」

「間違いありません!! 担任の横田先生が証人になってくれます!!」

「そうか。だが横田君の証言は不要だ」

アキラは老人のように両手を腰の後ろで組みながら
教室内を歩き回った。生徒たちはうつむいて彼と視線が合わないようにしている。
妹のエリカでさえ、彼が近づくとおびえていた。
横田教諭は体育座りをして震えており、教師の威厳はない。
アキラはたっぷり時間をかけてから再び教卓に戻る。

「結論を言おう。二年一組の諸君。
 諸君らの主張していることは、くだらぬ妄言だ!!」

全員が一斉に顔をあげ、お互いの顔を見合わせた。

「なぜならミウさんが太盛君と別れる理由がないからだ。生徒手帳を
 出して読んでみたまえ。男女交際を禁止する校則はどこにも書かれていない。
 例え太盛君が反逆分子だとしても恋愛禁止の理由にはならない」

「ミウさんが彼氏の心配をするのは人として当然の感情だろう。
 彼女には一人の人間として自由に恋愛をする権利がある。
 おまえは彼女の内心の自由を侵した。個人の権利を奪ってしまった。
 違うかね。同士マサヤ?」

「あ……あ……」

「同士。君は誰だ? 誇り高き生徒会役員なのではないのかね?」

「そうです!!  も…もも…申し訳ありませんっ……」

「ボリシェビキは鉄の規則を守るのが使命だったのではないか?」

「その通りでございます!!」

「ならば今日の行いを振り返り、自己批判したまえ!!」

「はぃいぃ!!」

マサヤは直立不動の態勢のまま、震えていた。

「盗聴器を再生して聞いたのだが、ミウさんを追い詰めるためにクラスを
 先導した生徒がいたね。そこの君だよ。ショートカットでメガネをかけた女」

「ふぁ、はいぃぃ!? 私でございますか!?」

「私の目にはミウさんが特別間違ったことをしたようには見えなかったぞ。
 弱いものいじめをするように彼女を追い詰めていたようだな。
 姑息だと自分でも思わなかったかね?」

「思います!! すごく思います!! とんでもないことをしましたぁぁあ!!」

「机の上の花瓶の件は、あとでこちらから犯人を調べておく。
 君たちはその件について一切かかわらなくてよろしい。分かったね?」

「はい!! かしこまりました!!」

「君も今日の行いをよく振り返り、自己批判しなさい!!」

「あわあわ。わ、わヵアりました!! 」

アキラは再び歩き出す。
教室内をなめまわすように回り始めた。

「わが校はイタズラのために密告制度を導入したわけではない。
 生徒に無実の罪をきせようとする大バカ者には、その何倍も重い罪を
 背負わせてやる。今更謝っても手遅れだぞ。
 拷問された時に嘆くがいい。ああ、あの時に
 余計なことを言わなければよかったなと」

生徒達は震えあがってしまった。顔を手で覆って涙を流し始める者もいる。
誰もが発狂しそうなほどの恐怖に襲われ、
会長の靴の裏を舐めてもいいから生き延びたいと思った。

「先ほどの騒ぎでミウ君をスパイ呼ばわりなどして
 彼女の名誉を傷つけた者たちは全員手をあげなさい。
 拒否権はない。すぐに手を上げなかった者は極刑に処す」

すすり泣く女の子たちの声。
絶望して口をぽっかり空けている男子。

一人。また一人と震える手を挙げていく。
先ほどミウにヤジを浴びせた男女だ。
諦めと悔しさの涙が、彼らの顔をつたって床に落ちていく。

(クラスメイトの半分近くは収容所送りになりそうね)

兄がミウを明らかにエコひいきしているのがエリカには不満だった。

先週の先生の発言では太盛から人権がはく奪されたはずだから、マサヤたちの
主張の方が生徒会好みのはずだ。なのに兄がミウと太盛の恋人関係の維持に
こだわるのは、太盛とマリーを少しでも引きはがそうとする意図があるのか。

「お兄様」

「なんだエリカ?」

「今日の采配は、少し厳しすぎると思いますが……」

「なに?」

「あっ……いえ。その……。みんな十分反省しているようですから」

「反省だと? それは私が決めることだ。彼らは心から反省してないよ。
 これから反省させるのだ。人間は痛みを伴わない限り反省はしない
 おまえは兄である私の決定に不服なのか?」

「そんなことは……ありませんけど」

「ならおまえは黙ってなさい」

エリカは、目を伏せた。

小さい頃から兄にだけは逆らったことがなかった。
彼女がこの世界で一番怖いと思っていたのは兄だった。

「高野ミウのこと、エコひいきしてんじゃねえよ。女好きのクソ野郎」

女の声だった。一同が声のした席に注目する。

「今発言したのは君か?」

アキラが、ちょうど教室の真ん中の席の、黒髪ポニーテールの女子生徒と
視線を合わせた。アキラの悪鬼のように迫力に女子は全く屈していない。

「実に不愉快な内容が聞こえたな。
 君は自分が何を言ったか理解しているのかね?」

「黙れ」

女子生徒はなんと椅子を蹴飛ばしてアキラに飛び掛かって来た。
猛獣のような勢いでアキラの胸元をつかみ、背後にある黒板へ叩きつけた。

アキラが反撃するよりも先に右ストレートを繰り出す。
すごい一撃だった。
身長175センチのアキラを窓際の席まで吹き飛ばしてしまったのだ。

さらに追撃しようとしたところ、エリカが止めに入る。
エリカは得意の柔道技で女子の服の裾をつかんで巴投げしようとした。

ところがエリカの伸ばした両手は空を切る。しゃがみこんだ女子生徒から
顎に重い一撃を食らった。アッパーだ。彼女はボクシングの構えから、
エリカにジャブの連打とストレートを食らわした。

エリカは軽い脳しんとうを起こしており、神速で繰り出される
コンビネーションを受ける一方だった。隙だらけのお腹にも
鋭いボディが入り、信じられないことに反撃する余裕が全くない。

すぐに廊下から入ってきた副会長の親衛隊(生徒会執行部)
が入ってきて五人がかりで女子生徒を取り押さえた。
熊のように暴れまわる彼女に手錠をして椅子に座らせた。

「Ладно, брат.!????」(兄さん、大丈夫!?)

「Сестра. Не переживай. Мне не больно.」
    (怪我はしていないから心配するな。エリカ)

アキラは、この女子生徒に直ちに尋問を開始するため、教室の
中央のスペースを空けるように指示した。生徒たちは速やかに
机とイスを廊下に出してしまう。

彼らは窓際と廊下側の半々になるように整列させられ、
クラス全員で尋問の行方を見守ることになった。
その列には当然横田先生も入っている。

彼らの逃亡を阻止するために、生徒会執行部のメンバーが
廊下に召集され、にらみを利かせていた。

アキラは警棒を手にしている。先ほどの反抗で
頬が切れて血が出ているが、気にした様子はない。

「殺せよ!! あたしのことが憎いならひと思いに殺せ!!」

「落ち着きなさい。気持ちはわかるがな」

「あんたらはクズだ!! うちのクラスの人達はあんたらに
 好かれようと必死で頑張ってたんだ!! なんで高野ミウだけ
 優遇されるんだ!!」

「高野さんは心の優しい女子生徒で、誰からも好かれるべき存在だ。
 私は彼女に大いに可能性を感じている。君と同じようにね」

「はぁ?」

「私は君のことを気に入ってるよ。妹のエリカですら手に負えない奴が
 いるとは思わなかった。このクラスはスポーツ特待ではないはずだが、
 あの身のこなしは素晴らしかった。君はどこの部活だね?」

答えたくないので黙っていると、他の生徒を代わりに拷問すると脅された。
人質を取って脅迫するのはボリシェビキの常套手段である。

「……野球部のマネージャーだよ」

「あのボクシングはどこで習った?」

「兄が二人いて、二人とも格闘技が得意なんだ。
 ボクシングは下の兄貴が教えてくれた」

「良い目つきだな」

「あ?」

「今の若者に欠けている気迫を感じるよ。戦いに勝つのに
 必要なのは、敵を倒すための強靭な意思だ。
 君のような素晴らしいマネージャーがいる野球部員がうらやましいな。
 ぜひとも君の名前を教えてもらいたい」

「クズに名乗る名前はないね」

「特別に無礼を許す。名前を名乗れ」

カナは返事の代わりに唾を吐いた。
アキラの頬が、汚い唾液で汚れた。

ちょうどすり切れて血を流している部分だっただけに
彼の感情を逆なでさせるには十分だった。

「ブリイヤァアアアアチ…。
 ダーイチェ、ヴアドゥイ ダバイ えりか!! ダバぁああイ!!」

この舌をたっぷり巻いて低く発音する露語が、周りを恐怖させた。

エリカは廊下へ駆け、水道でハンカチを濡らして戻って来た。
兄の横にしゃがみ、汚れた顔を丁寧にふいていく。
掛け声一つで召使のように動くエリカに、教室中が戦慄した。
普段の女王らしさがみじんも感じられないからだ。

「この女が反抗的な態度をとった連帯責任として
 クラスの誰かに犠牲になってもらう。
 エリカ。クラス名簿を持ってきなさい」

エリカから手渡された名簿を入念に見回すアキラ。
いったい、誰が生贄(いけにえ)になるのか。
クラス中が、かたずを飲んで見守った。

「この女が良いな」

今朝の騒ぎで「なんであんな男と付き合ってんの?」と
発言した女子を特定したのだ。彼女は隣のクラスのギャルメンバーと
仲が良く、太盛の彼女面して目立っているミウを嫌っていた。

「高野ミウ反対派の代表として、貴様がすべての罪を背負いたまえ。
 貴様が犠牲になれば、他の生徒への尋問(拷問)はなしとする。
 いいかね?」

「な……」

いきなり粛清の対象になれと言われても、はいそうですかと
納得できるわけがない。そもそもアキラは返答など期待していなかった。
茶髪のロングヘアーのその生徒は、
イスに両手両足を縛り付けられ、全く抵抗できないようにされた。

アキラは次にミウを指してこう言った。

「彼女を拷問しろ」

「え……」

「彼女は君を陥れようとしたメンバーの一人だ。
 復讐したまえ」

「復讐だなんて……。私は……人を殴ったすらありません。
 それにあの人を恨んでいるわけではありません」

「君の意思はそれほど重要ではない。何事も経験が大切だ。
 暴力は慣れれば日常になる。さあ道具を受け取りたまえ」

渡されたのは、二リットルの水道水の入ったペットボトル。
これを嫌がる彼女の口から無理やり飲ませ、水責めをしろと言うのだ。

「他の人に代わってもらうことはできませんか?」

「好きにしたまえ。不服従の罰として太盛君を拷問するが、
 それでもよければな」

「せ……太盛君に……? 拷問……?」

「よく熱した焼きゴテを、奴の背中に押し付けてやろう。
 ベーコンが焼けたように肉が焦げていく様子が想像できるか?
 奴の絶叫、焦げた肉の匂い、命乞いをし、涙を流す顔。実に素晴らしい。
 もちろん君の立会いのもとで行う。どうだ。楽しみだろう?」

太盛を救うためだ。愛する人のためだ。
そう自分に言い聞かせ、ミウは心を鬼にした。

「ねえ、うそでしょ? 本気でやるつもり……? やめてっ……!!
 お願いっ……やめてよっ!!」

抵抗する女子の口を無理やり開かせ、ペットボトルを押し込んだ。
女子は苦しさから逃れるために暴れ、椅子が後ろに転げ落ちてしまった。

「やり直しだ」

アキラの指示で、近くにいたクラスメイト数名が彼女を押さえつけ、
口を開いたまま動けないようにした。椅子も後ろに傾けた状態を維持し、
水が飲みやすいようにした。ミウは震える手で彼女の口元に
ペットボトルを押し込む。

「うぅ……うぅ……うっぅぅぅ……」

女子は限界まで水を飲まされ、お腹が膨張し。鼻からも水がこぼれている。
プルプルと震え、額に大汗をかいて苦しそうだ。
薄い化粧をした顔は、流れ続ける涙で台無しになっていた。

「次は警棒で彼女のお腹を殴れ」

「はい?」

「二度言わせるな。警棒で奴の腹をつけ」

ミウは目をつぶり『ごめん』と小さく言ってから腕に力を込めた。

「げほほほっ!! げほおおっ!! うえ……ううぅ……うえええええっ!!」

女子は大量の水と一緒に胃の中ものが逆流してしまった。
ぴちゃぴちゃと床に嘔吐物がはね、ミウのスカートに染みを作るのだった。
気のすむまで吐いた後、その女子は顔が青ざめてしばらく震えていた。
やがて震えが収まると、親の仇をみるようにミウをにらんだ。

ミウは、こんな形相でにらんでくる人間を生まれて初めて見た。
彼女の瞳には、ミウに対する底知れない恨みがこもっている。
いま彼女の手錠が外されたら、すぐにミウの首を絞めることだろう。

「同士ミウよ。もう一度水を飲ませろ」

「はい……? もう十分では」

「私は命令したのだよ。先ほどの責めを最初から繰り返しなさい」

ミウは恐怖のあまりその通りにするしかなかった。
水道の蛇口でペットボトルを満タンにして戻ると、
女子はガタガタ震えてミウに許しを請うた。

「もういやなの……本当に死んじゃうくらい苦しいの……。
 お願いします……許してください……お願いします……」

太盛の命がかかっているミウは冷徹だった。
大胆にもこの女子の顎をつかみ、
勢いよくペットボトルを逆さまにしようとした。

この地獄絵図に耐え切れず、観戦中の女子生徒が気絶した。
これですでに五人目だ。クラスメイト達は助けることも出来なければ、
ずっとこれを見続けなければならないのだ。倒れた人には男子も当然いる。

「分かったからもうやめて!!」

叫んだのは、アキラに殴りかかったポニーテールの女子だった。

「あたしが尋問に答えればやめてくれるんでしょ!?
 拷問するならあたしをやれ!! その子にはもう手を出すな!!」

「そうか。ようやく質問に答える気になってくれたか。
 では遠慮なく聞こう。君の名前は?」

「小倉カナ」

「カナさんか。女性らしくて素敵な名前だね」

「……お褒め頂いて光栄ね」

「ではカナさん。現在、我々生徒会は巨大な組織として生まれ変わろうとしている。
 生徒会は頭脳となる中央委員会の他に、実働部隊としての執行部がある。
 執行部は女子が不足していてね。粋がいいメンバーを募集しているところなんだ。
 君には執行部でその優れた戦闘能力を発揮してもらいたい。
 もちろん特別待遇するよ。君の進学先を保障してやってもいい」

あまりにも受け入れがたい内容だった。
執行部は、今ミウとやっているのと全く同じことを
生徒に対して実行する組織だ。
場合によっては先生を拷問する時もある。

罪のない生徒を、全く恨みのない生徒の自由を奪い、
一方的に虐待して服従させる。そんなことをこの平和な
日本で実行しようとする狂った極左。共産主義者たちの仲間に
加わるなら、文字通り死んだほうがましだった。

同じ野球部の人間も何人かが収容所にすでに送られている。
夢も希望もない学園生活。それならいっそ……。カナは最後の手段に出た。

「おい、この女っ、舌を噛んでいるぞ!!」

さすがのアキラも動揺した。エリカも加わって二人で彼女の口に
タオルを噛ませ、それ以上噛めないようにした。
カナは悔し涙を流していた。手錠されているせいで、自殺する自由もない。

このまま自分は執行部という悪の手先に無理やり
編入されてしまうのか。そう思っていたが。

「ここまで強情とは……予想以上だよ。太盛君と同等の存在価値を感じる。
 よろしい。小倉カナは収容所送りにする。この女は三号室行きだ!!」

強制収容所は、全部で三つのランクに分かれている。
太盛が収容されているのは三号室と呼ばれる、もっとも罪の重い者が
送られる場所である。三号室の収容期限は無期限とされている。

その下が二号室。ここがもっとも収容人数が多く、現在までに40名
以上の生徒がいるという。期間はまちまちだが、最大で6か月。

軽犯罪者は一号室に行く。だいたい一か月以内にほとんどの
囚人が更生して出ていくことが許されるから、一番ゆるい収容所だ。

囚人たちは、毎日規則正しく収容所へ登校し、夕方には家に帰される。
収容所では共産主義的な教育が実施され、思想的に問題なさそうと

判断された模範囚であれば刑期を短縮し、クラスに戻される。
解放の前に凄まじい量の宣誓分を執筆し、朗読しなければならないのだが。

『強制収容所三号室』での生活

「今後、一般生徒との接触を禁ずる。携帯電話も没収する」

翌日。カナは三号室の入り口で執行委員に
手錠を外され、部屋にぶち込まれた。

まず驚いたのが、普通の教室と同じ広さのこと。
そしてあまりにも殺風景なこと。
彼女の想像していた拷問器具は見当たらない。

部屋の中央に太盛と、見知らぬ男子の先輩が着席している。
二人はうつむいており、会話はない。
空いた席が一つあるので、そこにカナは腰かけた。

「ちょっと。私たちはここで何をすればいいの?」

その声で死人のように脱力していた太盛がカナのほうを向いた。

「おまえは……同じクラスの小倉か?」

「そーだよ。クラスメイトの顔忘れんなし」

「忘れてたわけじゃないよ。ここにずっといると誰を見ても
 驚かなくなっちまうんだ。ここで人のぬくもりを感じることは
 まったくない。俺から人間らしい感情がどんどん失われていくのが分かるんだ」

朝のHRも時間割もない。友達との雑談もない。
まさしく学校とは呼べない異質な空間であった。

時計が朝の九時を指した。

太盛ともう一人の先輩は床の上で正座を始めた。

「何してるの?」

「反省の意味を込めての正座だよ。朝十時までこの姿勢でいないと
 怒られるんだ。小倉も早く座れよ」

「ただ座っていればいいのね?」

「ああ。だが楽じゃないぞ?」

「体は鍛えてる方だから、多分平気よ」

ちゃっかりと太盛の隣に座り込んだカナ。

太盛は密かに女子から人気があり、彼に近づきたいと
思っている女子はそれなりにいた。カナもきっかけさえあれば
太盛と話がしてみたかったが、今までお邪魔虫のエリカ嬢がいたから
その機会はなかった。

(この教室、ずっと静かだ。誰も入ってこないのね)

監視カメラは天井の四隅に付けられている。これは一般の教室と同じだ。
黒板の代わりに巨大なモニター。両脇にスタンド付きの小型スピーカーがある。

カナは何度も足を崩しそうになったが、頑張って耐えた。
じっとしていて足がしびれる感じは慣れなかった。太盛のように
正座のまま居眠りしてしまえば楽なのだろうが、初日から
そんな無茶はできない。

「十時になったぞ」

太盛は大きな伸びをしてからトイレに行った。収容所では一時間ごとに
休憩時間が設けられている。時間は一般生徒とずらされていた。
ここは職員室の隣なので、太盛は職員用のトイレを使うよう指示されていた。
もちろん教師と会ったとしても会話することは許されない。

「次は何するの?」

「PCで諜報活動の練習だよ」

「ちょうほう、ってなに?」

「スパイ活動のことさ。全校生徒のLINEチェックをするぞ」

生徒会は全ての生徒のスマホ、携帯にスパイウェアを送り込んでおり、
彼らのSNSでのやり取りはリアルタイムで監視できる。
太盛が操作している端末は、そのために用意されていた。

「じゃあ、私が今まで友達とメールしてるのも
 全部見られてたってこと?」

「そういうことだな。生徒会ってすごいよな。全校生徒から教員まで
 全ての学校関係者の個人情報を押さえている。家庭の資産状況から、
 家族で旅行する計画、買い物をするルートまで全部把握できるんだよ」

話についていけなくなっているカナに太盛が一台のノートPCを差し出した。

「これはお前の分だ。新しい囚人が来るって、昨日の夕方に
 連絡があって支給されたんだ。大切にしろよ?」

カナはPCにうといので太盛に一から操作を教えてもらうことにした。
太盛は元クラス委員のためか、説明の仕方がうまい。

「生徒がラインするのはだいたい夜遅い時間だな。
 昨夜のデータ一覧をここで表示して、怪しそうなワードを
 選んで検索にかける。女子はメール好きだからけっこう引っかかるぞ」

「先生も気を付けろ。世間に学校の悪いうわさをばらまいている
 可能性がある。先生たちが怪しい動きを見せていたら
 衛星から監視したほうが良い。先週脱走しようとして捕まった人がいたよ」

「衛星画像を見る時は、ここをクリックして拡大するんだ。
 ターゲットが怪しい動きをしていたら、ここの通報ボタンをクリックしろ」

太盛は初日だからそれほど期待していなかったが、
カナは必死で覚えようとしている。太盛は彼女の熱心さに感心していたが、
マウスを動かす彼女の腕にあざがあるのに気づいた。

「おまえ、ケガしてるのか?」

「ああこれ? 昨日取り押さえられた時に
 バカ力で握られたから、内出血しちゃった」

「痛そうだな。はれてるじゃないか」

「こんなの何もしなくてもすぐ治るって」

「そういうわけにはいかないよ。ちょっと待ってろ」

太盛はロッカーからシップを持ってきてくれた。

「つめたっ」

「すぐ慣れるさ」

「うん。ありがと……」

カナの頬が赤く染まった。教室で制裁場面を見たばかりで
心がすさんでいたこともあり、人の優しさが心に染みる。
前から気になっていた男子に優しくされたものだから、
ますます意識してしまう。

一人で黙々とPCを操作していた先輩は、一瞬だけ太盛達を見た後、
また画面に視線を戻してしまった。

(二人だけで話してると先輩に悪いかな?)
(あの人はおとなしいから何も言ってこない。気にするな)

小声でやり取りする二人。教室に三人しかいないので
コソコソする意味がないのだが。

太盛は間近で彼女を観察した。

カナは日焼けした健康的な肌が特徴である。
長い黒髪を後ろで束ねていて、色っぽいうなじが見えている。
細身で背筋が伸びているから、
実身長の158センチよりずいぶん高く感じさせる。

太盛は彼女と初めて話したようなものだから、
カナが教室で暴れまわるほどの戦闘力を持つことは知らない。
野球部のみんなのために働く熱心なマネージャーだという
噂しか聞いてない。

(俺、久しぶりに女子と話ができてうれしいかも。
 小倉と話す機会って全然なかったもんな)

(いつもエリカお嬢がいつも堀にべったりだったからね。
 そのあとはミウさんか)

(同じ収容所仲間だから、俺のことは太盛でいい)
(じゃあ、あたしのこともカナでいいよ)

奇妙な運命の出会いだった。
収容所内で不思議な関係が生まれようとしていた。
社内恋愛ならぬ、収容所内恋愛である。


午前中の諜報活動により、昨夜、Twitterで生徒会の
悪口を書いていた女子生徒三人を特定した太盛。
太盛はその文面を印刷し、報告書をまとめて生徒会に送った。
三人は一週間以内に呼び出しを食らうことになるだろう。

少しずつではあるが、生徒たちはSNSのやり取りを
監視されていることに気づきつつあったので、
反乱分子を見つけるのが難しくなってきた。

チャイムが鳴る。お昼休みになったのだ。

太盛は自分の机にお弁当箱を広げる。
彼は中等部の時からずっとこの弁当である。
元帝国ホテルのシェフの後藤の手作りである。

だし巻き卵を口に運ぶ。
精神的な消耗が激しい日々を送っているので
料理の味が分からなくなってきた。
口に入れた瞬間に濃厚な味が広がるが、
すぐに何も感じなくなる。

カナも同じようにお弁当を広げていた。
初めての収容所での食事なので彼女も味など分からない。

左からカナ、太盛、先輩の順で横一列に席が並んでいる。
カナは、なかなか食事を始めようとしない先輩が気になった。
彼は缶コーヒーをのんびり飲んでいる。

「先輩はお弁当を忘れたんですか?」

「……いつも食べない」

「えっ」

「……腹、すかないから」

「コーヒーだけで夕方まで持ちます?」

「……大丈夫」

先輩は変わり者だった。背丈は小柄な太盛よりさらに小さい。
不良っぽい外見なのは、ジャニーズみたいな髪型とピアス、
胸元から見える派手な入れ墨のためだ。

話をしてみると声は小さいし、先輩風を吹かせて
威張ることもない。いかにも草食系男子といった感じだ。
中学生並みの童顔でがりがりにやせている。

「私の名前は小倉カナです。二年一組です。先輩は?」

「松本イツキ。三年八組」

「八組は芸術科コースですよね。吹奏楽部とかですか?」

「うん」

「楽器は何をされてたんですか?」

「トロンボーン」

「そうなんですか」

「うん」

これで会話が終わってしまう。

「……松本先輩はどうしてここに収容されたんですか?」

直球過ぎる質問をイツキは嫌った。彼は極度の人見知りなのだ。
めったなことでは初対面の人間に自分の事情を話すことはしない。

「色々あった」

とだけ言い残し、廊下へ出ていってしまった。
缶コーヒーのお代わりを買いに行くという。

(無表情だったけど、怒ってたのかな……?)

カナは気を取り直し、太盛と話すことにした。
太盛はもくもくと箸を運び、修行僧のように食事をしているが、
カナは活発な少女なので黙っているのを嫌う。

「あんたの、お弁当。すごい豪華ね。クラスの評判通りじゃない」

「ああ……」

「太盛。顔暗いよ? 元気出しなさいよ」

「せっかく後藤さんに作ってもらってるのに、日に日に食欲が
 なくなっていくんだ。それが申し訳なくて、余計落ち込んじゃうんだ」

「食べないと余計落ち込んじゃうわよ」

「よかったら少し手伝ってくれ」

「いいの?」

唐揚げ、マグロの竜田揚げなど栄養の有りそうなものを
カナは頂戴した。

「わ……うまっ」

肉の感触が柔らかく、口の中で溶けていくようだった。
さりげなくスパイスも効いていて、
残暑厳しい時期でも食欲をそそる。

太盛の弁当は筒型の容器に収められている、三段式の大容量タイプだ。
それぞれごはん、おかず、スープの段に分かれて入っている。
太盛の机の上は、高級食材を使った豪華な料理が並んでいた。

「このタルタルソースも手作りなんでしょ?
 今まで食べていたのと全然違う」

「うちのシェフが作ってくれてるんだ。元プロだよ」

「あんた、毎日こんなおいしいものを食べていたのね。
 学生の食べる弁当のレベルじゃないわよ。
 収容所にいるの忘れちゃいそうじゃない」

「はは……ありがと。あとでシェフに伝えておくよ。きっと喜ぶ」

「家でもこんなにおいしいのばっかり食べてるの?」

「まあね」

「さすが金持ち。お父さんが会社の経営者なんでしょ?
 いーなー」

「父は普通のサラリーマンだよ。
 それに俺はここでは囚人だから最下層の人間だ」

太盛は適度に保温されているコンソメスープに口をつけた。
暑い時期こそ暖かい飲み物を飲んだほうが健康には良いのだ。
これから秋を迎えればスープは必須になる。

父のことはともかく、後藤の料理の味を褒められて
太盛は久しぶりにうれしい気持ちになった。収容所生活を始めて15日。

太盛の数日遅れで入ってきた松本先輩は、孤独と静寂を愛する男で
話し相手にはならなかった。太盛は彼と一分以上会話が続いたことはない。
その代わり文句も言ってこないので喧嘩にもならない。気楽といえば気楽だった。

松本イツキは昼休みが終わる頃になると戻って来た。

「今日はどこへ行ってたんですか?」 

「……ちょっとその辺を歩いてた」

太盛が聞くと、いつもこのような調子である。
他者との接触を極度に制限されている三号室の人には
自由に歩ける場所などほとんどないはずなのだが。

「中庭を歩いて気分転換している」と松本は言う。

九月は日中の最高気温は30度を超える日が多い。
炎天下の中歩いて気分転換になるのだろうかと太盛は思った。

「カナ。午後は十三時に校庭に集合だぞ」

「十三時?」

「午後の一時って意味だ。
 ここではそういう言い方をするんだよ」

「なんか会社みたいね」

「他には13:00(ヒトサン、マルマル)って言うこともあるけど。
 軍隊用語だな」

「ああ、シ〇ゴジラでそういう言い方してた」

「あの映画、面白いよな。俺的に久々のヒット作だった」

校庭のグラウンド近くに何代ものトラックが並んでいた。
荷台部分の広い軍用トラックである。

二号室のメンバーが太盛達より早く到着していて、
次々にトラックの荷台に乗っていく。
一台のトラックに15名から20名を乗せられる。

二号室のメンバーは思ったよりも数が多く、
全部で50人はいるかと思われた。
彼らは作業服に囚人バッジをつけているから、
それで二号室の収容者と分かるのだ。

彼らを満載したトラック三台が、校門を出発していった。

「あの人たちはどこに行くの?」

「今週は山の週だから、学校から一番近い山のキャンプ場だよ。
 重い荷物を持って山登りをさせられるんだ」

太盛達も作業服に着替え、一台のトラックの荷台に揺られた。
乗車時は手錠され、執行部員が同伴しているので自由はない。
一緒に乗っている松本先輩は、太盛達の会話には加わらず、
飽きもせず外の景色を眺めていた。強い日差しを浴びて汗ばんでいる。

トラックが大きくカーブした山道を登る。
山の中腹の駐車場に着いた。
ここはキャンプと山登りを兼ねた観光地である。

軽食同と休憩場所を兼ねたレストハウス。
屋外のトイレ。自動販売機。

キャンパーたちのために開かれた芝生のキャンプサイト。
そして山登りの人用の山道。ここを登れば頂上まで行ける。
頂上まで行くのに一時間もあれば登れる低山だった。

太盛達に命じられたのは、キャンプサイトにタープを立てることだった。
タープとは、日よけのことである。この暑い時期は密閉性の高い
テントよりも開放的なタープの方が好まれる。

折り畳みのタープをトラックから降ろし、
ペグ(ハンマー)を打って柱を地面に固定。
風に備えてロープを伸ばしてこれもペグで打つ。

これだけの作業でも真昼の炎天下なので汗が止まらない。
支給されたばかりのカナの作業着(囚人服)は汗ばんで大変だった。

そんな感じでタープテントを何台も作った。
ここは生徒会役員の人達のために用意された場所だ。
彼らはここで囚人たちを管理、監視するのが仕事なのだ。

松本が簡易テーブルとイスを運んできて、テントの下に並べていく。
給水用の大型ポットと紙コップを並べ、まるで運動会の来賓席のようだ。

「隊列を組め。行進開始!!」

二号室の囚人達は、一列になって山道を登り始めた。
一クラス分以上の人数なので大行進である。

彼らは16キロもあるザックを背負っていた。
他に帽子、汗ふきタオル、運動靴が支給されている。
足の負担を抑えるために登山靴とトレッキングポールが
欲しいところだが、贅沢が言える立場ではない。

彼らは山の頂上へ行った後、夕方までにここに
戻ってくることを強制される。

九月の中旬。今日の最高気温は31度。湿度75パーセントだった。

16キロのリュックの重さがひざと肩にのしかかり、
倒れないようにバランスをとるだけで大変なレベルだった。
それにむし暑さと渇きが追い打ちをかける。

「なにをしているか、貴様っ!!」

「ぐあっ」

列を乱そうとした者、途中で休憩しようとする者は
容赦なく警棒で殴られる。運動部の生徒ならともかく、
文化部の生徒には辛かった。
今殴られたのは松本と同じ吹奏楽部のクラリネット奏者だった。
暑くてめまいがしたので座り込んでしまったのだ。

「分かった……立ち上がるから殴らないでくれ!!」

クラリネット奏者はふらふらと立ち上がるが、
ザックの重さが負担になり、後ろに倒れてしまう。

そこへ執行部員がさらに追撃をかける。
クラリネット奏者のわき腹を蹴り上げ、
警棒で滅茶苦茶に殴りつける。

クラリネット奏者は恐ろしさのあまり執行部員の
足にしがみつき、土下座のようなポーズを
したが許してもらえなかった。

他の生徒達は見て見ぬふりをして進むしかなかった。
嫌でも彼の悲鳴が耳に入ってきて心がおかしくなりそうだった。
肩に食い込むザック。容赦なく吸い付いてくる蚊の集団。
気力だけで足を前に運んだ。

「おい、そこのデブ。誰が休んでいいと言った?」

「い、いやだ……」

「あ?」

「こんな北朝鮮みたいなの、もういやだあああああ!!」

よく肥えた男子の囚人が脱走を始めた。
彼は横道にそれ、どんどん山道から遠ざかっていく。

「三号室の堀、小倉!! 
 直ちに脱走した囚人を捕まえに行け!!
 もし逃がしたら貴様たちも極刑だ!!」

これが太盛達の仕事だった。太盛達はなぜか山登りは
免除されていて、その代わりテント設営、雑用、監視業務を
手伝うなど、どちらかというと生徒会側の仕事が多かった。

「待てえええ!!」

「だああああああああああああああああ!!」

デブは速い。彼が走っているのは獣道だ。
道なき道にも関わらず勢いが止まることはない。

彼は太盛とカナをまくために、木々の間をぬうように進んでいく。
テレビで熊から逃げために推奨されるあの逃げ方だ。
太盛達は途中で彼の背中を何度も見失いそうになった。

デブにとって致命的だったのは、持久力がなかったことだ。
カナは瞬時にして山の中の走り方を学習してスピードを上げる。
太盛は彼女の俊足ぶりに驚愕した。陸上部並みの運動神経だ。

カナが後ろからデブに襲い掛かる。

「ごふっ」

彼はボディに強力なフックを食らった。
わき腹を押さえなら震え、しゃがみこむ。

「ぐおぉ……力いっぱい殴りやがって……」

前のめりになるデブ。たった一撃だが、
内臓の奥まで浸透するほどの痛みだった。

太盛はデブの足をつかみ、ずるずると引きずった。
開けた場所へデブを案内すると、
逆手に持った警棒をまっすぐ下に降ろした。

デブはよく暴れた。そのせいで肩を狙ったはずの一撃が、
頭部に直撃してしまい、出血した。

「うわあああああああああ!! いたいいいい!!
 頭が割れそうに痛いよおおお!!」

まな板の上に乗せられたウナギのようにじたばたと
地面の上を行ったり来たりする。
凶器が彼の肌をごりごりと削いでしまったのだ。

太盛はサッカーのPKをするように助走をつけ、
彼のお腹を何度も蹴り上げた。
悲鳴。絶叫。激しくせき込み、地面に唾を吐き散らした。

デブは木の根元でうずくまり、警棒で殴られた頭の出血箇所を
タオルで押さえていた。

「ねえ太盛。もうやめようよ」

「まだ足りないよ。こいつはまだしゃべる元気があるじゃないか」

「え……でもこれ以上やったらこいつ死ぬかもしれないよ?」

「脱走者を無事な状態で連れ戻したら怒られるぞ。
 反抗した者には情け容赦は無用だ。徹底的に痛めつけないと、
 俺たちが職務怠慢でスパイ容疑がかけられる」

「そんな…」

「何も考えるな。俺たちは仕事をこなすために
 人間らしい感情を殺さないといけないんだ」

「太盛。私はね……罪のない人を…」

「俺だって最初は同じ気持ちだった。だが考えてみてくれ。
 俺たちは三号室の囚人だ。生徒会の皆さんの言うことに
 従わないと明日も分からない身だ。私情を挟むことは許されない」

「これが、私たちが生きていくためにしないといけないこと……?」

「カナ。すまないが俺と同じ道を歩んでくれ」

初めて男性に抱きしめられたカナは、
心臓のドキドキが止まらなくなった。

太盛はカナの同級生だけど収容所では先輩だった。
彼に着いて行かなければ、何をすればいいのかも分からない。
彼とカナは一蓮托生。そういう運命。

「泣くな。おまえには俺がいる」

「うん……」

だから断れなかった。

太盛は無心でデブに殴りかかった。
カナも後ろからデブを押さえつける。

ゴッ、ゴッ、と鈍い音が響き渡った。

いつまでこの苦痛が続くのか。
折れた歯が宙に舞う。
鈍い痛みが残る右腕はもう折れているかもしれない。
自分がどこかで罪を犯したからこんな目に合うのか。

彼は熱心なキリスト教徒だった。
青空を見上げ、聖母マリア様のことをおもった。

「あぁ……あぁ……あ……。もう、ころせよぉ……」

「これだけ痛めつければ大丈夫だろう。
 こいつを本部(テントサイト)まで運ぶぞ」

デブは巨体を引きずられている間、
太盛のことを恨みのこもった目で見ていた。


舞台が変わって山道である。
登山中の2号室のメンバーは、
一人、また一人と行き倒れになっていた。

後ろを進む人は、倒れた人をまたいで先へ進んだ。
進むペースは先頭の集団に合わせなければならない。
先頭には意図的に体力の優れた者が選ばれていたから、
後続の人は着いて行くので精いっぱいだ。

熱中症や疲労により、多くの生徒が途中で脱落した。
水分補給は一時間に一度と決められていたから、次々に倒れる。

倒れた人はそのまま放置される。
泥と汗で汚れた彼らの身体に追い打ちをかけるのは、山の虫だった。

「殺人ダニ」と呼ばれるマダニ。大型の吸血性のマダニは、
  人を刺して様々なウイルスと細菌を媒介させる。
  国内では感染症で死亡した例がある。

「ブヨ」は、羽音がしない性質のために、気が付いたら刺されている
  場合が多い。ブヨは人間の皮膚をかみちぎり吸血する。
  患部は大きくはれ上がる。

「ハチ」の恐ろしさは今更説明するまでもない。
  この山ではアシナガバチ、スズメバチがメインである。

これらは生命力が極めて高く、長袖長ズボン、首巻きタオル等
で防御しても、衣服のわずかな隙間をぬって侵入する。
服の上からでも平気で刺してくる。

この山は、囚人たちを懲らしめるための
あらゆる条件がそろっていた。

しかしこんな状況でも生き延びる人はいるのである。
地獄の登山は16時まで続行されたが、奇跡にも
最後まで無事だった生徒が四人もいた。

つまり彼ら以外の生徒は全滅したのだ。

「Это здорово!!
 Вы, ребята, быстро!!」
(素晴らしい。お前たちは早くクラスに戻れるぞ)

執行部員に称えられる四名。屈強な肉体をした運動部員たちだ。
4人のうち半分は陸上部員だった。みな脱水症状寸前で
頬がこけており、褒められても何の気休めにもなっていない。

少しで良いから飲み物を分けてくれ。その言葉が喉元まで
出ていたが、下手にわがままを言って虐待されるのを恐れていた。

「ハラショー!! ヤポンスキー!!」(日本人もやるじゃないか)

ロシア系移民が交じる執行部員達が集まってきて、
拍手喝さいを浴びせる。
その中にテントサイトで涼しい思いをしていた、
中央委員会の生徒までやってきて満足そうに笑った。

「Пей быстро!!」

「Ты можешь пить столько,
сколько захочешь!!」

「Я буду чтить поколение моего внука!!」

中央委員会の人達は好んでロシア語を話すので何を言っているのか
四人には分からない。山中に響き渡るほどのすごい声量だ。
長母音と巻き舌が特徴の言語なので歌っているように聞こえた。

露語で四人の英雄たちにたくさんのアクエリアスを
持ってくるように部下に指示をしていたのだ。
彼らの強靭さを孫の代まで称えようとも言っている。

共産主義者たちは反対主義者を抑圧する一方、
ノルマをこなす者には寛大だった。

この四名は二度と生徒会に敵対しないことを誓わされたうえで、
収容所生活からの解放を約束された。通常の授業に戻れるのである。
狂喜乱舞したいほど喜ぶ四名だが、道中で行き倒れている二号室の人達に
悪いので胸の中に気持ちを収めた。

実はただの解放ではなかった。中央委員会の推薦により、
この四人は生徒会に無理やり編入された。来週から彼らは
執行部員として虐待する側に回るのだ。

「この状態で坂道を降りるのはきついっ……」

太盛達にはまだ仕事があった。山のいたるところで倒れている生徒達を
タンカに乗せ、駐車場まで運ばないといけないのだ。駐車場まで
結構な距離がある上に、足元がふらついて転びそうになる。

夕方でも気温がほとんど下がらず、湿度もある。
太盛はカナと二人で組んでタンカ係をした。
前が太盛、後ろ側がカナといった具合である。

カナは慣れないため、太盛は温室育ちのため、すごい重労働だった。

「おいっ!! ゆらすんじゃねえ!! 
 あと少しで落ちるところだったろうが!!」

中には文句を言う生徒もいる。タンカに人を乗せて
坂道を降りるのは非常に困難な作業である。

「てめえらは三号室の囚人のくせに、山登りしねえで
 生徒会のみなさんの手伝いしかしてねえじゃねえか、きたねえぞ!!」

行き倒れてる男の一人が吠える。

それはカナも疑問に思っていることだった。普通に考えれば
三号室の囚人こそもっとも過酷な罰を受けるはずなのに。
太盛は彼らの文句は聞き流してさっさと運ぶことだけを考えた。

「うぅぅ……うごけねえ……頼む。誰か……病院まで運んでくれ……。
  体中が変な虫に刺されて焼けるように痛い……」

「くすり、塗りますか?」

「ああ、頼む……」

松本先輩がしゃがみこみ、筋骨たくましい男に軟膏を塗ってあげていた。
その男はなんと物語の冒頭で登場した世界史の教師だった。

彼は一学年にも世界史を教えている。
一年二組のマリーが可愛かったのでファンクラブから
写真を購入したのが生徒会にばれてしまい、
ただそれだけの理由で二号室行きになった。

くわしい経緯は誰にも知らされていない。


「タンカをここに降ろすぞ? せーの」 「はいっ」

太盛とカナがチームワークを発揮していた。
初対面の時から相性がばっちりだったので、ほぼカップルである。
共産主義的な表現では収容所カップルだ。

駐車場に並べられたタンカの数は、すでに20を超える。
太盛とカナは空になったタンカを手に、また山道を登っていく。
首に巻いたタオルは汗でびっしょりになっていた。
カナの長い髪が肌に張り付いて不快そうだ。

「先輩たち、お疲れ様です!!」

すれ違った一年生の囚人がさわやかに挨拶してきた。
彼は一号室(軽犯罪)の人で、太盛達と同じくタンカ係をしている。
将来有望の野球部員で、守備位置はショート。
五分刈りの頭。精悍な顔つきをしている。

「堀さん。汗すごいっすよ? 最後までもちそうっすか?」

「実はけっこうやばい……。アクエリアスの予備、残ってるか?」

「キンキンに冷えてるのがありますよ。
 昼まで冷凍してたのを持ってきたんで、飲みやすいと思いますよ」

「すまないね。俺みたいな三号室の落ちこぼれにまで
 貴重な飲み物を分けてもらってさ」

「俺たちは囚人仲間っすから、何号室とかは関係ないです。
 一緒に力を合わせて頑張りましょう!!」

太盛は彼の優しさに汗と一緒に涙がこぼれた。
口に含んだアクエリアスのペットボトルをカナにも渡した。

「あっ……? 堀さんの隣にいるのは、もしかしてカナ先輩っすか?」

「あんたはトモハルだよね? カーキ色の作業服来てるから分からなかった」

「うちのマネージャーがなんでこんな山の中にいるんすか!!」

「それはこっちのセリフよ!! 超真面目で文武両道のあんたが
 なんで収容所送りになってんの!! そのバッジは一号室ね?」

「そういうカナさんは三号室……!? あなたほどの聖人がなぜ!?
 うちの部の先輩たちが知ったら嘆き悲しみますよ」

「話すと長いんだけどね、クラスで色々あったのよ」

「俺は……友達が二人こっちに送られて、連帯責任で俺も逮捕されました。
 なんかよく分からないけど、スパイ容疑ってことらしいっす」

「そ、そう……。お互い苦労するわね。でもあんたに会えてうれしいよ」

「俺もっすよ。知り合いが一人でもいると、すげえうれしいんすよね。
 安心するっていうか」

このやり取りでカナが後輩の男子から慕われているのがよく伝わった。
太盛は彼との再会を喜ぶカナの横顔を目に焼き付けた。

マネージャーは簡単な仕事ではない。寮生活をする部員のために
料理の支度はもちろん、用具の準備、手入れ。ユニフォームの洗濯。
およそ雑用はすべてこなす。この学園の野球部は大規模なので
カナの他にマネージャーが二人いた。

最前線で活躍する男たちを裏方で支えるのがカナ達だ。
カナは小学生の時から中学二年まで軟式野球部を続け、
一時は野球から遠ざかったが、やはり野球への情熱を諦めきれなかった。
高校進学と同時に男子達を支える側に回り、精力的に活動した。

奥さん、という言葉がこれほど似合う女子高生はいないだろう。
彼女らは模範的なマネージャーとして雑誌の取材を受けたことがあるほどだ。

カナと会えてうれしいのは後輩だけではない。太盛も同じだった。
太盛はこの日からますますカナのことを気に入ってしまうのだった。

二年一組の昼下がりであった。

「もうすぐC棟に新しい校舎が完成するんだね」

「そ、そうだねミウさん」

「工事の音うるさくて困るよ。ドリルのガガガガって音。
 私すごい苦手。授業中の先生の声聞こえないんだけど」

「全くだね!! はは……!!」

「ねえ。マサヤ君ってさ」

「な、なんだ?」

「さっきから私におびえてない? 話し方が片言なんだけど」

「バカな。俺はこれでも生徒会役員だ。
 一般生徒の君にび……びびってるわけないじゃないか」

ミウは小さく鼻を鳴らし、教室内を見回した。
談笑中の生徒達は、ミウと視線が合うとうつむいてしまう。
実に気まずそうだ。 

マサヤもミウに話しかけられると対応はしてくれるが、
必要以上に距離を取って、顔が引きつっている。
他の生徒はミウの半径三メートル以上に近づいてこない。

「ねえ井上さん」 

「はひ!?」 

「はひって何よ。次の授業はなんだっけ?」

「英語でございます!! 英語の小テストをするそうです!!」

「なんで私に敬語使うの?
 先週までみうちゃんって呼んでたのに」

「ミウ様に敬語を使うのは当然でございますわ!!
 前回大変失礼なことをしてしまいましたから、
 今後はミウ様と呼ばせていただきたいのです!!」

この井上という少女は、前回マサヤと一緒に副会長に
説教された人だ。彼女が物語の一番最初のシーンで登場したことを
述べるのはこれで二度目である(どうでもいい)

彼女はミウを恐れるあまり下僕となってしまった。
他のクラスメイトも似たようなものである。

英語の小テストが始まった。ミウはネイティブなのに
分からない問題があった。隣の人と回答用紙を
交換して答え合わせをする。ミウの隣は男子だった。

不思議なことに返ってきた答案には、ミウが空欄にした
はずの解答欄にしっかり英文が書かれており、
〇が付けられている。ミウは満点だった。

ミウが件の男子を問い詰めようとしたが、
彼が異常におびえていたのでやめることにした。

こうしてミウの機嫌を取りながら過ごすのが
二年一組では普通のことなのだった。

名前はミウさん、もしくはミウ様と呼ばれる。
ミウが下の名前で呼ばれるのを好むことを
誰かがこっそり教えたからだ。

前回ミウに拷問された女子は例の総合病院に入院した。
短時間に強烈なストレスを感じたせいで精神が狂ってしまい、
再起不能の状態である。

ミウは会長のお気に入り。
少しでもミウの怒りを買ってしまったら、自分たちも
彼女の二の舞になるのではないかと、全員が恐怖していた。

さらに前回のクラス会議では、あと一歩間違えれば
クラス全員が収容所行きになるところだった

「本日は以上です。部活などの用のない人は速やかに帰宅しましょう」

帰りのHRが終わった後も異常だった。ミウの邪魔をしないようにと、
ミウが席を立つまで全員が着席したままなのである。
定時帰りをさせない会社のオフィス状態だ。

ミウは学生カバンを肩にかけ、静かな教室をあとにした。
ここまで恐縮されると気持ちのいいものではない。

「あっ…!!」

「え?」

廊下に出たところで、歩いてきた女子の集団とぶつかってしまった。
女子の一人が持っていた紙コップの
コーヒーがこぼれ、ミウにかかってしまった。

「ミ、ミウ様!! 申し訳ありません!!」

以前ミウをからかっていた、隣のクラスのギャルっぽい人だ。
女子集団のリーダー格で太盛の悪口を言っていたのだ。

ミウは黙ってスカートの汚れ具合を確認していた。
ハンカチとティッシュで拭き取ったが、完璧には落ちない。
よく見ると靴下と上履きまで濡れていた。

連帯責任を感じた女子四人が一斉に頭を下げるが、
ミウは不快そうな顔をして黙っていた。
今は彼女らのことより、クリーニングに出す手間と
制服の予備が家のどこにあったかが気になっているのだ。

ギャル達はミウが激怒してるものだと思い、パニックになった。
一人が土下座を始めると、他の人も続いた。
ミウの靴の裏を舐めるほどの勢いである。

「大変申し訳ありませんでした!! 私どもは話をするのに夢中で
 前方不注意でした!! どんな罰でもお受けする覚悟でございます!!」

ボリシェビキは、自らの罪を認めない者には一番厳しい拷問をする。
彼女たちはそれを知っているから素直に謝っているのだ。

「顔を上げてよ」

「は、はいっ!!」

「このくらいの汚れでそこまで謝らなくていいよ。
 制服は家に予備があるし、靴下は新しいの注文すればいいんだから」

「ゆるしていただけるのですか……?」

「うん。別に大したことじゃないもん。
 それより廊下で土下座するのやめてよ。
私が無理やりさせてるみたいに思われちゃう」

女子達は一斉立ち上がり、壁際に整列した。
別に並ぶ必要はないのだが。

ミウは複雑な気持ちで彼女らの横を通り過ぎようとした。
しかし、思い直して『ねえ』と声をかけた。

「昔のこと蒸し返すようで悪いけど、
あなた達、太盛君のこと悪く言っていたよね?」

ミウの顔は険しい。

「太盛君は収容所行きになったから人生終わってるとか、
 私のことは遊びだったとか。好き放題言ってたよね?」

「そ……それは」

「言ってたかって聞いてるんだよ!!」

「はいぃぃぃい!! 言いました!! 確かに言いましたぁぁ!!!」

何の騒ぎかと、一組と二組の生徒達が教室から身を乗り出して
様子をうかがっていた。

「太盛君だって好きで収容所行きになったわけじゃないんだよ?
 彼の家族思いで優しいところとか、何も知らないくせに
 勝手なこと言わないで。私のことを悪く言うのは良いよ。なれてるから」

「でもね。彼のこと悪く言うのは許せない。たとえ相手が誰だろうと許せない。
 収容所行きになったから人生終わってる? 明日は我が身だよ。
 あなた達は、自分は収容所行きにならないとでも思ってるの?」

「とんでもありませんっ」

「次から私の彼の悪口を言ったら許さないから。
 分かった?」

「はひいい!!」

「本当に分かった!?」

「はい!! ミウさまああ!!」

「じゃあ他の人達にも伝えておいてね?
 私はこれで帰るから」

「かしこまりました!! お疲れさまでした!!」

ミウは自分が本当に辛かった時に嫌がらせをしてきた
彼女たちにちょっとした仕返しをしたのだ。自分に変な権力が
ついてしまったので利用したまでのこと。

周りからは嫌な女だと思われるかもしれないが、
太盛の名誉が守られるのならこれでよかった。

双子の兄妹 革命記念日

橘家の屋敷は、ロシア貴族の館を模倣した豪華なものだった。
祖父の代から続く、カフカース系ソビエト人の家系である。

屋敷の離れに古びた書斎があった。
部屋は文字通り本棚に包囲されているといってもいい。
日本語、英語、ロシア語、アラビア語で書かれた文献が並ぶ。
ほとんどが政治経済の専門書である。

日中なのに仕切られたカーテン。
外部との接触を避けるため、電話は置いていない。
お洒落な照明が温かみのある空間を演出している。

物思いにふけるのにぴったりな、プライベート空間。
この部屋の主は生徒会副会長であるアキラであった。

「アキラ兄さん。入るわよ?」

ターシャだ。彼女はアキラの双子の妹。当然年齢差はないので
アキラを呼び捨てにしてもいいのだが、幼いころから
兄、妹の関係で育てられたため、兄と呼んでいた。

「話は分かっているよターシャ。エリカのことで相談に来たのだろう?」

「……相変わらず、すごい洞察力ね。話し始める前から分かっちゃうの?」

「双子だからかな。お前の考えていることはだいたい分かる。まあ座れ」

アキラはもう一つの席を用意した。この部屋は一人用なので
本来なら一つしかイスがないのだが、来客者のために
もう用意していた別の椅子がある。

それはアキラが昨年のターシャの誕生日プレゼントに買ったイスだ。
欧州の一流ブランドが作った椅子で、それなりの値段がした。

「彼が収容されてからエリカは変わってしまったわ。
 ストレスでずっと不眠に悩まされているの。
 ささいなことで使用人に八つ当たりしてみんなを困らせているわ」

「ふ。そんなに太盛君に会いたいのか。エリカは乙女だな」

「兄さんは男の人だから分からないかもしれないけど、
 エリカにとって本当に辛いことなのよ?
 お父様も彼との婚約の話に興味を持っていたじゃない」

「エリカは彼に振られたんじゃないのか?
 私は高野ミウと太盛君の関係を公式に認めたばかりだぞ」

「それでもエリカは奪い返そうと必死なのよ。
 太盛君も若いから、いつかミウさんに飽きるかもしれないでしょ。
 少しでいいの。エリカと彼を会わせてあげることはできないの?」

「囚人は一般生徒との関わりを禁じている。そういうルールだ」

「せめて休みの日くらい……」

「彼らは、休日は自主的な謹慎生活を続けているよ? 
 よほどのことがない限り友達と会ったりしないだろう」

ターシャが哀しそうに顔を伏せた。
この仕草は妹のエリカにそっくりだった。

「前の会長は……ここまでしなかったわ」

「また奴の話か。聞き飽きたぞ」

ターシャが言っているのは現会長のことである。
彼がしばらく物語に登場していなかったのは、アキラに粛清されたからだ。
彼は社会的に抹殺され、表向きには転校したことになっている。
つまり現在の実質的な会長は、アキラなのである。

「ターシャ。奴の考えは甘かった。奴は社会主義的思想を学内に
 広める意図はなく、ただイタズラに生徒を虐待するのみ。
 あれでは子供と変わらん。マルクス・レーニン主義を名乗る堕落者だ」

完全なる共産主義とは、成熟した資本主義国がのちに
社会主義を経てから成るものだとされている。

計画経済の下、すべての労働者が国営企業で働くため、
解雇はなく、給料の変動もない。ただノルマをこなして働いていればいいのだ。
つまり、資本主義社会であるような、
景気変動による生活への不安が存在しないのだ。

第一次世界恐慌の時に先進各国で大量の失業者
(米国はなんと失業率25%)が出たが、
ソビエトは影響を受けずに工業化を進めた。

究極の社会保障が実施されるため、国のあらゆる
サービスが無料で受けられる。たとえば治療にかかる
費用は全額国負担であり、入院費すら無料。子供の学費も全て無料。

そんな社会を夢想したのがソビエト社会主義共和国連邦だった。
ソビエトは高度な資本主義国への発達を待たずに急ピッチで
改革を進めた軍事強国だった。かの国はすでに崩壊した。

ソ連は強力な一党独裁政権と、強制収容所なしには成り立たない国家だった。
収容所の生産は、最盛期でGDPの一割に達したとまでいわれている。

しつこいようだが、今も日本に向けて200基以上のミサイルを
向けている朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮のこと)は、
ソ連の手先(金日成)が作り出した国家である。
今この瞬間も日本国はソビエトの子孫におびえているのだ。

「奴はボリシェビキとして甘かった。理事長の息子だから
 コネで会長職に選ばれていたにすぎん。正しい社会とは、
 一部の優れた天才によって管理運営されるものなのだよ」

「……その話はこっちこそ聞き飽きたわ。
 学校の囚人は触える一方よ。
 これ以上増えたら収容しきれないでしょ」

「そのためにC棟に鉄条網付きの広大な収容所を作るのだろうが」

「いくらなんでも数が多すぎるわ。この前の登山訓練で25人が
 粛清(病院送り)されたけど、次の週に倍の数の生徒が逮捕されているわ。
 この調子だとうちの学校から生徒がいなくなっちゃうわよ?」

「わが校の生徒総数はざっと2400名。
 生徒など吐いて捨てるほどいる」

「市内の病院から苦情が来てるけど、学校の権力で押さえつけるのも限界よ。
 だって毎週のようにうちの生徒が運び込まれてるのよ? しかも
 そのうちの大半が精神病。いっそ学内に病院を作ったらどうかしら」

「ふむ。病院を作るのは面白い発想ではある」

「本当? なら保健室を拡充して
 軽症の生徒はうちで治療できるようにしましょう」

「ふふふ。おまえもずいぶんと変わったじゃないか」

「……なにがよ?」

「エリカと組んで斎藤マリーの拷問を手伝った時の冷酷さはどこへ消えた?
 おまえは生徒など畑で取れる大根より価値がないと言っていたじゃないか」

「斎藤さんの件は……ごめん。兄さんがあの子のファンだったなんて知らなかった」

「俺も誰にも話していなかったからな。彼女を殺さなかっただけましだ。
 その件はいい。おまえは太盛君と関わるようになってから
 ずいぶんと俗ボケしてるようだな。夏の別荘で何かあったのか?
 おまえにボリシェビキとしての自覚が足らないようなら、
 きつめの教育が必要かな?」

彼女と親しかった会長は、アキラの派閥が
生徒会内で多数派となった時点で逮捕され、粛清された。

それは死んだというわけではなく、二度と社会復帰できないように
拷問したのだ。会長は発狂の末、廃人となってしまったのだ。
表向きにはニュージーランドに長期留学したことになっている。

「……ごめんなさいアキラ兄さん。私はエリカのことが心配で
 少し弱気になったいただけなの。私はいつだって誇り高き
 ボリシェビキでいるつもりよ。お父様にも誓ったんだから」

「嘘ではないのだろうな?」

「もちろんよ」

「ならいい。話は以上だ」

結局、ターシャの直談判は無駄に終わった。
石頭のアキラに何を言っても無駄なのは初めから分かっていたから
それほど落ち込んではいない。
ターシャは腰を上げ、扉に手をかけた。

「アナスタシア。待て」

「なに?」

「もうすぐ待ちに待った革命記念日だ」

「生徒会総選挙をやる予定の日ね」

革命記念日とはボリシェビキにとって最大の祝い行事である。

ロシア革命が起きた日のことだ。史上初の社会主義国が誕生したのである。
グレゴリオ暦では『11月7日』のことであった
(当時のロシアはユリウス暦を採用していたので10月革命と呼んでいた)

「日程の都合で革命期根日には間に合わない。
 選挙日は11月23日に決定した」

「そう」

「選挙の開票結果の発表と同時にパーティをする。
 その日だけ特別に囚人を解放してやってもいい。
 もちろん三号室の人間もだ」

「エリカを彼に合わせてくれるってこと?」

「たった一日だけだが、それでもよければな」

これをエリカが知れば、どれだけ喜ぶことだろう。

「兄さん。ありがとう」

「気にするな。可愛いおまえのためだから願いを聞いてやったのだ」

そう言って双子の妹の髪を撫でた。ウェーブのかかった長い茶髪である。
北アジア人の血が入っていているので日本人の髪より毛先が細い。

ターシャは、彼に触れられると生理的嫌悪で顔が引きつってしまう。
本当は指一本触れてほしくなかった。

「いつ見てもきれいな髪だ」

アキラはターシャのことを特別可愛がっていた。
この書斎は、アキラが許した人以外入ることは許されない。
エリカは許可されていないので、彼女の代わりにターシャが相談に来た次第だ。

ターシャも常人離れした冷酷さを持ったボリシェビキだが、
兄のアキラはそれとはまた次元の違うサディストだった。
ターシャは、はっきりいってアキラのやり方にはついていけなかった。
学園全体を巻き込んでの大規模な革命を前会長は望んでいなかった。

彼らは生徒会室という小さな箱の中で遊んでいただけの、
残酷であるが無邪気な集団だった。そこに政治的な意図はない。

前会長派の人間は革命裁判によって全員逮捕され、一掃された。
その中で唯一生き残ったのがターシャだ。
ターシャは前会長に洗脳されていたためと
アキラが彼女の無罪を主張し、それが裁判で有効になった。

命を救われたのは事実。
だからターシャは何があってもアキラに逆らうことはできなかった。

「バッカじゃないの。何が革命記念日だ」

ミウは自宅(マンション)のダイニングにいた。
テーブルに肘をつきながら、ビラを見ていた。

『11月23日は生徒会総選挙の日です。そして記念すべき
 ロシア革命が起きた革命記念日でもあります。
 (史実では11月7日)
 生徒のみなさんは選挙に参加しましょう。
 事情があって欠席する人は
 自宅からネット投票することも可能です』

ミウは複数のビラをまとめてファイリングしておいた。
生徒達は、帰宅前に校舎前のポストから所定のビラを
受け取って帰らないといけない決まりになっている。
ビラを粗末に扱った者は逮捕される。

ビラの下部に立候補者五名(二年生)の顔写真が乗っている。
誰に投票しても結果が同じなことは、エリカから教えてもらった。

なぜなら立候補者は副会長派の人間で占められており、
二年生と世代交代したところで、裏で操るのは三年のアキラなのだ。

二枚目のビラを見る。

『選挙に参加しない人は、反革命容疑者とみなされますので
 ご注意ください。健全なるわが校の生徒には、そのような
 人がいないことを願っています』

つまり強制参加なのである。
これを読んだ他の生徒達は震えあがっていることだろう。
ミウは拷問まで経験して度胸がついたので何も驚かなくなっていた。

次のビラである。

『学園の設備を向上させるために、空き教室を利用した
 保健室の数を増設し、生徒の健全な学園生活をサポートさせます。
 また、教会の礼拝堂も一般生徒のために解放され、
 保健室として利用します』

すでに粛清(病院送り)された生徒の数は200を超えていて、
その分空き教室ができていた。そして物理学や生物学など
代えの効かない先生も粛清されてしまったので、
授業が行えない科目もあった。その場合は強制的に自習である。

『わが校は読書を推奨します。図書館に新書を続々取り入れています。
 最低一日一時間は本と共に過ごすことにしましょう。自習時間は
 教室を出て図書館で積極的に本を借りましょう』

図書室にマルクスやエンゲルスなど社会主義学者の著書が多数並べられている。
歴史のコーナーにはロシア史が多数並び、英会話の本より
ロシア語、中国語、韓国語(朝鮮語)会話のほうが多かった。
ミウはロシア語など死んでも話したくなかった。

ビラは他にもある。
.
『偉大なる同士たちの軌跡』

と書かれた偉人紹介コーナーである。
ほぼ全員ソ連人であった。

今日は四度目のヨシフ・スターリンの記事だ。彼は書記局で幹部だったころ、
一日十二時間も精力的に働き、家に帰ってからマルクスの本を
三時間読んでから寝ていたという。
勤勉さこそボリシェビキの第一歩だと書かれている。

格言
『愛とか友情などというものは長続きないが、恐怖は長続きする』
『死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は存在しない』
『赤軍に捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである』
『たった一人の死は悲劇だが、100万人の死は統計にすぎない』
『投票する者は何も決定できない。投票を集計する者が全てを決めるのだ』


「ハイ、Miu. do you want any わっふるs?」

キッチンにいるママから声がかかった。

「うん。お願い」

ミウは急いでビラをカバンの中に隠してしまう。
こんなものを親に見せるわけにはいかない。
生徒会関係のことは身内に秘密にする決まりになっている。

ミウのママが焼きたてのワッフルを持ってきてくれた。
熱々のワッフルの上にホイップクリームと
薄切りのバナナがたくさん乗っている。
その上にチョコクリームがたっぷりまぶしてある。

おやつにしては栄養を取りすぎるくらいだ。
ダイエット中だから我慢しなくてはならない。
分かってはいてもミウのお腹が鳴る。

ミウの家はロンドン暮らしが長かったため、
古風な英国貴族式の食生活に慣れてしまった。
現在夕方の四時半過ぎだが、だいたいこのくらいの時間に
ティータイムを取り、夕飯は八時ごろにさっと食べて終わりにする。

「最近表情暗くない?
 また女子に嫌がらせでもされたのぉ?」

「嫌がらせはないよ。今は私の方が強いくらい。
 みんな私にビビってるんだから」

「ほんとにー?」

「本当よっ」

外はサクサク。中はフワフワなワッフルの感触がたまらない。
たっぷり盛られたクリームがミウの唇についてしまう。

「ママはロンドンにいる時にアメリカの悪口ばっか言ってたじゃん。
 なんで今日はアメリカンワッフルを作ったの」

「ベーキングパウダーから作るアメリカンのほうが作りやすいからよ。
 今日は急にワッフルを食べたい気分になったの」

「お菓子よく作ってくれるからつい食べちゃうけど、
 太っちゃうじゃない」

「ミウはまだまだスリムよ。若いんだから遠慮しなくていいのに」

「私ばかりじゃなくてパパにも美味しいもの食べてほしいな。
 パパ、忙しくてご飯も食べる暇ないんだから」

「あの人はまた出張が決まったわ」

「え? 次は何週間?」

「二ヵ月ですって」

順調に出世街道を歩んだ旦那が良く稼いでくれるから、
妻は気楽な専業主婦である。

父の仕事は証券アナリスト。分かりやすく言うと日本株の専門家である。
日本最大レベルの激務にランクされるが、
その対価として凄まじく高給である。
しかも成果の出ない人はすぐに首を切られる厳しい世界である。

ミウが学生なのに株主優待券を山ほど持っているのはこのためだ。

パパには優待券が持ってもが使う暇がない。
家族と電話する時間もない。
娘と連絡が取れるのは月に一度くらいだ。

余談だが、現在アベノミクスで株価が上昇中なので
投資家たちは大いに盛り上がっている。

「もうすぐ中間配当がもらえるわね」

「あっ、もう九月末か。C社の株の権利確定日なんだよね」

「そんなに多い額じゃないけど、
 ミウちゃんにお小遣い上げるね?」

「お金はいいよ。特に欲しいものもないし。
 今後のためにとっておけば?」

妻は夫の仕事先(東京)で暮らすのを嫌がったため、栃木の田舎に住んだ。
都会暮らしはロンドンの時に飽きてしまったのだ。

「ネット通販で必要な物がなんでもそろうから便利な時代ね。
 それに日本のサービスは質が高いのよ。
 わざわざ都会に住む必要はないわ」とママは言う。

この地域は災害がほとんどなく、住みやすかった。
安全な高級マンションでの娘との二人暮らしは優雅の一言に尽きる。
ある外国人は言った。裕福な家庭の日本の専業主婦は、世界一の勝ち組である。

夫が稼ぐ一方で、妻はお金のやりくりが非常に上手だった。
夫と妻で別々の証券口座を持っていて、
専業主婦でもこっちの稼ぎがあった。
しかもお堅いクリスチャンなので質素な
生活を好むから、出費はほとんどない。

ママは家でお菓子作りをするか、株の動向を分析するのが趣味だった。
その影響でミウも金融に詳しくなった。
高野家の財政は、ミウが一生ニートに
なっても問題ないくらいには余裕があった。

「そういえば」

ママはが紅茶のカップを上品に持ちながら言った。

「太盛君って子はいつ連れてくるのよ?
 ママはいつでも大歓迎よ。
 美味しいケーキと紅茶を出してあげるのにな」

「太盛君は……今はダメなの」

「どうしてー? 彼と喧嘩でもしたのぉ?」

「まあ、そんなとこかな……」

ボリュームのある茶髪のショートカットに眼鏡をかけた温厚そうな女性。
ママはいかにも大切に育てられたお嬢様がそのまま母親になった感じだ。

常に笑顔で、娘と友達のように話すこの母に、どうして
強制収容所の話ができようか。これはミウだけでなく、他の生徒達も
学校関係の話は極力秘密にしなければらないのだ。

「太盛君の写真見てみたいな♪ 
 童顔で可愛い顔してるんでしょ?」
 ミウのスマホで撮ってないの?」

「ちょっと待ってね」

と言いながら、太盛と一回も写真を撮ってないことに気づいた。

「エリカが持ってると思うから、明日もらってくるよ」

「エリカってミウの友達? 
 それならよろしくね♪ 楽しみにしてるわ」

友達なわけがないが、その言葉も口にはできない。
ミウはエリカを殺したいほど憎みながら
この世界に戻って来たのだ。

ミウは紅茶を一気に飲み干した。ベルガモットの香りが心を落ち着かせる。
このまったりした空間にいると、
制限なしに食べて太ってしまいそうで怖かった。
そろそろ本格的にダイエットを始めたほうが良いかと考える。

「Here I am. do you like another one?」
(やあ。ワッフルのお代わり食べる?)

またママが出来たてのワッフルをオーブンから持ってきた。
その美味しそうな匂いにまた我慢できなくなる。

「Yes.please. you can make me fat. Mom」
(うんお願い。もう太ってもいいや)

能天気なママと話してると、全てが馬鹿らしく
なってしまうから不思議だった。


九月が終わり、十月の第一週になった。衣替えの時期である。
まだ日中は十分に暑いので学生たちは任意で冬服に
変えていいことになっている。生徒の95パーセントは夏服のままだった。

「誰か太盛君の写真持ってる人いない?」

ミウが休み時間に声をかけて回ったが、誰も持っていなかった。
クラスメイトらはミウが話しかけるだけで恐怖した。
ミウを怖がって隣のクラスまで逃げている人もいる。

ミウの恐ろしい評判は全校に知れ渡っているほどだった。

「ミウ様。太盛様の写真でしたらエリカ嬢がお持ちかと思います……」

女子の一人が控えめに言った。

「やっぱりあいつに頼まないとだめか。
 それよりあなた達、太盛君にも様付けするんだね。
 どうせ心の中では彼のこと見下してるくせに」

「とんでもありませんわ!! 私達一組一同は
 太盛様の帰還を心待ちにしております!!
 太盛様は、ミウ様の大切な彼氏様でありますから!!」

「あっそ。軍隊みたいにでかい声で話さなくていいから。
 ちょっとうるさい」

「申し訳ありません……」

「そういうのいいから、普通にして。どうしてみんな
 私を女王様みたいに扱うんだろうね?」

「あはは……。ほんとですね……」

ミウは仕方なく、エリカとその取り巻きのいる席へ向かった。
取り巻きの女子達は、ミウが近づいてくるとパニックを起こして
散ってしまった。まだ何もしてないのに、ひどいおびえようである。

「ねえエリカ」

「な、なによ?」

呼び捨てにされても言い返すこともせず、たじたじになるエリカ。
兄のお気に入りのミウが目の前にいる。彼女を怒らせでもしたら、
あとで兄に何を言われるか分からない。

ちなみにエリカを呼び捨てに出来るのは、
橘ファミリー以外でミウと太盛だけである。

「太盛君の写真持ってるよね? 少しわけてくれない?
 お金なら払うからさ」

エリカは沈黙した。他の生徒達も沈黙した。
実は進学コースに太盛の隠れファンが潜んでいて、
裏で彼の写真が流通しているほどだった。

もちろんミウやマリーの写真も高値で取引されている。
この学校はエリート校だからか、表立って恋愛するよりも
ファンクラブを作るのを好む傾向にあった。

「彼の写真は……私の宝物よ」

「そうなんだ。たくさん持ってるんでしょ? 少しちょうだい?」

いくらエリカを憎んでいるとはいえ、
あまりにも高圧的な態度だった。
それでは強奪するのと何ら変わらない。

ミウは修羅場を潜り抜けたせいか、
女王キャラがいたについてしまっている。

「だめよ。写真はうちに隠してあるの。私はあれがないと夜眠れないのよ」

「さみしいんだ?」

「あなただって……私と同じ気持ちでしょ?」

「うん。だから写真欲しいの」

「嫌よ」

「ふーん……」

ミウが低い声で言い、目を細めた。
空気が一気に重くなる。

エリカは生まれて初めて同級生に恐怖した。
他の生徒らも二人のやり取りを夢中で見ている。

「さて。二時間目の授業を始めま……」

タイミング悪く次の授業の先生が入ってきてしまった。
凍り付いているクラスを見て、先生も固まってしまった。

「先生。ちょっと待っててもらえます?
 今大事な話をしていますから」

「はいっ」

中年の女教師は敬礼した。これが力の差なのである。

「ミウさん。先生が困ってるわよ? 早く席に戻ったら?」

「前から言いたかったんだけど、エリカは夏休みに
 太盛君を拉致して別荘生活してたね」

「……ええ。それがなにか?」

「人の彼氏に手を出してくれてありがとうね?
 おかげで退院日に彼が来てくれなかったから
 マリーは泣いてたよ。ショックだったろうね。
 そういえばマリーを拷問したのもエリカだったね?」

「昔の話よ」

「つい最近だよ。私、けっこう根に持つタイプだから、
 中学時代に私をバカにした女子のことまで覚えてるんだよね」

「それなら私を拷問でもする?
 いいわ。そんなに私のことが憎いならお兄様に頼みなさいよ」

「そんなことはしないよ。私はあなたのお兄さんの部下じゃないから。
 みんな勘違いしてるよね? 私はね、あなたに謝ってほしいの」

「謝る?」

「人の彼氏を横取りしたことを謝って。
 私は泥棒猫でした、ごめんなさいって。
 みんなの前ではっきり言って」

(太盛君は私の彼氏……横取りしたのはあなたの方……)

昔のエリカならミウに怒鳴り散らしているところだ。
確かに世間的にはエリカは太盛の彼女のはずだった。
エリカからすれば奪ったのはミウのなのである。

つまりこの時点で双方の見解は一致しない。

「これはいじめよ?
 ミウさんは権力を悪用して弱い者いじめをしているだけよ。 
 この前、廊下で隣のクラスのギャルに土下座させてたわね。
 あなたは人を服従させるのが好きなサディストよ。ナチの手先だわ」

「ナチ? あれは向こうが勝手に土下座したんだよ。
 なんでみんな悪いほうにばっかり取るかなぁ。
 ならあなたとも土下座する? 今ここで」

「く……」

エリカは援護してくれる可能性のある男子クラス委員のマサヤを見る。
マサヤはミウのことを訴えて逆に収容所送りにされかかった過去がある。
助けるわけがなかった。

この教室に味方はない。一か月待っても愛する人が帰ってこなくて
ストレスが溜まっているのはエリカも同じ。
一方的に喧嘩を売られている状況に我慢できなくなり、
恐怖より怒りが勝った。

「Я слишком горячий…」

「は? 声が小さくて何言ってるか分からない。
 今ロシア語で話したでしょ? 日本語しゃべってくれる? 
 ここ日本だからさ」

「あんたに言われたくないわ!! 感情的になると
 すぐあのきったない英語を話す癖に!!」

「ロシア語みたいな醜い巻き舌の音よりましだよ。
 英語は国際言語なんだからロシア語より地位は上だよね?」

「なんですって!!」

エリカは激昂した。祖父から受け継いだ大切な言語を
否定されてカンに障ったのだ。

「あなたは今はっきりと差別的発言をしたわ!! 
 反ボリシェビキ的な発想よ!! お兄様に訴えてやる!!」

「好きにすれば? そんなつまらないことで呼び出されたら
 またお兄さんが怒ると思うけど」

「自分だけが被害者扱いしないでほしいものだわ!! 私だって辛いのは同じよ!! 
 あなたこそ人の男を横から奪って独占しておいてよく言うわね!!
 私のお父様が認めてくれれば彼と婚約する予定だったのに!!」

「嫌がってる人と婚約しても意味ないよ。
 太盛君がエリカといると疲れるって私に話してくれたよ?」

「そんなことないわ!! 太盛君はどこに行くのも私と一緒だったわ!!
 私は同じクラス委員で、同じ部活で、毎日楽しく過ごしてた!!
 あなたがシャリシャリ出て来る前まではね!! 前からあなたのことは
 気に入らなかったのよ!! あなたの英語も不愉快だわ!! 
 一年の時から帰国子女を気取ってばっかみたい!!」

「そんなに気に入らなないなら、
 クラスのみんなの意見を聞いてみようよ」

ミウが堂々と壇上に立った。その顔はボリシェビキそのものである。

「これからクラス投票を始めます。太盛君の彼女にふさわしいのは
 私かエリカか。どっちだと思いますか? 手を挙げてください」

クラスは大いに動揺した。
隣や後ろの席の人達と相談を初め、ざわざわする教室。

一番最初に手を挙げたのは、先生だった。

「私はミウさんがふさわしいと思っています!!
 なぜなら、誰から見てもミウさんと太盛様はお似合いだからです!!」

暗に他の生徒達も賛同するように求めていた。
重要なのはアキラ副会長殿がミウと太盛の交際を認めていたことだ。
エリカに勝ち目などなかった。

「ミウ様。万歳!! ディア、ミウ!! アワ・プリンセス!!」

とある女子(井上)が拍手を始めると、これを機に他の人も手を鳴らした。
彼女はミウの恋愛はどうでもよかったが、
早く茶番をやめて授業を始めてほしかった。

「ブラボー!! 同士諸君。井上に続いて我々もミウさんを称えよう!!
 そして一日も早く太盛君が帰ってくることを願おうじゃないか!!」

オペラ歌手のように両手をおおきく広げたマサヤ委員が、クラスを先導する。
クラス内は拍手喝采に包まれるのであった。
その熱狂は人気歌手のコンサート並みである。

生徒達は口々にミウを褒めちぎった。ミウこそ一組の代表にふさわしいと
いう話になり、ついにミウを女子のクラス委員に任命する声が上がる。

『ミウ様!!』『ミウ様!!』『ミウ様!!』 あふれんばかりのミウコール。

壇上から生徒らを見下ろすのはたまらなく楽しかった。
その優越感は、言葉では表現できないほどだ。

「じゃあ、なっちゃおうかな」

ミウがエリカの襟元から、クラス委員を示す『バッチ』を奪ってしまった。
クラス委員は、生徒会の信任を得て任命される決まりである。
彼らはクラスの代表であると同時に、生徒会に所属することになるのだ。

マサヤが声を張り上げる。

「新しいリーダーの誕生だ!! 
 さあ諸君、今日から女子のクラス委員は誰だね!?」

『YES. She is!!!』『YES. She is!!!』『YES. She is!!!』

生徒達は立ち上がって盛大な拍手でそれを迎えた。
このクラスでの地位がはっきりと逆転してしまったのだ。

ミウは勝ち誇った目で、エリカを見下していた。

前回の世界から溜まったうっぷん、そして(エリカにも指摘されたが)
一か月に及んで太盛と会えなかった、話せなかったストレスをエリカに
ぶつけていたのだ。ミウは素直だが、短気な少女だった。
そんな少女が権力を手にしまったものだから、物事が悪い方向へ進むのだ。

ミウは自分の前に座るようエリカに指示し、エリカはその通りにした。
土下座こそしてないが、ミウに服従する格好になっている。
エリカは悔しさのあまり涙を流した。

「そこのあなた」

「くぇー?」

極限状態のため、思わずニワトリのような
声を出したのは、エリカのお付きの女子だ。

「次にふざけた鳴き声をしたら怒るから。
 私が真面目に話してるの分かってる?」

「すみませんっ!!」

「スマホ持ってるよね? エリカの泣いてる顔写真にとって」

「え……ええっと……エリカ様のを……ですか……?」

「いや?」

「いやなんてことは……」

「なら早くして」

「はいっ!!」

お付きの女子は、エリカの泣き顔を容赦なく写真に収めた。
ミウの指示により、その写真を全校生徒に拡散させる。

彼女はスマホをいじりながらエリカに何度も頭を下げた。

「エリカ様……申し訳ありません……」

「あたのせいじゃないわ。あなたは命令されてやっただけ。
 あなたのことを決して恨んだりしないから安心して」

ミウはようやく満足し、教師に授業を再開させるよう指示した。
ぎこちないロボットのような足取りで教卓に向かう科学の教師。

「ちょっと待てよ!! 俺は納得したわけじゃねえぞ!!」

とある男子生徒の野太い声。

「高野ミウ!! 俺はてめえみてえな奴が許せねえんだ!!」

彼は何を思ったか、とつぜん席を立ち、その場で演説を始めた。
 
「なんでみんな何も言わねえんだよ!? このクラスで本心から
 高野を認めてる奴なんているわけねえだろ!! 
 みんな拷問されるのが怖くて手を叩いているだけなんだよ!! 
 高野。てめえは勘違いしてんじゃねえぞ!!」

彼は陸上部でハンマー投げの選手だ。さすがのガタイで声量も素晴らしい。
現に廊下から隣のクラスまで余裕で響いていた。

「みんなも考えてみてくれ!! 同い年の女にびびって
 顔色をうかがいながら生活するのが楽しいか!?
 なんであんな奴に様をつけて呼ばないといけないんだ!?
 奴がクラス委員になったら、ますます恐怖政治が進んでしまうぞ!!」

「誰か俺に賛成の奴はいねえか!?
 あんな女、たいしたことねえよ!!
 生徒会が介入してくる前にぶっ殺しちまおうぜ!!」

しばらく待ったが、彼に味方してくれる人間は最後まで現れなかった。
彼は少数派に回ってしまったのである。
彼の思想に共感したいのはクラスの総意であったが、
強大な権力を持つミウに逆らうのは自殺行為であった。

「柿原くん、あなたのことを生徒会に通報しました」

そう発言したのは、なんと先生だった。
ちなみに男子の名前は柿原という。

その五分後、やってきたのは生徒会の人間ではなく、
ミウの親衛隊であった。数は若干六名しかない。

「柿原君」

ミウが取り押さえられた柿原に言う。

「私のファンクラブはね、私が怖くてほとんどの人が
 辞めちゃったみたい。ここにいる六人は最後まで私に付き従ってくれた人なの。
 私が太盛君の彼女だってこと知っていても私に着いて来てくれる優しい人たち」

「そいつは驚きだ。てめえみたいなクズにもファンがいるんだな…ぐおぅ」

無礼な口の利き方をした柿原に親衛隊がみぞおちに重い拳を叩きこんだ。
柿原は床の上にぐったりと倒れた。
一時的に呼吸ができない地獄の苦しみに耐え、冷や汗をかいている。

「私もこの学園で生き延びるのに必死なの。だから生徒会に頼んで
 私の親衛隊を作ることを正式に許可してもらった。私のことを
 嫌ってもいい。でも私を怒らせないで。さっきエリカと話してたのは
 私の彼氏に関することだからすごく重要なの」

「おまえの恋愛を優先するために……橘がひどい目にあっても見過ごせって
 いのうかよ……。堀は橘の彼氏だったんだろうが……」

「それは違うよ」

ミウの声に怒りがこもった。

「太盛君はエリカにしつこく付きまとわれて迷惑してたんだよ?
 私にはっきり話してくれたもん。エリカは認めたがらないだろうけど。
 付き合うって本人たちが決めたわけじゃないし、太盛君は
 エリカからの告白を何度も断ってるんだよ?」

ミウがエリカの方を見る。エリカは気まずそうに視線をそらした。
反論の余地がなかったからだ。

「高野……。おまえはどうしてこんな奴になっちまったんだ?
 おまえは、おとなしくて、クラスで目立たない奴だった。
 人を傷つけるような奴じゃなかったはずだ!!」

「私は好きでこんなことしてるわけじゃないよ。
 でも、こんなご時世だからしょうがないの。
 そろそろ話を終わりにしないと授業が終わっちゃうよ?」

ミウは、柿原を連行するよう指示した。

「俺を……拷問するのか?」

「するわけないじゃん。私が拷問好きに見える?
 一応けじめとして頭は下げてもらうけど。できるよね?」

柿原は教卓の前に立たされ、ミウに謝罪することになった。
彼の握った拳は、怒りで震えていた。

この学校でミウを恨んでいる人は売るほどいる。
ミウも人から恨まれるのは覚悟のうえであったが。
学校でのミウの姿をママが知ったら気絶するほどの
ショックを受けることだろう。ミウは自己嫌悪する時は多々ある。

親衛隊の件は、夏休み中から飯島と連絡を取って護衛部隊を
作るよう要請していた。それが紆余曲折を経て、現在の
少数の武装戦闘集団に至ったのである。ミウは抜かりないので
アキラに護衛部隊を申請したら快諾されたのだった。

共産主義なんてくだらない。革命記念日なんてばからしい。
そう思っていたはずのミウが、確実に生徒会に感化されているのだ。
ミウは太盛を救う方法を考えるため、毎日配布されるビラを
よく読んでいたから、無意識のうちに思想的影響を受けていたのだ。

今日の出来事は、名誉あるクラスとして
のちに生徒会から称賛されることになる。
生徒会中央委員会では、ミウを幹部として迎え入れる案まで出ていた。

ミウはボリシェビキの美男子に恋をした

ミウは生徒会から呼び出しを食らった。
彼女が足を運んだのは生徒会本部である。

学内の敷地にひっそりと残された旧校舎。一見地味な外見とは裏腹に
コンクリートで強化され、爆撃や砲撃にも耐えられるようになっていた。

夏休み前にC棟が簡単に爆破されてしまった経験から、
使われなくなった校舎を改修したのだ。

「一度あなたとお話ししたいと思っていました。
 僕の名前は高倉ナツキ。クラスは二年二組。
 ミウさんの隣のクラスです。一応クラス委員もやっています」

愛想よく笑う美男子だった。
高くてよく通る声。学生離れした事務的な口調だ。
いかにもインテリらしい理知的な瞳が印象的である。

生徒会に所属しているから心は腐っているのだろうが、
ミウは彼の容姿に思わず見とれそうになってしまった。

「雨の中お越しいただいてありがとうございます。
 どうぞ、そちらの席におかけください。お飲み物を用意します。
 アイスコーヒーでよろしいですか?」

「甘いもの飲みたい気分なので、ココアありますか?」

「分かりました。少しお待ちください」

彼が席を立つと、部屋の隅で立っていた別の女子に止められる。

「私が行きますわ」「え?でもいつも君に任せてたら悪いよ」
「気にしないでくださいな。私は好きでやっているのですから」

ミウは、その女を見た瞬間にロシア人だと分かってしまった。
ギョロっとした目つき。西洋白人とは違い、東アジア風の
目鼻立ちが目立つ。そして身長は日本女子よりも大きく、
170センチは優に超えているかと思われた。

「どうぞ」

ミウは恐縮して頭を下げた。
女が去ると香水の匂いが残った。

「今お茶出ししたのは、ナジェージダです。
 三年で、僕と同じ中央委員に属しています。
 僕とは一年の頃からの付き合いなので友達みたいなものですよ」

ナジェージダはにっこり笑う。日本風にお辞儀はしなかった。
ミウは、彼女の美貌がカンに障った。エリカのせいで
ロシア人を見るだけで不快だった。

「あの、早く要件を言ってくれませんか?
 私のクラスでは現国の授業が始まってるんですけど。
 終わったらすぐに戻りたいと思っていますので」

「あ、授業なら出なくても出席扱いにするから心配しないでください。
 中央委員会に所属する人は、授業が全面的に免除されますから」

ナツキは、ナジェージダについでもらった日本茶に口をつける。

「茶を飲むと心が落ち着きますよねぇ。
 ミウさんの育ったお国は紅茶の文化が盛んですよね。
 あっちでもよくお茶は飲まれましたか?」

「まあそれなりに」

「僕も仕事で疲れた時は良く飲むんですよ。
 座り仕事してると肩こりますからねえ。
 適度に運動や体操を行わないとこの年から
 腰痛になっちゃいそうで怖いですよ。あはは。
 ココアのお味はどうですか?」

「どこでも売ってそうなヴァンホーテンだけど、
 久しぶりに飲んだから美味しいわ」

「喜んで頂けたなら幸いです。それにしても今日は
 久しぶりの雨ですね。昨夜から降り続いているようですが、
 今日の日中には止むと言われてますね。ジメジメしますよねぇ。
 蒸し暑かったらアコンの温度下げましょうか?」

ミウは、この男が世間話から入ってミウを
生徒会に取り入ろうとしている意図を読み取った。
彼女はクラスで支配的な地位にいても生徒会にまで
入るつもりはなかったので、英語で返事をした。

「So. What is the point?」

「まあまあ。そうあせあらず、ゆっくりお話ししましょうよ。
 まだ朝の九時半です。今日一日たっぷりここで過ごしていただいて
 けっこうですよ。ミウさんもいきなり勧誘の話をされたら
 面白くないと思いますし」

「This is a room of Central Committee of Student Council?」

「そうですよ。ここは生徒会・中央委員会の部屋です。
 中央委員会の人以外は立ち入り禁止です」

「Give me a reason, Why your people want me in your communist party?」

「あなたを欲しいと思った理由は、あなたのクラスでの強い
 リーダーシップを拝見させていただいたからです。
 あなたは美しくて目立つうえに、影響力が強い。
 うちのクラスの女子に土下座させてましたよね」

「It was not my fault. I did nothing. biches liked to do that themselves」

「あははっ。もちろん分かってますよ。ただ彼女らは進んで土下座した。
 それが重要なんです。あの件はかなり有名でしてね。無論我々
 生徒会の中枢まで情報は届いてますよ。会長…あっ、今は
 アキラさんのことを会長と呼ぶのですが、会長も喜んでましたよ」

「あなた、英語が理解できるの?」

「僕はインターナショナルスクール出身ですから。
 父の仕事の都合で三歳の時からカイロ(エジプト)の
 ブリティッシュ・スクールに通っていました。
 あっちの先生はイングランド人とオーストラリア人でしたから、
 ミウさんのアクセントを聞くと懐かしくなりますね」

「ふぅん。うちの学校にも本場の英語が分かる人がいるのね」

「僕もいわゆる帰国子女でして、他の言語も使えますよ。
 ドイツ語とロシア語が話せます。あとアラビア語は少しだけ」

「ドイツ語もペラペラなの?」

「Ich kann mit Leuten aus Deutschland sprechen.
 Ich hatte einen Freund, der Österreich war.
 Ägypten mit mine Klasse」

「は……?」

「ドイツ人と話すのに支障ない程度と言いました。
 ちなみに友達の影響です。僕が覚えたのは
 オーストリア訛りなのでドイツ標準語とは
 ちょっと違う発音なんですけど」

「……すごいわね。数か国語が自在に使える人って
 日本じゃまずいないと思うよ?」

「お褒め頂いて光栄です。外国語が話せても
 日本で役に立ったことがないんですけどね。
 だって身近に話せる人がいないじゃないですか」

「確かに」

「会話はこのまま日本語でよろしいですか?」

「日本語でいいわよ。私たちは日本人だからね。
 お代わりに紅茶もらえる? 砂糖はいらないわ」

「はい。ただいまお持ちいたします」

ナツキは、ナジェージダを制して自分で淹れに行った。
ミウはこの殺風景な事務室を何気なく眺めていた。
職員室をそのまま小さくした感じだ。
生徒会本部というから、もっと派手な建物を想像していた。

「外国の文化で育ったミウさんなら、ボリシェビキの
 考えに共感してくださると思っていたのですが」

「私は日本人の両親に育てられたから、他のみんなとそんなに変わらないよ。
 言語と習慣が違うだけでしょ。あなた達の勧めてくる本は
 小難しくて読んでて疲れる。共産党宣言とか、本当は経済学部の学生が
 読むべき本だと思うよ。経済学の知識がないと読めないもの」

「おっしゃる通りです。ですがとっても大切なことが書かれているんです」

「私じゃなくて他の人を勧誘しなよ。
 私が生徒会に入ったら特権でもあるの?」

「たくさんあります。まずミウさんに所属していただきたいのは、
 中央委員会です。我々は執行部、諜報部などを管轄する頭脳となります。
 様するにデスクワークですから、僕らが危険な目に合うことはありませんよ」

「他の生徒に襲われるかもしれないってこと?」
 私は個人的な護衛を持ってるけど」

「僕らは囚人たちを管理する側の人間です。
 我々組織委員会は、会社で例えると総務的な仕事をしていますが、
 いちおう囚人たちの健康状態の管理も行っていますよ。
 囚人と話すことも可能です」

「それって……三号室の人も含まれる?」

「はい」

ミウは、太盛に会える可能性があるだけで胸が躍った。
生徒会の思惑通りだとしても、うれしさを抑えきれない。

「お恥ずかしい話なのですが、増え続ける囚人に対して
 我々管理する側の人間が不足している状況なんです。
 諜報部や執行部は、模範囚や一般生徒を使役してなんとか数を
 間に合わせていますが、我々中央委員はそうではありません。
 その辺の生徒を勧誘しておいそれと頼むわけにはいきませんからね」

「私は選ばれた人材ってことね?」

「左様です」

変わった男だが品がある。
ミウは能面の男を思い出してしまう。
少し早口だけど温和な口調が、どことなく彼に似ているのだ。

「ミウさん、どうか我々に力を貸してください。
 ミウさんに組織委員の一人になってほしいのです。
 組織委員会は僕が委員長で部下はたくさんいます。
 一応ミウさんには僕が直接指導させていただきまして、 
 慣れてから実務をしていただこうと思っております」

「……具体的にどんな仕事をすればいいの?
 拷問するのは嫌だよ?」

「拷問は執行部の人にお任せしますから、僕らが
 直接かかわることはありませんよ。希望があれば
 特等席で観戦することは可能ですけどね。
 僕はあまり頭が良くないので、
 人事や雑用などを幅広く行っています。
 ミウさんにはそのお手伝いをお願いしたいのです」

「私が望んでることはただ一つだよ」

「はい。強制収容所三号室の太盛君に合法的に会うことができますよ。
 ただし、看守と囚人の立場にはなってしまいますが、
 今も彼が元気で暮らしている様子を見ることができますよ」

「太盛君に……会える?」

彼の言葉は魔法のような響きを持っていた。
ミウにとって理由も立場も重要ではない。
なぜなら、一か月も顔を見れなかった恋人に再開できるのだ。

ミウはあふれる期待を抑えることができなかった。

「こちらが契約書です」

差し出された契約書に署名してしまった。
ほとんど無意識だった。捺印はしなくていいというので、
これで契約は完了した。

「今日からよろしくお願い増します。僕の呼び名はナツキでいいですよ。
 あっ、忘れそうでした。中央委員のバッジをお渡しします。
 バッジには絶対権力の証である中央委員会のマークが入っています。
 無くさないでくださいね」

「分かったわ。大切にする」

「ハラショー!!」 「ありがとうございます。そして、おめでとうございます!!」

ナジェージダとナツキが拍手で歓迎した。
小さな事務室で新たな仲間が生まれたことを彼らは心より喜んでいた。

ミウは、エリカより高い地位についたことを喜んだ。
前回は使用人の立場でエリカに逆らうことは許されなかったのだが、
完全に地位が逆転した。いよいよ教師すら超える公的な地位を手に入れたのだ。
優越感のあまり、つい笑みがこぼれてしまうのも仕方ないことだった。



ミウはついに中央委員と呼ばれるエリート(閣僚)に任命された。
その日から周囲のミウに対する反応は、もはや恐慌を含んだものへと変化した。
今までかなり悪かったのがさらに悪化したのだ。

『ひぃっ……』『おい、早く道を空けろ。ミウ様がお通りだ!!』
『うわああっ、押すなよ!!』『そんなことより早くお辞儀するぞ!!』
『絶対彼女を見たらだめよ。目を合わせたら殺されるわ!!』

ミウが廊下を歩くとこの有様だった。江戸時代の平民が大名行列に
ひれ伏すかのごとくである。ミウが通る場所は両サイドに生徒達が散り、
腰を曲げて頭を下げる。現代的には開店時間の
イオンモールのような光景と例えた方が分かりやすいか。

ミウは彼らに何も話すことなく、静かに通り過ぎていく。
ミウは中央委員会に入ってから、仕事中に眼鏡をするようになった。
安いチェーン店で買ったダテ眼鏡だ。実は密かにナツキを
意識して彼とお揃いのを買った。

「よく似合っていますよ? 眼鏡一つですごく印象が変わるものだ。
 今までと違ったミウさんの姿を知ることができました。
 あなたはいつ見ても素敵な女性だ」

隣を歩くナツキである。彼は歯の浮いたセリフをよく口にした。
平凡な男子が言ったら女子に蹴飛ばされそうなセリフも、
容姿端麗な彼が言うと様になるのだ。

「もう。ナツキ君は口がうまいのね」

「素直に思ったことを口にしているだけですよ。
 僕も外国暮らしが長いので日本人特有の奥ゆかしい文化は
 理解できませんから、素敵な女性のことは、はっきりと
 褒めておこうかと思っておりまして」

「日本だとチャラいって言われない?」

「いいえ。僕がこんなことを口にするのは、あなたの前だけですから」

さわやかな笑み。ミウは彼が本気なのか冗談なのか
見分けがつかなくなってしまう。だが彼の隣にいるとなぜか安心してしまう。
要するに嫌いではなかった。実は初対面の時から彼のことが気になて仕方ない。

「生徒会の皆さん、お疲れまです!!」

「はい。お疲れ様。今日も真面目に勉学に励んでくださいね」

挨拶する生徒に返事をするナツキ。腕を後ろで組んで温和な笑みを浮かべている。
そんな彼の姿は実年齢以上の落ち着きと貫禄を感じさせた。

ここは一学年の校舎であるA棟である。ミウとナツキは肩を並べて歩いていると
よく目立つ。生徒達から陰で夫婦とまで呼ばれているほどお似合いだった。
ミウが中央委員会に所属してまだ五日しか立っていないが、
ナツキの口が達者なこともあり、ミウを実にうまく組織に溶け込ませていた。

「今まで座学が続いたので退屈だったでしょう? 
 今日は実務をやってみましょう」

「実務? てっきり一年の教室の見回りかと思った」

「それもありますが、目的地は図書館です。
 書物の検閲をするのも我々組織委員の仕事です」

A等の三階奥に図書館がある学園の財力を駆使した近代的図書館である。
窓際は全面ガラス張りで日光が程よく差し込み、学園の広大な
庭園を見渡せる位置にある。太盛はこの図書館で読書するのを好んだ。

「Доброе утро. Политический комитет!!」
(委員殿。おはようございます)

「おはよう。今日はミウさんがご一緒だから露語はひかえなさい。
 これより定期検閲を実施する。しばらく席を空けてくれるかな?」

「ダー!! コミっサール!!」(はっ、委員殿)

「やれやれ。ひかえろと言ったのに……」

図書委委員に対して呆れながら言うナツキ。

眼鏡をかけなおす動作に品がある。彼は仕事中のみ眼鏡をした。
彼はメガネをすると三割増しでイケメンであり、
どうみても真面目な優等生にしか見えない。
ミウが眼鏡を買ったのはこれに憧れたためだ。

ナツキの柔和な笑みは異性を虜にする魅力があり、
中央委員でありながら一般女子からも支持されるほどだった。

「さて。検閲について説明しますね」

図書館内にいる生徒は彼とミウのみ。
扉の外で、先ほどの屈強な図書委員が待機している。
背丈が185センチを超える巨漢のベラルーシ人(旧ソ連)である。

ナツキはPCで図書の貸し出しデータを開いた。

「これ、全部貸し出し中の本のリスト?」

軽く見積もって五百冊以上貸し出し中である。
膨大な数の生徒がこの図書館から本を借りていることになる。

「近代史を良く学んでおかないと社会主義を理解できませんからね。
 歴史、経済、政治、軍事など幅広い視野から生徒達を教育するために
 アキラ会長が読書を推奨したためです」

「借りてる本が専門書ばかりね。いくらエリート校でも高校生で
 理解できる人いるのかな?
 マルクス、エンゲルス、ケインズ、モンテスキュー、ルソー……。
 こっちは、ウラジーミル・イリイチ・レーニン? あのソ連の最高権力者だね」

「ちなみに99%の生徒は一回読んだだけでは理解できません。
 二回読んでも、ほとんど分かりません」

「へ?」

「それらの本は歴史の偉人が書いた人類の英知です。
 地球文明を発達させるための試行錯誤の結晶です。
 しかも翻訳本。大学生でも一度で理解できる人はいないでしょう」

「じゃあ分かるまで読むとか?」

「ご名答。学習の基本は繰り返して覚えることです。内容が難解なら
 毎日少しずつ理解するしかない。読書を繰り返すことが一番大切なのです。
 ユダヤ教徒が聖書を暗唱できるまで、音読して覚えるのと同じようにね」

「ちょっと洗脳に近いけど、これだけ徹底していれば
 本当に共産主義に目覚める人がいるかもね」

「自発的に執行部に入ってくれる人もいますよ。
 アキラ会長の提案した思想教育は確実に成果があがっています」

「会長は暴力だけの人って思ってたけど、
 ちゃんと考えていたんだね」

「会長は本当に聡明な方ですよ。
 僕のような凡人では到底及びません」

一覧データから、貸し出し期限の延滞がないことを確認する。

生徒達は粛清を恐れてか、きっちり期日以内に返却していた。
この膨大な数の本に対して違反者ゼロは奇跡に近い。
ミウがそのことを口にすると、

「統制が取れているのは素晴らしいことですよ」

と言ってナツキは笑った。ミウは彼の笑顔にまた胸がときめいてしまった。

ナツキは、今度は別の画面を開いた。

入荷予定の本に反社会主義的なものがないか
確認するのも組織委員の仕事だ。

「基本的にこの図書館は反社会主義的とみなされる書物は
 置いていません。過去に存在した分は抹消しました」

「どんな本が反社会主義的なの?」

「ソビエトの理念を否定する関係のものですね。
 たとえば歴史の本で、ソ連が崩壊した理由をだらだらと書いてるもの、
 カンボジアのポルポト、中国の毛沢東の批判。逆に日本帝国主義を
 擁護する、新解釈の右翼本などですね」

「日本帝国を擁護?」

「日本はアメリカとソ連の陰謀によって仕方なく戦争に巻き込まれた。
 だからあれは侵略戦争ではなかったと」

「日本は中国を侵略してハワイを空襲した悪の帝国なんでしょ?
 日本はドイツとイタリアと組んで世界支配を
 企んでいたって教わったんだけど。私が英国の学校にいる時にね」

「それであってますよ。日本帝国は明確に地球人類の敵でした。
 シベリアの先にいる日本陸軍の主力部隊は、常に同士スターリンを
 おびえさせていました。それほど日本は強大だったのです」

ナツキは巨大な書庫へ足を運び、AからFまでの棚を順に見ていく。
ミウも彼の後ろに続いた。

「資本主義のシステムをよく理解しておかなければ
 社会主義のことは分かりません。ですからこの図書館では 
 例えばアダムスミスの国富論は20冊以上取り寄せています」

「ほんとだ。同じ名前の本がこんなに並んでる。
 たくさんの人が借りる時に便利だけど、
 その代わり本の種類が少なくなっちゃうね」

「少なくていいのですよ。この世には読む価値のない本が多すぎる。
 特にこの国は戦後、GHQ主導の左翼教育のせいですっかり骨抜きに
 されてしまった。誤った教育のもとで腐った人間が育っていく。
 この流れを止めたいと会長は思っているのです」

「それで腐った人間が粛清されてもなんとも思わないってことか」

数学、物理、化学、生物学、医学などは特に充実している。
ソ連は、米国との宇宙開発の過程で理系の分野で
スペシャリストを要した歴史があるのだ。

「日本の法律は特に腐っていますね。日本国憲法はGHQが作った奴隷契約。
 民法、刑法も生ぬるい。民主主義国家の限界なのでしょう。
 会長が最も嫌っているのは政党議会ですね。小党乱立を招いた議会が
 日本の最大の汚点であり、改善しなければならないことです」

「ごめん。政治のことは全然分からない。てか興味ないんだ」

語学のコーナーは、英語だけで偏った世界観を是正するため、
UE諸国、アラビア語、中国語など各国の言語が並んでいる。
一番多いのはロシア語だ。ロシア語会話、文法書は売るほど揃えてあった。

「翻訳本を理解する究極の方法をご存知ですか?
 それは原語で読むことです」

「ロシア語の本はロシア語で読むってこと?
 確かに書いた人の意見がそのまま分かれば手っ取り早いね」

「左様。翻訳の場合、翻訳者特有の息遣いやニュアンスが入ってしまう。
 映画の字幕を見てるとそう思いません?」

「うん。よく私が翻訳したほうがましだなって思うもん。
 女性と男性でも翻訳の仕方違うよね。
 でもこんなに難しい本を原語で読むのって大変じゃない?」

「明治の日本の軍人や政治家は、当時まだ翻訳されていない書物を
 欧州から取り寄せ、自分で辞書を引きながら解読していったそうです。
 そのペースだと一冊読むのに一年は普通にかかります。
 しかし読み終わる頃にはかなりの理解力がついている。
 本来の外国語の学習とはこういうものなのです」

「昔の人ってそんなに頭良かったんだ。苦労しすぎ……」

「ソ連のモスクワ大学外国語学部の訓練をご存知ですか?
 敵対国の言語は訛りを含めて完璧になるまで覚えます。
 言語は反復と記憶力が基本です。彼らの記憶力は、
 一度聞いた潜入先の外国の住所を10秒で丸暗記するほどです」

「ソ連人もすごいね……。そんなすごいの参考にならないよ」

「不真面目な者ではボリシェビキは務まらないということです。
 さて。そろそろお昼ですね。本当は実在庫とPCの理論在庫を
 照らし合わせて在庫管理をする予定だったのですが、
 それはまた今度にしましょう」

「あ、こんなに時間が経ってたんだ」

ミウは高価な腕時計を見ながら言った。
今時の学生はスマホを持つので腕時計は流行らない。
生徒会では腕時計をつけることを奨励されていた。

「ミウさんはご自分の教室で食べますか?
 よろしければ委員会の部屋が空いておりますが。
 ミウさんのお好きな方でどうぞ」

「そんな気取った言い方して。
 本当は私と一緒に食べたいんでしょ?」

「ばれましたか?」

「お昼休みは難しい話をしないならいいよ」

「ご安心を。僕は美しい女性との
 食事を純粋に楽しみたいだけです」

この数日間で綺麗とか、美しいという言葉を何度聞いたことか。
生徒達に恐れられることに慣れていたミウは、簡単に彼の魔法に
かかってしまった。本当はもっと褒めてほしかった。
彼の甘い言葉を聞くと、ふわふわした気持ちになってしまうからだ。



「ナージャ。すまないが席を外してくれ」

面談した時の中央委員会の部屋である。
厳密には組織委員である、ナツキが管理する部屋だ。

ナジェージダは、ナツキに特別扱いされているミウを不愉快そうに
見てから部屋を出ていった。ナジェージダは初対面の時と違い、
ミウに対する態度が日に日に悪くなっていた。

(嫉妬してるのかな?)

女同士だから何となく理由は分かった。だがミウは彼女のことなど
重要ではなかった。今はナツキと一緒にいたくて仕方ない。
ナツキはまたミウと二人きりの状況を作ってくれたのだ。

「飲み物は何が良いですか?」

ナツキは、職務上の後輩にあたるミウのために気を利かせた。
ミウが座る時にイスを引いてくれるし、
階段を降りる時にわざわざ手を差し伸べてくれる。

ミウが髪型を変えたり、小さなオシャレをしたら必ず褒めてくれる。
彼はボリシェビキだが、間違いなく紳士だった。
矛盾しているかもしれない。
そんな彼だからか、どこまでも魅力的に見えてしまうのだった。

「ねえナツキ君。敬語使うと、よそよそしく感じない?
 同い年だし、普通に話そうよ」

「君がそう言ってくれるなら、そうしよう。ミウ」

名前を呼ばれただけで、ドキッとしてしまった。
本当に彼の声は素敵だった。

「君が生徒会に入ってくれて本当に助かっている。ありがとう」

「またそんなこと言って。お世辞でしょ?」

「僕は嘘を言わない主義だ。
 できるなら、君にずっとここにいてほしい」

彼は大胆にも、テーブルの上のミウの手を握った。
真剣な瞳でまっすぐ見つめられると、
ミウは真っ赤になって何も言えなくなってしまう。

認めたくないが、彼に恋をしてしまっていた。
これではマリーに夢中だった太盛のことを責められない。
そう自嘲しながらナツキと熱い視線を交わし続けたのだった。

ミウは太盛と再会したが、病んでしまった

「最近ミウちゃんが楽しそうでママ嬉しいわ」

「え?」

夕食後、ミウはリビングのソファに寝転がっていた。
興味もないテレビ番組をぼーっと見ながら、
スマホを片手にラインの返事を待っていた。

「家でよく笑うようになったね。一年の時に学校に行くのが
 苦痛でしょうがないって言ってたのがウソみたい。
 毎朝起きるたびにミウちゃんは、今日も地獄に行くんだって
 言ってたわ。それもすごいしかめっ面で」

「うそ、私そんな顔してたの?」

「今だから言うけど、自殺しそうなほど悩んでる時期もあったわ。
 あれは中学三年の時だったわね。お父さんの仕事の都合で
 引っ越した時だったかしら」

「引っ越したのは中二の時でしょ」

「そうだったかしら」

ママは赤ワインのグラスを空にした。
顔が上気し、ふらふらしていて、今にも眠ってしまいそうだ。

「ちょっとママ」

「えー?」

「ママ!!」

「聞いてるわよー」

「飲みすぎだよ。それでもう何杯目?」

「そんなのおぼえてないわぁ。
 優待でもらった高いワインだから
 早く飲んじゃわないと」

「ボトルの半分も飲んで大丈夫なの?
 ママはお酒強くないんだから気を付けてよね」

「だって、お酒飲めるパパが家にいないんだから
 ママが飲むしかないでしょ? あっ、そうそう。
 パパがミウちゃんのことメールで褒めてたわよ。
 小さい頃から内気な娘が生徒会役員になったことに感動したって。
 会社の同僚に自慢してるそうじゃない。
 恥ずかしいからやめなさいって言ってるのにねえ」

生徒会と聞けば、普通は聞こえの良いものだ。
娘大好きなパパは、生徒を収容所送りにする組織に
娘が所属してるなど想像もつかないことだろう。

ミウは気まずくなって適当にチャンネルを変えた。
イケ〇ミ先生の授業がやっていた。
キューバのフィデル・カストロの生涯を取り上げている。
彼はキューバを社会主義国へ変えた革命家であり、国家の最高権力者である。

(キューバ共産党・中央委員会・第一書記。
 なるほど、生徒会の中央委員会って言葉はここからきてるのか。
 北朝鮮もキム書記長って言い方してたな)

ママは画面を注視するミウと対照的のことは気にせず、
のんびりとした口調で話す。

「キューバは医療費が無料なのは有名よね
 入院費も無料なんて夢みたいな国じゃない」

教育無償化も徹底されていて、識字率は、ほぼ100%である。

「すごいね。さすが社会主義の国。
 日本はどうしてダメなんだろう」

「何がダメなの?」

「その……いろいろと生きるのにお金がかかるじゃない」

「日本の税や物価のことを言ってるのかしら?
 どこの国に住んでもそんなに変わらないわよ。
 ママは独身の時にオーストラリアとアメリカに住んだことあるけど、
 どこも税金は高かったわね。日本のほうが、治安が良いから安心よ」

「日本はそんなに良い国って感じがしないな。
 学校の勉強はロンドンの学校の方が
 ずっと楽しかったよ。先生も個性的だったし」

「日本はどこにいっても黒い瞳をした人ばかりね」

「英国みたいに色んな人種が混じってないからね。
 最近のイングランドは東欧、アフリカ系の移民が
 多すぎてアメリカ化してる気がする」

「成田空港に着いてから驚くのよね。みんなまっすぐ前を見て歩いているし、
 茶髪の人でも瞳の色は真っ黒。ああ、同じ人種が集まった国なんだなと
 日本人はモンゴロイドね」

「モンゴロイドって何?」

「黄色人種のことよ」

ミウはママと雑談しながらも、テレビの内容をしっかりと覚えていた。

キューバは貧しい国だが安定した社会である。
政府は国民の最低限の生活を保障しつつ、少ない財を貧困者に第一に分配していた。

キューバでは日本のように会社を首になったから自殺することはないという。
貧困者にも住宅や食料を国が支給してくれるからだ。
医療施設、学校は国が所有しているため無料。
大学まで無償なのだから驚きだ。

たとえ最底辺の生活だとしても、国民の生存の権利が保障されているのである。
そのため日本と違ってホームレスは存在しないといわれている。

「なんでソ連の社会主義は失敗したの?」

「ソ連? 懐かしい国ね。ミウはよくソ連を知っているわね」

「が、学校の世界史の授業で習ったのよ」

「失敗した理由は……そうねぇ。まず企業の国有化がまずかったかな。
 ソ連政府はお金儲けを悪と考えたから国が企業を管理したけど、
 すべての労働者が同一賃金で働いたらやる気がなくなるのは必然ね。
 特に経営陣がそんな感じになると絶対に経済成長しないわ」

「どれだけ働いても給料が同じなの?」

「ミウちゃんだったら、サボっても真面目に働いても
 貰える給料が同じだったらどうする?」

「サボるね」

「でしょう?」

ママは目が覚めたのか、饒舌に話し始めた。
といっても、おっとりした性格なので、もたもたした口調なのだが。

「富の均等な分配も無理があるわね。ソ連は人口が多かったけど、
 もともとロシアは未成熟な資本主義国だったからGDPが低くて、
 単純計算で全国民に均等に富を分けるのにお金が足らなすぎるの」

「じゃあ、資本主義国として成熟した国がやればいいじゃない。
 全部の国民にお金を渡してあげたら、貧乏な人も生きていけるんでしょ?」

「日本の場合は生活保護があるけど。生活保護なら憲法で
 保障された文化的で最低限度の生活が送れるわね」

「生活保護は審査があるから、審査に受からなかった人はもらえないんでしょ。
 それで自殺しちゃう人もいるらしいね。失業して自殺する人も多いし。
 日本はキューバみたいに仕事を失った人も食べていける保障はないのかな?」

「ミウちゃん。詳しいわね。学校でそんなことまで教えてくれるの?」

「自分で勉強したの。……図書館で」

「一般理論も図書館で借りたの?」

「なにそれ?」

「ケインズの本よ。
 雇用・利子および貨幣の一般理論ってタイトルだったでしょ。
 ミウの部屋に置いてあったわ」

「ああ、あれか」

「あの本がよく高校の図書館にあったわね」

「たまたまあったの」

「経済理論の本を読むなんて、そんなに経済に興味があるのね。
 お父さんの血筋かしら。最近ミウは政治の話もするようになったわ」

「私も生徒会の人間だから、いろいろ勉強しておかないと
 生徒の代表としてふさわしくないと思って」

「読書するのはいいことね。
 経済が好きなら将来は経済学部に進学する?」

「うん。そうしようかな。まだ分からないけど」

ミウがスマホに視線を落とす。まだナツキからのメールは来ていない。
テレビが面白い時間帯にメールしても絶対に返ってこないことをミウは知っていた。

ナツキは夜の十時まで自室で勉強をしているのだ。
中央委員の彼は通常授業には一切顔を出さないが、
基礎的な学力が衰えるのは嫌なので自宅での勉強に切り替えている。
自主学習というわけである。もちろん大量の読書も含んでいる。

風呂をあがって、10時45五分ごろになるとミウに返事を返してくれる。
ミウはナツキの返事を待つだけで胸がわくわくしてしまう。
太盛の彼女のはずだったのに、その自覚はどんどん薄れていった。
そんな浮ついた気持ちの自分が嫌になる。

だがミウの寂しさを埋めてくれるのはナツキしかいなかった。



「今日はミウ待ちに待った収容所の見回りの日だよ」

ナツキが明るい笑顔で言う。
現在、組織委員会は、朝十時の休憩を終えたところだ。

「本当はもう少し早く収容所に連れて行ってあげたかったけど、
 僕らがあそこに行けるのは月一の決まりになっている。
 基本的に執行部の管轄だからね。まず一号室から順に回っていこう」

ミウは、ナツキの隣にぴったりついて歩いた。
太盛以外の男子にこんなに
接近するのは初めてであり、少し恥ずかしかった。

「一号室の囚人はどんな人なの?」

「軽犯罪者だから、そんなに悪い人はいないよ。
 数も少ないし、模範囚が一番多いのが一号室なんだ」

「人数はどのくらいいるの?」

「名簿によると……16名だね。
 このうち三人が今週中に解放される予定だ。
 模範囚は特別に刑期を短くてしてもらえるんだ」

一号室の前に着いた。
部屋の前で警備している執行部員が、ミウ達に敬礼する。

「Это регулярный патруль?
 Политический комитет」
(定期巡回ですか? 委員殿?)

「Да」(左様だ)

警備兵が扉を譲る。収容所の広さは普通の教室と変わらないが、
内部は電子化されており、扉は指紋照合で開くのだ。
中央委員であるミウの指紋はすでに登録してある。

「Как Вы себя чувствуете?」
(ごきげんよう。調子はどうだね?)

収容所の生徒達は、壁際に一列になって整列していた。
みんなナツキの声に緊張している。

「にぃちぇぼー」(問題ないです)

生徒達が右から左の者へと伝言リレーのように
同じことを繰り返していく。ミウには点呼を取っているように見えた。

「Не нервничай. я не враг.」
(私は敵ではないから緊張するな)

ナツキが優しく言う。ミウには何を言ってるかさっぱり分からないが、
彼が悪い人間には見えなかった。囚人に対する時も笑みを浮かべ、
落ち着いて話している。声を荒げる様子はない。
ミウの前だから本性を隠しているのか、それとも本当に囚人たちを
虐待しない立場の人なのか。まだ判断がつかない。

「お前たちのロシア語は日に日に上達している。
 大変に素晴らしいことだ。これから日本語で話すから
 日本語で返すように」

「かしこまりました、委員殿」

「健康状態がすぐれない者はいないか? 学校と自宅で
 しっかり食事はとれているか? また不眠に悩まされている者はいないか?
 怖がらず、はっきりと意思表示をしてほしい」

ナツキは十数名のメンバーに紙を手渡していった。
健康診断の問診票のようになっていて、アンケート形式で
健康状態を記入していく。もちろん自己申告だから嘘をつくことも出来る。
たとえば仮病を使って囚人の仕事(使役)を断るなど。

しかし、そのようなことを考える囚人は一人もいなかった。
むしろ自分の健康状態を実際より良く見せようとする傾向にあった。
なぜなら仮病と疑われた場合は、罰として二号室行きになるからだ。

二号室へ行った人間は一人も帰ってくることがないという。

それに対し一号室の人間は、体操やマラソンなどの体力づくりと
共産主義の学習(読書)がメイン。

ロシア語教育を中心に外国語教育には力を入れていた。
囚人たちにパソコンとイヤホンが支給され、
ロシア語のニュースや映画をみせられた。
字幕なしのロシア語音声である。

自宅ではロシア語版のRPG(FFなど)をプレイするよう推奨された。
露国から直輸入した物なので日本語字幕は一切ない。
母国語なしの世界で仮想外国体験をさせるためだ。

これらはベルギー、オランダなどの多国語話者が実際に使用している学習方法である。
空いた時間にロシア語の辞書で意味を調べると理解度が増す。

彼らの生徒と同じように椅子に座って勉強させてもらえるのだ。
一号室の人で精神病や再起不能になる人は存在しなかった。

「収容所生活で不満のある者はいないか?」

「同士。発言してもよろしいでしょうか?」

「許す。申せ」

「前回渡された資料ですが、翻訳の仕方に問題を感じています。
 この翻訳には論理的に矛盾した内容が多々見られました。
 矛盾した部分を抽出し、ノートにまとめておきました」

「どの本だ?」

「これです」

ウラジーミル・レーニンの書いた帝国主義論だった。
20世紀初頭の列強の動向、資本主義の問題点を分析した本である。
こういう齟齬(そご)が生じるから、
翻訳でなく原語で読むべきだとナツキは主張している。

「分かった。資料を持ち帰ってあとで検討しておく。他には?」

「隣の部屋(二号室)からよく叫び声や悲鳴などが聞こえてきます。
 ロシア語ニュースを聞く際に集中できないので、改善していただきたい」

「二号室の人間は特に反社会的な生徒が多いからな。
 分かった。二号室の教育をさらに
 徹底するよう執行部の責任者に話しておく。他は?」

「委員殿。私をぜひ執行部に入れていただきたいのです」

そう言うのは、カナの後輩のトモハル(野球部員)だった。
彼はすっかり共産主義に感化され、さわやかだった顔は
ラブレンチー・ベリヤ(旧ソ連の内務人民委員)のように変化していた。

「おまえは健康状態に問題はないのか?」

「全く問題ありません!! 自分は収容される前は
 運動部の厳しい練習で鍛えられていました!!」

「では、午後に生徒会室で適性検査を受けるように。
 ペーパーテストと体力測定である。指定の時間に遅れずに来るように」

「ダー、コミッサール!!」

こうしてまた新たな執行部員が生まれるのだった。
その後もナツキは囚人たちから言われた不満点や改善点を
辛抱強く聞き、しっかりメモを取っていく。

一号室の部屋を出た後、ミウが言った。

「本当に拷問しないんだね。ちょっと安心した」

「理由もないのに人を傷つる趣味はないよ。
 僕は執行部の人間じゃない。将来有望な生徒をあの中から
 発掘するのも僕の楽しみなんだよ。壊すのではなく再生する。
 それが僕ら組織委員会の仕事だと思っている」

そう語る彼の横顔にミウはうっとりとしてしまった。
真っ赤になった顔をみられるのが恥ずかしいのでうつむいてしまう。

「実はね、僕はあそこに週一で通ってるんだ」

「月一しか見回りに行けないんじゃなかったの?」

「委員会の信任を得てロシア語の教師をしているんだ。
 この学校には露語の分かる教員がまったくいない。
 だから僕が代わりに教えてる」

「先生をやってるなんてすごいね。どんなことを教えてるの?」

「文法書の例文を繰り返し声に出して読んでもらってるんだよ。
 発音は僕を見本にしてもらって、ひたすら大声で読んでもらう。
 一か月くらい同じ本を音読していると、気が付いたら文法規則が
 頭に入ってる。欧州で実践されている学習法を取り入れたんだ」

「私も同じ事やってればロシア語が分かるようになるのかな」

「僕が直接教えてあげるよ」

「いいの?」

「君のためなら喜んで」

ミウは彼の笑顔のとりこだった。
なんど甘い言葉を口にされても飽きることはない。
むしろどんどん彼の深みにはまってしまう。
ミウはこの現象にナツキ・マジックという名前を付けた。

ナツキは、一号室の隣にある教室を三つ飛ばして歩いた。
それらの部屋が二号室(110名収容)に相当するのだが。

「二号室は、ミウには危険だ。あっちの人間は血気盛んで
 すぐ反抗してくるからね。先月は中央委員が部屋に入ったと同時に
 襲撃されて三人が怪我をしたよ」

「え……そうなの?」

「奴らは共産主義の本を読ませても上の空。全く頭に入れちゃいない。
 それも無理はないがね。なにせ体力づくりと称して地獄の登山や
 貯水池での遠泳を強制されているんだから。あそこまで過酷に
 扱っては逆効果だと委員会には報告しているんだがね」

どうやらナツキは、中央委員の中でもかなりの穏健派のようだった。
ミウが彼に抱いた第一印象は、落ち着きがあり、理性的で頭の良い人。
その通りの人で間違いなさそうだった。

『三号室』と書かれた部屋の前に二人は立った。

「さあ入るよ?」

指紋認証をして、部屋の扉が開いた。

「ズドラストヴィチェ、コミッサール!!」(おはようございます、委員殿)

中はがらんとしている。今挨拶をしたのはたったの三名。
部屋の中央でカナ、太盛、松本の順で整列し、敬礼している。

「三人とも血色も良く、健康そうだな。
 最近の健康状態に異常のある者は?」

「問題ありません!!」 「同様です!!」 「僕もです!!」

「そうか。では君たち模範囚に新しい中央委員を紹介しよう。
 こちらにいるのが高野ミウさん。私と同じ組織委員会に
 所属している女性だ」

「な……?」

と間の抜けた声を上げたのが太盛だった。
太盛達は委員殿ばかりに目を取られていたから、彼の隣で
顔を伏せている人がミウとまでは気が付かなかった。

「高野さん……?」

カナも、開いた口がふさがらなった。
カナ達三人はクラスメイト。ミウがおとなしくて引っ込みがちな
少女だったことは良く知っている。なぜ彼女が生徒会の役員に?
あの魔の組織に? 疑問が次々に頭に浮かんでいく。

松本は事情を知らないので、いつものとぼけた顔をしている。

一番衝撃を受けていていたのは誰であろう、ミウ自身であった。

この世界に来てからミウの記憶喪失を一番に心配してくれた彼。
彼の屋敷へマリーと遊びに行ったこと。マリーの入院のお見舞い。
夏の神社でエミと会ったこと。どこに行くにも二人で一緒の時を過ごしてきた。
死ぬ瞬間の走馬灯のように彼との思い出がよみがえった。

「っ……」

嗚咽に近い声をミウは発した。
太盛の顔が、明らかにおびえていたからである。
彼はミウの襟に着いた中央委員会のバッジを注視している。

生徒会・中央委員会。それは生徒たちにとって絶対的支配者の証だった。

ミウは太盛に化け物を見るような目で見られたことがショックだった。
そして支配者と囚人の立場で彼と会うことが、こんなに残酷な
事だとは知らなかった。今思えば、どうしてこんな役職についてしまったのか。

彼女は二年一組の革命的熱気とナツキの口のうまさに乗せられてここまで
昇りつめてしまったのだ。もう戻ることはできない。

太盛達はその光景に驚いていた。
中央委員が囚人の前で泣き崩れてしまったのだ。
ナツキも驚愕し、ミウの肩を優しくつかみながら退出せざるを得なかった。

「ミウ……。そんなに彼とその再開は気まずかったのか?」

ミウは答えようとしない。ひとしきり泣いた後、小さな英語で答えた。

「I want to talk with him, face to face…」(太盛君と二人きりで話したい)

「Sorry. it is a violation of our rule」(すまない。それはルール違反だ)

「please!! If you say yes or kill myself.」(許してくれなければ自殺するわ)

ナツキはミウの迫力に危機迫るものを感じた。
本気で自殺するつもりはないだろうが、
彼女の要望を受け入れなければ、生徒会を辞めてしまうかもしれない

仕方ないので個人的な外国語指導という名目で太盛とミウを部屋に残し、
他の者は廊下で待機することにした。

「太盛君、聞いて? 太盛君に会えなくてずっとさみしかったの。
 信じてもらえないかもしれないけど、私は好きで生徒会に入ったわけじゃないの。
 エリカとクラスで色々喧嘩とかして、それでみんなが私の味方してくれて……」

あせるあまり支離滅裂の説明になってしまう。太盛は一字一句聞き漏らさず
聞いていたが、そこにいるのはすでに彼の知っている彼女ではなかった。

太盛は強制収容所の囚人の立場から、松本やカナと強烈な連帯意識で
結ばれており、生徒会の人間は誰であろうと敵であった。

「どうして何も話してくれないの?」

太盛はミウと話をするつもりが全くなかった。
まず、ミウをどう呼べばいいのか分からない。

ソ連風に同士・高野か。生徒会で奨励されているコミッサールか。
呼び捨てにする権利は当然囚人には与えられていないはずだ。
それ以上に太盛はミウに拷問される可能性すら考慮していた。

「お願い太盛君。返事をして? 私のこと怖い?
 今は二人きりだよ。監視カメラもナツキ……委員に
 止めてもらってるから、心配しないで話していいんだよ?」

かつての彼氏彼女は椅子に座り、向かい合って話してる。

ミウは、全く何の反応も示そうとしない太盛が、かつて
カンボジアの仏教徒の物まねをしていた時みたいだと
笑い飛ばしたかった。今はそんな余裕はない。

ミウはどこまでも明るく話しかけているのに空気は修羅場だ。
それほど太盛の視線は冷たかった。
『おまえは俺の彼女じゃない』彼の目がそう訴えていた。

「そんなのひどい……私がどれだけ太盛君のこと心配して、
 エリカやクラスの反対者と戦ってたか知らないんでしょ?
 本当に悲しくて家でも泣いてばかりで……辛くて辛くて……。
 私の気持ち分かってよ。分かってよ太盛君!! 分かれよ!!」

太盛は答えない。

「太盛君っ!! ねえ太盛君!!」

やはり答えない。

ミウは、今まで感じたことのない衝撃に襲われた。

「そこまで強情を張るんだったらこっちにも考えがあるよ?
 今から私と会話をしなさい。敬語はいらないし、呼び方も
 ミウでいい。逆らったらあなたに罰を与えます。これでいい?」

ミウは彼の頭部をつかみ、鼻がぶつかりそうな距離でそう言った。
興奮のあまり血圧が上がったミウは息が荒く、これ以上彼女を
悲しませたら本当に拷問を始めるかもしれないほど事態は緊迫した。

太盛は一分間長考した後、ついに言葉を発するのだった。

「ミウは……変わったな」

名前を呼ばれただけで、ミウの心臓の鼓動が強く鳴った。

「おまえが俺のこと好きでいてくれるのはよく分かった。
 だがはっきり言わせてくれ。今のお前はエリカと全く同じだ。
 いや、エリカより悪い。俺はおまえと話したくない」

今度は逆に、胸の奥をギュッとつかまれたような痛みが走った。

「今度は俺のつまらない話を黙って聞いていてくれ。
 俺はこの収容所生活で人とは何かを毎日考えた。
 一緒に考えてくれる仲間がいた。同じ部屋のカナだ」

「カナは素敵な人だ。俺は彼女に惹かれている。
 彼女は俺と同い年だが、すごく立派な考えを持っていて大人だ。
 俺の友達であり、お姉さんでもある。俺にとってかけがえのない人になった。
 俺とカナは相思相愛になった。俺はカナと誓ったよ。死ぬときは一緒に死のう。
 もしここを脱出できる日があったら、ずっと一緒にいようと」

悲しさは強い怒りに変わった。ミウはクラスメイトの小倉カナを
詳しく知らない。クラスで話したこともほとんどない、赤の他人だった。

ミウには太盛が浮気したという認識はない。太盛が悪いと思いたくない。
小倉カナという囚人に彼氏を奪われたという事実を頭で理解した。

自分もナツキに惹かれていたから人のことは言えないが、
ミウは自分のことを棚に上げて相手を責めてしまうのだった。

「じゃあ別れてくれる?」

「なに?」

「カナさんと別れて」

「それは生徒会役員としての命令か?
 逆らえば俺は極刑か?」

「いいえ。私の個人的なお願い。太盛君は私の彼氏だよ。
 他の女のところに行ったらだめ……じゃないっ……」

口調こそ冷静だが、ポロポロとミウの顔から涙がこぼれ落ちていく。
人間はこんなにも涙を流せるものなのかと太盛は呆気にとられた。
女の涙も今の太盛には全く通用しなかった。

「断るよ。高野さんは俺とは無関係の人だろ?」

「なにその言い方? 高野さん……?」

ミウは普段から苗字で呼ばれるのを嫌った。
自分の下の名前を強い個性だと認識していたからだ。
彼女はミウと呼ばれることに強いこだわりを持っていたのだ。

愛する太盛に名字で呼ばれたのは、計り知れないほどのショックだった。
太盛の肩を勢いよくつかみ、今度は太盛を憎しみの感情を込めて見た。

「次私を高野さんって呼んだら、カナを水責めして
 廃人にしてあげる。分かった?」

太盛はあまりの迫力に圧倒され、震えながらうなずいた。

「もう一回お願いしてもいいかな? 
 カナさんとは何でもなかったんだよね? 
 太盛君が認めてくれないと、私何をするか分からないよ?」

太盛は過酷な収容所生活をカナと楽しく過ごしたことを思い出していた。
寡黙な松本先輩と、活発で明るく前向きなカナ。
みんなで共産主義の教科書を読み解いたり、
露国の言語を覚えたりと、一号室とほぼ同じことを繰り返していた。

生徒会から一号室と三号室の人は模範囚と称えられていた。
三号室は最悪の囚人を捕える場所ではなく、将来有望な
ボリシェビキ候補を監視、教育するための施設だったのだ。
つまり本当の意味での絶滅収容所は二号室だったことになる。

来月に生徒会の総選挙が迫っていることもあり、屋外での
訓練はほとんどなく、安全な室内での学習ばかりが続いた。
太盛とカナの仲は深まっていくばかりだった。
同時に、いつまでも自分たちを
収容し続ける生徒会に対する憎悪は決定的に深まった。

彼らは模範囚ではあっても、心まではボリシェビキに売ったつもりはなかった。
太盛に会うため、逆にボリシェビキに染まっていったミウとは対照的だ。

「カナはただの囚人仲間。俺の彼女じゃない。
 俺の彼女はミウさんだけだ」

「さんはいらない!!」

凄まじい声量に太盛は心から恐怖した。

「言い直そう。俺の彼女はミウだけだ」

「本当に?」

「本当だ。俺は君のことを愛してる」

「もう一回言って」

「え?」

「愛してるって、もう一回言って」

「ミウを愛してる」

「もう一回」

「愛してる」

「まだ足りないよ。もっと言って」

「ミウを愛してる。君以外の女性はいらない」

「あはっ。本当? もっと大きな声で言って」

太盛は、いつまで続くのか分からない地獄に付き合わされた。
ナツキが彼女に与えた時間は50分。
ロシア語の授業に与えられる時間であるが、まだあと15分残っている。

残り時間いっぱいまでこのやり取りが繰り返された。一種の洗脳であった。

ナツキに時間を知らされ、部屋を出たミウはまた大泣きした。

彼女は間違いなく病んでいた。自覚もあった。
太盛の前で恋敵のカナを拷問するとまで脅したことを
今になって後悔していた。何より愛する人を恐怖させ、
嘘の言葉を吐かせてしまった。こんな最低な女がいるだろうか。

ナツキに慰めの言葉をかけられても耳に入らない。

ナツキはミウを心から哀れんだ。彼は中央委員会の人間ではあるが、
ミウと同じく人を傷つけることを望んではいない。彼は共産主義に目覚めてから
その教えを他の人にも教えてあげたいと思って、組織に加入したまでのこと。

成績は学年でもトップ5に入るので優秀さを買われて幹部になった。
彼は権力を手にした。女性的な魅力とリーダーの素質のあるミウを
生徒会に勧誘したのは、仕事の辛い時に癒してくれる存在を求めてのこと。

ミウには仕事の面で多くを望んではいなかった。
太盛を餌に少しでも自分のそばにいてくれればいい。
そのくらいの軽い気持ちだった。

「残念だけど、僕では太盛君の代わりにはなれないようだね」

遠慮なしに深いため息を吐いた。それは諦めた男の顔だった。
ミウの太盛に対する愛の強さを自分では
どうすることもできないと知ってしまったからだ。

ミウは病気で学校を休み、恋に悩んだ

ミウはあの日からショックで体調を崩していた。
学校を一週間休んでしまっている。

「ミウちゃん。今朝の具合はどう?」

「ごめん。無理そう。まだ頭痛い」

「そう。ならゆっくり寝てなさいね」

病気の治りが遅かった。病院で診断した結果は偏頭痛。
朝起きると頭に痛みが走り、その状態が寝るまで継続した。

ベッドに横になっていると楽になるのだが、起きて活動しようと
すると頭がふらふらしてまい、とても学校には行けない状態だ。

『中央委員の権限で学校には出席扱いにしておくから、
 体調が良くなるまで静養してくれ』

ナツキから送られたメールを読む。彼は営業職の経験でもあるのか、
病気で落ち込んでいるミウに対するフォローがうまかった。
 
『ありがとう。良くなったらすぐ学校に復帰するから』

病気の内容から受信すべきと考えられ病院を全て回ったが無駄だった。
ミウの病気は脳外科で出された薬を飲んでもどうにもならなかった。

主要な頭痛は三種類あり、偏頭痛、緊張型頭痛、群発頭痛である。
ミウはそのいずれの症状にも当てはまりながら、どれにも特定されない
と診断された。心配したママの勧めで受けたMRIとCTスキャンの結果、
異常は見られなかった。つまり原因不明。

ミウは、できれば太盛にお見舞いに来てほしかった。
あの夏の日、自分たちがマリーの病院へ足を運んだみたいに。
彼に優しくされたら一瞬で治ってしまうかもしれないのに。

『治らない頭痛の原因には鬱が考えられる。
 そこで心療内科を受診するのも一つの手だろう。始めて行くのは抵抗が
 あるかもしれないが、精神安定剤を飲むと嘘みたいに楽になるそうだよ』

ミウはその通りかもしれないと納得し、近隣の病院を調べて
地図をプリンターで印刷した。その紙を手に玄関の扉を開けようとする

「ミウちゃん? 今日は違う病院に行くつもりなの?」

「そうだよ」

「ひとりで行くのは危ないわ。ママが送っていくわよ」

「一週間も家で寝てたから平気。動かないと体なまっちゃうよ」

「でも顔が真っ青じゃない。また倒れたらどうするの」

ミウは、数日前に無理やり登校しようとして玄関先で倒れたことがあった。
一日でも早くこの病気を治すには、適切な診断を受けて薬をもらうしかない。
学校に行けなければ太盛に会えないし、生徒会にも出席できないのだ。

ミウは母の制止を振り切り、進むが、エレベーターの前でうずくまってしまった。
頭全体を万力で締め付けるような痛み。それと寒気に襲われたためだ。

「だから言ったのよ」

ママに肩を貸してもらい、自室のベッドまで運んでもらった。
ミウは微熱があった。頭の痛さと風邪の症状で苦しさが最高潮に達していた。

今は何も考えずに寝てなさい。そう言ってママは部屋の扉を閉めた。

ミウは枕に顔を預け、部屋の天井をずっと見ていた。
何もすることがないと、考え事をせずにはいられない。

太盛のおびえた顔。完全に嫌われてしまったこと。
エリカと同じだと言われたこと。浮気相手のカナのこと。
嫌でも思い出してしまう。

あの収容所の訪問はミウの精神に致命的なダメージを与えてしまった。

もし時間の針を戻すことができたなら、もう少しうまく
対応することができたろうか。きっと無理だろうと思った。

なぜなら生徒会に入った時に運命はおかしくなってしまったからだ。

『ミウ。こことは違う世界があるんだよ』

能面の男の言葉を忘れたことはない。ナツキの聡明さは彼にそっくりだ。
こっちの世界ではナツキがミウの運命を左右する存在なのかもしれない。

『私はエリカ奥様が憎い』

その憎きエリカはすでに倒したはずだ。ミウはエリカを公然と屈服させ、
生徒会中央委員の地位に着いた。もうエリカは敵ではない。敵はいないはずだ。
いや、いた。収容所仲間三号室のカナだ。
その野球部のマネージャーは太盛と恋仲にあるという。

許せるわけがない。皮肉にも『モンゴルへの逃避』で
嫉妬のあまり怒り狂ったエリカの気持ちを理解してしまう。

太盛には周りにいる女を狂わせる力がある。
愛娘のマリン、愛人のユーリは蒙古で死亡した。エリカも同様。
こっちの世界ではマリーは拷問の末、失語症。ミウはご覧のありさま。
太盛自身も三号室に収容されている身である。

この不幸の連鎖をどうしたら終わらせることができるのか。
ミウはそこまで考えたところで眠気が襲ってきてまぶたを閉じた。

ミウはベッドサイドの時計を見て、朝の九時であることを確認した。
ベッドから体を起こすと頭痛が始まる。寝ている時はなんとも
ないのだが、活動を始めようとすると病気が体を押さえつけようとする。

ミウはトイレに行った後、リビングに顔を出した。
ママは優雅に日本茶を飲みながら、経済新聞を広げていた。

「起きて大丈夫なの? 熱はどう?」

「計ってないけど、たぶんまだある。頭がぼーっとする」

「ご飯は作ってあるけど、食べられる?
 消化に優しいもの作ったほうが良いかしら」

「食欲はあるからいつも通りで良いよ。ありがとね」

ご飯とみそ汁とおかず。どこの食卓でも出てきそうな食事だ。
鶏モモやレンコンの入った煮物、サバの塩焼き、キャベツとコーンのサラダ、
お新香、納豆、ノリと朝にしては皿数が多いのが特徴である。

専業主婦のママは朝ごはんの支度に時間をかけるのが趣味だった。
ママは裕福でも質素倹約を好む。高級食材を使った料理はしないが、
栄養のバランスと量にこだわった。

身支度の時間を犠牲にしてでも朝ごはんをしっかり食べるよう娘をしつけていた。
一日の食事の内で朝食を一番重視するイングランドの文化を
見習っているのかとミウは思った。

ミウは昨夜の夕飯を食べずに寝たことでお腹がすいていた。
並べられた皿が全て空になるまで食べた後、
日本茶を飲みながらテレビをなんとなく見ていた。

今日は不登校の高校生の特集だった。
なぜか取り上げられるのは女子ばかりである
そして登校拒否の原因は共通していじめだった。

「不登校の子達も大変よねぇ。あの子達、学校では
 保健室登校しているみたい。社会に出た時はどうするのかしら」

ミウは一瞬自分のことを言われてるかと思ってドキッとした。
今でこそ生徒会役員にまで上り詰めたが、前回の世界のミウは
不登校になりかけて、実際に退学してしまった。

「チャンネル変えてよ」

「今いいとこなのよ。もうすぐ終わるから待って」

ママが時計の針を刺す。まもなく十時だから、
それまで待ってほしいということだ。

ミウは自室に戻ろうかとしたが、ずっとあの部屋にいると気が滅入る。
仕方なくママと一緒にテレビを見ることにした。

被害者がいじめの体験談を話している。

ある日、突然、何の前触れもなく集団無視が始まり、
だんだんと学校に行きづらくなった。

グループのリーダー各の女子の、遊びの誘いを一度断っただけで
グループ全体から阻害されるようになった。

学校でショックな事件があったのがきっかけで、
家にいることが多くなった。

最後の事例はミウとそっくりだった。
だがミウは学校に行きたくないわけではない。
むしろ行きたいのだ。

現に今だって、被害者たちをいじめた主犯らを制裁したい気持ちだった。
もし同じ学校だったら、すぐ告発して2号室行きにしてやるところだ。
彼女たちの敵討ちだ。ミウは気力十分でも体が付いていかない。

その結果が、2日後に心療内科の先生に言われたことに表れている。

「高野さんの場合は学校に来たいと思っているわけですから、
 精神病が原因の頭痛とは考えにくいねぇ。いちおう精神安定剤を
 出すことはできるんだけど、依存性の高い薬だからね。
 ふとした時に飲みたくなってやめられなくなっちゃうよ?
 先生はあまりおすすめしないな」

眼鏡をかけた初老の優しいおじいちゃん。
そんな容貌の先生に言われ、ミウは素直に納得した。

ここまできたら、あとは自然治癒しかない。
最近学校でいろいろあったから、心が疲弊してしまっただけなのだ。
そう思うと気が楽になった。

さらに数日が立った。ミウが学校を休んで二週間経つ。

「今日は気分転換に出かけてくる」

「いいわよ。ミウちゃんは歩き方が元気な頃に戻ったみたいね。
 安心したわ。好きなことしてれば病気は治るわよ」

「うん。それじゃあ夕方までに戻るね」

「行ってらっしゃい。具合が悪くなったらすぐ戻りなさいね」

風もなく、さわやかな秋晴れの木曜日の午後。
10月下旬。朝夕は冷え込むようになってきた。
平日だが、ミウは学校をさぼっている罪悪感はなく、
ストレス解消のためと開き直って町を歩いた。

暇つぶしにウインドウショッピングをする。
田舎なので行きつく場所は
どうしてもショッピングモールとなってしまうが、
ここならお店の数に困ることはない。

『秋コーデ・ファッション』

十代女子にしか許されない可愛い服を選んでいく。
ママからたくさんお小遣いをもらっている(ギフトカードなど)ので
欲しいものがあったら買うつもりだ。
それなりの値段がするお店だが気にしない。

オタクが好みそうなフリフリのスカート。黒のニーソ。
お嬢様スタイルの花柄のスカート。ピンク色のカーディガン。
逆に大人っぽいシックなワンピース。

色々あるが、問題なのは太盛が好みそうなものだ。端的に言って太盛は
マリーが一番好みなのだろう。お屋敷時代もマリンのことを強く愛していた。
マリーに対抗できそうなファッションにしようと決心した。

下手にコーディネートに凝ってギャルっぽくなるのは避けたかった。
ここはシンプルに清楚なワンピースとヒール、ハンドバッグを
セットにして買うことにした。

「ありがとうございました。お次のお客様、どうぞ?」

ミウの先で会計を済ませて去っていく妙齢の美人に見覚えがあった。
長い髪の毛。背の高さ。きびきびと忙しく歩く姿。
間違いないと思い、会計後、彼女の後を追って話しかけた。

「あの……すみません」

「はい?」

話をすると、やはり総合病院でマリーのお世話をしてくれた看護師だった。
名前は三浦レイナ。ミウは、マリーの入院時代に太盛と一緒だった頃を
思い出してうれしさと懐かしさを感じていた。

「斎藤マリエさんのお見舞いに来てくれた人ね。もちろん覚えてるわよ。
 毎日彼氏さんと来てくれたものね。
 そういえば、まだあなたの名前聞いてなかったわ」

「高野ミウです。私と一緒にいた男の子は堀太盛君です」

「え……?」

ミウは、なぜ彼女がそんな顔をするのか理解できなかった。
まるで聞いてはいけないことを聞いたかのように驚いている。

「せまる、って感じにすると『ふともり』って書かない?」

「はい。そうですけど、ご存じなのですか……?」

「違うのよ。今何となく頭に浮かんだの。ってあはは。
 こんなこと言ってると頭おかしいって思われるかな。
 私、友達の前でも急に不思議なことしゃべって変に思られちゃうんだ」

「私は全然変に思いませんよ?」

ミウは真顔だ。この子とは気が合うなと直感で理解したレイナは、
お茶でも飲みながら話をすることにした。

二時過ぎなのでモール内はどこのレストランもすいている。
適当な店に入り、デザートと飲み物だけを注文した。

レイナがおごると言う。するとミウが
財布の中から優待券の束を見せてきた。
モール内の八割の店で使用できるという。
レイナはさすがに驚愕させられた。

「ミウさんは彼氏とは順調なの?」

「ミウでいいですよ。実は今最悪なんです。
 ちょっと長くなるけど、相談に乗ってください」

「いいわよ。夜勤明けで滅茶苦茶なテンションの私だけど、
 それでも良ければ」

「もしかして今までずっと寝てない?」

「寝たわよ。三時間だけね」

ミウは呆れつつも話した。太盛争奪戦の激しさと、
生徒会役員のナツキに恋をしていたこと。
学校のルールに従い、生徒会は正義の組織として話したから、
内容はかなり脚色されている。あのような悪事を第三者に教えられるわけがない。

レイナはごく普通の学生たちが激しい恋愛バトルをしていると認識した。
今のミウはライバルのカナの出現によって彼氏を奪われてしまったと。

レイナは途中でお酒を頼んでいた。すっかりできあがっている。

「今日はマリーみたいに可愛くなりたくてお嬢様系の洋服を買ったんです。
 あっ。マリーって斎藤のあだ名なんですけど」

「あなただってマリーに負けないくらい可愛いじゃない。何言ってるのよ」

「お世辞として受け取っておきますね」

「世辞じゃないって。太盛君とは美男美女でお似合いだと思うよ?」

「でも次から次へと女が邪魔しに来るんですよ。
 私は別れたくないんですけど、太盛君の気持ちが
 カナって女に向いちゃってるみたいなんです」

「太盛君は浮気性なのかしら? マリーに行ったり
 カナちゃんにいったり忙しいね。言っちゃ悪いけど、
 そういう人が旦那さんになると奥さんは落ち着く暇がないかもね」

確かにエリカ奥様は、しつこく旦那を束縛して
自分だけに視線が行くようにしていた。
束縛されれば誰だって心がパンクする。

「若い子は良いねー。私も高校時代は好きな男の子いたけど、
 話しかけられることなかったし、結局遠くから見てるだけだったな。
 彼はそのうち可愛い女の子と付き合うようになっちゃって、
 それで私の恋は終わり。今でもたまに彼の顔思い出すことあるよ」

「高校時代のことってそんなに思い出に残りますか?」

「それはそうよ。だって青春は一度しかないんだから。
 過ぎ去った日々を懐かしく思うくらいなら、当たって砕けたほうが良いよ。
 あるいは別の恋を見つけるのも良いかもしれないわ。
 ナツキ君って子も気が利いて優しい子じゃない。彼と付き合えば?」

「レイナさんだったらどうしますか?」

「どうしても彼氏が欲しいんだったらナツキ君かな。
 少女漫画でよくある展開だと、本命の男子と別にいる不良系男子の
 ポジションだね。実はこっちとくっついた方が幸せになれるんじゃないかって
 ずっと思いながら読んでたのよ」

「ナツキ君は私のこと好きなのかな」

「たぶん大好きよ。ミウが積極的になればすぐ付き合えると思う。
 まっ、それでもミウは太盛君のことが忘れられないんだろうけど」

レイナはカウンセラーと同じ要領で話を進めていた。
とにかく彼女に話をさせつつ、少しだけアドバイスをする。

ミウはすっかり気分が楽になった。相談事を持ちかけるのは
初めてなのに、こんなにすらすらと自分の気持ちが口に出来たのだ。
やはり初対面とは思えないほどフィーリングが合うのだ。

「あの、一つ聞いていいですか? 
 レイナさんはどうして太盛君の漢字が分かったんですか?」

「信じてもらえるかな……。実は直感が結構強くてね。
 時々頭の中に不思議な映像が浮かんだりするの。
 行ったこともない場所だったり、人の顔だったり。
 でもすぐに忘れちゃうのよね。それがくやしくなって、
 思い浮かべたスケッチして残すようにした」

「最近は何を描きましたか?」

「大雑把に言うと屋久島みたいな形をした孤島。周囲が波打ち際で、
 島の中央に背の低い山があったわ。それと広い農園もあった。
 ……そんなに広くなかったかな? 家庭菜園だったかもしれない」

ミウも直感で理解した。今目の前で話している三十代の女性が
以前のレナの生まれ変わり。太盛の双子の娘。その姉の方である。
家で読書するより外で体を動かすほうが好きな少女だった。
正反対な性格の妹のカリンと喧嘩するのは日常だった。

「あなた、私の話を聞いても平然としてる」

「はい。だって私とレイナさんは別の世界で会ってますから」

沈黙。レイナは、ミウがふざけてないことを正しく理解していた。
だからこそ何も返す言葉がなかった。ミウを一目見た時に
懐かしい感情が思い浮かんだのも気のせいでなかったことを確信した。
同時に人知を超えた少女の存在に恐怖すらしていた。

「ミウは、信仰心はある?」

「私はキリスト教ですね」

「私もよ。生まれが長崎だからカトリックなの。
 私たちがここで会うなんて運命のめぐりあわせかもね」

「レナ様は前の世界の記憶があるのですか?」

「様? 私はレイナよ。あなたの知っている私はレナって名前だったの?」

「レイナさん、双子ですよね?」

「ご名答。教えてないはずなのに個人情報がばれてるなんて
 オレオレ詐欺もびっくりだわ」

「カリン様はお元気ですか?」

「カリンは……結婚して福岡に住んでるよ。
 あの子は相手を見つけるのが早かったから子供が二入いるよ。
 それより私たちの名前に様をつけるのはどうして?」

「私がお二人の幼少時代をよく知っているからですよ」

なにからなにまで知っているという口ぶりだった。
レイナは目の前にいる年下の少女が本気で怖くなった

ミウは頭痛が完治していないので雰囲気が暗い。
さらに中央委員会に所属してから貫禄がついてしまい、
目つきが以前と変わってしまっている。
太盛がエリカにそっくりと言ったのも目つきが理由の一つである。

レナとカリンが最も恐れたのは母であるエリカだった。

「ごめんね。今日のことはやっぱり忘れて」

レイナは足早に会計を済ませて去ってしまう。
ミウは呼び止めたかったが、あまりにも彼女が席を立つのが
早かったので間に合わなかった。

ショックだが、あのレナと会えたことは事実。
またとない貴重な体験だった。

ミウが帰宅する。玄関に見知らぬ人の靴があるのに気づいた。
リビングから談笑する声が漏れている。
行ってみると、ママと若い男性が座っていた。

スーツを着た社会人かと思ったがナツキだった。
見慣れた彼の制服姿なのに新鮮だ。きりっとしていて
彼の知的な雰囲気を醸し出している。

「あれ、帰ってたの? ミウちゃんのお友達の方が
 お見舞いに来てくれてるわよ」

「お邪魔しています」

軽く会釈するナツキ。
ミウは彼が自宅にいるとは夢にも思っていなかったので
うれしさと緊張が交じり合っていた。

「ナツキ君はすごくしっかりしていて素敵な子ねえ。
 生徒会の人はみんなこんなに立派なのかしら。
 大人と話しているみたいよ。みうちゃんが生徒会に入ってから
 イキイキしているのがよく分かるわ」

「そ、そうね」

ミウはママにナツキのことを話したことがなかったので気まずい。
ナツキは生徒会の仲間としてミウのことを紹介していた。

「出かけられるほど良くなっていたんだね。安心したよ」

いつもの笑顔で言われ、懲りもせずときめいてしまった。
同時に後ろめたさが残る。
平日なのに町でショッピングをしていたのだ。

「何回も電話したんだけど、出てくれなかったから
 直接お家を伺ったんだよ。長い間休んでいる
 生徒の自宅を訪問するように会長から指示を受けていてね。
 うちの学校はそういう規則だろ?」

きざにウインクされた。ミウはそんな規則があったのかと
思いつつ、バッグの中の携帯を見ると電池切れである。
何日も充電器に刺してなかったことに気付いた。

ナツキはそれを責めることなく、生徒会の仕事の相談がしたいから
二人きりにしてほしいと大胆に提案。ママは笑顔で承諾した。

「お夕飯の時間になったら呼ぶから。
 それまでミウの部屋でゆっくりしててね?」

「いえ、夕飯までいただくのはさすがに」

「遠慮しなくていいのよぉ。今日はミウちゃんが男の子を
 つれてきた記念日にするわぁ♪」

ナツキは礼を言い、頭を下げた。気取ったわけではないが、
彼の動作には無駄がなく、品がある。
良い家庭で育てられたことがうかがえる。

「こ、こっちが私の部屋よ?」

彼だって女の子の家に来てるわけだから、緊張してるはずだとミウは思った。
もしかしたら、ナツキほどの良い男なら何人もの彼女がいたのかもしれないが、
ミウは初体験。ママが家にいるとはいえ、この時ほど緊張したことはなかった。

心の準備もなく、ナツキのような美少年を自分の部屋に
入らせるには少し抵抗があった。だが、断ったりしたら
せっかくお見舞いに来てくれた彼に悪い。

「汚い部屋でごめんね?」

「きれいに掃除されているじゃないか。
 女の子らしくて可愛い部屋だと思うよ」

ベッドの周りは小さな犬のぬいぐるみが並んでいる。
プードル、ダックス、ブルドッグ。ミウはどんな犬でも好きだったのだ、

白い壁。ベッド。ピンクのカーテン。小さな勉強机。
白とピンクで統一された可愛らしい部屋だ。
全体的にさっぱりした部屋で余計なものは置いてない。

普段はママとテレビを見ながらリビングで過ごすことが多い。
自室では勉強するか寝るだけだ。

ナツキは紳士なので部屋をじろじろ見回すようなことはしなかった。

「思っていたより重症じゃなくて良かったよ。
 順調に回復しているようだ」

「うん。心配かけて本当にごめんね」

「いいんだよ。来週からいよいよ11月だ。生徒会総選挙が迫っている。
 君にもぜひ参加してほしいと会長が言っていたよ」

「もうすぐ選挙なんだね。家にずっといたから学校の行事忘れてたよ」

「今回の選挙はちょっと特殊でね。
 ボリシェビキ率いる新生徒会が末永く存続するよう、
 全校をあげての壮大なイベントにするそうだ。
 我々生徒会は来週から選挙のキャンペーンを実施する。
 ようは選挙に参加するよう、クラスごとで生徒達を先導することだ」

「そんなことしなくても、粛清されるのが怖くて
 みんな強制参加するでしょ」

「そうかな? 反ボリシェビキを掲げる地下勢力が
 台頭しつつあるとの情報も受けている。詳細は分からないがね」

「それってどこ情報?」

「諜報広報委員会からの正式な報告だ。相手はかなり手ごわいらしく、
 まったく足をつかませない。最悪外部の勢力の可能性もあるそうだ」

「なにそれ。穏やかな話じゃないね」

「諜報広報委員会の監視網をかいくぐって裏で工作をしているようだ。
 どんな組織なのか想像もつかない。相当訓練されたスパイか、
 自衛隊の部隊が潜入しているのかもしれない」

「相手はプロかもしれないってこと?」

「そうだ」

「じゃあ私たちどうなるの? 捕まったら殺されちゃうの?」

「そうさせないための選挙キャンペーンだ。僕たちは生徒会中央委員。
 何があっても選挙を成功させなければならない。これは使命だ。
 理由なんか必要ない。絶対に成し遂げてやる」

ミウは真剣に話すナツキの目に吸い込まれそうになった。
彼の瞳は覚悟を決めた顔だった。
それは生徒会のために私利私欲を捨てた男の姿だった。

「私もやるよ」

「ミウ?」

ミウはこの人になら着いて行ってもいいかと思えた。
直感で生徒会選挙が無事に終わらないことは分かってしまったが、
ナツキ一人だけを危険な目に会わせたくはない。

ミウも生徒会の考えに全く賛同していない。
人を収容し、虐待し、恐怖で服従させる組織が正義のわけがない。
だが、彼女はナツキと同じ生徒会中央委員。幹部の一人として、
組織のために働く。ただそれだけ。自分の所属した組織だから。

その単純な義務感だけで彼らは連帯する。
かつて不登校にまでなり、太盛への希望を失ったミウにとって
ナツキといるのは心地よかった。

「高野ミウは生徒会の一員として
 あなたと運命を共にします」

「ミウ……。そう言ってくれるのか」

「私は、ナツキ君と一緒にいたい」

矢のような物体がナツキの胸に刺さった。
もちろん錯覚だが、それほどの衝撃を与えた。

謎の頭痛に侵された彼女に何の変化があったのか。
あの収容所の彼女の豹変ぶりから、太盛への
愛情が深いと思われたのに。告白ともとれる言葉を口にしてくれたのだ。

「僕はミウが好きだ」

「私もよ」

ミウは、自分が苦しい時に心配してそばにいてくれる彼に
心を許したのだった。高野ミウ。17歳。初めてできた彼氏であった。

夕食の時、わざわざパーティ料理を買ってきたママが
盛大にお祝いしてくれた。友達もろくにいなかった娘に
ついに彼氏ができたと、すぐパパに連絡してしまうのだった。

娘より母の方が喜んでいるのが照れ臭い。
ミウとナツキは隣同士で座り、飽きるまで三人でおしゃべりした。
ナツキは夜遅くなってから帰った。ミウにとって一生忘れられない夜になった。

ミウは運命の11月を迎えた

ミウが学校に登校した。11月5日の月曜日である。
事前に彼女が再登校する旨を伝えられていたため、
全員が拍手でミウの登場を出迎えた。

「我らが同士・ミウの登場である!! 全員起立せよ!!」

音頭を取るのはまたしてもマサヤだった。
ミウは扉から教卓までのわずかな距離をゆっくり歩く。
みんながミウに対してお辞儀する。腰を九十度曲げていた。

ミウは肩の上で切りそろえたボブカットになっていた。
太盛への思いを捨てるために長い髪を切り落とし、気分を新たにしたのだ。

ミウは恐怖の対象だが美しい。
小顔で美形なのでどんな髪型でもモデルとなりえる。
華麗なるイメチェンに多くの生徒が息をのんだ。

「恐れ多くも組織委員殿であるミウから、今次生徒会選挙に
 ついて注意事項等のご説明があるそうだ!!」

マサヤはこの役が板についてしまっている。
おそらく旧ソ連で政治委員に立候補しても問題ないレベルだ。

「同士諸君は着席し、静粛に聞くように!!
 一字一句、聞き漏らさないよう集中しなさい。
 万が一、スマホでもいじるようなものがいたら銃殺する!!」

銃などないが、そう言っておけば生徒は本気でおびえる。

「二年一組の同士のみなさん。お久しぶりです。
 私は病気のため、しばらく学校を休んでいました」

ミウは軽く謝罪してから本題に入った。

「まず、生徒会選挙の日時をお知らせします。
 配られたプリントを見てください。
 選挙は11月23日の金曜日に実施されます」

ミウは緊張していた。全員の視線を一斉に浴びるのがこんなに
プレッシャーだとは知らなかったからだ。
できるだけナツキのように事務的で大人っぽい口調を心掛けて話した。

発表の練習は組織委員会の部屋で飽きるほどやった。
幹部は前で話す訓練をさせられるのだ。

「この選挙は全員強制参加していただきます。
 拒否権がないことを今ここで、明確に断言しておきましょう。
 仮に病気の場合は自宅投票になりますが、学校に来た人には
 必ず投票場へ行ってもらいます。いずれかの立候補者の名前を書いて
 投票箱に入れればいいのです。簡単なことだと思います」

「はっきり言います。この学校に反ボリシェビキ勢力が潜んでいます。
 我々生徒会はそういった悪の組織を絶対に許しません。
 もちろん私のクラスにそのような分子がいるとは思っていません。
 ですが、心当たりのある人はあとで私に教えてください」

反ボリシェビキなど生徒達は聞いたことがなかったので、
お互いの顔を見合わせて冷や汗をかいた。

静かに聞かないと銃殺されるらしいので
顔を左右にキョロキョロさせるのが精いっぱいだ。
本当はざわざわしたり、相談したかった。

「仮に反乱分子でなくとも」

ミウが続ける。

「選挙の妨害活動をしようとする全ての生徒、教員が取り締まりの対象です。
 今回は簡単な取り締まりではありません。この神聖なイベントに対する
 妨害を行った人は粛清します」

シーンと静まる教室。そう描写したいが、初めから静かだった。

日本で生まれ育った生徒らには『粛清』の意味が分からなかった。
そんな単語を普通、日常で聞かない。

辞書で意味を調べてみると下記のようになる。

しゅくせい 粛清
・厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること【1】
・不正者・反対者などを厳しく取り締まること【2】

厳しく取り締まるとはどの程度を指すのか。
極めてあいまいである。ゆえに恐ろしい。

「11月は一年の内で最も大切な月です。我々生徒会は、生徒たちを
 正しいボリシェビキとして導くための唯一の意思決定機関です。
 我々を否定することは、この学園自体を否定することになります」

その呼びかけは、明らかにクラス内にスパイがいることを意識していた。

この学園のどこかに、裏で手を引いている人物がいる。
その人物が外部から支援を受けて選挙を妨害するはずだ。

生徒会中央委員会は、今月の会議でそう結論づけた。

今回のクラスごとに布告を行ったのは組織委員の仕事である。
手分けして各クラスを巡回して午前中の間に全校に周知させた。
欠席者には専用アプリでメールを送信していた。

「お見事だったよミウ。監視カメラの録画映像を見たが、君は立派に
 クラスの代表として振舞えていた。みんな君におびえていたよ」

「緊張して口がカラカラになっちゃったけどね。
 噛まずに言えたのは自分でも良くで来たと思う」

ナツキと一緒にお茶を飲むミウ。
お昼ご飯を食べてほっと一息ついた。

ここは組織委員会の部屋であり、責任者はナツキだ。
彼らは早朝の会議で渡された紙に目を通していた。

『11/5  告知日。生徒へ選挙日を伝える 
 11/6~ 監視の強化。スパイと思われる人物の摘発・拷問・粛清 
 11/26~ 選挙前の準備。会場の設営』

『身内(生徒会)にスパイがいないかチェックすること。
 盗聴、盗撮、逆探知、あらゆる手段でスパイを発見すること。
 疑わしいと思った者は独自の判断で粛清しても構わない』

ミウが引っかかったのは、最後に書かれている粛清の項目だ。

「私たちが自分の判断で粛清してもいいってことかな。
 保安委員会を通さずに?」

「そういうことだろうね。例えば僕らのクラスで
 怪しい人がいたら、クラス裁判をして容疑者に自白を強要する。
 クラスごとに密告・摘発・拷問することが推奨されているよ」

「大規模な粛清になるんだね」

「なにせ今回は全校規模のイベントのうえ、反対主義者がどれだけ
 いるか想像もつかない。それに執行部員の数が足らないから
 どうしてもクラスの人達を使役するしかないのさ」

ちなみに保安委員会は執行部の上級組織である。
生徒に暴行を加える執行部に指示を出すのは保安委員だ。

諜報広報委員会は、学内の反乱分子を発見、
共産主義の宣伝活動をする組織である。

「私は拷問なんてしないけど」

「今回ばかりはそんな甘い考えは捨ててくれ。
 爆破物が校内に持ち込まれているとの報告も入っている」

「爆破物……? まさか爆弾のこと?」

「おそらく、としか言えないな。
 確かな情報じゃないのが悔やまれるよ」

「証拠ならあるぞ」

野太い男の声が聞こえたかと思うと、部屋にもう一人の男がいた。
今までミウはナツキと二人きりだと思っていただけに驚愕した。

「同士ミウ。挨拶させていただこう。私の名はイワノフだ。
 君たち日本人風に言うと露国人である。英国育ちの同士には
 英語のほうがよろしいか?」

「日本語で構わないわ。あなたも二年生なのね?」

「そうだ。爆発物を製造するためと思われる設計図が落ちていた」

「どこにだ?」とナツキ。

「これが困ったことに、執行部の人間のカバンの中からだ。
 彼は元囚人であり、生徒会に恨みがあってもおかしくはない。
 三日かけて拷問したが、まだしゃべろうとしない。最後は
 電気椅子に乗せて10分ごとに1000ボルトの電圧を加えたが
 本当に何も知らないようだった」

「そこまでしたのか。死ななかったろうな……?」

「まだ生きている。ただ発狂の末、言葉を失ってしまったので
 取り調べの対象から外されたのだ」

ミウは、彼の腕章に保安委員と書かれているのをはっきりと見た。

彼は生徒たちの取り締まりをする組織の長だ。
刈り上げた髪に軍人を思わせる無骨な顔立ち。
異国人だからか、高校生とは思えないほど老け込んで見える。

「ナツキの組織委員会の方では何か不穏な動きはなかったか?」

「こっちは何もないな。しかし怪しい設計図が見つかったとは驚きだ」

「爆発物の設計図の件は会長殿に報告済みである。
 今日の夕方緊急会議があるため、君たちも参加してくれ。
 今回の会議に参加しない者はスパイ容疑で粛清されるぞ」

そして会議の時間になった。ミウはナツキと一緒に生徒会本部へ赴く。
夏休み前に爆破されたこと教訓のために生徒会本部は
コンクリートで補強されている。

今回の会議は、中央委員会の役員会議である。
議長であるアキラ会長を筆頭に、組織、保安、諜報などの
各委員から代表して二、三名ずつ集まるのだ。

この場所に集まれるのはそれぞれの学年で成績トップ10に入る優秀者のみ。
エリート進学校の成績上位者は極めて学力が高い。
彼らは例外なく共産主義者であり、将来国家を転覆させるための
政治家や工作員を養成するために生徒会を組織している。

ミウが話したことのある校長もいた。彼の役は議長補佐であった。
ホワイトボードに貼られていたのは、プラスチック爆弾の設計図である。

「欠席者がいないことに安心した。今回の議題は説明するまでもない。
 これより会議を始める」

今のはアキラ会長。次に校長が話を進める。

「内部粛清をしなければならないとは、実になげかわしい事態ですなぁ。
 ボリシェビキの結束力の弱さを疑わざるを得ません。同士レーニンと
 組織のために忠誠を誓ったはずの保安員の部下からそのような輩が
 でるとは、極めて遺憾だとは思いませんかね。イワノフ同士?」

「無論である。そのために部下にスパイが潜んでいないか、
 厳しく取り締まっている次第である」

「ほほう。具体的にどのような取り締まりですかな?」

「彼ら一人一人を交代で尋問室に監禁し、
 思想に問題がないかを調べている」

「それは口頭で?」

「そうだ」

「甘いですな」

すぱりと校長が言う。

「全ての部下を肉体的に尋問しなさい。
 さもなければ本物のスパイを発見することはできません」

拷問しろと言っているのだ。イワノフは敵に厳しく部下に甘い人間だった。
自らと志を同じにするのなら、元囚人でも採用すると決めたのは彼だったのだ。
そういう寛容さは外国人の彼ならではの発想だった。

「同士・校長。それは暴論である。拷問すれば執行部員の多くが
 再起不能になり、そもそも生徒の取り締まりができなくなる。
 本末転倒だ」

「違いますな」

校長のはげ頭が光る。

「問題はひとつ。あなたの委員会にスパイが潜んでいたことです。
 連帯責任として部下全員を粛清するつもりで取り調べなさい」

「本気か……」

イワノフは、周りの席をキョロキョロしてしまう。
反対側の席に座っていたカフカース系の女と目があった。

「どちらの言うことにも一理あると思うわ」

エリカの姉のアナスタシアである。
長い茶髪をふんわりさせたモテ系ファッションである。

「そこで折半案として執行部員全員を再教育させましょう。
 かなり厳しめの教育にするわ。これに参加しない人は
 全員拷問するということでどうかしら?」

「同士・諜報委員殿。どのような教育かを具体的に」とハゲ(校長)

「徹底した思想教育ね。共産主義的思想に関する主要な文献を
 読破してもらうわ。宣誓書もたくさん書いてもらう。
 途中で諦めたりした人がいたら処罰する」

「彼らを部屋に閉じ込めて缶詰状態にするわけですな。
 では、その間、一般生徒たちの取り締まりはどうされます?」

「最初に会長が推奨した通りよ。クラスごとに有志達が裁判などを
 して取り締まるしかないわ。この学園は膨大なクラス数と生徒数を誇るのよ。
 同士・校長はクラスの総数をご存知ですよね?」

「三つの学年合わせて58組ですな。うち3組分の人数が粛清されましたが」

「私たち生徒会の最大の欠点は人数不足。取り締まる側の人数の
 ほうが少ないんだから、無理は承知の上よ」

アナスタシアは諜報広報委員会のトップだった。
同士諜報委員と呼ばれたのはそのためだ。

「しかし、多感な年ごろの生徒たちはどんな悪さをしでかすか
 分かったものではありません。
 万が一クラス規模で反乱が起きた場合、鎮圧に手間取るでしょうな」

揚げ足取りが得意な校長。次に発言したのは組織委員長のナツキだ。

「では同士・校長の代案はございますか?」

校長が沈黙した。文句は言えても自分の意見を言うのは苦手なのだ。
ナツキは、会議全体の流れを見て不利な人に助け舟を出すタイプだった。

「あ、あるぞ。代案ならある」

「ではどうぞ」

「私は校長の立場ですから、外部勢力から援助を頼むことが出来る。
 今回見つかったのは明らかに殺傷を目的とした爆発物の設計図だ。
 例えば警察を導入すれば鎮圧など朝飯前だ」

「外部の人に頼むは、我が生徒会の組織力の弱さを
 世間に露呈することになりませんか?
 基本的に学内のことは学内で処理する。
 そういう合意をしたはずですが」

「ぐう……」の根も出なかった。

「取り締まり部隊が不足するため、教員も動員していただきたい。
 わが校の教員は少なく見積もっても百名は超えるでしょう」

「教員どもは思想的に何弱な資本主義者が多いが、それでもよろしいかね?」

「できるか、できないかを我々ボリシェビキは問題にしません。
 やるのです。計画の実行のためにあらゆる手段を考えるのです。
 我々はそのために高い教育を受けて来たのです」

「ふ、ふむ。では同士・ナツキの意見を述べてみたまえ」

「基本的には同士・アナスタシア・タチバナに賛同します。
 保安委員が執行部員の再教育を行う件ですが、我々組織委員も手伝います。
 そして不足する執行部隊は生徒と教師の有志で補うこと。
 クラス、職員室ごとに密告、監視を強化すること。以上です」

ミウは感心してしまった。

議場のナツキはこんなにも立派に意見をするのだ。
聡明な人だとは思っていが、職場(生徒会)での彼は想像以上だった。
彼ならどの会社でも役員にまで上り詰めるのではないかと思った

アナスタシアは感動して拍手した。
会長も続いたので、場内は拍手の渦に包まれる。

「素晴らしい発言であった。同士・ナツキの意見を採用する。
 正式な事例は明日の朝布告する。
 本日は解散し、明日の朝七時半に再びここに集まること。以上だ」

ガラッ。と全員が席を立ちあがる。ミウも急いで立ち上がった。
初めてなので勝手が分からないのだ。会議中は気づかなかったが、
壁に肖像画がかざされている。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン。
ヨシフ・スターリン。ラブレンチー・ベリヤ。レフ・トロツキー。
ゲオルギー・ジューコフ。ソ連邦の大物ばかりだ。
なぜか校長とアキラ会長の絵画もあった。校長はブサイクだった。

「ナツキ君。すっごくかっこ良かったわ」

ターシャ(アナスタシア)である。彼女はミウに構わず、
ナツキの腕に絡みついてしまう。馴れ馴れしいにもほどがあった。

「その辺のお店で食事でもしてから帰らない?
 それともうちに寄っていく?」

「ありがたい提案ですけど、今日は疲れたので家で
 休みたいです。それに僕には、ほら…」

後ろをちらっと見ると、嫉妬の炎で燃えているミウがいた。

「あら、ごめんなさいねミウちゃん。あなたがいること忘れてたわ。
 ナツキ君を見るとついこうしたくなっちゃうのよ。
 だって彼、格好いいんだもん」

「それはカフカース系のジョークの一種ですか?
 同士アナスタシア。カップル申請書が
 会長に受理されていることをお忘れで?」

「もちろん知ってるわよぉ?」

カップル申請書とは何か。会長が考えた制度である。
生徒会内での恋愛トラブルを防ぐため、男女交際する場合は
会長に申請書を提出する。そしてそれを生徒会内で周知させることで
公式な交際とする。別れる場合は別の書類を提出する。

つまり、ナツキとミウのカップルは会長公認なのだが……。

「あっ。会長」

たまたま会長が通りかかったのでミウが反応した。
会長は最後に会議場を出たのだ。
彼は組織のトップである立場上、今日の会議で疲れ切っていた。

「同士アナスタシアの不純な行為について抗議します!!
 彼女は私のナツキ君と公然とイチャイチャしました。
 彼女はアメリカのような堕落した資本主義的発想で
 恋愛を考えています!!」

ミウにそう言われたので、会長はめんどくさそうに様子を確認した。

ナツキにべったりくっついているターシャ。
そのまま放置したらキスまでしてしまいそうな勢いだ。
年上だからか、ずいぶん強引である。ナツキは困っている。

そしてそれが気に入らないミウ。
彼女は思っていることがすぐ顔に出るから分かりやすい。

会長は眼鏡をかけなおした後、短くこう言った。

「私は家に帰りたいのだよ。そんな茶番は君たちで処理したまえ」

それだけ……? ミウは突っ込みたいのをこらえた。
ミウは真剣なのに茶番と言われてしまい、腹が立った。

会長は振り返ることもなく帰ってしまう。
一日かけても目的の魚が釣れなかった釣り人のような足取りだった。

「ねえナツキ君。今日だけでもいいでしょ?
 これから忙しくなったら遊べる機会無くなっちゃうじゃない」

ぎゅっと胸を腕に押し付けられ、ナツキも反応しないわけではない。
ターシャの外国人特有の美貌は三年では有名であり、ミウに見劣りしない。
彼女は頭が良いイケメンなら誰でも好きになってしまう困った女だった。

「彼が嫌がってるじゃないですか。早く離れてください」

「昔はこうして一緒にいたんだけどなー。
 ナツキ君が一年の頃から私が可愛がっていたのよ?」

だからなんだとミウが言いたくなる。
昔のことは関係ない。今の彼女はミウなのだから。

「ナツキ君は思想的に残酷になり切れない人でしょ?
 だから私が彼のこと兄に推薦してあげたの。
 そうしないと面接試験に合格できなかったもんね?」

「それは……。確かに感謝してるよ」

「そんな暗い顔しないで。
 ナツキ君は笑ってる方がかっこいいんだからぁ」

「僕はそんなに良い人間じゃないよ」

「ネガティブなのねー。うちのエリカに似てるわ。
 もうこんな時間だから、迎えの車が校門で待ってるの。
 さあ、一緒に行きましょう?」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。ターシャ」

強引に手を引っ張り、彼を連れだしてしまう。
ミウはむきになって怒鳴ったが、なんと逆切れされた。

「高野ミウ。分をわきまえなさい。
 あなたが中央委員会に選出されたのも、私が推薦してあげたおかげよ。
 ナツキ君から頼まれて仕方がなくね。あなたが今の地位にいるのは、
 この私の働きによるものなの。それを忘れないでちょうだい」

そう言われると、確かに弱い。
ミウは新参者なので裏の事情まで走らなかった。

「今日一日くらい彼を借りてもいいでしょ? 減る物じゃないし。
 あなたも外国暮らしをしていたなら、日本人が好むような
 純情恋愛なんて流行らないことを知っているでしょうに。
 あっ、スマホが鳴ったわ。使用人の車が到着したみたい。
 時間がないから行くわよ。ミウさんも気を付けて帰りなさい」

ミウは呆然と立ち尽くすしかなかった。これが権力の違い。
あのナツキは校長には反論できても、ターシャには逆らえないのだ。

カップル申請証とはなんだったのか。
会長が作った制度なのに本人がスルーする始末。

会長はスパイ対策で頭がいっぱいなのだ。
全ては生徒会選挙目前だから時期が悪かった。
そう考えるしかなかった。

ミウは家に帰ってから荒れるに荒れて、ママをびっくりさせた。
寝るまで飽きもせずアナスタシアの悪口に終始するほどだった。

エリカだけでなく姉もセットで大嫌いな人フォルダに分類されたのだった。


ナツキはその日の夕飯を橘家でいただくことになった。
白い長テーブルの一角に着席させられ、料理が来るのを待つ。
テーブルクロスの高級感が半端ではなかったので緊張した。

テーブルは広大である。
ナツキの少し離れた席に、橘エリカが暗い顔で座っていた。

「エリカさん。しばらく学校で見かけなかったけど、
 休んでいたんだね。体調の方はどうだい?」

「あまりよくないわね。夜は眠れないし、夢見も悪い。
 学校に行こうとはしても、朝になるとやっぱり行く気なくして
 ずっと家にいるわ」

エリカはミウが倒れたのと同じ時期からずっと休んでいた。
ゆえにミウが選挙日の告知をした際も彼女の席は空席だった。
ミウが欠席者のくだりを説明したのはエリカを意識してのこと。

「だいぶ病んでいるようだね。彼に会えない日が続くとつらいか?」

「それはつらいわよ。男の貴方には分からないでしょうね。
 私は太盛君と婚約するはずだったのよ? あなたに私のくやしさが
 分かる? 全部あの女が悪いの。高野ミウ。ミウ。ミウ。あの女が」

あまりの迫力にナツキはドン引きしてしまう。
今のエリカの顔は貞子のようであった。

「安心してくれ。ミウは僕の彼女だから」

「はっ……?」

エリカが水の入ったコップを床に落としてしまう。

「本当だよ。カップル申請書は君のお兄様に提出済みだ」

「え……? じゃあなんで今夜は家に来てるの?
 姉さんと仲よさそうに歩いてたじゃない。
 二股? それともミウと付き合ってるのは嘘?」

「君の姉さんが強引に食事に誘ってきたんだよ。
 妹の君なら姉さんの性格はよく知っているだろ」

「姉さんは常に男のそばにいたがる人だから。
 寂しがりや? 男好き? でも英語で言うと……」

「私がどうかしたのかしら?」

「ね、姉さん。いつからそこにいたの」

大扉を開けた状態でアナスタシアがそこにいた。
扉が天井まで届くほど高さがある。ナツキが天井を見上げると、
まばゆいシャンデリアが夜の雰囲気をかもしだしている。

アナスタシアがレコードプレイヤーに針を落とす。
柔らかいアナログの音でバロックの通奏低音が流れた。

パッヘルベルか、はたしてヘンデルか。
ナツキに作曲者までは分からなかった。

時間の流れが止まったかのような落ち着きを感じる。
いつまでもここにいたいと思わせるほどだ。

ダリと英語で書かれたスピーカーだ。
ナツキは、こんな小さなスピーカーでよくここまで
低音を響かせるものだと感心した。

大食堂の床にまで浸透するチェロ、
コントラバスのリズム帯域が心地よい。

「エリカは昔から考えすぎなとこが欠点なのよ。
 日本人みたいに奥ゆかしくて一途なのね。私は今ナツキ君と
 一緒にいたいからいるだけ。理由なんかそれだけで十分よ」

「私は姉さんみたいに簡単に割り切れないよ。
 太盛君に会えなくなって、もうすぐ二ヵ月よ。
 寂しいのを通り越して死にたくなるわ」

「ほらねナツキ君。この子はネガティブでしょ?」

「そうだね……。学校で聞いてたイメージとは結構違うものだ。
 あっ、すみません」

鈴原と別の執事が料理を運んできたので、ナツキは頭を下げた。
この屋敷では女性の使用人を見かけないのが不思議だった。

熱々のコーンスープ。バターロールとチョコクロワッサン。
バターが並べられていく。
最初にナイフ、フォークが並べられていたから、
やっぱり洋食に決まってるよなとナツキは納得する。

嫌いではないが、正直ミウの家のような和食の方が気楽に食べられる。

「好きなだけ食べていいのよ?」

「よし。せっかく招待されたんだから、
 遠慮なく食べるぞ。会議で腹減ったからな」

ボウルサラダ。脂の乗った牛肉。ベルギー風の味付けのポテトフライ。
フレンチを意識してるため、一皿ごとの量が本当にわずかで、
高野家の食卓と対照的だ。

ナツキは下品にならないよう注意しながら、どんどん平らげていく。
出されたものは何でも食べた。一応味の感想も言っていく。

鈴原がバターロールのお代わりが盛られたバケットを片手に現れた。
ベテランの執事の彼でもナツキの食欲には驚いていた。
現役高校生はいろいろな意味で元気なのである。

「ナツキ君……」

エリカはそんな彼を見てせつなくなっていた。
本当は太盛君をこの家に招待したいのに。
ナツキはどことなく太盛と似ているところがある。
太盛をもう少し知的にして大人っぽくしたらナツキだろうか。

「あっ、ごめんね。がっついて食べたから品がなかったかな?」

「そんなことないわ。あなたを見て太盛君のことを思い出しただけ。
 あなた、太盛君の収容所の見回りもしてるんでしょ?
 彼、どうしてた?」

「彼なら元気そうだったな。カナって明るい感じの女子と
 仲良くしていて、収容所生活なのに楽しそうだったよ。
 あっ、すみません執事の方。スープのお代わりもらっても……」

ナツキは凍り付いた。エリカの顔が、みたこともない表情に
ゆがんでいたからだ。その時に受けた衝撃は、
後のナツキの証言によるとこうなる。

サファリパークでライオンを見つけたのがうれしくて、
もう少し近くで写真を撮ろうと近づいて行ったら、
足を噛まれて最終的に手術で切断することになってしまった。

非常に分かりにくい例えだった。

「カナ……?」

エリカの手にしたスプーンが、
皿の上でカタカタと音を立てて震えていた。

まずいと思ったのはターシャも同じだった。
執事はスープの件など忘れて奥へ退散した。

「カナって誰? カナ……? まさか小倉カナのこと?
 同じクラスで、野球部で男たちの世話をしているあのカナ……?」

まもなくしてエリカがパン皿を壁にぶん投げた。
いつもの「荒れ」モードが入ってしまったのである。
皿はスコットランド製でひとつ五千円もする。

「ねえ。ねえ!! ナツキ君!! それってどういういこと? 
 太盛君は収容所三号室で孤独な生活を送ってるんじゃなかったの?
 そのカナって女と仲良くしてるって、どういうこと? ねえ?」

ナツキは、燃え盛る本能寺の中で、
明智光秀に裏切られたことを知った際の織田信長の顔をした。

「真面目に聞いてるんだけど?」

エリカの拳が降ろされ、すごい音がした。
テーブルをきしませるほどだった。

ナツキはエリカが苦手だった。
姉のターシャは気分屋で適当なことを言ってくるが、
明るくて根に持つタイプではないので気楽に関われる。
だから今日も遠慮なく夕飯を食べまくっている。

一方、妹のエリカのうわさは一年の時からよく聞いていた。
太盛への愛情が強く、彼を手に入れるためなら吹奏楽部も
平気で辞める。近づいてくる他の女は排除する。
一度も同じクラスにならなかったことを幸いに思っていた。

「信じられない。なにそれ? じゃあ太盛君はカナって
 女と毎日同じ部屋で過ごしてるの? 意味わからない。
 収容所って恋愛はオッケーなの?」

「合法ね。むしろ兄さんは囚人同士の連帯を深めたほうが
 脱走しなくなるから恋愛・友情は推奨しているわ」

「姉さんはいいわよね。すぐ別の男見つけられるんだから。
 ん? ナツキ君はミウの彼氏なんだよね?」

「それがどうかしたの?」

「こんなところにいていいの?
 あの女、今ごろ怒り狂っているわよ」

「大丈夫よ。人に恨まれるのは慣れてるから」

「そういう問題なのかしら。どうせナツキ君を
 本気で奪うつもりはない癖に」

「それはどうかしら? ナツキ君さえ良いって
 言ってくれれば、付き合おうかなって考えてるけど」

ナツキはデザートのアイスを食べるのに夢中で聞いてないふりをした。
しかしこんな近くで話されているのに無理がった。
アナスタシアにそのことを突っ込まれ、仕方なく返事をする。

「僕はミウの彼氏で、ミウは僕の彼女だ。それだけだよ」

「あらそう。つまらないわね」

楽しそうに笑うターシャ。残念そうには見えなかった。

「あんなの女のどこがいいの?」とエリカ。恨みがこもった目つきである。

「ミウは純粋で優しい子だよ。一緒にいると楽しいよ」

「うそ。どうせあの顔が好みだったんでしょ」

「違うよ。僕は顔でミウを選んだわけじゃない。
 確かに顔も好きだけどさ」

「私、あの女が大っ嫌いだけど、顔の美しさだけは
 認めてやってもいいわ。うちの学年じゃあんな綺麗な女いないでしょ」

「エリカさんだってあの子と同じくらい美人だよ?
 もっと自信もっていいんじゃないかな?」

とミウを落とした笑顔で言うが、

「今そんなこと言われても全然うれしくないわ」

エリカには利かなかったと思われた。
彼女は内心うれしかったのだが顔に出さなかっただけだ。

「エリカ。彼とたくさんおしゃべり出来て楽しそうじゃない。
 ナツキ君が来ると楽しいでしょ?」

「ふん。さあね」

「学校に来たらもっと楽しくなるわよ。 
 そろそろ復帰しなさいよ。一組で休んでるのあんただけでしょ」

聡いナツキはすぐにターシャの意図を察した。

「同士マサヤもエリカさんのことを心配してたよ。
 総選挙が近い大切な時期だから、エリカさんにも
 生徒の粛清を頼みたいんだけど」

「いや、いきなり粛清とか言われても。
 話がさっぱり分からないんだけど」

「ごめん、一から話すね」

ナツキの説明のうまさは生徒会でも群を抜いていた。
彼と弁論して互角に戦えるのは会長くらいだと言われていた。

「ふーん。私好みの楽しそうな展開になってきてるじゃない。
 私が粛清を手伝ったらお兄様の評価も上がるのかな」

「それはもう最高の評価を頂けるわよ。
 兄さんの許しを得て太盛君に会うことも可能なはずよ?」

「それなら、行ってもいいかな」

アナスタシアは、やっぱりナツキを連れてきて正解だったと思った。
身内だけの説得では妹のマイナス思考をどうすることもできなかった。

「おかえりなさいませ。アキラ様」

廊下のさらに遠くの方から執事の声が聞こえた。
まもなくしてアキラが食堂の扉を開ける。
ターシャが笑顔で迎えた。

「おかえりなさい、兄さん。今日は遅かったのね」

「ちょっと書店に寄っていてね。立ち読みしてたら遅くなった」

「欲しい本があるなら買って帰ればよかったじゃない」

「いや、買うには買ったんだが。
 欲しい本を決めるのに時間がかかってしまった」

アキラはコートを脱ぎ、使用人に手渡す。
そして恐縮しているナツキを見た。

「会長。お邪魔しています」

「ナツキ君がうちにいるなんて珍しいな」

「ターシャさんにお呼ばれしました」

「そうかね。今日はゆっくりしていきなさい。
 遅くなったら泊まってももいい。空き部屋ならいくらでもある」

「あ、ありがとうございます。ですが迷惑になるといけないので
 もうすぐ帰ろうかと思っています」

「遠慮することはない。君の生徒会の働きは高く評価しているよ。
 しばらく妹たちの話し相手になってやってくれ。
 母も九時前には帰ってくるそうだ。顔を見せてあげなさい」

ナツキは橘母がどんな人なのか全く想像がつかなかった。
期待より恐怖の方が大きいので会いたくない。

結局ナツキは泊まる流れとなった。
和服を着こなしたおっとりした母とも挨拶させられた。

ターシャの母は外人風の外見なのかと思いきや、
京都の屋敷に住んでそうな和風な女性だった。
生まれは神戸だという。

高校生の子供がいるとは思えないほど若かった。
芸能人並みに綺麗で存在感がある人で、
ナツキは思わず惚れてしまいそうになったほどだ。

母はナツキのことを一目で気に入ってくれた。
高野家にお邪魔した時と全く同じパターンである。
ミウのことを考えると気まずい。

ナツキは最後まで愛想を振りまくことを忘れなかった。
彼は若く、美形でしかも知的なので
中年女性キラーと呼ばれていた。

ナツキは橘家からも歓迎されて嫌な気はしなかった。

エリカが生徒の粛清を手伝ってくれるのは大きな収穫である。
自分は生徒会のために立派に働いているんだと言い聞かせ、
納得することにしたのだった。

最終回『収容所爆破事件』

ついに運命の日がやって来た。
この事件によりミウの物語は終息に向かう。

11月9日。革命記念日を二週間後にひかえた快晴の日である。
一年の進学コース(一組から五組)で大規模な反乱が起きた。

生徒会に対して生徒会選挙への不参加を表明。
続いて建造中のC棟を爆破した。

この事件は、のちに『収容所爆破事件』別名C4事件と呼ばれた。
名前の由来は使用された爆薬、コンポジション『C-4』からとられた。
C-4とは、極めて強力なプラスチック爆弾のことだ。
これによって完成間近だった収容所、監視塔、鉄条網などを一気に爆破した。

夏休み前に実施されたC棟爆破を模倣したものだが、
突発的だった前回と違い、計画的だった。

一般ルートで入手困難な爆弾を彼らは多数所持していた。

『圧力鍋で爆弾が作れるぞ』 五組の生徒の何気ない一言がきっかけになった。

英語版の『イスラム国が発行する雑誌』を取り寄せ、日本語に翻訳して
大いに参考にした。日本語版は入手できなかったため、
英語が得意な生徒らが翻訳した。
雑誌の全ページを正確に翻訳するだけで一か月かかった。

圧力鍋爆弾は、即席爆破装置である。

圧力鍋や消火器など密閉される容器に爆薬を入れて燃焼させると、
圧力が容器を破壊する極限まで高まった時、一気に爆発する。
つまり、密閉力が高い容器ほど、破壊力が大きくなるのである。

その威力を決定づけるのは燃焼ガスである。爆薬が燃焼した際、
元の体積の何倍ものガスが発生するかが威力のカギを握る。

爆発の威力は、例えば人込みの中で爆破させれば
周囲にいる十数名を死傷させることができる。

記事には、家庭で取り寄せられる材料を使用した爆弾の作り方が紹介されている。
文系の生徒が翻訳したものを頼りに、理系の生徒が実験した。

彼ら進学クラスは、少数の反対者を覗き、ほとんどの生徒が団結して
非公式の反生徒会グループを作成。学校の勉強を放棄してまで
爆弾作りに専念した。日本の未来を担うエリート高校生たちが、
その頭脳と気力をテロ行為のために使ったのである。

生徒会は、事件が起きるまで彼らの詳細をつかめなかった。
生徒会の広大な諜報網をかいくぐり、
これだけのテロを実施できたことは、驚愕に値する。

彼らは執行部員のカバンにあえて爆弾の設計図を入れた。
生徒会では内部のスパイを疑わざるを得ず、
現実として執行部は機能不全状態に陥った。
猜疑心の強いボリシェビキの裏を突いた高度な工作だった。

彼らは休日のたびに他県の山中まで遠征に行き、爆破実験を繰り返した。
過酷を極めた実験では負傷者まで出た。
熱意のある一部の生徒はアラビア語を理解するようになり、
外国のテロリストとSNSでつながりを持つに至った。

するとこんな情報が入ってくる。

『アフガンを根拠地とする武装戦闘員募集。給料九十万(円で換算)。
 福利厚生として、奴隷(拉致した白人の奥さん)所有制度あり。
 無料アパートへの入居可。武器弾薬も至急。
 戦車、装甲車への搭乗訓練あり』

望まれる人…
・人種国籍は問わない
・神の言葉(アラビア語)で話ができる人
・ムスリムであること
・喜んで自分の命を投げ出せる人
・生命保険に加入していない人

Twitterで紹介されているテロリストの求人の例だ
(実話をもとにした)
アラビア語を日本語に訳すとこのような感じである。

「マリエちゃんも一緒にやろうよ」

「のー。ばくだん、こわい」

マリーは進学コースで少数の爆破テロ反対派だったが、
結局全体の流れには逆らえず、キャンプに参加させられた。
今面倒を見てくれているのは、五組の女子のクラス委員。

成績的には一組が相応しい彼女は五組である。
中等部の時から先生を言い負かすのが有名だったので、
先生たちから嫌われて五組に配属されていた。

彼女は生徒会直属組織であるクラス委員に属しておきながら、
反生徒会の立場をとるスパイだった。

「慣れれば大丈夫。怖いのは最初だけよ?
 マリーちゃんも理系クラスなんだから
 爆弾作りは慣れておかないとだめだよ」

時間は一か月以上前にさかのぼる。
ここは茨城県の山中だ。
生徒達は山奥で大規模キャンプを実施していた。
目的はテロに使う爆弾の製造と実験である。

女子に言われ、マリエも圧力鍋爆弾作りに励む。
マリーは『お母さんの台所で爆弾製造』と書かれた記事の
日本語訳を熟読させられた。(こういう雑誌も実在するから恐ろしい…)
記事によるとマッチ、砂糖、バッテリーを材料にして
1~2日で手軽に爆弾が作れてしまうのだ。

「最初は簡単なのからやってみようね。
 まずはふたを開けて火薬を中にセットして」

「ひぅっ」

「触っただけじゃ爆発しないから怖がらなくていいのよ?
 空いた部分に釘やベアリング(金属球)と金属片を入れて。
 ぎゅってなるくらいたくさん押し込むのよ?」

「What for?」(なんのために?)

「爆発した時にこれが飛散して人体を殺傷させるのよ。
 爆弾っていうのはね、漫画だと爆風と火炎で
 人を傷つけてるように見えるでしょ? 
 実際に広範囲の人を殺すには破片の方が重要なのよ」

マリエは、淡々と話すその女子に戦慄した。
彼女の名は『八木ナコ』。友達からは親しみを込めて
なこりん、なこっちと呼ばれていた。

「いっと うぃる きる ぴーぽ」(これは人を殺すんだね)

「そうよ」

「よう どんと まいんど? よう うぃる きる ぴーぽ」
(人を殺すことに抵抗はないの?)

「全然。だってあいつらは生きてる価値がないもの」

ナコは吐き捨てるように言った。

「マリエちゃんも生徒会に恨みがあるでしょ?
 あなたの失語症が治るきっかけになるかもしれないわ。
 最近は少し日本語も話せるようになってきたけど、
 あなたの心の傷は決して消えるものではないの。
 復讐はね、早く実行してすっきりしたほうがいいのよ」

ナコは多弁で理屈屋だった。
進学コースの各クラスの委員の中でも彼女の個性は突出していた。
今回の大規模キャンプも彼女が中心となって実施されたものだった。

ここでは生徒達は高度に組織化されていた。

キャンプのための「設営、炊事係」
外部からの探知を防ぐための「諜報係」
爆弾に必要な材料や道具を揃えるための「調達係」
爆弾を使い、試行錯誤をする「実験係」
さらに学校で爆破を設置するための「計画、実行係」

ナコの指示により、それぞれの役割に分かれ、日々研究を行っていた。
彼らは部活動にも適当な理由をつけて休み、
自宅では爆弾に関するあらゆる情報の収集にはげんだ。
調達係は科学系の工場に侵入し、貴重な材料を盗むこともあった。

全ての生徒が何らかの係に加入することを義務化された。
特に女子はこの危険な仕事を嫌がった。マリーもそうだが、
全体主義的な流れに乗せられ、「実験係」に編入された。

「爆破、五秒前」

圧力鍋の四方を大きな仕切り板で囲んでいる。

みんなが安全な場所に避難したうえで、爆破させた。
仕切り板は粉々に吹き飛び、煙が上がった。
生徒達から歓声が上がる。

いちおうキャンプも兼ねているので、炊事係がカレーを作っていた。
一生の思い出になるテロリスト養成キャンプである。
蒸し暑さに悩まされる九月の夕方。どれだけ蚊取り線香を炊いても
蚊はよってくる。中にはダニなどの危険な生物もいるから危険だ。

生徒達は蚊帳付きのタープの中に入ってご飯を食べた。
全面タープ式の大型テントを集めた、200名近くの大所帯である。
一つのテントに、五、六人の生徒が一緒になって寝た。
上空から見たらナバホ族(インディアン)の集落に見えたことだろう。

何もない木のそばにランタンを炊くと、
そこに虫が集まっていくのだった。
こうすると虫よけになる。

「マリーちゃん、泣いているの?」

深夜。目が覚めたマリーは、芝生の上で
両ひざを抱えながら座っていた。
天の川をぼーっと眺めていたら、太盛の懐かしい笑顔が
思い浮かんでしまい、泣きたくなってしまったのだ。

「いえす」

「元気出して。来月には生徒会ぎゃふんと言わせるんだから」

マリーの隣に座るのは、ナコだ。
彼女はマリエのことを特に可愛がっていた。
マリエの露出した肌に虫よけスプレーをかけてくれた。

「せまる、センパイは……しゅうようじょ にいる」

「そうね。あの方をいつまで収容所に閉じ込めて
 おくつもりなのかしら。生徒会の腐った奴らは許せないわ」

ナコにハンカチから受け取り、涙をぬぐうと気持ちが落ち着いた。
自分でも不思議なことに言葉が口からすらすら出て来た。

「私は友達に囲まれて……楽しい。でも太盛は……」

「うん。気持ちは分かるわ。でも私たちは、なげいている時間さえ惜しいの。
 奴らを一日でも早く倒すために爆弾作りに励みましょう?」

「私も頑張る」

「え?」

「爆弾、たくさん作る。それで生徒会の奴ら……ころす」

ナコは、これ以上ないくらい愉快な笑みを浮かべた。
彼女らの学年において、マリエは女子でトップの人気を誇るアイドルだ。
ナコは、マリエの病気を心配していたのもあるが、彼女を
爆弾テロ組織のシンボルとして利用したいと思っていた。

つまり彼女を組織の顔にして統制を強化するというものである。
「調達係」は外国の組織と取引し、中東からシルクロードを
経由して武器弾薬を密輸している。

実際にこんなことをしたら関税法や銃刀法などに
抵触しそうだが、小説なので気にしないことにする。

そういえば自民党が五輪のテロ対策にテロ等準備罪を
作ったことを筆者は思い出した。総務省のHPで
組織犯罪の定義を調べると、彼ら進学コースの
やっていることすべてが該当している。

与党が急いで可決させた法律のため、
途中で追加された項目が多く、筆者も未だに全体がよく分からない。

つまり一年生たちは非常にまずいことをしているわけだ。
強力な生徒会に対抗する勢力を作るためには爆弾テロしかないと思い、
このような設定を考えた次第である。しかし読み直してみると、
かなり無理がある設定だった。これは小説全体にいえることだが。

余談が過ぎたので本編に戻る。

ナコたちが目指しているのは、本物の武装集団だった。
生徒会のボリシェビキたちは、拷問は好むが
直接的な手段で生徒虐殺することはしなかった。ナコたちは違う。
彼女らは初めから人間を殺害する目的で爆弾を作っていた。

その目的は単純。生徒会に所属するすべての人間の抹殺であった。
そして強制収容所の囚人の解放であった。
内申点とか、進学先がどうとか。そんなことは重要ではない。
すでにボリシェビキに粛清された人の数は100を超えている。

愛する人、友人知人。恩師。かけがえのない人々を生徒会に
奪われた彼らの恨みは、膨大なエネルギーとなって
彼女らの組織を動かしていたのだった。




時間軸を進ませ、反乱が起きた場面に戻す。
一学年の大規模反乱は、生徒会本部にただちに報告された。

「人質を取って立てこもっているだと?」

「中央委員会のメンバーが何人か拉致されたようです。
 武装した集団が体育館に立てこもり、要求をのまなければ
 人質を殺害すると言っています」

会長の椅子に座るのはアキラ。
報告しているのは会長の側近の三年の女子だ。
彼女はロシア人で名前はナジェージダ。

ナジェージダはナツキと仲良しのミウを嫌い、
組織委員を辞め、会長の側近に役職を変えた。

長いのでナージャと呼ばれていることが多い。

また関係ない話になるが、
ナジェージダはスターリンの奥さんの名からとった。

監視モニターに体育館何の様子が映っている。

「奴らの要求はなんだ?」

「要約すると、以下の三点です。
 次の生徒会選挙に、彼らが支持する人物を出馬させること。
 選挙結果に不正がないように、第三者の監視を入れること。
 そしてその結果を正しく公表すること」

「つまり我々の選挙を妨害したいというわけか」

「とんでもない条件ですね。
 これほどの悪意を持った集団が一年生たちにいるとは」

呆れた顔でため息を吐き、ナジェージダは報告書を机の上に投げた。
長身でスタイル抜群の美女である。外国人だからか日本の成人女性並みの
色気がある。豊満な胸と腰のくびれが強調された魅力的なスタイルは、
アキラのお気に入りだった。

髪の毛は金髪で、おかっぱに近いショートカットだ。
皮肉にも髪の長さがミウと全く同じだった。
生徒会の女性の間でショートカットが流行していたのだ。

「奴らはどこにいる?」

「体育館を占拠して立てこもっているようです。
 報告によると多数の銃と爆弾を所持しているとのこと」

アキラは、直ちに武力によって鎮圧することを命じた。
今回は相手が多いので収容所二号室の囚人を使役する。

彼ら囚人を最前線で突撃する使い捨ての兵にしようというのだ。
執行部を含めて総勢100名の大部隊で包囲した。

非常事態のため執行部員らの
スパイ容疑は一時的に解除され、動員されたのだ。

体育館は異様な雰囲気に包まれていた。この暑さの中、
全ての窓が閉じられている。放置すれば熱中症になるだろうと
思ったら、いつの間にか空調が設置してあった。

エアコン設置も生徒会にばれないように計画したものだった。
窓ガラスは黒いカーテンで覆われており、
出入りできる全ての扉にバリケードが張ってある。

室外機の周りには遠隔操作できる地雷が仕掛けてあり、
近づくことはできなかった

執行部員が拡声器で中の者たちに語り掛ける。

「一年生の勇敢な生徒諸君。無駄な抵抗はやめて武器を置きたまえ。
 我が生徒会の同士たちをただちに開放しなければ、血の粛清を
 行うことになる。我々の要求に従わない場合は強制収容所送りである。
 学園は君たちの血で赤く染まることだろう」

女性の声である。体育館の外側にはスピーカーが設置してあったのだ。

「私たちは対等な立場で対話を望んでいます。もしあなた方が
 武力によって私たちを押さえつけようとするならば、私たちは
 最後の一人になるまで戦います。体育館の周りには爆弾が設置してあります。
 その扉に指一本触れたら爆破するよう設定してあります」

まさかと思って執行部員が金属探知機で調べると、確かに反応がある。
この緊迫した状況から嘘をつくとは思えないので、
爆破物があると考えたほうが良い。

「おい。貴様」

「は、はひ!?」

執行部員は、一人の囚人を指した。一年生の細身の男子だ。

「入り口にある扉に手をかけてこい」

「と、扉には爆弾が仕掛けてあるんだろう!?」

「いいから行け」

「僕に死ねっていうのか!?」

「貴様ら囚人に人権はない。
 それとも爪をはがす拷問をされるのとどっちがいい?
 三秒だけ時間をやろう」

男子に抵抗の意思は失われた。
震え、絶望し、やけくそになって扉に右手をかけた。

男子の手首から先が、飛んだ。
小さく、一瞬の爆発だった。

「あ…」

床に落ちた手をみる。
遅れて大量の血がぼたぼたと腕から落ちていく。

「うわああああああああああああああああああああああああああ」

さっきまで自分のものだった手。
両親から授かった大事な手。

こんなにも簡単に、人は手を失ってしまうものなのか。
よく見ると、胸にも破片が刺さっている。
服の破れた隙間から血が垂れる。
惨状に耐え切れず、男子は発狂した。

(高性能爆薬か。煙もほとんど出ないうえ、
 腕を一撃で破壊するとは)

執行部員にとって囚人がどうなろうと知ったことではない。
冷静に観察しながら、別の囚人に彼を医務室まで運ぶよう命じた。
彼がのちに再起不能になったことは言うまでもない。

「次はお前だ」

「え……?」

たまたま近くにいた女子の囚人を指した。

「さっきの奴は前の扉だった。おまえは後ろの扉から入っていけ」

「あ、あんな目に合うくらいなら、拷問されたほうがましです」

「私は行けと言ったのだよ。まだ分からないではないか。
 もしかしたら、あっちの扉には何もないかもしれないぞ?
 もし扉を開けることができたら収容所から解放してやる」

とても信じられないが、どのみち従わなければ殺されるかもしれないのだ。

「……嘘じゃないのね?」

「約束してやる。成功したらおまえを英雄として扱おう」

女子は覚悟を決めて、扉へ一気に近づいた。
その時であった。扉が向こうから空いたかと思うと、
生徒が手りゅう弾を外に投げ捨てた。扉をそのまま閉めてしまう。

「は……?」

近くにいた数名の囚人をまきこんで爆発した。
手りゅう弾は、爆風と破片を四散させて人を殺傷させる軍事兵器である。
直撃を食らった女子は瀕死の重症になった。
他の囚人も同様であり、廊下は彼らの血で汚された。
放置したら間違いなく死ぬだろう。

「う、うわあああああああ!!」 「助けてくれええええええ!!」

次から次へと囚人が脱走を始めた。
今回動員された執行部員が60名。
対して囚人が40名(うち四名は再起不能)いたから、
一度に捕まえることはできない。

「きさまあああぅ!!」 「ぐっ」

何人かはこん棒で殴られ、捕らえられてしまう。
だがほとんどの生徒は脱出した。

彼らは校庭を走り、敷地の外へ脱走しようとしたが、
巨大な門が固く閉ざされており、その周りは高さ四メートルの鉄条網で
くくられていて出られない。学校の敷地全体が収容所のようになっていた。

彼らはパニックを起こしてしまい、どこか隠れる場所はないかと
学内を駆け回った。正確な数は36名。
およそ一クラス分の囚人の脱走劇であった。

生徒会からナジェージダの声で館内放送が流れる。

『現在、囚人たちはB棟付近を逃走中です。
 全校を上げて脱走者たちを捕えてください
 クラスごとに武装していただいて結構です
 手段は問いません』

この放送により、学内は混乱の極みに達した。

一方でミウはそんな茶番劇を気にしていなかった。
テロが起きて最初に狙われるのは自分であり、
ナツキである。自分が所属する組織委員会が一番大切なのだ。

ミウら拠点とする総務部(組織委員会)の部屋へ駆けた。
彼女の目に飛び込んできたのは驚くべき光景だった。

「ミウ……君はここに来ちゃだめだ」

ミウの想い人がテロリストに捕らえられていた。
ナツキは縛られて膝をついた状態だ。
吐血したのか、制服の上着が血の色で染まっている。

「ごきげんよう。高野ミウ先輩」

「あなた達は……一年生の子たちね?」

敵はざっと五人はいた。全員覆面をしている。
ナツキ以外の委員の姿はない。

「ミウ先輩にはお使いを頼まれていただきたい。
 ここに会長を呼んでいただけませんか?
 断ればこの男の首をナイフで切ります」

ミウは足元に何かが転がていると思ったら、
人の歯だった。信じたくなかったが、ナツキは
鈍器で顔を殴られて前歯が何本か折られてしまったのだ。

「分かったわ。今連絡するから待ってて」

会長は電話に出なかった。何度かけなおしても
電源が入っていないため、のアナウンスが流れる。

「まだですか。早くしなさい」

「会長が出ないのよ。嘘だと思うなら私の携帯を耳に当てて」

テロリストはミウのスマホを手に取ると、床に捨てる。
ナタで叩きつけ、壊してしまった。

「なんてことを……」

「やっぱり不要になったから壊した次第です。
 先ほど、逃走中の会長とナジェージダを
 捕えたと報告がありました」

「え……?」

「さらに別の報告がありました。諜報委員の大半と
 保安員の全てを捕えました。そしてこの部屋も占領したも同然。
 高野ミウ先輩と高倉ナツキ先輩には体育館まで同行願います」

ミウは、生まれて初めて手錠をされた。
硬く、冷たい感触に震えがとまらない。
自由を封じられるのが、こんなにみじめな
事だとは知らなかった。

ナツキは荒い息を吐きながら体育館までの道のりを歩いた。
体中に殴打の跡があるため、歩くだけで痛むのだ。

体育館には捕らえられた生徒会の中枢メンバーがいた。
前の会議に参加した人は、アナスタシアを覗いてほぼ全員いる。
ナツキのように暴行された人も珍しくない。
一か所に集められた彼らを大勢のテロリストが囲っている。

外でも銃で武装したテロリストたちが警戒に当たっている。

まだ執行部員が学内に待機していたが、
すでに中央委員のほぼ全員を体育館で人質にとったのだ。
生徒会の指揮系統は崩壊した。

校長のハゲ頭はこんなときでも輝いていた。
背中合わせで座っている会長に言う。

「同士アキラよ。我々の敗因は、ずばりなんだと思う?」

「うまくかく乱されたことだな。我々は体育館の人質に
 気を取られ過ぎて、本部の警戒をおろそかにしすぎた。
 なにせ執行部員の全力を体育館に向かわせたのだ」

「私は敵を侮っていた。そして我々に対し、一年の子達は
 数が多すぎるようだ。今回の反乱分子は少なくとも
 2百人以上はいるだろう」

最初に体育館で人質を取って立てこもっていた間、別のテロ集団が
生徒会の部屋を襲撃して捕らえた次第だ。同時多発的な
犯行に、少数の生徒会は対応しきれなかった。それだけのことだ。

放送室にいるナジェージダも暴行を加えられ、テロリストの
要求通りの内容を放送するように言われた。

『全校生徒の皆さん。待ちに待った日が来ました。
 ついに収容所が解放されたのです。本日を持ちまして
 生徒会による圧政は終わりました』

一号室から三号室までの全ての生徒から囚人バッチが外された。
校内を逃げ回っていた二号室の人間も保護された。
重傷者はすぐに救急車で運ばれた。

強制収容所とは、ボリシェビキ支配の象徴だった。

「いったいどうなっているの?」

「俺が聞きたい」

太盛とカナは互いの手を握りながら、収容所三号室から外へ出た。
普段から表情に変化のない松本もさすがに焦っている。

テロリストが、手をつなぐのをやめろと言うので、
太盛とカナは距離を取った。
彼らには注意された理由が分からなかったが。

「今から体育館に行くぞ」

テロリストに先導されて体育館へ。
体育館に行くのは太盛達だけで、一号室や二号室の人は来なかった。

「せまる……」

太盛は体育館に着いたとたん、マリーにハグされた。
懐かしい彼女の髪の匂いに、暑い夏の日々を思い出した

マリーと太盛の感動の再開に一年生たちが暖かい拍手を送った。
彼らは計画が順調なことによって安心したのか、覆面を外している。
体育館の中だけで50名はいる。みんな、どうみても普通の高校生だ。
だが爆弾を製造できるほどのテロ組織なのである。

「無事でよかった……。あい みすど よう そおまっち」

「俺も寂しかったよ。マリー……」

収容所暮らしをしていた太盛には、事の成り行きが分からない。
とにかく自分が解放された事実を素直に喜んだ。

二人は飽きることなく見つめあい、マリーの方から唇を重ねそうになった。
その時、太盛はある方向から強い殺気を感じた。

ミウだ。一角に集められ、後ろ手に縛られた囚人(中央委員)の中に
高野ミウが混じっている。彼女は太盛とマリーをすごい顔で
にらんでいた。ナツキは歯を折られた痛みが時間と共に
増していき、極度のストレスを感じていた。

カナは目の前でラブコメを見せられて複雑だが、
今は助かった喜びの方がはるかに強い。
松本はずっと囚人の方を見てたから、マリーすら視界に入ってなかった。
マイペースな男である。

「太盛先輩。どうしました?
 そのままマリーと抱き合っていていいんですよ」

「き、君は?」

「一年五組のナコです。ナコちゃんでいいですよ?」

「いや、でもちょっと気まずいかな。ミウが見てるから」

「何言ってるんですか。あいつらは憎き囚人ですよ」

「しかし……。あいつらは負けたんだろ?」

「はい」

「君たちの組織のおかげで俺は助かったわけだ。
 本当にありがとう。あっ、あそこにいる役員連中は
 このあと、どうするつもりなのかな?」

「もちろん殺しますよ」

「へ?」

「銃殺刑にします」

ナコの目は本気だった。現に彼女らは銃や手りゅう弾で武装している。
腰に弾薬ベルトを巻き、軍用水筒と双眼鏡まで持っているから、
見た目はただの軍オタク。しかし本気で殺戮(さつりく)を目的とした集団だ。

「ナコちゃん。殺人は罪が重すぎないかな?
 あとで警察のお世話になると思うよ」

「すでに大罪を犯していますよ。C棟も爆破しました」

「しかしだね……。これ以上罪を重ねることもないだろう。
 あそこにいる中央委員も全てが悪者じゃない。
 俺は組織委員の人は嫌いじゃなかったよ。むしろ親切だった」

「でも彼女らを生かして置いたら、私たちに復讐するでしょ?
 仲間を殺された恨みってことで。生徒会がよく言ってましたね。
 復讐を防止するには全員抹殺するのが最善だと」

広報部から毎日発行されたビラにそういう内容が書かれていた。
スターリン語録が特に強烈だった。

「太盛先輩たちにここへ来ていただいたのは、
 生徒会の人間を射殺してほしいからなんです」

太盛は耳を疑いたくなった。
実際に拳銃を渡されたが、撃ったことがあるわけがない。
安全装置の外し方も弾の装填の仕方も分からない。

「撃つのが怖いですか?」

「震えちゃって照準できないレベルだよ。
 この展開に全く頭が着いて行かない。
 発狂したいほどだよ」

「なら撲殺でもします? こん棒とか木刀がありますけど」

「どうしても殺さないとだめかな。
 さっきも言ったけど、組織委員の人は生かしてあげたい」

「高野ミウがいるからですか?」

「そうだよ……」

この修羅場において、太盛はミウと話すようになった日を思い出していた。
梅雨の湿気に悩まされる時期だった。ミウが記憶喪失で困っていたから、
助けてあげようと思った。初めはささいなきっかけだった。
エリカに嫉妬され、マリーが奪いに来て、ミウと本格的に付き合うようになって。
紆余曲折を経てここに至った。

ボリシェビキの身に落ちたミウを太盛は本気で軽蔑した。
だが殺したいかと言われれば全く話は別だ。そこまでミウを恨んでいない。
少し前まで大好きだったのに殺意があるわけがない。

ナコは、カナと松本に銃殺の代役が務まるかと聞くと、
二人とも首を横に振るのだった。
普通の感覚をしていたら銃殺などごめんである。

「じゃあ、代わりに私たちが射殺しますね。
 本当は元三号室の人たちにやってほしかったのに残念です」

おい……と太盛が言う前にナコと仲間たちが
囚人に対し、横一文字に並んだ。
凍てついた表情でライフルを構えており、
今すぐにでもトリガーを引いてしまいそうだ。

「ひぃ……」「やめてくれ!!」「助けてくれぇ…!!」

中央委員たちはいざ自分が殺される側の立場に回ると
命乞いを始めるのだった。都合の良い話である。
ナコ達一年はいら立ち、いっそ拷問してから殺そうかと思った。

会長と校長は静かに目を閉じた。ナツキはただ天井を見つめていた。
ミウは神に祈るための十字架に手をかけられないことを残念に思った。

(私が死んだら、ママは家でひとりぼっちか。パパも悲しむだろうな)

中央委員に選出されたのが全ての間違いだった。
だが言い訳はしない。ナツキと付き合い、運命を共にすると
決めたのは自分自身。死ぬのは一人じゃない。だから落ち着いていられた。

太盛は体をそっと銃の前に差し出した。
中央委員達をかばう格好になった。

ナコが呆れて言う。

「なんのつもりですか? そこにいると弾に当たりますよ?」

「俺も一緒に死のうかと思ってさ」

「はい?」

「まず俺を殺せよ。そのあとあいつらを殺せ」

「NO WAY!!」

すぐにマリーが止めに入った。
太盛にしがみつき、銃殺隊の前から遠ざけた。

「太盛は……しんじゃだめ……。しぬのは……あいつらだけ」

「おまえ自分が何を言ってるか分かっているのか?
 あの中にはミウがいるんだぞ。おまえはミウが死んでもいいのか?」

「ミウは、わたしたちの、てき」

「ミウがおまえのことを心配して毎日お見舞いに
 来てくれたことを忘れたのか?
 あんなに優しい子をお前は殺すのか?」

「わたしたち、しんがくコースの目的は、あいつらのまっさつ。
 そのために、いままで準備してきた」

太盛はマリーの冷たい目を見て、テロ組織に完全に染まっていることを理解した。
人間の本質とは何か。太盛が常に収容所で考えていたことだ。

人とは、所属する生き物である。家庭、学校、会社、地域。
所属した組織に対して人は従順になる。そうしなければ
生きていけないからだ。社会不適合者は刑務所か精神病院にでも入れられる。

今太盛の目の前にいるマリーは、太盛の知っているマリーじゃない。
だが変わらないものもある。太盛に対する愛だ。
それはミウも同じなのだろう。

「せまるには、私がいるからだいじょうぶ」

また、太盛にしがみついた。動物園にいるコアラのような動作だ。

マリーは銃殺隊に死刑執行を待って
もらうよう頼んでから、太盛に愛の告白をした。

「I will be よあ がーる・ふれんど」(私を彼女にして)

体育館にいる、総勢70名以上の視線が太盛に集中した。
そのうちの一人にミウも含まれていて、激しく嫉妬していた。
おまえにはナツキがいるだろうと、どこからかツッコミが入りそうだが、
乙女の気持ちは複雑なのだ。

太盛は返答に困り、思わず中央委員の方を見た。
あの女がいなかった。エリカの姉のターシャ。奇跡的に捕まらなかったのか。

「私ならここにいるけど?」

と涼しい顔で入って来た。二重スパイのアナスタシア・タチバナである。
彼女の協力者となったエリカも一緒にいる。

「お疲れ様です。アナスタシアさん。執行部の残党の方はどうでしたか?」

「みんな降伏させたわ。私の権限でね。うふふ。これで完全勝利よ」

ターシャとナコは裏でつながっていた。
計画を実行するかなり前から、取引を行っていたのだ。
ターシャは前会長を粛清されてから兄を
恨んでおり、現生徒会を崩壊させる機会を狙っていた。

諜報候補委員のトップとつながることによって、
爆破テロ計画を秘匿することができたのだ。
執行部員のカバンに設計図を入れたのはターシャである。

「太盛君。久しぶり」

「エリカ。思ってたより元気そうだな」

二人の再開は、夏休みの別荘以来だ。ちなみに現在太盛は
マリーにしがみつかれている状態でエリカと熱く見つめあっている。
わけのわからない状況であるが、依然として修羅場である。

この世界の本来の運命では、太盛とエリカはのちに結婚する。
それを阻止するために現れたのがミウ。ジョーカーがマリー。
現在太盛の彼女はカナ。非常に複雑な人間関係になってしまった。

学園の体制が崩壊するこの危機的状況において、
三人の女たちは全員が太盛を求めていたからである。
(この場合、カナは除外する)

時間を置いて太盛を一目見たら、みんなが夢中になってしまう。
悪魔的ともいえる魅力を太盛は持っていたのだった。

この作品は、恋愛物語である。
物語の焦点は、ミウが太盛と結ばれるかどうかである。
途中で共産主義や生徒会や爆破テロなど余計な要素を多数挟んだ。
そのため、ミウは容易に太盛と付き合うことはできなかった。

「一年生のみんな、聞いてくれ」

太盛が口を開いた。

「俺は誰にも死んでほしくない。虫のいい話だってことは分かっている。
 だが本当に平和的解決を望んでいるんだ。今の生徒会を君たちが 
 恨んでいるのはよく分かる。俺だってそうだ。だが、俺たちは
 昔のことを忘れて新しい次元に進まないといけないんだ」

「俺は、今この瞬間に、君たち一年生を中心とした新しい生徒会を
 組織するべきだと思う。リーダーは好きに決めてくれ。
 二度と共産主義とか強制収容所が学内に生まれないよう、
 学校のためになる組織を作っていこう。最初は俺が組閣を担当する」

「生徒会の奴らは、特別教室にでもぶち込んでおけばいいさ。
 あいつらに救いようがないのは事実だ。卒業まで他の生徒と
 関わらないよう隔離して過ごしてもらおう。もちろん
 暴力とか虐待はなしだ。ただ一般生徒から離れてもらえばいい。
 転校してもらうのも有りだな」

「死が全てを解決するってのは、嘘だよ。そんなことしても
 自分が死ぬまで殺人の罪を背負うことになる。後悔は
 一生続くんだ。だから安易に殺人をするべきじゃない。
 いいか、俺たちはすでに旧生徒会を倒したんだ。
 もう敵はいない。今日から君たちが新しい生徒会だ」

その説得が効いたのか、銃殺隊は次々に銃から手を離した。
彼らは東西冷戦の終結を聞いた時のソ連兵の顔をしていた。

ナコだけは厳しい目をしている。太盛に口を挟んだ。

「では先輩は、彼女には誰を選ぶおつもりで?」

誰も選ばないという選択肢をしたら銃殺されかねない。

「はっきり言うぞ。高野ミウだ」

ミウが目を見開き、ナツキはうなだれた。

「学園が平和に戻るなら俺はミウと付き合いたい。
 初めから彼氏彼女だったから元のさやに戻るだけだ。
 何も不思議なことじゃないさ」

太盛に反論する者は不思議と表れなかった。
マリーもエリカも、太盛の決定なら従うしかない。
この状況でミウを選ぶのなら、それが間違いなく彼の本心だからだ。

その後、太盛の願いとは裏腹に、学園の収容所は使い続けられた。
元生徒会の人間を閉じ込める場所が他にないからだ。
新しい生徒会は、役員が全員一年生という変わった組織になった。
そして元中央委員たちを生徒会の法廷に招き、裁判を行った。

ミウとナツキは、軽犯罪の人が収容される部屋へ行かされた。
旧一号室である。元中央委員で、軽犯罪ですんだのは、この二名のみである。
太盛の懇願により、刑がさらに軽くなり、わずか五日で解放された。

「またこうして二人で歩けるときが来たね」

「ああ。もう間違えることはない。
 俺たちはいつまでも一緒だからな」

手をつないで廊下を歩くミウと太盛。

カナ、ナツキ、マリー、エリカ。以上の四名との複雑な人間関係を
整理し、最後はこの状態に落ち着いたのだった。

今となっては、太盛は生徒会の幹部として所属する唯一の上級生。
彼は組織を作ることに関しては誰よりも優れており、
部署の作成や役員の採用においてその手腕を発揮した。

彼の発言力と影響力は大変なものだった。
ナコからも認められて副会長に選ばれるに至る。
新会長のナコを補佐するのが仕事だ。
太盛のその地位は卒業まで続いた。

ミウと太盛の関係を邪魔する者は学園には存在しなくなった。
これが、神が定めた運命に従って生きたミウの学園生活だった。
 
                          終わり

『学園生活』 ~ミウの物語

『学園生活』 ~ミウの物語

(孤島生活のスピンオフであり、 モンゴルへの逃避の続編にあたります) 次の舞台は学園だった。 高校生に戻ったミウは、同級生の太盛をエリカから 奪うことを決心する。 かつて多くの人間を悲劇の世界に 巻き込んだ、憎むべき敵であるエリカ。 彼女は女子のカーストの頂点に君臨する人物であり、 支配力は圧倒的だった。 太盛とエリカは公認のカップルなのだ。 ミウが黙って見ているだけでは、 太盛とエリカが婚約して結婚する流れを防ぐことはできない。 党首や仮面の男に託された思い。 誰よりも純粋なラッキーガール。 ミウにどんな展開が待ち受けているのだろうか。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-17

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Copyrighted
  1. 「ミウちゃん。そろそろ起きないとお昼休み終わっちゃうよ?」
  2. 「あーら。太盛くん。こんなところでおしゃべりしてたのね?」
  3. 「それがどうかしたか?」
  4. 無題
  5. 「雨が続くわねぇ 屋内でデッサンをしてもネタが尽きるわ」
  6. 「この、大バカ者が」
  7. 「この辺りはどこまで行っても山ばかりなんだね」
  8. 「マリーはそこの玄関から帰りなさいよ」
  9. 魔の生徒会執行部(夏休み前)
  10. マリーの入院 太盛の中学時代
  11. 神社の巫女さんは太盛の幼馴染だった
  12. 巫女さんはいろいろと詳しかった
  13. 太盛の別荘生活 その①
  14. 太盛の別荘生活 その②
  15. 「マリーはどうなった」
  16. 「君のこと。どうしてマリンって呼んだのか」
  17. マルクス・レーニン主義的世界観
  18. 『強制収容所三号室』での生活
  19. 双子の兄妹 革命記念日
  20. ミウはボリシェビキの美男子に恋をした
  21. ミウは太盛と再会したが、病んでしまった
  22. ミウは病気で学校を休み、恋に悩んだ
  23. ミウは運命の11月を迎えた
  24. 最終回『収容所爆破事件』