モンゴルへの逃避

初日

「エリカ、君とはしばらく会いたくないんだ」

太盛(せまる)がモンゴルの首都、ウランバートルへ着いたのは
九月の中頃だった。東京に比べて気温が10度低い。
夜はかなり冷え込むのでダウンジャケットが役に立った。

モンゴルは遊牧民の国である。

太盛は中世の街並みを想像していたが、橋や鉄道はもちろん、
国会議事堂まである。十分に都市化していた。

ソビエトに併合されていた時代に作られた集合住宅が多い。
電気ガス水道の通った高級アパートはひときわ目を引いた。
近代的な生活を享受できる場所は、モンゴル国民のあこがれらしい。

ここは日中と夜で寒暖の差が激しい。

「さてと、初日は館に泊まろうか」

太盛が言うと、隣に立つユーリはうなずいた。
ユーリは茶色のロングヘアーが特徴の女性だ。
 太盛の7歳年下で26。まだまだ女の盛りだ。

「手をつないで歩こう」

「よろしいのですか? 
どこに刺客が潜んでいるか分かりませんが」

「いいんだよ。初日だし、少しは気を抜こうよ」

「太盛様がそうおっしゃるのでしたら」

太盛とは愛人関係だったが、モンゴル内では夫婦として
振舞うと約束していた。使用人と思われないようにと
隣に並んで歩く姿がどこかぎこちない。

太盛は小柄で身長が167センチだ。
長身女性のユーリと2センチしか差がない。

ユーリは緊張とうれしさから握る手にずいぶんと
力がこもっていて、太盛を驚かせた。

ホテルで一夜を明かした後、ウランバートル市街の外へ出てみた。

ウランバートル周辺には観光地が点在する。
観光客を呼び込むために宿泊体験ができるゲルや
仏教遺跡などの歴史的建造物がある。

他の観光客は車で移動するが、太盛とユーリは荷物持ちの
馬と共に歩いた。特に行き先は決めてない。

首都から離れた場所で日中を過ごしたかったのだ。

向かう先はどこも地平線であり、距離感を狂わせる。
青く澄んだ空は故郷の日本を思わせた。
右手側に山を見ながら適当に進んだ。

ゲルが4個並ぶ集落があった。
家畜がいる場所には大きな柵がしてある。
放牧中なので家畜は外に出ていた。

あたりはひたすら草原が続くばかり。
2頭の馬に乗った子供たちが、羊を追っている。
羊が逃げないように器用に追い詰め、走らせる。

太盛達は集落から離れた場所で馬を止めて
昼食をとることにした。馬上の子供たちが不思議そうに
太盛達を見ていたが、すぐに興味をなくした。

モンゴルの食事は大きく分けて二つ。
白い食べ物である乳製品と赤い食べ物である肉類だ。

保存食は町を出る前に買い込んでおいた。
馬に背負わせた分と太盛の登山用ザックの分を
合わせて、結構な数の日用品が入っていた。

「決して美味しい味ではありませんね」

「そのうち慣れると思うけどな。
 ヤギや羊の肉は体が慣れてないから
 お腹を下さないと良いね」

「そういえば、トイレはあるのですか?」

「あるわけないだろ。みんなその辺に穴を掘って済ませるのさ。
 体を隠すために大きめのタオルを持っていくといいらしいぞ」

ユーリは、あからさまに嫌そうな顔をした。
20代の女性なら誰だってそうだろう。
太盛は適当な時間に引き上げてホテルに戻ると説明した。

「でも、一日くらいテントで泊まってみたいです」

「どっちなんだ君は」

「アウトドア生活は憧れでした。
 私はお屋敷に来てからずっと缶詰でしたから」

「それは俺も同じだ。会社と家を往復する毎日だったからな。
 キャンプはマリンが幼稚園の時にやったのが最後だ」

太盛が手慣れた様子でまずグラウンドシートを地面にしく。
次にインナーテント(テントを畳んだ状態)を広げ、
地面にペグを打ち込んでいく。

ペグと張り縄をテントの周囲に円を描くよう、
八角形にしっかりと固定した。

風が穏やかなので設営が楽だった。
2人が泊まるだけなので、日本で買ったインディアン式の
ポールテントだ。大人4人が寝ころべるほどのスペースがあるため、
中に荷物をまとめて置ける。

このテントは1人でも簡単に設営ができるだけでなく、
風に強い。外から見ると、草原に出現した黄色いとんがり帽子である。
天幕の中央を一本の太いポールで持ち上げる構造なのだ。

太盛が汗をタオルで拭きながらテントを見上げた。

「このテント、強風で飛ばされるかもしれないな」

「しっかり張り縄をしたのに心配?
 モンゴルの風はそんなに強いのですか?」

「半端じゃないよ。草原は風をさえぎるものがないからな。
  急な突風が来たらまじで飛ばされるかも」

「もしだめそうでしたら、首都へ引き返しましょう」

集落のゲルがユーリの視界に入る。
入り口にアンテナと太陽光パネルが取りつけてある。

「思っていたより近代的な生活をしているんですね」

太盛もユーリと同じ方向を見た。

「テレビで見たことあるけど、中は快適そうだね。
  季節ごとに場所を移動するらしい」

「そうなのですか」

「家畜が食べる草の量に影響するみたいだよ。
 冬場は草が減るからね」

ゲルの入り口部分の扉が開き、おじいさんがでてきた。
テント内で干している羊の肉を管理しているのだ。
彼らはゲルの出入りを繰り返して家事をこなすのだ。

「私たちも快適なゲル生活がしてみたいですね」

「おっ、君はテント生活に興味があるのか」

「生で見ると楽しそうで興味がわきました。
 日常から離れて少しワクワクするじゃないですか」

今どきの遊牧民はアンテナを常に持ち運ぶ。
ゲルの中でテレビが見放題だ。ネット環境の普及も目覚ましい。
携帯電話の所有率は100パーセントを超えているらしい

「太盛様。モンゴルの空気はこんなに乾燥しているのですね」

「そうだね。肌に感じる風の冷たさが日本の非じゃないね。
 九月でこんなに涼しく感じるとは」

「それと空をよく見ていないと。
 いつ天気が変わるか分かりませんから」

「夕方になる前にまた町の宿へ戻ろうか」

「来月は相当な冷え込みになりますから、
 携帯用コット(ベッド)を買っておきましょう。
 床からの冷気を防げます」

「そこまで必要かな? 冬になったら俺らのちっぽけなテントじゃ
 寒さに耐えられないと思うけど。宿に泊まるのが一番だよ」

「大雨の時などは仕方ありませんが、
 天気の良い日はテントで泊まるべきです。
 節約しないと、今後の生活が……。あっ」

ユーリがしまったと言いたそうな顔をした。

「急にどうした?」

「なんでもありません」

「怒らないから、素直に言ってくれ」

「その、私たちにはもう、お金は
 意味のないものかと思ったものですから」

「ああ、なるほど」

太盛がせつない顔でチーズをほおばる。
会話が止まってしまった。
ユーリは太盛が話し始めるまで待つことにした。

首都 ウランバトル

折り畳み式テーブルの上にモンゴル食が並んでいる。
パサパサした四角い菓子パン、クリームやチーズ。
くせが強い味で最初は戸惑ったが、慣れるとけっこう食べられる。

太盛がミルクティーを飲み干してから言った。

「俺たちの旅の目的は、ここで死ぬことだからな」

「はい」

「町で買った日用品とアマゾンで買った間に合わせの
 アウトドアグッズで生活するのも、いつか限界がくる。
 深刻なのが冬の備えができていないこと、
 いつかはお金が尽きるということだ。
 エリカから逃げたい一心で君とこんなころで
 逃避行をしている俺は、本当にバカだと思う。
 あの屋敷にいる時から、俺はどれだけ君に」

「いいえ」

ユーリが強引に話を割った。強い口調だった。

「私は、私の意思で太盛様にお供すると決めたのです。
 失礼を承知で言わせていただくなら、お屋敷にいる時の太盛様は、
 毎日うつろな目をして人形のようでした。
 このモンゴルの逃避行は無謀以外の何物でもありませんが、
 少しの間でも太盛様の目に人間らしい輝きが戻ったことを私は…」

ユーリはそれ以上続けられなかった。
太盛が無言で抱きしめたからだった。

太盛はすすり泣いていた。ユーリへの思い。
家に捨てて来た家族への思い。草原の風に吹かれて
頭に浮かぶのは後悔ばかり。

ユーリの背中に回された太盛の手は震えていた。
彼女は黙って彼の頭を撫でる。
太盛のすすり泣きが少し和らいだ。

「ごめん……。ごめん」

「いいの」

「ごめん。ごめんな。本当に」

「私は本当に負担に思ってないから」

敬語を廃したユーリの言葉に太盛は嘘みたいに泣き止んだ。
2人は屋敷では主従関係にあったが、
裏では愛人としてつながりあっていた。

太盛がユーリの手をぎゅっと握ると、
どちらともなく唇を重ね合わせた。

今回の逃避行は彼らの関係が原因でもあるが、
一番問題なのは太盛の妻であるエリカの性格だった。

ここは大草原なので監視の目はない。
テントの中で肌を重ねあった2人は気分が盛り上がる。
その乗りでテントの中で一夜を明かすことになった。

ユーリは太盛の腕の中で子供のように眠っていた。
太盛の夢の中でエリカの顔が出て来たので寝起きが最悪だった。

「これが草原の夜明けか」

ユーリと太盛は肩を並べてテントの前に腰かける。
地平線のかなたを眺めていた。

山の果てから太陽が姿を現す。
なだらかな起伏を描く大地を黄金色に染め上げていった。

昨夜、強風が吹いた。
ゲルのような強固なテントでないワンポールテントは
すぐに吹き飛ぶのかと思いきや、意外と丈夫だった。
このテントは北海道の有名メーカーの作った商品だ。

「ゲルじゃないと無謀なのは分かっていましたけど。
 明日からは宿に泊まるべきでしょうか」

「うーむ。どうするのがベストなんだろうな。
  いっそゲルを買ってしまったほうが安上がりなのだろうか」

首都から続いている舗装道路を一台の車が通りすぎて行った。
家族らが楽しそうに話しているのが車の窓越しに見えた。
朝早くから元気なことである。

舗装道路は草原のど真ん中を突っ切るようにどこまでも続いている。
それ以外に道路はない。

「家族か。そういえばマリン達は今頃どうしてるのかな」

ユーリがむっとした顔をした。
彼らは非情にも家族を捨てた者同士。
今更後ろを振り返っても仕方ないのだ。

太盛はすぐ察して話題を変えた。

「さて。ウランバトルへ帰るぞ」

「いいけど、ウランバートルって伸ばさないのですか?」

「伸ばさないのが本場の発音らしいよ」

「そうなのかしら」

テントを中心としたアウトドアグッズを綺麗にまとめる。
折り畳み式のコンロ、寝袋、エアマット、グラウンドシート。
それぞれを丁寧に畳み、馬に背負ってもらう。

日中のウランバトルの商店街は人でにぎわっていた。

モンゴル人のおばさんから話しかけられる。
つたない英語で中国人かと聞かれた。
ユーリが愛想よく日本の旅人だと返した。
教養のあるユーリ。彼女の英語は達者だった。

極東地域には様々な人種がいる。
東アジアには漢民族、満州族、朝鮮、モンゴル、
ロシア系白人、ウイグル族がいる。中国で回教徒と呼ばれる、
ムスリム系の女たちは黒いマントを羽織っている。

「国内にいるのは、ほとんどモンゴル人のようですね。
 モンゴル語は朝鮮語の音の響き似ています。
 北京語や広東語だったら聞けばすぐに分かりますよ」

「聞いただけで分かるとは、さすがだね。
 大学ではロシア語も習ったと聞いているけど」

「ロシア語はあいさつ程度です。
 勉強する時間が足らなくて。
 あと一年くらい大学にいられたら
 文法の勉強ができたのですけど」

ユーリは老教授のように穏やかな口調だ。
太盛はユーリの博識なところが大好きだった。

西の方から雨雲が近づいてきた。
気圧が下がり、肺へ入る空気が重く感じる。

「アイム フォウチュナリィ トゥ セイ
 アボウト ヨア パスオート
 イズ イット フォウ ハンドレット?」

「ノゥ シックス……シックス ハンドレット」

質素な宿で料金の前払いを済ませた太盛。
彼のつたない英語では、お金を払うのすら苦労した。
昨夜泊まった豪華なホテルと違い、日本でいう民宿に近いところだ。

「ふぅー」

ベッドに横になる太盛。
ユーリは手荷物を部屋の隅にまとめて太盛の横に座る。
窓からモンゴル中部の大自然を見ている。

馬は預り所に置いてきた。

「これからどうするべきなのか。
 草原を歩くのって疲れるよな。
 俺らがあのまま西へ進んだら、どこまで行ったのかな?」

「数百キロほど進むとカザフスタンとの国境に達します。
 草原地帯から不毛の大地へ変わりますよ。
 太盛様もご存知の通り、砂漠はこの世の地獄です」

砂漠を歩きたくないのは太盛も同じだった。

神はイスラム教徒を苦難に耐えさせるために
砂漠の民に選んだという。太盛達が死ぬことを
目的にしているとはいえ、砂漠の過酷さで
死ぬくらいなら飢え死にの方がましかと思われた。

ユーリがポットでインスタントの
コーヒーを淹れてくれた。
部屋に置いてあるサービスだ。

「でもね」

太盛がカップを持ちながら言う。

「俺はともかく、君をおいて死にたくない。
 一緒に死ぬのも、なんだか納得がいかない。
 限界まで生き延びたいと思っているんだ」

「私だって無駄死にするつもりはありません」

「また敬語か……」

「え?」

「敬語は使わなくていいって言ってるじゃないか」

「気に入りませんか?」

「今は、2人きりだろ? ここは屋敷じゃないんだ」

太盛の語尾にとげがあった。太盛は、愛人の
ユーリとは対等な関係でいたいと思っていた。
矛盾しているかもしれないが、彼が愛しているのは
ユーリであって、メイドのユーリではないのだ。

「敬語は癖ですわ」

「なら、そんなクセは捨てちまえばいいのさ」

「クセは、簡単に治せるものではないのですよ」

太盛のスマホが音を鳴らした。ラインの着信音だ。

太盛は鼻を鳴らし、スマホを壁へ投げた。
ユーリがすぐにスマホを拾うと、顔をしかめる。

彼らの予想通りエリカからのメールだったのだ。

『お互いに頭を冷やす時間は十分にあったと思いますわ。
 娘や使用人たちもさびしがっていますから、そろそろ子供みたいな
 真似はやめて、家に帰ってきてくださいな』

ラインには動画が添付してあった。
エリカとの間に生まれた娘たちが太盛に
帰ってくるよう懇願している。

太盛は娘の顔を見た瞬間、涙がぽろぽろこぼれた。
外国語へ逃避しても娘のことは片時も忘れたこともない。

子煩悩の太盛の心理を揺さぶるエリカの作戦なのである。

またエリカからメールが送られてくる。

『いつまで既読スルーを続けるつもりですの?
 電話にも全然でてくれないなんて、さみしいです。
 あまり私を悲しませないでほしいですわ。
 力づくでも太盛様を取り戻したくなるではないですか』

太盛には娘が3人いる。
末っ子のマリンが一番のお気に入りだった。
太盛はマリン達に黙って
モンゴルへ逃げたことを後悔していた。

成田空港に着いた時からその思いが強くなった。
何度か本気で自殺しようかと口にしたが、
そのたびにユーリに止められた。

あの子は日本で平和に育ってほしかった。
父親と愛人の恋愛劇に子供たちを巻き込みたくなかった。

エリカは金を売るほど持っている。
太盛が消えても生活に困ることは、おそらく一生ない。

「お父様。ようやくお会いできましたわ」

だから、この声も幻聴だと思った。

ベッドに腰かけ、うつむいていた太盛が顔を上げる。

「日本でいくら探しても見つからないわけですわ。
 まさかモンゴルにいたとは。
 西洋趣味のお父様のことですから、
 EUにいるかと思っていました」

モンゴル風の衣装に身を包んでいる。
亜麻色のセミロングの髪、くりっとした愛らしい瞳。

ハキハキとして大人びた口調は、
間違いなく太盛の娘のマリンだった。年は9歳である。

「マリン……。いろいろ言いたいことがあって、
 なにから言えばいいのか」

「私も言いたいことが山ほどあります」

「こんなこところまでよく無事で来れたね。
 まさか一人で搭乗手続きを済ませたわけじゃないだろ?
 それにどうしてモンゴルの民族衣装を着ているんだい?」

「服は現地で買いました。ちょっとしたモンゴル気分を
 堪能しようかと思いまして」

「そ、そうか。ところでママは……」

「すごく怒っていますわ。それはもう盛大に」

「それはまずいな」

「ええ。まずいです」

ユーリは彼らが話している間、窓の外を警戒していた。
長い茶色の髪を後ろでまとめている。

「ユーリは追手がいないか見ているのね?」

「左様です。お嬢様」

「まだ大丈夫だと思うわ。途中でまいたから」

衝撃の事実に太盛とユーリが固まる。

淡々と述べるマリンの横顔は大人の女を思わせる。
危機的状況なことを分かっていながらこの冷静さ。
普通の少女ではないと思わせる何かがあった。

太盛達は家出中だ。
妻のエリカにばれないように成田空港まで向かうのは大変だった。

太盛は深夜のうちに多摩市の家を飛び出た。
ダミーとして国内のいくつかのホテルや旅館にネット予約までした。
表向きは使用人のユーリを連れての旅行ということに
なっているはずだった。

もちろんエリカは妻なので、使用人と二人きりの旅行など言語道断である。
疑い深く、根に持つタイプのエリカを敵に回したら、それこそ
地の果てまで追いかけられることになる。

太盛はエリカが苦手だった。

結婚は親同士が決めた縁談。
幸せだったのは結婚して数か月だけ。

エリカは夫を執拗(しつように)に束縛した。
太盛は家にいても会社にいても
妻の見えない影におびえるようになった。

過ぎた愛情だった。太盛が必要もないのに寄り道してから
帰宅すると、待っていましたと言わんばかりに尋問会が始まる。
太盛がどこへ行っていたか正確に答えないと
いつまでも質疑応答が続き、夕飯すら食べられない。

家に帰って来てから玄関で携帯を手渡すのは日常だった。
エリカは夫の仕事の内容もいちいち把握したがった。
連日の質問攻めのせいで太盛は激的にやせてしまった。

妻の説教を思い出す。

『うふふ。私だって好きでこんなことしているわけではありませんの。
 私は太盛様を困らせたくはありませんわ。ただ、太盛様には
 もう少し旦那様としての立場を考えた行動をしていただきませんと』

休みの日も妻といることを求められ、勝手な外出は許されなかった。
たとえば日用品を買いにスーパーに行くときも妻はついてくる。
学生時代に付き合っていた恋人にまで嫉妬され、
電話帳やラインから登録を削除された。

浮気防止のために会社の飲み会に参加することも禁止された。
会社では付き合いの悪い男ではなく、
極度の愛妻家として知られていた。全くの誤解である。

『そういえばさ、同期の○○さんが今朝の朝礼当番で
 役員連中が集まってる前で堂々とさ』

『それは女性の方ですか?』

『え?』

『太盛様と同じ部署の方なのですか?
 よくお話とかされるの?』

『いや、そんな。ただの仕事仲間なだけで……』 

夕飯時にこのような話になるのは日常茶飯事だ。
話の最中に女性の話が出るだけで妻は不機嫌になる。

アパレルショップの副店長の女性が好みのタイプだと
うっかり口にした時は大変だった。
エリカはその店の悪口をよく口にするようになった。
太盛がその店で買った服は、焼却炉で燃やされてしまった。

太盛は妻に幻滅し、父に離婚の相談をした。
太盛の父は資産家であり、権力者だった。

父の決定は絶対である。彼にとってこの世の理である。
離婚とはすなわち、父の組んだ縁談の破綻を意味する。

太盛は3時間も説教された。

そんな軽い理由での離婚など絶対に許さないと
堂々巡りの話が続いた。父はエリカの味方だった。
太盛が監禁に近い束縛をされてもなお、エリカの味方だった。

太盛は今年で33だ。成人してからも子供の時と
同じように父に叱られるのが情けなく、みじめに思った。

説教が終わるころには、すべてから逃げ出したくなった。
勤務先の会社にはインフルエンザと称して蒸発した。

そしてユーリと一緒に蒙古逃亡計画を立てた。

父が息子の逃亡を許すはずがない。
父とエリカは共同で作戦を練っている。
太盛もユーリもそれは承知していた。

妻の放った刺客の襲撃

「太盛様。ここにいたらやられる可能性が高いです」

「深刻だな。だが、どこに逃げればいいのかもわからない」

「いっそ当局にでも」

「当局?」

「モンゴルの警察です。この国の行政がいまいちわかりませんが、
 どこかに民間人を保護する施設はあるのではないですか。
 事情を話して保護してもらえばよろしいかと」

「なるほど。さすがユーリだ」

中央通りに立派な警察署があった。
外観は日本の警察署と変わらない。
中年の警官が門の前に立っている。

ユーリが英語で話しかけるが、モンゴル人の警察には通じない。
逆に向こうが中国語で返してきたので、ユーリは片言で応じていた。

「にぃしぃ ぶぅじぃ じゅんごぉレン?」

「ブゥシぃ ヲォメン シァン チュィ  レンゴウ」

ユーリは15分ほど警官と話していた。
太盛とマリンは中国語が全く分からないので黙って見ていた。
太盛ら一行でモンゴル語が分かる者はいない。
相手側も日本語が分からないから、会話は必然的に第三言語になるのだ。

ユーリはくわしい話をするのに語感が足りていなかった。
スマホの翻訳アプリを有効に使い、
日本の追手から逃げていることを告げた。

モンゴルの警官は鼻からそんなドラマのような話を信じておらず、
ユーリをナンパし始めた。日本人の女性はどこの国に行っても
男に口説かれやすいといわれる。

長身で容姿の整ったユーリはなおさらだ。芯の強い瞳。
東北人特有の透き通った白い肌。長い茶色の髪をカールさせている。

せめて自分にモンゴルの言葉が理解できればとマリンは思った。

マリンは分からないことがあるのが気に入らない性格だった。
国内から持ってきたポケットサイズのモンゴル語辞書を握りしめた。

ユーリは警官をにらんだ後、きっぱり話を止めて太盛に振り返った。

「だめでした。事情を話したのですが、そんな面白いジョークを
 どこの国で習ったんだい、お嬢さんと言われました」

太盛達は諦めて宿舎に戻ることにした。太盛が宿の管理人に
夜は侵入者に気を付けるように伝えたら、生返事を返されて腹が立った。

仕方ないので最低限の装備で敵を待ち構えることにした。
ちなみにこの世界ではどの国の人も軍事訓練を受けている。
武器はどこからでも簡単に調達できる。

自分の身は自分で守る。国家や法に過度な期待をしないことを
国連が定めていた。もちろん銃刀法違反はどこの国にも存在しない。
とんでもない世界である。

深夜になる。

風の音はほとんどしない。町を通る人もいない。

ガラスが割れたような小さな音がしたな、と思うと
ずしりと重みのある音がした。

(侵入者か!?)

太盛はベッドから飛び起きる。ユーリは部屋の隅で待機していた。
マリンも太盛に続いて起きた。時計を確認すると深夜の2時半。

宿は静まり返っているが、トントントンと押し殺したような足音。
賊が、確実に階段を登っていた。

「やりますか、太盛様?」

太盛はユーリに無言でうなずく。
ユーリ階段に爆薬を仕掛けていたのだ。

ドイツ製の地雷である。
階段の手すりの裏に設置した。
地雷は布で偽装されていた。

伸びた線(有線)は太盛達のいる二階の部屋に続いており、
起爆装置はユーリが握っていた。
両手で押し込むタイプのスイッチである。

足音が、部屋の前まで近づこうとしていた。

ユーリがスイッチを押して起爆する。

乾いた爆発音がして煙が宿内を埋め尽くした。
さく裂した破片と散らばった木片、そして人のうめき声が聞こえた。

太盛が扉を開けると、黒ずくめの男三人が血を流しながら倒れていた。
男たちはまだ息がある。腕が吹き飛んでおり、内臓をまき散らしている。
地獄絵図だった。

男たちは忍者のコスプレをしていた。
手にしていたであろう銃が床に散らばっていたので太盛が拾う。

太盛は男たちの頭に銃弾をたたき込みたかったが、
敵を目前にして気が動転してしまう。
仕方ないので銃の裏で男たちの頭を叩いて気絶させた。

廊下には、客たちが集まって騒然としている。
深夜の静けさはもうここにはなかった。
破壊した階段の下から、管理人の怒鳴り声が聞こえる。

まもなく警察や消防などが駆けつけるだろう。

「外にも刺客がいますわ!!」

マリンの悲鳴に近い叫び。

また、忍者たちだった。外からはしごをかけ、
2階の窓へ殺到しようとしている。その数は5人。

マリンは電気ポットのふたを開け、窓から熱湯をぶちまけた。

頭から熱湯をかぶった男たちの悲鳴が聞こえ、はしごが崩れ落ちた。

「マリン、下がっていなさい。いくぞ、ユーリ」

「はい。せーのっ」

太盛とユーリは同時に手りゅう弾のピンを抜いて窓の外へ投げた。
3人は窓際に身を縮めて爆発を待った。

手りゅう弾がさく裂し、土が空高く盛り返される。
深夜の闇を煙が覆った。

マリンがLEDライトで地上を照らすと、男たちは4人が倒れていた。
血だらけで伏せている者、痛みでうめいている者など様々だ。

生き残った1人が町の外へ逃げていく様子が確認された。


「くそっ、全滅させられなかったか」

「太盛様。これ以上ここにいると危険です。
 宿を出ましょう」

隣の部屋は無人だった。
一行はその部屋の窓から飛び降りた。
地面にクッション代わりに大量の布団を
置いたので、奇跡的に怪我はなかった。

預り所から馬を連れて草原へ戻る。

首都から30分も歩けば大草原になる。
深夜の草原は虫の鳴き声が聞こえるのかと思いきや、
不気味なくらい静かだった。

夜は冷える。寝不足の体に夜風はこたえた。

少しでも町から離れなければ、また刺客に襲われるかもしれない。
太盛とユーリはマリンの体調を心配しながら歩いた。
馬1頭と人間が3人。三日月が彼ら一行の影を作っている。

「マリン、疲れるだろうけど、もう少し先まで歩こうね」

「私なら平気ですわ。これでも鍛えているほうですから」

彼女は厚手の蒙古コート、ニット帽、ネックウォーマーを
着こんでいる。マリンの強さは異常だった。

普通、9歳の女の子が命を狙われた直後で冷静でいられるわけがない。
まるで、常に死が隣り合わせの生活をしていたかの如く。

太盛とエリカの家は東京都の多摩市にある豪邸だ。
極めて治安のよい文明社会の中で生きていたはずなのに、
どうやったらここまで強くなれるのか謎だった。

「あの憎い母のことですから、これから
 何をしてきてもおかしくはありませんわ」

「そうか。マリンが強い子に育ってパパはうれしいよ」

「あんな家。二度と帰る必要はありませんわ」

「もしかしてエリカと喧嘩した?」

「ええ。しましたわ。お父様がいなくなってから何度も」

太盛の胸がちくりと痛んだ。

娘たちを巻き込みたくないから。
そんな勝手な理由で家を飛び出した。

姉のレナとカリンならともかく、
エリカの血をよく引き継いだ強かなマリンはそれで
納得できるわけもなく、単身でモンゴルまで来てしまったのだ。

強い風が吹いた。
ユーリは毛皮のコートできつく身を覆いながら震えていた。

「ところでマリン様は、どのようにして
 モンゴルまで来られたのですか?」

「普通に飛行機で来たわ」

「まさかおひとりで?」

「そうだけど?」

またしても天と地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
ユーリは驚きのあまり手綱さえ手放してしまったが、
馬は逃げずにそこにいた。

「マリン。少し整理させてくれないか?
 パパがモンゴルに来るのは誰にも
 話してないはずだけど、よく分かったね?」

「そうでしょうか。前々からお父様とユーリが
 怪しい動きを見せているのには気づいていましたわ」

あの憎きエリカに似た娘だとは思ってはいた。
顔は父親似だが、物事の考え方は母親にそっくりだ。
とにかく言いようのない危険性が秘められていた。

ぷっくらした頬。健康そうな肌の色。
父に似てくりっとした瞳がよく動く。
表向きは美しい顔立ちの少女。

その内面は、腹黒い政治家のようで実にしたたかだった。

どうやってモンゴル行きを知ったか、聞く気にはなれなかった。

「ところで、ユーリ」

「は、はいマリン様」

マリンに鋭い目で見られたユーリはいすまいを正した。

「あなた、私のお父様とモンゴルで過ごしていたようね。
 昨日はずっと二人きりだったのでしょう? 
 それはさぞ楽しかったのでしょうね」

ユーリは何も答えられなかった。
使用人という立場上、マリンの目を怖くて見ることができず、
ただおびえている。

「あなたはお父様にとっての使用人でしょう?
 まさか、お父様と愛の逃避行をするつもりでモンゴリアまで
 来たわけではないのでしょう?」

「そ、そのようなことは……」

「なら、私が父の隣を歩くから、あなたは後ろから馬を引いて
 着いてきなさい。私たちの世話をするのがあなたの仕事よ」

厳しい口調のマリンは、エリカにそっくりだった。
全身から発せられる威圧感。とげのある口調。
中世欧州のような階級社会を感じさせる。

太盛は小姑のような娘に鳥肌が立った。
ユーリが気の毒なので口を挟む。

「マリン、言いすぎだぞ」

マリンが意外そうな顔で父を見た。

「ユーリは家族の一員だって昔から言っているじゃないか。
 使用人とかじゃあなくてさ、3人で仲良く並んで歩こうよ」

「お父様はユーリのことをかばうのですね。
 ユーリのことを愛しているのですわ。浮気ですわ。浮気」

「そういう言い方をするのはよしなさい」

「私がここにいるとお邪魔ですか?」

「そんなことはない。パパはマリンと再会できた時、
 うれしくて泣きそうになったくらいだ。 
パパはね、ユーリのことと同じくらいマリンのことも好きだよ?」

「ふん、そんなこと言われたって誤魔化されませんわ」

唇をとがらせてふてくされるマリン。
ユーリに厳しいふるまいをした原因は嫉妬だった。
マリンもエリカほどではないにしても独占欲が強い。

真夜中のウランバトル郊外へ

だいぶ首都から離れた。

ここは大草原の廃村だ。

遊牧民たちはとうに別の場所へ消えてしまったのか、
家畜小屋と、長屋が残されている。
放置された家畜の死体があり、野犬が襲ってこないか心配になった。

モンゴルでは都市部での生活を好んで
移住する人が増えている。近年は異常気象が続いており、
真冬の寒さがマイナス40度に達することもある。

寒い日が続くと家畜が小屋に
入ったまま凍死するので食べる手段がないのだ。

「追手はこなそうだな」

「そのようですね」

太盛がペグを打とうにも暗くて足元がよく見えない。
ユーリが手持ちのLEDライトで太盛の地面を照らしている。

マリンはそれが気に入らなくて何度も舌打ちしていた。
夫を手伝う妻のようにふるまうユーリがめざわりだったのだ。

家畜小屋の近くにワンポールテントを立てた。
風上は建物が防いでくれるようにした。

馬は家畜小屋に入れた。

テントの天井付近にランタンをつけると心地よい明かりになる。
中にラグを敷き、その上にエアベッドを2つ並べる。

エアベッドは町で買った本格仕様だ。
電動ポンプで空気が注入される。

ユーリは独りで体を横たえる。太盛はマリンと一緒に寝た。
ジャケットを着たまま、真冬用の寝袋にくるまるユーリ。
寒さで震えている。寝袋を2重にすると少しマシになった。

吹き続ける風がテントのポールをギシギシと揺らす。
隙間風がわずかにテント内に入ると、すごい寒さだった。

それでも外よりは確実にましだ。
太盛は寝袋を大きく広げて布団代わりにした。
マリンとくっついて寝る。

マリンが必要以上に体を密着させて来るのが気になったが、
おかげで体温を交換できて暖かい。
マリンは体温が高いのでホッカイロのようだった。

3人は朝の5時まで寝た。
寒さで何度も目が覚めたので、安眠には程遠かった。

またしてもモンゴルの夜明けを迎える。
地平線のかなたから浮かんでくる太陽は
冗談のように美しく、幻想的だった。

そんな時だった。

空から飛行機のようなものが降って来た。

それは太盛達の頭上を通り越して町の方へ落下した。

数秒遅れで突風が彼らを襲う。

「うおおおっ」

風圧で太盛達が飛ばされそうになった。
太盛の帽子が遠くまで飛ばされてしまう。
古い長屋や家畜小屋は屋根が少しもっていかれた。

ユーリとマリンは同時に尻もちをつく。

マリンと肩がぶつかってしまい、ユーリが謝る。

マリンはバックパックから双眼鏡を取り出して
ウランバトルの方角を見た。
バトル市内は炎が燃え盛っていた。黒煙が空を覆っている。

「おい、みんな、大丈夫か!?」

マリンは平然としていたため、
太盛がユーリの肩を荒々しく揺さぶる。

ユーリは言葉を発しなかった。
白い肌はますます色素を失って死人のようになっている。

太盛はユーリが正気を取り戻すまで何度も大声をあげた。
のどが枯れるまで怒鳴り続けている一方、

「お父様」

スマホを持つマリンの声は冷静だ。

「モンゴルに弾道ミサイルが発射されたようです」

太盛は顔色を失った。

「モンゴル政府と国連安保理は北朝鮮か中国の可能性が高いと
 指摘しています。発射国を確定次第、米国が軍事介入をして
 制裁すると言っています」

太盛が一番驚愕しているのは、
幼い娘がたんたんと報道の専門用語を話していることだ。

確かに、小学校に入学してからマリンは異常に
勉強熱心になった。学校の成績も群を抜いて飛び級だ。

しかしである。

プロの女性アナウンサーのレベルでニュース用語を
はきはきとしゃべる娘は賢(さか)しいのを通り越して怖い。

「うあわあ…」

ユーリがいきなり号泣した。
冷静沈着で感情を表に出さないユーリがここまで
取り乱すのを、愛人の太盛さえ初めて見た。

太盛がマリンをちらりと見ると、ユーリのことを全く
気にしていないので少し腹が立ったが、今はどうでもよかった。

「お、おい。どうしたんだよ?」

ユーリは顔を両手で覆ったまま動かない。
太盛が困り果ててマリンを見るが、まだスマホをいじっている。

無神経さに少し腹が立った。

ユーリは「もう死にたい」と繰り返しつぶやいていた。

なぜだと太盛が聞くと、戦争が始まったからだと言う。

「まさか。モンゴル軍が軍事演習をしていたんだろう」

「ウランバトルが燃えているのが分からないの?
 双眼鏡でちゃんと見てよ。どう見ても軍事攻撃じゃない」

「まだ分からないじゃないか。きっと間違えて発射して」

「間違えで済む問題じゃないわ。
 ミサイルが降って来たのよ!? これは戦争よ!?
 すぐに敵国の軍隊がこの国に入ってくるんだわ!!」

「まだ戦争と決まったわけじゃないだろ!!
 きっと北朝鮮がミサイルを間違えて発射して……」

「どっちにしろ!!」

ユーリの声が張り詰めた。

「私たちはどこに帰ればいいのよ!?
 ウランバトルの宿がないとずっとテント生活を
 続けないといけないのよ!? 日本メーカーのしょぼいテントと、
 わずかな食料だけでどうやって生きていくの!?
  ちゃんと現実を考えてよ!!」

「考えてるよ、俺だって!! 
 ただ君が急に泣き出すからなぐさめようと思って!!」

しばらく無意味な口論を続けていた。

マリンは携帯用アンテナにスマホを近づけつつ、
しっかりと情報収集をしていた。

「お父様。お話の最中に失礼しますが」

「な、なんだい?」

「衛星からの情報でも弾道ミサイルをどの国が
 発射したか分からないそうです。
 アメリカ国防省の発表では、中国と北朝鮮のミサイル基地に
 まったく動きはなく、発射した形跡も見られないそうです」

マリンはスマホのニュース記事を読み上げている。
マリンの冷静な口調がユーリをますます絶望させた。

「おい、今度はジェット戦闘機みたいのが空を飛んでいるぞ!!」

太盛が言うと、マリン達も双眼鏡で空を見上げる。

2機の軍用飛行機がコンビを組んで空を行きかっていた。
ジェット気流が空に描かれていく。

「あの飛行機、ロシア国籍のマークだわ」

「ユーリは分かるのか?」

「東日本の震災の時も、あれが飛んで日本列島を縦断したのよ。
 ロシア大統領が偵察するよう命令してね」

飛行機は轟音と飛行機雲を残し、
あっという間にいなくなってしまった。

太盛達は状況を冷静に考えることにした。

首都の火災は収まりそうにない。
発射されたのはICBMが一発。凄まじい破壊力だったようだ。
幸いなことに核は使用されていない。

完全な奇襲であった。
バトル市内でどれだけ死者が出たか想像もつかない。

ユーリがスマホで近い町を探した。

観光地として有名なブルドにはキャンプ地がある。
そこは砂漠地帯で、首都の南西280キロの位置にある。

ツェルヘル村温泉と言う場所があった。
天然温泉で有名な地だ。
残念なことに首都から480キロ離れていた。

日本に中国経由で帰るとすれば、国境沿いの街
ザミーウーデまで鉄道で行く手段もあるが、
あいにくモンゴル国内が
戦争状態では列車の旅などできるわけがない。

ちなみに、太盛達の現在の移動手段は馬を連れての徒歩である。

テントなどの家財道具を満載させているため、
馬なしでの行動はありえない。

10倍の倍率の双眼鏡で草原を見渡す。
燃え盛る首都。北には雄大な山々。
無限の地平線が広がっていた。

蒙古の地において太盛達は外国人であり、
日本の文明社会で生まれ育った若者たちである。

ここモンゴルの草原や砂漠では、もちろんトイレも水もない。
トイレは大自然の中で済ませる。持ち運んでいる
水のボトル(16リットル)がなくなれば飲み物はない。

井戸がどこにあるかなど、異邦人の彼らに分かるわけもない。
あるのかどうかすら分からない。

ユーリは絶望しつくし、調理用ナイフで首を
切ってしまおうかと思った。

「まだ希望はあるわ。ユーリ」

マリンがスマホを片手に続ける。

「テレルジ国立公園とう観光地は保養所も兼ねているわ。
 ここからなら50キロと離れていないみたい。
 方角さえ間違わなければ行けるはずよ」

「ほ、ほんとうかマリン?」

「はいお父様。地図をご覧になって。ここは有料道路沿いに
 行くと、少し遠回りですが70キロの距離にあるようです」

「70キロか。迷わずに行くなら道路沿いのほうが確実だね。
 地図アプリを頼りに進んだところで、草原と岩しかないから
 すぐに方向を見失いそうだ」

「私も道路沿いのほうがよろしいかと。
 頑張って一日20キロくらい
 歩けば、三日くらいで着くと思います」

「食料がもつか心配だが、やるしかないのか。
 ここまできたら、なんとしても次の街まで行くしかない」

また空から轟音が鳴る。戦闘機が空を飛んでいたのだ。
エンジン音が違う。先ほどのロシア製ではなさそうだった。
もうどこの国の飛行機だろうと彼らには関係なかった。

青天の今のうちに少しでも歩き始めなければならない。
馬と3人の男女は、のろのろと足を進めた。
せまる気持ちはあるが、速足だと体がもたなくなる。

頬をやさしくなでる九月の風は、あまりにも乾ききっていた。
ユーリが目元をぬぐうまでもなく涙が渇いていた。

太盛は怒鳴りすぎて口が渇いていたが、
貴重な水を飲むわけにはいかない。
馬に背負わせた給水タンクが彼らの持つ水のすべてだった。

帽子を深くかぶり、歯を食いしばって歩きを始めた。

そんな太盛のラインが鳴る。
エリカからのメールが届いた。

『太盛様。モンゴルに弾道ミサイルが降って来たそうですね。
 大変ですわね? 生きていたら返事を下さいな』

まるで挑発するかのようなメールに、太盛は腹が立って
携帯をたたき割ろうと振りかぶると、ユーリが慌てて止めた。

また、着信が鳴る。

ユーリが代わりに読むと腰を抜かした。
なんと太盛の父、すなわち党首からのメールだった。

『貴様が外蒙古に逃亡していることはエリカ君から聞いている。
 バカ者が。愚か者のおまえに説教することはたくさんあるが、
 まずは生きて日本へ帰ってくるがいい。
 もし死んだら地獄で愛人と仲良く暮らすことだ』

ユーリが文章を読み上げると、太盛が血の気が引いてしまい
気絶しそうになった。それでも歩みを止めるわけにはいかない。

ユーリに寄り添われ、道路沿いを進んだ
横に並ぶマリンだけが、表情一つ変えずに歩を進めた。

空は青く、世界の果てまで続いているかのようだった。

彼女の名はエリカ。太盛の奥さんである

「反抗期の子供を持つ親って、こんな気持ちなのかしら」

エリカは寝不足だった。
昨夜は2時過ぎまでPCとテレビで情報収集をしていたのだ。

カーテンの隙間から陽光が漏れている。
窓を開けて青空を見上げた。太陽は天頂付近まで昇っている。

「信じられない。もう11時過ぎなの。
 こんなに寝てしまうとは私も緊張感が足りないわね」

エリカはベッドの横に用意された着替えを手に取る。
身支度を整えてから大食堂へ向かった。

厨房では男性の料理人が楽しそうにパスタをゆでている。
黒髪のオールバックで顔立ちは整っている。
一見すると陽気なイタリア人のような外見だ。
若作りだが年は44になる。

「おはよう。後藤。起きるのが遅くなったわね」

「おはようございます。奥様」

深々とお辞儀する後藤。料理中と違い、顔がこわばっていた。
エリカは紅茶を食堂まで運ぶよう命じた。

「ごくろうさま。
 娘たちは学校に行ったのかしら?」

「あいにく本日は休校になったようです。
 先日のモンゴリアへのミサイル発射の件で
 日本政府が非常事態宣言をだしたようです」

「あらそう。で、あれはどこの国が撃ったの?
 やっぱり北朝鮮なのかしら?」

「北朝鮮のミサイル基地を衛生上から調べたところ、
 その可能性はないようです。北朝鮮外務省も全力で
 容疑を否定しております」

「本当かしらね。とぼけてるだけではなくて?」

「……おそらく嘘ではないでしょう。
 北朝鮮がモンゴルを攻撃する理由が考えられませんから」

「他の国の可能性はないの? 
 パキスタンとかインド、あるいはロシアとか」

「現在までの情報ですと、発射した国が特定できないようです。
 また、国連の常任理事国も関与を否定しております」

「なによそれ?
 実際にミサイルは撃たれたのよ?
 1日たっても原因が分からないの?
 まさかあのミサイルが宇宙から降って来たって言わないわよね?」

「それに関しましては……。米国の一部の報道機関は
  宇宙人の侵略説を唱えていますが」

「バカらしいわね。これだからマスコミは好きになれないのよ。
 そこまでして新聞を売りたいのかしら」

飲み終えたティーカップを置くエリカ。

目をきつく閉じ、深呼吸した。
着物を着こなし、背筋を伸ばして座っている姿は
令嬢そのものだ。

肩の上で切りそろえられたショートカットの黒髪。切れ長の瞳。
つやのある美しい肌は、母親としての貫禄がでてからも
全く衰えることがない。20代半ばと称しても通用するほどだ。
太盛と同い年で33歳である。

黙って座っているエリカは気品に満ち溢れており、
見慣れた後藤でさえ見とれてしまいそうなほどだった。

若いメイドがエリカに近づいた。

「奥様。そろそろ昼食の時間でございます」

「分かったわ。娘たちを食堂へ連れてきなさい」

「かしこまりました」

ミウと呼ばれた若いメイドがお辞儀をしてから退室した。

年齢は17歳。屋敷の住人では比較的エリカの娘たちに
年が近くてしたわれていた。
明るく活発的な性格でユーリとは対照的だった。

身長は152センチ。エリカより10センチ低い。

ミウは頭の上のカチューシャが良く似合っている。
濃い目の茶髪のロングヘアー。夏は両サイドで
髪をまとめる、いわゆるツインテールヘアにしいてる。

「お母さま。おはようございます」

双子の娘が大きな二枚扉を開けて食堂へ入って来た。
娘たちはおとなしくテーブルに座り、食事が来るのを待っている。
まるでホテルで食事をする子供たちのようだ。

「お父様のこと、心配ですね」

と遠慮気味にカリンが言う。
双子の妹でメガネをかけているのが特徴だ。

「そうねぇ。あの方にメールを送っても返信がないのよ。
  どうしたものかしらね」

ミウが厨房から出て来ると、遅れて後藤もやって来た。

テーブルの上にイタリアンな食事が並んでいく。

後藤は不機嫌なエリカに気を使って白ワインと
チーズとサラダを用意した。

子供たちにはパスタと肉料理を中心に並べていく。

エリカがいただきますと言うと、子供たちも復唱した。
前菜から手を付けて粛々と食事をしていた。

母が不機嫌なので子供たちが委縮していた。
だからといって黙っているのも良くない。
エリカが無言だと空気が悪くなる一方だ。

レナが意を決して口を開いた。

「あの、メールがダメなら電話で
 お父様とお話することはできませんか?」

彼女は双子の姉でくせのないロングヘアーが特徴だ。
右目の下に泣きぼくろがある。

「電話は何度もしているけど、出る気がないようね。
 何コール鳴らしても絶対に出ないの。
 たまに強引に電源を切られることもあるわ」

白ワインのグラスがあっという間に空になった。
ミウがお代わりをつぐ。

エリカはまたグラスを口につける。
つまみは少しも減っていない。

ワインというよりビールの飲み方だった。
エリカが冷静さを失っていることがうかがえた。

「ミウ」

「は、はい。奥様」

「あなたはどう思う?」

「と、申されますと?」

「太盛様と連絡を取る方法よ。良い案があったら
 遠慮なく言ってちょうだい。さあ早く」

即答しなければフォークを
投げつけられそうな雰囲気だった。

エリカは声を荒げたわけではないのだが、妙な迫力がある。
ワインを早飲みしたため目がすわっていた。

「ええと、そうですね。
 レナ様とカリン様がメールを送ればよろしいかと。
 太盛様は子煩悩な方ですから」

聞きようによっては、夫にとって
妻より子供が大切なのだと解釈することも出来る。
エリカは酔っていたのでこの失言を見逃した。

「悪くないわね。なら、そうしなさい」

と言って双子を急かした。これは命令である。
ちなみにエリカの許可なく父に連絡を取ることは
許されていない。

太盛の携帯は基本的にエリカ専用なのである。

カリンとレナはお互い目配せしあい、同時にスマホを操作した。

数分後、カリンが顔を上げた。

「返事がきました」

「あら、意外に早かったのね」

「その、お母さま。実は」

「なに?」

「返事はマリンからです。実はレナがお父様に、
 私はマリンへ送っていました」

「あらあの娘、まだ生きていたのね」

まるで他人事の物言いにミウと後藤はぞっとした。
マリンは双子の一つ下で9歳である。

小学3年の末娘が家出した時も母は全く取り乱さなかった。
むしろ、邪魔ものが消えてせいせいしたという風だった。
お腹を痛めて生んだ子に対する態度とは思えない。

「で、あの子はなんと?」

「も、申し上げてもよろしいのでしょうか?
 お母さまを怒らせそうな内容なのですが」 

「どんな内容でも構わないわ。
 そのまま読み上げなさい」

「お父様とモンゴルで平和に暮らしているそうです。
 母様が送って来たプレゼントは全て撃退したと……。
 二度とくだらない贈り物を寄こさないで下さい……」

エリカがカリンにスマホを渡しなさいと言い、
全文に目を通した。みるみるうちに
エリカの目が凶悪に細められ、食堂全体の空気が張り詰めた。

『年増の嫉妬ババアによろしく、エリカは結婚に向いていない異常者』
『私の服に発信機をつけて位置を特定したのはお見事。さすが陰険女』
『エリカよりユーリの方が美人だとお父様がよく言っていた』

などと、とても小学生の娘が母に送る内容とは思えない
罵詈雑言が並べられていた。

「なんて反抗的な娘なのかしら」

エリカは飲みかけのワイングラスを床へ投げた。
小さな音を立ててグラスが転がり、床に染みを作る。

ミウは3秒ほど動きが止まっていたが、すぐに掃除を始めた。
娘たちは食事がのどを通らないくらいストレスを感じていた。

「うふふふ。マリンったら、どんどん知恵をつけていくのね。
 メールの語感がすっごく豊富。私に似て出来がいいのよね。
 その能力を別のことに生かせばいいのに」

エリカはコップの水を飲み干した。

「ところでレナ」

「はい」

「あなたのほうはどうなの?
太盛様から連絡はあったかしら」

「あ、ありました」

「なんて?」

「心配するなと」

「他には?」

「なにもありません。これしか書かれていませんでした」

「シンプルね。まあ生きているならそれで十分よ」

エリカはテーブルナプキンを置いて席を立ち、
休校中は自主学習をしておきなさいと
娘たちに言い残して去っていた。

彼女は自室に侍従の鈴原を呼び、太盛確保の作戦を練るのだった。

たとえモンゴルが原因不明の攻撃を受けても関係ない。
夫への執着が消えることはないのだ。

レナとカリンは、ミウからこっそりと聞かされていた。

屋敷の地下に夫を監禁するための収容所があることを。
過去に粗相をした使用人たちも収容されたことがあると。

彼女らが自室に戻ってテレビをつけると、防衛大臣と官房長官の
インタビューが行われていた。次にウランバトル市の被害状況。

日本のメディアは連日モンゴルの弾道ミサイルの報道でもちきりだった。

「自然は美しいっていうより、ただ残酷なんだな」

太盛達は丸一日歩き続けた。ユーリの助言により1時間に
5分ずつ休みながら進んだが、次第に足がパンパンになる。

太盛は日が暮れる前にテントを立てるが、
疲労のためペグハンマーを握る手に力が入らない。
この地方は湿度がないので
日が沈み始めると容赦なく気温が下がっていく。

道路沿いを進むので道に迷う心配はない。
だが、同じ景色を見続けるのはつらかった。

目的地に近づいているという実感がまるでない。
スマホのGPSは正確に居場所を教えてくれるが、
気休めにすらならなかった。

3人でテントを設置して夕飯を食べる。
ライ麦パンと缶詰を開けて食べた。
中身は馬肉だった。
見た目はさっぱりしているが、匂いがきつい。

「おいしいとか不味いとか言っている状況じゃない。
 生きているだけましだよな?」

「そうですね。お父様。
 モンゴル風の味付けも新鮮で悪くありませんわ」

マリンは父の隣に座って行儀よく食べていた。

どんなに丁寧に食べても乾燥しきったパンは
ボロボロこぼれるが、大草原ではまったく気にならない。

そもそも食べ方を注意する人など半径数キロ以内には存在しない。

そのためか、ユーリは少し離れた位置に座って口の中に
食べ物を押し込んでいた。淑女の食べ方ではなかった。

彼女の心はすさんでいたのだ。

歩きすぎて疲れた足をストレッチしながら、じっと地面を眺めて
自らの運命を呪っていた。まるで不良少女のようである。

馬は地面に生えている草を食べていた。
太盛が平たい皿にボトルの水を注ぐと、口を近づけて飲むのだった。

ユーリが眉間にしわを寄せて言った。

「服が少し匂うわ。歩いている時に汗をかいたのよ」

「それは我慢するしかないだろう。
こんな田舎にコインランドリーなんてあるわけないし」

「私ね、メイドしているからかもしれないけど、
 不潔なのは大嫌いなの。いっそ砂漠の方がましだったかしら。
 砂漠なら体を砂で洗えば綺麗になるんでしょ?」

「砂漠の日中は地獄の日差しだ。すぐ水不足になって倒れるから、
 夜しか歩けないと思うぞ。それに砂漠には行きたくないって君が
 言っていたような気がするが」

「そうだったっけ? はは。忘れちゃったよ」

「ユーリ、気持ちは分かるが機嫌を直してくれよ。
 日中も全然話さなかったじゃないか」

「話をしたら疲れて歩けなくなるじゃない。
 私はあなたほど楽観的に考えられない性格なの」

太盛はため息を吐き、先にテントで休んでいると
ユーリの背中に告げた。

独りになったユーリは、まるで地球のど真ん中に自分が
取り残された気がしてむなしくなった。
わがまま。不平不満。何も言おうがこの大地は全て受け流す。
ただ自然と言う無常だけが眼前に広がるのみ。

すぐ太盛のあとを追いかけてテントの中に入った。
テントポールのフックに取り付けたランタンの光が癒しを与える。

夜は冷えるので虫の姿がない。

太盛は疲れていたのでエアベッドで熟睡した。
マリンもうとうとしたが、ユーリがいつまでも両足を抱えながら
座り込んでいるのが気になった。

「ユーリ。あなた、まさか死のうなんて
考えているわけではないでしょうね?」

ユーリは無表情でマリンを見つめた。
何も答えようとしないのでマリンが続けた。

「これ以上お父様を困らせないでほしいものだわ。
 お父様に付き従うのがあなたの役目なのを忘れないで」

「……付き従うのもたまには疲れるのですよ。
 私は使用人ですが、その前に一人の人間ですから」

「あなたはどうして使用人になったの?」

「そんな理由、こんなところで話す意味がありますか?」

「別に。無理にとは言わないけど」

無言が続いた。

この狭い空間で黙っているのはつらかった。

マリンはあることを思い出した。

メイドの仲間のミウが言っていたのだ。
ユーリは自分から過去のことは絶対に
話したがらないということを。

それは秘密主義というより
辛い過去を思い出したくないからだと。

ユーリは独りごとのような声で、もうつまらないなぁ、
と言った。沈んだ声だった。その瞳には何も宿していない。

マリンが口を開いた。

「死ぬのは最後の手段よ。最後まであがいて、
 それでもだめなら死ねばいいと思うわ」

「どうして私が死にたがっている前提で話を進めるんですか?」

「だって、あなたの顔に書いてあるじゃない。
 ミサイル攻撃は確かにショックだけど、
 まだ人生を諦めるのは早すぎると思うけど」

「うふふ」

「なにがおかしいの?」

「お嬢様の話し方が奥様にそっくりですから。
 お嬢様の口調はまるっきりあの方のコピーですよ。
 声のトーンは違いますけど、
 私はあの方に叱られているシーンを思い出します」

「不愉快ならごめんなさいね。口調をなおそうか?」

「けっこうですよ。くせというのは簡単に
 なおるわけではありませんか」

太盛は子供のような顔で寝息を立てている。
ユーリとマリンは太盛を起こさないように小声で話していた。

「そろそろ眠くなってきたわ。
 ユーリ。最後に一つ聞かせて。
 あなたはお父様のことを愛しているのね?」

「ふふ。それは愚問というものですわ。お嬢様。
  嫌いだったらこんな貧民国へお供なんてしません」

ふぅん、そう。と言い、マリンは父のそばで寝袋にくるまった。

ユーリはしばらく座り込んでいたが、疲労のためどんどん眠くなり、
ランタンの明かりを消して眠りについた。

太盛とユーリは夜明け前にマリンに起こされて出発した。
水と乾パンを口に入れて道路沿いを進む。

歯磨きができないのは激しいストレスだった。
口腔がねばねばして食欲が失せる。

早朝の空気は真夜中と同じくらい寒い。
とにかく空気が乾燥しすぎているのだ。

ユーリはかさかさになった肌や髪のことなど
気にして朝からいらだっていた。

本来の計画では都市部の近くでテント生活と
旅館での宿泊を繰り返して最低限の文明的な生活を
送ることにしていた。
首都への謎のミサイル攻撃は全くの想定外。

旅とは常に想定外のことが起きるものなのだ。

「お父様。少し休憩しましょうか」

マリンは腕時計で休憩時間を計ってくれていた。
朝一番目の休憩である。

馬を止め、3人とも草原に寝転がる。

西の方角にでかい雨雲が接近しつつあった。

今日は比較的風が強い日だ。肉眼でも雲が動いているのが
分かったのでぞっとした。
雨に降られた場合は1日テントの中でじっとしているしかない。

モンゴルの過酷な気候に耐えて来たテントがどこまで
もつかわからない。長雨の場合はテントのインナーシートに
浸水する可能性がある。

なにより怖いのが強風だった。草原では風を防ぐ手段がない。
ゲル並みの頑丈さがないこのテントはすぐに吹き飛ばされるだろう。

「昨日の疲れがまだ残っているな。
すぐに動きたいのに体がだるくて動きたくない」

「そんなこと、言われなくても分かっているわよ」

「おいユーリ。まだ怒っているのか?」

「この状況で冷静なほうが逆におかしいと思うけど?」

いちいち喧嘩腰なユーリにさすがに太盛も我慢しきれなくなってきた。
愛の逃避行どころか、喧嘩をしにモンゴルに来たようなものである。

20代の若者らしいといえばそうなのだが、この緊急事態では
つまらない喧嘩が命取りになる。それを年下のマリンが
一番理解していたのが皮肉だった。

「ユーリにポケット聖書を貸してあげるわ。
 旧約聖書の詩編を読みなさい。少し気分が楽になるわ」

「詩編? ああ、あのユダヤの民の逃亡ごっこですか。
 あいにくですが、こんなド田舎で読む気になんかなれません。
  というか、こんなとこまで聖書を持ってきているなんて
   さすがエリカ様のご息女ですわ」

「無礼な言い方をするのね。あきれちゃうわ。
 あなたは偽の信者だったの?
 うちの使用人はクリスチャンしか採用しない決まりなのに」

「いえいえ。ただ神の存在を信じられなくなっただけです。
 どうせここで乾いて朽ちて死ぬだけの運命ですから、
 神がどうとか考えるだけ無駄かなと」

「分かった。信仰についてはもう何も言わないわ。
  それより私に敬語を使う必要はないわ。
  ここはあの屋敷ではないし、あなたは私の使用人でもないわ」

「おや。それは私が解雇されるという解釈でよろしいのですか?」

「一人の人間としてふるまってほしいだけ。
 主人とかメイドとか、このチンギスハンの大地では意味がないわ。
 私たちは二度とあの家に帰らない覚悟でここまで来た。
 今のあなたに地位とか呼び名とかがあるとしたら、そうね。
 お父様の恋人かしら」

「愛人ではなくて、ですか?」

「両親はもう離婚したようなものでしょ。
 お父様、そうですよね?」

まっすぐな目で見つめられた太盛は静かにうなずくのだった。
もともと夫婦関係を自然消滅させるつもりでここへ来たのだ。

ユーリに敬語を使うなと言ったのは太盛も同じである。

「マリンの言う通りさ。ユーリも俺もここではただの弱い人間だ。
  水とか食べ物とか服とか、いろいろ不安要素はあるが、
  考えたらきりがない。道路沿いを歩くことだけを考えよう」

「そうしたいけど、足が痛いのよ。もう少しここで休んでいたい」

「なら仕方ない。あと30分くらいここで過ごすか。
 何かいい考えが浮かぶかもしれない」

マリンはなおもわがままを言うユーリにいらだった。

本気でユーリを置いて行ってしまおうかと考えたほど。
だが、ユーリは体調を崩しているようだった。

夜が冷え込みのせいか、顔がほてっていて熱がある。
日本から持ってきた常備薬を飲ませた。
しばらく安静にしなければならない。

気圧が下がってきて肺に入る空気が重くなる。
まもなく雨雲が頭上に達そうとしていた。

予想より早く雨が降りそうだった。

「お父様。これ以上進むのはあきらめたほうが」

太盛が娘の助言を素直に聞き入れ、
ダメもとでテントの設営を始めようとした時である。

一代の小型トラックが道路の果てからやって来た。
太盛らの横に止まると、中年の男性が声をかけて来た。

「ヨウ フロム コリア?」

「We are japanese.we need a help.
  my friend is sick.
  would you take us to a village near here?」

「オゥケイ.ライドオン ジ バック」

友達が病気なので近くの村まで載せてほしいことをマリンが
伝えると運転手は了承したのだ。

マリンが流暢な英語で返答したので太盛が感心した。
幼稚園時代から語学の才能があるのは知っていたが、
小学校中学年でここまで洗練させていたとは思わなかったのだ。

外国人と会話ができている以上、娘の英語力は本物だった。

トラックは途中で舗装道路を抜けて草原を
南に進み始めた。何もない草原の上を
車が走ること自体太盛達にとってカルチャーショックだった。

運転手は何も言わずに運転しているので
そのまま任せることにした。
太盛がコンパスを取り出す。
ウランバトルから南へ向かっているのが分かった。

大気の状態がますます不安定になり途中で小雨が降り始めた。
やがて大雨になる。

雨の中もトラックは走り続ける。
1時間ほどで町に着いた。

マリンは町の名前を運転手に聞くと、
ゾーンモドと言った。

モンゴル中央部の都市でトゥブ県の県都である
人口は1万6千を超え、北にはボグド・ハーン山がある。

市内にはヤギ、馬、羊、牛など訳2万4千頭の
家畜がいる。ここでは蒙古にしては珍しく農家がある。
ウランバートル市へ供給する小麦やジャガイモの生産が
盛んだ。金属等の地下資源も豊富である。

「宿に泊まるぞ。ユーリ、まだ意識はあるか?
 もうすぐ建物のベッドで寝れるからな」

「うん……」

ユーリは顔色が悪いが、太盛に肩を貸してもらって
歩くことはできた。

市の中心はウランバトルほどではないが、十分に発展している。
日本で言えば地方都市だ。日本と決定的に違うのが、
市の外側に家畜の放牧地があることだ。広さはまさに膨大だ。

「スリィ でいぃず?」

「イエス うぃ あー すりぃ ぴーぽ」

「オライト ヒアズ ざ きぃ
 ヨア ルーム イズ 206」

小さな宿の店主と太盛は互いに片言の英語で会話し
チェックインを済ませた。ユーリのために3泊にしておいた。
ここは市の郊外の宿で2階建ての簡素な建物だ。

値段が安いこともあるが、太盛達は人目に付きそうな
大きなホテルに泊まることを嫌った。

宿に入って一番感動したのは水道が通っていることだ。
蛇口をひねると水が出る。水洗トイレがある。
日本では当たり前のことが外国では貴重なことなのである。

馬は宿の外の預り所に置いてある。

太盛とマリンが町でヨーグルトやポカリを買ってきた。

この宿は有料のルームサービスで食事を頼むことができる。
でるのは夕食のみ。頼むと割高なので町で食料を
買い込んだほうが安いので遠慮した。

なにより病人のユーリに口に合わない食事を出されたら辛かった。

町のスーパーで買い物を済ませた。
薬は買わなかった。
日本から持ってきた市販薬を使っている。

「宿に着いて気が楽になったわ。
 いろいろありがとう。心無いことをたくさん
 言ってしまってごめんなさい」

「いいって。まだ熱があるから安静にしていると良い」

「少し寝たいから、一人にしてもらってもいい?」

「俺がそばにいなくていいのか?」

「病気の時は一人でいたいタイプなの。
 それにここにいたら私の風邪がみんなに移るわ。
 夕方までマリンお嬢を連れて市内を調べてきてよ」

「そうか、そこまで言うなら仕方ない。
何かあったらスマホで教えてくれよ?」

太盛はリュックの中に必要な道具を集めていく。

「ユーリ。お大事にね。何か必要なものがあったらすぐ言ってね?」

「ありがとうございます、お嬢様。気を付けて行ってらっしゃいませ」

マリンは父と手をつないで外へ出た。
大きな髪留めが特徴的だ。

扉が閉まると、ユーリは死んだように眠りについた。

「お父様。本当にユーリを一人にしてよかったのですか?
 エリカの放った刺客が襲ってくるかもしれませんのに」

「さすがに向こうだって日中は襲ってこないと思うけどね。
 まだお昼過ぎで人目がありすぎるし、ユーリだって一人になりたい
 時があるだろう。あの子は屋敷時代も休憩中は庭のイスで
 で考え事をしていることが多かった」

ゾーンモドの歩道は広かった。
大きな橋が町の中央を流れる川にかかっている。

東京のように高層ビルが並んでいるわけではないが、
学校や病院、役所など文明的な建物があることで太盛達は安心した。

雨はやんだが、曇りなので最高気温が9度しかない。
日本で用意した冬物装備では限界があるので服を買うことにした。

「あっ、お金どうしようか。食料を買い込んだからほとんど残ってないぞ」

「銀行におろしにいきましょうか」

なんと太盛の口座が凍結されていた。
いちおうバトル市に到着した時に
4百万以上振り込んだはずだったのに。

「エリカの仕業か……。くそ女が」

怒りのあまりATMに拳を叩きつけようかと思った。
彼の貯金の8割をつぎ込んだだけに失望は大きかった。

「マリン。すまない、僕の手元にあるのは
 わずかなトゥグルグとUSドルしかないぞ」

トゥグルグとはモンゴルの通貨単位であり、
1000トゥグルグ以上の紙幣にはチンギスハンが印字されている。
(日本で例えると万札の福沢諭吉のようなものである)

余談ではあるが、モンゴル人民共和国時代は
トゥグルグとソビエトのルーブルは等価であった。

「私のお金を降ろしましょう」

驚く父をよそに、マリンがATMにキャッシュカードを入れる。
マリンが口座を持っていること自体不思議だったが、
信じられないことに残額が100万ドルを少し超えていた。

現在の為替レートに換算すると訳1億3千万だった。

「いち、おく……? マリン。君はどうやってこれだけの額を?」

「ちょっとお小遣いが溜まっていましたので」

「いやいや、小遣いってレベルじゃないぞ。
 もはや僕とエリカの結納金と同じくらいの額じゃないか」

太盛は日本語で会話してよかったと心から思った。
周りのモンゴル人たちには内容がばれないからだ。
めったなことではこのような大金の話などできるわけがない

「どうするマリン? すぐ大金を引き下ろすべきだろうか。
 この口座もエリカに見つかったらすぐ使えなくなるぞ」

「その心配は無用ですわ。これは超強力なセキュリティで
 守られている秘密口座。国家権力レベルで介入しない限り
 操作することは不可能です」

「いったい何の話をしているんだ?
  どうみてもただの普通預金口座じゃないか」

「おじいさまが」

「え?」

「おじいさまが私に持たせてくれたのです」

「俺の親父殿が? なぜだ? まさか親父殿が
 マリンの渡航を認めたってことなのか?」

「私が泣いて頼んだのです。ご党首様は孫娘には甘いですから。
 海外旅行のお小遣いとして持たせてくれたのです。
 口座の作り方は執事の鈴原に教わりました」

にわかには信じがたい話だった。
確かに富豪の太盛の父なら実現できることではあった。

「ちなみにこの話はエリカには秘密なんだよね?」

「もちろんですわ。あのババアに話す口など初めからもちません」

「それにしても親父殿は海外旅行だと思っているのか」

「お父様と小姑ババアの不仲はご存知のようですから、
 軽い家出だと考えてらっしゃるようです。海外版の。
 私はおじいさまが用意してくれた専用飛行機で
 空港までやってきました」

「それは分かった。だが一つ分からないことがある。
 マリンはどうやって僕とユーリの居場所がわかったんだ?」

「お父様の旅行鞄に発信機が……」

ここまで話したところであたりの人たちからじろじろ
見られていることに気づく。
モンゴル人らにとって聞きなれない言語で
話している親子がめずらしかったのだろう。

母親に連れられたモンゴル人の子供が太盛達を指されている。
あれは日本人だと言われているのだ。

「いったん出ようか」

「はい」

一か月分の生活費をおろしてカフェに入った。
西洋風のカフェを期待したが、無味乾燥だった。
店員の態度も良くない。

スピーカーから控えめな音量でロックがかかっている。

マリンが店員に英語で注文すると通じなかったので
モンゴル語ハンドブックを片手に現地語を話す。
発音が下手で通じない。

仕方なくメニュー表を指さして注文した。

2人分のチーズケーキとチャイ(茶)が運ばれてきた。

「モンゴルに来るとチーズが多いな」

「それに牛乳もですわ。日本と違って甘くないです。
 この酸っぱい味に舌が慣れて来ました。
 日本食の昆布やかつおだしの味が懐かしくなりますわ」

店内に人はほとんどいなくて快適だった。
窓の外では往来する人とわずかながら自動車も見える。

遠目には標高の低い山が一面に連なっている。
地面にはごつごつした岩が露出していてアクセントになっていた。

町のすぐ外が大自然なのだ。広大だが殺風景だった。
緑で生い茂っている日本の自然とは根本的に違う。

雨はあがった。濃い雲の間から日差しが差し込む。
すると大地に見事な虹を作った。三色の虹だった。

「これが大草原の虹ですか。なんて幻想的なのでしょう」

「写真に撮っておきたいね。カメラは日本に
 置いて来てしまったからスマホで取っておくか」

その時太盛はスマホのレンズ越しに見てしまったのだった。
謎の物体が空を飛んでいることに。
虹が少し欠けて見えたのは、弾道ミサイルが飛んできたからだった。

ミサイルはゾーンモドを飛び越えてはるか遠くへ落下した。
10秒ほど遅れて突風がこの町を襲った。

山の樹木が根こそぎ倒れるほどの勢いである。
幸いだったのが、連なる山々が壁代わりになってくれたことだった。
山は爆風の延長線上に位置していたのだ。

店のガラスにヒビが入り、粉々に割れた。
太盛はマリンと共に耳と頭を覆ってテーブルの下に避難した。

テーブルから皿やコップが飛び、壁にたたきつけられた。
洗い物をしていた店主は転倒し、頭を強く打ってしまった。

突然の軍事攻撃に町中が大騒ぎになった。
道路にある車が風圧のためひっくり返っている。

ネットやテレビを駆使して情報集めをする市民たち。
役所や消防に市民が殺到し、混乱の極みに達していた。

太盛とマリンには幸いけがはなかった。

店主にお金を渡し、近くの病院へ医者を呼びに行こうと思ったが、
市に一つだけある病院は人々が殺到している。
とても収拾がつかない状態だ。

「このくらいの怪我なら何とかなる。
 妻が面倒見てくれるから気にしなくていいよ。
 それより君たちの家族は大丈夫か?
 早く家族のもとへ行きなさい」

店主は今の内容を太盛達にモンゴル語で告げたのだが、伝わらない。
しかし、身振り手振りでなんとなく言いたいことは伝わったので
太盛達は店主に英語で別れの挨拶をして店を出た。

マリンはスマホで情報収集していた。
町の中は草原と違い、どこでも電波が通っている。

「お父様。今回の着弾地点は南のゴビ砂漠だそうです」

「ゴビ砂漠だと……? 今回は都市部を狙ったわけじゃなかったのか。
 あんな何もないところに打ったってことは実験だろうか」

「国連は北朝鮮をまっさきに疑って抗議活動をしていますけど」

「話の流れでなんとなく分かるけど、きっと北朝鮮は関係ないな。
 インドもパキスタンも」

「そうなのでしょうか」

「かんだけどな」

「この国はどうなっちゃうの? 
 ユーリが言うように本当に戦争が始まったのかしら」

「ま、どうなろうと絶対に生き延びてやるがね」

「早くユーリの元へ戻りましょう」

町中の人がいたるところで騒ぎを起こして
戦争が始まったと叫んでいた。

治安部隊が、戦車やトラックを
道路に展開して厳戒態勢がしかれた。

国家の非常事態に外国人ほど肩身の狭い者はいない。

太盛達は駆け足で宿へ戻るのだった。
服を買うのはまだまだ先になりそうだった。

「チンギス・ハーンは今でもモンゴル人にとって大英雄なのですね」

次の日は晴天で降水確率はゼロだった。

宿の外の景色は穏やかだ。
郊外なので街中の喧騒とは全く無縁である。
もっとも町自体人口が少ないのだが。

山のふもとになだらかな台地が続き、その一角に羊の群れがいる。
群れの中心に羊飼いがいる。牧歌的な雰囲気だ。

写真や動画でしか見たことのない景色が、
目の前に広がっているのだ。

「何もないのってすごく神秘的なのね。今になってそう思う。
 かつてジンギスカンの軍勢が駆け回った大地か」

ユーリは回復が早かった。

ゴビ砂漠に落ちた弾道ミサイルによる影響で宿のガラス窓が
割れるなど影響はあったが、営業に支障はない。
太盛は応急処置で窓枠にレジャーシートを張り付けておいた。

他には家畜小屋がまるごと吹き飛ばされるなどの
被害は出た。遊牧民らはしたたかですぐに復旧作業に入った。

郊外に設置されているゲルは全く変化がない。
さすがはモンゴリアン・テントである。
やはりテントを買い換えようと太盛は心に誓った。

「ユーリの故郷の東北地方でもここまでの大自然はなかっただろう?」

「うちは日本海側だったから、どこも海と山に囲まれていたわ。
 陸で地平線が見えるなんてありえなかった」

「こういう所で一日過ごすといい考えが浮かびそうだよな」

「なんか、ようやく観光気分になって来た」

「その辺でも歩くか?」

「最初は町に行きたい。いろいろ必要なものを買わないと」

マリンはこうして大人の二人が話しているだけでも気に入らなかった。
認めたくはないが、ユーリがベッドで
ふせっているのを心の中で喜ぶ自分がいた。
だから2人が話しているときはできるだけ割り込むようにしている。

「お父様。またカリンからメールですわ」

「なんだと? 読んでみてくれ」

「ママからの伝言。
 またミサイルが飛んできたそうですが、無事ですわよね?
 贈り物がもうすぐ届く、だそうです」 

「贈り物……? また暗殺集団を仕向けたのか」

北の方角から騎馬集団が駆けて来た。
数は5。まっすぐ太盛達の方へ向けてやってくる。

太盛が双眼鏡をのぞき込む。
彼らは長さの短い騎兵銃を肩から下げている。
帽子を深くかぶり、目元が見えないようにしていた。

「日中堂々とやってくるようになったか。
 しかも乗馬突撃とはモンゴルを意識した戦い方だ」

太盛は急いで二階へ駆けあがり、部屋から武器を持ってきた。

ほどよい岩場があったのでそこに身を隠し、ライフル銃を構えた。
ライフル銃は先日お店で買っておいた。
この世界ではその辺のお店で銃が売られているものなのである。

マリンとユーリも岩の陰に身を隠し、銃を構えた。
ライフルを持つのは太盛だけ。2人は拳銃なので射程に不安があった。

平原に銃声が響く。
太盛の打った弾が馬の脚に当たり、激しく転倒した。

残り4匹は猛進する。

太盛が続いて引き金を引くが、恐怖のあまり手が震えた。
何発撃っても当たらない。

騎馬突撃される側の心理的恐怖は想像を絶した。
あの勢いで踏まれたら骨ごと砕け散ることだろう。

急いで撃たなければ。その気持ちが照準を鈍らせた。

その間に距離が縮まり、敵は拳銃の射程圏内に入った。

マリンとユーリが拳銃の引き金を引く。

マリンが馬を一匹仕留めた。

馬が横倒しになって乗っていた男を吹き飛ばした。

ユーリは初めて騎兵を見た衝撃でめちゃくちゃに
撃ちまくったが、当たらない。

馬上の男たちは発砲せず、長槍(やり)を構えた。
すれ違いざまに太盛達を惨殺するつもりなのだ。

騎馬部隊はさらに加速し、死の馬蹄を響かせる。

いよいよ三人が太盛達の岩場へ殺到し、すべてを
蹂躙(じゅうりん)しようという時だった。

男の一人が悲鳴を上げて落馬した。
彼の胸にはどこからか放たれた弓が突き刺さっている。

休む間を与えずに弓矢が次々に空を舞う。
太盛達からは無数の細い線が天へと昇っているかのように見えた。
それは弓の嵐だった。数は軽く100を超える。

線が頂点に達すると、重力に従って一斉に落下を始める。

男たちはたまらず方向転換して山の方へ逃げていく。
男の背中に弓が刺さり、馬の上でぐったりした。
馬はそのまま駆けているが、すぐに何本もの弓がささって転ぶ。

もう一方の男も馬の尻のあたりに弓が刺さってしまい、
激しく転んだ。その後も弓の嵐が吹き荒れる。
倒れた男の首と腰に矢が刺さり、出血多量で息絶えた。

弓を放ったのは、ゲルの周辺で放牧生活を
している武装遊牧民たちだった。

彼らは家畜を盗もうとする輩(やから)に
備えて普段から武装しているのだ。

リーダー格の男が太盛達のほうへ歩きでやってきて挨拶した。

太盛達は中国人か韓国人と勘違いされていた。
つたない蒙古語で日本人だと話すと
喜びをもって受け入れられた。彼は日本好きだった。

「怪我がなくて安心した。
 この辺は盗賊がうろうろしているから、
 常に武装して備えないといけないんだよ。
 戦うのも遊牧民の仕事の一つだからね」

蒙古語だ。太盛達が理解できずにいると、

彼は身振り手振りを加えて説明を始めた。

やはり理解できない。
敵意がないことはよく分かるのだが。

向こうも悪いと思ったのか、
話を適当に切り上げて手を振って別れた。

「マシ イヘ バヤルららー」

マリンが蒙古語で礼を述べると、男はくったくなく微笑んだ。

武装遊牧民の部下たちが賊の死体を片付けてくれたので。
いつも通りの平和な草原が戻ったのだった。

「マリン様はモンゴル語が使えるのですか?」

「今は挨拶程度だけ。もっと勉強して会話が
 できるようになりたいわ。
 モンゴルで生きていくためには言語は必須でしょ?」

「お嬢様のモンゴル語ハンドブックを
 見せていただいてもよろしいですか?」

本にキリル文字がびっしり書かれており、驚くユーリ。

モンゴルはソ連に組み込まれていた時代に
キリル文字が一般的に使われるようになったのだ。

アルファベッドと漢字で慣れていたユーリにはつらかった。
大学で習った中国語と近いのかと思ったが、文法は
むしろ日本語に近いことにますます驚いた。


「なあ二人とも。ゲルを買おうと思うんだ」

太盛にはもう迷いはなかった。二度に及ぶ弾道ミサイルと
武装集団による襲撃を経ても日本に帰るつもりはなかった。

「他に日用雑貨とかさ。この国で生きていくのに
 必要なものをそろえようと思うんだ」

ユーリがお金の心配をしたので
太盛がマリンの口座の件を教えてあげた。

想定をはるかに超える大金に狂喜乱舞したかったが、
はしたないのですました顔をした。

「なるほど。もともとはご党首様名義の口座だったのね。
 ならばエリカが自由にすることはできません。
 ところでモンゴルのゲルはいくらで買えるの?」

「高級な店じゃなければ日本円で80万くらいが相場らしいよ」

「大した金じゃないわね」

「そうだな」

と、さらりと言えるあたりが太盛一家クオリティだった。
人間だれしも大金を手にすると価値観が変わるものだ。
宝くじなどと違い、親から預かった金なのだから余計に。

ユーリはワクワクして買い物の予定を立てた。

「車も欲しいわね。移動に便利なワゴン車とか」

「キャンピングカーみたいなやつが理想だな」

「あと冬に備えて着るものやストーブなども買っておきませんと」

マリンは冬のゲルで過ごすために必要なものをすでに
リストアップしていたのだった。
ゲルでは薪ストーブを使うのが一般的だ。

「この世界ではお金よりも物や家畜に価値がありますわ。
 早めに買い物を済ませたほうがいいと思います」

まさに心理だった。貨幣経済が行き届いていない社会では
もっぱら現物に重点が置かれる傾向にある。
この年でそれに気づくとは、恐るべき9歳である。

それにしても、孫娘の海外旅行に1億円以上のUSドルである。
太盛の父は相当なレベルの資産家であった。

町に出て盛大な買い物をしたいところだが、先日の
ミサイルの件で軍隊が町を取り囲んでおり物騒だ。

完全武装した兵隊が町の周囲を囲って厳重に警戒している。
お店などもほとんどが閉まっていた。

兵隊の一人が、太盛達が東アジア人だと分かると
身分証明書を提示しろと言ってきたのでパスポートを見せた。
兵隊はすぐに納得して、不要な外出はひかえろと
モンゴル語で行ってきた。

太盛は彼の顔つきで言葉の意味を察し、
宿に帰ることにした。

軍人たちは政府から宣戦布告の
発表があるのを待っているのだ。

宿の窓は壊れていて吹きさらしだ。
カーテン代わりのレジャーシートがゆれている。
風は穏やかで、夕方の段階ではまだ冷えるほどではない。

しかし夜が問題だ。この地方の夜は気温が0度まで下がる。
日中との気温差、実に16度である。

「街が落ち着くまでしばらく宿生活するしかないな。
  この窓、どうしようか」

マリンが店主にそのことを相談しに行くと、ゲルで使われる
丈夫なフェルトをもらえた。これを窓に張り付けると、
十分な風よけとなったのでひとまず安心した。

保存食中心の昼ご飯を済ませると、マリンは昼寝を始めた。
宿にいる安心感で緊張がほぐれたのだ。

太盛とユーリは宿の庭にあるベンチに座り、
無限の大地を眺めた。久しぶりの二人きりである。

「手をつなごうか?」

「はい」

青空に雲がゆっくりと流れていく。
童話の世界のような幻想的な雰囲気だ。

放し飼いされた牛や馬が山のふもとで草を食べている。
モンゴル人にとって何でもない風景が、日本人の
彼らにとっての非日常だった。

「ユーリ。目を閉じて」

彼女の顔を引き寄せ、くちびるを奪った。
長い茶色の髪をなで、肩をつかんでさらに抱き寄せた。
ユーリは太盛を受け入れ、されるがままだった。

ユーリの体調が良くなり、宿舎も決まり、
当面のお金の心配もなくなったことで当面の争いの火種は消えたのだ。

道中で犬も食わないような喧嘩をしたばかりなので
余計に二人の仲が急接近していた。

太盛はユーリの首筋をじっと見つめた。
ユーリは色白で手足が長く、全身に色気がある。
彼女の上着を脱がしたくなる衝動をじっとこらえていた。

ユーリは目を閉じ、またキスされるのをまっている。
長いまつ毛がまた色っぽくて太盛をその気にさせた。
この美しさで使用人をやっている理由が太盛にも理解できなかった。

そんな時に電話が鳴る。

雰囲気が台無しなので太盛は憤慨した。

太盛は高校生の時から携帯電話が好きになれなかった。
遠く離れた場所にいる相手が、自分の自由時間に
勝手に踏み込んでくるのを嫌うからだ。

ズボンのポケットから出したスマホを固く握り、
振りかぶって草原へ投げようとしたら、ユーリが慌てた。

「そんなに携帯が嫌いなの?
 まだ誰からかの連絡かも分からないじゃない。
 せめて画面くらい見ようよ」

愛する人の言うことなので太盛がしぶしぶ確認する。

カリンからの着信だった。

愛娘からの電話のため仕方なく出ることにした。
太盛は妻のことが嫌いでも子供たちのことは
心から愛していた。

「お父様!? お父様なのよね!?」

「ああ。パパだよ。しばらく家を留守にしてしまってすまない」

「お父様、良かった。生きてたんだ。
 モンゴルにまたミサイルが飛んだって聞いたからさ」

「俺たちのいる場所に命中したわけじゃないから大丈夫だよ。
  はは。最初はびびったけど、ああいうのも慣れだよね」

「マリンもそっちで暮らしているんだよね?
 モンゴルみたいな後進国でどうやって生活してるの?
 かけおちするってことは、
 ユーリとそっちで再婚するつもりなんでしょ?
 やっぱりママと離婚するのね?」

「ちょ、質問が」

多すぎて答えようがないため困る。
カリンはマリンほどでないにしろ早熟で
気になったことはなんでも質問するのがくせだった。

勉強でも分からないことは先生や親を追い詰めるまで
質問を繰り返すほどの熱心さだった。

「カリン、信じられないかもしれないけどね、
 パパはユーリ達と旅行中なのさ。
 再婚を考えているわけじゃない」

「え、再婚じゃないってことは、ユーリはただの愛人?
 それってただの国外逃亡じゃん。
 私とレナはお父様に捨てられたってことなのかな?
 そっか。だからお父様はママに内緒で家を出ていったんだ」

太盛は早口でまくし立てるカリンを納得させるには
論文を書くくらいの努力が必要なことが分かった。

勝手に家出をした身なので文句は言えないのだが、
それにしても警察の取り調べ並みの勢いである。

カリンのこういうところが無駄にエリカに似てしまったことを
屋敷中の全員が残念に思っていた。

「待て待て。まだカリンには難しいかもしれないけど、
 パパとママには深い事情があってだね。大人には
 いろいろあるんだよ。その、なんていうか
 大人の世界っていうのかな。それとマリンは
 いつの間にかモンゴルに来ていたんだよ」

「マリンは小学生なのにどうやって
 モンゴルまで行ったの?
 実はパパが呼びだしたんじゃないの? 
 マリンはパパの一番のお気に入りだからさ」

「そんなわけないだろ。むしろ大事に思ってるなら
 外国に来させないよ。ちょっと待ってくれ。
 次は逆にこっちから質問するよ」

「うん」

「レナは元気にしているんだね? ミウや後藤たちも」

「学校が休校になっているから私たち双子は家で
  過ごしているよ。退屈な毎日だよ。
  今、日本は弾道ミサイルの話題で持ちきりなんだけど。
  テレビは中国か北朝鮮のしわざだって言ってるよ」

「なるほど。やっぱり日本ではそんな感じなのか。
 学校が休校になっているとは知らなかったな」

太盛は自然と表情が緩んだ。

自分たちのモンゴルはともかく、
日本にいる娘たちが平和に暮らしているならそれで良かった。

妻との電話。国境を越えて続く束縛

「パパは、嘘つきだよ」

(あれ、急に声が変わった?)

途中からレナが電話に出たのだ。
レナは質問ばかりしているカリンをうとましく思って
携帯を取り上げたのだ。

「レ、レナか。声だけ聞くと元気そうだね。
 ごめんね、黙って旅行なんてしちゃってさ」

「私が元気に見える?
 パパは、ひどい人です。どうしてユーリを選んだの?
 そんなにユーリのことを愛しているの?」

レナは泣きそうな声のトーンだった。
実の父親が国外逃亡しているのだから、
捨てられたと考えるのも無理もない。

というか文字通り家族を捨てて脱走したろくでなしである。

「信じてもらえないかもしれないけど、
 僕はレナとカリンのことも愛している」

「嘘ばっかり!!」

「嘘じゃない。嘘じゃないんだよ」

「じゃあどうしてモンゴルになんかいるの!!」

「仕方なかったんだよ……。俺だって好きで遊牧民みたいな
 生活をしてるわけじゃない。ここでの生活は死と隣り合わせだ。
 過酷な大自然、言語の通じない生活、町を歩けば異邦人として
 白い目で見られる。自由なんか全然ないんだ」

「ならどうして日本から逃げたの!!
 私たち家族のことはどうでもいいって思ってるんでしょ?
 私たちより血のつながっていないユーリの方が大切なんだ!!」

「違うんだよ。俺はね、あの家で暮らすのが限界になったんだ。
 おかしくなっちまったんだよ。定時帰りの日は地獄だった。
 まっすぐ家に帰ると笑顔のエリカの玄関の前で待っている。
 家にいる時間が長いとあいつといる時間が長くなる。束縛される。
 エリカと一緒にいるのが苦痛で仕方なんだ。
 俺はあいつといるだけで疲れる。もう何もかも嫌なんだよ!!」

「パパの馬鹿!! そんなの理由にならないよ。
 ママが嫌なら別れればいいじゃん!!」

「それができたら苦労しないよ!!
 親父殿が認めてくれないから!! 俺はどうしようもなくて!!」

太盛はそのままの勢いでまくし立てたのだが、
レナの返答が急になくなったので不思議に思った。

今度はカリンと電話を替わったのかと思ったら、
最悪の展開が待っていたのだった。

「こんにちは。ご機嫌はいかがですか、太盛様?」

太盛は、血の気が引く思いがした。

この事態は想定できなかったわけではない。

カリンやレナの電話やメールは全てエリカの管理下に置かれている。
したがって今までの会話もエリカに筒抜け。離婚のくだりなど
相当にまずい表現が含まれていた。

レナとカリンも久しぶりに父と話したこともあり、
思いを全てぶちまけていたのだ。

「うふふ。娘たちととっても愉快なことを話していたようですね?
 離婚がどうとか。太盛様ったら、本当にいけない人ですわ」

説教が始まったのだ。家にいる時と全く同じ口調だった。
電話越しだから太盛からは見えないが、
エリカは落ち着いた口調でニコニコと笑っている。

彼女はあふれ出すほどの殺気を内に秘めながら、
表向きは淡々と丁寧な口調で話しているのだ。

「エリカ。それ以上くだらない話を続けるなら電話を切るぞ」

「ふふふ。切ったらレナ達にお仕置きを
 しますけど、それでもよろしければ」

「脅迫するつもりか……。
 娘達に危害を加えたらおまえを絶対に許さない」

「私の大切な娘たちですわ。
 少し叱るだけで傷つけるとは言っておりませんが。
 太盛様ったら被害妄想が激しいのですね」

「いや、おまえなら何をしてもおかしくない。
 こういうやり取りは胃が痛くなって嫌なんだよ。
 会社で取引先に叱られるほうがまだましだ」

「つれないです。せっかく夫婦
 水入らずで話をしようと思っていますのに」

「言葉の使い方を間違ってないか?
 レナ達も話を聞いているんだろうが」

「誰が聞いていようと関係ありますか?
 私は今太盛様と話をしています。
 これがなにより重要なのです」

「……ああ。お前の場合はそうだったな。」

「最後のチャンスです。ウランバートルの空港に
 飛行機を用意させますから家に帰ってきてください」

「そんなバカな提案に俺が乗ると思っているのか?
 空港に行けばお前の手下に拘束されるんだろうが」

「ふふふ。口が悪いのは電話口だからと安心しているせいですか?
 まあいいです。現在極東アジアは世界の火薬庫と化し、
 全ての国の国境が封鎖されていますから、
 空路以外に帰る方法はありません。もちろん空路ですら
 アフガンと同じくらいの危険地帯ですけど」

「ミサイルが落ちたばかりのバトル市になんて誰が戻るかよ。
 それこそ自殺行為だ。俺がどうして外国にいるか、
 言うまでもなく分かっているはずだよな?」

「ええ。もちろんですわ」

「なら、これ以上話す必要は……」

「でもそれは太盛様の本心ではありませんね」

「なに?」

「太盛様は、一時の感情に任せて家を飛び出したにすぎません。
 遅めの反抗期とでも言いましょうか。たまたま自分の言うことを
 なんでも聞いてくれる都合の良いメイドがそばにいたから、
 ちょっと現実逃避をしてみたくなっただけなのです」

「ずいぶん一方的な解釈だな。
 ユーリと逃げることは本人と話し合って決めたことだぞ。
 ユーリはどこまでも俺に着いて来てくれると言った。」

「しょせんはその程度の関係です」

「どういう意味だ?」

「男女の駆け落ちなど、三流小説のネタにすぎませんわ。
 非現実的というか幼稚というか。
 最後は破局する運命にありますのに」

「なぜそう言い切れる?
 たとえ破局したにしても、おまえと離れ離れになれるなら
 それでもいい」

「甘いですね」

「なにが?」

何を言っても常に否定され続けるので、太盛の口調が荒くなっていく。
一方のエリカは朗読をするように淡々としている。
愚かな夫に心理を教えてあげる宣教師のようだ。

「私たちの婚姻はあなた様のお父上がすすめてくれたことを
 お忘れなく。ご党首様の力を使えば、今すぐあなたを
 軍用機で迎えに行くことも可能なのですよ?」

そこが太盛の弱みだった。繰り返しになるが、
太盛の父の決定は神の決定に等しい。

現段階では、父には息子が逃避ごっこをしている程度の
認識しかない。マリンに億を超えるお小遣いをあげて
旅行させたのがその良い証拠だ。

普通に考えれば、9歳の娘を単身海外に行かせるなど
常軌を逸している。党首は冷徹な人物である。

マリンがトラブルに巻き込まれて仮に
命を落としたとしても、仕方ないとすら思っていた。

生き残るのにも運が必要だが、彼にとって
その運すらない人間は一族にふさわしくないのだ。
血の通った人間とは思えない発想である。

「まだ親父殿はまだ俺のことを見逃してくれているじゃないか。
 小さいころから一度も親に逆らわなかった俺が、今回だけは
 反抗した。確かに遅めの反抗期って言い方は正しいかもな。
 親父が動かない以上、俺はまだ日本に帰るつもりはないからな」

「うふふ。きっと後悔することになると思いますけど、
 太盛様がそこまで強情を張るというなら、
こちらにも考えがありますわ」

「ああ、好きなようにしろよ。また暗殺者でも
 なんでも送って見ろよ。俺じゃなくて
 ユーリを殺すつりなのはバレバレだけどな」

「なんの話をされていますの?
 さて。そろそろ夕飯の時間なので失礼しますわ。
 声だけでも聞くことができてうれしかったです。
 それでは、おやすみなさい」

太盛は携帯を握りしめたまま、無表情に地面の石ころを見つめた。

妻の声を聴いてしまった耳を呪いたくなった。
憎い妻と、残された娘たちへの愛情がせめぎあい、
発狂しそうになる。

メイドのミウがどうしているか無性に知りたくなった。
あの子はくったくない性格で、太盛が悩んでいるときは
冗談を言ったりして励ましてくれた。

(どうしてエリカの言葉は俺をここまで不安にさせるんだ。
 俺はいつまであいつに振り回されるんだ。
 どうすれば離婚できる。どうすれば、どうすれば)

そんな太盛の手をやさしく握ったのは、隣に座っているユーリだった。

「もう忘れようよ。ここにはあの女はいないじゃない」

「分かっているんだけどな、さすがに電話した直後だと
 気分が悪い。怒りが抑えきれないんだ」

「太盛しっかりして。あなた、エリカと
 電話している時ずっと震えてたじゃない」

「そ、そうなのか? はは。言われるまで気づかなかった」

強がって言う太盛。彼が無理しているのをユーリはよく分かっていた。

「もうすぐ日が落ちるわ。早く宿へ戻りましょう」

「いや、まだここにいたい。このベンチに座っていると
 なんだか心が落ち着くんだ。風が気持ちいからかな」

「太盛……マリン様もそろそろ起きたと思うけど、
 夕飯はどうするの?」

「悪いけど食欲は全くない。今は一人になりたいんだ。
 マリンにもそう伝えておいてくれ」

ユーリは短く返事をしてきびすを返した。
少ししたら戻ってきて、風邪を
ひかないようにねと言い、ジャケットを手渡した。

太盛は礼を言い、ジャケットを着てから遠くの景色をただ見ていた。

地上の様子に変化はない。退屈で仕方ないが、考え事を
しているとすぐに時間は過ぎていく。

雲が天を覆い始めた。
地平線のかなたに太陽が沈んでいき、深い闇が草原へ訪れる。

山のふもとにいる6つのゲルが目立つ。

ゲルの中心部に煙突が伸びていて、煙が立っている。
中は文明の明かりで照らされており、女たちが炊事をしているのだ。

玄関は閉ざされ、家族全員が丸くなって食卓を囲む。
母親が水餃子、羊の肉が入った汁物をお椀に持っていく。
みなが同じ色の皿を持ち、スプーンを口に運ぶ。

これがモンゴル式の家族団らんなのだ。
老人から子供までみんなが同じゲルで暮らす。

玄関が開くと、一人の老人が出てきて鍋に残った油汁を大地に捨てた。
子供たちは洗剤を取り出し、食べ終えた皿と鍋を洗う。
モンゴルでは子供も積極的に仕事を見つけて親を助けるのだ。

日中の放牧作業、燃料となる家畜の糞拾いは彼らの日課だ。
親から子へと、遊牧民の知恵は受け継がれていく。

護衛用の番犬がテントの前で吠えていた。

マリンが宿から出てきて、
父の肩に優しくブランケットをかけた。

「お父様。寒くありませんか?」

「モンゴルの夜はずいぶん冷えるね。
 風が肌を刺すように冷たいよ」

「ユーリから話は聞きました。
 ずっと外を眺めていたのですか?」

「素敵な空じゃないか。パパの生まれ故郷には
 こんな綺麗な月は見えなかったな」

雲の隙間から月が姿を合わらす。
風はゆっくりと南の方へ流れていく。

太盛はそれ以上何も話さず、
月光に照らされた雲の動きを黙って見ていた。

マリンは、二人でいる時に父が話題を
振らないことが一度もなかったので少し傷ついた。
本当は愚痴や悩みを話してほしかったが、
父はマリンから視線をそらしたままだ。

太盛は孤独願望の強い男だから、嫌なことがあると
すぐ誰もいないところを探しては考え事をした。
日本にいる時は、娘の前でその癖は出さないようにしていた。

エリカは太盛を監視し、そんな自由な時間を
許さなかったので彼の心を傷つけた。
エリカといると趣味に没頭する時間さえ存在しなかった。

(旅に出ると、人の本当の一面が見えるのね)

旅の途中でユーリが癇癪(かんしゃく)を起こしたこと、
父の不愛想な態度など、マリンの知らない世界はたくさんあった。

マリンは父の隣に座り、腕に抱きついた。

「お父様は間違っていませんわ」

父は驚き、マリンを見つめた。

「私はお父様の良いところをたくさん知っていますわ。
 全部エリカの性格が悪いのが原因ではないですか。
 母もお父様のことが大好きだから執着しているわけです。
 屋敷のみんなもお父様の味方ですわ」

太盛は、納得いかなそうな顔で顔を伏せた。
マリンはさらに力を込めて腕にしがみついた。

亜麻色の髪からリンスの良い香りがした。
かんきつ系のさわやかな香りである。

体重を預けてくれる娘の姿が妙に愛しくなる。
太盛は、まるで恋人が隣に座っているのかと思ったほどだ。

「マリンは俺を許してくれるのか?」

「許すって、何をですか?
 私はお父様のことを嫌いに
 なったことは一度もありませんわ」

太盛は短くありがとうと言い、マリンを強く抱きしめた。
マリンはそれ以上何も言わず、父の腕の中でじっとしていた。

彼には肯定してくれる人が必要だったのだ。
父にも妻にもすべてを否定され、管理下に置かれ、
胃と腸を痛める日々が続いた。

大学も就職先も結婚相手も父に決められた。
新卒と同時に結婚も決まり、子供をもうけるのも早かった。
大学時代の友人からは若旦那とあだ名されていた。

まだ仕事も半人前なのに一家を構えることになったのは、
彼にとって相当な圧力となった。自由に時間を使える独身の
同僚たちのことがうらやましくて呪ったほどだった。

子供への愛情だけでここまで生きて来た。
彼を支えてくれる使用人もいた。
富豪の父は無制限の金銭援助をしてくれた。

しかし、彼が一番欲しかった心の自由は
ついに得られることはなかった。

「マリン。もう少しだけここにいてくれないか?」

「はい。お父様が望むのでしたら、いつまででも」

秋の始まりのゾーンモド郊外である。
娘がそばにいてくれれば、寒さなんて感じなかった。

ふいにマリンが危険を冒してまでモンゴルへ来てくれたことを
思った。その優しさに感動して太盛の頬から熱い涙が流れた。
彼が娘の前で初めて流す涙だった。

(そこにいるのは、本来なら私の役目のはず)

ユーリは物陰から様子をうかがっていた。
下手に近づけばマリンの機嫌を損ねる恐れがあったからだ。

ユーリは、マリンが太盛を慰めているのを
見て激しく嫉妬した。マリンは、ませているのを
通り越してユーリの居場所を奪おうとしているのだ。

マリンがファザコンなのは幼少時代から良く知っているが、
外国に来てますます悪化しているようだった。

口ではユーリが恋人だと認めつつも、
納得していないのがバレバレで腹が立った。

マリンは一瞬だけユーリと目を合わせると不敵にほほえんだ。
全てを察したユーリは鼻を鳴らし、早足で宿の中へ入っていった。

「ところでマリン様は学生の身でありますが、勉強の方はよろしいのですか?」

タイトル通りのことをユーリが唐突に言った。
なんともとげのある言い方である。

どこへ行くのも父と一緒にいたがる娘を
うとましく思い、つい口に出してしまったのだ。

「心配してくれてありがとう。
 いちおう飛び級だから1年くらい休学しても問題ないわ。
 それに弾道ミサイルのせいで日本中の学校は休校しているじゃない」

「休校中なら自宅待機する決まりですわ。
 こんなところで油を売っていると退学になるのではないですか?」

「学校なんて行くだけ無駄です。勉強なら一人でできますから」

「成長すると、そうも言っていられなくなりますよ?
 将来の就職などに影響しますわ。
 お嬢様は小学生。義務教育を受けるのは国民の義務です」

「私が通っているのは母が無理やり入学させた
 お堅いミッションスクール。いるだけで
 ストレスが溜まるわ。私は普通の学校でよかったのに」

「しかし太盛様も一人になりたい時もあるでしょうし、
  四六時中一緒にいる意味はないと思いますけど。
  たまには市の図書館でお勉強などされてみては」

「本ってほとんどモンゴル語で書かれているのよ。
 あれキリル文字じゃない。私には難しすぎるわ」

「では、モンゴル語の読み書きの勉強などをされてみては」

「読み書きの勉強はするつもりだけど、
 その前にまずは会話ね。話し言葉が分からずに
 字が読めるわけないわ」

マリン達三人が昼下がりに宿近くの草原を散歩していた。

太盛はユーリの風邪が治った後もここを拠点に選んだのだ。
金にものを言わせて宿に長期滞在である。

今後の生活のこととか、考えるべきことはたくさんある。
一連のミサイル発射のほとぼりが冷めるまで町へ行くのは危険だ。


「ユーリはさっきから何が言いたいの?
 まるで私に出ていってほしいみたいな言い方ね」

「ええ。まさしく言葉通りの意味ですわ」

「ふぅん。あらそう。
 ここが屋敷じゃないからって大きく出たわね?」

「だってマリン様は呼ばれてもいないのに
 ここへ来たじゃないですか。私と太盛様の
 恋人気分が台無しなんですよ、ぶっちゃけて言うと」

「そのむかつく話し方は何? また熱でも出したの?
 それともそっちがあなたの素なの?
 だとしたら性悪女みたいだからやめなさいな」

「おい二人とも。また喧嘩か」

太盛の横にぴったりついて歩いているのはマリン。

マリンは早熟で頭脳は中学生を凌駕している一方、
父離れするのはまだまだ先になりそうだった。
ようするにまだまだ父に甘えたいのだ。

メイド時代と違い、主人のすぐ横を歩くユーリ。
マリンとは逆の側にいるので太盛は両手に花だった。

しかし全然うれしくない。
蒙古にて嫁と姑のような無意味な争いの渦中にいるのである。

「ユーリもやめろ。子供相手にむきになるなよ」

「いや、私はこんなことしたくないんだけどさ、
 この子が突っかかってくるから」

「どっちがよ!! 最初に喧嘩を
 売って来たのはあなたでしょうが!!」

「ほら。怖い顔。やっぱりエリカの子だわ。
 目つきとかそっくりじゃない」

太盛は声を荒げるマリンに驚いていた。

どちらかというと不満を内にため込むタイプで、
幼稚園の頃は泣き虫で有名だった。
彼の記憶の中の娘は、怒るより泣いていることのほうが多かった。

それなのに、ここ数年で急激に成長した。

ウランバートルから草原を歩いた時も終始冷静だったのは
マリンだけだった。あのしたたかさは、20代の女すら
超越していたといっても過言ではない。

そのマリンが、ユーリにからかわれてここまで取り乱しているのだ。

「マリン、ごめんね? ユーリは外国気分で気が立っているんだ。
 ユーリにはあとで俺の方から言っておくよ」

父になだめられると、マリンは唇をとがらせてふてくされた。
まだ怒りが全然おさまっていないのだ。

「お父様。私、ユーリと一緒にやっていける自信がないわ」

「それはお互い様ですね。こちらとしても
 ドラマチックな愛の逃避行をしたかったのに台無しです。
 大人の世界にお子様がいると盛り上がりませんわ」

「こいつ!!」

頭に血が上ったマリンが、平たい軍隊用の水筒を
ユーリにぶん投げた。ユーリは素手で軽く止め、涼しい顔をした。

「おや。今何か飛んできましたね」

と言って水筒を飲み干してしまった。

太盛の家の使用人は雇用条件として格闘訓練を
受けているから、近くにいる相手に
不意打ちを食らうことはまずないのだ。

「いいかげんしないと怒るぞユーリ。
 マリンが俺の娘だってこと忘れてないだろうな?
 最近の君はどうしてこんなに口が悪いんだ」

「自分でもよく分からない。日本にいる時は全然気に
 ならなかったけど、マリンを見ているとすごく腹が立つの」

「こういう修羅場が嫌で俺はモンゴルに来たんだ。
  なんでモンゴルに来てこんな思いをしないといけないだ」

そんな時、放牧中の家畜の一群が迫って来た。

ヒツジやヤギの群れが太盛達の横を通り過ぎていく。
家畜の鳴き声が音楽のように草原に響いた。

父と息子がそれぞれの馬にまたがり、羊たちを
追っていた。その先には国内で数少ない井戸があり、
家畜たちに水を飲ませるのだ。

水飲み場には他の家族が連れて来た家畜も勢ぞろいし、
大所帯となった。大人の男たちが、長い棒の先に固定された
バケツを井戸に突っ込み、水を汲んでいく。

丸太を切り開いて作った大きな水受けだ。

そこに家畜たちが並んで水を飲みに来る。
後ろにいる家畜たちはおとなしく順番を待っており、
喧嘩をする様子はない。

父は大きな声で小学生の息子にあれこれ説明していた。
父から子へと、放牧の仕方が受け継がれていくのだ。

「あの様子を見ろよ。モンゴルでは家族は協力し合って
 生きているんだ。それに比べて俺たちはどうだ?」

「あはは。何しにモンゴルに来たのか
 分からなくなってきたね。うん。そうだよね。
 ごめん。先に部屋に戻ってるから」

太盛は複雑な思いでユーリの後姿を見つめた。

モンゴル行きを決めたのは太盛だ。
ユーリは屋敷時代に太盛の考えに
逆らったことは一度もなかった。

だからモンゴル行きに同意したのも、
主人に付き従う立場だからかもしれないと太盛は勘ぐっていた。
主従関係を取り除いた結果が現在の状況だ。
ユーリが不平ばかり言っても彼女に強く言うことはできなかった。

残されたマリンは、沈んだ声で言った。

「お父様。醜い争いをしてしまってごめんなさい。
 お父様はマリンのことを嫌いになりましたか?」

「そんなことないよ? 僕はマリンのことが今でも大切さ。
 生まれた時からずっと可愛がってきたんだから」

「私、ユーリの言うように学校に行っていません。
 実はお父様がいなくなったと知って衝動的に
 モンゴルに来てしまいまして……。
 私はこのまま退学になるのでしょうか」

「その辺はエリカに任せておけば大丈夫だ。
 あいつは身内の恥は金と権力でもみ消そうとするからな。
 それを言うんだったらパパだって会社を首になっていると思うよ」

「でも」

とマリンがなおも言うので、太盛は遠くにある遊牧民の
ゲルを指さした。マリンは素直に太盛の指先を追う。

「ここの子供たちは実に働き者だ。
 10歳にもなれば進んで親の仕事を手伝う。
 まず早朝の家畜の乳しぼりから始まる。
 羊たちに草を食べさせるために数キロ先の平原まで出かける。
 草原を自由に走り回る家畜のあとを追ってね」

とはいえ、近代化の波が押し寄せたモンゴルは
遊牧生活を捨て、都市部へ住む人が増えてきている。
真の遊牧民と言える人々は、はたしてどれだけいるのだろうか。

「何も学校に行くことだけがすべてじゃない。
 日本で何かをするためにまず学歴から入るのは
 確かにそうなんだけど、お勉強だけできるインテリが
 世の中を動かしたってちっとも良い世界にはならないんだ。
 それは世界の歴史が証明している」

経験が大切だと太盛は言う。
特に旅は良い。

異なる人種、言語、生活様式に触れることで、
新しい世界観が開くのだ。
それは、地球という大きな鏡で自らの矮小さを
見つめるかの如く。

「ユーリに言われたことは気にするな。
 あいつはマリンにつっかかりたいから
 学校のことを口にしただけだ。あいつも前は良く言っていたよ。
 学校は窮屈だって。クラスっていう缶詰の中で
 つまらない常識に従い、クラスメイトの顔色をうかがいながら
 生活する毎日。出る杭は打たれる。女子の社会だと美人ほど
 周りに気をつかうものさ。まさに社会の縮図だ。全然自由じゃない」

太盛の人生は常に父親の監視下に置かれ、敷かれたレールの
上を歩いてきた。勉強はできるほうだった。進学校でも成績は
上位をキープし続けた。

だが家で勉強すればするほど、むなしさが残った。

結局大学に進学したのも親を喜ばせるためだけだった。

彼は生まれてから一度も努力をしたことがなかったと思っている。

ただそうするように言われたから、一種の義務感だけで
嫌な勉強を当然のようにこなしていた。

大学4年間。自由に講義の時間を組んで、友達と遊び、
思い通りに過ごせた。なんて自由な空間だろうと思った。
いつまでも大学生のままでいたかった。

卒業直後に結婚相手を紹介され、エリカと結婚してから
彼の自由は完全に消えた。子供がいるからとか、家庭のこととか
そういう話ではない。子供は愛している。
ただエリカといることが我慢できないのだ

実家で父の叱責におびえているほうが、まだましだった。

「お父様は、ずっとモンゴルで暮らすつもりなのですか?」

「どうだろうな。最初はただエリカのいない生活をしてみたかったんだ。
 国内だと会社の出張と偽っても1時間以内にばれるし、最悪外出先まで
 迎えに来るかもしれない。あいつから逃げてもいつも無駄だった。
 まるでソ連のスパイみたいに俺を監視し、追尾してくる。ま、それはいい。
 今は気持ちが楽になったよ。モンゴルの乾いた空気を吸っていると、
 生きているんだなって実感できる」

「あんな女、最低です。お父様は離婚したいって言っているのに
 DVされたってでっちあげて家庭裁判所に訴えようとするなんて」

「エリカだけじゃなくおじいさんも認めてくれないからね。
 それにうちの屋敷で雇っている使用人のみんなも解雇されてしまう。
 問題はまだある。子供たちの親権だ」

「私はお父様に着いていきますわ。レナとカリンも同じ気持ちです」

「そう言ってくれるのはうれしいが、どうやらミウや後藤たちも
 僕に着いてきそうだぞ。たとえ僕の再婚相手が誰だったとしてもね」

マリンの瞳に嫉妬の炎が燃え盛った。再婚相手とは、誰が考えたって
ユーリに決まっていた。もしマリンが邪魔をしに来なければ、
二人は事実上の夫婦になっていたことだろう。

「パパはね。たとえ離婚しても独身に戻るつもりはない。
 俺は弱い。家でも会社でも権力者にひざをつく、ちっぽけな人間だ。
 だからパパを支えてくれる誰かが必要なんだよ。
 パパをよく分かってくれる女性がね」

マリンの内心は穏やかではなかった。
ユーリとの再婚など彼女からすれば論外だ。

マリンは自分でも理由が分からないが、背が高く、学歴もあり、
美人で仕事をそつなくこなすユーリをライバル視していた。
ユーリがすることにいちいち腹をたて、口を挟みたくなるのだ。

今回の逃避行も、相手がユーリだったから許せなかった。
仮に同じメイド仲間のミウだったら、レナ達と同じように
自宅で父の帰りを待っていたのかもしれない、

「女はさ、人と比べたくなる生き物だからね。
 マリンは完璧超人のユーリに嫉妬しているんだよ」

マリンは否定しなかった。
父の前で強がった嘘は言いたくなかったのだ。

「でもな、それはユーリだって同じだ。
 ユーリは父から愛情をたっぷり注がれている君のことを
 特別視している。つまり、嫉妬の対象なんだよ。ここは外国だ。
 ミサイルまで飛んでくる危険地帯だ。有事の際に俺が
 命を懸けて守るのは、第一に血のつながりのあるマリンだ。
 この時点で愛人との不倫は成り立たなくなる」

「だからユーリはイライラしていたのですね。
 草原を歩いているときの口調はひどいものでした。
 風邪ひいていることを抜きにしても」

「正直に言うよ。今回の旅は失敗だったかなと思っている。
 エリカの送った刺客は今後も無数に現れるだろう。
 こっちが少しでも気を抜けばユーリが殺される。
 エリカはユーリを心から始末したくて仕方ないんだ」

「母はユーリを殺したいのですか」

「あいつの思考回路だとそうなる。俺をそそのかしたのは
 側近のユーリ。あの女がすべての元凶ってことにして
 すべてを丸く収めるつもりだ。ただし」

自分は収容所行きになると言った。

エリカは旦那を矯正させるために屋敷の地下に
巨大な牢獄を作ってある。太盛は結婚してから
二度ほどそこへぶち込まれたことがある。

コンクリートと鉄格子があるだけの、殺風景な空間だ。
女性関係でエリカの逆鱗に触れた時は
2週間の間、収容所生活を余儀なくされる。

朝夕の食事の配膳以外で人とのかかわりは封じられる。
わずかな食料を食べる以外に、本当に何もすることがない。

旦那を正気に戻すためだと、エリカは免罪符を得た
宗教信者のように自らの行いを正当化する。

収容所から出た翌日には、いつもと変わらず
笑顔で話しかけてくる妻に心から殺意がわいた。
夜の生活も拒否する権利は太盛にはない。

残業疲れで鬱になりかけてもエリカの相手を強要され、
どんなつまらない話もエリカが眠くなるまで
きちんと聞かないと機嫌が悪くなる。

まるで家庭でホストでもしている気分になった。
太盛は相手の気持ちを考えない妻の勝手さが許せなかった。

「明日、エリカと電話で話してみる」

「あんな女と話を!? そんなことして意味があるのですか!?
 それに何を話すつもりなのです!?」

「なに。あいつだって人間だ。いくらソ連的冷徹さがあるからと
 いって、夫が長い時間留守にしていたんだから奴こそ
 あまたを冷やす時間があったはずだ。ちょっと交渉をしてみる」

「エリカと交渉だなんて危険すぎますわ!!
 話が通じない相手だということは、
 お父様が一番よくご存じでしょう?」

「逃げ続けても無駄だ。いずれ限界が来る。
 その前にこっちから手を打つべきだと思う」

「いけませんわ!! あの女のいない世界へ来た
 意味がないではないですか!!」

マリンは父の服をひっぱり、抗議し続けた。
必死の訴えもむなしく、太盛の決意は相当に硬いのであった。

あとでユーリにも鋭い声で猛反対されたが、
やはり太盛の考えは変わらない。

夫は妻へ離婚を告げる(電話で)

太盛の顔は、まるでカンボジアの古い寺院にいる
修行僧(74歳)のようであった。悩みや苦悩や恐怖など
あらゆる雑念を排除していた。

太盛の豹変(ひょうへん)にユーリは驚愕した。
ユーリはマリンが余計な入れ知恵をしたせいだと
勘ぐり、激しい口論となった。

太盛は菩薩の顔で彼女らをやり過ごし、
普通に寝てしまった。かなりの大物である。

「太盛が収容所行きになったらお嬢を一生恨んでやる!!」

「まあ、それはひどい被害妄想ねえ!! その前に
 あなたがババアに殺されてお陀仏ですけど!! 
 あと私がお父様をそそのかしていないと
 何度言ったら分かるの!!」

「あんたがモンゴルに来てから太盛はあんたの心配しかしてない!!
 あんたを日本に帰したいからババアと交渉するわけでしょ!!」

「どうして何でも私のせいにしようとしたがるの!!
 私だってお父様が交渉すると言ったときは必至で止めました!!
 お父様がどうしても電話したいっていうなら仕方ないじゃない!!
 私はお父様の意思を尊重するつもりだけど!?」

「なにがお父様の意思だ。お父さんの前で良い恰好したいだけでしょ!!
 そんなだからあんたはファザコンって使用人の間で
 陰口叩かれるんだよ!! 本当に大切なら体を張って止めろよ!!」

「なら父のスマホを叩き割ればいいの!?」

15分もやりあっていると、さすがに宿の管理人が
注意をしに来た。次夜に騒いだら強制退去させると言われた。

枕やペットボトルや鍵など投げやすそうなものが
床に散らばっている。ユーリは肩で息をし、
多めに買っておいた牛乳を一気飲みすると
ようやく落ち着いてきた。

マリンも同じように牛乳を飲みほした。
子供のマリンにはつらく、はげしくむせた。

「それよりどうしたらババアと離婚できるか考えたほうが建設的かもね」

「ふん。確かにその通りですわ。父の最終的な目的は離婚です」

いい加減に言い争いに疲れた二人は、子供のような顔で
寝ている太盛の横で眠りについた。

それぞれが反対側の位置から太盛に寄り添って寝ている。
全ては翌日分かること。これ以上考えるのはやめにした。

翌日の早朝。太盛はクリームパンとミルクティの朝食を
済ませてからエリカの携帯へ電話した。

携帯の画面に妻、エリカの文字。
通話ボタンをタッチし、コールが始まる。

緊張の一瞬である。

部屋の扉には鍵をかけてあるから外部の人の邪魔は入らない。

スリーコールしてもエリカは出ない。
時刻は7時。一般的には非常識な時間だが、
太盛は一分でも早くエリカと話がしたかったのだ。

さすがに妻は朝ご飯でも食べているのかと思い、
かけなおそうとすると、5コール目で出た。

「太盛様ですか?」

高揚して上ずったトーン。
アナウンサーのようにてきぱきとしたリズムだ。
思わず知的でおしとやかな女性の声を連想させるが、
正体は性悪女なことを太盛は知っている。

「今日はお前に話があるんだ。こんな時間にすまないな。
 もし忙しいならかけ直すけど?」

「心配は無用ですわ。私は太盛様が電話してくれるだけで
 わくわくしますの。新婚の時以来私に電話をしてくれなかったわ。
 電話をかけるのはいつも私の方。ねえ、私がどんな思いをしていたか
 分かりますか?」

「知らんな。それより今後の俺たちについての話をしよう」

「それはつまり、太盛様が日本に帰ってくるということですね?」

「お前次第だな」

「おっしゃっている意味が分かりませんが?」

「条件がある。まずユーリとマリンに危害を加えるな。
 もちろん俺にもだ。おまえが地下の収容所を改装したのは
 知っている。俺とマリンは収容所で生活、ユーリは拷問するのが王道か」

「まあ、拷問だなんて。そんな恐ろしいこと、私は考えていませんわ。
 確かに大切な夫を後進国へ無断で連れて行ったわけですから、
 軽い仕置きをする必要はありますが、拷問というほどではありませんわ」

「ごたくはいい。処分だろうがお仕置きだろうが意味は同じだ。
 ユーリは再起不能になるまでおまえに痛めつけられるんだろう!?」

「やるのは私ではありませんわ。私の雇っている使用人です」

「どっちにしても同じだ!! おまえの部下は、
おまえが命令して動くだけの操り人形だ!!」

「太盛様は、ご自分の立場が分かっているのですか?
 一時的とはいえ、大切な家族を捨てて国外逃亡したのですよ?
 民法の離婚事由に書かれている、悪意のある遺棄の一部を満たしましたわ。
 夫婦間に深刻なあつれきを残したことは事実。ですから、
 今後も健全な夫婦としてやっていくために、過去の清算が必要なのは
 当然だと考えておりますが?」

「おまえこそ、自分がやろうとしていることを考えてみろ。
 拷問は憲法が否定している。それにこの21世紀の日本で
 収容所送りなんてひどすぎるだろうが」

「憲法は、本来は公務員など公人のために書かれたもの。
 家庭内のルールは各家庭で決められるべきなのです。 
 家で起こることにいちいち世の中のルールを適用したら、
 窮屈(きゅうくつ)すぎますわ」

「おまえといるほうがよっぽど窮屈だよ。
 くそが。やっぱり話しするだけ無駄だったか。
 俺はいますぐスマホを握りつぶしたいほど腹が立っているよ」 

「うふふ。私はこんなに太盛のことを大切に思っているのに
 どうして伝わらないのでしょうか?」

「俺だって、最初からおまえのことが嫌いだったわけじゃない」

太盛は目をきつく閉じ、今言っても何もならない昔話を始めた。

父に縁談で紹介された時、エリカに対して抱いた印象は、
いかにも良いところで育った令嬢だった。

会うたびに一緒に食事をし、映画を見たりショッピングをした。
彼女の家には音楽室があった。ヴァイオリンの独奏を聞いたときは
鳥肌が立つほど感動したものだ。高音が心地よく、中音部は
少女が語り掛けてくるようなトーンだった。

心の綺麗な女性なのだろうと思った。
女性らしいゆったりした輪郭も、美しい瞳も好きだった。
髪型も太盛好みのショートカット。美人ほどショートが似合うとは
良く言ったものだ。

話し方も丁寧。男性を立てるすべを心得ている。
太盛はすぐエリカのことが好きになった。

エリカの方は、ずいぶん前から両親から太盛のことを
紹介されて興味を持っていたのだった。

初めて手をつないだ時の胸の高まりを今でも覚えている。
ひと時とはいえ、好きだったことは事実だった

だからこそ、婚姻関係を終わらせるために
正面から向き合わなければならないのだ。

「エリカ。俺は逃げないぞ」

「はい?」

「はっきり言おう。離婚しよう」

その一言は決定的だった。

押してはいけないスイッチ。核ミサイルの発射ボタン。
冷戦が熱戦に変わる瞬間。人類の最終戦争。

どのような言葉を使っても、この時のエリカの激高ぶりを
表現することは不可能だった。

「うふふふふふふ」

エリカはおもわず笑った。

笑うことで自分を落ち着かせようとしていた。
エリカの胸の中に残酷な想像がいくつもわいてくる。

目の届く範囲に太盛がいたら、すぐスタンガンと手錠で抵抗を封じ、
収容所送りにするところだ。もし命令をためらう使用人がいたら、
そいつもついでに収容所送りにする。

エリカは彼女専用の特別な使用人を37人雇っている。

彼らは要人警護の経験のあるプロで主にスイス人や
ロシア人などの欧州人だ。
屋敷で粗相をした者はエリカの配下につかまり、
尋問と称した拷問を受けることになる。

一度収容所行きになったら最後。
拷問の最中で発狂してしまい、再起不能になるという噂である。
太盛は旦那なので拷問まではされなかったが。

「それは」

とエリカが口を開く。

「電話口でする話ではありませんね」

「なんだと?」

「顔も見えない相手に、はいそうですと答えるのは無理がありますわ。
 第一、 無礼が過ぎます。本当に離婚がしたいなら、まず互いの弁護士に
 話を通す必要がありますが、それ以前の問題ですわね」

エリカは、面と向かって真剣に話し合った結果でなければ
認めないと言った。まともな意見であった。

実際の裁判でも示談、協議で終わるケースが大半である。
つまり、第三者を交えての話し合いだ。

民事裁判まで発展することは、よほど相手方に
非難すべ事由があったり、遺産や子供の親権を
廻ったりしない限りはまずない。

「なにより重要なのは、民法で認められる離婚理由に
 該当するかどうかです。婚姻を継続しがたい重大な
 事由ですよ? なにか思い当たりますか?」

「俺はおまえに収容所送りにされた。当然だろう?」

「太盛様が使用人の子達に色目を使うからですわ」

「俺がどこにいてもおまえが束縛しようとするからだ!!」

「もう。すぐ熱くなるんだから。電話だと相手の声しか
 聞こえないから感情的になりやすいのよ。
 ネットで文字同士のやり取りだと喧嘩になりやすいのと同じね」

エリカが敬語を使っていないことに太盛が気づくと、
怒りより恐怖が勝るようになった。

ユーリもマリンも、屋敷の女たちは感情的になると
急に素の話し方になる。それは、限界ぎりぎりまで
彼女らを怒らせている証拠である。

「それにあなたが今していることはなに?
 家族を日本において海外へ逃亡? あはは。
 育児、扶養義務の放棄。娘まで巻き込んですごいわ。
 あの子が退学になったら夫のあなたの責任にならないかしら?
 あなたが本気なら裁判で全て立証してあげるけど?
 ねえ。それでも私と戦う勇気があなたにある?」

「逆に聞きたいよ。なぜそこまで俺と夫婦でいたいんだ? 
 俺たちは心が全く通じ合ってない。
 マリンやユーリだっておまえのことを良く思っていない。
 形だけの夫婦に意味があるのか?」

「うふふふふ。本当に何もわかっていないのね。
 夫婦の関係は過ごした時間でどうにでも変わるものなのよ。
 どうしてこの先もずっと険悪な関係が続くと思っているの?
 その気になれば使用人なんて好きに入れ替えられるわ。
 子供だって成長して大人になっていくわ」

「今おまえと話しているだけで俺は限界だ!!
 おまえの上から目線の話し方もイライラする」

「あなたが子供だと自覚しているから熱くなるのよ。
 モンゴルへ逃げたのも下策ね。逃げたって状況が
 悪くなるだけだってどうしたら気づくの?」

「もうお前と話すことは何もない!!
 俺は日本にも戻らないぞ!! 
 これで終わりだ!!」

太盛はスマホのバッテリーカバーを開け、
バッテリーを空高く投げてしまった。

思春期の男子中学生のような行いであった。
口では勝てないと分かっていたが、
やはり言いくるめられると腹が立った。

言葉でエリカを説得するのは不可能なのだ。
口げんかで勝てないのに、交渉などと高尚なことが
彼に出来るわけもなかった。

「お父様……」

マリンは荒れ狂う父を心配そうに見つめている。

太盛はベッドへダイブし、頭を枕に押し付けたまま、
四肢をバタバタさせ、スイミングの練習のような動きをした。

急に起き上がった太盛は、近くにあった椅子を持って
部屋中の窓ガラスを割ろうとしたが、フェルトが張って
あったのを思い出した。

弾道ミサイルの風圧でガラスは最初から割れていたのだった。

太盛は仕方ないので椅子を窓から投げ捨てた。

「ちょっと、落ち着きなさいよ太盛……」

ユーリの声も聞かず、太盛は廊下へ飛び出た。

宿の庭は広い。くつろげるベンチの先に小さな池がある。
一角には植物が並び、ちょっとした庭園風の雰囲気だ。

太盛は池へスマホの本体を投げた。
次に池へダイブし、なんとスマホを拾い上げた。

何をするつもりなのかとマリンが見守っていると、
どこからかテントのペグを打つ道具であるハンマーを片手に
スマホを割り始めた。小さな衝撃で本体は割れ、
内部の基盤が露出し、粉々になった。

太盛はそれだけでは気が収まらず、たき火をするために
巻木と手ごろな岩を探そうとしているところ、
宿の管理人に見つかって説教された。

激昂する太盛は逆に怒鳴るが、日本語なので何も通じない。
相手のモンゴル語も同様だった。これが言葉の壁である。

言葉の問題はさておき、昨夜も女二人が怒鳴りあいを
していた件も重なり、太盛一行は宿を追い出されてしまった。

まだ4日以上の宿泊代を前払いしている件を伝えると、
全額返してくれた。USドルをそのままである。

「ちくしょう。あんな安宿なんてもう忘れよう。
 ゾーンモドの中心地の一等ホテルにでも泊まるか」

「いいえ。お父様。ここはゲルを買いましょう」

「ゲル? おお、あのゲルをか」

朝9時を過ぎると町の店は開き始める。
その中でなんと日本人が経営しているテントの
販売代理店があった。

「最新式で日本の観光地にも卸している奴なら、
 お客さんたちにもおすすめっすね。
 この白い外観がいかにもゲルっぽくねえっすか?
 イベント会場とか、福岡や栃木の高原で実際に使われてるすよねー」

濃いひげを生やした青年店員が
紹介してくれたのは平凡なゲルだった。

男3人で組み立てに3時間。撤収に1時間。
ゲル内にベッドは最大で6台まで置けるし、
中央に薪ストーブを設置することができる。

つまり冬の寒さをしのぎつつ、
お湯を沸かしたりなどの炊事が可能なのである。

「実はオプションもあるっす。こんなのとか。
 最近の外モンゴルの近代化、まじぱねえっしょ?」

なんと、テレビを見るための衛星アンテナだった。

さらに入り口付近に設置する太陽光パネル、ネット受信用の
wi-fiアンテナ、子供用にニンテンドーDS、エレクトーンなど、
実に多彩なオプションである。

「お買い上げ、あざーっす。
 つか、おきゃさん、どんだけ金持ちなんすか!!
 こんなに一度に売れたこと、
 一度もねえんすけど。あじあざっす!!」

この代理店は恐るべきことにワゴン車まで発売していた。

これはモンゴル製ではなく、アジアの国から仕入れたという。
車の性能に信用性が全くないにも関わらず、
太盛はさっさと会計を済ませてしまった。

マリンは定員のチャラい話し方を不思議そうに眺めていた。
厳格な家庭で育った彼女にとっては
モンゴル語より不思議な言語だった。

人口が250万しかいないのに日本の数倍の国土を
誇る国なので、自動車保険など入る気にもなれなかった。
自賠責すら切らなくていいので楽だ。

こうして太盛達は一日にしてゲル、その他オプションと
ワゴン車まで手に入れた(マリンの金で)

「よし。残金はまだまだあるぞ」

なにせ預金が一億を超えているため、そう簡単に減るわけがない。
銀行に預け続ければ利息だけで
もうかるレベルである(低金利でなければ……)

おまけにゲルを買ったので今後は宿泊代を節約できる。

「なあユーリ。いっそここで仕事でも見つけるか?」

「どんな仕事よ」

「日本語の教師とか?」

「あなたにモンゴル語ができないと意味ないでしょ。
 生徒にどうやって現地語で指導するのよ」

「なに。言葉なんて住んでいればすぐ覚えられるものさ」

太盛達はワゴン車で草原を走り回った。
砂塵を上げながら道なき道をひたすら走った。

ガソリンは満タン。財布の中身も満タンである。
FMラジオのボタンを押すとモンゴル・ポップス(Mポップ)が
流れ始めた。バラードの調の美声が広大な風景に妙にあっていた。

「私は遊牧民に興味がありますわ。獣の世話など」

「マリンは遊牧民にでもなりたいのかい?」

「社会勉強ですわ。ここはかつてチンギスハンが支配した
 モンゴル帝国なのでしょう? あれだけ強かった人たちが
 どんな生活をしていたのか気になりますわ」

「あの山の先にゲルの集落がある。
 ちょっと寄って話でもしてみるか」

のんきにハンドルを切る太盛。
好奇心に満ちたマリン。不安で仕方ないユーリ。

それぞれ異なる思いを抱えながら、ワゴン車は
無限に続く大地を走っていく。

はたして彼らの先にどんな試練が待ち構えているのか。

「学校に行くのだけが全てではないって、本当なのですね。旅は人を変えてくれますわ」

集落に住んでいる人たちは、古くは350年も前から
モンゴルで暮らしている人々だった。
祖先から受け継いだ家畜と共に生きる遊牧の民である。

小さな小屋が3件。八角形の大きな柵には、2百を
超える家畜がいる。羊、馬、牛、ヤク、
テントの外に放し飼いの番犬もいる。

彼らが主な住居に使っているのはゲルである。
複数の世帯が6つのゲルに別れて暮らしていた。
日本の古い農家のような共同社会がそこにあった。

「こにちわー」

太盛が日本語であいさつしたら向こうも片言で返してきた。
日本のことはみんなテレビで知っているようだ。

昨今、西洋諸国を中心に日本人気が高まっているが、
この東アジアのモンゴルも例外ではなかったようだ。

太盛らが家族でモンゴル暮らしを始める旨を伝えると、
彼らは歓迎してゲルへ招待し、今夜はここで泊まることになった。

家族の長が裏で羊をさばきはじめた。
客をもてなすときは羊の肉料理をふるまう決まりなのだ。

マリンはお椀に盛られた肉のスープを頂いた。
この地方の市場で売られている野菜も入っている。
水餃子のような食べ物も、日本人ならそれほど珍しいものではない。

乳製品がたっぷりあるのはモンゴルに来ていた時から慣れていた。

複数のチーズを食べ比べてして、熟成期間による味の変化を楽しんだ。

「как тебя зовут?」

長老が流暢なロシア語で名前を聞いてくる。
ソビエト時代に併合されていた時の名残で
老人世代の人でロシア語が話せる人は普通にいる。

「ヤー メニャー ゆうり」

「ゆぅり? рад познакомиться」

ユーリが名乗ると、老人はうれしそうに手を握った。
会えてうれしいと言っているのだ。

一家の娘は片言の英語が話せるので
同年代のマリンにモンゴルに来た目的を聞いた。

「ワイ ディヂュ カムひあ?」

「We want to know about this country and people.
everything about mongolia. We Japanese people
 know Mongolia as the great country of ghin gis khan.」

チンギスハンの国として有名な偉大なモンゴル国を
知りたいと思ってきました。モンゴルにかかわることを
何でも知りたいと思いまして。マリンはそう答えた。

娘が長老に蒙古語で通訳する。長老はチンギスハンの国として
褒めてくれていることを誇らしく思い、さらに上機嫌になった。
酒盛りが始まる。テーブルを各種料理が盛られた皿が埋め尽くした。

太盛が、娘のマリンに放牧の仕方を教えてもらえないか言うと、
快諾した。集落には11歳のバルトという娘がいて、この娘を
マリンの教育係に指名してくれた。

次の日の朝。太盛は村の男たちに手伝ってもらい、
自分で買ったゲルを始めて組み立てた。

男6人がかりでも2時間かかったので、太盛1人だと
慣れないこともああってどれだけ時間が
かかったか想像もつかない。
18歳の青年が太盛にアドバイスする。もちろんモンゴル語で。

「しっかり組んでおけばそうそう壊れることはないよ。
 しばらくこの家で住んで様子を見るといい」

「ん? なに言ってるか分からないけど、サンキュな」

「テンキュ? イングリッシュ?」

「イエス。イングリッシュ。We should speak English」

「ほげ(ok)」

男たちは太盛の買ったアンテナやテレビなどのオプションを
テント内に設置していった。遊牧民の知恵を生かして
マット、布団、衣類たんす、食器類など効率的に配置していく。

一時間もすれば立派な移住空間の出来上がりだった。

「すごいじゃない。じゅうたんも敷いて暖かいし、ストーブもあるわ。
 ベッドの配置も無駄がない。調理器具もそろっているし、
 食材さえあれば飢えることもなさそうね」

ユーリが眼を輝かせて感動する。テレビでしか
見たことのないゲルでの生活がいよいよ始まろうとしているのだ。

だが、良いことばかりではない。

「ユーリ。喜んでいるところ悪いが、トイレと風呂はないからな」

砂漠の真ん中に水道が通っているわけがなかった。
宿での文明的な生活になれたユーリは激しく憤慨した。

「お風呂に入れないの!?」

「だってここは草原だぜ? 上下水道も整備されてないのに
 貴重な水をバシャバシャ使えるかよ」

「じゃあ、ここの人たちはずっとお風呂に入らないの!?」

「んー、ガイドブックによると、夏は水浴び。
 寒い時期は濡れタオルで体をふくんだってさ。
 冬は厳寒のため入浴すると風邪をひく。
 空気がさらさらしているから汗をかいても垢が
 たまらないとさ」

「言われてみると、強行軍した時も汗がすぐ乾いたわ」

「な? 日本の蒸し暑さとは全然違うんだよ。
 カラッとしていて、汗がいつまでも残らないからな。
 日差しがあればカラッと乾くし、意外と清潔だよ」

「じゃあトイレはどうするの?」

「ちょっと待っていろ」

太盛が長老と話し合い、
村の共同トイレ(ぼっとん)を使う許可をくれた。

風呂も20リットルの鍋にお湯を入れて
足湯や洗顔をさせてくれた。

これがモンゴル風のおもてなしである。

太盛は感動して涙が出たが、ユーリはまだ不満だった。

「トイレが原始的なのは困るよ!!」

「なに。中世レベルでもトイレがあるだけましだよ。
 他のゲルの集落だとおそらくその辺に穴を掘って
 済ますレベルだぞ。しかも夜は危険だから番犬を
 連れて行かないと襲われる可能性があるんだぞ」

「毎日こんな生活が続くんでしょ?
  カルチャーショックがでかいよ」

「我慢しろよ。人間はどんな環境でも適応できるさ。
 それに俺たちにもう日本に帰る選択肢はない。
 前に進むしかないだろ?」

「それは、まあそうだけどさ……」

太盛はふてくされるユーリを言いくるめてしまった。
エリカとの時と違い、年下のユーリの前では余裕のある振る舞いである。

太盛は、文句を言いつつも最後は自分の考えに
従ってくれるユーリのことが好きだった。

その頃、マリンは放牧に出ていた。

モンゴルの背が低い馬の背にまたがり、大草原を走る家畜を
追いまわした。モコモコした毛皮の羊の群れがひたすら走り回る。

「あんた、教えてないのに乗馬が上手なのね。
 日本人も普段から馬に乗るの?」

「この子は褒めてくれているのかしら?」

モンゴル語で問いかけられてもマリンには分からない。
マリンは英語を話したがった。
彼女は幼少から乗馬をエリカに教わっていたため、
バトラの手を借りずとも一人で馬の背にまたがれたのだ。

手綱をひき、バトラの馬に並んで草原を走り回る。
日本のどんな牧場でもここまで広くはなかった。
数キロ先に山々が連なっていて、巨大な壁のようだった。

それ以外は大平原のみ。マリンが双眼鏡で景色を確認するも、
ほとんど変化なし。はるか遠くの道路を乗用車が通過するのが見えた。
それも何キロ先かすら分からない。

「A man over there」(あそこに人がいる)

とバトラが山を指さすが、マリンには何も見えない。

双眼鏡を構える。なんと、バトラが指していたのは
2キロ先にある山の斜面にいる人間だった。

マリンは衝撃のあまり驚きの言葉すら出なかった。
遊牧を日常にしている彼女らは視力が良すぎるのだ。

マリンの放牧の日々は一週間続いた。
日中は集落の子供たちのゲルへ遊びに行く。

モンゴル語の歌を歌ったりテレビでスポーツ観戦をしたり、
DSでマリオカートをしたり、IPADでダークナイト(映画)を見たりと、
何とも現代的な娯楽であった。

朝一番で牛の乳しぼりをし、放牧に行く。
その他にはゲルの中で鍋や皿洗いなど
家事を積極的にこなした。
燃料にする目的の家畜のフン拾いも嫌がらずにこなした。

ユーリは牛乳を原料にしたチーズなどの乳製品の作り方を学んだ。

テントの中での羊肉や牛肉の干し方は都会人には残酷な
方法に思えたものだ。生肉の汚さと不潔さが嫌だったが、
太盛と一緒に一生懸命に覚えた。

国内にわずかしかない井戸も馬で小一時間ほど走る先にあった。
水を満タンになるまでタンクに積み、テントへ戻るのだ。
貴重な水である。

雨風でテントは痛んでいくので定期的に補修をしなくてはならない。
太盛は村の若い青年に気に入られ、さまざまな手ほどきを受けた。
少しホモっぽかったが、親切にしてくれるのでスルーすることにした。

「今日も良く晴れとるのぉ」

聞きなれないモンゴル語が聞こえて来たなと太盛は思った。
ユーリも同様だ。太盛とユーリは昼食の後、テントの中で
イチャイチャしていた。

マリンが子供たちと遊んでいる時間が愛人同士の時間だったのだ。
太盛がゲルの扉を開けると、奇妙な格好をした男がいた。

「アイ ノウ ゆあ ジやパニーズ
 アイムぁ テアチャ。 テアチャ オブ フルート」

その男はモンゴル製の木管楽器の先生だった。
彼は太盛らが日本人だと知っていると言っている。
話を聞くと、どうやらここの子供たちに民族楽器を教えているようだ。

どこから来たのかと聞くと、隣の町から馬に乗って
片道3時間半かけて来たという。
太盛とユーリは転げ落ちるほど驚いた。

「片道3時間半とかどんなブラック企業よ」

「むしろ通勤30分ぐらいでガタガタ言っている俺たちが
 異常なんだろうな。モンゴルは壮大すぎるよ」

先生は1時間だけ授業した後、また帰っていった。
天気が悪くなる前に帰らないと危険なのだ。

太盛は、日中はユーリと夫婦のようにゲルで生活した。
マリンは子供たちとすごすのがよほど楽しいらしく、
一日も欠かすことなく集落のゲルに遊びに行っている。

日本時代と違い、マリンは良く笑うようになった。
夕方までたっぷりと遊び、学び、夕飯の時間になると
太盛のゲルに帰ってくる。これが日常であった。

「やっぱり子供は同年代の子とすごすのが一番なのか」

「あの子も少しは父親離れができてよかったじゃない」

「ちょっとさみしいけどな」

「太盛も早く娘離れしなさいよ。今は私と二人きりでしょ?」

「分かっているさ。ユーリ。もう少し顔を近づけてくれ」

「うん」

同じベッドの上で手を重ねあい、熱い口づけを交わした。
さすがに日中なのでそれ以上のことはできないが、
ただ二人でいるだけで何もかも満たされた。

エリカのいない空間が楽しくて仕方なかった。
エリカの護衛も、他の使用人も、ただ広いだけで
人間らしい温かみのないあの屋敷も、今は全て関係ない。

隣の家からコーヒー豆を分けてもらい、ちょっとした
喫茶店の気分。パサパサの菓子パンとクッキーをつまみ、
日が暮れるまで話をした。

学生時代の楽しかった思い出話に花が咲いた。
関東と東北で生まれ育った地域が違うから、余計に面白かった。
高校の修学旅行のことで、バカなことをしていた同級生の
話をすると盛り上がった。

どうしてか外国に来ると日本の話がしたくなる。
食べ物の話題になると、しょうゆやみそなど
日本食特有の味を思い出して腹の虫が鳴った。

「でもエリカのことを思い出すと日本が嫌いになるから不思議だ」

「あはは」

日中のテントはほどよく暖かった。太盛達は薄手のセーターだけで
布団をかけ、ベッドに寝転がっていた。
太盛が腕枕をするとユーリは愛しそうに顔を横にする。

モンゴルに来てこんなに楽しい日はなかった。
喧嘩していた時がウソのように、毎日が楽で新鮮だ。
なにせ食材すらまだ買い出しに行ったことはない。
めんどくさいから、村の人たちからお金で買っている。

たとえば、日本円でわずかなお金を払えば
鮮度百パーセントの牛肉がその場でもらえるのだ。

マリンがしつこい油汚れの鍋もきれいに洗ってくれたり、
布団を干したりと活躍してくれるため、大人組は非常に楽だった。
言い方を悪くすればニートだった。モンゴルニートである。

「なあユーリ。今日はワゴンで草原をドライブするか?」

「いいわね。私、モーツァルトを聴きながら行きたいわ」

信じられないことに、行商人が定期的に集落を訪れるので
街で売られている日用品や娯楽品が普通に買えるのだ。
太盛は草原に適した頑丈な靴を買った。

ユーリはモーツァルトの交響曲40番と41番が
収録されているCDを買った。ファンの間では超定番である。
モンゴルに来てから初めて聞くクラシックだった。
ワゴン車のスピーカーは粗末だったが、気にならなかった。

3人は、こうしたのどかな日々がいつまでも続けばいいと思っていた。
平和ボケである。だから大切なことを忘れていたのだ。

最近エリカの刺客が襲ってこなくなったことに。

そして、マリンの携帯にも子供たちからの連絡がばったり
こなくなったことに。エリカの地獄の底のような執念の深さに。

ついにエリカが蒙古へやって来た

日付が変わる。

早朝の寒さは震えるほどだった。
日本なら晩秋の季節なのだが、モンゴル中部では
まだまだ暖かいほうといわれている。

「なんだれあれは?」

太盛達の集落の近くに、突如巨大なゲルが現れたのだ。
昨日までは何もない平原だった。

いったい、いつのまにゲルを立てたのか。
王族や貴族が住んでいそうな大きさである。
ゲルと言うより城である。

色もイランのイスファハーンを連想させる鮮やかな青。
空と水を現す色なのである。ゲルには似つかわしく
ないアラベスク。この地よりはるか西方の中東の文化である。

ちなみに、この集落の住民にイスラム教徒いない。

「私が様子を見てくる。異邦人がやってきたのかもしれん」

長老が二人の男を従わせ、謎のゲルへ入っていった。

10分待つが、変化はない。30分待っても帰ってこない。
さすがにおかしいと思ってホモっぽい青年が入っていくと、
女々しい悲鳴が響いた。

太盛はユーリとうなずきあい、ライフル銃と
手りゅう弾を手にゲルへ突入した。

「太盛様ぁ。ようやく会えましたのね」

中国の王朝で使われていたのと同じデザインの豪華な
椅子に座るエリカ。目は笑っているが、口元が凶悪に歪んでいる。

普段は着物姿なのに珍しくジャージ姿にスニーカーという姿。
娘たちに庭のテニスコートで指導しているときの体育の女教師スタイルだった。
モンゴルの平原で歩きやするためかと太盛は考えた。

村の長老や男たちはテントのはしで手錠をされて立たされている。
彼らの背後にはエリカの配下のSPらがおり、首筋にナイフを
突き立てている。SPの何人かが太盛とユーリに銃を向けていた。

完全な修羅場である。

「大切な妻を後進国の片田舎まで旅させておいて。
 浮気性の夫を持つ妻の苦労を少しでも分かってほしいですわ」

「まて。それ以上しゃべらなくていい。俺の手を見ろ。
 手りゅう弾が握られているな? 今から俺はユーリと一緒に自殺する。
 これのピンを抜き、胸の前で爆発させる」

「させませんわ」

太盛は、黒い影が残像を残しながら目の前を通過したことを確認した。
同時に持っていたはずの手りゅう弾が消えていることに気づいた。
ユーリも同様である。

まさかと思って銃の弾を確認すると、どういうわけか
弾が空になっていた。もはや魔法の領域であった。

「私のSPは普通の人より少しだけ早く動けますの。
 今後太盛様達がどんな暴挙に出ようと全て
 止めるつもりですので、そのつもりでお願いますわ」

筋肉質のSPが弾薬の入ったマガジンと手りゅう弾を見せびらかした。
どうやら彼の手によって瞬時に奪われたということらしい。

にわかには信じられないが、現実を素直に認めるしかない。
現に攻撃する手段がないのだから太盛に打つ手はなかった。

「舌を噛み切って死んでやるぞ!!」

「もしやろうとしたら、あなたを地に組み伏せて肩の関節を外しますわ。
 二度と変なことを思いつかないようにね」

太盛は、気絶しそうなほど恐怖した。
迷いのないエリカの顔があまりにも恐ろしくて、
もう何も言い返す気にはならなかった。

拳を握りしめ、限界まで歯を食いしばり、鼻息を荒くする。
そのあとは、ただ涙を流した。
声を押し殺してなく彼の姿は哀れだった。

「私はそんなに難しいことを言っているつもりはありません。
 ただ夫婦で日本に帰るだけではないですか。
それともしばらくここでゲル生活をしてからにしますか? うふふふふ」

「いや……だぁ……。たのむ……ひとりにしてくれ……。
 もう少し考える時間をくれぇ……。」

収容所行きは嫌だと子供のように駄々をこねる夫。

考える時間なら売るほどあったはずだと、
エリカは心の中で思っただけで口にはしなかった。

太盛にとって逃避。エリカにとって長い苦痛の時間だった。
浮気相手への殺意、実の娘への嫉妬、太盛に裏切られたことへの失望。

様々な要素が入り混じったそれは、深い闇の中に生まれた感情だった。
もはや制御不可能になったエリカという暴走マシンが動き出しているのだ。

「うふふふふ」

エリカは椅子から立ち上がり、太盛へ近寄った。
子猫のように縮こまり、おびえる太盛。

「う……わぁ……いやだぁ……お願いだ……
 許してくれエリカぁ……勝手に逃げたことは謝るよ……」

エリカはかまわず太盛の顔へ手を伸ばす。
太盛の顎を指で持ち、自分の目線と合わせた。

「絶対に許さないわ」

太盛は頭を抱え、泣き崩れた。
ユーリは太盛の専属使用人という立場で太盛に
何年も付き従ったが、彼がここまで取り乱すのは初めて見た。

太盛の泣き声があまりにもうるさいので
ロシア人のSP二人は太盛を指さして侮辱の言葉を吐いていた。

エリカはSPをにらみ、黙りなさいと言うと、SPの顔が青ざめた。

エリカの支配力は圧倒的なのだ。この空間にいる人間は、
支配者のエリカとその従者の二種類に分類されていた。
太盛の肩書は夫だが、実際は妻の奴隷である。

(強制収容所で拷問か……)

ユーリは絶望を通り越して自らの人生を終わらせても
いい感じがしてきた。自分より太盛を優先すればいい。
彼の人生のために自分が存在する。

旅の道中で太盛にわがままをたくさん言ったのは良い思い出だった。
喧嘩できたこともある意味貴重な体験だった。
好きなことを言い合える仲でないと喧嘩はできないものだ。
少なくとも屋敷にいる時に喧嘩したことはなかった。

ゲル生活は人生で最良の瞬間だった。
だが、幸せな時間はすぐ終わる。
人生に永遠はない。ただそれだけだ。

(私が生きていたら、太盛は私をかばってエリカに抵抗する。
  私が拷問されたら彼の心も壊れちゃう。
  短い関係だったけど、私たちの愛は本物だった。それでいい。
  マリンお嬢は、家畜の乳しぼりの時間だから難を逃れている。
  最後に挨拶くらいしたったな。あんなに喧嘩したのに不思議ね)

「太盛。愛してる」

ユーリは奥歯に隠していた青酸カリのカプセルをかみ砕いた。
食道を通じて毒が回り、大きな音を立てて倒れる。

「ゆーり!?」

太盛がユーリの体を揺さぶり、何度も声をかける。
ユーリはぐったりしたまま動きはない。
SP達はすぐには行動に出ず、静観の構え。

(愛してる……ですって?)

愛という言葉を使用人が吐いたことにエリカが逆上した。
彼女から見ればユーリはまさしく泥棒猫である。
たとえ自殺間際のセリフだったとしても、万死に値した。

太盛に対して愛を語って良いのはこの世界でエリカだけなのである。
娘たちが父にべたべたしたり、独占しようとした場合さえ
排除するのだから、血のつながりのないユーリはごみカス程度の価値しかない。

エリカは彼女を拷問したくて仕方なかった。
肉体的苦痛を与え、むごたらしく殺してやりたいのに
ユーリは今さっき毒をあおったばかりだ。

「まだ死んだと決まったわけじゃないわ。
 毒が回ってない可能性もある。なんとか蘇生させて」

「ダー」

「ウィ、ダコーマダム」

SPらがユーリの体をタンカに乗せ、外へ運ぶ。
いつのまにかたくさんの車が集落へ集まっていた。

「これはいったい何の騒ぎですの?」

「マリン、だめだ!! 来るな!!」

日課の乳しぼりを終えたマリンが平和な顔で
テントに入ってきてしまった。

「久しぶりね。マリン。元気そうね」

「か、かあさま。どうしてここにいるの?」

マリンはエリカと目があった瞬間に凍り付いた。
エリカの威圧感は屋敷時代に毎日感じていたものだ。

「どうしてって、私が夫を連れ戻しに来たからに決まっているでしょう。
 あなたは私に何か言いたいことはないの?」

この一緒にいるだけで矢が全身を貫くような圧迫感は
何度味わってもなれることはなかった。

エリカはマリンに心から謝罪を求めているのだ。
イスのひじ掛けに、ほおづえをついて娘に問いかけるエリカは
動揺に出てくる魔女のようであった。

「言いたいことですか?」

「そうよ。言い分があるなら聞いてあげる。
 そうじゃないとあなたにとってフェアじゃないでしょ?」

「なら、お父様をこれ以上苦しませないでほしいです」

「モンゴル暮らしのこと? 日本に帰ればこんな窮屈な生活とはおさらばよ」

「そうではありませんわ!!」

拳を握り、腹から息を吐きだした。

「あなたと一緒にいるのがお父様にとって最大の苦痛なのです!!
 あなたがお父様を束縛しようとするから、ますますお父様の
 心があなたから逃げていくのに、どうして気づかないの!?
 あなたのしていることは逆効果なのよ!!」

それは禁句だった。

エリカが絶対に認めたくない事実。今回の逃避行のすべての原因。
マリンは収容所送りを覚悟したうえで吠えていた。

「バカね」

エリカの目は、明らかに娘を見下していた。

「マリンはモンゴルに来てからますます気が強くなったわね?
 お父様って繰り返し言うけど、本当の気持ちは彼のみが
 知るところよ。あなたが偉そうに彼の気持ちを代弁しないで」

「じゃあ、そこで頭を抱えてしゃがみこんでいるお父様は
  なんですの!? 妻が来ただけでここまで取り乱すなんて
  尋常じゃないわ!!」

「誰だって心を整理する時間が必要よ。太盛様はね、
 浮気がばれて少しびっくりしているのよ」

「またそうやって話をはぐらかそうとしてる!!
 汚いウソ!! 政治家と同じです!!」

「さて。あなたの言い分はそのくらいで十分かしら?」

エリカはファザコンの娘も許すつもりはなかった。
今回の逃避行に自ら着いていったのでマリンも重罪だ。

特にマリンは日本時代から母を出し抜いてまで太盛を
奪おうとしていたことが多々あった。子煩悩な太盛は、
特にマリンを可愛がった。父に従順で賢い末の娘が
可愛くて仕方ないのだ。

愛娘に向ける、穏やかで優しい旦那の顔。
それを見るたびにエリカは胸をわしづかみにされるような
せつなさを感じていた。

「とりあえず、あなたは家に帰ったらお仕置きよ。
 異論反論は一切認めないわ」

エリカと目を合わせた瞬間、マリンの全身に鳥肌が立った。
テントには太盛が悲痛に泣き叫ぶ声だけが響く。
周囲を囲うSPがにらみを利かせている。

「お父様は……どうなるのですか?」

「それはあなたが気にすることではないわ」

「ユーリは……? さっき倒れてテントから
 運び出されたのを見ました。まさかここで拷問を?」

「使用人のこともあなたには関係のないことよ」

「最後は私たちの自由を奪って殺すつもりなのでしょう!?
 母様は血に飢えているのだわ!!」

「黙りなさいマリン」

「母様は狂っているわ!! 私だけじゃない。
 レナ達だって同じことを言うわ!!
 あなたのことが怖くて正面から言わないだけでね!!
 お父様、こんな顔になって本当にかわいそう。
 どうしてお父様を苦しめ続けるのですか!?
 私たちが何をしたって言うんですか」

「黙れと言ったのよ!!」

母としてのエリカは、幼いころから子供たちを恐怖で従わせた。
レナやカリンはいまでも母の言うことに逆らうことはしない。

そんな無謀で無意味なことをしてなにになるのかと彼女らは言う。

「夫を殺すことが私の目的ではないわ。
 マリン。あなたは母であるこの私を
 殺人鬼と勘違いしているのではなくて?」

「違うのですか? 猟奇殺人鬼の一種かと思っていましたわ」

「うふふ。なかなか言うようになったわね。
 今の私はモンゴルに来ていることで気が立っているわ。
 それを分かったうえでしゃべりなさいね?
 太盛くんとの幸せな家庭を築くために
 力と恐怖による支配は必要なのよ」

「なぜ必要なのですか?
 そんなことをされて喜ぶ人はいないと思います」

「今どきの夫婦はね、ちょっと喧嘩したらすぐ離婚するのよ。
 若い人だけではないわ。熟年離婚も流行っている。
 ちょっと価値観や性格が合わないからって別れていたらきりがないと
 思わない? 私たち夫婦はそんなあやふやな理由で別れたりしないわ」

「お父様の気持ちはどうなるのですか? お父様は本気で
 あなたと離婚したがっていますけど。再婚相手もいるようです」

「逆に聞くけど、あなたはその再婚相手さんを母として認められるの?」

マリンは言葉に詰まった。ユーリのことは父をめぐるライバルと
してしか見ていなかった。父が新しい妻と仲良くしているところを
想像すると胸が痛んだ。

「再婚して幸せになれるとは限らないわ。再婚相手はね、
 子供たちと血のつながりがない赤の他人よ。
 それに離婚した汚名は一生涯続く。
 誰もが必ず一度は思うはずよ。別れなければよかったと」

「母様の言っていることは正しいのかもしれませんが、
 私はお父様の苦しんでいる姿を見るのが嫌ですの。
 お父様は一生あなたの奴隷としてすごさないといけないのですか?」

「奴隷とは人聞きの悪い言い方ね。太盛くんが私の言うことを
 素直に聞いていれば何もしないわ。レナ達みたいに太盛君も
 従順になってくれればいいの。そうすれば全て丸く収まるわ。
 簡単なことでしょ?」

「大切な父があなたの言いなりと化すなんて、
 少なくとも私は嫌です!! それは人間とは言えませんわ!!」

「さっきからよく口の回る子ねぇ。あなたは昔から特に反抗的だったわ。
 いますぐお仕置きしてあげたくなるじゃない」

エリカは部下に命じ、拷問器具を用意させた。
爪をはぐための機械だ。片腕を机の上の拘束具で固定し、
一枚一枚指をはいでいくのだ。

爪が宙を舞う時の激痛と、じりじりと機械が爪の間に
侵入する心理的な恐怖でほとんどの人は発狂する。

「マリン。ママは最初に行ったわよね?
 異論反論は受け付けないって。
 あなたは母の言いつけを守らなかったのよ。
 覚悟はできているんでしょうね?」

マリンは血の気が引けてしまい、逃げようとしたが
ロシア人のSPに羽交い絞めにされる。

母の常軌を逸した計画に恐怖を超越して吐き気がした。

「私だって鬼じゃないわ。マリン。最後のチャンスよ。
 ひざまついて頭を下げなさい。そして誓いなさい。
 二度と母の言うことに逆らわないと」

エリカはマリンのあごを指で持ち上げた。
悔しさと怖さでマリンの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
涙は止まることなく流れ続けてテントの床を濡らした。

服従するくらいなら死んだほうがましだと心から思っていた。
だが、エリカはただでは死なせてくれない。
そもそも子供を殺すつもりはない。
ただ生き地獄だけを味あわせて、心を狂わせ洗脳しようとする。

「もう、いやぁ……こんな家に生まれたくなかった……。
 神様ぁ……どうして私はこんなにも不幸なのですか……」

「それが運命なのよ。いつまでそうして泣いているつもり?
 その目、気に入らないわ。私を呪うかのような目。反抗的だわ。
 まずは左手からいってみる? 左手の指が全部はがされても
 学校には行けるわよね?」

その次の瞬間、ずっと様子をうかがっていた太盛が
エリカへ襲い掛かった。太盛はエリカの首を
絞めて殺すつもりだったのだ。

SPは太盛の顔に重い拳を食らわせて吹き飛ばした。
カウンターなので威力はすさまじく、
太盛の体がゲルの骨組みの一部を壊すほどだった。

さらに同時刻。

弾道ミサイルがゲルへ向かって落下していた。
外モンゴル中部地方上空を飛来するミサイルの数、
実に5基である。

「マダム エリカ!! アテンシヨン シブプレ!!」

「何よ? 私は無事なんだけど」

「いえ、そうではありません!! 
 すぐここから非難を!!」

SPらはレーダーでミサイルの接近を探知したが、
もはや手遅れだった。

鼓膜が破れるほどの破裂音。

ゲル内は閃光に包まれ、爆風と共に全てが
粉々に吹き飛ばされたのだった。

「ここにいるのはマリンだけか?」

太盛は荒野で目を覚ました。背中を強く打ったためか、
起き上がろうとした時に一瞬だけ息が止まった。

「目を覚ましたのですか」

まだ視界がはっきりしない。上品な言葉遣いが耳に
入ったのでエリカかと身構えるが、
すぐそばに寄り添っていたのは愛娘のマリンだった。

「ま、マリン……。君はよく無事だったね。
 どこも痛いところはないのか?」

「頭を軽く打ったくらいですから私は大丈夫ですわ。
 お父様は大丈夫ですか? 
 体が痛むならもう少し休んでいたほうが」

「そうだな。全身がしびれるように痛い。
 いきなりテントの中で爆発が起きたものだから、
 死んだとばかり……」

頭がさえて来たと同時にあたりを見渡すと、
ゲルの残骸が広がっていた。

エリカのゲルはそれなりに頑丈にできていた。

骨組みに使われていた木材が散らばり、フェルト、生活雑貨が
散在している。まるで日本のごみ屋敷のように草原を汚していた。

「マリン。エリカはどうした? ユーリは?」

「それが、姿が見えませんの」

「なに?」

確かに人影が全くなかった。

太盛はこの時点ではミサイル攻撃を受けたことを知らなかったので、
きっとテント内で時限爆弾か何かが爆発したのだと思っていた。

だから想像していていたのは肉片と化した人間たち。もちろん
その中に自分やマリン達も含まれているのだと思っていた。

しかし、マリンが焦げて引き裂かれたフェルトの中を探しても
どこにも人間らしきものはなかった。テントの中にはSPや村人を
含めて20人以上いたはずだった。

「うぅ」

太盛も一緒に探そうと腰を上げるが、苦しそうにうめき声をあげた。

「お父様はまだ動かないで。痛みが治まるまでじっとしてて」

横になる太盛。大地の草が多少のクッション代わりになるとはいえ、
やはり地面の感触は硬い。湿度のない蒙古の大地は
ベッド代わりにしては硬すぎた。

風が吹くと、一瞬で体温を奪われる。太陽はまだ天頂付近。
晴れているが気温が低すぎるのだ。現在は10月の初めで
最高気温は6度しかない。文字通り凍える寒さだ。

「どこか安心して休める場所はないだろうか?」

「集落のゲルは吹き飛んでしまいましたけど、
 村長の小屋がまだ無事ですわ」

「よし。そこまで歩こう」

わずか10メートル足らずの距離だが、全身打撲の太盛にはこたえた。
村長の家にはベッドが二つあった。ひざ掛けや毛布もある。

太盛はベッドで横になった。
マリンはその間に外へ人を探しに行った。
太盛達のゲルは残骸になっていた。

収納袋に入ったシュラフが2組無事だったのは奇跡だった。
他に調理用の鍋窯もあるが、村長の家にもあるので不要だった。

「ユーリの服……」

ユーリがウランバトルで購入した冬服や下着などがタンスに
入ったままだった。タンスは倒れていて損傷しているが、
中身は無事だった。

マリンのユーリに対する思いは複雑だった。
父の愛人なので道中は猛烈に嫉妬した。

屋敷時代は無駄なく働く優秀な使用人であり、
マリンの面倒をよく見てくれた。
お姉さんのような存在でもあった。

死んだと決まったわけではないが、村の惨状を考えれば
生きている確率は非常に低いだろう。

「それにしても、あの爆発はいったい……」

マリンは父のいる小屋に戻った。

小屋はゲルを一回り小さくした程度の広さだ。

中央に薪ストーブと炊事に必要な道具が置かれており、
部屋のすみにベッドが置かれている。

食べて寝るだけの場所なので文化的な楽しみはないが、
とにかく彼らにとって雨風を防げるというだけで十分だ。

「食料はまだ残っていたんだね」

太盛が入り口付近のツボを見た。ツボの中にはモンゴル伝統の
馬乳酒が入っている。乳製品で作った酒である。
余談だが、日本のカルピスは馬乳酒を元に
作られたものだといわれている。

食べ物は肉の干物と乳製品を加工したものが少々残っている。

「お父様、服を脱いでください」

太盛の背中は爆風の影響で泥で汚れていた。
肩や腰に強い打撲の跡があることから、

爆風で吹き飛ばされたのだろうとマリンは結論付けた。
マリンは濡れたタオルで父の体を拭いてあげた。

タオルの冷たさに太盛は短く声を上あげた。

「ありがとうねマリン。本当は使用人の人たちに
 やってもらうことなんだけど」

「いいえ。父の手助けをするのは私の仕事ですから」

言葉だけは冷静だが、マリンの内心は穏やかではなかった。
太盛の言う使用人にユーリのことが含まれていたのが分かったからだ。

マリンの瞳に怒りが宿っていることを太盛は見逃さなかった。

父のそばにいていいのは自分だけ。
マリンの独占欲の恐ろしさを太盛は理解していたから、
ユーリは無事なのだろうかと間違っても口にはできなかった。

「もうすぐ日が暮れますから、薪を集めてきますわ」

「ああ。気を付けてね」

太盛は清潔なベッドで横たわり、目を閉じた。

ここモンゴルではミサイルや騎馬部隊の襲撃を受けることなど
日常茶飯事なのでマリンのことが心配で仕方なったかが、
まぶたがなまりのように重く感じられた

それからどれだけ寝ただろうか。
太盛は近くに人の気配を感じた。

パキパキと薪の燃える音。

天井まで伸びた煙突から煙が逃げていくので
一酸化炭素の中毒の心配はない。

「マリンかい?」

「いいえ。私ですわ」

心臓が握りつぶされそうな恐怖を感じた太盛。
忘れたくても忘れることができない声。

高い音程で鼻にかかったトーン。間違いなく、妻のエリカだった。

太盛はまだ体が自由に動かない。上半身だけでなく、
足の痛みも増してきた。車の衝突事故の後遺症と同じだ。

太盛は、まったく無抵抗の状態でエリカが目の前にいることに絶望した。

「マリン!! いないのか!! 早くここに戻ってきてくれ!!」

唯一自由に動かせる口を使って娘を呼ぶ太盛。
腹に力を込め、大音量で叫びまくる。

エリカは不思議そうに太盛を見つめているだけで、
何も言おうとしない。太盛はかまわず、数分間声を上げ続けた。

ついにマリンは来ることはなかった。

「太盛様は」

エリカが口を開いた。

「さっきから誰の名前を呼んでいますの?」

太盛は、血液が凍り付く思いがした。

「エリカ、おまえはマリンを見なかったのか?
 さっきまで俺と一緒に小屋の中にいたんだよ。
 薪を取るって言ってちょっと出て行って……」

「さあ?」

エリカに答える気がないのは明らかだった。

今までエリカは実の娘を手に掛けたことは一度もなかった。

しかし、状況が状況である。エリカはマリンも夫を奪おうとする
泥棒猫の一人に数えていたから、どこかで囚われて
制裁されていることは十分に考えられる。

(制裁か……制裁するのはエリカじゃなくて部下たちだ。
 奴ら、ここにいないじゃないか。奴らはどうなった!?)

太盛がそのことを口にすると、エリカは素知らぬ顔で
知りませんと言った。

「なぜ知らない? おまえの大切なしもべたちだろうが」

「私も目が覚めたら周りに誰もいなくなっていたのですよ。
 あのおかしな爆発でみんな死んでしまったのかしら」

「死んだとしても死体が全く見当たらないぞ」

「そうねぇ。あの大人数が神隠しにでも
 あったかのように消えてしまったわ」

「マリンは? エリカは本当にマリンを見ていないのか?」

「信じてもらえないかもしれないけど、本当に見てないわ」

太盛の表情が引きつる。
エリカが外でマリンを殺したのだと本気で疑った。

「じゃあエリカは爆発のあとはどこにいたんだ?」

「草原の一角に吹き飛ばされたけど」

「そこで目が覚めたのか?」

「そうよ。周りには誰もいなくて、村まで歩いて戻ったわ。
 私が目覚めた場所はここから少し離れていた」

太盛はしばらく沈黙した。

もうエリカの言うことなどどうでもよかった。

問題はマリンだ。もしこの体が自由だったら
エリカをぶっ飛ばした後にマリンを探しに出かけたかった。

「もう少し寝ていたほうがいいと思いますわ。
  寝る前にツァイ(お茶)でも飲みますか?」

ポットには常備してあるスーティツァイが入っている。
モンゴルでいうお茶のことだ。
塩見の利いたミルクティーの味がする。

「いいよ。今はそんな気分じゃないんだ。
 それより頭が痛い。熱があるのかもしれない」

エリカが細い指で太盛の前髪をかき分け、
おでこに手を当てた。
自分のおでこと体温を比べてみる。

「平熱だと思う。太盛君って基礎体温が低いでしょ?
 触った感じは私とそんなに変わらないよ。
 むしろ冷たくなってる」

「おまえはさ」

息をするのも苦しそうに太盛が言う。
エリカは首をかしげて聞いた。

「気楽そうでいいよな。むしろ楽しそうにさえ見える。
 俺はこんなにつらいのによ。少し腹が立つくらいだよ。
 なあ、本当のことを教えてくれよ。マリンとユーリ達は
 どうなったんだ? ここはどこだ? 俺はさっきまで
 マリンに小屋で看病されてたはずだ」

「ここは、その小屋よ」

太盛の顔は全く納得していない。

「細かいことは、どうでもいいじゃない」

エリカはヒマワリのように微笑んで言う。
太盛にとって人生で一番大切な家族のことを話しているのに
まるで他人事な態度にますます表情が硬くなる。

「ふざけるのも……いいかげんにしろ。
 今俺が健康だったらおまえを張り倒しているところだぞ。
 う……くそぉ、体が言うことを聞かねえ」

「そうやって強情を張ったって駄目よ?」

エリカは太盛の肩をつかみ、ベッドに寝かせた。

厚みのある枕に顔を沈める太盛。
エリカは布団をはいで中に入って来た。

太盛がやめろ、来るなと拒絶するがおかまいなしだ。

「今の現状を認めなくちゃ」

「何を認める? 俺とお前は夫婦じゃない。
 こんな辺境の国に来てまで形だけの
 夫婦ごっこはもうやめにしろ」

「形だけじゃなくて、本当の夫婦になるために
 あなたを追いかけに来たのよ。
 そんな簡単にあきらめちゃだめだよ?」

「その能天気な口ぶりをやめろ。
 俺を押し倒したって無駄だぞ。
 すぐにマリンが戻ってきてお前を刺し殺しちまうさ」

「あの子が私を?」

「そうだ。あの子は子供だけど、もう子供じゃない。
 あの子は大好きな父を救うためならなんでもするぞ。
 そう。たとえ母を排除してでもな。そういうところが
 おまえにそっくりだよ」

「ふぅん」

太盛がすきをついてエリカを押し返そうと両手を伸ばしたが
失敗した。逆にエリカに手首を取られ、そのままシーツの上に
押し倒された。

太盛は警察に取り押さえられるような気分を味わった。
エリカは太盛の腹の上にまたがっており、絶対的に有利な状態だ。

「いっそ殺してくれよ」

「いや。殺す理由がないもの」

「俺はおまえのことを女として見ていない。もう家族だ。
 つまりな、性的に意識できないんだよ。
 こんな男と一緒に寝て何になる? お互い無意味だと思わないか?
 ほら。そこのストーブの近くにでかい包丁があるだろ。
 それで俺のお腹を指して終わりにしてくれよ」

「そんなに一気に言われても」

エリカがしとやかに溜息をついた。

「私はあなたを殺すつもりはないって言ってるでしょ。
 なんで愛してる人を指したいって思うのかな?
 そっちのほうが不思議」

「おまえを嫌う理由がまだある」

太盛は額の脂汗をぬぐうことなく続けた。

「その口調だ。使用人や娘と話すときの冷徹な口調と全然違う。
 俺と話すときは少女みたいに純粋な口調で、まるで他人みたいだ。
 おまえと言う人間がどういう人間で何を考えているのか
 さっぱり分からない。気味が悪いんだよ。お化けと話しているみたいだ」

「素で話しているだけなんだけどな。私、親からあれこれ
 お堅い教育されてきたから、子供の前でもつい
 厳しい口調で話しちゃうだけで」

「あっちはお前の本心ではないのか?」

「どっちも私よ。母としての私。奥様としての私。
 そして、あなたの妻である私。使い分けなんて
 どこの主婦でもしているでしょ」

甘えるように太盛に寄り添い、同じ布団にくるまる。

太盛のすぐ横に妻の顔があった。にやにやしている。
楽しいおもちゃを与えられた子供のようだ。
夫と二人でいることが、何よりも幸せなのだ。

別に何もしなくてもいい。
ただ一緒にいるだけで何もかもが満たされるのだ。

「よるなって言っただろうが」

「やだ」

太盛のほっぺたにキスをした。
ねっとりとした感触だ。

太盛はエリカの唾液を手でぬぐう。
それはもう汚そうに。
エリカは全く気にした様子はなかった。

エリカはブラジャーを外し、太盛の手を自分の乳房へ招待する。

エリカの胸はちょうど手でおさまりきらないくらいの
ほどよい大きさだった。白く美しい上半身の肌が露出し、
女の匂いが太盛を誘惑した。

ここは外国で常に過酷な自然の驚異と戦わなければならない。
謎の弾道ミサイルもいつ降ってくるか分からない。

こういう状況で人は子孫を残したい欲求が深まる。

太盛は、大嫌いな女のはずなのに、
男の部分が反応してしまうのが悔しかった。

本当に触れ合いたいのはユーリだったはずなのに。

「おまえが……殺したんだろ」

「誰を?」

「俺の大好きなユーリだよ。マリンもな。
 どうせこの小屋の外にはおまえの護衛がたくさんいて、
 ニヤニヤしているんだろ。俺は見世物じゃないぞ」

「本当に誰もいないのに」

エリカは太盛の顔を両手でつかみ、自分の顔に近づけさせた。
日本にいる時は寝る前に毎日濃厚なキスをされた。

太盛は拒否する勇気がなくてされるままだった。
唇ごとむさぼられるようなキスだった。
息が苦しくて、顔を背けようとするとエリカはまだ離してくれない。

「あなたが家出してから、ずっとさみしかったんだからぁ」

エリカは会えなかった時間を埋め合わせるように、何度も
舌が触れ合い、唾液を交換して互いを味わうのだった。

モンゴルでユーリと何度もした行為だ。
だが、エリカはユーリではない。
肌の感触、体温、声、全部違う。

少し低めで落ち着いたトーンのユーリと違い、
エリカは高い音程で鼻にかかる感じの幼さがある。
認めたくはないが、耳元でささやかれると
気分が盛り上がってしまう。

お見合いした時からエリカの声が一番気に入っていた。

「あなたのこと、ずっと愛しているの。
 私以外の女を見てほしくなかった。
 私だけを見てほしかった。
 ねえ。それって、いけないことなの?」


それから、太盛は夢中になってエリカの身体を求めてしまった。
時間の感覚はなく、ただ獣のような欲求にに従っての行為だった。

枯れ果てた愛を再確認するだけのむなしい時間だった。

「気持ちよかった?」

お互い、まだ息が荒い。

エリカがこんな短時間でいけるわけがない。

彼女は満足したわけではないが、夫をたのしませることが
できたなら、とりあえずそれでよかった。

「ねえ、良かったでしょ?」

「ああ」

短く告げた。嘘ではなかった。

人間の根源的な欲求の一つが満たされたのだから。

「なんだか眠くなったな」

「いいよ。寝て。後片付けは私がしておくから」

「そう……か」

体はなまりのように重く、少し息苦しさを感じる。
その苦しさが余計に眠気を誘い、
太盛は気絶するように眠りについた。


「あれ?」

また目を覚ました。小屋のベッドにいることに変わりはない。

ベッドは小綺麗になっていて、昨夜のなごりはない。

布団には、まだエリカの甘い香りが残っている。
発情した女は必要以上にフェロモンを残していく。

この香りが、自分とエリカが共にいた証だと思うと、
太盛はうれしくすらあった。

殺したいほど憎いと思っていた妻なのに、
こんなことを考える自分は
頭がおかしいと理性が訴えていた。

人の感情は不思議なもので、理屈で説明できないものなのだ。

「ふわぁ。早起きしてるからこの時間は眠くなりますわ。
 午前中だけでも放牧は大変です。
 子供の家畜がすぐ列から離れてしまいそうになるんですよ。
 一匹でも逃がしたら怒られますから、
 その子たちを追いかるのが大変でして」

マリンが入り口の扉を閉めた。外行き用の毛皮の靴を脱ぐ。
モンゴルの民族衣装のデールを脱いでハンガーにかけた。

室内は防寒着を外して楽な格好でいられる。
ベージュのタートルネックのセーター。下は冬用のジーンズ。
日本にいる時と変わらない。

「お父様、もうすぐお昼だからお腹すいているでしょう?
 私は向こうのテントで食べてきましたから、お父様の
 分だけ作ってしまいますね?」

マリンが薪をストーブの中に放り込む。ごうごうと勢いよく
燃え始める。すぐに部屋中が暖かくなり、寒風が吹き荒れる外とは
別世界になった。

太盛は、なぜここにマリンがいるのか理解できなかった。
少なくともエリカといた時にマリンの姿はなかった。

時間は計っていないが、エリカとずいぶん長くおしゃべり
していたから、当然夜の間、娘は帰ってこなかったはずだった。

「マリンは何を作ってくれるんだ?」

「羊の肉をゆでるの。シンプルな味付けの方が
 お父様の好みでしょう?」

ストーブの上に鍋を置き、たっぷりの水を沸騰させ、
骨付き肉と塩、野菜をまぜてゆでていく。
たっぷり40分ほど煮込めば芯まで火が通る。

蒙古に来てからマリンの髪が伸びた。彼女は作業するときは
髪を後ろで一つにまとめている。亜麻色の髪が
燃え盛る炎に反射して黄金色に輝いて見えた。

スキがなく、完璧に仕事をしようとするさまがユーリに重なった。
髪のまとめ方もユーリにそっくりだ。

「うふふ。ご近所からいろいろ差し入れをもらえますの。
 今日は午前中の放牧を手伝ったから乳製品の加工品を
 いくつか。揚げパンとアーロール(蒙古チーズ)が
 ありますよ。あっ、お父様はアーロールが苦手でしたよね」

「いや、チーズは食べたことあるけど、アーロールは初めてだな」

「そうでしたっけ? 乾燥して硬すぎてあまり
 自分好みではないとおっしゃっていたではないですか」

何の話をしているのかわからず、太盛は思わずゾッとした。
マリンの口調はっきりしていて、嘘をついている様子はない。

経験上、愛娘は父の前で絶対に嘘をつかなかった。
太盛は自分の記憶を先に疑うことにした。

「はは、ごめん。ちょっと寝ぼけすぎたかな」

頭をかきながら半身を起こすと、さらに不思議なことに気づいた。

体が不自由ではないのだ。エリカと肌を重ねた時は手足の節々まで
痛く、まるで老人のようだったのに。今はすぐに馬にまたがって
駆けだしたいくらいに体が軽い。

背中と頭にわずかな痛みが残るが、気にするほどではない。

「君はマリンだよね?」

「マリンはさ」

自分でもなぜ問いかけたか分からない。

「はい?」

マリンはおたまで鍋をかき回す手を止め、
太盛と目を合わせた。

「君はマリンだよね?」

「どういう意味ですか?」

「いやね。ちょっと自分の記憶があやふやなんだ。
 長い夢を見ていたというか」

「そんなにおかしいと思うなら、ほっぺたを
 つねってみればいかがです?」

言われた通りにすると、確かに痛みがある。

まさかと思って小屋の外に出ると、中部モンゴルの寒空が
広がっている。風が強く吹き荒れ、肌を突き刺す。
日本の関東の寒さと質が違う。寒いというより痛い。

今日は曇り。日中でも氷点下になるほどの寒さだった。

「風邪をひきますよ?」

マリンが扉を閉め、太盛をストーブの前に座らせる。

見た目は小型なのにストーブの火力はすごい。
太盛は上着の袖をまくった。
彼は上下スェットという日本スタイルを極めていた。

寝巻変わりだからいいもの、こんな格好で外を歩いたら
それこそ凍傷になりかねない。

「足元が冷えるでしょうから、ウールの靴下をお履きになって」

言われてから太盛は自分が素足なことに気づいた。
残念なことにエリカと寝た時にどんな
服装だったから覚えていなかった。

「ちょっと、火を使っているから危ないですわ」

太盛はマリンを後ろから抱きしめていたのだ。
マリンがここにいることが心霊現象の一種化と
思ったが、確かに人間のぬくもりがある。

髪の匂いもする。みずみずしくて柔らかい手触り。
間違いなくマリンの髪だった。蒙古の観光した空気でも
この髪質を保てるのはマリンだけだと太盛は思っていた。

「でも、少しうれしいです」

マリンは炊事の途中でふざけるのは
あまり好きではなかったが、
大好きな父だから特別に許してあげた。

「寝起きで喉が渇いているでしょうから、
 スーテーツァイをお飲みになって。
 すぐ目を覚ましますわ」

マリンは茶も作ってくれたのだ。暖かい茶を飲むと、
ミルクティのような見た目とは裏腹に塩見が強い。

太盛は一瞬で頭がはっきりした。

マリンが羊肉をお椀に盛りつけた。揚げパン
やチーズなど、出されたものは何でも食べた太盛。

「お父様ったら、そんなにお腹がすいていたのね」

マリンはあきれつつも、残さず食べてくれたことがうれしかった。

「マリンはお昼を食べて来たんだっけ?」

「はい。お昼はゲルの中で奥さんたちが食事をとりますから。
 私も仲間に入れてもらいました。お昼はいつもの白い食事ですわ」

「白い食事。つまり乳製品やパンを食べたわけか」

「特に変わったことはありませんけど、
 どうしてそんなことを聞くのですか?」

話を聞いていると、マリンは近くの村に毎日アルバイトを
しにいっているようだった。マリンは放牧、家畜小屋の掃除、
フェルト作りや裁縫など、およそモンゴル人のする仕事を
ほとんどこなしていた。

夜遅くまで働くわけではなく、日によってばらばらだ。
今日は早朝から午前中まで放牧をして帰宅したのだ。

この廃墟と化した荒野の中の小さな小屋まで。

「なあ、マリン。エリカとユーリは……」

その話題になった瞬間、マリンは明らかに嫌そうな顔をした。
父をにらむことはしなかったものの、激しく不快そうな雰囲気だ。

「なんですか?」

語尾が強い。太盛はひるみそうになった。

だが、聞きださなければならない。エリカは四六時中太盛の
近くにいなければ気が済まない女だ。磁石みたいな女だ。

エリカがここにいない理由を彼はただ知りたかった。
そして修羅場のさなか、毒をあおったユーリがどうなったかも。

「マリン。怒らないで聞いてほしい」

「私は怒っていません」

太盛は深呼吸をした。

「エリカはどこに行ったんだ?」

「エリカ?」

マリンは片目を細め、あさってのほうに視線を向けた。
不快感を隠そうともしない。
令嬢とは思えないほど下品なしぐさだった。

「さあ? 知りませんわ」

「知らないって……」

「あんな女がどこで何をしていようと私には関係ありません」

これ以上聞いたら、マリンを本気で怒らせる。

太盛は娘におびえていた。蒙古に来てから娘の生活能力の高さを
見せつけられ、ある意味エリカより恐れ多き存在となっていた。

太盛は本能からマリンと離れたらこの世界で
生きていくことはできないと気づいていた。

マリンは遊牧民たちの仕事を進んで覚え、
報酬を手にした。蒙古語にもずいぶんなれていて、
簡単な会話から仕事用語も現地語でこなす。

彼ら家族の中でもっとも
蒙古の生活に適応したのはマリンだった。

「ごめんな。あんな奴のことなんてどうでもよかったよ」

太盛は娘に配慮して言った。

父に親としての威厳がなくなっていることに気づいたマリン。
マリンは脅すような言い方をしたことを申し訳なく思った。

「いえ。私も少し感情的になってしまいましたわ」

少し決まずい雰囲気になったが、マリンの一言で丸くなる。
二人はしばらく見つめあったと、どちらともなく笑った。

父が手招きすると、マリンが
吸い寄せられるように腕の中で丸くなる。

「俺にはマリンがいればそれで十分だ」

耳元でささやくと、マリンはすっかり頬が赤くなってしまう。
血のつながった親子なのに、マリンは恋人と
過ごしている気分になっていた。

マリンは幼少から父に良く面倒を見てもらった。
分からないことがあると父より母を頼った。

父は子煩悩でマリンにべったり。
使用人たちから見てもレナとカリンたちより
マリンを溺愛していた。

それがエリカは気に入らなかった。

太盛はマリンにお出かけの前と寝る前のキスをしてくれた。

頬にするだけの軽いキスだ。幼稚園児なら可愛いものだが、
小学生になっても続けようとすると、
エリカが烈火のごとく怒ってとめさせた。

お風呂に入るのもできるだけ一人で入りなさいと
しつけたが、マリンは母の目を盗んでは父と一緒に入りたがった。

それは小学校の中学年になっても変わらなかった。

学校から帰ってきて、宿題や課題はすぐに終わらせて
父が買ってくるのを楽しみにするのが日課だった。

夕食後、父が疲れてソファでうたた寝をしていると、
マリンもおとなしく隣にいた。つけっぱなしのテレビを
眺め、ただ父のそばにいるだけで彼女は満足した。

いつしか父が好みそうな髪型や服装まで考えるようになると
母に怒鳴られることもあった。

『早く親離れをしなさい。太盛様にも迷惑でしょ。
 ファザコンをこじらせると、ろくな子に育たないわ』

父はマリンを一番に愛していた。

姉のレナやカリンと差をつけるのが
残酷だと理解していても、
末娘のマリンが可愛くて仕方なかった。

妻への不満のはけ口をマリンに
求めていたことがあったのかもしれない。

二人きりで買い物に行くときは手をつなぐのはもちろん、
マリンは大人ぶって腕を組む時もあった。

エリカは二人が仲よさそうに話しているだけで
怒りがこみ上げてきて、すぐ邪魔をするのだった。

『太盛様がマリンの近くにいるのは好ましくありませんね。
 自分の夫に幼女趣味があるなんて世間に知られたら大変ですわ』

休日に太盛を夫婦の寝室に軟禁し、子供部屋に
入らせないようにしたことがあった。

食事も時間をずらして親子別々に食べさせるなど、
小姑のようなことを平気でした。

太盛は妻に失望し、マリンは母に敵意を抱くのだった。

太盛は毎日無理やりエリカの話し相手に付き合わされ、
つまらない話にも楽しそうに合図地を打たなければ
怒られることもあった。ベッドで寝るのもとっくに飽きていた。

太盛にとってエリカは家族なのだ。

恋人時代のときめきはよみがえらない。
口うるさい女は大嫌いだった。

『今月もマリン様のピアノは順調ですわ。
 中級コースの練習曲で引っかかるところはありません。
 来月のテストで中級レベルを卒業できるかと』

ユーリは使用人であり家庭教師でもあった。

彼女は裕福な家の生まれでピアノが弾ける。
大学で外国語学部を先行したので英語と中国語が話せた。

マリンに英語を教えたのは彼女だ。

『いつもマリンの面倒を見てくれてありがとう、ユーリ』

父に代わって愛娘を教育してくれるユーリは貴重な存在だった。
ユーリはマリンの成長の過程を詳細に報告してくれた。

エリカがお風呂に入っているときなど、わずかなすきを
見つけてはユーリと会話する時間を作っていた。

エリカはユーリにはなぜか無関心だった。
太盛と屋敷の話をしていても
邪魔してくることはめったになかった。

エリカにとってマリンが目ざとくて
ユーリまで目がいかなかったのだろうか。

『誰も見てないから、目をつぶってくれ』

深夜の階段の隅で、彼女の唇を奪ったことは良い思い出だった。

トイレに起きるふりをして、彼女を呼び出して愛を確認するのが
太盛の至福の時間だった。

エリカに対する冷めきった愛情ではなく、燃え上がるような
本物の恋だった。世間的には浮気だが、太盛はそこまで
重く考える人間ではなかった。

「さっきからずっと黙っていますけど」

問い詰める視線。

「ごめん」

太盛はマリン以外のことを考えるのを許されない。
この小さな小屋には、太盛とマリン以外の人間はいない。

「どうして謝るのですか」

マリンは太盛をよく観察しているから、
物思いにふけっている太盛が、
ユーリのことを心配していることに感づいたのだ。

ユーリは奥歯に仕込んでいた毒のカプセルを噛んだ。
それにあの爆発。普通に考えていれば生きているわけがない。

昼下がり。満腹になると太盛の頭に浮かぶのはユーリのことばかり。
姿は見えなくても彼女の存在が忘れることはできなかった。

「先ほどからずっと考え事をしているようですけど、
お父様は私といるのが楽しくないのですか?」

少なくとも太盛がユーリをここに連れてこなければ死ぬことはなかった。
エリカから逃げるために遊びめいた逃避行をした。
今考えれば取り返しのつかないことをしてしまった。

「そんなことはないさ。いろいろ考えることがあってね」

太盛は絨毯の上にあぐらをかいている。
隣に密着しているマリンは、彼の右腕を少し引っ張った。

「まだ考えることがありますの?
 お父様はマリンさえいれば十分だと言いました」

「そうしたいよ。そうしたいけどね、
 簡単に割り切れるものじゃないんだ。
 俺は家族を失ったんだよ。大切な家族を」

「私もお父様の家族です」

「それはそうだけど」

「考えすぎると体に良くないですわ。
 少しお昼寝しましょうか?
 寝れば記憶が整理されて頭がすっきりしますわ」

マリンは、はだけた布団を元通りにして枕を二つ並べた。

この小屋はモンゴル人の老夫婦が使っていたものだ。
ベッドは2つあるのだが、初めからマリンは
父と同じベッドで寝るつもりだった。

寝てしまったら、また目が覚めた時にエリカがそばに
いるんじゃないかとおびえる太盛。あの時のエリカは
別人のように穏やかで優しかった。少し怖かった。

「寒いなら、もっと毛布を増やしましょうか」

「遠慮するよ。寒いからふるえているわけじゃない」

太盛は力を込めてマリンを抱きしめた。
マリンの身長は背伸びして太盛の肩に届くくらい。
抱き枕代わりにちょうど良かった。
胸元に娘の吐息を感じた。

亜麻色の髪をなで続けた。肩を少し超えるくらいの
長さだったのが、腰のあたりまで達している。
長さは姉のレナと同じくらいだった。

「はぁ、もう眠くなっちゃいました。
 お父様の腕の中にいると安心しちゃうのかしら」

そう言ってマリンは眠りについた。朝は5時半には
起きて、よその村へ手伝いに行っているという。
爆風から辛うじて難を逃れた
家畜小屋には、マリン用の馬がいる。

大人の自分が役立たずなのに、娘が寒い中
必死で働いていることに申し訳なる一方、
たくましく育ったマリンが愛おしくなった。

太盛はマリンの頬にキスをした。
マリンは短く言葉を発したが、夢心地だ。

太盛は起きたばかりなので少しも眠くない。

ただ、マリンが起きた時にそばにいてあげないと
また怒らせてしまうのが怖くて、燃え盛るストーブの
炎をながめながら、いつまでもそこにいた。

モンゴル・デート

次の日の朝。

マリンは食料を分けてもらいに村へ行き、
10時前には小屋に戻って来た。大量の干し肉だ。

羊、ヤギ、牛。日本のスーパーで量り売りしたら
けっこうな値段になりそうである。

「アルバイトでこんなに分けてもらえたのかい?」

「これはお金で買いました。村の人たちが町へ
 出荷する分として保存していた分なのですけど」

「お金があったんだね。カードは無事だったのか」

「はい。私は定期的に町へ行って銀行で
  お金を降ろしておきましたから、
  アルバイトをしたくないときは食料を買い込めますわ」

「岩塩、野菜もあるね。野菜が良く手に入ったな。
 これだけあればしばらくこの小屋でゆっくりできそうだ」

「はい。そのつもりで買いましたから」

知らないうちに季節は冬に近づいていた。

エリカといた時はまだ秋のような気がしたが、気のせいだったのか、
外は雪が降り始めている。粉雪が草原の世界に吹き荒れていた。

小屋の中にいる時はストーブをつけっぱなしだ。
貴重な燃料となる薪や乾燥したフンは
大量にストックしてあるから、三日は余裕でもつ。

「なくなったら、あとで俺が調達に行くから」

「いいえ。お父様はここにいていいのよ」

「それじゃマリンに悪いよ」

「こういう雑務は私に任せてください。
 私は体を動かすのが好きですわ」

「なら一緒に行こうよ。体の調子は良くなったし、
 毎日小屋にこもっていたら体がなまっちゃうよ」

なぜかマリンが悲しそうな顔をした。

太盛は直感で、マリンが自分を外に出したくないのだと考えた。
理由は分からないが、もしかしたらエリカやユーリが町や村で
生活しているのかもしれない。

マリンには太盛に合わせたくない人物がいると考えると、
なぜか納得がいってしまう。

「じゃあ、2人でゆっくり過ごそうか?」

頭を撫でてあげると、マリンの顔から悲壮感が消える。

そんな時に太盛の携帯が鳴った。

LINEのメール着信音だった。

太盛とマリンは思わず顔を見合わせた。

マリンは明らかに不愉快そうに、太盛はそもそも
自分が携帯を持っていたことに驚いた。

爆発で吹き飛ばされてから記憶も時間の感覚もあやふやだ。

いつの間にマリンとこの小屋で暮らすようになったのか、
そして部屋の中にマリンが町で買ってきたのであろう小物が
そろっていることも不思議だったが、もう考えるだけ無駄だった。

「レナからだ。パパのこと心配してくれてるみたいだよ」

「ふぅん」

「あれ? マリンはレナ達のこと気にならないの?」

「別に。向こうは向こうで気楽に暮らしていると思います」

マリンは唇をとがらせ、すねていた。

数年前、レナと父のベッドを争って喧嘩したことがあった。
どちらが夜に添い寝するかで言い争ったのだ。
レナがあきれた太盛にしがみつくと、
怒ったマリンがレナを叩いたのだった。

「エ、エリカからは着信が全くないんだな。めずらしい」

マリンはすごい顔で父をにらむ。太盛はあまりの迫力に思わずひるんだ。

四六時中旦那を追跡したがるエリカから音沙汰がないことは
確かに不自然なのだ。もっともマリンはその名前を聞いただけで
感情を制御できなくなっている。

太盛にとってマリンとは何か。自分の分身。小さな恋人。
ユーリを失ったさみしさを埋めてくれる存在。

普通の娘以上の感情を持っていることは確かだった。

「ところで」

マリンが話題を変える。

「私、楽器に興味がありますの。これでも演奏には自信がありますのよ」

「それは知ってるよ。マリンはピアノでショパンも弾けるんだろう」

「たまには違う楽器も弾いてみたいなと」

「違う楽器? ヴァイオリンとか?」

「エレキです」

「エレキって、エレキギターのこと?」

マリンがうなずいたので太盛は仰天した。

娘が幼少から親しんだクラシック関連の楽器を想像していたが、
まさかの現代風楽器である。

「君はロックの世界でプロを目指したいのかい?」

「そうではありません。気晴らしにギターを
 思いっきり鳴らしたいの。
 良い気分転換になりそうではないですか」

太盛は言うべきか迷ったが、結局言うことにした。

モンゴルの大草原には電力発電などのインフラがなく、
まずアンプに電源が入らない。

電子楽器をするには最悪発動機を持ち込む手段もあるが……

「私としたことが、うっかりしていましたわ」

マリンが本気で驚いた顔をしていたので、むしろ太盛が驚いた。
エリカに似て絶対音感を持ち、簡単なポップス曲なら
耳でコピーして鍵盤で弾いてしまう。
即興でピアノの伴奏で子守唄を作ることもあった。

ギターを鳴らしたいと思ったのは憂さ晴らしかと聞くと

「そうです」

と素直に答えた。

「ここに来てからいろいろなことが起きて心が休まる暇が
 ありませんでした。弾道ミサイルにおびえて暮らすのって
 こんなに疲れるものなのですね。
 あのゲルにいた時、音楽の先生がやってきてモンゴルの
 オカリナのような楽器を鳴らしていたでしょう?
 私はむしろエレキをガンガン鳴らしたいと思いまして」

「相当ストレスが溜まっているな……。
 ピアノの弾き語りよりロックを選ぶか」

「だって、ここにはピアノは持ち込めませんわ」

太盛はにっこり笑い、マリンの肩に手を当てた。

「マリンの気持ちは分かったよ。明日、天気が良かったら
 町へ行かないか?」

マリンは笑顔でうなずいた。

「お父様とデートだぁ」

「二人で出かけるの、すごい久しぶりだね。
 いつもあれが邪魔してくるからさ」

「本当、あの人は嫉妬深くて困りますわ。
 お父様とピアノの話をしている時もいつも
 横から入ってきて」

マリンは高揚していた。モンゴルに来てから
一番楽しいと思う瞬間だった。

大好きな人と明日出かける約束をして、期待に胸を膨らませる。

父と娘が買い物するだけでデートと言うには語弊があるかも
しれないが、本人たちがその気なら立派なデートである。

「町までは馬で行けばいいのかな?」

「車で行きましょう。ワゴン車が無事でしたから」

まさかと思って集落を見渡すと、確かにワゴンが無事だった。

奇跡にしてもできすぎていた。ミサイルで村がほぼ全滅状態なのに、
この小屋とワゴン車が無事な確率はどのくらいだろうと太盛は考えてしまう。

その日、マリンは父と他愛もないおしゃべりをし、
昼寝をし、軽い夕食を食べて早く寝た。

次の日。快晴のゾーンモドの町は人々でにぎわっている。

入り口には料金所がある。車で町に入ると必ず料金を払わなければならない。
車道は広い。大型車がすれ違えるほど幅がある。
歩道も同じように広かった。土地が広い国ならではだと太盛は感心した。

太盛は料金所でさっさと支払いを済ませた。

「テンキュ。ハバナイスデェィ」

蒙古なまりの強い英語に、太盛は片腕を上げて答えた。

町の中央部には役所や裁判所が並んでいる。
建物の規模から、ウランバートルほど

発展はしていないのが分かる。

町を行きかう人々は蒙古語で会話している。
太盛には何を話しているかさっぱり分からない。

看板標識もそうだ。アルファベットならともかく、
キリル文字で書かれているので一文字も読めない。

「たまには都市部に来るのもいいものだ」

日本ならば地方都市のレベルだが、草原暮らしで
感覚がずれた太盛からすれば十分に都市部なのだ。

「モンゴルにしては発展しているほうですわ。
 人もたくさんいる。この国は人より家畜の
 数のほうが多いそうです」

「へえ。人口が確か350万だよね」

「国土は日本の4倍ありますけど」

「外蒙古だけでそんなに?」

「はい。外蒙古だけで」

はたから見れば、太盛達は手をつないで歩く中の良い親子。
ぱっと見は同じアジア人なので蒙古人と間違われるかもしれない。

歩道を通り、信号を渡ってレストランのある通りに入る。

「ユーリ?」

太盛は隣にいるマリンにわずかに聞こえる声で漏らした。

通りからレストランに入っていく女性に
見覚えがあったのだ。黒髪のポニーテール。
色白でまつ毛が長い。もったいぶった優雅な足取り。雰囲気。

一瞬だったので見間違いだったのかもしれない。
しかし、もしかしたらという思いが胸を高まらせる。

「お父様?」

太盛はマリンを全く無視してレストランの扉へ手を伸ばす。

「行っちゃダメ!!」

娘の悲鳴のような叫びすら耳に入らなかった。

店内に入ると、ウェイターに何名かと蒙古語で聞かれる。
彼の視界に店員など入っていなかった。

素早く店内を見渡して例の女性を特定した。
テーブル席に腰かけ、太盛には背を向けている。

ウェイターの横を通り過ぎて女性に話しかけた。

「君はもしかして」

それ以上何も続け慣れなかった。ユーリと思われた女性は
全く別人で、育ちのよさそうなロシア人女性だった。
彼氏と思わしき男性も迷惑そうな顔で太盛を見ている。

「Sorry. I was looking for my girl」

太盛は英語で軽く謝罪し、店を後にした。
カップルは去っていく太盛の後姿を見ながら、
ロシア語で何事かひそひそと話していた。

「いったい、何をしていますの!?」

マリンは店の外で待っていたのだ。

「私を無視して勝手にお店に入っていくなんて!!」

太盛は、マリンに怒鳴られることはまずない。
それほど甘ったるい関係だった。

「ご、ごめん。なんだか無性にお店の中が気になってさ」

「うそ」

「え?」

「私、ちゃんと聞いた。ユーリがいると思ったんでしょ?
 でもね、お父さま」

これ以上は、聞きたくなかった。だがマリンは容赦なく続ける。

「ユーリはもう、この世にいないのよ?
 いるわけないでしょ。ミサイルで何もかも
 吹き飛んでしまったのよ」

冷たい現実が太盛の心を突き刺した。分かってはいた。

ユーリが毒の入ったカプセルをかみ砕いたこと。
あの時、拷問されるよりも一瞬の死を選んだこと。

あれがユーリの意思なら仕方ない。止める権利はない。
そして、そういう経緯に至ったのは太盛の責任だ。
太盛は一生彼女のことを後悔して生きなければならない。

「現実を受け止めて」

分かっている。それは分かっていると太盛は言いたかった。

「終わったことは仕方ないことだわ。全部お父様のせいでは
 ないと思う。一緒に屋敷から逃亡したユーリにも責任はあるわ。
 お父様がいつまでも塞ぎこんでいたらだめよ。前に進まなきゃ」

口で言うほど簡単なことではない。やり直せるなら、エリカと
結婚する前に戻してほしかった。こんな結果になると知っていたら、
誰が結婚などするものか。今は離婚すらできないアリ地獄なのに。

「でも大丈夫よ」

マリンが言う。

「だって私がいるじゃない。パパには私がいれば十分なの。
 私以外の人なんて必要ないでしょ?」

そういえば、と太盛は思った。

何年か前にレナとお風呂に入っている時に同じことを言われた。
レナはマリンに負けないくらい独占欲が強い。

2人は日常的にパパを奪い合っていた。
怒ったレナがマリンの背中をけり、
マリンが逆襲で髪の毛を引っ張るなどしていた。

太盛は一つ納得した。マリンは父を自分のものにしたいのだ。
もはや父に対する感情を超えている。

根底にあるのはエリカと同じなので不気味さはある。
だが自分の娘だから強い愛情がある。

血のつながりのないエリカよりは、ずっとかわいく思えた。
マリンがどう成長しようと、マリンは彼の大切な分身だ。

「そろそろ行きましょう? いつまでもそこにいたら
風邪をひいてしまいますわ」

レストラン街を超えて、大きな交差点を左に折れる。
すると食料品店やホームセンターなどの日用品の店が立ち並ぶ。

ひときわ背が高いのは、横並びのアパートだ。
ウランバトルと同じくソ連時代に建築した共同住宅。
すごく殺風景で夜は幽霊が出そうな雰囲気だ。

「行っちゃ悪いけど、ソ連時代の建物は刑務所みたいだね」

「あんなところに人がたくさん住んでいるのですね。
 中はどうなっているのかしら」

「アンテナが立っているから、
 テレビやネットは使えるんだろうね」

マリンは太盛の腕を組んでいる。先ほどのように絶対に途中で
逃げないようにしていた。太盛は娘の強い束縛に少しおびえながらも
会話しながら歩く。

「スマホの地図だと楽器店がこの辺りにあるはずですけど」

「もう通り過ぎてないか? この赤印は少し北にあるぞ」

「でも、あっちにあるのはただの民家……」

「あれであってるんじゃないか? 
 看板はないけど、もしかしたら店なのかも」

横断歩道を渡って向かい側の通りへ。
GPSが示した場所へたどり着いた。

民家と思われた二階建ての家は、
一階部分が楽器店になっていた。

店主と追われる人から流暢なモンゴル語で言われるが、
当然太盛は返せない。マリンの出番である。

ピアノを探している旨を伝えると、
店主はお店にある一番大きなピアノを指した。

日本の家に置いてあるスタインウェイとは比べ物に
ならないほど小さい。それに手入れされていのが一目でわかる。
マリンは、ほこりで汚れたピアノイスに腰かける。
鍵盤を軽く叩くと、不愉快そうな顔をした。

「調律していないでしょう?」

と主人に言うと、半年くらいは放置しているという。
マリンはあきれてしまった。
この町ではめったにピアノが売れないためか、それとも
ただめんどうだからしないのか、そこまでは聞かなかった。

「まあいいわ。試しに弾いてみましょう」

乾いた音が、店内に響いた。

シューマン作曲の子供の情景から第1曲から始まり、
第七曲のトロイメライまで通しで弾いた。

主人と太盛は戦慄の美しさとなめらかさに圧倒された。

ピアノの調律をさぼっているせいで音は小さく、濁っている。
それを感じさせないほど、低音は深く心に染みわたり、
高温がさわやかに歌う。

「こんなピアノでもここまで……」

太盛は感心した。
店主も鑑賞者の一人になってしまっている。

不思議なお話。おにごっこ。おねだり。
作曲者はこの曲集を、子供心を描いた大人のための作品と称した。

マリンの指は強弱をたっぷりとつけ、曲集ごとに調子を変えて
鍵盤の上を動き回る。左手で力強く低い鍵盤を叩くと太盛は息を飲んだ。

マリンのピアノはユーリに指導されていたのは聞いていた。

太盛がマリンと一緒に遊ぶとエリカが嫌がるので、しばらく
マリンのピアノを聴いてなかった。娘の素晴らしい上達ぶりは、
この道で進んでも問題ないと思わせるほど。

言葉で説明できないが、この子の旋律には説得力がある。

第七曲が終わるまで時間にして20分程度。
もう終わってしまったのかと、太盛は思った。

演奏中、彼の脳裏に浮かんでいたのは家族との思い出だった。
子供たちが幼稚園に行っていた頃が花だった。

ユーリは上達の速いマリンにピアノを教えるのが好きだった。
土曜の朝は2人で音楽室にこもっていた。エリカも弾けるが、
ユーリほどではない。ユーリは小学生の時から何度も賞を
受賞しているから、実はピアノの先生として食べていける実力はある。

姉のカリンは、マリンのぶっきらぼうな演奏に腹が立って
よくケンカした。読書が好きなカリンは自然と聞こえてくる
マリンのピアノの音に我慢できなかったのだ。

マリンも最初から上手だったわけではない。何度も同じパートで
つっかえては、ユーリの見本を聴いてから同じように繰り返す。
特に左手で鍵盤を強く叩きすぎるくせがあったので、カリンは低音が
うるさいとよく文句を言ってきた。

シューマンの曲は、ユーリが教養の一環として
子供たちに聴かせていたものだった。進んで習いたいと
言ったのはマリンだ。他の姉妹は楽器に興味はなかった。

ユーリが残してくれた曲。
彼女の存在がピアノの旋律に化けてしまった。
太盛はまた、哀しくて胸が張り裂けそうになる。

「いやぁ、驚いたよ。
 お客さんでこんなにうまい人が来るとはね」

店主は拍手して褒めてくれた。太盛もつられて拍手をする。

「君はピアニストの家系か?」

「そういうわけではありませんわ。
 ピアノは趣味でやっています」

マリンはお店の主人と長話をする気になれなかった。
ピアノを粗末に扱う人は、例え外人であっても好意を持てない。

結局、楽器を買う気にはなれず、その店を出た。

「今度はきちんとした楽器店に行きたいですね?」

「そうだね。
 どこかにチェーン店のようなとこがあればいいんだけど」

11時を過ぎ、小腹がすいてきた。

適当なレストランに入る。日本でいうファミレスに近い。
マトンを中心とした肉料理とパンを注文した。

店内はそこそこにぎわっていて。遠くのテーブルから日本語の
話し声が聞こえてきてうれしくなった。見ると初老の夫婦だった。
蒙古を旅行中なのだろう。還暦を過ぎても仲睦まじい様子が伝わってくる。

太盛は、自分とエリカは絶対にああはなれないどろうと思った。

「はいお父様。あーん」

「ちょ」

肉の刺さったフォークを差し出されるが、思わずあたりを
見渡す太盛。隣のテーブルの人達がじろじろと見ていた。

中国人の学生たちだ。6人掛けの席に座って北京語か広東語か
分からない言語で元気そうに騒いでいる。話しているのだろうが、
中国系は声がでかいので騒いでいるように聞こえるのだ。

「どうかしたのですか?」

それはこっちのセリフだと言いたくなる。
もたもたしているとマリンの機嫌が悪くなりそうだ。

そうなると、あとが怖いので太盛は従った。

「タぁめん るィベンレン. ブゥシィ フゥムゥ」

学生たちに何か言われているが、気にせずマリンに食べさせてもらった。
一度で終わるかと思ったら、マリンの皿が空になるまで続けられた。

マリンはパンとサラダ以外、ほとんど口にしなかった。

「それで足りるのか?」

「今日はあまりお腹がすいていませんの」

それで太盛は何となく察した。
マリンは不機嫌になると急に少食になるのだ。

逆に気分が乗る時はけっこうな量を食べる。
嫌いなものはほとんどなく、姉妹の中で一番良く食べた。

「なら甘いものでも頼むか? チーズケーキとか」

「いいえ。けっこうですわ」

やんわりと答えるので一見するといつも通りだが、
我慢しているだけだ。
この子はエリカのように人に怒りとぶつけるよりも
自分の内側に本音を隠してしまう。

太盛がユーリの件で茶番をしたのを申し訳なく思った。
朝一番でデート気分が台無しになった。

店を出る時は、太盛の方からマリンの肩を抱き寄せた。
マリンはおとなしく着いてきた。

スーパーの食料品売り場で保存食を買うことにした。
日本のカップヌードルが普通に売られていた。

「これ、日清ですよね? アルファベッドで書いてある」

「そのようだな」

小麦でできた菓子を買った。ラベルにはキリル文字が満載だが、
パッケージの写真でだいたい分かる。
蒙古ではお菓子のことをボーブという。子供たちに大人気だ。

お菓子の隣にパンコーナーがある。
カットされたライ麦パンが売られていた。
この種類のパンは、日本でまず見ない。

そして野菜コーナー。
野菜は草原ではまず手に入らない。
草原で暮らしは乳製品と肉中心なので野菜を食べる機会がほぼない。

野菜は中国、韓国から輸入されたものが中心だ。
果物も同様である。

そして保存食の王道である缶詰。缶詰コーナーは
壁一面を埋め尽くし、高さは天井にまで達するほど膨大だった。
どれも各国から輸入されたものばかりで欧州製が多く並ぶ。

「これじゃ選べないぞ」

「町の人のおすすめがあるそうです。
 このピクルスのような酢漬けなのですけど」

マリンが細長の瓶を取る。

「調理しなくてそのまま食べられるから便利だそうです。
 パプリカなどが入っていて、外国人でも食べやすいそうです」

太盛は納得し、買い物かごに入れた。

レジは欧州と同じベルトコンベアー式だ。
レーン上に商品を置いていく。

「袋はいりますか?」

太盛は女性定員の言葉が分からず、またマリンに引き継いだ。

「大きいのを三つください」

「はい」

マリンは蒙古語に堪能だった。

ここに来てまだ一か月足らずなのに簡単な受け答えは
さっとできてしまう。

太盛が言葉で褒めるよりもマリンの頭に手を置いた。

マリンは口元がゆるんだ。父に褒めてもらうのが好きで、
楽器の演奏も学校の勉強も頑張って来たのだ。

ワゴン車に荷物をすべて入れてしまい、あとは町を出るだけだ。

「また料金所かよ、くそ」

日本人には余計な出費にしか感じられない。
文句を言っても仕方ないのでおとなしく払う。

「心配しないで。お金ならありますから」

実の娘は億単位の金の入ったカードを大切に持っている。
外国暮らしで金銭に困らないのは最高の精神安定剤だった。

大草原を南に走る。日が暮れるのが早い時期だ。
西日が差している間に帰るのが得策である。

太盛達の住みかの集落跡地が見えてきた。

謎の弾道ミサイル5基の着弾により廃墟と化した集落。
奇跡的に無事だった小屋の前に見慣れない車が止まっていた。

「ようやく帰って来たのね。 
 あなた、こんな時間までどこへ行っていたの?」

太盛は保存食とペットボトルの入った重い袋を入り口に落とした。
小屋の入り口でエリカが腕組して待っていた。いかにも機嫌が悪そうだ。

「なぜおまえがここにいる?」

「なぜ?」

エリカは眉間にしわを寄せた。

「理由が必要なのかしら。 
 私があなたの妻だからに決まっているでしょ。
 それよりその袋はなに。買い物してきたの?」

「そうだ。おまえはいつからここにいたんだ?」

「午前中からずっとよ。ちょうどあなた達と
 入れ替わりになったのね」

エリカが一瞬だけマリンをにらんだのを太盛は見逃さなかった。

「楽しい買い物だったようね?
 朝からずっとなんて」

また、昔のように質問攻めが始まろうとしていた。

太盛はマリンをエリカの魔の手から守るために
彼女の肩を抱き、自分のそばに寄せた。

「お、お父様?」

「まあまあ。汚らわしいこと。
 太盛様は幼女趣味がありましたのね。
 前からそのような予兆があるとは思っていましたが、
 今、確定しました」

エリカからの侮蔑の視線を太盛は正面から受け止めた。

自分は独りではない。強い娘のマリンがそばにいる。
それの思いが彼を大胆な行動に走らせていた。

マリンも地の果てまで父へ着いていくつもりだった。

「意味不明ですね。父と娘が仲良くすることは
 良いことではないですか。私はお父様と一緒に
 いたいからこうしているだけです」

エリカとマリンが視線を交差させる。
両者とも真顔で無言である。

太盛はあまりの殺気に鳥肌が立つほどだった。
妻と娘。この2人は家族ではなく純粋に一人の男を
めぐって争っていた。

エリカはすでに怒りの限界を超えていた。
怒りを通り越して逆に行動が定まらず、
5分ほど黙っていた。

マリンも相手の動きをうかがっていて、
彼女から動く様子はない。何かされそうになったら
物理的手段で反撃するつもりだった。

まさに一触即発だった。

太盛はさすがに耐えられなくなり、エリカに対し口を開く。

「なんだ。文句でもあるのか? 
 俺が大切な娘と買い物したのがそんなに気に入らないか?」

「いいえ。私は自分の夫が子供好きの変態だったとしても
 受け入れる覚悟でいますから」

「おまえ、けんか売ってるのか?」

「先に無礼な態度をとったのはそちらだと思いますけど?」

今度は夫婦でにらみ合いになった。
これを屋敷時代にやったら太盛はとっくに護衛に押さえられて
収容所行きになっている。

「つまらないことで争っても無意味ですわ」

マリンが冷たく言う。

「お父様。今日は早く寝てしまいましょう」

「待ちなさい」

エリカの怒気を込めた声にマリンは身構えた。

「あなた、いったい誰と一緒に寝るつもりだったの?
 4年生にもなってみっともない。早く父親離れを
 しなさいといったでしょう? 夜は独りで寝なさい」

「ここは蒙古です。どうしてここでもあなたの言うことを
 聞かないといけないのですか? 私と彼のことに口出し
 しないでください」

「かれ?」

まるで恋人に対する言い方である。

エリカはその言葉の響きを心から不快に思った。
拳を握り、歯を食いしばっている。

「バカなことを言うのもいい加減にしなさい」

「母様こそバカなことをいつも言っているわ。
 太盛パパを束縛するのは無意味だと何度言ったら
 分かるのかしら。パパには私のほうがいいんだから。
 パパはあなたより私を選んだのよ。
 あなたはもう選ばれないの。モンゴルまで
 追いかけて来たあなたのほうこそみじめよ。負け犬よ」

エリカは感情にまかせ、マリンの頬をひっぱたいた。

マリンは頬にじんわりと感じる痛みでぶたれたことに気づいた。
それほど一瞬の出来事だったのだ。

マリンは言いようのないほどの怒りに支配された。
近くに水のペットボトルがあったので、エリカの顔面に
投げつけてやろうと思った。

太盛は娘の手から素早くペットボトルを取り上げた。
怒りに狂っているマリンをなだめるために抱きしめる。

「今日はパパと一緒に休んで忘れよう。
 エリカにはあとで俺から言っておく」

マリンは息が荒い。目も真っ赤だ。
ほおっておけば今にもエリカに飛び掛かる猛獣と
化している。太盛はしゃがみ、エリカから
かばうようにマリンを抱きしめている。

マリンの顔は太盛の胸に隠れてエリカから見えないようにした。
エリカの殺意の視線が太盛の背に注がれるが無視だ。

エリカはいっそ2人とも殺してしまおうとすら思った。
だがエリカがここに来たことは夫を連れ戻すことだ。

武力行為が逆効果なのは分かっている。
だから、時には引くことも考えなければならない。

「もういいわ」

腹の底から出たような低い声で言う。
コートを着て立ち上がるエリカ。
耳までおおう毛皮の帽子をかぶる。

「こんな時間に出かけるのか?」

「マリンといると最高にストレスなの。
 今日は町のホテルに泊まるわ」

昨日姿を見なかったのはそういうわけかと太盛は納得した。
エリカと過ごした晩は、逆にマリンが村のゲルに泊まっていたのだ。

「私、明日にでも新しいゲルを買おうと思っていますの。
 よろしかったら太盛様もご一緒に」

「もちろんマリンも連れていくぞ?」

エリカが大きすぎる舌打ちをした。
すぐに頭を切り替えて続けた。

「それはかまいませんわ。ゲルを設置したら携帯に連絡します。
 うふふ。私からの連絡を無視しないでくださいね?
 実はあなたに無視されるのが一番我慢ならないの。
 覚えておいてね」

エリカは人差し指でテーブルを指した。
太盛はテーブルに置かれたブルーのスマホを手に取る。

エリカが太盛のために買ってくれた新しいスマホだった。
もちろんエリカと連絡するための物だ。
他の人の情報は何も入っていない。

モンゴルで買ったのだろう。
キリル文字表記になっていないか確認すると
日本語だったので安心した。

「それでは」

エリカがいなくなった。

殺伐としていたテントは嘘のように静かになった。

太盛は安堵のため息を吐く。

「お父様が止めなかったら、私があの女を刺し殺していたと思うわ。
 私、これでも力はあるほうよ。放牧で鍛えられているもの。
 あいつと暮らすなら死んだほうがまし。娘に夫を取られたのは
 自分に魅力がないからじゃない。どうして認めないのかしら。あの小姑」

「あんな奴のことは忘れよう」

「やっぱり殴り返してやればよかった。
 まだほっぺたがひりひりする」

太盛が急いで濡れタオルをマリンの頬に当ててあげた

「どうか落ち着いて。今はパパと2人っきりだろ?」

「でも許せない!!」

太盛がひるむほどの大声だった。
彼はかわいそうな娘にかけてあげる言葉が見つからなかった。

マリンも父の前で取り乱す自分のことがはしたないとは
自覚していた。モンゴル来てから不便な生活を
続けて彼女も相当なストレスを抱えていた。

ずっと押し殺していた感情が今表に出たのだ。

「お父様が最初からマリンのそばを離れなければよかったのよ」

母の高慢さは今に始まったことではない。母を嫌って
愛人と家を飛び出した父。マリンには一つも話してくれなかった。
太盛のやっていることはただの現実逃避。身勝手が過ぎた。

太盛が何も告げずに家を出たのは、マリンの身を案じてのこと。
太盛とユーリはつかまれば拷問されることは覚悟していた。
だからもしもの場合のために青酸カリ入りの小型カプセルを
持ち歩いていた。

ナチスの高官たちが戦時中に使用したものだ。

「パパはバカだったよ。マリンがこんなに立派に成長していることを
 知らなかった。ちょっと前までは子供だと思っていたけど、
 今ではモンゴルでしっかりと生きていける力を持っている」

太盛はマリンの涙で濡れた顔をハンカチでふいた。

「マリンはパパの大切なパートナーだ。いてくれないと困る。
 パパはマリンなしだと生きられないと思う。
 こんな世界に来ても俺の娘はマリンだけだ」

頬にキスした。マリンが口にしてほしいと
言うのでその通りにした。幼稚園の頃は
お出かけするたびにキスしてあげたものだ。

マリンは父の首の後ろに手を回し、
コアラのように抱き着いた。

「お父様の匂い、好き。安心する」

普通は近親者の匂いは遺伝的に避けるものだが、
マリンにはそういう様子は全くなかった。
まさしく小さな恋人と言う表現がぴったりである。

マリンにとって双子の姉が邪魔することもなく父を
独占できるので都合がいい。独占欲が満たされる。

エリカがいなくなって安心したためか、太盛は急な睡魔に襲われる。
マリンはもっと相手をしてほしかったが、気持ちよさそうに
眠る父を起こす気にはなれなかった。

父の体温を感じながら一緒にベッドで丸くなった。

2人は夕飯を食べずにそのまま寝てしまった。

母と娘の修羅場 (モンゴルにて) 


次の日は大雨だった。

食料は十分に買い込んであるので特にすることがない。
小屋でゆっくり過ごすことにした。

マリンは町で買ってきたファッション雑誌を読んでいた。
外国人向けに英語で書かれている。マリンの語学力なら
すらすら読めてしまう。分からない単語はスマホで調べた。

「写真以外何もわからん」

太盛はモンゴルの動物写真集とにらめっこしていた。

これも昨日買ったのだ。説明文は全てモンゴルのキリル文字。
余談だが、キリル文字はもともとロシア語で使われている。
ソ連併合自体にモンゴル国で制定されたのだ。

2人は心地よい無言のまま時間を過ごした。
屋根を叩く雨音が音楽代わりになっている。

太盛は2時間おきにストーブに薪を入れるのを忘れなかった。
ぱちぱちと薪の燃える音が心地よい。

「そろそろお昼ですね。お腹はすいてますか?」

「まったく動いてないから、あんまり。ん?」

太盛の携帯が大音量で鳴っている。
ご丁寧に着信音量を最大音量にしてくれたのだ。

「エリカからだ」

「ババアから!?」

「とりあえず出てみるか」

「必要ありませんわ!! どうせいつものように
 くだらないたわごとを言ってくるだけです!!」

「ゲルを設置するとか言っていたじゃないか」

「あの女のいうゲルは、きっと収容所のことですわ!!」

「うーん、否定できないのがつらいよ」

「貸して」

マリンがスマホを奪い、電源を落としてしまう。

「マリン。気持ちは分かるけどやりすぎだろ」

「どうしてですか? お父様はあのババアと
 話したいことがあるのですか?」

「あれでも一応家族だしな。
 モンゴルで生きていくのに仲間は多いほうが…」

「何よその言い方? 昨日はマリンさえいれば何も
 いらないって言ってたじゃない」

太盛は昨日寝る前にエリカと久しぶりに肌を重ねあったことを
思い出していた。彼もストレスの限界だった時だ。

一時的とはいえエリカが体の欲望を発散させてくれた事
をうれしく思っていた。

夫婦とは不思議なものだ。長い間離れ離れになっていても、
ふとしたきっかけで寄りが戻ることがある。
太盛は新婚時代の懐かしい思い出に浸っていた。

マリンとは違い、太盛はエリカに消えてほしいとまでは
思っていなかった。。

「お父様の嘘つき!! 私がこんなにお父様のために尽くしているのに、
 結局他の女を取るのね!! 私に言ってくれた事は全部嘘なんだ!!」

同じセリフを、太盛はエリカから何度も聞かされたことがある。
新婚間もないころ、エリカはよくヒステリーを起こした。
あの時は太盛に非があった。

何気なく会社の新人歓迎会で同年代の女の子たちと
連絡先を交換したのが発覚したのである。

「ひどい!!」

マリンは悲痛な叫びをあげた。

「私がどんな思いでモンゴルに来たのか知らないのでしょう!?
 知らないからそんなことが言えるのよ!!」

「ご、ごめんね。マリンを怒らせるつもりはなかったんだ。
 パパはね。本当は家族みんなで仲良く暮らせれば
 いいと思っているんだ」

「私たちを捨ててユーリと逃げたくせに!!」

ぐさりと太盛の胸を突き刺した。まさに返す言葉がない。

このままでは、日を増すごとにマリンのヒステリーが
悪化していきそうだった。太盛は苦し紛れにマリンを抱きしめるが、

「いや!! そんなので騙されない」

「どうすれば許してくれんだ?」

「ババアのアドレスを消して。今すぐに」

太盛は従った。だがマリンはそれだけでは飽き足らなかった。
スマホを操作し、自分の連絡先を入れる。

「今日から私専用の携帯にして。
 他の人からの連絡は出なくていいから」

「お、おい。レナやカリンとも連絡しちゃいけないのか?」

「ここで生きていくのに必要ありませんわ」

「血を分けた姉妹にまでそんな言い方…」

「はい?」

マリンにひとにらみされると、太盛は反射的に謝ってしまう。

マリンは自分でも不思議なくらいイライラしていた。
胸の奥がムカムカして、とにかく怒鳴り散らしたくなる。

その怒りのすべてを目の前の父にぶつけることにした。

「もう!! お父様の馬鹿!! 
 あまり私を怒らせないでほしいものだわ!!」

ミステリ小説の文庫を壁に投げる。

普段はおしとやかで声を荒げることのない娘だ。
連日怒鳴ったので声が枯れかかっている。

マリンはペットボトルの水を一気に飲んだ。
蒙古語でゴビ・アルタイの天然水と書かれている。

興奮状態だったマリンが少し落ち着いてきた。
熱しやすき冷めやすいところがますます母に似てきた。

太盛はこの旅で何度もマリンとエリカの相違点に気づいたが、
マリンが激怒するのが怖くて口には出せない。

「少し騒ぎすぎました」

「俺は全然気にしてないよ?
 全部俺が悪いんだからさ」

マリンが黙り込んでしまう。
沈んだ顔をしていて、今にも泣きだしそうだ。

太盛は大いにあせった。

最近、娘の考えが読めない。
小型版のエリカを見ている気にもなる。

エリカのソ連系の血が恐ろしい感情を
作り出しているのかと思うとぞっとした。

マリンそんな父の思いなど知らず、
乾いたタオルで顔をふいた。
泣きはらした目は充血している。

「マリン。パパを許してほしい」

「うん」

正座した父の上にまたかがった。

「許す。今回だけだからね」

「ありがとう…マリン」

マリンからキスしてきた。父の頭を自分の方に寄せて、
恋人のようなキスをする。太盛はマリンが本気で
妻から自分を奪おうとしていることに恐怖を感じていた。

女の子は成長過程で父へ独占的な愛情を求めようと
する時期が誰にもあるといわれるが、それにしても異常だ。

「お父様。私と目を合わせて」

乱れた前髪の隙間から、二つの瞳がせつなそうに自分を見つめていた。
太盛は娘の色っぽい目つきにドクンと心臓が波打った。
この娘には小学生とは思えないほど大人びたところがある。

体もまだまだ未発達。成熟したエリカの体と比べるべくもない。

愛しいユーリはここにはいない。
エリカとの過ちに近い一晩の思い出。

太盛の男の部分は、本能で妻に相手にしてほしいと思っていた。
これは嫌悪とは別次元の男の欲求だ。

妻以外に自分の欲を満たす者はいない。そう思っていたが

「胸、少し成長してる?」

「はい」

太盛はまったく自然にマリンのわずかな胸のふくらみに手を伸ばした。
マリンは抵抗しない。まだブラジャーもつけていないそこは、
服の上からしっかりと確認できる。

「少し大きくなったんだね」

「はい。クラスの女の子より大きいと思います」

冗談のつもりで言ったのに、まじめに返してくれる。

太盛は妻に幼女趣味と罵倒されたことを
思い出して恥ずかしくなった。

「どうしたの? 触りたいならもっと触っていいよ」

可愛い声でささやかれたものだから、
マリンをベッドに押し倒してしまった。

マリンは襲われることに恐怖を感じたが、一瞬だけだった。
あとは目を閉じて、父のされるがままになるつもりだった。

マリンは何も言わず、されるがままだ。
だから一番危ない。

理性が、警告を鳴らしていた。この子は自分の娘だ。
これ以上進んだら戻れない関係になる。
それでも太盛の手は止まらない。

上も脱がして体をよく観察したくなった。
セーターをまくろうとした時。
小屋の中に寒風が入り込んでいることに気づく。

入り口は開けられていた。

怒りと悲しみで発狂寸前になっているエリカが立っている。
太盛と連絡がつかなかったので会いに来たのだ。

「なにを、しているのよ。あなたたちはぁ!!」

太盛は次々に飛んでくるものを避けるのが大変だった。
エリカは夢中で近くになるものを投げて来た。

「あなた達、早く離れなさい!! ほら早く!!

「分かった!! 分かったからやめろ!!
 小屋が壊れちまうよ!!」

太盛はベッドから飛び降り、布団をかぶって丸くなった。
妻の怒りが収まるまでやり過ごすことにしたのだ。

「変態!! ロリコン!! 最低!! 自分の娘に手を出すなんて
 どうかしてるわ!! あの色目使うクソメイドと逃げ出したのは
 これが目的だったわけ!!」

「いっ、いた。今、時計が肩に当たったぞ」

「やっぱり私が管理しないとだめね!!
 私がそばにいないと悪いことばかりするんだもの!!
 携帯チェックされるのも全部あなたのせいなのよ!!
 自分の夫が性犯罪者だと世間に知られたら
 生きていけないわ!!」

エリカは半裸のマリンには見向きもしない。
太盛の布団をはぎとって、腕を強く握った。

「西の町にテントを用意したわ。あそこはミサイルが
 飛んでこない場所だから安心して暮らせるわ。
 だからほら!! 早く支度して!! 早くしなさい!!」

「そんな急に言われても困るよ。
 この小屋でも生活はできているじゃないか。
 まずは3人で今後のことを話し合おうよ」

「そんな時間はないわ!! どのみちこの集落で暮らすのは
 不便でしょ!! 文句言ってないで私の言うことに従えばいいの!!」

「日本に帰らなくていいのか!!」

「ええ。帰りたくて仕方ないわ。
 でもね。私は夫婦の寄りを戻してから帰ることに決めたのよ。
 ここは来たのは単なる旅行。夫婦旅行よ。
 まずはあなたの変態を治してから帰ることにするわ!!」

エリカは太盛の胸ぐらをつかんで強引に連れ出そうとした。
まるで男と変わらない乱暴さである。

黙って見ているのが限界だったのはマリンだ。
服をしっかり来てから母を凶暴な目でにらむ。

「彼に触れないで。クソババア」

「は?」

「彼から手を離せ」

エリカは突進してきたマリンを軽くかわした。
お返しにマリンの髪をむしるように掴み、往復ビンタを食らわせる。
マリンは毛根が抜けるように痛く、悲鳴を上げた。

「いたいっ」

エリカのビンタは止まらない。頬が真っ赤に染まるまで
乾いた音が響いた。母は鬼の形相で我を失っている。

完全に虐待である。
ビンタがすむと、エリカはマリンのお腹を蹴飛ばした。
マリンはベッドの角に腰をぶつけ、痛そうにしている。

「マリンを殴るくらいなら俺を殴れ!!」

「誤解ですわ。私がしているのはしつけです」

エリカはうずくまるマリンの横腹をさらに蹴った。
マリンが悲鳴を上げるとうれしそうに笑うのだった。

「おい、まだやるのか!! 
 マリンの体に傷が残ったらどうするつもりだ!!」

「私は気にしないな。
 こんな子、うちの子じゃないもの」

「おまえは!!」

「うるさい!!」

太盛の怒声はエリカにさえぎられた。

「だまれ、だまれ!! もう何も聞きたくないわ!!
 今回はマリンが誘惑したってことで終わらせてあげる!!
 ただし、あなたにはたっぷり反省してもらう!!」

エリカは拳銃を取り出し、太盛のひたいに押し付けた。

「太盛君? しばらく私と一緒にモンゴルで暮らしましょうか。
 まずはこの小屋から出ましょう? 簡単でしょ?
 まさか嫌だとは言わないわよね?」

ゲルの中でユーリ達を脅した時とまったく同じ展開になった。
太盛は、まさかエリカが自分を殺すつもりはないだろうと
高をくくっていた。だがエリカは正気ではない。

何かのはずみでエリカが引き金を引いてしまえば
太盛は終わる。セーフティが外れているのだ。

銃を向けられると、どんな勇敢な兵隊でも
縮こまるというが、全くその通りだと思った。
自分の命が相手の指先一本に握られているのだ。

「死ぬのはあんただよ」

イスの角で頭を強打したエリカ。
振り回したのはマリンだ。

小学生とはいえ、蒙古生活で
鍛えられた腕力でのフルスイングだ。

エリカは脳しんとうを起こして床でぐったりした。
黒髪の隙間から血がこぼれて床に染みを作る。

マリンが包丁を持ってとどめを刺そうとしていた。
太盛は真っ青になって娘の手を握った。

「あんな奴でもお前の母親なんだぞ!!
 お腹を痛めて生んだ人をおまえは殺すつもりなのか!!」

「知ったことではありませんわ。
 そこをどいてください。
 こいつが消えればすべて解決します」

「人を殺したって何も解決しない!!
 いつか必ず後悔する日が来るぞ!!」

「砂漠地帯には警察はいませんわ。こんな廃墟で
 人が死んだって誰も気にしませんわ。
 ミサイルが雨のように降ってくる国で法も治安も
 関係ありません」

「だめだマリン!! あいつを
 殺したらおまえを一生許さないぞ!!」

エリカは手で出血した箇所を押さえながら、
マリンを殺す計画を立てていた。

もう絶対にマリンを許すつもりはなかった。
ベッドのシーツを引き裂き、マリンの
首を絞めるためのロープ代わりにした。

エリカは今にもマリンに襲い掛かろうとしていた。
体重も身長もエリカの方が上。マウントを取れば、
確実に窒息死させられる。

「太盛様。そこのクソガキから包丁を取り上げて
 くださらない?」

「だ、ダメに決まってるだろう!! 何考えてる!!」

一方のマリンは包丁を逆手に持ち、エリカの首を
切り裂いてやろうと考えていた。一気に飛び掛かれば、
どこを斬っても致命傷を負わせることができる。

最悪の修羅場だった。もう戻れないところまで来ている。
誰かが死なないと事態は解決しない。

「待て!! 2人とも止まれ!!」

太盛は自分の首筋にナイフを突きつけて叫んだ。

「お前たちがこれ以上争うつもりなら、まず俺が死ぬ!!」

思わず言葉を失った母と娘。

むなしい時が流れた。

エリカは耐え切れなくなって笑った。
太盛の必至な様子があまりにもおかしかったのだ。

「あははは。あははははははっ」

彼女らしくなく、口を大きく開けて笑っている。
こういうはしたない笑い方をエリカは嫌っていた。
それだけ面白かったということだ。

「また死にたがりの太盛君ジョーク?
 太盛君は都合の悪いことがあるとすぐ
 死にたくなるんだから。もうおかしくて。あははは」

「な、なんだよ。そんなに笑うことないだろ」

腹を押さえ、笑い続けるエリカ。
マリンはすっかり毒気を抜かれてしまった。

「いいわ。今は許してあげる」

エリカは太盛から果物ナイフを取り上げた。
その辺に投げ捨てる。引き裂いたシーツはもう手に持っていない。

太盛は包帯があったのでエリカの顔に巻いてあげた。

あくまで応急処置だ。消毒をしていないので
きちんと医者に見せたほうが良かった。

「マリンも凶器を捨てなさい」

穏やかに言われたのでマリンは従った。
エリカをきっとにらんでから、太盛の腕にしがみついた。
大胆すぎる行為だが、エリカはとりあえず見逃した。

「エリカ。さっきのテントの件だが」

「ここから少し西に進むと町があるのよ。
 その郊外にはたくさん村があってね。
 その近くにゲルを立てたの。
 家族が5人いても住めるほど大きめのゲルよ」

エリカは余裕のある笑顔で続ける。

「ここで3人暮らすのは無理よ。
 気分転換も兼ねて引っ越しましょう」

「まあ確かにここはミサイルの落ちた現場だからな。
 俺の怪我が治るまでの療養機関も過ぎたし」

「それでは」

「いいよ。おまえと一緒に行くよ」

エリカは両手を合わせ、花のように微笑んだ。
マリンがうつむいて下唇を噛んでいるのにおかまいなしだ。

「マリンもそれでいいな?」

「また殺し合いになると思うけど、
 お父様がそれでよろしければ」

「その時はその時ねぇ」

エリカが高圧的に言った。
マリンは腹が立って言い返そうとし、大きく息を吸う。

「待て待て。今はとりあえず停戦だ。
 今夜はここに泊まり、明日の朝に出発するぞ」

マリンは父を連れてホテルで泊まりたかった。
だが太盛にその気がなさそうなので黙っていた。

エリカは少し浮かれていた。夫が自分との関係を
戻そうとしていることが分かったのだ。大きな報酬である。

「なあ」

太盛が先ほどから感じていた違和感。
最初は耳鳴りの一種かと思っていた。

「さっきから変な音が聞こえないか?」

鈍い機械音が空気を裂いている。

太盛とエリカが外に出る。そして驚愕した。
なんと故障したヘリコプターがつっこんできた。

黒煙を上げたヘリは完全に制御不能だ。
プロペラが壊れているのか、ヘリ本体が
ぐるぐると回転し、小屋に落下してくる。

ライトは点灯したままだ。
サーチライトのように漆黒の草原を忙しく照らしていた。

「マリン、外に出なさい!!」

マリンの腕を引っ張り、数メートル走った。
エリカも一緒に地面に伏せた。

轟音が鳴り、ヘリコプターが小屋を破壊した。
何度か爆発し、ヘリは勢いよく燃え上がる。
もくもくと煙があがっていた。

「あ」

マリンは折れたプロペラの一部が転がっているのを見た。
エンジンに引火してさらに爆発するヘリ。
小屋を焼き尽くそうとしていた。

「まるで巨大なたき火ねえ」

エリカが能天気に言う。

「そんなこと言ってる場合かよ」

「心配いらないわ。そこに車が用意してあるでしょ?」

また驚いた。寒冷地用の装甲車が小屋の外にあった。

装甲車とは、当たり前だが敵弾を防ぐために
防御力を高めた車である。

本来なら軍で使われるものである。

「今日は小屋までこれを運転してきたわ。
 もっともあなた達は別のことに夢中で
 気づかなかったのでしょうけど」

いったい、どこで手に入れたのか。

そもそも民間人が手に入る物なのか。

つっこみどころは山ほどある。

「今夜は街で泊まりしょうか。
 夜が明けたらこれに乗って出発しましょう」

泊まる場所が燃えてしまったのだから仕方なかった。

なぜヘリが突っ込んできたのか。彼らに理由は分からない。
ヘリは無人だったのか、人の焼死体が見つかることはなかった。

ここはモンゴルだ。太盛達は今さらミサイルやヘリが
降ってきてもどうでもよくなった。

3人はゾーンモドのホテルに行った。
マリンとエリカは、わざわざ別々の部屋をとって寝た。

太盛は2人と争うのが嫌なので自分用の部屋を取った。
つまり全員が違う部屋で寝たのだ。

夜明け前。スマホの目覚ましで起きたエリカ。
窓を開けると肌を斬るような寒さに震える。

太盛とマリンを起こしに行き、さらなる旅を続けるのだった。

マリンは車の中で戦争の歴史を聞いた

「まだ着かないのか?」

「あと少しですわ」

午前中だけでこのやり取りを10回は繰り返していた。

運転席に座るのはエリカ。途中で疲れたら変わると
太盛に言われたのに遠慮していた。
彼女は精神的にタフで長時間の運転に根をあげなかった。

草原を直線状に伸びる道路。
道路のわきに等間隔で電柱がある。

他は自然のみ。右手に標高の低い山々を見ながら、
ひたすら西の方角へ走り続ける装甲車。

乗り心地は良くない。日本の乗用車と違って揺れが激しく、
酔いそうになる。座席シートも岩のように堅い。
軍用なのでマニュアルギアである。

太盛はどこの国の装甲車なのか気になるが、
すぐに聞いても仕方ないことかと思った。

蒙古の雄大な自然の中にいると
細かいことはどうでもよくなる。

(お父様。また考え事をしている)

マリンは父と一緒に後部座席に座っていた。
エリカは太盛が助手席に乗るよう誘ったが、
マリンがわがままを言ったので結局は折れた。

「これだけ走っても誰ともすれ違いませんね。
 モンゴルの壮大さはすごいです。
 最後に車が走っているのを見たのは
 もう一時間も前ですよ」

「ああ」

また、そっけない返事。

太盛は自分の世界に没頭している。
彼の視線は窓の外の空だけを見ていた。

空に大きな雲のかたまりが流れている。
今日の予報は曇りのち雨だ。

暖房がきいている車内と違い、
外の冷え込みは半端ではない。

暦は10月の末。日本の関東なら真冬並みの冷え込みである。
11月を超えれば氷点下を下回るのが当たり前になる。

太盛は曇り空のせいか、憂鬱な気分になっていた。
頭に浮かぶのはユーリのことばかり

彼女と草原の国で暮らしたこと。話したこと。怒ったこと。
全て覚えている。エリカに言われたように、ユーリが自分の
言うことをなんでも聞いてくれるから
都合の良い存在だったのかもしれない。

離れて分かることはたくさんある。
気配り上手で優しかった彼女。

屋敷時代は毎日顔を合わせていた。
この蒙古では、あの雲の先に
消えてしまったかのよう。

会いたくて仕方がない。
死体すら見つけることができなかった。

何か彼女と再会できる方法があれば、
なんでもしたいと思っていた。

「お父様?」

やはり反応はない。

マリンは父が物思いにふけっている顔が
好きではなかった。彼が失われた愛人のことを
思っているのが手に取るように分かるからだ。

「草原は!!」

マリンは胸の奥から怒りがわきあがり、声を荒げる。

「どこまで進んでも同じ景色ばかりですわ。
 テレビでやっていたシベリア鉄道の旅を思い出しました。
 なんて美しい景色なのでしょうね?」

太盛はしばらく娘の顔を眺めてから、何気なく大地を見る。

そして 「ああ」 とだけ言った。

そっけないのを通り越して無礼である。
彼は魂の抜けてしまったガラクタであった。

マリンは息を大きく吸ってから歯を食いしばる。

「こういう牧歌的な雰囲気を感じながら作曲したら、
 きっと素敵な作品ができあがるわ。ねえお父様。
 私がピアノの新しい曲を作ったら聴いてくれますか?」

「うん」

「次はいつピアノが弾けるのかしら。楽しみですね?」

「そうだね」

太盛はそれで会話を終わりにしようとした。

マリンはそれが無性にくやしくて、
なんとか父の興味のある話題を見つけようとする。

「お父様がそんなに気を落としていたら、
 こちらまで暗くなりますわ。
 今のお父様には、さわやかな曲より
 ショパンのノクターンのほうがお似合いかしら?」

「ショパン?」

しまったとマリンが言いたくなったが、
口から出た言葉は戻すことができない。

ノクターンは日本語で夜想曲。夜を想う曲と書く。
優美で甘美で感傷的な旋律を歌う。難易度の高い曲である。

ユーリの得意な曲だった。ユーリは中学2年の頃に
ショパンの曲をほとんどマスターしたほどの腕前だった。

太盛は、自宅の高級オーディオでどんな
一流ピアニストの録音を聴くよりも
ユーリのピアノが好きだった。

ピアニストとして数々の傑作を残したショパン。
彼もまた、故郷のポーランドを戦争によって
破壊された哀しみを秘めていた。

ポーランドの敵国は第一にロシアである。
ポーランドは長い間ロシア帝国に併合されていた。

民族としての誇りをすべて奪われたのだ。
その屈辱の歴史は言葉では語ることができないほどだ。

太盛もソビエト気質のエリカによって
ユーリを奪われたに等しい。
彼はどこまでもショパンと心を同じにしたのであった。

「ところでお父様。昔モンゴルはソ連に
 占領されていたのですか?」

「ん?」

太盛が食いついた。

「ウランバトルに戦争勝利の記念碑がありました。
 でっかい銅像とか、戦車の実物とか。
 英語で対独戦勝記念と書かれていましたわ。
 モンゴル人もソ連軍と一緒に戦っていたのですね」

「へえ。君はそんなところまで見ていたのか。勉強熱心だね」

「後学のためですわ。せっかくモンゴルに来たのですから、
 歴史博物館はぜひ訪れてみたいなと思っていました」

太盛はうれしくなり、得意げになって歴史の話を始めた。

マリンは初めから父の好きな歴史の話をしておけば
良かったと思いつつ、熱心に父の言葉に耳を傾けた。

こういう時の父の話は長いが、そっけなくされるよりましだ。

慣れない装甲車を運転中のエリカも
ミラー越しに太盛の話をちらちら見ていた。

「ソ連が崩壊するまでモンゴルは占領されていたよ。
 蒙古人民共和国と言って、ソ連を構成する共和国の一つだったんだ。
 昔ノモンハン事件というのがあってね。モンゴルと満州国に
 近いハルハ川周辺で日ソの戦争があったんだ」

「日本はソ連と戦っていたのですか」

「ああ」

「どちらが勝ったのですか?
 やはり国土の大きいソ連ですか?」

「引き分けだよ」

太盛はまくし立てるように言った。

「最初は日本陸軍が押していて、ソ連はかなり追い詰められた。
 しかしジューコフ将軍という名将が欧州ロシアからやってきてね、
 シベリア鉄道を経由する長大な補給船を作り上げ、前線に
 巨大な機甲部隊を展開した。日本側には満足な戦車や装甲車はなかった。
 つまり機甲戦力で圧倒的に劣勢だったんだ」

専門的すぎて賢(さか)しいマリンでもさすがに分からなかった。

「つまりソ連の方が上手に戦車や大砲を用意できたの。
 人より鉄が多いほうが戦争は強いのよ。
 人間はしょせん生身だから」

エリカに補足説明されるとマリンは面白くなかった。

しかしエリカの方が父より説明がうまいのは良く知っていたので
教科書代わりと割り切って質問を続ける。

「日本は戦車の数で負けたのにどうやって引き分けたのですか?」

「ソ連は日本だけと戦っているわけではないのよ。
 アジア方面とは逆に、欧州側でドイツとの戦争がはじまりそうだったから、
 日本にばかりかまっていられなかったのよ。ソ連側が日本側に
 かなり有利になるように手を引いてあげたの」

やろうと思えば日本の貧弱な前線部隊なんて蹂躙(じゅうりん)できたん
だけどね、とエリカは短く付け加えた。

「ドイツはソ連の敵だったのですか?
 そういえば、ウランバトルの
 博物館にあった対独戦勝記念の独という文字は」

「ええ。ドイツという意味よ」

ハンドルを握る手に力がこもった。

長大な道路は信号待ちがないのでギアチャンジが必要ない。
装甲車の名前通り、重機関銃の連射さえはじくほどの
装甲で覆われている。

なぜ装甲車なのかと太盛が聞いた時、外敵の攻撃に備えるためだと
エリカに説明された。太盛は納得し、それ以上何も聞かないことにした。

「お父様。今回の話は説明文が多いので、読み飛ばしてもいいですか?」

「お父様。歴史の話は難しいですね」

「はは。こういう専門的な内容は小学生が覚える内容じゃないからね。
 ソ連と日本は敵だった。でもドイツは味方だったと覚えておけばいい。
 ソ連は最低な国だよ。ロシア人の持つ潜在的な野蛮さが
 ソビエトというおかしな実験国家を作り上げたのさ。
 あんなクズどもと俺たちは絶対に分かり合えない」

太盛は偏見のかたまりだった。特定の人種や国を悪く言うのは
子供の教育者としてはふさわしくない物言いだ。マリンはパパっ子だから
父が嫌いなものは同じく嫌いになってしまうから危険である。

ソ連人を祖先にもつエリカはこれ以上ないほど不愉快になった。

「ナチのブタと手を組んだ日本もなかなかのクズだと思いますけど?」

「いやいや。ソ連には負けるよ。崩壊するまでの70年間で
 粛清した自国民の数が1億を超えるような国なんてまず見当たらないな」

「太平洋戦争の時の日本は、大きく分けて六つの収容所を国内に
 作りました。そこに収容されていた外国人は、米、英、蘭、豪、NZ、
 など数え切れないほどの敵国の軍人でしたね。占領した太平洋の島々にも
 無数の収容所を作って少なくとも20以上の民族を抑圧しました」

「そっちは併合した数々の共和国の人を殺したり奴隷にしたから
  同じことじゃないか。ロシアに国境を面したほとんどの国が
  ソ連に併合されたろうが。たしか20か国くらいあったよな?」

「日本とドイツは今でも国連の敵国条約に入っていますわ。
  近代史で地球規模の侵略戦争をしたのは日本とドイツだけです。
 国際連合は日本とドイツを倒すためにできた組織なのをお忘れですか?」

「戦後はソ連の方が悪じゃないか。あんなに核ミサイルを作って、
 一歩間違えれば米ソ核戦争にまで発展していたんだぞ。 
 地球全土を破壊するつもりか」

「米国はトルコというソ連の喉元にミサイル基地を
 作っていたのですから、自衛のためにミサイルを
 作るのは当たり前ですわ」

「そう、それだ。ソ連人お得意の過剰防衛。常に周りが
 敵国に囲まれていると思っているんだろう? 
 自分の国を守るために軍拡し、それでもまだ足りないと思う。
 戦力が増えすぎたら武器を売り払うか、どこかの国を侵略するのに使う。
 臆病なくせに卑怯者なんだよ。おまえらはさ」

「日中戦争のように進んで侵略をする好戦的な国の人に言われたく
 ありませんわ。中部太平洋からインド洋、豪州まで攻撃の範囲を広げる
 日本人の攻撃精神には呆れます。ほんとドイツと考えが同じ。
 ファシズム諸国は全人類共通の敵ですわ」

「大昔の話さ。今は平和を愛する国になったぞ。
 今現在世界の悪者になっているのは中国のほうじゃないか。 
 あと北朝鮮な。時代と共に国も変わっていくものだ」

マリンは両親のつまらない言い争いを真剣に聞いていた。

中立の立場の彼女には、どちらの国も気が
狂っているとしか思えなかった。

どちらが悪と言うわけではなく、両方とも悪なのだ。
だからこんな話し合いに決着がつくわけがない。

「エリカはやっぱりソ連人の遺伝子を持っているな。
 カフカース・ソビエトもドイツ軍に侵略されたのか?
 だから国際スポーツ中継でドイツの選手が出るたびに
 舌打ちするんだろう?」

カフカースとは、北アジアの山岳地帯であり、ソ連を構成する
基本構成国、四か国の内の一国である。

建国当初のソビエト社会主義共和国連邦は、ロシア、ウクライナ、
ベラルーシ、カフカースから成った。表向きには人種や国籍を
廃し、社会主義の理想の元に統合された諸民族の集合体である。

つまりエリカの祖先は完全なるソビエト連邦の人間なのである。

ソ連閣僚のスターリンやラブレンチー・ベリヤなどの大物は、
カフカース地方のグルジアという国の出身であり、ロシア人ではない。

「だって、ドイツ人は性根がクズじゃないですか」

エリカはいつもドイツの悪口を言う。

彼女のドイツ嫌いは屋敷でも有名だった。

太盛が新婚旅行の候補の一つに
バイエルン(ドイツ)をあげた時は
真っ向から反対された。

彼女は第二次大戦によって祖父の生まれた国が
ドイツに壊滅的な打撃を受けたことをまだ根に持っていたのだ。

対独戦の結果、ソビエトの結婚適齢期の男性の
70パーセントが戦死したという。
ソビエトの全死傷者数は少なくとも2000万以上といわれる。

「私は日本で育ったけど。周りに染められなかったのよ。
 なんていうか、この島国の人たちは自分とは違う。
 根本的に何かが違う。私はあなたみたいに簡単に
 人を信用したり、親切したりできない」

「ほんとに異邦人なんだな。おまえはおじいさんの生まれ
 変わりだよ。おじいさんは内務人民委員の人か?」

「そうよ。日本では内務省に近い組織かしらね」

「今のKGBのことだよな?」

「ええ」

「ちなみにウラジーミル・プーチン氏もKGBの出身だな。
 若い時は東ドイツでスパイをやっていたらしい」

「ええっ、ロシアは大統領までスパイだったのですか!?」

「そうだよマリン。絶対にロシアを信用しちゃいけないよ。
 米国大統領選にもロシアの内務省が
 裏工作をしたくらいなんだ」

内務人民委員部はエジョフ、ベリヤと長官の名が変わり、
膨大な数の反革命容疑者を摘発した組織だ。

逮捕、尋問、拷問は日常茶飯事。
銃殺刑にならなかった者は、
次々に北極圏などの強制収容所に送られた。

さらに余談になるが、太平洋戦争開戦前に
最後通牒(ハルノート)を書いたハリー・ホワイトは
ソ連のスパイである。

マリンが身を乗り出して聞いた。

「その内務人民委員の人は、モンゴルを占領した時に
 モンゴルの人も殺したのではないですか?」

「するどいわねぇ。その通りよ」

「聞きたくないけど、モンゴル人はどれだけ殺されたのですか?」

「公式資料では3万7千だったかしら? 
 1930年代後半にそれくらい殺されたわ」

「なぜ殺すのですか? 
 モンゴルの人たちが反乱でもしたのですか?」

「疑いがあったのよ」

「疑い?」

「日本のスパイ」

「どういうことですか?」

「ソ連の軍隊の人たちの中の、疑わしい人を一斉に殺すキャンペーンが
 あってね。まあイベントみたいなものよ。その時にスターリンという
 お偉い方が、第二次世界大戦が始まる前に怪しそうな人を全部
 取り締まって裁判にかけることにしたの」

「怪しそうな人? それは無実の人も含まれていたのではないですか?」

「というか、9割無実だったでしょうね。
 たくさんの軍人が日本のスパイと証言して銃殺刑になったわ」

「どうしてそんな証言をしたのですか。
 そんなこと言ったら殺されるに決まってるじゃないですか」

「簡単なことよ。そう供述させるために拷問したのよ。
 焼きごてを胸に押し当てたり、歯が全部折れるまでハンマーで
 顔を殴ったりとかね。うふふ。怪しき者には容赦ないのが
 ボリシェビキなのよ」

「く、狂ってるわ。そのボリシェビキとはなんですか?
 人種の名前ですか?」

「主義主張のことで、ロシア語で少数派を意味するわ。
 ロシア革命の時にマルクス・レーニン主義を
支持した者たちのことよ」

そんな説明で分かるわけがないと太盛がつっこみたくなった。

「なるほど。ようするに母様のように頭が
 おかしくなった人たちのことですね」

太盛は声を出して笑った。

エリカは後部席を振り返り、鋭い視線を娘に向ける。
エリカは無言。さすがに車内が殺伐としてきたので。
太盛がなだめることにした。

「エリカを擁護するとしたら、ロシア人が
 おかしくなった原因はモンゴル帝国にある」

「え?」

「タタールのくびき。歴史用語だよ。独立する前のロシアは
 200年近くモンゴルに支配された。血の殺戮が日夜振るわれ、
 服従を強いられたロシア人は遺伝的に蒙古的な残虐性を持つに至ったと
 主張する学者は少なくない。つまり、いじめっこのモンゴルがひどすぎて
 ロシアもまたいじめっこになってしまったのさ。おそろしく臆病だけどね」

「ロシア人にはモンゴル人の血が入っているということですか?」

「イギリスの学者が言っていたよ。ロシア人の顔つきは他の欧州白人とは
 明らかに異なるってね。ロマノフ王家の人らの顔つきを見てごらん。
 すごくモンゴルっぽいんだよ」

「では、母さまも遺伝的にモンゴル人ですね。
 母さまは故郷に帰ってこれてよかったではないですか」

太盛はまた声を出して笑った。
エリカは舌打ちした後、こう答える。

「なんとでもいいなさいな。歴史なんて後世の人間が
 時の権力者たちに都合よく書いていくものなのよ。
 それより太盛君は私にこの大陸に来てほしかったのかな?」

「どういう意味だ?」

「どうしてモンゴルを逃げ場所に選んだの?」

「正直に言うとな、おまえとの殺伐とした夫婦生活を考えるのに
 モンゴルに来てみたかったんだよ。エリカを知るための
 きっかけがここにあるのかなと」

「さっきの歴史の話、本当に信じてるの?
 一時の研究結果なんて後世の人に
 ほとんど否定されるものじゃない」

「俺は信じてるよ。だって信じたほうが楽しいじゃないか」

「そう」と言ってエリカはフロントガラス越しの景色を見続けた。

目的地のゴビ・アルタイ県まではまだまだ遠い。
途中にある町を何度か経由し、さらに西の方角へ進むのだった。

エリカがいったいどこまで走るつもりなのか、
太盛は聞く気がないので知らなかった。
今後どうなろうと興味がなかった。

無責任にもユーリを追って自殺する方法が
脳裏に浮かび始めていた。

大陸に来てユーリと過ごせた。それだけで十分だった。
今ユーリは少し遠いところまで行ってしまったのだろうが、
すぐに自分も後を追えばいい

また会える。きっと会える。それが救い。
クリスチャンの彼は魂の復活を信じていた。

国に置いていった家族のことはどうする?
使用人のみんなは? 今ここにいるマリンは?

理性が彼に警告した。

「それでもユーリがいない世界は
 俺のいるべき場所じゃない」

誰にも聞こえない声でつぶやき、太盛は寝たふりをした。
エリカは話をやめ、ひたすらに運転に集中することにした。
マリンは景色を見ながらこれからのことを考えた。

3人の異なる意思を乗せ、装甲車は大地を走り続ける。

① メイド少女のミウは手紙を書いていた

「あれからずっと音信不通……。
 太盛様はどうしているのかな」

世間では休日の昼下がり。ミウはこの上ないほど憂鬱だった。

ここは使用人部屋だ。ミウが寝泊まりする部屋である。
住み込みで働いている彼女にとって
唯一のプライベート空間であり、当然私物も置いてある。

屋敷の大きさは西洋の古城のごとく。
小高い丘の上に立っている。
明治初期によく見られた西洋かぶれで成り上がりの
雰囲気をたっぷりと漂わせている。

この家を建てたのは太盛の父である党首だ。
彼はこの家に住んでいない。
党首は東京の都心に住居を構えている。

屋敷は太盛とエリカに買い与えた。
家と土地の所有者は党首なのである。
つまり太盛とエリカは住ませてもらっているのだ。

「主がいないとこの屋敷は広すぎるよ……」

英国で生まれ育ったミウは長椅子に座るのを好んだ。
考え事をするときは今日のようにゆったりと腰かけ、
自分で紅茶を淹れて、クッキーやスコーンを食べる。

「ユーリにもマリン様にもぜんぜん連絡がつかない。
 奥様も電話に出てくれないし……」

深いため息をついた。

机の上に投げ出されるように置かれた手紙。
党首へ直談判するために書いたものだ。

ミウは、太盛に帰ってきてほしかった。
彼がいないと仕事に精が出ない。
それに親友のユーリの生死も不明だ。

屋敷からエリカを送り出した時、ユーリが捕まって
拷問されるくらいの想像はできていたが、
肝心のエリカと連絡がつかない。

現在一家は離散状態だ。使用人のミウの立場も相当危うくなる。

「神様……。あなたが私たちに与えた運命はあまりにも過酷すぎます」

まさに夜も眠れぬ日々が続いた。

相次ぐウランバトル周辺へのミサイルの着弾。

米国の機関は、ロシア領カムチャッカ半島から
発射されたミサイルだと報じたが、その情報は
すぐにかき消されてしまった。

世界の権力者たちにとって都合の悪い情報だったということだ。

ソ連時代からカムチャッカ半島には自動報復装置が
用意してある。これはNATO諸国から攻撃を
受けた際に自動で核ミサイルを一斉発射して反撃するものだ。

現在のロシアでも厳重に管理されているはずのその装置が、
何かの原因で暴走してしまったのだろうか。

ミウに詳細は分からない。

「今日は良いお天気よ。
 たまには外に出てみたらどう?」

カリンの言葉にミウは、はっとして顔を上げた。

「何してたの?」 

「ミサイルのことを調べていたんですよ」

「ミサイルなんて考えるのはやめましょう。
 どれだけ調べても分かるわけがないもの。
 国同士のことなんて私たちの考えることじゃないわ。
 家庭のことを考えたほうがよっぽどましよ」

カリンはこうしてハキハキとした口調で話す少女だった。
言い切ることが多く、あいまいな表現を嫌うタイプだった。
メガネをかけているから、外見上は内向的な少女に見える。

実際に読書家だが、外で活動するのも好きである。
ただし、レナのように友達同士で騒ぐのを嫌うタイプだった。

「おじいさまへの手紙はまだ書き終わってないのね」

「いざ書こうとすると、なかなか筆が進まないんですよね。
 下手なこと書いたら怒られそうで怖くて」

「思ったことを素直に書けばいいの。
 ミウはおじいさまのお気に入りなんだから
 心配しなくていいのよ。ミウの言うことなら
 おじいさまはなんでも聞いてくれるわよ」

手紙は党首への直談判である。

今後、自分はどうすればいいのか。ミウは毎日考えた。
料理人の後藤は、ただ時を待てばいいと言う。
仮に解雇される時が来るなら、雇用主の党首が知らせてくれること。

17歳の若いミウは、それでは納得できなかった。

ミウはロンドンの下町で生まれた。

両親は日本人なので外国人の血は入っていない。
家では母親と日本語で会話したので日本語は話せる。
父の転勤で中学が終わる頃に日本へ引っ越してきた。

中学3年の時に女子からいじめになったのがきっかけで
人間不信になった。日本人だが非常に整った顔立ちを
している彼女はよく目立ち、叩かれる対象だった。

別に何か特別なことをしたわけではない。
廊下を歩く。男子と話をする。授業で挙手する。
なにをしてもミウは注目される存在だった。

潜在的にアイドルとしての要素を持った人間なのだ。
こういう人は芸能界にスカウトされることが多いという。

洗練された英語を使いこなすだけでなく、
男子達からも非常に人気があったため、
女子からは逆にうとまれた。

クラスのリーダー格の女が、好きな男の子をミウに奪われたことを
きっかけに集団で無視されるようになり、ミウは耐え切れずに
先生に相談した。

教師が介入したところで解決するわけもなく、
人間関係はますます悪くなった。
それが卒業まで続き、失意のままに中学時代を終えた。

高校に入ってからも人と距離を置くようになった。
日本の文化で育った同級生たちとミウでは考え方が合わなかった。

次第に学校に行くこと自体が無意味と感じるようになり、
自らの意思で退学してしまった。親は反対したが、
ミウはどうしてもと自分の意見を押し切った。

この屋敷で使用人をするきっかけは、たまたま
インターネットで若いメイドを募集しているのを知ったからだ。
党首からは外国育ちで日本の文化に染まっていないことが
好まれ、すぐに採用された。

いわば党首に拾ってもらったのだ。

学生時代から母親の家事を手伝ったことがなかったから、
最初の半年はずっと修行の日々だった。広すぎる屋敷の
管理は10代の彼女には有り余るほどの仕事量だった。

慣れるまでユーリと執事長の鈴原に
つきっきりで指導してもらった。

一方で待遇は相当に満足できる内容だった。
住み込みなので住む場所は確保されている。
ユーリとシフトを組んで休みが調整できる。

給料は十分にもらえた。親元を離れてからも
お金の心配をすることがないほどに。

子供たちに勉強を教えたり、運動の相手をするのも
ミウは好きだった。カリンやレナ達にとって少し年上の
お姉さんといった感じで非常に仲が良かった。

「ママがいなくなってからうるさいこと言われなくて
 自由でいいけどね。レナが機嫌悪くて空気が重いのよ。
 何を話しかけてもけんか腰でさ。あいつと話していると
 すぐけんかになっちゃうの。女のヒステリーは嫌だね」

「レナお嬢様は私に対しても似たような感じですよ。
 当たり散らしたい気持ちは分かりますけどね。
 私だって八つ当たりできるなら、してみたいですよ」

「全部父さま達が悪いんだよ。 
 いつまでモンゴルにいるつもりなんだろうね」

「ええ。本当に……。いつか帰ってくるんでしょうかね?
 一生帰ってこなかったらどうしようかな」

「帰るわよ。絶対に帰ってくるわ。だってあの母さまが
 追いかけていったんだもの。太盛父さまはそのうち
 手錠されて連れ戻されるわ」

太盛達のやっていることはまさしく茶番である。

ここまで夫婦の溝が深まった以上、普通の感覚なら離婚するべきだろう。
だがエリカは夫を収容所送りにしてまで婚姻を続けようとする。

まるで1930年代のソビエト連邦の政治である。

ある労働者が、仕事中に突然警察から連絡を受ける。
そして翌日裁判所まで呼び出され、スパイ容疑をでっちあげられて
収容所送りにされることは日常だった。

「学校でさ」

「はい」

「毎朝HRの前にミサイルの避難訓練をするの。
 バッカみたいじゃない?
 あんなでっかいミサイルが飛んで来たら。
 どこにいても死ぬのにさ」

「遠くから破片とかが飛んできたら危ないですからね」

「あとさ、頑丈な建物に避難しろってニュースで言うけど、
 頑丈な建物ってなんのこと?」

「ミサイル攻撃に耐えられる建物ってことですかね?
 日本は先進国だからシェルターでもあるのかしら。
 あるいはバンカー(塹壕)とか?」

「塹壕なんてあるわけないじゃん。
 戦時中じゃないんだから」

カリンがテーブルに置かれたチョコクッキーをつまんだ。

「先生たちもミサイルのことばかり話しているよ。
 日本もミサイルを作って強くなればいいのにね?」

ミウは愛想笑いをした。

ミウが無理して明るく振舞っているのを子供の
カリンでもよく分かった。花のように可憐で美しく、
素直で明るい少女だったミウが心から落ち込んでいる。

カリンは何か慰めの言葉をかけてあげようと思ったが、
むなしさに気づいた。落ち込んでいるのは自分だって同じだからだ。

少しの間、沈黙を挟んだ。

「ミウ。この仕事続けられそう?」

「辞めたくはありませんよ。他に行くところもないですし」

カリンはミウの目をまっすぐ見つめていった。

「私はミウに辞めてほしくない」

「それは、本当に?」

「本当よ」

ミウは私の家族と同じよ。
カリンはそう言ってミウの手を引いて外へ連れ出した。

「買い物にでも行くのですか?」

「いいえ。すぐそこ。庭よ。まずは歩きましょう。
 ミウはうつ病になりかけてる。
 歩くのは気分転換にちょうどいいのよ。
 お父様もよく言っていたわ」

季節は11月の半ば。秋の紅葉を迎える時期だ。
冬用の衣服をまとった2人は重い玄関の扉を開けた。

「わぁ。もうすっかり冬になりましたね」

「鼻先が冷たい。午前中はもっと風が吹いていたんだよ」

庭には雑木林が無数に植えてあり、
ちょっとした森になっている。
歩きだとここから正門までの距離はかなりあるので
ウォーキングにもジョギングにもぴったりだ。

風が吹き抜けた。
木々が揺れ、木の葉が舞い落ちる。

ミウが身震いした。彼女は白のコートを羽織っている。
起きてからあまり手入れしていない茶色の髪が、
肩の上から無造作に垂れている。

太盛がいるころは入念に身支度をしていたが、
最近はどうでもよくなった。

真冬用のブーツで落葉を踏みしめる。
2人で並んで木漏れ日の道を歩いた。
15分ほど歩いていると、だんだんと体が暖かくなる。

さわやかな自然の香りを感じると心が落ち着いた。

「お散歩っていいものですね」

「でしょう? 天気の良い日は毎日歩こうよ」

「日本は晴れてる日が多くてうらやましい。
 3日以上晴れる日とかあってすごいですよね」

「それって世界的には珍しいことなの?」

「他の国はどうか知りませんけど、
 英国じゃまずありえないです」

「イングランドってそんなに曇ってばかりなんだ。
 ミウには悪いけど、私はそういう国は嫌だな。
 心が病気になっちゃいそう」

「いつ降るか分からないから折り畳み傘を
 毎日持ち歩いてましたよ。
 その代わり日焼けする心配がないのは
 メリットの一つでした」

「なるほど。それは悪くないわね」

屋敷を半周もすると良い運動になる。
道はいくつも複雑に曲がりくねっていて、
屋敷の周囲を回るように続いている。

普段はミウが散歩道を通ることはまずない。
買い物に行くときは、正門へと続く大きな一本道を
通るようにしている。それが一番近道だからだ。

今歩いている道は、いわば回り道なのだ。

この散歩道をよく使っていたのはユーリとマリンだった。
カリンは読書に疲れた時に気分転換に歩いた。

ダイエット効果があることを知ったので
真夏以外は歩くようにしている。

「カリン様はメガネからコンタクトに変えたのですか」

「メガネに飽きたのよ。ちょっとした気分転換ね」

「意地悪なことを言うようですけど、少し前まで
 コンタクトは嫌いだって言っていたじゃないですか。
 目に異物を入れるのに耐えらないって」

「そうかもしれないわね。
 でも今はコンタクトの方がいいのよ。
 ちょっと気持ちが変わるじゃない」

「気持ちが変わる?」

「うん。嘘でもいいから気持ちを
 変えないとやっていけないよ」

むなしい沈黙の時が流れる。

「今頃はさ、モンゴルでも冷たい風が吹いているのかな」

カリンの肩が小刻みに揺れ、鼻をすすっていた。

ユーリもマリンもエリカ母様も、みんな死んじゃえ。

カリンは蚊の鳴くような小さい声で不満を口にしていた。
その声は、鳥のさえずりと風の音でかき消されてしまう。

太盛がいなくなってから、全てがうまくいかなかくなった。

双子の姉妹のレナはやさぐれ、物に当たり、
カリンと衝突し、部屋にこもる日々が続いた。

レナの大好きだったテニスのラケットも
床に叩きつけてボロボロになってしまっている。

カリンは自然とレナと距離を置くようになった。

学校と家を往復する毎日。彼女を口うるさく
教育する母は日本にはいない。

ミウは魂の抜けた人形のようになってしまい、
毎日の仕事である屋敷の掃除を惰性で続けていた。

執事長の鈴原は党首に会いに行くと言ったきり、
一か月以上も屋敷を離れている。

後藤は残されたミウをなぐさめながら、
日々の炊事をこなしていた。しかし惰性で
仕事をしているのは彼も同じなのだ。

先行きの見えない不安はどんどん大きくなり、
最近ではさすがの彼も転職先を探し始めた。

太盛達が逃亡生活を始めてから二ヵ月が経とうとしているのだ。
諦めに近い気持ちが、屋敷にいる全員の心を支配しようとしていた。

カリンはひとしきり泣いた後、ようやく心が落ち着いてきた。

ミウに「帰ろう」と告げ、早足で歩き始める。
普段から歩きなれているから、結構なスピードだ。
ミウは置いて行かれないように歩調を合わせる。

「ミウはさ」

と言ってとつぜん振り返った。

「ユーリがうらやましいって思ったことはない?」

「えっと、それはどういう意味で」

「ミウは父さまとすごく仲良しだったじゃない。」

「……正直に答えていいんですか?」

「いいよ。ここには誰もいないんだから」

「ユーリは命をかけて太盛様と逃亡した。すごいことです。
 エリカ奥様に逆らうことは文字通り死を意味します。
 私にはそれができなかった。だって私は太盛様に
 選ばれなかったんだから。ただそれだけです」

「ミウもお父様のことは好き?」

「好きか嫌いでいえば好きですよ。
 太盛様は使用人を差別しないし、優しい方です」

「そう。私はパパのこと大好きよ。
 私もマリンと一緒にモンゴルに行けばよかったかな」

「あっちに行ったら、たぶん生きて帰ってこれないですよ」

「別にいいよ。ここにいても退屈で死にそうなんだもの。
 私、マリンこと嫌いだけど、行動力のある所だけは
 褒めてあげるわ」

カリンは吐き捨てるように言い、肩で風を切る。

「ぶっちゃけますけど」

「なに?」

また立ち止まった。

「私もマリン様のこと苦手だったんです」

「そうなの? どんなところが?」

「頭が良すぎて子供らしさが全然ないからです。
 エリカ様に近い怖さがあって、話しかける時は緊張しました」

「あんな奴、ただのファザコンよ。
 背伸びして大人ぶってるだけなんだから」

「うふふ。そうかもしれませんね」

ミウが何気なく腕時計を見る。
そろそろ洗濯物を取り込む時間だった。

「でもね」

「はい?」

「けんか相手がいなくなると少しさみしいわね」

カリンは歩き続けて暑くなったのでマフラーを外した。
あとは屋敷に着くまで何も話さなかった。

ミウは真横にぴったりついて歩いてあげた。
少しでもカリンのさみしさがまぎれるようにと。

(マリン様は本当に変わり者だったわ……)

ミウはマリンが見せつけるように父親と
ベタベタするのを面白く思っていなかった。

彼女は自分が太盛と写った写真を大切に
保管している。暇なときは彼の写真を眺めて、
彼の優しい声を想像していた。

屋敷には年ごろの男性はいない。

そもそもミウは日本人に興味がないが、
なぜか太盛には惹かれていた。

人恋しくなった時は、どうでもいい
日常の話を彼に聞いてもらいたくなる。

ソ連人伝統の英国嫌いを受け継ぐエリカと違い、
太盛はミウの英国時代に興味を持ち、熱心に話を聞いてくれた。

中学時代の嫌な思い出にも本気で同情してくれた。

日本は極東の島国なので世界でも非常に変わった
文化や風習をもつ国だとミウは認識していた。

太盛も日本の閉鎖的な社会はおかしいという共通の
考えを持っていたことがうれしかった。

彼がいなくなってから、改めて彼の存在の大きさに
気づかされたのだ。彼が帰ってくる可能性があるなら、
この仕事を続けたいと思っていた。

② ミウはエリカに復讐したくなった

その次の日。昼食の席でレナがとんでもないことを言った。

「ユーリが毒を飲んで死んだ?」

「ええそうよ。私、あれからずっとマリンと連絡を取り続けたの。
 あのファザコン、私のしつこさに根負けして
 ついに真実を教えてくれたわ」

レナとカリンは長テーブルに向かい合って座っていた。

どうせ叱る人がいないからとミウも座って食事している。
料理人の後藤も着席しているのだから自由なものである。

後藤が神妙な顔で聞いた。

「レナ様。それはマリン様から仕入れた情報ですか?」

「そうよ。電話で聞きだしたから嘘じゃないと思うわ」

「しかし……毒をおあるとは」

「母様に捕まって拷問されそうになったそうよ。
 SPが取り押さえる前に毒入りのカプセルを噛んだの」

後藤はロザリオを握りしめ、胸の前で十字を切る。
そして深いため息を吐いた。

「あの子が亡くなったのですか……。にわかには
 信じられませんな。ユーリは聡明で芯の強い娘でした。
 あんな立派な子が、外国の地で死んだなどと……」

「私だって信じたくないよ。どっきりだったらなって思う。
 でもさ、マリンがこんな嘘をつく理由が思いつかないし。
 母様なら会った瞬間にユーリを殺しちゃうと思う」

ミウはテーブルに肘をつき、頭を抱えてしまった。
隣の席の後藤が心配そうに声をかけるが、彼女の耳には入らない。

「ユーリの馬鹿……死ぬためにモンゴルへ行ったようなものじゃない……。
 そんなことまでする価値があったの……? 命を捨ててまで……。
 なんでユーリが死ななければならないのよ!!」

「お、落ち着きなさいよミウ。お水がこぼれてしまったわ」

ミウが乱暴にテーブルを叩いた衝撃でコップが傾いたのだ。
普段はメイドがやるべき仕事を、率先してカリンがやった。

「お嬢様。こういう仕事は私にお任せください」

「いいのよ後藤。あなたは座っていて」

ミウは涙が止まらなくなった。

小声の英語で何かつぶやいているが、
他の人には内容まで聞き取れなかった。

ユーリはミウの親友だから、彼女が今
どれだけ深い悲しみにいるかは想像に余るほどだ。

彼女はひとしきり泣いた後、ハンカチで顔をぬぐう。
ティッシュで鼻をすすり、真っ赤に晴れた目でこう言った。

「レナさま」

「な、なによ?」

「ちょっとスマホを見せてください」

真剣な顔で聞かれたので、思わず携帯をミウへ手渡した。
メールのやり取りや送られた写真を確認していくと、
どんどんミウの表情が険しくなった。

「まだ分からないね」

腹の底から出したような低い声で言うミウ。

恐ろしい声に一同は思わず目を見張った。

みんな次の言葉を待っていた。
なのにどういうわけか、ミウが急に黙り込んでしまった。

こういう時は誰が話しかけたらいいか判断に困る。

「何が分からなんんだ?」と後藤が訊く。

「ユーリが死んだかどうかよ。だって、ユーリの死体が
 見つかったわけじゃないんでしょ?」

「しかし、どうやって確かめるのだ。
 レナ様の話ではミサイル攻撃によって
 SP達も行方不明になったということだが」

「私はエリカが憎いのよ。
 あの女を殺してやりたいくらい。
 今回の騒動の原因は全部エリカなんだよ」

「待て待て。めったなことを口にするんじゃない。
 この部屋は盗聴器が仕掛けられているんだぞ」

「今さら盗聴されたってなによ? 関係ないわ。
 もしユーリが毒を飲んで死んだとしたら、
 エリカが殺したのと同じよ。絶対に許せない」

「奥様の気性の荒さは今に始まったことじゃない。
 粛清された使用人は過去にも存在したと
 鈴原さんが言っていたではないか」

「ノゥ!! It is not what I want to say!!
 昔の話は関係ない!!」

ミウの怒号が食堂中に響いた。
耳に突き刺さるほど甲高い声だった。

「私は大切な親友を奪われたのよ?
 これが落ち着いていられる?」

「奥様もそのうち帰ってくるさ。
 家族がそろってから今後の進退を決めるべきだ」

「Never!!
 あの血塗られた女が帰って来たとしても、
 自分の主人として迎え入れるなんて絶対に無理!!」

日本を発つときのエリカは最高に殺気立っていて、
ロシアの女帝エカテリーナ二世を連想させるほどだった。

「いつか帰ってきてくれるかなって思ったけど、
 やっぱり帰ってこないじゃない!!」

それは、誰もが思っているが口にはしない言葉だった。

「太盛様達がモンゴルに行ってから3ヵ月も立ったわ。
 エリカが無理やり連れ戻すかと思ったけど、
 レナお嬢の携帯に送られた写真を見てよ。
 みんな蒙古で普通に暮らしてない?」

マリンは写真撮影が趣味だった。父とゾーンモドで買い物をしたり、
ゲルで生活しているところをいちいちスマホで撮影していた。

レナがしつこくメールしてくるので、生活の様子を送ってあげたのだ。
いちおう彼女が大嫌いなババアの写真も入っている。

「これ、たぶんマリンお嬢は日本に帰りたくないんですよ。
 お嬢は大好きなお父様と一緒にいたいだけですから。
 だからお嬢様たちの電話を無視していたんですよ」

「あのファザコンめ! お父様を
 連れ戻すって言ったのはうそだったのか!!」

カリンも激高し、拳でテーブルを力いっぱい叩いた。

「お父様はマリンに監禁されてるんじゃないの!?」

「いやいや。さすがにあのバカでもそこまでしないでしょ。
 マリンの行動原理からして
 パパに嫌われるようなことは一切しないじゃん」

「左様ですな。むしろ監禁するのは奥様の方でしょう」

「じゃあレナはどう思うの?」

「私?」

「ずっとパパたちの動向を調べていたんでしょ?
 なんでパパたちは帰ってこないの!?」

「私に聞かれても困るよ。知りたいのはこっちだっての。
 てか耳元で怒鳴るな。むかつく」

「無責任なこと言わないでよ。
 家族なんだからパパを連れ戻す方法を考えてよ。
 マリンと連絡が取れるのはレナだけでしょ?」

「バッカじゃないの。モンゴルは日本の4倍も
国土があるんだよ? マリンは場所を絶対に
教えてくれないし、どうやって探すの?」

「ママに連絡すればいいじゃん」

「やだよ!! 誰がママなんかに。あんたが連絡しなさいよ」

「私だっていやだよ!! レナは学校サボって家にばかり
 いるんだから連絡する時間くらいあるでしょ!!」

「はぁ? なにそれ? 意味わかんない!!」

姉妹はしばらく無意味な喧嘩をしていた。
日ごろ抱えていたストレスがささいなことで爆発したのだ。

後藤は頭痛がしてきて退席したくなったが、
しばらく傍観することにした。

ミウはずっと考え事をしているので
姉妹の怒鳴り声など耳に入っていない。

「カリンはしょせんお子様だね。
 あんたの相手するの疲れちゃった。
 私は大人だから自分から引くことにするね」

「どっちが子供だよ!!」

「あーうるさいうるさい。早くおじいさまに頼もうよ。
 ここまできちゃったら私たちの手には負えないよ。
 これ以上話し合っても時間の無駄」

レナの案は至極まともだった。
党首の権力は国家権力レベルと聞いているから、
本気になれば太盛達を強制帰国させることは十分に可能だと思われた。

「うむ。レナお嬢の言う通りだな。さあミウ。
 今ハーブティーを用意するから、飲んで落ち着きなさい。
 ゆっくりでいい。おまえが書きたくなったら、思った通りのことを
 手紙に書いてくれ。ご党首様は正直者を好まれる。忘れるなよ?」

後藤が厨房に消えてからも、ミウの険しい表情に一つも変化はなかった。

レナは自分の役割は終わったとばかりに2階の子供部屋に消えていった。
よく言えばさっぱりしていて、悪く言えば薄情だった。

階段の上で物が壊れる音がした。
荒れ狂ったレナがまた物に八つ当たりしたのだなと、
後藤がこめかみに指をあててしまう。

カリンは残り、ミウと一緒に手紙の内容を考えることにした。

1時間ほどで手紙を書き終えた。

その手紙が党首の元に届くころには、
太盛達の行方は全く分からなくなっていた。

③ ミウは料理人の後藤とお出かけした 前半

手紙を書いてから一週間たったが、
党首からの返事はなかった。

「あー、今日も掃除だ。だるいだるい」

ミウはやる気のない動作で大浴場の清掃をしていた。

露天風呂だ。浴槽は屋外と屋内に設けられている。
浴槽の天井に埋め込まれたスピーカーから音楽が流れている。

いつもはエリカがプログラムしていたクラシックが
日替わりで鳴るようになっていた。
誰にも怒られることがないので、ミウはロックに変えていた。

米国のハードロックだ。大浴場を包み込むように
ベースの重低音が鳴り響く。風呂場なので天然の
リバーブエフェクトがかかり、もはや騒音に等しい。

ミウはボーカルに合わせて小声で歌いながら、
床をブラシでこすっていく。
何度歌ってもアメリカ人のようにリズムが取れなかった。

アクセントの位置がまるっきりずれていて、
ミウが歌うと落ち着きすぎて平坦な歌になってしまう。

「曲は楽しいけど、アメリカン英語はお腹から声を出す感じだから
 発音しにくい。田舎っぽいというか、やぼったい音。
 Rの発音が野性的すぎてロックにはぴったりだけど」

ミウはイングランドの下町英語で育っているので
米国人の獣がうねるような発音はどうにも慣れなかった。

テレビで米大統領の演説を聞いても、
どこの山奥から来た人なのだろうとしか思えない。

といっても強烈な訛りのスコットランド英語よりは
よほど聞き取りやすいのだが。

多くの英国人にとっての標準英語とは、
伝統ある英国王室のクイーンズ・イングリッシュだった。


ブラシをかけるのは意外と腰を使うので良い運動になる。

「そろそろバス用洗剤が切れそう。買い置きはあったかな。
 あれ……。やっぱりないか。買いに行かなきゃ。めんどくさいな」

ささいなことだが、イライラしてブラシを投げ捨てた。
買い出し係のユーリが数か月も不在のため補充をしていなかったのだ。

ミウは中学3年の時から日本人が大嫌いになってしまった。
町に出かけるのも好きではなかった。

日本に来てから幼少時代からの人見知りを
さらに悪化させてしまったのだ。

独りで出かけるのが嫌なのでユーリか、
カリンたちと行くことにしている。
しかしみんなが都合よく暇なわけではない。

そんな時には太盛と買い物に行くときもあった。

エリカとしては信じられないことに特別に許可してくれるのだ。
エリカはユーリとマリンには
必要以上に警戒するが、なぜかミウには甘い。

仕事のことも口出ししてこなかった。
ユーリや後藤にはどうでもいい細かいことまで
いちいち小言を言ってくるのに、ミウとは距離を取る。

ミウの知るところではないが、理由はちゃんとある。
実はミウが党首の一番のお気に入りだから、
何か不都合があった時に党首に告げ口されるのが怖かったのだ。

エリカとて屋敷の所有者であり、管理者である党首に
逆らうことはできない。党首の財力はあらゆるものを
屈服させるほどの力があるのだ。

「ねえ後藤さん」

「最近は通販でどんな食材でもそろうようになってきたな。
 この瓶入りのケチャップ、値下げ中だからひとつ頼んでみるか」

「後藤さん」

「イタリアンチーズとボジョレも追加注文しておくか。
 もっとも飲めるのは俺とミウしかいないがな」

「後藤さんっ!!」

「おぅ、なんだ!?」

後藤は厨房でIPAD片手に通販のサイトを調べていたのだ。
IPADを専用の充電スタンドにかけ、ミウの方を振り向いた。

「いつからそこにいたんだ?」

「さっきからずっと呼んでいるじゃない」

「そうだったのか。で、何のようだね?」

「ちょっとドラッグストアまで買い物に行ってほしいんだけど」

「こっちはお昼ご飯の支度をしてるから手が離せないぞ。
 むしろ君に調味料でも買ってきてほしいくらいだ」

「ちぇ。いつもはユーリがやってくれてたのに」

「あの子はしっかりメモして買いに行くから
 買い忘れがないし、ほんと完璧主義だったな」

「ユーリの話はよしましょうよ」

「いや……君からふってきたような気がするが」

お嬢たちは学校に行っている時間だ。
今屋敷には後藤とミウしかいなかった。

以前はエリカを筆頭に殺伐としながらも
にぎやかなロシア風お屋敷だった。
それが嘘のように静かになってしまった。

「今作っている分は夕飯に回すとするか。
 どうだ。たまには外食でもしないか?」

「いやいや。その辺の店より後藤さんが作ったほうが
 絶対に美味しいでしょ。帝国ホテルの元シェフなんだから」

「たまには人の作ったものも食べたくなるんだよ。
 というか一日くらい料理をサボりたい。わりと深刻に」

「あっそ。で、どこのレストランに行くの?」

「サ〇ゼだよ。近所のユニクロの隣にオープンしたんだ」

「What the hell? 
 あのイタリアン・チェーン店になんでわざわざ?」

「最近売れ行きがすごいそうじゃないか。市場のお客様が
  食べるものがどんなものか興味がわいてね」

「高級フレンチの店じゃなくていいの?」

「いや、高級な店はほら。
 昔を思い出しちゃうじゃないか……」

「あ、ごめん」

「気にするな」

後藤は気さくに笑った。
支度してすぐ出ようと言うと、ミウはうなずいた。

「それにしてもチェーン店か。本場のイタリアンを
 作れる後藤さんが参考にできるものが
 あるとは思えないけど。どうせ世間の若い女の客でも
 見たいんでしょ。それに……」

ミウはこうしてためを作る時がよくある。
二か国語話者の欠点で言葉がとっさに出てこないのだ。

「それに、なんだ?」

「料理とは関係ないけど」

「うむ」

「Francly say, I do not want to see people outside.
 it is sure any restaurants packed by Japanese people」

「まあオープンしたばかりだから混むだろうな。
 俺だって混むのは好きじゃないが、殺風景な屋敷で
 暮らしているとたまには人恋しくもなるではないか」

「You know I hate Japanese, especially students. Teenagers.
 before I come here, I dropped out of my bloody high school.」

「確かに学生がメインの客層だろうが、
 今の時間なら主婦や大学生くらいしかいないだろう。
 ミウの過去は言われなくても知っているよ。
 ところでおまえの英語の発音、BBCの
 アナウンサーみたいに綺麗だな」

「うそ? 私、何語で話してた?」

「やっぱり無意識か。ミウは中途半端なバイリンガルだな。
 俺は普通に聞き取れるから構わないけど、
 人前では気を付けたほうがいいぞ」

「ごめんね。分かっているつもりなんだけど……」

「non non, Pas de probleme. Je suis de ton cote. mon amie miu?」

「え?……え? すっごい早口に聞こえる。今のフランス語ね?」
 
ちなみに後藤は英語、仏語、イタリア語が日常会話レベルで話せる。

料理の修行でイタリアとフランスで暮らしたことがあるのだ。
特に滞在時間が長かったのはイタリアだ。

ちなみに、この屋敷の雇用条件は最低でも二か国語が話せることである。

党首は欧州の近代文明を崇拝しながら育った世代だから、
英国育ちで素直なミウが可愛くて仕方なかった。

ミウは混み入った話をするときやイライラした時は
つい英語が出てしまう。それはロンドンの日本人の家庭で
育ったものの、日本語が得意ではない証拠だった。

数か国語を完璧に使いこなせる人は、話の途中で言語を変えたりしない。


そんなこんなで昼時で混んでいるサイゼ〇アに行ったのだった。

後藤は40代に見えないほど若い。掘りの深い顔立ちに黒髪を
整髪剤で固めている。肩幅も広く、がっちりとした体形で男らしさがある。

屋敷で働いているだけあり、背筋を伸ばして歩く姿に品が宿る。

後藤はイタリアの文化が入っているのでオシャレに
大変な興味があり、今着ている冬服は全て
欧州のブランドで揃えている。

ミウと並ぶと見事な美男美女。
人によっては親子に見えるだろう。

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」

「2人だ。禁煙席で頼むよ」

「申し訳ありません……。ただいま当店は
 込み合っておりまして、ご案内できるのが
 喫煙席のみとなっておりますが」

マニュアル通りのことを話す店員は、だいたい早口である。
後藤はミウを気づかって違う店を探そうかと思った。

「私は喫煙でもいいよ」

「そうか? 無理しなくていいんだぞ」

「いいよ。後藤さんもたまには息抜きしてよ」

「ならお言葉に甘えさせてもらおうか」

小さなテーブル席に座る。賑わう店内は女の話声が多い。
今日は昼上がりなのか、テーブルの一角を女子高生6人が
占拠し、ガールズトークで盛り上がっている。

突然大声で騒ぎ始め、爆笑して手を叩いている。
ミウは不快そうな顔で彼女らに視線を向けた。

「Very very noisy like a rock concert. 
 don’t make me a pain to my head…please.
 まったく品性のかけらもないわ」

「高級レストランじゃないんだから、こんなもんだろう。
 世間なんてこんなもんだ。むしろ俺たちが
 浮世離れしすぎてるんだよ。あと英語でてる」

「あっ、ごめん」

「Speak only Japanese, all right?」

「Right. Mr.gotou」

「若い娘なんてどこの国も変わらないよ」

「そうなんだろうけどさ」

「おまえも友達がいれば、ああやって外で
 はしゃぐことができるのに」

「騒ぐのは好きじゃないの」

「高校の友達と連絡はとってないのか?」

「辞めた直後はたまに連絡が来たけど、今はさっぱり。
 屋敷で暮らしていると、だんだん周りの人から
 遠ざかるじゃない。あの屋敷っていろいろかたすぎじゃない?
 品があるのは嫌じゃないけど、中世の貴族みたいに格式高いよね」

「そうなんだよなぁ。特に奥様のくせが強すぎる。
 正直帝国ホテル時代もあそこまで
 テーブルマナーにうるさくなかったよ。
 自分が世間からどんどんずれていくのが分かる」

「さっきから私たちが周りの人にじろじろ
 見られてるのもそのせいかな?」

「うむ。あそこのおばさんたちから明らかに視線を感じるな」

学生時代から同性に嫉妬されたミウの美貌は、
ここでも実に注目を浴びていた。

ミウは髪を切ったばかりだ。腰辺りまであった髪を
セミロングまで短くし、やや肩の下にかかる程度にした。
濃い目の茶髪も黒髪に近いほどに落としている。

コートを脱いでタートルネックの白いセーターに
濃紺のジーンズという庶民的なの格好をしているのだが、
服を着ている人の素材が良いのだ。

色素の薄い肌に大きな愛らしい瞳、くちびる。そばかすが特徴的だ。
一度ミウの顔を見たら、そのままずっと見ていたくなる。
異性には愛され、同性からは嫉妬される美しさだった。

ミウは英国育ちだからか、白い色を好んだ。
正義の色。英国正教会の影響が強いのだ。

ミウは後藤と…… 後半

「やっぱり私たちって目立つのかな?」

「そうだよ。特におまえがな」

「うそ。私の髪型、変? 切ったばかりだからかな」

「いや、髪とかじゃなくて。なんていうか、
 ミウは芸能人っぽいんだよ。おまえがコート着て
 街歩いてるだけですごい目立つぞ」

「え? なんで? 中学時代に同級生の女たちから
 目立ちすぎるって言われ続けたけど、
 私普通にしてるよね?」

「ホテルのお客さんでもたまにミウみたいな人がいたよ。
 良いとこの令嬢が多いんだが、いるだけで周りの注目を
 浴びる女性ってのは、なにか特別なオーラを持ってるものなんだ」

「それって褒めてるの?」

「俺は良いことだと思うぞ」

後藤は安い白ワインのグラスを傾けた。
しばらくしかめっ面をしたが、まあこんなものかと思い、
グイグイ飲んでしまう。

「チョイ飲みというのはこんな感じなのか。おつまみも
 セットで千円かからないのは確かにお得だな。
 会社帰りについ寄りたくなるってところか。
 しかしこの薄い生地のピザを見てみろ。
 これではアフガン風のナンではないか。
 これでピザ呼ばわりされてもはたまらんね」

「そんなこと言われても……。私たちが普段食べるもの
 じゃないからどうでもいいよ」

後藤のワイングラスが空になる。生ハムとチーズも
さっさと食べてしまう。酔いが回ってきて頬が赤くなった。

「後藤さん、本当は何しにここに来たの?」

「別に目的なんてないさ。暇つぶしだよ。
 奥様が出て行ってから俺もお前も
 屋敷にこもりっぱなしだったからな。
 それに俺たちは世間から遠ざかりすぎたよ」

「さっきから世間世間って。私はこの国の文化が
 好きじゃない。後藤さんも人間嫌いなのは同じでしょ。
 ホテルで後輩の派閥抗争が嫌で辞めたんでしょ?」

「あれは、いきつくとこまで行ったから仕方なかったよ。
 でもなぁ、今の仕事も正直どうにもならないとこまで 
 きちゃったかなぁ」

「後藤さん、今の仕事辞めたいと思っているの?」

「さあ、どうだろうな」

「私に仕事辞めるなって言ったのは後藤さんじゃない。
 自分だけ抜け駆けしようとするなんてなんか、ずるいよ……。
 私だって太盛様がもどって」

話をさえぎるようにテーブルの横を
小さな子供2人が走り去っていった。
少し遅れて母親の怒号が飛ぶ。

「こらっ、ゆーくん、走り回らないで!! 
 ママのそばを離れないでって言ったでしょ!」

子供たちは相撲の練習のようなことをして遊んでいた。
店内でママ友たちが話で盛り上がっていて退屈だったのだ。

ミウは当然イラっとした。彼女は
こういう雰囲気が大きらいだった。

「Now she makes a noise. yes.
 she is a noise. child is all right.」

「俺も母親が静かにしろと言いたいよ。
 あとしつこいようだけど、英語話すとよけいに目立つぞ」

「あっ」

今の何語だろうと、大学生とも専門学生とも取れる学生たちが
ちらちら見ていた。ロンドンの英語は日本の学校で習う英語とは
別言語に聞こえるのが普通だ。

「話を戻すが、俺たちは浮世離れしすぎて転職が難しくなると思う」

「周りの人達になじめなくなるってこと?」

「Si(肯定だ)。あの屋敷は奥様の機嫌さえ損ねなければ
 かなり快適な環境だ。給料も良いし、住み場所も確保されている。
 今の不景気な日本ではかなり恵まれている」

「後藤さんは料理係だから休みなしで働いているじゃない。
 朝ご飯の支度があるから朝は一番早く起きてるよね」

「確かに休みはないが、暇な時間も結構作れるぞ。
 掃除とか雑用はユーリが全部やってくれたから
 昼食の片付けのあとに昼寝もできるしな。
 まとまった休暇も奥様に頼めば取れるじゃないか」

「民間の企業はどうしてだめなのよ。
 もっと給料が安いの?」

「ネットで求人を調べてみるといい。
 あまり大きな声では言えないが、ここの店員とかな」

「いくらなの? 今教えてよ」

後藤はミウに顔を近づけ、小声で自給の額を説明した。

「自給って何?」

「まずはそこからかよ……。筋金入りの箱入りだな」

「だって今までお金の心配したことないもの」

「ああ、お前のお父さんは証券マンだったか」

「うん」

「一応社会人なのになんで自給を知らないんだよ。
 うちの仕事もネットで探したんじゃないのか?」

「適当にページを開いてたら、たまたま見つかったのよ。
 両親に相談したら、ミウがやりたいなら、
 なんでもやってみなさいって」

「適当すぎるだろ……」

人に聞かれたくないので、
後藤が英語でアルバイトの時給を説明すると
ミウはひっくり返るほど驚いた。

「Bloody hell, it’s so few income. it pays that per hours?
 how they live? how they pay taxes? I heard that
 a cost of living is very high in this country」

「Don't ask me that. I've never been worked
as a part time job. by the way.
you want to join with them?」

「uhh...You mean …with people here?
work as a shop staff of this?」

「Yes」

「ここで働くなんて嫌に決まってるでしょ。
 給料が10万くらい下がっちゃうよ」

「声がでかい。店員に聞こえるぞ。あと急に日本語に戻るなよ。
 語順を考えるのが大変だからどっちかに統一してくれ」

「え?? 私今何語で」

「もういい。特におまえさんは高校を中退しているからな。
 今の仕事を簡単に辞めないほうがいいぞ」

「給料が低いのってこの店だけでしょ?」

「どこの店も同じだよ……。レストランだけじゃなくて
 アパレル系とかホームセンターも同じ。
 若者の売り手市場とかメディアがぬかしているけど、
 実際はブラックばかりだからな。物流とか地獄だぞ」

「日本ってそんなに悪い会社ばかりなの?
 てかアルバイトの人って生活どうしてるのよ。
 独り暮らしで家賃とか税金払ったら
 給料全部なくなるじゃない」

「それでもなんとか暮らしていくしかないだろ。
 俺も妻と離婚後はしばらくマンション暮らしをしていたがな。
 それにしても、ミウもエリカ奥様に負けないくらいの
 世間知らずだな。日本の若い女性の非正規雇用率とか知らないだろ?」

「ヒせいきコヨウって何? たまにニュースで聞くわね」

「おいおい……。まあいいや。そろそろ店を出るか」

外に出たら3時過ぎになっていた。
日が傾き始め、風が冷たさを増していく。

モノレールの駅からエスカレーターを使って
たくさんの人が降りて来た。
買い物帰りの主婦や学校帰りの学生が多く、
交差点で信号待ちをしている。

後藤とミウも彼らと一緒に青信号を渡った。

屋敷は奥多摩の山岳地帯にあるので、
バスに乗って移動しなければならない。

バス停はここから5分ほどの距離にある。
ミウにとっては長く感じられた。

ミウは通り過ぎる人たちにじろじろ見られたので
不機嫌になる。彼女は他人の視線を浴びるのが大嫌いだ。

後藤にぴったりと肩を寄せながらうつむいて歩く。
本当は後藤の後ろに隠れたいくらいなのだ。

後藤の大柄な体が少しでも自分の姿を
隠してくれればいいと思っていた。

後藤は口数が減ったミウを気づかって明るく話しかけた。

「そろそろお嬢たちが帰ってくる時間だな」

「うん」

「来月にはクリスマスか。今年もいろいろあったな」

「そうだね。嫌なことが結構あった」

「4人じゃ寂しいけど、ささやかな
 クリスマス・パーティでもするか?
 またイタリアから高級食材を取り寄せてやるよ」

「楽しみね……」

ミウは表情が硬い。やはり彼女は町の空気には
なじめないタイプかと後藤は心の中でため息をはいた。

「俺、屋敷で働いて何年になるのかな。
 めんどくさくなって数えるのもやめちまったよ」

後藤の白い息が、空気に消えた。

通りがかった金髪の男性が、「おっ」と言ってミウを振り返った。
話しかけられたくない。そう思ったミウは、
カップルのふりをするために後藤の手をギュッと握った。

後藤は何も言わず、ミウの好きなようにさせてあげた。

「少し酔いが冷めてきたかな。
 安いワインは変に酔えてしまうから困ったよ」

「私も飲めばよかったな。
 ここを歩いているとイライラする」

「話をすれば気がまぎれるさ。
 屋敷以外で食事したのは何年ぶりだろう。
 たしか太盛様の結婚式以来だったか。
 今日は時間が経つのが早く感じたよ」

「後藤さんは酔うと饒舌(じょうぜつ)になるからね」

「饒舌なんて言葉よく知ってるな」

「レナお嬢から借りた漫画に書いてあった。
 漫画は漢字に読み仮名がふってあるから勉強になるよ」

「そっか。ミウは漢字がほとんど読めないんだったな。
 そう考えるとミウが転校してきたタイミングは最悪だったな」

「国語の時間とか地獄だった。朗読の時とか、
 先生に読めない漢字を質問したら
 クラスの女子にクスクス笑われて……。
 ちょっと、嫌なこと思い出させないでよ!!」

「わ、悪かったよ。てか俺のせいなのか?」

赤の他人から見たら仲の良い親子といったところか。
最近は20代のタレントでも休日に父親と手をつないで
歩いている人が存在するほどである。

バスは混んでいた。ミウと後藤は吊革につかまって
揺れに体を任せていた。ミウは寝不足からか、
器用にも吊革につかまったまま首を上下に泳がせている。

たまに後藤の肩に頭を預けてくるのが妙におかしくて、
後藤は笑ってしまった。

(俺もお前も根本は同じさ。俺たちはあの屋敷を出て
 外で生きていくことはできないんだよ。まだ党首様からの
 手紙の返事はない。いつまでいられるか分からないが、
 今しばらくはあの屋敷で暮らしていこう)

口にはしないが、ミウも同じことを考えていた。
後藤とミウは運命共同体なのである。

都市部の景色から一変し、山と住宅ばかりが
見えるようになっていく。西東京のはずれは、
とても東京とは思えないほど田舎なのだ。

バスは傾斜のある道の昇り降りを繰り返す。
乗客はほとんど途中で降りてしまった。

奥多摩のバス停に着くころには、
すっかり日が沈みかけていた。

④ ミウは鈴原からICレコーダーを渡された

「鈴原が帰って来たよ!!」

レナの元気な声に一同はリビングに勢ぞろいし、
鈴原の言葉に耳を傾けた。

「お嬢様方、大変ご無沙汰しておりました」
 ミウも後藤も変わりはなさそうだな。
 話したいことがいろいろあるのですが、
 まずは手紙の件から始めましょう」

鈴原は息を大きく吸い、ゆっくりと語った。

「ご党首はミウを解雇するつもりはない。その理由もない。
 なぜそんなことを気にするのか不思議に思っておられたぞ。
 これからも使用人として働いてほしいと思っているそうだ」

「本当!? 私はここにいていいのね?」

「無論だ。あの方はミウをお嬢様たち姉妹の延長と
 考えてらっしゃる。つまりミウを入れて4人姉妹と
 いうわけだ。もったいないお言葉だな」

「うれしいけど、なんだか不思議な気分」

「後藤に関しても同様だ。
 日々まじめに働いていることを高く評価されていた。
 エリカ奥様から後藤の評判をよく聞かされていたようだ」

「ほう。奥様からもお褒めの言葉を頂けるとは。
 私もとりあえずは安心しましたよ」

「さて」

少し疲れ気味の鈴原。ごうごうと燃え盛る薪ストーブが
暑く感じたのか、ハンカチをおでこに当てた。

彼は執事長で、きっちり着こなした執事服に白髪の坊主頭が特徴だ。
直立不動の姿勢、お辞儀の角度に全くスキがなく、機械のように正確だ。
彼のプロ意識の高さがうかがえる。

「太盛様達の件ですが」

待ってましたと言わんばかりに全員が身を乗り出した。

「まことに残念なことになっております。
 お嬢様たちの心の準備ができているかを……」

「早く言って!! じらさないくていいから」

レナが突っかかるように言ったので
鈴原は単刀直入に述べることにした。

「行方不明になりました」

「は……?」

「最後に彼らを目撃したのはゴビ・アルタイの田舎町でした。
 町の宿舎にチェックインした記録はあるそうです。
 乗っていた装甲車も警察が確保しました。
 しかし、肝心の彼らの姿が消えてしまったのです」

「消えた?」

カリンとミウは思わず顔を見合わせる。

外国で行方不明になるのは死亡した例が多い。
誘拐された可能性もある。
どちらにせよ最悪の事態になっていた。

カリンが悲鳴に近い声を出した。

「レナ!!」

「な、なに?」

「最近マリンと連絡はしてないの?」

「最後に連絡したのは1週間前だったかな?」

「なんて言ってたの!?」

「パパがまだユーリに未練があるのがむかつくって。
 あとアルタイ地方はミサイルは降ってこないけど
  軍隊の警備が厳しくて外国人は肩身が狭くて
  居づらい場所だって」

「いつ!? 何日のことなのそれは!?
 時間は何時?」

「いや、そんな急に聞かれても」

「早く答えろ!! 連絡したのはマリンとだけ?
 パパとはずっと音信不通なのね!? 
 マリンとはメール、電話!?」

「ちょっと待って」

「大切なことなんだよ。早く言え!!」

「警察の尋問みたいなことするな!!
 そんなに知りたいなら自分で見ろよ、くそカリン!!」

レナが怒りに任せてスマホをぶん投げると、
勢いがありすぎてカリンは取り損なった。

後藤が急いでスマホを拾い、カリンに渡してあげた。
気になるので後藤も隣で画面をのぞき込んだ。

「11月16日に電話をしたのが最後ね」

「それ以降に送ったラインメールは既読スルー。
 意図的な無視ですな。携帯を開いてはいたようですが、
 連絡したくなかったのでしょうか」

「今さらだけど、よく電波がつながりますよね。
 むこうってアジア最高レベルの田舎なのに
 電波とかあるんですかね?」

「茶化さないでよミウ。今日は11月25日。
 今日までにお父様達は失踪したってことなのね?」

「左様でございます。お嬢様」

鈴原がカリンに頭を下げる。

ママがいないから、かしこまらなくていいよ
とレナが言うと、「くせですので」と鈴原は譲らない。

カリンは持ち前の観察力で鈴原の動作の
ぎこちなさを見逃さなかった。

「鈴原、具合悪そうだけど大丈夫?
 ここのソファ譲るから横になったらどう?」

「私は使用人ですので遠慮させていただきます」

「でも声に元気がないよ。立ってるだけでも
 辛いんじゃないの? 無理しないほうがいいよ」

「そうですよ鈴原さん。一度部屋で休んだ
 ほうがいいですよ。部屋は綺麗にしてありますから」

子供たちや年下のミウにまで気を使わせて
さすがに悪いと思い、鈴原は折れることにした。

ミウに付き添われる形で寝室に案内された。
鈴原のベッドは布団を干したばかりでふかふかだった。
室内の小物に至るまでほこりひとつなく、完璧に掃除されていた。

ミウは鈴原の部屋だけでなく、不在中の主人たちの部屋も
同じように綺麗にしている。ミウの家事は
ユーリに教わった通りにこなしてみせた。

彼らがいつ帰ってきてもいいようにと、
普段と変わらぬ掃除を心掛けていた。
同時にそれは願いだった。きっと帰ってくる日があると。

鈴原は冬用の上着だけ脱ぐと、脱力してベッドに横になった。

「ちょっと、大丈夫? 熱があるんじゃない?」

「体温計を持ってきてくれるか」

熱はかなりの高温だった。39・5度。先ほどまで
立って話していたのが信じられないくらいだ。

「今電話でお医者さん呼んでくるから!!」

ミウが廊下をバタバタと走り、何が起きたと
リビングから出て来た後藤に事情を説明する。
後藤も大慌てで看病を手伝うことになった。

鈴原は実直で冗談の一つも言わない男だ。
面白みに欠けるが、誰よりも党首に信頼されていて、
党首との付き合いは30年にも及ぶと言われている。

このメンバーの中では最も党首と深い関係にある。
太盛が結婚するまで党首の住む本家で侍従の一人として務めていた。

「帰ってきてそうそうに情けない限りでございます。
お嬢様方にはご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「謝る必要全くなし。そういう堅苦しいの
 はいいから、今は治すのに専念してね?
 何か食べたいものがあったらすぐ言って」

医者の診断の結果は風邪だった。
今年は寒気が例年より早く訪れ、11月なのに真冬並みの気候が続いた。
鈴原がどれだけ体調管理に気を付けていても仕方ないことだ。

だが一番の原因は精神的な疲労だった。
太盛の逃亡の件で鈴原は党首と共に頭を悩ませていた。

根性なしで臆病な太盛のことだ。最初は一か月もすれば根を上げて
帰ってくるものかと考えていたが、蒙古に旅出てすでに3ヵ月が経過した。

太盛達はウランバトルを離れ、草原地帯を超え、モンゴル西部の
砂漠地帯を突き進んだ。行動範囲が広いだけではない。
彼らは家族として固まり、草原の民の生活の知恵を身に付けつつある。

困ったことに夫を捕まえに行ったエリカにも帰る様子はない。
ミイラ取りがミイラになるとはこのことである。
これは、党首達の予想をはるかに超えた逃避行だった。

「レナ。あんたも風邪ひかないように気をつけなさいよ?
 毎日夜更かししてないで早く寝なさい」

「それ、ママの真似でしょ? 
 カリンがやってもぜんぜん似てないから」

鈴原の風邪が治るまでみんながおとなしく待った。

鈴原の高熱は一時的なものだった。
医者の処方した薬が効いた成果もあり、2日後には平熱に戻っていた。

「世話をかけてすまなかったな。ミウ」

「だから謝らなくていいってば。鈴原さんだって人間なんだから
 風邪くらい引くでしょ。お嬢たちも何度も言っていたじゃない」

病み上がりの鈴原は8時過ぎに起きて朝食を食べていた。
普段朝5時半に起きている彼にとっては朝寝坊したことになる。

食事を作るのは後藤で配膳するのはミウの仕事だ。

後藤は食器洗いをしていているので
食堂にいるのはミウと鈴原だけだった。

「お嬢様たちは学校に行かれたのだな?」

「ちゃんと行ってますよ。レナ様も鈴原さんに
 迷惑かけたくないからサボらずに行ってくれたわ」

鈴原は安心したのか、ため息をついた。
あまりに深いため息だったのでミウを驚かせた。

鈴原はさらにテーブルに両手の肘(ひじ)まで着いた。
執事の長とは思えないほど人に対する配慮を欠いた行為だった。

「まだ調子悪いの?」

「ミウ」

怖いくらい真剣な顔で見つめられたのでミウは緊張した。

「私はご党首から伝言を承っている。
 おまえには包み隠さず本当のことを伝えてほしいと言われたよ」

「本当のこと?」

「前にも言ったが、ご党首はミウをたいへん気に入ってらっしゃる。
 お嬢様たちの前ではとても言えないが、おそらくエリカ様よりもずっとな。
 あの方は敵には厳しいが、情を許した相手にはどこまでもお優しい」

「それ、ずっと不思議に思ってた。
 私は党首様とほとんど話したことないのに」

「今風に言うとフィーリングか。ご党首が初めておまえを
 見た時に感じたことがあったそうだ。党首様はお年だから
 後継者を探そうとしている。それは事業のことではなく、
 一族の秘密を受け継ぐに値する者を探しているという意味だ」

「秘密? 先祖代々隠し持っている金銀財宝とか埋蔵金?」

「そのような低俗なものではない。この家は普通の家にはない特殊な力がある。
 党首様の家系が代々繁栄してきたのは決して偶然ではないのだ」

「ふーん。それって魔法みたいなもの? 
 あのお方も意外とメルヘンチックなのね」

「こら。めったなことを口にするものではない。
 私は冗談を言っているのではないぞ」

「ご、ごめんなさい」

鈴原は初老だ。年齢は党首とそう変わらない。
威圧的に話す鈴原からは、エリカとは違う厳格な
オーラが漂っており、近寄りがたかった。

「このことは後藤にも秘密にしておきなさい」

そう言って小型のICレコーダーをテーブルに置いた。

「これは?」

「みんなが寝静まった時にこれを再生しなさい。
 スピーカー内蔵型だからそのまま音声が鳴る。
 ご党首の音声メッセージが再生される」

「どうしてわざわざ録音を?
 話したいことがあるなら電話でも構いませんけど」

「電話だと誰に聞かれるか分からないだろう。
 それにご党首はお忙しい身だ。察してくれ」

「そこまでして伝えたい内容ってどんな内容なんだろ」

「聞けば分かる」

⑤ ミウは自殺したくなった

夜になり、風呂上がりのミウはエリカの高いドライヤーを
拝借して髪を乾かしていた。使用人らしかぬ行為であるが、
ユーリを殺された恨みがあるので罪悪感は全くない。

さすが高級品だけあって仕上がりが段違い。
髪はうるおいがあって自分でも惚れ惚れするほどだ。

一応廊下に出て誰もいないことを確認した。時刻は10時過ぎ。
後藤は朝が早いので10時前には寝てしまっている。

お嬢たちは夜更かししているかもしれないが、
とにかくICレコーダーの内容が気になって仕方ない。

「さてと」

テーブルの上に置き、再生スイッチを押した。
ギリギリ聞き取れるくらいの音量で党首の渋い声が流れ始めた。
ミウは音量の操作の仕方が分からず、レコーダーを耳に近づけた。

『この音声を聞いているのがミウ君であることを祈っている。
 そしてここで聞いた内容を誰にも漏らさないことを君の神に誓ってほしい。
 まず謝罪しなければならない。私の出来の悪い息子のせいで君に余計な
 心配をさせてしまった。奴のしたことはただの逃げだ。面倒なことから
 逃げ、それで何かが解決すると思っている。実に愚かである』

まず太盛に対する批判から始まった。
1分くらいそれが続くと、話題がユーリに変わる。

『君には非常に残念な知らせになってしまうが、
 最後まで聞いてほしい』

『ユーリ君の死体はモンゴル軍が回収した。
 彼女は致死量の生産カリウムを飲んだ結果、多臓器不全で亡くなった。
 私は知り合いに日本の外務省の人間がいてね、外交ルートで遺体の
 引き渡しを求めたが却下された。現在モンゴルはミサイル攻撃を受けていて、
 戦争状態にあるから日本側との外交は断絶されている』

『そのミサイルはロシア領カムチャッカ半島のミサイル基地が
 暴発したものだ。制御システムの故障だよ。ロシア極東軍の
 司令官はすぐに事態の収拾にかかったが、ミサイルの
 暴発はなおも続いた』

『モンゴル国政府はロシアに対して正式に宣戦布告をしたが、
 お互いに無意味な殺し合いを望まなかったため、互いに
 空軍戦力を温存してにらみ合いになった。結局ロシアが
 自らミサイル基地を破壊することで事態は収拾した。
 アメリカを初め、西側諸国は静観していたので軍事介入はなかった』

『戦争は終わった。だがそれで全てが終わったわけではない。
 蒙古議会ではソ連時代の生き残りの共産主義者が台頭し、
 革命を起こそうとしている。太盛達はモンゴル西部の
 ゴビ・アルタイ県という場所で蒙古陸軍に捕らえられた』

「捕まった!? 行方不明だったんじゃないの!?」

『太盛達は外国人なのでロシアから派遣されたスパイの疑いが
 かけられ、捕虜収容所に入れられてしまった。
 そこで詳しい身元の調査が行われた後、
 中国を経由し別の場所へ移動させられた』

『行き先は北朝鮮だ。太盛達は囚人として売られてしまったのだ』

その言葉を聞いた瞬間、ミウは絶望のあまり吐きそうになった。

『北朝鮮北部の鉱山地帯には無数の強制収容所があると言われている。
 中国との国境近くだ。収容されているのは大半が朝鮮人だが、外国人もいる。
 人数はおよそ22万。太盛達もその中に入れられた可能性が高い』

『以上は私が部下に調べさせた内容だ。
 これは、北朝鮮の内務省の人間に裏ルートで確認した情報である。
 確認するのにずいぶんとお金を払う必要があったがね』

『私は親として身代金を払うと約束し、実際に払ったが、
 多額の金の見返りとして息子たちは帰ってくる様子がない。
 北朝鮮という国は人間を奴隷として買い取る国だ。そして一度手に入れた
 奴隷は絶対に帰さない。それこそアメリカ並みの軍事力と政治の
 圧力がなければな。私は今回の事件で個人資産の3割を失った』

『私の力をもってしても解決はできない。
 愛人と浮気した息子の罪にしてはあまりにも重すぎる。 
 孫娘のマリンまであの国の収容所に入れられているのかと
 思うとな。胸が苦しくてこれ以上語るのさえためらわれるほどだ』

録音から党首の憔悴した様子がよく伝わって来た。
党首の声は北朝鮮のくだりになってから震えてしまっている。
どんな気持ちで録音していたのか。ミウには想像に余る。

面と向かってミウと話せないのはこういう理由だったのだ。

『レナとカリンには行方不明と言うことで決着させてあげたかった。
 そのまま一生見つからなければ法的には死亡したと判断される。
 かわいい孫たちにはそれでいいのだミウ。真実とは常に恐ろしいものだ』

『人の世は、どうしてこうも残酷にできているのか。北朝鮮を
 生みだした元凶はソビエトのスターリンだ。金日成主席は
 スターリンの信任を得てあの地に共産主義国家を作り上げた。
 共産主義とは反対主義者の粛清をすることを是正とした思想だ。
 奴らは外国と戦うことよりも自国民を殺すことを第一に考える』

ミウはここまで聞くのが限界だった。

ICレコーダーの電源を切ってしまい、
放心した顔で壁に寄りかかった。
もう何もする気にならない。真実はあまりにも残酷すぎて
一瞬で彼女の心を粉々に砕いてしまった。

彼女の顔は、熱を出した時の鈴原よりひどいものになっていた。
この世では二度と太盛達に会えないことを知ってしまったから。

ユーリは死んだ。
太盛達は地球上で最も恐ろしい国に送られてしまった

強制収容所。この世の地獄と言われる場所である。

世間知らずのミウにとって死に勝る苦痛が
この世に存在することを知るきっかけになった。

ミウは震える手でスマホを持ち、北朝鮮の脱北者の手記を読んだ。
平和ボケした彼女の精神力では5分以上読むことができなかった。

収容所は反逆分子、政治犯を強制収容し、
1日12時間働かせて虐殺するための場所である。

炭鉱採掘や森林伐採などの重労働が課せられ、抵抗する者は
容赦なく射殺されるか拷問される。

食料は絶望的に不足し、主なタンパク源は不衛生な宿舎に
迷い込んだネズミ、ヘビ、トカゲなどといわれている。

女性の囚人は尋問と称して性的暴行を受ける場合が多い。
子供の囚人も当然いて、親子で収容されている人も少なくない。
脱走、自殺したものは連帯責任として平和に暮らしている家族を
収容所行きにすると脅しているから、自殺者は意外と少ない。

人類が考えうる限りの悪行がそこで実際に行われていた。
平和な国で暮らしている日本人には
想像もできないほどの地獄がすぐ隣の国に存在するのだ。


ミウのことを心配して面倒を見てくれたユーリ。
ユーリの死に顔を見ることはできなかった。

暇な時にエリカの目を盗み、ミウの話し相手になってくれた優しい太盛。
太盛は今ごろ囚人服を着せられ、凍える朝鮮の大地で使役されているのか。

ミウは猛烈な吐き気に襲われ、トイレに駆け込む。
胃液しか残らなくなるまで吐いた。

指先の震えが止まらない。急性胃腸炎の症状だった。

一睡もできないまま朝を迎えた。

風邪を引いたから今日は部屋で寝ている。鈴原にそう伝えると、
全てを察してくれて一人にしてくれた。後藤やカリンが
心配して部屋を訪れなかったので助かった。
鈴原がミウの邪魔にならないよう遠慮させたのだ。

激的なストレスでやつれてしまった自分の酷い顔など
ミウは誰にも見られたくなかった。

鈴原もまた、ミウと同じ真実を党首から直接聞かされていた。
鈴原も発狂寸前まで心が追い詰められ、屋敷に帰るタイミングを
見失っていたのだ

「うぅ。うぅうう。もう誰にも会いたくない。
 お父さん、お母さん。ごめんなさい。
 こんな気持ちじゃあ今の仕事続けられそうにないよ……。
 私の大切な人達はみんな死んじゃうんだから。
 私も仲間に入れさせてもらうよ」

ミウは果物ナイフを手に取り、自らの首に刺そうとしていた。
ナイフの先端が刺さる前に怖くなり、ナイフが手から落ちてしまう。

「いやだぁ……死ぬのはもっと怖いよ……。私は根性なしだ……。
 こんなにつらいのに死ぬことも出来ないんて……」

両親のもとに帰ろう。ミウはそう誓って走り出した。

たまたまバス停に来ていたバスに乗り込み、町へ出る。

後藤と一緒に歩いた時は少し新鮮に感じられたこの町も、
今は呪われているようにしか思えなかった。
ミウの身の回りにあるものは全てが呪われている。
この世は悪魔に支配されている。神の救いはない。

ミウは絶望を通り越して精神的に危険な状態に陥っていた。

(今この瞬間も太盛様は北朝鮮にいるんだ……。
 日本はこんなに平和なのに、汚い蛇やカエルを
 食べて生活してる場所に……)

涙を誰にも見られたくなかったので、
たまたま近くにあった図書館に入った。
トイレにこもり、音を立てないようにして泣き続けた。

(死にたい。死にたい。私もユーリのもとに行くんだ。
 もう迷っちゃダメ。死ね。死ね。死ぬんだミウ)

手っ取り早く死ぬ方法はないかと考え、
飛び降り自殺が頭に思い浮かぶ。すぐに図書館を出た。

高い建物はどこか。近くにビルがある。よく見ると人気のない空きビルだ。
階段があったので早速登ってみようとしたところ、見知らぬ人が立っていた。

その人物は上下に黒いジャージのような服を着ており、
ミウに軽く会釈した。品性を感じさせる動作だ。

「ごきげんよう。お会いするのは初めてですね」

低く、温かみを感じさせる男性の声だった。

⑥ ミウは能面の男に運命を託された

小柄なミウより頭二つ分は背が高く、
しなやかに手足が伸びている。

両足を肩幅まで広げており、兵隊のように
スキを見せようとしない姿勢だが、敵意はないようだ。

ミウが一番気になったのはお面である。
その男は声からすると若いのだろうが、
能で使われる老人のお面をしていた。

翁(おきな)系のお面。白式尉(はくしきじょう)である。

『翁』は、能のどの種類にも分類されず、もっとも
古くから存在するものである。能にして能にあらずと
いわれ、神の面として神聖視されている。

白い肌に穏やかな笑みを浮かべた面。
面の全長の1.5倍の長さのひげをたくわえている。
知恵と安らぎの象徴としてしわがくっきりと
描かれているのが特徴だ。

能に慣れている者ならともかく、ミウには
すさまじく不気味である。ミウはその迫力に
生理的な恐怖を感じ、腰を抜かしてしまうほどだった。

「私は党首様の使いの者です。
 その様子ですと、ミウ様は能をご存じではないようですな」

「わ、私は日本生まれではありませんので」

「そうでしたね。確かにあなたは
 話すときの仕草が日本人とは異なる」

男はミウのもとへ歩み寄ってくる。

足音を殺して歩くその姿は普通ではなかった。
上半身を全く揺らさず、地を滑るようにして移動する。

急いでいるようには見えないが、
あっという間にミウの前まで来てしまった。

とにかく、ただの男ではないことはよく分かった。

ミウは、この能面の男が北朝鮮から派遣された工作員では
ないかと疑ってしまう。

「そ、そのお面、怖いです……。外してくださいよ。 
 ちゃんとお互いの顔を見てお話ししましょうよ。
 If you gentlemen,be friendly.please? それがマナーよ」

「あいにくですが、これを外すわけにはいかないのです。
 本家に勤めている者は俗世間に顔を
 さらさないように、との決まりがありまして」

「あなたは本家に勤めているの?」

「左様。あなたと同様に使用人として働いております。
  ミウ様のうわさもかねがね伺っておりました」

恭(うやうや)しくお辞儀をする男。
鈴原のようないぶし銀な動作とは違い、優雅さがある。

「質問させて。あなたの名前は? どうして私のことを
 知っていたの? あなたが使用人であるという証拠は?
 本当に使用人ならどうして私の名前に様をつけるの?」

カリン様の質問攻めがうつりましたかな。
男は蚊の鳴くような声でそうつぶやいた。

「おやおや、そこまで疑わせてしまうとは。
 これは失敬。挨拶が足りませんでした。
 というより、ミウ様は件のICレコーダーを最後まで
 お聞きにならなかったようですね」

ミウはこくこくと機械的に頷いた。

「館に本家から迎えの者を送るので、それまで
 早まったことをされないようにとのメッセージが
 録音されていたはずです。
 私は、今朝街を走り回るミウ様を追跡する形で
 お会いすることになりました」

男は床に置かれた黒いバックから一枚の地図を取り出した。
広域の地図で、白紙部分に詳しい住所が書いてある。

「ご党首様が現在住んでいる場所です」

「この赤い印がしてある場所?
 これは……日本海側の孤島じゃない」

「はい。長崎県の沖合です」

「長崎県……?」

なんとなく島の風景を思い浮かべると耳鳴りがした。

この違和感の正体は既視感だった。

「写真をご覧になりますか?」

男が差し出した写真を手に取る。
スナップ写真の束だった。

太盛やエリカ、マリン達が幸せそうに
遊んでいる光景が写っている。のどかな島生活だ

奥多摩と同程度の豪邸。庭にはテニスコートや農園がある。
写真は何十枚もあった。ミウは慎重に見ていく。

「この写真、私だよね? どうして私が写っているの?」

「あなたがそこにいたからですよ」

「いやいや。そもそも西日本に行ったことすらないんだけど」

「よくご覧なさい。ユーリや後藤もいるでしょう?」

確かに、写真の中に彼らの姿がある。

記念撮影というわけではなく、本当に日常を切り取った写真だから
嘘がない。厨房で皿洗いをしている後藤にユーリが話しかけている。
ミウが洗濯物を取り込みながらカリンとじゃれあっている。

長靴を履いた太盛が、畑で作物の種植えをしていた。
作業着姿で首にタオルを巻き、農作業が様になっている。

作り物とか、そういう疑いをかき消すほどの力があった。
それはまるで、こことは違う世界があることを
示唆しているかのようだった。

「ひとつ教えて。ユーリは……死んだよね?」

「亡くなりました」

男は最後に、残念ながらと小声で付け加えた。

「じゃあこの写真はなに?」

「ただの現実ですよ」

「現実?」

「はい」

ミウは理解が追い付かず、何も話せなかった。
男の方も黙ってしまい、ミウが話し始めるのを待っている。
こうしてむなしい時間が流れた。

廃墟に等しいビルの窓から光が差し込む。
どれだけ時間が経ったのか、ミウには見当もつかなかった。

緊張しすぎた胃がキリキリと音を立ててしぼむ感じがした。

太陽は、とうに天頂まで昇ったのか。
外の世界はどうなっているのか。屋敷のみんなは。
不安さが増すほど、人恋しくなる。

「あなたは、私にどうしてほしいの?」

「私はただのメッセンジャーです。
 党首様が直接あなたと会って話がしたいと望んでおられます。
 あなた様にこれからの進退を決めていただきたいのです」

「余計なお世話……かな」

「そうでしょうか?」

「党首様には感謝してるわ。でも、もう色々限界なの。
 太盛様もユーリもいないこの世界なんて、もういや!!」

ミウは男のわきを通り過ぎて階段を駆け上がった。

古びた階段の4階部分まで勢いに任せて登った。

ビルの屋上は広い。

四方を転倒防止用のフェンスが囲う。
フェンスは2メートルを超えるから、そう簡単に
飛び降りることはできない。

強い風が吹き荒れ、ミウは風邪を引くのではないかと
思ったが、これから死ぬ自分にはどうでもいいことだった。

重く、鈍い音がした。

ミウが後ろを振り返ると、鉄製の扉を男が
開けたところだった。
男は足音をたてずに近づいてくる。

ミウに男を信用しろというほうが無理だった。
例のスナップ写真の出どころは完全に不明。

見せられた時は奇妙な感覚に陥ったが、
太盛達のことを常に監視していたスパイが作った
合成写真だと考えれば納得できる。

ミウは血走った目でこう叫んだ。

「来ないで!! お願いだからそれ以上近づかないで!!」

男はミウの三歩手前で立ち止まる。
彼は見れば見るほど普通の人間でないことが分かる。

雰囲気といい、話し方といい、全てが常人とは異なる。
この世の者とは違う、なにか神がかり的な力を
持つ者のように感じられた。

ミウは恐怖のあまり立っていられなくなり、尻もちをついてしまった。

「ミウ様。手荒なまねをするのをお許しください」

なんと男はミウの頭部へ手を伸ばした。

「うわあああああ!! いやああああああ!!
 ママ!! 助けてええええええええ!!」

男はミウの両眼を覆うように優しく手を当てた。
10秒くらいそうしていた。そっと手を離す。

ミウはナイフで首を斬られたと思って出血を確認するが、
体に変化はない。変わったのは景色だった。

「は?」

そこは見知らぬ山の中だった。

生い茂った緑があたりを囲む。

山道の途中にミウはいた。最初に違和感が
あったのは暑さだった。ミウはとてもコートなど
着ていられなくなり、脱ぎ捨ててしまう。

セーターも暑くて仕方ないので袖をまくる。

続いて聴こえて来たのは虫の声。

「夏場とはいえ、山の中は比較的涼しいものですな」

男は能の面をしたままそう話した。
彼も暑さのため黒い服の袖をまくっている。

「ここは通称、低山と呼ばれる場所です。
 この山道をあと少し登れば神社があります。
 ご党首様が作られたものです」

さあ行きますよと言い、呆けているミウの手を取った。

ミウは抵抗しなかった。というよりできなかった。
事態の急展開に頭がついていかず、黙って男に着いて行った。

男は不気味な見た目とは裏腹に紳士だった。
西ヨーロッパ慣れした後藤よりもずっと女性の
扱いがうまかった。

「すぐ着きますから。
 足元の小枝にお気を付けください」

ひたいに汗をかいたミウにハンカチを手渡す。
ミウは素直に受け取って汗をぬぐった。

10分もせずに小さな神社に着いた。

山の中にある本当に地味な建物だ。
小さな賽銭箱もある。
だが、お参りなどする気にならない。

「鏡を出しますから、少し待っていただけますか」

神社の本宮にあたる建物の奥に入り、数分ほどして出て来た。

「この鏡は、党首様がそれはもう大切にしていたものです。
 本来なら私が触れることは重大な規約違反。
 実に恐れ多いことですが、こうでもしなければ
 ミウ様に信じてもらえないでしょう?」

丸い鏡が台の上に置かれていた。
歴史を感じさせる立派な鏡である。

「いわゆるご神鏡と呼ばれるものです。非常に神聖なものですよ。
 キリスト教徒のミウ様には、そう感じられないかもしれませんが」

「そうでもないよ? 日本の神様の力、今信じる気になったよ。
 テレビとかでそれとなく聞いてはいたけどさ」

「そう言って頂けますか」

男は初めて笑みを見せた。といっても仮面の裏ではあるが。

「これって夢じゃないんだよね?」

「はい。現実です」

「そうだよね」

「はい」

「ならさ、この鏡に映っている人も現実に存在する?」

「……それはどうでしょう」

鏡の中にユーリがいた。

本来なら正面にいるミウを映すはずの鏡は、
まったく別人物を映していたのだ。

ユーリは人形のように動かない。
いつもはまとめていた長い髪を降ろし、
化粧もせず、白いゆったりした服を着ている。

言葉と表情を亡くし、ただミウを見つめていた。

ミウは怖さよりも哀しさが勝った。
これは、すでに死んでしまった人を
鏡を通じて見ているのだと直感で理解した。

日本の宗教では、死んだ人と夢で再会した時は
決して言葉を発さないと聞いたことがあった。

この鏡がそういう霊的な力をもっていることは、
説明されるまでもなく分かってしまう。

そして、今、自分がこの山にいることも。

ミウはさめざめと泣いた。
そこにいる彼女は向こうの世界の住人。
でもこの超常現象で少しだけでも会うことができた。

男から渡されたハンカチが少女の暖かい涙で濡れた。

ミウが泣き止むのを待ってから、
男がミウの肩をやさしく叩いた。

「あの先に、太盛様達がいます」

彼は見晴らしの良い場所に立ち、海岸を指した。
灼熱の太陽が海面を照らしている。

「あの海は日本海ね」

「左様。お若いからか、実に物分かりが良いですね。
 そしてここは長崎県沖合の孤島。今日のような快晴の日は
 対岸の朝鮮半島を望むことができます」

「太盛様達、死んだのかな?」

「確かめようがありませんが、そう長くないでしょうな」

男は仮面を外した。

ミウは驚いた。あれほど外すのを渋っていたのに、なぜ急に外したのか。
ミウは恐る恐る男の顔を覗き込む。

年は20代の後半とみられた。
西日本の人特有の薄い顔立ち。非常に端正な顔をしていた。

能や歌舞伎の世界特有の品性を感じさせる美男子だった。

太盛もエリカを虜にするほど
美しい顔立ちをしていたが、この男はさらに美しい。

ミウは、まさか老人の仮面の裏からこのような顔が覗くとは
思っていなかったので果てしないほどの衝撃を受けた。

男は泣いていた。
頬を滴り落ちる涙をぬぐおうともしない。

ミウは、彼の顔から目が離せなくなった。
そして絞り出すような声で一言つぶやいた。

「なぜ……?」

それだけですべてを察した男が、そっけなく答える。

「私もあなたと同じ気持ちになったのですよ。
 もうどうでもいい。私は許可なくこのご神鏡を持ち出したことを
 党首様に叱られるでしょう。そしてあなたをこの島に
 連れ出したことも。だが、私の身に起こることはどうでもいいのです。
 あなたにはどうか未来を作っていただきたい。もう一つの可能性を」

男は腕で涙をぬぐう。そして鏡を片手に持った。

「お手をどうぞ」

空いた方の手でミウをエスコートして山を下る。

男が鼻をすする音。不快な湿度。首筋の汗のにおい。
木々の隙間から差し込む強烈な日差し。腕にまとわりつく蚊。

本当に、もう一つの現実世界にいると感じられた。
あの世に行ったという気はしない。別の次元に飛んだのだ。

ミウは男の手を握ると不思議と安心した。
酷暑の中、暑苦しくて仕方ないはずなのに、心地よくすらあった。

「私はエリカ様が憎い」

男が吐き捨てるように言う。

「あの女は邪悪な存在です。そういったオーラを全身にまとっている。
 ご党首様達は結婚前にあの女の正体に気づかなかったようですが、
 私は結婚を歓迎しませんでした。だが結婚前の幸せムードの中で
 どうして余計な口を挟むことができようか。それも一使用人の私が」

「私も……あの女は嫌いだったよ。殺してやりたいくらい」

「ユーリ嬢が死んだと聞いた時、胸が張り裂けそうなほど衝撃を受けました。
 あの子の出自は決して恵まれたものではありませんでした。死に際も同様です。
 太盛お坊ちゃまと愛人になって旅に出ると決めた時から、運命の歯車が
 狂ってしまった。もう手遅れだったのです。救ってあげることが
 できなかったか、自問しない日はありません」

「太盛お坊ちゃまって……。あなた、けっこう年上だったりする?」

「今年で37になりますが。それがなにか?」

「ええっと。その……若作りなんだね。最初見た時は20代かと思ったよ」

男は鳩が豆鉄砲を食らった顔をした。

「ふむ。まあ世辞と受け取っておきましょう。
 これでも食生活と健康には気を使っていますから」

話の腰を折られてしまい、恨み言を言う雰囲気ではなくなってしまった。

「私たちは大切なものを奪われた者同士。
進むべき道は同じだと考えております」

男は重たい鏡をミウに持つように言った。

「うわ。見た目より重いんだね。
 これ持って歩いたら筋トレになりそうだよ」

「ふふっ。あなたという人はこんな状況でも明るいな。
 後藤が気に入っている理由がよく分かる」

男は優しく微笑むので、ミウは少しドキッとした。

風が吹き、木々の揺れる音が響いた。
彼らは参道の入り口付近にまで降りていた。

数メートル先に真っ赤な鳥居がある。
まるで血で塗りつぶしたような色に染まっていて、
ミウは思わず後ずさりそうになった。

「さて」

男は真顔になり、ミウを振り返った。

「その鏡を持ったまま先へ進みなさい」

「え……でも、あなたはどうするの?」

「私はここで待っている。私には構わず進みなさい。
 歩いている間、決して後ろを振り返らないように」

ミウは鳥居を見た。あの下をくぐれば、ただではすまないのは
雰囲気から伝わった。だから決心がつかない。

「わ、私に死ねって言ってるの?」

「ミウ。世界は広い。こことは違う世界があるんだよ」

「違う……世界?」

「これ以上は聞くな。私もあまりここには長くいられない。
 私にはできないことなんだ。頼む」

ミウはしばらく彼の真摯な瞳を見つめていた。
尋常ではない夏の暑さ。男の前髪から汗がこぼれ落ちる。

嘘や冗談を言っているわけではないのは、
彼の瞳を見れば分かることだった。

彼はミウの敵ではない。
その彼が、大切な使命をミウに任せようとしている。

「分かったよ。私、行くね」

「ありがとう。君は素直な子だね。だから君の神に
 愛されているのだろうな。鳥居の下に着いたら
 鏡の裏に書いてある文字を口にしなさい。
 読みやすいように外国語の下にカタカナで書いておいた」

一歩一歩、重い鏡を抱えたまま、ミウは最後の遊歩道を下りた。
鳥居の前に達すると、全身の毛が逆立つほど霊的な力を感じた。

奥歯がガタガタ震えるのをこらえながら、鏡の裏を読む。

(この文字はアラビア語……? それとも旧約聖書のヘブライ語かな?)

『エヘイェ・アシェル・エヘイェ』(私は在りて有る物)

読み終え、鳥居をくぐった瞬間に少女の姿は消えてしまった。
最初からミウの姿がなかったかのように、そこには風景だけがあった。

持ち主を失った鏡が落ちた。

男は鏡を拾い、土で汚れた部分をタオルで丁寧にふいた。
鏡の下には六芒星のしるしがある。この鏡は、数千年前に
中東のシナイ半島から極東の島国へ持ち込まれた遺産だった。

ユダヤの失われた十二支族の一部が
この列島に住み着いた時に持ち運んだものとされている。

鏡面に傷はない。丸鏡に映ったのは亜麻色の髪の少女の姿だった。
口元を引き締め、長いまつ毛が悲しそうな目元を隠している。

「ああ……マリン様もあちらへ行かれたのですか。
 あなたの大好きなお父様もすぐに後を追うことになるでしょう」

男は鏡を持ち、また来た道を戻った。
よたよたと、幼子のように頼りない足取りだ。
しかし、その顔には確かな達成感がある。

「このような場所に一人で残されると、さみしいものだな。
 ミウと話せた時間は短いが、とても楽しいものだった。
 綺麗な心を持った少女だった。ミウならきっと。ミウなら……きっと」


               モンゴルへの逃避 『終わり』 次回作へ続く

モンゴルへの逃避

モンゴルへの逃避

(前作の孤島生活のスピンオフ作品です。 登場する人物は基本的に同じです) 主人公の太盛(せまる)はしつこい妻のエリカに嫌気がさし、 使用人であり、愛人のユーリとモンゴルへ逃亡してしまう。 そんな父を追い、愛娘のマリンが蒙古国へやってくる 一歩都市から離れると無限の大地が広がる 暴風。乾燥した空気。寒暖の差の激しさは さすが大陸国家である かつてチンギスカンの軍勢が駆けた大地での 生活は、彼らにはあまりにも過酷だった 太盛の携帯にエリカからの執拗な着信 彼女が放った刺客の襲撃 それらをやり過ごし、逃亡生活を 続ける彼らに追い打ちをかけるように、 どういうわけか弾道ミサイルが降ってくる 誰がどのような目的でミサイルを 放ったのか。謎である。今回の小説はすなわち、 逃亡系弾道ミサイル・ラブコメなのだ!!

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 初日
  2. 首都 ウランバトル
  3. 妻の放った刺客の襲撃
  4. 真夜中のウランバトル郊外へ
  5. 彼女の名はエリカ。太盛の奥さんである
  6. 「自然は美しいっていうより、ただ残酷なんだな」
  7. 「チンギス・ハーンは今でもモンゴル人にとって大英雄なのですね」
  8. 妻との電話。国境を越えて続く束縛
  9. 「ところでマリン様は学生の身でありますが、勉強の方はよろしいのですか?」
  10. 夫は妻へ離婚を告げる(電話で)
  11. 「学校に行くのだけが全てではないって、本当なのですね。旅は人を変えてくれますわ」
  12. ついにエリカが蒙古へやって来た
  13. 「ここにいるのはマリンだけか?」
  14. 「君はマリンだよね?」
  15. モンゴル・デート
  16. 母と娘の修羅場 (モンゴルにて) 
  17. マリンは車の中で戦争の歴史を聞いた
  18. 「お父様。今回の話は説明文が多いので、読み飛ばしてもいいですか?」
  19. ① メイド少女のミウは手紙を書いていた
  20. ② ミウはエリカに復讐したくなった
  21. ③ ミウは料理人の後藤とお出かけした 前半
  22. ミウは後藤と…… 後半
  23. ④ ミウは鈴原からICレコーダーを渡された
  24. ⑤ ミウは自殺したくなった
  25. ⑥ ミウは能面の男に運命を託された