不自然な無作為

不自然な無作為

お気に入りの作品です。色々な読み方(解釈)を発明してくれると嬉しいです。

「いかにも厳粛で、それでいて何かの模倣のようでもあり、頂点は鋭くとがり、卑劣とも思えるほど数多の追想を生み出していく。また、怨恨をも生み出す。何故なら、淡い青と微かな赤を帯びた薄絹で覆われたその姿は、まさに高慢ちきな無感覚で偽装されていたからである」と猫は言った。
 猫が言ったのは僕のことだそうだ。
 僕は淡い青と微かな赤を帯びた薄絹で覆われてなんていなかった。高慢ちきなどと猫に言われる覚えも無かった。
 猫はしばしば言葉を並べて遊んでいるらしい。意味を正確にはわかっていない。だが言葉が何らかの記号の役割を果たしていることは知っている。利口な猫だ。そして近頃、猫はこう言う。
「日々の生活が単調でもの足りない。世に有り余る物象を、全神経、全感覚で獲得することは無意味だ」と。
確かにそうかもしれない。感覚が洗練されても所詮猫は猫だ。猫は猫の範囲内で感覚を鋭くすることしかできない。僕がそう考えていると猫は冷たく笑って言う。
「猫は冷笑という猫を被って偽装する。高慢ちきな無感覚で偽装するのと同じ原理である」
僕はやはり高慢ちきなどと――ましてや猫に――言われる覚えはないのだが、猫にとっては記号のはたす役割などどうだっていいわけだ。語の感触や字面などを眺めてただ楽しんでいるだけだ。だから猫は自身を「冷笑の偽装」と称したりする。そこに深い意味などない。
 より正確に考えるなら、猫が言うことに論理性や合理性を求めることは不可能だと言える。猫が選ぶ言葉は全てランダムな文字の羅列にすぎない。意味を失った文字は説明文のない絵画や写真以上に不可解だ。しかし不思議と最低限の文法は守られている。意味の繋がりもある。猫にとったらそれは意図とは関係ない無視すべきものだ。
ならば猫が言葉を紡ぐことにどんな意味があるのか。僕らはそれを全体として捉えれば良いのか、部分を捉えれば良いのか、意味を除外した全体を一枚の絵画として捉えれば良いのか、そこに何を見出す事ができるのか。わからない。これが人間の限界ということかもしれない。
 高慢ちきな無感覚だろうと、無感覚の高慢ちきだろうと、そうやって前後反転させても構わないのだろう。と僕は猫に言ってみた。
 すると猫は言う。
「それは口実になる。私はそれを口実にする。口実にしなくとも、無辺際に点在する口実たちは、私にとって浮薄なもので、それはつまり、永劫の汚辱となる」
 察するに、なんとなく前後反転させるのは嫌、という意味だろう。意味がないはずの文章を、さっきから僕は勝手に解釈して意味を与えている。その行為は猫から見ると罪なことかもしれない。
 猫の手による芸術作品を僕が意味の額縁で限定された世界に閉じ込めてしまうのだから。猫からしたらその字の並びが美しい、全体の雰囲気が良い、音の感触が良い、・・・・・・それで十分だ。
 そして猫は言う。
「冷笑すべきは規律だ。それは決して道義心では守られない。私たち猫は、姦計を持つ人々が寄る辺無く彷徨する姿を見ても動じない。それぐらいで錯綜する人間は波浪に飲まれて死んでしまえ。私たちの術策と思索で平穏なお前たちの世界を陰鬱にしてやろうか。無窮に広がる時空間を見せてやろうか。人間は、そこはかとなく、威厳を捨てて、微細な穴にでも潜っていればいい」
 僕は何か猫に怒られているようだ。道徳や法に縛られる人間を皮肉っているとも思えるが、それは僕が思っているだけで、猫は無作為に語を並べているだけだ。無作為、と言うのは少し語弊があるが、少なくとも意味に関して猫は気にしていない。余白を勝手に埋めるのは僕だ。僕の中で語の束が解けて広がり、別のところと繋がって、新しく意味を結っていく。
言葉は生き物だ。人間に寄生する生き物だ。限りある人類の中で、限りある音の中で、その勢力を最大限に広げようと、言葉は未だに進化をやめない。

不自然な無作為

これは読む人によっていくらでも変わり得る物語です。言葉選びも妙な方法で行いました。意味そのものがかなり暴れまわっています。きっと。単なるナンセンスで終わるとちょっと悲しいです。

不自然な無作為

猫は言葉を理解していない。しかしそれでも猫は語る。猫の語る言葉たちは本来的には意味を持たない。だが、意味はそれぞれ読むものの中で生まれる。言葉が新たな言葉を呼ぶ。意味が新たな意味を呼ぶ。それらが錯綜する。錯綜してまた新たな物語となる。物語は終わらない。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-03

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