地下猫奇譚

地下猫奇譚

狡猾で強欲、人間ってものはつくづく嫌になる。と、そんな風に思うのは少し悲しいです。
だから書いてみたのかもしれません(きっかけは別にありますが)。嫌なんだけどね、それでもいいやっていう、そういう楽観的なものを書きたかったのだと……。

一、通りを行く人

 そこは私が初めて通る道だった。ある家の前にどぶがあった。ほとんどは暗渠だが一部格子になっていた。中から鋭い眼光を放つ生き物が前を通り過ぎる私を睨みつけた。
 不意を突かれた私は歩みを止めた。そんなところに生きものがいるだなんて思ってもみない。いたとしたってせいぜい鼠か蛙ぐらいだ、しかし大きさからしてどうやらその類ではない。
 金と銀の混じった毛は艶がよく、格子の隙間から射す微かな光を反射した。どぶ生活者の割には汚れていなかった。宝石のように不気味に光る黄色い瞳は人間を魅了し、赤ん坊がすすり泣くような甲高い声音は、行き交う人の耳に響きその足を留めさせる、僅かしか見えないがそれは弾力に富む身体でもってしなを作っていた。
猫だった。
 立ち止まる私を見て家の主人が言った。
「可哀そうな猫でしょう。そいつ、きっと小さい頃にそん中に捨てられたんでしょう。そのまま出られずに大きくなっちまったんですぜ、きっと。可哀そうな猫でしょう」
 確かに可哀そうな猫だ。太陽を光を浴びることもなく暗い暗い地下でその一生を過ごすのだ。可哀そうな猫だ。
「出してはやれんのか」
 私は猫に同情し男に訊いた。男は眉をひそめ、苛立ちと困惑の交じったような顔をした。
「役所に、・・・・・・役人に相談したんだが、駄目みたいなんですぜ。土木課の役人は『それは私達の管轄ではない、水道局に聞け』と言う。そこで水道局に聞いてみると、『下水は私達の管轄だが、鉄格子は土木課の管轄である』と言う。で、また土木課に言ってみると『鉄格子を取り除くことはできるが、その中にいる猫は水道局の管轄だ、私達の手に負える問題ではない』と・・・・・・。なんとかわしも猫を外に出してやりたいとは思うんだが、街の公共物を破壊することは許さない、と言われちまってね。どうにもならんのですよ」
 この話を聞き、役所の縦割りで融通の利かない凝り固まった構造とそこの人間に心底腹が立った。なおさら猫への同情が強まった。
「そうか、で、餌はどうしている」
「それなんですがね、だんな。出来る限りのことはしてるんですが、私の家も、ほら、見ての通り、そう裕福ではないものでして。それにこの不景気でしょう。せいぜい、三日に一度ぐらい、干し魚をやってるくらいですぜ。それ以外は通行人の施しを受けたり、あとはどぶの鼠やら蛙でも食っているんでしょう。私も何とかしてやりたいんですがねぇ」
 なんてことだ。餌すらまともに貰えていないという。
 地下環境は天敵という意味では少なくて安全でもあるだろうが、しかしそれにしても食べ物がないのではどうにも生活は苦しいはずだ。何とかしてやりたい。
「だんな、こう言っちゃ失礼かもしれねえが、ここを通る人間は、どいつもこいつも同情だけみせて、優しいふりして、そのくせ、ほんのちょこっと餌をやるだけで、良いことしたって気持ちよくなって、その後はしらんぷりですぜ。結局、どいつもこいつも、ただ一時の感情で猫を可愛がりたいだけなんですぜ。翌日にこの猫が死のうが死ぬまいが、そんなことちっとも関係ないんですぜ。だんな、だから変な同情はみせないでくだせえ。この猫が憐れでしかたねえ」
 確かにこの男の言うとおりである。猫のためを思うなら、猫を何とかできるのはこの男だけなのだ、この男に金をやって、市役所と何とか交渉させようじゃないか。それがこの問題の解決に一番役立つのではないか。
「みゃーお、みゃーお」
 家の中から三歳ぐらいの少年が飛び出してきた。男の息子であろう。猫は慌てて地下の闇へと逃げ込んだ。
「息子も、きっと、そろそろこの残酷な光景の意味を知るでしょうぜ。人間の残酷さってのはどんな生きものよりもひでぇもんだって、息子にはそんなん知らないで成長してほしかったものですがねぇ」
「おい、主人。私が金を出す。当分の餌代と、市役所と交渉して、費用がかかるようだったらその費用と、私が負担する。だから、この猫を何とかしてやってくれ」
「そうは言いますがだんな、わしだっていつも暇してるわけじゃないですぜ。餌代やら、工事の費用ってのがあったって、時間がなきゃどうしようもできないですぜ。わしだって何とかしてやりたいんだが・・・・・・」
「仕事を休めばいいだろう」
 どうも乗り気でない主人に私は苛立ちを感じていた。
「だんな、そんなことしたら息子と妻を食わせらんなくなっちまいますぜ。息子と妻を犠牲にしてまでこの猫を助けようとは思わんですぜ」
「ならば私が休んでいる間の給料も出そう。それでどうだ」
 この問題はもはや、私とこの男の交渉事のようになっていた。これで契約成立しなければ私は降りる気でいた。だが、男は眼に涙を浮かべながらかすれた声で言った。
「・・・・・・だんな、そこまでしてくれるんですか。ありがとう。ありがとうごぜえます。ありがとう」
 私の手を掴み、上下に振り、そのまま千切って持って帰るのではないかと思えるほどの力だった。
「どうだ、こんなもんで足りるだろう」
 私はすぐ銀行へ行き、かなりの現金を男に渡した。どぶに猫の姿は見えなかった。奥に入ってしまったのだろうか。
「ありがとうごぜえます。ありがとうごぜえます」
 さっきより快活に、男ははっきりと感謝を伝えた。
「さあ、私は行くとしよう。猫のことは、お前に任せるぞ・・・・・・」
 私はそこを後にした。遠く背後で、ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます、と言う男の声がどんどん小さくなっていった。男が熱心に頭を下げる姿が眼に浮ぶ。ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます・・・・・・。


二、猫

 はぁ、夏の太陽の下って、日差しがあんまり強いもんだからやんなっちゃう。人間様たちは、どうしてあんな場所でせっせと働いたり、歩いたり、動き回ったりと、忙しそうにしてるのかしら。それが人間様の気質ってものかしら。そうかしら。それならあたしたち猫は、こうやって怠惰に過ごすのが、猫の気質ってものね。
さ、今日も人間様におやつを貰いに行きましょう。・・・・・・ん、見知らぬ男が私を見ている。どうしたんだろう、いつもみたいに人間様が餌をくれないなぁ。お話し中だからかな。
 なにかしら、この男の同情に満ちた眼は。あたしが可哀想とでも思ってるのかしら。やめて欲しいわ。あたしは好きな時に地上にあがるし、地下はただ涼しくて気持ちがいいからいるだけなのよ。そんな同情の眼で見ないで欲しいわ。
「みゃーお、みゃーお」
 来た、あたしの唯一の天敵!
 私にとっての脅威はこの子供だけよ。大人の人間様はどいつもこいつも慈悲深くて優しいけど、この少年は野生の原理を知ってるのものね。
 弱いものはやられる。少年にとって私は恰好の獲物なんだわ。いやだわ。恐い恐い。
 早く逃げなくっちゃ。今日のおやつはおあずけね・・・・・・。さあ帰りましょう。
 地下を通ってすぐ、裏の建物があたしん家なの。主人はいつもあたしによくしてくれる。優しく撫でてくれるし、地下で汚れちゃった時は綺麗にブラシをかけてくれる。おまけに餌はいつも上等なものを用意してくれるの。素敵な生活でしょう?
 夕方になるとあたしはいつも主人の膝の上でのんびり時間を過ごすの。悠長な時間。ゆっくりと流れる時間。猫はちょこまかちょこまかと動いているだけが能じゃなくってよ。怠惰な時こそあたしたち猫の力が発揮されるってものよ。
 あたしたち猫は人間様からたくさんの施しを貰う代わりにね、人間の余分な時間を削いであげるの。すると彼らは時間の感覚を失うでしょう。それはとっても素敵な時間よ。時間に追われて働かされる人間にとってあたしたち猫が与える時間って、特別なものなんだから。
 昼間は暑くて外になんかいられないわ。さっそくお家に入りましょうね。
 さあ、おやつ抜きは不満だけど・・・・・・お昼寝でもしようかしら。


三、人間

 表通りの主人が言う。
「よお、この間よ、この猫を見た男がよ、俺に大金をくれたんだ」
 裏通りの主人は猫を抱きながら不思議そうに問うた。
「どうしてさ?」
「ちょっと嘘をかましてみたんだ。この猫がよ、どうやってもどぶから抜け出せないんだって言ってやったらよ、ちょろいもんよ、あの馬鹿な男は簡単に大金をくれやがったぜ」
「ほお、いくらぐらいだい」
 表通りの主人の言う金額を聞き、裏通りの主人の眼が輝いた。何せそれは一月の給金に匹敵するほどの金額だったからだ。
「おい、ちょっとまて」
 と、裏通りの主人が言った。
「つまりは俺の大切な猫を利用して一儲けしたってわけだろう。そんなら、その取り分の半分は俺が貰う権利があるってのが道理じゃないか」
 表通りの主人ははっとし、知らせるべきではない相手に知らせてしまったと後悔した。
「いや、ちょっとまて。あの猫にはわしだってしょっちゅう餌をやってるじゃないか。あいつはわしに餌を貰いに来て、ちょうどそこにその男が居合わせたってわけだ。あの金はわしがもらって当然だ」
「そうは言ってもだ、やはり猫が俺のもんだってことにはかわりないだろう。半分、いや、全部って言ったって良い所を、俺は半分って言ってやったんだ。その金を半分よこしやがれってんだ」
 裏通りの腕に抱かれていた猫は、さっと飛び降りて逃げていった。
 猫にとったら二人の男の殺気に満ちた表情は「みゃーお、みゃーお」と言って駆けて来る少年と同じものだった。
「ふざけんな、あれはわしがうまく騙したおかげだろうが!」
「お前こそふざけんな、あの猫は俺の猫じゃねえか!」
「何を言うか、くそっ!」
「くそとはなんだ、くそっ!」
「くそ、くそっ!」
「くそっ!」
「くそ」
・・・・・・


四、裏通りを行く人

 黄昏時、紅に染まる街は普段とは違った趣を見せていた。その哀愁を含む空気の中で、ふわふわぼんやりと、曖昧な記憶が飛んでいた。掴めそうで掴めない。何だったか・・・・・・。
 ふと見ると、家の前に置いた小椅子に、それに似合わぬ大きな体を乗せた男が猫を抱いてまどろんでいた。曖昧だった記憶が、もう少しで捕らえられそうな気がする。
『どこかで見た猫だ・・・・・・。金と銀の毛・・・・・・。宝石のような黄色い瞳・・・・・・。媚のある姿態・・・・・・』
 私は何とか記憶の糸口を掴もうとその男に話しかけた。
「可愛らしい猫だな」
「ああ、そうでしょう。俺が妻よりも愛する猫なんですぜ」
 と男は笑いながら冗談を言った。
「どこかでこの猫をどこかで見かけたように思うんだが・・・・・・」
「そうですかい。それなら表の通りでしょうよ。こいつはやんちゃでしてねぇ。よく、ほら、そこの排水口があるでしょう。そこから繋がってる表通りのどぶに顔を出しに行くんですぜ。そこで表通りの家の主人によく餌を貰いに行ってたんだけど・・・・・・。それはもうやめにしましたぜ。だから、ほら、この通り」
 と言って、排水口の蓋が持ち上がらないことを見せた。
「蓋を完全に閉じちまったのさ」
 私はようやくふわふわと飛んでいた記憶を捕らえることができた。それほど前のことではなかった。しかし、やはりあの男が言う通りだった。私は一時の同情を見せただけでその後すぐに猫のことなど完全に忘れてしまったのだ。
 そして当然ながらあの男に一杯食わされたことにも気がついた。
「どうして閉じたんだ?」
「あのくそ野郎、いや、失礼、表通りの主人のやつ、ある男を騙しやがったって言うんですぜ。ちげえ、騙したことにたいして俺は怒ってるわけじゃないんだ。俺の猫を使って騙したそうなんです。それに俺は腹が立ったって訳で・・・・・・」
「そうか、・・・・・・どんな風に騙したって言うんだ」
「この猫を、どぶ猫にしやがった。どぶから出られないって言うんで同情を買ったんだ。汚ねえ野郎だぜ、そのくせ、稼いだ金を一銭も俺にはよこしやがらねえ。くそっ」
 男が言ったことで私には全てが理解された。もちろん騙された男というのは私であり、騙した男は表通りの主人、そして猫を利用され一銭も貰えなかったと不平を言うのが目の前のこの男、裏通りの主人ってことだ。しかもこの男、不道徳に対して怒りを抱いてるのではなく、自分の猫を利用したくせにその代金を支払わない、その取り分をよこさない、そんなことに対して怒りを抱いているのだった。
 私も、この男も、表通りの男も、どいつもこいつも馬鹿ばかりだった。一番利口なのはこの猫かもしれない。
 と、男の表情が急に変わる。暗く、悲しげな色を見せる。だがその裏には、狡猾さを秘めていた。というよりも、見るからに顔から悪が滲み出ていた。
「この猫はねえ、だんな、そうやって利用なんかされて・・・・・・。だんな、可哀想な猫なんですぜ。表通りの主人に騙されてどぶを歩き回ってたせいで、すっかり病気になっちまったんだ。いや、だんな、見た目にそれはわからねえんです。確かに毛艶もいいし、肉付きだってしっかりしているように見えるがだな、実際のところ体の中はぼろぼろなんですぜ。でも、この通り、私はだんなのように裕福な人間ではねえ、だから、この可哀想な猫を助けてやることができねえんです・・・・・・」
「そうか」
 男の語り口は表通りの主人そっくりだった。私は思わず笑い出しそうになった。いや、既に口の端には笑みが微かに零れていたであろう。
「ど、どうしたんですか、だんな」
 怪訝そうに男が訊いた。
「いや、何でもない。いくらぐらいいるんだ」
「はっ?」
「だから、猫を治療するのに」
 男は一度、じっと考えるようにし、どのくらいならば私から金を引き出せそうか思案しているようだった。
「これくらいでどうだ」
 私は財布の有り金を全て渡してやった。表通りの主人にやったのよりは少なかった。
「あ、ありがとうごぜえます。だんな、いや、わりい、こんなのわりい、でも、猫が・・・・・・」
 迫真の演技は、表通りの主人同様に素晴らしかった。
「そう、猫が可哀想だからな」
「へぇ、すんません、だんな。ありがとうごぜえます。ありがとうごぜえます」
 私は金をやってすぐ、そこを後にした。
 本当にあの猫は可哀想だと思ったから私は金をやったのだ。前回はともかく、今回は騙されたわけではない。
 こんな馬鹿な人間に囲まれて猫は大層、苦労が多いことだろう。その猫への同情を金で示しただけだ。だが、この同情もまた一時の同情で、きっとすぐに忘れてしまうだろう。私たち、馬鹿な人間にはそれぐらいが丁度いいのだ。
 遥か遠く、後ろのほうで声が聞こえた。ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます、ありがというごぜえます・・・・・・。

地下猫奇譚

もともとはNHKの番組を見ていて書いた話です。
番組名は忘れました。
カメラが世界中の街を歩く番組。後からナレーションをタレントさんが入れてカメラに映る人たちと会話しているような感じに編集されたものです。


その時見たのがこんな感じです。

『フランスのとある街(どこだったかな?)でカメラが一軒の店の前で止まった。小さな金髪蒼眼の男の子(三歳か四歳くらい)が中から飛び出してきて「ミャーオ、ミャーオ」と叫ぶ先、格子の向こうの水路に小さな黄色い猫がいた。時々その店の主人がえさをあげているそうだ。その猫、もともとは裏の家の猫で、水路を通って遊びに来るのだ。』

あぁ!って思いました。街なかに物語が落ちてる!!って。

それもフランスの小さな街ってのがお洒落。

基本はそこから自分の中で膨らませました。


すると何故か皮肉っぽい作品に……。でも、前書きで書いたように人間っぽさを楽観的に表現できたかなって思います。

地下猫奇譚

猫と三人の人間が織り成す小さな物語。……とか言うと谷崎を連想しますが全く関係ありません。 人間の汚い部分を可愛らしく書いたつもりです。よければお読みください。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-03

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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