ドン・キホーテ
隠れたヒーローとなった中年男性・瀬底
交通戦争の救世主となった中年塾講師
ドン・キホーテ
与那町は沖縄県の南部にある人口一万九千人の中城湾に臨む小さな町で、その町のとある人の小さなお話である。
これでも服装には気を遣っている、ジャージは寝間着だから、ジャージでは外に出ない。
昨日、暇潰しに車を低速で走らせ東浜(あがりはま)を回っていると、どこからともなく声が聞こえた。
「人類を救え」
車を止めて辺りを見回したが誰もいなかった、ただ買い手を待つ広い空き地が海まで続いていた。
『人類を救う、何という難問だろうか、これまでで人類を救った人間など一人もいない、なのに人類を救え、神様でさえ救えないのに、人類を救え。きっと空耳だろう』
車を動かして、超スローなドライブを窓を開けて楽しむ。まだ住むには早い埋め立て地なので人気がないのがいい。西側はすでに住宅や商業施設ができて、すでにコミュニティらしきものができている。
公園には三組の子供連れの主婦が見受けられる。そこに男の私がいると不審者に見られるので、余り長居はしない。
「人類を救え」
『怪獣が攻めてくるのか、地球の危機、核弾頭ミサイルを使い大気圏外で爆破しろ、私は地球防衛軍の司令官ではないぞ、コミックか』
地球を救うという、色々なアイデアを私は思い付いた、そして突如雷の閃光の如く閃いき雷鳴が鳴り響いた、『道路では命を奪う交通戦争がある、戦争だ、戦火から子供達を救う、交通安全だ、人類、人間を救っている、人類・この水の惑星、美しい地球を救っているのだ、即座に行動を起こせ』。
車へ戻る途中に通りすがりの親子に「今日は」と声をかけると相手も「今日は」と答えて頭を下げた、瀬底は不思議な感覚になった、相手を操作した、意のままに操った、そのようなことは今まで経験したことのないことであり、驚きであった。心が晴れ晴れとし爽やかになった、嘗てテレビ番組で坊さんが言っていた「善行を積む」とはこのようなことであろうと確信した。まさにそれが人類を救う第一歩なのだ、この味わったことのなかった溌(はつ)剌(らつ)さはなんだろうか、天地から褒め称えられるこの感動は何物にも代え難い、まさに祝福であった。そして「人類を救え」のスタートのピストルは鳴らされた。
それから七日後小学校の登校時に、瀬底は交通安全のはっぴにたすき姿に交通安全帽を被り黄色尽くめの出で立ちで、横断旗を右手に「お早う」と子供たちに声を掛け、通学路の横断歩道に立っていた。子供たちの次々と発せられる挨拶が瀬底を実に爽快にし、力を漲らせた。子供たちが憧れる甲子園のヒーローになったような気分で、熱いものがぐっと込み上げてきて、なぜか泣けてきた。
瀬底はその夜、勤め先の進学塾に辞表を出した。妻にも相談はしなかった、子供二人がいるが生活に困るわけではない、両親が資産家で四棟三階建てのアパートがあり子供を楽に私学の大学に行かせることもできる、裕福なのである、だから塾の講師をして二十年も司法浪人ができた。自慢できるのは旧帝大の名古屋大学を出たというだけだが、プライドはあった、だが宮仕えが嫌だったので弁護士を目指し、一方同級生は官僚、都庁、府庁、県庁の役人か、一流企業に入社して生活を確保した。三年目までの浪人は楽であったが、それ以後は厳しかったが定職に付くでもなく、見かけは塾の講師という肩書きを貰い、世間に後ろ指を指されぬようにして司法浪人に甘んじた、それが二十年、いい加減疲れた、飽きた、消耗した。人生が見えてきた。県庁に勤め、天下り、雇われ社長、弁護士、公認会計士と一般の会社員とどこが違うのか、はっきり言えば月給だけだ、皆仕事はそれなりに頑張っている、変わらぬのは名古屋大卒、旧帝大卒という高校までよくお勉強しましたねというだけのレッテルだけである。だがそれも皮肉になりかねないことになっている、いい大学出なのにどうしたんでしょうかと世間の噂の種にしかならない。妻も結婚したての頃は、弁護士夫人を夢のように語っていたのだが、浪人四年目で一番目の子供ができてから一切そのようなことは口にしなかった、それより四棟のアパートの管理に興味を持つようになった、それで二十年の司法浪人に対して文句一つも言わなかった理由である。見た目より、世間体より、実利である、収入である、それが司法浪人の妻が掴み取った知恵である。
「冴子、黄色と黒、黄色とカーキ色、どちらが目立つと思う」
「目立つのなら黒やえび茶の濃い色に黄色じゃない」
「冴子、センスいい、それじゃ綿パン三着買うか、茶と黒と濃紺にするか。ああ、それから、塾は辞めたから」
「いいんじゃない、暴力亭主でもないし、冗談よ」
そう、それでどうする気などの失言はしない。結婚したてはもっとシビアだった、だがいつの間にかどうにかなるさの楽天家に変わった。冴子は隠しているが、瀬底が四回目の司法試験を落ちた時、家は自分が守る、夫には金銭のことと司法試験では期待せずに、自立することを腹を決めた。人生とは家庭を作り、子供を育て、安定した老後を送ることであり、それ以外は枝葉末節であり、歯牙にかけるものでもない。だが冴子はブランドではないがいい服を着ている、それ以上生活の質を落とさないというボーダーラインを引いた覚悟の身なりであった、貧乏はしない、せめて中流の上を堅持することである。はっきり言って、冴子は夫が横断歩道補導員になったのでこれで彼が弁護士の呪縛から逃れたのだとほっとした、それにボランティアはそんなに金はかからない、それで家族を路頭に迷わせることもない、これが起業家にでもなろうと思わぬ夢を再び描かれては、一家の危機であり、敢然と反対し思い止まらせたに違いない。だがボランティアに興味を持った、人助けをしていれば世間もそんなに悪くは言わない、そういう人も必要だと言うことに落ち着くだろうと思った。瀬底の方針転換は棚からぼた餅のようであった。
「そうか、よかった、反対されたら、どう主張すればいいか分からなかったから、そう言われると有り難いよ」
町立図書館に行き、本を借りた、十数年振りに読む法律関係以外の本である。
「人類を救え」
何かしら後光が差したような声で拒否できない神々しい声である、瀬底は嬉しさの余り涙が零れそうになりトイレへ行って顔を洗い、鏡を見て両手で両頬を叩いて気合いを入れた。「天が見ている、佇まいを凜として、人の模範とならなければならない」、図書館のパソコンから綺麗な立ち居振る舞いから、所作を閉館の午後七時まで見続け、なるほどこうでなければ、川端康成の言った「美しい日本」など分かるはずがない、形から入り心を整える。アドレスを自分のPCに送り図書館を後にした。
家に着くと妻の三面鏡の前で、立ち方の練習をした、背筋を伸ばしてまっすぐに立つ、それが中々できないがしつこくやる、やり続けることだけは司法浪人で骨の髄まで染み込んでいる。休んで、再び繰り返す、つまり姿勢を忘れずにいるかとの確認である、まっすぐ見ると言うことも難しいものだ。そこで三面鏡を自分の書斎に運んでしまった、徹夜で練習をするのである。瀬底が参考にしたのが小野田寛郎少尉である、ミンダナオ島でパルチザンとして戦後三十年も戦い続けた寡黙な人であった、その姿はまさに武人であった、背筋と両手をしっかり伸ばして歩き、まっすぐ前を見据える落ち着いた目、それは尊く、ビデオを見る度に瀬底は涙した。潔い、そのような言葉が彼の胸に去来した。
半年後、青少年保護のための町内の大通りや路地をパトロールするのに必要な乗り物を探した、けして交通事故を起こさない、人を轢いたりしない、それは自転車だ、思い立ったが吉日で自転車ショップで緑色の電動自転車で一番いいのをカードで買った、二十万、高い買い物だが自動車に比べれば安い、維持費もいらない、健康にもいい、いいこと尽くめである。荷台のステンレスの篭に交通安全と安全第一の黄色の二つの旗を固定し、交通安全の帽子を被り気分は合戦に出る戦国武将のようである、実に爽快な気分であった。出陣の法螺貝が遠くで鳴ったような気がした、武者震いがした。
「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」孟子が降りてきた、瀬底は味気ない六歩全書とは違い、さっそく読書の効果が出てきたかとほくそ笑んだ。その志こそが日本を、人類を救うのだと心に刻んだ。
電動自転車に乗り町内を巡回していると、通りから横道へ入った倒産した木工所の入り口で四人の中学生が煙草を吸っていた、身長は一メートル七十五ぐらいでいかにも凶暴そうな顔をして瀬底を一斉に睨んだ。
「おっさん、何じろじろ見ているんだよ、早く消えろ、交通安全のおじさん、バカかこいつ、交・通・安・全」と言うと四人は大きな声で笑った。
「人類を救え」
「見てしまったものを見なかったことにするのはできない、煙草を止めなさい、吸い殻は持って帰りなさい」
瀬底は彼らの暴力を恐れ、戦ってもこてんぱんにやられるだけだろうと怖じ気づいたが、引き下がるのはプライドが緩さなかった。
瀬底は腹を蹴られ殴られ吐きそうになって倒れた。
「おっさん、だから強がらずに逃げればよかったんだ」
「そんなことはできない、煙草は吸うな、中学生だろう」瀬底は立ち上がった。
「人類を救え」
『ガンジーの非暴力の抵抗』
瀬底の心から一切の恐れが消え失せた、殴られ蹴られ倒れて、立ち上がる、それが四回も続くと中学生が怯んだ。
「こいつ、笑ってる、気持ち悪い、なんだよこのおっさん」と一人が唾をかけて去って行った。
その一部始終を楽しみにしながら見ていた人物がいた。町で上地流「水流館」の空手道場を開いている大城であった。年は三歳瀬底より上で高卒で、彼は瀬底を密かに軽蔑していた、いい大学を出職にも付かない怠け者か、世間を見下しているという思いがあった。だが目撃したのは彼の思いとはかけ離れたものであった、誰も見てないのに逃げなかった、弱虫ではなかった、殴られて倒れても立ち上がり、注意をする指導者、黙り武士の姿を見た、そこには武道を志す者の心を打つ何ものかが潜んでいた、大城は感極まった、頭が下がった。だが助けには行かなかった、あれぐらいでは命に別状はなく、助けられても本人が迷惑ではないかと考えたからである。
大城は中学まで弱かった、不良の使い走りで屈辱的な日々を送っていた、身長も一メートル六十五しかなく細かった。その悔しさで高校に入ると中学校の不良どもとは縁も切れるので、隣町にある尚武館に入った。師範に入門の動機を聞かれて、「強くなりたい」「ケンカに強くなりたい」と言った。
「そうなると鍛錬は厳しくなるぞ、弱音を吐くなよ」と師範はケンカのことに対して何も言わず入門を許可した。
大城は学校が終わるとすぐに道場に行き、鍛錬に励んだ。組み手は初心者に痛みを覚えさせるために先輩が急所に打ち込んで痛みで転げ回らせる、それから全身を石のように鍛え上げ、武器化する、ビール瓶で臑を打ち、手刀で砂を突く、拳で巻藁(まきわら)を突く、悲鳴が出るほど痛いものであったが根を上げずにやり通した。高校を卒業する頃には顎で使われていた不良どもがやけに小さく見えた。大城は二十九で四段となり、石を手のひらで持って拳で割り、臑でバット割り、腹にバットで打たせ割ることもできた、瓦割り、氷柱割り、大きな石を素手で叩くことも披露宴の余興で見せた。鍛えられた爪先の蹴りの指も曲がらず相手の脇に差し込んでゆく凶器となっていた。
記念試合のフルコンタクトで海兵隊の一メートル九十余りの巨漢に、大城は左拳で腹を一撃されその場で蹲った、一本負けであった。そして翌年、三十二歳で与那町に道場を持った。それから彼は形を大事にする教えをした、強い奴は世界中に一杯いる、ヘビー級のプロレスラー、ボクサー、格闘家、それらにはどうしても叶わない、それより一分の隙もなく無駄もなく動く空手の形こそ、美しく強く、それを人生を通して目指すことであると心得ていた。それは彼の求める空手の美であった。
月曜日、午前十時、冴子が居間でPCを操作している、子供は学校である。瀬底はキッチンのテーブルで本を読んでも身が入らず、手持ち無沙汰で退屈で大きく欠伸をした。ちらりと冴子が目を向けると、瀬底はにこっとしたが、冴子は反応もせずにPCに向かった、忙しいのである。主婦がパソコンで忙しい、そんなことがあるか、思えばPCに向かっている姿は日常茶飯事である。
「そんなに面白いゲーム、サイトはあるのか、鬼気迫ると顔といいうか、魅入られたような顔をしている時があるぞ、注意しろ、夫の私でさえびくっとなる」
「鋭い、FX、国と国の通貨を売買することにより為替差益を目指すをしているの、ドルが安い時に買って、高い時に売る、それが秒ごとに乱高下するの、スリル満点、でも月三十万の利益を目指しているの、深入りはしない、ただ銀行に預けるより株の方が利率が高いから、財産の一割は株に投資している、路頭に迷うほどの欲張りではないから、安心して」
「いいよ、パチスロの趣味の方がもっと高く付くし、時間も無駄にする、FXって言うのはせっかちの君には合っているかも、でも深入りはしないでくれ、依存症と付き合う暇はないからな」
「あなたが思っているより私は利口なのよ、心配しないで」
瀬底は頷いて、割腹自殺した小説家・三島由紀夫の「葉(は)隠(がくれ)入門」を読んだ、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」、分からなかった、武士道とは死ぬことである、腹を切ると言うことか、そのような大きな間違いをする前に熟考しないから起きるのだと思った、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」呟き、なかなか含蓄のありそうな言葉だ、なによりなぜか格好いい、だが腹を切るのはご免だ、誰だってそうだろう、もし死が怖くないのなら、法律を守る奴はいなくなる、極刑が怖くないのだから、どんな罪でも犯す、人間は性悪説でしか、国家とは人間の暴力を最小限に防ぐ暴力機関である、違うのか、文学的表現は分かりにくいものだ、どちらとも取れる。
午後三時、下校の子供たちが横断歩道を安全に渡れるように横断歩道補導員の格好で自慢の電動自転車に乗り出かける。信号を見て、横断旗で子供たちを誘導し横断させ、一時間ほどで終わると町内パトロールである。四人の不良少年に集団暴行され、パトロールは止そうかと弱気になったが、そのような自分が許せずに意地で続けている、だが悪さをしている場面に出くわさなければいいと思っている、なぜなら注意するからである、注意しなければ、自己嫌悪が待っているからだ。だが、嬉しいこともある、小中学生は顔を覚えて会釈するようになり、自分の行動が理解されつつあるとの手応えをお覚えたからだ。まずは親しくなることだ、そうなれば彼らも私の意見に耳を貸すだろう。スキンシップか、いやそのような言葉ではない、別の物だが言葉が出て来ない、それはきっと子供たちを理解していない証拠だが焦る必要はない、着実に一歩ずつ進めばよい。
公園で缶ビールを飲んでいる高校生三人を見つけ、その前まで自転車を止めた。
「人類を救え」
「高校生が酒を飲むな、飲酒は二十歳からだ」
「何言ってるの、それぐらいは分かるよ、バカじゃないんだから、おじさん。お前は教師か、警察か、ただの交通安全のおじさんでしょう、何の権限があるんだ」
「法律に触れているから大人として注意している、素直に聞きなさい」
「人が楽しくやっているのに、水を差さないでよ、おじさんも飲む、一ダース買ったからさ」
「君たちはバカか、飲むなと注意され、一杯どうですかはないだろう、済みませんでしたと言って、缶ビールを全てゴミ箱に捨てなさい、高校を退学になりたいのか」
三人はベンチから立ち上がり、缶ビールをゴミ箱に投げ入れると口々に「糞オヤジ」と怒鳴りながら離れていった。瀬底は動悸が激しく目眩がした、そしてどうして自分はこんなに気が弱いんだろうともっと悠然と構えて注意ができていいはずだと悔しがった。
道を横切ろうとしている婆さんの姿が見えたので、十五メートルほど先にある、横断歩道を渡るように促した。
「あそこまで遠い、面倒くさい、余計のお世話だ」婆さんに罵られ、いくら説得しても聞く耳を持たず、果ては耳の遠い振りをし始めた。瀬底は婆さんの手を取り、右手を挙げて道を渡り、横断歩道まで行き電動自転車の所に戻ってきた。
偶然そこを通りかかった大城がその経緯を見て、心を打たれた。ただのお節介焼きとは違う、筋が通っている。普通の人なら、婆さんを渡しきったら、車が来ないかを確かめそこを逆戻りしてくるはずだ、だが彼自身は横断歩道まで行き引き返してきた、誰もいなくとも規則を守る、交通指導員としてのルールを守る、空手で言えば形が美しいのだ、できた人物だと痛み入り、ぐっと込み上げる物があった。
そしてふと思った、大城はどうして空手をしているのか、教えているのか。十分強くはなった、ケンカになれば負ける気はしない、反則などの禁止手がないからである、金的、目潰し、喉責め、一撃で弱点を突く、相手はのたうち回る。美しさ、舞踊と同じものを求めて武道と言えるのだろうか、何かあるはずだ、その何かが大城の胸奥で燻り続けて悩ましかった、ただ一つの憂いであった。空手とは何なのかというバカらしくも思える疑問まで飛び出してきた、すると世の中全てが疑問に満ち満ちて、一歩踏み出すことさえできなくなった、そしてその一歩も何への一歩なのかと疑問が湧いてくる、まるで心が疑問に雁字搦めにされているようであった。
学校へ子供を送ってきた五人の母親たちが流水館道場の前で立ち話をしていた、一方で大城は道場前の草花に水遣りをしていた。
「あの人見て、横断歩道の横の歩道を掃除している人、瀬底さん、名古屋大学出身らしいわよ、それで横断歩道のおじさん、奥さんが可哀相、夢もあったろうしね、夢破れて交通安全のおじさん」
「私が奥さんだったら、離婚しているわよ、耐えられないわよ、同級生は出世するのに黄色い帽子にはっぴにたすき、その写真がSNSでばらまかれたら、私、恥ずかしくて死んじゃうかも」
「はっきり言って、私が名古屋大学出身だったら、あんな格好絶対にしない、あれって受けないコスプレ以下の見せしめのような物だわ、それで本人は毎日笑って子供たちを迎えているわよね」
「そうなのよ、嫌そうな所が見えないの、好きでやっているって感じなの、楽しそうなのよ」
「子供たちに挨拶されて喜ぶのは身寄りのない老人ぐらいよ」
大城は聞いて入れなくなり、如雨露を置いて、奥様たちに話かけた。
「いいですか、いいことをやっているのだから、批判するのは止めましょうよ」
「何ですか、大城さん、もし自分の息子が一流大学を出て、交通安全のおじさんになると言ったら許しますか、私は絶対に許しません、もしすると言うのなら、知らない町でやってくれと言いますよ」残りの四人の母親たちが「そうよ」と相槌を打った。
「分かりました、仰るとおりです、ですが瀬底さんには瀬底さんの考えが有ってのことだと思いますよ、その辺を汲んであげないと、そうでしょう」
「その辺も汲んで上げられませんよ、交通安全のおじさん、交通安全のおじさんですよ、学歴なんかいらないでしょう、暇なら誰がもできるでしょう」四人は怒ってその場を立ち去った。
「瀬底さんはなぜ交通安全のおじさんになったのか」大城は大きく溜息を吐いた。そして横断歩道を見た、瀬底が姿勢正しく立つ姿が目に入った。その様子からは横断歩道補導員に対する一片の卑下も窺われず堂々としていた、それが大城の目には輝いて眩しかった。
日曜日である、今日は横断歩道の補導はない、朝からのんびりしている、FXも休みらしく冴子もPCを開いてない。子供たちは明け方から海に釣りに行っている。二人とも暇である、瀬底はキッチンのテーブルで老子・荘子の本を読んでいる、無用をパソコンの辞典で調べたら「無用の用」、「無用の長物」無用の用、矛盾した言葉遣いだ、丸い四角などと同様だ。無用の長物、たまたま鉢合わせになった同窓生が何をしているのかと聞かれ、横断歩道補導員のボランティアをしている言うと、君の学歴は無用の長物だなと呆れたような顔をして去った。あっても却って邪魔になる物のことらしいが、私は学歴が無意味だと、その時期に得た知識が無意味だとは思わない、形は変えても私の中に流れているものだと信じている、それでも司法試験の二十年の浪人はどうだったのか分からない、いや、塾の講師という職業を隠れ蓑にした臆病さは後悔に値するものだ、それだけは許せないでいる、正々堂々、輝かしい言葉だ。
「あなた、読書が好きなのね、六法全書に懲りて活字離れするんでは思っていたけど、他人の意見でしょう、どこが面白いの、諺名言名句辞典を読んだ方が効率的だわよ」
「数字とグラフばかり追い掛けているから、そういう短絡的な意見に染まるんだ、論理だけじゃないんだな、法律じゃなんだよ、そこが面白いんだ、きっと文学通は『深い』とか言うだろうな」
「深いね、浅くていいわよ、溺れる心配がないから、小説家って自殺者が多かったじゃないかしら、ほら太宰なんとか、そうでしょう、芥川賞の芥川なんとかも、たくさんいるのよ、文学の活字に魅入られたのよ」
「私も小説は余り読まない、だけどインターネットに一行も分からない小説というので、私もアマゾンで買った、長編小説だが一行の意味さえ掴めなかった、『フィネガンズウェイク』というジェイムズ・ジョイスの作だ、ほんとに一行も理解できなかった、それでも世界の名作の一つだという、一行も分からないのにだ、そこが文学の味噌だ、そう思うしかないだろう、翻訳されて日本でもいるんだから、なのに何で翻訳できたんだ、これも不思議、分からない、そこがいいのかも」
「バカみたい」と言うと冴子は買い物にと出て行った。
「しかし事実なんだからバカみたいでは済まさないだろう、違うか」瀬底は呟いた。
それから暫くして、読書に飽きて、交通安全のたすきにはっぴ、着替え交通安全帽を被り、瀬底は町内のパトロールに出た。日曜は家族連れが多い、じつに長閑な風景だ。まずは埋め立て地から回ることにした。信号灯の前で停止して、中学生に交通規則は守るようにと注意すると、ハイと彼らは笑顔で答えた、瀬底はすがすがしい気分になった、それから今日もいい日だと笑い、「ぞうさん」の歌を口ずさんでいた。埋め立ては進み、商業施設もできた、ショッピングモールが目玉だ、後は飲食店、居酒屋が多い。瀬底はゲートボール公園のまで電動自転車を止め、テトラポットの上に坐り海を眺めた青と緑のグラデーションの美しい海だ。十分ほどして、パトロールに戻り、喉が渇いたので水分補給に、大通りにコンビニに寄り駐車場で休みながらポカリスエットを飲んだ。隣の流水館の前で三人の若い主婦が子供連れで世間話の真っ最中で、師範の大城はいつものように庭の掃き掃除をしていた。
するすると四歳ぐらいの小さな子が歩道へ飛び出したが、大人たちが気付いた時には車が走ってきていた。
「人類を救え」の声は瀬底の耳元で炸裂し、恐れは吹っ飛んだ。
瀬底は猛然と駆け寄り、小さな子を抱き上げたかと思うと、そのまま前に横向きに体制を変え飛び込んだ、バンパーに足を引っかけた、車の急停車が悲鳴のように聞こえた。主婦の二人は子供を抱きかかえパニックとなり、もう一人は叫び声と共に泣き出した。大城は救急車を呼ぶように言うと、瀬底から子供を取り上げて、母親にここに来いと叫び、走ってきた母親に子供を手渡すと、母親は子供抱きしめて、ありがとうございますと何度も繰り返し泣いた。そして大城は瀬底に呼びかけると右手を動かし、
「痛い、痛い」瀬底は呻いて気を失った。
大城は骨は折れてなく、打撲だけで、怪我はなさそうに見えた、鍛錬もしてない瀬底がこれだけの怪我で済んだのは、奇跡に近かった、火事場の馬鹿力とはこのようなものだろうかと思った。
病院の待合室で大城は瀬底の診断結果を待った。子供は思っていたようにかすり傷程度の怪我で済んだ、医師は余程救った人の抱え形が巧かったんでしょうと告げたと言う。大城は二人を家に帰り休むように言い、瀬底さんには後日お礼に上がればいいと伝えた。
大城は事故を思い返していた。車に撥ねられそうになる子供に向かって身の危険を顧みずに何の躊躇いもなく助けに駆け寄っていく瀬底、そして見事に救い出した。その時大城は身が竦んで一歩も動けずただ悲鳴を上げただけだった、その時ほど武道という言葉が空疎な物に感じたことはなかった。時間が経てば経つほど自分が嫌になっていた、一歩も踏み出せずただ見ていた、もし瀬底がいなかったら、子供の無残な姿を目の当たりにして死ぬほどの後悔で泣き喚いただろう、彼も又瀬底に救われたのだ。
看護婦が来たので瀬底は歩み寄った。
「意識は戻り、頭に異常はありませんでした、右手右足に強い打撲を負っていますが、命に別状はありません」
「よかった、ほんとによかった」それは大城の全てだった。
ベッドに横たわる瀬底を大城は見た。
「痛いよ、痛いんだ」瀬底の第一声だった。
「あれだけのことやったのですから、痛いだけで済んだのは奇跡です、宗教は信じていませんが、このことばかりは神に感謝しますよ」
「瀬底さんは空手家だから、痛みに強いんでしょう、どうやって耐えているんですか」
「痛いと思っても、ただ我慢するんですよ、それしかないんです」
「痛み止めは飲んでるけれど、効かないんですよ、痛みを感じやすい体質なんでしょうね、私はモルヒネを打って欲しいと言ったら、お医者さんはそれはちょっと待って下さいと言うだけで、打とうとしないんですよ、逃げてばかりです、ほんとに頭に来ますよ」
「奥さんに電話しますので、携帯の番号を教えて下さい」
大城は冴子に電話をし、事情を話し、心配はないと告げた。
「瀬底さん、どうしたら今日のような場面で命懸けで車の前に飛び込めるんでしょうか、私は茫然とするだけで動けませんでした、武道を志した者として恥ずかしい次第です、その極意を教えて下さい」
「簡単だよ、声が抵抗できないような声が聞こえるんだ『人類を救え』とね、そしたら体が勝手に動くんだよ」瀬底は真顔で言った。
大城は雷に打たれたような衝撃を覚えた、達人とはこれほどの高みまで上り詰めるのかと恐れ入り、その日は瀬底を自分の武道の遙か彼方の生死を超えた師と崇めることになった記念すべき日となった。
ドン・キホーテ
お告げを聞いてそれを実行する中年男の行いに、感動して弟子になる空手道場主の大城