秋と雨と猫

今までより、ちょっとだけ長め。
休憩しながらどうぞ。
自分ではそんなつもりないけど、多少の不適切要素をもしかしたら含んでいるのかもしれません。

1

 差し出された小さな掌に漏れ聞いたのは、過去のクラスメイトの言葉だった。
 ――■■■と□□□を区別するの、日本だけらしいよ。
 そのクラスメイトもまた、小さな手をしていた。丸められ、一本だけまっすぐ伸ばされた柔らかそうな指は、風の冷たさ故に閉め切られた窓を示していた。国語と算数は微妙だが写真や図鑑は好きで、地声が大きく体育ではいつも前線の、その頃から確立していた教室のピラミッドの頂点に立つクラスメイトだった。
 窓の外で、またひとつ、はらりと赤い葉が舞った。赤い葉は、太い木の根元に深浅様々な斑模様を描いていた。
 ――■■■が落ちてる。あ、また落ちた。
 そのクラスメイトを囲む面子の中に、俺も含まれていた。俺はいつも見るだけだった。名前が出ただけで戸惑っていたのに、突然たくさんの視線の中心に据えられたことで頭が真っ白になった。
 今思うと、なににそんなに傷つき、なににそんなに怯えたのかわからない。でも当時の俺は、何故か沸き起こったクラスメイトたちの大爆笑がとても怖かった。目という目の黒色が、飛び出して針になって全身を刺していた。俺が家に見放された一番最初のきっかけが、たぶんそれだった。
 握り返されるのを待っている掌が、空中でぴくりと動いた。俺よりも下にあるふたつの目は、猫みたいに動かなかった。
柚井(ゆずい)くんって呼んだほうがいいの?」
 どういう意味で訊ねたのかはわからなかった。肩の鞄を無意味に掛け直し、俺は無言で顔を逸らした。なんで個室じゃないんだろう、くそぼろ施設がと内心で悪態をついていた。
 細長い爪がくっついた手持無沙汰な指が、唇に置かれていた。下を向いて少し考えた後、猫みたいな両目がまた俺を見上げた。
「遠いと思う」
「なにが」
「だってこれから一緒に暮らすんだもん。家族じゃん、それ」
 同室になる奴の情報は、予め聞かされていた。ふたつ年下で、つい最近、ルームメイトが親族に引き取られたこと。気分屋なところがあるが、素直で聞き分けがよく、周りに気を配れる性格であること。生まれたときからずっと暮らしているため、職員でも知らないような施設敷地内のルートを知っていること。血縁者が会いに来たことは一度もないこと。
「じゃあ、ゆーくんでどう? おれのことは真也(しんや)でいいよ」
 再び小さな手が宙で開いた。俺はまたもや反応しなかった。目線をずらしたその瞬間、右手の両面がじわりと熱を持った。真也は俺の右手を両手でサンドしたまま、肘を折って持ち上げた。
「よろしく、ゆーくん」
 不揃いの白い上下の歯が、不恰好な隙間を作っていた。部屋の天井の真ん中に取り付けられたカーテンレールを挟み、ちょうど正面にあった窓の向こうで、赤い葉の先から細かい粒が垂れていた。真也は8歳、俺は10歳だった。
 あの日も、今日みたいな雨だった。細い雨粒がしとしとと降りしきる、秋の冷たい雨。おかげで湿度は高いが、晴れの日は朝昼晩で不安定に振れる気温は一定の低さを保っている。
 台所に置いた鍋と野菜、豚肉、卵、箱に入ったラーメン鍋の元、真也が上機嫌にMCを務めるバラエティ番組を交互に見つめ、手元のスマホで時間を見た。夜9時少し前。真也が来るのはもうすぐのはずだった。
 泊まりに行きたいと真也が言い出してから、半年が過ぎていた。都合が合わないのはあっちだった。現役高校生にして忙しく地方や都会を駆け回る真也には、オフの日がほとんどない。俺としては両方翌日休みが理想だったが、そんな日はないしあっちがテレビ出演はオフ扱いなどと半ばキレ始めたので、もうその概念を適用することにした。確かにその概念がなければ、泊まりに出かけるような元気はなさそうだと少し思った。
 チャイムが鳴った。着いたよ、と一言連絡するよりチャイムを押すほうが早いというのは、真也の意見であり正論だった。
「手ぶらっていうのもなんだから、アイス買ってきた」
「さんきゅ」
 ラーメン鍋をリクエストしたのは真也だったが、材料調達は譲らなかった。同い年ならともかく、一応こっちが年上である。それを思ってのことか、真也はあまり食い下がらなかった。
 コンビニの袋に入っていたのは、ラクトアイスではなくアイスクリームだった。付属のスプーンは紙製でも木製でもなく、かつていた施設では間違っても出てこなかった高級品だった。
「適当にしてろよ。ラーメン鍋、すぐできるから」
「じゃあぬいぐるみ選んでる。ひとつもらっていいんだよね」
「ダメだっつっても決行するだろ」
 秋雨と真也と丸い容器。心の端がざわつくのを感じながら、冷凍庫にしまった。真也にずっと言っていないことがあった。もし真也が覚えていれば話そうと思うと同時に、真也なら絶対覚えているという確信もあった。 
「ゆー君さあ」
「ん」
 そんなふうに改まった切り出され方をすると、平常通りの顔が崩れないかといつもびくついていた。例に倣って今日もそうだった。
 お椀――と言っても部屋に一人分の食器しかないので、用意しておいた使い捨てのプラスチックのお椀である。盛った麺の最後の一啜りを終え、おかわりの一杯を取り始めた真也の隣には、タオル生地で幼児体系のクマが座っていた。手触りがいいしなにげにゲットに時間を要した一品だったので、それに目星をつけられたことに俺は若干ショックを受けていた。
「毎日自炊してるの?」
 きつい結び目に鋏を入れたみたいに、緊張感が一気に解れた。そんな安堵を出さないように意識して表情を変えず、真也が離した菜箸を持った。
「しなきゃどうにもならないだろ。外食するほどリッチじゃないし、油臭いのに店入るのも嫌だし」
「してくれる彼女いないの? ゆー君優しいし、いないの絶対おかしいと思うんだけど」
「だからいないとは言ってないだろ」
「いるとも言ってないじゃん」
「そういうお前は?」
「あー、俺ね」
 予想と違う返しだった。鍋の底からおたまに救い出された卵が、ころんとお椀に転がった。俺も今日は使い捨て食器にお世話になっている。
「一ヶ月くらい前に。お互いのルールだから、あんまり詳しいことは話せないんだけど」
「え、あ、うん……そっか」
 そりゃなにより高校生なんだから彼女くらい。と思いながらも、いないことを知っていたつもりで訊き返した俺は意表を突かれていた。
 出てくると踏んだ答えと違っていたから驚いただけだ。一応そんなに興味のないふりをして、俺は再びお箸を持った。
「クラスの子?」
 屈指の人気芸能人という身分を兼ねる真也なら、交際するのに気を遣うのは納得できた。邪推が大好きな世間は、すぐによからぬ方向に物事を結びつける。
 しかし真也は、意外にも頷かなかった。
「同い年のモデルの子。今のところは週休二日制って言ってた」
「OLかよ」
「もう別れちゃったんだけどね。一週間とちょっと前に」
 こういうときになんと言えばいいものなのか、俺の19年の人生ではまだ培われていなかった。見た目は派手だけど話すと知的だった、などと説明する声は対応に悩んだ頭にあまり入ってこず、卵の黄身の熱さだけをくっきりと喉に感じて苦しかった。
「実質数えるくらいしか会ってないってことか? それもうノーカンでいいんじゃないの」
「ノーカンはダメだと思う。2回もキスしちゃったし。どっちもあっちからだけど」
 どんなの、と訊こうとしてやめた。無粋すぎる。
「でも、お別れもあっちからだよ。すれ違いってやつ」
「3週間足らずで? お前が忙しすぎるから?」
 小気味よかったリズムが、突如ブレイクした。
「まあ、言い出したのもあっちだからさ。俺も別に深くは考えてなかったから」
 なんでもない真也の口調に、違和感は消え去っていた。ごちそうさま、と手を合わせた真也の爪は、昔と同じで綺麗な細丸だった。
「お風呂入ってからアイス食べる」
「先どうぞ。温度は好きに設定してくれ」
「設定とかー。今どき赤色と青色をバランスよく捻るやつなのに」
「バカにしてんの」
「褒めたんだよ。あれ好き。昔を思い出すよね」
 真也はプラスチックのお椀を軽くすすぎ、残りの食器も分別してゴミ袋に入れると、自分の荷物からタオルとトレーナーを引っ張り出した。真也が今思い出している昔は、どんな昔なのだろう。脱衣所のドアに隠れる背中を、俺はぼんやりと見つめていた。

2

 次のきっかけになったのは、とある休み時間だった。図鑑好きのそいつはお喋りに夢中になるあまり、床に転がった自分の消しゴムに気付いていなかった。俺はもうそいつの取り巻きではなくなっていたが、席が近かったので消しゴムに気付いた。
 自分の名前は、結構気に入っていた。それが一時とは言え、そいつの一言があったためだけに、クラスの笑いの中心となった。わざと消しゴムを踏んづけ、自分の近くにずり寄せた。やっと指を使わずに読めるようになった時計の針を確認し、チャイムが鳴る寸前に、さも今しがた自分の消しゴムを落としたかのような素振りで、そいつの消しゴムを拾って筆箱に入れた。小さな罪悪感が、ぱっと芽吹いた。ちょっとした仕返しだと良心に弁明すると、罪悪感は少し萎んだ。授業が始まり、消しゴムがなくなったことに首を捻るそいつの横顔を見て、もっと萎んだ。反対に、微炭酸のようなすっきりした爽快感が膨らんだ。
 克明に記憶しているのは、そこまでだった。以降にどういう経緯があって、完全に手癖になってしまったのかは、不可解なことに自分でもわからなかった。ただ、標的を様々に、いろいろなものを盗ったことは覚えていた。メモ帳、チョコレート、糊、菓子パン。くすねたはいいが、どうでもよくなりすぐに捨てたものもあった。あの消しゴムだけは何故か筆箱に入れたまま暫く置いていたが、最終的には路上に捨てた。
 親に叱られながら、泣かせながら、ときになにかの施設で2週間程過ごし、また家に戻り、危うい均衡の月日を過ごした。その間の一定期、葉を傘みたいに生い茂らせる木があるせいで余計に狭い家の庭に、茶色い斑模様の野良猫が住み着いていた。親は、家にあげることはなかったが、その猫をもみじと呼んで可愛がっていた。もみじがもみじと名付けられたことを知った瞬間、俺の中で、ようやく緩く結びつきかけていた糸がするりと解けた。それは秋のことではなかった。
 真也と同じ部屋で過ごすようになってからも、手癖に変化はなかった。さすがにわざわざ外に出てなにかを盗ることはなかったが、意味もなく職員用のボールペンを掠めたり、大浴場の石鹸を持ち帰ったりしては、ひとりひとつ与えられる小ぶりの学習机にこれ見よがしに置き晒した。真也は一度だけなにか言いかけたが、なにも言わなかった。
 ボールペンも石鹸も、いつの間にか学習机から消えていた。真也がそれとなく元の位置に戻していたのではなく、食堂や洗面所の隅といった、それぞれの品がうっかり置き忘れられたと解釈されそうな場所に移動させていたことは知っていた。別に鬱陶しくはなかった。応じたことなんて一度もないのに、飽きもせずにトランプやピアノやアニメ鑑賞に誘ってくる真也に興味がなかった。振り返るまでついてくるということもなかったので、尚更どうでもよかった。
 霧のような雨が屋根を打つ、週末の昼下がりだった。あまりにも暇なので図書館で勝手に抜き取ってきた小説を眺め、飽きてはいつもよりも浮き出したような窓越しの葉を眺め、また飽きては文章に戻り、といったスパンをベッドで繰り返していると、部屋の外が妙に騒々しいことに気付いた。
 栞の紐を挟んで本を横に置き、身体を起こした。残念ながら真也側のテリトリーにあるドアノブを捻ると、目の高さに緑色のまんまるがふたつ現れた。
「ツナ!」
 抱えられた濡れた子猫の名前だと行き着くまでに、3秒かかった。真也は右上のちょっと変な位置から生えかけた歯を覗かせ、息をつきながら、とても楽しそうに笑っていた。
 ツナは無抵抗に後ろ足をぶらつかせていた。
「ゆーくん、見て。ツナ」
「しり」
「おしり?」
 まるで伝わっていなかったので、手で示した。
「ちゃんと支えてやらないと。足のとこ」
 真也は胸元でツナを抱き直した。ツナは大人しく、ときどき頭を動かすくらいでされるがままだった。一瞬大きく開けた口から見えた牙に、ツナっぽい白いものが引っかかっていた。
 若い職員さんを含めたギャラリーが集まっていた。長い髪をポニーテールにまとめたその職員さんを、真也は振り切ってきたようだった。施設の敷地内に迷い込んだ猫を、真也が抱えて走ってきた構図は容易に想像できた。こいつがすばしっこいことは、聞いてもないのに喋り続ける内容から知っていた。
「いっしょに住むことにした。いいでしょ」
 猫という生きものを初めて見たとでもいうような、真也はかなり興奮した様子だった。腕の中のもふもふの感覚に夢中で、ポニーテールの職員さんの困り顔の説得も、途中参加と思しき年配の職員さんの優しい諭しも、まるで聞こえていないかのように真也は目をきらきらさせてツナに食い入っていた。
「ゆーくんもいっしょにお世話しようよ。きっとたのしいよ」
「無理」
「なんで」
「困らせんな」
 俺の目線を、真也も追った。踵を反転させ、肩を少し動かした。周囲がやっと見えた様子だった。
 ツナと住めない理由を、真也は黙って聞いていた。子どもたちのギャラリーは、だんだん散っていた。俺はバカみたいに突っ立って一切口を挟まず、しまいには真也とふたりの職員さんだけになった絵面を眺めていた。
 ペットを飼うのはとても大変なこと。学校もある子どもだけで、全部の世話はできないこと。猫アレルギーの子がいるかもしれないから、例えすべての面倒をこなせたとしても難しいこと。今いなくても、今後、細かい毛にも反応してしまう子が来たとしたら。穏やかに降り注ぐ正論に、真也は少しずつ顔を曇らせた。腕にぎゅっと力を込め、時折ツナの両耳の間を摩りながら、真也は顎を引いた。それが頷いたのではなかったことは、すぐにわかった。
「いっしょがいい」
 面倒を見られないと言って捨てるわけにはいかない。実家に猫がいるので相談してみる、とポニーテールの職員さんが笑いかけた直後だった。
 空気が変わった。膝を折っていた年配の職員さんも、中腰だったポニーテールの職員さんも、目を見合わせた。俺も驚き、真也のちょっとしたくせっ毛の黒髪を見つめていた。気分屋だが素直で聞き分けがいい、と当初聞いていた情報が頭を擡げた。
 いい加減地上に戻りたいというように、ツナはもぞもぞと蠢いていた。
 だからね、と年配の職員さんが髪を耳にかけながら言ったときだった。真也は、短く喉を鳴らした。
「いっしょがいい!」
 耳が切れるような高い声に、知らず肩が跳ねた。気づいたときにはもう、ツナは真也の肘を蹴っていた。ポニーテールの職員さんが一瞬迷い、中年の職員さんと目配せして、ツナを追いかけて走り去った。
 ほんの僅かな間だけ、真也の呼吸が止まった。次の瞬間にはもう、小さな子どもが泣き出すお約束の、掠れた声と鼻を啜る音が聞こえていた。
 目を擦ろうと持ち上げられた真也の手首を、血管の浮いた手が火のつく勢いで掴んだ。背中が反り、始まりかけた大声が一瞬途切れ、でも結局真也は大きく息を吸った。
 真也は両手首を片手で抑えつけられ、もう片方の手で背中を押され、無理矢理引っ張られるように職員さんに連行されていった。真也はずっと声をあげていた。ふたりの姿が広い洗面所のほうに見えなくなっても、今まで見てきた真也からは結びつかない、異常な嗚咽が轟いていた。俺は何故かその場を動けず、顔を逸らすことさえできず、外の雨音を掻き消して響き続ける泣き声から逃げられなかった。
 翌朝、専用の小皿を置いて保護していたツナがいなくなったことが判明した。俺から伝えられたそれを、まだベッドから出ていなかった真也は、ふうん、と背中で聞き流した。

3

 布団は一組しかないので、冬用の毛布やら掛布団やらを代用して真也の寝床を作っていた。薄いけど一応絨毯を敷いているし、一応掃除もしているので、今どき畳の床でも片付けにそこまでの手間はかからない。入浴後に高級アイスをたいらげ、少し話して、明日も早いけど夜更かししたいと言う真也を黙らせて電気を消した。真也は文句を言いながらも、タオル生地のクマを抱いて嬉しげに布団を被った。
 俺が寝たのは、真也の寝息が聞こえてからだった。先に真也が眠らないと眠れないのは、昔からのことだった。
 半覚醒した暗闇で、聴覚が淡く機能していた。霧のような雨粒が、断続的に屋根を濡らしていた。まだ降ってるのか、と思った。細く開いた視界から、密度が引いた。不安定な息遣いが雨音に紛れていたことを、そのとき初めて疑問に思った。
 右頬に触れた指の冷たさが、眠気を消し飛ばした。すぐには理解できなかった。
「ゆー君。ねえ、ゆー君」
 鼻の奥がつんとするような声を滲ませ、真也は俺の頬に置いた指を少し曲げた。なにが起こっているのか、俺にはまだわからなかった。というより、頭が追いついていなかった。暗がりに慣れた目が、真也が酷く泣いていることを識別しただけだった。
「ゆー君、お願い。俺のお兄ちゃんになって」
 出てくる言葉がなく、動作もなく、俺はしゃくり上げる真也をそのままの姿勢で見ていた。
 何秒かあって、ようやく俺は身体を捻った。途端に両肩を強く圧された。小さくくぐもった声が出た。真也は震える吐息で、眉間をぐっと寄せて、次から次に涙を伝わせ、縋るような目で俺を見下ろしていた。
「考えてたんだよ。それでわかってた。俺は誰かに一緒にいて欲しいだけなんだって。寂しいときに、ひとりじゃないのを思い出せればいいってこと」
「落ち着け。そこどけ」
 視界の端を、毛布の外に転がるタオル生地のクマが掠めた。俯せで無造作に放り出されていた。
「だから付き合うようにしたんだ。この子が一緒にいてくれるんだって。でも、ちょっと思ってた。俺が誰かといたいのは、そういうのとは違うんじゃないかとも。そしたらやっぱりそうだった。一緒にいるだけじゃダメなんだもん」
 加減して突き飛ばすしかなかった。夜分に大声を出せないし、煽ることになっても困る。俺の判断の意図は、真也にも伝わったようだった。短く息を詰め、少し身を引き、申しわけなさそうに顔を伏せると、真也は袖で目元を拭った。電気を点けると、その袖に変な形の染みが広範囲でできていることがわかった。
 台所に入って冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出した。雑多に詰め込んだ引き出しから紙コップを抜くのは面倒なので、我慢して俺のを使ってもらうことにする。食器棚を開け、ひとつしかないグラスにペットボトルを傾けた。外では、相変わらず雨が降っていた。
 真也は俯いたまま、両手でグラスを受け取った。
「あったかいココアとかが出てくるんじゃないの」
「つまらん軽口叩くくらいには落ち着いたか」
「何時?」
「2時。ココア粉あったとしてもお湯は沸かさん」
 小さく笑って、真也はグラスに口をつけた。それから、投げ出されたクマをやり場なさそうに引き寄せた。
「変な夢でも見てたのか」
 真也の前に胡坐をかいた。真也は黙ったまま、首を横に振った。
「夢とかあんまり」
「じゃあさっきのなんだよ」
「わかんない」
「なんか言いたいことがあるんだろ」
「ない」
「まじの顔してたぞ」
 真也はもう一度喉を動かした。俺が起きる何分前から泣いていたのか、目の中も周りも赤くなっていた。呑気に寝ている俺の隣で、クマを抱き寄せて必死に堪えていたのだろうか。そう思って見てみれば、クマの頭にも染みが浮いているような気がした。
「ずっと誰かと一緒にいたいと思ってるところが似てるって、あの子が言ってた。だから付き合おうかって」
 そう思っていたとして、真也が人に話すとは思えなかった。彼女は見た目と相反して知的だったらしいので、真也の心の一部をなにかのきっかけで嗅ぎ取っていたのかもしれない。
 ツナを抱きしめて離れようとしなかったあのときの真也が、クマのぬいぐるみに顔を埋めている現在の真也に重なった。
「寂しいときに寂しい思いしなくて済むと思って、あんまり考えずに頷いた。変なこと言わないし、そもそも口数少なかったし、静かで実際印象はよかったんだ。この子も誰かに横にいて欲しいんだから、埋め合えるかもと思ったりして」
 一息つき、真也は続けた。
「付き合うことにしたそのときに、あっちからキスされた。びっくりしたけど一瞬触れただけだったし、当然ついてくるものだってすぐ思った。違和感はあったけど、彼女とか初めてだったし、そのうち消えて慣れていくんだと思って」
「それが消えないし、慣れてもこなかったってことか? でも数えるくらいしか会ってないし、2回だけなんだろ」
「呆れたみたいに言わないで。俺とあの子じゃ求めるものが最初から違ってたんだよ。スタートが同じなだけで、過程もゴールも全然違う」
 普段の穏やかな口調とは似つかない、吐き捨てた言い方だった。一瞬後に、真也は前髪を揺らした。胸に抱いたクマの出っ張ったお腹が、また少し膨れた。
「ごめん。もう帰る」
「呆れてない。俺の言い方が悪かっただけだ。それに、この時間に歩けないだろ」
 浮かせかけた腰を、真也は再度下ろした。残っているお茶を飲み干すと、空いたグラスは手持ち無沙汰に玩ばれた。俺がそれをもぎ取った。
「結局恋人っぽいことしてないんだよね。時間が合わなかったのもあるけど、どこかに行ったわけでもないし。付き合ってるの内緒だったし」
「連絡は?」
「口数少ないから。俺だってマメじゃないし」
「じゃあさ、別に違和感じゃなかったんじゃないの。いきなり距離詰められたからびっくりしただけで、そのくせに付き合ってる事実だけがあってまだ形がなにもないから、宙ぶらりんが気持ち悪かっただけで」
「形って?」
「え?」
「形ってなんなの?」
 そこを切り返されるとは思っていなかった。付き合い始めでほとんど時間を共有したことがない状態を示したつもりだったのに、真也にはまるで違う意味で捉えられている。それがわかり、つい俺は口を閉じてしまった。
「共演者挨拶に紛れて、俺のとこに来たんだ。短いつまんない世間話があって、襟掴まれてまたキスされた。それだけで驚くのに、触れるだけじゃなかった。逃げ方わかんなくてびびってるのに、それ絶対あっちにも伝わってるのに、次は手首掴まれて胸まで」
 胸に置かされた手を機会に、真也は彼女を引き剥がした。彼女は数歩よろめいた後、角度によってきらきら光る爪を煌めかせながら口元を拭い、表情なくまっすぐに真也を見つめた。
「明日も早いのか訊かれた。5時起きでも4時起きでも3時起きでも、間に合うように朝食作るしなんならお風呂も沸かしておくから、うちに来ないかって。今日は家族もいないし来て欲しいって」
 黙って聞くしかなかった。真也に抱かれたクマが、一層お腹を大きくした。上下に揺れる小さな両腕が、息苦しくて足掻いているみたいだった。
「いらないんだよ、そういうの。なんで形にしたがるの? 物理的にどうこうして、やっと本物になるとか言うの? 俺的にはそっちのがよっぽど嘘くさいんだけど」
「嘘って……」
 真也自身も、自分の胸中を掴めていない。初めて目にする苛立った様子から、そう察した。重ねそうになった疑問が、語尾と一緒に俺の中で引いた。
 半年前のとある夜、真也が急に連絡してきた。昔からの寂しがりをまた発動したのだと思い、適当に付き合った。寂しいなら彼女でもとさして冗談のつもりもなく茶化した俺を、真也は肯定しなかった。それよりも、この部屋にある硬貨数枚でゲットしたぬいぐるみがひとつ欲しいとも。だいたい今泊まりに来ているのも、ぬいぐるみを選ぶついでという言い分だった。
「で……断ったんだよな。それで終わりか?」
「それで終わり。バカみたいだけど、納得はできるよね。需要と供給の不一致だもん」
「不一致?」
 今度は拗ねたみたいに息を抜く真也に、俺もまたひとつ覚えに聞き返した。
「ご飯食べながら話したじゃん。すれ違い」
 会話に挟まれた不思議な空白の謎が解けた。すれ違いってそういうことか。
「でもこれって、たぶん俺が変だよね」
 無意識に下がっていた視線が飛び上がった。真也の腕に収まるクマは、さっきよりも少し呼吸しやすそうになっていた。
「不器用な彼女が不器用に愛情を求めてるのに、応じないどころか突き飛ばす彼氏」
「要するに、その子と真也の歩幅が合ってなかったんだろ」
「違う」
 彼女の大胆な行動にきちんと理由を見出しているところに、真也が無関心だったわけではないことを見たつもりだった。不意にしてあっけない否定に、意図せず口が閉じた。
「例えば、嵌まりそうでも微妙に嵌まらない蓋があるじゃん。似てるけど、ああ、こっちのほうだったかってなるあれ」
「たまにあるけど」
「それ」
 今日の真也は、ころころと表情が変わる。もうこの話は終わりにしたいとばかりに、真也は溜息混ざりにクマの両手をいじっていた。 
未だに雨粒の散るカーテン越しの窓辺に、ふと真也は視線を向けた。雨垂れが少しの風に揺られ、桟や網戸を叩いていた。その音に、少しずり落ちたクマを胸に抱き直しながら、じっと真也は耳を傾けていた。
真也が今なにを考えているのか、なにを思い出しているのか、その映像は俺にも見えている気がした。

4

 無理矢理着替えさせられたのか、真也は初めて見るグレーのパーカー姿で部屋に戻って来た。まだ鼻をひくつかせて、時折、指まで覆った袖で目元を拭っていた。真也には明らかにサイズオーバーな服だった。
 閉じたドアのすぐ向こうで気配がした。ベッドに飛び込んで頭から毛布を被ってしまった真也を横目に流し、ドアを開けると、さっきの年配の職員さんが不安げな表情で立っていた。真也は説得に応じたのではなく、拗ねてしまったようだった。ポニーテールの職員さんが捕まえているだろうから見に行こうかと誘ってみても、今度は部屋に戻ると言って聞かなかった。不思議だったのは、勤務中の職員さんが、ほぼ総出で真也を慰めに来たという特別性だった。その中の誰も、しつこい真也に多少語気を強めることはあっても、俺が母親にされてきたようにきつく叱った人はいなさそうだった。
 いつもは性懲りなく俺を食堂に誘うくせに、その日の真也は一向に毛布を取り去らなかった。ひとりで夕食の席に着く俺に、職員さんがラップに包んだ小さなおにぎりを3個持ってきた。
「これ」
 おにぎりが載ったお皿を、色落ちして傷だらけの真也の学習机に置いた。重ねられた国語や算数の教科書は、俺がかつて開いてきたものと同じだった。
「いつまでヘソ曲げてんだよ。困らせんなって言っただろ」
 返事はなかった。童心なりに苛々した。が、穴が開いた風船が膨らまないのと同じで、自分でも驚くくらいに俺は冷静だった。冷静に、こんもりと山になって動かない毛布を見ていた。
 あんなふうに強情になることが今までもあったのか、職員さんに訊ねてみた。職員さんは、こっちがつられてほっこりしてしまうような優しい笑顔で頷いた。直後、すぐに眉根を寄せた。おにぎりを作ったその人は、真也が大泣きしているところに駆けつけた職員さんのひとりだった。
 初めて見たから驚いたのだと、その人は言っていた。ほかの面々も、あんな泣き方をしているのは見たことがないと話していたことも教えてくれた。
 素直で聞き分けがよく、周りに気を配れる性格。反芻して引っかかった。それと同時に、生まれたときからずっとこの施設にいて、誰ひとりとして家族が会いに来ないらしいことが頭を擡げた。期待しないで真也の両親のことを訊ねてみたが、もちろん首を横に振られた。それが本当かどうかは言及しなかった。真也が気分屋と称されたのは、単にそういう性格というだけではなく、周りがそれを許しているのだと気づいた。
 毛布が動いた。やっと出てくるのかと待ってみたが、出てこなかった。静電気のような苛立ちが指先に募った。今度は抜けていかなかった。感情に任せて大股で近づき、毛布を剥いだ。真也は枕を胸元に抱き寄せて眠っていた。
 腹の底が、嘘みたいに静まった。少しの間、視線を落としたままで俺は立ち尽くしていた。俺が見ていたのは真也ではなく、真也が顎で挟み込んでいた枕だった。
 一日中続いていた細かい雨が、自我を引き戻した。ベッドの柵に片手をついて、片手で枕に触れた。簡単に取れた。縋るものがなくなり、真也は少し呻いた。起きそうだったので、咄嗟に柵にかけていた手を出した。真也の片手が俺の手に当たり、やがて両手が掌を包んだ。自分でも予期しない事態だった。また俺は動けなくなった。別にこいつが起きてもいいし、だいたい起きてくれないと、おにぎり、せっかく作ってくれたのに。遅れて思い至っても、何故か手を抜けなかった。
 枕をそっと自分のベッドに投げた。置き去りのおにぎりは、少しくらい常温で放置してもこの時季ならと判断した。手が離れないように注意して柵を跨ぎ、乱雑に放っていた毛布を引っ張った。音をたてないように横になり、再び毛布の位置を調整した。自分よりも真也に多く被せた。
 電気は点けっぱなしだったし、寝るには早すぎる時間だったし、お風呂にも入っていなかった。ちょっとだけ隣にいてやろうと思った。怒ってくれる誰かのひとりもいない真也がツナを連れてきたこと、そもそもツナと名付けられたこと、その罪悪感からだった。

5

 無視し続けて真也を撒いた後、俺は施設の敷地を散策していた。まだ入って日が浅かったし、ここが生活空間なんだから、施設の構造くらいは知っておこうと思ったのだ。ぶらついているうちに、話し半分に聞き流していた真也のお喋りを部分部分思い出し、その場所を覗いてみたくなった。
 無理をすれば裏庭と呼べるような、建物裏側の狭く細いスペースに入ったときだった。非常階段の下に、小さな猫が佇んでいるのを見つけた。海岸の砂を零すような雨が止むのを待っているように、じっと正面を見据えていた。雨粒に水玉模様を打たれたような、茶色いブチ柄の猫だった。
 まず口角が吊り上がった。よう、兄弟。お前は俺と同じなんだから、ここに来たのは当然だ。心の中で毒づいてから、嘲笑は憫笑に変化した。目の前の猫は、家に住み着いていたもみじではなかった。斑の大きさも瞳の色も違っていた。本当は、一目見てすぐにわかった。でも毒づいた。
 踵を返し、食堂の食品棚からくすねてきたツナ缶を持って、再び猫のもとに向かった。もうちょっと手近そうな餌がよかったが、人がいて選ぶ間がなかった。
 俺が寄っても微動だにしなかった猫の視線が、丸いツナ缶を追って動いた。俺はその場でタブを引いたが、さすがに油が多すぎかと妙な気を巡らせてしまい、傍に落ちていた赤茶色の葉を曲げて身だけを掬った。待ち侘びていた猫は、地面に落ちたそれにすぐに顔を持っていった。真也が言っていたことを確かめる目的はとっくに失せていて、暫くの間、俺は猫がツナにがっつくのを眺めていた。ようやく気が済むと、余った缶を食堂のゴミ箱にこっそり投入し、思いつきで図書館へ行って、一冊無断で部屋に持ち帰った。
 真也は、自分が初めてあの猫を見つけたと思ったのだろう。食べていたツナではなく、運悪く歯に引っかかってしまったツナを見てツナと名付けたくらいだから、あの猫は餌を食べ終えた後も雨宿りを続けていたのだ。8歳の真也は、誰かがここで餌を与えたとは発想しなかった。
 わざわざ補足することではなかったし、せっかく嬉しそうだからと少し思ったのは事実だった。真也は俺にとってどうでもいい存在であり、故意に傷つける意味も理由もなかった。俺の手癖を庇っていることは、まったく考慮しなかった。
 時計の秒針の代わりに、雨音が響いていた。ともすれば夜の闇に吸い込まれていきそうな、微かな音だった。真也は起きる様子なく、俺の片手を両手で緩く覆ったまま、静かに眠っていた。ピアノでもトランプでもアニメ観賞でも、どれかひとつでも段違いの肩を並べていれば、あんなふうに泣かせないで済んだんじゃないか。赤く腫れた真也の目の周辺を見つめながら、だんだん瞼が重くなるのを感じながら、そんなことを考えた。
 次に気が付いたとき、やけにぱっちりと目が開いていた。真也は俺の胸にほとんど頭をくっつけて寝ていた。手は解放されていた。
 電気は消えていた。学習机の上のおにぎりは、ふたつに減っていた。カーテンに浮き出る影がちょっと揺れていた。雨は降っていなかった。
 触れないように気をつけながら身体を起こし、ベッドを出て、毛布を真也の首まで引いた。時計を見た。元旦でも起きたことがない早朝だった。
 昨日のままの格好で、自分のテリトリーにある玩具みたいな箪笥に突っ込んだ鞄を引っ張り出した。俺がここに来たとき、少しだけの荷物を入れてきた鞄だった。ドアノブに手を置き、一度振り返り、真也の寝息を確認してから部屋を出た。空っぽの鞄を無理矢理小さくして服の下に押し込み、薄暗い廊下になるべく音を残さないようにしながら急いだ。俺が向かっていたのは、昨日、ポニーテールの職員さんが小皿を置いた事務所の玄関先だった。眠ってしまう前に薄々考えていたそれは、飽くまでも野良猫を屋内に入れないスタイルだからこそ、実行できる可能性があった。
 2箇所で食事にありついたツナが、どちらに現れるかは賭けだった。職員さんたちにとって、迷い込んだ猫はとても困った存在だった。子どもたちに悪い例を見せるわけにはいかないが、誰かがお手本になれるわけでもなかった。たまたま実家に猫がいる職員さんがいたから小皿をあてがわれただけで、もしいなかったら。きっとみんな思うはずだ。どうか誰にも気付かれないように、ひっそり姿を消してはくれないだろうか。
 アレルギー対策の便宜上、ツナは外に出たままだった。是が非でも保護するつもりなら、職員さんたちは、たった1日子どもたちが毛を吸わないよう工夫することくらいはできた。でもしなかったということは、結局のところ、ツナがいなくなったらいなくなったで全然構わないのだ。ポニーテールの職員さんの実家が遠い地域にあることは、なんとなく聞いたことがあった。
 事務所も食堂も明るかった。夜勤の職員さんもいるし、朝食の準備を始める人たちもいた。みんなの出勤時間は知らなかったが、事務所付近をうろついていたら誰かに見られるかと案じ足が止まった。
 仕方なく進行方向を変え、裏庭を目指した。最初にツナ缶を開けたところに立ち、周辺を見渡してみても、ツナの姿はなかった。浅い息を吐いた。起きだちよりもほんの少し明るくなった空を見上げた。昨日とは真逆に、秋の晴れ空が透けていた。視線を落とすと、地面はからりと乾いていた。
 ツナに出会って失速し、消滅していた目的が急に色を持った。走って、音をたててはいけないことを思い出して爪先を立てて、うろ覚えの真也の言葉を追った。
 聞いた通り、レンガ積みの塀は年月を経て脆くなっていた。隅のほうの一部分が特に劣化が酷く、小さな犬や猫なら通り抜けられそうな穴が開いていた。ちょうどその真ん前に、表面が縦に分断しているような太い樹木が植わっていた。
 大人数が過ごすこの場所に、堂々と正面から猫が入り込み、誰にも気づかれないはずがない。ツナは、最初からこの穴を使っていたのだ。そしてこの穴を知っているのは真也だけだから、自分が最初に見つけたのだと勘違いした。真也は俺が話をちっとも聞いていないと思っていた。もちろん、そんなふうに思わせていたのは俺だった。
 服の下に隠していた鞄を肩に引っかけ、太い木の出っ張りに右足をかけ、レンガ塀の微かな隙間に左足をかけた。何度か繰り返すとレンガ塀の高さを超え、身体を反転させて、今度は慎重に地上を目指した。無事辿り着いたアスファルトの地面では、興味深そうに俺を見上げながら、ツナが前足を揃えていた。俺がいたから近づけなかった、と瞬きで伝えてくるみたいだった。
 鞄を広げても、ツナは動かなかった。目だけが俺の動きを追っていた。ごめんな、と一言呟き、ツナの前足と後ろ足を支えて鞄に入れた。謝罪にはふたつの意味があった。鞄に入れて8割ファスナーを閉めてしまうことと、食堂に忍び込めなかったせいで朝ご飯を調達できなかったことの謝罪だった。そうっと持ち上げた鞄の中で、静止しているツナの頭を撫でた。ツナはちょっと敏感に頭を動かした。
 ツナがいなくなればいい。職員さんたちが密かに望む結論に、俺も行き着いていた。でも、俺と職員さんたちでは主観が違っていた。俺が選んだ消失は、真也がツナと一緒にいられないことを正当に納得するための、結果ではなく手段としての消失だった。その一手を打てたことにも、当然ながら理由があった。
 施設から徒歩20分。子どもの足で20分だから、大人の足ならもっと近い。バカみたいなその近さが、俺と家族との距離だった。1ヶ月ぶりに見る古ぼけた一戸建てと、赤く葉を広げる見慣れた樹木。僅かな風がせせらいだ。割れた風船が空気ではなく窒素を撒き散らしたみたいに、突然呼吸が途切れた。葉の赤色が、いくつも光を塗したように輪郭を崩していた。
 真也が欲しがる帰る場所を、一緒にいてもいい誰かを、俺は自ら放棄したのだ。捨てられたのではなく捨てた。俺はひとりきりの家族を捨てた。もみじの名前に込められたのは、もっと単純な意味だったかもしれないのに。幼い心に後悔が押し寄せた。こんなに近くなのに二度と帰れないことが、そういう道筋を自分で作ってきたことが、どうしようもなく悲しかった。
 義務感が鼻を啜らせ、涙を拭かせた。玄関前から狭い庭へ足を忍ばせ、母がもみじを呼んでいた場所に鞄を下ろし、下ろしただけでは気付かれないから、傍らの網戸を数回揺らした。家の中で気配が動いたのを察知すると、すぐに庭から出た。帰れない家を二度見せず、来た道を走った。走らないとまた泣きそうだった。
 結局一度振り返った。疲れた顔色の寝起きの母は、足元に見覚えのある鞄を見つけ、一瞬硬直し、やがて腰を屈めるのを見届けて、再び俺は地面を蹴った。俺のエスカレートする悪癖を見限ったかのように、突然姿を見せなくなったもみじを、母ならきっと思い出してくれるはずだった。捨てなければならない記憶に甘えることを、一度だけ許されたかった。
 真也は同じ姿勢で寝ていた。抜け出る前と同じように、俺も隣に身体を伸ばした。ずっと隣で寝ていたという芝居を打つためだった。これからはちゃんと真也の話を聞こうと決心したのは、唯一一緒にいられる可能性を見出した存在を遠ざけさせたことの謝罪のためでもあり、絶望の淵へ追いやった母への贖罪のためでもあった。自分の満足のためでもあった。これ以上誰も追い詰めたくなかった。目の前の真也は、俺を許してくれるだろうか。

6

「雨、ずっと降ってるね」
 カーテンを引いた窓を見つめながら、真也は言った。気が鎮まらないのか、指がクマのお腹の上で動いていた。
「肌寒い」
「毛布出そうか」
「平気。ありがとう」
 首を振り、真也は少し笑ってみせた。
「夜中に変な癇癪してごめんね。もう寝る」
「平気か?」
「平気だって。明日、というかもう今日だけど、すごく早いからゆー君が寝てるうちに出て行くかも」
「起こせよ。鍵閉められないだろ」
「窓開けといていい? そこから鍵投げとく」
「起こせっての。玄関だけ閉まってても窓が開いてたら無意味だろうが」
 冗談か本気かわからないことをのたまい、目元こそ泣き腫れているものの、真也は元気そうだった。見ていて引っかかったのは、使ったグラスを流し場に持って行くときに、自分の荷物を開けたことだった。真也はさも想定済みのような手つきでハンドタオルを抜き取ると、「腫れが引かないから」と言って濡らし、目に押し当てながら戻って来た。ツナといられないことを宣告されたときの真也を思い出し、またちくりと胸が痛んだ。
 電気を消し、再びおやすみと告げ合った。薄闇の中、暫し背中を向け合って横になっていたが、真也がこっちを向いた気配があった。俺も身体を反転させると、真也はくっきりと両目を開け、クマと一緒に俺を見ていた。
「ツナ缶」
 あまりにも不意打ちだった。咄嗟には声を出せず、しかも身体が固まってしまい、ようやく「え?」と聞き返したときには真也はもう納得したように笑っていた。
「やっぱりね。ゆー君って、案外抜けてるよね」
「な、なにが?」
「ゆー君と仲よくなれたの、雨の日のにゃんこ事件があってからだもんね。ってことは、あのときの猫がきっかけになってるって考えるのが普通じゃん」
「ギャン泣きするから可哀想になったんだよ」
「じゃあなんでツナ缶に焦るの」
「焦ってない。寝ろ」
 話が出ればと決めていた。でも、こんな形は違う。再び背中を向けると、真也がやたらと面白そうに身体を震わせているのがわかった。また振り返ってどやしてやりたかったが、そんなことをすると更に拍車をかける気がしたので堪えた。
「やっぱりそうだったんだ。ツナは勝手にどっか行っちゃったんじゃなくて、ゆー君が連れてっちゃったんだね」
「連れてってねーよ」
「でもツナ缶はあげた」
 今度は振り返らずにいられなかった。真也は顔の前にクマを持ち上げ、変な声を作った。
「『ああ、これもやっぱりそうなんだ?』」
「おい……」
 クマは顔の下に下がった。真也は全然悪びれていなかった。
「俺ってよく職員さんのお手伝いしてたでしょ。ゆー君も一緒にしてくれるようになったじゃん。そのときにね」
 気を配れる「周り」には、ほかの子どもたちだけではなく大人たちも含まれていた。それを知ったのは、ツナがいなくなり、真也の誘いに付き合うようになってからだった。
「ゴミ袋縛ってるときに、空っぽのツナ缶が入ってたの見たんだ。あ、って思った。これもしかして、誰かが俺より早くツナを発見してたんでは、と」
「なんでそれが俺だってわかるんだよ。それに、料理の材料で使ってたのかもしれないし」
「だったらひとつだけなのは変だし、使った分はまとめて捨てるよ。ツナがツナって名前だったのも、ツナ食べた形跡があったからだしね。ゆー君じゃないかと思ったのは」
 ここでまた真也はクマを顔まで持ち上げた。
「『優しいから。ただの直感くまー』」
 忙しくいつもの声に戻って、真也は続けた。
「ツナがいたのはあの狭い裏庭だったし、あそこは滅多に人がいないし、行く理由もないもん。壁に穴が開いてることも、誰にも言ってなかったし。だから、もし最初にゆー君があの場所でツナを見つけてて、ご飯をあげてたとしたら。って考えると、俺自身がすごく幸せ」
「それは今考えたのか」
「今というか、昔を思い出してるうちにそう思った。ゆー君の運動神経なら、でっかい木を伝って塀登って外に出ることだってできそうだし。そう考えたら」
「お前さ」
 ずばすばと希望系な口調で真実を暴く真也に、思わず口を挟んだ。真也は寝転がったまま首を傾げた。
 ただ流れを止めただけだった。なにを言おうか決めかねて、妙な沈黙の後にようやく選んだ。でもそれは、俺自身の名誉のために訊くべきではない。警鐘が鳴っていたが、ほかになにも思いつかなかった。
「起きてたのか」
「いつ?」
「だから、ツナがいなくなった日に」
「夜中に一回起きたよ。ちょっとびっくりしたけど、おにぎりひとつ食べて、またすぐ寝た。それからは起きてないけど」
「本当に?」
「なんで?」
「別に」
「でもそういうってことは、やっぱりツナはゆー君がどうこうって考えたんでいい?」
「違う」
「へー」
 怪しげな語尾だった。俺の名誉は守られたのだろうか。ここで会話が途切れたことも相まって、どんな意味にも取れてしまう。真也側から考えてみても、それは同じことのように思えた。
「野良猫だったもんね。囲ってたわけでもないし、ふらついてるうちに新しいご飯をもらえたりしたら、あっけなくどっか行っちゃうよ。いなくなったってことは、そういうことだと思うけど」
 絶えず鳴っていた雨の音は、少し遠のいていた。寝る前に見た天気予報の映像が、頭の奥でおぼろげに再生された。
「ツナにとって悪いことにはならなかったんだから、別にどっちだっていいんだけどね」
 本当に俺が関与しているなら、ツナが適当に追いやられたわけではないことを確信している口調だった。俺の実家が施設から近かったことも、実家に猫が住み着いていたことがあることも、真也には話していなかった。どちらの話題も、真也にはタブーのような気がしていた。
 真也が言わないだけで、考え至ってはいるのかもしれない。だいたい10歳の子どもが不法に施設から脱出したとして、移動範囲なんて限られているのだ。交通機関を利用するお小遣いはなかったし、暗さが残る朝方に大人に紛れることもできない。しかも時間に迫られているので、必然的に徒歩圏内が絞られてくる。
 枝が揺れれば葉もつられて囁くように、もうひとつ記憶が蘇った。あれは宿題の音読を聞いていたときだった。真也は急に声を止め、俺に訊ねた。台詞に感情を込めるよう先生に指示されたが、どういうふうに込めればいいのか。
 その台詞は、母親に会いたいのに会えない小鳥が寂しげに零す独り言だった。あのときもツナを例に解説してみたが、真也の中では、ツナといたかった自分と母親に会いたい小鳥がどうしても結びつかなかった。仕方なく、母親とはどういうものかを説明した。なるべく客観的に話したつもりだったが、言葉だけ気をつけても、表情の僅かな変化や空気の温度までは誤魔化せておらず、真也はそれを感じていたのかもしれない。俺は母親に対してネガティブなイメージがなく、擦れた環境が家を離れさせたのではないことを、真也は察したのだ。幼い語彙では、明確な文章に変わらなかったとしても。
 感嘆するしかなかった。今更確認できないにしろ、俺の推測のどこかまでは、確実に真也は行き着いている。洞察力に頭が下がる思いだった。
「頭いいな。大人ばっかりの番組回したり、季節限定アトラクションをリポートするだけのことはあるか」
「いきなりどうして?」
 打ち明ける必要はない。真也がチャイムを鳴らしたときから続いていた緊張が、急に解れた。タイミングを計っていたとは言え、真也の想像がほぼ真実と認めてしまうのは、年上としては格好悪い。無言を貫いたほうがスマートだ。
「なんでもねーよ。もう寝ろ。早いんだろ」
「おやすみ」
 はにかみ、真也はくるりと反対を向いた。俺も半分転がった。
「おやすみ」
 ツナは家にいるのだろうか。もみじと違って家の中にあげられているなら、そこそこ高齢猫となり、平穏にまどろんでいたりするのだろうか。どんな名前で呼ばれているのだろう。
 真也の寝息が聞こえ始めた。一応振り返り、布団をかけ直した。余程手触りがいいのか、クマの頭に片手を置いてしっかりと抱き寄せている。多大な時間とお金とテクニックを引き替えた戦利品だけに惜しかったが、そこまで気に入ってくれるならいいか。ガキには敵わない。
 朝方から広がるらしい、濁りのない秋空が待ち遠しかった。  

秋と雨と猫

お疲れさまでした。
ゆーくんはピュアなのが売り。

久しぶりに主観=主人公的な認識で書いてみた。
活字の後は目を冷やさないとダメなんだよ!

秋と雨と猫

差し出された小さな掌に漏れ聞いたのは、過去のクラスメイトの言葉だった。 ――■■■と□□□を区別するの、日本だけらしいよ。 今回は、ミステリーと言えば、まあミステリー。な気がします。 タイトル通り、秋と雨と猫の話。M君シリーズ新しいやつ。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-19

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