心
フランスで実際にあったことを、僕の空想を用いて小説としたものです。
燕のルカは瞳に映る光景に、現実世界から脱したかのように感じた。それは今までに感じたことのない、驚嘆と憔悴とが混ざった感覚である。その混合物が創造する違和感がルカに対して一つの幻想的世界をつくっていて、彼はまるでそこに迷い込んでしまったかのようであった。いや、むしろこの世界が夢によるものであることをルカは強く願ったのであった。
とある自動車が、ルカの妻であるエマを跳ねてしまったのだ。エマは道路の端に倒れている。
エマは倒れたまま動けずにいた。初春の薄ら寒い街の上空で、太陽の陽射しが二匹の燕の事を見守っていた。暦は春になっても風はまだ冷たい。ルカの身に染みる風の音のような鳴き声で、瀕死状態であるエマは夫のルカに何かを囁いたのであった。しかしルカはその言葉を聞き取れず、一瞬の出来事が作った硬直した空気に、ルカの頭のなかは真っ白になった。その白という色彩は、如月にさらさらと落ちる雪のように冷たかった。ルカは余りにも冷たい、絶望の光景と懸念される未来と恨みたらしい運命に打ちひしがれた。
しかしルカは目前の弱り果てた妻の姿に唯じっとしているだけではいれなかった。自身に喝を入れたのである。
ルカはエマの身体にか細い足を二つ並べて、鴉のように大きくはない翼を動かして愛する妻を揺すった。エマの夫は白い息を吐きながら、見えもしない未来からやってくる多々の感情による動悸と戦っていた。
それでありながらルカの胸奥は、妻を愛しているという心理的温もりに支えられていた。そしてルカの身体は花の蕾が綻びるかのように、小さく又は大きく存在していた。
エマは幾度と揺らされても何の反応も示さなかった。瀕死状態のエマの瞳は薄らと開いていて、と思っては閉じてしまったりという始末であった。その瞼の微々たる力は直に消えていくであろう、アスファルトに落ちた雪の結晶のようにこの世界に命を繋ぎ止めていた。
冷えた空気を貫く雲の上の太陽の輝きも、この二羽の燕を悲劇から救い出すことはなかった。唯、冷たい水のように冷えた風が宙に流れていて、その表面には余りにも悲しげな現実がはっきりと写っていた。しかし日光だけは悲しみを写している鏡の中できらきらと輝いているのである。
ルカは現実と未来に絶望していた。エマの身体を揺すり揺すりするが、エマは今にでも息を絶えそうに微かな息をしているのであった。
時刻は正午を過ぎて街は明るさに満ちているのにも関わらずに、ルカは己を包んでいる世界の色が、尖った鉛筆の先端のような鉛色に思えたのであった。それは夜空の遥か彼方の闇に似たものでもあったが、ルカの瞳には月やら幾多の星などといった輝きは当たり前に一つも映っていなかった。唯、絶望していたのである。
ルカは自分が今何をするのが最善であるのかを考えた。自分が一体どうすれば、この状況が少しでも良くなるのかを考えたのだ。そして出した答えが、エマの舌に栄養のあるものを乗せてやることだった。それによって少しでも妻を元気付けたいと思ったのである。
エマに対する夫として、ルカは最愛の妻であるエマにその旨を伝え、すぐさま大空へと飛び立って行った。
ルカは愛する者のために飛んだ。その間もエマのことで頭がいっぱいになっていた。上を向けば重なりあう雲の灰色の色彩に不安を感じた。しかしその雲と雲の隙間から、眩しいほどの光線が漏れ出してルカに少しの希望を与えたのであった。
そしてルカは妻のために飛び続けた。
しばらく時が経った後、ルカはエマのところへと戻った。嘴にはこれからエマに与えてやるものが挟んである。
エマはというと眠っていた。ルカはエマを起こすため、小さな身体にそれよりも小さな二つの足で乗っかって身体を揺すった。しかしエマは目を開かずにいるのであった。ルカは不安に襲われた。嘴に挟んだ飯をエマの口元にまで運ぶが、やはり反応はなかった。
絶望的な不安の後にルカを襲ったのは、大きすぎる悲しみの余波であった。
ルカは嘴に挟まれながらも余力でくねくねとする虫を地に吐き出した。そして又もやエマを身体と心とで揺すり続けた。地に横たわっている虫には薄らとルカの唾液が乗っていて、冬の太陽の光で虫は全体輝いて見えた。
ルカが揺すっても揺すってもどれだけ声を掛けようと、エマが目を覚ますことはなかった。それどころか、いつの間にかエマの身体から血の気が引いて先程よりも冷たくなっていた。冬の午後の温かな光が射していたが、唯唯ルカの足元は温度的にも感情的にも冷たかった。
エマは死んだのだ。ルカはそれに気づいた。いや、その事実を認めたのである。そして悲しみに暮れた。胸から溢れようとしている感情は血のようにどろどろとしていた。だが血のような温度はなく、そこには絶望の温度が存在していた。
ルカは鳴き続けた。ひたすらに鳴き続けた。愛する妻に対して、そして余りにも冷淡な運命に対して、叫んでいるかのようにずっとずっと鳴き続けた。
鳴き声は冬の広大な空に高く響いているのであった。
心
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