揺れてゆられて、笑顔になって

秋邑 茨

    対象者
 


 駅北口のロータリーの向かい。旅行会社と法律事務所の入った雑居ビルの前に設置された自販機の陰に、脇田(わきた)陽子(ようこ)と大門千代は身を潜めて周囲を窺う。
 高木から降りそそぐ容赦のない蝉の声と、自販機の冷却装置が、気温を上昇させているのではないかと(おぼ)うほど蒸した夜だ。
「あの人。対象者でしょうか」
 どうして隠れる必要が必要があるのよ。そんな疑問を振り払って、陽子は東口方面のからやってくる男に目を留めた。
 陽子は今夜、『NPO 法人 すくい・たい(・・)』の夜間パトロールに初めて参加していた。
「対象者ではないでしょうか」
 背後の千代に向かって同じ言葉を繰り返す。千代は持参してきた特大ボトルに入った黒ウーロン茶を飲むのに夢中だ。 
「ぶはぁー。何か言った?」
「あの方。対象者ではないかと」
 長髪を揺らし足を引きずるようにして歩く男は、50歳くらいだろうか。肩にかつぐ米俵をひとまわり小ぶりにした様なはち切れそうなボストンバッグが、不似合いで不自然に見える。
「私ちょっと、お話し聞いてき、」
「放って置きなさい」
 歩き出そうとする陽子を千代が両断する。
「そんなあ。大門さんパトロールの目的って、」
「名前で呼んで。言ったでしょっ」
 千代の旧姓は小川。苗字が変わったことが、幸福を奪った原因だと思い込んでいる。「男選びは容姿性格苗字よ」 教会の女性ならみな耳にしたことがあるという、千代の金言を陽子は思い出す。
「じゃ千代さん。私たちの目的って、生活に困窮する方が当たり前の生活を送れるように、手助けすることですよね。どうして放っておくんですか」
 すくい・たいは、陽子が通い始めた教会の会員らが設立したNPO法人で、路上生活者など生活困窮者への支援活動を行っている。千代はNPO設立以前から活動しているクリスチャン。すくい・たい理事にして、もっとも古参の相談員のひとりだ。
「どう見たって中年でしょ。中年は柔軟性がなくて言うこと聞かなくて、そのくせ立場も弁えずに一丁前に権利だけは主張して、たち悪いの。ターゲットは十代。から二十代が上限。中年は対象外よ」 コンパクトを覗き込んで、化粧崩れを補修しながら千代が言う。
 何よ。自分だって中年のくせに。
「区別する必要あるんですか。なんだかとても弱々しそう、病気かもしれません。もし命に関わるような病気だったら・・・」
「見た目判断?」
「見た目で判断しないでどうやって、生活困窮者かどうか判断するんですか」
 そもそも陽子は、思ったことを口に出して言う方ではないが、疑問をもった時は別だ。
「うっ、うんっ。先週までは見かけなかった顔だから新人さんかも。あなたと同じ。私の経験値から推察すると・・・そうねえ、建築或いは土木関連。または製造業か、倉庫関連の(ねぎら)務者の可能性も否定できない。対象者だと決めつけるのは時期(とき)尚早。と言うより偏見。いちばんしてはならない、主がもっとも忌み嫌うことよ。覚えておきなさい」
 自分だって決めつけてるじゃない。とにかく、
「私声かけてきます」
「待ちなさい!」
 千代は男に向かって駆け出そうとする、陽子の腕をつかんで言った。
「勝手な行動は取らない。応援がくるまで待機!」
 のんびりした動作の千代は、トートバッグに特大ボトルをしまうと、ウエストポーチからスマートフォンを取り出す。と、人が変わったような形相でスマホ画面を巧みに操り始めた。
「えー、緊急緊急緊急。対象者発見。対象者発見。推定年齢(とし)は、あー40代後半。から50代後半。性別男。おー、ターゲットは不審物所持。不審物所持。危機的状況につき至急応援請う。うー、大至急応援請う。うーえー、以上」
 一方的な会話のない電話を切った千代は、ふたたび特大ボトルを取り出し黒ウーロンをがぶ飲みする。ひと仕事やり遂げた、そんな様子だ。
 決めつけてるじゃないの対象者だって。労務者の可能性はいつなくなったの? 不審物ってあのバッグのこと?
「安心なさい。兄姉呼んだから」
 何もこんなに大勢人がいるとこで、兄姉とか言わなくたって・・・。
 都心部からの下り電車が到着すると、北口ロータリー周辺は、にわかに人で溢れ出した。陽子は対象者と思しき男から目を離さない。
「何をすればいいか分かる? こんな時」
 ベテラン相談員を気取って千代が訊く。特大ボトルはもう空のようだ。
「え。あ、対象者の方に気づかれないように身をひそめて、応援を待つ。ですか」 陽子は午前中の勉強会で教えられことを口にした。
 危機的でも何でもないから、適切だとは思えないけど。
「理屈ね」
「でもそう教えられ、」
「あなたっ。あなたは何のためにこの仕事に身を捧げようと思ったの。誰が為に? (おの)が為?」
 そんなこと聞かなくったって分かるでしょ。それにこれって仕事なの? それより千代さん、
「んまあ。答えられないのっ!」
 一層声を張る千代は、訝しい目を向ける通行人にも、顔を上げてこちらを見ている対象者にも気づいていない。
「大門、さん」
「また苗字。嫌がれせのつもり?」
「千、千代さん」
 陽子は対象者の存在を目で伝えようとする。だが千代は、まったく気に留めない。 「あのう・・・」
「よそ見しないでよく聞きなさいっ。いい? こういう危機的状況下でこそ、祈るんでしょ。 すべてを()らが主の御手にお委ねするの。祈りは必ず叶えられる。いいえ、祈って求めたものは祈ったその時点で、叶えられるの。要するに、」
 それより千代さん。
「要するにあれよ。主は我らの祈りを叶え、我らを祝福し、守ってくださっているの。ヨブ記に書いてあるでしょ。確か八章に。主があなたを祝福しあなたを守られるようにって。知ってるわよね。知らないのー」
 また始まった。思いつきで喋るから、ぜんぜん伝わんないよ。それにその聖句って、ヨブ記じゃなくて、
「んまあ。先週の礼拝のテーマよ。あなたは、」 あら、いつの間に。
 陽子は忙しく交互に二人を見て、男の存在を伝えようとする。千代さん、千代さんってば。
「あなたは何しに教会へ足を運んで、」
「あのう」 対象者の男が千代の背後まで来て口にする。
「失礼ですが」
「何よ、私は今大事な話をしてるの。口を挟まないで頂戴」
「ヨブ記ではなく、民数記。八章ではなく六章、二十四節ですが」
「はあぁ?」
 低くもなく高過ぎもしない、よく通る声の方向に千代は首をねじ曲げる。と、
「あなたっ」
 男がおもむろに肩からボストンバッグを下ろし、笑みを浮かべながらバッグの中身をあさり始めた。千代は陽子の後ろに廻って身を守る態勢を整えると、肩越しから男の動きを注視する。
「何よ。何するつもり」
「いやあ、これを」 
 目当てのものを探り当てた男は、嬉しそうに分厚い書物を取り出すと、指先でつまむ様にしてページを繰り始める。
「うんうん」 男は開いたページを目と指でなぞると、恭しく向きを変えて二人に差し出す。手垢で変色した書物は、ボロボロの聖書だ。
 警戒して腰を引く千代とは対照的に、迷うことなく聖書を手に取った陽子は、男が口にした二十四節から二十七節までを黙読する。
「ほんとうだぁ。おじさんの言うとおりだ」
「ん、うっうん」 千代がきまり悪く咳ばらいする。
「クリスチャンなんですか、おじさん」
 男は白髪の目立つ長髪をぼりぼりと掻くだけで、何も答えない。仄かに漂うシャンプーの香りが、陽子には心地よかった。
「聖書は、読んでるみたいね」
 頭ふたつ分上にある、男の顔色を窺いながら千代が言う。距離を保ったまま。
「いいわね、読みたい時に読める人は」
 明らかな侮(ないがし)口調にも、男は笑みを絶やさずにまっすぐ陽子を見ている。
 千代はウエストポーチを開けると、アルミ製の名刺入れを取り出した。街路灯が反射し高級感を演出しているが、もちろん百均仕様だ。

     
   NPO 法人 すくい・たい
          理事  大門 千代


 自分の名刺に満足顔を浮かべた千代は、人差指と中指で名刺を挟んで男に差し出す。 「こういう者」
 男は千代の非礼にも頓着することなく、作業着の脇腹で両手をこすってから名刺を受け取る。名刺交換に慣れた者の所作に見える。
「ほう。『すくい・たい』 ですか。これはまた印象に残るお名、」
「違~う。すくいたい、じゃないくて、すくい・たい! 書いてあるでしょ。救ってあげたいじゃなくて救う部隊。我がすくい・たいこそ、真のライフセイバーよ」
「そうだったんですか。勉強会では、何も言っていませんでしたけど。藤山代表」
 自分より上の地位にある者の名を出された千代は、何も言い返せずに口をつぐむ。
 救いたいっていう気持ちも、みんなで力を合わせて救うんだっていう覚悟みたいなのも、どっちも必要だと思う。こだわる事なんか無いのに。
「△△教会が所在地。と言うことは、」
「私は神さまからすくい・たいを司るように仰せつかった者のひとり。要するに、主と人のために、無償非営利見返りなしで身を削っているわけ。要するに」
 何よ。仕事だと思ってるくせに。
「なるほど」
 期待していた反応がなく、プライドを傷つけられたと思い込んだ千代は続ける。
「誤解しないでほしいんだけど。ウチは便宜上報酬は受け取ってるけど、主の働きのためにすべてを教会に献金としてるの。他所のNPOと一緒にしてほしくないわ」
 千代が聞かれもしないことまで喋る。
「なるほど」
「何を食べるか、何を飲むか何を着るか、心配するのはおやめなさい―――。そう新約聖書に書いてあるわね。マタイの福音書六章、三十一節に。間違ってたらごめんなさーい」 
 千代は身振り手振りを交えて自信満々に声を張る。まるで演説だ。
「我々すくい・たいは、食べることに飲むことに、着ることに住むことに困っている弱者を、救うために活動しているのです。見返りを求めず営利を目的とせず、ただ主と人に喜ばれることだけを目的として、生きているのです! 血税を湯水の如くじゃぶじゃぶ無駄遣いし、ブクブク巨大化しているブラックNPOとは違うのですっ! 我々真のライフセイバーすくい・たいこそが、正義の味方なのですっ!」 はあはぁはあ、はあぁー。
 ぷっ。千代の演説する姿に、OLが笑って通り過ぎる。
 ムカッ。確かにおかしいな言い方かもしれないよ。間違ってるかもしれない。だからって、人の一生懸命笑うの良くないよ。
「救いを、求めてるんでしょ。あなたも」
 千代が男に言った。まだ呼吸が荒い。
「人はみな、救われたいと思っているものではないでしょうか。その意味で言えば、あなたのおっしゃる通りかもしれません」
「そうやって理屈を並べて逃げるの、やめなさいよ。自分に正直になるのよ」
 男は答えずに、陽子にからだを向ける。
「あなたのご名刺は?」
「私は・・・」
 教会の奉仕活動の一環として参加しているだけの陽子は、すくい・たいの一員には数えられてはいない。
「その子は学生さん。私の指導のもと、立派な主のしもべとなるように、教育している最中。訊きたい事があれば私が、」
「好きなみことばは?」
 うつむている陽子に、男が一歩近づく。
 あれ?・・・お父さんの声みたい。
「緊張しないで」
 声に誘われるように目線を上げる陽子の雲が晴れたような表情に、男は幸せで満たされる思いだ。
「正確でなくていいんです。どの様なみことばを大切にされているのか。知りたいだけだから」
 ―――今のままで良いんだからね。陽子が笑顔でいれば、みんなが幸せなんだから。
 そう父が言ってくれた気がして、陽子は小さく頷いて話し始める。
「喜ぶ者と一緒に喜び。泣く者と一緒に泣きなさい。互いに、互いに・・・」
 言葉に詰まると、男は思い出させるようにゆっくりと言葉を継ぐ。 「互いに。ひとつ、心に、なり。高ぶった?」
 陽子は笑みを浮かべて、
「高ぶった思いを持たずに、」
 そしてふたりで、
「かえって身分の低い者に、順応しなさい。自分こそ知者だなどと、思ってはいけません」
「わあ」 お父さん・・・。
 陽子は、和男(かずお)とそろって唱和したようで嬉しかった。
 男はすっかり忘れていた喜びを感じた。
「大門さん」
 千代にからだを向けて、男は話し始める。
「僕は現在(いま)の暮らしに満足しています。あなた方は、救いを待ち望んでおられる方の為に、力を尽くして差し上げてください」
 露命をつなぎ天命を待つ―――。それだけだ。僕の望みは。
「あなたこそ順応しようとしたらどうよ、社会に。理屈ばっかり言ってるからそんな、」
 あとに続く言葉を千代は飲み込む。言えなかった。
 男は傍らに置いたボストンバッグに聖書をしまうと、無言のまま、ゆっくりと歩き出す。
「待ちなさいよ。甘えることが悪いと思ってるんでしょ。恥ずかしいと思ってるのよ。どうして依怙地になるの。心を開いて、誠意を受け入れたらどうなのっ。素直にならなければ、未来は開かれない。心を閉ざしていたら未来はないの。よく覚えておきなさいっ」
 男は振り返らずに歩いていく。雑居ビルの合間を吹き抜ける風に、背中を押されるかのように。
 このまま別れたら一生会えないかもしれない。でもどうすれば良いのか分からない。それでも・・・陽子は人込みを縫って走り出した。
 赤信号で立ち止まった男が、ふと地面に視線を落とす。わずかな数の星に向かって足を動かすアブラゼミが、辞世の句を謳っているように見えた。
 しゃがみこんだ男の姿が、陽子の視線から消えた。それでも陽子は走る。
 慌ただしい足音に気づいた男は、両手で彼を包み込んで立ち上がる。振り返ろうとする男を人波がゆるさず、前へ進むしかなかい。
「脇田陽子です」
 交差点を渡り切ってようやく追いついた陽子が、男の半歩前に出て立ち止まる。男は切迫した陽子の表情に戸惑った。
「私、脇田陽子です」
 祈るように合わせた両手を、男は見つめる。
「また、会えますね」 
 人と関わり合いたくない。どんな人間であろうと。
「待ってます。私」
 背中から聞こえる陽子の声に、男は頷いていた。どうしてそうしたのか、男には分からない。
 コンビニエンスストアの手前の路地を、男が左手に折れる。男の姿が見えなくなると、陽子はロータリーに向かって歩き出した。信じるしかない―――。病床に臥した痩せた父親の顔がよみがえり、陽子は唇を噛みしめる。
 男は人通りのない児童公園で足をとめ、つつじの枝の下にアブラゼミを寝かせた。


   
    父さんがいた日



 医者から呼び出されたのは、去年のクリスマスイヴ。
「ご本人以外のご家族そろって」 そう電話で念を押されたと言う。
 短大に入って初めて参加する、ビッグイベントを楽しみにしていた姉ちゃんは、「何もイヴの日じゃなくたって」 そう言って嘆き、前日に小学二年以来の高熱でうなされた俺は、話を聞くどことではなく、ひとり処置室へ直行する羽目になったのだった。

 解熱鎮痛剤を注射されて、黄色味がかった点滴を受けながら天井を見ることしかできずにいた俺は、わざわざ一時間も掛けてくることもなかったと繰り返し考えていた。そして、ばたばたとよく動く看護師の足音と、鼻を衝く薬剤の臭いが気にならなくなり始めた頃、眠りに落ちていた。
 足の裏が熱した鉄板を踏んずけたように熱っちい。
 俺は全力で砂浜を走って、白波が打ち寄せる100m先の海を目指した。今なら10秒60どころか、10秒30を切れるかもしれない。そんなことを考える余裕があったのも束の間、走っても走っても距離は縮まらない。
 ?・・・夏真っ盛りだっていうのに、人っ子ひとりいねえじゃん。どう言うことよ。
 やっべえ。マジもう限界、皮剝けそう。どうなっちまってんだ、ったくよおっ。
 !?・・・ないじゃん海。海どこよ。消えちまったよ。あれ? あれれ?
 あれ。
 ・・・・・・夢か。驚かすなよ。
 !
「んだよ、ノックくらいしろよな」
「少し眠っていたようです」 
 ああ。
 そっか。病院か。
 何しに病院に来たのかは、すぐに思い出せた。
「聞いてきたんだろ。どんな話だっ、」
「大人しくして。ちゃんと測れないから」
 母さんより若干年かさの看護師のおばさんが、腕に血圧計のバンドを巻きながら言った。
 今にして思うとおばさんは、母さんと姉ちゃんを気遣ってそうしてくれたのかもしれない。ふたりの表情を見て、察してくれたんだ。きっと。
 お父さんには絶対に内緒よ―――。母さんがそう念をおした時点で、良い話である筈がないことくらい、県下最低レベルの学力の高校の劣等生の俺にだって分かってた。
     
     生存率: ●● %
     余命: ● 年
     父さんの病名: ・・・・・・・・・・・・・・・

 でもまさか、ひとけた台の絶望的な数字と、誰もが知ってるあの病名を聞かされたりはしないよな。俺の血圧は絶対に上がったはず。いや、やばいくらい下がってるかも。
「はい終わりましたよ。正常値です」
 嘘だろ、もう一回。
 俺は口には出さなかった。俺まで入院することになったら母さんと姉ちゃんは、ますます落ち込むに違いない。おばさんが嘘をついてくれたんだと思うことにしたからだ。
 母さんと姉ちゃんはひと言も口を利かず、ずっとだんまり。重たい空気が処置室に充満して苦しい。
 恐る恐る目だけでふたりを見ると、
 ヒクヒクわなわな震える口にハンカチを押し当てる母さんと、への字に口を曲げてる姉ちゃんは突っ立ったまま。ふたりとも目と鼻の頭が真っ赤だ。
 いくらポジティブに考えたって事実は変えられられない。劣等生の負け犬の俺にはよく分かってる。だから何も訊きはしなかった。訊かなくてもいつかは分かることだし、声を上げてなく二人を見たくなかったし、こらえ切れなくなるのが分かり切ってるから。
 でも暗いのは嫌だ。絶望の淵に立たされても、奈落の底に向かって真っ逆さまに落ちてく途中であっても、俺は明るく在りたかった。絶望の道を辿ろうとしているのは父さんだ。俺たちが暗くなってどうする。
「行ってきなよイベント。間に合うだろ」
 きっかけを作れるのは俺だけ。空気を換えられるのは俺しかいない。
「もう大丈夫だからさ。俺は」
「あんたの心配なんかしてないわよ」
 OK思った通り。弱々しいけど、予想どおりの反応。
「なら行けばいいじゃん。せっかくのイヴなんだからさ。楽しんできなよ」
 ・・・・・・。
「暗い気分の時こそさ。明るくしてなきゃ。月も星も、空が暗いから綺麗に見えるんだぜ。ホタルの光りも」
 ・・・・・・。
「あら。詩人なのね、脇田くんって」
 反応してくれたのは意外にもおばさんだった。
「よく言われるんです。ペキン原人とかクロマニョン系だって」
「それ原始人。分かる気はするけど」
「分かるって」
「じょう・だ・ん。脇田くんは男前、二枚目よ。お姉さんは美人だし、お母さんはお若くてとってもお綺麗。羨ましいわ、美形家族で」
 おばさんが、母さんと姉ちゃんを、会話に引き込もうとしてくれた。
「おばさんも美人っすよ」
「あら大変。ドクター呼ばないと」
「大丈夫ですよ。正常ですから」
 んん。二人とも反応なしか。
「姉ちゃんが行ったら、絶対にみんな喜ぶよ。鼻赤いついでにサンタの恰好でサプライズ。なんてどうかな」
 いきなり姉ちゃんが声を上げて泣き出した。布団に突っ伏しても、廊下にまで聞こえる大音量で。
 泣くなよ。泣かないでくれって。俺まで泣かす気かよ。
 母さんが黙ったまま、姉ちゃんの背中に手を置く。―――我慢することなんてないじゃない! 姉ちゃんの泣き声はそう訴えているようだ。
 そうかもしれない。母さん、俺たちも泣こっか。泣こうよ。父さんのために。
 でもやっぱり、暗いのはごめんだ。
「クリーニング代、高いぞ。布団のさ」
 冗談でも売り言葉でも何でもいいじゃん。何でもいいから喋らせたかった。姉ちゃんに。
「大丈夫よ。うちの病院はご請求したりしませんから」
 おばさんが言った。嬉しかった。「泣かせてあげなさい」 って言ってくれたように聞えたし、おばさんも涙声だったからだ。
 ガキの頃みたいにしゃくり上げそうだ。でもここは我慢だろ。必死に堪えてる母さんより先に泣くわけにはいかない。
「泣くなよ、いい歳して」
 涙を止めるために言っただけなのに、三人に睨まれただけだった。だけど引きつった俺の顔を見て、
「ブふっ」
 おばさんが吹き出したのを合図に、母さんも姉ちゃんも笑い出した。笑ってくれたんだ。

 俺は、「ごめん。なさい」って口にしていた。
 何で言ったのか、あの時はよく分からなかったけど、ありがとうの気持ちだったような気がする。
 そっか。謝るのって詫びることだけじゃなくって、お礼なんだよ。きっと。そう言えば父さんがよく言ってた。素直に謝れる人間になるんだぞって。
 クリスマスイヴは最悪だったけど、最悪なだけじゃなくて、一生忘れない特別な日になったことは確かだ。だからこそ俺はあの日。きっぱりと陸上なんか止めるべきだったんだ。そしたら家族四人、幸せを分かち合えてたに違いない。父さんと母さんと姉ちゃんの、嬉しそうに笑う顔を見られたに違いない。
 なのに俺は父さんの痛みも、母さんと姉ちゃんの苦労にも気づかないまま、どうだっていい目標の為に走ってた。何が大切なのかなんて、考えようともしないで。
 そして父さんが逝って三か月経った今も、俺は無駄に生きてる。立ち上がろうとさえしないで。


 とっても優しくて少し厳しいお父さんは、大学病院での入院治療を終え自宅での終末期ケアに移行すると、次第に別人のように変わっていきました。
 お父さんから青年に。お父さんから少年に。お父さんがまったく別の知らない男に。男がお父さんに戻ったと思ったら突然目をギラつかせた老人が現れる。
 ガンの転移や薬剤の影響―――。頭では理解できるのです。分かってはいるのだけれど。私の手は父の部屋の扉を開けるのを拒み、私の足は父の部屋に向くことを避けようとします。
 私は長女。お母さんを助けねばなりません。今日は大好きなお父さんでありますように・・・。神さまにお祈りしてから、優しい笑顔の父を思い浮かべて扉に手を掛けます。
「ほら、お父さん。読みたいって言ってた本、買ってきたよ」 笑って。お父さん。
 意思の疎通に不自由のなかった頃の、会話を思い出して、買ってきた本です。父は視線の定まらない目を細め、皺だらけの黄色い腕を伸ばして受け取ってくれました。欲しかったおもちゃを買って貰った時のように嬉しそうです。何も心配することはなかった、そう思っていた私でしたが、
「お父さん!」
 一瞬後ずさりして、思わず叫んでいました。父が本を齧り始めたのです。
 本を取り上げようとすればするほど、父は奪われまいと体ぜんたいに力を込めます。歩くことさえ出来ず、お箸はもちろんスプーンを握っていることさえままならないというのに、それは凄い力です。
「やめてお願いっ! ダメだってば!」
 叫び声に気づいた母と弟が勢いよく階段から駆け下りてきます。「早く来て」。もう腕の力が入りません。ふたりが来るのがひどく長い時間に思えました。
 父と私の姿を目の当たりにしたふたりは、敷居の手前で、ハッと立ち止まります。
 そして、
「和男さん」
 名前でそっと呼びかけた母は、笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきます。そして、背もたれを起こしたベッドの上で本を舐めている父の肩に、そっと手をおいて話しかけます。
「良いもの、貰ったのね」
 父は母のことを斜めに見上げ、こっくり頷きます。男の子の父です。幼稚園生か、一年生くらいでしょうか。
「おなか、空いたの?」
 また、こっくりです。
「あれ、食べる? 和男さん」
 父は不思議そうに首を傾げます。もう本を舐めてはいません。
「あーれ。オバQぅ」
 母は覗き込むように父を見て言いました。
「お、ば、きゅー・・・・・・?」
 私と春夫(はるお)には何のことか、さっぱり分かりません。父と母だけが知っている事です。
「そう。オ、バ、Qぅ。黄色くって、ふわふわの。ああれ」
「ふむ・・・・・・お、ば、きゅー、おば、きゅー」
「和男さんの大好物。美味しい、美味しいって、喜んで食べてくれた、Q・ぅ・ちゃん、よ」
 母はベッドのへりに腰かけました。お父さんが思い出すまで、いつまでも待っているつもりのようです。
「♪ Qぅちゃん、Pぃちゃん、Oぅちゃん、オバQぅちゃん」
 父の太ももに手をおいて、リズムを取りながら母が歌い始めると、
「♪ きゅーたん、きゅーたん」 父も母を真似て口ずさみます。
「Qぅ太郎ちゃん、Pぃ子ちゃん、Oぅ次郎ちゃん ♪」
 ! 父の表情が変わりました。目がまんまるです。
「♪ おーたん、おーたむ、おーちゃむ、おーちゃん」
「思い出した? 和男さん」
「あ~い。食べるぅ、おばきゅー食べるぅ。おばきゅーちょうだい。ちょうだいったら、ちょーだい」
 オバQぅを思い出した父は、お布団をたたいてはしゃぎ始めました。
 春夫が私の横をすり抜けて、すーっと父のそばにしゃがみ込むと、
「和男くんは、おばきゅうが、好きなんだね。美味しいおばきゅう、食べたいんだね」
 こんなにやさしい春夫を見るのは、久しぶりです。オバQぅが何なのかも分からないながらも、ゆっくりと話しかける春夫を、私は偉いと思いました。とても真似できそうにありません。
「じゃあ和男さん。本はお姉さんにあずかって貰いましょうね。おなかがいっぱいになって、食べられなくなっちゃうから」
 母は私に振り向いて小さく頷き、春夫は私に向かって口を動かします。 <姉ちゃん、喋って>
「か、和男くん。本は、お姉さんが今度、読んであげましょうね」
 ふたりに習って言ったのですが、たどたどしい私の言葉を父が分かってくれたのか、不安でした。
 父は考えるようにおなかに抱いた本を見つめると、
「あ~い」
 両手で本を差し出してくれました。
 とってもやさしい三人の目。そして父に抱かれた本の温もり。ずっと忘れません。

「私やるから」
 手際よく食材を用意し、料理に取り掛かる母にからだを押しつけて、私は包丁を手に取ります。
 自分でも分かっている危なっかしい手つきですが、心を込めて、にんじん、玉ねぎと刻んでいきます。美味しいオバQぅを食べてほしい、その一心です。
「オバQぅって、」
「そう。オムライス」
 私が言おうとした事を母は先に口にしました。
「四人分作るのって大変ね」
 キッチンに並べられた食材に辟易してという気持ちも、無いわけではありません。それより、休みなく毎日食事を用意してくれる母を労う気持ちです。
「でも、どうしてオバQぅ?」
 鼻をすすって、目をしばたたかせながら私が訊くと、
「うふふふ」 母は何かを思い出しながら手を動かすだけです。父との思い出を懐かしんでいるに違いありません。とっても幸せそうです。
 私は二人の邪魔にならないようにお料理を手伝います。懸命に。

「もう出来るから、春夫呼んできて」 母はお母さんの顔になって言いました。
 春夫を連れて戻ってくると、もう盛り付けに取り掛かっているところで、その手際の良さにはいつも驚かされます。私が料理が苦手なのは、余りにも完璧にこなす母のせい。真似しようと思っても無理です。
「オムライスなんだ、おばきゅうって」
 春夫が言います。今すぐ食べたい、そう顔に書いてあります。やさしい色のふんわりあったかオムライスは、美味しいに決まってます。
 母は台所に振り返って、ケチャップを手に取ると、
「何年振りだろうなぁ」 嬉しそうに言いました。 
「緊張するなあ。久し振りだし。一回勝負だし」
「ケチャップで描くんだ、おばきゅう」 春夫が言うと、
「バケラッタ」
 ?・・・・・・。春夫がこちらを向いて首を傾げます。もちろん私にも分かりません。
「何それ」
「バケラッタは、バケラッタ」
「だから何さ」
「Oぅちゃんがそう喋るの。Oぅ次郎ちゃんが。そのひと言でぜんぶ通じるんだから。嬉しい気持ちも悲しい気持ちも。ぜ~んぶ」
「何だか面白そう」
 若い父と母が、バケラッタで会話している様子を想像してみます。
 母が小さく口を尖らせて言います 「バケラッタぁ」。すると父は、母の肩に手をおいて慰めるのです「バケラッタぁっ」 って。母が父の手に頬をのせると、ほんわかした空気が若いふたりを包むのです。
「母さんたちが仲が良いのは、バケラッタのおかげなんだね」
「そうかも。けんかしそうになると、和男さん。いつも口にしてたなぁ」
「お母さんのオムライスで仲直り?」
「けんかに発展しないですむ。ってわけだ」
「そう」
 母はケチャップを抱くようにして、記憶のなかにいます。
「贅沢なんて出来なくて。食事らしい食事、作れない時期もあったわ。中身が透けて見えるほど、薄~くたまごを伸ばして、それらしく見せたり。お醤油だけでごはんを炒めて、少し焦がして包んだり。とてもオムライスなんて呼べるものじゃなかった。でも、とっても楽しくて、あたたかな食卓だった」
 幸せだったのよ。お父さんとお母さんは。―――私たちにそう伝えたかったのかもしれません。母はお父さんを愛していて、父もお母さんを愛していて、お互いを大切にしてきた事がよく分かります。
「さっ。描くわよ、冷めちゃうから」
「首を長くして待ってるよ、父さん」
「うん」
 母はオムライスに顔を近づけ、ケチャップを構えます。真剣です。私と春夫は身を乗り出して、手元から目を離しません。
 !?
「からだ、お餅みたい」
「おばけなのに」
「目、おっきい。からだの半分も」
「唇、たらこじゃん。しかもデカすぎ」
 うんうん。
 描き上げたオバQぅを、母は満足そうに眺めます。やり遂げた感でいっぱいです。
「完成ね」
「ま~だ。髪の毛描かなくっちゃ」
「おばけなのに髪生えてんの」
「髪がQぅちゃんのシンボルマークだもん」
スー、スゥ、スゥ。
「できた」
「三本!?」
「かわいい!」
 私と春夫も、母のQぅちゃんを真似て描きました。簡単そうに見えましたが、大きな目と口のバランスで表情が変わるので、意外に難しいです。やっぱり母のものがいちばん愛らしくて、嬉しそうで、今にも動き出しそうで、さすがです。
「あとは父さんのだね」
 春夫が言うと、母はエプロンのぽっけにケチャップを入れると、自分と父の分のオムライスを手にして父の部屋へ向かいました。
「父さんが描くのかな」
「どうだろ。お母さんに任せておけば大丈夫よ」
 嬉しくて、母のあとを追いかけます。
「和男さんできた」
 わあ。
 父の顔がそう言ってます。
「私が描く? 和男さんの」
 イヤイヤ。父が激しく首をふります。
「じゃあ自分で描いて」
 春夫が窓際に寄せたテーブルを、父の胸の前に移動させます。食べやすいように私がベッドの角度を調節すると、母はオムライスを父の前に置きました。
「ゴクッ」
 生唾を飲み込む音が聞こえて、私たちは大笑いです。
「おなか空いてたんだもんね。待ってたんだもんね、和男くん」
 春夫がやさしく声を掛けます。
「はい。ケチャップ」
 お布団汚さないかな、部屋中に撒き散らしたり・・・。母が私の顔を見て深く頷きます。お母さんが大丈夫っていうなら、
「おう」
「わあ」
 不安はすぐに消えました。父は病気だとは思えないほど滑らかな筆(ケチャップ)運びで、お習字の先生さながら、一気に描きあげました。
 凄いっ!
 でも、父の描いたオバQぅは、私たちのとはずいぶん違います。風船のようなからだに小さな目がとっても可愛い、子どもオバケのようです。
「Oぅちゃん」
「あ~い」
「和男さんはOぅ次郎ちゃんがお気に入りなの。ねっ。大好きなのよね、Oぅちゃんが」
「あ~い。ばばえばむむむ・・・」
「上手でしょ。私の先生よ、和男さんは」
 母は誇らしげに言って、そばで見るように促します。おなかが空いている筈の父ですが、顔を近づけては遠ざけて、でき栄えを確かめています。不満なのか、満足なのか。どうなんでしょう。
「上手ねえ和男くん。とっても上手よぉ」 私は自然に口にしていました。すると父は顔を私に向けて、
「あ~い」
 涙があふれます。止められません。
 ―――どうした陽子。なにか有ったのかい。話してごらん。
 お父さんが私に向けて手を伸ばします。震える手を、ゆっくり懸命に伸ばします。
「お父さん!」
 私はテーブルを押しのけて父に抱きつきました。声を上げて泣きました。父の手を背中に感じます。父のうすい胸に顔をうずめると、父のほほが私の髪を撫ぜました。
「ばべばむばば。ばべばむ、ぶあ。」
「和男さん。バケ、ラッタ? バケラッタ?」
「あ~い」
 
 変わっていく父を見るのが、辛くて、悲しくて、怖かった―――。
 私は今まで、父ではなく、人でもなく、病気に目を向けていたのです。
 人は変わっていきます。変わっていくものなのです。脇田和男というひとりの人の個性と、気持ちを大切にして、素直な心で向き合うことが大切なんだ。私はあの日、そう教えられました。目の前の個性、つまり性格や性質だけでなく、その人の個性を育んだ人生全部を、自分の人生に組入れようとしなければ寄り添うことはできない。そう教えられたのです。
「あ~い。」 最後の言葉を口にした時の父は、とっても素直で、きれいな心の男の子。
 私を抱いて言ってくれたバケラッタは、
 ―――「大丈夫だよ、陽子」 父の最後のメッセージです。
 だから私、大丈夫なんです。



    始動
  


 俺が通ってる高校は県下最低レベルの学力を有する私学。だけど頭が悪いだけが自慢の高校じゃないし、頭の悪い奴を救済するための高校でもない。偏差値の低い学校にありがちの、<スポーツだけは盛んです> のモデル校みたいな高校で、特に陸上部と野球部は県下有数の強豪校。どちらも全国クラスなのだ。
 その中でも陸上部は別格だ。四年前のオリンピックでは、高校OBの女子マラソン選手を輩出したし、二年前の高校総体400mリレーでは、今やってるオリンピックで9秒台 / 100m が期待される、 『アイツ』 さえいなければ全国優勝の栄冠に輝いていたほどの超高校級。その中心メンバーのひとり、アンカーを走ったのが俺だった。
 だから、「高校どこよ」 なんて訊かれた時は 「××高、陸上部。ちなみに推薦」、 なんて訊かれもしないことまで口にしたものだ。だけどもう、余計なことを話す必要もなくなった。そもそも高三にもなれば訊かれることなんか無いけど。
 とにかく、アイツの隣で走り、みるみる距離を縮められて呆気なく置き去りにされたことは、忘れることの出来ない事実として俺の心に刻まれたわけで、県下最低レベルの高校で下位争いをする劣等生の俺には、贅沢すぎる話かもしれない。
 だけど忘れたくても忘れられない過去になるくらいなら、頑張らなきゃ良かったって、マジで後悔してる。もちろんアイツと走って負けたことが悔しいから言うんじゃない。頑張らなければ父さんも、母さんも、姉ちゃんも・・・・・・俺は家族の中の見舞客で終わるわけにはいかなかったんだ。だから表彰台の真ん中に立つことなんかより、俺は父さんの隣で座ってることを選んだ。もちろん間違っていたなんて思っちゃいない。マジで。
 だけど部員からは散々言われた。「高校総体予選落ちはお前のせいだ」 「俺らの夢を奪いやがって」 好き勝手なことをネチネチと。
 顧問の 『ハゲ頭』 にいたってはこうだ。「もう、戻れるだろ」 初七日が終わったばかりだって言うのに。
 そんだけじゃない。「退部するってことは退学なんだぞ、本来は」 推薦入学のお前が高校生でいられるのは、このオレのおかげだとでも言いたげに。総体が終わったあとが赦せないほど酷かった。「ひと月程度なら退部することぁ無かったわな。休部にしときゃ良かったんだ、オレの言うこと聞いてよ」
「クソッ!」
 ・・・・・・。
「走るよ。俺」
 厄介者呼ばわりにされたままにはしないよ。父さん。


 男が川に入ったのは午前五時すぎ。ラジオの深夜放送が早朝の番組に替わり、小枝の実が何色なのか、見分けられるようになった頃だ。
 九月に入って初めて入る川は、先月とはずいぶん違った。店頭の棚に陳列された缶コーヒーと自販機のコールド飲料ほどの差であった。男は木々に隠れた雑草が広がる河川敷の斜面に腰を下ろすと、膝をかかえ、上流の山の風景を目でなぞる。森の中で生まれた湧き水が集まり細い流れとなって、小さな岩間をちょろちょろと歌うような音を奏でる。歌は四方の仲間を呼び集め、やがて川になる。そして海を目指して下っていく―――。至福の時間を、男は満喫している。
 気温の上昇とともに、餌を求めて鳥たちが集まり始めると、風に応える葉擦れのそよぎが、優しく男の肌を撫ぜた。乾いた心地よい風が、現実を遠くにまで運んでくれているようだ。
 永遠にこのままでいられたら・・・・・叶わぬ幻想とともに訪れるのは睡魔。いつものことだ。
「今のままで十分じゃないか」
 男は口に出して言った。
 外界などない。外界などではない。自然を不自然に変えたのが人。いるべきところにいたいだけさ。僕は。
 複数の若者らしき声が、まどろみ始めた男の目を覚ます。車の乗り入れが禁止されている村との境界に近い河川敷は、賑わう筈ではなかった。
 身の危険を感じた男は、勢いよく半身を起こし周囲を見渡す。と、家族連れや年齢差のある男女のグループを認めるのに遅れて、肉を焼く香ばしい匂い。
「? 日曜日か」
 疲れを吸った腰に手をあて男は立ち上がると、低い木に干した半乾きの洗濯物をバッグに詰め、土埃舞う農道に向けて斜面をのぼり始めた。
 歩くことは苦ではないが、生きる為の糧と術のすべてが詰まった、ボストンバッグを担げば話は別。時間の経過に比例してバッグの重さは増し、体力は奪われていく。タオル一枚が鉄板に。耳かき爪切りは鉄アレー。ポケットティッシュは聖書なみに。聖書は米俵。トレーニングだと言い聞かせてはみても、成人男性が必要なカロリーの半分も摂取していない身体には、負担にしかならない。だから不要なものは一切持ち合わせないのが、外界を生きる者のセオリー。
 辛い顔でいれば、体力の消耗は顕著に現れる。いつも喜んでいなさいと神は言うが、それが出来たらどんなに楽だろう。出来ないまでも口角ぐらいは上げておこうと意識する。すると、苦虫を噛み潰したような顔でいるより、足取りは軽くなる。ほんの少しだけ。
 別に市立体育館を住処にしているつもりはない。鳥や猫、野で生きる者たちと同じで、居やすいから。それが理由だ。だが日中をここで過ごすことなど滅多にない僕には、陽の光をさんさんと浴びる体育館周辺は、別世界だった。
 隣接する広大な市立公園は、その殆どが鬱蒼とした林だ。森を切り開いて体育館を建設し、ついでに公園を整備したであろうことに初めて気づいた。
 シラカシやケヤキの高く太い枝と濃い葉がつくる日陰を、男はモッコクやイロハモミジの葉を手で避けながら歩いていく。赤く色づき始めたモミジの葉先が、移ろいゆく季節と生命力を感じさせ、木々に跳ね返る異なる鳥たちの歌はそれを告げ知らせているかのようで、男は四方に向けて笑顔で見せる。 <ああ、分かったよ>
 林に造られた獣道に似せた坂道を下っていくと徐々に視界が開かれ、またもや夜とは違う世界が姿を現わす。
 サッカーグランドと、フェンスに沿って伸びるジョギングコース。色とりどりの服装の老若男女が思い思いに、体力づくりや趣味に勤しんでいる。男はその両方が見下ろせる日陰を選ぶと、芝の斜面に腰を降ろす。
 入浴に日光浴に森林浴。外界暮らしの中で、これほどの贅沢を味わった日など無かったのではないかと男は思う。
 砂埃を舞い上がらせてボールを追いかける少年。黙々と走るジョガー。傍らの花壇を指さして言葉を交わす初老の夫婦。みなこころに童心を秘めた人間なのだと思うと、男の口角は自然とほころんだ。
「ん?」
 男の目がひとりの若者を捉える。
 若者は、ジョギングコースの直線が始まる辺りで、ストレッチングを繰り返す。かなりの背丈だ。
 短距離選手? 高校生だろうか。いや、あの体格としなやかな動きは社会人。実業団選手かもしれない。男は若者から目を外さない。瞬きも忘れて凝視する。
 ストレッチングで筋肉を弛緩させた若者は、今度はうつむき加減で静止する。目を閉じて呼吸を整えているのが分かった。と、若者は顔を上げ、ゆっくりと歩くより遅いペースで走り始める。いや。動き出したと言った方が正しいだろう。
「そうか。そうだったのか」  
 ロングスローディスタンス。中長距離選手の練習方法。だが、あの動きと筋肉は長距離選手のそれではない。中距離専門だとも思えない。やはり・・・。
 若者が長い直線の終わる、カーブ手前で引き返してくる。ペースは変わらない。筋肉の動きを確かめているよう。にも見えなくはない。男はどこかに違和感を覚えながらも、鋭い眼光で若者を射る。
 出発点まで戻ってきた若者は、ピタと動きを止め深呼吸。鼻から吸って倍の長さで口から吐き出す。自律神経系を安定させる為の呼吸法。中長距離も短距離もない、滅茶苦茶だ。
 意識しているのかしていないのかは分からないが、自立神経を安定させた若者は、ふたたび走り出、いや動き出す。ジョガーが若者を避け、杖をついた老人にさえ追い抜かれ迷惑行為以外の何ものでもない。
 図太い性格? であるとすれば、短距離には向かない。繊細でありながら大らかな人間が短距離においては、
 !
 折り返し戻ってきた若者が動きを止め、傍らのバッグからタオルを手に取り、身体を拭い始めた。
「終わりかよおい」 男は叫びそうになるのを何とか堪えた。
 無駄無意味無頓着無神経、無知。素質を殺してどうするっ。
 !
 そうだよ。
 若者が走り出した。ジョギングから小走り。男の目がふたたぶ光った。 「見せてくれ。君の本気を。全力の走りを。さあ」
 ピタ。
 若者が立ち止まる。
「貴様あ。陸上舐めんじゃねえ」
 男はバッグを鷲掴みにして斜面を下る。若者は自販機のボタンを押した。

「やっぱ、四か月も走ってないとぜんぜんダメだわ」
 アップで汗を流し、缶コーヒーを飲んで気分を落ち着かせた脇田春夫は、その後も闇雲に走り続けた。
 腿が上がらず、足がまわらず、腕が振れず、顎が上がる。何もかもが空回りで納得できない。それでも春夫は走り続ける。
 そのスピードに道を譲り、立ち止まって振り返る、人、人、人。
「くっそー」
 直線コースは75mから80m。腕時計のデジタル表示を見るたびに焦燥が手伝い、ホームが乱れていることに、春夫は気づかない。
 ―――早く押しちゃえばいいじゃない。ボタン。
 そんな事すっかよ。俺は姉ちゃんとは違うんだ。
 グランドの砂ぼこりが舞い、汗とともに目に入る。「ったく、何なんだよもうっ」
 こんな事になるであろうことは分かっていたこと。想定内だ。とは言え、こんな気分のまま終わりたくはない。
 姉ちゃんの言うことも一理あるか。自信さえつけば伸びるタイプだし。俺。
「タイム、計りましょうか。続けるのであれば」
 はい?
 春夫は、目をこすりながら声のする方向に首をひねる。
「フォーム、崩しますよ」
 柔和な笑みを浮かべる、白髪の目立つ長髪男が言った。
「さあ。ご遠慮せずに」
 なんで俺みたいな小僧にクソ丁寧に喋んだよ。オヤジのくせに。
「え。あ、はあ」
「さあ。貸してごらんなさい。もちろん盗ったりしませんから」
 別に盗まれるなんて思ってないけど。苦手なんだよな、お節介とか親切とか。
「すみません。じゃあ」
 春夫は顎だけを下げて礼を言い、腕時計を差し出す。 「下のボタンを押して、」
「ありがとう、操作方法は分かります。僕のことは気にしないで、準備が整ったら、声掛けてください。もちろん盗んだりしませんから、安心して」
 どうしてソコを強調するかな。ま、いっか。
「俺、いやボクはOKっす。さっそく、お願いします」
「普段通りで構いません。君のペースで」
 男は笑いながら言うと、デジタル時計を構えボタンに指をおく。―――見せつけて見ろ。君の力を。
「ふうぅー」 春夫が大きく息を吐く。
 いよいよだ。男は春夫の全身を舐めるように見つめる。
 さてと。
 その場でジャンプする。緊張を解きほぐすのはもちろん、関節の怪我を防ぐために。一、二、三回。
 首を傾ける。右に、左に。もう一度、右、左―――気持ち悪ぃな、そんなに見るなよ。
 両腕を組んで高く上げ、肩甲骨周辺も。右に、左に。右、左。
 右足を前に出し左のふくらはぎを伸ばす。一二三四五六七八。足を換えて、一二三・・・・・・。
 おい。アップ済ませただろ、さっきまで全力で走ってたじゃないか。
「ふうー」
 目を閉じて二度顔をたたく。パチ。パチ。
「じゃ、お願いします」
 さっき言ったよな。男は言葉を飲み込み腹に力を入れた。
「オン、ユアマーク」
 太くよく通る別人のような声に反応して、春夫は地面に手をおいた。試合形式のクラウチングスタートだ。
「ああ君。やめておきなさい」
「えぇ~何でえ。いや。どうしてっすか」
「走っていなかったでしょう、しばらく」
「分かりますか。ブランクあるの」
 お見通しだよ。そんな風に男は頷いた。
「筋肉を痛めかねませんし、フォームを崩すだけです。スタンディングになさい」
「な~んだ、やめろって言われたかと思いましたよ。走るの」
 そんなわけねえだろ。何のために計測するって言ったん、
「オンユアマーク!」
 言葉に反応した春夫は、息を吸い込む。
「セット」 靴一つ半分左足を前に出し、体を前傾させるのと同時に息を吐き、止める。
「ハァイッ」
 男の声に全身が反応し、春夫はスタートを切った。

「どうでした、俺の走り」
 限界ぎりぎりまで走り続けた春夫が男に尋ねた。すでに精神力は限界を越し集中できない春夫を、男が止めたのだ。
「だいぶ良くなりました。手応え、感じていたのでは有りませんか。君自身が」
「後半、やっと自分の足で走ってる感覚、戻ってきたけど。それだけっす」
 男に促されて始めたストレッチをしながら、春夫は答えた。
「それが手応えです」
「バランスめちゃくちゃだし、バラバラだし、ベストには程遠い。ぜんぜん駄目っすよ」
 走ることくらいなら出来たじゃないか。俺はただ逃げ出したかっただけなのか?―――。春夫は自分を責めた。
「100m。ベストは?」
「10秒60。追い風参考ですけど。高二ん時の、どうでもいいことっすよ」
「それでも比べてしまう。ベストで走った時の自分と」
 男は尋ねるように話す。
「そうっすね」
 どうでも良いことだと言っただろ、君は。
「そういう生き物です。人間は」
 春夫は慰められた。肩の荷を降ろしてくれた。そんな気持ちだった。
「陸上、やってたんですね」
「タイムなど気にしないことです。大切なのは手応えです」
 男は答えずに別のことを話した。
「コーチしてたとか?」
「今は、フォームを固めるべき時です。走るのが楽しいと感じるのと比例して、タイムは限界に近づいていきます」
 話を聞いていないのか答えたくないのか、春夫には分からなかった。
「やっぱ四か月のブランクは、デカいわ」
 話聞けよ。いちばん大事な、肝だぞ。
「今は、フォームを固めるべき時。走るのが楽しいと感じるのと比例して、タイムも限界に向かおうとするのです」
「楽しいと思って走ってる奴いますか。みんな順位と、記録とタイムにこだわって走ってるじゃないですか」
 少し違うが、君のいう通りかもしれないな。
 男は西の方角に連なる山々に顔を向け、山間(やまま)に隠れようかとする茜色の太陽を、目を細めて見つめる。
「草原を駆ける馬。辛そうに見えますか。苦しそうに、走っていますか」
「そうっすねえ。どっちかって言ったら、気持ち良さそうな感じかな。聞いてみなきゃ分かんないっすけど」
「僕も、そう思います。走れば走るほど彼らは気持ちよく、楽しいに違いありません。そう思いませんか」
「んまあ、確かに。オスだけじゃなくてメスも、」
「馬になればいい」
「・・・・・・はい?」
 真面目な顔して、何言い出すんだよ。
「馬になるんです。タイムを縮めたいのであれば。走ることが楽しいと、思えるようになりたいのなら」
「いやいや、そうは言っても足、四本じゃないっすか。馬って」
 男が目を剝く。言葉が出ない。
「もしかして前のアレって、手? なんすか」
「手、?」
「知らなかったな、手だったなんて」
「アレは、」
「いやあ勉強になりましたよ。そっか手だったんだ。手ね」
 足が四本、手だ足だ。そんな事はどうでもいい話なんだよ。
 でも本気で前のアレを手だと信じて誰かにでも話そうものなら、この僕が馬鹿に、いや彼が恥をかくことになる。
「前のアレは足さ。前足」
「やっぱそうっすよね、足ですよね。ダチにバカにされるとこでしたよ」
 だよな。足だよ。手だったら結んで開いてとか・・・ん?
「ところで君は、恐らくコーチの言いなり、いや指導に従って、走っては休みまた走るを繰り返してはいませんでしたか」
「でも手と足の違いって何なんすかね。犬はお手するから、手?」
「コーチの言いなりで、走っては休みまた走るを繰り返してなかったかい」
 立ち去ってしまいたい衝動を抑えて、男は繰り返した。
「勝手に練習したら怒られますからね」
 やっぱり。そんなバカげた、いやナンセンスな指導をするから有能な選手がつぶれてしまうんだ。
「体力の回復は人によって異なります。自分に合ったインターバル。つまり間隔にしたがった練習をつむことが大切です。決して焦ってはいけません」
「え。馬は? 大切じゃないんすか」
 こ、こいつ。どこまで馬、いや、正直者なんだ。
 ん? 馬鹿、正直。は・・・素直。
 ♪ 素直は子ども。子供は嘘つかない、ただし乳幼児。♪ 乳幼児は純真。純真は無~垢。
 ♪ 無~垢は汚れがない。♪ 汚れがない心は綺麗で素直。
 激しく心揺さぶられる潜在能力。僕は、とんでもない少年と出会ってしまったのかもしれない。♪ とんでもない出会いは運命。 
「あのう。もしもし」
「ん」
「何か気に障るようなこと言っちゃいましたか俺。怒って、ないっすか」
 顔色を窺うようにして、男に言う。
「怒っているわけでは有りません。決して」
 悔しい。実に悔しい。目の前のダイヤの原石、いやもっと現実的な言い方をすれば、足元に落っこちている五百円玉に手を伸ばさずに―――通貨価値で言っているわけではない。我々外界生活者やホームレスにとっての五百円硬貨は、一万円札と同じくらいの確率で出会う可能性が低く、二千円札につぐ価値なのだ―――素通りするようなもの。ほんとうに惜しい。
「俺、部活辞めてから四か月走ってなかったんです。でもやっぱ、他に何にも無いって気づいたから」
「そう難しく考えることは、無いのではないでしょうか。つまりアレです、馬ですよ。彼らが君のように考えて走っているとは、僕には思えない。自分の意思に従い、自由に走っている。理由などありません」
「競馬の馬。あれは? 走らされてるように見えるけどなぁ。それとあれ、北海道ですっげえ重たそうな、ソリみたいなの引っ張ってる超デッケエ馬。何て言ったっけなあれ」
 どうして君は話を脱線させようとする。いやそうではない。幼子は見るものすべてに興味を示し、時に手伸ばし、口に含もうとするではないか。彼の直ぐな心を蔑ろにしてはいけない。大人として。
輓馬(ばんば)。のことかい」
「そうそうバンバ。さすが馬好きだけあって詳しいっすね」
 別に馬が好きでも思い入れがあるわけでもないよ。
「僕が言っているのは、草原を駆ける馬のこと。草原で生きていると言ったほうがいいかもしれないが」
「ああそっちの」
 いちいち反応してはいけない。男は自分に言い聞かせる。
「ステップを踏むようなあの姿。スキップするようなあの走り。懸命に斜面をのぼる姿。どれも苦しそうには見えません。僕には」
「確かに」
 こんな人がコーチだったら。俺は陸上を辞めたりはしなかっただろう。いや続けていたはずだ。どうにかしてでも。
 ! 変わったな。目の色が。
「教えてください! 俺に」
 春夫は男の正面に立って叫んだ。「うん」 と言ってくれるまでは、決して目を逸らすつもりはない。
「僕は、今お話した程度のアドバイスしかできません」 五百円玉だぞ。拾わずに素通りする気か。素直に貰っておけよ。
「十分です」
 十分? あんなアドバイスで十分はないだろ。君に合わせて喋ったまでで、教えたうちには入らんよ。大事なことだが。
「僕は、人を教えられる様な人間ではありません。駄目人間。世の落伍者です」
「落語家なんすかっ。いやあ何となくそんな気がして、」
「落伍っ。つまり、落ちこぼれです。僕は」
「俺もっす。ひっきたい? 英語のにょろにょろしたの。アレ書けないし、算数なんかまるでダメ。夏休みなんか補習っすよ、やったって無駄なのに。そうそう分数、あれって社会に出て必要です? 役に立つんすか。ぜってえ必要だとは思えないんだけどな」
 いい子じゃないか。男は素直な春夫に魅かれていた。
「学校の勉強というのはつまり、脳の成長や忍耐力を養い育むもの。僕はそう考えます。つまり結果が必要なのではなく、取り組むプロセス。つまり過程と、姿勢が重要なのだと思います。個人的には」
「じゃあテストで0点とか一桁ばっかの奴もクラスでトップテンの奴も関係ないんすね、社会に出たら」
 それは、「その通りです」
 いいじゃないか。生きていくのに大切なのは、素直さとやさしさと思いやり。そして信じる勇気。つまり君のような人間こそが必要なんだ。君は決して落ちこぼれなんかじゃない。僕とは違う。
「教えてくれませんか。俺にコーチしてください」
「僕は外界生活者。世間の言うところのホームレスです。僕のような正真正銘の落ちこぼれと関わっては、」
「やり直しましょうよ、始めればいいんすよ。同じ落ちこぼれ同士。同じ落語者同士で」
 同じ・・・ね。
「とにかく、考えてみてください。俺マジで本気ですから。あ、ちょっと待って」
 春夫は金網に立て掛けたデイパックを手に取ると、乱雑に詰め込んだ中身を漁り始めた。「あった」 生徒手帳を傍らに放り投げる。
「ああ」 二人同時に声。ボールペンが跳ね排水溝に向かってころころ。「ああ」
 ポチァン。「ついてねえな」
 わざわざ投げることないだろ。「これ、どうぞ」
 コーチ、やりたい―――と言っているかのようで束の間躊躇したが、男はボールペンを差し出す。がっかりする若者に、手を差し延べずにはいられなかった。
「すみません頂きます。俺、脇田っす」 貸しただけだぞ。
 真新しい、殆ど使われていないこと一目瞭然の生徒手帳に、春夫は住所氏名電話番号を書きつけていく。男は手を震わせる春夫の手元をじっと見つめるだけで、何も言えなかった。
「これ」
 破られたメモ紙の字は意外にも美文字。「きれいな字ですね。なかなか」
「字まで下手くそじゃ、馬鹿を主張してるみたいでしょ」
 はにかむ表情は心のきれいな少年。個性を大事にすれば君は必ず伸びる。
 男は確信すると同時に、教え育てることの重責を思った。世の親たちはこれほどにも重い責任を負っているのだろうか・・・無理だ。人を教え育てることなど僕には出来ない。
 ん?
「脇田、春夫。脇田くん。ですか」
「さっき言いましたけど」
 あのNPO、すくい・たいの大門さんでない方の女性も、確かワキタさん。ワキタヨウコと語っていた。
「教えてくれませんか。コーチの」
「ん、ああ」
 コーチを引き受けると言ったつもりもないし、住所も携帯電話もない僕に教えられるのは名前だけ。だけど・・・。
「やっぱ無理っすよね。個人情報の時代だし。俺みたいなコゾウには教え、」
「寺川。寺川銀次(ぎんじ)だ僕は」
 名前などナンバープレートと同じ。何だっていいじゃないか。寺川銀次でゼロからスタート。文句を言う人間がいるわけでもないし。
 男はボストンバッグを肩に担ぐ。春夫が覚えられたかが不安だが。
「俺ここで走ってますから。待ってますから、俺」
 背中で春夫の声が聞こえる。男は橙色の空に向かって歩き出した。



    歩み



 ぼーん・・・・・・・・・。玄関わきの柱時計、ホールクロックが午後六時を告げた。脇田家の主、亡き和男の声を思い起こさせる低くあたたかな音色だ。
 ひと通り家事の手伝いを終えた陽子は玄関に向かう。すくい・たいの支援活動、夜間パトロールに行くためだ。
「お。走るんだ、音楽聴きながら。感心感心」
 シューズに靴ひもを通す春夫の横に、陽子は座る。
「んだよ偉そうに。音楽なんか聴かないよ、ラジオだよラジオ」
「へえ、渋いじゃない。高校生のくせに。感心感心」
 チェッ。感心なんかしてねえくせに。
 打ち込めるものに出会えぬまま十代を過ごした陽子は、懸けるものがある春夫が羨ましかった。陰で声援を送ってきたのだ。その春夫が父の介護をするために陸上をやめると言い出した時は、自分の夢を失ったかのように落胆し、人知れず泣いた。そして、ふたたび 『走る』と言った日の夜も同じように、違う涙を流した。またいっしょに夢を見られるという、喜びの嬉し涙だった。
 そんな気持ちとは裏腹につい憎まれ口を聞いてしまう。やっぱり嬉しいから。
「暑いわねえ。ちゃんと水分摂らなきゃ駄目よ」
 !? 何だよ急に。気持ち悪ぃな。
「倒れちゃうから。分かった?」
「なんか、有ったのか?」
「ん? 別に。何もないわよ」
 春夫は首をひねりながら、もう片方のシューズを手に取り、
「何、そのジャンパー。クソ暑いのにさ」
 視線をシューズに向けたままで言った。
「気がついた? ブルゾン」
「真夏日にジャンパー、しかもド派手。気づかないわけねえじゃん」
「カッコいいでしょ。支援活動のスタッフブルゾンよ」
 陽子は、若葉色のパステルカラーに金色で刺繍された、胸元の文字を指して言う。

    ―――あなたのさいわい
          NPO すくい・たい―――

 ああ。教会のボランティアだかのアレね。
「ちゃんと見なさいよ。ほら」
 陽子が胸をつき出して言う。
「見たよ」
「もっとちゃんと。ほら。ほら」
「見たって言ってんじゃん」
 春夫は自棄になって言った。小柄の陽子の胸は大柄。目のやり場に困るのだ。
「さいわい。分かる?」
「分かるに決まってんだろ、そのくらい」
「どう書くの?」
「うるせえよ。忙しいんだって」 また馬鹿にする気だろ。
「幸。幸せと同じ字。じゃあ意味は? 幸いの」
「さち。しあわせだろ」
「あ。先に言っちゃったね答え」
「言われなくたって分かるよ。馬鹿にすんな」
 春夫はからだの向きをずらす。やっぱおかしいぞ、姉ちゃん。
「大事なのよ。幸福の福の字も、福祉の祉という字も、どっちも幸いという意味なの。要するにね、福祉に関わる仕事も、ボランティアする人も、幸せになって頂きたいっていう気持ちがないといけないの。自分の幸せなんかよりもね。ちなみに支援の支はささえる。援は助ける。身も心も捧げて救いたい、っていう気持ちが大事なの。そう言うこと」
「ふーん」
 春夫はランニングシューズを履き、ラジオのチューニングを合わせる。「さっ走っかな」
 立ち上がって玄関の引戸に手を掛ける。「気持ちって大事だよな。偉いよ姉ちゃん」 マジで。
 コーチっていうのも、同じかもしれないな。今日はくるだろうか。
 寺川さん・・・銀次コーチ。
「車に気をつけるのよおっ」

「うわぁ。暑いなあ」
 駅に向かうバス停に着いた陽子は、悪戦苦闘していた夕食(夜食)のメニュー、金目鯛の煮つけを思い浮かべた。
「もうだめ。煮つけになっちゃう」
 すくい・たいブルゾンのファスナーを指でつまんで、
「ダメ。駄目でしょ、私」
 みんなこの暑さに耐えてるのよ。
 ―――このジャンパーは我々すくい・たいの使徒信条。信仰の証よ。故に、活動前おのおの家を出る時から着用すること。いいわね。
 故に・いいわね。千代の据わった目が浮かぶ。
「何よ偉そうに」
 あら私ったら。信仰心。足りないんだわ。
 ―――目に見える兄弟を愛していない者に、目に見える神を愛することはできません―――
 そうよ、千代さんではなくて、神さまがお優しい目でお話なさってる。そう思えば良いんだわ。
 自分に言い聞かせると、陽子の気持ちは晴れていった。
 ?・・・でもそれって、千代さんを全否定してることにならないかしら。難しいな、他人(ひと)と関わるのって。
 ああ父なる神さま。人をさばき、主を十字架につけた私をどうかお赦しください。私は悔い改めて、
『プ~ッ、ププゥ~』 クラクションが陽子の祈りを遮る。
「なによ、もう」 音のする方に顔を向ける。と、
「千代、さん? 千代さんだ。千代さんだよ。助かったあ」
 陽子はつま先で立って大きく手を振り、深々と頭を下げる。停まる寸前まで速度を落とした千代の運転する車のパワーウインドウが下りる。
「いい笑顔よ。じゃ、後でね」 熱気の侵入を避けるかのようにそそくさと助手席の窓を閉め、千代の車が走り去る。
 乗せてってくれないの? 行くとこ一緒じゃない。しかもブルゾン着てなかった。どういう事よ?
「あれでも信者? 代表理事? 大人? 人の子の親?」
 直前まで悔い改めると祈っていたことなど忘れて、陽子は言った。
「なーんか、ヤんなっちゃったなあ・・・・・・帰ろっか、なぁ」
 うつむいて片足をぶらぶら。口はアヒル。「行きたくないよ。もう無理だよ。信じられないよ」

   なんで嘘つくんだよ信者のくせに。なんだ偉そうに。
   どうしてすぐに怒るんだ信者のくせに。なんだバカにしやがって。
   お前らそれでも信者か。よく信者だなんて口に出せるな。
   神様も泣いてるだろうよ、俺たちのようによ。

 「まただ」 シェルターを利用する人たちの顔が浮かぶ。夢にまでも出てくる悲痛な叫びが。
「私信者じゃないもん。すくい・たいの人でもないもん」
 どうして私だけ責めるの。私も同じなんだよ。同じことを叫びたいの。違う違う違う違う、間違ってる間違ってる間違ってる間違ってる、間違ってるよっ!
 バスが停車し、空気音とともに目の前の扉が開く。「乗りますか」
 通学の時と同じように惰性的にステップに足をのせ、エアコンの効いた車内を最後部まで進み座席に着く。
 バスはゆっくりと走り出し、汗が引いていく。陽子はブルゾンを脱ぎ、手の中に丸めた。

 
 比較的乗降客の少ない駅南口に着いた男は、ロータリー中央にあるウォールクロックを見上げた。
 午後六時五十分。交通量も人も多い北口を避けて遠回りしたせいで、思いのほか時間が掛かった。
 線路沿いの寂しいガード下を東口へ行くとすぐ、南口との中間にあるクレジットカード専用のATMの看板が目に入る。赤、黄、緑に紺に白。電飾のある風景は半月前と変わりないが、羽虫を誘う為に点けているのではないかと思うほどの有り様。いつも以上に近寄り難い。「お前も仲間だろ。嫌な顔するなよ」
 そうだったね。仲間だよね。
 男は周囲を窺う。人に見られたくない。見られたくはないが、見られている気がする。頭上の防犯カメラだ。「お前が不審者なんだよ」
 そう言われた気がして、素早く自動ドアに手を触れ開きかけた隙間に体をねじ込む。 
 慣れた手順で画面を操作し半月分の生活三千円を手にする。目的は果たした。長居は無用、自動ドアに手を触れる。
 周囲を窺って箱から抜け出し来た時以上の早さでATMから遠ざかる。借り入れる時以上に、人に見られたくなかった。
 シャッターの閉められた元酒屋の自販機の明かりを頼りに、恐る恐る手にした明細を覗き見る。一か月の上限を六千円として借入残高から割り算・・・・・・命の残高は五か月だ。

 ―――何を食べようか、心配するのはやめなさい―――
 そこそこの生活をしている時は、食べ物にこだわる事などなかった。食物アレルギーもなければ好き嫌いもなく、こだわりと言えば残さずに食べること。それくらいのもの。
 だが今は違う。なけなしのお金でいかに満足するかにこだわっている。と言うより執着している。
 拠点としている市立体育館までは歩いて三時間。体育館から更に二十分ほど北に行けば、激安スーパーの五割引きタイムセール、手巻き寿司37円がゲットできる。生命を維持するための頼みの綱、二日に一度の贅沢だ。
 ♪ ピュ~、ピュ~ピィーピュ~、今夜はネギトロ? それともツナサラダ? オーソドックスにかんぴょう巻も悪くない。たまには味噌ラーメンのミニカップでも、いやいや53円も無駄遣いはできない。食べたと思い込めば同じさ。
 ?・・・・・・あれ。
 男の目がひとりの女を捉える。「わきた、さん?」
 一目で陽子だということは分かった。だが明らかに、先日駅前で会った陽子ではなかった。男はバッグを背負いなおして陽子を追った。
 はあ・・・はあ・・・はあ・・・はあ・・・。やんなっちゃったなぁ。はあぁ。
 ああぁ。・・・・・・はあぁ・・・はあぁ・・・。もう、やだよ。
「わきたさん」
 はあ・・・はあ・・・ああぁ・・・あぁあ。はあ。
 ? 気づかない。「わきたさん」
 はあ・・・・・・。「お嬢さん」
 ぴた。
 私? お嬢さん。
 何よ。どうしよう・・・。
 イヤッ。
 陽子は速足で歩き出す。明るいとこ、明るいとこ、人がいるとこ。車が通るとこ。
 からだの上下運動がほとんどない。長距離或いは、競歩向きの理想的なホーム。間違いない。この子は、脇田春夫のお姉さんだ。
 見てる。見られてる。体中。痴漢? ううん違う。強姦って言うんじゃ、
 すたすたすたたたたたたたた・・・・・・。
 惜しい。このスピードでも軸がまったくぶれない。体型にさえ問題なければ、脇田くんに勝る逸材かもしれ、
 いや、今はそれどころではない。
「お嬢さん。わ・き・た・さん」
「イヤァ~ッ」 どうして。どうして。名前知られてる。
 陽子は全力で駆け出す。軽快な男の足音はすぐ後ろ。縮まりもしなければ離れもしない。
 私が疲れるの見て楽しんでるんだ。それで走れなくなった私を、
「イヤ! イヤッ! ヤダッて来ないでっ!」
 右手に握りしめたすくい・たいブルゾンを闇雲に振り回す。誰か助けて。救って誰か。救ってください私を。
「待って、わきたさん。僕ですよ」
 待つわけないでしょ!
「怪しいものではありません。ようこさん。ようこ、さん」
 下の名前まで。ストーカー!? ずっと、観察されてた!?
 ! コンビニっ! あそこまで行けば助かる。救われる。救われたい。
 キャッ!
 目の前で足音が止まり、勢い陽子は男の腕の中に飛び込んだ。
 抱きついちゃった。もうダメ。始めから言い訳考えてたんだ。逮捕された時の、用心のために。
「僕ですよ僕。忘れてしまいましたか」
 あれその声。お父さんみたいな、その声は・・・・・・。

「んもう。ビックリしました」
 呼吸が整った後も、陽子は同じ言葉を繰り返し言った。
「まさかわきたさんとお会いできるなんて思ってもいなかったので、つい追い掛けてしまいました。ごめんなさい」
「ううん。私が悪いんです。変な人だって思い込んだ私が」
 あの日の明るさが戻ったように見える。だが声が違う。目も。
「これからですか」
 支援活動のことだと気がついた陽子の表情が曇った。
 すくい・たいで何か、あったんですね。
「井上良雄です。僕の名前」
 どうして。知られたくなかったんでしょ。おじさん。
「井戸の井に上下の上。不良のオスを書いて、井上良雄」
「くすっ。不良のオスですか」
「名は体を表すと言いますが、その通りです」
「良心をもった男性です。おじさ、井上さんは」
「見た目で印象づけてはいけません。ま、見るからに不良ですが」
 寡黙な印象しかなかった良雄が進んで話すことに、陽子は申し訳ない気持ちがした。やっぱり分かっちゃうのね、変だっていうことが。
「謙虚なんですね。思ったとおりの人です」
「それも見た目の印象ですよ」
「違います、それだけじゃ有りません。分かるんです。私には」 だって、お父さんみたいな人なんだもの。おじさんって。
「なのに逃げましたね」
「んもう」 ふたりは顔を見合わせて笑った。
 良雄にとって、久しく味わっていなかった、あたたかな時間だ。
「太陽の陽に子ども。陽子です」
 陽子は明るい声で言った。
「ぴったりの名前だ。クイズにしてくれていたら、僕はそう答えていましたよ」
「まあ。ほんとうに?」
「嘘ではありません。名が体を表しています」
 駅から離れた場所にあるコンビニエンスストアは人の出入りが少ない。ベンチに座った二人は、心地のよい夜風を感じながら、ちらちらと瞬き始めた星を見上げた。
「私、NPOの奉仕活動、」
「喉が渇いたでしょう、全力で走ったから。何も買わずにベンチを占拠するのも悪いですし、何か買ってきます」
 陽子の話を遮って、良雄は早口で言った。
「いいえ私が」
「心配しないで」 
 財布を出そうとする陽子に、良雄は作業ズボンのポケットを叩いて言った。
 男の子みたい。小さな春夫を連れて、おつかいに行った時のことを思い出した。
「何にしましょう」
「それじゃあ。グレープフルーツ味の、缶チューハイを」
「お酒ですか」
「大人ですよ私。それに呑みたい気分なんです。今夜は」



     一夜



  ―――△△大学から推薦の話がきた。お前を欲しがってる。
 二時間目が終わりに、早弁は見逃してやると言いたげに話をした時の 『ハゲ頭』 の顔がチラつく。何が欲しがってるだ。俺は物なんかじゃねえぞ!
 春夫は今日もひとり、市立体育館の脇にあるジョギングコースを走っていた。
 筋力、感覚は戻りつつある。だけど、ベストの状態に戻せたとしても自分だけの力では10秒60が限界。それ以上は望めない。春夫は分かっていた。
 一日一分のペースで日の入りが早まっている。求めようと求めまいと季節は移りゆき、命たちは装いを変え、自然に身をゆだねて生きている。季節が早く変化しているように感じるのは、そのせいかもしれない。
 そう思う一方で春夫は、一日が長く感じ、この十日間焦燥に駆られてきた。
 ―――ただし。推薦は陸上部に在籍していることが条件だ。戻ってきたらどうだ。
 ああヤダヤダ。戻ってきたらどうだだあ? どうせすぐ引退じゃんか。お前のためになんか、誰が戻るかってんだ。

    悔しくねえのか。
    何がだ。
    奴に負けたままで。
    忘れたよ、もう。
    都合よく忘れられるんだな、お前は。
    俺の特技だ。羨ましいだろ。
    オレは忘れないぞ。
    根に持つタイプだもんな。
    奴は銀メダリストだ。
    へえ。そうなんだ。
    9秒台も時間の問題だ。
    まだ10秒切ってなかったんだ。
    お前は走れるのか。9秒台で。
    ふん。
    奴を抜け。借りを返してみろ。
「戦うのはこの俺だ。相手は奴じゃねえよ」
 大学だあ? ウチにそんな余裕あるわけねえだろ。それに俺は勉強なんかしたくねえ。勝手なことばっか言うな。
 消えろ 「ハゲ頭!」
 春夫は林に通じる坂道に目を向ける。
 男は来ない。
 外路灯に集まる羽虫の様子が、世界に見えた。


「良っちゃんがいけないのよぉ。大っきいの買ってくるから」
 顔を真っ赤に染めた陽子が、良雄の肩を叩きながら言う。
「あ痛っ。まいったな」
「え。なんか言った。今・・・」 まずい。
 せっかく明るさが戻ったというのに。酔ってるとは言え。
「いやいや。入った、また入ったって言ったんです。ほら、あそこにいる彼。ゴミをポーンと投げて、見事ゴミ箱に入れたから。二度も」
「なーんだ。聞き間違えちゃった。私」
 500mlのチューハイ二本を空にした陽子が、
「私からのプレゼント」
 四合瓶の純米酒を高々と掲げて店を出てきた時から、嫌な予感がしていた。陽子は酒に強くて、弱い。完全に呑まれるタイプだった。
「ねえ、聞いて良っちゃん」
「聞いてますよ。陽子さん」
「イヤよお。ちゃん、で呼んで。陽子ちゃんって。うふふ」
「はいはい分かりました。陽子ちゃん」
「ダメえ~」
「どうしてですか。ちゃんと陽子ちゃんって言いましたよ僕は」
「はい、は一回。二回はメッ」
「はい。分かりました気をつけます。ところで陽子ちゃん。話って、なあに?」
「グスッ」
「ど、どうしたんだい」 またまずいことでも。
「グスッ。うぇ~ん、え~ん。え~ん、」
 コンビニから出てきた若いカップルは、良雄を咎める目つきだ。―――若い娘泣かしてんじゃねえよオッサン。
「どうしたの。何で泣くの、陽子ちゃん」
「え~ん、ゴックン。うぇ~ん」
「さあ、話してごらん。何があったの?」
「良っちゃん、私ね」
 良雄を見上げて話し始める陽子を見た若いカップルは、呆れ顔で去っていく。
「私ね。いじめられてるの」 ぐすっ。
「いじめられてるぅ?」 どうして陽子ちゃんのような子がいじめられなければならないんだ。良雄は信じられない。
 うん。こっくり頷いた陽子は良雄が持つ酒瓶に手を伸ばす。良雄は吞ませまいと身体をよじり、隠してから訊く。
「学校でかい」
「違う」
「じゃあ友だちかい。近所の人とか」
「違うってば」
「じゃあ、」
「教会の人。しゅくい・たいのバ、」
「もしかしてだけどあの、代表理事の、確か、大門、千代さん?」
「ばけらった」 
「ん。懐かしいな。そのバケラッタは、どっちのバケラッタだい? 大門さんなのか違う人なのか」
「イエス、ばけらった。って、良っちゃん知ってるの? バケラッタ」
 陽子は下から覗くように、良雄を見て訊く。涙が止まったことに安心した良雄は、話を合わせることにした。
「もちろん。おばけのQぅ太郎。QぅちゃんとPぃ子ちゃんの弟の、Oぅちゃんだ」
「うわあ。知ってるんだあ、良っちゃん。Oぅ次郎ちゃんのこと。すごいなあ」
「僕らの世代の人はみんな知ってる筈だよ」
「羨ましいなあ。そう言うの無いの、私たちって。お父さんとお母さんはね、バケラッタで会話してたんだって。いいなあ、あったかいなあって、思った」
「そうだねえ。恵まれていたのかもしれないね、僕たちは」
 ふたりは黙り込んで空を見上げる。憧れと懐かしさの時間を、ふたりはそれぞれに楽しんでいた。
「星は何でも知っている―――。昔そんなタイトルの歌が有ったんだ。そうなんだよね。別々の時代を僕らが過ごしても、星は何でも知っているんだよね」
 陽子は自然と、良雄の肩に寄り掛かっていた。ほんとうに私の、お父さんじゃない? 良っちゃんって。
「大門さんも、きっと知ってる筈だよ。QぅちゃんやOぅちゃんのことを」
 ! 「千代」 陽子の目つきが一変する。
 まずい。せっかく明るさと穏やかさを取り戻したと言うのに。
「いじめばばあ」
 恨みを回想しているような目だ。
「彼女は理事で、しかもクリスチャンでしょ。まさかそんな、いじめをするなんて」
「嘘言ってると・・・思ってるのね。井上さん」
「とんでも有りません。ただ信じられないだけです。誤解や意思の疎通によって問題が生じることも有り得ますし」
「井上さん。キリスト信者というのはね、自分を罪人だと認めた人たちなの。千代は罪人の頭。サタン <悪魔> よ。私は絶対に赦さない。ううう・・・」
 何かを射るような酔眼は、遠くのどこでもない一点に注がれている。よくない兆候だ。
「いけないよ陽子ちゃん。―――裁いてはけません裁かれない為です。そう聖書に書かれているではありませんか」
「目には目、歯には歯、足には足――――とも書いてあるわ。井上さん」
「いやそれはですね、誤った解釈です。目を傷つけたから目を傷つけてやれ、或いは目だけで勘弁してやれ。そうではなくて、神の真意は、」
「分かってるわよそんな事くらい。大門は私の心を傷つけた。―――目を傷つけた者は目を差し出す。歯を傷つけたものは歯を差し出す。が故に。私の心を傷つけた千代は、心を差し出して償わなければならない。それが神さまの教え、信者の務め、千代のさだめなの! 信者である大門こそが理解していなければならない、ことなのよっ!」
 この子は、聖書の、神のみことばに従って、正直に生きようとしているのだ。今が大事なとき。神との関係を深めるか、断ってしまうのかの。
 ふふ。疲れたね、陽子ちゃん。
 陽子のからだが前後、左右、斜めに揺れる。少しだけ口を開け目を閉じている姿は、あどけない女の子だ。
 ここまで違う自分に変われる陽子が、良雄は羨ましかった。だがこのまま、ここでこうしているわけにはいかない。
「そろそろ帰らないと。ね」
 黒目勝ちの陽子の目が、ゆっくり開かれる。白目が勝っていた。「飽きたのね。私に」
「そそ、そんな事ないよ。話が出来て、よ良かった、楽しかったと思ってるさ」
「どもったわあなた。しかも過去形」
「陽子ちゃん」
「捨てる気ね。他の女と同じように。玩具(おもちゃ)にして。ポイ」
「ぼぼぼ、僕はそんな男では、」
「さんざん(もてあそ)んでおいて。ひどい男」
「ぼ僕はそんな事をする男じゃない。そんな事をした覚えはない。さあ帰ろ。帰るんだ陽子ちゃん。親御さんが心配してるから。さあ」
「私、大人の女よ。法的にも。からだも」
 ゴクッ。そんな事、言ってはだめだよ。言わないでよ陽子ちゃん。
「ふふ。うふふふふふふ」
「陽子、ちゃん?」
「くくくくくくく。かっわいい、良っちゃん」
「あー。陽子ちゃんきみ、」
「はあー楽しかった」
「弄んだな、僕のこと」
「うん」
「そろそろ、帰ろ。ね」
「やだ。やだもん。いやだもん。いや、だもの・・・」 もう少しだけ傍にいて。お願いだから。
 陽子は、良雄にもたれ掛かった。懐かしい温もりを感じた。
 良雄は大切なものを守るように、肩に手をまわす。心地よい香りと柔らかなからだが、幼かった。



     急襲



 念入りに耳そうじを済ませた井上良雄は、イヤホンを耳穴に押し込む。抑揚を強調した女が熱中症に注意するように告げて、気象情報が終わったところだ。
 深夜十一時十五分まであとちょっと。良雄は普段より早く体育館に戻っていた。月に二度の特別な夜である。
 館内に出入りするための非常用扉を背もたれにして、最もリラックスできる姿勢をとる。鉄扉が火照った身体をクールダウンし、疲労が解き放たれていくようだ。
 ポケットラジオはからだの右、ボストンバッグのうえに置く。六時間の長丁場、絶対に眠るわけにはいかない。今夜のパーソナリティは、桜木風子(ふうこ)だからである。
 晩夏の今の時期であればまだ暗い午前四時に起床し、作業着を羽織ると同時に布団代わりの無料雑誌を片づけ、すぐに歩き始める。行き先はアバウトではあるが、週に一回は比較的安価で入浴でき徒歩10分で行ける公共施設を拠点とする日と、週に一、二回を目安にしている洗濯と入浴ができる川を基点として行動し、それらの目的以外の日も含めざっくり言えば、日付が変わるのを待って戻ってくるのが日課だ。
 だが 『風ちゃん』 が担当の、第二第四土曜日に限っては違う。真っ先に川を目指す。川と言っても、ヒルやエビガニやフナがウジョウジョいそうな、入浴も洗濯もする気にならない沼のような川で、目的は、風ちゃんラジオを聴くための十分な睡眠をとるため。橋げたの陰に隠した先の折れた釣り竿を水中に浸し、釣り人を装いひたすら眠るのだ。翌日、いや正確に言えば翌々日の、風ちゃんの担当でない深夜放送の途中までの三十数時間を、眠らずに過ごすための、体力を温存するのである。
 ならば、毎日小川で過ごせば良いではないか―――。そう人は思うかもしれないが、そうもいかない。
 外界生活者は、外界生活の規律を守らなければ生きてゆけない。僕はそう思っている。規律とは言っても当然自分が勝手に決めたことで、そう堅苦しいものではない。寮生活の規律と似たり寄ったり。いや、小学一年生に教えるようなものかもしれない。

   1) 人に迷惑を掛けないこと
   2) 人から目を付けられないこと
   3) 体力を維持すること
   4) 清潔でいること(なるべく)
   5) 規則正しい生活を送ること

                    以上

 つまり日々 『エビガニ川』 で過ごす行為は、規律 2)と 5)に抵触する恐れがあるわけだ。
 ―――すくい・たいの、シェルターに入らない? アパートみたいなとこなの。そこに入って生活保護を申請してさ・・・。
 ありがとう陽子ちゃん。でも僕は、これ以上人に迷惑を掛けたくないんだ。規律 1)を犯したくないんだよ。
 ふふ。そうだね。君たちに目を付けられちゃったんだね、僕は。人から目を付けられないこと、なんて自分で決めておきながら。やっぱりふつうには、見えないよね。僕って。見えないよな・・・。
 さっ、気を取り直して、腹ごしらえとするか。
 良雄は五割引きで買った鉄火巻に手を伸ばす。一口口に含んでは、鉄火巻を買い物袋に戻し、何度も噛んでから飲み込む。寸前に口腔内に戻して、上アゴとベロでペタペタペチャペチャ。跡形がなくなり味が消えるまで。こうすれば、五百円玉大の太さのボールペンの長さほどの手巻き寿司一本でも空腹は満たされる。
「ああ美味しかった。ごちそうさまでした」
 あ。♪ タラララ、ラァー、ララー
 ゆったりとしたオカリナのような音のメロディ。風ちゃんの時間の到来だ。
 ―――こんばんは、
「はい。こんばんは風ちゃん」
 今夜のご案内は、桜木風子です―――。
「わあ」
 ♪ 寝んねん、ころりよ。おころりよお、お、
 寝つけない僕に添い寝をして、やさしく胸に手を置いて歌ってくれる、子守歌のような声。よけいな心配も、考えてもどうする事もできない不安や迷いも、どこかへ消えていくよう。
「会いたいな。お顔見たい」
 外界で生活している限り、一生風あちゃんを見ることはないだろう。一生とは、カードローンの借入限度額が0円になるまで。あと30000円。あと五か月。もちろん今まで通りに順調にいけばの話。順調でも波乱があっても、どちらにしても、半年後に声さえ聴けなくなる。
「自分で決めたこと。望んだことだろ、外界生活を」
 その通り。なのにどうして、僕の心は、揺れ動くのだろうか・・・。
 そう、脇田春夫。そして陽子ちゃん。あの二人が僕に変化をもたらしたのだ。幼子がおもちゃや菓子をねだるが如く、ふたりが膝を揺すり心を動かす。「父ちゃん、駆けっこぉ」「お父ちゃん、おしゃけ~」
 もう決めたんだよ。僕は。
 あ。
 ―――ご病気やお仕事のこと。ご家族やお友だちなどのことで、眠れない夜を過ごされている方もいるでしょう。
「は、はい。でも風子さんの声が聴けるから」
 ―――朝五時まで。あなたが眠りにつくまでの間、わたしが傍にいます。どうか安らかな夜になりますように。
「風ちゃん・・・・・・ありがとう」
 安らか、安らぎ。『安』 の字は、女の人が家のなかで静かに座っている姿を表すという。
 正に風ちゃんこそが、「ぷっ」
 いやいや陽子ちゃんには陽子ちゃんの良さがあるだろ? 家の中で明るく笑う姿もまた安らぎじゃないか。でも今夜は風ちゃんの、安らぎ、かな。
 良雄は桜木風子に近づきたくて、ぴたりとラジオの頬を押しあてる。「あーもうっ」 ノイズしか聞こえないじゃないか。
 仕方なしに、バッグの上にラジオを戻す。「幸せですよ。安らいでいますよ。風ちゃん」
 良雄は睡魔の奇襲に注意しながら、目を閉じた。

「あのオッサン。ホームレスだろ」
「今どき珍しいじゃん。生き残ってるなんてよ」
「狩るか。暇だし」
「運動不足だし」
「でも臭ぇぞ。ゴミだからよ」
「だから始末するんだろ。オレらが」
「社会貢献ってやつ、しねえとな」
「狩っちゃお狩っちゃお、ゴミそうじだ」
「キャッホ~!」
 少年三人が小躍りしながら良雄に向かう。
「・・・はい。知ってますよ。よく聴きましたから。♪ あなた~がいつか。話し~てくれた」
「そりゃっ!」
 ―――ドドンッ、ドッバァン!
 まずい。
 重厚な低音と一拍遅れのオクターブ高い轟音が空間に反響し、残響音が通路を駆け抜ける。良雄は初めの音源に真っ先に目を向ける。ボストンバッグとラジオが消えていた。
「な~にやってんのよ。こんなとこでさ」
「こんな時間にさあ」
 ホームレス狩り。
 珍しいことではない。だがこれ程までに接近をゆるす事はなかった。
「喋れねえのかよっ、オォッ!」
「何してんのか訊いてんだよ。答えんのが礼儀だろがっ」
「礼儀も知らねえのか。いい歳してよ!」
「今どきのオッサンはどいつもこいつも、常識も分かんねのか、よっ!」
 小柄の少年は 「よっ!」 と同時に積み上げられた、布団代わりの無料雑誌を蹴り上げる。
「ラジオを聴いていたんですよ」
 良雄はバッグごと飛ばされたラジオに向かってハイハイしていき、イヤホンを外してボリュームを上げる。
「ほらね」
 桜木風子の声に、良雄は置かれている状況を忘れて聞き惚れる。七夕の日に亡くなった、永六輔のことを話しているところだ。「うんうん」
「ナメてんじゃ、ねえ! ぞコラッ」
 小柄が「ねえ!」の言葉と同時に、正座姿勢の良雄の背中をキック。我に帰った良雄は、
 また君か―――。と思うのと同時に、<震えるくらいならやめればいいのに>。そう声を掛けてやりたくなった。と思ったのも束の間、
「んだよ、その目つきはよお!」
 小柄の威勢に触発された金髪とロン毛が良雄に襲い掛かる。やめるわけがない。
 サッカー部? インステップにインサイドにアウトサイドにトーキック。なかなかの威力。だがこの程度では、永遠に強豪校のスタメンにはなれないだろう。もちろん中学サッカーの。
 腹腰尻腿、ところ構わず手足が伸びる。やり慣れてないね、君たち。
 やり慣れてない=限度を知らない=歯止めが利かない=サッカーボールと間違えて頭を、、、余計なことを考えた途端余裕はどこかへ消え失せ、恐怖に駆られた身体が震え出した。『殺される』
 どうせ数か月の命。少々早まったに過ぎない。好きなようになさいな、
 いややだ。このまま風ちゃんの声が聴けなくなるのは不本意。4時59分まで僕は死ぬわけにはいかない。
 一か八かだ。
 良雄は乱れ飛ぶ12本の手足から顔面を守り、痛みに耐えながら大きく息を吸い込む。
 そして、
「♪ 主イエスの~ 十字架の血で~」
 不審人物遭遇時の撃退法だ。遭遇してしまった今、効果のほどは定かではないが。やるしかなかった。
 効果はあった。圧倒的な声量に驚いた三人の動きが同時に止まった。良雄は歌うのを止めない。
「♪ 私は~ 赦され~」
「なに歌ってんだよ!」
「キ△ガイおやじがっ」
「誰がゆるすかオラッ!」
 選曲の失敗? アメイジンググレースにしておけば状況は違っていたかもしれない。良雄は後悔した。
「ウリャッ」 ドン。
「オラ!」 バシッ。
「コラッ!」 ズドンッ。
 馬鹿にされたと思い込んだ三人は一層エキサイトし、暴力はよりエスカレートするばかり。良雄は頭を抱え、必死に耳と脳みそを守る。
 ―――見上げてごらん~。夜の星を~ ♪
 ありがとう風ちゃん。慰めてくれて。微かに聴こえるラジオに耳を傾け痛みを紛らわせる。♪ ささやかな~幸せを、
「なに笑ってんだコラッ!」
 もう膝も立たない。力、入らない。
 良雄は少しでも手数を受けないように、じりじりと非常扉の 『直角』 を目指して這う。「待てやっ」
 待たない。『角』 にこじ入れるように頭を埋める。ロープブレイクだ。予想通り三人の手数足数が減り、勢いは32ビートから16ビートに変わり尻に集中した。思い通りにならぬ三人の怒りは、38度のぬるま湯から熱湯に一気に沸き上がる。
 小柄とロン毛に両足を掴まれ、良雄はリング中央に引き戻される。チラッと、待ち構える金髪の表情を窺う。危険系不法ドラッグでイッテル目だ。暴力を振るうことに慣れた三人は今や、高校サッカーレギュラークラス。狙う部位に確実にキックをヒットさせる。
 もうダメ。死ぬかも。あと五か月・・・風ちゃんの声を聴けると思ったのに。「ううぅ」
「ハハッ、情けねえ声出してんじゃねえぞっ!」
「みっともねえなぁ。それでも男か? オッサンよっ!」
「まだまだこれから、だッチュウ、ノッ!」
 繰り出される暴力が、語尾の一、二文字だけの単発になった。スタミナがあってこそのレギュラーだよ。
「だから笑ってんじゃねえよっ!」
 ピタ。
 ? 暴力が止む。これからではなかったのかい。
「何をしてる!」
 公園側の東側通路から恰幅の良さそうな男特有の声が響くと、歩幅のせまい思い足音が迫ってくる。「ヤベッ」
 少年たちの軽快な足音が遠ざかる。
 まさか。
 安堵したわけではない。恰幅男が発した <何をしてる!> は、外界系生活者には聞き慣れた、耳にしたくない歓迎しない言葉。<何してる!―――勝手にゴミを漁るな/勝手に住処にするな/勝手に死ね・・・> の前につく、若者とは違った類の正義を主張する者らによる敵視表明。
 良雄は逃亡を図ろうと最後の力を振り絞る。「う、うぅ」 その力は残っていなかった。それでも良雄は希望は捨てない。かすかに聴こえる雑音に向かい、数センチづつ体をずらしていく。―――せめて最期くらい、風ちゃんの声を聴きながら。
 もう少し。だが、爪楊枝二本分も開かない目は、ラジオのある場所を正確に捉えられない。良雄はさらに、角とは逆方向の角を目指し、平泳ぎさながら手をかく。あ。
 やっとの思いで、風ちゃんを探し当てた。
「大丈夫か!」
 足音が止まると同時に男が、野太い声で叫ぶ。鼓膜をこじ開けられたのかと思うほどの声量だ。大丈夫に見えるのなら、大丈夫でしょう。
「しっかりするんだっ!」
 どうすればしっかり出来るのか、教えてください。それよりもう少し、小さな声で、
「あっ。あなたは」
 ああ。あなたでしたか。
 見覚えのある顔が目の前に現れ、良雄はようやく安堵することが出来た。恰幅男の正体は、深夜体育館を巡回している高齢の域に達しようかという警備員だった。
「銀次さんじゃないですか」
 銀、次?
「君、知ってるのか」
「ええ。寺川銀次さんです」
 理解のできない会話を、警備員が誰かと交わしている。誰だい? 良雄はおかしな事を口にする連れを見ようと、目玉だけを動かした。
 なんだ。君か・・・。
 まさかこんなに遅くまで走っていたのかい。もう日付が変わる時間じゃないか。いけないな、心身の成長を阻むようなことをしては。
 視界の中の二人は、三人、四人と増え、霞がかった視界が(もや)に霧にと変化して、瞬く間に宇宙空間となって意識が遠のいていく。
 ん。・・・・・・ああ。
 ラジオから 『上を向いて歩こう』 が聴こえる。♪ ふーむむ、むーむむむ
 もうすぐエンディング。風ちゃんの声が聴ける。
 ♪ ふむーむルルルル、ルルゥー
「銀次さん、銀次さんったら。しっかりしてください! 銀次さん!」
「市立体育館北側通用口だ。意識混濁、救命処置開始、」
 高齢間際とは言えさすがは警備員。現状を的確に伝えている。
「早く来てくれ!」
 静かに。静かにして。
「頑張れよ、すぐに救急車がくるからな」
「く、口動きましたよ。なんっすか銀次さん。え? なに? なんすかっ!」
 おとなしく、して。
「頑張れ、頑張るんだぞ」
「銀次さんがんばれっ。がんばってっ!」
 わかったよ。がんばるから、少し、静かにしてください。お願いだから。
「また口動きましたよ。なに? 聞こえないっす、もっとデカい声で! 気合い入れてっ!」
 聴こえないんだよ。風ちゃんの、こえ、が。
「ああ」 
 ああ・・・風子、さん。
 良雄は意識を失った。

 

     道



「がんばれ!」
「先輩ファイト!」
「負けるな頑張れっ!」
 もうっ。いい加減にしてくれないかな。聞こえないじゃないか。
 井上良雄はポケットラジオのボリュームを上げようと、からだをひねる。
 背中から脳天に向かって激痛が走った。「あ痛、たたたた」
「あ。気がつきましたか」
 ―――ここらです先輩っ。負けないで下さいっ。諦めるなっ、ファイトだ!
 うるさいなあ。終わっちゃうよ、風ちゃんラジオが。
 もう一度。手だけを伸ば、
 あれ。伸びない。動かない。
「マジ心配しましたよ。顔真っ青になってくしまったく動かないし。駄目かと思いましたよ、銀次さん」
 ?・・・・・・ああ、君だったか。銀次先輩についていてあげなさい。僕のことはいいから。
「え? もしかして俺のこと、忘れてるとか?」
 もちろん覚えてるさ。正直者のスプリンター。脇田、春夫くん。
「口、利けないんっすか。喋れないんっすか?」
 どうだろう。このまま喋らずに、いようかな。
「そうそうバッグとか俺、預かってますから。それと小っこいラジオ。あれスイッチとイヤホンジャックんとこ、壊れちゃってるんで、直るまで俺の使ってください。直しときますから」
「ありがとう」
「なんだ、話せるじゃないっすか。驚かさないでくださいよ銀次さん」
 そうか。僕は、寺川銀次。寺川銀次になろうとしていたんだっけ。井上良雄を捨てて。
「不自由、しないかい。ラジオがなくて」
「マジで聴いてるわけじゃないんで大丈夫っす。マジで」
「ラジオは良いよ。聞きたくないことや、知ろうとも思っていないことまで喋ってくれるからね」
「有難迷惑ってことっすか」
 君はほんとうに正直者。だが忘れてたよ、話が嚙み合わないってことを。
「俺の場合音鳴らしてたら落ち着く、それだけっす。マジで聴くのは天気と深夜放送くらい。桜木風子の」
! 「知ってるのか。風ちゃ、桜木風子さんを」
 良雄は初めて、話が噛み合ったと思う。
「ええ。たまたま聞いてたらハマっちゃって。落ち着くんすよね。あのおばちゃんの声と語り」
 貴様ぁ。風ちゃんをそこいらのおばさんと同じ扱いにするんじゃねえ。
「結構掛かりそうっすよ」
「ん、ああ。いくらくらい? かな」
「そうじゃなくって入院がです。長引きそうってこと」
 長期入院ともなれば費用が嵩む。同じことさ。
「心配しなくても大丈夫っすよ。治療代とか費用のことなんかは。ほら、あの警備会社の太ったおじいちゃん。防犯カメラにバッチリ映ってるからすぐに捕まるって言ってましたから。あいつらに支払わせればいいんっすよ。当たり前のことだけど」
 そうは言うけどね。僕はやっぱりここにいるより、外界のほうが良いな。野鳥が鳥かごで飼われるのと同じ、としか思えないんだ。
「やり直せますって銀次さん。ね」
「救ってくれなくて良かったんだよ、僕みたいな浮浪者は。君や警備の方には感謝するけど」
「そんな寂しいこと言わないでくださいよ。それじゃ銀次さん。車に轢かれて苦しんでいる犬がいたとします。放ったらかしにします? 見て見ぬ振りできますか。助けるでしょ、ふつう」
「助ける、だろうね」
「でしょ。ふつうの事をふつうにした、その結果だと思えばいいんですよ。たまたま助けられたのが、犬じゃなくて自分だった。そう思えば」
 ―――空の鳥を見なさい。種蒔きもせず刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです―――
 種も蒔けず、刈ることも納めることもできない僕が、こうしていて良いのだろうか。
 隣のベッドの集団が必死に 『先輩』 を励ましている。先輩は今、何を思っているのだろうか。生きたいと、願っているのかい。
「銀次さん聞いてください」
 春夫は唐突に立ち上がった。
「待ってたんです、俺。銀次さんが来るの。話し聞いて貰いたくて」
 良雄はゆっくりと、春夫に視線を向ける。「なんでしょう」
「コーチになってください。俺をコーチしてください」
 良雄は応えない。だが目を逸らさない。
「自己ベスト切ったら俺、陸上部のある会社に就職して、マジで打ち込もうと思うんです。10秒60切ったら」
 なるほど。目標を持つことは大事なことです。でもそれと僕がコーチをするのと何の関係があるのでしょう。
「銀次さんも一緒にですよ。俺と一緒に、世界を目指すんです銀次さんも。俺と一緒に。銀次さんも」
 同じことを何度も言わなくても、
 良雄は言葉を飲み込む。春夫の一生懸命を、非難したくはなかった。
「つまり・・・僕が君の専任コーチになって、共に実業団に入り世界を目指す。そう言うことかい」
「そんな感じっす」
「そう上手くはいかないよ」
「そんなこと無いですよ。ほら卓球選手とかで子どもをコーチしてきた親がそのまんま代表コーチになったりするケース、有るじゃないですか」
「それは身元身上がはっきりしており、かつ実績が証明されているからです。実績も信用もない外界生活者を受け入れる者などいやしませんよ」 この国では。
「10秒60切れば誰も文句言わないっすって」
「文句は言わないだろう。しかし、コーチの指導による成果とは誰も認めやしない」
「そんなことは、」
「10秒5を目標に置いてどうする」
 良雄の目の色が変わった。春夫の熱意に心が動いたのではない。
「世界を目指すだけか。君の目標は」
「目指さないと始まんないかなあ、なんて思って」
「忘れたのか。僕はタイムは気にするな、そう言った筈だ。覚えていないのか」
 一抹の不安を感じながらも、良雄は口にした。
「確か。タイムなど気にしないことです―――って言ったと思ったけど」
 こ、こいつ。人の言葉尻捉えて難癖つけやがって。お前となんか、
「大丈夫っすか。なんだか苦しそうだけど。先生呼んで来ま、」
「目標は世界で、た・た・か・う、ことだろ。そうじゃないのか」
 良雄は徐々に熱くなっていく。一度火の点いた情熱は止まることを知らない。
「目指にするだけじゃなくて戦う。そんで勝つことっすね」
「ち・が・う・よぉ。目標はオリンピックと世界陸上の決勝の舞台で己と戦うこと。そして己に勝つことだ。勝ち負けは結果にすぎん。覚えとけ」
 春夫は首を傾げる。「分かるような、分かんないような」
 そういうのを分かっちゃいない、理解できていないと言うんだ。
「10秒40、切ってみろ。10秒3で走れ。誰にも文句を言わせるな」
「ええっ? タイムは気にするなって言ったじゃないっすか。今さっき」
「分かんねえのかオイ。10秒3で走ることを目標にしねえで、走った結果が10秒3って事だよ。勝ち負けもタイムもすべて結果だ。目標になんかするんじゃねえ」
「つまりあれっすか、」
 おいオレは病人だぞ。いつまで相手させる気だ。もとい。
 汚れを知らぬ子どもに僕はなんて酷いことを。
「あれっすか。タイムよりベストな走りを追及しろ、ってことっすか。もしかして」
「そう言うこと」 にしておこう。
 ほとんど塞がっている、良雄の目が笑った。
 夢に向かって走る彼を応援する。自然のことじゃないか。
「やることは、山ほどある」
 良雄は自分に言い聞かせる。
「地味で地道なトレーニングを、嫌というほど幾度も繰り返す。耐えられるか」
「覚悟、出来てます」
「陸上とは無関係だと思う様なことも、(いと)わずにやらなければ戦えない。自分に打ち勝つことは出来ない。出来るか」
「やります俺」
「もう夜は走るな。守れるか」
「守ります約束します」
 良雄がゆっくりと手を差し伸べると、春夫はその手を包み込むように握った。
 隣のベッドで拍手と歓声が沸き上がった。抱き合い涙する者の下で、青年が目を開けていた。

 意識が回復し一日がかりの検査を終えた良雄は、一般病棟のナースステーションに最も近い、四人部屋の病室に移された。
 窓際の二つと向かいのベッドの主にひと言、挨拶でもしておこうか。
 ストレッチャーに乗せられて入室した良雄は、目だけを横に向け、
「本日よりお世話になりま、」
「無理です。お話は」
 モニターに配線。チューブに電子音。看護師の言う通り、会話にならないことは一目瞭然だ。思っていた以上に自分が重傷であったことを、告げられた気がした。
「ふうぅ。疲れた」
 レントゲンにエコー検査に胃カメラに、MRI(磁気共鳴画像)その他。不要なものまで無理やり買い物カゴに詰め込まれているのではないか。そんな気がした。
 うと、うと。うと、うと・・・・・・遮光カーテンを通して浴びる、程よい陽の光。快適な室温湿度。本物の布団。二度と味わえないと思っていた環境が眠りを誘う。体が不足分の睡眠を、取り返そうとしているのが分かる。
 こんな贅沢。僕は望んでいないのに・・・・・・瞼が落ちていく。意思に反して。

 
「何を慌ててるの、そんなに」
 春夫は半身を押入れに入れて、忙しく手を動かしている。
「コーチが大けがしちゃって重傷で大変なことになって入院しちゃったんだよ。ガキどもに襲われてさ」
 ? 典子(のりこ)は頭のなかで話を整理してから答える。「それは大変ね。でもどうしてあなたが、慌てるのよ」
 穏やかに、尋ねるように心がけて訊く。
「だからさ。必要なもの持ってくんだ、これから」
「お父さんのお洋服を?」
 訊きたいことを一度に訊かない。それが春夫への接し方だ。
「パジャマとか下着とかいろいろ。ぜんぶ」
「そんなことご家族がすることよ。かえってお節介になって迷惑になるわ」
「家族いないんだ、身内も。俺だけなんだよ。助けてあげられるのは」
 身寄りのいないコーチって、どんな人なのかしら。
「一緒に10秒3目指して、一緒にオリンピックと世界陸上の決勝で戦う、俺にとっていちばん大切で、いちばん信頼してる人なんだ。コーチがいなかったら叶えられないんだよ、オリンピックに行くことも世界陸上に行くことも、決勝で戦うことも」
 オリンピックにも世界陸上にも行けなかったら、決勝には出られないじゃない―――。陽子の声が聞こえてきそうだ。
「ねえ。パジャマとシャツとパンツとタオルと下着と寝巻の他に、何を持って行ったらいいの」
 パジャマと寝巻、パンツと下着は同じ。
「ねえってば。マジ急いでるんだ、教えてよ」
 夫のガンが進行してゆくに連れて、私は、肉体的にも精神的にも追い込まれていった。子供にはそんな姿は見せられない。そう心に決めて、頑張って頑張って疲れ果てていた私を支えてくれたのは子供たち二人。陽子と春夫だった。こと春夫に至っては、自分の夢を断ち切って、家族を支える道を選んでくれた。
 そして夫亡きあと目的を失った春夫は、抜け殻のようになってしまった。そんな春夫を見るのは、心が引き裂かれるほど辛く苦しかった。母親として何もしてやれない不甲斐なさに、私は自分を責めること以外に何も出来なかった。
 あの春夫が今、自分ではっきりと目標を口にしたのだ。今度は、私が春夫のことを支えるばん。
「何ぼーっとしてんだよ、早く必要なもの教えてったら」
「お母さんも行く」
「な、何だよいきなり」
 押入れから体を出して春夫は言う。
「母さんまで来ることは、」
「そうはいかないの。春夫がお世話になってる大切な人なんでしょ。ちゃんとご挨拶して、失礼の無いようにしっかりとお世話させて頂かないとだめ。やるからには」
 普段は見せない典子の凛然とした姿に、春夫の手は止まったままだ。「そうかもしれないけど」
「かもじゃないの」
 恰好悪いな、母さんと一緒に行くなんて。高三にもなってさ。
 ―――何言っちゃってんのよ。子供のくせに。
 姉ちゃんの方が精神年齢は子供だろ、俺なんかより。
 ―――じゃあ訊くけど。あんた筆記体書けたっけ。三人称単数って知ってる? 分数できるの?
 うるせえよ。そんなもん出来なくたって生きていける、
「お母さんが行けば、無駄なく必要な物を揃えられる。聞いてるの?」
「ん、うん」
「後はやるから、準備していらっしゃい」
 そうだよな。父さんだって、母さんと同じこと言うよな。
「それで病院は? どこ」
「父さんが入院してたとこだよ」



     再会
 


 背丈の倍ほどもあるアラカシとイヌシデの細木が交互に植えられている、なだらかな坂道を上りきると、噴水のある円い池が姿を現わす。池を縁取る黄緑色のイヌツゲの葉が、巨大な白いコンクリート造の建物とその入口にある赤桃色の百日紅の花を、引き立たせているかのようだ。
 脇田陽子は、エントランスホールを右に折れて、長い廊下を入院病棟へ向かう。幾度となく父親の見舞いで通った慣れた順路だ。
 両手と左肩にパンパンに膨れたトートバッグを。右肩にはお気に入りの薄いブルーのリュック。
「もう少し、あとちょっと」 リズムに合わせて口にすると、荷物も足取りも軽くなる。
 それにしても、「ウチに荷物運ぶくらいなら、そのまんま病院に運べばいいじゃない。車でピューンと」
 あら、また出っちゃった。グチ。
 まあいいわ。この達成感は、千代には絶対に味わえないんだから。「お気の毒さまぁ」
 あらまた。 
 エレベーターホールは祝日にも関らず、人の姿がまばらだ。扉が閉まって間もないせいかもしれないがそれにしても。
 陽子は周囲を気にしてから、右ヒジで ▲ ボタンを押す。「ふん」
 一度目は失敗。誰も見てない。もう一度気を取り直して、「ほい」
 うまくいかない。
「んもう」 ならヒザで。足は塞がってない。足ブラだもの。うふふ。初めから膝にしておけば、「よい、しょ」
 あれ、「よいしょっ」。あれれ。こうなったら最後の手段。足で、
「何をしてるの、お行儀が悪い」
 言い終わらないうちにボタンを押したのは典子だ。
「あらら」
「荷物降ろせばいいじゃん。みっともない」
 呆れ顔で春夫が言う。いちばん見られたくない奴。
「うるさい。汚したくなかったの。荷物を」
「ならベンチに置けばいいだろ。すぐそこに有るんだからさ」
「もう少し女らしくしないと。大人なんだから」
「ほんとだよ。恥ずかしい」
「あんたに言われたくは、」 すうー。
 素知らぬ顔で春夫が離れていく。ホールに人だかりが出来ていた。
 エレベーターは各階で扉が開き見舞客は徐々に減っていった。三人はその都度 「降りるの?」 目で問い掛けては首を振って答えた。
 チーン。
 四度目の音が鳴り、扉が閉まると、三人はそれぞれ扉の傍に近づいていく。<お母さんも次?> <陽子も5階?> <姉ちゃんもかよ>
「お友だちのお見舞い?」
 エレベータを降りた典子が言う。
「ううん。奉仕活動。すくい・たいの」
「入院なさってるのね。ご支援してる方が」
 春夫を先頭に典子と陽子が肩を並べ、三人はナースステーションに向かう。和男の病室とは階も雰囲気も異なるが、造りは同じで懐かしさを覚える。
「お母さんは? どうして春夫も? もしかして親戚の誰かが?」
「違うよ。オレのコーチが大けがして入院しちゃったんだ」
 春夫が振り返って言う。
「お母さんはご挨拶を兼た、お見舞い」
 ナースステーションに着くと、陽子と春夫はそれぞれ、面会者ファイルに必要事項を記入する。
   ―――井上良雄
   ―――寺川銀次
「掛かりそう?」
「長居はしないつもり。重症だって言うから。お母さんは?」
「今日は早々にお暇するわ。お昼いっしょに食べましょっか。ね」
 エレベーター前で待ち合わせることに決めて、三人はナースステーションを離れる。
「お母さんたちもこっちなんだ」 左に折れた先で陽子が言う
「あそこだよ母さん」
 ナースステーションから最も近い 『601』 のプレートを見上げて春夫が言う。
「じゃあ後でね」
 典子は言い、春夫につづいて病室に入った。
 あれえ? 千代さん、601号室って言ってた筈だけど。
 出入り口の壁にあるネームプレートに井上良雄の名前はない。お部屋移ったのかしら。陽子はナースステーションへ引き返し、事務員に尋ねた。
「井上良雄さん、ですか・・・いらっしゃいませんねえ」
「他の病棟にいませんか。それか、退院しちゃったとか」
「入院記録にもありませんし、通院の患者さまにもいらっしゃいませんよ」
「え~嘘ぉ」
「嘘ではありませんっ」
 何よお。何でいないのよお。
 まさか。またいじめ? でも、何の得にもならない嘘を千代さんがつくとは思えない。じゃあ、どう言うこと? ぜんぜん理解できない。千代さんに電話しても同じこと。とにかくもう一度行ってみよ。
 ぺたぺたぺたぺた・・・ふうぅ。やっぱりない。良っちゃんの名前。
 陽子は病室の中を覗き見る。
 左側の手前は違う。口に手をあてて上品に笑うお母さんと頭を掻く春夫と、頭ツルツルおじさんだし。他の三つは・・・あぁ違う。みんなおじいちゃんだもん。
 やっぱりいじめか。もうやだよ。
 帰ろ。いっしょに帰ろお母さんと。荷物は春夫に頼んで。お母さん・・・・・・
 !。 ?。 !?、 !!。 ええ~っ 「ウソー」
 陽子の目は典子と春夫の下、頭ツルツルに釘付けだ。ツルツル → ネームプレート → 病室に片足を入れて身を乗り出して → 頭ツルツル→「良っちゃん!」
 陽子は病室に飛び込んで典子と春夫の間に体をこじ入れる。
「良っちゃん、良っちゃんでしょ、良っちゃんじゃない、良っちゃんだよ、どう言うこと? 良っちゃん」
「陽子っ。失礼でしょ、先生に向かって」
「先生? 良っちゃんが?」
「もしかして姉ちゃんが支援してる人って、コーチ?」
 良っちゃんが先生で良っちゃんがコーチで、先生がコーチでコーチの良っちゃんが先生の良っちゃん??
「ああもうっ。良っちゃんは良っちゃん! 井上良雄さんなのっ!」
 大切に持ってきたトートバッグが床に落ちる。陽子は自由になった腕を伸ばして良雄の頭頂部の先にある、ベッドのネームプレートを指さして言う。「寺川銀次って誰っ!」
「静かにしなさい。先生のおからだに障るでしょ」
「そうだよ。先生、じゃないコーチは大腿骨と右腕を複雑骨折してて、何とか臓損傷で、頭蓋骨とか色んなとこにヒビ入ってて、生きてるのがミラクルな状態なんだからさ」
「でもわけ分かんないもん。なーんにも」
「それは俺も同じ。わけ分かんないっすよ、大方は理解できましたけど。でも何で姉ちゃんなんかと知り合いなんすか」
 典子が来たことで良雄は、春夫と典子のふたりには井上良雄であることを告白していた。のだが。
「なんかとは何よなんかとは。それに何よ、わけ分かんないのに理解できたって。バッカじゃないの」
「うるせえな。いちいち細かいこと気にすんなよ、いちいち細かいことなんか気にしないくせに」
「またわけ分かんないこと言って。私はあんたなんかより百倍繊細な、」
「いい加減にしなさい。病院よここは。迷惑でしょ」
 三人は他のベッドに目を向ける。来た時と何ら変化はない。陽子と春夫の目は自然、先生であり、コーチであり、良っちゃんである寺川銀次の名を持つ、井上良雄に移る。
「お騒がせしてしまい、申し訳もありません。正直に、自白します」 良雄は、
 <典子> から 『先生』 と呼ばれる理由。
 <春夫>から 『コーチ』 と呼ばれる理由と 『寺川銀次』 を名乗った理由。
 そして 『良っちゃんこと井上良雄』 と <陽子> が知り合ったきっかけを、順を追って語った。
「父さんも、知ってたんだ。コーチのこと」
 良雄が目で頷く。礼拝堂のいちばん遠い席で肩をならべる、和男と典子を、懐かしく思い浮かべた。
「お父さんとお母さんは、先生の教会に行くことが慰めだったの。先生が私たちの疲れを、癒してくださったのよ」 和男さん。先生は、あの頃のまんまよ。
「クリスチャンだったの? お母さんたち」
 典子は目を閉じ、ゆっくりと首を振る。「あのまま、先生のいる教会に通っていたら、信者になっていたかもしれないけど」
「どうして。行かなくなっちゃったの? 慰められてたのに」
 興味半分で訊いたわけではなかった。陽子は教会で慰められた思いを、味わったことがなかったのだ。
 典子は、何からどう話したらよいのか、分からないでいる。
「陽子ちゃんは知っていると思いますが」
 牧師の目をした良雄がいた。
「聖書のなかには、
 ―――すべて、疲れた人、重荷を負った人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます―――
 そう書かれています。神さまのことばです」
「ああ。そんな感じの看板立ってますよ。通学路に」 春夫が言う。
「私もそのみことばを信じて、思い切って教会に行ったの」
「心癒されますね、このみことばを目にし耳にしただけで。しかし僕は、あとに続くことばが大事なのだと思っています。こと信者にとっては」
 良雄が目を閉じる。何かに思いを馳せているようだ。三人は話し出すのをじっと待った。
「―――わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます、」
  良雄が言葉を詰まらせる、と、
「たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです―――」
 典子が穏やかに言葉を継いだ。
「ありがとう。典子さん」
「すごい、お母さん」
「思い出せなかったんすか、コーチ」
「ばか。良っちゃんは牧師先生よ。忘れるわけないじゃないの」
「いやあ。お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
 陽子と春夫のやり取りが、良雄の涙を止めた。
「しかし、よく覚えていて下さいました」
「先生は、よくこのお話をなさっていました。私も主人も、先生と同じように思っていたんです」
「ねえ良っちゃん。でもどうして、信者にとって大事なの?」
「つまりですね。キリストのからだである教会に集う信者や、十字架を掲げるキリスト者は、疲れた人や重荷を負った人を、キリストのように優しくへりくだって、休ませて差し上げる役割を与えられている。そう思うのです。自身のたましいの安らぎは彼らを休ませてからだと」
「なるほどね。求める人には与えなさいって、書いてあるし」
 良雄の目がやさしい。
「私ね。教会に行くのが、億劫になってきちゃったの」
 陽子はしゅんとして言った。
 和男さんと私と、同じ道を辿ってしまうの、あなたも。「どうしてなの」
「すくい・たいの人たちがいるから」
生活に困窮されている方や、様々な事情で身を隠さなければならない方などを、シェルターと呼ぶアパートに受け入れ支援する、クリスチャンが集まって活動するNPO法人。時間をつくり積極的にボランティアとして参加する陽子を見ていて、私は、生き甲斐をを感じているものと信じて疑わなかった。どうして、話してくれなかったの・・・。
 話せなかったのね、心配を掛けまいとして。ごめんね、陽子。
 でもお母さん嬉しい。こうして陽子が、悩みを打ち明けられる方に出会ったことが。その方が、お母さんとお父さんを支えてくださった、井上先生であったことが。
「辛かったね」
 良雄が言うと、陽子の目に、みるみる涙が溢れる。
「頑張らなくていい。無理をしてはいけない」
「うん」 陽子の声と唇が震える。
 典子が肩を引き寄せると、陽子はその胸の中に顔を埋めた。
 不思議な巡りあわせだ。運命。宿命と言うのだろうか。もし僕が牧師になっていなかったら。キリストと縁の無い人生を歩んでいたら。脇田ご夫妻が教会に足を向けていなかったら。春夫くんをあの公園で見かけていなかったら。陽子ちゃんの出会っていなかったら―――。神の働き、ご計画であることは確かだ。この星が生まれる前からの。
 しかし神は、僕を生かし三人と結びつけて、何をさせようとしているのだろうか。余りに無力な僕に。
「あなたたちも行ったのよ、教会に。陽子、覚えてない?」
「子供って行くところ全部が遊び場みたいなものでしょ。きっと教会だって分かっていないで行ってたんだと思う」
「そうね。三歳の、ほんの二、三か月だものね」
「俺は一歳か。覚えてるわけないよな」
「良っちゃんは覚えてる? 私たちの子供の頃のこと」
「・・・・・・」 良雄は唇を噛む。
 訊いてはいけない事を口にしたのではないか。陽子は後悔した。
「先生のいる教会に行ってたのは、あなたたちが生まれる前のこと。陽子の妊娠が分かるまで。丁度お父さんの仕事が忙しくなったり・・・色んなことが重なって、足が遠のいてしまったの」
 いいのよ、お母さん。無理して話さなくて。いつかその時がきたら、聞かせてくれれば。
「父さんって異動が多い仕事だったから何かと、」
「やめたんです。牧師も。教会に行くのも。僕は」
 静な廊下から見舞客の明るい声が、こちらに近づいてくる。子どものはしゃぐ声とそれを制する女の声は病室に吸い込まれ、ふつと消えた。
「いつか、話します。いつか」



     日差し



 陽子は典子と肩を並べて、ホームに向かう階段を上る。両親が足を運び、井上良雄が守った、教会に行った帰りである。
「来て、よかった?」
 典子は返事の代わりに、笑顔を向ける。
「会ってみたいなあ。若い頃のお母さんとお父さんに。私が生まれる前のふたりに」 教会の屋根にある十字架を目にした時からの思いを、陽子は口にした。
 もともと乗降客が少ないのだろう。日曜日の昼下がりのホームは、ぽつりぽつりと人がいるだけだ。
 陽子の黒髪が、眩しすぎる冬の日差しを受けてきらきら輝いている。典子はニットの手袋をはずして、陽子に答える。
「あなたたちと変わらないふつうの若者よ。お父さんもお母さんも」
 向かい側の下り線を急行電車が通過すると、線路際の若者たちが海辺を目指す風に、身を縮めて声を上げた。
「どうして、行かなくなったの? 教会に」
 仕事の忙しさだけでない事を陽子は感じていた。牧師の良雄までキリストから離れてしまったことが、納得が出来なかった。
「馴染めなかったとか」
 陽子は思った。いまの自分と同じ悩みを抱えていたのではないだろうか。
「先生のいない教会には神さまはいない―――。足を運ぶたびに強くなっていったの。その思いが」
「良っちゃんが教会だったのね。お父さんとお母さんにとって」
「そうね」 横顔が微笑んでいる。
 お母さんもお父さんも良っちゃんも、道を外れたわけじゃない。むしろ正しく歩むために、教会を離れるしかなかったんじゃない? そうでしょ。絶対にそう。だって、
「私が教会に行こうと思ったのは、大らかでお穏やかで、やさしい大人になりたいと思ったからなのよ。お母さんとお父さんのようの。でも・・・」
 でも? 典子はつづきを待つ。
 でも何にも変わらない。ううん、変わらないどころか余計イライラして、人を信じられなくなっちゃった。
「でも、ご覧の通りですわ。おほほほ」
 陽子・・・。
 それで、良いのよ。あなたの明るさの中には、沢山やさしさが有るんだから。
 上り電車の接近を促すアナウンスが止むと、短い警笛に反応し顔がいっせいに右を向く。動いているのか分からないほど遠くに、電車が見える。
「もしもね。お母さんと私が同級生だったら、きっと親友になれたと思うの。どんな事でも話し合える、尊敬し合う存在に」 陽子が明るく言う。
 嬉しい時に、後ろで手を組んでからだを揺らす姿。若い頃のお母さんみたいよ。
 典子は首を傾げてつづきを待つ。そうあなた、この仕草もよくするわね。ふふふ。
「もしかしたら」
「もしかしたら?」
「私もお父さんのこと、好きになったかも。な~んて、ちょっとだけ思っちゃった」
 私が思っている以上に、ずっと大きな存在なのね、お父さんが。
「そしたらライバルね。陽子とお母さんは」
「そう。恋のライバル。ケンカするかも」
「負けないわよ、お母さんは」
「そうなの。私は勝ち目がないからふたりを祝福するの。そしてひとり、部屋にこもって泣くのよ。来る日も来る日も、『和男さん』 を、忘れられるまで」
「うふふふふ」 口をすぼめてしょげる陽子が愛おしい。
 もう少し大人らしく。そう願う一方で、いつまでも女の子のままでいてね、と思う。
 扉が開くと、二人は誰もいない四人掛けの席を選んで腰を下ろした。清んだ空気が、のどかな景色をより美しく見せていて、窓の向こうの雪をまとった山々は絵画のようだ。
「お母さんと和男さんの恋は実るの?」
 典子はつづきを話し始めた。
「うん。恋が実を結んで、結婚して子どもができるの」
「まあ」
 ふふふふ。二人はからだを寄せて笑った。
「男の子かしら。女の子かしら」
「そうねえ・・・女の子。女の子が生まれたの。パッチリした目がとっても可愛くて、嬉しそうに笑う天使のような女の子」
「その子に名前、つけなくちゃ」
「つけなくっちゃ」
 扉が閉まり、ゆっくりと電車は動き出す。静かで暖かい車内はところどころ座席が空いている。用事を済ませたのか、用事を済ませようとしているのか。そんなことを考えられるのは幸せだからかもしれない。
「浮かばない?」
 陽子が覗き込むようにして言う。
「浮かぶんだけど、決められないの。和男さんにまかせちゃおうかしら」
「ふふ、お母さんらしい。もっとちゃんと考えて」
「決まった」
 典子は(ひらめ)いたといった様子でからだを向ける。ふふ、お母さんらしい。
「良かったあ。何ていう名前にしたの?」
「ヨ・ウ・コ、なんてどうかしら」
「どんな字書くの?」
 陽子が嬉しそうに首を傾ける。早く聞かせて。
「太陽の陽に、子供の子」
「わあ。でもどうして?」
「みんなを明るい気持ちにする子に、育ってほしいから」
 ありがとうお母さん。陽子は典子にからだを凭せた。
 あなたが居てくれたから、お母さん、笑えるようになったのよ。



     大人



「こんにちはぁ」
 陽子は、三人の患者を気づかって病室に入る。
「ん?」
 ああ。陽子ちゃん。いつもありがとう。寒いのに、遠いところをわざわざ。
 ―――無理しないで。寝てて。
 はい。
 ―――どう? リハビリの方は。順調?
 ・・・・・・。
 ―――辛い? わね。
 ぐすっ。 
 ―――良っちゃん・・・。
 うぅっ。え~ん、え~ん、
 ―――がんばり過ぎなのよ、良っちゃんは。気分転換に行くつもりで行けばいいの。遊びに行くくらいのつもりで。ねっ。
 うん。
 ―――無理しないで。がんばらないで。分かった?
 うん。
「ぷっ。うふふふ」
 陽子ちゃん。君は僕の太陽だ。
「ククククッ」
 陽子ちゃん。「ふにゃふにゃふにゃ」
「アハハハ、ヒヒヒヒ」
 !、!!
「可愛い、良っちゃん。子供みたい」
「あっ。ああ、陽子ちゃん」
「どんな夢見てたの? とっても嬉しそうだったけど」
 言えないよそれは。
「忘れちゃった? 残念だなあ」
 君の夢だよ。なんて言ったら、嫌われてしまうだろうなきっと。気持ち悪いって。
「汗かいたでしょ。拭いてあげる」
「おしぼり、借りてきてくれたんですね」
「お母さんに言われたの。お顔や耳とか手とか、拭いて差し上げなさいって。背もたれ起こすね」
「ありがとう。助かります」
 外界では入浴は週に二回がせいぜい。体拭きはほぼ毎日していたけど、時間を気にしながら多目的トイレでちゃちゃっと拭くだけだった。本当にありがたいです。
「おしぼり、少し熱いかも。どう?」
 気持ちいい、「丁度いいです」
 はあぁ、いい香りだ。シャンプーの匂いだろうか。
「今日はすくい・たいの活動があるから、余り長くいられないんだぁ。ごめんね」
「はい・・・忙しい時は来てくれなくてもいいんだよ」 ちょっとしか顔出せないんなら、来てくれなくていいよ―――。
 あれ。僕はこんな事を人間じゃなかったのに。
「ついでだから体も拭いちゃおっか、カーテン閉めて」
 ! 「あ、いえ、いいえ。体は結構です。ありがとう」
「遠慮しないで。ほら春夫。あいつしょっちゅうパンツ一枚でちょろちょろしてるから、抵抗ないの。ね」
 そうだよね。上半身だけに決まってるよね。
「いいえ、本当に大丈夫ですから」
「そう・・・じゃあ首周りだけでも。ね、気持ちいいから」
 ! 近いよ陽子ちゃん。ハグって言うじゃないかい。こう言うのを。
 緊張? 良っちゃん固くなってる。ドキドキ感じる。
「コーチ!」
 ! 何よいきなり 「ビックリするなぁ。病院よここは。分かってんの? それに何その恰好」
「コーチ! 俺にコーチしてくださいコーチ。俺に」
「またぁ。コーチしてくださいだけで分かるわよ。ってダメに決まってるでしょっ。こんな体なのに、なに言ってんのよ」 今日は時間がないの。邪魔すんじゃないわよ。
 ―――隣人をあなた自身のように愛しなさい―――
 信仰は常にこのみことばが試されている。僕はそう自分に言い聞かせて、自分を叱咤し律してきたつもりだ。だが最近少々、難しく考えすぎていたのではないかと思うようになった。頭で考え自分で結論を出して、自分を追い込んでいたのかもしれない。
 だがこの子らは頭で考えない。難しく考えたりしない。生まれた時からこのみことばの真意を身にまとい、歩んでいるのだ。
 みことばの真意。それは、
 ―――みんなに笑顔を。みんなを笑顔に―――
 この子らこそ、天の御つかい。天からの使者。天使に違いない。
「コーチ」
「準備なさい。すぐに」
「俺車いす取ってきます! 取ってきます、車いす!」
 春夫は病室を飛び出した。待ち焦がれた時がやってきた。


「貴様ぁ、なに考えて走ってんだっ!」
 怒鳴り声が中庭に轟く。
 無精髭にハゲ頭。鬼の形相の良雄に春夫はもちろん、患者、家族、医師、看護師。コメディカルスタッフに野鳥に猫も。その場で憩う者すべてが動きを止めるほどだ。
「何を考えてる。答えんか脇田!」
「むむ、無心で走ることだけ考えて、」
「バカッ! 考えた時点で無心じゃねえだろうがっ!」
「いいいや、無心で走ってます。俺」
「む・し・ん・で走ってるだぁ? 本気で言ってんのかオイ」
 どうしちゃったんだよコーチ、まるで別人じゃん。
「あ、いや、はい」
「アホ!」
「あ、いや、でも俺、」
「無心になれる人間なんか、いやしねえんだよっ。無になれるのは死んだ後だけだ。分からんのか貴様!」
 ―――良っちゃんの言う通り。格好つけるんじゃないわよ。
 何がすくい・たいの活動だよ。救ってくれよぉ、姉ちゃん。
「聞いてんのか貴様!」
「あ、いや、聞いてます」
「エリートアスリートの戯言(たわごと)なんか真似すんじゃねえ。分かったか! このミーハー野郎がっ!」
 春夫はにわかに、喜びが込み上げてくるのを感じた。小手先や口先やスマホで得た知識をひけらかすハゲ頭顧問にはない、『親身』 と 『本気』 を感じたからだ。
「分かりました。それで俺、いやぼくは何を考えて走れば、よろしいんすか」
「ふうー」
 深いため息。違う人格に変貌するのか? 「あ、いや、いいえ」
「俺。で構いません。頑張らなくていいんです」
「ぼ、いや俺、がんばりたいんです」
 そりゃそうだろ、がんばるんだよ。楽して速くなる奴なんかいやしねえよ。いや、いないんだよ。脇田くん。
「覚えて、ないかな。僕の話」
「何か」
「馬の話」
「あ~あれ。もちろん覚えてますよ。バンバの事っすよね。ソリみたいなの引っ張るデッカイ馬の話。覚えてますよもちろん。バンバ」
「ふう」
 良雄は手をひらひらさせて座るように促す。休憩時間が終わったのだろうか、中庭でくつろぐ者は少なくなった。
「スポーツ。ことに陸上競技において最も重要なのは、イメージです」
「イメージ?」
「ええ。つまり想像。ただし、ただ想像し、思い描くだけではダメです。創造しないと」
「ソウゾウしてソーゾー、するんすか」
「その通り」
「ああ。それってもしかして、モーソーのことじゃないっすか」
 貴様ぁ、
 ―――かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません―――
「イメージしたものを創造する。つまり、思い描いたものを形にし、色を塗り組立てて動かす。或いは使用する。動きが悪ければ、或いは不備などが有れば作り直し、色が合わなければ塗り直して、完成させる。この間の過程、工程が創造です。つくるにつくるを書いて創造」 どうだこれで。
「分かりましたよコーチ」
 !
「何となく」
 何となく、か。上等じゃないか。
「誤ったイメージは敗北。死に向かうだけです。そう肝に銘じておきなさい。いや、おくがいい」
「俺実は、イメトレしてるんです。馬をイメージして」
「ほう。僕には、君の走りは死。いや敗北に向かっているように見えたが」
「ええ? おかしいな。毎日欠かさず見てるのに。走ってるとこ」
「本当か」
「ええ。スマホでちゃんと」
「それだ」
「はい?」
「クッククックッ」
 何で笑うんだよ、俺マジ真剣に・・・。
「不服のようだね」
「だって俺、」
「生きてないんだ。馬が」
「いやいや。ちゃんと走ってるとこ見ましたもん。死んだ馬が走ります? んなわけ、」
「お前が見たのは馬じゃねえ」
 やば。また変貌? 勘弁してくれよな。
「分かんねえのかオイ。お前が見たのはスマホが作り出した馬の形をした色の集合体。つまり紙芝居のデジタルヴァージョン。それをお前は馬だと思い込んでイメージを膨らませていただけだ。誤ったイメージをな」
「でも」 馬だよ。
「文句あんのかオイ。貴様10秒3で走る気なんか、ねえんだろ。始めっからよっ」
 もしかしてコーチって、ヤバい系? あんなガキどもなんか本気になったら気合だけで蹴散らせたはず。なのに、ただやられてるだけなんて・・・。
 でも俺、分かる気がしますよ。コーチがやり返さない人だから、父さんや母さんはコーチを慕っていたんですね。誠実だから俺みたいなバカガキに、本気になってくれるんですね。
 ありがとうございます。井上コーチ。
「泣いてんのか」
「俺、マジで、本気でがんばります。マジで」
 笑顔を奪った僕は罪人。
「嬉しくて俺。マジで俺嬉しくて」
「今日はここまで。帰ってメシ食って風呂入ってストレッチして、何も考えずにさっさと寝ろ。無心でな」 良雄は目を逸らして言った。
 ―――喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい―――
 陽子と唱和したみことばが浮かんだ。
 ついて来るんだぞ、脇田。



     母子



「良っちゃんと会うようになってから変わったね」
 夕食の支度を始めた典子の隣にきて陽子が言った。
「先生がどうかした?」
「良っちゃんと、会うようになってから、新しい風が吹き込んだって感じしない? 家に」
「んん、そうね。春夫はますます陸上に打ち込むようになったし。陽子の信仰心は篤くなるばかりだし」
「お母さんは教会に行くようになったし。若返るいっぽうだし」
「何、言ってるのぉ」
 会話をしていても典子は、料理のことを考えている。
「姉妹にみられるのも時間の問題。私と」
「くすっ。なあに、おねだり?」
 陽子は答えずに手を洗い始める。
「ぜんぜん違うもん前と。お肌はツルツル。髪はツヤツヤ。生き生きしてさ。若返った」
 典子は手際よくキッチンに食材をならべていく。今夜のメニューは春夫の体力を考えてのとんかつがメイン。
「何だかおかしいわよ、今日の陽子」
 手を洗い終えた陽子は、野菜を洗い始めた。
「怒らない?」
 ?
「分からない。聞いてみないと」
 怒らない。叱らない。咎めない。陽子を身ごもった時に和男と決めた約束事である。
「お母さん。もしかして、恋、してるんとか」
「ええっ!? 何を言い出すのこの子ったら」
 一瞬驚いた典子だったが、すぐに豚肉のトレイに手を伸ばす。自分から話し出すわ、陽子なら。
「だって、すっごく綺麗になったから・・・お母さん」
「きっと、あれよ。ファンデーション。ファンデーション替えたから違う感じに見えるんじゃない? 雰囲気が」
 綺麗と言われればやはり嬉しいもの。
「そんなんじゃないよお。内面から磨きが掛かったって感じだもん。女に」
「何それ」
 典子は相変わらず仕事が手早い。下処理が済んだ豚肉に衣をつけ終え、カツを揚げ始めた。どう料理を進めていけばもっとも美味しい状態で食べられるか。頭にしっかりと段取りが入っている。
「先生かなあ」
 キャベツを刻むかトマトからにするか決めかねている陽子は、包丁を持ったままだ。典子はサラダなどは陽子にまかせる事にしている。
「ん? 先生?」
「良っちゃん。井上先生」
「なあにさっきから。手を動かさないなら包丁は置きなさい。先生がどうしたの」
 キャベツに包丁を入れる陽子の手が、普段にも増して危なっかしい。大丈夫かしら。手伝ってくれるのは嬉しいけれど。
「恋したとか」
「なあに」
 陽子の小さな声は、換気扇の音で聞き取れない。
「良っちゃんに恋したとか。お母さん」
「あなた、」
「応援するよ、私。お母さんのこと」
 二十歳。大人になろうとする思いと少女の気持ちを失わまいとする思いとが交錯し合う、道しるべの無い岐路に立つ若人。お母さんにも分かるのよ、あなたの気持ち。同じ道を歩いてきたんだから。
 だからほんとうに話したいこと、話して聞かせて。
「もしかして、お母さん。怒ったの?」
 ―――お母ちゃんごめんなさい。陽子、オネショしちゃったの・・・。怒らないでちょうだい。
 あの頃と同じ。変わってないじゃない。
「怒ってないわよ。ただ、覚えていてほしいの。お母さんが好きなのはお父さんだけ。和男さんだけ」
「良っちゃんだったら。賛成すると思うけどなあ。お父さん」
 あなたの話したいことって、そんな事ではないでしょ。「手、止まってるわよ」
「恋愛とか結婚ってさ。年齢差とか、関係あるのかな」
「ん? 関係ないわ。当人同士の問題だもの」
 典子はきっぱりと言う。
「でもさ、いくらお互いが結婚したいと思ってても、子供が欲しい欲しくないとか、意見の不一致で、結婚できない場合もある」
「それも当人同士の問題。たくさん話し合って、どうするかを決めれば良いこと」
「お互いに子供がほしいと思って結婚しても、出来なくて別れちゃう人もいるでしょ」
「いるわね」
「どうしてなんだろ」
「子宝に恵まれなくても別れない人もいるわ」
 矢継ぎ早の問いにも、典子は嫌な顔を見せずに答える。
「お母さんは子供が出来なくても、別れなかった?」
「手が止まってる。話するだけなら後でにしましょ」
「子供が出来なくても一緒にいた?」
 陽子はいま聞きたかった。
「子供が出来なくても別れなかったし、出来ないって分かっていてもお父さんと結婚してた」
「わあ」
 キッチンの窓外で猫がひと鳴きした。日中時々見かける黒猫だろうか。だとしたら、子猫も一緒ね。
 典子は笑みがこぼれる。
「自分の幸せ、求めてもいいと思うの。お母さん。お父さんだって、きっとそう願ってるはず」
 なんだろ。こんなにしつこく訊く子じゃないのに。
「お母さんはね。結婚は、お互いを思いやりながら一生支れ合います、って約束することだと思うの」
「婚姻届けは証明書みたいなものね」
「そうね。口約束だけだと後で言った言わないで、ケンカになっちゃう」
「口ゲンカだけじゃ済まないかも。取っくみ合いの大喧嘩」 ふたりが顔を見合わせて笑った。
 やっと、あなたらしくなったわね。
「話してごらんなさい」
「え。うん・・・」
「話したいこと。聞いてほしいこと。有るんでしょ」
 典子はおかずを盛り付けて、味噌汁の味見を終えたところだ。自分から切り出せない、陽子の気持ちも分かる。
「私ね」
 典子は手を止めずに耳を傾ける。
「私・・・・・・良っちゃんのこと、好きみたい」 典子は驚いて陽子を見る。目が見開かれ、手が止まる。
 先生はお母さんよりも年上よ。口から出かけてた言葉を飲み込むと、何を話せばいいのかが分からない。
「ずっとね。ずっと良っちゃんと一緒にいたいの。たくさんお話していっぱい笑って、一緒にご飯食べて一緒に肩を並べてお出掛けして、いつも寄り添ってずっと支え合って、うちみたいなあったかい家庭作りたいなって。思うようになったの。良っちゃんが、私のこと嫌いでも、私の想いはもう変えられない。だからね。だから、思い切って正直に、自分の気持ち伝えたいの。伝えようと思ってるの」 いけない?
 波のように揺れる涙をこらえる姿がいじらしい。
 陽子・・・。
「お母さんが良っちゃんのことを好きなら、諦めるつもりだったの。諦めるしかないって・・・」
 勇気が必要だったわね。ありがとう、話してくれて。
「お母さん・・・」
「お母さんはいつでも陽子の味方。応援するわ」
「お母さん!」
 陽子は声を上げて典子の胸に飛び込んだ。ちっとも変わらないじゃない。子どもの頃と。
 キッチンの明かりの向こうを、大小の猫が通り過ぎた。



     進路



 ―――卒業したらウチで働く気ない?
 千代さんからのまさかのひと言。すくい・たいへの勧誘だ。どうしよ・・・。どうしよう。どうやって断ろう。
 高校時代の同級生のほとんどは既に働き始めている。短大の子たちは、就職内定をもらった子もいれば、夢を求めて専門学校に行く子もいるし、しばらくアルバイトして夢探しする子もいる。
 私は?
<分かんない>
 すくい・たいで、
<働かない>
 せっかく誘ってくれてるのに贅沢じゃない?
<違うもん。何かが。すくい・たいの仕事って、社会経験が豊富で、語りつくせないほど紆余曲折があった人たちのご支援をするんだよ。生半可な覚悟じゃできないよ>
 難しく考えすぎてない? もっとシンプルに考えたら? 良いところも有るかもしれないよ。すくい・たいにだって。
<良いこと有るかもしれない。でも無理。泣かせたくないの。苦しめたくないのよ、利用者の人たちを>
 じゃ、何したいの。春夫は目標に向かって頑張ってるじゃん。
<私には目標なんてないし、誰のために頑張ればいいのかも、分かんないのよっ>
 目標が無くったってやりたいことは有るでしょ。
<ある>
 何よ。はっきり言ってごらんなさいよ。
 ・・・・・・。
 はっきり言葉に出すの。
「良っちゃんのそばにいたい」
 そうすればいいじゃない。それで良いのよ。
「うん」


「オラ、オラオラオラァッ! 練習してきたのかそれでよっ!」
 良雄のバリトンヴォイスが中庭に響きわたる。
 街頭での路傍伝道で培った声量は、車いすに乗りギプスコルセットを着ける入院患者のものとは思えない。
「すみません。どうもイメージ出来なくて」
「オレの教え方が悪いってのかオイ。ふ~んオレのせいか。オレのせいなの。ふ~ん。なら止めよっかなぁ~お前のコーチ。才能ないみたいだから。ボク」
 また始まった。子供みたいなこと言わないで下さいよ。
「やめちゃおっかなぁ~」
 みんな笑ってますよコーチ。
 いやいや。原因は俺。俺がいけないんだ。「すみません! もう一度教えてくださいっ!」
「どうしよっかな~」
 クスクスクス。
「お願いします! 俺が悪かったです!」
「そうだよ。お前が悪ぃんだよ。しっかり見てきたのか! 水泳部の練習をよっ」
「それが、顧問の先生に話したんですけど・・・」
「けどどうした」
「見学させて貰えませんでした。陸上と水泳に何の関係があるんだって言われて」 ノゾキに来たって疑われて。
「大アリだよ。もういいっ、部活の先公なんか当てにしたオレが馬鹿だった。今から説明するから、しっかり聞いとけよっ」
 春夫がダッシュで駆け寄る。そのスピードに、中庭の人々の目はテンだ。
「すみません。教わったこと、しっかり身に着けれてれば」
 ふうぅ。自分を責めるな。期待に応えようなどと思わなくていいんだ。
「これを。体を冷やしてはいけません。筋肉はもちろん循環器系に悪影響を来します」
 ひざ掛けをめくって、良雄はウエアを差し出した。
「暖ったかいっす」 良雄の心づかいが嬉しくて、つい頬ずりしてしまう。
「良いですか。短距離はスタートが雌雄を決すると言っても過言ではありません。いくら一着になっても、スタートで出遅れての一着などクズ。分かりますね」
「しゆうって」
 くそっ。そっちじゃねえよ。・・・クスクスクス。
「雌雄とは、勝敗を分けると言うことです。スタートで最も意識しなければならないのは、神経を集中させる事はもちろん、全身を無駄なく使うことです」
「それは意識してます、俺も」
「為っちゃいねえんだよ、全然よっ」 また変貌だよ。いきなり突然だもんなぁ。
 まずい。つい、
「ええー、ピストルが鳴りスタートを切ります。そして一歩目が地面に着地します。ここまで。先ずここまでを、スイマーの動きと重ね合わせてごらんなさい。さあ」
 ・・・・・・・・・。良雄は辛抱強く答えるのを待つ。心に決めた。
「もしかして」
 もしかして何だ。
「もしかしたら」
 さあ言ってごらん。
「もしかして水に入る時の、いや違うな」
 !
 いつも笑顔で。いつも笑顔を。
「分かんないっす」
 おいっ。
 待て。この子は自信を失くしているのだ。
 問題を解くよう言われては間違えて笑われ、文章を読むよう指されてはツッカエて笑われる。同じことを何度も繰り返しすっかり自信を失った君は、大きな体を縮めて 『指すな、指すなよ。当てるなよ』 怯える授業時間を過ごすようになった。違うかい。
 そんな脇田くんのトラウマを取り払い自信を持たせることが僕の使命。なのかもしれない。
「もしかしたら。一歩目の着地って、着水のイメージとか。んなわけないか。地面に頭ぶつけちゃったら、」
「脇田あ!」
「あ、いや、俺、すみません。また変なこと言っちゃ、」
「そーだよ。その通りだよ。その通り・・・」
 ちょ、ちょっと、なんで泣くんすか。みんな見てるじゃないですか。
 病人を泣かせてるぞ。あの若いの。
 お父さんでしょ? なんて親不孝なのっ。
 親を泣かせるなんて酷いやつだ。
 イジメだ、いじめ。いじめっ子だ。
 違うよ違うってば。
 いーけないんだ、いけないんだ。せーんせいに言ってやろ。
 イジメは赦さないわよ。みんなに謝りなさい。もうしませんって!
 ぼくいじめなんかしないよ。だれもいじめてないもの。
 んまあ! なんて強情なんでしょう。
 はるおウソ言ってる。嘘つきはドロボーの始まりだぞ。
 うそなんか言わないよぼく。
 はるおのウソつき! ドロボー! いじめっこ! 遊んでやんないからな。
 うそつきでないよ。ドロボーでないよ。ぼくいじめっこなんかでないよ。だってぼく・・・お父さんとお母さんの子どもだもの。
 春夫。春夫―――。
 あ、お父さん! 
 どうした。何を泣いているんだ。
 みんなが、いじめるの。うそつきドロボーいじめっこだって言うの。違うよって言っても、誰も信じてくれないの。
 春夫は嘘は言わない。誰もいじめたりしない。父さんはよく分かってるよ。
 信じてくれるの・・・ぼくのお話。
 もちろんさ。春夫は思いやりがあって、優しい子。父さんとお母さんの自慢の子だ。
 ありがとうお父さん! ありがとう!
 わかった、わかったから。もう泣かなくていい。にっこりしていればいいんだ、いつものように。いいね。
 ・・・父さん。
「涙を拭きなさい。これで」 良雄がハンドタオルを差し出す。
「うん」
「涙を見せてはいけません。己に打ち勝つまでは」
 わかったよ。父さ、ん?
 そうです。笑っているのです。
「コーチ。もっとコーチしてください、コーチ。俺がんばりますから。がんばりますから俺」
 本気になったな。
「よーし。オレが必ず、お前の夢を叶えてやる」 ついて来るんだぞ。脇田。
「はい!」
 春夫がウエアを脱いだ。良雄の赤い目が笑った。 



     決心



 明日はイヴ。お父さんの病気を知らされ、余命の宣告を受けた忘れることの出来ない特別な日。この一年、色んなことが有った。大好きなお父さんとの別れ。すくい・たいでの経験。お母さんと一緒に教会にも行くようになったし、家族三人の絆も深まったと思う。お父さんが私たちのことを、見守っていてくれるから。
 そして良っちゃん。良っちゃんと出会って、私は多くのことを学び、愛を知った。良っちゃんと出会っていなければ、愛を知らずに人生の幕を閉じていたはず。
 明日私は伝えます。どんな結果が待っていようと後悔しません。神さまがお決めになった道を行くのだから。

 明日はクリスマスイブだ。コーチを家に招いてクリスマスパーティが開かれる。姉ちゃんのソワソワはわけ分かんないけど、コーチの満面笑顔はよく分かる。
 そりゃそうだ。毎日味気のない病院食を食わされ、毎日同じ風景を見るだけで、未だ車いすを操作することもできない。ストレスが溜らない方がおかしい。外界で暮らしてきたコーチなら尚更だ。
 だけどコーチにも姉ちゃんにも悪いが俺はパーティなんかどうでもいい。それどころじゃない。コーチと姉ちゃんには悪いけど。
 俺は明日タイムトライアルに臨む。
 俺は走る。10秒60以内で。俺は走る。目標は10秒3だ。

 今日の良雄は、病衣でもなければ作業着姿でもない。典子のアドバイスを聞きながら陽子が選んだ服装は、薄いベージュのとっくりセーターに濃紺のブレザーコート。ズボンは明るい薄茶色のコーデュロイ。年齢と、牧師時代の服装を考えてのコーディネートだ。
「とっても似合ってるわ。素敵よ」
「何から何まで申し訳もありません」
「イヤよお。そんなよそよそしのは」
 在天の父なる神よ。なぜ彼らを用いて、罪人であるわたくしめを生かそうとなさるのですか。
「元気ないみたい。久し振りの外出で疲れちゃった? 緊張してる?」
「お幾つの頃の、お写真ですか」 
 仏壇の和男を見つめたまま良雄は言った。遺影と口にしなかった良雄の心づかいが、典子は嬉しかっった。
「二年ほど前に四十歳になった記念で、丹沢の山に登ったときの写真なんです。遺影に山登りの恰好もどうかと思ったのですが」
「お母さんと二人で登ったのよ。うっすら汗をかいた笑顔がお父さんらしくて、この写真にしたの。やり遂げた感、素敵でしょ」
「典子さんを気遣う表情が昔のままです。変わっておられません」
 典子は湯呑を手にして席を立つと、陽子が耳打ちした。「ようやく死を受け入れられたとこなの。でも、たまらなくなっちゃう時があるみたい」
「軽はずみなことを口にしました」
「そうじゃないの。嬉しいのよ、お父さんと過ごした幸せな時間がよみがえって。だから私も出来るだけ、二人の時間を楽しませてあげることにしてるの。それだけちょっと、覚えていて」
「僕がお邪魔したことで、余計に和男さんを、近くに感じたんですね」
「その 『余計』 がね。嬉しいのよ」
 ごめんなさい。お待たせしてしまって。典子が声を掛けてから襖を開けた。盆に載せた急須の注ぎ口からわずかに湯気が立っている。
「もうお昼が届く頃ですので、少し準備を」
 言い訳のような物言いが珍しいと陽子は思う。
「あ。お寿司きたわね」
 玄関から威勢のよい声が届いた。
「良っちゃんのは特上よ」
 陽子が勢いよく立って玄関に向かう。
「んもう、余計なこと言わないの」
 いつもの陽子らしさに、典子は安心した。 

「美味しそうねえ。遠慮しないでいっぱい食べてね」
 テーブルには寿司とケーキの他に良雄の入院生活を思って作った、お節料理にサラダ。揚げ物などのオードブルが所狭しと並べられている。
「どうぞ、(ゴックン)お構いなく」
「お節とチキンは食べ切れなかったらタッパーに入れて持って行けばいいから、お寿司からにしよっか」
 良雄が食べやすいようにテーブルのうえの料理をずらす。
「あ、ありがとう」
「どうぞ召し上がれ」
 三人とは違う寿司に戸惑いながらも、良雄は恭しく手を伸ばす。
「あっ」
 む。
「ケーキが先よね。ロウソクつけて聖歌歌わなくっちゃ。クリスマスパーティなんだから」
 良雄はきまり悪そうに、伸ばした手を伸びかけのツンツンヘヤにもっていく。縁の下の力持ちに徹しようと、典子は決めていた。
「なに歌おっか、良っちゃん先生」
 箱からケーキを出し、典子はロウソクを立てていく。
「聖しこの夜など、どうでしょう」
 何でもよかった。
「お昼だけど、目を閉じて歌えば雰囲気味わえるし。そうしよっか」 十分に日差しが入るように設計されたリヴィングは、カーテンを閉めても明るい。
「覚えてるでしょ。春夫」
「ん? ああ」
「幼稚園で習ったの、忘れちゃった?」
「ああ」
「あんたさっきから全然喋んないじゃない。良っちゃんコーチの前で緊張してんの? それとも風邪? のわけないか。春夫は風邪引かないもんね」
 ・・・・・・。
 あれ。無反応。
 典子はロウソクに火をつけ、カーテンを閉めに立ち上がる。
「無理して喋れとは言わないけど、少しは嬉しそうな顔したらどうなの。幽霊じゃないんだから」
「ああ」
「もういいっ。歌うわよ、さんはい」
     
   ♪ 聖しこの夜   星は光り
     救いの御子は  まぶねのなかに
     眠りたもう   やすらかに ♪
    
「はいっ」

    ♪ 聖しこの夜  御子の笑みに
     新しき夜の  あしたの光
     輝やけり ♪   ほがらかに ♪

「うわー。すっごーい良っちゃん。オペラ歌手みたい」
「先生の歌は日本一よ。教会の外にまで聞こえるんだから」 典子が自慢した。
 どうした。脇田くん。
 どうしちゃったのよ、せっかくのパーティだって言うのに。暗いのはイヤなんでしょ。春夫は口さえ動かさずに、どこでもない一点を見ているだけだ。
 明るくしようよ。「せえーの」
「メリークリスマス!」
「春夫、ロウソク消して」 典子もまた春夫の様子を気にしていた。
「ああ」
 齢の数だけ50本。と言うわけにはいかず陽子の好きな数字の14本。4回目でようやく春夫は吹き消した。
「さてと。切るね。曲がらないように気をつけなくちゃ」
「4等分よ。曲げる方が難しいわ」 典子が笑う。
 ひとり喋る陽子が可哀そうになった。
「なら良っちゃん、一緒に切ろっか。ケーキ入刀。なんて」
「まっ、陽子ったら」
 ちょっと大胆だったかしら。それにしても春夫。なに黙ってんの。
 陽子はケーキを切って皿に取り分けていく。肌理(きめ)の細かい純白が甘い香りを漂わせ、良雄の口腔は唾液で溢れんばかりだ。
「お待たせ。良っちゃん食べて」
 どちらかと言えば僕は、お寿司の方が。
「あんた好きでしょ。イチゴのショート」
「お皿まで舐めてたものね。小さい頃」
 春夫は唇を噛みしめるだけだ。
「ほんとにどうしちゃったのよ、さっきから」
「コーチ!」
 ケーキに伸びる良雄の手が止まる。
「これから俺、タイムトライアルしたいんです」
「ちょっとあんた、何言い出すのよ」
 春夫は良雄の反応を待った。―――タイムなんか気にすんじゃねえ!
 何を言われようとどうしても走りたかった。父親の病気を知り、道を間違えた今日この日しかなかった。
「・・・これから、かい」 まさか。
 良雄を見据える春夫がはっきりと頷く。
「何も今日くらい。せっかくの外出なのに」
 典子が言う。
「やりたいんなら一人でやんなさいよ。良っちゃんを巻き込まないでっ」 あんたの為に来て貰ったんじゃないのよ。ふざけんじゃないわよ。
「自信。あるのかい」
「はい!」
「帰りにでも見ようか。君の自信を」
「それが学校二時までしか使えないんです。1時から一時間しか許可が降りなくて」
 !
「ちょっと待ちなさいよ。時間ないじゃないの。夕方には戻んなきゃいけないのよ、良っちゃんは。勝手なこと言ってんじゃないわよ!」
「それならそれで、早く言わないと」
 典子までもが春夫を咎めた。
「お願いですコーチ!」 これ程にまで我を張る春夫は珍しい。
 良雄は目を閉じた。食べず終いで帰ることになるのだろうか―――。良雄にとってこの状況は拷問。
「今日この日に合わせてトレーニング積んできたんです。懸けてるんです!」
 私だって今日この日に懸けてきたの。人生懸かってんのよ!
「10秒3。出してみます」
 良雄もまた、春夫と陽子に負けないくらい、今日この日を待ち焦がれてきた。三か月を超える入院生活は戸惑いから苦痛に変わり、近頃は囚人になった気さえするほどだ。
 手の込んだ料理がならぶテーブルに着いた時。僕の中で眠っていた 『欲』 が目を覚ますと同時に、すっかり忘れていた家庭という言葉が浮かんだ。こうして僕がここに居るのは、和男さんを亡くし未だ悲しみの渦中にあるご家族を慰めるためのはず。それなのに僕は欲に目が眩み、自分の欲を満たし心慰めることに懸命になっていたのだ。―――まず自分 何より自分 他人より
 僕はそんな人間になる為に生まれてきたわけではない。 
「先に行って、準備を整えておきなさい」 言ってしまった。
「コーチ。ありが、」
「時間がない。さあ」
「ありがとうございます!」
 春夫は立ち上がり勢いよくドアを開け出て行く。良雄は色鮮やかな赤身に手を伸ばした。


 ほぼ無風。誰もいないグランドと抜けるような青空が、乾いた校庭を広く見せている気がする。
 校庭には真新しい白線が斜めに引かれていた。中学時代の恩師がコンディションの良い場所を選んでくれたのが分かる。
 ひと通り準備を終えた春夫はコースを往復し、走るのには影響のないほどの小石を拾ってスタート地点に戻った。地面に固定されたスタートブロックの足幅をもう一度確認し終えると、ストレッチングで身体をほぐしながら校庭を眺める。
 南側にある重量ブロック造りの部室と、プレハブの物品倉庫は、色を塗り替えたばかりのようで扉が閉じられているのが新鮮さに輪をかけていた。静止した風景の中に、ぼんやりと生徒の姿が浮かび上がる。 
 十メートル先の桜の幹を狙って砲丸を投げる細身の少年。テニスボールを弾く規則的な音に、野球部の上声とノックの音が重なる。グランドの半分を使って周回するのは中長距離の生徒たち。地響きのような乱れた足音が迫り、はっとして振り向くと同時に真横を駆け抜ける。円の中には首からメガホンを吊るした石黒先生。その隣でスタートダッシュの練習に励むのは長身で丸坊主の少年。
 静かだ。
 ひとりきりの時間。そして空間。ここでこんな時間を過ごせるなんて、考えたことが有っただろうか。至福の中に緊張はない。  
 と、
「ハル!」
 声の方向に体をひねる。校舎の横の通路を三人の男が下りてくるのが分かった。
 ひとり体をのけ反らし駆け出したのは立野修一。同窓生で陸上部元キャプテン、シュウだ。陸上をやめたことは噂で聞いていたが、体形と走り方を見ればスポーツと縁の無いことが分かる。
「石黒先生から聞いてさ。マジのタイムトライアルだって?」
「まあな」
「水臭いな。元キャプテンの俺に声掛けないなんてさ。陰ながら応援してきたんだぜ」
 手のなかでピストルを転がしながら修一が言った。スターターはシュウに任せられたらしい。
「いやほら、進路のことなんかで忙しいと思ってさ」
「ぜーんぜん。俺、親父の仕事継ぐから。鉄工所をさ。就職活動なんて他人事みたなもん」
 二年半ぶりの再会だ。ぎこちない空気になるのは当然かもしれない。
「ハルは」
「就職。何すっか決めてないけど」 このタイムトライアルで決めるつもりだ。
 春夫は何となく笑う。
「ま、卒業と同時に決めなきゃいけないってこともないと思うよ。スタートなんかいつだって切れるじゃん」
「そうかもしんないけどさ」
「陸上とは違うじゃん。人生って」
「それもそうだな」 勝ち負けもタイムも順位も関係なくて、どうでも良いはずなんだよ。人生って。
 春夫はコーチを思い、父和男を思う。
「元気そうじゃないか」
 遅れてやってきた石黒が品定めをするように、春夫の全身を見ながら言った。「努力の証しだな」
 後方のコート姿の男は、春夫の目をじっと見据えるだけだ。
「まだまだです。もっと鍛えないと」
 言いながらも、『コーチ』 が認められたようで嬉しかった。
「まあ焦らないことだ。故障を呼ぶだけだからな。紹介しよう―――」
 春夫が向き直る。男の目は身体の内部まで射貫くかと思うほど、眼光が鋭い。
「大学時代の先輩で灰島(はいじま)(しげる)さんだ。(あかつき)化成興業陸上部の総監督をしておられる」
「あかつき火星・・・」
「見てみたいとおっしゃられてな、お前が走るところを。総体の決勝以来、注目しておられたそうだ」
 高校総体400mリレー決勝。ヤツに抜かれた試合だ。あの時の俺は、俺じゃない。
「いま暁化成は、長距離の暁から 『陸上の暁』 を目指している。五輪経験者をコーチとして招へいし、短距離はもちろん投てきなどのフィールド競技にも力を入れるそうだ」
「我々が世界で戦える選手を育て、日本陸上界を変える」
 約束する―――。春夫は、灰島から覚悟を感じた。格闘家を思わせる体格と俳優のような顔立ちの灰島には、威厳とオーラが漂っていた。
「だからと言って緊張することはないぞ。俺も監督もただ、再出発するお前の姿を見に来ただけなんだからな」
「そうそう。応援に来たようなもん」
 ありがとう先生。シュウ。でも俺は昔の俺じゃない。背負ってるものが違うんだ。今の俺は。

「ベストに仕上がっているようだな」
「非の打ちどころがありません。別人を見るかの様です」
 灰島と石黒の二人は、コースの外側でアップをする春夫から目をはなさない。
「問題はスタートか」
「全国大会決勝のアンカー。なのに個人戦は県大会決勝に残れるかどうか。メンタルに難がありまして」
「それでも追い風参考とは言え、10秒60」
「潜在能力はずば抜けていると言えます」
「見ろよ石黒。あの無駄のない理想的な筋肉。柔軟性に富んだ関節の動きを。去年とはまるで違う」
「完璧です」
「完成されていると言っても、言い過ぎじゃない」
 灰島は、暁化成陸上部総監督として、春夫の才能を見極める為にやって来ていた。だが今は違う。ただ純粋に、目の前の少年の全力で走る姿を見たかった。
「これ程までになるには、相当中身の濃いトレーニングを積んだに違いない。出来ると思うか。ひとりで」
「無理でしょう。監督のような人間の指導を受けない限りは」
「俺にだって自信はないよ」 灰島は苦笑する。笑ってみせた。俺には無理。それが本音だ。
「以前の彼は、スタート前はナーバスになり、自ら自分を追い詰めていました。こんなに余裕のある姿を見るのは、初めてです」
 二人の視線の先には、コースコンディションを整える修一の横で、談笑する春夫がいた。
「メンタルの課題も克服したか? 恐ろしいよ俺は」
 灰島と石黒は互いの顔を見、口角を上げる。と、
「コーチ!」 
 良雄の姿を認めた春夫が、良雄ら三人に向かって勢いよく駆け出した。
「走るなっ!」
 良雄の声がグランドを全体に響き渡る。車いすを押す典子の手が止まり、陽子が口に手をあてがう。
「グランドに立ったら一切無駄なことはするなっ。一挙一動すべて走りに影響する。そう思え、分かったか!」
「はいっ申し訳ありません!」 春夫は深々と頭をさげる。
 良っちゃんが。あの春夫が・・・。
「アップは済ませたのか。グランドコンディション。ブロックの調整は」
「いつでも走れます」
 ん? 良雄の眉間(まゆま)に皺が刻まれる。
「手首にぶら下げてるものは何だ」
「これは、父の形見で」
 数珠を隠すようにして言った。
「外せ」
 ・・・・・・。春夫が唇を噛む。
「外さないのなら、たった今オレは貴様のコーチを降りる」
「・・・タイムには影響ないかと」
「競泳選手に習え、オレはそう言ったはずだ。スイマーがそんなモンぶらさげて泳ぐか。ベストを追及しない奴に競技に臨む資格はない。お前とは今日限り。好きにしろ」
 先生の言う通りよ。
 コーチの、言う通りだ。勝つこと以外の欲を捨てられる者だけが、頂きを目指す資格を持ち、夢を実現させるのだ。
 春夫は数珠をはずし、典子に渡した。―――いつもお父さんは、あなたと一緒よ。お母さんも。
 彼がコーチか。今どき目にしない、鬼。
「リセットしてイメージし直せ。今回だけは特別に許す。本番ではフライングも有れば外野からの妨害もある。こっちの都合通りにいくとは限らん。よおく覚えておけ」
「すぐに走れます。俺は井上コーチの指導を受けてきたんですから」
 井上・・・。
 まさか。「計測お願いします」
 春夫が石黒に言う。
「リラックスしていけや」
 石黒が軽く肩をたたいて言い、ふたりはゴールに向かう。灰島は車いすの良雄を横目で見て通り過ぎた。

「頼むな。シュウ」
 修一は何も言わずにピストルを掲げて応え、ゴール付近で待ち構えるふたりに合図を送る。良雄ら三人は、中間地点よりややゴール寄りの、コースから離れた場所で見守る。春夫にプレッシャーをかけずに走法の細部までを見定めるためだ。
「いくぞ。ハル」
 春夫が頷く。
< オン、ユアマーク > 
 狭めの足幅、バンシにセットしたブロックをまたぐ。―――目の前は海。
 ブロックに足をのせ、膝を折りながらライン手前に指を立て、息を吸うのと同時に右ひざを地面に置く。―――風は無風。穏やかな凪ぎだ。 
 息を吐きながらラインに合わせて指をずらす。 < セット >
 短く鼻から息を吸い、膝を上げ呼吸を止める。
 ―――春夫、ここまで泳いでごらん。さあ。
「行くよ父さん。すぐに」
< パァーン! > 乾いた音に全身が反応する。
 つま先から足裏、下半身から上半身へと瞬間的に力が伝道し、春夫は夏の海に飛び込んだ。
「スタートから姿勢が整うまで。君はスイマーです。水中から水面に浮かび上がるまでの競泳選手の動き。意識を学ぶのです」
 初めはわけが分からなかった。
「彼らは足の指から頭の先まで、全身を無理なく無駄なく使いこなします。あのしなやかな力強さを、君は身に着けるのです」
「じゃ、俺プール行って練習してきます」
「チィッ。プール行ってどうすんだよ」
「でも実際に泳いだ方が、」
「オレが徹底に、叩き込むんだろうがっ!」
 俺はコーチのしごき、いや熱血指導に耐えて、いや。熱血指導に応えてきたんだ。
 春夫が水中から浮かび上がる。
「馬になればいい。走るのが楽しくなり、結果タイムは縮まります」
 初めはわけが分からなかった。
「やっぱ難しいっすね。馬になるのって」
「積み重ねです。経験が手応えとなり、仔馬は無意識のうちに、母馬のように走るようになります」
「えっ、馬って意識不明で走ってるんすか。知らなかったなあ」
「バ! 意識失くして立ってられっかよ。バカなこと言ってんじゃ、」
「でも立ったまま眠るじゃないっすか。馬」
 ・・・ほんと? って顔した後、眠ってるのと無意識と意識不明の違いを話してくれましたね。それから、
「馬の息づかい。(ひづめ)の音。風になびくたてがみ。躍動する筋肉。そして、あの潤む目に宿る思いを、全霊で感じ取るのです。共感の涙が流れるその時まで」 あの時はわけが分からなかったけど、今は分かります。
 凄いです。気持ちいいです、コーチ。なんでこんなに速いんすか。幾らでもスピードが出そうで、怖いくらいっすよ。
 馬になれたな。脇田。
 水平線が近づく。
「行け! ハル!」
「がんばってえ! 春夫ぉっ!」
 足がまわる。グングン伸びる。腕が振れる。力強く速く。
「風を作ってるみたいだよ父さん。体が」
 灰島と石黒が真横から、支柱に張ったゴールテープを凝視する。
 中腰で待っている父さんが、大きく腕を広げて叫んだ。
 ―――もう少しだ。がんばれ春夫。がんばれっ。
「父さん!」
 タァッタァッタァッタァッタァ、軽く速い足音が迫る。灰島が左右に握ったストップウオッチと目の両方に意識を集中させる。<さあ来い。脇田春夫>
「ハルぅ! ラストだっ!」
「決めろっ!」
 コーチの声だ。決めますよ俺は。
「父さ~ん!」
「ゴール!」
 春夫と良雄とストップウォッチのデジタル音が重なる。灰島と石黒の二人が音に遅れて数字を睨みつける。皆ゴールラインに向かって駆け寄る。
「灰島タイムは!」
 良雄が叫び、春夫が駆けつける。
   
   10秒45 / 10秒43 ―――
   10秒46 / 10秒49 ―――

「すっげえ、自己ベストじゃないかよハル」
「くっそー」
 春夫はその場に崩れた。
「凄いじゃないのあんた。お姉ちゃんこんなに速く走るの初めて見た。ピューンだもん。ホントに凄かった」
「駄目だコンマ2秒も遅い。ダメなんだよっ!」 この程度のタイムじゃ夢が叶わないんだ。
「納得できなかったのか、君は。自分の走りに」
 春夫の傍らに立って灰島が言う。
「実力は出し切れたと思います。でも、」
「それなら良いじゃないか。大切なのは、手応えだ」
 灰島はチラと良雄を見て言った。春夫はうずくまったままだ。
「10秒3を切れ。そう言ったのか。君のコーチは」
「そういうわけじゃ」
「言うはずがない。タイムは負うな。そう教えだろう。井上コーチは」
 知ってるのか。コーチのことを。
「いい走りだったぞ。脇田」
 初めて耳にする良雄の言葉だ。
「よくここまでに育ててくれました」
 灰島が良雄の手を取る。感謝と再会を喜ぶ気持ちが込められているのが分かった。
 ―――よくがんばった。春夫はお父さんの自慢の息子だ。最高のイヴになったな。
 父さんがいてくれたからだよ。
 校庭が揺れていた。海のなかで。



     胸中



 明日は待ちに待ったバレンタインデー。
 陽子は良雄に贈るチョコレートを作り終えたところだ。
 もちろんハート形よ。でも子供っぽく思われるのは嫌だから、甘さは控えめ。「ふふふ」
 クリスマスイヴに想いを打ち明けたかった陽子だったが、春夫の100mタイムトライアルに押し切られて、実現できなかった。
 最高のイヴにはならなかったけど、かえって良かったかも。二か月という時間が良っちゃんへの揺るぎない想いを、確かめさせてくれたのだから。
「さてと。次はランチの下ごしらえ。ああ忙しい。幸せって、忙しいのね。うふふ」
 笑みをたやさずにひとり言をつぶやく陽子を、典子はリヴィングのソファーから見ている。気持ちが落ち着かない。
「♪ フームムゥム~、フ~ムムゥム~。ルールルー、」
「お母さん手伝うわ」
「いいの。愛(心)を込めて作りたいから」
「いいのじゃないでしょ。お夕食の支度できないじゃない」
 台所の陽子がからだごと振り返る。「私もう大人よ。晩ごはんもちゃんと作るから、お母さんはゆっくりしていて。♪ ラァーララ、ラァ~、」
 ありがと。でもやっぱり、落ち着かない。この時間に何もしないでいるのって。
「お献立は?」
「今夜はすき焼き。栄養満点だし、手間も掛からないし」
「偉いのねえ。ちゃんと春夫のことを、考えてくれたのね」
「別に、あいつの為なんかじゃないけどねえ」
 うふふ。「いいお母さんになれるわ。お母さん安心」
 ピクッ。陽子が固まる。
「やだもう・・・。お母さんだなんて」
 あらいけない。恋をしてる陽子に言うことじゃなかったわ。「先生には何を召し上がって頂くの?」
「良っちゃんにはね。愛情たっぷりオムライスでしょ。それに良っちゃんが大好きな手羽先のコーラ煮でしょ。それとほうれん草の胡麻和えと新鮮サラダに、たっぷりフルーツ」
「ふふふ」
「ヘンかなあ」
「変じゃないわ。でも、今夜のうちにやらなくてもいいんじゃない?」
「だって早いんだもん。朝」
「早く起きればいいじゃない。朝から始めたほうが美味しくできるわよ」
「でもなあ」
「手間を惜しんでたら、喜んで貰えないわよ。何をするにしても」
 そうかもしれない。抜け殻のような春夫だって努力を重ねて頑張ってきたんだもん。私も変わらなくっちゃ。
 でもなあ。やっぱり苦手なものは苦手。早起きアレルギーだから。
「そうしなさい、お母さんが起こしてあげるから。それよりあなた、考えるたびに手を止めてるようでは、いいお (奥さん) 、、美味しくできないわよ」

   桜咲く木の下で・・・。
   私。良雄さんのことが、好き。
   ごめん。
   え。
   ごめんよ。
   イヤ。聞きたくない。
   ごめん。言わせてしまって。  
   え。良雄さん・・・もしかして。
   愛してるんだ、君のことを。

 桜咲いてないし。浮かぶのは妄想ばっかり。どうしよう。どうしたら良いんだろ。
 海、行っちゃう?
 ダメ。遠いし寒いし鼻水出ちゃうし。
 じゃあ、すぐそばの公園? 割と絵になるかも。他に歩いて行けるとこ無いし。
 やっぱりダメ。無理。お年寄りいっぱい。絶対じろじろ。
 カフェはどう? 食堂は?
 お弁当あるでしょ。人もいっぱい。
 !
「屋上よ!」
 ああああ。
 乗客がいっせいに振り向く。最後部の陽子も後ろを見るしかない。バスは駅に向かう、渋滞の中にいた。

 屋上屋上屋上。
 一刻も早く会いたい。でも下調べは大事。一面コケだらけだったり、使い古しの注射器とか医療用具とか骨格標本だとか本物の骨格が転がってたりしたら、告白どころじゃなくなっちゃうもの。
「よい、しょ」 はい成功。
 五か月も通ってるんだもん。スーパーイージーよ。陽子は肘で ▲ ボタンを押して、エレベーターに乗った。
 院内のことは大体分かってる。案内図を見なくてもどこの診療科へにでも行けるレベルだ。ふたりきりで過ごせる理想郷を求め、リハビリや検査の空いた時間を利用して密かに捜し歩いた。でもここはテーマパークじゃなくて病院。そんな場所など有るはずもない。
 と思ってたけど、とうとう見つけちゃったかも。パラダイス。「チーン」
 わっ暗っ。唯一未開の地。屋上に向かう為の最上階に到着。とても理想郷へ通じてるとは思えない。でも・・・ユートピアに行くには降りるしかないでしょ。
 すぐ下の階で降りたコートみたいな白衣を着た四十代±3、4歳くらいのおばさんが、物言いたげに首を傾げていた事が今更ながらに気になり始めた。最上階を告げるお鈴のような音さえも。ちぃーん。
 行くのよ陽子。人生懸かってるんだから。自分を叱咤して、
 こっち。
 明るい方向を選んで進む。
 物音ひとつしない。自然と忍び足になる。息苦しい。
 ピンポーン正解。突き当りの手前に階段見えるもん。すたすたすたすた―――怖いなあ、反響。ペタァ、ぺタァ、ぺたぁ、ペちゃ。我慢がまん。愛のためだもの。次に来るときは良っちゃんと一緒だもの。ペタぁ。ペたぁ。ぴた。
「うそ」
 屋上への侵入を阻止するように、工事現場で見かける黄色と黒のポールが階段を塞いでいる。
「何よもうっ。みんなでお弁当食べたりバレーボールしたりして、くつろいでるでしょうよ。事件が解決するのだって、サンダル履きのイケメンドクターが景色を眺めて一服するのも屋上じゃないのよ」
 春夫のわがままなんか利くんじゃなかった。タイムトライアルなんか良っちゃんが居なくたって出来ることだもの、そもそも。でもあの状況であれ以上口を出したら、「嫌われてしまうかもしれない」・・・乙女心を覘かせたのが失敗。
 春夫あんたのせいよ。どうしてくれるのよ。どうすれば良いのよ。どうしたら良いんだろ。どうすれば良いのですか。神さま。

「いつもご苦労さま。寒かったわね」
 すっかり顔なじみになった看護師長の坂井妙子(たえこ)が、穏やかに話しかける。知らず知らず良雄のいる病棟に足を向けていた。
「はあぁ」
「たくさんお荷物持ってきたのねぇ。差し入れ?」
「はあー」
 あれ。どうしちゃったの、暗い顔して。
「具合でも悪いの?」
 陽子は首を振る。横に。縦に。
「陽子さんらしくないな。心配するわよ、井上さん。あなたは笑顔がトレードマーク。にっこりしてなくちゃ。ねっ」
「はあぁ」
 職員の中には、進んで話し掛けてくる陽子がくるのを心待ちにしている者も少なくない。陽子の笑顔が、看護業務の激務を癒してくれる。みんな陽子が大好きなのだ。
「何か、困ったことでもあった? 悩みごとかな」
 あらアヒルぐち。可愛いなぁ、ほんとうに。
 妙子師長はお母さんより十歳年上で、何となくお母さんに似てる。師長さんに会うのも、師長さんを頼りにする皆さんに会うのも楽しみのひとつ。なんだけど・・・とても今はそんな気持ちにはなれない。
「もしかして・・・恋? 恋の悩みとか」
 え、どうして。アヒル口がアルファベッドの Oの形に。
 やっぱり。妙子は、「悩みごと?」 、「恋?」 と言った時の陽子の微妙な変化を、見逃してはいなかった。
「陽子さん、時間あるかしら」
「はあぁ。まあぁ」
「ちょうど終わったところなの、仕事。ちょっと遊びましょうよ。ねっ」
 妙子はナースステーションのカウンターから出ると、陽子を支えるように、病室の反対へ伸びる廊下へ誘った。
 予備のシーツや紙おむつなどがある備品室。機械浴室。洗面所を通り過ぎる。
 ―――こんにちは陽子ちゃん。
 あれ?
 陽子ちゃんだよね。
 の筈だけど・・・。
 若いナースの声も耳に入らぬまま廊下を進むと、病室二つ分の広さはある談話スペースで妙子は足を止めた。「のど乾いちゃった。何か飲みましょ」
 自販機で紙パックのコーヒーを買い廊下に戻ると、すぐ隣のカンファレンスルームの札を 『使用中』 に裏返す。
「さあどうぞ。入って」 ドアを開け、陽子の背中に軽く手をあてて、優しく室内へいざなう。
「わあ」
「綺麗でしょう」
 正面のガラス張りの窓の外には、そこからしか見ることのできない、画趣さながらの世界が広がっていた。
 キャンバスの上は海と空。真ん中から下の大地には糸のような新幹線が、ビーズの車列を追い抜いていく風景。
「素晴らしい眺めでしょう」
「小っちゃいんですね。空と海のほかは。ぜんぶ」
「そうね。悩みや苦しみも、小さく見えるといいんだけどね」
 妙子が窓際まですすむ。陽子も並んで立って、遠く近くに視線を送った。
「お天気が良い日は冬でも暖ったか。最高でしょ」
 明るく言って、陽子にコーヒーを手渡す。
「このお部屋はね。患者様やご家族に、辛い話をしなければならない時にも使うの。そんな日は、予め晴れの予報日を選んで、来て頂くようにしているのよ。この景色が、心の痛みを、少しでも癒してくれるように願って」
 向かい合うふたつの長机と、レントゲン画像を挟んで映し出すシャウカステンが有るだけの部屋だ。陽子はカメラの中にいるような感覚で、窓外の世界に見惚れている。
「さっ、何でも話してみて。ねっ」
「は、はい・・・」
 んん。少しは元気になると思ったんだけど・・・。
「知ってる? 恋愛の悩みはね、誰かに話した方が気持ちが楽になるし、成功率もグ~ンとアップするの。ほら、病院って女ばかりの職場でしょ。恋愛相談って意外に多くてわたしの仕事のひとつでもあるのよ。少しは力になれると思うから。ね」
 どうしてそんなにまで私のことを。
 陽子の手にハンカチを握らせ、妙子はやさしく髪を撫ぜる。
「師長さん。私・・・」
 陽子は言葉を詰まらせながら、ゆっくりと話した。
 良雄との出会いから、恋い慕うようになるまでのこと。告白できずに終わったイヴと、それからの二か月のこと。そして今日、ふたたび告白出来ぬまま終わろうとしていることを。
「辛かったわね」
 妙子のひと言に、陽子がしゃくりあげる。
「それほどまでに愛せる人と出会えた陽子さん、あなたは、幸せなのよ」
 陽子が妙子の胸に顔を埋める。
 いじらしいなあ。ほんとうの娘のよう。娘にしたいわ。
「愛って、苦しいんですね」
 ひとしきり泣いた陽子は、胸のなかで言って、顔をあげる。
「試練だと思わない? いっぱい喜ぶための」
 そうかもしれない。たとえ良っちゃんへの愛が実らなくても、神さまは必ず、最善の道を備えてくださる。だからもう、迷うのはやめよう。
「師長さん、ありがとう。私もう、大丈夫です」
「うん」
良かった。それでこそ陽子さんよ。
「良かったら、ここでお話したらどう?」
「いいんですか。こんな事に使ったりして」
「こんな事って、大事なことじゃない。今日は貸し切りにしてあげるから。ね」
「わあ。初めっから師長さんに相談すれば良かったぁ。うふふふ」
 ほんとうに太陽みたい。陽子ちゃんって。
「じゃ、お化粧直してお迎えに行きましょうか。井上さんを」
「顔だけちょっと洗えばいいですから」
「お化粧、しないのまさか」
「乳液つけて口紅引くくらいなんです。いつも。面倒だし、しても変わらないから」
「はあぁ。何だか気分悪くなっちゃったなあ。やめよっかなあ、お部屋貸すの」
「そんなあ」
 困った顔も愛らしいわ。
「じょ・う・だ・ん。さっ行くわよ。ふだん通りにね」
 妙子は来た時と同じように優しく陽子の背中を押した。


「お二人にお越し頂いたのは外でもありません。大切なお話を聞いて頂くためです」
 大切? 確かに大切なお話。でも顔が違う。さっきと。
「脇田さんにご同席頂いたのは、身寄りの方がいらっしゃらない、井上さんのご家族と病院が判断したためです。いかがでしょうか井上さん。ご了解のうえ進めたいのですが、よろしいでしょうか」
 なんだか押し強すぎ。否とは言わせないからって感じ。
 五か月ものあいだ、毎日欠かさず見舞ってくれる陽子ちゃんを、家族と見なすのは当然かもしれない。でも、僕にはもったいない。恐れ多い。陽子ちゃんの、典子さんの、脇田くんの家族だなんて。
「井上さん」
「あ、はい。陽子ちゃんさえ良ければ」
「脇田さんは」
「伺います。お話」 良っちゃんの家族として。
 妙子は笑顔を見せ、深く頷いた。
「早速ですが、大切なお話というのは、井上良雄さんの退院についてです」
「え!? 退院でいるんですか良っちゃん」
「私たち病棟スタッフは、井上さんのひた向きな姿と、献身的に支える陽子さんの、睦まじいおふたりの姿に支えられ、励まされました。本当にありがとう。本当におめでとうございます」
 妙子の笑顔から、大粒の涙がこぼれた。 
「良かった、良かったね」
 妙子に誘われるように陽子が泣き出す。
「五か月もの間、辛い治療やリハビリに耐えて、よく頑張りましたね」
「良っちゃんの努力が、実を結んだんだよ」
 二人ともありがとう。でも僕は、努力などしていませんし、頑張ったこともありません。
 ―――リハビリを始めましょう。医師の言葉は光りだった。
 自分の中にわずかに残っていた希望の火種を消すまいと、僕は意気軒昂(けんこう)リハビリに臨んだ。だが理学療法も作業療法も思い描いていたものとは違っていた。不自由な手を酷使し、どこに在るのかも知らない風景パズルをやらされ、せっかく完成させた積木の家は目の前で壊される。カジュアルな青年の洋服に好きな色を塗りましょう・・・「なかなか良いセンスしてますね」 そう言われたのは今や昔。作業療法士は眉間に皺を寄せて 「何か、あったのですか」
 まだまだある。正中神経をやられスプーンを持つのも覚束ない手を使って箸を握らされての昼食は、虐待か拷問或いは刑罰。やっとの思いで口に運んだ食事は、味もしなければ腹も満たさない。37円の手巻き寿司一本の方が遙かに食事だった。
 僕にとってリハビリは、精神を衰弱させ医療費の点数を稼ぐ為のものとしか思えない、それはそれは辛い、思い出したくもない思い出でしか、
「井上、さん?」
 嬉しそうじゃないみたい。
「いつまで居られるのでしょうか。居てもいいのでしょうか。病院に」
「良っちゃん・・・」
 素直に喜べない気持ち分かるよ。でも、
「当院は井上さんの環境が整わない中で、退院を迫ったりはしません。何もご心配なさらずに、ゆっくり今後のことを考えればいいのです」 無責任なことはしません。妙子の気持ちが伝わる。
「そうよ。一緒に考えよ、こらからのこと。わいわい楽しみながら考えればいいのよ。ねっ」
「陽子さんの言う通りです。陽子さんに比べれば、して差し上げられる事は微々たるものですが、わたしたちも出来る限りのお手伝いはさせて頂きますので」
 良雄が深く頭を下げると、陽子は良雄以上に深々と頭を下げた。
「急な話で混乱させてしまいましたね。申し訳ありません」
「はい。いや。いいえ」
「落ち着くまで、お二人でお話なさってみてください。しばらく席を外しますので」
<ファイトよ>
 妙子は扉の前で小さくエールを送って、部屋を後にした。



     告白



 密室。
 緊張するなあ、さすがに。
 初めてだもん。こんなシチュエーション。私から、話しかける? んん、女らしくないかも。って、ちょっと待って。話し始めるのはいつも私から。良っちゃんから話し出したことなんてあった? ないかも。ないよ。という事は私、女らしく振舞ってこなかったって事になるじゃない。
 仕方ないか。寡黙だから。良っちゃん。でもいくら元牧師先生の良っちゃんだって意識はしてるはず。女として。私を。だって春夫でさえなんだか、もじもじ? もぞもぞ? って感じの時あるもん生意気に。
 どうするの、私。女らしくしおらしく、口をつぐんで待ってる?
 ―――今更しおらしいも女らしいもねえだろ姉ちゃん。
「うるさ、」
「どうか、しましたか」
「あ、いえ」
「うるさいとか」
「言わない。閏年の、申年だったかしら、今年は。なんて考えてたの」
「そうでしたか。ええそうですが、それが何か」
「ううん。何でもないの」 遮断。
 はあ、助かった。何とか切り抜けられた。って、話し掛けたのまた私。
 はあ。このままじゃ時間だけが過ぎてお弁当は冷たくなっちゃって、面会時間は終わっちゃって外は真っ暗。私は重たい荷物を背負って、重たい足取りで、冷たい風に吹かれて、手足にしもやけたくさん作って、凍てつく冬の暗い道を、ひとり寂しく帰ることになっちゃう。とぼとぼと。
 いや。そんなのヤダ。
 ―――ご、っくん。
 あ。唾のみ込んだ。やっぱり緊張してるのね。
 ―――ぐぉ、っくん。
 あらまた。良っちゃんの、どきどき感じる。

 世の酸いも甘いも知らない、純真無垢な陽子ちゃんがそばに居てくれる。それなのに僕は、陽子ちゃんを女性として、いや女として意識してしまう。
 ―――すべて色情をいだいて女を見るものは、既に心のうち、姦淫したるなり―――
 外界生活では色情などという言葉さえ消え失せ、女も男もなく、インドア生活者 or 外界生活者&ホームレスの境界があるだけだった。
 だが入院してから、僕は変わった。変えられてしまったと言った方が正しいかもしれない。いや、正しい。心とからだの隅っこに隠れていた色情、或いは色欲、または情欲、と言った方が正しいだろうか。とにかくそれらの感情が発芽し、成長が止まらなくなってしまったのだ。
 からだにフィットしすぎる白衣姿に興奮し、担当看護師が男のときには舌打ちをした。チィッ。
 知らず知らずのうちに白衣に透ける下着を見るのが趣味となり、サイズやデザイン、色の違いを楽しみ、老若をいとわず、体が反応するようになっていた。検温や処置の時には、複雑に骨折した右腕が女体に伸びようとするのを必死に制し、カテーテルから尿瓶での排尿に移行した時にはもう・・・・・・。
 もうすぐ辛く長い入院生活が終わろうとしている。陽子ちゃんはこんな僕を支えると言ってくれるが、僕は素直には、いや、端的に言って喜べない。もちろん趣味を奪われるからではない。ふたたび外界で生きてゆく、自信がないからだ。
「良っちゃん」
 陽子が小さく呼びかける。
「こっち向いて」
 陽子は椅子ごと良雄に向き直る。健康的な黒髪から漂う心地よい仄かな芳香が、体に悪い。
「あ、いや。はい」
「良っちゃん、私ね・・・」
 どうしたの。はっきり伝えるんでしょ、今度こそ。
「私、お弁当とチョコ作ってきたの。ほらバレンタインだから」
 まっすぐにストーレート勝負じゃなかったの、私。
「今日は、2月、14日でしたか。そうでしたか」
「そうよ。キリスト教にとってはどんな日なのか分からないけど、女の子にとっては、特別な日。聖日なの」
「性日!」
「そう聖日。うふふ」
 寄木細工のような模様の巾着袋と、濃緑色の包装に赤いリボンで飾ったチョコレートの小箱を机の上に置いて、
「どっちからにする?」
  陽子は嬉しそうにからだを寄せて訊く。膝が触れ合うかというほどの距離だ。
「ゴッ、クン」
「ふふ。お腹空いてるのね。ちゃんとお母さんに味見して貰ったから、味は保証つきよ」
 いや、お腹はそれほどでも。
 良雄は思い切りももをつね上げる。奮い立つ罪を抑えようと必死になって。
「感心よね最近の容器って。十年前とは大違い。まだ温ったかいだもん」
 ランチボックスに頬を寄せて陽子が言う。
「少しでも長く温かさを保つために、どれほどの人たちが頑張って働いてるんだろうね。時々私、そんなこと考えちゃうんだぁ。友だちからは、何かあったの? なんて言われるんだけど」
 姦淫するなかれ。色情色欲情欲を捨てよ。姦淫するな、
「おかしいと思う? 良っちゃん」
「あ、いや、いいえ」
「良っちゃん、何だかヘン。いつもと違う」
「あ、いや、違いません大事なことです、そう考えることは。えぇー、そうして開発や製造に関わる人々のことを考えてこそ、おぉー、人、物、心を大切にする精神が養われ、えぇー、互いを思いやる心が育まれていくのではないでしょうか」
 ふうぅ。良雄は窮地を脱した思いだ。
「さすがは牧師先生。言うことが違うなあ」
  言いながら陽子は、タッパーウエアやスプーンを良雄の取りやすい位置に並べていく。良雄は、病院に通い始めた頃と違う陽子を見ている気になった。
 ―――よき妻。頼られる母親になれるよ。陽子ちゃんなら。
 愛する男と結ばれて、やがて子供を宿し、大きなお腹をかばいながら家事をこなす。生まれた子どもは陽子ちゃんにそっくりな女の子。子育ての悩みなど陽子ちゃんにとって喜びのひとつにすぎず、すくすく育った子供は雲ひとつない青空の下入園式を迎える。人並みの波瀾を味わいながらも、大きな病いを患うこともなく年月は流れ、気がつけば下の子も高校卒業。あっと言う間と思いながらも、子育てから解放された安堵から、
 ふうぅ。鏡台の前で二十数年分のため息がついて出る。
 と。
 
   お母、さん? ―――母親そっくりな自分にハッとする。
   もう五十になるのね・・・私。
   そう。僕と同い年だ。
   あら居たの。
   ああ。君のことを見てたんだ。ずっと。
   いやよ、そんなに見たら。
   変わらないな、君は。
   ?・・・どうしちゃったの。何か欲しいの?
   そんなんじゃないよ。
   んもう。いい加減にしてぇ。
   出会った頃のままだね。君は。
   子どもたちに聞かれたどうするの。恥ずかしいわよ。
   いいじゃないか。聞かれたって。
   変わってないわね。あなたも。
   だとしたら君のせいさ。
   どうして、私?
   君が幸せを分けてくれるからだよ。
   まあ。私のほうこそ。あなたといっしょだから、幸せなのよ。
   もう何年かすれば、また二人だけの生活が始まるね。
   そう始まるの。新しい人生が。
   新しい、か。
   そう。また出会うのよ、私たち。
   じゃ、フラれる可能性も有るんだ。僕は。
   それはないわ。
   どうして。
   だって・・・永遠の愛。誓ったじゃない。
   ああ良かった。
   ふふふ。また、昔のように、呼んでくださる?
   陽子、ちゃん。かい?
   いや?
   嫌じゃないさ。陽子ちゃん。
   うふふ。私も呼んでいい? 昔のように。
   ああもちろん。
   でも少し、照れくさいわね。
   そうかい。無理をしなくてもいいよ。
   ううん。ちょっとだけ恥ずかしいだけだから。じゃあ、

「良っちゃん」
「なんだい」
 ! どうしちゃったの。『男』 って感じ。
「わわ、私ね、」
「始めよう」
 え?
「始めるんだ僕と」
「え、あ、」
「僕といっしょに新たな人生を歩もう」
 良っちゃん・・・。
「いいね」
「はい。ありがとう良っちゃん」



     存在



 湧き水が溢れる音が聞こえる。どこからだろう。
 初めて見る地上の世界で産声をあげた清んだ水は、やがて流れをつくりさまざまな命を潤すために生きる。
 囁くような流れの音に、小鳥たちのメロディが重なる。野の花が咲いたことを、告げ知らせるかのような、高く明るい嬉しそうな歌声だ。
 北西に目をやれば、山裾に広がる高木が遠くまでつづく風景がある。やさしい風が、景色の中にある命の香りを、男のもとに運ぶ。男は遙か海の中にまで伸びる稜線を思い描くと、笑みを浮かべて、心を閉ざした。

 決して姿を隠すことのな山。富士。
 青春を賭し愛した明美(めいび)な地に、良雄は風景のひとつになって眠っている。
「一献やりましょう。先輩」
 膝丈ほどの高さの抱えられそうな墓石に向かって、灰島茂は言う。
「変わってほしくありませんね。ここだけは」
 俺が話さなければ誰も口を開かないだろう。淋しいじゃないですか先輩。
 灰島は目の高さまで盃を掲げ、一気に飲み干す。
「夢を与える為に、生まれてきたんですね。先輩は」
 ほんとうにそう。先生は、与えられた使命をまっとうする為に生きた人。教壇に立ち熱く語る先生。神を賛美し歌う先生。和男さんと向かい合って談笑していた先生。
 典子は出会ったときからの良雄を、順番に思い出していた。
「半年ね。もう」
 典子が重い口を開く。灰島と同じように自分を鼓舞して。
「コーチは。学生時代、どんな人だったんですか」
 春夫は言い出しかねていた事をようやく訊く気になれた。
「憧れだった。俺だけじゃない。先輩を知る者は、誰もが自然と憧れていった」
 同意するように典子が頷くと、灰島は大きく曲がる海岸線の方角にからだを向け、酒を(あお)ってからつづけた。
「400mの期待の星だった。次々と大会記録を更新し、陸上界の至宝、100年に一人の逸材と謳われた俺たちの誇り。ヒーローだった。しなやかで美しく力強い走りは、今でも目に焼きついてる」
 スイマーに習え。馬のように走れ―――。まだまだですね。俺なんか。
「足が速いだけじゃない。人柄に魅了されたんだ。先輩も後輩も他校もなく誰をも思いやる、あたたかな人間性にな」
「俺もです。コーチだから、お願いしたんです。コーチを」
「この世に正しい人間などいない。そう言うが、俺はそうは思わん。正しい人間はいる。いるんだよ」
「コーチです」
 春夫は誇るように言い、
「正しいから、厳しかったのかもしれません」
「自分には厳しい人だった。だからお前を怒鳴りつける姿を見た時、俺は信じられなかった。目を疑ったよ」
「確かに厳しかったですけど、温かいんです。コーチは」
「お前を自分だと言い聞かせて、自分に(むち)打っておられたのだろう」
 陽子に寄り添う典子は、墓石を見つめながら、深く頷いた。
「お前は誰よりも幸せな選手なんだぞ。あの井上良雄からコーチを受けた唯一の男。唯一の、愛弟子なんだからな」
「俺の誇りです。コーチは」
「そのお前を引き継いだ俺は、重い責任を背負っているわけだ。誰よりも重たい責任をな」
 どうしてコーチは、陸上界から姿を消したのか。走らなくなったのか。春夫は尋ねなかった。良雄が望んでいるとは思わなかったからだ。
 
 良っちゃん――――――。
 リヴィングテーブルには毎日花を飾った。「贅沢はやめようね」 挨拶のように口にしていた二人の、唯一の贅沢だった。
 1DKの小さな部屋は、ふたりを温めるには十分だった。花弁の開きかけたつぼみを見ながら喜ぶ良っちゃん。頬づえをついて嬉しそうに微笑む良っちゃんの顔が、いつも花の向こうにあった。
「陽子と花を、同時に見ていられるなんて、僕は誰よりも幸せ者だよ」
「ああぁ、また先に言われちゃった。私が言おうと思ってたのにぃ」
 陽子はゆっくりと墓石に近づく。テーブルに飾っていた花を、良雄に見せたかった。
 お花。持ってきたよ。良っちゃんが大好きな、トルコキキョウとかすみ草。綺麗でしょう。ほら。
「気をつけてね」
 陽子のからだを支えるように典子は寄り添い、その後に春夫がつづく。
 三人の姿を見ていた灰島が、墓石に背を向け、空を仰ぐ。やっとふつうの幸せを手にできたと言うのに・・・。涙を見られたくなかった。
 良っちゃん――――――。
「ねえ良っちゃん」
 いつもの様に、クチャクチャさせてごはん食べてたね。
「なんだい」
「赤ちゃんできた」
 ! 「ほんとうに? ほんとう、かい」
「ホント。母子手帳もらった来たもん。ほら」
 取扱い説明書を読むように、じっと目を近づけて、読んでたね。私、幸せだったよ。
「本当だあ。僕たちのこどもが、できたんだね。本当にできたんだね」
「うん。私と良っちゃんの愛の結晶よ」
 良っちゃんったら、照れながら泣き出しそうな顔して、
「僕らの赤ちゃんが、この世に生まれるんだ。僕がお父さん。僕が父親なんだね」
「そうよ、たぶん」
「はぁーっ」
 時々見せる驚いた顔はぜんぶ私のせい。でも、面白かったよ。ごめんね。
 あっ。そう、ムンクだよ良っちゃん。驚いた時の良っちゃんの顔。ムンクの叫びよ。やっと思い出せた。
「じょ・う・だ・ん。本気にしないで」
 わなわな顔、可愛かった。怒らないでね。怒ったりしないもんね。怒るの嫌いだもんね、良っちゃん。
「男の子がいい? 女の子がいい?」
「どっちでも良い」
「健康なら?」
「健康でなくても、身体が不自由でも、ふつうの子だって見られなくても、僕は良いんだよ」
「そうね。神さまが私たちに託してくださった、命だもんね」
 満足そうに頷いてくれた良っちゃんの姿が、今の私を支えてるのよ。
「名前どうしよっか。私は良っちゃんにつけて欲しいんだけど」
「少し気が早くないかい」
「楽しいじゃない。ね、考えておいて」
「僕は、お母さんにお願いしたいな。陽子と、春夫、という名前が好きだから」
 ありがとう。良っちゃん。
「でも、お父さんがつけたのよ。私たちの名前」
「それなら尚更、お母さんにつけて欲しいな。和男さん、お父さんをいちばん理解なさっているお母さんに」
「分かった。頼んでみる」
「お願いしてみるだよ、陽子」
「はいはい。分かりました」
「はいは、一回。君が言ったんじゃないか」
「そんなこと言ったっけ」
「覚えていないのも無理はないけどね。あれだけ酩酊していれば」
 恥ずかしくて顔も上げられなかった。コンビニでのことって気づいた時は。
 でも楽しかったなあ。嬉しかった。傍にいて真剣に話を聞いてくれて。あの日が始まりだった気がする。ん? 違うな。私が生まれる前に、お父さんとお母さんが良っちゃんの教会に行き始めた時が始まり、んん? 違う。良っちゃんが生まれる前から・・・ ううん違う。地球に人が住むようになったその前から、良っちゃんと私は始まってたのよね。出会うことが決まってたのよね。
「私も外界生活、経験しよっかな」
「どうして。キャンプとは違うんだよ」
「分かってる。良っちゃんが経験したことを経験したいの」
「外界生活者は、好き好んで外界で暮らしてるわけじゃない。生きることに未練があるからしてるわけでもない。何もかもを捨てられる者が、何もかもを捨てられるものに出会おうと最後の望みを抱いて、しているんだ」
 初めてだった。あんなに厳しい目をする良っちゃん見るの。
 良っちゃんのパンパンに膨れたバッグには、着替えとタオルと筆記用具と、爪切り耳かき本ラジオ。それに、虫よけスプレーと聖書が入っているだけだった。
「物だけではないよ。友だちも、家族も、思い出も、何もかもすべてを、捨てられるかい?」
「何もかも・・・」
「迷惑がられ、非難されるのは当然で、十分わかってるし心から申し訳ないと思ってる。でも非難はされても、どうして哀れまれなければならないのだろうか。勝手だけど、僕はそう思っていた。僕だけかもしれないけどね」
 すくい・たいのボランティアをしてるとき、私は、外界で生きてる人たちに哀れむ目を向けていた。確かに喜ばれることもたくさん有った。でも、「神さまがほんとうに哀れんでいるのは、いま笑っていられる、僕たちなのかもしれないよ」―――。そう言いたかったのね。良っちゃんは。
 でもやっぱり私、暗いのは嫌いだから言ったの。覚えてる?
「夏は蚊の餌食だから、やっぱり無理かも」
「外で生きる者にとって蚊は大敵だからね」
「それはそうだけど、良っちゃんにとっては大敵中の大敵でしょ。殺せないから」
「殺せない?」
 眉間に皺を寄せて、いぶかしい目してたね。良っちゃん。
「だって牧師先生だから」
 お腹抱えて笑ってたね。お隣の部屋の人にもお向かいにも聞こえたよ。絶対に。
「だって蚊も神さまが創造したのよ。どうして殺せるの」
「痒いからだよ」
 笑いながら答えてくれた。
「罪悪感とかないの? 井上先生」
「ぷっ。元とは言え、牧師なんだから命は大切にすべき。君の考えは分かるよ。でも顔のそばでプ~ンって聞こえたら、パチン! やるよ。仕留められたらヤッタぁ! って思う。変わりないさ君と」
 安心したわ、あの時。夏になって蚊取り線香も炊けない、ホイホイも置けないんだって、思ってたから。
 もう・・・刺されることもないね。お外でも。
 膝を折って、花立に花を活けながら忍び泣く陽子の背中に、典子は手を置いた。そうよ、いっぱい思い出して差し上げるのよ。先生のことを。先生との思い出を。
「故郷の冬を思い出すんだ。この花を見ると」
 愁いをふくんだ目で話す良っちゃんに、私、声を掛けられなかった。ふる里での暮らしや、風景や家族のこと、思い浮かべていたのね。お外で暮らすことなんて考えてもいなかった、捨てようとしても消せなかった思い出を。
 どうしてこの花が、故郷の冬なんだろう。ずっと考えてたけど、今なら分かるわ。
 トルコキキョウの肌理の細かい白が雪。紫は、海と空。
 かすみ草の小さな花は、山裾で暮らす人たちの雪をかぶった家々。
 長い茎は、遠くまで広がる背の高い木々。
 そうでしょ良っちゃん。
 そうだよね、良っちゃん。
 答えて良っちゃん。ねえ答えて。答えてよ良っちゃん。ねえ・・・、
「良っちゃん!」
 山裾にのびる叫び声に鳥たちがいっせいに羽ばたき、陽子が典子の腕の中に崩れる。
「戻ってきて! 帰ってきてっ!]
「陽子っ」
 典子が泣き叫ぶ陽子を強く抱きしめる。
「お父さんなんだよっ、この子の父親なんだよ! ダメだよ居なくなっちゃったらっ、ダメだって!」
「姉ちゃん!」
 春夫が守るように二人を抱く。
 痛かったね。苦しかったね。寂しかったね。寂しかったよね・・・。陽子の意識が遠のいていく。
 かすみ草とトルコキキョウの花が、海風にそよいだ。



     家族



「おっぱいの、お時間ですよ~」
 リビングでようやく一息ついた陽子が言う。明伸(あきのぶ)の出産を機に、陽子はふたたび実家で暮らし始めた。
「見てればいいじゃない」
 春夫は見るでもなくつけていた、テレビを消して、ソファから立ち上がった。
「ん? あ、いや」
「明伸が食事するだけじゃない。なに意識してんのよ。いやらしい」
 そうかも知れないけど。意識するだろ、ふつう。
「取り乱しちゃって。バカみたい」
「バカって言うな」
「ごめん忘れてた。あんたには禁句だったもんね」
 良雄が逝って一年が経とうとしている。食欲も気力も萎え、別人のように塞ぎ込んでいた陽子だったが、明伸の成長と同じ速さで、明るさを取り戻していった。
「ほうら明伸。おっぱいよぉ」
 陽子はさりげなくブラウスのボタンをはずし、乳房をあらわにする。
 あ。
「見た。見たでしょ」
「み、見るわけないだろっ」
「別にいいけど。ジロジロじゃなければ」
「見てねえって。見たいとも思わねえよ」
「おじさんウソつきねえ。お母さんのおっぱい見たのに、見てないなんて言うのよぉ」
 貴様って奴は。
 あ、いや、すみません! でもコーチ、ほんのちょっとだけ。コンマ3秒くらいっすから。
 0、3秒がほんのちょこっとだって言うのかオイ。んじゃ9秒台なんか楽に出せるよな。スーパーイージーだよなっ。
 いやそれとこれとは。
「どうしたの。反応しちゃった? きれいなおっぱい見て。ふふふっ」
「バ、バカなこと、」
「陽子っ。あなた母親なのよ、馬鹿なこと言わないのっ。それにお願いだからもう少し女らしくて。いい?」
「はいはい」
「何だよそれ。返事は、ハイだろ。言われなかったかコーチに」
 言われた。返事は一回。君が言ったんじゃないか―――。やだあ。思い出しちゃったじゃない、コンビニ事変。でも、懐かしいなあ。
 良っちゃん。私、振り返られるようになったよ。楽しいだけの二人の思い出を。
 片親で明伸を育てる不安はあるけど、もう大丈夫そう。良っちゃんが願っている通りに生きるって、決めたから。
 いつも喜んでいるの、良っちゃんみたいに。みんなの太陽になる。そう願って生み育ててくれたお母さんやお父さんのためにも、私、不安さえ明るく照らす、太陽になるわ。

「どう。順調?
「何が」
「何がって、駆けっこに決まってるじゃない」
「駆けっことか言うなよ、遊びじゃないんだから」
 明伸が生まれて二か月が経つ。陽子と春夫に比べれば手間の掛からない子だと典子は言うが、夜泣きもすれば熱も出すのが赤ん坊の仕事。陽子にとって、明伸の睡眠と春夫の休日が重なるこのひと時は、貴重な時間であった。
「そうね。仕事だもんね」
「かもしれないけどさ。俺にとってはあれだよ。夢だよ」
「格好いいこと言うじゃない。アスリート? って感じ」 順調みたいね。よかった。
 悪い気はしなかった。陽子が世話する花のある風景が、そう思わせたのかもしれない。春夫はさり気なくリビングを見た。
「シゲちゃんはどう。元気にしてる?」
「誰それ」
 春夫はスパイクを手に取って、手入れを始めた。
「監督さんよぉ。灰島さん」
「しげちゃんとか言うなよ総監督だぞ。失礼だろ」
「いいじゃない、嫌がってなかったわよ。シゲちゃん」
 はぁー。
 多少落ち込んでるくらいの方が女らしかったけど。ま、いっか。暗い姉ちゃんなんて姉ちゃんじゃないし。
「体調はどうなの。怪我とかしてない?」
「?・・・ 何かあったのか。変だぞ」
「何もないわよ別に。姉として良っちゃんコーチの妻として、応援しないとなあって。ちょっとだけ思っただけ」
「無理することないって。俺はいいから、明伸のことだけ考えやれよ」
 食器を片づけ終えた典子がエプロンを外しながらやってくるのを、二人が見上げる。珍しく厳しい表情をし、普段より足音が高かった。
「春夫。陽子はね、随分あなたのことを気に掛けてるのよ。明伸を何時に寝かせて、何時におっぱいをあげれば夜泣きしないで、あなたの生活を乱さないで済むかとか。お布団を替えて、少しでもリラックスさせてあげた方が良いんじゃないかとか。明伸を連れて。明伸と二人で、アパートで暮らしたほうが、あなたの為になるんじゃないかとか。そんな事まで考えているの」 典子の目が潤んでいる。
 ほんとかよ。姉ちゃん。
「いいわよお母さん」
「これが家族。姉弟。だけど、先生もお父さんもきっとこう思ってるはず。支えるだけならそれでいいけれど、支え合うにはそれでいいのかって。分かるわね。あなたたちなら」
「分かる」 陽子が答えた。
 病床の和男の隣で疲れ果てている、典子と陽子の姿を、春夫は思い出した。
 そうだった。父さんが病気の時もこんな感じだった。思ってることや考えてることを伝え合わなかったから、みんな苦しかったんだ。支え合ってはいなかったから。
「分かったよ」 春夫が言った。
 典子はどこかで生きている筈の兄を思い浮かべる。小学生の兄が、妹の小さな手を握って歩いていた。夕陽がきれいな畦道だっった。

「いつもあんたのこと、気にしてたんだよ。良っちゃん」
「そうだろうな。コーチなら」
「気づかれないように練習観に行ったり、シゲちゃんに電話していろいろ話を聞いたり、アドバイスしたり。聞いてない?」
 初めて聞いた。練習に来てたのか。コーチは。
「そう言うこと話す人じゃないから。姉ちゃんも、一緒だったんだ」
「そりゃそうよ。でもデート気分なんて、ぜぇ~んぜん味わえなかった。まるで探偵ごっこ」
 暁化成興業陸上部からの再三にわたるコーチ要請を固辞した良雄だったが、春夫の動向には常に気を配っていた。
「良っちゃんがあんたの事ばっかりだから、自然と気に掛けるようになっちゃったわけよ。私も。良っちゃんのせい」
 そうだったのか。
「お母さんだって被害者のひとりよ。良っちゃん栄養士に、食生活の指導までされて。ねえ」
「スポーツ選手の食生活のことまでは、分からないだろうからって、考えてくださったんでしょうね」
「物は言いようね。こと細かく凄かったんだから。熱量、タンパク質、栄養成分はもちろん、産地や収穫日まで」
「先生のおかげでお料理が楽しくなったわ。感謝してるわよ。お母さんは」
 コーチからメシのことなんて、ひと言も言われたことないぞ。勉強したって言うのか。俺の為に。
「人が喜ぶのを見たり、成長する姿を見るのが、好きだったから。井上先生は」
「学生時代から、惜しみなくアドバイスする人だったらしい。コーチは」
「与えることが喜びなの。良っちゃんって生まれつき、そう言う人だから」
 隣室に寝かせていた明伸が泣き出した。向かおうとする陽子を典子が止めて立ち上がる。
「そこまでする人がさ、なんで引き受けなかったのかな。コーチ就任をさ」
 良雄に尋ねても言葉を濁すだけで、灰島には訊けずにいることだ。
「イヤだったのよ」
「それはそうだろうけど」
 典子が戻ってきて、陽子に明伸を託す。母の腕の中におさまり安心したのか、明伸はすぐに泣き止んだ。
「争いたくなかったのよ。勝つためには戦わなければいけないでしょ。そういうの嫌いだったから良っちゃん。だから走るのもやめたの。絶対にそう」 そうよね。良っちゃん。
「先生らしい」 陽子の言うことが、正しいと思った。
 そうだったんですねコーチ。だから決勝の舞台に立って自分と戦うことが目標。タイムも勝ち負けも関係ないんですね。

 

     道
 


「お母さん。これ」
 陽子が差し出す便箋を、典子は黙って開いた。

 ――――――真一(しんいち)くん。ふだん呼んでいる通りに、こう書かせて頂きます。
 君が初めて礼拝に訪れた日のことを、僕は今も鮮明に覚えています。四か月もの間、教会の門をくぐるのを躊躇されていた方を他に見たことがないからです。
 初めての礼拝はいかがでしたか。緊張しませんでしたか。慰められましたか。嬉しかったですか。僕は嬉しかった。四か月の祈りが、叶えられたのですから。
「知ってる方?」
「・・・・・・」
 復活祭までの一年間、君は一日も欠かすことなく、主日礼拝に足を運びましたね。僕はてっきり君が主の愛を求めて訪れていると思い込み、安心していました。
<苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださる―――。何も変わりませんでした。>
 擦り切れた聖書に挟まれた君の声。
 僕は突然の知らせに祈ることも忘れ、ただ取り乱し慌てふためくだけで、「何かの間違いに違いない」、「嘘であってくれ」。そう繰り返すいたことだけしか出来ませんでした。なぜ死ななければならなかったのですか。何が辛かったのですか。一年間、ずっと苦しいだけだったのですか。声さえ聞いたこともない僕に、君の気持ちなど理解できる筈もあません。もし君が、その口で語ってくれていたとしても、僕には、どうする事も出来なかったと思うのです。無力な僕には、何も出来なかったと。
「それで良っちゃん。牧師をやめたのね」
 先生。向井さん・・・。
 ―――空の空。すべては空―――
 まさに空。空っぽになった僕は聖書を捨て、肉体を虫食むような仕事ばかりを選んで働き、自分を痛めつけました。労働の対価を得、不自由のない暮らしをしていても虚しさはつのるばかりで、何かが違うと思ってはいても、それが何か探そうともしない年月が過ぎていきました。死んだように生きるくらいなら、一層のこと死んでしまおうと僕は幾度も考えました。
 でもそうしませんでした。君がいたからです。君が僕の心のなかに住んでいたからです。
 僕は、君が人生の幕を降ろそうと決めた場所で、君を近くに感じたいと思うようになりました。何もかもを捨てて君とともに空から始めれば、虚しさは晴れ、君の心の言葉が聞けると思ったのです。慰めてくれると思ったのです。
 そうして始めた外界での暮らしは、一日の流れも四季の変化も今までとまったく違い、楽しいことなど何もありません。でも嬉しいことは沢山ありました。草木の成長や、虫や動物たちとの出会い。移ろふ季節や、風や景色の変化。君と見上げた降りそそぐ星空。夜明け前に出かける僕を見送ってくれる君。戻ってくる僕を静かに迎えてくれる君。ひとりになり、君といっしょに歩む道を選んだからこそ、僕は自然のひとつに数えられ、喜びを知ることが出来たのです。
「それで体育館に・・・」
「先生がご自分を責める気持ちは分かる。でも向井さんを支えられなかったのは、私たちも同じ。先生のせいではないわ」
「知ってたのね。お母さんもお父さんも。この方を」
「私たちと同年代の方で、静かに輝いている方だねって、気に掛けていたわ。和男さん」
 姿を見せなくなって、寂しくありませんでしたか。知っての通り、あれから色々なことがありました。
 自死することさえ出来ない身体になった僕は、否も応もなく、生かされたのです。<報いとして安息与えてくださる> 意思に反して、安息を味わっていたわけです
 僕は結婚し、来春には父親となって更なる至福に浸ろうとしています。この上ない恵みと祝福が与えられるのです。君を救えもしなかったと言うのに。
「良っちゃん・・・。ずっと、ずっと重い十字架を背負って生きてきたのね。私と会ってからも」
 僕はむさぼるように聖書を開き、祈りました。そして、ある聖句が目に留まり、岩のように僕の心を打ちました。
 ―――人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません―――
 まさに君は、真実の愛を僕らに伝えるために自ら命を絶ったことを、二十数年経った今ようやく僕は気づいたのです。君の死によって僕は生かされ、君の死が僕を生かし、僕を生まれ変わらせたのです。
 ですからもう一度、初めから始めてみます。毎日君を思い感謝の祈りを捧げます。日々生まれ変わって新しい人を着て、慎み深く、自然のひとつに数えられた誇りを胸に歩もうと思います。――――――

「クリスマスの日に、告白しようと思っていらしたのね。先生」
「自分が幸せになるのが罪だと思ってたのね。良っちゃんは苦しんでいる人を真ん中に置くことでしか、考えられない人だから」
「向井さんの愛が先生を生かして。あなたの愛が先生を変えたのよ」
 晴れ晴れとした顔で、典子は言った。
「そっか。変えられちゃったんだ、良っちゃん。私の強引な愛で」
 一年半に満たない二人の結婚生活は、何かに包まれている様な暮らしだったと、陽子は思う。
 ほんとうの幸せの中を生きたのね、私たち。良っちゃんのおかげよ。
「私、すごい人と結婚しちゃったみたい」
「すごい方に教え育てられたのよ。みんな」
「シゲちゃんも同じこと言ってた」
「そのすごい方の子どもを育てていくのよぉ。陽子は」
「良っちゃんの顔に泥塗れないもんね。責任重大」
「大丈夫よ。その気持ちさえ忘れなければ。お母さんだって、誰よりも尊敬する方の子どもを、育てたんだから」
 ぼーん・・・・・・・・・。
 柱時計が低く鳴った。照れくさそうなお父さんの声が。
「お母さん。私、行ってみる。いつまでも逃げていたくないから。目を瞑ったまま生きるの嫌だから」
 最期まで良雄が命を刻んだ場所に立つ決意をした。



「階段だから、気をつけて」
「うん。すぐ?」
「カーブの先。ちょっと行ったとこ」 懐中電灯を照らして春夫が言う。小さな 『非常口』 の明かりだけが灯る体育館の周回路。  
 タクシーで10分と掛からない場所は夜闇が深く自然が強い。壁を隔てた草むらの虫の音は、秋を知らせているのか、三人を歓迎しているかのように優しい。
 あ。カーブを曲がった春夫が立ち止まる。
「誰だっ」
 しわがれた低い声と同時に、矢の様な白い光が春夫の顔をとらえる。
「あ、いや、怪しい者では」
 春夫が目を細めて言う。
「君か。申し訳ない、職業病かな」
「ああ。おじい、おじさんでしたか。巡回ですか」
 男が誰かを認めた春夫が、懐かしさも手伝って駆け寄ると、典子は明伸を抱いている陽子を支える力を緩めて、春夫の後に続いた。
「今日はプライベート。一年、ですからね」
 男は言うと、壁に立て掛けた花束を見た。
「もしかして、おじさんだったんですか。花、置いてくれてたの」
 目線の先のひまわりと色とりどりのガーベラの花が、通りの街頭の微かなひかりで浮かんでいるように見える。
「恩人ですからね、井上さんは。月に一度。お礼にね」
 良雄と言葉を交わすようになったことで、男は体育館を巡回するのを心待ちにするようになったと言う。疲れがピークの深夜。どれだけ良雄に励まされ癒されたかを、男は話した。
「コーチはそういう人です。放っておけないんですね」
「井上さんのことを思い出すだけで、気持ちが穏やかになる。不思議な人です」
 典子が大きく頷き、陽子は明伸に聞かせてやりたいと思った。
「すっかり有名人だね、君は。井上さんも喜んでいるだろうし、わたしも花が高い。顔見知りの一人として」
「おじさんは顔見知りじゃなくて恩人ですよ。うちの家族にとって」
 瀕死の状態の良雄を救うために、いかに速やかで冷静な行動を男がとったかを、春夫は典子と陽子に話した。
「ほんとうにその節は、主人がお世話になりまして」 陽子は明るく言った。
「言ってみたかったんです。このセリフ。うふふ」
「まあ陽子ったら」
 典子が呆れて言うと、暗い周回路に笑いが反響した。
「似合わないですよね。俳優のオーディションだったら即落選」
「何ですって」
「陽子っ」 もう少し大人らしく。典子は言葉を飲み込む。こんな事を言う気持ちになれたのも、あなたが明るさを取り戻した証し。だものね。
「分かる気がします。井上さんが、陽子さんを選ばれた理由が」
 男の目に、明るく笑う二人の姿が浮かんだ。
「強引に迫ったんですよ姉ちゃんが。コーチが惚れるわけないじゃないですか、こんなのに」
「何よこんなのって。こんなのにプロポーズしたのは良っちゃんの方よ」
「ウソばっか」
「嘘じゃないわよ」
「だとしたら、貰い手がなくてかわいそうだと思ったんだよ。元牧師の哀れみでさ」
「何ですって!」
「いい加減にしなさい。何をしに来たの、あなたたちは」
 キャッ、キャッ、ダァア。
 明伸が手をパタつかせて笑い出し、場をいっそう和ませる。
「どこか他の人と違うと思っていましたが。そうでしたか、牧師をしてたのか。どおりで」
 男が砕けた口調になると、典子は気になっていた事を訊く気になった。
「向井さんのことは・・・」
 向井真一が体育館で亡くなったことは、教会で執り行われた葬儀で聞いた記憶がある。体育館を巡回をしているのであれば、耳にしたことくらいは・・・
「ご存じでしたか、向井さんのことを。わたしが警備の仕事に就いてすぐの事でした」
 男はそこまで言うと典子の反応を待った。先をつづけて良いのか、確かめるためだ。
「やはりこの体育館で」
 安心したと言うように、男は頷いてから話し出す。
「もう二十年以上になりますが、はっきり覚えています。今でも。眠ってるとしか見えない穏やかなお顔でした。井上さんはそちら。向井さんが亡くなられていた場所で休んでいました。毎晩」
 男は、花束を置いた向かい側の、体育館のとば口に体を向けた。
 建物に入り込んだ一、二畳ほどのスペースは、がらんとしていて何もない。幾度も色を塗り替えたのがわかる重厚な鉄扉と、飾り気のないタイルを敷き詰めた床が、冷たい空間をつくり出しているかのようで、向井真一がドアノブで首を吊ったのが想像できた。
「向井さんのご命日を選んだかのように井上さんは、」
「ええっ」 春夫が声をあげた。コーチと初めて会ったのが一年前の今日。ここだった。
 良雄は向井真一の命日に、同じ場所で命を落とし、同じ日に春夫と出会ったことになる。
 そうだったの。それで 「ひとりで行きたい」 なんて言い出したのね。向井さんと、ゆっくり話したかったんだね。
 でも、寂しかったんだよ。私。
「あの日もわたしの身体のことなどを気づかって下さいました」
 制服を着ていない容姿と語り口が、男を老紳士に見せた。
「注意はしたのですが。深夜まで何をするでもなく、ベンチに座っている不審者がいるからと・・・。まさかそいつが井上さんを襲撃し逮捕された少年の兄貴だったとは」
 逆恨みだった。犯人は良雄がふたたび体育館に来るのを、待ち続けていたのだ。
「それでコーチは」
「分かりました。お疲れさまと言って、見送って下さいました。ここで暮らしていた頃と変わりない、優しい笑顔を浮かべて」
「クソっ。何してんだよポリ公はよ!」
 春夫が思い切り地面を踏み鳴らす。
「必ず捕まります」
 男が毅然と言う。
「でも一年っすよもう」
「逃げれば逃げるだけ苦しみ、行き場は限られ追い詰められるだけだ」
「笑いながら暮らしてますよどうせ」
「それは違う。一人で奇襲の機会を窺うような変質者にそんな割り切った考え方は出来ない。怯えながら逃げ惑った末に捕まるか、苦しみ喘ぎ耐えきれなくなって自首するか。どちらかだ。一年も逃げまわってる奴に死ぬ勇気などない。生きている限り必ず捕まる」
「そんなこと、分からないじゃないですかっ」
「必ず、逮捕される」
 男の目が鋭い。
「なんで言い切れるんすか」
「経験です。元、ポリ公の」
 えっ!?
 ・・・・・・・・・。
「ぷっ。格好よかったんだけどなあ、ハルくん。何やってんだポリ公は、バーン! までは。ねえ、明伸。ハルおじちゃんカッコ良かったのにね、残念ねえ」
 バア、イエ、バッ、タァア。キャッ。
「す、すみません」
「いやいや。もうポリ公でもお巡りでも税金ドロボーでも有りませんから謝ることは有りません。未だ犯人逮捕に至らない警察が悪い。わたしも同じ思いです」
「いくら犯人を憎んだって何がどうなるわけじゃないんだよ、かえって悪い方に働くだけ。自分を大事にしなきゃ」
「ああ」
 姉ちゃん、強いな。偉いよ。
「先生との思い出や教わったこと、大切にしないきゃ。せっかく出会ったんだからさ」
 典子も明るく言った。
「期待してますよ。9秒台」
 男は言って手を差し出す。
「メダル持ってきます。ここに」
 厚い手は温かかった。



     団欒



   ♪ あきのぶくんは、いい子ね。やさしい子
   ♪ あきちゃんは、ほっぺの真っ赤な、とっても明るい子ぉ~

 黒猫が二匹、庭先でからだを舐めている。親猫が始めたのを子猫が真似したのか、それとも教えたのだろうか。
 のんびりした親猫と、子猫の忙しそうな様子がお母さんと私みたい―――。そんな事を考えながら、明伸を抱いて子守歌を歌う典子を陽子は見ていた。
「私が赤ちゃんの時も、そうやって歌ってくれたの?」
 テーブルを拭き始めた陽子がリビングの典子に訊く。
「陽子のとき? 陽子のときは、
   ♪ ようこちゃんは、いい子ね。やさしい子
   ♪ よっこちゃんは、ピッカリぽっぽの、とっても明るい子ぉ~。 だったわね」
「ピッカリぽっぽ。太陽ね」
「そう。太陽」
 明伸は陽子に似た黒勝ちの目を典子に向けて笑っている。つやつやと桃色に潤う唇が、成長につれてどんな言葉を語るのかが楽しみだ。
「春夫のときはどんなだったの?」
「覚えてない?」
「んん、聞けば思い出すかも」
「春夫のときは、
   ♪ はるおくんは、いい子ね。やさしい子
   ♪ はるちゃんは、にっこり素直な、とっても明るい子ぉ~。 思い出した?」
「そうそう、ニッコリ素直だぁ。嬉しそうに笑ってたねえ、春夫。ハルくん」
「ケタケタ笑ってバア。手を開くの。ほら、おサルさんのおもちゃ有ったの覚えてる? シンバル持ったの。きっとあれの影響よ
 ・・・はるおくんは、いい子ね。やさしい子、
 やさしく歌うお母さんの隣で、小さな春夫の手を指で撫でるお父さんがいたのだ。確かに。
「お母さんたちが願った通りに育ったね。春夫」
「あなたもね」
 答えようがない。嬉しくて。
「最近感じるのひしひしと。親としての、責任みたいなのを」
「成長してるってことよ。明伸といっしょに」
「でも不安ばっかり。やっぱり」
「お父さん、言ってくれたの。先に生まれた者としての責任を負えばいい。今までどおりにねって。あなたにも同じこと言うと思う」
 お母さんも同じだったのね。私と。
「何よりも人として。だったもんね、お父さん」
「井上先生もそう」
「そう良っちゃんも。もうひとりのお父さん」
「まあお父さんだなんて」
「でも良っちゃんって、『夫』 だけじゃない存在なんだもん。なんて言うんだろ。完璧とは違うけど、持ってないものをぜんぶ持ってる人だと思うんだぁ。やっぱり 『お父さん』 が、いちばん近いのかなって思う」
 尊敬できる方のそばにいられる幸せを、味わっていたのよ。あなたもお母さんも。
「でも、もうちょっとなあ」
「あら。不満があったの? 先生に」
「うん。良っちゃん、冗談通じないんだもん」
「それはあなたの方に問題があるんじゃない」 陽子が下を出す。
<僕がお父さんなんだね―――そうよ多分> ちょっときつかったかな。うふふ。
 大丈夫ですよ先生。もう陽子は、しっかり歩み始めましたから。
「ねえお母さん。もしかしたら良っちゃん。また牧師を始めようとしてたのかも」
 典子は何も言わずに明伸をあやしている。
「コーチの話し断ったのは、争ったり戦ったりしたくないから。だとしたら、神さまと人のために、もう一度牧師として生きようと思ってたはず。絶対そうだよ・・・。って言うことは良っちゃん。教会に行くのやめてからもずっと、二十年以上ずうーっと、また教壇に立ちたいと思ってたんじゃない? そうだよきっと」
「クリスマスの信仰告白で 『もう一度初めから、始めます。』 そう告白しようと、していらしたわね。でもお母さんは、牧師として歩む気持ちが芽生えたのは、あなたに会ったからだと思う。あなたが居たから決意したんだと思うわ」
 庭先の親猫が両腕を折り曲げて目を閉じている。神妙な目にも、笑っているようにも見える。子猫の方は色濃い芝の上でコロコロ寝転がって燥いでいる。この世には楽しい事だけしかない。そう思っているのかもしれないと陽子は思った。
「みんなが居たから、決心したんだと思うの。お母さんや春夫や警備のおじいさんや、お父さんや向井さん。みんなが居たから。私なんか、みんなに支えられてどうにか生きてるだけだもん。そんな力ないわ」
「そんな風に考える陽子が傍に居たから、先生は始める気になったのよ」
 明伸をあずけようと典子は陽子の傍に行く。柔らかな白い腕をいっぱいに伸ばす姿が愛おしい。「重たくなったわね」
「そうなの。命って重たいのね」
 バア、イエ、バァ、タッ。キャッ!
「ん? なあに。何て言ってるの?」
「嬉しいのよ。お母さんに抱いてもらって」
 バァー、エェ、ダァ、キャッ。アハッ、ダァ~、バブゥ~。
「何て言ってるんだろ、赤ちゃん語って難解。バァーバかな。お母さんが教えたの? ばあばって呼ぶように」
「教えないわよ。嫌だもん老婆みたいじゃない。あなたじゃなかったの」
「私じゃないよぉ。良っちゃんってうるさ型だったでしょ。言葉遣いとか」
 典子はやんわりと陽子を睨む。それにしては・・・。
「春夫かなあ」
「あの子はあれで、結構気を使う方よ。お母さんに断りなしで教えたりしないと思うわ。しばらくすれば、分かるわよ」
 バア、イエ、タア、キャッ。
「あれえ?」
「もしかしたら」
「バア、エ、タッ、タッ!」
「あぁーっ」
 二人同時に声を上げる。
「やっぱ春夫だあ。帰ってきたらタダじゃおかないんだから、あいつ」
 うふふふ。
「? どうしたの」
「ふふふふふふ」 典子が下を向いて笑い出した。
「何、どうしちゃったの?」
「ごめんね。だって同じこと教えたから。陽子に」
「えぇっ、本当に?」
「ほんと。お父さんと。ふたりで」
「何も言えないじゃない、春夫に」
 言ってから、明伸の前掛けが目に入った。風船の様なからだいっぱいで笑う、Oぅ次郎の愛らしい表情が明伸にそっくりだ。
 私が眠っている合間に、笑みを浮かべながら作ってくれたんだわ。疲れてるのに。
「なら、伝承しちゃおっか。脇田家と井上家の伝統にするの。子育ての」
「伝統?」
「うん。ずっとずーっと、受け継がれるのよ」
「誰も彼もが忘れてもうちの家系には残る、合言葉ね」
「そう。私たちの名前さえ知らない未来の子どもたちが、明伸と同じようにニッコリ笑うの。お母さんとお父さんの思い出がずっと、何百年も生き続けるの」
 陽子は明伸を抱え直して正面を向かせる。隣り合って並ぶ二人の顔を、代わる代わる見ている明伸が嬉しそうだ。
「お母さん」
「うん」 ふたりは顔を見合わせ声を合わせて、
「いち、にぃのぉ、さん!」
「バケラッタァ」
 !? 
「バァ、イェ、タァータッ!」
 わあ。
「喜んでる」
「ハルくんそっくり」
「こんな明伸を見るのが楽しみなのね。春夫は」
 幸せそうに言う典子の髪に、白髪が覗いている。ごめんなさいお母さん。心配ばかり掛けて。
「嬉しいわねえ、明ちゃん。良かったねえ」 ん? どうしたの。
「笑ったら涙が出てきちゃった。不思議ねえ、バケラッタって」
「言われたら、放っておけなくなるの」
「愛の言葉なのね。お父さんも良っちゃんも喜んでるわ。こんな私たちを見て」
 しっかりと典子が頷く。
「いつも心に、バケラッタ」
「なあに、それ」
「よく言われたなあ、お父、和男さんに。短気だったから。お母さん」
「お母さんが短気? ウソだあ」
「ほんと。変えてくれたのよ。和男さんが」
 信じられないけど、ほんとうみたい。
「変われるかな、私も。良っちゃんがいなくても」
「変われるし、変わった。ほんわかした。お日さまになったわよ」
 だとしたら良っちゃんやお母さん、みんなが変えてくれたんだよ。私のことを。
「あとは言葉づかいを気をつけてくれたらお母さんは何も、」
「はいはい分かってます。女らしさとね」
「返事は、」
「はい。一回でしたわね」
 二人が声をあげて笑う。
 ぼーん・・・・・・・・・。
 和男のにも良雄のにも似た柱時計、ホールクロックの音が、家の隅々にまで響く。
「どんなに忙しくしていても、つい動くのを止めて、耳を澄ましてしまうだろ」
 典子と陽子は、低くあたたかな音を楽しんだ。和男と良雄を思い浮かべながら。
「見に行こっか。おっきな時計」
「好きなの? 明ちゃんも」
「あの音が鳴ると思い出したように、振り子が見たくなるの」
「そうなのぉ。明ちゃんは、おじいちゃんの時計が好きなのねえ。いい子ね、明ちゃんは」
 ダア、ダアァ、キャッ。
「そうなのよね。明伸にとっては、おじいさんの時計 <グランドファーザークロック> なのよね。お父さんの時計」
 早く、齢をとらせちゃったのね。私が。その分明伸のこと、立派に育てて、お母さん孝行するから。約束するから。安心して、お父さん。
 ―――ただいまあ。
「ほうら。春夫おじちゃんが帰ってきましたよ」
「何だかお父さんに似てきたと思わない? 春夫の声。時どきハッとする」
「似てきた。お母さんは陽子と間違えられるわよ。しょっちゅう」
 典子が立ち上がって玄関に向かうと、陽子は嬉しくなって後を追いかける。
 陽子に抱かれた明伸は、廊下の先を指さしてはしゃぐ。玄関の柱時計が、家族ひとりひとりを見守っている。
「お。出迎えか? それともブランコか」
 文字盤の下の硝子に指をあてて春夫は言った。
「あら知ってたの。振り子が好きなこと」
「そりゃあ知ってるよ。な、明伸」
「知らないのはお母さんだけ?」
「母さんはいちばん忙しいんだから仕方ないよ。なあ姉ちゃん」
「うん。仕方がないわ」
 何だか不思議。意見が一致することなんて滅多になかったのに。最近違うのよね、私たち。
 春夫が大きく見えた。頼れる人。そんな言葉が浮かぶ。
「♪ ぶーらん、ぶ~らん、ぶーらん子。♪ ぶんぶんぶん、明ちゃんぶんぶん」
 明伸の顔の横で、振り子のリズムに合わせて典子が歌うと、気持ちが温かくなった。
 お父さんとお母さんの子に生まれて、本当に良かったわ。良っちゃんと出会えて、いっしょに生きられて、本当に嬉しいよ。
 でも私、みんなが望むような大人にはなれないと思うの。それでも私は太陽の子。お日さまの子。お父さんとお母さんの子。良っちゃんの妻。だから明るく生きてくね。明るい私でいるね。
 典子の歌に合わせて陽子が歌い出す。「♪ ぶーらん、ぶ~らん、ぶーらん子、」
 ありがとう。お母さん。
   ♪ ぶーらん、ぶ~らん、ぶーらん子。♪ ぶんぶんぶん、明ちゃんぶんぶん。
 あっ良っちゃん!
 ほんとうに上手ねえ、良っちゃんの歌って。ほら見て、明伸もこんなに喜んでるわ。 
   ♪ ぶーらん、ぶ~らん、ぶーらん子。
 あっ、懐かしい匂い。お父さんね。
 お父さん。私も押して、昔みたいに。大きな手でやさしく。
「♪ ぶーらん、ぶ~らん、ぶーらん子。♪ ぶんぶんぶん、明ちゃんぶんぶん」
 明伸。あなたのお父さんとおじいちゃんよ。嬉しいね。良かったね。
「どうかした? 陽子」
「ううん。何でもないの。お母さんの子守歌、あったかいなぁって」
「♪ ぶーらん、ぶ~らん、ぶーらん子、」 みんなが揺れてる。涙の向こうで。
 笑顔で。

                                              了

揺れてゆられて、笑顔になって

揺れてゆられて、笑顔になって

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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