花冠

冥府に囚われて

序章

朱色を帯びた満月が天上に登った。
それを合図に松明の明かりを手にした彼等は、冥府の谷を目指した。
女達は断崖の上で足を止めた。
谷底は、月光の雫も吸い込んでしまう闇に覆われていたが、断崖を下る男達に恐怖の心は無かった。彼等は松明を握り命綱を片手に険しい断崖を巧みに降りた。その中に一人の若い男の身体が命綱に括られ降ろされた。綱に括られた松明が衰弱した男の身を照らす。
女達の悲しみに包まれた瞳も、谷底に一人立つ女も天上の月に祈りの言葉を唱えながら見詰めていた。そして谷底で待ち構えた男達の腕に抱かれると、合図の口笛が断崖の谷に響いた。
異丈夫な男達が無言に担ぎあげたその身体は、種族を継いだばかりの若い長だ。松明をかざし長の無事を確かめたのは、種族の巫女の側に侍る若い使い女、名はマーファ。そして、若き長の名はセルジオ。二人を囲む彼等はヒグル大地の聖山リオーネを守る種族、山岳民族ラグ族の強者達であった。
峻険リオーネの麓で暮らすラグ族は、聖なる山に住む神々の教えを守る種族だ。
松明の明かりを頼りに砂礫を踏みしめ葬礼の様な列を成す彼等は、冥府と現世を隔てる岩戸の前に立った。
力任せに冥府の入り口を開ける彼等の心は一つだった。その心は固く閉ざされた封印の岩戸を開けた。
岩戸はゆるやかに滑った。すると墳墓を守る熱い風が闇を照らす松明の明かりを吹き消し、側近に抱かれた若き長の顔を激しく叩いた。
肌に斬りつける鋭い風で我を取り戻した若き長は、異様な熱気にむせ返る悪臭漂う洞窟の中へ飛び込んだ。彼は巫女の名を呼んだ。
「ギジー!」
ただひたすら、巫女の名を呼んだ。ギジと。
十日前の晴天の下、先代の長の葬礼が種族の墓へと向かった。次代の長を残し、男達の長い列が冥府の谷へと向かった。それは習わしだった。歴代の長は妻と供に冥府の扉を潜る――、先代の長の御魂に付き添うその妻は種族の巫女だ。
女達は涙で巫女の決意を止めた。誰もが巫女の身代わりを申し出た。だが巫女は、平然と言った。
我が術が身を守る、と強く言い切った。
確かにその通りだ。ラグ族の巫女は稀代の呪い師、新しい長の妻になるために冥府から戻られる――誰もが巫女の言葉を疑わなかった。
偉大なお方――ラグ族の巫女――長の妻になるためにリオーネ聖山が遣わされた呪い師だと、誰も疑うことなく葬礼の儀式は行われた。
だが巫女は帰っては来なかった。次代は現代の長になった。その若い長の横に座る巫女は居ない。それどころか巫女を失った若い長は狂気の中に身を沈めた。死すら求めた。
若い長が愛を別つは種族の巫女。少年の心が愛したのはリオーネの乙女。少年の心を失わない長は、弟に座を譲り死出を願った。
 取り返す―― 巫女を冥府の谷から取り返すと、種族の若者は中月の宵に決起した。彼等は冥府を開けた。死者の魂も持たず、冥府の扉を開けた。真っ先に飛び込んだのは愛を求める若き長だった。しかし彼が暗黒の闇で両腕に抱いたのは愛する巫女ではなかった。そして使い女マーファが石棺の間で掴んだのは、変わり果てた巫女の身体だった。
「冥府の扉を開け、最初に掴んだ者が所有人」
使い女は言葉を発した。しゃがれた太い声で叫んだ。
掴む心積もりはなかった。二人は、刹那に叫び声を上げた。冥府の魔手が抱いた悪夢を掴んだ—- と。

1, 地下牢

(1)
監視官吏のガダラはいつものように、王都の外れに建つ岩牢へと向かっていた。王都の町並みを過ぎると広い草原が真っ直ぐに続く先に黒い塊がぽつんと見える。それを目標に馬を飛ばす。
王都北の草原フォレット大地に季節には早い疾風が吹きわたっていた。馬車の手綱を握り風に晒された肌より身内が冷えていくのを、感じたガダラは嫌な風だと身を震わせた。
心を凍らせるような感触が身体に残る。今まで感じたことのない感覚を振り払うため官舎に駆け込むと、椅子に座り込んだ。そして、我が身を抱いた。
額を置いた椅子の背から香木が匂う。顔をあげた眼に光が差した。
いつも変わらない明るい日差しが机を照らしている。小さな書籍と吊り戸棚、それに今座る椅子と机は長年磨きぬかれた艶を放ちガダラの裡を鎮めさせた。すると、机にある封書に気づいた。
表書きのない封書の裏には国王の封印が貼り付けていた。これが不快な心地の原因かと封を開けた瞳に写った文字は一行だった。
『登城せよ』
その文字がガダラを唸らせた。呼び出しの意図に心当たりがなかった。現王は傲慢な王だと誰もが知る。それが小国だったジバラビ王国を他国の大国と肩を並べる領土と地位を築かせた。良い予感より悪い予感が胸を過る。町中に賑わう風聞は聞かない。城内にも不穏な動きはないはずと手にした封書を机においた時だ、激しく打扉する音が響いた。
「ガダラ様、大変です!牢に新しい囚人が居ます」
声とともに部屋に飛び込んで来たのは長年囚人牢の番人を務める兵士長オーディだ。
「新しい囚人?」
ガダラは少し考えた、この季節に囚人を増やす意味を。
「明日から始まる余興のために、また奴隷を買い込んだのか?」
そう問うガダラは、牢獄の官吏長だ。
そしてここは、王都の外れの草原に建つ廃墟を利用した獄舎だ。広い敷地を塔壁が二重に囲む幽閉牢獄だ。
牢獄の持ち主はジバラビ現王の長子アシンテ王子あるが、彼は管理には無関心だ。しかし、囚人には異常な執拗があった。
そのアシンテ王子の側近から、明日の夜より余興を行うと聞いていた。アシンテ王子の気まぐれは牢の囚人を思い道理に増やし そして、減らすことだ。
ガダラはまたアシンテの気まぐれで囚人が増えたと思ったが、オーディは違うと首を振った。
「いいえ、そんな命令書は届いていません。それどころか、若い娘が混じっています」
「若い‥娘?」
いつも冷静沈着なガダラだがはっきりと不快を眉に表し、彼より遥かに年上のオーディを見上げた。
オーディに上官であるガダラの怖ささはない。まるで友のように言葉を放った。
「それも、とびっきりの美人達です」
「達‥、というと大勢なのか?」
「はい、三十名あまりかと、娘はその中に十名はおります。十七・八の容姿の整った器量の良い娘達で‥」
オーディの綻んだ顔を見詰めるガダラの顔は真顔だ。その表情に気づいたオーディは口を閉ざした。
囚人達を幽閉する牢獄は地下ある。岩壁で囲まれた地下牢だ。天井を支える柱はあっても仕切りの壁もない広い空間に若い男達を閉じ込めた暗渠の場だ。そこへ異国の若い娘を連れてきた。人道から外れた行為だとガダラは固唾を飲んだ。
エールンの獄舎。ジバラビ国の民達は、フォレット草原に建つこの獄舎をそう呼んでいた。
聖域に建つ館を意味するエールン。ジバラビ国の民達はフォレットと呼ばずエーレンと呼ぶのかと、ガダラは獄守達に聞いたことがある。すると獄守達は、年寄り達がそう呼ぶからだと答える。それ以上のことを聞かなかった。年寄り達はガダラの知らない時代を見据え生き抜いてきた。その彼等の知恵が名付けしたのだと、胸裏は何故か静かに納得していた。
しかし今は違う、獄舎の地下牢は聖域などではない。処刑獄舎だ。
地下牢のその真上は、獄舎にしては広すぎる土間になっていた。円形の城壁と塔郭が二重に取り囲む土間は闘技場に使われていた。闘技場の出入口は北門と南門の二ヶ所があり、厚い鉄の扉で人の行き来を遮断していた。南門は一日一回だけ開くが、北門が開くのは特別な時だけと決まっていた。特別な日は明日だ。
明日のために異国の若い娘達を攫ってきたのかと、ガダラは内側の城壁に立ち闘技場を見渡した。地下牢の階段出入り口から続く張り出し床には日差しを浴びる若い男女の姿あった。
確かに遠目でも娘達の端麗さは見えていた。
「娘達だけでも近くの施設に移動させる」
掘削場や開拓の荒仕事で良い、人手を欲している地領へ移動させようとガダラは焦る。しかし、その考えをオーディは止めた。
「娘達を移せるとお思いですか? 無理です。一旦、獄舎に入った者を、王子の書面無しで動かせません。 荷馬車を動かせば、すぐに王子の耳に入ります。 王子の気性を…… ご存知でしょうに。 獄舎から囚人が逃げたとなれば、全軍隊を出動させ一人残らず惨殺です。 私も貴方様も、家族も」
家族—-、その言葉はガダラの肌をそばだてた。忘れていた朝の感触を思い出させた。
冷気がガダラを包む。冷え切った身体の奥が仕舞い込んだ記憶を捲る、残忍でなければ大国と同等ではいられないのだと—-。
ジバラビ国王ロドフェムは残忍極まりない冷酷な王だと近隣諸国まで名を轟かせていた。彼の所業の一つが王座奪取だ。和平を説き呪術で国を守ろうとした温厚な兄王を殺害し、自身が王座に付いたと知らない民はいない。その血を最もひいているのがアシンテ王子なのだ。 
残忍な次王に傅いて生きる。それを思うと温かな日差しの中に立っているとは思えないほどの寒気が彼を襲っていた。
それでも、遠くでドラの音を聞いた。囚人達に食を与える合図の音だ。その音は、ますますガダラの心を冷えさせた。
「八十人‥、アシンテ王子は見殺しにする者達に、食どころか衣一枚渡してはくれまい。明日は祭り、十人の命が消えていく。彼等の最後の食にせめて一塊の肉を添えてやりたいが…」
その言葉の意味を、オーディや彼の配下は知っている。
囚人に与える食料が、残り少ないのだ。
地下牢には五十人を越える若い囚人達が居る。囚人と言っても罪を犯した者達だけではない。貧しい村から買い取られた奴隷や、語族ではない遠い山岳地帯から武力で連れて来られた罪のない者達だ。彼等を救う術を教えてくれと願うガダラの足は自然と塔郭から南門へ下っていた。すると、
「我等ハ、家畜ではナい!」
 凛とした娘の声が闘技場の広い土間に響いた。ハッとしたガダラは甲高い声の方を振り返った。黒い髪を三つ編みに垂らした娘達が囚人達に食事を配る獄守二人の前に立っていた。先頭に立つ娘が再び声を放った。
「我等ハ皿ヲ使う! 匙ヲ使う!」
 ラザイト語だ。片言混じりではあるが、バンダント大陸西側の語族語を発していた。異国の娘がラザイト語を使う、ガダラは衝撃をうけた。
「そんなものはない!」
獄守の一人が娘に怒鳴った。
「嫌なら食うな」
もう一人も、そう叫んだ。
彼等は、粥を配っていた。
それは確かに粥である。トロリとした液体。それを囚われ人の両手の中に注いでいく。
娘達は、見ていた。囚われ人の仕草を、両の掌が受け止めた物を彼等は口を押し付けて飲んでいた。
焼けた肉片一枚と砕いた芋粥一掬いが囚われ人の一日の食事だ。これを拒否すれば明日の夕まで食にありつけない。いや、明日の食があるのかも分からなかった。
囚われた者達は否応無しでその待遇に甘んずるしかない。獄守の言葉に誰もが従ってきた。ガダラはその娘もそうすると思った。だが、娘はガダラが見守る前で腰を落とし優雅にお辞儀をすると踵を返した。そして、仲間の娘達と去って行ったのだ。
ガダラの悪寒で冷え切った深部が一瞬で波打った。熱い血潮が胸を爆発させた。
彼は衝撃を受けていた。
美しい娘だと思った。顔形だけではない、心も――。ガダラは胸の震えを、止めることが出来なかった。

(2)


「ご主人様、何故 そのようなご心配をなさるのですか?」
まだあどけない少女の声がガダラに聞いた。
「何故って……、八十人分の匙とお椀だよ。樫の木の硬いしっかりした物でなければならないし、厚い毛皮の敷物も欲しいのだよ。 馬鹿げた買い物で借財を頼んでいるのが分からないのか?」
「どうしてですか? ご主人様はお金持ちですわ」
湯船から上がったガダラの背に、長衣を着せかける少女の名はルナ。今年十四歳になったばかりの少女だ。
「金持ち? 私が、か? 」
ガダラは不可解な顔で、目の前で笑顔を見せる少女を見た。確かに田舎から王都へ出てくる時に父親が残した金が懐にあった。しかし、旅の途中ですべて使い果たしやっとこの屋敷に転がり込んだのだった。
旅の途中で出会った小さな女の子は、いつの間にか大きくなりガダラの髪を梳く少女になった。その少女はガダラの長い髪に、真新しい布を巻きつけながら言う。
「はい、そうです。ご主人様は官吏様ですもの」
ルアがガダラと初めて出会ったのは八年前の秋だった。
収穫祭の日にルナは、税のために市に立った。六歳の子供が、たくましい若者より信じられないほどの高値で買われた。
ルアは大金を手にした戸惑う母の顔より、自分に大金を出した主の姿に驚いた。短く狩った明るい栗色の髪をした平素な身なり若者だったからだ。
ルアを手招く荒れた手は田畑を耕すと物語る。身を飾る装飾品一つ無く、洗い晒した衣服を纏うその姿は彼女と同じ寒村の男だと語っていた。そんな男が大金を手に賑わう市に現れるのは、一生に一度だと幼い子供でも知っていた。
大人になったら、花嫁市に行く。
男は馬と金を持ち、花嫁市に花嫁を買いに行く。女は高値で売れるように花嫁衣装に巧みな刺繍を刺す。
ルアを買った主は痩せ馬を引いていた。やはり花嫁を買いに来たのだとその時、思った。市にはきれいな娘が沢山いた。その中に混じったルアは娘達とは格段の差があった。未来を夢見る娘達の横で奴隷に売られる幼い子どもは、明日を夢見てはならないと市の仲介商人にきつく言われた。
買われた主に逆らうなと、奴隷の心得を教えられた。
両手を付いて長い時間座らされ仕込まれた。
奴隷に希望はないと分かっていた。花嫁になるための娘達とは違うのだと、何度も自分に言い聞かせていた。だが、違わなかった。買われた花嫁と同じように馬に乗った。長い道中歩く事はなかった。同じ器で食を取った。同じ褥で眠ったが花嫁ではなかった。
「王都に行くのさ。王都に行ってまともな職に付いて、普通の暮らしをする」
 普通の暮らし—-と言うガダラは、ルアにとって不思議な人だった。大金をはたいて子供の奴隷を買い、野宿した。干し芋と乾飯で飢えをしのぎ、旅が終わればまともな食にありつけると一月かけてやっと、王都に着いた。
そして、主は言葉の通り 屋敷付きの官吏になった。官吏の中でも地位の高い中央官吏、祭り事に関わる官吏だった。
風変わりな主は、地位の高さを鼻に掛けることも無く使用人と同じ食卓に着いた。同じ食を食べた。生まれを口にしたことがなかったが、特別な才を持ち合わせていると気づいた。
特別な才、それは呪いだ。
人の未来を占い助言する呪い師の噂はすぐに広まり、人々は占って貰うために屋敷の前に集った。人のために惜しみなく力を注ぐ主の才は、確かな実入りがあったのだが彼はそれを知らなかった。
「官吏の割当金は、少ない事は知っているよ、ルナ。屋敷の者達が外に働きに行って賄い費を工面していることも知っている」
「私共が外で働いて得る金は、わずかです。ご主人様のそれとは大きな差です。それに、私共は奴隷です。ご主人様の奴隷です。ご主人様にお使えして、ご主人様のために働くのが私共の努めです。屋敷の者は皆、ご主人様を尊敬しています。ですから、貴方様に御用を言いつけられる事は頼りにされているのだと喜びと感じます」
真剣な眼差しが素直に発した実直な言葉に驚かされたガダラは、息を飲んだ。
日中にも同じような強い言葉を聞いていた。
男の言葉だ、それを脳裏は反芻した。
「貴方達が捕虜にした男女は、ラグ族だ。ラグ族はヒグル大地の聖山リオーネを守る尊い種族だ!」
ガダラの前で声を上げた男は、ジュマ族の若い長だ。名はルジカ。彼は地下牢の中で唯一、ラザイト語を理解し語ることが出来る男だった。
「ラグ族? 」
バンダント大地の地理に詳しいガダラでも、聞いたことない知らない種族だった。
「彼等は、聖なる種族だ。ヒグル大地に住む我々は、聖地を守る者に手を出したりはしない! ラグ族は未来を見通す巫女がいる。巫女はラグ族の長と共に、ヒグルの民を守りくださる」
甲高い声を上げたルジカは、更に言った。
「我等は、ヒグル民族だ」
バンダント大地の西側にはジバラビ王国を含む五つの王国が、お互いを監視しながら暮らしていた。その東側の山岳地帯ヒグルにも、無数の種族が暮らしていた。その種族の一つであるジュマ族は武装の軍隊に襲われ降伏した。生き残った若い男達はすべて捕虜となり地下牢にいた。
「ヒグル大地で最も、神に近い聖地を守る種族を貴方達は地下牢へ幽閉した」
神に近い聖地! その言葉が、ガダラの胸に突き刺さった。聖なる地はこの世界から消え去ったと、脳裏の奥の何かが囁いた。彼の心中は、人はもう聖地を見ることは出来ないとはっきりした答えを知っていた。だから、野蛮な種族ではないのか、とルジカに問うていた。
すると、きっぱりとした答えが返ってきた。
「野蛮? 何をもとに、野蛮と言われるのですか。見た目ですか? 振る舞いですか? あなた方のほうがよほど野蛮人ではないのですか?」
その言葉に、ガダラは喫驚した。いつもオドオドとした態度を見せ、顔を上げたことのない男がきっぱりと言葉を放ったと。
その不可解な疑問が、真意を探るためにまた問うた。
「お前は自分の立場が分かっているのか? 明日を迎える絶望が、言葉を生んでいるのか?」
と、ガダラはルジカを真っ直ぐに見た。その視線から眼を逸らさぬルジカは、「いいえ」と言葉を返した。
「ラグ族は我等を救うために、現れたのです。我等は必ず、我々をこの場から解き放ち 再びヒグルの大地に帰してくれる。ラグ族に、リオーネの巫女がいるかぎり」
「リオーネの巫女?」
その言葉にガダラは考え込んだ、巫女とはあの娘達のことかと。
ガダラの脳裏から獄舎の地下牢で、男達の眼に晒される娘達の姿が消えなかった。とりわけ凛と美しい娘の姿を、かき消す事が出来なかった。

(3)

フォレット草原に建つ獄舎は、いつものように朝を迎えた。
日が高く上がると、食事の刻を知らせるドラがなった。それを待ち構えていた囚人達は地下牢から上へ続く細い階段を目指した。
地上の土間には獄守達が待ち構えている。その彼等の前には大小の樽が置かれていた。樽の中身が今日の食だ。囚人達は行儀よく列を作り、獄守達とガダラの前に並んだ。囚人達の長い列には、鮮やかな染布の上下服を身に着けたラグ族の男女もいた。彼等は裾の短い長袖の上衣と四角い布を縫った下衣を身に付け、その上に綺麗な赤い色の腰布を巻いている。だが一人だけ上衣と一枚布を腰に巻き付けた娘がいた。その娘の姿を一見しただけでガダラの鼓動は高まった。
そして彼女は順番が来た時、昨日と同じ言葉を口にした。
ガダラは待っていたとばかりに、木の匙と椀を差し出した。
「アナた、そうすルと思っタ」
大きな青い瞳が、ガダラ見上げてそう言った。白い肌をより白く見せる黒い髪と黒い眉が、面長の顔を惹きたてる印象的な娘だ。
「ワたし、マーファ。ワたしの事、マーファと呼んデ」
「マーファ…」
 その名を聞き出したいと思い悩んでいた、ガダラは驚いた。そして彼女の名を呟いた途端、心の重みが瞬時に消え爽快な気持ちになっていた。
「僕は、ガダラ。お椀は皆の分も揃えた。石牢は冷えるから、敷物も用意した」
「いタじきの上ハ、心地悪い。長も、皆ガ喜ぶ。でも、私はもっと、良いものガ欲しい」
と言ったマーファはガダラの前に一歩、二歩と進みでるとぴったりと身体寄せつけて耳元で囁く。
「貴方の…部屋。机の引き出しに…アる物が、欲しい」
その手はガダラの右手を取ると、低い声で更に言った。
「護身用の刃先ガ長い方が、使い良い」
その言葉にガダラはハッとした。それが何であるか分かったのだ。八年も前に官吏に任命された際、王からの賜り物をそのまま引き出しにしまいこんでいた。それは地位の刻まれた短刀と小柄だった。
「何故。そのような事を知って…」
言い掛けたガダラは、瞬間に身を引いた。右手の先が娘の肌に触れたのだ。それだけで、腹の奥が熱くなった。たじろいだ男の腕を娘の柔らかな手が、更に力強く招き入れた。その腰に巻いた布の中に、だ。細い手に導かれるままに、なめらかな皮膚を滑ったガダラの指先は湿った茂みへと滑り込んだ。
刹那に心の臓が二つになったように下腹部が熱く拍動する。硬直した身体が動かない。しかし、脳裏の奥はそれが何であるかを知っている、更に奥を目指せと。
「夕方マでに欲しい。貴方ハ断らない…。巫女のために‥そうする」
巫女――。その言葉がガダラを現実にもどした。国が戦いを起こす一つに巫女や呪い師が絡む。未来を予見し国を安泰に導く巫女は驚異だ。その力が偉大であればあるほど権力者達は流涎し争いは止まない。その流涎が過去に起こした悲劇を知るガダラは、偉大な巫女を持った国を知っていた。エレオン王国、だが今はその国は無い。
「ダメだ。出来ない、ここは牢獄だ。牢の中に――」
そう言ったガダラの唇に、マーファの唇が重なった。
ガダラは、若くはない。すでに妻がいて子を抱いている歳だ。官吏の仕事も無難に熟して、屋敷を構え賄いの奴隷も人並みにいた。そして、奴隷女の中には夜の床を一緒にする者もいる。なんの不自由も無い生活を送っている。彼が望む普通の暮らしがある。きっぱりと断るのだと脳裏は言う、だが娘の声が囁く。
「私は巫女の使い女、貴方のために来た。貴方ハ私を見捨てない」
そう言い残したマーファは地下牢へと姿を消した。残されたガダラは、唇と右手が感じたマーファを全身で感じていた。
言葉の意味より娘の身体の温みが、ガダラを動かしていた。
官吏室の扉を開け机の前に立った。机の上には昨日の書状が置かれたままである。王からの呼び出し状だ。心中が瞬時に怯えを感じた、だが娘の温みが心を揺さぶる。右手は無意識に引き出しを開けていた。そして引き出しに仕舞い込んでいた短刀を握りしめ踵を反した。
机の上の書状を残したまま、部屋の扉を締めたのだった。

岩牢の遥か奥に、丸太を置いた上に角材を並べた板敷きが長々と続いていた。その上に人々の影が揺れる。
天上の小さな窓から指す、光の下に陣を取った山岳民族ラグ。
彼等はそこに幽閉された意味を知らなかった。
「巫女様、どうか、我等をお救いください」
 ルジカは板敷きの上に立つマーファにそう叫んでいた。
同じヒグマ大地に住むとは言え、山岳民族と遊牧民族は見知った仲ではない。それでもルジカはラグ族に庇護を願った。
「お立ちください。ジュマの長よ。私は巫女ではありません。只の使い女です。我等の巫女は今、前族長の御霊を守り、冥府の旅にあられます。私は言葉を伝えるだけの役目と、巫女のために新しい長をお守りするが役目となりました。ですから、お立ちください。ルジカ殿」
 マーファは使い女特有の現実感のない声で応えた。
「次代が‥‥。では、巫女様は冥府の谷へお供された。…この、この横暴を、止める事は出来ない‥のか‥」
 ルジカは、がっくりと項垂れた。そして闇の間に響く嗚咽を上げたのだった。
「我等の巫女は、種族の者を見捨てたりはしない。すぐにお戻りになります。そのためには、満月に捧げる
猛りが欲しいのです」
佇むマーファの前に種族の娘達が囲み座る。その後ろを守るように男達が座っていた。ラグ族の男達は若くたくましい山男達だ。
ジュマ族の長ルジカは、同じ牢内を宿とする者と争う気は無かった。それは無意味な戦いだと、分かっていた。
種族の人数と腕力で優劣が決まる囚人の身だが、ルジカは腕力で牢の規律を作ってはいなかった。
今、牢に閉じ込められている囚人はラジアニア人が数名とヒグル大地に住むクマイ族三人にジュマ族四十名ほどだ。囚人達は冷たい岩に敷いた藁の上で、身を隠すように暮らしていた。
「今宵、猛りを手に入れリオーネに祈願する。我等が長、セルジオ様のために」
そう言ったマーファは天窓の光指す方へ腕を差し出した。
天窓から差す光の、その後ろに黒い影が見えた。影は光に包まれ人型を、浮き上がらせた。男の姿だ。ルジカより若い男だ。毛皮を胸に抱いた魁偉な男が片膝を立てて座っていた。そして男は片腕に抱いた毛皮を引き摺りながら居並ぶラグ族の男女の前に立った。
 彫りの深い面長の面が無表情にルジカを見た。栗色の長い髪を後ろで三つ編みした若い男は、身分を表わす脚絆と籠手をしている。
 ラグ族の長――と、ルジカの心中が震えた。稀代の巫女を義母に持つ者だと。
そこへ、マーファの静かな声が流れた。
「セルジオ様。外に猛(たけ)りがおります」
猛(たけ)り――。ルジカだけでは無い、板敷きに座る一斉の者がマーファを向いた。
「匂いです。漂う匂い‥が、正面の奥まった場所‥腹を空かしている‥‥」
「手に入れられるか」
 ラグの長であろう若い男は言った。
「私が感じるに、ここはそのための場。今宵、手に入れられましょう」
「今宵!」
声を上げたルジカは、マーファに問う。
「今宵、何が行われるか、ご存知ですか?」
「酒宴でしょう。松明に彩られた血の宴」
マーファの凛とした声が、静まり返った広い岩牢に響いた。

2 血の宴 (1)

夜陰の宴――。
 
高い城壁が円形の土間を囲むその上が、物見台だとラグ族が知ったのは夕闇迫る頃だった。
塔壁の回廊に灯りが灯った。番兵のせわしなく動く姿が溢れた。そして深い闇が辺りを包むと、昨夜とは一変した光景が広がった。
地上の土間を囲む高い塀の上には人が群れ、塔壁の通路には篝火が明々と燃えていた。篝火の後ろには番兵が磨き抜いた銅板の盾を持ち並んでいた。並んだ盾は篝火の炎を集め、城壁の物見席に並ぶ者達を照らし出した。
そこにあるのは華やかな衣装を身に付け浮かれ騒ぐ者達と豪華な食膳と酒樽、朱色に輝く篝火と立ち上る煙、天上に浮いた満月。そこは――。
酒宴の場。
しかし、岩牢に囚われた者達はうかれる者達とは違う。戦慄の眼差しを闘技場の土間に向けていた。地下牢から続く階段踊り場から闘技場へ出る鉄柵の前に並び、土間に立ち尽くす同胞を見詰めていた。口唇を噛み、拳を握りしめて泣いていた。ラグ族達もその光景を見ていた。何が起こるかを、固唾を飲んで見ていた。
そしてそれは始まったのだ。
「猛りだ!飢えた猛りが牙を向いている!」
 ラグ族の若い男が叫んだ。
「セルジオ様にお知らせしろ」
「だめだ!セルジオ様は動かれない。ギジ様が居られない苦悩から脱しては居られん!」
右腕に籠手を撒いた壮年の男がそう叫んだ。彼の名はパグナ、族長の右腕となる男だ。彼は更に叫ぶ。
「我等はこの檻から出られん!土間に出られんのだ」
土間への出入り口が閉じられているだけでは無く、錠が掛かっていた。土間に立った十人が出入り口を潜った後、番人達が扉に鍵を掛けていた。

地下牢の板敷きの上にも、外の気配は届いていた。しかし、板敷きの上に集うラグ族達は動かずにいた。地下牢には彼等以外の囚われ人はいない。闇の中には地上の賑わう音をかき消す水音が流れていた。水音は地下牢の中央の壁際にある水盤から聞こえていた。それは悲しげな曲を奏でているかのように耳に残る音だ。ラグ族達は刻を数えるように聞き入っていた。そこに突然、マーファが言葉を放った。
「セルジオ様、いかがなされますか?」
毛皮を抱きしめたまま動かない若い長セルジオの背中に、身を寄せたマーファはまた言葉を放った。
「今宵は、猛りが餌を求めて動きます。月は頃良い満月、濁りを捧げるには良い晩です」
すると身動ぎない身体が言葉を放った。
「ギジは俺に何をさせたいのだ」
「貴男と共に歩きたいだけですわ」
「一緒に生きたいと思うなら、何故こんなものをよこす?」
そう言った腕がマーファの目の前に差し出したものは野獣の毛皮だ。マーファの等身大はあろう見事な毛並みの野獣の毛皮にはその身体に似合う頭が付いている。目玉の無い穴が闇の中でもはっきりと分かる毛皮がマーファの目前で床に落ちた。それを拾うマーファと変わらぬ年頃のセルジオは三つ編みにした髪を首に巻くと座り直した。そして胡座を掻いた膝に、組んだ両手を置くと言った。
「俺は愛を誓った。リオーネの山に誓った、花を飾って誓った。あれは幻では無い。真実の愛を誓ったのだ」
 その通りだった。十三年前、少年は、乙女にあった。
聖山リオーネを背景にした春の野辺だった。
一軍の黄色い花が顔を高く上げ冷風に戦ぐ、痩せ尾根の中腹。わずかに雪が残る草地に、娘が座り花を手折っていた。その姿が、まだ幼い少年の眼を惹いた。
娘は異国人だった。西側大陸ラジアジナの生まれだと分かる白い肌と亜麻色の明るい髪をした娘が、何処から現れたのか分からなかった。
ここは、連邦の山脈が囲む山岳地帯だ。鞍部の集落から遥かに離れた馬の背は、娘が一人佇む場所ではない。初めて見る容貌に山の精かと驚いたが身に付けた衣装は少年と同じ山岳民の物だ。何処かの村から逃げてきたのか、それとも迷子になったのかと思った。
動物の迷子なら見つけた者のものだが人間の迷子は誰の者だと少年は苦笑いした。
山羊を追い立て山頂へ登る途中の少年は、春から一人前の仕事を任されるようになっていた。山頂へ続く険しい山道をただ一人で、山羊を追い草地を求め登る。そして帰りには背に背負えるだけの草を抱えて帰る。きつい仕事だったが少年は一人前の仕事を与えられた事が嬉しかった。
大人の手を借りずとも一人で仕事が熟せる、その嬉しさが登り途中で見かけた娘に声を掛けていた。
山羊は勝手に草を喰うが、危険を知らない。草を喰う二十頭あまりの山羊を確かめた少年は、麓が見渡せる娘の横に立った。そこから下に急な傾斜がある。傾斜は緑の林が隠す深い渓谷へと続いていた。緑の林間から立ち昇る白い煙が幾つか見えた。そこに少年の集落がある。
二人が座る後には、峻険の聖山リオーネがあった。
七歳になり大人の仕事が任されるようになった少年だが、娘と並んで座ることも二人きりで話しすることも許されない。それでも野に咲く黄色い花を摘み懸命に編む姿に声を掛けた少年は、聖山リオーネが許すと勝手に思った。
さらに異国の言葉を持つ者とは話が通じないと、話しかけても答えは返らないと思った。
「お前、腹減ってないか。これは俺の昼飯、これ食え」
その言葉で娘の手から編みかけの花束が落ちた。
驚いた顔が少年を見た。少年も吸い寄せられるように娘を見た。黄色い髪と集落を埋める雪のように白い肌は光に輝いていた。面長の輪郭に整った目鼻立ち、血の様に紅い唇が艷を見せる顔に大きく見開かれた瞳ある。その瞳は、空よりもなお深い紺碧だった。
少年の胸で何かが弾けた。それが何なのか分からないままに、両手は動いていた。娘が落とした花束を拾い上げると風になびく黄色い髪に飾っていた。
すると紅い唇は、はっきり分かる震えを見せた。紺碧の瞳は流れ落ちる大粒の涙を見せた。
「泣かないで、僕が君を守るから。君を守るから」
少年は素直に心を見せた。そして娘の手に口付けた。
異国の言葉が、何かを告げた。
山羊の鳴き声が穏やかに響く山岳の野辺で、少年は光り輝く乙女にあった。
少年は大人になった。種族を導く長になった。しかし、乙女はいない。光ない闇に包まれたままだ。

翌日、祭りのあとを見たラグ族達はその残忍に慄然とした。
昨夜の宴が何であったかを知った。
広く殺伐とした場所に切り裂かれた身体が散らばっていた。細かい肉片が骨と一緒に泥に塗れ辺り一面に落ちていた。おびただしい血糊が黒い塊となって地面に浮いていた。
日の光が殺戮の場を照らし始めると異臭が漂い始めた。
役人達がそれを片付ける事はなかった。囚われ人の仕事だった。昨夜と同じように闘技場へ面した鉄柵の狭い扉が開いた。
役人は声を上げた。それを合図にジュマ族の男達全員が闘技場に立つと、決められた仕事のように素手で肉片を拾い始めた。
彼等は奥歯を噛み締め、すすり泣いた。クマイ族の年取った長はルジカに、残された若い二人を助けてくれと嘆願した。ジュマ族の年長の男達も同じ言葉を残して闘技場に立った。
「生き残ってくれ。そして、種族を故郷に連れ帰ってくれ。俺達の心と一緒に、リオーネの聖地に導かれんことを」
その言葉が、ルジカの耳から消えない。何故だ、と呟いた。
「何故、我等はこのような仕打ちをうけなければならないのだ。リオーネは何故、我等を救ってはくれない…。リオーネの巫女は何処に居られるのだ。この願いを…何時に聞き届けてくださるのだ」
踊り場に立ち彼等の最後を見届けたラジアニア人数名もクマイ族二人もジュマ族達も悔しさに嗚咽をあげていた。それでも、仲間の血糊の塊を両手でかき集め樽に詰め、南門の前に運んだ。そして新しい土を地面に撒いて祈った、無残に殺された彼等の再生をと。

(2)

「ガダラ様、ここに居られましたか」
オーディのその声に、ハッとしたガダラは官吏室にいることに気づいた。机を前に獄舎の鍵束を握り閉め、立ち尽くしていた。
「どうしたのだ」
と乾いた声を発したガダラはそのまま、椅子に沈み込んだ。握りしめた鍵束を見詰める心は苦悩だ。青い瞳を揺らし笑顔を見せるマーファにある。彼は、先程まで闘技場の土間にいた。
ガダラの姿を待ち構えていたかのように駆け寄ってきたマーファの笑顔は布帛をねだった。天幕を張る厚織の綿布を。 
「布帛は、貴重な物だ。どうすれば、良いのか…」
と、ため息混じりにそう言ったガダラにマーファは尋ねた。
「タくさん、欲しい。高いのか?」
地方から王都へ移り住んで以来、すべての管理をルアに任せていた。ルアから金持ちだと聞かされた、その言葉を信じると考え込んだガダラは答えた。
「ああ高い。だが、君は心配しなくても良い。なんとかするから」
「主のタめに、早く欲しい。高くてモ、欲しい」
「主? 種族の王も一緒に捕らえられて居るのか? 」
「長と、主と、地下におラれる。私、お守りする」
「長? 主? どう違うのだ? 」
「長は種族の王、主はすべてヲ守りくださル方」
「すべてを、守る…? 王とは違う崇拝者…、呪師か? 」
「それに…近いモノです。私、その方ヲ守る」
 呪師ではないとガダラは思った。呪師であれば、呪師が娘達を守るはずだ。凛とした聡明なマーファが守りたい人物は種族の宗教か風土の教えからきている「リオーネの巫女」なのだろうと思ったガダラは言った。
「あすの昼までに届けるように、馬を屋敷に走らせる」
その言葉を待ち構えたように、ラグの娘達は腰まで垂れた長い黒髪を梳きガダラの前に並んだ。そして髪を切ったのだ、ガダラが渡した短刀で。
マーファと二人の娘を除き、髪を同じように肩で切り揃えた娘達は地下牢へ姿を消した。
番人に伝言を頼んだガダラは土間に一人残ったマーファに気づいた。まだ何かあるのかと尋ねた彼に、マーファは驚くことを言った。
「扉の鍵、必要ないわ。開けてほシい」
「扉?土間に出るための扉を何故?」
「血の余興が、必要なモノを与えル」
「必要なものとは何だ?」
 その問いに答えを返さないマーファは、胸にすがりついてきた。青い瞳を揺らす身体は温かいが血なまぐさい光景が脳裏を包んだ。
「炎と血、短刀、何を願っている?」
そう言ったガダラは細い腕を掴んだ。すると、脳裏に更なる光景がういた。血なまぐさい屍が松明の灯りに照らされて大地に埋めていた。その中央に立つのは獣だ。
「満月が本能を呼び覚ます!」
 乾ききった誰かの細い声がガダラに叫んだと思った瞬間、腕の中の暖かさが消え外界の音も消え失せた。
 恐ろしい光景がぼんやりと頭の中に残っていた。それがまだ夢の中のようにガダラを呼んでいた。呼んでいるのはオーディだ。
生真面目なオーディは扉を何度も叩いたはずだ。部屋に入る前に呼びかけたはずだが、その声は届かなかった。
「新しい囚人達を地下牢に入れました」
と言う声が、遥か遠くに聞こえていた。
「そうか」
ガダラは鍵束を懐に隠しながら、自然に答えていた。彼には今更囚人達が増えようが減ろうが事態は変わらないと悟っていた。毎年春に二百を越える囚人達を集めて真冬には一人も居なくなる。百人であろうと万人であろうと人の心が変わらない限りこの獄舎は生贄を欲すると。
「ガダラ様、些細なことかもしれませんが‥、お耳に入れておかれたほうが良いかと」
オーディは肩を落としたガダラを気遣うように歯切れの悪い言葉を放っていく。重い口は更に言葉を放つ。
「贈り物‥です。スエレン国からの‥」
「スエレン!」
ガダラは振り返った。開け放った扉の前に立つオーディを見詰めた。甲を手にして籠手を付けた姿でオーディは立っている。それは警備中だと告げていたが獄舎で日中に武装する事はない。牢内で重大な事が起きたと感じさせた。 
「スエレン国は、奴隷を送ってきたのか…」
 ガダラの脳裏に、第三王子ラーイジャの顔が浮いた。
「女王が、送ってよこしたのか?」
「ミンジャ女王からです」
オーディは、きりりと言った。
 スエレン国のミンジャ女王とは、第三王子ラーイジャの生母である。その事実を知るものは王族と一部の重心だけだ。それが王の呼び出しの本心だったのかとガダラは思った。昨夜、王の使者が彼を迎えに来た。否応無しでの登城だった。
ジバラビ国王の名はロドフェム。登城せぬガダラに立腹かと思えば我が子を出迎えるような穏やかな笑みを浮かべていた。
王は静かに短い言葉を放た。王国の未来を案じていると、次代の付加価値を語った。ガダラはその意味がやっと理解できた。
ジバラビ王国には三人の王子がいるがそれぞれ母親が違う上、兄王子二人の母親は他界していた。そして、現王妃には子がないのだ。更に問題は、三人の王子達は正妻と婦人を抱えているが子どもがいないのだ。
次代をめぐる闘争を避けたいとジバラビ王ロドフェムは言った。
西側国家にとって領土拡大が安泰の基だと小国を支配するために狙う。狙われる国は、大国ミケドリアとスエレン王国は脅威だ。この二つの王国は海に面した肥沃な大地から得る産物だけではなく、統一された軍隊と優れた術師を抱え他国を圧する強さがあった。特にスエレン国は呪術を戦力に、周りの小国を滅ぼし急激に大国にのし上がった国だ。その国が好意を示す理由を直感的にガダラの本質は察した。
ミンジャはラーイジャ王子を欲している—-。
強国からの貢物はいずれ災いを及ぼす、そう分かっていても抗うことの出来ない未だジバラビ国は小国だ。いずれミンジャは友好をたてまえに、ラーイジャ王子に会いにくるだろう。そう思い巡らすガダラに、オーディは言葉を放つ。その語気は強い。
「新しい囚人は、ダグ山岳民族の馬賊ウェビカ族です」
「ウェビカ族!」
スエレン国の国境から、草原と山脈を持つ大地が広がっている。東側民族は広大な草原ヒグルとなだらかな山脈ダグ合わせ、ヒグル大地と呼んでいた。そしてヒグル大地の北にリオーネ山岳地帯が位置する。
ヒグル大地には幾つかの少数民族が草原や山岳に暮らしていた。その一つにウェビカ族がいたが、彼等は悪評高い種族だった。山岳に住むウェビカ族は西側国境に出没する、盗賊だ。情け容赦のない冷酷非道の輩と風聞が西側各地に流れていた。
「あの冷酷な馬賊が地下牢に!」
ガダラは立ち上がっていた。その拍子に懐にしまった鍵束が床に落ちた。確かな物音が部屋の中に響いたが、オーディは動じずに言った。
「はい、見張り台からでもはっきりと分かる凶暴ぶりでした」
そう言ったオーディは身を屈めると鍵束を拾い上げ、ガダラに渡した。その手を握りしめたガダラは囁く様に言った。
「ラグの娘達は無事か?」
「はい、あの‥娘が、ウェビカ族の男達を黙らせました」
マーファと、呟いたガダラは苦悩をはっきりと表わした顔をオーディに向け、固唾を飲むと口を開いた。
「今宵は正面の鍵は、掛けるな!」
喫驚した顔がガダラを真っ直ぐに見た。
正面の鍵とは、地下牢から土間へ通じる出入り口の鍵だ。それを開ければ余興に選ばれた囚人達が踊り場へ逃げ出す。余興の土間は混乱する。
「今宵はウェビカ族を立たせます。彼等が居なくなるまで何度でも‥、それで、あの娘達は助かります」
「今宵は良い。明日は、もし余興が取りやめになったら、暗い地下でどうなる‥、中でどんなことが起きるか分かるか?助けたいのだ。助けたいのだ。あの娘を!」
「この地下牢に入った以上、どうなるかは貴男様が一番良く分かっておられるはずです。殺されるために集められて来たのです。王が止めない限りは誰もが同じ運命です‥」
「王! 王は‥」
昨夜ロドフェム王はガダラに、城に住めと言った。来春には新しい居館と地位を与えると言った。それはガダラにとって、重荷だ。折をみて断ると決めていたが、
「王の要求を飲めば、あの娘は、マーファは助かる」
「王命ですか? それは何と? 」
 机の上に王の封書を置いたのはオーディだ。吉報だと信じる彼は聞いたのだ。しかし、ガダラの胸は苦悩しかない。
「僕には、彼女の未来が見えない。昨夜の余興を彼女はどう考えたのか分からなかった。死を願っているのか。それとも立ち向かう勇気があるのか。勇気があったとしても殺されるだけだ。それでも、獣のような男達に傷つけられるよりは、土間に立つと決めたのか」
読めない未来にどう対処すれば良いのかと、考えあぐねたガダラは顔を上げた。
彼女と約束をした。明日の昼に布帛を届けると、対価も貰った。
彼女には守る者がある、それが強さだと地下牢と地上を繋ぐ扉を解錠すると決めた。そしてガダラは、オーディに念を押した。囚人の行動を制するなと。

 満点の月が輝くその夜 誰もが想像しない出来事が起きたのだ。
 酒宴の灯りが土間を照らした。そこに現れたのは昨夜と同じ猛獣だ。
鋭い牙と爪を持つ猛獣がのっそりと北の牢固の扉から姿を表した。地上から遥かに高い物見台からひときわ高い歓声があがった。松明が疾風に揺らいだ。銅板の鏡が照す人々の影も大きく揺れた。
ここは闘技場――
人と猛獣の戦いの場――
踊り場の側壁に設けられた踊り場の檻は、囚人等を守っていた。解き放たれた猛獣は直ぐに、囚人等の蹲る場所へとやってきた。闘技場の端にウェビカ族の十名が身を寄せ合って立ち尽くしていた。彼等には逃げる場所はない。のっそりと動く猛獣やがて彼等の前に行くだろう。
戦いの門が開く――。
彼等の前に一本の太刀が投げ込まれた。それ以外の武器はない。猛獣は二頭、腹を空かせ金色の瞳が獲物を見定める。
猛獣の獲物は土間に立った囚人達。今宵の十名はウェビカ族の猛者だが、猛獣を目の前に戦き後退る。二頭を倒すまで戦いが続くか、腹を満たした野獣が住処の扉に消えるか、催事者の機嫌で宴が終わる。
雑居牢の囚われ人は、固唾を飲んで見入る。殺戮の場を。

花冠

花冠

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-10-01

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 冥府に囚われて
  2. 1, 地下牢
  3. (2)
  4. (3)
  5. 2 血の宴 (1)
  6. (2)