異界遍歴➁
第一話 妥協
春斗は、自然と目が覚めた。この世界に来て、初めての気持ちのいい目覚めだった。
体を起こして目を擦りながら、周囲を見渡した。
「よくこんなに眠れるわね」
隣のベッドから着飾った服のフローランスが、編み物をしながらそんなことを云ってきた。彼女は綺麗な蒼眼で、膝あたりまである美しい白い長髪だった。頭には変わった形状のティアラを付けていて、紫のドレスには花の模様の刺繍があしらわれていた。手には絹のようなオレンジの手袋をはめて、衣服で全身を包んでいた。
この世界では電波での会話が一般的のようだが、春斗は未だに実感できずにいた。理由としては、声とは違い、自身の電波が聴こえないからだった。
編み物しているフローランスに何を作ってるのか尋ねると、服とだけ返ってきた。その答えに、武力組織の幹部であるライラから組織の色の服を作るよう云われていたことを思い出した。
ここに来るまで、実際フローランスには頼りっきりだったので、彼女に世話を掛けると遠まわしにお詫びを入れた。
「ホントそうね」
フローランスはこれまでのことを思い返ように、溜息交じりで皮肉ってきた。これには本当に申し訳なかった。
ここは編み物の仕上がりの早さを褒めることで、フローランスの機嫌を取っておこうと思った。
「貴方が寝すぎなのよ」
が、それは功を奏さず、呆れ顔で返されてしまった。
ご機嫌取りは諦めて、どれぐらい寝ていたかを背伸びをしながら訊いてみた。
「さあ?いつ寝たか知らないし、こっちも寝てたからわからないわ」
そう云われてみると、この部屋に時計らしき物は見られなかった。
「トケイ?」
すると、フローランスが不思議そうにその単語を復唱した。
時間を示す道具だと云うと、そんな物はないと即答された。
それなら起きてる時は、常に計っているのか気になった。
「意識的に計ってる」
これには隣で横になっていたリンが、寝そべった状態で答えた。彼女は人形と呼ばれていて、今は春斗と相棒という関係だった。背中まである灰色の長髪に、服装は黒の長袖のワンピースで、春斗のスーツ姿よりは格段に寝やすそうだった。
「それより、トケイって時間の基準はどうやって計るの?」
フローランスは、春斗の世界に興味があるようで身を乗り出してきた。
用いる知識をフルに使ってみたが、世界の違いからフローランスには理解できなかった。
「ごめん。何云ってんの?」
仕舞いには、この台詞が返ってきた。この世界では太陽というものがなく、時間の基準が一致しないので、説明できそうになかった。
「教えて」
しかし、フローランスは編み物を横に置いて、春斗の隣に腰掛けた。
そんなに興味があるのかと訊くと、面白そうとだけ返してきた。新しい知識は、フローランスには刺激的で楽しいようだ。ここで断るのは悪いので、長くなることを宣言しておいた。
「構わないわ」
フローランスの了承を得たので、暦の中心に自分の知る限りのことを教えた。フローランスは率直な疑問を投げかけながら、興味深そうに聞いていた。
「面白いわね」
聞き終わると、楽しそうに電波を発した。
「でも、1日ってどうやって計るの?」
この質問には、地球が太陽の周りを回る周期で計ると答えた。
「単語が分からない。太陽って何?」
フローランスとしては太陽と地球の意味を知りたかったようだが、宇宙を知らない彼女に説明するのは本当に難しかった。
春斗がここで話を打ち切ろうとすると、フローランスがしつこく食い下がってきた。あまりのしつこさに根負けして、簡易的な説明と質問はなしという条件を出すことで、なんとか折り合いをつけた。
太陽と地球、そして、全体の宇宙をかい摘んで説明した。
「ふ~ん。この外はそうなってるんだ。空気がないって致命的ね」
確かに、生物は生きられない空間であることは間違いなかった。
「でも、よくそんなこと知っているわね」
春斗の世界では、知識だけは無駄にあるとだけ答えた。
「知ってるだけで、宇宙に行ったことはないの?」
これにはないと答えた。一般人が宇宙旅行に行けるのは、もう少し時間が掛かるだろう。
「じゃあ、なんで知ってるの?」
これには他の人が行ったからとしか答えられなかった。
「知識を共有してるってことね」
行き着いた結果に、フローランスは少し悲しそうな顔で呟いた。
「でも、よく分解されないね。凄いね~」
何か理解できない台詞があったが、フローランスは真顔で感心していた。
「そういえば、時間を計る方法を訊いてなかったわね」
地球と太陽の関係は教えたので、地球が自転していることと、それが一周したら一日だということを話した。
「それだけ?どれくらいの時間で一周するとかあるでしょ」
この疑問に対しては、時間の計り方をフローランスに説いた。
「なんで分と秒は60なのに、時間は24なの?」
ここからは専門的になるし、明確な説明ができないので、それ以上はわからないと云っておいた。
「もう少し詳しく知りたいけど、仕方ないわね。それにしても、そっちの世界では闇の時間があるのは驚きね。ここでは闇になることがないから」
この世界には夜という概念がないようで、時間の計り方は個々の感覚だそうだ。さらに、ずっと同じ日和で雨も降らないらしい。
話が終わると、フローランスは自分のベッドに座り、編み物を再開した。
そろそろ拷問室に行こうと思い、フローランスを誘ってみた。
「服の生成で忙しいから無理。それより聞きたいことは聞けたの?」
行く気はないようだが、収穫はあったのかは気になっているようだ。
もう聞くことは聞いたとだけ伝えると、懐柔がうまいのねと外聞の悪いことを云われた。
「聞き出せたのなら行く意味あるの?」
確かに行く意味はないが、執行人の目もあるので、彼女の顔を立てておくと伝えた。
「優しいことね」
フローランスは興味なさそうに、編み物の糸を生成しながら器用に編んでいった。この世界の人たちは、物質を自分で作り出す能力を持っていた、しかし、それには集中力と体力がいるようで、人によって生成にも差があるらしい。
少し意識すると、お腹が空いていることに気づいた。
「相変わらず、奔放な人ね」
電波が漏れたようで、フローランスが編みかけの服を横において、錠剤を生成してくれた。この世界では、食の習慣がなく、春斗はフローランスに錠剤を生成してもらうことで食い繋いでいた。
春斗はお礼を云って、それを受け取って口に含めた。錠剤の中には水分があり、一噛みで一気に飲み込めるようになっていた。食事をした気にはならなかったが、ここでは贅沢を云っていられなかった。
玄関を見ると、フローランスが生成した手のひらサイズの照明器具が未だに光を保っていた。もう半日近く消えないことが気になり、フローランスにいつまで保つかを訊いてみた。
「わからない。面倒臭かったから 時間の計算まではしてないわ」
フローランスは、楕円形の照明器具を見て眉を顰めた。
フローランスに行ってくると云って、照明器具を持って家を出ると、リンが後ろからついてきた。
さっき話した事を思い出して、何気に空を見上げた。空からは青白い光が照らしていて、月、太陽、惑星、雲すら見えなかった。ただ空には青い光が照らしていた。
思わず、あの光ってどこからきているのかとリンに投げかけた。
「知らない」
簡易的で分かりやすい答えが、リンから返ってきた。
再び空を見ると、光を反射する物も発光する物体もなく、かなり不思議な現象だった。
「そんなの疑問は思った事もない。ここでは当たり前だから誰も気に留めない」
思考が電波に乗ったようで、淡々とした答えが返ってきた。考える素振りすらないリンの返事は、少し虚しさを覚えた。
「知らなくても害がなければ、誰も問題視しない」
リンの台詞は理解できるが、それを云うのは思考を停止することと同じだった。
この話題は終わりにして、自分に対して聞きたいことはないかと、リンに訊いてみた。この質問は前からしようと思っていたが、フローランスがいたせいで云えずにいたことだった。
「ハルトは、ワタシに質問しなかった。だから、ワタシもそれをしない」
云われてみれば、最初合った時にリンのことは訊かなかったことを思い出した。あの時は訊いてしまったら間柄が変わりそうだったので、敢えて訊かずにいただけだった。今でもリンの生い立ちを訊く気にはなれなかった。
「ワタシにとって、ハルトの存在は今が重要だから、過去なんて意味がない」
リンも春斗と同じ考えのようで、無表情でこちらを見上げた。
「人形と価値観が合う人間を初めて見た」
考えが漏れたようで、無表情のリンから驚きの雰囲気が伝わってきた。
とりあえず、リンと同じ考えなのは光栄だと返してみた。これは深い意味はなく、話の流れで云っただけだった。
「光栄?ハルトは、人間の考え方は嫌い?」
春斗の返しが意外だったのか、電波に驚きの感情が見え隠れした。
一応、基本的には好感は持てないとだけ云っておいた。主観より客観性が足りないのは人の欠点でもあり、美点でもあった。
「羨ましい」
それが伝わったようで、リンがそんな台詞を微弱に流してきた。リンに羨望という感情があるのなら、人形とは云えない気がした。
この会話が途切れたところで、拷問小屋に着いた。
春斗は小屋に入る前に、ハンカチを取り出して鼻を押さえた。もうこれはいつもの行動パターンになってしまっていた。
入口の扉を開けようとしたが、両手が塞がっている事に気づき、照明器具をリンに持ってもらった。
扉を開けて中に入り、奥の引き戸を横に滑らせた。その瞬間、腐臭が鼻についた。
階段を下りていくと、広間には誰もいなかった。不思議に思っていると、通路から足音が聞こえてきた。
足音の主は、全身ストラのような礼装を着たシーラだった。小柄な体躯でベリーショートの幼女は なぜか不機嫌そうに春斗を見た。
「よくも図々しくここに来れたわね」
そして、春斗を睨みつけながらそう云ってきた。
シーラの態度が気になり、何かあったのかと首を捻った。
「あんた、ここがどこだかわかって来てるの?」
これにはすぐさま拷問室だと答えた。
「そう、そうよね。ならあんたは、ここに何しに来てるの?」
そんな大枠で訊かれると、個人的には情報収集だとしか答えられなかった。これにシーラが、呆れるように大きな溜息をついた。
この後、シーラと拷問の在り方と、拷問のやり方についてお互いの意見がぶつかり合った。
「くっ、この頑固者」
結果、シーラが苦い顔で上半身を逸らした。
「とにかくあたしの云う事に従え!」
シーラの愚図りに、電波と表情で断固として抗議した。
「自分の立場を考えろ!」
すると、シーラが威嚇するように怒鳴ってきた。
ここで引き下がると、拷問しないといけないので、口裏合わせをお願いした。
「なんで、あんたと共謀して嘘をつかないといけないのよ!」
当然、自分が拷問したくないからと真顔で答えた。
「なにその身勝手な我儘!」
これは自覚があるので、そもそも拷問して勧誘するなんておかしいと話をすり替えてみた。
「死という恐怖で、人を支配することは理に適ってる」
すり替えに気づているのかいないのかは知らないが、シーラが話に乗ってきた。
とりあえず返事は必要なので、形だけだろうと返しておいた。
「せっかくもっともらしいこと云えたのに反論するな!」
シーラ自身、さっきの返しはかなり自信のあったようで怒られてしまった。
前に自分で云ったことと矛盾していることを、ここで指摘しておいた。これは主体をこんがらかす手法でもあった。
「あれ?そうだったっけ?」
本気で忘れているようで、ボカンと口を開けた。あまりにもちょろいシーラに、春斗は思わず呆れてしまった。
「ああ~、今馬鹿にしただろ」
春斗の顔に反応したようで、瞬時に怒りをあらわにして文句を云ってきた。
ここは冷静にさせる為に、敢えて敬語を使ってみたが、棒読みになってしまった。
「何その云い方!すごく腹立つ!」
無意識な煽りに、かなり激昂して春斗に食って掛かってきた。
これでは話し合いにならないので、ひとまず落ち着くよう宥めてみた。
「うるさ~い!あたしを言い負かそうとしても無駄よ。あたしは、あんた以上偏屈だからね」
が、それは実らず、さらに怒りを買ってしまった。
偏屈という単語は、良い意味で使われてないと指摘すると、シーラが怒りから間が抜けた表情になった。
「と、とにかく、ここにいる以上従ってもらうわ」
シーラは恥ずかしそうに顔を赤らめて、なんとか話を自分の方に引き寄せようとした。
怒りを沈められたが、再び最初の問答に戻ってしまった。
こうなってくると平行線なので、シーラに妥協を促した。しかし、彼女の意思は固く、首を縦に振ってくれなかった。
「なら、二人で妥協したらいい。話し合って妥協案を模索する」
すると、リンが見兼ねたように悪くない打開策を提示してくれた。
リンの案をシーラに振ると、半ば面倒臭そうに承諾した。
ここからはお互いの妥協のせめぎあいに入った。
まずは、拷問の仕方は自由にさせて欲しい。
「無理」
説得して懐柔する。
「もう一押し」
誑かして従順にさせる。
「云い方変えただけじゃん」
さすがにこれには引っかからなかった。
「やっぱり馬鹿にしてるでしょ!」
怒らせてしまったが、ここは平静に話を進めた。
精神的に追い詰めて廃人にさせる。
「なかなか酷いこと考えるな」
血とか臓器は見たくないし、精神的の方が気が楽だと本音を伝えた。
「あたしとしては、逆だけどね。精神的なんて非人道的なことできないよ」
この世界の人は、痛覚が遮断できるせいなのかは知らないが、精神的な拷問の方が非人道的と捉えられるようだ。
非人道的はこちらとしても不本意なので、拷問自体が非人道的だと皮肉っておいた。
「揚げ足とんな!」
予想通り怒ってきた。
話を戻して、この案はどうかをシーラに尋ねた。
「廃人はやりすぎると思う。だから、肉体的拷問を軽く入れてくれたら許可してもいい」
軽い拷問という表現に違和感を覚え、自然と眉間に皺が寄った。
「両方の拷問で手を打つって事」
そんな春斗に、シーラはもうひと押しだと勘違いしたようで偉そうに胸を張った。
ここで渋っても、これ以上は条件を下げてくれそうにないので受諾することにした。
話がまとまったところで、拷問をしたことがないことを伝えておいた。
「へ?ないの?なら教えてあげる。主に肉体的の拷問だけど」
なぜかシーラが、嬉しそうな笑顔で親切心を出してきた。おそらくだが、誰かに頼られることが好きなのだろう。
春斗は咄嗟に、知りたくないと強く主張した。
「・・・あんたも妥協してよ」
すると、シーラが睨むように不満をぶつけてきた。
仕方がないので、台詞は変だが軽い拷問だけを教えて欲しいとお願いした。
「最初からそのつもりよ。トラウマにでもなったら拷問できなくなるしね」
『別にできなくてもいいけど』
これには、ぼそっと小声で愚痴った。
「なんか不満そうね」
表情から察したようで、こちらを睨みつけてきた。
「とりあえず、今から拷問の仕方を教えるからついてきて」
春斗を視野から外すように、シーラは体を反転させて通路に向かって歩き出した。春斗も渋々彼女の後に続いた。
通路を抜け、最初に案内された広間に近づくにつれ、臭いが最悪になった。
『吐きそうだ』
あまりの悪臭に、思わず声が出してしまった。この声にシーラが、反応してこちらを振り返った。
「何、今の?」
声のことは秘密ではないが、云うと説明が面倒なのでなんでもないと答えておいた。
「気分悪いの?」
表情から感情を読み取ったようなので、今そうなったと主語を省いて伝えた。
「安心して。そんなに酷い拷問は避けるから」
拷問に安心という異色の台詞を、シーラは平然と電波に乗せてきた。
ここは我儘を云って、血とかでないように頼んでみた。
「難しい要望すんな!」
軽く注文しただけで、すぐに怒りを買ってしまった。
シーラに考えさせるだけ無駄な気がしたので、春斗から鋭利でなくて鈍器にしてくれと提案してみた。
「え~~、鈍器の生成は苦手なんだけど」
せっかくこちらから申し出したのに、文句が飛んできた。
個人的に血は見たくないので、配慮して欲しいとしか云えなかった。
「だいたい、血を見たくないとか拷問の大半を否定してるぞ」
それを云われたら返す言葉もなかった。
「だから、ある程度は許容してくれないと拷問できない」
このままでは押し問答になるので、それは受け入れることにした。
第二話 教育
広間に着くと、前と同じように両手両足のない女がそこにいた。春斗は、できるだけ見ないように視線を逸らした。
「詐欺師と一緒にですか」
ボサボサの髪で顔は見えなかったが、嫌そうな電波が伝わってきた。彼女はフローランスの信者で、未だにその信仰は続いていた。
この酷い云われようには、呆れて自分のことかと訊き返した。
「他に誰がいるんですか」
これには冷めた表情で返されてしまった。前に話をした時に、フローランスをそそのかしたと云い掛かりを付けられていた。
「神祖を誑かしてるのでしょう。でなければ、神祖が一緒に行動しているなんてありえません」
思考が電波に乗ったようで、苛立ちの電波が送られてきた。
これには誤解だと釈明しようとしたが、聞いてくれないだろうと瞬時に思い直した。
「詐欺師の考えなど、わたくしは聞きたくありません」
が、ちゃんと伝わったようで、的確な返事が返ってきた。
「神祖の言も届かないくらいだから、釈明なんて意味をなさない」
すると、リンがここで話に入ってきた。どうやら、云うだけ無駄だと云いたいようだ。
「神祖を馬鹿にすると許しませんよ」
どこをどう解釈したらその台詞がでるのかわからなかったが、敵意をもってリンを睨みつけた。
この雰囲気はまずいと感じ、春斗が信者を馬鹿にしていることにしておいた。
「二回目の対面で失礼なことを云う人ですね」
これにはお互い様としか云い様がなかった。
しばらく、春斗と女は黙って睨み合った。これはリンから意識を逸らす狙いでもあった。
「それで・・・また拷問ですか」
女は、春斗からシーラに視線を移した。なんとか狙いは成功したようだ。
「何度勧誘しても仲間にはならないわ」
「ふふ、今回は勧誘じゃないわ。教育よ、この男の」
シーラは春斗の方を指差して、得意げにそう云った。
「教育?」
「彼は、拷問したことないからね」
「拷問に教育なんて必要なのですか」
「普通はないよ。でも、彼は特別に教育するの。異世界では拷問は禁止らしいからね」
前に異世界については軽く説明しただけで、この二人は疑うことなく信じてくれていた。二人には異世界のことを簡易的に訊いたが、全く知らないようだった。
「異世界では、戦争はないのですか」
すると、信者が素朴な疑問を投げかけてきた。
これに紛争はまだあると返した。
「やはり、人同士ですか」
春斗は頷いて、他に知的生命はいないからと溜息交じりに答えた。
「なら、拷問自体はあるのでは?」
この疑問には地域によってあるだけで、自分の周りでは紛争なんてないと伝えた。
「なるほど。それは良いことです」
これには春斗も迷うことなく賛同した。
「わたくしたちの組織も世界平和を願ってきました」
あまりにも似たような理想を追い求めていて、自然と自分の世界のことが頭に浮かんだ。
「ユートピア。我々が求めている平和です」
人との繋がりが薄いはずのこの世界でも、それを求めていることは意外だった。
「この世界では、人との繋がりはかなり希薄です。人と会っても避けるか争うかぐらいでした」
考えを読まれたようで、女がこの世界の実情について話し始めた。
「しかし、繋がりを深めれば、人は争わなくなります。それを全ての人が理解すれば、世界は平和になるはずです」
自分の世界の歴史を知っている春斗には、その理論は酷く滑稽に思えた。
春斗は、他人同士が理解を深める過程で破綻する可能性もあることを伝えた。
「人はわかり合えます」
予想通りの理想的なお答えに、春斗は呆れるしかなかった。
「あ~~、あんた達。ここは議論する場ではないのだけど」
この話を遮るように、シーラが割って入ってきた。捕虜との会話で、自分がここに来た理由を忘れてしまっていた。
「忘れんな!」
わざと漏らした電波に、シーラの眉間に皺が寄った。この反応とテンポの良さは、春斗としては楽しかった。
「じゃあ、拷問を始める」
シーラは、女に近づいてから春斗の方に振り返った。
「ふん。時間の無駄です」
すると、女は鼻で笑って顔を伏せた。この強気な態度は、痛覚がないためだと思われた。
「まずは、武器を作る」
開始早々、一つ目から無理だった。
出来ないと伝えると、驚いたシーラは目を見開いた。女も驚いた様子で、春斗を見上げてきた。正直、その反応は見飽きていた。
「えっと・・・人?」
シーラは困惑しながら、ゆっくりと首を傾げた。
これには失礼だと云い返した。
「だって生成できないと生存できないじゃん」
そのことについてはフローランスから口止めされているので、シーラ達に云う訳にはいかなかった。
「はっ!あああああんた、ままままさか、どどどど、動物と、おおおお同じ、せせせせ、摂取方法なの?」
が、すぐに云い当てられてしまった。どうやら、内緒にしても辿り着く答えは一つしかないようだ。
仕方がないので、聞き取りづらいと話をずらしてみた。
「動物と同じかと訊いてる!」
しかし、それでは逸らせず、主体を明確にしてきた。
これにはノーコメントだと云っておいた。というか、他に云い様がなかった。
ここからはシーラとの応酬が続いた。シーラは根掘り葉掘り聞くタイプと聞いていたが、予想以上の細かい質問が相次いだ。
最終的には、シーラが折れた。要領を得ないのらりくらりかわす返事に、好奇心より面倒臭さが上回ってくれたようだ。
「こういう話は、二人だけで話したいわね。二人っきりでね」
シーラは後半の台詞を強調して、後ろにいたリンに嫌悪の表情を向けた。どうやら、面倒だからではなく、リンが目障りで折れたようだ。
執行人のシーラと二人っきりなんて、怖くて嫌だと本心を云ってみた。
「あんたも執行人になんだけど」
これは失念していたので、普通に驚いてしまった。普通に驚くのは面白くないので、シーラをからかうように、わざと絶望感を滲ませてみた。
「何その顔!あたしも傷つくんだけど!」
シーラを茶化すのが楽しいので、沈んだ表情のまま自分も非道に堕ちるのかと演技を続けた。
「あたし、泣いていいかな」
すると、シーラが悲しそうに顔を伏せた。
「あなた達は、何してるんですか?」
見るに耐えないのか、白けた表情で女が割って入ってきた。
「落ち込んでるのよ!」
ここで春斗とシーラの電波が、奇しくも被ってしまった。これは個人的にちょっと嬉しかったが、シーラは不本意そうだった。
「そう・・なんですか。でも、それでは拷問が進まないのでは」
せっかく拷問を回避できるのに、わざわざ拷問される本人が本筋に戻してきた。
「そうだった。すっかり忘れてた」
シーラは、はっと気づいて顔を上げた。
これには呆れて、そこまで拷問されたいのかと女に投げかけた。
「あなた達のやり取りを、目の前で見せられるよりは幾分かマシです」
「それが狙いだったのか」
春斗の狙いに気づき、シーラが驚きを隠さずにこちらを見た。
ここは大根役者のように、受刑者に阻止されるとは予想外だと肩をすくめた。
「あ、危なく流れされるところだった」
シーラはそれを見て、安堵の台詞を電波に乗せた。ここの受刑者は、どうして自虐な奴が多いんだろうと不思議に思った。(二人しか見ていないが)
「でも、さすが詐欺師ですね。こうも簡単に執行人を誘導させようなどと・・なかなかできる芸当じゃないですよ」
この嫌みには、笑顔で照れることにした。
「ところで、いつまで鼻を布で押さえているんですか?その格好は異世界での礼儀なのですか?」
春斗のハンカチが気になるのか、女は不思議そうに訊いてきた。
嗅覚のことを云うといろいろ面倒なので、曖昧に諸事情とだけ伝えておいた。
「そうなんですか。さっさっと拷問を終わらせてくれませんか」
興味が失せたのか、どうでも良さそうに拷問を急かしてきた。これには正気じゃないとしか思えなかった。
「拷問が日常なのですから、少なくとも正気ではないでしょう」
また思考が漏れたようで、的確な台詞が返ってきた。
女の淡泊な感情が気になり、なぜ冷静なのかと投げかけてみた。
「正気ではありませんから」
女は、狂気の笑みを浮かべて微笑んだ。どれぐらいここに居るのか知らないが、拷問で精神が壊れてしまっているようだ。
春斗は、理解できないと女に同情した。
「する必要はないでしょう。あなたは、ただ単にわたくしを拷問すれば良いのです」
信者の揺ぎない瞳を見て、春斗は何も返せなかった。
「もう再開していい?」
沈黙していたシーラが、ここぞとばかりに入ってきた。本人も望んでる以上、春斗には引き延ばす必要はなくなっていた。
「なんかやりにくくなったな」
シーラは頭を掻きながら、小難しい顔で女を見た。
「まあ、いいや。生成は人型にでも頼んで作ってもらえばいいから」
リンにできるかと訊くと、ナイフしかできないという返事が返ってきた。
これをシーラに横流しすると、それで十分だと云われた。結局、鋭利での拷問かと溜息が漏れた。
「そこは諦めるか、フローにでも作ってもらえば良い。その照明器具みたいに」
シーラは、リンの持っている照明器具を顎で指してそう云った。
「えっ!その器具を神祖が・・・」
女は、身を乗り出すように照明器具を凝視した。かなり興味を引かれたようだが、手足がないため動きは本当に微動だった。
「すみません、詐欺師。その器具を、わたくしに見せてくれませんか?」
そのあだ名は嫌なので、呼び方を改めてくれたら見せてもいいと条件を出した。
「はっ!」
すると、女が小馬鹿にするように吐き捨てた。
「あなたには、本名より詐欺師がしっくりくると思いますよ。いっそ、名を詐欺師にしてみてはどうでしょう」
そのあだ名が嫌なのに、詐欺師を名乗るなんて意味がわからなかった。
ここは相手を非難するように、性格が悪いと云ってみた。
「あなたに云われたくありません」
そう云われたので、シーラに代弁を頼んだ。
「えっ!なんであたしが」
なかなか悪くない反応に、自分以外に云われたいようだからと答えた。
「そんなこと一言も云っていません。勝手に変な解釈しないで下さい」
この電波は無視して、呼称を変えられないなら、器具は見せなられないと強情を張った。
しばらく黙って睨み合っていると、女が視線を落とした。
「仕方ありませんね。名はなんと云うのですか」
訊かれたので、本名を答えた。
「なら、略称で詐欺師ハルトでどうですか」
妥協したと思ったら、本名の頭に詐欺師を付けてきた。さすがにこれには、強い電波で抗議を発した。
「ふう、うるさいですね。わかりました。なら、いっそのことサギハルと略称すればいいでしょう」
最悪なことに、詐欺の部分を略称に組み入れてきた。
「それがわたくしなりの妥協案なのですが」
これには妥協でなくて撤回しろと、強めに抗議した。
「お断りします」
捕虜のくせに、こんな些細なことすら曲げないことは凄いと感じたが、それと同時になぜそこまで頑なかが気になった。
「わたくしは、同じことを云うのが嫌いです」
それはこちらも同じだと云い返した。
「しかし、あなたはもう既に二度云っていますよ」
ここで女が揚げ足を取ってきたので、云わされていると主張し、三度目はないと告げた。
二人は、睨み合ったまま再び沈黙した。
「えっと~、拷問が始められないんだけど~」
シーラが困り果てた顔をして、春斗たちを交互に見た。
もうここまでくると、交渉決裂だと云うしかなかった。
「そうみたいですね」
女は、諦めるようにそれを受け入れた。
「え~。生成が完了したら~、それで相手を責めます~」
交渉が決裂したところで、シーラが説明口調で話し始めたが、なぜかやる気が無くなっていた。
気になったので、テンションが下がっているシーラにどうしたのかと尋ねた。
「なんか~、あんた達の~、会話聞いていたら~、脱力した~」
これは悪くない流れと思い、拷問を取りやめることを促してみた。
「う~~ん、せっかくだし~、実演するよ~」
しかし、シーラの気の抜けた態度のまま、拷問の教育を続けると云ってきた。
あまりにもやる気が見られない為、無理するなとシーラを気遣った。
「やるって云ってるでしょう~」
すると、今度はだらけきった態度になり、表情がどんどん沈んでいった。
さすがにそれには、やる気あんのかとつっこんだ。
「あるよ~~~」
シーラはそう云って、ぶらぶらと頭の上で手を振った。手にはいつの間にか、短剣が握られていた。春斗たちの会話の最中に生成したせいで、集中力がなくなってしまったようだ。
「彼女の集中力はかなり短いですからね」
春斗の思考が漏れたようで、横から女がそう補足してきた。
フローランスの生成を見ている春斗は、一回の生成でここまで脱力するものなのかと疑問に思った。
「そんなの個人で全然違います。わたくしでも短時間なら数回の生成しかできません。それ以上やると、彼女みたいになりますね」
それならいつもどうやって拷問しているのかが気になった。
「いつもはその辺の物を使っていますね」
云われてみれば、広間に多くの拷問器具があったことを思い出した。
「じゃあ~、まず凶器で刺して~」
シーラは虚ろな目をして、脱力した体を左右に揺らしながら女に近づいた。まるで、糸の切れた人形のように見えた。
ここまで気が抜けるなら、生成なんてしなければよかったのにと忠告した。
「同感ですね。おそらくあなたが生成できないと云ったから、自慢したかったのでしょう」
これから外傷を受けるであろう女から、冷静な分析が返ってきた。
そんな子供じみたことをするとは思えないと云うと、シーラの思考はかなり幼いと女が口元を緩ませた。気のせいかもしれないが、その笑みは母親のような優しさを感じた。
ダルそうなシーラが、短剣で女の腹部を刺した。刀身が少しづつ腹部に入っていったが、女はそれを無表情で受け入れていた。
これには堪らず痛くないのかと、感想を訊いた。
「なぜ、あなたが痛そうにしているのですか?」
すると、女は呆れたようにそんな台詞を返してきた。
春斗は、単純に痛そうだからと答えた。
「同情ですか」
これが癇に障ったのか、嫌悪感を電波に乗せてきた。
刀身が根元まで刺さり、さらに短剣を捻った。かなりの血が流れていたが、女は特に痛がる様子は見せなかった。
『うっ!』
それを直視できず、春斗は反射的に目を逸らした。
「で~、傷をつくったら~、治療しま~す」
シーラは、ダルそうに短剣を抜いた。傷口から血が噴出して流れ落ちた。
「あっ~~!」
すると、シーラが何かに気づいて春斗の方に顔を向けた。
「生成したから治療できない~~」
切迫していた表情とは裏腹に、台詞は気の抜けた電波だった。どうやら、生成と治療は同等の集中力がいるようだ。
「どうしよう~」
シーラは、青ざめて一人困惑していた。顔は必死だったが、動きはだらけていて緊張感が伝わってこなかった。
「あわわわ~、このままじゃあ死んじゃうよ~」
しかし、本当に慌てているのはわかったので、止血だけでもすればいいと助言してみた。
「だから~、集中力がもうないって~~」
それならできる奴を、連れてこればいいとしか云えなかった。
「ここに配属されてるのは~、あたし達だけだよ~~。それに彼女の体質を完全に把握してるのは~、あたしだけだし~~」
体質なんて直接伝えればいいだろうと、シーラに返した。
「無理だよ~~。あたしは体質の比率を換算できないし~~」
どうやら、感覚で把握しているだけで、換算して人に伝えることができないようだ。
ここは本人にそれをさせるしかない気がして、女の方を流し見た。
「わたくしも換算できないです」
すると、女が血を流しながら、平静な電波でそう云った。とても自分の命が、危険だという緊迫感は伝わってこなかった。
春斗は感覚でできるなら、精確である必要はないのではと疑問を呈した。
「そんな事したら拒絶反応が出て、皮膚が壊死する可能性があります」
ここで女が冷静にその可能性を示唆してきたので、拷問的でいいんじゃないかと返してみた。
「そんな非人道的な!」
ここで初めて、女が今まで聞いたことのない戸惑いの電波を発した。というか、この世界では拷問の意味をはき違えられているような気がしてならなかった。
「そんなことより~、このままじゃあ、まずいよ~~」
どうしていいのかわからないようで、シーラはその場で頭を抱えてうずくまった。春斗の方は、シーラの言動に緊迫感がなくて酷く冷静さを保っていた。
「あの~、早くこの血を止めて欲しいのですが」
女は流れ出る血を見ながら、他人事のようにお願いしてきた。
とりあえず、確認のためにリンに訊いてみたが、淡泊に無理と云われた。
最後の手段として、自分でできないかと訊くと、それができればもう止めていると正論を返された。一応、止血すれば自己治癒が働くようだ。
「とりあえず、なんとかして下さい」
頼まれたので、辺りを見渡してひも状の物を探した。
しかし、包帯らしき物は見当たらないので、シーラに訊くことにした。
「なにそれ~?」
シーラに訊いても時間の無駄なようなので、拷問器具のある広間に戻って探し回った。その後ろからリンが付いて回った。
広間には、いろいろな物が散らばっていた。手に取る度に首を捻る物が多く、用途がまるでわからなかった。中には柄だけの剣、刃先だけの刃物、棘の付いた棒など明かに生成に失敗した物が目に付いた。一番不快だったのが腐敗が進んだ人の手足で、春斗は吐き気を抑えながら、できるだけそれらを見ないように探した。
結果的に、目当てのものが見つからなかった。
「め、目が霞んできました」
シーラ達の元に戻ると、女が力無く春斗に告げた。
「何か見つかったのですか?」
なかったと返すと、女は心底がっかりした表情で落ち込んだ。
時間も経ったので、シーラに止血ができないかを再度訊いてみた。
「う~ん。少しならできるかも~~」
シーラは自分の体調を確かめるように、全身をダルそうに揺さぶった。
そして、女の腹部に両手をかざし、治療を始めた。
しばらく見ていると、ある程度血が止まってきたので、春斗がポケットに仕舞ったネクタイを取り出し、シーラにどいてくれとジェスチャーした。
「ん~~?」
春斗の電波に、シーラはゆっくりとこちらを向いた。
「何するんですか?」
女が不安そうな顔で訊いてきたが、ネクタイをだけを見せて近づいた。
「あの・・・ちょっと怖いです」
恐怖からか、女は頭だけ後ろに逸らした。拷問に慣れているはずの女が、ここまで恐怖を電波に乗せてくるのには違和感を感じた。
「あ、あの、どういう拷問か教えてくれませんか」
拷問ではなく、ただの止血だと云うと、女はホッとしたように脱力した。
春斗がしゃがみ込んで、女の腹部の傷口を見ると、出血は若干収まっていて、血が固まり始めていた。治療のおかげか、女の体質なのかはわからないが早過ぎると感じた。
春斗は鼻を抑えていたハンカチを広げて、逆方向にたたんで傷口に当てた。その上から、ネクタイで腰に巻いて軽く縛り上げた。
止血が終わり、女から離れた。
「えっ!これで終わり?」
すると、女が巻かれたネクタイを見て、驚きの電波を発した。
ハンカチがなくなったことで、春斗は鼻での呼吸をやめて、口呼吸を意識するようにした。それでも臭うので、もう帰ることにした。
「帰るな~」
背を向けたところで、シーラが察したように気の抜けた電波で呼び止めてきた。
これにはまだ何かあるのかと、不機嫌な顔を全面に出してシーラの方を向いた。
未だにダルさが抜けない電波を聞くと、治療するときに重要なことを教えると云ってきた。
治療ができない春斗にとって、重要でも何でもないと鼻を押さえながら云い返した。
「う~~~~。なら、もういい」
春斗の態度が気に障ったのか、シーラが不機嫌そうな電波を発した。もう立つ力すら残っていないのか、その場にへたり込んだ。
春斗はそれを見てから、足早でその場を去った。
「あんた!拷問に向いてない!」
シーラが最後の力を振り絞って、強めの電波を発してきた。
『だよな~。俺もそう思うよ』
これは同意見なので、ぼそっと口に出して言ってみた。リンが声に反応して春斗をじっと見たが、意味はわからなかったようで、すぐに春斗から視線を逸らした。
春斗は歩きを速めて、拷問室を後にした。帰る途中に、民主組織の男に会うのを忘れていたことに気づいたが、臭いにやられて帰ることを優先させてもらった。
『まあ、今回は本末転倒だったから後で行くか』
春斗はそう独り言を呟いて、家路に就いた。
第三話 起点
編み物を終えたフローランスは、春斗たちの帰りを待っていた。
「遅いな~♪」
フローランスはそう云いながらも、表情は緩んでいた。
ちょっと暇なので、春斗が着ていた服の素材の糸を生成して、簡易的にリンサイズの服を作ってみることにした。
しばらく没頭して服を仕上げても、春斗たちは帰ってこなかった。
ベッドに仰向けになり目を閉じると、人の足音が聞こえてきた。フローランスはすぐさまベッドから起き上がり、玄関を見つめた。
扉が開き、春斗の顔を見ると嬉しくなって、自分から駆け寄っていた。
「遅かったね」
「まあな」
「それより服が完成したわ」
「えっ!早いな」
「そうね。自己最速かも」
これはリンに自分の服を着て欲しいという思いが、ポテンシャルを上げたのかもしれない。
「とりあえず着てみてよ」
「ああ」
ベッドには服が三着広げてあり、全て羽織り物だった。
「あれ?一つ多くない?」
「うん。遅かったからもう一着作ってみたの。試作だけどね」
最後に作った一着は簡易的に生成した毛糸の為、そんなに長くは維持できない作りになっていた。
「手軽に作るな~。おまえは」
「えへへ~、なんか調子良くって」
手軽と云われるのには抵抗あったが、褒められたのは素直に嬉しかった。
春斗は服を手に取って、全体を眺めた。
「軽いな、手触りが変だけど」
春斗の羽織物と比べると、手触りが悪いのは大目に見て欲しかった。
「デザインの評価は?」
「無難。というか、今着てるスーツとほとんど変わらない」
まあ、春斗の服に寄せているので、予想通りの感想だった。
「最初に文句云うから、弄れなかったわ」
フローランスはそっぽを向いて、拗ねた態度を取った。
「まあ、そのほうが助かるよ」
「その代わり、リンちゃんのは自分好みにしました」
ここは満面の笑みで、リンの服を手に取り勢いよく掲げた。フリルで花の模様が満遍なくあしらった力作を、是非ともリンに着て欲しかった。
「ワタシ、こっちを着てみる」
が、服を持っているフローランスを素通りして、リンは試作の服を手に取った。
「ど・・・どうして!」
この意にも介さぬ態度には、悲しさのあまり涙が出てきた。
「なんか、これ・・重い」
そんなフローランスを完全に無視して、リンは試作の羽織物をまじまじと観察した。
「そ、それは、毛で編みこんでいるからかなり重くなってるわ。手触りが良かったから作ってみたの」
泣くのを堪えながら、試作について解説した。
「やっぱり重い。それに動きにくい」
リンがそれを羽織って、手を上げたり回したりした。やはり毛糸だと重さがあり、動きに支障をきたすようだ。それは作っている最中に気づいたことだった。
「やっぱり毛糸より、炭素繊維の方がいいでしょ。だから、この服を・・・」
フローランスは持っている服をアピールしたが、断られるのが怖くて電波が小さくなってしまった。
「は?炭素繊維って、軽くて丈夫な繊維か?」
すると、春斗が驚いたように電波を発してきた。
「そうだけど?」
当たり前のことだと思っていたが、春斗たちの世界では非常識なのだろうかと不思議に思った。
「それを生成できるのか?」
「う、うん。私の服はだいたいは炭素繊維だけど」
「この服もか」
「勿論」
春斗の世界では珍しいのか、服を興味深く観察した。
「これ、重過ぎる」
リンは着た服を脱いで、ベッドに戻した。
「だ、だから、リンちゃんにはこれを」
二度目ということもあり、今度はつくり笑顔でリンに差し出した。
「はあー、仕方ない」
リンは変な仕草をして、フローランスから服を受け取ってくれた。(後々、これが演技だと気づいた)
「あ・・・ありがとう」
不満そうな態度よりも、受け取ってくれたことが嬉しくて涙が溢れた。
リンは受け取った服をじっと見つめて、軽いと電波を漏らした。
「リンちゃんのは、軽さを重視したから。あと、デザインも」
最後の台詞は、照れて頬を掻いた。
「か、変わったデザインだな」
春斗は、つくり笑いで曖昧な感想を電波に乗せた。その笑顔は、可愛いとは思っていないことが伝わってきた。
「ワタシには、そういう感受性は無い」
リンにはデザインの良さはわからないようで、無表情でそう呟いた。予想していたとはいえ、その淡泊な感想はちょっと傷ついてしまった。
「やっぱり私のデザインは、どの世界でも異様なのね」
「異様じゃなくて、独創的なんだよ」
フローランスの独白に、春斗がフォローを入れるように慰めてきた。
「独創的って、余計傷つくんだけど」
「じゃあ、ダサい」
云い直しの台詞が、フローランスの心に直撃した。
「もう何も云わなくていいから、少し落ち込ませて」
「わ、わかった」
フローランスがベッドに座って落ち込んでいると、春斗はリンに消臭を頼んでいた。
「よし!」
フローランスは気持ちを引き締めて、勢いよく立ち上がった。
「もう大丈夫なのか」
「べ、別にそんなに深刻でもないし・・・」
春斗の気遣いに、持ち直したはずの気持ちが沈んでいきそうになった。
「待て、二度落ち込まれるのは、居た堪れなくなるからやめてくれ」
「今の発言が一番傷つくんだけど!」
「ああ、ごめん。本音が漏れた」
「サラッと本音を漏らさないでよ!」
「まあ、それは置いといて、試着でもするか」
春斗は服を手に取って、話を逸らそうとした。それなら、最初っからそうして欲しかった。
「私、また落ち込む時間が欲しくなった」
「わかった。今から褒めるから立ち直ってくれ」
「それ、褒める前に言う台詞じゃないわね」
これには少し苛立ちながら指摘した。
「ちょっとフローランスの服を触ってみてもいいか?」
「え、まあ、別にかまわないけど。手触りは変わらないわよ」
突然のお願いに戸惑ったが、直接触れるわけではないので受け入れておいた。
春斗がフローランスに近づいて、服の袖口を触ってきた。この行為は少し新鮮で、ちょっとドキドキした。
「この服も軽いのか?」
「私自身が毛とか、綿の重さに耐えられないからね。必然的に軽くするのよ」
「そうなんだ」
春斗はそう云いながら、さりげなくフローランスの腰を両手で掴んだ。これには予想外過ぎて、身体が硬直した。
そして、何を思ったのか、春斗の腰を掴んだままフローランスを持ち上げた。
「へっ?」
その春斗のこの行動に、フローランスは唖然と春斗を見つめた。
「本当に軽いな」
春斗の電波で思考が戻り、顔がどんどん赤くなっていくのを自覚した。
「ちょちょちょちょっと!おおおお下ろして!」
フローランスは定まらない思考で、必死で手足をバタつかせた。
「ど、どうした?」
「い、いいいいいから、お、おお下ろして!」
なかなか下ろしてくれない春斗に、全身をつかって暴れに暴れまくった。
「わかったから落ち着けよ」
春斗は、困惑しながらもゆっくりと下ろしてくれた。フローランスは数歩後ろに下がって、乱れた呼吸をゆっくり整えた。
「顔赤いぞ」
「う、うるさいわね」
春斗の顔が見れず、素早く後ろを向いた。
「この行為は、そんなに恥ずかしいことなのか?」
「あ、あまり訊いて欲しくない」
「なんでだ?」
「云うのが恥ずかしいからよ」
「あの行為は恥ずかしいことなのか?それなら、今後の為に是非聞いておきたんだが」
「あ、貴方は羞恥プレイが好みなの」
恥ずかし過ぎて、春斗の方をチラッとしか見れなかった。
「参考までにだよ」
「あ、あれは告白よ」
ここまで食い下がられたら、もうどうにでもなれと思った。
「なんだよ。それだけかよ。身構えて損した」
が、春斗には大したことではないようで、滅茶苦茶軽いノリで云われた。
「そ、それだけって、貴方の世界ではそれが当たり前なの?」
これには驚愕して、思わず春斗の方を向いた。
「割と一般的かもな」
「か、変わってるのね」
「ところで何の告白なんだ?」
「えっ?こ、子作りのだけど・・・」
これを聞いた途端、春斗が音を出して膝から崩れ落ちた。
「そ、それはかなり恥ずかしい」
「と、当然よ」
春斗の態度の変わり様に、戸惑いながらもホッとした。どうやら、春斗の世界でも恥ずかしい行為のようだ。
「まあ、これからは注意するよ」
「う、うん」
フローランスは、少し複雑な気持ちで頷いた。この気持ちがなんなのか、今のフローランスにはわからなかった。
「この服はありがたくもらっとくよ」
春斗はそう云って、自分のベッドの端に置いた。
「今着ないの?」
「いや、もう眠いし。寝ようかと思ってる」
「また寝るの?起きてまだそんなに経ってないわよ」
「昼寝だよ」
「何それ?」
初めて聞く単語に、フローランスは首を傾げた。
「短時間寝ることだ。まあ仮眠だな」
「ふうん。よく寝るね」
ここまで寝るということは、きっと体重が重いせいだと思った。
「いろいろあったからな。少し休みたい」
春斗はそう云って、ベッドに寝転んだ。
「ハルト」
すると、リンが珍しく春斗に話しかけた。
「ん?どうした?」
「この服はダサいの?」
貰った服を春斗に見せて、リンが無表情で訊いた。
「俺から見たらダサいな」
「ふ、二人とも私をいじめて楽しいの」
この仕打ちには、苛立ちと悲しさが混ざった感情が沸き上がってきた。
「あ、いや、そういうことじゃないが」
これに春斗が、困った顔で視線を逸らした。
「フローランス」
リンが、初めてフローランスを呼んだ。
「えっ!」
それに驚いて、リンを凝視した。そして、あまりの嬉しさに涙が溢れてきた。(ここ最近、春斗とリンに大きく感情を揺さぶられている気がする)
「頼みたいことがある」
「な、何?」
「ハルトと同じデザインにして」
「え?でも、こっちの方が可愛いよ」
フローランスは、リンを説得しようと必死で電波を発した。
「お願い」
しかし、リンは無表情のままフローランスの目をじっと見つめてきた。
「うっ!」
リンの熱い視線に、フローランスはたじろいた。(若干、いや、かなり嬉しかった)
「ああ~~」
頼みを聞くべきか、自分のデザインを貫くべきかのせめぎ合いが頭の中で巻き起こった。
「・・・わかっ・・た」
リンに嫌われることを恐れて、最後は項垂れて承諾した。
「ありがとう」
ここで初めて、リンがフローランスにお礼を云ってくれた。
「ど、どういたいまして」
フローランスは、苦笑いでそう返事をした。お礼を云われたのは嬉しかったが、自分のデザインを否定されたことは悲しかった。
横になっていた春斗が、仮眠を取ると云って目を閉じた。
「あっ、180タウぐらいしたら起こしてくれ」
自分で勝手に起きればいいのに、わざわざ誰かに起こしてもらうというのは斬新だと思った。
「わかった」
これにはリンが答えた。
「じゃあ、おやすみ」
春斗は、よくわからないことを云って目を閉じた。春斗が寝たので、リンの服を作り直すことにした。
「リンちゃん、デザインはハルトと同じでいいの?」
「うん」
リンと話せるチャンスを逃したくなので、積極的に話しかけた。
「リンちゃんの好きなデザインとかないの?」
「人形に感受性はない」
「じゃあ、このままでいいのに・・・」
拘りがないのなら、作り直す必要がないと感じたが、それを云うと嫌われそうなので小さな電波で愚痴った。
まずは、元あるリンの服の刺繍をどうするか最初に悩んだ。作り直すにしても、無地の服になるのでやる気がおきなかった。しかし、リンに着てもらうことを考えると、手を抜くのは個人的に嫌だった。
そう結論付けたところで、奥の手を使うことにした。これは体力を極端に使うのでやりたくなかったが、丹精込めた服を捨てることは絶対にしたくなかった。
フローランスは、服を抱きしめてから目を閉じた。服の形を頭に思い描いて、取り除く刺繍の凹凸を無くしたイメージを付けたところで目を開けた。
「よし」
イメージができたことで、刺繍部分の除去にあたった。糸の入れ替えは、最速でやると糸がほつれるので、慎重かつ素早く生成することがコツだった。
出来上がった時には、立つ気力すらなく、ベッドに倒れ込んでしまった。服を無地にするのに、さほど時間は掛からなかったが、おかげで体力を極限まで持っていかれた。
「はい、これでいい?」
最後の気力を振り絞って、服をリンに差し出した。
「ありがとう」
リンは服を受け取って、お礼を云ってくれた。この謝意は、フローランスの心を温めてくれた。
「どういたしまして」
フローランスはそう返礼を云って、ゆっくりと眠りに落ちた。
第四話 歴史
フローランスが寝入ったところで、リンは服を羽織ってみた。軽さもさることながら、動きやすく頑丈だった。あんな短時間で刺繍を消したのは、見事だと心の底から感心した。
春斗の指定した時間になったので、起こすことにした。
電波を二度ほど送ったが、目を覚ます気配がなかった。仕方なく身体を揺すろうと思ったが、自分から触ることには抵抗があり、なかなか行動に移せなかった。
三度目の電波を強めに発したが、全く起きる気配がなかった。最大の電波を発すると、フローランスまで起こしてしまうので、それはできなかった。
考えた末、ナイフを生成して柄の部分で慎重に揺すった。
そこでようやく春斗が目を覚ました。頼まれてから200タウ近く経っていた。これはちょっと申し訳ないと思ってしまった。
春斗は起き上がって、音で何かを伝えてきた。リンがキョトンとしていると、彼が電波でありがとうと云った。どうやら、あの音はありがとうの意味らしい。
春斗が隣のベッドに寝ているフローランスを見て、いつ寝たのかと訊いてきた。
リンが50タウ前と答えると、春斗の興味がリンの服に移った。春斗は服の仕上がりよりも、この短時間で作り上げたことに驚いていた。それはリンも同じで、人の業ではなく神業だと絶賛した。一応、フローランスが寝ていることを確認してからの賛辞だった。
さすがに褒め過ぎだと思ったのか、一体何を見たのかと訊かれてしまった。確かに褒め過ぎたかもしれないが、あれを見れば全員が同じことを云うのは間違いなかった。
そう思っていると、春斗が馬鹿にされているように感じたらしく、怪訝そうな顔でリンを見てきた。
生成のできない春斗には、その難しさはわからないのも仕方ないとフォローしておいた。
それより、これからどうするかを春斗に訊いておきたかった。
春斗は拷問室に行くと云うので、明確な理由を訊くことにした。
これにはただ捕虜の男に会いに行くと云って、明確な答えを返してくれなかった。
行く場所はわかったので、リンは玄関の傍に置いた照明器具を手に取った。器具は少し光が弱まっていた。
そろそろ消えそうと春斗が云ったので、消えるであろう時間を正確に教えた。
なぜそれを云えるかを不思議に思ったのか、春斗がリンに対して疑問を投げてきた。
説明しようとすると、春斗が首を横に振って教えなくていいと拒否してきた。確かに、電波での説明するのは難しいと思っていたので、こちらとしても助かった。
春斗は、フローランスの作った服をスーツの上から羽織って、その手触りを再び確かめた。
そして、フローランスを置いて、春斗と一緒に拷問室へ向かった。
外に出ると、春斗が閑散としていることをわざわざ電波に乗せてきた。人がいないことは当たり前だし、出歩く人の方がこの世界では珍しいことだった。
それよりもいつここから出るかが気になり、春斗に尋ねた。この組織にいる意味がない以上、個人的には早めに行動してもらいたかった。
しかし、春斗はのんびりと状況が変わるまで動くのは得策ではないと云い切った。どうやら、組織同士の争い時が一番抜け出しやすいと考えているようだ。正直、その考えは無意味だと思った。
それまで待つなんて、気が遠くなりそうなので、起こらなかった場合どうするのかを訊いた。
これに対して、春斗は悠長に希望的観測な上、期限を30240タウという長い期間を提示してきた。ちなみに、春斗の世界では7日間だそうだ。7日は1週間と云われたが、何を指すのか理解できていなかった。長くここに留まるのは不本意ではあるが、ちゃんと期限を制限しているなら、リンとしては文句はなかった。
拷問小屋に着くと、春斗が何かを取り出そうとしたが、無い事に気づき音を発した。
どうしたのかと訊くと、鼻に当てていた布がないことを忘れていたそうだ。あんな短時間でそのことを忘れるなんて、リンには驚きだった。
拷問室の広間まで来ると、シーラが地べたに横になって眠っていた。
春斗は、起こさないように忍び足で通り過ぎた。今回はシーラに許可は取らないようだ。おそらくだが、寝ているシーラに気を使ったのだろう。
男のいる牢を開けて、春斗が中に入った。照明器具を持ったリンがその後ろに続くと、牢の中が照らされた。前より光が弱く、奥までは照らさなかった。その牢の中には、手足を切り落とされた男が、布切れ一枚を巻いていた座っていた。
短髪で垂れ目の男がもう来たのかと云うと、春斗が一応と返した。一度来たことは照明器具の光でわかっていたようで、短時間で戻ってくるとは思っていなかったらしい。
春斗はなんとなくここに来たようで、特に用事もなく、春斗の世界のことを教えに来たわけでもないと云い切った。
呆れている男に、春斗が暇だから尋問でもするかと云った。臭いで長く居られないはずの春斗が、なぜわざわざそんな意味のないことをするのか不思議で仕方なかった。しかし、逆に無駄なことをするのが、人かもしれないと思い直した。
ここで春斗が、シーラに拷問されたと示し合わせて欲しいと男にお願いした。どうやら、徹底して拷問はしたくないようだ。殺すだけの拷問なんて、時間の無駄なのでリンもそれには賛成だった。
ここからお互いの世界のことを、曖昧に牽制し合った。この二人のやり取りは、リンにとっては異次元のやり取りで思考が追い付かなかった。
それが終わると、男が輪廻転生と云う単語を電波に乗せた。
春斗の世界でもその単語は存在しているようで、知っているとだけ答えた。が、語尾に仏語というよくわからない単語を使った。
男も疑問に思ったようで、仏語とは何かと訊くと、宗教だと返してきた。春斗の世界にも、宗教があることは興味深かった。
輪廻の話を持ち出したことが気になったのか、春斗が何かあるのかと尋ねると、男は人の魂が有限だと思うかと疑問を投げた。
これには春斗が、馬鹿げてると一蹴した。
しかし、男は驚きもせず当然の反応だと微笑した。表情を見る限り、男も輪廻転生は信じていないようだった。
男は、この世界は魂が有限だと云うことを嘲笑しながら云い、ある一定の人数に達すると、人が生まれてこなくなると補足した。輪廻転生なんて、リンには初めて聞くことで、個人的に興味深かった。
これに春斗が、そんな馬鹿なと信じられないような顔をした。
男は話は続けて、輪廻転生が争いの種になっていると告げた。
この事実が春斗には理解できないようで、人には寿命があり、殺し合う意味があるのかと投げかけた。寿命の意味がわからなかったが、春斗の簡易的な説明によると人はいずれ勝手に死ぬらしい。
これには男が、電波を発して大笑いした。
春斗は不愉快な顔をして、じれったそうに説明を求めた。
そんな春斗を見て、男は謝りながら基本的なことから説明しようと偉そうに云った。お互い食い違いがあると感じたのは、春斗も同じようで特に異論ない感じだった。
男は人は半永久的に生きると云い、病もなく寿命もないと語った。病と寿命は知らないが、半永久的に生きることはリンも同じように学んでいた。
すると、春斗が考え込むように、人は不死化を体現したのかと呟いた。
この台詞に、男が体現という表現は変わってると云い、不死ではないことを訂正した。ここまでのやり取りで、病と寿命がリンの頭に残った。
春斗は、この世界での人の体質の詳細を訊いた。これは体質が違う春斗としては、当然と云える疑問だった。
男は通説として、真核単細胞生物を体内に取り込み、生成と分解を繰り返して、循環させていると説いた。しかし、その説明では信用できないようで、春斗はずっと怪訝な表情をしていた。
それを見た男は、自分の切り落とされた腕に話を移した。どうやら、自分の腕で例え話をするようだ。
切り落とされた身体の一部は、基本的に腐敗が進んで皮膚も骨も残らず消えるのだが、消える前に接合することは理論上可能だった。
春斗がまた生えてくるのかと訊いたが、それはほとんど不可能に近かった。形付いたものが欠損し、消滅すれば修復できないのは常識だった。(非常識な例はあるらしいが、リンは見ていないので信じてない)
訝しがっている春斗に、男が試してみればいいと挑発したが、彼はそれに乗らなかった。別に試しても、あそこまで腐敗が進んでいれば接合は困難なので、やってもやらなくても結果は変わらないと思った。
春斗は話を変えるように、どうやって肉体保持をしているかを訊いた。フローランスから聞いていたはずだったが、詳細に聞きたかったようだ。
男は呼吸で空気の元素を取り込み、それを結合して肉体を保持していると答えた。
これに春斗が異常だと云うと、男は自分自身も今の説明に違和感を感じていると訳のわからないことを云い出した。この考えは、フローランスが自分たちは異常だと云ったことと酷く似通っていた。リンには、この共通の異様性は気持ちが悪かった。
二人は話しながら、肉体保持から侵蝕の話に移行していった。前にリンが教えていたが、別の視点からの情報も欲しいようだ。
ここで男が、体中の真核単細胞生物のことから話を始めた。ここはリンと違う入り方だった。
真核単細胞生物は細胞に寄生し、体質が酷似してたら問題ないが、全く異なると拒絶反応が出て、細胞が壊死して死に至ると男は説明した。
春斗はそこまで聞いて、感染症と云い切った。どうやら、これが病というらしい。リンにとって、それは新しい情報でもあった。
接触時間は1タウで、時間単位の基準が接触限界時間になっていた。春斗もそれに気づいたようで、得心がいった顔で指摘した。
侵蝕の話が終わると、今度は輪廻の話が戻った。話の流れでは、順当に思えた。
男の話だと、人が増え始めてしばらくして人が生まれなくなったらしい。この話はリンも初めて聞くものだった。
この世界での子作りは、真核単細胞生物が寄生している細胞同士を合わさることで人が生まれるらしい。要するに、子作りとはお互い合意の上で、細胞を切り落とす行為だそうだ。初めて知ることだったが、リンには関係のない話だった。が、なぜか少し興味を覚えたことは否めなかった。
春斗が手軽に子作りできるんだなと呆れたように云うと、男はあれは体力がいることで、身体の一部を欠損させるから簡単ではないと真顔で返した。
誰でもできるかと春斗が訊くと、それだと性別の意味がないことを告げ、遺伝子のことを考えれば男女の細胞でしか子は生めないと語った。
話が戻り、人を生んでも死んでしまうということが何度か続く中、そこに自称科学者が現れたそうだ。春斗がこれに首を傾げると、男がそれを察し、自分でそう云っていたと補足した。
その科学者が出生を解決する為に、大衆の前で人を殺して、その場で子を作ると、生きて生まれたそうだ。その噂が一気に広まり、同じようなことをする人が多く出てきたらしい。
それに春斗が不愉快そうに胸糞悪いと云うと、男もそれに同意した。生むために殺すというのは酷く矛盾していると、リンも感じた。
話はまだ続き、それからしばらくして、一人の男が行動を起こしたそうだ。その人物は大の人嫌いで、自分さえも嫌っているという変人だったらしい。
その人はあまりにも人が嫌いで、遂にはその衝動が抑えきれず、次々と人を殺していったそうだ。
ここで春斗が、この世界での殺人鬼は最悪に近いと感想を述べた。確かに、人の繋がりが薄いこの世界では、最悪なことは間違っていなかった。
情報が回らない世界で、殺人鬼は全人口の半数近く殺して回ったらしい。しかし、云い伝えのようで、数は水増しされた可能性があると男は補足した。
そうなって初めて、人は結束を決意したそうだ。あまりにも遅いとは思うが、リンには十二分に納得できた。
人は対抗策として、形だけの組織をつくったが、すぐに問題が発生したそうだ。
それは統率者の選抜だったらしい。この選抜にはかなり揉めたようで、死傷者も出したみたいだ。これには、馬鹿としか云いようがなかった。
最終的にトップが決まり、その組織が武力組織を名乗ったそうだ。
強者が統率者になることで、組織が丸く収まったと男が云うと、春斗が牛耳っただけだろうと呆れながら指摘した。
しかし、これで殺人鬼の対策ができた訳ではなく、トップが強者なら対策なんて、逃げるか迎え撃つかだけだったそうだ。いかにも強者が考えそうな対策で、春斗も呆れ顔のまま組織の意味がないとまで云った。
これがダメだと気づくと、情報網を張り巡らせたが、結果は散々だったらしい。それをしても、根本の対処が逃げるか迎撃ならそうなるのは必然だった。
そこでようやく、組織は殺人鬼の抹殺に動き出したそうだ。全部が後手に回っていて、なんともお粗末な組織だと思った。
多勢に無勢でなんとか殺人鬼を追い詰めたそうだが、殺人鬼の親が邪魔をして逃してしまったらしい。これにはちょっと驚いてしまった。
人嫌いの殺人鬼が、親に助けられるなんて、皮肉な話だと男が云うと、春斗も頷いて同意した。この二人の価値観は、思いのほか一致しているところが多いようだ。
結局、親が殺され、殺人鬼には逃げられたそうだ。さすがに逃走の考慮までしなかったみたいで、組織総出で殺人鬼を探し回ったが見つけられなかったらしい。
これに春斗が、千載一遇を逃したのかとよくわからない単語を電波に乗せた。
男がどういう意味かを尋ねると、春斗が365250日をタウに直して欲しいとリンに頼んできた。日の計算はフローランスと一緒に聞いていたので、瞬時に計算して答えた。
すると、春斗がそれを用いて、1577880000タウに一度の稀な機会という意味だと説明した。
気が遠くなる時間に、男は納得しながら今はそんなチャンスはないと断じた。春斗が不思議そうな顔をすると、その殺人鬼は今は独立組織のトップだと告げた。これにはリンが、一番動揺した。まさかここでシーレイの名を聞くとは思ってもいなかった。この瞬間、リンの頭の中で、シーレイの情報が大幅に更新された。
春斗は驚いた表情で、殺人鬼が今では人をまとめているのかと勘違いの電波を発した。
それに男が否定して、独立組織には人形しかいないと云った。これは事実だった。シーレイが殺人鬼だったことには驚いたが、行動は今でも一貫していた。人形に反応したのか、春斗がリンを見て気まずそうな顔をした。
男は話を続け、殺人鬼は組織に対抗する為に、人形を率いて自分の組織をつくったそうだ。
春斗は人形を作った人が気になったようで、シーレイが人形を生成したのかと訊いた。
男はそこまでは知らないようで、憶測で違うだろうと云った。理由としては、人形はかなり精密で一人で多数の生成は無理だと断言した。これは間違っていなかった。シーレイはあくまで教育者で、人形作りには携わっていなかった。
この流れで、リンは誰に作られたかを春斗に訊かれたが、それは教えてもらっていないので、知らないとしか答えられなかった。
人形に重要なことは云わないだろうと、春斗が勝手に解釈すると、男も意味ないだろうと付け加えた。
話が戻り、二つの組織の諍いが始まったところから話を再開した。
戦火はいろんなところに飛び火して、人形が無差別に人を殺していったそうだ。そんな中で、組織外の人が多く殺されていったらしい。
春斗が呆れるように、もう輪廻とか関係なくなってると指摘すると、男が早合点するなとしたり顔で云った。
独立組織は、人の魂を人形に移すことで、人の増殖を止めるつもりだと云い切った。これには個人的に衝撃的を受けた。それが事実だとすれば、死への願望がさらに強くなった。
シーレイのやっていることに、春斗が得心していると、男が魂が有限なら可能になると付け加えた。
とても殺人鬼のシーレイが考えたとは思えないと春斗が考察すると、男もそれに同意した。そして、裏で誰かが糸を引いているとまで云い切った。二人の考えは間違いではなかったが、シーレイに思慮がないという憶測は間違っていた。
男は話を戻し、組織外の人たちは諍いを止める為、新たな組織をつくったそうだ。
春斗が民主組織かと尋ねたが、男はすぐに否定した。そして、問題を出すかのように弱者が取る行動を春斗に問いかけた。
それに春斗は、呆れたような間を取って祈りと答えた。
すると、男はおかしそうに正解だと返した。
ここで男が小馬鹿にしたような電波で、人々は神という名の悪魔を崇めたと云った。悪魔というニュアンスに、春斗が首を傾げた。
男はフローランス・アーミファンスの名を上げ、この世界に来たのなら、この名は聞いたことはあるだろうと得意げに云った。知っているも何も一緒に行動していると、危うくリンが云いそうになった。
春斗は、冷静に知っているとだけ告げた。どうやら、一緒にいることは伏せるようだ。
男は話を続け、弱者はフローランスを神として崇めるうちに、信者は日に日に増えていき、巨大な組織にまで成長していったそうだ。
ここからはリンも知っている話だった。
信者たちは、フローランスに諍いを止めて欲しいと願い出たが、彼女はそれを強く拒んだ。終結できる諍いを、彼女は組織の殲滅という形で終わらせた。
それを知った弱者は、神に頼ることを諦め、民主組織という名の組織をつくり、今は二つの組織に対抗している。
これに春斗は関心を示したが、民主組織の対策は武力組織とは話し合い、人形からは逃げるという単純なものだった。
それを聞いた春斗が、対抗じゃないことを指摘すると、男が殺されないことが対抗になると云った。確かに、輪廻転生が信じられていれば、それは大きな抵抗になると思った。
これでこの世界の歴史は終わりだった。春斗は、最後に民主組織は臆病者の集まりだと揶揄した。男もそれに同意して、自分は小心者だと卑下すると、春斗もそれに便乗した。この二人は、本当に似た者同士のようだ。
民主組織の動向が気になるのか、春斗が今は人形から逃げ回っているのかと訊いた。これはなかなかいい質問だと思った。
男は、今は一か所に集まって身を潜めていると答えた。この情報は吉報と云っていいほどのもので、今すぐにそこに行くべきだとリンは思ったが、春斗に付き従っている以上、こちらからの進言はやめておいた。
ここで春斗が、見つかったら民主組織が一網打尽になると勝手に心配した。
しかし、男は問題ないと得意げに云った。春斗が理由を訊くと、逃げるのはどの組織よりも優れていると自慢げに語った。かなり格好悪い台詞だが、民主組織の人は本当に逃げ隠れが得意で、リンも何度か逃がした経験はしていた。
話が終わり、春斗が律儀にありがとうとお礼を云った。最後まで、捕虜と執行者の立場が見受けられないやり取りだった。
春斗は思い出したように、いまさら男の名を訊いた。知る意味がわからなかったが、春斗なりに何か考えがあるのだろうと勝手に思うことにした。
男は一度名乗ることを否定したが、春斗が教えろと命令すると、渋々カーミルと名乗った。命令されて名乗るのなら、なぜ一度拒否したのか、リンには全く理解できなかった。
春斗は、別れの挨拶とその名を電波に乗せてから牢を後にした。リンも黙ってその後に続いた。
広間に戻ると、シーラはまだ寝ていた。春斗が素通りしたので、リンも音を立てないように通過した。
外に出て、春斗は音を出して深呼吸した。これはもう決まり事になっていた。
春斗がこちらを向くと、どうしたのかと訊いてきた。特に聞く素振りをした訳ではなかったので、少し驚いてしまった。
ここで訊くのが自然と思い、春斗に輪廻はあるかと尋ねた。
これに春斗は、誰も実証したことはないからなんとも云えないと首を横に振った。
しかし、この世界では実証していると云うと、あれば実証とは云えないと断じた。確かに、信憑性に欠けるとは思ったが、輪廻を信じたいという思いが強く残った。
すると、春斗が云いにくそうにそもそも生まれなくなった原因が一番怪しいと疑問を呈した。誰かが意図して、輪廻という概念を定着させようとしてる感じがするとも付け加えた。春斗としては、輪廻は信じるに値しないようだ。
しばらく、リン達は無言で歩いた。その間、リンは輪廻について考えていた。人に憧れているリンにとって、輪廻転生という希望を信じたいが、春斗の云うことも理解できた。
家が見えてきた辺りで、照明器具の照度が徐々に落ちていった。
春斗にそれを告げると、タイミングが良かったと云って、照明器具が消える瞬間を一緒に見届けた。それは静かで、なぜか安らぎを感じている自分がいた。
が、それも長く続かず、家から勢いよく出てきたフローランスの足音で、静寂がかき消されてしまった。
第五話 強襲
フローランスはゆっくりと起き上がり、ベッドから立ち上がると誰もいなかった。ここ最近、生成に体力を奪われて、寝る時間が増えていた。
玄関にあった照明器具がないことを見ると、また拷問室にいったようだ。あんなに嫌がっていたのに、積極的に行く春斗の行動はあまり理解できなかった。
背伸びして、身体の調子を確かめたが、快調とはいえなかった。拷問室に行こうかと考えたが、春斗たちが戻るのを待つことにした。
待ち遠しい気持ちで春斗たちを待っていると、扉がゆっくりと開いた。笑顔で迎えようとしたが、待ち人ではなかった。
「なんか用?」
フローランスは表情を瞬時に変え、来訪してきたライラを迎えた。
「人形が攻めてきました」
これにはすぐさま立ち上がり、春斗たちの元へ走り出した。
家から出ると、ちょうど春斗たちが正面に見えた。これには安堵して、走る速度と表情が緩まった。
「どうかしたのか?」
フローランスが飛び出して来たことに、春斗が不思議そうに首を傾げた。
「人形が攻めてきたって」
一応、人形は脅威なので、危機感を煽るように状況を伝えた。
「ここに?」
「当たり前でしょ。とにかく、ここから出たほうがいいわ」
フローランスが急かすと、家からライラが出てきた。
「あれ?ライラもいたのか?」
「彼が伝えに来たからね」
「あっちは、かなり余裕みたいだな」
ライラがこちらに気づき、歩み寄ってきた。確かに、ライラには焦りは見られなかった。
「丁度良かった。今、独立組織がこちらに侵攻してます」
ライラは、ゆったりと春斗にそう伝言を伝えた。
「えらく落ち着いてるな」
「もう慣れていますので。ああ、ついでにシーラにも伝えてもらえませんか」
「迎え撃つのか?」
「その為の組織ですので。しかし、この場所からは逃げることをお勧めします」
「どうして?」
「今、ここは手薄ですから」
「は?手薄?結構いただろ」
ライラの台詞に、春斗は不思議そうに周りを見回した。
「フローの暴走で、もうこの地に人はいません」
「えっ・・・」
これには驚いた様子で、春斗がフローランスを凝視してきた。フローランスは苦笑いをして、春斗からすぐさま視線を逸らした。
「み、みんな臆病者ね」
何か云わなければと思い、逃げ出した人を貶してしまった。これは自分を正当化しようとするフローランスの悪い癖だった。
「まあ、仕方ないか。シーラに逃げろと伝えればいいのか?」
「ええ、逃走か、待機かを判断させて下さい」
「わかった。それで捕虜はどうするんだ?」
「放っておいても構わないでしょう。それでは、私は王の元に戻ります」
ライラはそう云って、闘技場の方向転換した。
「ちょっと待て」
すると、春斗がライラを呼び止めた。
「出口は何箇所ある?」
「ああ、右と左に出入り口はあります」
春斗の問いに、ライラは両手で東と西を指した。フローランスたちが、入ってきた場所と逆方向の場所だった。
「人形はどこから入ってきてる?」
「東の方向からです」
どうやら、フローランスたちが入ってきた場所からのようだ。
「そうか。ありがとう」
「それでは、逃走に成功したら、またここで会いましょう」
ライラは頭を下げて、闘技場に向かって走っていった。
「じゃあ、行くか」
春斗は面倒臭そうに、拷問小屋に足を向けた。
「そうね。あ、照明は消えたんだ」
フローランスは、リンの持っている照明器具を見て残念に思った。
「ああ、さっき消えた」
「あんまり、持たなかったね」
「結構、長いと思ったけど」
「そう?まあ、しょうがないか」
丁寧に作った分、化学反応は適当にしていたので、今度作る時は少し改良してみようと思った。
「さっさと行きましょう」
フローランスは思考を戻して、春斗を急かした。
「確かに、人形とは戦いたくないしな。ちょっと急ぐか」
春斗がそう云うと、リンが走り出したので、フローランスもリンの後ろに続くことにした。
「ちょっと待てーーー!」
すると、いつの間にか遠く離されていた春斗が、怒号と共に呼び止めてきた。横並びで走り出したせいで、春斗が置いてきぼりを食っていた。
「あっ!」
フローランスはそれに気づき、足を止めてた。リンも少し先で停止し、フローランスと同じように振り返った。
「おまえら速過ぎるんだよ!」
春斗は追い付いたところで、フローランス達に文句を云ってきた。
「そういえば、鈍足だったわね」
「悪かったな」
フローランス達は、春斗のペースに合わせて拷問小屋までゆっくり走った。
拷問小屋に入り、階段を下りると、広間でシーラが横になって寝入っていた。
「寝てるわね」
「ああ。どうする、起こすか?」
春斗はそう云って、シーラに近づいた。
「ダメ!」
これには慌てて、叫ぶかたちで春斗を止めた。
「ど、どうしたんだ?」
春斗は、驚いたように振り返った。
「シーラに直接触ることはやめて」
「なんでだ?1タウ触れなければ、問題ないんだろう」
どうやら、侵蝕ことはリンから聞いているようだ。
「シーラは例外なのよ」
が、シーラは特殊な体質なので、侵蝕の定義からはかけ離れていた。
「回りくどいな。説明してくれ」
「簡単な話、貴方とシーラの相性は最悪なのよ」
「マジで!」
これには驚いたように、シーラから距離を取った。
「というか、シーラはほとんどの人と相性が悪いわ」
「どういうことだ?」
「シーラは、真核細胞付きの悪性腫瘍の塊なのよ」
「全部が、がんって事か」
「がん?」
聞いたことのない単語に、フローランスは首を傾げた。
「悪性腫瘍のことだ」
どうやら、春斗たちの世界では別名が存在しているようだ。
「でも、腫瘍って、感染するのか?」
「かん・・せん?もしかして、侵蝕のこと?」
「ああ、そういえば、ここでは侵蝕だったな」
「侵蝕は、細胞に寄生するから相性が悪いと致命傷になるわね」
「みたいだな。だけど、悪性腫瘍って無制限の増殖じゃなかったっけ?シーラにそんな症状は見られないけど」
「悪性腫瘍の塊と云ったでしょう。一種類なら限りなく増殖するだろうけど、シーラの場合複数だから、互いに食い潰し合ってるのよ。だから、膨張も拡大もしてないわけ」
「う、嘘・・だろ」
これを聞いて、春斗がシーラからさらに一歩後ろに下がった。
「正直、私にも彼女の体質がよく掴めてないのよね。まあ、奇跡でいいじゃない?」
「軽く云うのな」
「そう?普通でしょう」
フローランスがそう云うと、シーラが寝ぼけ眼で身体を起こした。
「うるさ~~い!」
電波がうるさかったようで、かなり不機嫌に怒鳴ってきた。
「せっかく、久しぶりに寝てるのに邪魔するな!」
「それは悪かったわね」
悪いとは思ったが、シーラを見下すような態度で返してしまった。
「あれ、アミ?なんでいるの?」
「用事があるからよ、貴女に」
フローランスはそう云って、春斗の方に視線を向けた。伝言役は春斗なので、説明は彼に任せた。
「あたしに?」
シーラは春斗の方を向いて、自分を指さした。
「ライラからの報告だ。独立組織が攻めてきたから、ここに残るか、逃げるかを選択させろだってさ」
春斗は、ライラからの伝言を淡々と伝えた。
「ふうん。じゃあ、待機で」
シーラは迷うことなく決断し、再び地べたに横になった。
「って、寝るのかよ!」
これには春斗が、すかさずつっこみを入れた。
「うるさいな~。報告が終わったなら帰ってよ」
危機感のないシーラは、煩わしそうに春斗を睨んだ。
「あ。そうだ」
すると、シーラが何かを思い出したように身体を起こした。
「あれ、持ってって」
シーラは薄暗い奥の方を指差して、春斗に対してそう云った。
「あれってなんだよ」
春斗は目を凝らしながら、奥の方に歩いていき、地べたに置かれた何かを拾って戻ってきた。見ると、鼻を当ててた布と、最初に会った時に首にぶら下げていた紐だった。
「もういいのか」
「うん。出血は止まったから不要」
「って、汚れたまま返すのか」
春斗は呆れながら、赤く染まった布と紐を見つめた。
「問題あるの?」
それに対して、シーラが悪びれることなく首を傾げた。
「まあ、いいけどさ」
「私が分解してあげるわ」
ここは出番だと思い、春斗の持っている物を奪い取り、付着した血液を素早く分解した。
「はい」
「ああ、ありがとう」
春斗は渡された布を受け取って、お礼を云ってくれた。それだけなのに、フローランスの心は満たされた。
「ああ、それと捕虜はどうするんだ?ライラは放っておけって云ってたけど」
「ミイス以外は、どうでもいいんじゃない」
「ミイス?」
「信者の名よ」
「ああ、止血したあの女か」
「もういい?眠っても」
シーラは眠そうな顔で、その場に寝そべった。えらく悠長なシーラの態度に春斗は呆れていたが、彼女が危機感を持つなんてあるはずもなかった。
「もう一ついいか?」
「まだあんの?」
「ミイス以外の捕虜を連れて行ってもいいか?」
「は?」
これにはシーラが、眠そうに春斗を見た。
「なんでまた?」
「身代わりは多いほうがいいからな」
これは嘘だと、フローランスはすぐに直感した。
「なるほど。好きにしていいわ。でも、まともに連れ出せるのは、民主の男だけね」
「ん?もっといただろう」
「あれは、もう人じゃないから」
どうやら、他の捕虜はシーラに毒されてしまったようだ。
「元々捕虜が人じゃないってことか?」
「違う。侵蝕で腫瘍が全身に転移したから、もう人と呼べなくなっただけ。意識もないし、未だに増殖し続けてるわ」
「生かしてるんじゃないのか?」
「生きてるよ。ただ人ではないだけ。見たいのなら、奥の左の牢に入ればいい。触れたら、侵蝕されるけど」
「・・・やめとくよ。二人以外全員か?」
「うん。原型を保ってる人は皆無かな」
「なら、男だけ連れて行こう」
「でも、そんな余裕あるの?」
「何が?」
「人形はそろそろ来るんでしょ。手足がない人をどう連れ出すの?担ぐの?侵蝕されるよ」
「・・・フローランスって、手足の接合ってできるのか」
話の流れからして、男の手足を繋げて欲しいらしい。正直、春斗とリン以外の人を助けたいとは思わなかった。
「人によるけど、最低でも1000タウぐらいは掛かるかも」
でも、春斗の頼みなら受けてあげたいと思う気持ちは、ここ最近本当に強くなっていた。
「そんなに早くできるのはあんたぐらいだよ、アミ」
自分の基準が異常なのは知っているが、フローランスより自己治癒能力を持つシーラにそんなこと云われたくなかった。
「そんなに待てないな」
「あたしが手伝ってあげようか」
すると、シーラが余計な手助けを申し出てきた。
「え!どうやって」
春斗は驚いた顔をした後、訝しげな顔でシーラを見た。
「侵蝕で」
「だろうな!」
なんとなく予想はしていたようで、春斗が呆れたようにつっこみを入れた。
「結構、早く接合するわよ」
「転移もするだろ!」
やっぱり春斗のつっこみは、タイミングと電波の強弱がうまく、聞いているフローランスも面白かった。これは天性のものだと感じた。
「まあ、時間の短縮にはそれ相応対価を背負わないと」
「代償大きすぎるぞ」
「そうかな」
シーラが表情を変えず首を傾げると、春斗がフローランスを見て、ぼそっと何か音を出した。どうやら、フローランスの悪口を音に乗せたようだ。
「どうかした?」
気になったので、直接訊いてみることにした。
「なんでもない。シーラは寝てていいから」
春斗は話を逸らすように、シーラにそう云った。なんでもないと云われたら、もう訊くことはできなかった。
「そう。わかった」
シーラはそう云って、ゆっくりと目を閉じた。
フローランス達は、シーラを置いて通路に入った。
「あいつ、ここに残っても平気なのか」
状況が状況だけに、春斗がシーラを心配した。
「シーラは、滅多な事では死なないわ。というか、殺せるのかしら?」
これは個人的な興味だったが、人形如きに殺されるとは思えなかった。
「意味合い的に不死なのか」
最後の台詞が気になったようで、半信半疑で訊いてきた。
「どうかしら、私にとっては今生きている人はみんな不死だけど」
「茶化すなよ」
「別に、からかってるつもりはないわよ。シーラは不死ではないけど、侵蝕と治癒は私以上よ」
「そうなのか」
春斗は牢に入る前に、さっきの布で鼻を覆った。おそらく、空気中に漂うアンモニアとトリメチルアミンに反応したのだろう。
「またか」
男が呆れた台詞で、こちらを出迎えてきた。
「久しぶり」
ここでなぜか春斗が、明るく挨拶した。
「久しぶりって、そんなに時間経ってないだろう。照明器具はどうした?」
春斗と捕虜の立場が、ここまで対等になっていることにはちょっとばかり驚いた。
「化学発光が終わった」
「そうか。で、なんか用か?」
「ああ、人形が攻めてきた」
「それはやばいな」
「どうする?」
「何が?」
「ここに残るか、連行されるか」
「連行?」
「俺たちと同行すると云う意味だ」
「それは知ってる。なぜその提案をするのかを訊きたい」
さすがの男も、少し警戒しているようだった。
「興味があるからだな」
これに春斗が、誇張してよくわからない返しをした。
「俺は、興味の対象かよ」
「カーミル、おまえにとっての生死の価値はどの程度だ」
話の流れとは関係のないような台詞を、今度は尊大に云った。カーミルとは、男の名のようだ。
「ふん。意味のない質問だな」
それをカーミルは、鼻で笑って一蹴した。
「そうかもな。で、どうする?」
すると、春斗も笑ってそう返した。この二人のやり取りは、長年連れ添った相棒のように見えて、かなり嫉妬してしまった。
「いいだろう。連行されてやるよ。だが、手足の治癒には、かなり時間が掛かるぞ」
「どれくらい掛かるんだ?」
「早くても、1350タウだな」
「掛かりすぎる、もっと縮めろ」
「無茶云うな」
「そんなに掛かるなら諦めましょう」
春斗の後ろから、フローランスが諦めるよう促してみた。話を聞く前は、接合に協力するつもりだったが、楽しそうな会話に嫉妬してやりたくなくなっていた。
「なんだ、この前の女もいるのか」
「まあ・・な」
カーミルの台詞に、なぜか春斗が少し戸惑いを見せた。
「もう行きましょう」
「いや、待て。どうにかできないか」
予想通り、フローランスに助けを求めてきた。
「・・・」
ここは突っぱねるべきか、快く受けるかを真剣に悩んでしまった。
「ダメか?」
春斗の弱々しい電波に、フローランスの心が揺れ動いた。
「・・・わかったわよ。やればいいでしょ」
結局、春斗の頼みは断れなかった。
「なんか悪いな」
「そう思うなら、少しは控えてよね」
ここはわざとらしく、溜息をついて悪態をついておいた。これは嫉妬からの当てつけでもあった。
「で、手足はどこにあるの?」
空気の流れから、牢の中の左奥に手足のような物は感じ取れたが、本人の物かどうか知らないので、カーミルに訊いてみた。
「左奥の隅にまとめて置いてある」
どうやら、あれはカーミル本人の物のようだ。
「暗いと捉えにくわね」
フローランスは牢の隅にまで歩いて、手足を乱暴に拾った。
「そこの女は、治癒が得意なのか?」
すると、カーミルが不思議そうに春斗に訊いた。
「基本、なんでも得意だな」
「て、適当なこと云わないでよね」
春斗の賛辞に、嬉しくて照れてしまった。
「照れんなよ。褒めてるんだから」
「て、照れてないわよ」
そう返答しながら、暗闇にもかかわらず反射的に顔を逸らしていた。
他人の手足の接合なんてとっとと終わらせたいので、持っている手足の細胞分析を始めた。
「ど、どうした?」
急に黙ったことで、春斗が不安そうに電波を発した。
「ちょっと待って、細胞分析してるから」
分析は集中力がいるので、黙るのは許容して欲しかった。
「そうか、悪い邪魔して」
「こっちも云っておけば良かったわね」
いつもこんなことを云わない自分が、自然とこの台詞が出たことには驚いてしまった。
「なんか不快感があるな。分析されるのは」
すると、カーミルのぼやきが聞こえてきた。
「私だって、好きでしてるわけじゃない!」
頼まれているからやってあげてるのに、そんなこと云われると怒りが込み上げてきた。
「落ち着け。時間がないから互いの不満は後にしてくれ」
「私は、貴方に一番不満があるわ」
ここは春斗に向かって不満をぶつけた。分析に集中力を持っていかれ、思わず感情的に春斗にあたってしまった。
「ごめんなさい」
すると、即座に謝られた。
「はあ~~。まあいいけど。少し黙っててね。集中できないから」
悪いとは思いつつも、謝る台詞が出てこなかった。これは性格なので、大目に見て欲しいと思いながら、手足の分析を進めた。
「はい」
こちらの真意を汲んだのか知らないが、春斗は素直に黙ることに従ってくれた。
そして、再び静寂に包まれた。
「大体わかったわ」
分析を終え、すぐにそれを電波に乗せた。
「でも、腐敗したままだと、接合は難しいと思うけど」
腐敗の進行具合を知る限り、そのままだと歪な接合になるのは目に見えていた。
「そうだな。腐敗を止めてからの方が早いかもな」
春斗に云ったのだが、カーミルがそれに同意した。
「なら、手足はこっちで再生してあげるから、接合は自分でしなさい」
「それはありがたいな。でも、他人の細胞の再生なんてよくできるな」
「経験の差なんじゃない?」
フローランスはそう云って、手足を持ってカーミルの正面に立った。
「じゃあ、始めるわ」
「俺、外で出ていていいか?」
臭いに耐えられないのか、春斗はフローランスに申し訳なさそうに云ってきた。
「そうね。居ても邪魔だし、その方がいいかも」
「後は頼んだ。リン、出るぞ」
春斗はリンを連れて、牢を出て扉を閉めた。わざわざ閉めなくてもいいと思ったが、別に閉めても影響はないので、足の再生から始めることにした。
第六話 治療
春斗は、通路に座り込んで溜息をついた。その姿をリンはじっと見ていた。
リンの視線が気になり、どうしたのかと尋ねた。
「できれば、早くここから離れた方がいい」
それは理解できるが、当てもなく逃走するより、目的を持って逃げた方が効率が良いだろうと答えておいた。
「どういうこと?」
しかし、理解できなかったようでリンが首を傾げた。
民主組織は隠れているようなので、むやみに探し回るより、カーミルに案内させた方が効率がいいとリンに伝えた。
「だから、あの男を利用するって事?」
語弊があるので、利用ではなく協力だと訂正しておいた。ついでに今から逃げても、自分の足では追いつかれると云っておいた。
すると、リンが黙ってしまった。
春斗は独立組織の人形の数を把握するべきだと考えて、おもむろにリンに訊いてみた。
「ワタシが居た時は、54体だった」
思いのほか、的確な数字が返ってきた。この人数で三大組織を名乗っているのなら、一体一体が精鋭なのは間違いなさそうだった。
「もっと増えている可能性もある」
その可能性より、人形の特徴を聞いておきたかった。
「ワタシと同じのもいるし、体格が違うのもいる」
どうやら、千差万別のようだ。リンと体格が似てるのはちょっと厄介だった。
「服で区別がつく」
春斗の考えが電波に乗ったようで、フローランスに作ってもらった服を見てそう云った。
それだけでは弱い気がしたので、リンに後ろを向いてもらい、ポケットからネクタイを取り出した。
春斗はしゃがみ込んで、ネクタイでリンの長い髪を後ろで束ねた。
「重い」
すると、リンの首が後ろに傾いた。体重が軽い分、ネクタイの重みすら感じるようだ。
仕方なく、リンからネクタイを外した。
ネクタイをポケットに仕舞い、牢の扉を開けて入った。
フローランスに進捗状況を訊くと、嫌みたっぷりにそんなに早くできないと返された。
頼みたいことがあるとフローランスに云うと、面倒な感じの電波が返ってきた。
リンの髪を結ぶ軽い紐の生成をお願いすると、さっきの返事とは打って変わってやる気に満ちた電波になった。
「はい、できた」
6秒も掛からず、暗がりからフローランスの手が出てきた。
「は、早いな」
あまりの早さに、戸惑いながらも差し出された紐を受け取った。
よく見ると、紐ではなく紫のリボンだった。不思議に思っていると、可愛い方が良いとこだわりを見せてきた。こちらとしてはどちらでもいいので、生成してくれたことにお礼を云った。
フローランスのどういたしましてを聞いてから、春斗は牢から出た。
リンに待たせたと云うと、何も云わず後ろを向いた。春斗は、リボンでリンの髪を束ねた。確かに、紐よりリボンの方が可愛いと思った。
「可愛い?」
思考が漏れたようで、リンが不思議そうにこちらを振り返った。
春斗が単なる感想だと云うと、リンがそうとだけ返した。表情を見ても、どう思っているかはわからなかった。
まだ接合に時間が掛かるみたいなので、牢の横で春斗は腰を下ろした。リンもそれに倣うように傍に座った。
「これから、民主組織に行く?」
すると、リンが切り出してきた。
タイミング的には組織からの最高の抜け方だったが、独立組織から逃げおおせるかは不透明だった。
「算段がない?」
リンは、こちらをじっと見て訊いてきた。
情報がないので、具体的な案はないことをリンに伝えた。
「ワタシから聞けばいい」
前に聞いた時は、詳しくは知らないと云っていたので、少し驚いてしまった。
「聞くだけ聞いてみたらいい。知ってることだけ答える」
どうやら、前に聞いた時は質問が悪かったようだ。そうなると、最初の質問は独立組織のトップの話からだった。
「トップの名はシーレイ」
さすがにトップの名前は、リンでも知っているようだ。
次は、人形の特性について質問してみた。これはダメ元でもあった。
「人形は、ほとんどは接近戦か中距離戦しかしない。遠距離攻撃では、効率が悪いし、確実に殺せないから」
正直、遠距離攻撃は回避する自信がなかったので、この情報は有難かった。
「あと、武器は斬撃系が多い。例外もいるけど」
リンは、仲間だったはずの情報を淡々と説明した。ここまで知っているなら、人形の行動パターンも教えて欲しかった。
「それは個々で武器が違うから無理」
さすがに人形といえども、攻撃パターンはそれぞれの武器によって違うようだ。
そうなってくると、人形たちが連携してくるかどうかが気になった。
「連携は指示されたことはあるけど、ワタシには無理だった。他もそんな感じだと思う」
これなら対策も立てやすく、逃れる可能性が出てきた。
「どうやって?」
それが漏れたのか、リンが積極的に訊いてきた。
これには一点突破だと云い切った。理由としては、連携がなければフォローもないからだった。
「でも、見つかったら瞬時に襲ってくる」
単独行動での攻撃より、大多数で襲われる方が生存率が低いことを伝えた。
「そんな単純にいく?」
そんな単純にいけば、今頃独立組織なんて驚異ではなくなっているだろう。
無表情のリンだったが、なんとなく不安そうに見えたので、適当な作戦を立てることにした。
「迎撃も視野に入れての逃走ってこと?」
伝え終わると、リンが作戦の総括をしてくれた。
そうだと云うと、リンがわかったとだけ返してきた。最後に、春斗は同胞と戦うことを謝罪した。
「気にしなくていい。ワタシはハルトの指示に従う」
リンの許可を得たので、カーミルの接合が終わるまで、発声の意味を一つ一つ教えていった。
多くの単語を教えたので、覚えられるかと訊くと問題ないと返された。リンの記憶力には、本当に感服してしまった。まるで、子供のような吸収の早さだった。
一通り教え終わると、春斗は壁に身体を預けて一息ついた。結構長い時間やっていたが、カーミル達は出てくる気配がなかった。あと、人形も来る気配がなかった。おそらくだが、この場所を見つけられないのだろうと思った。
春斗は、何気なしにどれぐらい時間が経ったかをリンに訊いた。
「春斗の世界の時間で云うと、2時間23分40秒」
さっそく教えた時間の単位を使って、秒まで正確に答えてくれた。
中の様子が気になり、牢の中に入ってみることにした。中は、光が奥まで入らず何も見えなかった。
仕方なく、フローランスに終わったかと電波を送った。
「まだよ」
闇の中から、フローランスが返答してきた。
「皮膚の再生は、あと腕一本ね」
フローランスは、今の状況を淡々と電波に乗せた。
「すげえよ。こんな短時間での再生は見たことがねえ。こいつ、本当に人か?」
やはり、ここまで早いのは異常なようで、カーミルが驚いた様子でそう発した。
「失礼な男ね」
これには、フローランスから不満そうな電波が漏れてきた。
「すまないな。これでも褒めたつもりだったが」
「そうは聞こえないわね。もうちょっと褒め言葉を選んだほうがいいわ」
「他人を褒めるのは苦手なんだ」
「開き直るんじゃないわよ。殺すわよ」
その脅しには、春斗がすぐさま止めに入った。
「だって、ここまで助力してやってるのに、礼もなしに皮肉るなんて、礼儀知らずにもほどがあるわ」
春斗は、カーミルにとってはそれが褒め言葉だとフォローした。
「私には響かない。むしろ殺意を覚える」
そう云い切られてしまっては、カーミルにお礼を直接的に云えと催促した。
「あ、ありがとう」
カーミルは、恥ずかしそうにお礼を云った。
「始めからそう云いなさい」
これにフローランスは、見下すような電波を返した。自主的ではないお礼では、機嫌は直してくれないようだ。
この嫌な雰囲気を変える為、春斗はどれぐらい掛かるかを訊いた。
「この片腕は他のより少し腐敗が進んでいるから、300タウぐらい掛かるわ。そっちの接合は?」
フローランスはそう云って、カーミルの進行状況を訊いた。どうやら、フローランスは皮膚の再生だけで、接合はカーミル自身に任せているようだ。
「右足はできたが、残り二つは今からだ」
「500タウで片足だけって遅すぎるわ」
「はっきり云って、こういう接合は初めてなんだ。これでも急いでやってるんだが」
「はあ~~~。もう置いていっていい?」
フローランスは溜息をついて、春斗の方にそう投げてきた。電波からも、本心だということは伝わってきた。
仕方ないので、なんとか繋ぎ止めることにした。
「だって、もう疲れた。接合の助力までしたくない」
こうも愚図ると、なかなか押し通すのは難しいので、フローランスに誠心誠意お願いした。
「・・・ずるいわね。そんな頼まれ方されたら断れないじゃない」
なんとか了承を得られたので、後で恩返しすると約束した。
「はいはい。期待しないで待ってるわ」
フローランスの機嫌をこれ以上損ねたくないので、話はやめて外で待っていることにした。
リンの横に座ると、リンがおもむろに立ち上がった。
どうしたのかと訊こうとすると、足音が聞こえてきた。足音は、シーラの居る広間の方向からだった。
春斗は立ち上がって、薄暗い通路の先を見据えた。隣のリンは、いつの間にかナイフを構えていた。
足音は徐々に大きくなり、通路の途中の光に誰かの足元が照らされ、そこからシーラが出てきた。
これには安堵して、思わず溜息が漏れた。
「あれ?まだここにいたの?」
シーラが不思議そうに訊いてきたので、まだ治療中とだけ伝えた。
「本当に治療してるんだ。物好きだね」
シーラは呆れながら、扉の閉まっている牢を見た。
「そういえば、アミは何してるの?」
この疑問には、接合の手伝いだと答えた。
「えっ!凄いね。どう云い包めたの?」
すると、シーラが目を見開いて本気で驚いた。
普通に頼んだと云うと、信じられないと再度驚いた。
「・・・弱みでも握ってる?」
そして、少し考える素振りを見せた後、失礼な憶測を電波に乗せた。
ちょっと気分を害したが、きっぱりしてないと主張した。ついでに、そんなに意外なのかが気になった。
「意外というより仰天だよ。それで、手足は接合できたの?」
別に隠すことでもないので、片足だけと答えた。
「早いね。さすがはアミだね」
生成できない春斗にとっては、早いか遅いかなんてわからないので、シーラに何げなく尋ねてみた。
「ええ、異常と云ってもいい」
これには迷うことなくそう返してきた。
シーラが春斗たちを素通りして、奥に歩いていくので、どこ行くのかと訊くと、そろそろ身を隠すと云ってきた。なんとものんびりとした避難だった。
どこに隠れるのかを尋ねると、奥の部屋だと後ろの方を指した。補足として、シーラとミイス以外は無理だとも云われた。
理由を訊くと、侵蝕するからだと返された。これを云われたら、遠慮する以外選択肢がなかった。
「賢明だね。生きてたらまた会おう」
シーラはそう云って、奥の広間に消えていった。
しばらくすると、シーラがミイスの身体に巻かれている布を両手で必死に引き摺って、左奥の牢の扉を開けて中に入っていった。おそらくだが、あの牢が原型の留めていない人がいるのだろう。
「うん。身を隠すなら最適かも」
思考が漏れたようで、リンが的確にそう応えてきた。春斗は、なんとなくリンの持つナイフに視線を移した。
そのナイフが気になり、自分にも使えるかをダメ元で訊いてみた。
すると、リンはすんなりとナイフを差し出してきた。ここまで信頼されていることは、素直に嬉しかった。
春斗は、ナイフを受け取り観察した。柄はリンの手の形になっていて、刃は鋭かったが、力を入れると簡単に変形した。
あまりにも軽く、すぐに変形してしまったので、何で出来ているのかが気になった。
「柄は発泡スチロール。刃はアルミ合金」
アルミ合金より発泡スチロールに驚いてしまった。そんな脆いものを柄にしたら、切りつけた瞬間に使い物にならなくなるのは目に見えていた。
「軽いし、耐久性も申し分ない。それに生成が楽」
春斗の考えとは違い、リンにとっては問題のない武器のようだ。
耐久性が気になったので、使っていいかと尋ねると、好きにしていいと了承を得た。
春斗はありがとうと云って、土の壁に向かって思いっきり斬りつけた。すると、パキンと音がして、刃先が折れた。
『あ』
柄ではなく、折れた刃先が地面に落ちた。
「力で斬るとすぐに折れる。速さで斬らないと」
リンは一瞬でナイフを生成して、壁に向かってナイフを一閃させた。壁には、綺麗な斬撃の跡が残った。その動きに、春斗は唖然とした。薄暗いせいかもしれないが、春斗には手の動きが全く見えなかった。
「これが速さで斬るという事。そして・・・」
そう言を溜めると、リンが腰を落として全身を捻り、ナイフを渾身の力で振り下ろした。パキンと音がして、ナイフの刃先が折れて地面に落ちた。折れ方が春斗と一緒だった。
「これが力で斬るという事」
リンは振り向いて、無表情でそう解説した。
「速さで斬ればいい」
リンは、再び生成したナイフを春斗に手渡してくれた。
とりあえず、直立したまま手の力だけでナイフを振ってみた。すると、ナイフは折れずに壁に切れ込みができた。なぜ柄の部分から刃先が抜けないのかが、不思議で仕方なかった。
「そう、それ」
春斗がうまく使えたことに、若干嬉しそうに見えた。
「できるだけ力は遠心力だけにして、体重を乗せないのがコツ」
リンは、なぜか攻撃の仕方まで丁寧に教えてきた。これは嬉しかったからかもしれないと、勝手に思うことにした。
「人形によって特性も違う。ワタシの場合は、速さに特化した武器」
ふと、他の武器も生成できるのかが気になった。
「ナイフしかできない。人形は武器を一個しか教えてもらえない」
誰に教えてもらったかは気になったが、それよりも一つの武器に特化させているのかを先に訊くことにした。
「そう。だから、人形には欠点がある」
リンもそれが云いたかったようで、少し強い電波で協調してきた。
「ワタシの場合、攻撃が軽い。貫通力がないから防がれたら勝ち目はない」
これには滅多にないだろうと指摘してみた。
「そうでもない。ワタシは攻撃が単調だから読まれやすい。前の戦いはハルトが指示してたから、複雑な攻撃ができただけ」
ここまで的確な自己分析ができるなら、自分でも単調ではない攻撃ができるのではないかと思った。
「できない。ワタシは、戦うときは効率を優先するから、確実に単調になる」
しかし、自分でもコントロールできないようで、きっぱりとそう云い切った。おそらく、考えるより先に身体が動いてしまうのだろう。
春斗が何気に折れたナイフを見ると、折れた部分から昇華が始まった。
「ワタシ達が生成した物質は、時間とともに分解されて無くなる」
リンがナイフを見ながら、淡々とそう説明した。
これに人形の生成した物は、消滅するのか訊いた。
「違う。生成した物はいずれ消える」
この答えには、素で驚いてしまった。そうなると、今着ている服やリボンも消えるということになる。
「生成は空気の元素を結合して作るか、体内で配合して皮膚の表面で空気と結合させたりする。手段も手法も個人で違う」
春斗は、物質になるまで膨大なエネルギーが要るはずだと疑問を投げた。
「当然。それを考慮して生成する」
そう返すなら、結合エネルギーはどうやって生み出すのかを明確に知りたかった。
「まず、細胞の摩擦で静電気を発生させる。そして、磁場を作りそこにある一定の元素を引き寄せて結合させる」
それだけではできないことは、春斗でもわかった。
「うん、無理。これはあくまでも一般的な結合過程。ここから温度変化とかいろいろする必要がある。でも、複雑すぎてたぶん理解できない。それに・・・ワタシ自身も感覚でやってるから説明はできない」
感覚だと云われると、こちらからはもう何も訊けなかった。
なので、春斗でも実感できる静電気をリンに出すよう頼んでみた。
「手を出して」
リンにそう云われて、春斗は懐疑的にゆっくりと手を差し出した。リンも手を出して、春斗の手の上にかざした。
すると、バチンと音がして全身に電流が走った。
『イタッ』
春斗は、条件反射で手を引っ込めた。
「これがワタシ達にとっての静電気。電圧は軽く2万Vを超える。この静電気を持続的に放電させて磁場を作る」
これには待ったを掛け、持続的にそれができるのかを訊いた。
「手を見ればわかる」
リンはそう云って、手を春斗に見せてきた。薄暗い中、目を凝らしてリンの手の平を見ると、不思議と皮膚が動いているように見えた。
『なんだこれ』
春斗は、眉を潜めてリンの目を見つめた。
「細胞一つ一つが蠢動して摩擦を起こしている」
そう云われてみると、細胞がうねうねと蠢いていた。それを意識すると、リンには申し訳ないが気色悪く感じた。
この世界では、それが当たり前なのかを尋ねた。正直、訊くまでもないと思ったのだが、聞かずにはいられなかった。
「これができないと、生成はできない」
念の為、自分の意思で細胞を動かしてるかも訊いた。
「勿論」
この迷いのない返事には、春斗とは違う知的生命体だと考えを改めるしかなかった。
「そんなに違う?」
思考が漏れたようで、リンが不思議そうに首を傾げた。
これには雲泥の差だと答えておいた。よくよく考えてみれば、フローランスに治療してもらった時、最初にリンと同じ静電気を浴びた痛みだったことを思い出した。あの時は、何か道具を使っていると思っていたが、自分で電気を発生させて、メス代わりに使っていたと思い至った。
春斗は、この世界がだんだん薄気味悪くなった。この世界の人たちが、自分とは違う異種の存在だったことを目の当たりにすると、孤独感が一層強くなってきた。
『ふう』
そう思うと、自然と溜息が出た。
「どうかした?」
心配してくれたのか、リンが春斗の顔を覗き込んできた。
「なんか初めて見る表情だった」
珍しく気遣ってくれたので、少し落ち込んでいると本心を伝えた。
「不安?」
それも否定はできなかった。
「人らしいね」
リンはそう云って、正面を向いたまま一度だけ瞬きをした。無表情だったが、少し切なそうに見えた。
折れてはいるが、リンにナイフを返そうと思い、ナイフを差し出した。
「ん?」
すると、リンがナイフと春斗を交互に見た。
返すと云うと、貰っていいと受け取りを拒否した。どうせ消えるので、どちらにしても使い道はなかった。
いまさらだが、リンの手に照明器具は持っていないことに気がついた。
どうしたのかと訊くと、捨てたとだけ返ってきた。
春斗がナイフをポケットに仕舞うと、牢から絶叫に近い電波が聞こえてきた。すぐさま牢の中を見たが、真っ暗で何も見えなかった。
「うるさいわね」
すると、フローランスの文句が電波で流れてきた。
春斗は状況を知る為、何かあったのかとフローランスに訊いた。
「彼の接合があまりに遅くて、手伝ってやろうと思ったらこのざまよ」
フローランスからとても軽いノリの返答が返ってきた。
「ぐうう~~~」
カーミルの苦痛の叫びが、春斗に伝わってきた。
大丈夫かと気遣うと、なぜかフローランスが大丈夫と返してきた。
「痛覚を断たないからそうなるのよ」
そして、フローランスがカーミルに呆れながら指摘した。
「急に云われて、すぐにできるか!」
これにはカーミルが強く反論した。
「なら、さっさとしなさい」
「今、痛みと闘ってる」
「そのまま続けていい?」
「ま、待ってくれ。すぐ痛覚を鈍らすから」
「早くしなさい」
フローランスは、偉そうに命令口調で云った。
「110タウは待ってくれ」
「長すぎる。10タウにしなさい」
フローランスがカーミルに配慮するはずもなく、時間の短縮を要求した。
この世界の人は、誰でも痛覚を遮断できるか気になった。
「できる人も要るけど、ほとんどは麻薬で感覚を麻痺させる程度ね」
「ちなみに、俺は後者だな」
カーミルは隠すことなく、堂々とそう云い切ってきた。それって麻薬中毒者ではないのかと思ったが、この世界では当たり前なことだと思うことにした。
「しゃべってないで、やることやれ」
フローランスは、冷淡にカーミルを責め立てた。
「すみませんでした」
すると、カーミルが敬語で謝った。完全にフローランスに屈したようだ。
仕方がないので、時間を稼ぐ為にフローランスを呼んだ。
「何?」
春斗は、ちょっと牢から出るよう促した。
「え?いいけど、なんで?もしかして、人形が攻めて来た?」
ここは曖昧に濁して、フローランスを牢から連れ出した。
「悪いな」
春斗の意図を察したのか、カーミルから微かな電波が届いた。
気にするなとだけ答えて、春斗は牢の扉を閉めた。
「きゃ~~~~。リンちゃん可愛い♪抱きしめたいっ!抱きしめていい?」
フローランスはリンを見るなり、強い思いを伝えた。
「ダメ」
リンは無表情で答えたが、煩わしそうな雰囲気がひしひしと伝わってきた。
「可愛いよ~♪」
フローランスはリンの周囲を移動しながら、目をうっとりさせて観察していた。
春斗は、見兼ねてフローランスを呼んだ。
「うん?何?」
フローランスが振り向いたところで、栄養補給を申し出た。
「そういえば、あれから時間経ってたわね。ちょっと待ってて」
フローランスはいつものように錠剤を生成して、春斗に手渡してくれた。
春斗はお礼を云って、錠剤を一気に流し込んだ。その間、フローランスはリンを目に焼き付けるように凝視していた。
3分ほどリンを観察すると、フローランスは満足げな表情をした。
「とっととここから出たいから、そろそろ戻るわ」
早く出たいのは、春斗としても同意見だったので、引き止めるのはやめておいた。
フローランスが入ったところで、突然リンが牢の扉を閉めた。
驚いてリンを見ると、人形が来たと通路の奥の方を見据えた。
「結構遅かったわね」
これにフローランスが、牢から電波を発した。人形が来たことには、二人とも動じていない様子だった。
「私が倒そうか?」
フローランスの気遣いは嬉しかったが、今はカーミルの足を早く治してくれと頼んだ。
「わかった。ピンチになったら呼んでね」
フローランスはそう云って、牢の奥に消えていった。
春斗は通路の先を見たが、薄暗く人形の姿は捉えられなかった。
第七話 人形
リンは人形の位置を測りながら、春斗の指示を待った。足音の距離からは、空気の圧縮を感じ取るのは不可能なので、早めに生成しておいた。
春斗から人数を訊かれたので、足音は一体だけだと答えた。春斗が戦闘の指示を出したので、先制攻撃ができるように態勢を沈めた。
すると、春斗が自分は隠れると信じられないことを云った。これには驚いて、春斗の方を振り向いてしまった。
指示の催促をすると、人形同士は攻撃対象になるのかと逆に質問された。
リンが対象にならない可能性が高いと伝えると、それなら不意打ちで壊せることを示唆してきた。これは完全な盲点だった。確かに、仲間を装えば簡単に壊すことができるかもしれないと思った。(自信はない)
念の為、できなかった場合の行動を訊くと、奥の広間まで誘導してくれと指示を出した。やることはわかったので、敵意を向けないように直立不動で相手を待った。
しばらく待ったが、なかなか人形はこちらに来なかった。その間に、明かりがあまり届かない場所に静かに移動した。
突然、春斗の声が聞こえた。おそらく、臭いに堪えられなくなったのだろう。タイミング的には最悪で、人形に気づかれた可能性が高かった。
それから1タウ経過して、ようやく小さい足音がこちらに近づいてきた。
リンは平静を保ち、人形が来るのを待った。通路の先は薄暗くて、人形の足音しか聞こえなかった。
人形が明かりの下を通るのを待ち、攻撃のチャンスを窺った。ゆっくり息を吸い込み、そのまま息を止めた。
人形の歩く音が徐々に大きくなり、人形の姿が明かりに照らされた。見知った顔に一瞬だけ動けなくなったが、それは本当に一瞬だけでリンの身体は動き出していた。
勝負は、瞬く間に終わった。人形は何もできず、頭が身体から離れてその場に落ちた。同胞を殺した事実に、何か感情が沸くかと思ったが、全然そんなことはなかった。
春斗に終わったと報告して、どう壊したかも話しておいた。話している途中で、なぜか目から少しだけ分泌液が出たので、すぐさまそれを拭った。この現象は初めてで、何を意味しているのか、今の自分には理解できなかった。
すると、春斗が戸惑った表情をした。
何か問題があったのか尋ねると、なんでもないとだけ云い、壊れた人形のいる場所を見つめた。下半身以外は暗闇に完全に隠れていて、春斗には見えているとは思えなかった。
春斗はゆっくり歩き出し、牢の扉を開けて終わったかとフローランスに訊いた。
フローランスは無理だったと云って、暗がりから一人で出てきた。
あとどれくらい掛かるんだと春斗が訊くと、フローランスが置いていこうと意地悪なことを云った。牢の暗がりの中に、カーミルが立っている姿がリンには感じ取れていた。
カーミルは牢から出るや否や、フローランスにつっこみを入れるように強い電波を発した。
元気よく出てきたカーミルを見て、春斗が治療が終わったのかと訊くと、手の神経がまだだと返した。あんな腐敗が進んだ部位をこんな短時間で、しかも歩けるまで回復させるなんて奇跡に近い偉業とも云えた。やはり、フローランスは異常な超人だった。
逃走に支障がないことを知った春斗は、急ごうと云って先を歩き出した。
すると、カーミルが驚きの電波を発した。人形の死体に驚いたのかと思ったが、カーミルの視線はフローランスに向いていた。そういえば、フローランスの顔を見るのは、彼は初めてだったことに気づいた。
春斗も人形のことだと思ったようだったが、カーミルの悪魔という台詞で感づいたようだ。
慌てふためくカーミルを横目に、春斗は淡々とフローランスを紹介した。が、紹介なんて必要ないとフローランスが見下したように吐き捨てた。よほど、カーミルの反応が気に障ったようだ。
すると、フローランスの周りの空気に歪みが生じた。この歪みは、相手の力量がわかる一種の戦闘能力値でもあり、最初にフローランスに会った時は壊される覚悟をするほどの歪みだった。
それに気圧されたようで、カーミルがジリジリと後ろに後退していった。その行動は、生物として当然とも云えた。
逃げる姿勢のカーミルを、春斗が慌てて引き止めに掛かると、フローランスがカーミルに恩人に背を向けるのかとひと睨みした後、殺すわよと脅しを掛けた。冷徹な空気が歪みは、リンにも威嚇したかたちになっていた。
逃げたら殺されると悟ったカーミルは、丁寧な台詞で逃げませんと姿勢を正して誓いを立てた。その状況を知らない春斗は、脅しに負けるなよと無理難題を電波に乗せた。
脅した本人は、しれっと本能に勝るものはないと得意げに云い切った。目の前のカーミルが、良いお手本になっていた。
春斗は流れを無視するように、自己紹介をして、ついでにリンも紹介した。しかし、リン達への反応は薄く、カーミルはフローランスを警戒していた。
春斗とフローランスが歩き出したので、リンもそれに続いた。カーミルは、フローランスから少し離れてついてきた。その途中、リンは死体の頭の方を見たが、暗くて表情までは確認できなかった。
広間から階段を上がると、引き戸が開いたままで、出口の扉も開いていた。
春斗が少し早足で出口の扉を隙間を残して閉め、その隙間から外の様子を伺った。なぜそんなことをするのか、リンにはわからなかった。
誰もいなかったようで、陣形を取るとよくわからないことを云った。それはフローランスも同様のようで、陣形の意味を春斗に訊いた。
春斗によると、被害を多少は抑える為の配置だそうだ。
配置を決める前に、カーミルが離れていることを春斗が気にして、もっと近づくよう手招きしたが、フローランスが怖いようで遠回しに断った。
これに機嫌を悪くしたフローランスが近くに来いと命令すると、カーミルは素直に近づいてきた。春斗はこの二人の関係に呆れながら、配置の指示を出した。
先頭はカーミルで、理由は手が使えないからだそうだ。それなら先頭にするより、真ん中にした方が良いと思ったが、春斗はここから出たら、全速力で逃げろと付け加えた。
これにはフローランスが、それでいいのかと訝しげにカーミルを見た。どうやら、ただ逃がすだけで、こちらのメリットはどこにもないと云いたいようだ。
それはカーミルも同意見のようで、春斗の案に難色を示した。というか、逃げれる本人がそんな指摘するのは、なんともおかしな話だった。
春斗はそれでも構わないようで、協力を求めてるだけで強制はしていないと信じられないことを云った。
これにフローランスが甘いと指摘したが、でもそれも悪くはないと微笑んだ。リンには何が良いのか全く理解できなかった。
人の良い春斗は同行してくれるなら、出口付近に隠れていてくれとカーミルの意思に任せた。もう本当に春斗の考えていることが、理解不能な域まで達してしまった。
さらに信じられないことに、カーミルが無事だったら同行すると約束した。もうこの二人は、何かで通じ合っているとしか思えなかった。
話が終わり、カーミルの後ろにリンが付き、その後ろに春斗、最後尾はフローランスという配置で動くことになった。
それが決まると、春斗が扉のノブを掴んだ。
カーミルを先頭に小屋から出ると、春斗が出口を彼に電波で教え、先に行くよう促した。
カーミルが両手を垂らしたまま走り出すと、春斗が速いな~とだらけた電波を漏らした。
リンもカーミルに続こうと思ったが、春斗の速さを考えてペースを落とした。当然だが、カーミルとの距離がどんどん離れていった。
それを見たフローランスが、溜息交じりに春斗にもう少し速くならないかと要求した。それはリンも同意見だった。
春斗が無理だと断言すると、フローランスが重いって不憫だと同情した。
小道を抜けると、予想通り人形が多数視野に入った。
春斗が急に立ち止まったようで、フローランスの文句が聞こえてきた。リンは立ち止まり、春斗との距離をバックステップで詰めた。
抜けた先は大道で、四体の人形に視認されていた。前方二体、左右に一体ずつ。その四体は、リンと顔見知りだった。背格好は各自違っていて、リンと同じ身長は二体だけだった。
春斗がばれたことに驚いていたが、フローランスは足音でばれるとわかっていたようで、春斗にすぐさま電波で伝えた。
すると、春斗が人形は音に敏感なことに驚いていた。そういえば、そのことは春斗に教えていなかった。
フローランスはてっきりリンから教えてもらっていると思ったようで、リンの方を見た。仕方がないので、聞かれてないと弁明しておいた。
その間に人形たちが、敵だと認識したようで襲い掛かってきた。ここまで攻撃してこなかったのは、単にリンがいたからだと思われた。
フローランスが構えて、春斗は怖っと悠長な電波を発した。
『左、攻撃』
何が怖いのか気になったが、春斗がすぐさま声で指示を飛ばしてきた。確かに、一番近いのはS1267だった。S1267とは一時期連携をさせられたが、全然できなくて引き離された過去があった。
その思い出を頭に浮かべながら、S1267に向かって走り出した。
S1267に接近すると、リンを見てほんの僅かだが速度を落とした。
リンはそこから更に速度を上げて、S1267と交錯した。理想的な攻撃は、S1267の首を落とした。首を失った身体から血が噴出し、その場に倒れた。それと同時に、リンの目から水分が出た。
人形はこれだけではないので、素早く後ろを向くと、フローランスの後ろに二体の人形が接近していた。
迎撃には少し余裕があったので、目から出る水分を指で拭った。それを見たフローランスが、驚いた後になぜか悲しそうな顔をした。春斗の方は、壊された人形を見たくないのか不自然な方向を向いていた。
リンと同じ体格の二体がフローランスに襲い掛かると、彼女は後ろを向いて応戦した。
右にいた一体の人形がこちらを警戒し、速度に合わせるように並走してきた。この人形はS1354で、リンとは何度か一緒に人を殺し回ったことがあった。
後ろの春斗に、指示を求めると迎撃と単純な命令を出して来た。その間、S1354が数十メートルまで距離を縮めてきた。
S1354が標的を定めて、長剣を瞬時に生成して、春斗目掛けて振りかぶった。その一連の流れは見飽きているので、リンは冷静に持ってた両手のナイフを順手に持ち替え、振り下ろされた長剣を受け止めた。
一つのナイフが折れる音がしたので、身体を反転させて折れていないナイフでS1354を切りつけた。
S1354はそれを軽くかわして、リンから距離を取った。
S1354と対峙すると、独立組織特有のトンツーの電波を発してきた。これは独立組織独自の伝達方法で、S1354はこの一帯の人を殲滅せよとリンに伝えてきた。
それにリンは、トンツーで拒否しておいた。
春斗が先に進み、フローランスが二体の人形を引き連れて、リンの方に近づいてきた。
S1354が春斗を追ったので、リンは邪魔するように並走した。春斗に追いつくまで、何度も命令に従えとトンツーで発してきたが、全て無視しておいた。
S1354を牽制しながら、リンは春斗の横に付いた。
春斗がS1354を壊すのではなく、戦闘不能にすると云って、リンに陽動を頼んできた。
リンは頷いて、S1354に走りながら近づいた。その間に、手ぶらになった左手でナイフを生成した。
それに感づいたS1354も、長剣を強化した。どうやら、受け止めた時に長剣もダメージを負ったようだ。
あくまで陽動なので、最速の攻撃でS1354の目を引き付けることに重きをおいた。
一気に懐に入り、連続攻撃に移行した。S1354は長剣なので、懐に入る前に攻撃が来ると覚悟していたが、リンが攻撃対象ではないようで剣を振るうことはなかった。
六回ほどナイフを振るったが、距離を取りながら全て長剣で防がれた。やはり、間合いは長剣の方が有利だった。
そろそろ春斗が仕掛けてくる頃なので、長剣を折る為の攻撃に移行することにした。
何回かの攻撃でナイフの刃はボロボロになっていたので、距離を取ってナイフを二本とも投げた。S1354はそれをなんなくかわした。これが遠距離攻撃が、懸念される要因だった。
すぐに一本だけナイフを生成して、さらにそのナイフの柄をプラスチックで覆い、刃を自分が生成できる限界まで長くして、ついでに鉄で強化しておいた。長くするといっても、せいぜい数センチ伸ばすのがやっとだった。
リンは腰を落として、一気に距離を詰め、力の限りナイフを振り下ろした。S1354は教えられた動きで、剣で防ごうとした。
二つの武器がぶつかり合うと、パキンという音と共に長剣が半分に折れた。
このタイミングで、春斗がリンを後ろから引き寄せた。このまま春斗と対峙させるのは危険なので、引き寄せられながらも、ナイフを投げて動きを狭めた。足を狙ったナイフを、S1354は飛んでかわした。これは狙い通りの動きだった。
春斗はリンから手を離し、その勢いで横っ飛びをして、空中に浮いたS1354目掛け横蹴りを放った。S1354は吹っ飛んで、外壁に身体を打ちつけた。思った以上な衝撃音があたりに響いた。
すると、後ろで戦っていたフローランスが春斗に馬鹿と罵声を浴びせた。これはリンも、ちょっとまずいと感じていた。
呑気な春斗が何か問題あるのかと云うと、フローランスが人形は音に敏感だと二度目の説明をした。補足として、今の衝突音の波長がダメで、リン達には緊急招集の合図だった。
フローランスもそのことを知っているのか、苛立ちを電波に乗せながら春斗にそのことを教えた。なぜフローランスがそのことを知っているのか、リンには不思議だった。
S1354を警戒したが、春斗の一撃で動けない様子だった。残りの二人は、フローランスに倒されていた。一人はうつ伏せで倒れていて、もう一人は力なく座り込んでいる感じだった。二人には目立った外傷がなく、どうやって倒したのかが少し気になった。
春斗は倒したS1354に近寄って、折れた長剣を拾った。なぜそれを拾ったのかわからなかったが、それより複数の人形の足音がどんどん近づいてきていた。
フローランスが危険だと云いながら、春斗に近寄って急かした。もう後ろには、十数体の人形の姿が見えた。
それを見た春斗が、フローランスにどうしようと弱音を吐いた。その表情は、本気で助けを求めているような気がした。
フローランスは溜息をつきながら、あまり使いたくないけど、少しの間だけ足止めをすると云って、若干速度を落とした。
空気が歪み、フローランスが何かを生成した。気になって後ろを見たが、手を重ねているだけで何も持っていなかった。
ここでフローランスが、リンに全速力で先に行くよう指示した。
春斗が理由を訊くと、人形の足止めは広範囲で被害が出るようで、耳を塞ぐをように云われた。
春斗はフローランスを信じて、先に行くようリンに促してきた。フローランスの指示に従うのは嫌だが、春斗に云われては従うほかなかった。
リンは、全速力で出口へ向かった。
0.5タウほど走って後ろを向くと、かなり春斗たちから遠ざかっていて、フローランスはなぜか上に跳躍していた。何をするか気になったが、今は春斗の命令が最優先だった。
すると、突然後ろから金属音が周囲に鳴り響き、それが金切り音に変わった。リンの耳に届くと、瞬時に力が抜け勢いよく倒れた。その瞬間、フローランスに反発して耳を塞がなかったことを後悔した。
後ろから春斗の重い足音が聞こえ、リンを拾い上げて肩に乗っけた。侵蝕のことを教えても、相変わらずの扱いだった。
春斗の問いかけに、全身の力が抜けていて何も返すことができなかった。後ろからフローランスの足音がどんどん近づいてきた。
フローランスはこうなることを知っていたようで、リンに対して申し訳なさそうに謝ってきた。
フローランスが云うには、三半規管を通して全身を麻痺させたらしく、10~20タウで回復すると説明した。自分の身体を動かそうとしたが、電気が発生せず、身体がピクリとも動かなかった。この音は聴覚の良い人形にとって、相容れない音だということがわかった。
リンは担がれながら、春斗の背中を見つめていた。自分の身体を他人に委ねるなんて初めてで、不思議と恐怖感が薄れ、安心感に変わっていくような気がした。(気のせいかもしれない)
春斗たちの会話から、無事に出口まで辿り着いたようだ。運良く門も開いているらしい。
しかし、出口を抜けたところで春斗が足を止めた。どうやら、その正面に誰かいるようだ。
すると、ここでよく知っている電波が頭に入ってきた。出口で待っていたのは、リンの主のシーレイのようだ。ここであまり顔を合わせたくない相手だったが、この状況では避けては通れなかった。
とりあえず今は動けないので、春斗たちの会話に集中した。会話に参加しているのは春斗とフローランス、シーレイにカーミルもいるようだった。どうやら、カーミルは出口でシーレイに足止めされていたらしい。なぜカーミルが攻撃されていないのかが、リンにとっては不思議だった。
シーレイは単独行動をしないので、おそらく四体ほど人形がいるはずだった。
フローランスとシーレイは面識があるようで、お互い皮肉交じりの挨拶を交えた。シーレイの使う敬語は、本当に澄んだ電波だった。
フローランスが武力組織にいることに、シーレイが驚いたと淡泊に発すると、彼女は成り行きでいると誤解を解いた。
春斗が誰だと訊き、フローランスが独立組織のトップだと答えた。シーレイを殺人鬼と認識していた春斗は、ギャップの違いに驚きの電波を発した。シーレイの見た目は、紺色の長髪を後ろでまとめて紐で結んでいて、服は春斗と似たスーツ姿のはずだった。正直、最初春斗に会った時は、てっきりシーレイの刺客かと思ったほど身なりは似ていた。
話を聞いていると、シーレイはフローランスに救われたそうだ。しかし、シーレイにとってはそれは汚点だと思っているようで、電波から嫌悪感がにじみ出ていた。
シーレイはフローランスと出会ったことを好都合と云い、ここで死んでくださいと宣告した。救われたことが、よほど屈辱だったらしい。
それにフローランスが嘲笑するように、貴方には殺せないと断じた。確かに、シーレイでも始祖には勝てないと思った。
シーレイもそれはわかっているようで、殺すのは人形たちだと断言した。シーレイは自己分析が凄く、人と戦う時は戦力を測ってから、戦い方を決めるタイプだった。ここは若干、春斗に似ている所もあった。
中にいるはずの人形が来ないことが気になったのか、シーレイが人形は倒されてしまったことを悟ったように電波を発した。
これにフローランスが、勝ち誇ったように今は動けないと事実を云った。
話が区切れたところで、春斗がイメージと違うと小さな電波で云うと、カーミルも初めて会ったようで吃驚だと返した。
シーレイの興味が春斗に移ったようで、律儀に自己紹介した。相変わらず、そういうところはリンには理解できない部分だった。
春斗とカーミルは驚きを隠すことなく、二人で感想を云い合った。
殺人鬼という台詞にシーレイが反応して、自分は人を殺したことがないと云い切った。
春斗は戸惑いながら、見識が違うのかとカーミルに投げると、他人から聞いた話だから信憑性は低いと云い訳をした。
それを訊いたシーレイが、何かに気づいたように自分たちが人だと思ってるんですかと変なことを云った。これは人形の間でも浸透していなくて、シーレイは人を化け物だと云い、シーレイ自身は人だと語っていた。人形同士でも、この違いは全然わかっていなかった。
春斗が反射的に当たり前だと云うと、フローランスが話すだけ無駄と遮り、絶対噛み合わないとまで云った。フローランスもシーレイとこの手のやり取りは経験済みのようだ。
春斗がシーレイは人ではないのかと訊くと、当然のように人だと答え、フローランス達のような化け物ではないと云い切った。シーレイはこういうところは絶対にぶれないので、話すだけ無駄だと思った。
何を云っているのかわからない春斗が疑問を呈すると、シーレイが自分のことなのに知らないのですかと逆に質問した。
フローランスが何を思ったのか、春斗が異世界人だと暴露した。
これには安易だとリンは思ったが、シーレイは異世界人という事実より、春斗の服が気に入ったようで、殺して奪うことを宣言した。シーレイにとって、どの世界の人でも関係ないようだった。
ここで春斗が、人は殺さないじゃないのかと皮肉った。異世界の人だと化け物ではないので、人殺しになると云いたいようだ。
しかし、シーレイは言葉遊びのように、殺すのは人形だと返した。
これに春斗が、云い分としては最悪だと指摘すると、フローランスが話すだけ無駄だと再度注意した。
これで戦うかと思ったが、春斗が化け物の意味をシーレイに訊いた。
親切にもシーレイが、それに答えようとした。フローランスは特段興味もないようで、話すことも拒むこともしなかった。
シーレイにとって人と化け物の違いは、生成ができるかできないかのようだ。それだと人形も化け物になるのだが、それはまた違うのだろうかとリンは疑問に思った。
思い返してみると、シーレイが生成している所は見たことがなかった。まあ、司令官の立ち位置なので、今まで気にしたこともなかったが。
ここで春斗が、見逃してくれないかと弱腰の交渉を始めた。これは何度か見ているので、もう驚くこともなかった。
シーレイは、フローランスに加担している時点でそれはできないと断ったが、こちらに寝返れば考慮すると約束した。
しかし、春斗はそれはできないときっぱり拒否し、恩を仇で返すのは人のすることじゃないとまで付け加えた。
これにシーレイが、少し動揺した電波で返した。シーレイを皮肉るなんて、やはり春斗は異常なほど言葉巧みのようだ。
春斗が話を変えて、輪廻転生のことを訊いた。これは個人的には最優先で知りたいことだったが、なぜシーレイにそれを訊くのかはわからなかった。
驚くことに、シーレイは輪廻転生のことを知らなかった。春斗はそれを予想していたようで、一人で納得した後、輪廻転生という噂が独り歩きしていると結論付けた。その横で、カーミルが一人で混乱しているような電波を垂れ流していた。シーレイはなんのことかわからず、蚊帳の外のままこの話が終わった。
ここでシーレイが、春斗に担がれているリンの方を気にし始めた。えらく遅いと問いかけだと思ったが、こちらとしてはあまり触れて欲しくはなかった。しかも、このタイミングでようやく手足の痺れがなくなり、動けるようになってしまった。
春斗がそれに気づき、リンを肩から下ろした。できればこの気遣いは今はして欲しくなかったが、こうなってしまってはシーレイと対峙するのを覚悟した。
シーレイと向き合うと、リンを認識して、なぜここにいるのかと的確な指摘をしてきた。リンは何も云えず、ただシーレイの目を見つめることしかできなかった。その斜め後ろには、四体の人形が無表情で待機していた。
命令を無視したかと核心のことを云われたので、それは守ったと返した。
死の森を切り抜けたかを訊かれたので、肯定するように頷いた。しかし、あの森に行くという命令は、壊れてこいという意味合いだった。
シーレイはそれを踏まえて、なぜここに居るのかと再び訊いてきた。
ここで今でも命令を順守中と云えばいいはずなのに、リンの電波には自分の意思だと答えていた。
すると、シーレイが小さい電波で、やはり自我をもってしまいましたかと残念そうな顔をした。自我の意味を知らなかったが、シーレイにはそのことが嫌だったらしい。
シーレイは決意するように、リンの破壊を宣言してきた。これは願ってもないことのはずだが、春斗との取り引きを反故にしてしまうことが頭に浮かび、身体が勝手に臨戦態勢を取っていた。
すると、フローランスと春斗が、リンを庇うように前に出た。春斗はわかるが、フローランスがそんなことをする意味がわからなかった。
この状況に、シーレイが真顔で仲間ができましたかと頭を掻いた。その時、S1416と云われ、反射的に今はリンと呼ばれていることをシーレイに伝えた。別に云わなくてもいいことなのに、無意識にその台詞が電波に乗った。
これにシーレイが驚き、今度は敵意をもって全力で殺しましょうと若干ニュアンスを変えてきた。壊すのではなく殺すと云うのは、フローランスと春斗のことなのだろうと流れでそう解釈した。
ここから戦闘が始まると思ったが、悠長にも春斗とフローランスがカーミルをどうするかを話し合った。それをあっけに取られたのか、シーレイは人形に指示を出さなかった。
結論として、カーミルは戦力外通告され、先に見える森で待機するよう云い渡された。その間に、シーレイが四体の人形を傍に寄せた。その四体の人形は、リンとは面識はなかったが見たことはあった。四体とも背はリンより高く、攻撃形式が多彩で性能的にはリンより上だった。
話し合いが終わり、春斗がリンとフローランスに人形は任せると指示を出してきた。どうやら、シーレイと一騎打ちをするようだ。フローランスは心配そうだったが、リンには勝った方に付くという機会を得た。
リンは、シーレイの左にいる人形を引き寄せようとすると、シーレイがトンツーで二体をリンの方に寄越した。どうやら、春斗の意図に乗るようだ。
二体の人形を引き連れ、春斗から距離を取ると、二体の人形もリンについてきた。
ある程度離れて、人形と対峙したところでどう倒すか悩んでしまった。正直、春斗の指示が欲しいと感じたが、ここで壊されても悔いはないとも思った。
第八話 独立組織
春斗は正面のシーレイに歩み寄り、人間同士で戦おうと申し出た。
「一対一の勝負は苦手なんですが」
シーレイが頭を掻いて、大きく息を吐いた。それは春斗も同じなので、素直に自分も苦手だと返しておいた。
春斗は後ろを向いて、カーミルに目で合図をした。それに応じるように、カーミルが頷いて走り出した。
シーレイが見逃してくれるかが少し不安だったが、彼は何もせずただこちらを見据えていた。
一応、カーミルを逃がすことをシーレイに詫びておいた。
「構いませんよ。今の優先順位では彼は最下ですから。それより、一つお聞きしたい」
何か気になることがあるのか、戦う前にシーレイから話を持ち掛けられた。逃げたカーミルに興味がないようで、一度も振り返ることはしなかった。
「化け物と知って、なぜあなたはフローに加担するのですか?」
この答えはさっきも云っていて、恩があるからだと答えた。そこに化け物とかは関係ないと考えていた。
「差別はしないということですか」
中世ではあったかもしれないが、今の時代そんな大層なことじゃなかった。
「理解に苦しみますね。得体のしれない化け物を受け入れるなんて」
それは無知な時代の話で、情報が多くなると受け入れることができると断言しておいた。
「やはり変わってますね。あなたの世界ではそれが当たり前なのですか?」
情報のみでしか知らない世界を自分の見解で答えるのは危険だと思い、曖昧に濁しておいた。
シーレイの質問に答えたので、今度は春斗から疑問を投げてみた。
「なんですか?」
答えてくれるようなので、人形は誰がつくっているのかを是非訊いてみたかった。
「云えません」
少し考えていた答えとは違っていたが、シーレイが関わっていないことはわかった。
「なぜ?そう思うのですか?」
思考が漏れたようで、シーレイが警戒心を顔に出した。
これは単純な話で、誰がに対して云えないのは、第三者だという推測が成り立つことを伝えた。
「慧眼ですね。当たりですよ」
思いのほか、あっさり認めたことに拍子抜けした。
「別にそこは隠してませんし、それに自分にはそんな技術はありませんから」
そこは隠してないが、誰がつくっているのかは隠しているようなものの云い方だった。まあ、さすがにそこまでは答えてくれないだろう。
フローランス達は戦っているので、覚悟を決めてシーレイに戦いを挑んだ。
「そうですね。尋常に殺し合うなんて初めてですよ」
今まで尋常じゃない殺しをしてきたみたいだが、殺人鬼がこうまで紳士的な対応だと困惑するばかりだった。
シーレイは、腰を落として両手を顎まで上げて拳をつくった。それはまるっきりボクシングの型だった。
「では、死んでください」
シーレイが電光石火の如く距離を縮めてきて、大振りの右ストレートを打った。
『うわぉ』
あまりの速さに、思わず仰け反ってしまった。拳は春斗の頬を掠めた程度で、なんとか直撃は免れた。フローランス達を化け物と云っていたので、てっきり春斗と同等な動きかと思っていが、全然そんなことはなかった。
「やはり、この速度をかわせますか」
シーレイはステップを踏みながら、春斗との距離を見極めていた。
ここで焦りを見せると、すぐに殺されるので、飄々とした態度で単なる条件反射だと事実を発した。
「あまり戦闘は長引かしたくないのですが」
それは春斗も同じだったが、タイムリミットはあることは知っていた。
「あっちのカタが付けば、自然と勝敗はつきますから」
シーレイもそれは知っているようで、フローランスとリンを交互に流し見た。
しばらく、二人は睨み合ったまま動かなかった。
「攻めてこないのですか?」
これには敢えて、思わせぶりな態度で迎撃が得意だとうそぶいた。本音は攻める余裕がないだけで、それを表情に出さないよう冷静を保っているのが精一杯だった。
「そうですか」
シーレイはそう云うと同時に、フットワークを活かし、春斗との距離を詰めてきた。その動きは本当にボクシングそのものだった。
拳の射程距離に入ると、シーレイがすかさず左のジョブを打った。
それを一歩下がってかわしたが、シーレイが一歩踏み込み、右のストレートを打ってきた。まさに理想的なワンツーだった。
春斗は、更に後退して距離を取った。近距離では分が悪かったので、持っていた長剣を両手で握って上段に構えた。正眼だと、振りかぶるだけで叩きのめされるので、上段に構えるしかなかった。
「それ、使いますか」
折れた剣とはいえ、せっかく持ってきたので使う手はないと思った。というか、使う為に持ってきていた。
「その長剣、S1354が生成した物ですね」
折れているとはいえ、長剣の方がリーチが長いので、さすがのシーレイも警戒して距離を取った。
お互いしばらく睨み合うと、シーレイが一呼吸で接近してきた。
春斗は、上段の構えからそのまま勢いよく長剣を振り下ろしたが、それを難なくかわしてきた。
「遅いですね」
シーレイは微笑しながら、長剣の刃先を右フックで根元から破壊した。
『なっ!』
春斗は、驚いて後ろに後退した。
「驚くことはないでしょう。人形に生成の概念を教えたのは私です」
確かに、教えたのならどこが脆いのかも一目瞭然だと思った。だが、生成できないシーレイが生成できる人形に教えているのには違和感を覚えた。
「人形でも、生成を完璧にするのは難しいのです。苦手な部分は、修正をせずに生成することが多いんですし、人形たちは云われたことをただ遂行するだけですから、伝達しても完璧にはできません。なにしろ、生成の基準を生成できない私が教えてますから」
思いのほか、よくしゃべる殺人鬼だった。シーレイの云い分はよくわかることで、不備が生じるのは当然と云えた。
「ええ。まあ、それはそれで助かりますけどね」
こちらの思考が漏れたようで、正確な返しをしてきた。こうなると、人形はシーレイには勝てないように教えているのかを訊いてみたくなった。
「行動形式も攻撃形式も把握していますから、人形に私は殺せません。まあ、例外はいますけど」
シーレイはそう云って、戦っているリンの方を見た。それはリンなのか、二体の人形なのかはわからなかった。
話が途切れたので、折られた長剣の柄をシーレイに投げてみた。
しかし、それは余裕でかわされてしまった。というか、形が歪な上に軽いので、速度はあまり出なかった。形からして、真っ直ぐ飛んだことは奇跡に近かった。
春斗はすかさず、前進しながらポケットからほとんど昇華しかけたナイフの柄を取り出し、再びシーレイに投擲した。これはもう数センチだけしか残っていなくて、直線的に飛んでくれた。
さすがにこれには驚いたようだが、身体を捻ってかわしてきた。わかっていたことだが、動体視力と反射神経は、春斗を遥かに上回っていた。
少し態勢が崩れたシーレイの懐に入り、思いっきり右の拳を突き出した。
「やはり遅いですね」
これをシーレイが平然と首を傾けてかわして、腰の入った右フックを放ってきた。
拳が春斗の頬に直撃したが、拳を振り切れなかった。
「なっ!」
予想していた通り、力を込めた拳には重さがなかった。素人の春斗でも、耐えられるのが良い証拠だった。
春斗は、驚いているシーレイの右手首を逆手で素早く掴んだ。わざとカウンターを狙わせていたので、掴むのは容易だった。
「あ、あなたは・・・一体」
この千載一遇のチャンスに、春斗は渾身の打撃で決めることにした。
シーレイから見て、横立ちの状態から腰を落として、右腕をくの字に曲げ、掴んでいる左手を引きながら、シーレイの右脇腹に全力の裏拳を叩き込んだ。
「ぐっ!」
バキバキという音と共にシーレイが苦悶の表情で、その場で片膝をついた。
春斗は距離を取って、口の中の血を吐いた。重くないとはいえ、慣れない打撃で口の中を切っていた。
「ど、どうして?」
予想以上の重い攻撃だったようで、シーレイは脇腹を押さえながら顔を上げた。
ここは親切に、同じ人間でも環境が変われば体の構造は変わることを教えてあげた。
「こ、構造?」
それでも意味がわからないようなので、体重が違うとだけ答えておいた。
この会話で回復させる訳にはいかないので、シーレイに近づいて、追い討ちで腹を蹴った。まさに死体蹴りだった。(生きてるけど)
「ぐはっ!」
お腹に革靴の先めり込んで、シーレイが痛そうに仰向けに倒れた。
もう抵抗できないと判断した春斗は、なぜ武器を使わなかったかを訊いた。裏拳で折ったのが武器だということはわかっていた。
「わ、私は人殺しでは・・・あ、ありません・・から」
シーレイは、苦悶の表情で紳士的なことを云った。もし、彼が殺す覚悟で戦っていたら、確実に春斗は死んでいただろう。
春斗からしたら、化け物も人だと思うと伝えてみた。
「ば、化け物は化け物です。ひ、人には・・・なれない」
必死で電波をつむぎながら、自分の主張は押し通してきた。ここまで凝り固まていると、入り込む余地がなかった。
「い、今まで生きてきた経験や・・思いを、か、簡単に・・崩す事なんて・・できません」
これには納得しながら、フローランス達に目を移した。フローランスは、すでに一体は戦闘不能にしていて、リンの方はかなり押されていた。
シーレイに負ける経験もしておけと皮肉を云って、リンを大声で呼んだ。
「お、音・・波!」
すると、シーレイが上半身を起こして驚いた表情を見せた。腹部にダメージを負っている為、下半身は動かせないようだった。
春斗は、再度環境が違えば人の構造も変わると得意げに教えた。
「な、なるほど、ここまで違うとは・・予想外でした」
シーレイが上体を倒すと、リンが颯爽と春斗の元に戻ってきた。体格のせいか、少し離れて二体の人形が追いかけてきていた。速度はリンの方が速いことが確認できた。
二体の人形を見ると、短剣と長槍の組み合わせだった。とても連携できるような武器ではなかった。なぜリンがここまで無傷なのかが、なんとなくわかる気がした。
春斗は、使い物にならなくなった長剣の柄を拾って両手で二つに折った。
あまり時間もないので、すぐさま状況を訊いた。
「行動形式が多彩で読みづらい。二体いるから、攻撃の機転が作れない」
それなら作戦Aで行こうと、リンに指示を出した。この作戦は回避に重きをおいていて、速度で上回っているリンならできるはずだった。
「それだと、相手を破壊できない」
が、すぐに反論が飛んできた。確かに、作戦Aは足止めの策で、戦闘不能させる作戦ではなかった。
しかし、それはタイミング次第でなんとでもなるので、今は作戦Aを遂行させた。
「わかった」
このやり取りを4秒で済ませると、リンは目の前に迫ってきている人形に向かって駆け出した。
リンは、しばらく二人の攻撃を回避し続けた。その間に、春斗はリンの後ろに回り、投球の姿勢に入った。
『しゃがめ』
春斗がそう指示すると、リンはその場でしゃがんだ。
まずは短剣を持った人形に狙いを定めて、スリークォーターで長剣の柄頭を投げた。オーバースローだとリンにあたる可能性があるので、敢えてコントロールしやすい投球法で投げた。
それを人形が反射的に右にかわすと、なぜか長槍を持った人形も左に動いた。やはり、音に対して過剰なほど反応するようだ。
『右、追撃』
反射的に回避した人形は、瞬時にリンに間合いを詰められ首をはねられた。思った通り、素早さはリンの方が圧倒していた。
残った人形が、リンを攻撃しようとしたので、春斗が残った長剣の鍔を乱暴に投げた。
それに反応してくれたようで、人形が反射的に後ろに飛び退いた。投擲した鍔は人形に届くことなく地面に落ちた。軽くて歪な形なので届かないことは予想していたが、実際にそれを見るとちょっと恥ずかしくなった。
人形が鍔を一瞬見た隙をついて、リンが人形に近づき、素早く両手を交差させて切りつけた。
人形は反射的に長槍で防いだが、ここまで接近されると、もう長槍の利点を生かせなかった。
そこからリンの怒涛の攻めに耐え切れず、首に二本のナイフを刺されて絶命した。
「に、人形の弱点をつきましたか」
それを見たシーレイが、首だけこちらに向けてそう云った。もう普通に電波を発するまで回復したようだ。
春斗は人形から目を逸らすように、連携に弱いと答えを出した。それはリンから聞いて、わかっていたことだった。
「正解です。化け物は単独でしか戦いませんから。まあ、それはもう過去の話ですけど」
カーミルはそう云いながら、フローランスの方を見た。つられて見ると、フローランスは苛立った表情で戦っていた。
フローランスに手伝おうかと云うと、いらないと即答で返ってきた。かなりの距離だったが、ちゃんと届いたようだ。遠目ではあったが、フローランスの表情が少し和らいだ気がした。
フローランスが攻撃の速度を上げ、人形との距離を一気に縮めると、両手の掌底で打撃を与えて、人形を突き飛ばした。
間髪要れず人形を追って跳躍し、片手で人形の頭を掴み、そのまま地面に叩きつけた。それで終わったかと思うと、人形が痙攣をして動かなくなった。どうやら、フローランスが何かしたようだ。
「やられましたか」
仰向けに倒れているシーレイが、上空を見たまま独り言のように呟いた。
「やはり、この人形でも勝てませんでしたか」
シーレイは、残念そうに眼を閉じた。
「おまたせ~~」
決着をつけたフローランスが、笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。
「良かった。二人とも無事で」
春斗は、シーレイが手を抜いてくれたと事実を伝えた。
「そうなの?っていうか、まだ殺してないんだ」
フローランスはそう云って、シーレイの方を見た。
これに春斗は、自分は人殺しではないと強く主張した。
「じゃあ、殺してあげようか」
こんな心無いフローランスは嫌いなので、殺したら絶交と脅しを掛けた。
「えっ!じょ、冗談よ・・・冗談だから絶交だけはやめて!」
フローランスは動揺を見せた後、本当に絶交されると感じたらしく、春斗に泣きついてきた。さすがにここまで食い下がられると、悪いことをしたと反省した。
取り乱したフローランスに殺さなければ絶交はしないと云うと、ホッとしたように表情を緩めた。
フローランスが落ち着いたところで、シーレイに質問することにした。
「しゃべりませんよ」
予想通りの答えに、春斗はテンプレだな~と思った。
「拷問する?」
すると、後ろにいたフローランスがさらっと冷酷なことを提案した。
それはやめておくとして、リンにどうしたいかを訊いてみた。
「どうして、それをワタシに聞く?」
これには古巣だからとしか答え様がなかった。
「特に何もない」
リンには、元トップの生死すらも興味がないようだ。本人がそう云うなら、春斗からは何も云えなかった。
もうシーレイに用はないので、彼自身がどうしたいかの判断を委ねた。
「は?意味がわからないのですが?」
シーレイに同調するように、フローランスも意味がわからないと云った。
仕方がないので、面倒だから自分で決めろと云い直した。
「さっきまで命のやり取りしたとは思えないわね」
フローランスにはさっき云ったことが伝わっていないようなので、殺し合いではなかったと再度伝えた。ついでに春斗は武器を使ったが、シーレイは武器を使わなかったことも付け加えておいた。
「そうなの?」
それは意外だったようで、フローランスが倒れているシーレイを意外そうに見た。
「ええ、まあ」
ばつが悪いと思ったのか、フローランスから目線を逸らした。
「ふうん。本当に人には優しいんだね」
フローランスは、少しおかしそうに表情を緩めた。
「ところで、いつまで倒れるの?」
「肋骨が折れていて、中も損傷しているようなので立てません。あと、武器の破片が脇腹に複数刺さってます」
シーレイは目を閉じて、症状を淡々と伝えた。自分でやっておいてなんだが、思った以上の重傷だった。
「貴方、どんな攻撃したの?」
フローランスは呆れながら、春斗の方を流し見た。
そんな顔で訊かれるのは不本意だが、事実は事実として、脇腹に裏拳と腹部に蹴りを一発ずつと明確に答えた。
「それだけでこんなになるんだ」
フローランスの驚きは春斗にとっても同じで、こんなに脆いとは思っていなかった。
「貴方の筋力が異常なのよ」
思考が漏れたようで、フローランスがジト目でそう云ってきた。
勘違いしているようなので、春斗の世界では弱い方だと弁明しておいた。
「なら、貴方の世界は異常者の集まりね」
それなら、その台詞そっくりそのまま返すとフローランスに返した。
「私からしたら、二人とも化け物ですよ」
ここでシーレイが、春斗たちの会話に割って入ってきた。
シーレイの意見は受け付けていないので、無視するかたちでどうしたいかを再び尋ねた。正直、武力組織の人と会いそうで気が気ではなかった。
「では、放置して下さい」
この選択肢には、本当にいいのかと確認した。
「殺して欲しいと頼んでも、あなたは私を殺さないし、フローとS14・・いえ、リンでしたね。二人にも殺させないのでしょう」
それは当然だった。
「だったら、このまま放置してもらって、後は成り行きに任せますよ」
シーレイの瞳には、一切迷いを感じられなかった。こういう人は絶対に主張を曲げないので、云うだけ無駄だと思った。
「本当に放置するの?」
すると、フローランスが不満そうな顔でシーレイを見た。どうやら、フローランスには放置というのは不服のようだ。
それなら、フローランスに決定権を移すことにした。念の為、不殺生という条件も付けておいた。
「え!いいの♪」
これにフローランスが、とても嬉しそうに喜んだ。その笑顔が不吉で、何をするのかを事前に訊く必要が出てきた。
「恩を・・・売るのよ」
演出なのか、台詞に溜めをつくってにやりと笑った。春斗は云いたいことがわからず、眉間に皺が寄った。
「汚点を増やすのよ」
それを見たフローランスが、心底嬉しそうに笑った。その笑いは、もう嫌な予感しかしなかった。
「彼を治療するわ」
しかし、意外なことに自ら治療を申し出てきた。敵対している相手に、その行為は首を絞める可能性もあった。
「お断りさせていただきたいのですが」
これにシーレイは、不愉快そうな顔で断った。この世界では、人の好意を悪意と捉える人が多いようだ。(二人しか見ていないが)
このまま見殺しも後味悪いので、治療を許可した。
「やった!」
フローランスは、嬉しそうにガッツポーズをした。よほど、シーレイに恩を売りたいらしい。
あまりここに長時間は留まれないので、治療の時間は訊いておくことにした。
「すぐ済むわ。応急処置だけだしね。完治させてまた戦うなんて本末転倒だし」
そこをちゃんと考えているのなら、後はフローランスに任せることにした。
フローランスは嫌らしい笑みを浮かべながら、シーレイの傍にしゃがみこんだ。
「また、貴女に救われるのですか」
「何かの因果かもね。貴方にどれだけ恩を売れば、人としての恩が返ってくるのか楽しみだわ」
「皮肉ですか」
「ええ、勿論」
フローランスはそう云って、再び嫌らしい笑み浮かべた。
「化け物に恩返しはしません。ですが、お礼は云っておきます。ありがとうございます」
「謝意だけは云うのよね」
この会話を聞く限り、前に助けた時もお礼は云ったようだった。
「人として当然です」
シーレイはフローランスから視線を逸らして、仏頂面でそう云った。そこはわきまえているのに、なぜ敵意を向けることができるのだろうと不思議に思った。
そういうところは律儀だなと春斗が呆れて見せると、フローランスが変な奴よね~と笑顔を見せた。
「じゃあ、始めるね」
フローランスはそう云って、シーレイの脇腹に手を当てた。
すると、シーレイの絶叫が電波に乗って、辺りに響き渡った。痛覚遮断ができないようで、春斗と同じようにもがき苦しんだ。その光景を見て、反射的に身震いした。もうあれはトラウマになってしまっているようだ。
これが10秒ほど続くと、シーレイの叫びが途切れ、失神したように白目を向いた。
それ以降、シーレイは意識を取り戻すことはなかった。春斗はそれを不思議に思いながら、フローランスの治療を眺めた。
治療はなかなかグロいもので、腹部の切開は途中で見るのをやめてしまった。
「はい、終わり」
それから十数分後、フローランスが立ち上がり治療を終えた。
「あれ?気を失っちゃってるね」
フローランスは今それに気づいたようで、動かなくなったシーレイを見て呆れた顔をした。失神していることは、春斗には羨ましく思えた。
「春斗の経験を活かして、途中から塩酸ジアセチルモルヒネを微量に投与したから仕方ないね」
『えっ!』
これには驚いて、声が出てしまった。
「まあ、しばらくしたら目を覚ますと思うけど」
それに春斗は、依存症や後遺症がないことを心の中で祈っておいた。
シーレイをそのままにして、春斗は先の森へ向かった。リンがついてこないのが気になり振り返ると、倒れたシーレイを見つめてから春斗たちの所に駆け足で来た。おそらくだが、何か最後に伝えたのだろうと思った。
こうして、春斗たちは独立組織の包囲網を強行突破という形で切り抜けたのだった。
第九話 集団
フローランス達が森に入ると、カーミルが茂みから顔を除かせた。隠れるにしては、すぐにばれる場所だった。
「無事だったか」
「まあな」
興奮気味のカーミルに、春斗が軽く返事をした。
「すげえな」
「まあ、運が良かっただけだ」
「そうだとしたら、かなり嫉妬するな」
春斗の謙遜に、カーミルが皮肉を云った。口が悪いというか、天邪鬼なのかは知らないが、フローランスにしてみれば嫌な奴だった。(人のことは云えない)
「あれ?服なんて持ってたのか」
春斗がカーミルの服を見て、不思議そうに首を傾げた。さっきまで布を巻いていただけだったのだが、今は服を着ていた。
「布を変形させただけだ」
確かにカーミルの云う通り、服の色はさっき巻いていた布と同じ色だった。巻いていた布をできるだけ伸ばして、服の形に変えたようだ。よく見ると、カーミルが片手の指を動かしていることに気づいた。どうやら、片腕が動かせるようになったことで、もう片方の接合より服を優先させたようだ。
「ふ~ん。便利だな」
春斗は羨ましそうな顔で、そんな感想を電波に乗せた。
「で、これからどうする?」
「民主組織までの道案内を頼む」
カーミルの馴れ馴れしい質問に、春斗は軽いノリでお願いした。
「ここからはかなり遠いぞ」
渋ると思ったが、すんなりと案内役を引き受けた。
「遠くても、目的地がそこなんだよ」
「う~~ん。いまさら戻るのも気が引けるんだが」
「戻りたくないなら、途中まででもいいぞ」
春斗は、捕虜であるはずのカーミルに気を使った。
「戻りたくないというわけじゃなくて、戻りにくいんだ」
「なんで?」
「一度、武力組織に掴まったら、だいたいは死ぬか組織に入るのが一般的になっているから、このまま戻ると組織から拒絶される恐れがある」
民主組織の用心深さは、他の組織と比べものにならないほど徹底しているようだ。フローランスには、全く理解できない生き方だった。
「そうか。じゃあ、案内してくれ」
「俺の引け目の気持ちは無視か」
「心の整理は、道中にでもしてくれ」
「淡白だな」
「本人の問題だから関与できん」
「共感ぐらいしろよ」
「共感はできるけど、解決策はない」
「どうして?」
「なぜなら、俺も未だに迷走中だからだ」
春斗はそう云って、沈んだ顔で項垂れた。
「そ、そうか」
それを見たカーミルは、春斗を気遣ってそれ以上は何も云わなかった。ここまでのやり取りを見て、親密度がフローランスより高いように感じた。(気のせいかもしれない)
「で、案内してくれるのか?」
「ああ、勿論だ。案内しよう」
「ありがとう。助かるよ」
春斗は、カーミルに微笑んで礼を云った。
「礼はいいよ。相身互いみたいだし」
カーミルは表情を緩めて、春斗を先導した。何か通じ合っている感じがして、フローランスはカーミルに嫉妬した。
獣道から人道に入り、そこからは人道に沿って歩いた。
「走ったほうが早く着くけど、どうする?」
先頭を歩いているカーミルが振り返って、春斗に尋ねた。
「歩きで」
これに春斗は、迷うことなく即答した。
「歩きだとどれくらい掛かるんだ?」
「知らん」
時空の計算が苦手なようで、カーミルは首を振って答えた。
「またか・・・」
ライラに連行されたことを思い出したのか、春斗が首を項垂れて溜息をついた。
「なら、距離は?」
「知らん」
「普通、測らないわよ」
不毛な会話になりそうなので、フローランスが間に入ることにした。それに気づいたカーミルが、少し距離を取った。
「どの辺にあるかわかるか?」
それでも諦めきれないのか、春斗がカーミルに尋ねた。
「それも無駄ね」
さっきの質問で、時空の把握ができないのは明白だった。
「案内はできるようだから、道順だけを把握しているんでしょう?」
「その通りです」
フローランスの憶測に、カーミルが敬語で頷いた。
「そうなのか・・・先が見えないな」
「長旅になりそうだね」
春斗と一緒なのは嬉しいので、自然とテンションが上がった。
「徒歩以外に、移動方法はないのか?」
「変なこと聞くね?徒歩以外に何かあるの?」
春斗の台詞に、フローランスは違和感を覚えた。
「乗り物とかだよ」
「「のりもの?」」
聞いたことのない単語に、カーミルとフローランスの電波が被った。不本意ではあったが、これは仕方ないとも思った。
「しまった。地雷だったか」
春斗が失言したという顔をした後に、なぜか手で口を覆った。
「歩きながら説明するよ」
春斗は、若干諦めたようにそう云った。
「楽しい道中になりそうね」
退屈しなさそうな長旅に、フローランスは嬉しくなった。
「俺も異世界の事は興味はあるな」
カーミルは、先頭を歩きながら振り返った。
「おまえ達にとっては、不可思議なことばかりかもな」
春斗は、道中に自分の世界のことを話し始めた。乗り物、建築、経済、文化、宗教、そんな数多く話してくれた。
「やっぱり人は、結託した方が技術は発展するのね」
聞き終わった感想としては、その結論が最初に出た。
「人口が多すぎるな。異常だろ」
カーミルは、異世界の人口過多なのが気になったみたいだ。
「確かに異常だな。今では戦争がほとんどないから、増殖の一途を辿っているよ」
「歯止めが効かなくなっているのか」
「このままいくと、百億は超えるだろう」
「それを聞くと、輪廻転生なんて馬鹿げてるな」
「だな」
「でも、輪廻が確実にないとも証明できないけどな」
「魂の概念すら証明されてないのに、どうやって証明するんだよ」
「魂は認識できない。結論はそれに行き着くかもな」
「それはそうだろう」
春斗は、おかしそうに表情を崩した。
「よくそんな宗教じみた会話ができるわね」
なんの話をしているかわからないので、つまらなさそうに話に入った。
「ちょっと休憩しないか。もう何時間も話してる気がする」
「3時間43分25秒」
ここでリンが、春斗の世界で使われている時間の単位で答えた。単位のことは聞いていたが、こうやって直接電波に乗せると、春斗の世界の計算は面倒に思えた。
「そんなに経ってたのか」
春斗は疲れた様子で、その場で立ち止まった。
「どうしたの?」
フローランスも立ち止まって、春斗の方を振り返った。
「疲れた。ちょっと休もう」
「えっ!どこで?」
突然の提案に、反射的に周りを見渡した。
「木陰とかあるだろ」
「そんなとこで休憩するの?」
「他にどこがあるんだよ」
「ないけどさ~」
まさか道端で、休憩を取るなんて思ってもいなかった。
「カーミルは、休めそうな場所とか知らないか?」
「知らん」
これは当然の返しだった。道順を覚えていると云っても、こんな中途半端な距離に休憩所があるはずなかった。
「だったら、しょうがないから木陰で休もう」
「はいはい、わかりました」
反対しても無駄なので、フローランスは軽い感じで従った。
春斗は茂みを掻き分けて、森の奥へ入っていった。
「あれ?人がいるぞ」
春斗の後ろから覗き込むと、大木に寄りかかっている男がいた。彼はぐったりしていて、全く生気が感じられなかった。
「もう抜け殻ね」
男の周りの空気は、本当に澄み切っていてもう死ぬ寸前だった。
「抜け殻?」
「この人は、もうすぐ消滅するわ。いえ、もう消滅しかけているが正しいかな」
「どういうことだ?死なないんじゃないのか?」
春斗はそう云いながら、怪訝そうな顔をこちらに向けた。
「死ねる人は死ねるわ」
死に際の男は、本当に安らかで心の底から羨ましく思えるほどだった。
「意味がわからないんだけど」
「精神が死を望めば、肉体が消滅するのよ。肉体が半永久でも、精神は永遠には耐えられないからね。まあ、要は退屈なのよ、生きることが」
最後の台詞は、フローランス個人の思いでもあった。
「経験が多くなればなるほど、好奇心が薄れるもんな」
「そういう事」
「退屈は人を殺すか」
「格言ね」
自分は死ねないけどと電波を漏らしそうになったが、ギリギリのところで押し留めた。
「死を望めば消滅するんですか?」
ここでカーミルが、驚いた様子で話に入ってきた。敬語を使われたが、ちょっとイラっとした。
「万物は流転するのよ。それは人も例外じゃないわ。知らなかったの?」
ある程度生きれば、その答えに行き着くので馬鹿にしたように云ってみた。
「うっ!」
しかし、その在り方は知っていたようで、苦い顔で視線を逸らした。
「・・・人が自殺できることは初耳です」
「まあ、悟ればわかるわよ。自分の死の在り方がどういうものなのかがね」
「そういう・・ものですか」
カーミルは釈然としていない様子で、複雑そうな顔をした。その表情は、自分の価値観が崩れたように見えた。(知ったことではないが)
「でも、そう簡単に死を受け入れるのか?」
春斗は男を見ながら、不思議そうに訊いてきた。
「彼は希少よ。こうも潔い死を望む人は滅多にいない。というか、滅多に見ない。そういう人は、ほとんど人知れず死んでいくからね。大抵は、麻薬に溺れ消えていくわ。彼らは死ぬことを選ばず、狂うことを選ぶのよ。あれは、見てて痛ましくて殺したくなるわね」
そういう死に方はたくさん見てきたので、安楽死を見ることは個人的に心が安らいだ。
「想像するだけで、うつになりそうだな」
「貴方が正常で嬉しいわ」
春斗も同じ考えなようで、個人的には少し救われた気がした。
「私ね。こういう人を見ると、結構嬉しいのよ」
フローランスは自分の気持ちを電波に乗せて、男の横に屈んだ。
「人として自分の死を受け入れるのは、容易くないわ。その決意に敬意を表して、いつも弔いの電波を送ってるの」
男の顔を見て、自然と表情が和らでいくのを感じた。
「さようなら。貴方は人として誇りを持って逝きなさい」
フローランスは手を伸ばし、男の頬に触れて優しく微笑んだ。手から微弱の電気を流すと、男の皮膚が昇華し始めた。
「何したんだ?」
「昇華を早めただけよ」
これはフローランスからの、敬意の葬送の仕方だった。
「そんなこともできるのか」
「意志が働いていない肉体は、細胞結合が脆くなるのよ」
フローランスはそう云って、男が消滅するのを黙って最後まで見送った。結構時間が掛かったが、誰も卑俗なことを云わなかったのは個人的に嬉しかった。
「行きましょうか」
穏やかな気持ちになったフローランスは、春斗たちにそう促した。
「いや、ちょっと待て。休憩してないぞ」
「あっ、忘れてたね」
これは完全に失念していた。
「なんかここでは休憩しづらいから、場所を移そうか」
「別に気にすることないのに」
そうは云ったが、春斗の気遣いは嬉しくもあった。
春斗が場所を決めたので、その木の下に座った。
『ふぅ~』
すると、春斗が気の抜けた音を漏らした。よほど、疲れていたようだ。
「この先、ずっと森なのか?」
この先の道のりを把握したいようで、カーミルに詳細を訊いた。
「いや、この先は山になっている」
「前途多難だな」
春斗は、座ったまま首を項垂れた。
「まあ、地道に行きましょう」
こっちとしては急ぐこともないので、気軽にそう云った。
「そうだな。あ、そうだ。栄養補給したいな」
「ん?あ、そうだったわね」
確かに、錠剤を生成してから結構な時間が経過していた。
錠剤の生成にも慣れてきて、さらに2タウほど短縮できた。春斗に渡すと、なんの躊躇もなく口に運んだ。
「何ですか、それ?」
それを見ていたカーミルが、少し不思議そうな顔をした。
「異世界では、栄養は有機物から取るらしくてね」
「・・・動物?」
予想通り、カーミルが驚いた表情をしたが、驚きが小さい気もした。
「云いたいことはわかるけど、そうしないと肉体の維持ができないらしいのよ」
「そうなんですか」
訝しげだったが、それ以上は訊くのは控えてくれた。
「それにしても、よくそんな短時間でできますね」
春斗を気にしたのか、別のことに話を移した。これはフローランスとしても、好感が持てる配慮だった。
「慣れればどうってことないわ」
フローランスがそう答えると、なぜかカーミルが両手を合わせて生成を始めた。
そして、しばらくそのまま動かなくなった。空気の圧縮からして、失敗することは確信できた。
「何してるんだ?」
黙ったカーミルが気になったようで、春斗が不思議そうに訊いてきた。
「生成してるのよ」
春斗にそう答えると、生成を終えたカーミルが両手を広げた。すると、ドロッドロッの液体が手から零れて地面に流れ落ちた。
「気持ち悪っ」
自分で生成した液体に、カーミルは気持ち悪そうに液体を振り払った。
「凝固がまだまだ甘いわね。まあ、見様見真似じゃあそんなものよ」
これは避けては通れないので、経験を積むしかなかった。
休憩してると、春斗の瞼がゆっくりと閉じ、眠りに入ってしまった。こんな所でよく眠れるなと思ったが、寝顔を見るのも悪くないので、そっとしておくことにした。
春斗が寝たことにリンとカーミルが気づき、寝床を探すかの話になった。リンは積極的に参加しなかったので、カーミルとどうするか話し合った。
その結果、寝床を探すことに決まった。
「ちょっと、一回りして探してくるわ」
フローランスは立ち上がって、森の中を探索することにした。
「俺も手伝いますよ」
「そ。じゃあ、北と南で半円・・歩きで100タウの範囲で探してみましょうか」
距離で範囲を決めようとしたが、カーミルは苦手そうなので時間にしておいた。
「あと、探す時間も100タウにしましょうか」
際限なく探し回られるのは、後々面倒になるので時間も決めておいた。
春斗はリンに任せて、まずは適当な大木に登った。
大木の天辺から、北を基準に半円を描くように目を凝らした。
見渡す限りの森ではなく、北北東の方に山があった。北西に川があり、少し切り開かれた形跡があった。そう遠くない場所だったので、木をつたいながらそこを目指した。
目的の場所まで近づいたところで、木から下りて歩いていくことにした。
5タウほど歩くと、正面に柵に囲まれた十数戸の建物が見えてきた。色は普通の土の色で、どの組織にも息が掛かっていないようだ。これは春斗と一緒に泊まった集落と同じで珍しいことだった。まあ、あの集落は歴史的な経緯があるので、目の前の集落とは事情が違っていた。
とりあえず人がいるかを確かめる為、適当に生成してみた。
すると、建物から多くの人が出てきた。予想以上の多さに、ちょっと戸惑ってしまった。男が多かったが、女も物珍しさからちらほら見えた。
「誰だ?」
最初に電波を発したのはガタイの良い男だった。
そこからいろんな意見の電波が入ってきたが、フローランスは落ち着くまで待つことにした。
「おい、あいつ、フローじゃないのか」
「確かに、服装は奇抜だと聞いていたが、あれは歪じゃないのか」
しかし、フローランスだと知ると話がどんどん膨らみ、遂には全員に不安が伝染し、こちらに敵意を向けてきた。
これは非常に良くない流れで、このままでは何もできず引き返すパターンになりそうだった。
「泊まっていいかしら」
仕方がないので、こちらから宿泊を願い出た。一人だったら、強引に貫き通すのだが、春斗とリンがいるのでそれはやめておいた。
そう思っていたのに、複数の男が武器を生成して襲い掛かってきた。あまりにも短絡的で思慮のない行動は、昔の自分を見ているようで、あまり良い気分にはなれなかった。
剣を振るってきた相手を軽くいなしながら軸足を払い、その後ろにいた男をこちらに引き寄せ、倒れた男の上に叩きつけた。
「落ち着き・・・」
なさいと云う前に、他の人が襲い掛かってきた。表情を見る限り、脳内で麻薬を生成している感じだった。
この男とは話ができそうにないので、右手に持ったナイフかわして、瞬時に拳を鋼鉄で覆って思いっきり殴った。
相手が後ろによろめいたので、こちらは後ろに下がって距離を取った。
「ちょっと待ちなさい」
ここで話し合おうと、制止の電波を発したが、それは無駄終わった。全員を視野に入れると、目が正気じゃなかった。
「はぁ~、短絡的な」
これには溜息しか出なかった。もうこうなっては、全員倒すしか方法がなくなってしまった。
フローランスは覚悟を決めて、殺さないように努めることにした。
全員倒すのに、15タウも掛からなかった。凶暴な相手は攻撃が単調な上、連携なんて皆無なので本当に容易かった。倒した人数はわからないが、襲ってきた輩が地面に転がっていた。
「全く、馬鹿じゃないの」
フローランスは髪を掻き上げて、悪態をついた。戦いに不殺生の縛りを付けるのは、本当に骨が折れた。十人ほど倒した時に、何人か逃げたのは確認しているので、警戒だけは怠らないようにした。
すると、正面から一人の女が歩いてきた。全身綺麗な編み目のローブで身体を覆っていて、この人だけ他とは違う服だった。
「さすがは、始祖と呼ばれるだけはありますね」
女が綺麗な電波で、そう賛辞してきた。
「・・・ここって、組織の拠点なの?」
女の風貌は、この集落の長のように見えた。
「いえ、組織というほど力はありません」
昔とは違い、この世界では力がないと組織とは呼ばれないようになっていた。
「貴女たちは、何を目指しているの?」
別に興味はなかったが、流れでなんとなく訊いてみた。
「目的はありません。しいて云うなら、価値観が合うからでしょうか」
「馴れ合いね」
前までは馬鹿にしていたところだが、今は大いに共感できた。
「ここはもう満室なの?」
「そうですね。今新たに建てる計画をしています」
「そ、邪魔したわね」
そうなると、もうここには要はないので、さっさと立ち去ることにした。
「・・・本当に宿泊しに来たのですか」
「初めからそう云ってたわよ」
「すみませんね。始祖に会うのも初めてで、それどころか他の人にも不寛容なので」
「それでよくこんなに人を集められたわね。驚きだわ」
「集めたのではなく、生んだのです」
そう云われて周りの倒れた人を見ると、指がない人が多く見られた。そして、女の両手には親指と人差し指の二本だけしかなかった。
「なるほどね」
これでは風見鶏のあいつと、あまり変わらない組織のようだ。まあ、あいつは組織を装うので、それよりは全然マシだった。
「こいつらに云っておきなさい。やたら敵対すると、すぐに滅ばされるわよ」
「・・・始祖の云うことならば、これからの教訓にしておきましょう」
もうここには用がないので、春斗の所に戻ることにした。
第十話 固執
フローランス達が出かけて、60タウ経過すると、春斗が目を覚ました。
周りにリンしかいないことに気づくと、春斗が二人の行方をリンに訊いてきた。
これには寝床探しだと答えた。戻ってくる時間まで40タウだったが、聞かれなかったのでそれは云わなかった。
春斗は不思議そうに、なんでまたと首を傾げた。これにはリンも同意見だった。
何を思ったのか、春斗が立ち上がり、周辺をゆっくりと歩いた。どうやら、二人を捜しているようだ、
リンの方に戻ってくると、どこに行ったかを聞かれたので、二手に分かれたことを伝えた。
すると、この場を動けないと悟り、リンの横に腰かけて、上空を見上げた。リンもつられてみると、木々の隙間から青い光が照らしていた、それを見て、あの光がどこからきているのかという春斗の疑問を思い出した。今まで考えたこともないし、不思議にも思っていなかったのだが、ここにきて光を発行する物体が空にはないことが不思議に思えてきた。
14タウほど経過すると、茂みを踏みしめる音が聞こえた。空気の歪みがないことから、人ではないことは明白だった。
しかし、春斗にはそれがわからないようで、フローランスとカーミルのどちらかと思ったようで、不用意に茂みに近づいた。
春斗が電波を飛ばしたが、予想通り返事はなかった。
それが不安になったようで、リンの方を見て、警戒するよう目配せしてきた。リンは春斗の隣に立って、ナイフを生成した。
すると、茂みから動物が出てきた。
『えっ!』
それが予想外だったようで、春斗から声が漏れた。どうやら、春斗の世界にもこの動物はいるようで、熊だと電波を漏らしてきた。動物に名を付けるなんて意味がないと思ったが、脅威なのは間違いなかった。
春斗を見ると、青ざめた表情で絶望感をかもし出していた。事実、この動物にはリンでも体格差で勝てる見込みがなかった。
春斗がぎこちない電波で、撃退できるか訊いてきた。
これにリンは、体格差と自分のナイフではこの動物には通じないと答えた。この状況だと、逃げることの方が簡単なのだが、春斗がいるせいでそれはできそうになかった。
出会い頭だった為、動物が防衛本能から立ち上がり、リンの方に前足を振り下ろしてきた。
その前足の脇に入り込み、ナイフを突き立てたが、毛が多くて刃が皮膚に入る前に折れてしまった。
それを見た春斗が、もしかして絶体絶命と疑問符を付けて、一歩後退した。
春斗が状況を把握したところで、突然動物が怯えたように後ろを向いたかと思うと、こちらに向かって突進してきた。冷静に動物の進行方向を予測すると、こちらの間を抜ける感じだった。
『げっ』
しかし、春斗にはぶつかってくると勘違いしたようで、慌てた様子で横にずれた。
動物は、その間を通って逃げていった。動物が振り返った場所を注視すると、空気の歪みがこちらに近づいてきた。足音から察するに、フローランスのようだ。春斗の方は、動物が去った方向を呆然として見つめていた。
予想した通り、フローランスが茂みから出てきた。
フローランスはこちらを見て、もう起きたのかと春斗に云いながら、服に付いた草を手で払い落した。
春斗の複雑の表情を見たフローランスが、何かあったのかと訊くと、春斗はなんでもないと苦い顔をした。どうやら、動物のことは云わないようだ。
春斗は話を切り替えるように、どこに行っていたのかと訊くと、フローランスは集落探しと答えた。
春斗がどうだったのかと訊くと、あるにはあったが、集落の人が二十人近く襲ってきたそうだ。それを全員倒したが、満室だったので引き返してきたと恥ずかしげに云った。(どうでもいいが、誰も殺してはいないらしい)
一通り聞き終わると、春斗が今度はカーミルの所在を気にし出した。
これにフローランスが、自己経過であと6タウで戻ってくると南の方を向いた。制限時間まで、リンの自己経過では4タウほどだった。これは個人によって違うので、差異が出るのは仕方なかった。
すると、春斗が自己経過の意味を訊いた。どうやら、春斗の世界ではこの単語は使われていないようだ。
考えればすぐわかることだが、自己経過は自分で計ることだとリンが説明した。ちなみに、自己経過の精確さで、生成の質が大きく変わることはこの世界の常識だった。
9タウほど経つと、カーミルが少し呼吸を荒くして戻ってきた。
フローランスが成果を訊くと、洞窟しかないと返してきた。しかも、動物の住処かもしれないと付け加えた。
これを聞いて、フローランスがどうするかを春斗に訊くと、一考もせずに首を横に振った。理由としては、動物の住処を奪うことはしたくないそうだ。
これにフローランスが、動物に配慮する行為に疑問符を付けると、春斗が差別は良くないと変なことを云った。この世界では、差別は当たり前だし、排他的にならざるを得ないのは春斗も知っているはずだった。それは動物も例外ではなかった。
ここでフローランスが、自分は動物に避けられると悲しそうに独白した。どうやら、さっきの動物は本能で逃げたようだ。フローランスの存在は、動物にとっても畏怖の対象らしい。
春斗は休憩を終えたと云って、カーミルに先導をお願いした。どうやら、野宿覚悟で進むようだ。フローランスもそれを察したようで、何も云わず春斗の後に続いた。カーミルも同じように先頭を歩いた。
しばらく歩くと、上り坂に差し掛かった。山を見て、春斗がさらに疲れた表情を見せると、カーミルがここからは武力組織が襲ってくると注意喚起した。
春斗が理由を聞くと、カーミルはここで捕まったらしい。フローランスもここは武力組織の縄張りだと、思い出したように電波を発した。
すると、春斗が自分たちは武力組織の色の服を着ているから大丈夫だろうと云った。
これにフローランスが、自分とカーミルがいるので、襲ってくる可能性を示唆した。
春斗もこれは否定できないようで、回り道がないかとカーミルに振ると、別の道から行くと迷子になると恥ずかしげもなく云い切った。
春斗が腕を組んで考え込んでいると、フローランスが獣道は嫌だと申し訳なさそうに云ってきた。まあ、その服装なら獣道は避けたい気持ちはわからなくもなかった。
春斗としては戦闘を回避する着想を欲しがったが、誰も案を持ち合わせていなかった。
フローランスが痺れを切らせて、そのままつっこむという短絡的な行動を提案してきた。これにすかさず春斗が、面倒になりそうだからと却下した。
道は一つしかないのに、春斗がなぜか情報を求めてきた。
これにフローランスが、律儀に山頂までの距離を教えた。それを聞いた春斗が、走っては抜けられないと一人で悩んでいた。春斗がいなければできることだったが、それは云わないでおくことにした。
カーミルの話では、人道はここしかなく、あとは自然のままらしい。山にいる武力組織は、少なくとも八人だそうだ。捕まった時は、六人からは逃げ切ったが、残り二人に捕まり、腕を切り落とされて連行されたそうだ。
ここでフローランスが最終判断を春斗に委ねると、人道を歩いて襲ってきたら撃退するという安直な行動を取ることを決めた。わざわざ情報収集して導き出した答えが、こうも安直だと本当に時間の無駄だと感じた。
すると、春斗が手招きしてリンを呼んだ。
傍に行くと、春斗が電波で要点だけをリンに伝えてきた。それをする意味がわからなかったが、命令なので従うことにした。
リンは、身を隠すように近場の木の枝に飛び移った。それを見たフローランスが訝しげに、本当にうまくいくのかと疑問を投げかけた。
これに春斗が、無計画よりはマシだと云った。それは間違っていないのだが、この行動が本当に意味があるのか、どうしても考えさせられてしまった。
リンは木の天辺まで登り、春斗たちの歩く速度に合わせて、木々を飛び移りながら移動した。音を立てないように移動するのは面倒だったが、さほど難しいことでもなかった。
移動中、木の天辺から見える景色が新鮮で、少しだけ周りの景色を見ながら移動した。下では春斗たちの電波が微弱に流れてくるが、内容までは聞き取れなかった。
上り始めて570タウほどすると、上の方から甲高い電波が聞こえてきた。距離からして720メートルぐらいだった。
下を見ると、フローランスも気づいていて、春斗を守るように身構えていた。彼女が守るなら、リンは不要なのでこの場から見守ることにした。
木々の間から、電波を発している女が見え隠れした。全力疾走していると思われる女は、動きにくそうな硬い服を着ていて、電波からして完全に狂っていた。おそらくだが、麻薬中毒者だと思われた。
甲高い笑いが徐々に大きくなり、千鳥足なのに物凄い速度で春斗たちに迫ってきた。バランスの悪い走りは、見ていて異形のもののように感じた。
女がフローランスにある程度近づいたところで、跳躍して襲いかかった。
フローランスはそれを軽やかにかわしながら、右のカウンターで女を数メートル吹き飛ばした。始祖相手に単調な攻撃は命取りなのだが、狂っているので判断はできないのだろう。
これに春斗がかなり驚いたようで、リンにまで聞こえる電波を発した。それに対して、フローランスが答えたようだが、こちらまで電波が届かなかった。
狂人ならあれくらいでは倒れないと思っていると、予想通り女が立ち上がった。
女がフローランスに向かって、さっきと同じ行動で攻撃を仕掛けた。狂人になると、こうも壊れてしまうのかと哀れに思った。
フローランスが迎撃しようとしたが、後ろの春斗が先に動いた。
春斗はフローランスの前に立つと、体を回転させ、向かってくる女に後ろ廻し蹴りを食らわせた。蹴りは相手の左頬に直撃して、勢いよく吹っ飛び、リンが立っている横の大木に激突した。それを見たリンは、春斗に受けた攻撃の重さを思い出して、反射的にお腹を抑えた。
女の状態を見ようと思ったが、木の枝と葉が邪魔で見えなかった。
フローランスも気になったようで、女の方に近づいた。何気に春斗の方を見ると、カーミルが視界に入った。表情からは驚きの様子が見て取れた。
春斗たちは女が動かないことを確認し、山道を再び上り始めた。リンもそれに合わせて移動を再開した。
少し進むと、正面から男が走ってきて、春斗たちに気づくとその場で足を止めた。男は、武力組織の象徴である色の外套を身に付けていた。
ほんの一瞬だが、リンの方に視線が飛んできた。どうやら、ばれてしまったようだ。男は青と白が混ざった印象的な色合いの短髪で、せいかんな顔立ちだった。身体には各部位を守るような鎧を着ていて、その上に外套を羽織っていた。
カーミルが春斗に何か云うと、春斗が神妙な顔をした。おそらくだが、青白髪の男にカーミルは捕まったのだろう。
春斗が率先して、青白髪の男と話し合いを始めた。途切れ途切れの電波から、さっきの狂人のことを話しているようだ。
それが終わったかと思うと、今度は青白髪の男が春斗たちを疑い始めた。
しばらく見ていると、青白髪の男が横にずれた。どうやら、説得に成功したようだ。
青白髪の男が再び上を見て、今度はリンと視線を合わせてきた。もう隠れるのも意味がない気がしたが、春斗が何か弁明しているようなので、こちらは黙って見ていることにした。
そこからまた話し始めたので、リンは山の山頂を見て、空気の歪みを探した。若干だが、空気の歪みを複数感じ取れた。おそらくだが、下にいる青白髪の男の仲間だろうと勝手に思った。
5タウほどしても、春斗たちは動かず、フローランスとカーミルとで今度は何かを話し合っていた。周囲を見るのも飽きたので、空のを方を仰いだ。空には何もなく、ただ光だけがこの世界を照らしていた。
ようやく話がまとまったようで、春斗たちが歩き出すと、フローランスがリンの隣の木の天辺に登ってきた。
フローランスはリンを見て、よろしくねと云った。何がよろしくなのかわからなかったが、状況だけは把握しておきたかった。
移動しながら、フローランスから話を聞くと、この先で武力組織が待ち構えていて、全員が戦闘狂なので、先頭を歩いている青白髪の男に仲介を頼んだらしい。フローランスがいると、変にこじれるので、隠れて移動して欲しいと男から条件を出されたそうだ。
春斗が決めたのなら、仕方がないと思ったが、フローランスと二人きりだと居心地が悪いことこの上なかった。
フローランスに見られながら、山の頂上付近に着くと、下の春斗たちが警戒するように身構えた。
すると、茂みから殺気を放った七人が、春斗たちの進行方向に立ち塞がった。
リンは相手がどう動くかを、そのまま木の上から観察していると、フローランスが何かに気づき、すぐに木から飛び降りていった。
これに全員が驚き、場が混乱した。リンは木からゆっくり下りて、電波の届く範囲の枝に座って状況を見守ることにした。混乱のせいか、武力組織の七人は誰もリンに気づかなかった。
この混乱を収めようと、春斗たちと同行していた青白髪の男が、全員に退くよう促した。
しかし、フローランスがそれを遮るように、邪魔するなら戦ってあげると挑発的なことを云い出した。その瞬間、フローランスの周りの空気が歪んでいった。
それに気づいた二人は、森の方へ逃げるように散っていった。
フローランスはそれを追うこともせず、賢明な判断だと賛辞した。こうなるなら、リンが隠れる意味がない気がしたが、春斗の指示なのでそれは考えないことにした。
残った五人の内の一人の男が面白そうだと云いながら、一歩前に出て挑戦を受けた。彼は全身鉄の鎧で覆われていて、顔は目だけしか見えず、手には剣を二本携えていた。始祖に対して勇敢ではあるが、リンからすれば力量の差もわからない蛮勇にしか見えなかった。
ここで一人のツナギの服を着た男が、鎧男を止めた。
これに鎧男が、フローランスは特例で守られているだけだと、勘違いも甚だしい思い込みを電波で流した。彼は、空気の歪みの把握もできないのだろうかと不憫に思った。
ツナギの男が何かを云おうとすると、フローランスが鎧男にさっさと戦おうと指を動かして挑発した。
ツナギ男の制止を聞く気がないようで、鎧男が軽やかな足運で少しずつ前進してきた。フローランスは、優雅に立ったまま動かなかった。
鎧男は左に移動して、そこからフローランス目掛けて水平に跳躍した。彼女を横切ると同時に、双剣を水平に振るった。鉄を全身に纏っている割には、動きが滑らかだった。
しかし、フローランスは単調だと溜息をついて、相手の右手首を左手で掴み、右手で顔を後ろ押して、そのまま、全体重を乗せて地面に叩きつけた。この一連の動きは0.1タウも掛かっていなかった。
フローランスは鎧男を兜越しに顔を押さえつけ、双剣を左手で器用に奪うと、それを首筋に突き当てた。あまりにも鮮やかな手並みに、リン自身参考にしようと思ったが、体重が軽いので組み伏せるのは無理だと思い直した。
ここでフローランスが首をはねるか、侵蝕されるかどっちがいいかと脅しを掛けると、鎧男が怯えるように短く悲鳴を上げた。
決着がついたところで、春斗が仲裁に入った。フローランスの名前を呼んだだけだったが、春斗の意思を察してわかっているとだけ云い、鎧男を開放した。
鎧男が怯えるように逃げいていくのを見届けると、フローランスは他に戦う人がいるかと冷ややかな眼差しを送った。
しかし、戦う意思のある者はいなかった。さっきの戦いを見たら、誰も挑戦などするはずがなかった。
いないとわかると、フローランスがサーミャという名を電波に乗せて挑発した。どうやら、隠れるのをやめたのは、知り合いがいたからのようだ。
武装組織の三人が、後ろにいる一人の女に視線を送った。彼女は頭に武力組織の象徴の色のバンダナを巻いて、全身はプレートアーマーで身を包んでいた。長い髪を四つ編みで束ね、瞳は特徴的な黄金色だった。
サーミャと呼ばれた女は首を振って、やめておくと拒否をした。
誰も挑戦しないようなので、フローランスがもう邪魔しないでと解散を告げると、各自去っていった。先導していた青白髪の男も、用件は終わったと云って、森の中に消えていった。
しかし、その場にサーミャだけが残っていた。
フローランスが首を傾げて、不思議そうにどうかしたのかと尋ねた。
これにサーミャが、孤高のフローランスが奴隷を従えることが意外だと、的外れのことを云った。まあ、傍から見たらそれは仕方ないとも思った。
なぜかフローランスはそれを否定せずに、サーミャが武力組織に入っている方が意外だと云い返した。
二人はしばらく見合うと、視線を逸らしてお互い微笑んだ。
ここでフローランスが、春斗たちは奴隷ではなく友達だと訂正させた。
すると、サーミャが春斗を見て、物好きな人がいると評した。それは間違いではなかったし、リンもそう思っていた。
サーミャが森に足を向けると、フローランスがサーミャを呼び止め、一緒に行かないかと勝手に誘った。フローランスが恥ずかしそうにしているのは、おそらく今までこんなことをしたことがなかったからだろうと勝手に思った。
これにサーミャが、眉間に皺を寄せて変わったなとフローランスに云った。ちなみに、サーミャはフローランスのことをフローと呼んでいた。(正直、どうでもいい)
それに対して、フローランスがそうかもしれないと、春斗の方をチラ見した。
サーミャは、はっきりとがっかりしたとフローランスに伝え、前の孤高の方が魅力的だと失望を顔に出した。そして、小さな電波で今のフローランスはラクウイみたいとよくわからないことを発した。
すると、フローランスが不機嫌になり、あんな風見鶏と一緒にしないでと吐き捨てた。どうやら、ラクウイとは最初の集落で話した男のようだ。
サーミャはフローランスの表情に怯むことなく、家族ごっこと変わらないと堂々と云い放った。ここまでフローランスに対して、対等に話すサーミャは異常に思えた。
これに反論できないフローランスは、キレ気味に武力組織にいるサーミャも同じだと的外れの指摘をした。よほど腹が立っているようで、この返しは酷いと感じた。
サーミャは涼しい顔で、武力組織に扮しているだけで、属してはいないとフローランスに暴露した。
その答えに、フローランスはすかさずラクウイみたいと返した。サーミャもこれには云い返すことができないのか、素直に認める電波を発した。
ここでフローランスが、似た者同士一緒に行かないかと再度誘った。ここまで執拗に誘うのは、何かフローランスに考えがあるのだろうかと疑ってしまった。
しかし、サーミャは目的があるから無理だと再び断った。でなければ、こんな組織に紛れてないと付け加えた。
フローランスが目的を訊くと、云いたくないとそっぽを向いて拒否した。その台詞にいち早く反応したフローランスは、物凄い好奇な眼差しをサーミャに向けた。
そんなフローランスを見て、追求を恐れたサーミャがそそくさとこの場を去ろうとした。
しかし、フローランスがサーミャの前に笑顔で立ち塞がった。始祖にとって、他人の秘め事は大好物なようだ。
ここからは、二人のじゃれ合いが始まった。リンには悪趣味にしか見えなかったし、フローランスの感情は理解できなかった。
どうしても云わないサーミャに、フローランスが拷問してでも聞き出すと、信じられないことを宣言した。この好奇心旺盛なのは見習いたいが、他人への嫌がらせになる好奇心はいらないと感じた。
サーミャは青ざめた顔で、獣道に向かって逃走した。こうなると、逃げるのは最善の行動だった。
すると、フローランスがそれを鼻で笑い、そんな重い甲冑で私から逃げられると思ってるのかなと楽しそうな顔で追いかけていった。
リンはもう隠れる意味もないと思い、木の枝から下りて、春斗に駆け寄った。不思議と春斗の傍は警戒心が緩む気がした。
春斗がフローランス達が消えていった方向を見ながら、カーミルにフローランスってあんな感じだったっけと投げかけた。それに対して、カーミルは春斗と同じ方向を見ながら、聞いていた話とはかけ離れていると答えた。
森の奥で争う音が聞こえてきたが、目を凝らしても光がこちらまで届かず見えなかった。
しばらくすると、争う音が止んで静寂になった。
黙ったまま森の奥を見ていると、足音と金属を引きずる音が聞こえてきた。
そして、茂みからサーミャを引き摺って、フローランスが出てきた。
フローランスは涼しい顔で、手こずらせないでと云って、サーミャをリン達の前に投げ捨てた。リンから見たら、一方的な暴力にしか見えなかった。
サーミャは力無く倒れたまま、動く気配がなかった。
春斗が殺したのかと訊くと、フローランスがそれならここまで連れてこないと呆れながら答えた。
わざわざここまで弱らせる必要があるのかと春斗が訊くと、前より強くなっていたから仕方なかったと返してきた。
意識はあるようで、サーミャが途切れた台詞で云わないと拒否した。そこまで硬い意志を貫くなら、拷問しても無理だろうとリンは思った。
すると、フローランスが同行してくれるなら、目的は聞かないと変な条件を出した。それとこれとは話が別の上、サーミャにとって全くメリットがなかった。
さすがのサーミャも、黙ったまま目を閉じた。どうやら、自分の状態を確認しているようだ。その証拠に、サーミャの周りの空気の比率が変わっていった。
フローランスもそれに気づき、神経系の治療はサーミャでは30タウ以上は掛かると的確な指摘をした。
それにサーミャが驚くと、フローランスが戦った時に分析したと恐ろしいことを云った。そんなこともできるのかと驚いていると、以前にお互いよく知った仲だと語った。
サーミャが逃げ切れる自信があったと云うと、それなら甲冑を脱げばよかったのにとフローランスが助言した。
それはサーシャもわかっていたようだが、それでも侵蝕の恐怖がついて回ると話した。聞く限り、一度侵蝕された経験があるような台詞だった。
すると、フローランスが申し訳なさそうに謝った。どうやら、侵蝕された相手はフローランスの真核細胞のようだ。
サーミャは別に責めてないと云って、昔のことだと遠い目をした。前に二人の間に何かあったらしいが、それを聞くことは誰もしなかった。
しばらく全員が黙っていると、サーミャが渋々同行すると答えた。その返事は、本当に云いたくないことを示唆していた。
これにフローランスが残念そうな顔をすると、サーミャがいろいろ支障が出るからと溜息をついた。
ここでサーミャがリンに気づき、必死で身体を動かそうとしたが、表情だけで身体は動く気配がなかった。
すると、フローランスが慌てた様子で害はないと宥めに入った。
しばらく説得が続き、サーミャが平静になるまで5タウ近く掛かった。その反応を見る限り、何度か人形と戦った経験がある感じだった。
サーミャが落ち着いたところで、春斗が同行するなら紹介してくれとフローランスに頼んだ。
同行を許可してくれることが嬉しかったのか、満面な笑顔でサーミャは昔の知り合いとだけ紹介した。
短い紹介に春斗が呆れた顔をして、それだけかと指摘した。十分な紹介だと思ったが、春斗にとっては不十分だったようだ。
フローランスは困った顔で、他は体質ぐらいしか知らないと云うと、サーミャが慌てた様子で、それなら同行できないと告げた。まあ、それは正常の反応だと思った。
さすがのフローランスもそれを云うことはせず、云っても意味がないと呟くように付け加えた。後半の台詞の意味がわからなかったサーミャが、不思議そうにフローランスを見上げていた。
ようやくサーミャが動けるようになったところで、今度はフローランスがリン達を紹介した。
サーミャ同様、簡易的に紹介したはずだったが、彼女が細かいことをいちいち指摘して、結果的に紹介に7タウも掛かってしまった。詳しく訊いたのは、主にリン達の複雑な関係性だった。確かに、納得するには時間の掛かるのは仕方ないと思った。
こうして同行者が一人増え、異世界者、人形、始祖、臆病者、無骨者の異色の五人で民主組織の元へ向かうことになった。
異界遍歴➁