西瓜(そののちのこと ―口頭試問)
ひとつめ
「……暑い」
「暑い?」と、男は鸚鵡返しした。
「光が、白い光に」
女はうめくように、呟いた。手を額にあて、日差しをさえぎるような格好をしていた。
「白い?」
「白い。太陽の光が固まって。暑い。夏のように暑い」
男はその言葉を聞きながら、女の手足を革のベルトで固定した。
「夏のように暑い?」
「夏?」
「夏だから、暑いのではないのかい?」
女は口許に笑みを浮かべた。そして今度は汗を拭うような格好をしようとした。
「夏だわ」
男は女の耳元に唇を寄せた。
「君は今、どこにいる?」
「ここ?」
女は首をぐるりと回した。時折、まぶしげに目を細めた。そしてもう一度上を向いた。
「突き当たりの無い一本道の真ん中に立っているの。とても暑いわ」
「突き当たりの無い一本道の真ん中に立っていると、何が見えるかい?」
白茶けた土手の上の一本道を黒い呂の着物を着た女が、ゆっくりと歩いている。
「下手がきらきら、きらきら幾千もの光の粒が光っているの。それはとてもまぶしくて。でもとても綺麗だわ」
男は頷いた。女は光の反射を楽しむように、わざとそちらを向いては目を細めている。安楽椅子に仰向けにされた身体は、革のベルトで固定されていて、首だけがぐるぐると動いている。そして口許には笑みが絶えない。
「さあ、用事があったはずだね」
男は先をうながす。
女は少し戸惑う。俯いて、草履でトントンと地面をつついている。
男はしばらく間を置いてから、再び促す。
「さあ、用事があったはずだね」
女はだんだん心細げな顔になる。熱にあてられたためか、息が荒くなっている。男は声の調子を変えて話し掛ける。
「喉が渇くかい?」
「喉が?」
女はきょろきょろと辺りを見回す。そして何かを見つけたかのように右前方をじっと見つめている。男は女が何を見つけたのか知っている。
「この夏、最後の西瓜かい?」
女の顔が再び明るくなる。頬が上気している。
「西瓜があるわ。あの八百屋に。西瓜が」
「お土産にするのかい?」
「ええ。ええ。お土産にちょうどいいから」
女は嬉しそうに八百屋に駆け寄る。簾の向こうに大きな西瓜がごろりと転がっている。
女の喉が上下に動いた。赤くて甘い汁の詰まった西瓜を見つけたのだ。
「お土産にするのだね」
「ええ。この西瓜を網にいれて持たせてくださいな」
女は八百屋にそう申し付ける。八百屋は下品な笑みを浮かべる。ランニングシャツに擦り切れたズボンをはいている。腰に下げた汚い手ぬぐいで、時折脇の下などを拭いながら、八百屋は女に近寄ってくる。
「それで?」
男は先を促す。
「お金はちゃんと払いますから、西瓜を網に入れてください」
女は苛立ったように命令する。しかし、八百屋はニタニタと笑いながら、女の目の前にやってくる。女はなるべく冷ややかに八百屋を見下ろす。
「最期の西瓜なのだね?」
男が尋ねる。すると八百屋は目を剥いて、腹を突き出すような格好をする。
「最後の西瓜だ。奥さん。間違えねえ。これほどのもんは、他じゃ手に入らねえ。どうだい。金を取ろうた思わねえから。なあ。奥さん よお。
女は眉を潜める。しかし、八百屋の手が女の裾を掴むと脅えを隠せなくなる。足が震える。こんな八百屋に入ってしまったことを後悔している。しかし、今更、この男の欲望を撥ね付けるだけの力が自分には無いと思う。
「奥さん。いい形だろ。こんなにでかいんだ。こうしてざっくりと割ると、ほら、こんなに汁が出てくるだろ。奥さんはこいつが欲しくてここに来たんだろう」
女はうずくまって両手で顔を覆う。八百屋は背後から女に覆い被さってくる。
男が強い口調で質問する。
「用事があったのではないのかい?」
女は、はっ、と顔を上げた。目の前に、八百屋の使い古した包丁と、金を入れるザルがある。
「包丁を握ったのだね」
男はそう尋ねる。女は首が折れそうな勢いで頷く。
背中に、のたりと汗ばんだ柔らかいものを感じた女は、全身に鳥肌を立てながら、振り向きざまに包丁を持った腕をぐるりと回す。八百屋は変な風に仰向けになって、腹の肉をぶるぶると震わせている。転がった西瓜から赤い汁が滲んでいる。女は網の中にそれを入れると、再び歩き始める。下げた西瓜が膝にごつごつと打ち当たる。
「さあ、どこで西瓜を割ろうか?」
男は優しく女の髪を撫でる。女は嬉しそうに顔を摺り寄せて、言う。
「私の大切な人のところへ」
「大切な人?」
「そう。私の全てを任せられる人の所へ」
「そう。君の全てを任せる人の所へ」
「私を助けてくれる人の所へ」
女は両手で重たい物を下げた格好で、歩き始める。男は部屋の棚から風鈴を取り出す。女は口を開けて喘ぎながらも、笑みを絶やさない。薄暗い部屋の中で、男と女はしばし、別の世界に思いを馳せている。
ふたつめ
「こんばんわ」
夕焼けの中に女は立ち尽くす。返事を待っているのだ。しかし、応じる声は無い。
「こんばんわ」
濡れ縁の軒先に、白い薄片がずらりとならんでいる。時折それがぬらりと光る。女は玄関に続く小道を見つめる。ガラスには、途切れ途切れの夕焼けが映り込んでいる。
薄くもろいガラスの表面に映った壮大な夕焼けの断片。
朱色の中に人影が見える。女はそちらに走り寄る。手にした西瓜が膝にあたって汁を散らす。小気味良い音で砂利が跳ねる。
「映写機とスクリーンと光源とにたとえよう」
知った声が聞こえてくる。女はガラス窓に額をあてて部屋を覗き込む。正面に大きな背中が見える。苛立ったような空気がガラスを震わせているのを感じて、女は後ずさりする。
「それだけでは駄目だろう。駄目じゃないのかい。他からの光をさえぎらなければ、到底駄目なのではないのかい」
「理想だよ。映写機とスクリーンと光源。スクリーンを切り裂いたところで、映画は消滅するわけではない。それは理想だよ」
女は足を震わせている。
一人は大切な人だ。けれど、もう一人は怖い人だ。しかし、どちらが大切でどちらが怖い人なのかが、女には区別できない。
「結局は後から追いかけているだけだから、そういうことを言うようになる。後からならば、どうとでも言いくるめられるからね」
「何とでも言うがいい。結局は能力の問題なのだ。全てがそろっていたところで、唯一のスクリーンが使い物にならないのならば、映画は消失する、そう考えることに矛盾は無い。存在とはね、そういうものだよ」
「映画を投影するのに、一番適した物がスクリーンだとして、それを失った映画は、それ自体の存在を問われることになるとは思わないのか」
「不完全だ。確かに不完全だ。しかし、致命的な汚点でも発表されなければ欠点にはならない。つまりは、コンクリート詰めにして海に沈めてしまえばいいのだ。不在によって存在を主張するとき、不在者の立場はいかようにも操作できる。こちらの都合でね」
震える女の肩がガラスに触れる。
カタリという小さな音は、二人の男の関係を断ち切る。一人が振り向いた。するともう一人は消滅した。女は白い霞に包まれるように消えていった男が、自分の大切な男と強く結ばれていると思った。
「よく来たね。入りなさい」
男は立ち上がって女の手をとる。そして女の下げている丸いものに気づく。女は男の視線を追って、汁をしたたらせているお土産を思い出す。
「縁側へいきます。お部屋を汚してしまいますから」
「縁側へ?」
男は女の手をとったまましばらく考えていた。その様子に、女は動悸を感じた。
「それをこちらへよこしなさい」
女は男に叱責されたと思った。この西瓜は汚れているから、この人は私を家に上げたくないのだ。そう思った。女の膝から力が抜け、男の胸に倒れこむ。男はとっさに身体を支える。そして女の首筋に口づけをする。
「恐ろしいのかい?」
青ざめる女の顔を見ながら、男はささやく。身体はすっかり冷えてこわばっている。その身体をさすりながら、男は耳元で囁きつづける。
「恐ろしいのかい?」
女の頬に赤みがさし、手が男の身体を求めるように動く。しかし、両手は革のベルトで固定されている。男は女に身体を摺り寄せてやる。女は安心したように深くため息をつく。
「恐ろしいのは、どちらの男だい?」
「わ、私は、ああ……」
男は女の頬を撫でる。耳たぶにそっと口づけする。
「あの消えた方。私の大切な人と強く結ばれて、結ばれているあの人」
男は女の額に口づけする。
「私はあの二人の間に入ることができなかった。あの人は私を捨てる」
「捨てる?」
男が静かに繰り返す。
「捨てられる。もう捨てられているのかもしれない。あの人は私を叱る」
「叱られた?」
「西瓜が。あの汚れた西瓜が私を汚した。私は汚れたままあの人の家にいったから」
「詳しく話してみてくれないか」
女は激しく頭を振る。男は女の顔を両手ではさみ、額を合わせる。女の額には冷たい汗が滲んでいる。
「その男が怖いのかい?」
「いいえ。いいえ。あの人は私を救ってくださいました」
「でも、叱られた」
「そうです。あの人の目は、死人を見るように私を見た」
「君は何を見たのだい?」
女は口を大きく開ける。しかしそこからは何の音も聞こえてこない。目が大きく開く。しかしそこには何も映ってはいない。男は女から身体を離す。薄物の裾がはだけて、薄い膝が見える。男は裾をあわせてやり、優しく女をなでる。やがて、女から意識が失われ、男も、ぐったりとソファーに身を沈める。両の拳をこめかみにぐりぐりと押し付ける。ゆっくりと首を回し、深呼吸する。薄暗い部屋の中で、女の薄物だけが、幻灯のように明るい。
休息
みっつめ
ぼそぼそとした革がかすかに匂い立つ。締め切られた部屋の外は薫風そよぐ春。地中より萌え出ずる、若草がびっしりと頭をもたげる。ある物は種子を被り、ある物は水滴の重みをはねのけて。黒い土は甘く、若草は柔らかな根を精一杯張った。いさかいが始まる。生きるための戦いは、見えないところでこそ熾烈を極める。風になぶられる千切れそうな白い茎の下では、自分だけを生かすための戦いが行われている。かすかに白い歯をみせる女の腕が、時折引つれたように硬直し、革のベルトを軋ませる。ざわざわとした庭の、その地中のざわめきが、女の脳髄を震わせる。頭蓋の内部のゆるい振動が、脳味噌に痒みにもにた不快感を与え続ける。生きるための、見栄も外聞も無い戦いの最中、理性の内側をかすかに刺激されている女がいる。
「夢を見たね?」
「友達はいないの」
男の座るパイプ椅子が、ギチギチと鳴る。開かれた足が、五本目、六本目の脚として、椅子を支えている。立ち上がると倒れる椅子。男は修行のようにその椅子に腰掛け、女の鼻腔を覗き込むように首を捻じ曲げて話しかけている。女の脳にざわざわとした争いの音が響く。
「友達がいないのかい?」
「私が、みんなの代わりになったの」
「身代わり?」
男はつまらなそうに椅子をギチギチと鳴らした。すると尾てい骨から脊髄にかけて、心地より痺れが走る。カーテン越しの光の中で、男の眼鏡が川面のように乱反射している。
「両親。親。私を産んで、育てた」
「憎かったのかい?」
「級友。つまらない。重苦しい。私を見ている。みんな」
「いなくなればいいと思っていたのかい?」
ひっきりなしに聞こえる音は、男の脊髄と革の匂いだ。ゆっくりと立ち上がると椅子は転がった。椅子はどこまでも転がり、テラス扉を叩いた。
「おかえりなさい」
女が固定された首を無理やり回し、テラス扉を見る。レースのカーテンが風になびく。青臭く、生暖かいものが顔を撫でる。幾億という微粒子が、彼女の顔を擦りつける。命の源、春の塵どもが。
「親。私を産んで、育てて」
「だから?」
「捨てた」
「復讐した?」
「復讐?」
男は女から離れて、転がった椅子を拾う。脚の長さがばらばらで、しかも床に対して垂直ではない。手に持つと、それは椅子には見えず、巨大な知恵の輪といったほうが近い。手の中でくるくると回す。その顫動が彼女の髪を引く。
「おかえりなさい」
椅子の座面の中央に、白い縁取りの穴があいている。男は女の顔をその中央に捕える。くっきりと白く際立つ女の顔は、時折滲みながら、男の網膜にその印象を刻み込む。
「君は、愛されなかった」
「私は、愛したのに」
「君は、愛した」
「私は、愛されなかった」
女はのっぺりとした天井の漆喰を見つめながら、その向こうにある過去を見つめていた。
男は女と頬を合わせ、おなじように天井を見つめた。床にしゃがみこんで、首だけを上方にねじっていると、まるで床が傾いているかのような幻惑を覚えた。
「君は、愛していたね」
男の声に女の頬が染まる。固定された手首がギチギチと鳴る。男はその様子に軽い嫉妬を覚える。
「私の神様」
「君は恐れていたね」
「私は叱られた」
「それはいつのことだったろうね」
女の額に汗が滲む。男はポケットから白いハンカチーフを取り出し、そっと拭ってやる。
「ヒグラシが幾重にも響いていて、それはまるで森の木々を覆った一葉一葉が顫動しているかのような錯覚を起こさせていました。小さな流れにその日最後の黄金の一束が届くと、水面で数千にも弾ける光、それまでもが、ヒグラシの声を奏でているかのようでした」
「夏の終わりだね」
「夏にも終わりがあるのだと、私はそのとき初めて気づいたような気がします。くっきりとした影を灼熱の地表に刻印しつつ歩く夏の大気の中ではすべてが揺らめいていました。私自身も朦朧とした意識のままに、あてどなく彷徨っているしかなかったような気がします」
男は女の紡ぐ晩夏の暑気にあてられて、カラーを緩めた。ヒグラシの、いや夏の夕暮れが奏でる顫動音が、男の脳にも聞こえていた。清涼で軽やかな音は、空を染める朱から濃紺へ諧調に確かな統一を与えていた。
「夏は一つの季節にすぎない。天体の運行上のある一期間にすぎない」
「いいえ。いいえ」
女は激しくかぶりを振る。髪が乱れ、金色に輝く。かすかに干草の香りが漂う。夏の光をいっぱい吸い込んだ彼女の髪は熱い。
「あの年、夏はいったん終わりました。並木の下には幾億もの蝉の亡骸が乾いていました。私はそれを踏んで歩いていました。カサリカサリという草履の下では、蝉の亡骸がこなごなになって、漢方薬の材料のような粉末に変わり、斜めに吹き続ける風に浚われていくのを、私ははっきりと目撃しました。」
「そして、透明な秋がきた」
女は激しくかぶりを振った。汗で湿った髪が女の顔を斜めに横切る。男は慎重にその髪をつまみ、そっと耳の後ろにかけてやる。白い肌着からはもやもやと蒸気のようなものが立ち込めている。腹部は異常な起伏を繰り返し、革のベルトが緩み始めている。
「秋がこなかった?」
「秋はきました。きましたけれどほんの束の間で追われてしまいました」
「ほんの束の間で追われた秋は、だが、きたのだろう?」
「木々は紅葉する間もなく、葉を落とすしかなかった。種子をはぐくむ暇もないままに。冬の景色が熱い大気に揺らめいていました」
「詳しく話してくれないか」
よっつめ
男はそう言いながら、もう一組の安楽椅子を持ち出し、女と頭を突き合わせるように、テラス扉の方へ足を向けて横たわった。部屋の中央を見上げると、漆喰塗りの天蓋が青白く見えた。ひんやりとした冷気が降りてきて、男の額を撫でた。
「西瓜を持っていったのは、二度目の夏の最中のこと。あの人に叱られたのも、二度目の夏の最中のこと。あの人が消えてしまったのも、二度目の夏の最中のこと」
「順序良く話してみてくれないか」
男は胸ポケットからタバコを取り出し傍らのサイドテーブルの上にある集光式のライターで火をつけた。煙はゆるい螺旋を描きながら、まっすぐにドームの頂点付近に立ち上り、そして周壁に沿って同心円を描いた。
「最初の夏、私はあの人の視線を知った。何時でもあの人の視線を感じずに入られなかった。恐ろしかった」
「愛されたのだね」
「私には分からなかった。それが愛だという事が私には分からなかった」
天井の青い帳に、その男の視線が浮かぶ。仰向けの男は静かにその男を見守る。
『君は、そのままでは壊れてしまうだろう』
『君は、なぜ、君自身を正当に評価しようとしないのだい』
『君の内部で、押し込められた数々の感情が腐臭を放っているのが分かる』
『君は内部からほどけてしまう』
『君はなぜ、そんなに冷たい体をしているのだい。それでは誰一人として君を求めようとはしないだろう』
「その男が私にそう言った」
「あの人は私を見つめ続けていました。半年の間、あの人の視線は私の全てを凝視し続けていました。私はその視線が、服を透かして、肉を透かして、精神のその奥にまで届いているのを感じることが出来ました。私はそのことに気付いたとき、体中が震え初めて、体中の関節が音を立てて外れてしまったかのような衝撃を受けました。私は立っていることが出来ませんでした。風の粒子が私の肌を渡っただけで、私は悲鳴をあげたいほどの恐怖を感じました。私は、自分の体にどれだけ力を入れていたのかを始めて知らされました」
「ゆっくりとでいい。僕は君を理解できる。君は僕を信頼できるかい」
「信頼?」
男が眉をひそめた。煙をぷぅ-と吹き付けると、男は白い煤の中にぼやけた。
「君にはその男が信頼できたのかい」
「私には選ぶことなど出来なかった。私はあの人に縋るしかなかった」
「なぜ、そう思うのだい」
「私はもう、一人で生きることが恐ろしくてたまらなかった。もう、殺されることで生き長らえる生活に耐えられなかった」
「順序良く話してみてくれないかい」
男は安楽椅子から起き上がり、うつ伏せになると女の方へ体をずらした。男は女の上を蛞蝓の這い、女の腹が男の腹と重なったところで、180度体を回し、女の脇に腕を入れ、女の腿を自分の腿で挟んだ。女は息苦しさのためにしばらくもがいていたが、やがて体から力が抜けた。
「夢を見たの」
「級友の夢だったね」
「級友はいないの」
「本当のことを言ってごらん」
手首のベルトをはずすと、女の腕がバネ仕掛けのように跳ね上がり、男に巻きついた。
「本当のことを言ってごらん」
「いないの。あのクラスにはいないの」
「級友がいないのかい?」
「違うの。いないの。私がいないの」
「詳しく話してみてくれないか」
女の耳に口をつけて男がそっと囁く。女は天井を見上げたままかすかに頷く。
「私は手を挙げるけれども誰も注目してはくれなかった。私は話したけれども誰も聞いてはくれなかった。私は倒れたけれども誰も助け起こしてはくれなかった」
「君は存在しなかった」
「私は認めて欲しかった」
女の目に無念の涙が光っている。それは頬を越えて耳に流れ込み、男の唇を湿らせる。男は女が泣いている事に気付き、涙の流れを遡って唇を這わせる。
「叫ぶものが皆、声を持っているとは限らない。立ち上がる者が皆、足を持っているとは限らない。大きく手を振るものが皆、旗を持っているとは限らない」
「私を責めないで。私は本当の孤独を良く知っている」
「詳しく話してみてくれないか」
涙を遡る男の舌が女の眼球に達する。眉間を渡って鼻梁を下る。男の舌は女の唇へ向かっている。室内の空気が一瞬震え、白い靄のようなものに満たされる。靄には様々な人間が投影され、あたかも周囲を群集が取り巻いているかのような錯覚を起こさせる。
男は体が宙に浮くような感覚に襲われた。それはこれまで密着していた女の体の消失によるものだった。自分の周囲にはただ白い靄だけがあり、縦に、横に、群集が往来していた。
「これは孤独ではない」
男はそう呟く。眼前の靄から女がにじみ出てくる。悔しさを隠さない表情に、男はそっと接吻をする。
「孤独を説明することなんて出来ない。瓶詰めになりながら、見世物小屋にすら置いてもらえない可哀想な道化の子は好奇の目にさらされることさえなく空家の裏口に放っておかれた。空っぽの牛乳瓶と一列に並べられて」
「君は泣いた」
「私は泣き尽くした」
「君はつまらない人間だった」
「私は認めなければならなかった」
行き交う人のなかで立ち尽くす女の姿を見つめる者に、群集の姿は蠢く背景に過ぎなかった。群集を見つめる者にとって、女は一瞬で消滅した。男は遥か上空から、女を取り巻く人々の温度を感じていた。
いつつめ(おしまい)
「知識は交流を生まないのだろう」
「私には個性がなかった。だから、代わりに知識を身に付けるしかなかった」
「両親は」
「両親は私を育ててくれた」
「君は両親が好きかい?」
女はうなだれて目を閉じる。男は女の背後に立ち、風になぶられる髪に鋏を入れようとする。目の前を流れる川からカジカの声が響いている。涼やかな風になぶられる女の髪は遠くで闇に溶けている。
「両親は環境だった。その中で育つ私は適応するための努力をするだけだった。矯正された嗜好は私をすべらかな球形として成熟させた。両親の理想は消極的な完全主義でしかないと、そのころの私にはわからなかった」
「両親を愛していた?」
「私はそれを密かに捨て去るために、彼女達の望みを全て叶えなければならなかった」
「父親のことを話してくれないか」
男は女の髪を肩のあたりでまっすぐに揃えた。ギザリギザリと鋏が進むと、周囲の闇が薄くなった。時計回りの鋏が最後の一束を切り落とすと、かまどうまの声が止んだ。薄暮の空には、一番星が輝いている。燃えるような空を映して、女の瞳は血のように赤い。川向こうから吹き付ける生暖かい風がゴウという音を響かせ、男と女に向かってくる。大気に静止した陽炎とでもいうべき風紋が、周囲を書割のように見せている。ジグザグの風景の隙間から、再びヒグラシの声が聞こえてくる。
「父の望みは男の子でした。私は産まれた瞬間から父に捨てられていました」
「さっきの男はなんと言った?」
安楽椅子の背もたれを立たせて、男は女と向かい合って座った。女の頭は背もたれの上部に後頭部を固定されており、がっくりと天井を向けられている。だから、口は半開きになっていて、いかなるものの侵入も阻止できない。
『評価を下される者は常に劣勢におかれている』
「君は父親に見くびられた。」
『見くびられた者は、許すことで対抗する』
「君は父親を許すことが出来たのか?」
『関係はいずれかの完全なる消滅と他方の忘却とによって絶つことができる』
その男の言葉を繰り返す彼女の声に生気は含まれていなかった。男は女の言葉を、活字のように指でなぞることさえ出来た。
「君はその男の言葉に従ったのか」
『言葉は追いついた。私の生命は出会いよりも以前から存在していた』
「だが、君の体験はその男に評価されているのではないのか」
女はうつろに笑った。開かれた唇の間からちろちろと舌を覗かせながら、女はひきつけを起こしたように笑った。
「彼の言葉は、もっと普遍的で実証的な真実でした。私の中で、彼の言葉が明確な形を取り始めたときから、私の本当の生が始まったのです。これまでの混沌とした私という存在が、彼の言葉を核として結晶となり、外界のどのような刺激にも犯されない確固たる存在となりえたのです。彼の言葉は評価などではありません」
彼女の言葉は哀れみの刃となって、空間をいくつにも分断した。分厚いカーテンに遮られていたはずの陽光が彼を真上から照らし、色付硝子の窓に塞がれていたはずの生暖かい風が男の眼球を擦っていた。男はいいようの無い疲れを感じて、その場にしゃがみこんだ。縁の下の荒涼とした世界が板張りの床を透かして、男の足裏を傷つけた。
「君は生きはじめた」
「私の生は、あの人が発掘してくれた」
足裏からとめどなく血が流れた。乾いた土がそのあらかたを吸収していった。まるで、その血液がもともとあるべきところへ返っていくかのようだった。凝固した血液に足を固着されたまま、重力までもが男の血液を抜き取る手伝いをしていた。彼方に青い月があった。男は朦朧とする意識の中で、確かな快感に震えていた。
体は重力に引かれ、魂は月に引かれる。自分の意識が遥か上空にまで伸び、全てを俯瞰できる高度にまで達した時、今度は水平方向に広がり始めた。夜の大気がかすかな湿り気によって男をなぶった。湿り気は重さを招き、重さを増すごとに不快が募っていく。
意識は広がるにつれて希薄となり、冷やされて氷の粒に変わった。激しい落下の感覚の中、男は自分が結局、地表に戻っていくのを感じた。
「絶望は根源的だったはずだ」
「救いを否定することは絶望の条件ではない」
男はもう一人の男と対面していた。一人は神と呼ばれ、もう一人は堕落師と呼ばれていた。
「救われる可能性があるのにもかかわらず、なぜ、彼女は絶望した」
「彼女の絶望は完璧だった。何人たりともそれを救うことは不可能だった」
どちらが神なのか、どちらが堕落師なのか、男には判断がつかなかった。二人はじつに良く似ていた。口許だけがかすかに異なっているだけだった。一方には冷笑があり、もう一方には嘲笑が宿っていた。女はその様子を息を詰めて見守るしかなかった。
「彼女は何べん殺されたか知れない。彼女には復讐する権利があった」
「殺されたものが殺す側に回る。それで平等だというのは欺瞞だとは思わないか」
「平等?」
縁側に吊るされた無数の薄片が風に揺られてかさかさという音を立てた。女は思わず口を抑えた。歯の根が浮くような感じがしたためだった。
「忘却する人間とされる人間がいる。どちらも一人の個人を亡くすことに変わりは無い」
「殺したものに、良心の呵責は無い。だが、殺されたものにとっては、自分をつなぎとめている糸が目の前で断ち切られていくようなものだ。それは 絶望を招く」
「そうして、死をも呼び寄せる」
「彼女は死を免れたわけではなかった」
「彼女は周囲を見回して悟ったのだ。冷たく暗い土の匂い。亡者の気配さえない孤独という地獄に落ち込んだのだということを」
東の空が琥珀色になる。かすかな光の中に、数千の絹糸が流れてくる。息を殺して立ちつしている女の体にもその数本が絡みつく。つまみ上げると、体温のために泡となって消える不思議な糸は、日の出前の数分間に、森のほうから流れてくるのだ。
「彼女は殺されながら生きるといっていた。殺されるということは、まだ生きているということだという解釈は、まさに絶望的と呼んでよいだろう。一人、また一人と殺されていくうちに、その事実自体が総体としての滅びへの方向を示しているのだということを、その解釈は内包していなければならない」
「殺される、という言葉は曖昧だ」
「だが、事実は明白だ」
巨大な太陽が音も無く昇る。女はやがて見える大いなる光を待ち焦がれて空を見上げる。今日も、昨日の続きが始まるのだと、女は思う。そして、それは夏でなくてはならない。
「窒息死に似ている。人々の記憶の中で徐々に新たな記憶の下敷きにされていくのだ。彼女の存在は、例えば小学校の六年分の記憶の中では、思い出すことの出来ない時空に紛れてしまう。君は小学校の六年分の記憶を六年間に渡ってきっちりと語り尽くすことなどは出来はしないはずだ。記憶は圧縮される。区別のつけられない物事は存在しなかったかのように消滅してしまう。彼女の地獄はそこにある」
蝉が鳴き始めると、森が震える。足元の地面では無数の虫たちが活動している。全てが生命に溢れていた。この躍動が、食うものと食われるものとの闘争である事を、彼女は知っていた。
「発掘されたのだそうだ。彼女は」
男がゆっくりと言った。そして、懐からタバコを取り出して火をつける。ゆっくりと吸い込んで、天井へ向けて吐き出す。煙は空間を漂い、そのまま二人の間にとどまる。もう一人の男が影になった男の顔を怪訝そうに見つめていたが、煙に紛れて見えなくなった。光と、煙の向こうから、声だけが響いてくる。
「彼女の失踪は、誰にも影響を与えなかった。表面的にはね。両親は共に死んでいたし。まさに、彼女の語った通りの学生生活だった。彼女一人のことならば、私もこうまで係わり合いにならなかっただろう。だが、私は今、君と対座している。再び、というべきだろうか。君は何一つ変わっていない。そして、私は以前よりも確かな意識をもっている。いや、持たされていると言ったほうが良いだろうね。それは、君の仕業だった」
女は首が痛くなるほど天を仰いだ。夏の太陽は昇らなかった。透明な空はあくまで高かった。女は深みにいることに恐怖を感じていた。耳鳴りが止むと、一切の音が消えた。そして、女は自分が冷たいドームの底に縛り付けられていることに気付いた。低く、そしてゆっくりとした男の声が、耳や口や鼻腔から入り込んでくる。恐怖と平安とが同時に襲い、緊張と弛緩とが彼女の体を分解していた。女は、壊れるということの意味を始めて悟った。けたたましい笑いが自分の口から発生していることに気付いた。その後に、再び冷たい闇が訪れた。
男は肩を落として立ち上がり、テラス扉を開け放した。満天に星が満ちていた。かまどうまの声が森の中から聞こえた。これが静寂だ、と男は思った。
休息
おしまい
西瓜(そののちのこと ―口頭試問)