出演者たちは知らない
弟が起こした交通事故をきっかけに、僕たちは、超人気芸能人のM君と知り合った。
短編にするには長いので分けています。ちょうどよく4区切りだったので。
なろう小説にも置いてます。
【起】1/4話
進学のため上京し、そのまま都心部で就職戦争をどうにか切り抜けた僕のもとに、2歳下の弟が転がり込んできたのは3年前の2月だった。もう登校がないから、卒業式の日だけ戻るという言い分だった。
「入学前に少し慣れときたいなと思って。兄貴にも会いたかったし」
僕はつい苦笑したが、家族間で仲違いする悲しいこのご時世に、可愛らしい一言である。この無邪気な素直っぷりは、ときに愛らしく、ときに憎らしかった。このときは前者だった。兄弟とはそういうもので、世に流通するアニメや小説のように、とにもかくにも弟のことで頭がいっぱいだ――などということはそうそうないのである。
そうそうないだけで、多少はある。その事件は弟が21歳、僕が23歳、つまり現在だ。ほんの数ヶ月前に起きてしまった。運転免許を取得したばかりの弟が、うっかり前の高そうな車にぶつけてしまったのだ。夜10時頃のことで、僕も同乗していた。このときばかりは、僕は弟の今後以外を考えることができなかった。修理はお金でなんとかなる。胸が冷えたのは、前の車の運転席から、明らかなチンピラがこっちを睨んでいたからだった。
「これな、オジキの車やねんで」
ぱっと見たよりも、チンピラは若かった。というか僕より年下に見えた。2台路肩に停めるや否や、しゅんっと音をたてて恐怖が萎んでいった。
「どうしてくれるんや。へっこんでるやん。もちろん弁償してくれるやろな」
練習したかのような関西弁だった。こいつは関東出身だろう。
「それはもちろん。10-0でこちらのせいですし、あの、本当にすみませんでした。とりあえず警察を」
「警察なんかいらんのじゃ!」
この怒鳴り声で、委縮しきっていた弟は更に小さくなってしまった。僕はというと、事故した瞬間の蒼白ぶりが既に夢に思えていた。そんなふうに声を張られると、この若造の小物感に逆に肝が据わってしまう。
「でも事故証明がいりますでしょう。失礼ですが、保険のほうはいかがでしょう。こちらはT道――」
「警察はいらん言うとるじゃろが!」
話が成立していない。僕は呆れかけていたが、弟は小さな声で謝るばかりだった。さすがに可哀想になってきた。とりあえず警察を呼びますからと断り、騒ぐ若造を無視してスマートフォンを取り出す。あとワンプッシュで通報だ、というところで、またしても事件が起きた。
「わー、奇遇だね! なんか騒がしいと思って来てみたんだけど、もしかしてぶつけちゃったの? 保険なんていろいろ処理がめんどいんだから、この場で終わらせちゃおうよ。ゆーくんお金あり余ってんじゃん」
聞いたことのある声だった。その主に辿り着いた。言葉のとんちんかんぶりよりも、僕はそのことに呆然としていた。
巧妙に顔を隠し、且つ不自然さのない格好の彼は、肩にかけていたリュックから帯を巻いた札束を取り出した。そう、札束だ。福沢諭吉が巻かれていた。
若造は唖然としていた。受け取られないことに一瞬立ち尽くすと、彼はまたリュックに手を入れた。
「足りなかった? じゃあこれも。余ったら好きにしていいよ、どうせ俺は貸してるだけだから」
「いくら?」
そう聞いたときの若造のイントネーションは、確実に標準語だった。
彼はリュックを担ぎ直しつつ、平然と答えた。「200万。さすがに足りるでしょ」
尚も受け取ろうとしない若造の手を取り、彼は強引に札束を握らせた。そしてくるりと振り向くと、にこっとこっちの車を指差した。
「ちょうどよかった。俺も今から帰るとこ。早く行こ」
そして彼は、僕たちよりも早く車に乗り込んでしまった。これが次の事件の全容だった。要するに、僕たち兄弟が、現役高校生にしてテレビを点けたら見ない日がないレベルの芸能人のM君と知り合ってしまったこと。及び、そのM君が、弟が起こした交通事故を強引に終結させてしまったことである。
【承】2/4話
運転は僕が代わった。M君は後部座席で前髪をいじりながら、趣味なのか知恵の輪に挑んでいた。
「あの」
どうするべきが迷った。というか、発進させるのがもう間違いだったと思う。流れのままに車道の波に戻ってしまったことを、僕は心底後悔していた。事故がどうとかよりも、いやそれももちろんあるけれど、一番はそこじゃなかった。
「さっきはありがとう。それでお金なんだけど……今はちょっと」
「あー、いいよ別に。乗せてもらってるから」
勝手に乗ったんだろ。ミラーに映ったM君は、お金よりも知恵の輪が大事みたいだった。仕方ないので僕は黙り、弟はちらちらと後ろを振り返っていた。
「ねえ、M君だよね」
「そうだよ」
わかりきっていることを訊ねる弟に、M君はあっさり答えた。
弟は首を戻し、きらきらと目を輝かせた。
「M君だって。本物だよ。M君が俺たちの車乗ってる」
「僕がローンで買ったんだよ。それよりわかってる? 借金したんだよ、そのM君に」
「別にいいんだって」
「じゃあ家どこ? 送るから教えて。大丈夫、SNSとかに載せないし」
お金のことは、M君本人よりもM君が所属する事務所に掛け合ったほうがいいのかも。多少面倒をかけることになるけど、あの感じだと、M君は、200円出す感覚で200万出した。超有名なM君のことだから、金銭感覚がおかしいのも無理ないのかもしれない。
「ねえ、もしかして事務所通してお金返そうとか思ってない? ……あ、解けた」
知恵の輪をリュックにしまうと、M君は、少し眉根を寄せて身を乗り出した。
「本当にいいんだってば。俺、そういうめんどいのって嫌い。それに、絶対うるさいオジサンとかに怒られちゃうじゃん。余計なことした自覚はあるよ? 普通に警察呼びそうだったもんね。むしろ今のほうが困ってるって感じ」
そこまでわかっていて何故に。車は赤信号で止まった。
「ひとりで退屈だったんだよ。お兄さんたちにちょっと遊んで欲しくてさ」
「遊ぶって?」
「だから今のこういう感じ」
テレビではそんな印象を受けたことないのに、ミラー越しのM君は随分奔放に思えた。タメ口だって聞いたことがない。この雰囲気だと、家にもあまり帰っていなさそうだった。
「ダメだよ。ちゃんと帰らないと」
車内のデジタル時計は、10時23分と出ていた。
「親御さんが心配するよ」
「兄貴」
太腿を突かれたのは、信号が青に変わったことに気付いていないからだと思った。が、違っていた。弟は僕の耳に口を寄せた。それではっとした。M君は養護施設出身で、今は都内のマンションで一人で生活していると確かに聞いたことがある。
M君は、窓の外のイルミネーションのような夜景を楽しげに眺めていた。後部座席とは一線を画した変な空気が、僕と弟との間に流れていた。
もしかして、M君は寂しがっているだけなのでは。子犬のように窓の外に興味を示している無邪気な横顔が、本当の感情を覆っているような気さえしてきた。そのくせ、テレビで見る笑顔よりも純真そうで、裏表のないようにも思えた。
実のところ、親がいない寂しさは僕も知っていた。家はあったけど、両親は空けがちだった。
「もう一回訊くけど、家はどこ?」
「教えなかったらどうなるの? 警察に保護してもらうの? 俺、お兄さんたちに襲われて、200万強奪された末に連れ回されたって言うよ。演技力には自信あるんだよね」
そうすると楽しいことになりそうだよね。M君はそう言って、あっけらかんと笑った。僕と弟は、横目で視線を送り合った。
その日、M君をやっと自宅に送った頃は、すっかり夜が明けていた。久しぶりに遊ぶババ抜きや神経衰弱は、案外楽しかった。
【転】3/4話
その夜を機に、M君とちょくちょく会うようになった。僕たちとの会合を器用にぼかしてテレビで喋っているのを、しかもその姿がこの部屋で遊んでいるのと変わらない笑顔なのを、僕たちはとても誇らしく眺めていた。というのも、M君は意外にも友達を多く持つタイプではなく、たまに登校してもわざとひとりでいるという事実を聞いていたからだった。
「別にさ、あからさまに避けてるとかじゃないんだよ。上手く化かして、外面はちゃんと保ってんの」
会うのはいつも深夜だった。その日も僕たちは、小さなテーブルにお惣菜の唐揚げやサラダを並べ、木目の床にゲーム機やトランプを散らかしていた。
「ていうかね、同い年っていうのが苦手なのかも。年上のお兄さんやお姉さんとは気楽にやれるんだよね。特にお姉さんたちは可愛がってくれるし」
「お姉さんの友達もいるの?」
「ばれたらまずいけど、泊めてもらうこともあるんだよ」
「えっ……」
この情報を週刊誌に売ったら、とつい算段した。売るつもりはないけど。
「でもその場限りだし、相手はちゃんと見てるよ。だからスキャンダルにもなってないし」
「いやでも、言っちゃう人いるんじゃない? いくら約束してたって」
弟が問うと、M君は人懐っこく笑ってみせた。
「こうすればいいんだよ」
リュックから、どさどさどさと札束が現れた。前に見たのと同じだった。僕と弟は、同じタイミングで目を見合った。なんだかぞっとした。M君には悪びれたふうは一切なく、本当にそれが当たり前の手段のような顔をしていた。
そんなとき、弟のスマートフォンが震え始めた。
「電話だ。ちょっとごめん」
ドアが閉じる音と共に弟が消えると、妙な静寂が訪れた。M君が来ているときは、なんとなくテレビを点けないようにしていた。
「最近よく抜けてくね。彼女さん?」
「さあ……聞いてないけど、たぶんそうなんじゃないかな」
「俺もそのうち、ちゃんとした彼女ができたらいいなー。タツ君には彼女いないの? 気になる人とか」
「うん、まあ……あのさ、M君。弟がいないうちに、ちゃんとしたいんだけど」
弟の電話は長い。この前なんて、1時間近くふたりにされたのだ。そのときにすればよかったけど、いつ戻ってくるかと緊張して結局言い出せなかった。
僕は腰を上げ、クローゼットに隠しておいた茶封筒を取り出した。それをM君の前に置いた。
「なにこれ」
「200万。まだ返してなかったから」
どうにか工面したものだった。M君には端金でも、僕にとっては大金だった。
僕が余程真剣な顔をしていたのか、M君は、広げた札束を黙ってリュックにしまい始めた。最後に残った茶封筒を見て、また僕を見て、首を横に振った。
「いいって。勝手にあげたんだし、タツ君には渡してないし」
「そういうことじゃなくて、お金のことはちゃんとしないと。ねえM君。大人として言わせて欲しいんだけど、君がやってるのはよくないと思うよ。こっそり遊ぶだけならともかく、お金で黙らせるなんてよくない。もしかしたら大人がやってるのを見たのかもしれないけど、それは真似しちゃいけないことなんだ。今はたまたま約束が守られてるだけで、お金をもらった上で約束を破る奴が出てこないとも限らないし」
「……うーん……」
唸りながら、M君は茶封筒に少し触れた。
「お金っていろんなことを解決してくれるから、すっごく便利だと思ってたんだけどな……。でも、タツ君がそう言うなら自分でも考えてみる。俺よりタツ君のほうが一般社会に詳しいもんね」
わかってくれたらしい。この感覚の狂った子をどうやって諭せばいいものかと悩んでいたから、思いのほかあっけなく済んで拍子抜けした。と同時に、ようやく胸の引っ掛かりが取れ、頭の上が軽くなった。工面の代償が待っているものの、これでやっとM君と楽に繋がっていられると思った。
お互いに笑いあうと、話題に区切りがついた。どうにも気恥ずかしく、視線を這わせた。弟のバッグを見つけた。これだ。今思い立ったかのように手を打った。
「そうだ。薬入れてやらないと」
「薬?」
疑問符のM君に頷き返し、僕は弟のバッグを引き寄せた。目的の小さな葉っぱ型小銭入れは、内側のファスナーの中に入っていた。
「今は彼女がいるくらいに青春大学生だけど、あいつ、小さい頃に結構大変な病気にかかってたんだ。今も薬飲んでるんだけど、その薬を入れてやるのが何故か僕なんだよね」
それで子どもの頃、今どき珍しい共働きではない家庭だったのに、僕の両親はだいたい家にいなかった。場を誤魔化したいときというのは、不必要なまでに口が回るものである。
「こんなこと軽々しく言うのもダメだと思うんだけど、家にひとりぼっちの気持ち、少しはわかるからさ。だから最初の夜、つい招いちゃったんだよ」
「逮捕されるのが怖かったから、とりあえず連れて来たんじゃなかったんだ」
「逮捕なんてされないよ。悪いことしてないし」
「されるよー。俺の演技は意外と迫真だよ。俺があいつが犯人だって言ったら、そいつが本当に犯人なんだよ!」
笑いながら、保管してあった薬を葉っぱ型小銭入れに入れた。そういえば、高校生のときは母が入れていたのだろうか。これがないと苦しい思いをするのは、ほかでもない自分自身なのに。
「でも、いいなー。それってお互いにすごく信頼し合ってるってことだもん。家族のいない俺にはお伽噺に思える」
含みのない口調だったけど、少しひやりとした。
「特に兄弟とかさ、自分にはいなくて当たり前のものだけど、見るとやっぱりいいなって思うよ。ずっと仲よくできるといいね」
「……」
黙ってしまったのは、別に実は弟が嫌いだとか、両親を独り占めされていたのが憎いとか、そういう感情があったからではなかった。思っていることを改めて言葉にするのが照れくさかっただけだ。
ドアの奥で気配が動いた。やっと電話が終わったようだ。
「○? ×?」
「え?」
散らばったトランプの内、裏返っていた1枚をM君は選んだ。その1枚は、慎重に茶封筒の上に載せられた。
「なにが?」
○とか×とかトランプにはなかったはず。
「ギャンブルだよ。○か×か選んで」
ドアノブが回る音がした。よくわからなかったけど、とりあえず僕は「じゃあ×で」と答えた。M君はこれまでも再三よくわからない遊びを仕掛けてきていたので、その類だと思った。
「×でいいの? じゃあ俺が○か。さてさて、絵柄は」
ぱっと裏返されたカードはジョーカーだった。ぽかんとする僕を他所に、M君は「おー!」と何故か興奮気味だった。
「この局面に相応しい1枚だね。なにが起こるかわかんないじゃん!」
「えーと、で、結果はどうなの? ○? ×?」
「え? だからわかんないんだって」
それはこっちの台詞である。またしても呆ける僕を尻目に、弟が合流した。弟は突如現れた茶封筒に目をやり、僕を見て、一瞬なにかを言いかけ、言わず大仰にババ抜きを提案した。M君もノリノリだった。
弟が亡くなったのは、その4ヶ月後のことだった。
【結】4/4話
一連のイベントは、怒涛のように過ぎていった。両親は実家に戻り、僕は部屋にひとりだった。
もうすぐ冬だった。特別休暇に有給を足していた僕は、どうにかこうにか気持ちを落ち着かせ、延ばしても仕方ない弟の遺品整理に取り掛かった。実家でのそれは両親が、ここでのそれは僕が受け持つことになっていた。
M君は、スケジュールを書き換えてこっそりお葬式に来てくれていた。ありがたかった。参列してくれた弟の友達に、両親は涙ながらお礼を述べていた。その友達たちの中に、たぶん彼女もいたのだろう。僕がまだ聞いていなかったくらいだから、両親だって知らなかったと思う。本人がわざわざ「交際していました」と話すかもわからない。その彼女にとっては、弟はもう過去の人になってしまったからだ。結婚していたならともかく、学生同士で片方が絶対的に欠けた恋愛の次のステップは、新しい恋を見つけること以外にない。悲しいけど、そうしてもらったほうが弟も喜ぶしこっちも楽だ。
置き晒しになっていた弟のバッグを開けた。内側のファスナーを開け、葉っぱ型の小銭入れを手に取った。これが一番思い入れがあった。
入院生活を乗り越えて以来、弟が発作らしい発作を起こしたことはなかった。ということはつまり、その逆だってあり得る。それくらいの認識はあったのに、薬を飲み続けるというハンディキャップはあったけれど、弟はずっと元気でいるものと勝手に思い込んでいた。ある朝、M君が映っている情報番組を眺めながら、いつまでも起き出さない弟を起こそうと揺すった瞬間、寝ぼけ眼と脳が唐突に醒めた。僕はただ、運よく続いていた幸せな現実が、未来永劫に続いていくと錯覚していただけだった。
残りの薬と合わせておこうと持ってきた。テーブルに葉っぱ型小銭入れを置き、その横に病院名の書かれた薄い紙袋を置いた。まだ結構残ってるな、となにげなく中身を出してみたときだった。
紙袋に書き込まれた錠剤名は1種類だった。でも、紙袋から出てきた錠剤は、よく似た包装デザインの2種類だった。並べてみると、微妙に色が違うのもわかった。
胸の奥がさざめいた。弟のバッグに戻り、片っ端から中身を出した。財布。タオル。筆記用具。免許証。お薬手帳。あった。ページを繰って、包装を確認した。紙袋に多く入っていたのが病院のもので、少し入っていたのが、なんだ。パッケージに印字されていた文字を、スマートフォンに打ち込んで検索した。市販の風邪薬だった。
身体が動かなかった。目の奥で、小さな画面が放つ光が、その中の無為で短い説明文が、巨大化して僕を飲み込むようだった。なんとか視線を引き剥がし、手を動かして、葉っぱ型小銭入れのファスナーを開けた。引っくり返して出てきたのは、病院の薬でシート1枚、風邪薬でシート1枚だった。数が減っていたのは、風邪薬のほうだった。
どういうことかわからなかった。薬は弟が定期的に処方してもらっているもので、常用しているのはこれだけだった。対して僕は、健康体そのもので、薬なんてほとんど飲む機会がなかった。まして風邪薬なんて、上京してから一度も買った記憶がなかった。じゃあ弟が? いや、弟なら報告するはずだった。彼女の話はしなかったけど、訊いてもいない学食のメニューまで教えてくれていたのだ。それに弟が自分で買ってきた風邪薬なら、常備薬と間違えて飲むこともないだろう。病院の薬と混ぜる理由もない。
じゃあ誰が。この部屋に入ったことがある誰かが。頭の奥でちらついていた影が、どんどん濃くなっていた。屈託のない笑顔と奔放な話し口が、輪郭を克明にしていた。
『もしもし』
なにをどう言おうかなんて、考えていなかった。出ないかもしれない、とも思っていた。意に反して、数回の呼び出し音の後、M君の声がした。
「あの……今回の件、なんだけど」
弟が死んだ件とは言えなかった。直接的すぎる気がした。それをやった可能性があるのは、M君だけだったからだ。
M君は、あまりピンと来ていない様子だった。僕の疑惑は更に深まった。直近お線香を立てた相手の家族から連想することなんて、普通はそんなにないはずだった。
『あー、あれか』
やけに軽かった。ますます怪しむ僕に、M君は、とんでもないことを言った。
『ごめん、手続きが遅れちゃって。今日明日くらいには届くんじゃないかな』
「え?」
『本当は振込がよかったんだけど、口座わかんなかったからさ。現金書留で分けて送ったよ。したことなかったから勉強になった』
「ちょっと待ってよ。なに言ってるの? なんで現金なんか」
『タツ君が×、俺が○だったでしょ。結果×だったから、俺の負け。あれ、その電話じゃないの』
――えーと、で、結果はどうなの?
――え? だからわかんないんだって。
そのやり取りが耳の内側で聞こえた。僕が渡した紙袋の上で露わになった1枚は、ジョーカーだった。
突然のあのギャンブルは、最初からそのつもりで仕掛けたわけではなかったのではないか。
――○? ×?
僕が照れて答えなかったのを、急かしただけだったのではないか。トランプが目についていたからか、そんな訊き方をした自分に発想しただけのことだったのでは。
――じゃあ×で。
――×でいいの?
あれは確認だった。ただし、M君にとっては、僕が弟とこれからも仲よくしていけるかどうかの質問の確認だった。
トランプのゲームでは、ジョーカーはだいたい異種的な扱いをされる。でも、たぶん絵柄はなんでもよかった。ギャンブルにトランプは付きもので、そしてギャンブルには掛け金が発生する。
僕は黙っていた。声が出なかった。電話をかける前から、ある程度ピースは繋がっていた。確かめたかったのは、そんなことをした理由だった。理由だけがわからなかった。発覚した真実は、あまりにもバカげていた。
『ごめん、呼ばれてるから切るね。しばらく忙しいから会えないと思う』
弟が長く外しているとき、M君と僕はずっと一緒だったわけじゃなかった。M君がトイレに立つこともあったし、僕がトイレに立つこともあった。不運にも上司からつまらない電話を受けたことだってある。
タイミングは、2回あれば事足りる。心の荷が下りて浮き立った僕は、M君の前で、弟の薬の保管場所をばっちり見せてしまった。最初の機会で薬の形状を確認して、次の機会で用意していた風邪薬と適量入れ替えてしまえばいい。なんの疑いもない僕はろくに見もせずに薬を葉っぱ型小銭入れに入れるし、弟もなんの疑いもなく服用を続ける。抜いたシートを順々に。効果のない風邪薬を一粒ずつ。
であれば、殺したのは僕ということにならないだろうか。紛れもない殺人を前に、通報しかけた矢先に思い至った。脳天から、巨大な杭を垂直に打ち込まれたようだった。息が止まった拍子にスマートフォンが床に落ち、ごとりと響いた。
葬儀は終わったし、弟は壺に収まっている。持病のあった弟の死は、悔しいけど実に納得しやすい死だった。事件性なんて欠片もなかった。飲まなくてはいけなかった薬を本当に飲んでいたかどうかなんて、誰が怪しむだろう。でも仮に怪しんだ人がいたとして、その人が行き着くのは僕ではないか。葉っぱ型の小銭入れの中身を準備していた僕に疑いが向くのは当然だ。実際その風邪薬を入れたのは僕だから指紋もついているし、紙袋の中に残っているものだって、例えM君が素手で触れていたとしても僕が上から触っていることだろう。
――俺があいつが犯人だって言ったら、本当にそいつが犯人なんだよ!
知らず頬が持ち上がった。あれは冗談ではなかった。僕がいくら訴えたところで、世間はM君の味方をする。M君自身が僕たちと遊んでいたことくらいは認めたとしても、責任は年長者の僕に向く。そうして工程が進むごとに、世間は安堵を強めるだろう。頭のおかしい殺人者から、この子は正しく保護されたと。
いや、違う。まだ足りない。なにか思いつきそうだった。滑りそうになりながら立ち上がり、何度も遊んだトランプをぶちまけ、ジョーカーを探した。拾い上げたそれに、目が痛むほど食い入った。
あるゲームでは最強で、あるゲームでは最弱で、あるゲームでは省かれる。M君曰く、あの局面に相応しかった、なにが起こるかわからなかったこのカード。頭の奥に張られた糸が、ほどなく切れた。指からカードが滑り落ちた。
きつく目を閉じた。その目に拳を押しつけた。バカな僕は、薬の効能までM君に話していたのだ。あの薬は発作を抑えるものではなく、起きてしまった発作の症状を可能な限り軽減するものだと。
翌日。M君の言葉通り、分厚い封筒がふたつ届いた。100万ずつ入っていた。どうして分けたのかと疑問だったけど、なるほど確かに、専用の封筒がこれでは2束はきつい。僕も勉強になった。
ギャンブルで勝ち取った200万で、例の工面に一気にケリをつけた。既に少し返していたので、余った金額で部屋のテレビを撤去し、スマートフォンを解約した。ちょっと足して会社を変えて別契約し、電話番号も変えた。M君には教えなかった。近く、引っ越しも考えている。異動願は提出済みだ。
音と温度の消えたこの部屋で、僕はひとり佇んでいた。テレビがあった場所を見つめていた。実物はなくなっているのに、そこだけ壁の色が綺麗なために、結局テレビみたいに視線を引いていた。
見えないテレビは、見えない雛段を映し出していた。寒いのにノースリーブのアイドルも、四季着通せそうなワイシャツのベテラン俳優も、M君の無邪気な笑顔を取り巻いていた。あの笑顔の下に理解し得ないフィーリングが隠れていることを、出演者たちは誰も知らない。知らずに今も笑っている。
出演者たちは知らない
お付き合いくださいまして、ありがとうございました。