秒針が動いていきます。

 刻一刻と秒針が動いていきます。カーテンを引いた窓からは、薄く夜の灯りが漏れ注いでいました。私はフローリングの床に置かれた小さなテーブルの前で膝を抱え、今は暗転しているスマートフォンの平たい画面と、茶封筒の口から少しはみ出た白い紙を、跳ねそうな肩を両手で抑えつけて睨んでいました。
 ことの始まりは、今日の昼過ぎでした。しとしとと雨が降っていましたが、いつもならこんな日は控えるのですが、ふとした気紛れを起こしたのです。傘を差して近所のスーパーへ買い出しに出かけ、その帰り、M君と再会してしまったのです。
「りーちゃん、探したよ」
 小雨が少し勢いを増していました。このとき私は、今まで味わったことのない不思議な感覚に包まれていました。というのも、私は彼がM君だとは気が付かなかったけれど、別の名前には思い至っていたからです。なにを隠そう彼は、不自然でない程度の変装はしていましたが、テレビを点ければ顔を見ない日がないと言っても過言ではないくらいの名のある芸能人だったのです。
 その彼が、私の古い愛称を口にしました。後ろに誰かいるのかと振り返りましたが、傘を傾げて井戸端会議を開いている主婦たち以外には誰もいませんでした。
「りーちゃん」
 その一声は、はっきりと私に呼びかけていました。戸惑う私に、彼は笑いかけました。
「もしかして忘れちゃった? 俺、芸能界に入ったんだよ。りーちゃんに見つけてもらうために」
 それは私の学生時代の愛称でした。思い出した瞬間、傘を取り落としそうになりました。私は彼を知っていました。絶対に開かないようにときつく蓋を封じた瓶の中身を、真ん中から叩き割られてぶちまけられたような衝撃が全身を駆け抜けました。
 15年前当時の私は、週に一度、サークル活動の一環として養護施設へのボランティアを実施していました。私を含め、3人だけの小さなサークルでした。そこで出会ったのが当時6歳、小学校1年生だったM君でした。
 M君は、気が付けば輪からいなくなっている子でした。みんなで鬼ごっこやゲームをしていて、そのときは夢中で遊んでいるのに、ふと目を離した隙に姿を消していて、ひとりで談話室でテレビを眺めていたり、部屋で絵本を捲ったりしているのです。最初のうちは小さな子どもだからとさほど気にしていなかったのですが、もしや周りに馴染みにくい子なのかと職員さんに訊ねてみると、彼は彼で気楽に楽しんでいるからと屈託ない反応が返ってきたのを覚えています。ほかの子たちも、その気紛れさがM君だと認識しており、変わった気持ちを抱いてはいない様子でした。
 以降、私はなんとなくM君を気にかけるようになりました。私の幼少時代もひとりで過ごすことが多かったので、輪から外れて自分の世界に浸る姿に自己投影し、また、懐かしさを覚えていたような気もします。小さな背中に声をかけると、M君は、いつも振り向いてくれました。そうして話をするうちに、最初は質問に答えるだけだった彼が、自らアニメの感想や好きな動物、美味しかった夕食のメニューなどを教えてくれるようになりました。
 M君は、職員さんよりも私のほうに懐いてくれているのだ。ボランティアを重ねるうちに、そんな小さな優越感が芽吹いていました。
ある梅雨晴れの蒸し暑い日のことです。門扉をくぐるや否や部屋に招かれるようになった私は、得意げに折り紙を折るM君を和やかに見つめていました。
 小さなテーブルの上で完成したのは、黄緑色のペンギンでした。そのペンギンを、M君は、突然払いのけました。ペンギンは抵抗するはずもなく、はらりと床に落ちました。
「りーちゃん、拾って」
 どうしたのだのと言いながら、わけがわからないまま、私は膝を曲げました。ペンギンを拾い、顔を上げた瞬間のことでした。私の両肩に軽く熱がかかったかと思うと、目の前に景色がなく、唇に一瞬なにか被さったのです。
 なにが起きたのかわかりませんでした。子どもの酸っぱく愛らしい汗の匂いが、少し遅れて鼻をくすぐりました。
「ごちそうさま」
 小さな親指で唇を擦ると、M君は、無邪気にはにかみました。が、さすがに照れくさくなったのか、私の手からペンギンを奪って部屋から出て行ってしまいました。
 しばし私は呆然と、膝をついたままでいました。まさか貴重なファーストキスの経験を、たった6つの男の子に奪われることになろうとは。驚きましたが、もしやお婆さんになっても語り継げるような面白い話の種を得たのではと思い至ると、自然と頬を緩めてしまいました。後日、折り紙のペンギンが何故か冷蔵庫に入っていたと職員さんから聞きました。
 ですが私のサークル活動は、実のところ、M君との関係・ボランティアの内容そのもの以外、あまり上手く運んでいませんでした。というのも、女3人とは実に厄介なもので、些細な事情が積み重なって私とほかふたりに割れてしまっていたからです。そうかと言って、表立っていがみ合うほどの理由はありません。お互いにいないほうが楽だとわかっているのに、学内からの浅い付き合いと性格のせいで言い出すこともできず、私たちはいつも妙な空気を纏っていました。思えば、離れ者のM君に、自分が少しでも楽に過ごす理由を見つけていたのかもしれません。
「りーちゃん、ひとりで来たら?」
 M君の声は、蝉の大合唱の中でもよく聞こえました。スケッチブックには、クレヨンで拙い太陽と海と浜辺、人がふたり描かれていました。サイズからして、大人と子どものようでした。
 子どもは大人の空気に敏感と言いますが、その通りだと思います。私がつい無言になってしまうと、M君は、少し不思議そうに私を見つめたあと、ぱっと笑顔になりました。
「ねえりーちゃん、プレゼント好き?」
 突飛な質問でしたが、もちろん頷きました。気付かれないように、そっとスケッチブックに視線を移しました。
「じゃあこれあげる」
 M君は、いくつか線を足し、いくつか色を付け足してから絵を破り取りました。それを私に向けながら、またにっこりと笑いました。
「おれもプレゼント好きだから」
 大胆な行動が物語る通り、M君は少々おしゃまでした。自分のことは既にそう呼んでいました。
 絵に描かれていたのは、きっと私とM君なのでしょう。大事な宝物を認めて譲ってもらったような心地で、それはもうとても幸福でした。寂しい一人住まいにと、帰りの足で額縁を調達したほどです。
 プレゼントが好きかどうか。M君が最初に訊ねた真意を私が知ることになったのは、その2週間後のことでした。
 どうしてもその日に済ませなければならない所用のため、私だけが遅れて施設に顔を出すことになっていました。合わないのならこの週だけ別の日に変えようといった意見も出ていましたが、ぎこちない体裁を保つための相談でしたし、どうせ活動を始めた後は3人とも別行動になるので、前の週に予め職員さんと子どもたちの了承を得ておいたのです。
 道中、電車が止まっていました。悲しいかな、都会では間々あることです。知らない誰かと誰かの家族に少し胸を痛ませ、けれど別ルートの電車でM君とどんな遊びをしようかと考えているうちにそんな感情は忘れてしまい、いつものように浮き足立って施設の門をくぐりました。
「あら、いらっしゃい。やっと電車が動いたのね」
「いえ、別ルートで来ました。今日はそんなに時間もないですし」
「りーちゃんはもともと東京出身で詳しいものね。TちゃんとYちゃんは? 連れてきたんでしょう?」
 職員さんの言葉に疑問を感じたのは、そのときでした。ずっとここにいた職員さんが、どうして電車が止まっていたことを知っているのでしょうか。ニュース? テレビは点いていません。SNS? 当時は普及していません。じゃあほかの職員さんが? 勤務中です。
 咄嗟に携帯電話を確認しました。誰からの連絡もありませんでした。
「Tちゃんから連絡があったのよ。今電車が動いてないんだけど、別のルートはよくわからないから、りーちゃんを待ってから行くって」
 止まっていた路線はどれだったか。もちろん、ここに来るために私たちがいつも利用していたK線です。だから私は違う道筋を辿ってきたのです。脳の隅が焼けつくようでした。だって職員さんの言う通りなら、あのふたりが私に連絡してこないはずがないのです。
 もしかして、あの人身事故は。そのくらいの想定は、同じ立場だったら誰しもして然りと思います。
 談話室には、型遅れの分厚いパソコンがありました。インターネットに接続し、リアルタイムのニュースを検索しました。轢かれた人物の性別や年代を知ろうとしたのです。心臓が波打つ中、表示された活字たちを斜め読みしていると、K線で亡くなったのはスーツ姿の若い男性とわかりました。不謹慎ながらほっとしました。でもその一瞬後には、目を疑うことを知りました。
 K線が止まった少し後、S線も止まっていたというのです。K線に的を絞っていたことと、私が最初から駅でK線のほうにしか意識を向けず、さっさと別ルートを使っていたために、そのことに気付かなかったのです。
 芋づる式に、K線で起きた事故の詳細も出てきました。亡くなったのは、十代後半から二十代前半程度の、私服の女性がふたりということでした。
 ワンピースの裾を引っ張られたのはそのときでした。いつの間にか、後ろにM君が立っていました。前髪が汗で額に貼りついていました。いつも私に見せてくれる、楽しそうで嬉しそうな笑顔でした。
「りーちゃんもプレゼント好きでよかった」
 脈絡も前兆もない、けれど満足げな一言でした。根拠のないその自信に、既に大きく脈打つ私の心臓は、更に激しく低い音を刻み始めていました。まるで私たちふたり分だけの区画を切り取られ、その分音を増強されているような、不気味で奇妙な心地でした。
「もらったから、ちゃんと有効に使ったんだよ」
 よく本を読むM君は「有効」という言葉の意味もちゃんと理解していました。
 心当たりはありませんでした。けれどなんとなく、もうこの話題を続けてはいけないような気がしていました。でもやめてもいけない気がして、結局私は、なにかあげたかなと困った反応をしてみせました。するとM君は、一拍呆け、すぐにまた小さな歯を見せました。
「これからはずっとひとりで来られるね」
 切り取られていた世界が、ぐらりと大きく傾きました。蝉の声だけが変わらず響いていました。
 ねえ嬉しい? とか、これから楽だね、とか、いろいろなことを笑顔のまま言われたと思います。手を引かれ、部屋に招かれ、私は、M君が上機嫌でスケッチブックを染めていくのを見ていました。なにがなんだかわからなくなって、頭の後ろを思いきり叩きつけられたような衝撃だけがあって、きっと会話も成り立っていなかったと思います。でもM君は終始ご機嫌で、できあがった絵を私に見せました。横長の長方形の中に小さな四角形をいくつか描き込んだそれは、確かに電車でした。
 それ以上は保たず、職員さんに体調不良を訴えて切り上げさせてもらいました。またね、とM君は無邪気に手を振ってくれましたが、その日のうちに私は実家に逃げ帰り、と言ってもその実家も都内のそう遠くないところにあったのですが、ともかくひとりでいるのは避けようと身ひとつで駆け出しました。携帯電話の電源を落としたのは、ほとんど確定していましたが、まだごく僅かに不幸で不運な偶然が重なった可能性があったからです。そう思い込みたかったからです。ですがそんな抵抗は虚しく、実家に直接かかってきた電話で、サークル仲間のふたりが線路に落ちて死亡したと知らされました。
 結局それから施設には顔を出さず、大学を中退しました。とても外に出られませんでした。外に出たら、何故遊んでくれなくなったのかと問うM君の目が、無数にあるような気がしていました。
 M君が彼女たちを殺した証拠は、もちろんありませんでした。でもそう考えれば、あのときいきなりプレゼントの話題を振ってきたことも納得できるのです。かつてM君が私に訊いた件は、私は【プレゼントをもらうのが好きかどうか】で回答しました。だからM君は絵をくれたのだと思っていました。でも、M君は違う意味で訊いていました。【プレゼントをあげるのが好きかどうか】。自分も好きだと言いながら絵を渡してくれたのは、あげるのが好きだという意味だったのでしょう。そして彼は、私がたまたま遅刻する日を、自分がもらった機会だと、つまり私からのプレゼントだと解釈してしまったのです。だから「有効に使った」と。
 M君は、まず駅に行って適当な囮を見繕います。気付けば輪から消えている子ですから、施設そのものを抜け出していても誰も気づきません。私たちが利用するK線方面でスーツの若い青年にあたりをつけ、人ごみに紛れて線路に突き落として電車を止めます。予定通りターゲットのふたりが足踏みすると、この部分こそただの憶測なのですが、手招きでもしたのかもしれません。偶然を装い、これから帰るところだから、一緒に行こうと。そして近場の乗車口、S線でしたが、そこで頃合いを見て電車が来る前にふたりを押し出します。もともと1本電車が止まって通常より人が多いですし、苛立っている人も少なくなかったでしょうから、どさくさ紛れの犯行にはうってつけだったのかもしれません。第一子どもですから、その場にいたとしても、疑われること自体ないでしょう。
 怖かったのです。それが本当のことだったらと思うと、怖くて仕方なかったのです。無垢な子どもが、残酷に3人も殺したかもしれないこと。私だからと打ち明けたことだろうから、口外したら最後、いずれM君自身が報復に来る気がしていたこと。
 誰にも言えませんでした。サークル仲間のふたりのご遺族と、スーツの青年のご遺族には悪いと思いながらも、ただただ恐怖するばかりで、日々は流れていきました。借りていた部屋の引き上げは、両親がしてくれました。ボランティアで養護施設に通っていたことは話していましたので、それを思ってのことなのか、額に入れて飾っていたあの絵は封筒に入れて取ってくれていました。もちろんその絵にも、以降、私は触れられませんでしたが。
 引きこもりを続けていたある日のこと。両親に引越しを提案されました。悩みましたが、このまま家にいても甘えるだけだとわかっていましたので、今度は実家から少し離れた場所に部屋を借りました。そうなると、とにもかくにも生活しなければなりません。勤め口の確保、そこでの対人関係、日々の食事と忙しく追われ、いつしかあのときの恐怖が薄らいでいき、というよりも胸の奥底に封じ込めることに成功し、くだらないバラエティ番組を面白く見ることさえもありました。
 そして今日。気紛れを起こして歩いた雨の中で、彼と再会しました。
「ねえりーちゃん、俺がなんで今出てきたかわかる?」
 実は、私は一度結婚していました。
「あの旦那さん、いなくなってよかったでしょ?」
 かつての夫は、凄まじい暴力夫でした。日々の痛みと人格までもを否定される屈辱に耐えながら、外に向けては巧妙に紳士を演じる夫が憎くて仕方ありませんでした。事故にでも遭って死んで欲しい、とさえ思っていました。
 入籍して僅か3ヶ月後、夫は外回りの最中に交差点で亡くなりました。諸々の手続きの後、私は夫の籍を抜けました。常に耐え忍んでいましたので、あちらのご両親は、短いながらも自慢の息子に尽くしてくれた優しい妻に先をと、温かく送り出してくれました。半年前のことでした。
「話そうよ、りーちゃん。昔みたいに、ふたりきりで。聞いてほしいことがいろいろあるんだ。あのときからずっと」
 大人になったM君はそう言うと、雨粒の散った私の手を取りました。私は、その手をつい払いのけました。彼が驚いた顔をしたのと同時に、私の血は一気に下がりました。彼を怒らせたらいけないのにと、あのときの恐怖が嘘みたいに蘇ってきました。
 ですが予想に反して、M君はにっこりと笑いました。いきなり私の唇を奪ったときの、かつての表情と同じでした。
「そっか。もう子どもじゃないから、距離感は大事だよね。ちょっと不躾だったかな」
 M君はそう言うと、ポケットから取り出した手帳にボールペンを走らせ始めました。若いのにアナログだなと、少し場違いに思いました。
「どうせ俺も、ちょっとだけ仕事があるんだった。せっかく近くに来たから挨拶にと思って」
 紙を千切り、M君は私に差し出しました。とりあえず受け取りました。書かれていたのは、どうやら彼が滞在する予定らしいホテルの名前と連絡先、現住所、電話番号とアドレスでした。
「電話取ってね。そんなに非常識な時間にはならないと思うから」
 電話してね、ではなく、電話取ってね、だったことに気付いたのは、彼の背中が小さくなってからでした。
 年をたくさん重ねた両親に、不要な心配をかけたくありませんでした。どうにか帰路につき、買い物袋をキッチンに置きました。押入れを漁ると、案外簡単にあの封筒が出てきました。両親が私が大事にしていると思っているからという理由だけで、丁重に扱ってきたこの絵には、年月が経ったほどの傷みはありませんでした。
 スマートフォンを操作し、彼の名前で検索しました。凄まじい数の情報がヒットしました。気にしたことがなかったので知りませんでしたが、彼は自分が養護施設出身であることを公にしていました。そういう施設のことをよく知らない人は少なくないだろうからと、綺麗事めいた理由が付随していました。
 読み込んでいくうちに、ふと眉を顰めました。M君は、年齢の割に女性の話題が多いのです。とは言え週刊誌レベルの記事で、彼側はもちろん相手方のほうもノーコメントもしくは否定済の信頼度の薄いものでしたが、それでもなんとなく気分を害してしまい、私はプラウザを閉じてしまいました。
 過去のことも含めて、警察に話してしまったほうがいいのでは。膝を抱え、心底そう思いました。今更話したところで過去のことはどうにもならないでしょうが、今日彼に会ってしまったことで、薄れていた恐怖が色を取り戻してしまいました。それに彼は、あの口ぶりからすると、ずっと私を見ていたようではありませんか。暴力夫の存在も知っていて、抹消したのは自分だと暗に示したではありませんか。電話番号も住居も知っていながら接触せず、半年もの間待ち続けたのは、離婚者が再婚できるタイミングを見計らったからとしか思えないではありませんか。唇同士が触れたあれは、私にとっては子どもの可愛い悪戯でしたが、M君にとっては本物の愛情表現だったのだと結論するほかに、どうしたらいいと言うのでしょう。
 でも、それなら女性の問題は。震え出しそうな身体を押し付けながら疑問を覚えました。その直後、パズルが組み上がった爽快さが弾けました。いいえ、私の妄想です。妄想でなければなりません。けれど考えてしまうと、もう止められませんでした。やめろと命じれば命じるだけ、すべて逆効果となりました。
 ああ。私はなんと卑しく、汚らわしいのでしょう。M君が女性問題を重ねているのは、私のためではないかと思ってしまったのです。しかも彼は、私に見つけてもらうために芸能界入りしたと言いました。わざと目立つことをして、私に自分を印象付けようとしていたのではないでしょうか。それが悪い噂だったとしても、輪郭でも声でも指の形でも幼少期の面影を少しでも嗅ぎ取ってもらえればと、密やかな希望を胸にしたためていたのではないかと思い至ってしまったのです。
 実は、もう電話は終わっています。宣言した通り、非常識な時間ではありませんでした。
「再会の祝杯をあげたいな。ちょうどよくワインもらったんだ。一緒に飲もうよ」
 適当におつまみやらデザートを買って、部屋に行くと言って切られました。もう10分もしないうちに着くから、チェーンを外しておいてくれとも。
 ああ。私は愚かです。今すぐにも通報すれば、警察が彼を質すでしょう。もしかしたら、よくある小説のように、物好きな刑事がかつての事故を調べ直したりするかもしれません。私に逃げ道はちゃんとあるのです。ちゃんとあるのに、選択肢がないのです。
 付き合いづらい奇数での活動から逸れるきっかけ。僅かとは言え、暴力と屈辱に晒された日々。こんな私を15年間も想い続けてくれたM君となら、もしかしたら本当に幸せになれるのではないか。瑞々しい美貌と一定の財力を備えた彼女たちよりも、ずっと昔のボランティアで知り合った程度の年増で離婚歴のある私を選ぶと言うM君ならば。99%連続殺人を犯している彼を前にして、そんなことを思ってしまったのです。さすがにスーツの男性だけは気の毒ですが、死んでいった彼女たちには快楽が噴き上がり、使い捨てられた彼女たちには優越感が噴き上がり、現実のあっけなさに身体が戦慄いてしまうのです。
 刻一刻と、秒針が動きます。チェーンは既に外してあります。鍵も開けてありますが、距離感を慮っていた彼は、ちゃんとチャイムを鳴らすでしょう。昔のように話せるでしょうか。
 とてつもなく長い10分を、こうして私は待っているのです。淡い思い出を胸の内で温めながら、唇の感触の変化に甘く痺れながら、規則正しい秒針の音を聞いているのです。 
 

秒針が動いていきます。

秒針が動いていきます。

ただ時計の針が動くのを眺めているだけです。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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