おくりもの
友人Tが白い箱を持って、家に訪ねてきた。
上がるよう促したら断られた。急ぎの用でもあるのかと尋ねたが答えない。せっかく来たのだから、遠慮せずにゆっくり話そうと誘っても首を振るばかりだ。
何故だと問えば、理由はないが上がれないと言う。何がいけないのか、自分には見当がつかない。
この箱を渡しに来ただけだ、これ以上長居はできない。そう言ったきりTは箱を無造作に押しつけて、逃げるように去っていった。
おい待て一体これは何だ、と叫んでも返事はない。Tは、いたちのように逃げてしまった。
恐る恐る箱を開けてみると……
*
「ははあ、それで箱の中身は何だった?」
T本人を前にして、私は自分の見た夢を話した。夢の中で開いたはずなのに、私は中身のことだけぽっかりと忘れていた。どんなに思い出そうとしても無駄だった。
「なんだつまらん。そんな話を聞いたって、僕にも君が見たものなんて分からない」
「お前がくれたものだぞ?」
「それは君が見た夢であって、僕が実際にあげたものではないよ。分かるものか」
「そうか、分からんか」
「そうだ、分からん」
Tは、ずずっと茶をすすった。
Tは古くからの学友で、今は定職に就かずふらふらと野山を駆けまわっている。ときおり訪ねてきては旅の話を聞かせてくれる。話の駄賃だといって、あれが食いたいこれが食いたいと言うので、私は彼にごちそうした。
いつか新種の蝶を見つけて名前をつける。それがTの学生時代から続く夢であった。彼の語る夢が面白くて、私はついおごってしまう。ひょろひょろと痩せたTの姿を見ると、夢中になるのはいいがきちんと食べろと諭したくなる。
Tの語る蝶を今まで一度も見たことはない。T自身もまだ捕まえていないので、細部までは語れないのだろう。それは形がないゆえに美しい幻の蝶だった。
周囲の人々からはTの話は虚言にすぎないと全く相手にされていない。だが私には彼が嘘を吐いていると思えない。
彼の目はとても澄んでいた。こんなにきれいな目をして、熱く語れる夢がまだ残っている彼を、私は愛おしいとさえ思った。
「今週末にまた採集へ行ってくるよ。期待していてくれ」
「ああ、期待して待っている」
こんなやり取りももう何回目か。私も彼の蝶を見てみたかった。
*
夢にTが現れた。私に白い箱を渡して去る。以前見たのと同じ夢だ。私は箱を開ける。ここまできて思い出した。
ああ、あの時の夢でもこれを見た。それなのに忘れていた。
Tを追いかけて、箱の中身について聞かなければと思った。彼がいなくては、私には到底分からないものだからだ。
彼のあとを追おうとして、私の足はとまった。
目が覚めて、Tがもういないことを思い出した。
あの白い箱に入っていた何か。夢の中で箱を開けて、確かに中身を見たはずなのに思い出せない。
何も見えないのに、箱の中にはTが恋い焦がれた蝶がいるのだと分かった。そこにいるはずのものを見ていたのに、私の目には何も映らなかった。
私はTから話を聞くばかりで、彼が追いかけていた蝶がどんなものなのか思い描けなかった。その姿はTの頭の中にあった。彼が私に見せてくれるまで、それは蝶のようで蝶ではない、得体の知れない何かだった。
私には蝶を見ることができない。彼と一緒でなければ見られない。Tといて、彼の話を聞くことで私も美しい夢を共有させてもらえた。
『世にも珍しい蝶を見つけた。これは新種だよ。君にぜひ見せたいと思う。○日には帰る。 匆々』
と、興奮したように走り書きされた葉書を受け取ったのが、Tの葬儀の四日前だった。山へ行ったまま帰らず、見つかった時にはもう手遅れだったらしい。
Tは夢の蝶を見つけたようだ。彼はどんな姿を目にしたのだろう。もはやそれを聞くすべはない。
見ることのなかった幻の蝶。
夢にまで見たのは、彼だけではない。
おくりもの