異界遍歴①
プロローグ
街道を一人のスーツ姿の男が、溜息を吐きながら歩いていた。街は人で溢れかえっていたが、彼は沈んだ顔で何度目かの溜息を吐いた。ビルから覗く空は彼の表情とは違い、雲一つない青空だった。
彼は、大学を卒業してもなお就職活動中であった。大不況といわれて五年、政府もなかなか景気回復できず、就職超氷河期が未だに続いていた。
「これで何社目だっけ?」
二十社までは数えていたが、それを越えたあたりから面倒になり、今では一つの会社を受けるたびにそう呟くようになっていた。筆記試験は何度か潜り抜けたが、面接をする度に面接官が履歴書を見て、眉間にしわを寄せた後、態度を変えて2,3の質問で面接を終了するのだった。
何が悪かったのだろうと、彼は考えて履歴書を取り出してみた。長所には真面目、正直、順応性が高い、法律の遵守、忍耐力が高い。そして、短所には諦めが早い、マイペース、人見知り、敬語が苦手・・・短所の数が長所の倍以上書かれていた。彼は正直な性格で虚偽と建前が書けず、そのうえ人見知りなので十分な受け答えもできずに面接が終わるのだった。
「はぁ・・・」
履歴書を仕舞って、これからのことを考えながら、いつもの帰り道を歩いた。
ふと、大通りの脇道に違和感を覚えて、足を止めてその道路をじっと見つめた。その横を多くの人が、怪訝な顔をして彼を避けていった。
彼は、何かに導かれるようにその脇道に入っていった。通ったことのない道で、この日に限って気になって仕方なかった。
直線距離を数百メートルほど行くと、道が左右に分かれていた。
彼は迷うことなく左に進んだが、数十メートルぐらいでブロック塀に囲まれて行き止まりになっていた。
わざわざ帰り道から外れてきたのに、肩透かしもいいところだった。無駄な時間だったと思い引き返そうとすると、目の前のブロック塀が円形に捩れていった。
「何?・・・これ」
これには驚いて、その場で呆然として立ち尽くした。
しばらく見ていたが、それ以上の変化は見られなかった。
その捻じれを確認しようと、好奇心から手を伸ばした。手を円形状の黒い空間に触れると、急激な吸引力でゆっくりと吸い込まれてしまった。焦って押したり引いたりしたが、全く動かすことができなかった。
携帯で誰かを呼ぼうと思ったが、携帯の入っているポケットの位置が悪くて取り出せそうになかった。
誰かに気づいてもらう為、最後の手段として鞄を投げて、必至で叫び助けを求めたが、行き止まりの路地裏には誰も助けが来ることはなかった。
彼は誰にも知られることもなく、無情にも捻じた空間に完全に吸い込まれていった。
そして、彼の存在はこの世界から消失するのだった。(痛い履歴書の入った鞄以外は)
第一話 出会い
静まり返った青く薄暗い森の中に、空間が捻じれて男がゆっくり吐き出された。
男は強打した頭を擦りながら、ゆっくりと立ち上がり、周囲を眺めて首を傾げた。空気は薄く、生い茂った木々の中に、風もなく温暖な気温だった。
あまりの空気の薄さに、思わず深呼吸してしまい、激しい頭痛と眩暈に見舞われた。
『・・・、・・・』
咳き込んだつもりだったが、声が出なかった。
これには動揺して、必死でいろいろ声を出そうとしたが、まったく言葉にならなかった。狼狽したせいで呼吸が乱れ、再び眩暈を起こしてしまった。
頸動脈を手で擦って意識的に呼吸を整えようとしたが、全く酸素が入ってこなかった。周りは森のはずなのだが、酸素濃度が極端に低かった。
最悪の気分で服の汚れは叩きながら、上空を仰ぎ見た。空からの青白い光が差し込んでいて、地球じゃないと瞬時に思い至った。
状況を把握するために、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。いろいろ操作して試めしてみたが、やはり使えなかった。
携帯の電源を切り、人を捜すため森を歩き回ったが、頭痛と眩暈と吐き気で歩くのを断念した。
身体を休める為、芝生になっている場所に仰向けで倒れ込んだ。空には何もなかったが、青い光が大地を照らしていた。
しばらくの間、小刻みに呼吸して酸素を取り入れることに専念した。
なんとなしに横に顔を向けると、視界に小さな人影が映った。
追いすがる気持ちで体を起こし、人影に駆け足で近づいたが、すぐに後悔することになった。
人影は少女だった。背中までの灰色の長髪を揺らし、左右対称の顔はまるで人形のように見えた。黒い長袖のワンピースに、ふくらはぎまである革のブーツを履いていて、露出している部位は顔と手だけだった。それだけ見れば普通の少女だったが、決定的に違ったのは漆黒の瞳だった。空虚という言葉が似合うほどに、少女の眼は完全に光を失っていた。
男は緊張で息を飲み、無意識に一歩後ずさっていた。
少女は瞬時に腰を落とし、一回の跳躍で距離を縮めてきた。これに驚いて後ろに下がろうとしたが、足がもつれその場で尻餅をついた。その上を少女の右手が一閃した。手ぶらだったはずの彼女の手には、いつの間にかナイフが握られていた。
男はすぐに立ち上がり、少女に背中を見せて逃げ出した。しかし、あの速さから逃げ切ることは無理だと思い、速度を緩めて後ろを確認した。
少女はその場から動かず、こちらをじっと見つめていた。これはチャンスだと思い、後先考えず全力疾走した。そうしなければ、殺されると直感が告げていた。
数十メートルほど走って、もう一度後ろを確認すると、少女が追ってきていた。それを見た瞬間、逃げることを諦めた。というか、この酸素濃度ではもう走るのも限界だった。
ただ殺されるのは癪なので、最初で最後の抵抗ぐらいはしておくことにした。
男は後ろの少女を見て、攻撃のタイミングを見計らった。あと一回の跳躍でこちらに届くと確信したところで、素早く身体を反転させて、少女に向かって右の拳を思いっきり突き出した。
その拳は少女の腹部に直撃し、体は宙を舞い、木に激突してそのまま地面にずり落ちた。彼女の異常な軽さに、男は呆然としてしまった。
少女は足を震わせながらも立ち上がり、無表情のまま顔を上げた。ダメージはあるようだが、表情には全く出ていなかった。
しばらく、二人は黙ったまま動かなかった。男はなんとか酸素を取ろうと、小刻みに呼吸を整えていたが、ほとんど酸素は取り込めなかった。
「なぜ壊さない」
急に、頭の中に感情のない声が聞こえてきた。これには驚いて、少女を凝視した。
「今なら確実にできるのに、どうして?」
少女の云っている意味がわからなかったが、男は答えようと声を出したが幽かな音すら出なかった。
「どうして答えない」
声での伝達は諦めて口を動かしながら、戦う意思がないことを強く思って伝えてみた。
「なぜ戦わない」
どうやら思いが通じたらしく、少女がそう答えてきた。この世界ではテレパシーで会話するみたいだった。
男はさっきと同じような感じで、戦う理由がないと念じるように伝えた。
「あなたを殺そうとしたのに?」
うまく伝わったようで、返事が頭に響いた。
この質問にどう答えればいいか悩んでしまい、とりあえずこちらが殺す意思がないことを伝えてみた。
「理解できない」
少女は、無感情にそう返してきた。表情は変わらず、足の震えは若干治まりつつあった。
テレパシーで会話できることを知り、焦りが少しだけ薄れてきたところで、理解できないことはいくらでもあると伝えてみた。これに少女は動くことなく、こちらを見つめるだけだった。
あまり間を置くと攻撃される気がしたので、なんとかその場を切り抜ける為、戦いをやめようと申し出てみた。
「無理」
が、一言で一蹴された。
「ワタシにとって、殺しが唯一生きる意味だから」
こっちが訊く前に、少女は視線を逸らさず、まるでそれが当たり前かのように云った。何の迷いもない台詞は、冷酷な人殺しの眼に見えてしまった。
このままだと、また襲われそうな気がしたので、再び殺し合いはやめようと伝えた。
「できない」
少女は男を直視しながら、揺らぐことのない思いで云ってきた。こうなってくると、説得は非常に難しくなってしまった。
「殺し合う」
動けるまで回復したようで、無表情のまま数歩距離を取った。なんとか戦闘を避けるため、頭をフル回転させた。
「取り引き?」
少女は無表情のまま、春斗の提案を復唱した。突拍子のない思い付きだったが、自分でも悪くない案だと思った。
この考慮の間を逃す手はないので、この世界の情報が欲しいことを捲くし立てるように伝えてみた。
「・・・」
しかし、少女は黙ってこちらを見つめてきた。あまりにも表情に変化がなく、この交渉は失敗だと感じて、一歩だけ後ろに下がった。
「理解できない」
すると、少女はその一言をぶつけてきた。
「世界の意味も、情報が欲しい意味もわからない」
少女は男を見上げて、最後に云いたいことを何一つ理解できないと云った。
男は追いすがるように、自分が置かれている状況を知っている限り少女に伝えた。
「つまり、別世界から来て、この状況に逼迫してるってこと?」
云い方にほんの僅か訝しさを出してきたが、大まかに理解してくれたようだ。
「でも、それと殺し合いは関係ないと思う」
これはぐうの音も出ない返しだった。ここまで話しても、少女の意思は一ミリも揺れ動いていなかった。
このままでは殺されてしまうと思い、別視点からの交渉を促してみた。
「ワタシの望み?」
少女は一瞬だけほんの僅か眉を動かして、その一言を復唱した。これに男は何度も首を縦に振り、相手に必死で交渉を求めた。
しばらくの間、少女は沈黙した。その中で、少女の空虚な瞳に慄然としていた。正直、断られることも覚悟した。
「ワタシの条件は、自身の破壊」
が、少女は自殺とも取れる条件を提示してきた。
これには理解できず、再度少女の云った意味を訊いてみた。
「ワタシを壊して欲しい」
これには驚いて、少女を凝視した。
「だから、ワタシはここに落とされた」
少女は無表情のままそう云って、少し前のめりになり腰を落とした。どうやら、戦って死ぬという意思表示のようだ。
これには慌てて、少女に回答を求めた。殺してほしいなら、なぜ戦うのかと。
「ワタシを壊せる力があるかを試しただけ。あなたは、ワタシを壊せる力があると判断した。だからこそ、殺し合いでワタシの望みは叶う」
これには矛盾を感じて、少女にそれを投げかけてみた。
「あるのは戦いでの生死のみ。自身の破壊に嘱託なんてあり得ない・・ああ、そうか、だからこうなったんだ」
最後は自虐とも思えるような独り言で、なんのことがわからなかった。しかし、それと同時に少女の矛盾点が明確になった。
ここは最後の望みを口にするように、少女にその矛盾を指摘してみた。
「・・・」
表情はほとんど変わらなかったが、初めて少女から驚きの感情が読み取れた。
「確かに、殺し合うことは相手に委ねてるのかもしれない。でも、それは生存本能と同じ」
予想通りの返しがきたので、交渉もそれと同じだと伝えた。
「・・・わかった。情報提供の代わりに、ワタシを壊す。それで手を打つ」
少女は、持っていた小さめのナイフを地面に落として停戦の意思を示した。ここにきて、すんなり納得する少女の思考には違和感を覚えた。
とりあえず殺されずに済んだので、少女にこの場所のことを訊いた。
少女は、この森のことと出口の場所を淡々と告げた。
「ワタシに話せることはもうない」
そして、こちらに無防備で近づいてきた。どうやら、もう殺してくれということらしい。
これには少し焦って、まだできないと伝えた。
「でも、あなたの条件は情報だけ」
こう云われては、条件を変えると云うほかなかった。
「我侭」
それに、少女はその一言で一蹴してきた。
「何に変える?」
しかし、驚くことにそれを許容してきた。
ここは間違えないように、しばらく考えてから少女に条件を伝えた。
「相棒?」
あまり自信がないようで、少女の言は頭に小さく聞こえた。
「それは、ワタシとコンビを組むということ?」
戸惑っているのか、少女の問いに動揺のようなものを感じた。僅かな表情の変化の為、ぱっと見ではわからなかった。
「奇抜過ぎて意味がわからない」
少女は、僅かな表情を隠すように目を閉じた。
「それにその条件だと、ワタシの条件が無期限の反故になる」
確かに後回しになるが、それは許容して欲しかった。こうなってくると、後は少女の善意にすがるしかなく、この世界から出るまでの間、同行して欲しいと懇願した。
「帰れるかどうかわからないのに?」
これはなかなかの鋭い指摘だった。ここが正念場だと感じて、少女を真っ直ぐ見て帰ると断言した。
「・・・」
これはもうひと押しだと思い、一緒に旅をしようと誘った。かなり分の悪い賭けだったが、そうしないと、ここでは生き残れないと本能が告げていた。
「取り引きとしては不成立」
やはり条件が合わないようで、無表情でこちらを見据えた。その答えに、男は死を覚悟した。
「条件が短期と長期じゃ割に合わない。けど、わかった」
が、少女は寛容な返事を返してくれた。
念の為、再度少女にいいのかと尋ねた。
「遅くても早くても、結果は変わらないなら別に良い」
死ぬ時期は特に決まっていないようで、取り引きに応じてくれた。これは本当に助かることだった。
「別に、助けるわけじゃない。それに道中で破壊されることもある」
こちらの思考が伝わったのか、少女が淡々とその可能性を指摘してきた。
こうして少女の妥協によって、二人の取り引きは成立した。
それを確認する為に、少女に近づいて右手を差し出した。
「それは何?」
これに少女が小首を傾げて訊いてきたので、握手とだけ答えた。
「握手?」
単語の意味がわからないのか、台詞に疑問を強めた。ここは真顔で、信頼して協力する意味だと説いた。
「殺そうとした相手をもう信頼する?」
この握手に猜疑心が芽生えたのか、無表情で見上げてきた。頷くことが、この世界で肯定することかわからなかったが、少女を見つめたまま頷いた。
「変わった人」
少女はそう云って、ゆっくりとした動作で手を出した。どうやら、頷くことはこの世界でも同じのようだ。
しかし、少女の差し出された手は、なかなか握ってこなかった。彼女を見ると、かなり警戒しているようで、なかなか手を前に出してこなかった。
あまりにじれったいので、こちらから少女の手を軽く握って握手した。その瞬間、彼女の身体が一瞬こわばったような感じがした。ここまであまり動じなかった少女が、出会って一番の反応を示した。
それを気にしても仕方ないので、自分の名を春斗と名乗った。
「・・・ハルト」
少女は、名前を噛みしめるように復唱した。異世界では苗字は不要に思えたので、敢えて云わないことにした。
「私に名はない」
少女は、目を閉じてそう云った。春斗が手を離すと、少女から緊張が解けたような感じがした。
名前はなくても、他の人から呼ばれるこ名称はあるだろうと思い、失礼を承知で訊いてみた。
「S1415。ワタシ、人形だから名はない」
それが春斗と人形少女との出会いだった。
第二話 戦い
少女の話では、この森は死の森という場所らしい。周りは崖で囲われていて出口は一箇所だけで、奥に見える一番高い大木が目印だそうだ。この酸素の薄い場所で、数キロ先にある大木までなんて歩きたくなかった。
他に道はないか訊いたが、少女からはそこしかないとだけ返ってきた。
なんとなく周りを見ると、木々の間から崖のような岩の剥がれを見て、そこからいけないか訊いた。
「無理」
が、首を振って否定された。
「あの崖の周りは鳥獣の縄張り」
この答えには、鳥獣?と疑問付きで復唱してしまった。
「鳥類。崖の隙間に巣を作る」
これには少女が、どうやってここに来たのか気になってしまった。
「崖から落ちる時は襲ってこない」
考えていたことが伝わったようで、少女がその疑問に答えてくれた。
「で、登る時には襲ってくる」
少女は崖の方を見てから、こちらを振り返った。
「別の質問はない?」
そして、何か訊いて欲しそうに春斗を見つめてきた。
「私のこととか」
首を傾げた春斗に、少女がそう云ってきた。無表情だったが、今度は不思議と訊いて欲しくなさそうに見えた。
春斗は少女を気遣って、今は特に訊く必要はないと答えておいた。
「人は、未知な物に対して知的好奇心が働くはず」
が、こちらの配慮に気づいてくれなかった。仕方がないので、優先順位が低いということにしておいた。
「やっぱり変な人」
すると、少女が春斗に変人とレッテル貼りをしてきた。これは個人の感想なので、訂正させるのはやめておいた。
しばらく二人で歩いていると、頭痛と眩暈と吐き気の三連コンボが春斗を襲った。人形には、酸欠は関係ないようで平然と横を歩いていた。
少し休みたいと思っていると、前の茂みが動いたことに気づいた。
二人は、足を止めて茂みを見つめた。そこから服に付いた葉や枝を片手で払いながら、不満そうな女性が出てきた。彼女は綺麗な蒼眼で、膝あたりまである美しい白い長髪をなびかせていた。頭には変わった形状のティアラを付けていて、紫のドレスで花の模様の刺繍があしらわれていた。足元はドレスで隠れていたが、不思議とドレスには泥や汚れが全く付いてなかった。手には絹のようなオレンジの手袋をはめていて、全身が衣服に覆われていた。正直、この場所ではかなり不似合いの格好だった。
「・・・」
春斗は、この世界では常識なのかと首を捻った。こちらに気づいた女性は二人を交互に見ると、鋭い目つきになって臨戦態勢を取った。
しかし、春斗たちがそれを見ても動かなかったのを見て、首を傾げて黙考した。そして、何を思ったのか青ざめた表情になり大きく叫んだ。
「誰か助けて!」
春斗の頭に直接大音量で聞こえてた。ただでさえ頭痛が酷いのに、その叫びで意識が飛びそうになった。
春斗が頭を片手で押さえて顔を歪めて、少女と互いを見合った。気のせいかもしれないが、少女から諦観に近い雰囲気が漂っていた。
「って、なんか云いなさいよ」
誰も動かない状況に、女性が冷めきった顔で返事を求めてきた。
春斗は頭を押さえながら、苦痛の表情のままできれば自分も助けて欲しいと訴えた。
「・・・」
これに女性が目を丸くした後、お腹を抱えて苦しそうに大笑いした。にもかかわらず、声は全く聞こえてこなかった。
何か変なこと云ったのかと少女に振ると、迷うことなく頷かれた。
「面白い人ね」
ひとしきり笑った女性は、涙目で春斗を見てから視線を少女に移した。
「貴方は、人形使いなの?」
聞きなれない単語に首を傾げた。
「だってその子、人形でしょ」
女性は、少女を指さしてそんなことを云った。確かに、少女は自らそう自己紹介していたことを思い出した。
「どうして一緒にいるの?」
女性の追及に、なぜそんなことを訊くのかと返した。
「普通じゃないからよ」
どうやら、この世界ではそれは普通ではないようだ。
「で、なんで一緒にいるの?」
女性は、再び同じ質問をしてきた。
素直に答えるか悩んだが、少女の意思を汲んで、自分の生存率を上げる為と答えておいた。
「それが一緒にいる理由?」
訝しげに訊かれたが、そうだと頷いておいた。
「その人形、人を殺すわよ」
女性は目を細めて、そう指摘してきた。
しかし、それは関係ないと云い切っておいた。理由として、自分が殺されていないことも伝えた。
「ふうん。どう手懐けたかは気になるところね」
すると、女性が不思議そうに少女を方を向いた。誤解があるようなので、取り引きしただけだと釈明した。
「まあ、私を襲ってこないならどうでもいいけど」
女性は少女に対して、警戒心を解くように少し気を緩めた。
「ところで、ここがどこか知っている?」
女性は、辺りを見渡して訊いてきた。
少女が答えると思ったが、何も云う素振りはみられなかったので、春斗が死の森だと答えた。
「え!」
これに女性が、口を少し開け硬直した。
「はぁ~、なるほど、面倒な所に誘い込まれたわけか」
自分の置かれた現状に、かなり落ち込んだ様子で項垂れた。
「ちっ、自分に腹が立ってくるわね」
落ち込んでいだと思ったら、今度は舌打ちして自分に対してぼやいた。それを見て、この人にはあまり関わりたくないと感じ、立ち去ることに決めた。
「って、ちょっと待ってよ。さっき私に助け求めてきたのに、置いていくってどういうことよ!」
春斗の行動に、女性が驚きを隠さず引き止めてきた。少女とは違い、この人は多弁のようだ。
ここは気を使って、邪魔しては悪いからと返した。
「そこは気を使って待っててよ」
気遣って本音は控えたのに、待つ気遣いなんてしたくなかった。
とりあえず引き止められたので、助けてくれるのかを尋ねてみた。
「助けるって云われても、何に困ってるのよ」
本心から助けてくれるようで、詳細を訊いてきた。正直、これにすがる手はないと思った。
死の森と云われている以上、二人だけでは心もとないので同行をお願いしてみた。
「え~、どうしようかな~」
すると、女性は嬉しそうな顔で焦らしてきた。
「私の下僕になるなら、一緒に行ってあげる」
そして、今度は態度をガラッと変えて、物凄く偉そうな態度を取ってきた。
あまりの変わりように、思わず漫才のノリでつっこんでしまった。無音のつっこみは、虚しさをかもし出していて、やはり音がないとつっこみの面白さは伝わらないことを学んだ。
「光栄でしょ」
これだけは個人的には、断固として拒否をしておいた。
「絶対イヤ」
それと同時に、少女も同じように断固拒否の意思を示した。
「なんでそこは二人で否定するのよ!」
これには女性が、悲壮な顔で勢いよくつっこみを入れてきた。その顔に同情心が芽生え、仕方なくこちらが低姿勢で同行をお願いすることにした。
「え~、どうしようかな~」
すると、女性が嬉しそうに身をよじりながら再び焦らしてきた。表情はわかりやすくて単純だが、性格は典型的な天邪鬼のようだ。
「しょうがないわね。一緒に行ってあげるわ」
女性は、嬉しそうな顔で了承してきた。性格は少し面倒臭いが、表情を見ればすぐわかるので、春斗としては扱いやすかった。
「名を訊いてなかったわね。私は、フローランス・アーミファンス。みんなは親しみを込めて、フローと呼んでいるわ」
春斗はフルネームを覚えられず、途中でもう一度名前を訊いた。
「・・・最初から親しみたくないってわけね」
意図的だと勘違いしたようで、苦笑いで顔を引き攣らせた。まあ、茶化しには成功したので、春斗も名前を教えた。
「変な名前」
フローランスから失礼な台詞が飛び出したが、これはさっきのお返しにも思えた。
「その人形には名はあるの?」
少女が気になるのか、食い気味に訊いてきた。
「S1415」
予想外なことに、少女がフローランスの質問に答えた。てっきり会話を拒んでいると思っていたので、答えるのには何か意図がある気もした。
「ふーん、番号なのね・・・呼びにくいから名を付けてあげたら?」
確かに、三人になると呼び方は必要になる気がした。
「なんだったら、私が付けてあげようか」
フローランスは自分を指差して、子供のような笑顔を見せた。
「その人には付けられたくない」
名付けは了承したが、フローランスの名付けをきっぱり拒絶した。
「なんで!」
これにショックを受けたようで、膝と両手を地面につけて項垂れた。なんとも流動的で、絵になるような綺麗な落ち込み方だった。
「か、可愛いものに拒否されると精神的にきついわね」
勝手に精神的外傷を負っているフローランスを横目に、春斗は腕を組んで少女の名前を考えた。
「呼びやすいのでいい」
漆黒の瞳を春斗に向けて、簡易的な名前を要求してきた。不思議と急かしているように見えた。
仕方がないので、身近で呼びやすい名前にしておいた。
「リン・・ね。なんで?」
いつの間にか立ち直っていたフローランスが、不思議そうに尋ねてきた。これについては呼びやすいからとしか答えられなかった。
「ふ~ん。まあ、私が考えたアンスリウムよりはいいかも」
フローランスの奇抜な名前を無視して、少女の方を向いて確認した。
「それでいい」
特に異論がないようで、その名前を無表情で受け入れた。
話がまとまったところで、肝心なことを訊いていないことに気づき、リンに死の森の所以について聞いてみた。
「出口付近に獣が一匹いる。その存在が死の象徴になってるみたい」
リンは、淡泊な云い方でそう答えた。
「あれは獣と云うよりは怪獣じゃないの」
リンの台詞を訂正するように、フローランスが話に入ってきた。確かに、獣と怪獣はニュアンス的に響きが違う気がした。
「響きだけだといいんだけど・・・」
春斗の考えに、フローランスが意味深な顔で目を泳がせた。
「それでどうするの?」
フローランスは頬を掻きながら、出口にある大木を遠目で見た。主語がないので、何についてかを訊き返した。
「怪獣をどうやって撒くの?」
地形も怪獣も見ていないので、わからないとしか答えられなかった。
「まあ、一理あるわね」
春斗の云い分に、フローランスが同調するように納得した。
「そういえば、どれくらい知っているの?」
さっきから主語がなくて、訊き返してばっかりだった。フローランスは多弁のようだが、あまり人としゃべらないのだろうと勝手に想像した。
「この森について」
この質問に対しては、リンに教えてもらったことをそのまま伝えた。
「まあ、私が知ってるのもそれぐらいかな」
情報としては、フローランスも似たようなもののようだ。
その後、フローランスはリンにしきりに質問していた。リンは何も答えないまま、無視し続けていた。さっきの呼び名に対して答えたのは、ただの気まぐれのようだ。
目的の大木に着いた頃には、春斗は吐き気を必死で堪えていた。歩くのに限界を感じて休憩を願い出た。
「え、出口はすぐそこなのに」
フローランスの気持ちもわかるが、今の春斗には休息が必要だった。吐き気を手で抑えて、近くの木影の根に座り込んだ。
「体力ないわね」
これには、ほっといてくれと云うほかなかった。リンは黙ったまま、春斗の隣に座った。
「しょうがないわね」
フローランスもリンに倣って、数十センチほど開けてリンの隣に座った。
春斗は何もない空の青い光を仰ぎながら、気分の悪さに耐えていた。フローランスの方は、リンに対して質問を諦めて黙っていた。しかし、リンの隣に座っているだけで嬉しいのか、彼女の表情は終始にやけていた。
休憩後、茂みから出口付近の様子を確認すると、出口は洞窟になっていて、その傍には獣が寝入っていた。
さっきの場所まで戻って、春斗は頭を抱えた。獣は獣でもあれは間違いなくキマイラだった。動物同士の継ぎ目は複数の腫瘍のように浮き出ていて、大変気持ちが悪かった。
「ね、怪獣でしょ」
困惑している春斗に、フローランスが強調するように云ってきた。個人的には怪獣というより幻獣だった。
「幻獣?いや実際いるし」
春斗が思考が漏れたようで、おかしそうに笑顔を見せた。
非現実的な事象を考えても栓がないので、どう切り抜けるかを二人に訊いた。
「さあ~?」
これにフローランスが首を傾けて、出口の方に目を移した。
「戦うしかない」
リンは、無表情のまま春斗を見つめた。
あの巨体な獣と戦っても勝ち目はない感じだったので、これは素直に無理だと答えた。
「じゃあ、どうするのよ」
フローランスの考えなしの訊き方に少し苛立ちを覚えたが、寝ている横を忍び足で通ることを提案してみた。
「それじゃあ、死の森なんて呼ばれないんじゃない?」
フローランスが呆れた感じで、それを一蹴してきた。確かに、獣の感覚を侮るのは危険極まりなかった。
仕方がないので、攪乱作戦に切り替えることにして、この中でも素早いリンにお願いした。
「わかった」
リンは拒否することなく、淡泊に了承した。
「え、どういうこと?」
フローランスはついてこれないようで、不思議そうに訊いてきた。伝え方が悪かったと感じ、もう一度丁寧に説明した。
「貴方がやらないの?」
どうやら、伝わっていないのではなく、なぜリンなのかが疑問だったようだ。
リンの身体能力をわかっていないようなので、フローランスにそれに至った経緯を説明した。
「云いたいことはわかったわ。でも、そんな安易でいいの?二人で攪乱した方が、一人は確実に逃げ切れるんじゃない?」
その提案には、即座に却下した。自分は戦力にならないし、フローランスの実力も知らない以上、それは危険な判断だと思った。
「決断はや!」
あまりの拒否の早さに驚きの反応を示したが、ここは敢えてスルーした。
さっきの場所まで戻り、寝入っている獣を確認した。体長は3mぐらいで、ライオンの頭と山羊の頭、尻尾は蛇だった。継ぎ目は細胞を強制的にくっつけたように腫瘍ができていた。それは言葉にもできないほど、本当に気持ちが悪かった。
現実を再認識して、思わず溜息が漏れた。目をギュッとつむりゆっくり瞼を開けて、気持ちを引き締めた。
作戦開始を告げると、リンが茂みから勢いよく飛び出した。その速度は、人間の速さを軽く超えていた。リンの服が草と擦れたが、音が聴こえなかったのが若干気になった。
リンの動きに反応したのか、獣がすぐに跳ね起きた。音がないので、視覚か嗅覚で気づいようだ。
獣がリンの方を向いて、前足で襲い掛かった。
リンはそれをかわして、距離を保ったまま洞窟から離れていった。それを見て、春斗とフローランスは互いを見合って頷いた。
できるだけ死角に入るように洞窟の方に走ったのだが、山羊の視角は広くすぐに気づかれてしまった。
尻尾の蛇が、こちらに口を開け襲ってきた。やばいと思うと、蛇の動きが止まった。よく見ると、尻尾の長さが全然足りなかった。尻尾短っ!と思わずつっこんでしまったが、声にはならず無音が場を包んだ。
走る速度は緩めず洞窟に入ると、中は薄暗く足元が見えるぐらいの明るさしかなかった。登り坂の奥に幽かな光が見えた。空気はじめっとしていたが、急に呼吸が楽になり、頭痛と吐き気と眩暈が一気に解消した。
「ちょっと遅すぎるわよ!」
爽快の気分になったところで、後ろから文句を云われた。
フローランスに横に並ばれたところで、全力で走ってると伝えた。革靴なので、全力で走れないのは大目に見て欲しかった。
「え、本気で?」
春斗が本気だと云うと、リンが追いついてきた。
後ろを向くと、ライオンと山羊の頭が口を開けて炎を吐いてきた。なんで口から火が吐けるのか一瞬だけそこに思考が移ったが、熱さが迫ってくると、全速力で炎から逃げた。
すると、フローランスが速度を落として、春斗の後ろについた。
「貴方たちは先走ってて」
春斗が後ろを向くと、フローランスが足を止めて炎の前に立ち塞がった。彼女が両手を前に突き出すと、炎が彼女の前で霧散していった。
炎が弱まったことを確認したフローランスは、再び走り出して春斗に追いついてきた。
何をしたか訊くと、空気の成分の比率を変えただけ云ってきた。これには理解できず、自然と眉を顰めた。
「それより、まだ追ってくるわ」
云われて後ろを向くと、獣がかなりの速度で追ってきた。出口までかなり距離があり、正直逃げ切れるとは思えなかった。
一本道での攪乱は無理だと悟り、春斗は徐々に速度を落とした。
「ちょっと、どうしたのよ」
フローランスも速度を落とし、春斗と並走した。
体力の限界を感じた春斗は走るのを止め、二人に先に行けと云った。
「え、どうして?」
驚いたフローランスに、逃げ切れないと告げて獣の方に振り返った。
「なら、私がやる」
リンがUターンして、春斗の横に来た。
ダメだと云うと、リンが無表情でこっちを見つめてきた。雰囲気的に睨んでいるのがわかった。
「約束、破る気?」
これには悪いと伝え、フローランスにリンを頼んだ。
「わかったわ」
フローランスは、リンの服を掴んで走り出した。その速さに驚きながら、正面に迫ってきている獣と対峙した。
現実だと認識して深呼吸すると、死への恐怖で全身が震えだした。その震えを抑える為、拳を顎まであげて中腰になって構えを取った。
獣は、無造作に左の前足を振り下ろしてきた。これには反射的に後ろに下がったが、頬を掠めた。
戦ったことのない春斗には、距離感がいまいち掴めずにいたが、思っていた以上の速さに、目を見開いて驚いた。見えなくもないが、このバランスの悪い巨体にしては速すぎだった。
春斗の驚きを意にも介さず、獣がすぐ右前足で薙ぎ払ってきた。これはかわしせないと判断した春斗は一歩前に出て、腰を回し右フックを肉球目掛けて打った。
最期の悪あがきであった拳は、獣の右足が弾かれるというありえないことが起こった。
『えっ!』
これには思わず声が漏れた。そして、その言葉が自分の耳に届いた。声が出たことと、獣の右足の異様な軽さに困惑した。それは獣の方も同じだったらしく、右前足を浮かせたまま動きを止めていた。
困惑から先に立ち直ったのは、春斗の方だった。
すぐに左前足に向かって、思いっきり回し蹴りを放つと、獣が両前足が地から離れ、そのまま春斗の前に倒れ込んできた。
それに合わせるように、中腰で右手を下から上に突き上げて獣の顎に直撃させた。
その瞬間、内部からピシッと音がした。
春斗が後ろに下がると、獣はそのまま地面に倒れた。ここまでの攻撃で、獣の重さは異常なほど軽いことがわかった。
『っ!』
春斗は、右手を押さえて苦悶の顔になった。軽いことは軽いのだが獣の骨はかなり硬く、中指にひびが入ったようだ。
獣は、その場に伏せたまま動く気配がなかった。
それを確認した春斗は出口に向かって、右手を押さえて走り出した。
すると、山羊の頭が口を開け、突然火を吐いた。
『げっ!』
それを見て、全速力で逃げた。火はさっきより勢いはなく、距離が離れるとそこまで火は届くことはなかった。それに安堵して、速度を落として出口を目指した。
出口に近づくにつれ、徐々に幅は狭くなり、人一人がやっと通れるようになっていた。
外に出ると、フローランスとリンが待っていた。それを視認した春斗は、その場で倒れこんだ。もう体力の限界だった。
『あ~しんどい』
春斗は、大声で叫んだ。その声が自分の耳に届いたのが嬉しかった。
二人は、顔を見合わせ首を傾げていた。どうやら、言葉の意味がわからなかったようだ。
「大丈夫なの?」
状態を聞かれたので、頬のかすり傷と指にひびが入ったことを申告した。
「それだけで済んだの?」
これには驚いたようで、フローランスが目を見開いた。
「まあ、軽傷で済んで良かったわね。さっさとそれ治したら?」
その台詞に理解できず、戸惑いながらフローランスを見上げた。
「えっと、何その表情?」
フローランスの戸惑いの表情を見て、ひとまずできることは自然治癒だけだと云っておいた。
「だから、それをやればいいじゃない」
この返しには、再度フローランスと視線を合わせた。
お互い噛み合ってないようなので、自然治癒では1ヶ月は掛かると教えておいた。
「イッカゲツ?それ何?」
しかし、時間の単位が伝わらなかった。これにはお互い沈黙した。
ここでは時間の単位がないのか訊いてみた。
「え、時間の単位?タウのこと」
初めて聞く単語に、思わず復唱した。
「時間の単位はタウよ」
太陽がないからか、基準が違うようだ。
1タウはどれくらいかを尋ねてみると、フローランスがしばらく黙り込み、突然目を見開いてこれぐらいと叫んだ。
「これが、1タウの目安」
突然のことで、時間を測っていなかったので、もう一度お願いした。
「え~、また~?」
これには不満げな顔をしたので、謝りながら頼んで見ると、少し嬉しそうな顔で了承してくれた。自分なりに測ってみると、二十秒ぐらいが1タウだった。
「で、イッカゲツってどれくらいなの」
単位が明確になったところで、フローランスが話を戻してきた。計算が面倒なので、当分は治らないとだけ答えておいた。
「そんなに掛かるの?」
すると、フローランスが口に手を当てて、驚きの仕草をした。
「じゃあ・・・私が治してあげようか」
何を思ったのか、少し躊躇いがちにそんなことを云ってきた。
フローランスが医者なのか疑問に思ったが、できるのかと訊いてみた。
「最近はご無沙汰だけど、それくらいの軽症なら簡単にできると思うわ」
フローランスの台詞に違和感を覚えたが、この世界ではどう治すのか気になったので、頼んでみることにした。
「任せて!」
この後、春斗は一生分の後悔をするほどの体験をするのだった。
第三話 集落
『熱、痛い!アヅッアヅッイタいだだだーーーー!』
春斗は、あまりの激痛で大声で叫んだ。今までに感じたことのない神経が焼き切れる感覚だった。
「ああ、うるさい!集中できないじゃない!」
フローランスの治療はただ手を当てているだけなのだが、彼女の手の温度が尋常じゃなく上がっていき、さらに電気を流されているように激痛が走った。
痛すぎるから加減してくれと、心の底から懇願した。
「無理よ」
が、あまりにも無慈悲な返事が返ってきた。
他に方法はないかと訊くと、悩んだ仕草をしてから麻薬の投与を提案してきた。
「でも、ダメね。自分にならできるけど、相手にそれをやると、後遺症が残る可能性あるし、体質によって量が違うからね」
それは重々承知しているが、フローランスが持っている麻薬の種類が気になり、彼女にそれとなく訊いてみた。
「塩酸ジアセチルモルヒネ」
『ヘロインじゃねぇ~か』
これには堪らず声でつっこみを入れてしまった。フローランスは聞きなれない声に、耳を抑えて不愉快そうな顔をした。
「痛みはかなり軽減できるけど」
テレパシーも一緒に伝わったようで、フローランスから的確な答えが返ってきた。
ヘロインの危険性を強い感情で、フローランスに訴えた。
「だから、後遺症が残るかもって云ってるじゃない。あと依存症も出るかも」
あまりに済ました顔で云われたので、思わず感情的になってしまった。
「それならどうすればいい訳?」
ここは麻酔にするべきだと思い、積極的かつ食い気味に云ってみた。
「塩酸ジアセチルモルヒネ」
なのに、同じ答弁が返ってきた。
『だから!そうじゃなくて!』
再び感情的に声を出すと、フローランスが渋い顔で耳を塞いだ。
「え、じゃあアヘンとか?」
別な物があるなら、こっちからモルヒネはないかを訊いてみた。
「できるよ。でも、どれくらいの量を投与するの?」
この返しには、知らないとしか答えられなかった。医療をかじっていない春斗には、精確な分量はわからなかった。
「なら、投与できないじゃない」
これには呆れ顔をされてしまった。
「後遺症と依存症を覚悟するならできるけど」
そんな覚悟はできないので、治療を諦めようと思ったが、激痛の走る手の甲を見ると、傷が深く骨が露わになっていた。血が出ないのは、高熱で焼かれたせいだと思われた。この状態では、自然治癒での完治は無理そうに思えたので、麻酔なしでの治療を頼むほかなかった。
春斗は覚悟を決めて、リンに腕を押さえてくれと頼み込んだ。体重の軽いリンでも、いないよりはマシに思えた。
「わかった」
リンは、春斗の右腕を両手で押さえた。それを見たフローランスが、驚きの表情をした後、羨ましそうな顔になり、最後には悲しそうな顔をした。
「もう音は出さないでよね。うるさくて集中できなくなるから」
フローランスは、気を取り直すように真顔になって注意してきた。どうやら、声のことを云っているらしい。
努力すると伝えると、フローランスが手を当てて目を閉じた。春斗も痛みをできるだけ感じないように、視覚からの情報を断ち切った。
それから、春斗にとっては拷問の時間だった。痛みと熱さで何度も失神するが、激痛ですぐに覚醒させられた。
この繰り返しがしばらく続いた。なんとか呻き声だけで耐えた。
「ふう、終わったわ。って、なんでこんなに濡れてんの!」
『おまえのせいだよ!』
汗だくで息を切らせながら、精一杯の声でつっこんだ。指の痛みは完全になくなったが、こんなヒーリングはもう二度と頼まないと、心の中で強く誓った。
春斗は、汗を拭いながら周辺を見渡した。風景はさほど変わらなかったが気持ち悪さはなくなっていた。どうやら、この場所はさっきの森とは酸素濃度が違うようだ。この世界の大気は、地形で違うのかと疑問に思った。
どこかに休む場所はないか周りを見渡したが、特にそれらしいものはなかった。
「近くに集落があるけど」
すると、フローランスがそれを察してくれたのか、右側を指さしてそう云ってきた。
当てもなく森を徘徊するのは嫌なので、すぐさまそこに向かうことにした。
「決断はや!」
春斗のつっこみに感化されたのか、フローランスの鋭いつっこみが飛び出した。
他にあるのかと訊くと、視線を逸らしてないと云い淀んだ。それが少し気になった。もう疲れたので、スルーすることにした。
『そういえば、お腹も空いたな』
気が抜けると、お腹が空いていることに気づいて、自然と声に出していた。
「はっ?」
これがフローランスに伝わったのか、驚愕の表情をされた。
「あ、ああああああああああああ貴方、今なんって云ったの」
出会って一番の動揺を見せながら、数歩後ずさった。この反応には、どうしたのかと訊かざるを得なかった。
「今、とんでもないこと云ったでしょう」
そう云われても、お腹が空いたとしか云っていなかった。
「あ、ああ、貴方、もしかして何か食べるの?」
フローランスは動揺が抜けず、しどろもどろで訊いてきた。
何か変なのかと尋ねると、動物じゃんと変な返しが返ってきた。これには人も動物だろうと、当たり前のことをフローランスに返した。
「そうだけど、そうじゃなくて。ああ、ごめん。ちょっとじゃくてかなり混乱しているから、しばらく黙ってて」
フローランスは後ろを向き、木に手をついて目を閉じて黙考した。
しばらくして、フローランスがこちらを振り返った。
「えっと、貴方は異世界の人なの?」
この的確な台詞には、ちょっと驚いてしまった。
「そう・・なんだ」
フローランスはそう云いながら、一瞬だけ嫌な顔をした。リンの反応ではわからなかったが、やはり異世界人は珍しいようだ。
「ええ、かなりね。怪獣ぐらい珍しいわ」
思ったことが漏れたようで、フローランスがその場を行ったり来たりして、なんとか平静さを保とうとしていた。
「大事なことを訊くけど、貴方にとって食べるという行為は、生命の維持のためよね」
当たり前なことを訊かれて、当然だと答えた。
「要するに、自分では肉体を維持できないってこと?」
これにも間違いではないので肯定した。
「有機物からしか栄養を摂取できないってことよね」
しつこい質問に少し苛立ってしまった。
「そうなんだ。なるほどね」
一方的な質問が終わると、フローランスは深い溜息をついた。
一通り答えたので、今度はこっちが訊く側に回った。
最初に訊くのは、この世界の人は、食べなくても肉体保持ができるかだった。
「できるわ」
これには当然のように答えてきた。話の流れで予想はできたが、この世界での人の在り方は全然違うようだった。
「私たちは食べるという行為はしないわ」
食べずにどうやって維持しているのかは、個人的にも是非聞きたかった。
「体内で生成している」
人間の進化を異世界で見るとは予想もしてなかったが、この経験は凄く好奇心を掻き立てた。
「むしろできないの?」
そう思っていると、フローランスから逆に質問された。
「云っとくけど、集落に食べ物はないわよ」
春斗が答える前に、そう釘を刺された。
これには困って、どうにかならないかと訊いた。
「貴方、人に頼りすぎ」
フローランスは、呆れ顔で大きく息を吐いた。
ここで引き離されると、野垂れ死にしそうなので、誠意を込めて頭を下げてお願いした。
「・・・しょ、しょうがないわね」
すると、嬉しそうな笑みを噛み殺すような顔で受け入れてくれた。思いのほか、フローランスには効果あったようだ。ここにきて、就活の低姿勢が役立つとは思わなかった。
「一旦、集落へ行ってから話しましょう」
フローランスが歩き出したので、春斗もそれに続いた。
「あと、食欲があることは他の人には云わないほうがいいわ」
これには首を傾げて、理由を尋ねてみた。
「殺されるか、生け捕りにされて、人体実験される可能性があるわ・・・」
最後に何かか細い電波が入った気がしたが、雑音みたいで聞き取れなかった。命に関わるようなので、リンに口止めすると無表情で頷いてくれた。
「それから、二人は私の下僕ということでいいわね」
先頭を歩いていたフローランスが、振り向いて傲慢なことを云い出した。
これには絶対嫌だと反射的に強く思った。
「絶対イヤ!」
リンもそう強く主張し、ここでも二人の思いが一致した。
「だからなんで否定だけ重なるのよ。しかも、前より強調されてるし!」
フローランスはつっこみを入れるように、身振り手振りをまぜて云ってきた。この世界でも、つっこみの仕草は一緒で少し嬉しかった。
「じゃあ、フリでいいわよフリで!」
傲慢な態度から一転して、投げやりな態度で設定を変更した。わざわざそれをする意味がわからず、何かあるのかと訊いてみたくなった。
「リンちゃんが問題よ」
思考が伝わったようで、フローランスが気まずそうにリンを流し見た。リンの問題より、フローランスの呼び方が気になってしまった。
「私は可愛いものには、敬称をつけて呼んでるのよ」
貴族のようなフローランスが、ちゃん付けはかなり似合わなかった。というか、この世界でも敬称があることは驚きだった。
「その顔やめてくれない?」
春斗の表情が気に入らないようで、不愉快そうに抗議してきた。
「その呼び方はやめて欲しい」
フローランスの反発を遮るように、リンが無表情で断った。
「う、ぐっ、い、嫌よ!これだけは譲れないわ」
リンの拒絶に怯みながらも、断固として我を通してきた。これ以外は受け入れられるのかと内心で驚いた。
「高度な返しをするのね。とにかくこれは私のルールみたいなものだから」
漏れ出た春斗のボケに怯みながらも、自分の主張は曲げない意志を示した。
「はあ~」
リンは、無表情な顔で大きく溜息をついた。しかし、その仕草が慣れてないのか動作がぎこちなかった。
「話が逸れたけど、とにかく集落の人たちは人形に恐怖を抱いているわ。もしそのまま行くと、騒ぎになるか戦いになるわ」
確かにそうなると、かなり面倒に感じた。その為には、人を欺くのも仕方ない気がした。
「欺くとか人聞きの悪いこと云わないでくれない。これはあくまで偏見の目を逸らす為なんだから」
それは同じだろうと思ったが、それは留めておくことにした。
「なんか表情が癇に障るけど。そういうわけだから、私の下僕ということにしておけば、波風は立たないわ」
フローランスの云い分に納得したので、リンにも了承してもらった。
「ああ、それと、貴方の電波どうにかならない?」
しばらく歩いていると、フローランスが思い出したように春斗にそう云ってきた。
「貴方の電波は、かなり広範囲に届くのよ。これじゃあ、周囲に会話がダダ漏れよ」
これはテレパシーじゃないのかと訊き返すと、怪訝そうな顔で何それと云われた。
「私たちの会話は電波よ」
思っていた答えとは違い、頭が真っ白になった。考えることをやめ、理論的な説明を求めた。
「今してるじゃない」
なのに、理論ではなく現実を直視させてきた。
春斗は電波を受け入れたくなくて、必死でテレパシーだと訴えた。
「だから、テレパシーって何よ」
が、フローランスに変な目で見られてしまった。こっちでは電波よりテレパシーの方が変な目で見られるようだ。
春斗は、テレパシーの詳細をフローランスに教えた。
「貴方、そんなことできるの?」
フローランスは、呆れたようにそう指摘してきた。これにはできないとしか答えられなかった。
「私もできないわよ」
「・・・」
「・・・」
二人は、見合ったまま沈黙した。
混乱した春斗は、目を見開いて大げさにこの会話はなんだと自問した。
「だ・か・ら、電波だって云ってるじゃん!」
同じやり取りに、フローランスがかなり苛立って眉を顰めた。
春斗は電波は受信できないことを主張して、フローランスと睨み合った。
「今、会話できてる。それでいいと思う」
それを見兼ねたのか、リンが横から割って入ってきた。結論は出そうになかったので、やむなく引くことにした。
「まあ、とにかく広範囲での話はやめて」
そう云われても、こちらとしてはどう調整していいかわからなかった。
「私が教えてあげるわ。それより、さっきから口が動いているけど、それは何?」
ずっと気になっていたようで、不思議そうな顔をされた。
春斗は、自分の世界では音で会話することを教えた。
「ああ、さっき出していたやつね。口から音波を出せるなんて凄いわね。私には無理よ」
それより肉体維持の方が凄いと感じた。
「まあ、お互いにない物ねだりね」
漏れた電波に納得するように、それで場を収めた。
「で、電波の範囲の狭め方はわかる?」
普通に知らないので、教えてもらうことにした。
「伝達は電波を発生させて拡散して、相手の頭に直接伝えることだけど、それはわかるわよね」
ここで知ったかぶりしても後々恥をかくだけなので、堂々と全然理解できないと伝えた。
「よくそんな態度取れるわね。何がわからないの?」
フローランスの呆れ顔を無視して、春斗は拡散方法がわからないと云った。
「なら、今やってることに自覚がないって訳?」
これはその通りで、電波送受信の感覚なんてわかるはずもなかった。
「それでよくしゃべってきたわね。ある意味関心するわ」
感心されたので、照れることにした。
「・・・あまり褒めてないんだけど」
ここまでのやり取りでのフローランスの表情は、終始呆れ顔だった。
話が逸れそうなので、強引に話を戻した。
「まずは、電波は電磁波の低周波のことで・・・」
電波はだいたい知っているので、電波の拡散方法に訊いた。
「あ、電波は知っているんだ」
これには驚いたように感心された。
「拡散は、波長の方程式を使うわ。だいたいの電波の周波数30MHzから1500MHzよ。まあ、空間で云うなら10mから0.5Mぐらいかな」
春斗は足を止めて、フローランスの云っていることを理解しようと思考を巡らせた。
「どうしたの?」
すると、フローランスも足を止めて振り返った。
考えた結果、方程式を解きながらしゃべっているのかと疑問に思った。
「ええ、そうだけど慣れれば感覚でわかるようになるわ。まあ、理論的に話している人なんていないんだけどね」
感覚で話すのは、声とは変わらないような気がした。
方程式の求め方は知らないので、これは素直に教えてもらうことにした。
「え、それは知らないの?」
電波は知ってるので、これも知っていると早とちりしたようだ。
「はあ~、わかったわ」
フローランスはその場でしゃがみ込んで、地面に枯れ木で文字を書き出した。
「これが空間の単位と代数ね」
フローランスが円で囲んだ部分を指したが、春斗には何を書いているのかわからなかった。文字は象形文字みたいで、アルファベットと呼べなくもないような形をしていた。
「そっか、世界が違うもんね。文字だけじゃ駄目か。仕方ないわね」
枝で文字を指しながら、一つ一つの文字を解説していった。
「わかった?」
こればかりは何となくとしか答えられなかった。しかし、式の解が電波になるのはどうしても納得ができなかった。
「え、でも身体って微量だけど電気で動いているし」
そう云われればそうだが、電波を伝えるとなると別の話だと思った。
「・・・ちゃんと理解できた?」
何か云いたそうだったが、諦めて春斗の理解度を確認してきた。
ここまでの話を総合してみると、数式の解を脳で算出して、その脳から体内に流れる電気で、影響される範囲と磁場の範囲を決めて、電波を発生されるといういい加減な論説を立ててみた。
「なんだわかってるじゃない」
どうやら、正解を云い当てたみたいだった。正直、全く理解できていなかった。
「まあ、そういうわけだから、集落に着くまでには習得しておいてね」
電波を発生させている自覚もないのに、軽々しく云って欲しくはなかった。
「実際、簡単なんだけど。できないなら、集落についたら黙っててね。ややこしくなるから」
春斗の思考が電波に乗ったようで、溜息交じりに注意してきた。
仕方がないので、リンに手伝ってもらうことにした。
「わかった」
特に文句も云わず了承してくれたので、少し離れて電波が届くかの確認を頼んだ。
歩を進めながら、リンに確認させると10メートルの範囲で電波を飛ばしていることが確認された。
春斗は集落に着くまでの間、電波の範囲を調節して、リンの位置を変えながら確認してもらった。
「まあまあね。これぐらいできればいいかな」
正直な話、こうも神経を使ってまで話したいとは思わなかった。
この間、長い距離歩いたが全然集落は見えてこなかった。少し疲れてきたので、まだ着かないなのかとフローランスに訊いてみた。
「そろそろ着くわ」
しばらく歩くと、急に森が開けた。集落は塀で囲まれていて、こちら側からは見えなかった。
入り口を探している春斗を見て、フローランスが森の方に出入り口は作らないと呆れたように云ってきた。
入り口の方に回り込むと、門はなく門番もいなかった。
これは少し不思議に思い、なぜ門がないのかを訊いてみた。
「入り口には、動物避けのマーキングしてるから問題ないのよ」
一応、動物避けは万全なようだった。
「それより、ここからは私の後ろからついてきてよ」
春斗が渋々フローランスの後ろを歩くと、その後ろからリンも続いた。集落は、古い木材で造られた家が20件ぐらいで廃れたような雰囲気だった。
歩いていると、二人の男がこちらに気づき、驚愕の顔でその場に立ち尽くした。そういう態度の人が多く見られた。リンよりフローランスに対しての反応が多いような気がした。
誰も話しかけてこない人たちを見て、まるで自分のような人見知りばかりで僅かに共感が持てると、勝手に思い込んだ。
「貴方のどこが人見知りなの?」
それが電波に乗ったようで、フローランスがわざわざ春斗の方を振り返って怪訝な顔をした。
仕方がないので、見ればわかるだろうと胸を張った。
「全然わからない」
しかし、歩きながらきっぱりと切り捨てられた。
考えてみると、ここは電波を使っているので、人見知りだと伝わりにくいんだと云い訳してみた。
「それと人見知りがどう関係するのよ」
これに対して食いついてきたので、ここは勢いに任せて、自分の声が不快と適当なことを云った。
「え、不快なの?」
追求されたので、日頃の声の不都合を愚痴り、最後に人と話すことが嫌になったことを伝えた。
「よくわからないけど、大変なんだね。でも、それと人見知りと関係がない気がするけど」
それには人と話さないという点では、人見知りと変わらないと云った。
「まあ、主旨とは違うと思うんだけど」
話しながら歩いていると、一人の男が前に立ち塞がった。細身だったが、少し筋肉質の男だった。
「久しぶりだな。フロー」
男は、険しい顔で話しかけてきた。
「久しぶりというほどでもないわね。というか、今はここを根城にしてるのね」
「まあな。で、なんの用だ」
「ただ泊まりに来ただけよ」
「後ろの二人・・というのは語弊があるな」
「語幣はないわ。二人は私の下僕よ」
「人形を下僕にしたのか。凄いな」
男は、驚きと感心が入り混じった表情でリンの方を流し見た。それは少しだけ演技っぽく見えた。
「貴方たちみたいな渡り鳥とは違うからね」
「相変わらず嫌味な人だ」
不満そうではあったが、否定もしなかった。
「ふん。云われたくないなら、自分たちで行動してみなさい」
「手厳しい意見だな。私一人ならなんとかしたいが、家族がいるとそうもいかなくなる」
どうやら、この集落には家族がいるらしい。
「その云い訳は聞き飽きているわ」
フローランスは、溜息交じりで呆れ顔をした。
「それより、その人形は危害はないのか」
「ここまで来て、被害がないことで証明しているわ」
「そうだな。空き家は好きに使えばいい」
「最初からそのつもりよ」
男は、そのまま横の家に入っていった。
「どうして黙ってたの?」
それを見送ってから、フローランスが不思議そうに春斗を見た。これには人見知りだと云い訳をしておいた。
「本音は?」
この追求には、思わず本音で超怖かったことと、凄い威圧感で何も訊けなかったと伝えてしまった。
「弱!」
この弱気の本音には、呆れ顔でつっこまれてしまった。
「とても人形を従えているとは思えない台詞ね」
ここは聞き流せないので、語弊があると強く訂正を求めた。
「そうだったわね。それは謝るわ」
訂正してくれたところで、ここの人たちの服装のことをフローランスに訊いてみた。彼らは全員同じ色の服を着ていたが、さっきの男は少し色のデザインが違っていた。
「ああ、あれは民主の色よ」
この世界にも、民主主義が根付いていることに少し驚いてしまった。
「主義ではなく組織の名前よ」
が、単なる組織の名前のようだった。
「いわゆる争うための組織ね」
しかも、最悪なことに戦争の為の組織だった。
「ここでは諍いが絶えないわ」
諍いという台詞には、かなり違和感を感じたが、あまり深くは訊きたくなかった。
「とにかく、空き家に入りましょう」
フローランスは一番奥の家に歩いていき、扉を開けて中に入った。外観は古びていたが、中は改装されていて思いのほか綺麗だった。ベッドは2つで、更衣室とシャワー室があるぐらいだった。食事をしないなら排泄もしないはずなので、これだけで十分なのだろう。
ベッドはマットレスで手で押してみると、弾力で沈まなかった。思いのほか、寝具は発展しているようだった。
「そうそう、貴方は食という行為が必要なのよね」
フローランスは、ベッドに腰掛けながらそう切り出してきた。
「具体的に聞きたいわ。主に何を摂取してるの?」
これにはタンパク質、脂質、糖類、ミネラル、ビタミンの順に教えた。
「ミネラルとビタミンの区分と、一回の摂取量を教えて」
春斗は、それらを事細かく教えた。
「ふうん。結構多く摂取するのね」
この勘違いは訂正するべきだと思い、理想の数字だと伝えた。
「そうなんだ。かなり詳しいのね」
これは大学で学んだことなので、感心されることでもなかった。
「大学?」
この世界には大学ないようなので、学び舎とだけ答えた。
「へぇ~、そういう所あるんだ」
フローランスは考え事をしているのか、軽い感じの受け答えだった。
「とりあえず、今云ったものを摂取すれば食はしなくていいのよね」
学術的にはそうなるが、その栄養分をどこで摂取すればいいかが問題だった。
「貴方たちの世界でも錠剤とかはあるの?」
突然、フローランスが手をすり合わせてそんなことを訊いてきた。
「私が栄養の錠剤は生成するから。食はこの世界では控えて欲しい」
これには疑問符しかつかなかった。
「ふう、まあ見てて」
そう云うと、フローランスは拳を軽く握り目を閉じた。
数分後、フローランスが目を開けて、握った手を開いた。そこには錠剤が数十個があった。
「はい」
差し出された手に困惑して、春斗は動くことができなかった
「貴方が教えた栄養と、その摂取量の錠剤よ」
これには驚愕するべきか、怪しむべきなのか悩んでしまった。
数秒だけ考えた結果、後者を選んで今作ったのかと訊いた。
「当たり前よ。見てたでしょ」
フローランスの不愉快な表情を見て、申し訳ないと思ってしまった。
「とにかくこれで我慢して」
春斗は感謝して、錠剤を受け取ることにした。念の為、味があるかだけは訊いてみた。
「あじ?何それ?」
すると、不思議そうな顔をされた。どうやら、ここの人は味覚というものがないようだ。まあ、食事をしないのなら当然と云えば当然のような気がした。
錠剤なので、水分も欲しいと我儘を云ってみた。
「その栄養剤に入っているわ。噛めば水分が多く出てくるから。本当は消化促進に含めたけどね」
ここまで便利なのには感心してしまった。
「簡単に云ってくれるわね。結構、これ体力使うのよ。とりあえず、これを定期的にやっていきましょう」
フローランスの気遣いに感謝の意を込めて、深々と頭を下げてお礼を云った。
「お、お礼はいらないわ」
これにフローランスが、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
春斗が軽く錠剤は噛むと、口の中で一気に水分が広がった。味はなく、口の中の水分でそのまま飲み込んだ。
食べた感じはなかったが、食事が確保できたと思うと安心感が出てきた。
今度は身体を洗いたくなり、シャワーは浴びれるかをフローランスに訊いてみた。
「大丈夫だと思うわ。あ、でも、間違っても大量に摂取しないほうがいいわ」
水に含まれる成分を思い出したのか、そんなことを云ってきた。これにはなぜかと訊く必要があると直感で思った。
「さっき聞いた限りだと、貴方にとってここの水は有毒だから。大量に含んだらアウトと思っていいわ」
そうなると、フローランスは大丈夫なのかと流れで訊いた。
「ええ、抗体があるから問題はないわ」
どれだけの毒素を含んでいるか気になったが、訊いても不安にしかならないので、敢えて訊くことはやめておいた。
春斗は理不尽さを覚えながら、更衣室で服を脱ぎシャワー室に入った。
蛇口を捻ると、透明な水が出てきた。春斗は、口を開かないように全身を洗い流した。石鹸もシャンプーもないので、顔に水が掛からないように慎重に髪を洗った。
一通り終わると、拭くものがないことに気づいた。
仕方がないので、更衣室から拭くものがないのかをフローランスに投げかけてみた。
「あるわけないじゃん」
こっちとしては重要なことだったが、フローランスからは予想通りの返事が返ってきた。思い返しても、この家にタンスや収納ボックスは見当たらなかった。
「乾くのを待つか、濡れたまま服を着るかのどっちかよ」
もうここまで頼ってしまうと、恥ずかしさはなく他の方法を尋ねた。
「はあー、注文が多いわね。服着たら出てきて」
春斗は云われるがまま、Yシャツとパンツスーツ姿で上着は着ずに更衣室から出た。服が濡れて、皮膚に張り付いて信じられないほど不快だった。
フローランスがこちらに歩み寄ってきて、正面に立ち胸の辺りに手を当てて目を閉じた。
すると、服の水分が一気に蒸発した。これには普通に凄いと感心してしまった。何気にフローランスを見ると、疲労困ぱいの顔で息切れしていた。
春斗が気遣うと、フローランスは大丈夫じゃないと首を横に振って、くたびれた顔で深呼吸していた。それを見ると、髪も乾かして欲しいとはとても頼めなかった。
「今度は、私がシャワーを浴びるわ」
フローランスは疲れ切った様子で、ゆっくりと更衣室に入っていった。
髪が濡れているのはやはり不快なので、目の前にいるリンに乾かせるか尋ねてみた。
「やってもいいけど、髪もなくなると思う」
これを聞いて、すかさず諦めることを即決した。室内は思ったより肌寒いので、上着は羽織ることにした。
春斗はベッドに腰掛けて、リンにも腰掛けるよう促した。
リンが隣に座ったところで、これからのことを話したいと切り出した。
「どんなこと?」
リンは相変わらず、無表情でこっちを見上げた。
大まかな道筋として、できるだけ組織というのには関わらないことを伝えた。
「それは無理だと思う」
が、考える素振りすらなく否定してきた。
「ほとんどの集落は、どこかの組織の息がかかっている」
聞く限り、組織は長年からあるようだった。これには八方塞りな感じがして、深い溜息が出た。
すると、フローランスが更衣室から出てきた。服も髪も濡れていなかった。
「はあ、さっぱりした。ん?どうかしたの」
春斗の表情を見て、フローランスが首を傾げた。シャワー浴びただけで、元気になっているのが気になったが、今は自分の状況を伝えておいた。
「それよりもう寝ようか」
訊いておいて、その対応には少しイラッとしたが、眠いのは間違いなのでこちらも流すことにした。
「リンちゃん、一緒のベッドで寝ようか?」
フローランスがベッドに座り、満面な作り笑顔でリンを誘った。
「イヤ」
しかし、即答で拒絶した。
「うぅぅ、だよね」
フローランスは、かなり傷ついた表情で項垂れた。
「というか、そんな変な格好で寝るのか?」
「変って。可愛いでしょ、これ」
フローランスは立ち上がって、服を見せつけるように一回転した。よほど、この服が気に入ってるようだ。
可愛いとは思えなかったので、肯定の返事が小さくなってしまった。
「何よ、その小さい電波!この服、可愛いでしょ!」
可愛いと云って欲しそうなので、精一杯の演技で褒めてみたが、電波に感情を込めることが難しかった。
「はあ、もういいわよ」
フローランスは不貞腐れて、ベッドに横になった。
諦めてくれたところで、リンはどうするかを訊いた。
「私は、睡眠をとらない」
これを訊くと、本当に人じゃないという実感が沸いてきた。
髪が濡れて気持ち悪かったが、今は寝ることに集中した。しかし、なかなか寝つけず目を開けて寝返りを打つと、リンは立ったままこちらをじっと見つめていた。
これには堪らず、リンを呼んだ。
「何?」
枕元に来たリンに、視線が気になると云った。
「気にしないでいい」
そうは云っても、こちらが気になるのでどうにかして欲しかった。
「どうすればいい?」
リンに案がないようなので、横になってはどうかと提案してみた。
すると、リンは床に横になった。さすがにそこに横になられるのは気が引けるので、自分の横でいいと横にずれてスペースを開けた。
リンが靴のままベッドに上がろうとしたので、靴は脱げと注意した。
「注文が多い」
これにリンが文句を云って、靴を脱いでからベッドに横になった。
「これで良い?」
できれば、目を閉じることもお願いした。これには口答えせずに静かに目を閉じた。
しばらく目を閉じていたが、すぐには寝られそうにないので、電波の範囲を狭めて、内緒話のようにリンに話しかけた。
「何?」
リンもそれを察してくれて、か細い電波で返事をしてくれた。
春斗は、自衛についての話を切り出した。
「戦う覚悟ができた?」
できてはいないが、最終手段としては持っておきたいと伝えた。
「わかった。好きにしたらいい」
二人は、しばらく作戦について話し合った。
最後に質問はないかと訊くと、声という音がわからないと答えた。確かに声が出ないのであれば、音が聞き取れないことは仕方がなかった。これには、徐々に慣れていって欲しいとしか云えなかった。
「わかった」
話が区切れたところで、寝ることに集中することにした。リンにおやすみと伝えたが、返事は返ってこなかった。
第四話 組織
フローランスは目を覚まし、隣に寝ている春斗を見た。すると、リンが仰向けの状態で顔だけをこちらに傾けた。
「本当に殺さないのね」
「それはこっちの台詞」
フローランスの独り言に、リンがそう返してきた。今まで話しかけてもほとんど返事もしなかった相手が、返事をしてきたのには驚いてしまった。が、それと同時に嬉しくもあった。
「彼は、創造主なの?」
「答える必要はない」
訊きたいことだったが、当然のように撥ねつけられた。
「まあ、返事してくれただけでも嬉しいわ」
「フローランス、アーミファンス。あなたは、ワタシの知る限り始祖と呼ばれている」
「嫌な呼び名ね」
不愉快なあだ名なので、自然と嫌な顔になった。
「そんなあなたが、ワタシ達と行動するのが理解できない」
どうやら、話をしてくれるのはリンにも訊きたいことがあったからのようだ。
「あまり深い意味はないわ。しいて云うなら面白そうだから・・かな」
「悪趣味」
確かに、これにはぐうの音も出ない返しだった。
「ここから別行動して欲しい」
まさか人形であるはずのリンから、そんなお願いをしてくるとは思わなかった。
「あなたといると、あまりワタシも余裕がない」
「別に、リンちゃん達に危害は加えないわよ」
これは心外なので、拗ねるように反論した。
「それはここまでの道中で気にはしてない。でも、あなたの存在は邪魔」
「・・・そんなこと云わないで」
リンの淡々とした台詞に、精神に深いダメージを負った。
「あなたは自分の存在が、大気にどれほどの影響をもつのかわかってない」
「そ、そうなの?」
「こっちの生成に影響するから、本当に鬱陶しい」
「うっ!それはごめんなさい」
「・・・」
フローランスが謝ると、リンが沈黙を返してきた。
「あ、誰か来たわね」
リンの沈黙は気になったが、それによりも外の空気が変わったことを優先させた。
「多い」
リンも察知したようで、仰向けのまま玄関の方に視線を移した。
確認の為、ドアを開けて外の様子を窺った。左右には人の気配はなく、正面から十数人がこちらに歩いてきていた。
「面倒事になりそうね~」
ドアを閉めて、春斗を起こすことにした。
「ちょっと、起きて」
できるだけ強い電波で起こしたつもりだったが、それでも起きずにあろうことかリンに抱きついた。
「寝ぼけて羨ましいことしないでよ」
これには嫉妬から、強めに背中のツボを突いた。
『~~~~!』
何かを叫んだようだが、フローランスには理解できなかった。
「起きて」
怒った春斗を急かすように、顔を近づけて危機感を煽った。知り合いでもここまで近づかないが、春斗は治療した時と摂取した成分で、身体の構成を理解してるからこそできる行動だった。
「おはよう」
春斗は目をこすりながら、悠長によくわからないことを云ってきた。
「どうしたんだ?」
「なんか不味いことになっているわ」
おはようのことはスルーして、今の状況を優先させた。
「抽象的すぎてわからない。もっと具体的に云ってくれ」
「さっき外を見たら、別の組織が入ってきたわ。この集落に攻めてきたか、告げ口されたかのどちらかね」
春斗には理解できないようで、それが何かと怪訝そうな顔をされた。
「この集落は民主組織の人がいたけど、さっき入ってきたのは武力組織の人だったわ」
「名前からして、血の気の多い組織みたいな感じだな」
「ええ、かなり血の気が多い連中よ」
「どうにか逃げれないか?」
「出入口は一つしかないわ」
「またそのパターンか。どこか隠れる所はないか?」
春斗が周りを見渡して、隠れる場所を探した。正直、あの怪獣から逃げ切った男とは思えない行動だった。この人は、とことん争いが嫌いなようだ。
「どうしようか」
そして、異常なほどの他力本願だった。
「正面突破か、ここで迎撃するかの2つね」
フローランス自身にとって、他力本願は大っ嫌いなのだが、春斗には不思議と嫌悪感を感じさせなかった。
「戦いを回避する選択肢はないのか?」
「あの連中じゃあ無理ね。十中八九戦いになるわ」
「寝起き早々に戦いたくないな」
春斗は、頭を掻きながら溜息をついた。
「そんなこと、私じゃなくて連中に云ってよね」
「よし、じゃあ云ってくるか」
後先考えないのは、酷く自分と似ている部分だった。
「というわけで、先導頼む」
が、それをこっちに丸投げしてきた。ここまで他力本願に終始する春斗には、さすがのフローランスも呆れるしかなかった。
「先に俺たち二人が出ていったら、間違いなく襲ってくるだろう。それを防ぐために、先にフローランスが行った方が話し合いに持ち込めると思うんだよ」
「確かに、説得力はあるわね」
即席で考えたにしては、凄く納得できるもので感心してしまった。
「そういう訳で頼んだぞ」
「はあ、仕方ないか。どの道避けては通れないし」
フローランスは深呼吸して、ゆっくりとドアを開けた。
ドアの前には、既に数人が取り囲んでいた。全員同色の鎧と兜で覆われていて、こちらに武器を向けていた。フローランスが出ると、彼らは全員動揺を示した。
「なんか用?」
ここで春斗を気にして怯えるのも手だったが、こんな組織に弱気でいるのは個人的に嫌だったので、敢えて威圧的に睨みつけた。
「なぜ、あなたがここにいるのですか?」
一人の男がそう云って、おもむろに兜を取った。整った顔立ちの青年で目つきは悪く、こちらを睨み返しながら一歩前に出た。
「それはこっちの台詞なのだけど」
フローランスとしては、この不毛な会話を一刻も早く切り上げたかった。
「私たちは通報を受け、こちらに来たのですが」
「誰からの告げ口」
「それはお答えできません」
「まあ、大抵は予想できるんだけどね」
フローランスは周りを見渡しながら、自然と少し苛立った表情になった。人の気配が消えている集落を見て、あいつが通報したのだと直感した。
「全く、本当に風見鶏みたいな奴ね」
これには不機嫌な顔で舌打ちするしかなかった。
「えっと、どういうこと?」
春斗が困惑したように、小さな電波を送ってきた。
「嵌められたのよ」
「え、でも組織が違うんじゃあ・・・」
「さあね。あいつ八方美人のところがあるからね。寝返ったか、最初から民主と欺いていたかのどちらかね」
これはあの風見鶏が、いかにもやりそうな手口だった。
「内輪で話してないで、そろそろこちらの質問に答えて欲しいのですが」
青年がしびれを切らしたようで、フローランス達の会話に割って入ってきた。
「成り行きよ」
彼との会話は面白くないので、ぶっきらぼうに答えた。
「成り行きでここにいるのですか?なら、後ろの男と人形をこちらで引き取らせてもらいたいのですが」
「それはできないわ。この場は見逃してくれないかしら」
「できません」
「融通が利かないわね」
「組織とはそういうものです。引き渡せないなら、戦うしかありませんね。とはいえ、あなたとの戦いは避けるよう云われているのですけど、この場合どちらを優先すればいいのでしょうか?」
この状況を自分では判断できないようで、困った顔で後ろの仲間に投げかけた。
「会わなかったことにすればいいだけでしょう?」
そんなこと考えるまでもなく、この一言で終わる話だった。
「私は、嘘が苦手です」
しかし、青年にはそれが難しいと堂々と云い放ってきた。確かにその性格では、すんなりとはいかなそうに思えた。
「出来ないということはないのでしょう」
「苦手ということは、出来る限りしたくないという意味です」
「だから、出来る範囲ですればいいのよ」
「3タウだけ待っていてください。話し合ってみます」
青年は包囲していた人たちを呼び、円陣を組むように話し合いを始めた。
「思ったより冷静なんだな」
相手の対応に、春斗が感心するようにそんなことを云った。
「私がいるからよ」
勘違いしているようなので、一応自分のおかげとアピールしておいた。
「おまえ、何者なの?」
が、このアピールは藪蛇だった。
「云いたくない」
これを云ったら避けられそうなので、春斗には教えたくなかった。
「なら、訊くのはやめよう」
予想外なことに、追求を避けてくれた。
「何事もなく済めばいいけど・・・」
そして、不安そうな顔で話し合っている男たちの方を見た。
「この組織では無理かもね」
こちらが知る限り、武力組織には戦闘を避けれることは期待できなかった。
話し合いが終わり、男がこちらを振り向いた。雰囲気的にはやる気満々が伝わってきた。
「うわ、やる気満々の顔だよ」
それは春斗にも伝わったようで、嫌な顔で呟いた。
「結局、血の気が多いのは変わらないのね」
これには思わず溜息が漏れた。
「フロー、あなたは退いてくれませんか?」
「拒否するわ」
ここは春斗を庇うように男の前に立った。これは威嚇でもあった。
「この人数で勝てる気でいるのですか」
「ええ、思っているけど・・・」
この挑発は全然脅しにはならなかった。というか、馬鹿にしているように聞こえたので、こっちも小馬鹿にしたように返した。
「ちょっと待て。一つ訊きたいんだけど。こいつは強いのか?」
急に、春斗が手を突き出して止めに入ってきた。
「弱ければ交渉などしないでしょう?」
これに青年が、迷いのなく答えた。
「おい、ちょっと訊きたいことがあるんだが」
「な、何よ?」
この流れは非常にまずいと感じて、動揺から視線が泳いだ。
「おまえ・・もしかして、あの獣を倒せた?」
「な、なな何云ってるのよ」
あまりにも確信を突く訊き方に、動揺を隠しきれなかった。
「なるほど、その態度だと出来なくもないって事か」
「で、出来なかったかもしれない」
なんとか切り抜ける為に、云い訳に徹することにした。
「可能性があるなら、どうしてあの時逃げたんだ?」
「それは・・・逃げろって云われたから」
「それだけかよ!」
「そんなこと云われるの初めてで、嬉しかったから、つい・・・」
ここまで追求されたら、本音で答えるほかなかった。あまりにも恥ずかしくて、春斗の顔が見れなかった。
「照れながら云うな!俺がどんな死ぬ思いで逃げ切ったと思っているんだ」
よほどの生命の危機だったようで、表情からも察することができた。
「実際生きてたし、結果オーライじゃないかな」
この状況をはぐらかすように、親指を立てて笑顔をつくった。
「そこを笑顔で切り返すか!」
「わ、私だって少しは悪いと思ったわよ」
「少しって!」
「じゃあ、かなり」
「じゃあって!」
「どうすればいいいわけ!」
もうここまで責められると、苛立ちが上回ってきた。
「内輪揉めはそれぐらいにして欲しいのですが」
すると、男が見兼ねたように間に割って入ってきた。
「そうね」
この介入を逃す手はないので、素早く話を切り替えた。
「えっ、まだ終わってないぞ!」
が、思いのほかしつこい性格のようで、責めるように迫ってきた。
「もういいでしょ」
「俺の中では全然納得できないんだが」
「ほらよく云うでしょ。妥協と諦めは必須って」
これは良く云われている格言だった。
「いや、聞いたことねえよ!」
が、世界の違う春斗には伝わらなかった。
「いい加減、私たちを無視しないで欲しいのですが」
今度は、青年が少し強めに云ってきた。
「別に、無視しているわけじゃない。優先順位が下なだけだ!」
感情が抑えられなかったのか、明らかに青年を挑発した台詞を吐いた。
「ここは怒るところですか?」
彼もそう感じたようで、少し苛立った表情をした。
「できれば、怒らないで下さい」
すると、春斗が低姿勢で頭を少し下げた。この変わり身の早さには驚いてしまった。
「とにかく、あなた達を拘束します。抵抗すれば殺します」
青年はそう云うと、周りの男たちがフローランス達を取り囲んだ。
「返り討ちにしてあげるわ」
ようやく戦う行動を取ったので、こちらも戦闘態勢に入った。
「ちょっと待ってくれ!」
何を思ったのか、春斗が焦ったように制止を求めてきた。
「今度は何よ!」
このじれったさは、苛立ちが電波に乗った。
「なぜ、戦うことになってるんだ?」
「はあ?抵抗しないと捕まるからよ」
春斗の質問に、思わず呆れてしまった。
「捕まるとどうなるんだ?」
「組織に入らされるか、殺されるかの2択ね」
あまり詳しくはないが、武力組織はこの二択しかないと思った。
「どっちも嫌だな。ここで逃げ切っても追われるかな」
「間違いなくね」
すると、春斗が少し黙考した後、無防備な状態で青年の前に出た。
「ちょっと、どうしたの?」
これには困惑せざるを得なかった。
「おまえとの協力はここまでにしよう」
「え?」
「狙いは俺たちだけみたいだし、これ以上は迷惑だろ」
「二人じゃ勝てないわよ」
こちらの加勢が不要だと云っているように感じたので、そう忠告しておいた。
「抵抗はしない。面倒臭いし」
が、戦う意思はないようだった。
「組織に入るの?」
「それはない。まあ、交渉してみるさ」
「この組織は簡単には応じないわよ」
この予想外の案には、浅はかだと感じてしまった。
「という訳だ」
「抵抗しないのですか?」
「ああ。抵抗しないから拘束はしないでくれ」
「わかりました」
二人のやり取りを見て、放っておくという選択肢はフローランスにはなかった。
「私も行くわ」
「なんでだよ」
「ちょ、ちょっと用事ができたからよ」
二人が心配とは云えず、視線を逸らしながらそう答えた。素直になれないのは、性格上どうしようもなかった。
「はあ、まあいいでしょう。それでは、案内します」
青年は複雑そうな顔をして、先頭を歩き出した。
「俺、案内されるの?」
「案内するのはフローだけで、あなた達は連行です」
「だよなー」
春斗は頭を掻きながら、誰もいない方向を向いた。
「ふん。案内されなくても知ってるわよ」
別に知りたくもない場所に、わざわざ案内などこちらとしては不愉快極まりなかった。
集落から出て、全員黙ったまま360タウ近く公道を歩いた。その途中に、数件の廃屋みたいな家が所々に目に付いた。
「遠いな。まだ着かないのか」
春斗はそう愚痴りながら、疲れた表情で青年に訊いた。
「もう少しです」
「その台詞は訊き飽きたよ!」
これは何度目かのやり取りだった為、切れ気味でつっこんだ。そもそも、春斗が歩いて行こうと云わなければ、もっと早く着いているのだが、いまさら云っても仕方ないので黙っておくことにした。
「彼は、時空と速度の計算ができないから諦めた方がいいわよ」
しかし、あまりにも文句が多いので、場所を知っているフローランスからそう教えておいた。実際には、この時速では当分着かない距離だった。
「時空って何?」
すると、春斗が基本的なことを真顔で訊いてきた。
「は?時間と空間のことだけど」
この常識は異世界にはないのかと疑問に思ったが、とりあえず詳細を教えてみた。
「ああ、空間は距離か」
春斗は、一人納得したように頷いた。どうやら、云い方が問題だったようだ。
さらに60タウほど歩くと、ようやく城壁らしき物が見えてきた。
「そろそろ着きます」
青年がこちらを向いて、真顔でそう云ってきた。
「見ればわかるよ」
これには春斗が、疲れた顔で文句を云った。
「それにしても、相変わらず悪趣味な建物よね。特に色が」
フローランスはずっと前からそう思っていたので、わざとらしく色の部分を強調するのように云った。
「確かに気色悪いな」
嬉しいことに、春斗もこれに賛同してくれた。
「この色は、組織の象徴の色ですので」
フローランス達の毒舌には、一切の感情もなく平然と答えた。どうやら、彼もその自覚はあるようだ。
建物に近づいていくと、城門が閉まっていた。
「どうやって入るんだ?」
春斗はそう云って、不思議そうに門を見上げた。
「少し下がってください」
青年は城門に近づいて、おもむろに手を当てた。
すると、城門が少しずつ開いていった。ホントにゆっくりと。
「めちゃくちゃ遅いな」
これに春斗が、じれったそうに門の動きを見つめた。
「開閉は、いつもこんな感じです」
城門が完全に開くまでに、15タウ近く掛かった。
その向こう側には、窓のない建物が多く並んでいたが、すべて同じ色をしていた。
「なんで全部の建物が同じ色なんだ?気が滅入るな」
見るに堪えないようで、春斗は建物から目をそむけた。
「同感」
目の前に一色の色が視界に入ってくると、気分も下がるのは共感できた。
「私たちはもう慣れましたから」
青年もそう思っていたようだが、もう気にならなくなっているらしい。
「ってことは、最初は慣れなかったんだな」
春斗が少しおかしそうに、青年に指摘した。
「ええ」
「軽く認めたな」
「事実ですから」
それを聞きながら、フローランスは城門を潜った。
大通りを歩いたが、人っ子一人いなかった。まあ、これは当然といえば当然だった。
「誰もいないのか?」
が、春斗にはそれが奇妙に見えたようで、不思議そうに電波を発した。
「だいたいは家にこもっています。外出する時は戦うか、観戦するぐらいですね」
「みんな俺と似てるんだな」
何を思ったのか、春斗がしみじみとそう云ってきた。どうやら、引きこもりに共感を覚えたようだ。
「ハルトもそうなの?」
これにはちょっと興味があるので、話の流れで尋ねてみた。
「ああ、必要なことがない限り外出しないな」
「なるほど、そうやって自己を高めるのね」
「いや、ただの怠惰だ」
「そ、そうなんだ」
予想外の返しに、顔が引きつってしまった。
すると、一人の男が家から出てきた。緩そうな格好にサンダルを履いていて、欠伸をしながらこちらに気づいた。
「あれ?ライラじゃないか。もう帰ってきたのか」
「ええ、戦闘がなかったので」
男はダルそうに、こちらに近づいてきた。そして、フローランス達に視線が移ると、青ざめた表情になって一歩下がった。
「それでは先を急ぐので」
「あ、ああ」
その返事からは、恐怖と忌避の感情が伝わってきた。フローランスは冷たい眼で男を見返し、リンは完全に無視して彼の前を素通りした。春斗の方は少し怪訝そうな顔で首を捻った。
しばらく歩いていくと、闘技場らしきの建物に着いた。なんの飾り付けもなく質素な感じだったが、組織を象徴する色は変わらなかった。
「この中です」
ライラと呼ばれた青年は、部下たちを待機させて、一つの入口の扉を開けた。
ライラを先頭に通路を通り抜けると、そこはまさしく闘技場だった。円形の観戦場にその中央が戦場だった。正面には階段があり、その上に一脚だけ彫刻彫りで一人掛けの石椅子があり、そこに見知った顔のエイシーが座っていた。
「来たか」
エイシーは立ち上がって、階段を下りて来た。その偉そうな態度に少し腹が立ってきた。
「これはこれは、珍客もいるな」
彼は、青い長髪を掻き上げながらこちらに近づいてきた。
「俺のことか?」
「違います。フローのことです」
春斗の勘違いに、ライラが淡泊にそう云った。
「懐かしいな。まさかとは思うが組織に入る気にでもなったか?」
それを意に介さず、エイシーがフローランスを見下げてきた。整ったすまし顔に、いやらしさがにじみ出ていた。
「悪い冗談ね。私が脳筋組織に入るわけないじゃない」
これには睨みつけるように嫌みで返した。
「相も変わらずの中立者か。なら、用件はなんだ」
「この二人を即座に解放しなさい」
フローランスが春斗たちを指差すと、エイシーが驚いたように春斗を見た。
「わざわざそれを云いにここまで出向いたのか」
「そうよ」
「これは意外だな。姫が一人の男に執着するなど」
「私は二人と云ったはずだけど。あと姫って呼ぶな。殺すわよ」
いちいち癇に障る云い方と呼び方に、殺意が芽生えてきた。
「一人しかいないが・・・」
しかし、エイシーにはリンが目に入っていないようで首を捻った。
「いるじゃない」
仕方がないので、リンを指差してもう一人を教えてあげた。
すると、男は不快そうな顔をしながら、リンを見た。
「まさか、人型のことか?」
「そうよ」
「姫も悪い冗談を云うようになったな」
「生憎、これは冗談じゃないわ」
「・・・そうか。しかし、それはできないな」
エイシーは、フローランスを直視して云った。
「どうしてか訊いてもいいかしら」
「組織だからな。掟を破ると組織の意味がなくなる」
「特例を作ればいいでしょ」
「特例ならもう作っている」
そう云うと、澄ました顔でフローランスを流し見た。こういう無駄な演出は、未だに健在のようだ。
「姫とは闘うな。それが特例だ」
「なら、彼らにも適法させればいいでしょ」
相変わらず呼び方に苛つくが、何度云っても改善してくれないので、話を進めることに集中した。
「それはできない。特例を決めるのはトップになった時の一回だけだ。それ以外は認められていない」
「ふん、融通が利かない組織ね」
「組織とはそういうものだ」
「じゃあ、壊滅させるしかなくなるわね」
もうこれ以上、話し合っても不毛なので、手っ取り早い方法に移行することにした。
「姫がそこまで肩入れする・・か。君と姫との関係はなんだ?」
エイシーはこちらを無視するように、春斗の方に視線を向けた。
「最初は協力者だったけど。今は違うな」
こうもきっぱり他人だと云われると、フローランスとしては傷ついてしまった。
「まあ、今の関係は恣意的に云うなら友達かな」
それを聞いた瞬間、遥か昔に忘れたはずの記憶が溢れ出してきた。
「えっ!なんで泣くの?」
「え・・・?なな、泣いてないわよ」
春斗の指摘に、慌てて目尻を触ると、本当に涙を流していた。恥ずかしさのあまり素早く涙を拭った。
「う、嬉しかったとか・・そういうのじゃあ・・ないから」
涙はなかなか止まらず、後ろを向いて必死に涙を拭った。
「姫の泣く姿なんて初めて見たな。友達か・・なるほど、必死で守ろうとするわけだな」
エイシーにそれを見られたのは、一生の不覚だった。
「べ、別に必死になんてしていない」
勘違いされるのは不本意なので、そこだけは否定しておいた。
「守ろうとしたことは否定しないんだな」
が、今度は春斗が一部の台詞を取り上げて余計な指摘してきた。
「そ、それは認めるけど・・・」
これは否定したくないので、渋々認めた。
「そっか。ありがとう」
すると、春斗は笑顔で礼を云った。
「ど、どういたしまして」
これには嬉しさと恥ずかしさで、春斗の顔が見れなかった。
「と、とにかくそういう訳だから、開放を要求するわ」
なんとか涙を止めて、春斗たちを自由にするよう求めてた。
「無理だと云っているだろう。ここにいる以上は従ってもらう。例え全面戦争になってもな」
エイシーがそう云うと、ライラと一緒に後ろに下がった。
「三人に対して全面なのか?いくらなんでも云いすぎだろ」
全面戦争に違和感を覚えたのか、春斗が怪訝そうに話に入ってきた。
「そうでもない。姫は、過去に一つの組織を壊滅させた事がある」
知られたくないことを、さらっと暴露されてしまった。
「おまえ、それ本当なのか?」
この事実に、春斗から懐疑的な目で見られてしまった。
「む、昔の話よ」
云い逃れはできそうにないので、目を合わせずに肯定した。
「まあ、それはともかく。俺たちは、組織との戦いは極力避けたいんだが」
有り難いことに、春斗はそれをさらっと流してくれた。
「この組織は、なんでも戦いで決める。それを回避するのは殺されることと同義だ」
「じゃあ、殺されたということでそのまま放置してくれ」
「私に民を欺けというのか」
「ああ、お互いにメリットがあると思うけど」
「残念だができない」
「やっぱり駄目か」
春斗が溜息をついたところで、フローランスはゆっくり近づいた。
「だから云ったじゃない。この組織に交渉は難しいって」
「そうだな」
「で、これからどうするの?この組織を潰すの?」
「そんな実力はない。仕方がないから、ここは妥協案を探すか」
「すごく消極的な発想ね」
実際に春斗の実力は未知数だが、そこまで自分を卑下するのには違和感を覚えていた。
「ルールはどうなっているんだ」
覚悟を決めたのか、エイシーにそう尋ねた。
「一度、闘って階級を決める。対戦相手は私が決める。相手次第では殺される事もある」
「なら、弱い奴をお願いします」
「できない」
「なぜ!」
二つ返事で拒否されたことが余程ショックだったようで、電波を強めて食って掛かった。
「君が問題ではない。後ろの二人が問題なのだ」
「じゃあ、俺一人でいいから」
「この二人を従えている時点で、下層との闘いは想定できない」
「そこをなんとか」
春斗は、必死に懇願した。
「「格好悪い」」
フローランスとリンの思いが被ったようで、同じ台詞を同時に発していた。
「初めてリンちゃんと意見が合ったね」
これには嬉しくなって、リンに笑顔を見せた。が、無表情でそっぽを向かれた。
「とにかく、上層の一人と闘ってもらう。特例として、その人型を使っても構わない」
「上層ならフローランスも入れていいかな」
「それなら、私も参戦しよう。そうでもしないと君の実測にならない」
「この闘いは、三人の実力を実測するんだろ」
「彼女の実力は折紙つきだ。これは君の実測だ。あと人型のな」
「一つ訊きたいけど、勝ち負けの結果は?」
「勝てば、最前線に出てもらう。負ければ、下層で労働させる」
「労働?どんな?」
「主に建物の維持と武具製造だな」
「そういう技術は全くないぞ」
「全くできないのか?」
「ああ、無理だな」
「そのあたりは、後で考慮しよう。とりあえず、闘ってくれ」
春斗が残念そうな顔をした後に音を出したが、フローランスには全く理解できなかった。態度を見る限り、面倒とかそんな風な感じだろう。
春斗はリンの方を見て、何かの合図を送った。彼女は、頷いて彼の傍に寄って来た。
「で、いつやるんだ」
「500タウ後だ」
「えっと、1タウが20秒だから・・・うんっと約3時間ってところか」
春斗はよくわからないことを呟きながら、聞いたことのない単位を云った。
「それまで俺たちはどうするんだ?」
「当然、その間は牢に入ってもらう」
エイシーは、ライラに連行するように指示した。
「こちらです」
ライラは、三人を牢まで先導した。闘技場の地下に下りて行くと、鉄格子の牢がいくつもあった。牢には何人かいて、ライラは誰もいない牢の扉を開けて、入るように促してきた。牢の中は石壁でできていて、窓などは一つもなかった。
「フローは、入る必要はありませんが」
「入ってもいいんでしょ」
「まあ、そうですけど」
ライラは、困った顔で頬を掻いた。
「それでは、時間になったら呼びに来ますので」
そして、諦めたようにゆっくり扉を閉めた。
「牢に入るなんて初めてだよ」
「私もよ」
春斗の独り言に、フローランスも同調しながら地べたに座った。
「リンもか」
「うん」
フローランスに倣うように、春斗とリンも地べたに座った。
「それにしても、鍵を掛けなかったな」
「そんなもの意味ないでしょ」
「そうなのか」
「ええ」
フローランスは髪をいじりながら、春斗の方を何度か見た。
「どうかしたか?」
「あのさ、その・・・私のこと・・と、友達って思ってるの?」
「個人的にはそう思っているけど、嫌だったか?」
「全然嫌じゃないよ。むしろ良いかも。嬉しかったし・・・」
恥ずかしくて、後半には小さくなってしまった。
「おまえ、もしかして友達いないのか」
「いないわよ!」
今の時代、友達がいるなんて云えば、小馬鹿にされるのがオチだった。
「泣くことないだろ」
春斗の指摘に、自分が涙目なのに気づいて涙を拭った。春斗と話すと、不思議と昔のことを思い出して感情が表面化していた。
「わ、私たちは友達でいいんだよね」
「おまえがそう思えばそうなるな」
「そっか」
これは嬉しくて、思わず笑顔になってしまった。
「私は?」
驚くことに、リンが春斗にそう尋ねた。人形であるはずの彼女が、その質問をするのは異様だった。やはり、彼女はどこか人形離れしているようだ。
「おまえは相棒だろ」
「友達とは違う?」
「そうだな。意味合いは違うな。おまえは、この旅には必要だからな」
「そう」
それを聞いて、リンが視線を下に向けた。納得したのかは表情からは読み取れなかったが、嫌というわけではない感じに見えた。
「リンちゃんは、私のことどう思っているの」
この流れで、リンに自分のことを訊いてみた。
「他人」
やはり訊くべきではなかったと、膝を抱えて顔をうずめた。
「ところで、あの組織のトップみたいな男とは知り合いなのか」
「実際、彼は組織のトップよ。名はエイシー。私とは敵対関係ね」
「でも、おまえには手を出すことを禁止しているだろう」
「被害を抑える為ね」
「おまえ、どんだけ強いんだよ」
「私にとっては、強さなんて飾りなのよ」
「その飾りがあるのに、なんで最初会った時にか弱いフリをしてたんだ?」
「あ、あれは・・・その、ほら、第一印象が大事だから」
「答えになってねえよ」
「も、もういいじゃない。終わったことだし」
「まあ、そうだな。この話は終わりにしよう。腹も減ったし、栄養補給をしたいのでお願いします」
春斗は淡々と話しながら、器用にも後半は低姿勢で頭を下げた。
「頼むときだけは丁寧ね」
この切り替えのうまさには、素直に感服してしまった。
「俺なりの礼儀だよ」
この礼儀正しさは憎めないし、頼られるのは嬉しいので、気分よく錠剤を春斗に渡した。
「ありがとう」
「礼はいいって云ってるでしょ」
「いや、感謝は必要だと思う」
「じゃ、じゃあ、仕方なく受け取っておくわ」
お礼は云われたいのだが、天邪鬼な性格の為、この一往復は個人的に必須だった。
283タウほど経つと、ライラが来て扉を開けた。
「それでは、時間です」
フローランス達は、牢から出てライラの後に続いた。
闘技場に続く通路に出ると、いろんな人の電波が一気に頭に入ってきた。これには不愉快で自然としかめっ面になった。
闘技場に近づくにつれ空気が、どんどん淀んでいった。この感じは人が埋め尽くされていることを意味していた。
春斗が闘技場に出ると、戸惑ったようで足を止めた。どうやら、人の多さに圧倒されたようだ。
「それでは、私はここまでなので」
ライラはそう云って、フローランスの後ろに回った。
「あなたもです」
そして、フローランスに小さくそう伝えてきた。
「ふん。しばらく様子を見といてあげるわ」
春斗の決断を無碍にしたくないので、参戦はやめておいた。
「じゃあ、行くか」
「うん」
春斗たちはそう掛け合って、闘技場の中央に歩いていった。正直、二人の戦い方が気になっていた。
春斗たちが中央まで歩いていくと、一人の男が観客席の壁を乗り越えて、ゆっくりと二人に近づいた。
「見ものですね」
ライラが、後ろからフローランスに話しかけてきた。
「気安く話しかけないで」
「それは失礼しました」
ライラは萎縮するわけもなく、淡々とそう返してきた。彼は、フローランスへの畏怖はあまりないようだ。
春斗たちは何か話しているようで、なかなか動く気配がなかった。
しばらくして、対戦相手が両手を前に出して生成を始めた。春斗は不思議に思ったのか、リンに少し顔を近づけた。どうやら、何をしているかを訊いているようだ。
相手の手の中には、無数の粒子が見え始めた。粒が徐々に大きくなり、一気に粒子が圧縮されると、彼の手には剣が握られていた。リンを前にして、えらく時間の掛かる生成をしていた。それを見る限り、場数は踏んでいないような感じだった。
「エイシーもぬるい相手を寄越したものね」
これには思わず、電波と溜息が漏れた。
「闘技場での対戦は上中下と決められてます。彼は、剣闘士の中では上位に位置してます」
「ふ~ん。あの程度で?」
何気に春斗たちを方を見ると、リンの両手には既にナイフが握られていた。
「あなたと比較しないでください。全体ではあれが上位です」
「あ、そう」
それなら人形とも比較できない気がしたが、リンは例外なので黙っておいた。
お互いの準備が整ったようで、対戦相手が先に動いた。武器が重いからか、動きがかなり遅かった。あれでは先手をあげるようなものだった。
すると、何かかすかな音が春斗から発せられた。
それに反応したのかは知らないが、リンが左手のナイフで斬撃を受け流してから、右手のナイフを横に一閃させた。
しかし、相手は後ろに下がるかたちでそれをかわした。流れるようなリンの動きは、まるでお手本のような戦い方だった。それが人形と呼ばれる所以でもあった。
再び春斗が音を発すると、リンが突進して両手のナイフをクロスさせた。男は一歩後ろに下がって、それを剣で防いだ。
さらに春斗が別の音を発すると、リンが間髪いれず左右のナイフを乱雑に振るった。相手は、困惑しながら必死になって防いでいった。周りはうるさいほど、勝手に盛り上がっていた。
その間、春斗は少し左に移動して、リンに音で指示を出した。リンがそれに反応したように、少しずつ相手の位置をずらしながら攻撃していった。
男は堪らず後ろに跳んで距離を取ろうとしたが、それは悪手もいいところだった。
「はぁ~、上位のくせに空間の把握ができないのかしら」
壁を背にした相手を見て、思わず溜息が漏れた。
「必死だと、ああなるのは仕方ないかと思いますが」
それにライラが、余計な返答をしてきた。
対戦相手が後ろに気を取られた瞬間を見逃さず、リンが左のナイフを投げた。この戦い方は、攻撃に最大限終始する人形ならではの動きだった。
男はギリギリでかわしたが、それはリンが一気に距離を縮められる隙でもあった。
リンは、残った一つのナイフを両手で握って縦に振り下ろした。
それを男がなんとか剣で受け止めると、リンが自分の不利になる鍔迫り合いに持ち込んだ。体重の軽いリンが、なぜそうしたのか不可解だった。
当然といえば当然だが、すぐにリンが押され始めた。体格差を見れば、分があるのは火を見るより明らかだった。
そのタイミングを見計らったのか、二人の斜め後ろに移動していた春斗が、リンに音の合図を送った。彼女がそれに反応して相手から離れると、押し返していた男が前のめりに体勢を崩した。
春斗が遅い右の拳を繰り出すと、体勢を崩した男の腹部を直撃した。あまりの遅さにフローランスが驚いていると、男の身体が数センチ浮き上がった。その打撃は、今までに見たことのない重い攻撃に見えた。
男の身体が脱力すると、春斗が拳を引いて、その拳を男の顎に目掛けて振り上げた。それは致命的といえるほどの重い追い打ちだった。
男は、力なくその場に崩れた。
「「「おおおおお」」」」
その決着に、観客全体が興奮して強大な電波を盛大に発した。
第五話 拷問室
決着がついたので、フローランスが闘技場に入ると、突如観戦席が騒然となった。人々はパニックに陥り、この場を逃ように出入口に殺到した。全くもって失礼な人たちだと思った。
「おまえ、どれだけ恐れられてるんだよ」
その光景を見た春斗が、フローランスの方を向いて皮肉ってきた。
「し、知らないわよ」
ここは敢えて平静を装い、知らんぷりを決め込んだ。
「静まれ!」
混乱の中、エイシーの電波が力強く頭の中に響いた。春斗が驚いて周囲を見渡し、混乱していた人たちはその場でフリーズした。一喝で場を収めたのは、さすが統率者といったところだった。
「やはり姫がいると錯乱する者が多く出てくるな」
「だったら、私たちを解放することね」
「姫一人なら構わないのだが」
「それは諦めて。彼らとは、その・・・えっと、と、友達だから」
後半は自信なく春斗を見たが、特に気にした様子は感じられなかった。
「彼には、是非とも最前線に行ってもらいたいのだが、姫も彼につくのか」
「ええ、勿論」
春斗の表情を見てから、当然のように答えておいた。
「それは大いに困るな。だからといって組織自体の体面もある」
エイシーは、腕を組み悩んだ仕草をした。
「仕方ない。姫たちには、拷問室で看守をしてくれ」
「私にそんなことさせるの?」
「嫌なら一人で出て行くことだな。そうすればこちらも助かるが」
「貴方の思惑に乗るわけないじゃない」
わざわざエイシーに合わせる考えなど、露ほどもなかった。
「まあ、戦争に出向くよりはいいかな」
すると、春斗がここで話に入ってきた。
「人をいたぶるのが趣味なの?」
これには正気を疑って、春斗に訊いてみたくなった。
「いや、そういうのには興味ないな。でも、争うよりはこっちの方が安全だろ」
春斗はそう云い訳をしながら、エイシーの方を流し見た。
「そうそう、訊きたい事があるんだけど、次元の操作できる?」
春斗の質問に、エイシーが訝しげな顔になった。
「君は、何を云っているんだ?」
「訊き方を変えよう。異世界に行く方法を知っているか?」
「・・・」
これを訊いて、エイシーはしばらく黙った。
「意味がわからないな、異世界とはなんだ?」
エイシーがこの組織のトップになった経緯と、この組織が立ち上がった理由を知っているフローランスにとっては、これは不毛でしかないのだが、敢えて云わないでおくことにした。
「あー、いや、なんでもない」
わからないと判断した春斗は、この話を強引に終わらせた。
「そういえば、君の名を訊いていなかったな」
「春斗」
「変わった名だな」
「フローランスにも云われたよ」
もう観客たちは落ち着いたようで、慌てることもなく闘技場を去っていった。
「本当に見物しに来ただけなのか」
「え、そういうものでしょう」
個人の感心のあるものを見て帰るのはごく自然な行動だと思っていたが、春斗の世界では違うのかと逆に疑問に思った。
エイシーがライラに何かを告げると、ライラがこちらに近づいてきた。
「それでは、あなた達の住む場所を案内します。それから拷問室に向かいましょう」
「私はエイシー、彼は側近のライラだ」
エイシーは、ライラの後ろから自己紹介もかねて彼も紹介してきた。
「側近?わざわざ側近が通報を受けて、遠い所まで俺たちを捕まえに来たのか?」
春斗は率直の疑問を、エイシーにぶつけた。
「内容が内容だけにな」
エイシーは険しい顔をして、腕組みをして目を閉じた。
「人型、その単語だけで出陣の理由になる」
「はぁ、納得しとくよ。とりあえず、案内してくれないかな」
「では、こちらへ」
ライラは春斗の前に立ち、闘技場の外へ歩き始めた。
「ホントに、この組織に入る気なの?」
闘技場を出て、春斗の意思を再確認しておきたかった。
「今は情報が足りないから仕方ない」
「情報?」
「そういえば、フローランスには訊いてなかったな」
「何を?」
「異世界に行く方法」
「・・・専門じゃないわね」
「じゃあ、知ってそうな人に心当たりないか?」
「う~ん。知ってるけどあまり教えたくない」
「理由は云えるのか」
「露骨に敵対してる」
「・・・なるほど。じゃあ、せめてどこかの組織かは知ってるのか」
「民主組織」
「・・・集落の人に、訊きそびれたってことか。昨日、そこまで頭が回らなかったのは致命的だったかな。でも、あいつ怖かったから無理かも」
春斗は難しそうな顔で、弱々しい電波で一人愚痴った。
「もうここまでいくとトラウマね。それに、あの風見鶏に訊いても無駄だった可能性が高いわ」
「そうなのか?」
「下っ端だしね」
「まあ、目的はできたかな」
「じゃあ、今から行く?」
「いや、それは早急だろ」
思い立ったらすぐに行動することは当然だと思っていたが、春斗には熟慮が必要のようだ。
「あ、あの、私がいるのに堂々とそういう話をされると困るのですが」
ライラはこちらを振り向き、険しい顔で注意してきた。
「聞かなかったことしてくれ」
「サラッと云ってくれますね」
春斗の云い方に、ライラが呆れ顔を見せてから先を進んだ。結局、流すライラに少し笑ってしまった。
しばらく歩くと、ライラが一つの建物の前で足を止めた。
「ここです」
「普通の建物だな、色以外は」
春斗は建物を見て、そんな感想を電波に流した。うまく詰る春斗には、学ぶものがある気がした。
「ここがあなたの住まいになります」
ライラはそう云いながら、ドアの横に貼ってある紙を無造作に剥がした。
「それは有難い」
「フローランスもこちらでお願いします。あと・・人型も」
「え!どうして?」
これに春斗が、反射的にライラを見た。
「フローと人型の監視をお願いしたい」
「お守りかよ」
「私たちではできないので、あなたに頼むしかないんです」
「でも、ここに長く暮らすとなると、さすがに抵抗あるだろう」
春斗はそう云いながら、フローランスの方を見た。
「私は、別に構わないけど」
春斗が懸念しているようなので、フローランスから助け船を出した。
「抵抗ないのか」
「いまさらね。それ云うなら、あの集落で別々に寝泊まりしてるわよ」
「それを云われると、確かにそうだな」
「では、よろしくお願いします」
ライラはホッとした表情で、春斗に頭を下げた。
「まあ、仕方ないな」
春斗は、諦めた表情で了承した。
「あと、この色の服を着てください。デザインは問いません」
ライラが自分の服を指して、組織としての要求をしてきた。
「私は嫌よ」
そんなダサい色は絶対に着たくなかったので、頭から拒否っておいた。
「フローには、求めてませんので安心してください」
「俺は、持ってないぞ」
春斗は困った顔で、ライラに云った。持ってないなら作ればいいのだが、生成ができない春斗には仕方ない気もした。
「なら、作ってください」
ライラから当然の返しが返ってきた。
「簡単に云うなよ」
「は?簡単でしょう」
「彼は作れないから、私が作るわ」
仕方がないので、フローランスがそれを請け負うことにした。
「えぇぇぇぇ~!」
すると、春斗がフローランスを見て、すごく嫌そうな顔をした。
「何よ、何か問題でもあるの?」
この反応には、さすがにイラッとしてしまい、当たり散らすように電波を発した。
「おまえの服装をみたら、ちょっと抵抗がある」
「さすがにこの服は作らないわよ」
その組織の為に、手間が掛かる服をわざわざ作ろうなんて思ってもいなかった。
「なら、服の件はフローに任せましょう。あと、できれば人型の服もお願いします」
「それも任せて!」
この頼みは、フローランスのやる気を十倍ぐらい高めた。リンには手間を掛けてでも、可愛い服を作ってあげたかった。
「それでは、次は拷問部屋に案内します」
ライラは後ろを振り返って、建物に挟まれた小道に向かって歩き出した。その後ろに春斗とリンが続いた。
「リンちゃんの服、どんなのにしようかな~♪」
リンの後ろ姿を見て、いろんな服を思い浮かべて頬を緩めた。
「なあ、リン」
「何?」
「おまえは、服を作れないのか」
「緻密なことはできない」
「そうか」
春斗は残念そうな顔で、正面を向いて項垂れた。このやり取りは、フローランスにとっては不満ではあったが、結果は変わらないようなので、リンの服のイメージを再開させた。
しばらく歩いていくと、建物がだんだん少なくなっていった。
「どこにあるんだ?」
「この突き当たりです」
ライラの指す方向には小屋があった。
その建物に着くと、ライラがこちらを向いた。
「少しここでお待ちください」
「え、なんで?」
「執行人にあなた達のことを伝えてきます。急に部外者が入ると、発狂しますので」
「危険な奴だな」
「ですから、最初に私から説明してきます」
「あの闘技場には来なかったのか?」
「執行人は、ほとんど拷問室から出てきません」
「発狂するからか?」
「それもありますが、極度の人嫌いなんですよ」
「まあ、そうでもないと拷問なんてできないだろうな」
「それでは、しばらくここで待っていてください」
ライラはそう云って、扉を開けて入っていった。
「人嫌いで、俺たちを受け入れてくれるのか?」
「さあ?駄目なら潰せばいいわ」
人嫌いなんて、この世界にはざらにいるので特に珍しいことではなかった。
「物騒なこと云うなよ」
春斗は溜息をつきながら、フローランスを諫めてきた。これには少しだけフローランスに配慮の心が芽生えた。
30タウほどすると、ライラが溜息をつきながら建物から出てきた。時間から考えても、説得によほど手間取ったようだ。
「おまたせしました」
「どうかしたのか」
「駄々をこねられまして」
「子供かよ!」
「許可は取ったので、どうぞ」
ライラは疲れた顔で、横にずれて通るよう促してきた。
「えっ!おまえは来ないのか」
「ええ、私はここまでです。では、気をつけて下さい」
「気を使うなら、ついて来てくれ」
「上辺で云っただけです」
「それは云っちゃ駄目だろ!」
「私は、もう戻らないといけないので・・失礼します」
ライラは頭を下げて、逃げるように去っていった。
「マジで行ったよ・・・入りたくないな」
春斗は、建物を見て嫌そうな顔をした。
「さっさと入りましょ」
ここでの愚図っても仕方ないので、春斗に入るよう促した。
「おまえは、物怖じしないな」
「先頭は譲るわ」
「結局、俺が先か!」
狙い通りの反応に、少しだけ嬉しくなった。これは集落の時の意趣返しでもあった。
春斗が建物の扉をゆっくりと開けると、中は何もなく正面にもう一つ扉があった。拷問部屋らしく、アンモニアの多い辛気臭い空気が漂っていた。
「なるほど。この建物自体はカムフラージュか」
もう一つの壁の扉には取っ手がなく、春斗が扉を押しても開かなかった。
「よし。帰ろう」
開かないと見るや否や、素早く振り返って真面目な顔でそう云った。
「それ引き戸じゃないの?」
よく観察すると引き戸に見えたので、フローランスからそう助言してあげた。
春斗がその扉を引くと、扉は抵抗なくスッと開いた。すると、アンモニアとトリメチルアミンがより一層強くなった。
『~~』
アンモニアに反応したのか、春斗から音が漏れてきた。何を言ったか気になったが、訊く前に先に進んでいったのでタイミングを逃してしまった。
扉の先は螺旋状の階段になっていて、横にある照明器具の明かりが下まで照らしていた。
「なんで拷問室とかって、地下にあるんだろうな?」
それを見た春斗が、不思議そうに首を傾げた。
「密室を作りやすいからじゃないの。外部との完全な遮断できるし、精神的に追い詰めることもできるからね」
地下ではないが密室の経験は多少あるので、それらしいことを云ってみた。
「確かに、地下に行くほど気持ちが落ち込むからな」
春斗もその経験があるのか、フローランスに同調してきた。
階段を下りながら下を見ると。そこにも灯りが点いていた。
地下は広い空間になっていて、周囲には拷問器具らしき物が多数置かれていた。空間の中央には一人の短髪の子供が後ろを向いて立っていた。全身にストラみたいな礼装を羽織っていた。
「ようやく来たね。あたしを待たせるなんていい度胸じゃない」
「おまえから来たら問題なかったのに」
すかさず春斗が、的確な指摘をした。どこか見たことのある体躯で、似た波長の電波には少し懐かしさを感じさせた。
「口ごたえすんな。あたしは、今まで人と組んだことなんてなかったんだ。でも、ライラの頼みだから、仕方なくあんた達をしもべにしてあげる」
そう云うと、勢い良くこちらに振り返り、人差し指でフローランス達を指差してきた。男の子のようなヘアーに幼さの残った顔の幼女だった。
「あれ?シーラじゃない」
その顔を見て、思わず嬉しくなった。
「気安く呼ぶな!」
明かりがあるといっても、薄暗い場所に居たフローランスを判断できないようで、こちらに向かって怒鳴ってきた。
「久しぶりの再会なのにそれはないんじゃない?」
フローランスが明かりが届く場所に出ると、シーラは驚愕の表情をした。その反応がおかしくて、自然と笑みがこぼれた。
「な、なんで・・・こ、ここに」
シーラは、怯えるように後ずさりした。
「知り合いなのか?」
それを見た春斗は、不思議そうにフローランスに訊いてきた。
「ええ。一応ね。彼女はシーラ」
「彼女?女なのか?」
雰囲気のせいか、男の子と思ったようだ。
「うん。長髪の方が可愛かったのに」
これは個人的には残念なことだった。
「それにしても、しもべか。云うことがおまえに似てるな」
「そうだっけ?」
シーラと同じと云われると、あまり良い気はしなかった。その間、シーラは硬直したまま、器用に目だけで困惑していた。
「あいつ、動かないけど大丈夫なのか?」
それが気になっのか、春斗がフローランスにそう訊いてきた。
「シーラは情報の処理が遅いから、予想外のことに対しては、頭の整理に時間が掛かるのよ」
「変な奴だな」
「情報量が膨大になると、パニック障害に陥るわね。まあ、今は私の事だけだから固まっているだけね」
「知的障害か。外に出ないのもこれが原因なのか?」
「まあね」
フローランスがそう答えると、シーラが少しずつ身体を動かし始めた。
「なんでアミがここにいるのよ!」
そして、フローランスに向かって強く怒鳴ってきた。
「成り行き」
「う、嘘だ!も、もしかして信者を助けに来たのか!」
「・・・今、聞きたくない事を聞いてしまったわね」
まさかシーラの電波から、そんなことを聞くとは思ってもいなかった。信者とは、フローランスのことを神祖と崇めている頭のおかしい連中だった。殲滅できていなかったのは、フローランスにとって汚点の一つだった。
「ここに居たなんて盲点だったわ」
ここでやることは何もなかったが、今この時をもってやることができた。
「そいつをここに連れてきなさい」
「ど、どうするつもり?」
「殺す」
それは訊くまでもないことだった。
「ダメ!あれは、あたしのモノ!誰にも譲らない!」
が、シーラが強く反発してきた。
「ふうん。珍しいわね、貴女が何かに執着するなんて」
「なあ、信者って何?」
蚊帳の外の春斗が、フローランスの後ろから話に入ってきた。これは春斗には訊かれたくないことで、身体をこわばらせて目が泳いでしまった。
「なんだ、知らないのか」
すると、シーラが呆れた表情で春斗を見た。
「信者っていうのは・・・」
フローランスは慌てて、シーラの服の襟を掴み、春斗から距離を取るかたちで、彼女を暗がりに連れ込んだ。
春斗を背にして、極小の電波でシーラにこのことは云わないよう口止めした。すると、案の定フリーズした。
「どうした?」
固まったシーラを置いて、春斗の元に戻るとさっそく抽象的に訊いてきた。
「な、なんでもないわよ」
これには気まずくて、視線を逸らすしかなかった。
「なるほど、訊かれたくないのか」
春斗は察してくれて、この話は流してくれた。
「アミが、こんなに取り乱すなんて初めて見た」
しばらく動けなかったシーラが、驚きながらそう云った。
「あんた何者?人型も連れてるみたいだけど」
春斗に興味を持ったのか、シーラが訝しげにリンを見た。
「変人よ」
「・・・そう、納得した」
シーラにとって変人は理解できないという意味もあるので、この説明が一番手っ取り早かった。
「本人を目の前にしてよく云えるな」
「シーラにはこっちの方が伝わるのよ」
「・・・なら、仕方ないな」
勘の良い春斗は、フローランスの意図を察してくれたようで納得の返事をした。
「自己紹介がまだだったね」
シーラは、仕切り直すように後ろを向いた。
「そこの男!あたしのしもべにしてあげる」
そして、さっきの再現をした。
「って、それが自己紹介なのか?」
「彼女にとっては、この一連の流れが自己紹介みたいね」
春斗の疑問に、フローランスは呆れたように補足した。
「でも、最初の台詞は、待たせるとは良い度胸とか云ってたけど、そこは省くんだな」
「ただ忘れただけじゃない?」
シーラは馬鹿なので、さっきの長台詞を再現できるとは到底思えなかった。
「あたしの名はシーラ。執行人として恐れられてる」
こちらの会話を無視するように、シーラは自己紹介を続けた。
「恐れられてるとか、自分で云うか普通?」
「少なくとも、私は云わない」
シーラの台詞が気になるのか、春斗が積極的につっこみを入れるので、友達として返事をしておいた。
少し苛立ちの表情で眉をピクピクさせたシーラだったが、最後まで云いたいようでそのまま続けた。
「しもべになったあんたに名をあげる。今からあんたはハリエンジュと名乗りなさい」
「しもべになると呼び名も変えるのか・・・かなり一方的だな」
「まあ、シーラだからね~」
さすがに呼び方を変えるなんて奇抜な発想は、シーラならではだと感じた。
「うううう~~、うるさーい!あんた達のせいでせっかく考えたシナリオが台無しだよ」
シーラの苛立ちが頂点に達し、子供のように地団太を踏んで怒鳴ってきた。
「これがうまくいくと思っていたのか。ある意味すごいな」
これを意にも介さず、春斗が馬鹿にしたように驚いた。
「なんか可哀相に見えてきた」
この反応は斬新で面白いので、春斗に乗っかることにした。
「同情すんな~!うううううう~、あんた達嫌い!」
これが感情を逆なでしたようで、シーラが涙目で怒鳴ってきた。
「初対面で嫌われてしまったぞ」
この小芝居をまだ続けたいのか、フローランスに弱く云ってきた。
「あれだけ放言を云えば当然ね」
「とりあえず、謝っておこうか」
春斗はそう云うと、シーラの前に立った。これはちょっと意外な行動だった。
「な、何?」
シーラは警戒して、半歩後ろに下がった。
「いろいろとごめんなさい」
「曖昧に謝るな!」
春斗の小馬鹿にした謝罪に、シーラが反射的につっこみを入れた。
「なら明瞭に云うと、その名前は嫌だ」
「謝罪が拒否になってるよ!」
「謝ったし仲直りしよう」
「謝ってないし、初対面じゃん」
「ふう。じゃあ、俺はどうすれば良いわけ?」
「しもべになれ」
このやり取りは、フローランス的にはとても面白いものだった。
「それはダメ」
でも、春斗がしもべになるのは許せないので、フローランスから横槍を入れた。
「それは、私が許さない」
「な、なんで?」
「彼は、私のものだからよ」
「えっ!二人はそういう関係なの」
「ちげーよ!」
せっかくシーラから引き離そうとしたのに、それを察してくれない春斗が強く反論した。
「名前は春斗。フローランスとは友人関係だ」
そして、これを機に自己紹介した。
「友人?」
「あと、こいつはリン」
シーラの疑問を聞き流すように、リンの紹介をした。
「人型に名をつけてるの?」
フローランスとの関係の疑問から、リンの方に頭が切り替わったようだ。
「ああ。そうだけど変か?」
「人型を連れてる自体変だけど」
「まあ、よろしく頼む」
強引に話を進めようと考えたのか、話をここで区切った。これはシーラに対して、良い対処法だった。
「ふうん・・・一つ訊くけど、拷問の経験は?」
いつもは根掘り葉掘り聞くシーラも、春斗との対話は気楽なようで、珍しく自分から次の疑問に移った。
「全くない。というかしたくない」
「はあ~?なんでここに配属されたのよ?」
「う~ん。フローランスがいるから?」
あまり自信がないようで、台詞を濁すようにフローランスを見た。
「ああ。なるほど」
シーラは心底納得した顔をして、春斗につられるようにこちらを見た。
「それで拷問って、具体的に何するんだ?」
「え、そこから」
「いや、そういう事じゃなくて、拷問する目的を教えてくれ」
「憂さ晴らし」
「は?」
「あ、違った勧誘だった」
「勧誘?」
「そ、組織に入るよう勧めるの」
「拷問で?」
「拷問で」
「入る人いるのか?」
「今までは、いないかな」
「だろうな。拷問で勧誘なんておかしな話だし」
「まあ、ここは別名虐殺室なんて云われてるしね。そもそもここに来た時点で、勧誘に失敗してるから、あとは殺すしかないのよ」
「だから執行人か。どんな経緯でここまで来るんだ」
「あんたも闘技場で戦ったでしょ」
「ああ」
「負ければほとんどは死ぬけど、たまに生きてる場合と、勝った場合に勧誘される。それを断った時にここに連れて来られる」
「えらく最短で来るんだな。普通は拷問で情報収集するんだけどな」
「この組織は情報より戦力を取る」
「わかりやすい組織だな」
「そういうわけだから、勧誘目的で拷問して殺せばいいわけ」
「変な話だな。結局、戦闘員にするか殺すかの二択しかないわけだ」
「そうなるかな」
「うつになりそうだな」
「・・・なんか前途多難ね」
「で、今拷問受けてるのは、何人くらいいるんだ」
「6人」
「結構いるんだな」
「あたしが生かしてるからね」
「どこにいるんだ?」
「この奥」
シーラは横を向いて、親指で後ろを指した。奥は薄暗くてほとんど灯りが届いてなかった。
「この奥、見てみる?」
「一応、見ておこうかな」
春斗がそうお願いすると、シーラが奥の方に歩き出した。
「あ、信者には何もしないでよね」
シーラは思い出したように、フローランスにそう注意してきた。
「・・・」
「約束できないなら、フローランスは出ていって」
「わかった、殺さないわ」
シーラに従うのは苦渋だが、春斗の手前突っぱねることはやめておいた。
薄暗い通路を奥に進んでいくと、奥の方に灯りが見えてきた。歩いた感覚でいうと、奥は直線ではなく曲線の先にある感じだった。
「この奥に一人いるわ」
「残りは?」
「さっきの通路の横に扉あったでしょ」
「暗くて見えなかったな」
春斗は確認するように、後ろを振り返った。フローランスには空気の流れでわかっていたので、振り返ることはしなかった。
奥に近づくにつれ、アンモニアとトリメチルアミン、さらにメタンチオールが空気の七割近く占めてきた。下の方に塩化水素が沈殿していた。
通路を抜けると、さっきと同じように広い空間になっていて、灯りが強く全体がよく見えた。
左端に人がいて、手足が切り落とされ、その手足は無造作に投げ捨てられていた。周りには複数の手足があり、すべて腐敗が進んでいた。項垂れているのは女性のようで、上半身に汚れている服を着て、腰にはかなり傷んだ布を巻いていた。ぼさぼさの髪は伸び放題で、顔は完全に隠れていた。
春斗は布のような物を取り出し、鼻と口を押さえて素早く背を向けた。どうやら、この状況を見ていられないようだ。
「その布は何?」
フローランスは鼻を押さえている物が気になり、春斗に訊いてみた。
「気にするな。それよりこの臭いによく耐えられるな」
「におい?」
春斗の台詞に、シーラがキョトンとした顔で首を傾げた。
「ちょっと待って!」
これには慌てて、春斗の裾を取って言を止めた。
「ちょっと来て」
「どうした?」
フローランスは、春斗の腕を引っ張って通路に戻した。
「貴方、臭いを感じ取れるの?」
「当たり前だろ」
「そう。私たちにはできないわ」
「へ?できない?」
「ええ。だから、臭いを感じれるのは、動物だけだと思ってるわ」
「俺たちも動物だろ」
「・・・私たちは嗅覚がない、それだけは理解して欲しい」
前と同じようなやり取りはしたくなかったので、この場はこれで収めることにした。
「そうか。羨ましいな。俺は、ここの臭いは駄目だ。耐えられない」
「どんな感じなの?」
これにはちょっと気になったので、どういう感覚なのかを訊きたくなった。
「とても不愉快な感じだ」
「そうなんだ」
単純な感想に、一気に興味が失せていった。
「まあ、とにかくこの事も云わない方が良いわね」
「秘め事が多いな」
「根掘り葉掘り聞かれるよりマシでしょ」
シーラはよくそれをしてくるので、あまり興味を持たれるのは避けた方が良かった。
「まあ、確かに」
質問攻めをシミュレーションしたのか、苦い顔をして納得した。
「そろそろ戻りましょうか。シーラが怒りそうだし」
シーラを見ると、予想通りじれったそうにこちらの様子を見ていた。
「戻るのは無理だ」
が、春斗がそれを拒否してきた。
「そこまで耐えられないの?」
「それもあるけど・・・」
春斗は何か云いにくそうに、顔を下に向けた。一瞬だけ視線が捕虜の方を見たので、やはり彼女の状況を直視できないようだ。
「今の俺には耐えられない」
「じゃあ、どうするの?」
「仕方ない。しばらく我慢しよう」
春斗はそう云って、口を少し開けた。これが何を意味しているのかは、フローランスにはわからなかった。
「できるの?」
「頑張ってみる」
春斗は、決意した顔で広間に戻った。フローランスがその後に続いて広間に入った。
女がこちらに気づき前のめりになったが、足がないためその場に倒れてしまった。
「神祖!」
女は顔を上げて、必死で電波を送ってきた。その叫びは、フローランスの感情を一瞬で殺意で塗り固めるものだった。
「その名はやめろ!」
フローランスは強い嫌悪感を出して、怒りに任せてそう叫んでいた。
「助けに来てくださったのですね」
「違う!」
「私の為に、ここまできてくださるなんて光栄です」
信者と呼ばれるだけあって、本当に人の話を聞かなかった。フローランスは、思い出したくない過去が走馬灯のように頭に蘇ってきた。その記憶を遠ざけるように、自然と塩酸ジアセチルモルヒネを生成した。
「黙れ!違うと云っている!」
感情的に生成したので、興奮が抑え切れなくなってしまった。こうなってしまうと、もうフローランスの理性は、怒りという感情で周りが見えなくなってしまった。相手に近づき殺すだけ。今のフローランスの思考はそれがすべてだった。
後ろで雑音が訊こえたかと思うと、フローランスの間に誰かが入ってきた。思考が定まらないとはいえ、リンの顔はフローランスの感情を一気に冷ました。こんなにすぐに冷静になったのは初めてのことで、自分でも驚いてしまった。
「やっぱり駄目みたい。本人を目の前にすると、どうしても殺したくなるわ」
フローランスはメサドンを生成して、彼女を見ないように後ろを向いて歩き出した。
「何処行くんだ?」
「ここにいたら、殺してしまうから、私は戻るわ」
今はその答えが精一杯で、それ以上は何も云いたくなかった。
「あ、危なかった」
シーラから安堵の台詞が聞こえたが、フローランスにはどうでもよかった。
春斗たちと別れて一人で拷問室を出たが、不快感と殺人衝動がずっと纏わりついていた。
「誰か殺すか・・・」
そう呟いてみたが、春斗とリンの顔を思い出すと、不思議と殺人衝動は消え去った。
「ホントにいたぞ。例の始祖とかいう女だ」
建物の小道から二人の男が出てきた。電波を聞く限り、面白がって来た感じだった。
「今は気分が悪い。興味本位ならとっとと消えなさい」
いつもなら叩きのめすのだが、春斗に感化されて見逃すことにした。
「ははっ、見逃すんだってよ。始祖は心が広いようだな」
「ああ、噂とかなり食い違ってるみたいだな」
二人はそう云いながら、こちらを小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「はぁ~、死にたいんだったら、初めからそう云えばいいのに」
最近、この手の馬鹿は見なくなっていたが、組織の中にいれば無知になる上、危機感さえ緩くなるようだ。
「おお~、凄い威圧感だ。空気が歪むようだぜ」
一人の男が嘲笑しながら、もう一人の男の方に電波を流した。
「お、おお」
が、もう一人は状況を察したのか、苦い顔になっていた。
「残念だけど、もう逃がさないわよ。ここまで小馬鹿にしたんだから、せいぜい死なないように工夫してみなさい」
メタドンを生成したとはいえ、まだ興奮は抑え切れていなくて、もう我慢の限界だった。ここまで耐えたのは、ある意味奇跡といってもいいくらいだ。
そして、ここから一方的な暴力が始まるのだった。
第六話 暴走
フローランスが出ていき、リンは春斗の傍についた。これはシーラを牽制する狙いでもあった。
すると、春斗が良くわからないことを云って、リンの頭を撫でてきた。この行動が正気とは思えなかったが、もう握手で接触しているので特に抵抗はなかった。
信者と呼ばれた女が、こちらを睨みつけながらどういうつもりだと云ってきた。どうやら、フローランスが出ていったことを、春斗が引き離したと勘違いしているようだ。
それから春斗たちの会話を、リンはただ黙って聞いていた。リンが生まれる前、巨大な宗教組織があり、その教祖であるフローランスが一人で滅ぼしたと聞いていたが、目の前の女は宗教組織の生き残りのようだ。
信者は、フローランスを春斗がそそのかしたと強引に結論付けて逆恨みしてきた。命令を順守することは理解できるが、始祖の拒絶をこうも捻じ曲げて理解しようとするのは全く理解できなかった。
その話が終わると、今度は春斗が異世界の行き方を二人に訊いた。これは危険だと思ったが、春斗はあまり危機感を感じている様子はなかった。
二人から知らないという返事を聞くと、春斗が見学は終わったと告げて拷問室を出た。その間、彼はずっと布で鼻を押さえていた。
外に出ると、突然春斗が大きく深呼吸したかと思うと、急に大音量の音を出した。鼓膜をつんざくような音に吃驚してしまった。
どうしたのかと尋ねると、悪臭からの開放を堪能してるとよくわからないことを云ってきた。
春斗が戻ろうと云うので、リンはそれに黙って頷いた。遠くで金属同士のぶつかる音が聞こえたが、どんどん離れていくので、春斗に伝えることはやめておいた。
家に着いて、春斗がドアを開けて中に入った。先に戻っているはずのフローランスの姿がなかった。
部屋は前に寝泊まりした間取りと同じだったが、ベッドと内壁が若干違っていた。
フローランスがいないことが気になったのか、春斗は帰ってきてないことをわざわざ電波に乗せてきた。
そう云いながらも捜しに行くことはせず、春斗はベッドに腰掛けた。リンも真似るようにベッドに座った。
すると、春斗が戦い方はどうだったかとよくわからないことを訊いてきた。
戸惑いながら奇抜と答えると、そこから矢継ぎ早にやり易いかとか、指示はどうだったのかとか答えに窮するものばかりを聞かれた。
そして、最後にリン自身の身体能力も試したかったことを告げた。わざわざそんなことを云わなくてもいいことだと思ったが、春斗とリンの思考の違いが如実に出て少し面白いと感じてしまった。
話が区切れたところで、これからのことをリンの方から尋ねた。このままこの組織に飼い慣らされるのは、リンとしては避けて欲しいところだった。
しかし、目的は変わらないという返事が返ってきた。この答えには少し安心した。この流れで、ついでに頭を撫でた意味を訊くことにした。
春斗は、それは褒める行為だと教えてくれた。彼の世界ではそれが一般的なようだが、リンには理解できない行為だった。
リンの受け答えが気になったのか、春斗が気を使うように嫌だったかと訊いてきた。これにはどう答えていいかわからず、生まれて初めて曖昧な返事をした。
この話が終わると、春斗がフローランスのことを気にし始めた。理由を訊くと、悪臭を取りたいと云ってきた。確かに、春斗の服にはアンモニアなどの臭気が多く付着していた。自分で取ればいいと思ったが、春斗にはそういうことができないようだ。
春斗からすれば、アンモニアとメタンチオールとトリメチルアミンの臭いが不快らしい。フローランスとのヒソヒソ話で知って驚いたが、本当に臭いを嗅ぎ分けられるようだ。
表情に出てなかったはずなのに、春斗が何かを察して、リンに五感がないのかと訊かれた。視覚、聴覚、触覚はわかるが、春斗の云う味覚と嗅覚は理解し難いものだった。これは動物にしかないと思われていたが、動物と同じく食事が必要だという彼には、必然的に嗅覚と味覚が発達しているようだ。
春斗が消臭ができないかを訊いてきたので、できないことはないと伝えた。リンの思いつく方法は希釈法、マスキング法、酸化法、中和法、高温酸化分解法だけだった。
どれにするかを訊くと、一つ一つどんなものか説明を求められた。面倒だったが、説明は必要だと思った。
希釈放は、空気を大量に放出して臭気を拡散させる方法だが、体力を多く使うのであまりしたくなかった。
マスキング法は、他の臭いで誤魔化す方法だが、欠点としてはリンに嗅覚がない為、どの成分を多く生成すればいいのかがわからなかった。
酸化法は、オゾンによる酸化分解だったが、春斗がすかさず自分には有毒だと云ってきた。これは濃度調整が難しいので、リンとしてもあまりお勧めできなかった。
中和法は、酸化剤などで吸収させて分解させる方法だった。酸化剤としては、一番生成が楽な硝酸カリウムを推しておいた。
最後の高温酸化分解法は、650℃以上で燃焼分・・と最後まで云う前に、春斗が死ぬと即座に拒否した。そんなのリンも同じだが、あくまで自分の知りうる方法なので、できるかどうかはまた別の話だった。
選択としては、お互い無難な中和法に落ち着いた。
リンがベッドに立ち上がると、春斗が靴を脱げと命令してきた。
靴を脱ぎ、春斗の頭上に硝酸カリウムを注いだ。
十分な量を生成し終えてベッドに座り直すと、春斗は微小な笑みを浮かべて、ありがとうと云ってくれた。この謝意は、リンの心を少しだけ温かくしたような気がした。(気のせいかもしれない)
突然、乱暴にドアが叩かれ、一人の男が部屋に駆け込んできた。入ってきたのは、ライラという青年だった。その慌てようを見ると、すぐにフローランスのことだと察した。
予想通り、ライラがフローランスを一人にしたことを怒ってきた。その彼を観察すると、服は少し乱れ不自然な銅が付着していた。どうやら、戦ってきた後のようだ。
ライラは、すぐに来て欲しいと春斗を外に連れ出した。仕方がないので、リンも後に続いた。
ライラが先を走ると、速すぎると春斗が制止を求めた。
二往復のやり取りをした結果、目的地まで春斗の速度に合わせて走ることになった。
先頭をスローリーに走っている春斗が、事の経緯をライラに訊くと、心当たりはないかとライラに逆に質問された。
春斗が怒っていたと返すと、なぜ止めなかったのかと責めてきた。
そんな話を聞きながら、ぶつかり合う音の方向へ導かれていった。その途中、数人が道端に倒れていた。見る限り、全員息はしているようだ。リンには空気の動きを感知できるので、人の生死は簡単に見分けられた。
春斗はそれを見て驚いていたが、始祖であるフローランスならば別に大したことはないように思えた。ライラもフローランスを止めようとしたが、全然歯が立たなかったらしい。
戦ってから春斗を呼びに来たということは、途中で戦線離脱したことを意味していた。フローランス相手にそれができたことは、それほどの強者ということだった。といっても、最初に会った時から、ライラを警戒していたので別に驚くことでもなかった。
さらに直進して行くと、倒れている人がどんどん増えていった。ライラが云うには足止めのために、人を回したが被害だけが拡大したそうだ。
ゆっくり走っているはずだが、春斗はかなり息を切らしていた。これは前から不思議だったが、未だに訊けずにいた。
直進していると道が開けると、遠目にフローランスの後ろ姿が見えた。その彼女の周りには、多数の人が倒れていた。
フローランスは一人の男と向かい合っていたが、その男は怯えた表情でフローランスに必死で何かを訴えていた。電波が弱く、こちらまで聞き取れなかった。
この状況に、春斗は凄いと驚きの電波を発した。畏怖より先に称賛する春斗は、リンから見たら異様に見えた。
ライラに急かされ、春斗と共にフローランスに近づくと、彼女の殺意のこもった”死ね”が頭に入ってきた。
フローランスがとどめを刺そうとしたところで、春斗がやめろと電波を発した。彼女がこちらに気づき、殺意が一気に沈下した。それは空気が緩和されたことからも明らかだった。
すると、フローランスが泣きそうな顔になり、春斗の名を電波で漏らして逃げ出した。
逃げる意味がリンにはわからなかったが、春斗が即座にフローランスを止めろと指示を出してきた。止める意味があるのかを考える前に、リンの身体が先に動いていた。
体重の差なのか、リンの方が速いようでどんどん距離が縮まっていった。
そして、フローランスの前に回り込んだ。
この後、どう引き止めていいかわからず、即座に両手にナイフを生成してフローランスと対峙した。春斗はまだかなり離れていて、この状態でどうすればいいのかリンにはわからなかった。
迎撃の態勢のままフローランスの動きを警戒したが、全く動く気配がなかった。
ようやく春斗が追いつき、何を思ったのかフローランスを後ろから羽交い締めるという驚きの行動を取った。さすがのフローランスも、虚を突かれて慌てふためいた。
そんなフローランスを宥めるように、春斗が息を切らしながら逃げないよう念を押した。
フローランスが渋々頷くと、春斗はフローランスを開放して息を整えた。あの程度の速度と距離で、疲れているのは本当に不思議だった。
春斗が帰宅を促すと、フローランスが戸惑いを見せて、一緒に居てもいいのかと恐る恐る訊いた。どうやら、暴れたので見放されると思ったようだ。
しかし、春斗は面倒臭そうにフローランスを急かすと、彼女は嬉しそうに彼の後に続いた。
それでもまだ不安なのか、フローランスは自分が怖くないのかと訊いた。それに対して、春斗は不思議そうな顔をした。
この不可思議な反応に、フローランスは困ったように春斗を見返した。それはリンにとっても同じで、とても不思議な感覚にとらわれていた。春斗と接していると、人形であるはずの自分の価値観がどんどん変えられていくような感じがした。
春斗が誰も殺してないだろうと云うと、フローランスは素直に殺そうとしたと告白した。春斗の云い分としては、実際に殺してないのなら問題はないということらしい。それはリンの時もそうだったことを思い出した。
これ以上は意味がないと思ったのか、フローランスは嬉しそうに変な人と云った。そして、優しく澄んだ電波でありがとうと呟いた。それに春斗は何も答えなかった。
前を春斗が歩き、その斜め後ろをリンとフローランスが並んで歩いた。隣のフローランスは嬉しそうな笑顔で、さっきまで張りつめていた空気がゆるゆるになっていた。
ライラの所に戻ると、彼が安心した表情で、もうこんなことをしないようにと春斗に念を押して、負傷者の処理にあたった。
それを見て、春斗は帰るかと云って歩き出した。これにフローランスは、緩やかに返事をして顔を伏せた。
家まで誰も話さず黙って歩いた。春斗と共に行動すると、考えもしないことばかりを経験させられ、まるで人として扱われることに自分の心が揺らいでいくのを感じた。
家に戻ると、春斗がお腹空いたとフローランスに云った。食事を見るのは三度目だが、他人の生成した物を何の疑いもなく体内に流し込む行為は、見ているだけでも恐ろしいことこの上なかった。
食事が終わり、寝ようとした春斗にフローランスがシャワーを勧めた。人形には水浴びという習慣はなく、老廃物は生成に使うことが多いので、異世界の春斗は別にしても、人が身体を水で洗い流すことは不思議でならなかった。
春斗がシャワーを浴びに行き、フローランスと二人きりになったと思うと、春斗がフローランスを呼んだ。
シャワーの水が濁っていて、変な臭いがするらしい。そこは気にするのに、他人の生成した物を口に含める春斗は、本当に変な人だった。
親切にもフローランスが、水の成分を調べようとドアを開けようとすると、春斗が慌てた様子で開けるのを阻止した。
不思議に思ったフローランスが理由を訊くと、裸なので恥ずかしいと云ってきた。これには本当に意味がわからなかった。触られる恐怖ならわかるが、全裸を見られる恥ずかしさはリンには意味不明だった。
その後、ドアを挟みながら二人は楽しそうにふざけ合っていた。
それが終わると、服を着た春斗が出てきて、フローランスが更衣室に入っていった。
フローランスが確認して、ただの泥水だと云った。ここ一帯はナトリウムが多く含んだ土壌で、生成にはうってつけの立地だった。
水は地下にあるので、泥が混じっても不思議ではなかった。前の集落では泥がなかったと春斗が云ったが、水脈によって透明度が違うのは当然だった。
しかし、春斗には臭いが気になるようで、その原因をフローランスに頼んだ。リンはそれを見ながら、動物と人の境界を見ている気分になっていた。
シャワー室の二人の会話を聞くと、長らく使われていないシャワーヘッドが錆びているそうだ。
フローランスがシャワーヘッドの錆だけを落としたようで、春斗の感嘆する電波が流れてきた。
春斗が感謝を云うと、フローランスはどうってことないと照れ隠しで返した。
しかし、濁りは解消していないようで、春斗の微弱な愚痴が漏れてきた。
呆れ顔のフローランスが出てきたのを見て、頼られるのは嫌じゃないのかと疑問をぶつけてみた。正直、人任せの春斗と信者との態度の違いが気になってしまった。
これにフローランスが、驚いた表情をした。リンからの突然の質問が意外だったようだ。(それは自分でも自覚していた)
フローランスは、春斗に頼られるのは嫌じゃないと恥ずかしそうに答えた。この云い方だと、好き嫌いで判断しているようだ。この適合性は、リンには全く持っていない感性だった。
更衣室からずぶ濡れの春斗が、不機嫌そうに出てきた。その理由をフローランスが不思議そうに訊くと、泥水が不快だと云ってきた。
よく見ると、全身は濡れていたが、髪は乾いた状態だった。どうやら、頭に泥水を浴びたくなかったようだ。
フローランスが乾燥しようと、手を前に出したが、さっき暴れたせいなのか熱コントロールがなかなかできなかった。前回は簡単にやっていたが、片手での熱放出は高等技術でリンには到底できなかった。
この状況をどうするのか見ていると、フローランスが全身からの熱放出で服を乾かすと云い出した。
しかし、それをすると抱き合う形になるので、お互い恥ずかしそうに文句を云い合った。
しかし、びしょ濡れよりはマシだと春斗が妥協し、フローランスと抱き合うことを受け入れた。服を着ていたとはいえ、こんな光景は生まれて初めて見るものだった。
それが終わると、フローランスは気まずい雰囲気から逃げ出すように、そそくさと更衣室に入っていった。かと思うと、更衣室から顔だけ出して、服のサイズを測るからリンの承諾をもらって欲しいとだけ云って、返事も聞かずにドアを閉めた。
ベッドに座った春斗から協力して欲しいと云われたが、測る必要はないと断っておいた。着れればいいものに、わざわざ寸法まできっちり図る感性がリンには理解できなかった。
再度協力を求められたが、ここだけは頑なに断っておいた。これ以上は無駄だと察したくれたようで諦めてくれた。春斗のこういう引き際は絶妙で、リンとしても不思議と接しやすいと感じていた。
それでも強く拒絶することが気になったようで、明確な回答を求めてきた。
リンは、接触は死に繋がるとこの世界の常識を教えた。人への恐怖心と拒絶は、生まれた時から身についているもので、それを訊く春斗は異常とも云えた。
それでも納得できないようで、さらに追求してきた。春斗には知っておく必要があると思い、この世界の常識である侵蝕と呼ばれる現象を教えることにした。
侵蝕とは、人と接触することでその人の細胞が転移し、その細胞に適応できなければ死ぬことだと説明した。人に説くのは初めてで、どこまで掘り下げるかを悩んでしまった。
それを聞いた春斗は、さっきフローランスと抱き合ったのは大丈夫かと尋ねてきた。
肌同士が触れていないことと、1タウも抱き合っていないこと、それにフローランスに食事を生成してもらっていることを考慮し、抱き合おうが触れ合おうが、彼女が調整すれば問題ないと答えた。リン自身そんなことはできないが、フローランスには容易だと思った。
ここまで話したので、春斗に少し危機感を持って欲しいとお願いした。侵蝕対策はリンにはできないので、そんな馬鹿みたいな死だけは極力避けて欲しかった。
フローランスがさっぱりした顔で出てくると、服の件について春斗が代弁をしてくれた。
これは予想していたようで、淡泊にやっぱりねと溜息をついた。
結局、リンの服は目算で作ってくれることになった。春斗の服はさっき抱き合ったことで、おおよそなサイズは把握したと照れながら云った。
眠気を感じたのか、春斗が寝ると云ってベッドに寝転んだ。
何を思ったか、フローランスが一緒に寝ようかとリンを誘ってきた。拒絶を望んでいるようなので、力強く断っておいた。
すると、フローランスがショックを受けて涙を浮かべた。演技かと思ったが、空気の淀みからして本気で泣いているようだった。
春斗が泣くことはないだろうと云うと、フローランスが拒絶される悲しみを感情を込めて訴えてきた。泣き落としなんて人形のリンに通用なんてするわけもなく、なんの感情も沸くことはなかった。
春斗もそれがわかっているようで、さっさと寝ようとした。リンもそれに倣うように、靴を脱いで春斗の横に仰向けになった。
フローランスから視線を感じたが、完全にシカトすることにした。春斗の方は、すぐに目を閉じて眠りに入った。
しばらくすると、春斗から安定の寝息が聴こえてきた。暇になったので、これからの先のことをいろいろ考えることにした・・が、春斗が予想外のことばかりするので、あまり意味がない気がしてきた。
しばらく別のことを考えていると、フローランスが体を起こした。時間的に750タウ近く寝ていた。
フローランスはこちらを見て、ニコッと笑顔を見せた。その笑顔に少し恐怖を感じたが、彼女から敵意を感じないのでほっとくことにした。
再び天井に目をやると、空気の割合が少しずつ変化していった。どうやら、フローランスが何かを生成し始めたようだ。
気になって視線を横に向けると、こちらを見ながら糸と針を作り出し、服を編んでいた。リンを見ながら、サイズを目算している感じだった。見られ続けるのは不快だが、触られるよりマシなので、これは許容することにした。
フローランスは黙ったまま服を作っていて、リンは何もせずだた天井を見上げるだけだった。
しばらくすると、フローランスが突然リンに話しかけてきた。
春斗のサイズを測りたいから測定していいかと訊かれたが、起こして訊けばいいとだけ答えておいた。起こすのは気が引けるのか、サイズを測ることはせず作業に戻った。
リンは目を閉じて、考えにふけることにした。何度かフローランスから話しかけられたが、全部無視しておいた。
春斗が目を覚まし、目を擦りながら上半身を起こした。1800タウ近く寝た人をリンは初めて見た。
おはようとよくわからないことを春斗が云うと、フローランスが寝過ぎと返した。
春斗は顔を洗ってくると云って、更衣室に入っていった。リンも起き上がり、ベッドから下りて靴を履いた。
すると、春斗が不愉快そうな顔で更衣室から出てきて、泥水だったことを忘れていたと愚痴ってきた。
そんな春斗を見て、フローランスが編み物の手を止めて、水を生成してあげようかと尋ねた。ここまでやると、愛玩動物を相手しているようで引いてしまった。春斗もそう思ったのか、引き攣った表情で遠慮した。
しばらくフローランスの作業を感心しながら見ていた春斗が、いつ拷問室に行くかを面倒臭そうに悩んだ。春斗の愚痴を聞く限り、臭いが嫌で行きたくないそうだ。
すると、フローランスが拷問室には行かないと先に断った。理由としては、服を作っていることと、信者がいるからだそうだ。
その話が終わると、春斗がこの世界のことをフローランスに尋ねた。
フローランスは編み物をしながら、春斗の要望通り淡々と説明していった。編み物しながらの会話は、通常は難しいはずなのだが、フローランスにはそんな素振りは見せなかった。
この世界には三大勢力があり、大規模な組織は武力組織と民主組織。あと一つは、中規模の独立組織。この三つの組織がこの世界の縮図だった。小規模な組織はいくつかあるらしいが、フローランスも把握していないと云った。小規模な組織があること自体、リンは知らなかった。
春斗が組織の内情を事細かにフローランスに尋ねたが、わからないという答えだけが返ってきた。唯一答えたのは、組織同士の思想が合わないからということだけだった。
それを聞きながら、独立組織にいたリンは電波を挟むかどうかを悩んだ。
すると、春斗がタイミングよくこちらに話を振ってきた。
リンは、独立組織のトップに命令されていただけで詳しくは知らないと答えておいた。そこからいろいろ話そうとしたが、春斗がそれ以上のことは知らないと思ったようで、残念そうに話を終えた。
ここまでの結論として、春斗は民主組織を中心に調べていく方針を固めた。そうなると、独立組織の情報は必要ないと勝手に判断して話さないことにした。
この話がひと段落すると、今度は春斗が生成についてフローランスに訊いた。これはリンも少し興味があった。
春斗には生成できないようで、この世界の人が異常だと云いたいようだった。こればかりは、生まれた環境に左右しているとしか云えない気がした。
水すら生成できないのかとフローランスが訊くと、汗は出るとよくわからないことを云い出した。
それは生成ではなく、分泌物だとフローランスが指摘すると、春斗が不真面目な態度で場を流した。おそらく、人特有の冗談というものだろう。
ここで春斗が、フローランスの細胞は何でできているのかと率直な疑問を投げた。
これにフローランスは、鉄と磁石の元素がないと不可能だと答えた。確かに、この元素は生成には不可欠だと思った。
しかし、春斗にはそれが不可解なようで、特定の元素を取り入れることは人はできないと豪語した。目の前にできる人がいるのそう云い切ってくることには首を傾げる他なかった。
フローランスはその指摘を真に受け、自分たちは異常だと評した。目の前の事象を信じない春斗と、できることを異常だというフローランスには、全くもって理解できなかった。
春斗はさらに掘り下げようと、どんな構成なのかを尋ねた。
しかし、フローランスは答えたくないようで、聞かないで欲しいと願い出た。おそらく、春斗にとっては毒性の強いものがフローランスの細胞には含まれているのだろうと解釈した。
仕方がないので、リンから説明することにした。
人は成長過程で体質が変化することと、細胞の構成は自分で作り上げるので、他人と異なるのは至極当然だということを教えてあげた。
春斗の世界では、多少のアレルギー体質があり、筋力は鍛えることができるようだ。リンには鍛え上げる意味がよくわからなかった。
フローランスはさっきの闘技場での戦いで、たった二撃で沈めたことが気になっていたようで、独り言のように納得していた。確かに、あの重さは普通の人ではありえないことだった。
筋力に興味を持ったのか、フローランスが思いっきりお腹を殴って欲しいと信じられないことを云った。
痛覚を常に遮断しているはずのフローランスが、そんな体験してどうするのかと思ったが、痛覚を戻すと云い出してきた。痛覚を戻すことに春斗は驚いていたが、この世界では常識中の常識だった。そもそも、痛覚を開放したまま生活するなんてありえないことだった。
これは危険だと思い、フローランスにそんなことしなくても別の方法でも測れると助言してあげた。
すると、フローランスが心配してくれたと過剰に感動した。それを見て、なぜ自分はそんなことを云ったのだろうと少し後悔した。
フローランスは1タウも掛からず痛覚を戻して、脇を閉めてお腹に力を入れて仁王立ちした。それでもこの測定法にこだわるには、彼女なりの考えがあるのだろうと思うことにした。
どうしても試すのかと春斗が何度目かの問いに、フローランスは力強く云い切った。
春斗は渋々フローランスの前で腰を落として、右拳を腰の後ろに回した。
その構えに、フローランスが不思議そうな顔をした。構えからして、殴打が来るイメージが湧かなかったようだ。それはリンも同じだった。
春斗が云うには、この方が力が制限できるらしく、腕の力だけで殴れるから効率が良いそうだ。
春斗の掛け声で、右拳がゆっくりとフローランスの腹部にめり込んだかと思うと、僅かに彼女の身体が浮き上がった。筋力を鍛えることで、ここまでの重い攻撃ができるとは思いもしなかった。
フローランスは前のめりになり、お腹を押さえながら力なく両膝をついた。痛覚を戻したことで、久しぶりの激痛で動けなくなったようだ。
これで全力じゃないのかとフローランスが訊くと、春斗は首を振って半分ぐらいだと答えた。これにフローランスが、驚きの表情をした。
リンも殴られて、数十m吹っ飛んだことを伝えると、フローランスが春斗を睨みつけて文句を云った。
すると、春斗が正当防衛だと主張した。これは間違いない事実だった。フローランスもなんとなく想像できたようで突っかかったことを謝罪した。
もう痛覚を遮断したのか、フローランスがケロッとした表情で立ち上がった。それにしては痛覚の遮断が早すぎだった。リンでも数百タウは軽く掛かることを、数タウで成せる彼女は異常だった。
フローランスが鉄の棒で殴られているみたいと云うと、そっちの方が痛いだろうと春斗が即座に反論した。
しかし、フローランスは殴られた方が痛かったと評価した。それにはリンも同意見だが、春斗に鉄の棒で殴られたら、そっちの方が痛い気がした。
フローランスが筋力のことを考察していると、春斗がリン達にも筋力はあるだろうと云ってきた。どうやら、移動速度の違いのことを云っているようだ。
速度に筋力はそれほど必要ないとリンが伝えると、普通に驚かれた。
これを不思議に思ったフローランスが春斗の体重を訊くと、60kgもあると答えた。これには逆にこちらが驚いてしまった。
すると、春斗がベッドに横になり、頭を整理したいと目を閉じた。どうやら、リン達との違いに困惑しているようだ。それはこちらも同じだった。
1タウ経つと、春斗がこの世界は一人で生きていけるのかと当たり前のことを訊いてきた。
フローランスが出来ると答えると、春斗は再び目を閉じて、眠ったように動かなくなった。この事実を理解するのに、少し時間が掛かるようだ。
しばらく部屋には、糸の擦れ合う音だけが聴こえていた。
第七話 捕虜
リンがぼうっと春斗を見ていると、勢いよく扉が開いて、シーラが険しい剣幕で入ってきた。春斗が黙って横になって、60タウほど経ってからのことだった。
シーラの怒号が頭の中で響くと、春斗が驚いて身体を起こした。その反応を見ると、完全に寝落ちしていたようだ。
いつまで経っても来ない春斗に業を煮やしたようだったが、当の本人はシーラとは対照的な対応で迎えた。この温度差に毒気を抜かれたのか、シーラのテンションがガクッと落ちた。
しかし、すぐに怒りに任せた怒号が再び頭に響いた。ここに来るまで、どんな思いで来たかを全身を震わしながら訴えてきた。
春斗は渋々立ち上がり、拷問室に行くことを了承した。この態度にシーラがあからさまに面倒臭そうな顔をした後に、ライラに云われなきゃ来ないと付け加えた。わざわざシーラが来たところを見ると、上下関係は独立組織並みにしっかりしているようだ。
これならライラが来ればいいのにと春斗が云うと、ライラは一人の民主組織の捕虜を拷問室に連れてきて、またすぐ出ていったとシーラが答えた。
捕虜が民主組織の人と聞くや否や、春斗がすぐに行こうとやる気を出した。これはリンにとっても朗報だった。
すると、フローランスも行くと裁縫の手を止めた。作業を途中で止めると、同じ糸の生成は難しいはずだが、フローランスには問題ないのだろうかと疑問に思った。
さっそく拷問室に向かおうとすると、シーラが出ていけないと恥ずかしそうに云ってきた。ここまで来た経緯を聞くと、春斗への怒りで視野を狭めてなんとか来れたらしい。それでも途中で、何度か発狂しそうになったそうだ。
シーラは、ここから出るのに協力して欲しいと不服そうに願い出た。そんなこと自分でなんとかすればいいと思ったが、シーラ本人がそう云うのなら、自分ではどうしようもないのだろう。
優しい春斗は、対策を考え始めた。このまま問答するよりは近道な気もした。
答えは1タウも掛からず、春斗が情報源を断つという解を導き出した。シーラ本人はどうやるか疑問に思っているようなので、目と鼓膜を潰せばいいと、リンから助言してあげた。
しかし、治癒に時間を掛かることを考慮したのか、春斗が目を閉じれば済むと簡易的な提案をした。確かに、この方法が一番手っ取り早いと思った。
すると、シーラがそれだと歩けないと告白してきた。彼女は、空気の流れに敏感ではないようだ。
これにフローランスが、眠らして連れて行こうかと嫌みたっぷりに提案した。これはあからさまにからかっている顔だった。
シーラはすぐに察して、怒った顔でそれを拒絶した。この返しには、フローランスが楽しそうに残念と云った。
話し合った結果、シーラは目を閉じることを選択した。彼女は誰に誘導してもらうかを悩み、消去法で警戒心の薄い春斗になった。確かにこの三人では無難な選択ともいえた。
シーラが春斗の身体の元素比率を教えて欲しいと云うと、これにフローランスが動揺した。
しかし、春斗は冷静に服を掴めばいいと発案し、シーラはそれをすぐに受け入れた。これにはフローランスが、安堵の表情で息を吐いた。
玄関前でシーラが春斗の背中の裾を掴むと、服の生地が珍しいのか凄い手触りと驚きの電波を発した。
すると、フローランスも興味を持ち、春斗の服を触って驚いた。乾燥の時に触っていたはずだったが、熱放出に集中して気づかなかったようだ。
リンもさりげなく触ってみると、手触りがよく、手縫いとは思えないほどの編み方だった。素材は、ウールという動物の毛を使っているらしい。
フローランスも動物を触ったことがないようで、感心したように服を凝視していた。よほど興味があるのか、成分の詳細を尋ねたが、春斗が詳しくない知らないと云い切った。どうやら、誰が作ったかさえわからないようだ。
このやり取りが何往復か続き、最終的にフローランスが諦めた。
これを黙って見ていたシーラが、二人を急かすようにオアシスに戻りたいと云った。全く共感できないが、彼女にとって拷問室はオアシスと思っているらしい。
フローランスもそう思ったようで、低劣だと正当な評価を下した。それはシーラも自覚があるようで、自分にはそれしかできないからと自虐的に独白した。
これにフローランスは申し訳なさそうに謝ったが、シーラは必要ないと悲しそうに断じた。
外に出ると、春斗の後ろの裾を掴んだシーラが目を閉じたままついてきた。シーラの横にフローランスが付き、リンは春斗の横を歩いた。
拷問室に着くと、シーラはお礼を云いながら春斗から離れた。
入った途端、アンモニアの比率が変わった。春斗は顔をしかめて、布を取り出し鼻を押さえた。
階段を下りて、春斗が民主組織の捕虜の場所をシーラに訊いた。この地下は湿気が多く、リン個人あまり良い場所ではなかった。
春斗が案内を求めると、シーラが渋々といった感じで先頭を歩いた。
その後に続くと、二つ目の扉でシーラが足を止めた。そして、思い出したようにライラが別の用件があるから、しばらく生かしておいてと伝言を伝えてきた。
春斗はやんわり了承したが、これはフローランスに云っていたようで、再度殺さないよう念を押してきた。
しかし、フローランスは会ったこともない人を殺さないとは約束できないと云い放った。なぜそこまで頑ななのかは、リンには理解できなかった。
ここでなぜか、春斗から殺さないよう云われた。標的でもない相手を殺すなんて考えもしなかったので、適当に頷いておいた。
シーラが扉を開けたが、中は暗闇で光がなかった。リンは視覚を遮断して、空気の流れに集中した。空気の中に誰かが倒れていて、その右の方に腕と足らしきものが転がっていた。
それを伝えると、春斗がよく見えるなと的外れなことを云った。光がないのに見えるなんてあるはずがなかった。
なかなか中に入らない春斗を見て、シーラが早く入ってと急かすと、見えないから入れないと屁理屈を云った。
暗闇が苦手なのか、春斗がどうにかならないかとフローランスに投げかけた。さすがのフローランスも簡便かと、つっこみを入れるように叫んだ。
春斗はこれを意にも介さず、できないのかと平然と続けた。これには呆れを通り越して凄いと感心してしまった。明かりなんて火と石油を生成すればいいと思ったが、周りの空気比率を考えると、安易に火は使えなかった。
フローランスが簡易でならできなくはないと云うと、春斗がお願いしますと丁寧な姿勢で頼んだ。
フローランスは自分が使われていることを自覚しながら、春斗を背に生成を開始した。彼の駆け引きは、本当にうまかった。
しばらく見ていると、丸い球体が出来上がりその中に青い光が灯った。しかし、その光は球体の中だけで、周囲はさほど照らさなかった。ここまで精度の高いガラスの球体は、初めて見る物だった。
生成した球体を春斗が受け取り、物珍しげにそれを観察した。シーラの方は驚いたようで、凄いという電波が微弱に流れてきた。
春斗は鼻を覆ったまま、光が足りないと贅沢なことを云った。
さすがのフローランスも自分でなんとかしてとキレ気味に云うと、春斗は低姿勢でこれでいいですと頭を下げた。彼は我儘だが引き際はわきまえていて、本当にずる賢い性格だった。
シーラはイライラしながら、さっさと拷問してと睨みつけてきた。その瞬間、空気が圧縮されて何かを生成したようだが、手には何も持っていなかった。
リンが警戒を強めると、春斗がシーラの横を無防備に通っていった。彼ののんきな行動は、こちらの神経に触れることばかりだった。
牢に入ると、シーラが仕事に戻ると云って奥へ歩ていった。中は真っ暗で、春斗の手に持った球体の灯りだけがぼんやりと光っていた。
すると、捕虜が殺しに来たかと電波を送ってきた。電波の高低からして男のようだった。
これに対して、春斗がただ尋問するとだけと答えたが、武力組織が情報に無関心なことを知っているようで、含み笑いで春斗を小馬鹿にしてきた。
春斗は個人的な尋問だと云い切ると、相手はおかしそうに大笑いした。
男は笑った後、情に訴えるなら女にでもすればいいと皮肉ってきた。ここに来た時点で命乞いは無意味だと悟っているようだ。まあ、手足を切り落とされた時点で、望みがないことは本人が一番自覚していることだろう。
春斗が女だったら良かったのにと皮肉で返すと、男は笑いを噛みしめながら感心の電波を発してきた。相変わらずの春斗独特の会話は、リンには予測不能だった。
これで話してくれるという訳もなく、相手は何も答えることはないと揺るがぬ意思を示してきた。
すると、春斗は一問一答を申し出た。ほんの僅かな時間で、もう上下関係のない交渉に成り下がった。これには捕虜も理解できないようで、正気かと疑った。リンもそれには同感だった。とてもじゃないが、異常者にしか見えなかった。
それでも発光物が気になるようで、男がそのことを訊いた。
これに春斗が簡易生成物だと答えると、男が異常者だと評価を下した。目の前に本人がいることを知って、それを躊躇いなく云える男は命知らずに思えた。
今度は春斗が質問をすると、男は知っている範囲で答えてきた。
この一つのやり取りが終わると、男はそれ以上は訊きたいことがないと云って、電波を停止しさせた。
それからは話が進まず、フローランスが痺れを切らせて間に入った。
フローランスが恐怖心を煽って尋問したらいいと助言すると、それに男も同感だと告げた。捕虜である男からの推奨はかなりの違和感を覚えた。
それを聞いた春斗は、フローランスに尋問を任せた。ここでも他力本願も健在だった。
これにフローランスが、凄く嫌そうな電波で断った。理由を聞くと、尋問することは相手に媚びを売ることと同義と思っているらしい。云われてみると、確かに相手を取り込むということは媚びを売ってるように見えるかもしれない・・のかなと思ってしまった。
すると、春斗は尋問が嫌なら説得してくれと方向性を変えてきた。
断ってもこれなので、フローランスは渋々といった感じで一歩前に出て、高圧的な態度で協力しろと命令した。
相手が誰かわかっていないようで、男は強く拒否してきた。フローランスはその答えに腹を立てるわけでもなく、断られた事実をそのまま春斗に報告した。
これには春斗がもう少し粘ってくれと注文を出した。自分で託したくせに、その云い草はあんまりだと感じた。これなら拷問した方が早い気がしたが、横やりを入れると矛先がこちらに向きそうなので、リンから云うことはやめておいた。
結果的に尋問は諦め、帰宅することになった。
牢を出ると、春斗が小さく深呼吸した。嗅覚が良すぎて、極力呼吸を我慢していたようだ。
螺旋階段の中央に行くと、後ろからシーラが怒りに任せるように呼び止めてきた。
春斗が帰ると当然のように答えると、怒りを増したシーラが矢継ぎ早に彼を責め立ててきた。
これをどう収めるかを見ていると、春斗が1000タウ以内に来ることを約束して、シーラの怒りを鎮めることに成功させた。相変わらずの交渉能力だと思ったが、シーラの表情を見ると若干諦観した感じにも見えた。
歩いて帰っていると、春斗が球体の明るさを増すことができないかと、フローランスに投げかけた。
これにフローランスが、時間を掛ければできると答えると、春斗が照明の調整はできるようになるかと、とんでもない無茶振りをした。
さすがのフローランスも、そんなことできないと即答した。照明を生成するのも化学反応を知らないとできないのに、光の調整なんて到底無理だと思えた。
そんな話を聞いていると、球体の光がだんだんと弱くなっていった。どうやら、化学発光が終わったようだ。簡易の割には長い発光だと感じた。
家に着くと、春斗が扉を開けて中に入り、フローランスに照明の生成を頼んだ。これには渋々といったかたちで作ることを了承した。始祖がこんなにも献身とは思わなかった。聞いた話とはかけ離れすぎて、本当に本人なのかと疑ってしまうほどだった。
フローランスが420タウで出来ると云うと、春斗がそんなに掛かるのかと驚いた。生成ができないとはいえ、その態度は相手の神経を逆なでしてもおかしくないと思えた。が、フローランスは呆れるだけで何も云わなかった。もう春斗の我儘に慣れ始めてきているようだ。
春斗は迷惑を掛けると云いつつ、栄養剤まで要求した。この人はどこまで図々しいのだろうと、少しフローランスに同情してしまった。
フローランスは手早く錠剤を作り、しばらく集中するからと云って、照明の生成を始めた。
錠剤を口に含んで飲み込んだ春斗が、リンを手招きで呼んだ。
春斗の隣に行くと、消臭して欲しいとお願いされた。二回目ということもあり、5タウほどで終わった。
消臭がひと段落すると、今度は作戦会議をしようと云ってきた。会議の意味がわからず、首を傾げながら彼を見つめた。
春斗は、声での合図の意味を一つ一つ丁寧に解説していった。その間、フローランスはずっと生成物と睨めっこしていた。どうやら、かなり難航しいているようだ。
そうして、時間が経っていった。
フローランスが出来たと云って、嬉しそうに立ち上がった。生成し始めてからまだ400タウしか経っていなかった。この仕事の早さは、始祖と呼ばれ崇められても仕方ないほどの早さだった。
フローランスは、球体ではなくなった照明器具を見つめ自画自賛した。照明器具は、手のひらサイズの綺麗な楕円形に変わっていた。中は白濁で二つの球体が繋がったような変な形になっていて、下の方に液体が少量入っていた。
春斗が光ってないことを不思議がっていると、フローランスが発光は振ることで化学反応が起こると云った。
春斗は器具をポケットに入れると、玄関の方に歩いた。
どこに行くかを訊くと、拷問室に行くと云った。フローランスはよほど疲れたようで、パスと手を振ってベッドに横になった。
春斗はありがとうと云って、玄関を開けて家を出た。彼の後にリンも続いた。
拷問小屋に着いて、春斗がドアに手をかけて大きく息を吸い込んだ。この部屋に入る心の準備としては、大げさな行為にも思えた。
中に入り、二つ目の引き戸を開けた途端、春斗が布を出して鼻に当てた。
階段を下りていくと、広間で座っているシーラの姿が見えた。500タウも経っていないこともあり、少し意外そうな顔でリン達を迎えた。
春斗は律儀に捕虜に会えるのかと訊くと、シーラは目を閉じたまま好きにすればいいと答えた。どうやら、今は疲れて休んでいるようだ。
春斗は捕虜がいた牢まで行き、ポケットから照明器具と取り出してから扉を開けた。
すると、男がまた来たのかと呆れた感じで云ってきた。誰が来たかぐらいは暗闇でも把握できるようだ。
春斗が照明器具を縦に振ると、眩い青緑色の光が牢を覆った。あまりの眩しさに、リンは目を開けられなかった。
目が慣れてくると、捕虜の驚きの顔が見て取れた。
春斗がボソッと何かを発したが、リンには意味がわからなかった。
周囲に光が行き届いて、牢の中がはっきりと視認できた。男は短髪の垂れ目で、手足が切り落とされていた。服は布切れ一枚で身体を覆われていて、最初に見た信者と同じように顔は憔悴しきっていた。
それを見た春斗が、ゆっくり後ろを向いて牢を出た。リンは不思議に思い、春斗の後を追うように牢から出た。
通路に出て、春斗がその場でうずくまった。また何かを音を出したが、リンには理解できなかった。おそらく、臭いにやられたのだろうと勝手に解釈しておいた。
臭いに慣れてきたのか、鼻を押さえたまま牢に入って、話の続きをしようと切り出した。これではさっきと同じ問答になりそうで、本当に不毛だと感じた。
ここからは、リンにはよくわからない牽制のし合いだった。男が皮肉り、それを春斗が嘲笑で返した。
これを何往復した後、春斗が異世界の話を切り出した。さすがの男も、これには訝しげな顔で電波を止めた。
しばらくの沈黙の後、一問一答を男から申し出た。リンを視認したことで、訊きたいことができたようだ。リンとしてはちょっと予想外だった。
男がリンのことを訊き、交換条件として春斗は異世界について尋ねた。
男から異世界の情報は、予想通り知らないの一言だった。しかし、話はそれだけではなく、上層なら知っているかも知れないという情報もくれた。
春斗は上層に面通しをお願いしたが、この状態では無理だと反発された。確かに、動けない状態でその頼みは無理があった。
切断されている手足を見た春斗は、くっつかないかと云い出した。接合部分が腐食している上にこうも雑菌まみれでは、うまく繋げるのは困難だと思われた。
できないとわかるや否や、話を変えて上層に親しい人がいないかを訊いた。
これに男は怒ったような顔で、いるわけがないと即答した。どうやら、春斗の質問は小馬鹿にされていると感じたようだ。人が最も有害なのに、親しいなんて台詞は侮辱もいいところだった。フローランスの時といい、こればかりは世界の違いを実感させられてしまった。
男もそれを感じたようで、春斗が異世界人だと信じたようだ。その上で、諦めた方が良いと助言してきた。
春斗が不思議そうに首を傾けると、実験体にされるのがオチだと男が云った。
そこからなぜか男が、民主組織の内情について話し始めた。さっきまで突っぱねていた男は、ここにきていつの間にか饒舌になっていた。一つ話しただけで、こうも電波が緩むことはリンには信じがたいことだった。
男の話によると、民主組織は詐欺集団と同じだと断言してきた。自分が所属していたとはいえ、酷い云い草だった。まあ、リンもその気持ちは少しばかりは理解できることでもあったが。
それを聞いた春斗は、宗教みたいだと感想を述べた。別に、誰かを崇拝しているわけではないので、その表現は間違っていた。
人は害であるが、群れることで安心を得ることは、人が生きていくことで一番矛盾する行為だと、男は自虐的に吐露した。殺される確率を減らすには群れることは理解できるが、内部崩壊もはらんでいることを考えると、なんとも滑稽だった。この民主組織が三大勢力の一つになったのは、宗教組織が崩壊したことが一番の要因だと聞いていた。
組織に統率性がないとわかったことで、春斗は代表者のことに話を移行させた。
しかし、男は代表者の名を知らなかった。代表者の場所は聞けたが、それ以外は何も得られなかった。関心がないにしても、ここまで何も知らないことにはリンも呆れてしまった。
春斗は答えてくれたことに礼を云い、他に訊きたいことはないかと投げかけた。
男は、春斗の持つ照明器具は誰が作ったのかと尋ねた。この疑問は初めて見る人なら当然の質問であったが、物凄く遅い質問だとも感じた。
これに春斗は知らない方が良いと親切心で答えると、男はこの場にいないフローランスのことだと察した。
春斗が会いたいかと尋ねると、即座に首を横に振って断った。これは賢明な判断だとリンも思った。
しかし、誰なのかは気になるのか、フローランスのことを何度か訊き、かなり有名人とだけ話すと、彼自身そういうのは疎いと云った。
これ以上話すことがないと判断したのか、春斗が牢から出ようとすると、男が自分の生死のことを尋ねてきた。
春斗は拷問されて殺されると告げると、男は変な気分だと今の気持ちを伝えてきた。
恐怖ではなく変な気分と語る男に、春斗が変な奴と呆れながら云った。男に生の執着はないようだが、春斗の対応も酷く他人事のようで淡泊だった。この二人は生死に関して、似たような部分があるように見受けられた。
このことが気になったのか、異世界でも死に対しては淡泊なのかと男が尋ねた。
これに春斗が、命は尊いと教えられていると信じられないことを云った。この台詞は、リンの頭の中でリピートさせるほどの衝撃的なものだった。
男は顔を歪めて大笑いした後、春斗の世界では万物流転ということを知らないのかと皮肉った。
それに春斗は、そういう詭弁が正当化されていると鼻で笑いながら答えた。
これで異世界にも興味を持ったのか、男が自分から一問一答の継続を願い出た。
しかし、春斗はそれを断った。表情を見る限り、もうここの臭いに耐えられなくなった感じだった。
春斗が小走りで牢を出たので、リンもそれに続いた。
廊下を通り、シーラのいる広間に出ると、目を閉じていた彼女が足音に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
シーラは照明器具の眩さで目を当てられたようで、手をかざしながらそれは何かと訊いてきた。
フローランスが作ったと春斗が答えると、あまり驚くこともなく、さすがねとだけ云って目を閉じた。
春斗と一緒に階段を上がって外に出ると、布を鼻から離して大きく息を吸い込んだ。よほど、春斗にとって不快な臭いだったようだ。
家に戻ると、フローランスがベッドで横になって眠っていた。
それを脇目に、春斗が照明器具を入り口の床に置いた。灯りは弱ることなく周囲を照らし続けていた。
春斗が消臭を頼んできたので、リンは春斗の頭上から硝酸カリウムを注いだ。
それが終わると、今度は寝ると云ってベッドに横になった。リンも彼に倣って、靴を脱いで仰向けになった。春斗におやすみと云われたので、リンもその台詞をなんとなしに返してみた。(ちなみに、意味はまるでわかっていない)
目を閉じた春斗を見て、リンもそれを真似して目を閉じた。さっきあったことを思い出しながら、自分と人の違いをゆっくりと考えることにした。
世界が違えば人の在り方が変わり、常識がかけ離れることを、春斗と出会って実感できた。彼と行動することで、この先もいろいろ考えさせられることだろう。死を受け入れているリンにとってはなんとも複雑な気持ちだったが、生きていることの意味を少しは見出されそうな気もしていた。
異界遍歴①