流れの庭

流れの庭

 加賀藩邸のアームストロング砲が火を噴いた。放たれた砲弾は菖蒲の咲く不忍池を越え、数日来の長雨の中、ぬかるみに足をとられている彰義隊を側面から強襲した。
 江戸城西の丸で柱によりかかっていた軍師・大村益次郎(おおむらますじろう)は、上野の山から火の手があがるのを見て、
「皆さん、これで始末がつきました」
 と言った。
 勝勢の知らせが次々に届き、参謀たちは喜びにわく。先ほどまで「なぜ夜襲をかけなかったのか!」とやかましかった海江田信義が「見事であった!」と肩を叩いてくる。
 朴念仁(ぼくねんじん)とあだ名される益次郎は、この歴史的大勝の瞬間にも表情を変えない。異様に広い額の奥で、彼の脳はすでに新政府の軍制について思いを巡らせている。
 これからの戦では、刀や槍は役に立たない。火力と、集団戦。兵器も兵法も異国から取り入れなければならない。
 ならば、名誉や伝統にこだわる武士より、百姓の方が向いている。百姓の意外な勇猛ぶりは、高杉晋作(たかすぎしんさく)が率いた奇兵隊は無論のこと、各地で相次いだ一揆においても既に実証されている。頭数も多い。
「民兵か」
 と、益次郎は小さく呟いた。
 今から二四年も前、九州・豊後の広々とした私塾の中庭で、塾主の老人が確かに、民兵を組織すべしと言った。
 あの人ともっと話がしてみたかった――と、黒煙にいぶされる梅雨空を眺めながら、益次郎は思った。

 新政府軍のアームストロング砲が彰義隊めがけて火を吹くおよそ九万年前、月も墜ちよとばかりに阿蘇山が火を噴いた。
 火砕流は多くの生命を飲み込んだが、のちに肥沃な大地となって、奪った以上に多くの生命を育んだ。焦土の跡に菜の花が咲き、ミツバチが飛び、そのミツバチをスズメバチが追った。
 北九州の中央に位置する日田盆地(ひたぼんち)も火砕流によって一度、埋没した。なぎ倒され、炭化した樹木は地の底に眠った。その後、悠久の時の中で、いく筋もの川が薬研のように土を削り、盆地を蘇らせた。栄養価の高い土を豊富に含んだ川は西の有明海に注ぎ、日本最大の干潟を形成する。
 日田盆地は、長崎・福岡・中津・別府といった主要な港を結ぶ線上にあり、古くから交通の要衝であった。アマテラスオオミカミの孫、ニニギノミコトが高天原から地上へ降り立った際にも、この日田で案内役のサルタヒコに出会ったと言われている。
 戦国の世を勝ち抜き、太公となった秀吉は、的の真ん中を射抜くように日田を直轄地とし、九州の大名たちに睨みをきかせた。その位置づけは徳川の時代になっても「天領」として受け継がれ、多くの人と物が集まり、繁栄を極めた。町人たちが力をつけ、やがて公金の運用を任されるほどの大商人も現れた。

 関ヶ原合戦の一八二年後にして上野戦争の八六年前、江戸時代後期、日田を代表する商家「博多屋」で、額の真ん中にほくろを持つ男児が産声を上げた。
 父は博多屋五代目当主・三郎右衛門(さぶろうえもん)、母の名はユイ。赤ん坊は寅年に生まれたので、寅之助(とらのすけ)と名づけられた。
 待望の長男であったが、このとき日田を訪れていた高僧・豪潮律師(ごうしゅうりっし)に頼んで、寅之助の命運を占ってもらったところ、かなりの病弱ゆえ、跡取りには不向きと言われた。三郎右衛門は断腸の思いで、男児に恵まれていなかった兄、平八(へいはち)に幼い我が子を預けた。
 平八は博多屋の四代目。体が弱かったため、わずか数年勤めただけで当主の座を退いたのである。そんな兄なら寅之助の気持ちをよくわかってやれるだろうという期待もあった。

天明七( 一七八七)年 平八 四一歳

「行くぞ、金時、季武、貞光、綱! 人々を苦しめる鬼の頭目、酒呑童子(しゅてんどうじ)を打ち倒すのだ!」
 子どもたち、木刀を振りかざし、すすきの原に分け入っていく。
 寅之助・六歳――しあわせな子どもだ、と、秋風庵(しゅうふうあん)と名付けた隠宅の窓枠に肘を置き、平八は思う。
 病弱というお告げはどこへやら、あのようにすくすくと育っている。近所の子供たちの中でも腕白な方だ。毎日のようにチャンバラごっこをして、しばしば木刀を折る。買ってやった木刀はあれでもう六本目になる。
 何しろ、生きている。飢えを知らず、生きている。それがしあわせだ。
 あの子が生まれた翌年、信濃の浅間山が火を噴き、それを合図とするように、ひどい飢饉が始まった。今年も稲の育ちはよくない。全国の農民が苦境に立たされている。特に東北は地獄のような有り様で、餓死した人間の肉を食っているなどという噂さえある。
 この日田は、豊かである。その中でも我が実家・博多屋は音に聞こえた豪商。米の蓄えも、米を買う金もある。
 天にもし神仏の類がいるのなら、裕福な家の子どもになど関わっていないで、飢えに苦しむ百姓たちを救ってやってほしい。
「よく来たな、源頼光(みなもとのよりみつ)、そして頼光四天王! この酒呑童子が返り討ちにしてくれるわ!」
 高橋伊兵衛(たかはしいへえ)が両手に木刀を持って子供たちの相手をしている。筑前のさる名家からゆえあって流れてきたというが、要するに、暇な大人だ。寅之助が『御伽草子(おとぎぞうし)』の源頼光に憧れているのも、伊兵衛の影響である。
 と言っても、不都合なことは何もない。子供はのびのび育てばよい。
「くそっ、酒呑童子め、手強い! みなの者、一時下がるぞ!」
「臆したか、源頼光!」
 伊兵衛、奇妙な形相で子供たちを追い回す。子供たち、笑いながら逃げ惑う。
 寅之助は――腕白なだけではない。聡い。伊兵衛の語る戦物語を誰より早く暗唱し、ときおり、大人のようなことを言う。他の子供たちとは――伯父のひいき目ではなく――目つきが違う。
 何か特別な教育をしたわけではない。生まれつきというやつだろう。
 寅之助は平八を「父上」と呼ぶが、本当の親ではないことは既に感づいていて、素知らぬ振りを、おそらく、している。そのぐらいの計算は寅之助ならやりかねない。
 しあわせで、面白い子供だ、と、平八は思う。跡取りなどにこだわりはないが、安々と手放すつもりはない。
「兄上、いらっしゃいますか」
 と、三郎右衛門の声。
 弟は近頃、頻繁に通ってくる。魂胆は見えている。あいつは寅之助を取り返そうとしている。
 二番目の男児が死産という悲劇に見舞われ、一度はあきらめた長男がいまさら惜しくなったのだろう。病弱でも、俺のようにつなぎの当主なら務まるかもしれない。
「暇なのか、三郎右衛門」
「仕事は忙しくしております。ただ、安利(あり)を兄と一緒に遊ばせてやりたくて」
 安利は寅之助の二つ下の妹である。
 一緒に遊ばせたいという言葉は決して嘘ではないだろう。ただ、本当の狙いは、寅之助の自分に対する存在感を増すためにちがいない。血のつながった父親は自分だと、言外に主張しているのだ。
「兄上、今宵、お話ししたいことがございます」
 ……ついに、来たか。
「今では駄目なのか?」
「私はもう仕事に戻らねばなりませんので」
「よかろう。どうせ俺は暇な隠居の身だ」
「では、夜四ツ(午後十時)頃、お伺い致します」
 軽く、布石を置いておこう。
「三郎右衛門」
「はい」
「あの子は、俺を〝父上〟と呼ぶぞ」
「……存じておりますが、それが何か?」
 隠そうとしても、動揺は見て取れる。その素直さが弟の美点でもあるのだが。
 そのとき、
「おじ様!」
 と、駆け込んできたのは、金吾(きんご)という少年であった。
 歳は寅之助より一つ上。控え目だが芯は強く、幼いのに気配りができ、何かと目立ちたがる寅之助を立ててくれているようなところがある。
 その金吾が、いつになく慌てふためいている。
「寅がハチに刺された!」
 平八が立ち上がるのと、三郎右衛門が表へ飛び出すのは、ほぼ同時であった。
 より早く駆け付けた方が本当の親というわけでもあるまいに――と、平八は、寅之助の身を純粋に案じる一方で、何やらこじれた間柄になった自分たち兄弟を嘲笑した。

同日 長作 四五歳

 金吾の父・長作(ちょうさく)は町医者である。
 息子から寅之助の名はよく聞いていたが、顔を見るのはこれが初めてだった。唇を噛みしめ、目尻に涙を溜めて、大人でも悲鳴をあげるような痛みに耐えている。大したものだ。思わず抱きしめてやりたくなるような健気さであった。
 診療所にやってきたのは、金吾と寅之助、寅之助の妹・安利、父の三郎右衛門と、その兄・平八の合わせて四人。
「いかがですか、先生」
 三郎右衛門が言った。
 寅之助は生まれてすぐ親元を離れ、平八に育てられているらしい。せっかく生まれた長男を兄に預けるとはどういう事情か、当初は色々と憶測が飛んでいたようだが、すぐに鎮火した。豆田の町における博多屋への信望は篤い。
「これまでスズメバチに刺されたことは?」
「いえ、これが初めてのはずです」
 と答えたのは、平八だった。
 長作は、
「ならばよかった。スズメバチの毒は二度目が危ないのです。体が過剰に反応して、命を落とすこともあります」
 と、説明した。
 その言葉に、場にいた全員が一斉に蒼ざめた。
「一度目ならまず大丈夫です。何日かすれば腫れも引きます。患部をよく冷やしてやってください」
「わかりました」
 との返事は、これも平八がした。
 三郎右衛門は何やら複雑そうな顔をしていた。
 しかし、今はそんなことより、刺された左手の甲よりも、ずっと気がかりなことがある。
「一つお伺いしますが、このほくろは?」
 仏像の白毫のように、寅之助の額の中央にある小さなほくろについて、長作は誰にとはなしに問うた。
「生まれつきのものですが……」
 と、三郎右衛門が答えた。何を訊かれているのかわからないといった様子であった。
 確かに、こちらも要領を得ない言い方になってしまった。年寄りのシミとは違う。子どものほくろは生まれつきに決まっている。
「失礼。ただ、縁起が良いですねと、そう感じたまでです」
「そうですか。どうも」
 と、三郎右衛門はあいまいに微笑んだ。
 何も言うべきではなかった。どうせ何もできない。
「父上、寅之助は立派でした」
 と、金吾が口を開いた。
「そうだな。よく泣かなかった」
「いえ、刺された時もです」
「刺された時?」
「こいつは妹をかばったのです」
 金吾の口調は、まるで自分のことのように誇らしげである。
「はじめは妹が刺されそうになっていました。寅之助は自分の着物を脱いで妹にかぶせてやり、自分が犠牲に……」
「違うぞ、金吾。あれは俺が勝手に刺されたんだ」
 と、寅之助が口を挟んだ。
 安利は先ほどから不安そうに立ち尽くしている。
 長作は、心の中でため息をついた。
 金吾の一つ下、若干六歳。その幼さで、身を挺して妹を守り、しかもその手柄を否定するとは――

 尚、このとき、長作はまんまと騙されている。
 寅之助は、大人たちの歓心を買うために、敢えて口を挟んだのである。すぐに止めなかったのは、自分の行動を長作に聞かせるためであった。
 無論、そういう小賢しいところの一つや二つあったところで、寅之助を悪童と見なす理由にはならない。

 ――皮肉なものだ。こんなに勇敢で、優しく、賢い子供が、長くは生きられないとは。
 礼を言って去っていく大人たちと安利、そして寅之助を、長作は虚しい気持ちで見送った。
 長作は、他人の体の一部を見て、重い病の兆しに気付くことがある。それは医者としての知識ではなく、一種の霊感のようなものであった。
 これまで、ただの一度も、自分の気付きを人に話したことはない。気付くのは、自分の――いや、今のこの国の医術では、とうてい歯が立たない病ばかりだからだ。ならば、話したところで、絶望を与えることにしかならない。
 つまり、この力は、長作に無力感を与える以外、何の役にも立っていない。
「金吾」
「はい」
「お前、医者になりたいか」
「はい。今日の父上を見て、今まで以上にそう思いました」
「そうか」
 金吾が大人になる頃には、医術が進歩して、寅之助の病も治せるようになるだろうか。
 できればそうあってほしいと願いながら、長作は薬箱を閉じた。

同日 寅之助 六歳

 その日の夜、寅之助は傷の痛みで、なかなか寝つかれずにいた。
 それにもかかわらず、三郎右衛門と平八が当初の予定通り、秋風庵で話し合いを始めてしまったのには、二つの原因がある。
 一つは、寅之助が日中、つらそうな素振りをあまり見せなかったこと。本当は焼けるような痛みだったのだが、子どもらしからぬ矜持を持つ寅之助は、心配してもらうことで周囲の関心を集めるというのをよしとしなかった。
 もう一つは、寅之助の負傷によって、三郎右衛門と平八それぞれの保護者としての自覚が強まったこと。親は自分だと確認したいという焦りのために、当の寅之助が眠ったふりをして話を聞いているかもしれないということには、二人とも考えが及ばなかったのである。
 この夜、二人の会話を盗み聞きしていなければ、寅之助のその後の人生はまったく違ったものになっていただろう。

「あの子を返していただきたいのです」
「その話だろうとは思っていた」
 間。
「これまでのことは、本当に感謝しております」
 間。
「まこと手前勝手な願いであるとは、重々承知しております」
「三郎右衛門、お前の魂胆はわかっているぞ。待ちに待った次男が無事に生まれず、そのうえ寅之助は占いに反して健やかに育っている。あの子が惜しくなったのだろう」
 間。
「あけすけに申せば、その通りです」
「寅を返すつもりはない」
「兄上」
「あの子は今でこそ元気すぎるほどだが、これから大病をして、弱っていくのかもしれない。だとすれば、博多屋の仕事は勤まるまい。病弱な者同士、俺の方が何かと気が合うだろう」
「確かに、そのように考えました」
「ならば、このままでよいではないか」
「あの子の命運が平坦ではなかろうとは、覚悟しております。今日、長作先生が寅之助のほくろを指して何か言いかけたのも、何かよからぬものを見出されたのではないかと」
「あんなものはただの雑談だろう」
「そうであればよいのですが……」
 間。
「こんな言い方をすれば、兄上はお怒りになるでしょうが」
「養子に出したわけではない、か?」
「……はい」
 そして、長い間があった。
 さすがの寅之助も、頭を整理するのに忙しく、しばし傷の痛みを忘れたほどであった。
 安利を連れてたびたび通ってくる三郎右衛門が実の父であるということは、薄々わかっていた。
 だが、占いで病弱と予見されていることは、初耳であった。
「血を分けたのはお前だ。公事(裁判)にかければ、そちらに有利だろうな」
「まさか、兄弟で公事など……」
「しかし、そうでもしなければ、俺は手放さん」
 間。
「気ままに句を詠むだけの男に、跡取りなどいらないと思うか?」
「いえ、そのようなことは」
「実際、俺も跡取りが欲しいわけではない。男児に恵まれなかった以上、どうしても継ぐ者が欲しければ自分で養子を探した。俺はただ、寅がかわいいのだ」
 間。
「無論、博多屋が途絶えていいとは俺も思わない。ユイは今年でいくつだ?」
「二十四になります」
「まだ若いではないか。先日のことは残念だったが、跡取りに相応しい子はきっとまた授かる」
「寅之助を跡取りにしようというのではありません」
「何だと?」
「無理をすれば体に障り、仕事が滞りでもすれば博多屋の信用に関わります。寅之助には、学問をさせたいのです」
 間。
「なるほど」
 間。
「その歳になって、未練があったとはな。幼き日の無念を息子に晴らさせようというわけか」
「どのように受け取られてもかまいません」
「違うのか? 商いには無用の長物、変に知恵をつけてはむしろ有害と、父上から書物を取りあげられて泣いているお前を俺はよく覚えているぞ」
「学問は、有益です。学ぶ当人にとっても、商いの上でも」
「学問をしたことがないお前になぜそんなことがわかる」
「今は根拠のない、ただの願望です。しかしきっと寅之助が学問の尊さを証明してくれます」
「商いは無理な体でも、学問ならできると?」
「俳諧と学問を一緒くたにしては乱暴やもしれませんが、現に兄上は俳人として名をはせておいででしょう」
「口が上手くなったな、三郎右衛門。少なくともお前が当主でいるうちは、博多屋は安泰だ」
「寅之助が学問を身につけて、博多屋を側面から支えてくれることを、私は夢見ているのです」
 寅之助は、襖の向こうから漏れ聞こえてくる会話が、自分について話しているということを、すんなりとは理解できなかった。
 生き方は自由、という概念は、この時代、この国にはない。
 まして、寅之助はまだ六歳の子どもである。恐ろしく大人びたところがあるとは言え、自分は将来、何者になってどんな風に生きていきたいという、明確な指針などあろうはずもない。
 それでも。
 それでも寅之助は、自分の意思とはまったく無関係なところで、自分の生き方が云々されているということに、強い嫌悪感を覚えていた。
「先刻、跡取りが欲しいわけではないとおっしゃいましたが、では兄上は、あの子をどのように育てようとお考えで?」
「あの子がいくつだかわかっているのか? そんなことを考えるのは早計だ」
「いえ、学問なら、もう始める頃合いです。まず、最低限の読み書きは私が教えます。その上で、長福寺の法幢上人(ほうとうしょうにん)より句読を授けていただく所存です」
「もうそこまで考えているのか。ずいぶん必死だな」
「我が子のことです。必死にならぬわけがないでしょう」
「だったら、初めから〝必死〟になるべきだったのではないか?」
 間。
「偉い坊さんの言いなりになって、右往左往しているお前に、寅之助をしあわせにできるとは思えん。あの子はこれまで通り、俺が育てる」
 二人の男は――言うまでもないが――それぞれに寅之助を愛していたのである。
 しかし、当の寅之助は、愛されているとは微塵も感じなかった。まるでもののように扱われることが、どれほど不快であるか――この体験は寅之助の胸の奥に深く深く刻み込まれた。スズメバチの針よりも深く、鋭く、奥底を抉った。
 が、ここまでで済めば、ただの心の傷で済んだかもしれない。
「どうか、この通りです」
「よさないか。見苦しいぞ、三郎右衛門」
 疲れた。もう眠ろう。
 瞳を閉じて、意識が遠のきかけたその時、鼓膜に飛び込んできた言葉が、寅之助を再び現実に引き戻した。
「占いの結果には続きがあるのです。あの子の命は、もって十九までと」
 以後、襖の向こうのやりとりは、寅之助の耳にはほとんど入らなかった。
 悲しみも怒りも沸かなかった。ただひたすら、混乱していた。
 十九まで。残された時間が長いのか短いのか、よくわからない。
 この時点で、寅之助が経験している「人の死」は、祖父の葬式のみ。十九歳までに死ぬとはどういうことか、理解しろというほうが無理である。
 若くして死ぬ。だから何だ?
 ひどく混乱しながら、寅之助はいつしか眠りに落ちていた。そして、夢を見た。

 宙にふわふわと浮いて、自分の葬式を眺めている。
 金吾や、安利、友達も皆すっかり立派になって、沈痛な面持ちをしているが、焼香を済ませると速やかに去り、それぞれの居場所へ帰っていく。
 視点はゆっくりと上昇する。
 人々の忙しそうな、楽しそうな生活が、少しずつ小さくなっていく。
 足をバタつかせ、空を掻いても、上昇を止めることはできない。
 やがて雲に飲まれ、何も見えなくなる。

 翌朝、寅之助の両の目からは光が失われていた。
 人は皆、左手の傷を案じてくれた。
 しかし、何日かして腫れが引いても、眼の光は戻らなかった。

寛政三( 一七九一)年 安利 八歳

 主屋を出ると外の世界は夏の日差しに満ちていて、安利は思わず目を細めた。打ち水の跡はもうすっかり乾いている。
 濃い影を作っている土蔵を、安利は心配そうに見あげた。兄は今日もあの二階で寝っころがっている。
 長福寺での講義がない日はきまってこの調子だ。
 学業は順調のようで、父もよく兄をほめるし、近所の人が噂しているのも何度か聞いたことがある。
 けれど、兄はひどくつまらなそうに学問をしている。少なくとも安利の目にはそう見えた。
 病気のせいでもあるのだろう。昔、源頼光になりきって駆けまわっていた頃とは別人のように、一年中青白い顔をしている。
 三年前のスズメバチが元凶だと、安利は密かに信じている。
 金吾の父・長作先生に確かめたところでは、もうあの毒は完全に抜けていて、最近病気がちなこととは関係ないと言われた。二度訊いて、二度とも同じ答え方をされた。しかし、その説明はきっと安利を気づかってのものにちがいない。
 明らかに、あの日を境に、兄の様子が変わった。
 親に命じられたことはする。覚えろと言われたことは次々に覚える。しかし、自分から何かしようという気配がまるでない。遊びに出かけていくこともないし、誰かが訪ねてきても具合が悪いと言って追い返してしまう。近頃は声をかけてくれる友達もずいぶん減った。
 病気のせいで、気がふさいでいるのだ。つまり、元をたどれば、安利のせいだ。

 埃が舞う中、きしむ階段をのぼっていくと、寅之助はまるで罪人のように、むしろを敷いて横になっていた。組んだ両手を枕にして、ぼんやりと天井を見つめている。
「兄上」
 兄は返事をしない。見向きもしない。
 いつものことだが、いつまで経っても慣れない。
 責められている、と、安利は感じる。
「兄上、読み書きを教えてください」
「なんだいきなり」
 と、寅之助は寝ころんだまま、目線だけを安利に向けて言った。
「父上に駄目だと言われただろう。女が知恵などつけたら嫁に行けなくなる」
「では、兄上も、嫁に知恵があったら嫌ですか」
「俺は嫁などもらわん」
「どうして?」
「いらんからだ」
 と、寅之助は少し強い声で言った。
 安利はひるみながらも、
「読み書きを教えてください」
 と、食いさがった。
 実のところ、学問がしたいわけではない。兄と話す口実が欲しいのだ。
 あの日、ハチからかばってもらったことについて、感謝も謝罪も伝えられていない。何も言えないまま過ごしてきてしまった。
 せめて関わり続けることが、謝意を表す唯一の方法だと思っている。
「兄上」
「しつこいぞ」
 と言いながら、寅之助はごろりと安利に背を向けた。
「父上が駄目だというのだから駄目だ」
「ですから、内緒で」
「駄目だ。ばれたら俺も叱られる」
「……」
 そう言われては、安利も言葉が出ない。
 蔵の二階は暗く、涼しい。小さな格子窓から差し込んだ強い光が、寅之助と安利の間の床を照らしている。
「外はいい天気だぞ、安利。遊びにでも行ってこい」
「それなら、兄上も一緒に」
「今日は体の調子が良くない」
「いつもそうおっしゃいます」
「本当にそうなんだから仕方ないだろう」
「調子のいい日はないのですか?」
「そんな日はない」
 そして、寅之助は顔をぐるりと安利の方へ向け、
「俺は死ぬまで調子が悪いんだ」
 と言った。
 その目はあまりに暗く、月のない夜のようで、安利の背中に寒気が走った。
「死ぬ、などと」
 安利が口ごもっているうちに、寅之助はまた向こうを向いてしまった。
 スズメバチの毒。なんておそろしいんだろう。
 本当なら、私がああなるはずだった。私がああなるべきだった。
 兄上は、学問もできるし、男だ。体さえ丈夫なら、きっと立派な跡取りになれるはずなのに。
 その時、
「おい、寅之助! いるか!」
 と、階下から声が響いた。
 続いて、階段を駆け上がってくる音がして、
「なんだ、いるじゃないか」
 と、金吾が顔を出した。
「いるなら返事ぐらいしろよ」
「静かにしてくれ。今日は体調が悪いんだ」
 と、寅之助は大儀そうに体を起こし、むしろの上にあぐらをかいた。
「今日も、だろ。まぁ聞け、寅之助。今日はいいものを持ってきた」
 と、金吾は懐から布の包みを取り出し、開いた。
 中から現れたのは、小指ほどの大きさの、ごぼうの切れ端のようなものだった。
「にんじん(高麗人参)だ。肥後の倉重湊(くらしげみなと)というお医者様が昨日うちにいらしてな、これから太宰府へお参りに行かれるそうなんだが、お前のことを相談したら、この薬を分けてくださったんだ」
「また余計なことを」
「またいじけたことを。〝病は気から〟だぞ。薬を飲む時は、これで病を治すんだという、気合いが大事なんだ」
 出不精になった兄に、親切にしてくれる友達は、今やこの金吾ぐらいしかいない。
「わざわざ悪いな。じゃあ、その薬の礼に、一つ頼みがあるんだが」
「礼に、頼み? ふつう逆じゃないのか? まぁいい、言ってみろ」
「妹に読み書きを教えてやってくれ」
「俺が?」
 と、金吾はかすかに泳ぐ目で、安利を見た。
 寅之助と金吾は共に長福寺で学んでいる。
「なんで俺が。兄貴のお前が教えればいいだろう」
「あいにく俺は具合が悪い」
「だから、この薬を試してみろって」
「金吾、無理はしなくていい」
「無理? 俺が何の無理をしてるっていうんだよ」
「お前は俺が心配で来ているわけじゃない。目当ては他にあるんだろう」

 早熟な兄の影響か、安利も年齢の割には、物事を筋道立てて考えることのできる子どもである。
 とは言え、このとき、兄と金吾が話していることを理解するには、さすがに幼すぎた。
 安利にとって金吾は、兄の大切な友達であって、それ以上でも以下でもなかった。

「そこまで言うなら、俺はもうここへは来ないぞ」
 と、金吾が低い声で言った。
「勝手にしろ」
 と、寅之助は冷たく言った。
 気まずい沈黙が流れた。
 安利には、何を言うべきか、わからなかった。
「煎じて、飲ませてやってくれ」
 と、金吾は安利の手ににんじんを握らせて、階段をおりていった。
 寅之助は、話は済んだと言わんばかりに、また仰向けになった。
「兄上は、どうして……」
 言葉が続かなかった。
 どうして一人になろうとするのだろう。伝染る病と言われたわけでもないのに。
 一人きりで、この暗い土蔵の二階で、いつも何を考えているのだろう。
 安利がうつむいたまま、いつまでも去らずにいると、
「なぁ、お前もしかして」
 寅之助は天井を見たまま、
「……いつかのハチのこと、まだ気にしているのか?」
 と言った。
 安利は、顔を上げることができなかった。
「馬鹿だな、お前は。たかがハチの毒が何年も残るわけないだろう。この病とあの時のことは何も関係ない」
 長作先生にもそう聞いた。けれど安利には信じられない。
「安利、お前は何も悪くない。あの時俺は、本気でハチをやっつけようとしていたんだ。木刀で打ち落ちしてやろうとな。容易いと思っていた」
「……」
「俺は源頼光になりきって、ハチに勝負を挑んで、負けた。それだけのことだ」
「でも、兄上はあの日から病気がちになったではないですか」
「たまたまだ」
「信じられません」
「昼間のあいつじゃない。夜中に、別の奴に刺された。いや、母上のお腹の中にいるうちに、もう刺されていたらしい」
 と、寅之助は一息に言った。
「何を、おっしゃっているのですか?」
「誰にも言うなよ」
「何をですか?」
「今から言うことを」
 安利は、眉をひそめながら、うなずくしかなかった。
「豪潮律師の占いによれば、俺は十九までに死ぬそうだ。だから、学問も、家の手伝いも、はりきったところで何にもならない。ただ言われたことを黙々とこなして、そっと消えていこうと思っている」
 あまりにも突然のことで、安利には兄の言葉がうまく飲み込めない。
「十九までにというのが、何とも中途半端だと思わないか? いっそ今すぐの方が楽でいいのに」
 と言って、寅之助は目を閉じた。

翌日 寅之助 十歳

 相鼠有皮
 人而無儀
 人而無儀
 不死何為

『詩経・国風』の一部、『相鼠』の冒頭である。
 何度も読んで、寅之助はもう飽き飽きしている。
「では、読んでみよ、金吾」
 と、椋野元俊(むくのげんしゅん)先生が言った。
 元俊先生は法幢上人が務めで講義ができない時、代理をしている青年である。
「はい」
 と、金吾は居住まいを正し、「相鼠」を声に出して読みあげた。

 鼠を相るに皮有り
 人にして儀無し
 人にして儀無くんば
 死せずして何を為さんや

失、(しつ)一つ」
 と、元俊先生が厳かに言った。
「何を為さんや、ではなく、何をか為さんや、だ」
「ありがとうございます」
 と、金吾は頭をさげた。
 漢文を正しく読むこと。それだけが「句読」の目的であった。一音たりとて間違いは許されないため、ほぼ丸暗記するしかない。
 意味は一切教わらない。ひたすら読み方だけを習う。この勉強が、これから何冊も続くのだ。
「では、次の四行」

 相鼠有齒
 人而無止
 人而無止
 不死何俟

「寅之助、読んでみよ」
「はい」

 鼠を相るに齒有り
 人にして止無し
 人にして止無くんば
 死せずして何をか俟たんや

「失なし。さすだな」
 と、元俊先生が言った。
 ほめられたが、寅之助は軽く会釈しただけであった。
 正しく読める――もとい、暗記ができているからといって、それが何になろう。
 寅之助は「止」や「俟たんや」の意味が知りたかった。けれど、質問をしても叱られるだけだ。決して教えてはもらえない。
 正確に、何度も何度も繰り返し読めば、自然と意味はわかるようになるのだと、元俊先生や法幢上人は言う。
 寅之助はもう百回は「相鼠」を読んでいる。それでも意味は見つからない。
 そもそも、意味を教えてもらえない理由がわからない。
 伊兵衛さんに軍記物の話を聞いている時の方がよほど自分のためになった――と、寅之助は昔を懐かしむ。
「では、最後の四行を、徳兵衛(とくべえ)
「はい」
 徳兵衛は図体の大きな少年であった。肩が広く、胸が厚い。正座がいかにも窮屈そうだ。豆田の町の南、三隈川のそばに広い田畑を持つ百姓の息子で、今はこの長福寺に泊まり込んで学んでいるという。

 相鼠有體
 人而無禮
 人而無禮
 胡不遄死

「読んでみよ」
「……」
 徳兵衛は、喉の奥で小さく咳払いをして、読み始めた。

 鼠を相るに體有り
 人にして……

 つかえた。「禮」の字が読めないのだ。
 嫌な空気が流れる。
 ちらりと横目で見ると、徳兵衛は冷や汗をかき、必死に続きを思い出そうとしている。
「人にして……」
 元俊先生は助け舟を出す代わりに一言、
「寅之助」
 と言った。
 続きを読めということだ。

 人にして禮無し
 人にして禮無くんば
 胡ぞ遄やかに死せざらんや

「よろしい」
 と、元俊先生が言った。
 今さら優越感など感じない。寅之助の疑問で埋め尽くされている。
「禮」の意味は何か? 「胡ぞ」は?
 ただ記憶することに、何の意味があるのか。これが「学問」なのか。父上は幼い頃、こんなことを、どうしてもやりたかったというのか。
「徳兵衛」
 と、元俊先生の鋭い声が飛んだ。
「……はい」
 と、徳兵衛が消えいるような声で返事をした。
「お前、歳はいくつになる」
「十六です」
「お前より五つも六つも下の子どもたちがすらすらと読めているのだぞ。恥ずかしいと思わないのか」
「……申し訳ありません」
 現在の生徒は寅之助たちを含め七人。徳兵衛は一番年長であるのに、一番覚えが悪い。大きな体のせいで、よけい不憫に見えた。
「私に謝っても仕方ないだろう。よくよく復習をしておけ」
「はい」
「では次、『河廣』を読む」
『河廣』と聞いた瞬間、夕立のように、疑問の数々が寅之助の頭に降ってくる。
「一葦」とは何か。
「跂」ったのはなぜか。
「刀」を何に「容れ」ようとしているのか。
「朝を崇」うとは何を指すのか。
 もしや、と寅之助は思った。
 元俊先生も、意味まではわかっていないのではないだろうか?
「何ですかあなたは!」
 と元俊先生が叫び、寅之助はいま疑ったのが知られたのかと思って、飛びあがりそうになった。
 生徒たちは元俊の目線を追って、一斉に背後を振り返った。
 寅之助もそれにならって振り返ると、そこには一人の浮浪者――いや、異常者が立っていた。
 一見すると老人のようだが、四十の前と言われればそのようにも見える。髪は伸び放題でフケだらけ。彫りの深い顔に、ぎょろりとした大きな目。汚れなのか日焼けなのか、真っ黒な脚。何より異様なのは、この夏の盛りに、綿入れの夜具を蓑のようにまとっていることである。
「やぁ、俺のことは気にせんで、続けてくれ」
 と、男は鷹揚に言った。
「何者かと尋ねているのです」
「そうおっかねえ顔すんなって。法幢の奴に訊けばわかる」
 法幢上人を、呼び捨てにした。
 生徒たちは無言でどよめき、元俊先生は眉間にしわを寄せた。
「邪魔しようってんじゃねえんだ。あいつが私塾みてえなことしてやがるってんで、ちょいと気になってな」
 と、男はぼりぼりと髪を掻いた。遠目にも、フケが舞うのが見えた。
「ほれ、続けてくれ。何なら見学料払うぜ」
 法幢上人の知り合いらしいということで、元俊先生も追い返すわけにはいかなくなったのだろう。不服そうに、『河廣』の句読を再開した。
 講義が終わった時、男はいつの間にか姿を消していた。

同日 安利 八歳

 その頃、豪潮律師が再びやって来て日田に滞在していたのは、数奇な巡り合わせと言うほかない。
 安利は一人、遊びに出かけるふりをして、大超寺へと向かった。
 自分の命がもって十九までという占いの結果を、兄はいつ、どうやって知ったのだろう。父や母は知っているのだろうか。
 兄はあれ以上話してくれなかったし、誰にも相談できない。豪潮律師がおいでになっているなら、直接確かめてみよう、というわけである。
 十九までに死ぬと知らされれば、兄の生気のなさもうなずける。けれど、何かの間違いであってほしかった。だいたい、そんな結果を本人に伝えるなんておかしい。殺すも同然ではないか。
 花月川沿いに西へ行くと、大超寺の墓地が見えてくる。祖父の墓もある。兄がそう遠くない将来、あの中に加わるということを、つい思い浮かべてしまう。
 不吉な想像と戦いながら、墓地の外を回り、大超寺の門をくぐった。

 豪潮律師は、八歳の子どもを快く迎え、部屋に招きいれてくれた。
 家が檀家とは言え、安利が大超寺の建物に入ったのはそれが初めてであった。
 博多屋に授かった長男について占いを頼まれ、恐ろしい結果が出たことを、律師は覚えていた。
「確かに伝えました、お父上にだけは。その答えを三郎右衛門さんがどうなさるかは、あの方次第ですから」
 と、律師は安利相手にも丁寧な言葉を使った。
「兄夫婦のもとへ預けたというのは、家督を継げないのに家に置いてはかわいそうとお考えになったのではないでしょうか」
「でも、兄は三年前に帰ってきました」
「ええ、私もそこが不思議です。どういった心境の変化なのか、こればかりは三郎右衛門さん本人に訊いてみなければわかりませんね。あるいは、平八さんの方に何か事情があったのかもしれませんが」
「兄が、十九までに」
 言いかけて、言葉に詰まった。
「……長くても十九までしか生きられないというのは、確かなのですか?」
 死、という言葉は避けた。
 律師は静かに、
「残念ですが……」
 とだけ言った。
「兄はそのことを、自分で知っているようなのです」
 と安利が言うと、律師は目を見開いた。
「お兄さんが、そう言ったのですか?」
「はい」
「そんな……」
 と言って、律師は口元に拳を当て、考え込んだ。
 兄の死を予告した人物。明王像のような、もっと恐ろしい人を安利は想像していたが、実物はいたって穏やかな、どこにでもいそうなお坊さんだった。
「……そもそも、あなたが知っているということ自体、私には信じがたいことだったのです。あなたはお兄さんの口から聞いたというわけですね」
「はい」
「三郎右衛門さんが寅之助くんに話すとは思えません。老い先短い者なら残された時間をどう使うか考えるのに役立つかもしれませんが、小さな子どもに言っても苦しめるだけです」
 兄は「刺されたのは夜」と言った。スズメバチから安利を守ってくれたあの日の夜、何かがあったのかもしれない。
 ただ、それをいま律師に言ったところで意味がないと思い、安利は黙っていた。
「十九までしか生きられない。その報せは、使いようによっては有益です。そもそも人はいつ死ぬかわかりません。若くして死ぬことだって決して珍しくはありません。期限がわかっていれば、備えることができます。三郎右衛門さんならきっと上手に導いてあげられると思ったのですが……いえ、これは私の言い訳ですね」
 と、律師は、安利から目をそらさずに言った。
「なぜ知ってしまったのか、いきさつはわかりませんが、私が誰かに話す以上は、思わぬところへ伝わってしまうことも、当然あり得たのです。軽率でした。体が弱いという話にとどめておけば、誰も傷つけることはなかった」
「変えることは、できないのですか?」
 と、安利が言った。
 律師を困らせるために来たのではない。兄の助けになる方法を見つけることが、安利の目的であった。
「変える、というと?」
「十九までという定めをです」
「……」
 律師は面食らった様子であった。
 変えようとして変えられるものなら、律師はとうに手を打ってくれているだろう。けれど、確かめておくべきだ。
「かわいそうですが、定めを変えることはできません」
 と、律師は言った。
 できない、と律師は明言した。しかし安利はその時、違和感を覚えた。言い回しか、表情か、声色か、はっきりとはわからないが、何となく、本当のことを言っていないような気がした。
「天より授かった定めを、なくすことはできません。寅之助くんが何か悪いことをして、罰が当たったというわけではなく、毎日必ず夜が来て、毎年必ず冬が来るように、人の定めはただそこに〝在る〟ものなのです。せめて彼が、知ってしまったことを前向きにとらえてくれればよいのですが」
「……」
「私が何か力になれることがあれば、いつでもおいでなさいと、お兄さんに伝えてください」
「わかりました」
 と言いながら、安利は別のことを考えていた。
 気の持ちようの問題ではない。何か、定めを変える方法があるのかもしれない。律師はたぶん、何かを隠している。
 礼を言って、大超寺をあとにした。

翌日 寅之助

「よぅ」
 長福寺の門を入ったところで寅之助を待ちかまえていたのは、昨日の講義に突然乗り込んできた男であった。この陽気に、相変わらず夜具をまとっている。
「ちょいとこっちへ来な」
 と、男はうすら笑いを浮かべ、指先だけで手招きをした。
 傍目には人さらいにしか見えまい……が、寅之助はその時、男がやけに澄んだ目をしていることに気づいた。
「今から講義なのです」
「そっちに行きてえのか?」
 返答に詰まった。
 行きたいかと訊かれると、行きたいわけではない。
「……行かねばなりません」
 と、寅之助は正直に答えて、立ち去ろうとした。
 すると男は、
「お前、この前の講義、あくびをかみ殺してばかりいただろう」
 と言った。
 寅之助は思わず立ち止まり、振り向いた。
「後ろ姿でも気配でわかるもんさ」
 と、男は耳の裏をぽりぽりかきながら言った。
 寅之助は頬が赤らむのを感じ、弁解しようとした。
「恥ずかしながら、体が弱く、眠りも浅いのです。それで……」
「違うな」
 と、男がさえぎった。
「お前は学問をつまらねえと思ってやがる。意味もわからず、読み方ばっか覚えて何になるんだってな。そうだろ?」
 その通りだった。
 しかし、認めてよいものかわからず、寅之助は黙っていた。
「俺は四極(しきょく)ってもんだ。お前、名はなんっつったかな」
「博多屋の寅之助と申します」
「いいか、寅之助。『相鼠』の〝止〟ってのは〝節度〟のこと。そんで、〝何をか為さんや〟と〝何をか俟たんや〟は、ほとんど同じ意味だ。要するに、一段目と二段目は、〝礼儀〟と〝節度〟を大事にしろってことを言ってんのさ」
 前触れもなく始まった講義に、寅之助は劇的に惹きこまれた。
「〝禮〟ってのは〝礼節〟だ。礼儀と節度だな。つまり、三段目は前二段を繰り返してるだけで、新しいことは何も言ってねえ。ただ、最後の表現だけが違う」
「胡ぞ遄やかに死せざる」
「そうだ」
 この部分の意味は、何となくわかるし、気に入っていた。
〝どうしてさっさと死なないのだろう〟。
 自分に向けて、寅之助はしばしばつぶやいていた。
「礼節を欠いた奴は、〝鼠以下の存在“どころか〝さっさと死んだ方がいい〟とまで言ってんだな。役人たちの腐敗ぶりがよほど腹に据えかねたんだろうよ」
 役人の腐敗。
 思い当たることがあった。
「『水滸伝(すいこでん)』」
「お、知ってんのか?」
「昔、高橋伊兵衛さんという方が、軍記物の話をいろいろと聞かせてくださいました」
 伊兵衛は、寅之助がスズメバチに刺され、病気がちになって少し経った頃、ふらりとまたどこかへ流れていったという。元気にしているだろうか。
「あれは腐敗しきった王朝と役人たちを倒すために志ある男たちが立ち上がるって話だったよな。そう、『相鼠』を書いた奴も、『水滸伝』の男たちも、同じような怒りを抱えてる。歴史は繰り返すってわけだ」
 面白い。
 寅之助はこの時初めて、学問を「面白い」と感じた。
 音の羅列に過ぎなかった漢詩の意味が明らかになり、自分の中の知識とつながる。
 今までは、底の抜けた桶で井戸の水を汲みあげようとしているようなものだった。やれと言われるままにやっているだけ。徒労でしかなかった。
 この人が教えてくれるなら、着実に水は汲みあがる。自分の中に溜まっていく。
 どれほど学んだところで、寿命が伸びるわけではない。それでも、自分が楽しむために学ぶのも悪くないと思い始めていた。
 寅之助が興奮している気配を察してか、四極は口元をニヤつかせながら言った。
「もう一ついいことを教えてやろう。『孝経』はもう読んだか?」
「いえ、まだです」
「そうか。『孝経』の『開宗明義』にはこう書かれてる」
 と言って、四極は懐からしわだらけの紙を取り出し、開いた。

仲尼間居。曾子侍坐。子曰。參先王有至徳要道。以順天下。民用和睦。上下無怨。女知之乎。曾子避席曰。參不敏。何足以知之。子曰。夫孝徳之本也。教之所由生也。復坐。吾語女。身體髪膚。受之父母。不敢毀傷。孝之始也。立身行道。揚名於後世。以顕父母。孝之終也。夫孝。始於事親。中於事君。終於立身。大雅云。無念爾祖。聿修厥徳。

「読めるか?」
「いいえ」
「だろうな。この『開宗明義』は要するに、目上の者を敬えってことを言ってる」
 言われてみれば、「父母」や「孝」の字がある。
「以上だ」
 はじめは四極の言わんとしていることがわからず、寅之助は呆然と紙を眺めていたが、やがて気づき、四極の目を見た。
「どうだ? 句読を済ませてるかそうでないかじゃ、意味を知って感じることの〝厚み〟がまるで違うだろ」
「はい」
「お前らが学問に使ってる書物は大抵、要点をまとめちまえば大したことは書いてない。要点だけ次々教えちまうことだってできる。けど、それじゃ身に付かねえのさ。句読は退屈で時間がかかるもんだが、時間をかけることに句読の意味がある。ただ、気を付けなきゃならねえのは――」
 と言いながら、四極は紙を乱暴にたたんで懐に突っこんだ。
「――どのぐらい時間をかけるか、だ。個人差ってやつを考えなきゃならねえ。足並みを揃える必要はねえのさ。寅之助、お前みたいに物覚えのいい奴はどんどん先に進んじまった方がいい」
「では、急いで学問を修めれば――」
 寅之助は体が熱くなるのを感じている。
 こんな感覚は伊兵衛さんから源頼光の話を初めて聞いた時以来だ。
「――若いうちに、何か事を為すことができますか」
「急ぐこともねえと思うが、まぁ、そうだな。見る目のあるお偉いさんに見つけてもらえりゃ道も開けるだろう。俺もそれなりにつてはある。紹介してやらんこともないぜ」
「ぜひ、お願い致します」
「焦んなって。お前はまだ見こみがあるに過ぎねえ」
 と、四極は寅之助の頭を荒っぽくなでた。
 その手はずいぶん汚れていたが、嫌だとは少しも思わなかった。
「当面、法幢たちの講義も受けろ。すぐ辞めるわけにもいかねえだろうしな。そんで、俺んとこにも来い。今はここの講堂に寝泊まりしてる」
「いつお伺いすれば」
「いつでもいい。お前の体力次第だ」
 体力と聞いて、にわかに不安になった。
 その顔色を悟られないよう、寅之助は素早く頭をさげ、礼を述べた。

寛政四( 一七九二)年 安利 九歳

 昨年の夏から、兄の様子が一変した。
 以前はいつでも具合が悪そうにしていたのが、今は良い日と悪い日とがある。
 そして、具合の良し悪しにかからわず、寝る間も惜しんで学問をしている。
 以前と打って変わって意欲的になったことを、父は喜んでいる。
 安利にとっても嬉しいことではあったが、同時に不安でもあった。いつか無理が祟って、倒れてしまうのではないだろうか。
「あの人は本当に何でも知ってる」
 四極先生という人のことを、兄はよく嬉しそうに話した。

 長福寺に通っている生徒たちの中では、兄の他に金吾も四極先生に見出され、指導を受けていたという。
 その金吾は今年に入ってすぐ、四極先生の紹介状を携え、筑前の「亀井塾」を目指して旅立った。遠出して学ぶことを「遊学」というらしい。
 出発の日には大勢の見送りが集まった。日頃表情をあまり変えない金吾の父・長作先生の、不安と期待が入り混じった顔を、安利はよく覚えている。
 当然、兄も行きたがった。四極先生としては行かせたい考えだったという。けれど父が、体の弱さを理由に許可しなかった。
 兄は憤り、激しく抗議したが、父は頑として譲らず、安利は内心ほっとしていた。昨年の暮れにも半月以上、熱を出して寝こんでいる。見知らぬ地で学ぶことはおろか、そこまで無事たどり着くこともできないような気がする。
 父も、安利も、寅之助の邪魔をしたいわけではない。心から応援している。
 学問に対して熱心になったのならなおさら、丈夫で、長く生きられる体にしてあげたい。無慈悲な定めを、変えてあげたい。
 安利は大超寺に毎日通い、祈願した。
 それは、仏様への祈りでありながら、密かに、律師への、隠している手段があるなら教えてほしいという願いでもあった。
 雨の日も風の日も通った。
 念じた。
 苦痛ではなかった。
 兄の病弱さの原因がスズメバチではなかったとしても、あの日、自分をかばってくれたという事実は動かない。
 恩があり、縁もある。
 寅之助のために大超寺へ通うことは、安利にとって、生きがいのようなものになっていた。
 そして、桜のつぼみがほころびはじめた頃、豪潮律師が安利を部屋に呼んだ。

「私はまもなく、京へ戻らねばなりません」
 と、律師は言った。
「寅之助くんはずいぶん熱心に学問をしているそうですね。彼の力になってあげたいとは、私も思っています」
「はい」
 と返事だけして、安利は律師が話すのを待つ。
 律師は何か考えこむように目を閉じた。ややあって、目を閉じたまま言った。
「定めを変える方法がないわけではありません」
 やはり。
「本当ですか?」
「はい」
「教えてください。どうすればよいのですか?」
 律師は目を開いて、
「祈りなさい」
 と言った。
「え?」
「お兄さんのことを心から思って、体を丈夫にしてくれるよう、毎日仏様にお祈りをしなさい。そうすれば、定めは変わるかもしれません」
 何を――言っているのだろう。
 祈ることなら今でもしている。
 何か特別な方法があるのだと期待していた安利は、ひどく落胆した。
「今までとは違います」
 と、安利の心中を見透かしたように、律師が言った。
「どういうことですか?」
「人の祈りは、そう易々とは届かないようになっています。考えてもごらんなさい。川を一匹の魚が泳いでいるとします。ある男が、それを釣りたいと思った。ところが、向こう側にいる男も、その魚を釣りたいと思った。二人が同じように祈っても、実際に釣ることができるのはどちらか片方だけです。人の願い事は、平等には叶わないようになっているのです。故に、仏様は滅多なことではお力を貸してくださいません」
 だったら祈っても無駄ではないか、などと安利は言わない。静かに律師の話を聞いている。
「今から私が特別な儀式をして、寅之助くんに対してだけ、祈りが届きやすいようにしてあげます」
「そんなことが、できるのですか」
「はい。この方法は俗に〝(しるべ)をつける〟と呼ばれています」
「……」
「どうして早くやってくれなかったのか、と思っているでしょう。それは、逆に寿命を縮めることにもなりかねないからです」
「なぜ、ですか?」
「良い祈りだけが届くようにはできないのです。標をつければ、悪い祈り――つまり、恨みや呪いにも影響されやすくなります。極端なことを言えば、誰かに〝死んでしまえ〟と一度思われただけで、命を落とすこともあり得ます」
「……」
「それでも、良い祈りのほうが強ければ、悪い祈りの影響は打ち消すことができます。毎日欠かさず通ってくるあなたを見て、こんな妹さんの支えがあるなら賭けてみる価値はあると、私は考えました。ただ――」
 律師は優しい目をしている。
「――そんな危険なことはさせられないと言うのなら、標をつけることはしません。私がここを発つまで、あと三日あります。よく考えて、どうするか決めてください」
「しるべをつけてください」
 と、安利は即答した。
「待ってください。もっとゆっくり考えてから……」
「大丈夫です。しるべをつけてください。兄は、私が守ります」
 と、安利は迷いなく言った。
 十九までという定めと、病気がちの体のせいで、一時期はふさぎこんでいたが、近頃は生き生きとしている。
 もともと朗らかで、いつも友達の輪の中心にいた。
 大人たちにも一目置かれている。
 あの兄が、人の恨みなど買うわけがない。

 そう確信する安利は、やはり子どもなのである。
 どれほど利発でも、まだ人生を知らない。知りようがない。

「定めを変えるには、それしかないのでしょう? どうか、お願いします」
 と、安利は小さな頭をさげた。
「……わかりました」
 と、律師は言った。

同年 寅之助 十一歳

 やけに体が軽い。
 しかもこの好調が今日で四日も続いている。覚えている限り、こんなことは今までになかった。
 金吾の遊学に同行できなかった悔しさから、自分なりに体を鍛えようと思い立ち、蔵の奥で眠っていた木刀をひっぱり出してきて、毎日素振りをしている。その効果がさっそくあらわれているのかもしれない。
 このまま体が頑健になれば、また遊学の話が持ちあがった時、今度はきっと許してもらえるだろう。
 四極先生の話によれば、亀井塾を主宰する亀井南冥(かめいなんめい)という人は「筑に南冥あり」とうたわれる学者で、志賀島で金印が発見された時には誰より早くその由来を説明してみせたという。
「ありゃまぎれもなく天才だ」
 と、四極先生は言う。
 遊学への憧れはつのる。
 亀井南冥先生がわずか二十歳にして師の著書の序文を任されたという話もまた、寅之助の胸を打った。
 若輩者でも認められることはある。自分も何かの形でこの世に名を残すことができるかもしれない。
 残り八年。遊んでいる暇はない。
 体の好調にも助けられ、寅之助はかつてない勢いで学業に邁進していった。
 近頃は四極先生の指示で、自ら漢詩を作ることにも挑戦している。課題は「七言絶句」を一日一首。
 漢詩というものが非常に厳しい制約の中で作られているということを、寅之助は初めて知った。
 ただ七文字を四行並べればいいというものではない。七文字は「二字・二字・三字」の組み合わせでなければならず、韻の踏み方にも細かな規則がある。こんながんじがらめの中で、古今の詩人たちはよく多彩な詩が詠めるものだと感心した。
 はじめは規則の中で形にするのがやっとだったが、やがて慣れた。すると今度は題材探しに苦労するようになった。思い立った時に詠めばいいのなら楽だが、一日一首なのである。寅之助は毎日、必死に捻り出した。
 この訓練は、寅之助の観察眼を鋭く磨きあげた。

 ある日、法幢上人の句読を受けている時のことである。
 徳兵衛の両親が訪ねてきた。
 その父親は開口一番、
「徳兵衛、もう十分だろ」
 と言った。
 当人は無視を決めこんでいるらしく、じっと書物に目を注いでいる。
 生徒たちの目線は忙しく徳兵衛と両親との間を行き来する。
 法幢上人は普段と変わらない低い声で、
「今は講義の最中です。あとにしてくださいませんか」
 と言った。
「いいや、そうはいきません」
 と、徳兵衛の父親は譲らなかった。
 母親ははらはらした様子で夫を見ている。
 小柄な夫婦であった。あの二人からよく徳兵衛のような巨躯が生まれたものだ。
「半年の約束のはずだぞ。もう一年になる。ここまで見逃してやっただけでもありがたいと思え」
「……」
 徳兵衛は動かない。
「うちは百姓なんだ。せいぜい読み書きができりゃ十分だろ。さぁ、帰るぞ」
「俺は帰らない」
 と、微動だにせず、徳兵衛が言った。岩が声を発したようであった。
「いい加減にしろ!」
 と、父親が怒鳴った。
「お坊様、半年って約束は、あんたも聞いてたでしょう。どうしてこいつを帰してくださらなかったんです」
「徳兵衛くんの求めに応じたまでです。学問に終わりはありません」
 法幢上人はすべて承知の上で、徳兵衛をかくまっていたのである。
 このとき寅之助は、無味乾燥な教え方しかできないと思っていた上人の、深い一面を垣間見た。
「じゃあお坊様、あんたは――」
 と、荒い声を出す父親に、母親は一言、
「ちょっと」
 とだけたしなめた。
 父親はそれにかまわず、
「――親の言いつけに逆らってもいいって言うんですか。そういう教え方をしてんですかここは!」
 と、いまにもかみつかんばかりであった。
 生徒たちはすっかり委縮して、自分の膝に目を落としている。
 父親は床を踏み鳴らして徳兵衛の背後まで歩いていき、襟の後ろをつかんで、無理やり立たせた。
 上背こそ小柄とは言え、その二の腕が見事に引きしまっているのを、寅之助は見た。力仕事をしてきた男の腕だ。
 徳兵衛はその体勢のまま、
「寅之助」
 と言った。
 自分の名前が呼ばれたことに、寅之助は一瞬、気づかなかった。
「お前はまだ生まれたばかりだったはずだから、覚えてはいないだろう。昔、ひどい飢饉があったんだ。春になっても寒く、雨が降り続いて、稲が育たなかった」
 飢饉があったということは、秋風庵にいた頃、平八から聞いていた。しかし、それきり忘れていた。
「俺は、こんなのおかしいと思った。飢饉があったことじゃない。百姓ばっかり死ぬことがだ。米を作ってるのは百姓なのに、どうして百姓が飢え死にしなきゃならないんだ」
 徳兵衛がこれほど長く言葉を話すのを、寅之助はもちろん、その場にいた全員が初めて聞いた。
 父親は、襟の後ろをつかんだまま、その場から動かず、唇をかんでいた。
「俺は世の中を変えたい。世の中を変えるには学問がいる」
「だからってお前が学問をしたところでどうにもならねえだろう」
 と、父親が言った。
「だから寅之助、お前が頑張ってくれ」
 と、徳兵衛が言った。
「俺は覚えも悪かったし、やっぱり百姓だ。悔しいけど親父の言う通りだ。あとはお前に託す」
 寅之助と徳兵衛は、決して親しかったわけではない。
 生徒たちの間では、不出来な徳兵衛を嘲る風潮があった。寅之助は陰口こそ叩かないまでも、率直に言って、ほとんど眼中になかった。
 しかし徳兵衛の方では、六つも年下の寅之助に対し、妬むどころか、尊敬の念を抱いていたのだった。
「お前はきっと偉くなる。世の中を変えてくれ。飢饉が来ても人が死なないようにしてくれ」
「さぁ、もう行くぞ」
 と、父親が徳兵衛の襟から手を離しながら言った。
 徳兵衛は法幢上人に深々と頭を下げると、父親に付き従って出ていった。
 その大きな背中を、寅之助はただ見送ることしかできなかった。
 一言も発せなかったことが、心の中にしこりとして残った。

同年 三郎右衛門 四二歳

 かつては自分の書物が世に出まわることを夢見たこともある。
 とは言え、いたずらに不安をあおるようなことを書き、しかも書店が出版に応じてくれないからと自ら版木を彫ってまで、書物を出したいとは思わない。
 林子平(はやししへい)という男が『海国兵談』という本を自力で出版して禁固刑に処されたという噂は、三郎右衛門たち商人にとって笑い話でしかなかった。
 兵器を開発し、戦術を研究し、沿岸の守りを固めよと、林は『海国兵談』の中で語ったという。異国の脅威に備えよというのだ。
 何を馬鹿なことを、と世間は一笑に付した。三郎右衛門も同じであった。
 陸続きなら領土争いにもなろう。けれど、この日本は島国である。わざわざ海を越えてきて戦を仕掛けるなど、割に合うとは思えない。事実、もう何百年もの間、異国からの攻撃は受けていないというではないか。
 妄言を吐いてまで名を売りたかったのかと思うと、三郎右衛門は林という男が哀れにも思えた。

 寅之助は近頃、良い師がついてくれたとかで、猛烈な勢いで学問をしている。この調子なら、期限までに書物の一冊でも出す人物になるかもしれない。
 その折には、やはり世のため人のためになる書物を書いてほしいと思う。林のように、世間の笑いものになることだけは決してしないでほしい。
 寅之助は一時期より体も丈夫になったようだ。
「額のほくろの色がいくぶんか薄くなったんじゃないか」
 と、先日訪ねてきた平八が言った。
 毎日息子と顔を合わせている三郎右衛門は言われるまで気づかなかったが、注意して見てみると、確かにそう感じられた。
 忌まわしい定めが消えかかっているのかもしれない――と、期待するなという方が無理であろう。
 昨年の夏まで、三郎右衛門は実のところ、悔いていた。
 幼い頃はいつも表を駆けまわっていた寅之助が、こちらへ引き取ってきてすぐ、病気がちになった。読み書きを教えれば覚えは早かったが、少しも楽しそうではなかった。張りあいが出るようにとしきりに褒めても、のれんに腕押しであった。
 体が弱くなったのは、定めというより、無理やり学問をさせているせいではないか。こんなことなら、ずっと兄のもとで遊ばせてやった方がまだ幸せだったのではないか――と、寅之助を長福寺に通わせ始めてからも、三郎右衛門はずっと気を揉んでいた。
 それが今は毎日いきいきと学問をしているのである。喜びはひとしおであった。

 嬉しいことは重なるもので、次男・久兵衛(きゅうべえ)も無事に三歳まで育った。博多屋の跡取りとして立派に育つようにと、亡き父の名を継がせた。
 やがてはこの久兵衛が博多屋の当主となり、寅之助は定めを乗りこえて、兄弟励ましあいながら、それぞれの道で身を立てる――そんな明るい未来を思い描きながら、三郎右衛門はふと、
「安利の縁談を探してやらねばな」
 とつぶやいた。
 それを聞いたユイは、
「まだ九つですよ。いくらなんでも早いでしょう」
 と言って笑った。

『海国兵談』が発禁処分となり、版木も取り上げられた林子平は、
「親もなし、妻なし、子なし、はん木なし、かねもなければ、死にたくもなし」
 と自嘲して「無六斎」を名乗り、失意のうちに翌年、病死する。
 林が死んだ寛政五年は黒船来航の六十年前。幕藩体制に経済的な行き詰まりが見え始めていたとは言え、のちの乱世に比べれば、まだまだ平和な世の中であった。
 林は姉が先代藩主の側室となったことから、生活にはあまり困らず、自由に行動できたという。長崎をたびたび訪れ、オランダ商館長から海外の情勢を聞き、『海国兵談』を著すに至った。
 働きもせずにふらふらしている者はろくなことを考えない――と、この時点では誰もが思った。
 三郎右衛門を含め、林を笑ったほとんどの人々は、彼の警告が正しかったことを知らないまま生涯を終えることとなる。

同年 寅之助

 金吾が帰郷した。
 前触れもなしに亀井塾が閉鎖になり、役人たちから追い立てられるようにして帰ってきたのだという。詳しい説明はなかったが、道々、亀井南冥先生が蟄居させられたという噂を耳にした。
 四極先生は寅之助と金吾の二人を前にして、
「お前たちにゃこの話はまだ早いと思ってたんだが、いい機会だ」
 と、言った。
 あぐらから右膝を立て、その膝に右肘を当てている。四極先生が特別に熱をこめて話す時の体勢であった。
「金吾、徳兵衛の奴が親に連れ戻されたって話は聞いたか?」
「はい」
「学問の出来不出来はともかく、志は立派なもんだったらしいな、寅之助」
「はい」
「じゃ、ここで問題だ。徳兵衛は正しかったか?」
「……?」
 問いの真意がわからず、寅之助は横目で金吾を見た。
 短い遊学の間に金吾は成長した――と、再会した瞬間、寅之助は感じていた。顔つきが違う。凛々しく、精悍になっている。
 ただ、今はその金吾も、いささか戸惑っている様子であった。
「もっとわかりやすくしようか。徳兵衛に、少なくともお前たちぐらいの学問の素養があったとしよう。このまま学問を続ければ大人物になれるかもしれない。それでも親の言いつけには従うべきか?」
 そういうことか。
 金吾も理解したようだと、寅之助は察知した。
「俺はしばらく口を挟まねえ。お前たち二人で討論してみな」
「はい」
 と、二人は声を揃えた。
 そして、金吾が先手を取った。
「親の言いつけには従うべきだ」
 声の出し方もかなり強くなっていた。
 気圧されてなるものかと、寅之助は声を張った。
「俺はそうは思わない」
「何故だ?」
「飢饉で人が死なない世の中を作りたいと、徳兵衛は言った。学問の素養があるなら、それは実現して、多くの人々を救うかもしれない。いっときは親を悲しませても、徳兵衛の功績は回り回って、親を助けることにもなり得る」
「それは可能性に過ぎない」
 と、金吾は容赦なく言い放った。一歩も退かないという気迫。以前の金吾なら考えられない鋭さである。
「徳兵衛が邁進したところで、人々や親の助けになるとは限らない。それどころか、子どもが親に逆らうことは、世の中が乱れる原因になる」
「徳兵衛一人が親に逆らって、何故世の中が乱れるんだ」
「寅之助、お前は『孝經』から何も学んでいないのか」
「……」
 落ち着け。これは挑発だ。乗せられては向こうの思う壺。
「問いに問いで返すのが亀井流か?」
 と、寅之助は挑発で応じた。
 金吾は「やるな」という目をしてみせると、落ち着いた声で、
「王が臣を従え、師が弟子を教え、親が子を育てる。上下の間柄は秩序の根幹だ。例外を許せば全体が崩れかねない」
 と言った。さらに、
「考えてもみろ。ある戦で、将を中心に統率が取れている軍と、兵たちが勝手ばらばらに動く軍があったとする。両者がぶつかったら勝つのはどちらだ?」
 と、続けた。
「その戦なら、前者が勝つ」
 と、寅之助は答えた。
 金吾が先刻名を出した『孝経』をはじめ、中国の古典は秩序を重んじるものが多い。もしこの討論が書物への忠誠を試すものなら、すでに金吾の勝ちだ。
 しかし、四極先生は書物の教えが物事の道理であるかのような言い方は一度もしたことがない。いつも自分の頭で考えさせる。
 寅之助は相手の出した例えに乗ることにした。
「統率は同程度だとして、ごく一般的な将が率いる軍と、より優れた将が率いる軍がぶつかったらどうなる?」
「そんなことを考えて意味があるのか?」
「いいから、どっちだ?」
「後者だ」
「では、ごく一般的な将と、より愚かな将なら?」
「……」
「将が愚かで、言いなりになれば負ける、死ぬとわかっていても、兵たちは将に従うべきか?」
「お前は、徳兵衛の親が愚かだと言っているのか?」
「そうじゃない」
 と、寅之助は徳兵衛の親を見ているだけに、慌てて答えたが、少し考えて、
「いや、そうかもしれない」
 と、訂正した。
「俺は、上に立っている者が優れているとは限らないと言っているんだ」
「そんな風に、兵が将を疑っている状態を、統率が取れていないというんだ」
「よし、そこまで」
 と、四極先生が満足げに言った。
 寅之助は思わず、ふう、と小さく息をついた。
 四極先生の指導の一環として、金吾と二人で討論をしたことは過去にも何度かあったが、以前とは雲泥の差だった。
 討論の中身で負けたとは思わない。けれど、気迫では押され気味だった。
 もしこれが聴衆を集めての討論で、入れ札(投票)で勝ち負けを決めるものなら、軍配は金吾にあがるような気がする。
「ちょいと話は飛ぶが、二人とも、『忠臣蔵』は知ってるかい」
『忠臣蔵』?
 虚を突かれつつ、二人は口々に「はい」と答えた。
「今から百年近く前のことだな。赤穂事件が起こった当時、荻生徂徠(おぎゅうそらい)って学者がいた。討ち入りをした浪士たちの処分をどうするかって話し合いで、忠義の心あっぱれ、助けてやろうって声も多い中、徂徠は切腹論を主張した。根拠は色々とあるんだが、要は、主君のために命を捨てて戦ったっていう美談をどう見るかって話だな」
 上下の身分を重んじるのが「朱子学派」、朱子学派に懐疑的なのが「徂徠学派」だと、四極先生は説明した。
「まさにお前らがさっきやったような論争を、朱子学派と徂徠学派の間で長年やりあってる。俺はどっちでもねえんだが、上に立つ者、つまり幕府としちゃ朱子学の方がありがたい。二年前、幕府直轄の昌平坂学問所では、朱子学以外の学問が禁じられた。徂徠学派の立場はいま、かつてなく危うい。そんで、亀井南冥は徂徠学派だった」
 それから、四極先生は金吾を見て、
「もっとも、南冥は弟子を自分の色に染めようとはしなかったようだがな」
 と言った。
 金吾は、
「南冥先生のお人柄は、四極先生に少し似ています。懐の深いところが」
 と言った。
 四極は笑って、
「そうかい。世辞も上手くなったな」
 と言った。
 寅之助は、金吾が一足先に大人になってしまったような気がして、少しばかりの寂しさを感じていた。一方で、遊学への憧れはより一層強くなっていた。

寛政五( 一七九三)年 徳兵衛 十八歳

 弟が木の上から放って寄越すハゼの実を大きなかごに浮けながら、徳兵衛は悶々としていた。
 去年、長福寺から連れ戻される時、生徒たちの中で図抜けていた寅之助に、徳兵衛は「託す」と言った。その気持ちは嘘ではなかった。けれど、寅之助とはろくに話したこともないわけで、ずいぶん手前勝手なことを言ったと、あとになって恥ずかしくなった。寅之助が「世の中を変えたい」と思って学問をしているのでなければ、俺の頼みなど迷惑でしかない。
 豆田に屋敷をかまえる豪商・博多屋の長男。暮らしに不自由はないだろう。ろうそくがこのハゼの実から作られていることすら知らないのではないだろうか。今の世の中で苦しんでいないのなら、わざわざ「変えたい」とは思うまい。
 百姓の気持ちは結局、百姓にしかわからないのだ。できることなら、やはり俺自身が学問をして、何か百姓のためになることをしたい――とは言っても、親の許しがもらえなければどうにもならない。
 いや、俺はあの中で一番年長で、一番出来が悪かったのだ。志や親の許しがあっても、どうせ何もできないだろう。
 その時、背後から男の声がした。
「以前来た時も気にかかっていたんだが、あの時は訊けずじまいだった」
 誰かと話しているのだろう。
「そりゃ何の実かね?」
 と、そこまで聞いてようやく、徳兵衛は自分が話しかけられていることに気付いた。
 振り返ると、糸のように細い目をした、浪人風の男が立っていた。片手に杖をつき、旅慣れた雰囲気がある。
「食えるのかね?」
 と、男が言った。
 徳兵衛が何か言うより先に、
「おじちゃん、ハゼの実しらないの?」
 と、木の上の弟が言った。
「ハゼ?」
「それでろうそくつくるんだよ」
「ほう! この茶色い実が白いろうそくに変わるのか……こりゃ面白い」
 と言って、男は杖と刀をそこいらに投げ出し、わらじを脱いで、
「ちょいと手伝わせてくれ」
 と、器用に木にのぼり始めた。
「枝を折っちゃだめなんだよ」
 と、弟。
「わかった。気を付けよう」
 男と弟はもう打ち解けている様子だった。
「どちらからいらしたのですか?」
 と、徳兵衛が言った。
 男は取った実をしげしげと見つめながら、
「生まれは筑前だ。することがなくてな、ふらふらしておる」
 と言って笑った。
 徳兵衛は男の最初の言葉を思い出して、
「以前にも日田にいらしたことがあるのですか?」
 と尋ねた。
「うん。二度目だ。十年ぶりぐらいになるか。それにしても君は、そんなでかいなりをして、やけに丁寧な話し方をするじゃないか」
「あのね、兄ちゃんは学問ができるんだよ」
「ほう、学問か。それはいい」
 あいつ、余計なことを――と、徳兵衛は心の中でため息をつきながら、
「昔のことです。長福寺で教わっていたのですが、ついていけずに辞めました」
 と言った。
 親に辞めさせられた、とは言いたくなかった。
「そうか。それはもったいない」
「……」
 それから、男は取ったハゼの実を自分の鼻に近づけて、
「いい匂いだな。食えないのか? いや、ろうそくは食えないか」
 と、自問自答した。
「一応、あくを抜けば食えないこともありません」
「そうなの?」
 と、弟が驚いた声を上げた。
 ハゼは救荒作物でもある。徳兵衛はかつての飢饉で何度か口にしたことがあった。
 飢饉を知らない弟に、徳兵衛は、
「鳥が食べるだろ。でも、うまくはない」
 と言った。
「どれどれ……」
 と、男がハゼの実を放りこんだ。一瞬のことで、止める間もなかった。
「うえっ、うええっ!」
 と、男は大げさに顔をゆがめ、弟はそれを見て大笑いした。
「あくを抜けばと言ったでしょう」
 と言いながら、徳兵衛は穏やかな気持ちになっていた。
 子どものような人だ、と思った。
 男は同じ仕草を繰り返してひとしきり弟を笑わせたあと、
「このハゼの木とやらは、このあたりでしか育たんのかな」
 と言った。
 日田を出たことのない徳兵衛には、
「さぁ……」
 としか言えなかった。
 男はハゼの実を徳兵衛のかごに放り投げながら、
「学問はもうやらないのか?」
 と言った。
 未練はある。
 けれど、できないものは仕方ない。
 どう答えようか迷っていると、
「書を読むばかりが学問でもあるまい」
 と男が言った。
 それは徳兵衛にとって、この時点では、意味不明な言葉でしかなかった。
 男はのちに、高橋伊兵衛と名乗った。

翌日 寅之助 十二歳

 博多屋に訪ねてきた伊兵衛は、寅之助が日夜学問に励んでいるということを、実の父親のように喜んでくれた。
「剣も習っているのか?」
「いえ、素振りをしているだけです」
「そうか。握りを少し直した方がいいな」
「え?」
「自分の手を見てみろ」
 と言われて、寅之助は両手を開いた。
 伊兵衛はその手を取って言った、
「右手親指の付け根に豆ができている。これはほとんど右手で振ってしまっている上に、握りがゆるんでいるせいなのだ。正しくは左手で支えて、右手はほとんど添えるだけにする。そして、雑巾をしぼるように、手首を内側に入れる」
 と言いながら、伊兵衛は杖でその握り方の実演をしてくれた。
「正しく握れていれば豆は左手の薬指の付け根あたりにできるはずだ」
 寅之助は礼を言いながら、この飄々とした男が――流れ者とはいえ――武士であるということを、いまさらながら実感していた。
 思い返してみれば、あのチャンバラごっこもたやすうく真似できる芸当ではない。子ども相手とは言え、木刀を持った多勢に囲まれて、怪我をすることもさせることもなくさばいていたのである。

 城下町でない日田には、自然、武士が少ない。代官所には武士が務めているが、ほとんどが他所から派遣されてきた者で、その数も少ない。博多屋をはじめとする商人たちが力を持っている町である。
 自然、武と縁遠い暮らしになる。
 金吾が亀井塾で短い間に強い胆力を身に付けたのは、初めて出会う、武家の子どもたちの影響と言えるだろう。

 伊兵衛が久兵衛をおぶってどたどたと走りまわっているところへ、安利が帰ってきた。
 今日も長福寺に行ってきたのだろう。一体何をそう熱心に祈っているのだろうか。
「おお、安利ちゃんか! すっかり大きくなって!」
 と、伊兵衛は安利を両手で抱え上げ、何がおかしいのか、大笑いした。
 背中の久兵衛も、安利も笑っている。
 知らない人には伊兵衛が家族の一員としか見えないだろう。
 火鉢のような人だと、寅之助は思った。ただそこにいるだけで、周囲を明るく、温かくする。
 今度はいつまでいられるのか――と、たずねようとして、やめた。聞いてしまったら寂しい気持ちになると思った。
 案の定、伊兵衛は四極先生ともすぐに打ち解けた。
「一緒に飲める相手が欲しかった。坊主どもはやらんのでな」
 と、四極先生は嬉しそうに、ボロボロの行李から徳利を取り出した。
 その日は夜遅くまで酒を酌み交わしていたようである。

 翌日、寅之助は伊兵衛・四極先生・金吾と並んで、花月川に釣り糸を垂れていた。
 抜けるような秋空の下、日田盆地を囲む山々はうっすらと色づき始めている。湿気を含んだ土手の青草の匂いと、金木星の香りが混じり合う。
 竿を出してから、まだ誰にも当たりは来ていない。
「伊兵衛さんよ、昨日の話、こいつらにも聞かせてやってくれ」
 と、四極先生が言った。
 伊兵衛はとぼけた口調で、
「はて、どの話でしょう。別れた女房の話でしょうか?」
 と言った。
「馬鹿、違ぇ違ぇ。子どもにそんな話してどうすんだよ」
 と、四極先生は笑った。
「俺はその話にも興味がありますが」
 と金吾が言い、四極先生はますます笑った。
 大人たちの会話に躊躇なく入っていける金吾が、寅之助はうらやましかった。
「伊兵衛さんは遥か北、松前まで行ってきたそうだ」
「ああ、その話ですね」
 松前と言えば、京より、江戸よりもさらに遠く、北の果てだ。海の見えない日田に住む寅之助にとっては、異国も同然と感じられる距離であった。
「二人とも、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という名は聞いたことがあるかね」
「いえ、初めて聞く名です」
 と、金吾。
「俺も」
 と、寅之助。
「そうか。なら、このあたりでは俺が第一報かもな」
 と、伊兵衛は浮きを見つめながら言った。
「天明二年だから、ああ、ちょうど寅之助が生まれた年だな。江戸を目指して伊勢の白子港を出た大黒屋光太夫の神昌丸が、遠州沖で難破した。十七人の乗組員を乗せた船は漂流の末、ロシアのアムチトカという島に流れ着いた。シベリアという、まつ毛に霜がつくような極寒の大地を旅して、帝都ペテルブルグにたどり着いた時、仲間は船乗りの磯吉と光太夫、二人きりになっていた」
「……」
 想像が追いつかない。
 四極先生に『万国総図』(世界地図)を見せてもらったことがある。ロシアという国は確か、松前より、蝦夷地よりも向こうにある大国だ。
 まつ毛に霜がつく寒さとはどれほどのものなのか、そんな土地に何故わざわざ人が住んでいるのか、寅之助にはわからないことだらけであった。
「その光太夫と磯吉が先月帰国して、いま江戸じゃその噂で持ち切りだ。知り合いはさぞ驚いただろう、とっくに死んだものと思っていただろうからな。で、このとき光太夫たちと一緒にラクスマンって男がやって来て、幕府に交易を申し入れたらしい」
「ロシアとしちゃ、漂着民を帰してやるっていう親切心が半分、それをダシにして交易を迫ろうっていう下心が半分――そんなとこだろうな」
 と、四極先生がつけ加えた。

 鎖国時代の終わりの始まりは、一般に嘉永六年の黒船来航とされることが多い。町民たちは逃げ惑い、侍たちはいきり立ち、老中たちは慌てふためく――まさに青天の霹靂であった、と。
 しかし、徳川幕府に対する開国要求は、このラクスマンが最初である。
 時の老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)は、交渉なら長崎でせよと、にべもなくラクスマンを追い返した。林子兵の『海国兵談』を発禁にしてからわずか一年後のことである。幕府の上層部ではまだ誰も異国に対する危機感を持っていなかった。
 ラクスマンの来訪を機に、幕府が『海国兵談』を見直し、異国への備えを始めていれば、幕末の事象はかなり違ったものになっていたかもしれない。

 四極先生は目を細め、遠く川下を眺めている。花月川は三隈川と合流し、やがて長崎に注ぐ。
「昌平坂で異学を禁止して、亀井南冥たち徂徠学派を引っこめさせたところへ、このロシアからの使者だろ。幕府が異物を拒めば拒むほど、異国はむしろ近づいてくるような気がしてならねえ。寅之助、金吾、お前たちが俺ぐらいの歳になる頃、この国は大変なことになってるかもしれねえぞ」
 上流から流れてきた小枝が石に引っかかって止まるのを、寅之助は見た。
 四極先生の歳までは、生きられない。
 徳兵衛から託された切実な願いに対しても、どう応えたらよいか、いまだに答えが出ていない。
 他人から期待をかけられても、真正面から受けとめることができず、逆に何もかも投げ出したくなる気持ちに襲われた。
「ああ、金吾、繰り返しになるが、俺は朱子学派を否定してるわけじゃねえ。国が一つにまとまってなきゃ、異国になんか対抗できるわけがねえからな」
「はい。ありがとうございます」
 二人のやりとりを聞きながら、寅之助は、いっそ寿命の秘密を打ち明けて、俺も金吾に託してしまおうかと考えている。
 本気ではない。が、まったくの夢想でもない。
「寅」
 と、伊兵衛に呼ばれた。
「引いてるぞ」
 竿の先がしなっている。
 あわてて引きあげた時、餌はもう取られてしまっていた。

翌日 徳兵衛

「うまそうだな。蜜のようだ」
 ハゼの実から搾りとった液を見て、伊兵衛がのん気なことを言っている。一昨日、実を口にしてひどい目にあったというのに、まったく懲りていないらしい。
 代々ろうそくを作り続けてきた工場は、棚も道具も、そこにある何もかもがうっすらとろうをかぶり、つやつやと光っている。
 職人たちは伊兵衛を無視して黙々と仕事を続けている。普通なら見物人など追い払われるはずだが、お侍様だからというのと、それ以上に、伊兵衛の無邪気な笑顔にほだされているのだろう。
 液を鍋に入れて炭火にかけ、指で温度を測る。
「熱くないのか?」
 気持ちを集中する。伊兵衛に返事をしている余裕はない。
 二年ぶりだ。適温が思い出せない。去年の秋は携わらせてもらえなかった。
「……」
 このぐらい、か?
 まだぬるいだろうか。
 最初の温度が肝心だ。熱すぎてもぬるすぎても、芯に蝋が乗らない。
「親方、すいません。温度見てください」
 と、父を呼ぶ。
 父の指が鍋に入り、ただちに怒号が飛ぶ。
「馬鹿野郎。まだぬるいじゃねえか」
「すいません」
「何もかも忘れやがったか、この馬鹿たれが。ふらふら遊んでるからだ」
「……」
 学問をしていた――と、父は認めてくれない。いまだにちくちくと嫌味を言う。
 けれど、何も言えない。
 長福寺で学んだことは、事実、仕事には何の役にも立っていない。仕事ができないのは恥ずかしいことだ。
「どいてろ」
 と、父は徳兵衛を突き飛ばし、鍋の前に腰かける。
 左手の小指で温度を測り、適温と見るや、右手で脇に置いてあった芯を取る。
「そりゃ何です?」
 と、出し抜けに伊兵衛が質問をした。
 父は大儀そうに伊兵衛を見たが、他の職人たちの例に漏れず、毒気を抜かれてしまったようで、
「い草の皮を剥いて、竹の軸に巻き付けたもんです。これがろうそくの芯になります」
 と、がらにもなく優しく説明した。
 芯を液に浸し、うちわであおぎながら定着させる。
 それから、炭を足して、液の温度をほんの少しだけあげる。
 再び芯を浸し、手でこすりながら塗りつけ、乾かす。何度も重ね塗りして太くしていくのである。
「ちょいと触らせてもらっても?」
 と、伊兵衛。
「どうぞ」
 と、父。
 伊兵衛の指がおそるおそる、液に触れる。
「熱っ!」
 その悲鳴に、職人たちの視線が一瞬だけ集まる。
 必死で指に息を吹きかける伊兵衛に、
「熱めの風呂ぐらいのもんでしょう。慣れりゃ平気になります」
 と、父が言った。
 十分な太さになったら、少し冷ました液で仕あげ塗りをする。と、表面がなめらかになる。
 熱した包丁で、芯の頭を残し、先端を切り抜く。
「おお、ろうそくになった!」
 と、伊兵衛が嬉しそうに言った。
 父は口元がゆるむのを押さえつけるように、
「あとやっとけ」
 と、低い声で徳兵衛に言った。

 昼飯の頃には、伊兵衛はすっかり工場に馴染んでいた。
 誰が相手でもすぐ適温になれる人だ、と徳兵衛は思った。
 伊兵衛は、漂流してロシアという国へ行き、十年ぶりに帰ってきた人の話を、冗談を交えて語り、職人たちを笑わせている。
 侍に生まれたかった。侍なら好きなことができる。学問をしても文句は言われない――いや、侍なら飢饉が来ても飢えはしないのだから、学問をして世の中を変えたいなどとは思わなかっただろうか。
「話は変わりますがね、親方」
 と、伊兵衛が父に言った。
「刈り取った稲をいま、田んぼに広げて干していらっしゃるでしょう」
 徳兵衛の家では、米作りとろうそく作りを並行して行っている。他の百姓より多少裕福なのはそのためであった。
「ええ、それが何か?」
「庄内の方じゃ、木や竹で柱を立てて、それに横木をかけて、稲架っていうものを作っていました。それに稲を引っかけて干せば、地面からの湿気や急な雨で稲の質が落ちるのを防げるそうなんですよ」
「へぇ……そうですか」
 と、それまで機嫌よく話していた父は、途端に声色を暗くした。
 伊兵衛はおかまいなしという様子で、
「真似しませんか?」
 と言った。
 父は暗い目をして、黙り込んだ。
 職人たちも口を閉ざし、みな露骨に気分を害された顔をしている。
 やがて父が言った。
「あんたはお侍様だ。百姓じゃねえ」
「仕える先をなくしているのですが、まぁ百姓ではありませんな」
「どちらのお生まれで?」
「筑前です」
「そうですか。筑前のお侍様がどうして日田の百姓に口出しをなさるんです」
「いやいや、口出しなどと。私はただ、自分の見聞きしたやり方をお伝えすれば、皆さんのためになるかと……」
「うちにはうちのやり方があるんです。放っといてもらいましょうか」
「……失礼。素人が、出すぎたことを申したようです」
 このとき徳兵衛の中では、父への理解でも、侮蔑でもない、まったく別の感情が巻き起こっていた。
 学問――百姓――つながった。
 見つけた。
 世の中を変えるのは、頭の良い奴に任せておけばいい。俺のやるべきことは、百姓を変えることだ。
「お前ら、仕事に戻れ」
「へい」
 職人たち、それぞれの持ち場へ戻っていく。
 さすがの伊兵衛も気まずくなったようで、
「では、私はこれで。よいものを見せていただき、ありがとうございました」
 と告げて、その場をあとにした。
 見送る者は誰もいない。
 徳兵衛は、少しだけためらってから、伊兵衛のあとを追って飛び出した。
「おい、どこへ行く!」
 背後で父が怒鳴ったが、かまわずに走った。
「伊兵衛さん!」
「おお、徳兵衛。悪いことをしてしまったな。まぁこうなるような気はしていたんだが」
「俺を弟子にしてください」
 と言って、徳兵衛は頭をさげた。
「弟子? 何の弟子だ?」
「書を読むばかりが学問ではない――伊兵衛さんのおっしゃった言葉の意味がやっとわかりました」
「……ふうむ……」
 徳兵衛は頭を垂れたまま、伊兵衛が鬢をかく音を聞いた。
「あいにく弟子は取らない主義でな。仲間になるなら、共に行こう」

翌日 寅之助

 風に乗って、冬が近づいてきている。
 早朝の戸外の空気に、寅之助は身ぶるいした。
 例年、冬の始めと終わりに体調を大きく崩している。最近は調子の良い日が続いているが、油断はできない。
 中庭の銀杏が散る中、伊兵衛に教わったやり方で木刀の素振りをする。それから、筆入れと紙を風呂敷に包み、秋風庵へ向けて歩き出す。
 道すがら、雲が桃色に輝く、まぶしいほどの朝焼けを見た。

 到着すると、伯母が握り飯と熱い茶を用意してくれていた。
「いただきます」
「はい、召しあがれ」
 丸窓から見えるすすきの原が波打つように揺れている。源頼光になりきってあそこで駆けまわっていた自分と、定めを知り、土蔵の二階で腐っていた自分、そして今の自分が、どれも別人であるかのように寅之助には感じられた。
 頼光であった頃は、酒呑童子をやっつけたかった。学問に目覚める前は、静かに消えていきたかった。では、いまは? いま、俺は何がしたいのだろう。四極先生に習い始めたばかりの頃は、学問がただ面白く、このまま続けていれば何者かになれる気がしていた。けれど、学べば学ぶほど、世の中には自分が知らないことばかりだと思い知らされる。
 やはり、遊学をしなければ始まらない――と、寅之助は考える。
「俺も学者連中の間じゃ名の知れた方だと思うが、世間じゃとんと無名なんでな」
 と、四極先生が言っていた。学歴を作る意味でも、金吾のように一皮むけるためにも、遊学に出なければならない。
 亀井塾が閉鎖になってしまったので、四極先生や父に頼んで他の遊学先を探してもらっているが……。
 ふすまが開き、
「おぅ、寅」
 と、平八が顔を出した。
「おはようございます」
 平八は昔と変わらずに接してくれている。しかし、三郎右衛門の元に連れ戻されてから、寅之助は平八を呼んだことがない。
 昔は「父上」と呼んでいたので、急に「伯父上」になるのもどことなくむず痒いのである。伯母に対しても同様であった。
「金吾はもう来てるぞ。二階にいる」
「ああ、そうでしたか」
「こんな朝早くに、四極先生は何を企んでるんだ?」
「それが、本当に聞かされていないんです。ただ、朝五ツ(午前七時頃)までに、秋風庵へ来いと」
「来てるな」
 と、丸窓から四極先生の顔があらわれた。
「おはようございます」
 と、寅之助と平八が声を揃えた。
「どうも、平八さん。すいませんね朝早くに。場所、お借りしますぜ」
「場所ぐらい喜んでお貸ししますが、四極先生、一体何をなさるおつもりなんです?」
「なぁに、ちょっとした特訓です」
 特訓。
 四極先生はいつにもましてにやにやしている。
 何をしようというのだろう。
「二階へ行くぞ」
「はい」

「今日は漢詩を詠む」
 と、四極先生はさらりと言った。
 一日一首の訓練は、寅之助も金吾も、ずっと続けている。近頃は詩人の好みを語り合うこともある。
「夜四ツ(午後十時頃)までに百首詠め」
 そう言われて、二人は思わず顔を見合わせた。
 百首? 今日一日で?
「課題は七言絶句と五言律詩を五十首ずつ。今日まで説明しなかったのは、お前らに前もって考えさせないためだ。この場所を選んだのは、眺めがいいからだ。題材を探しに出歩いてもいい。休みは自由に取っていい」
 百首会だ。詩人たちが戯れに開くと聞いたことがある。
「何か質問は?」
「二人合わせて百首ですか?」
 と、金吾が言った。
「いや、一人百首だ。他に質問は?」
「……」
「じゃ、始めろ。俺は寝る」
 と言って、四極は本当に横になった。

 将来――と呼べるほど「先」はないのだが――への不安も、詩に込めた。
 秋風庵からの眺めは確かに美しい。けれど、そればかりにとらわれることはない。
 書物で知った中国の故事や、先日伊兵衛から聞いたばかりのロシアという国のことも、想像力を働かせれば題材になる。
 四極先生への感謝や、金吾への対抗心も詩にした。
 毎日何かを祈っている妹、年の離れた弟の成長、伯父夫婦への微妙な心情。
 自分の体への呼びかけ。定めはどうにもなるまいが、その時が来るまで、できるだけ健やかでありたい。病の床にあってはものを考えるのにも難儀する。
 いつもより遠く、鐘の音が聞こえる。昼九ツ(正午過ぎ)、四十五首に達した。この調子なら間に合う。
 四極先生は、いつの間にか起き出して、二人を眺めたり、誰か宛の文を書いたり、また寝たりしていた。

 傾いた陽が雲に隠れて、雨が降り始めた。
 雨は格好の題材になりそうなものなのに、書くべき文字が見つからない。気力が途切れてきたらしい。
 金吾の手は順調に動いている。いま、何首なのだろう。今日は一言も会話を交わしていない。
 焦る気持ちを悟られないように、なるべくゆったりと立ちあがり、南を見た。
 こんもりと樹が生い茂る日隈山が見える。三隈川の流れを二つに割く中州にあって、山というほどの高さはない。その下流には星隈山があり、ここより北、花月川を渡った先の代官所は月隈山のふもとにある。平坦な日田盆地の中で、この三つの〝隈山〟だけがかすかに出っ張っていて、寅之助の住む豆田はその中央にある。
 三隈川と言えば、徳兵衛の実家が確かあの川の近くにあるということだった。あのあたりに広がる田畑のどれかは徳兵衛の家のものなのかもしれない。
 いま、田んぼに働く人の姿はなく、わら焼きのあとの煙は雨のために昇れず、低く地面を這っている。その情景から、五言絶句を一首詠んだ。

 穫稲人帰尽(いねをかるひとかえりつくし)
 空濛暮雨寒(くうもうとしぼうさむし)
 野烟低不起(やえんたれておこらず)
 処処白成団(しょしょにしろくだんをなす)

 苦しみながら捻り出したが、悪くない出来と思えた。
 残り三十首。
 まだ三十もあるのか。

「……之助、寅之助!」
 金吾の声。
 飛び起きる。
 ろうそくの火。
 外はすっかり暗くなっている。
 しまった――休みすぎた。
 今何刻だと金吾に訊こうとした時、四極先生が言った。
「時間切れだ」
「……」
 手元の紙には、正の字が十八。九十首。
 届かなかった。
 よく眠ったせいか、頭が冴え、いまなら十首ぐらいすぐに詠めそうな気がする。
「金吾は成しとげたぞ」
 四極先生の声が胸を刺した。
 頬が熱くなる。
 今すぐ消えてしまいたい。
「申し訳ありません」
「謝るようなことじゃねえ。自由に休めと俺は言った」
 と言って、四極先生は立ちあがり、階段をおりていった。
 あきれられた――そう思った。
 何をやっているんだ俺は。
 何が遊学だ。
 拳を握りしめ、手のひらに爪を立てた。
「寅之助」
 と、金吾が口を開いた。
「実は、しばらくお別れになるんだ」
 膝に落としていた視線が、金吾に飛んだ。
「昔、にんじんを分けてくれた人がいたこと、覚えてるか?」
 土蔵にこもっていた頃だ。
 寅之助は黙ったまま頷いた。
「あの先生に弟子入りさせてもらえることになったんだ。俺は肥後へ行く。医者になる」
 ろうそくの火が照らし出す金吾の顔は、前より一層、大人びて見えた。
 外でコオロギが鳴いている。
「明日、父上と二人で発つ。向こうに着いたら、父上はすぐこちらへ帰ってくる」
「……」
「みなには黙って行くつもりなんだ。亀井塾へ行った時みたいな派手な見送りは、ありがたいけど、ちょっと恥ずかしいしな。みなには、お前からよろしく言っておいてほしい」
「わかった」
 としか、言えなかった。それ以上の言葉が出てこない。
「このことを四極先生に話したら、今日の特訓を考えてくれた。最後にいい思い出になったよ。誓って言うが、特訓の内容は事前に聞いていたわけじゃない。俺も必死だった。寅之助、お前と競ってなきゃ、俺はきっと百首に届かなかった」
「……」
「もう一つ言っておきたいことがある。俺な、お前の病を治してやりたかったんだ」
「え?」
「お前を治せば、安利ちゃんが俺の方を振り向いてくれるんじゃないかと思ったんだ――って、お前には勘づかれてたよな」
 そう言って、金吾は少し寂しそうに微笑んだ。
 昔のことだと思っていた。
 まさか金吾は、今も。
「俺が何かしなくてもお前はすっかり丈夫になったし、安利ちゃんはお寺通いで忙しい。だから肥後へ行くってわけじゃないんだけどな。信じてくれ。今は純粋に医者になりたいんだ。きっかけをくれて、二人には感謝している」
「……」
「冬が来るな。お前は毎年、冬場が危ない。体を温かくしろ」
 階下で戸が開き、
「金吾、長作先生がお見えになったぞ」
 と、四極先生の声が飛んできた。
 迎えに来たのだろう。
「じゃあな、寅之助。お前にも遊学の機会はきっと来る。頑張れよ」

 二人とも知る由もないが、この金吾の〝励まし〟は正真正銘、心からのもので、標をつけられた寅之助にはよく効いた。その年の冬を寅之助は一度も病に伏すことなく過ごせたのである。
 そして二年後、ついに遊学の機会が巡ってきた。蟄居させられた亀井南冥先生に代わり、息子の亀井昭陽(かめいしょうよう)先生のもとで学べることとなった。

寛政六( 一七九四)年 徳兵衛 十九歳

「仕方ない。野宿だな」
 と、伊兵衛が言った。
 山頂に降った雨がいく筋かの川になるように、天領・日田からは「日田往還」と呼ばれる街道が五本走っている。そのうちの一本、南へ向かう日田往還の小さな宿場町にいま、二人はいる。
 春の訪れを待って旅に出ようと考えるのはみな同じだったようで、旅籠が満室で泊まれないというのはすでに二度目であった。すなわち、野宿も二度目である。
 一度目の時、伊兵衛は手慣れた様子で焚き火を起こし、さっさと寝入ってしまった。徳兵衛は、ぱちぱちと枯れ枝が爆ぜる音を聞きながら、火が着物や荷物に燃え移らないだろうか、野犬が襲ってこないだろうかなどと、あれこれ心配して、あまり眠れなかった。
 今日は、一度目の時より少々冷える。また、折悪く朔(新月)である。
「宿をお探しではありませんか」
 と、声がした。
 振り向くと、人のよさそうな丸顔の老人であった。
「ええ。どこもいっぱいだったので、そこらで野宿でもしようかと」
 と、伊兵衛が応じた。
「野宿などと、お侍様がそれはいけません。ここから少し歩いたところに私の家があります。むさ苦しいところですが、お泊まりになりませんか」
「それは助かります」
 と、伊兵衛が言った。
 徳兵衛は内心、胸をなでおろした。

 日暮れ前にたどり着いた。
 なかなか年季の入った一軒家であった。襖はしみだらけで、障子はあちこち破れている。それでも屋根と床があるぶん、野宿よりはよほどましと思えた。
 二人を部屋に通すと、
「では、ごゆっくり」
 と言って、老人は姿を消した。
 徳兵衛が荷を解こうとするのを、
「まぁ待て」
 と、伊兵衛が止めた。
「何を待つのですか?」
「ちょっとこいつを持っていてくれ」
 と、伊兵衛は徳兵衛に杖を手渡した。
 わけがわからず、立ち尽くしていると、今度は若い男が現れた。
 老人の息子だろうか。面長で、あまり似ていないが。
「お疲れでしょう。白湯でございますが」
 と、男が愛想よく言った。
 伊兵衛は、
「や、かたじけない」
 と、湯呑みを受け取ったが、口はつけず、
「ところで、宿賃の話をしておりませんでしたが、おいくらで?」
 と言った。
「ああ、うちは旅籠でも何でもない、ご覧の通りのボロ家ですから――」
 続く言葉は「結構です」ではなく、
「――一両もいただければ」
 であった。
 そんな大金、払えるわけがない。徳兵衛の家で作る七匁のろうそくが百本……いや、二百本は買える。
 冗談だろうと徳兵衛は思ったが、男の目はもう笑っていなかった。
「もしお手持ちがないようでしたら、ありったけでかまいませんので」
 身ぐるみ置いていけ、と言っているのだ。
 脈が急激に加速していく。
 男の前歯が一本折れているのに気づいて、徳兵衛はそれがやけにおそろしかった。
「うん、やはりか」
 と、伊兵衛がのん気な声でいった。
「徳兵衛」
「は、はい」
「弟子は取らん主義だと言ったが、ちと訂正する。弟子になりたいと言われたことがないだけでな。慕ってもらえればもちろん嬉しい。何かを教えてやりたくもなる」
「何ごちゃごちゃぬかしてやがる」
 と、男が伊兵衛につかみかかった。
 徳兵衛は思わず手元の杖を握りしめた。
 伊兵衛は声色を少しも変えずに、
「世の中にはこういう輩もいるということを、いい機会だから、お前に見せておきたかったんだ」
 と言った。
「無視してんじゃねぇぞ!」
「失敬。仲間は何人だ?」
「あ?」
 と凄んだ男は、みるまに顔をひきつらせ、膝から崩れ落ちた。
「何人でもかまわん。俺が潰す」
 伊兵衛はいま男のみぞおちにめりこませた刀の柄に右手をかけ、左手の鞘をゆっくりと引いた。
「待ってください」
「安心しろ、徳兵衛。お前を危険な目には遭わせない」
「あの、命だけは――」
「守ってやると言っているだろ。でかいなりをして、情けないぞ」
「――命だけは、助けてやってください」
 伊兵衛の細い目が、見開いた。
「貧しいせいだと思うんです。こんなことでもしなければ、食べていけなかったんです、きっと」
「……」
「伊兵衛さんが、稲架干しの仕方を教えてくださったでしょう――親父は受け入れませんでしたけど。日本中の百姓が、お互いに上手いやり方を教え合って、自分の仕事に取り入れることができれば、飢える人間はいなくなるはずです。どうか、お願いします」
 伊兵衛は、足元でうずくまっている男と徳兵衛とを何度か見比べたあと、天井を見上げて、
「うーむ、もう一度訂正だな。むしろ俺が弟子になりたいと思ってしまった。やはり対等の仲間でいよう」
 と言った。
「とは言え、ひとまずこの場は切り抜けるしかない。みね打ちで済ませる。それでいいな?」
「ありがとうございます」
 と言って、徳兵衛は頭をさげた。

寛政七( 一七九五)年 昭陽 二三歳

 似ていない親子だと、よく言われる。
 父は昼間でもしょっちゅう酔っ払っている。私は一滴も酒を飲まない。
 父は思ったことのほとんどを口に出す――おそらく、そうしている。私は飲みこむことの方が多い。
 父は人前でも平気で屁をこく。そういう時、私は黙って障子を開ける。
 補うために異なるのだ――と、昭陽(しょうよう)は考えている。亀井南冥を支えているという自負が、矜持そのものと言える。
 藩の方針で私塾を潰されてから、父は酒の量が増えた。体に悪いからやめてほしいと言ったところで、聞く耳があろうはずもない。以前からずっと酒の勢いで学問をしてきたような人なのである。

 去年の夏には、こんなことがあった。
 夜、ふんどし一丁で帰ってきた。着物は自分の反吐で汚れたので捨ててきたという。水を飲ませ、布団に運んでやった。父はすぐさま大いびきをかき始め、それがうるさいと言わんばかりに、おもての戸が激しく叩かれた。
「何事です、こんな夜分に」
 出てみると、目つきの悪い男たちが十人ほど集まっていた。一様にいきりたった気配で、頭や肩から湯気が出ているかのようだった。
 腰に刀を差している者もいる。あの顔は確か、藩士の息子で、父のかつての教え子だ。
「俺たちゃついさっきまで、こちらの先生と楽しく飲んでたんですがね」
 と、一同の中心らしき大柄な男が、黄色い歯をむき出しにして言った。
 昭陽の胸中では、父へのあきれとあわれみが渦を巻いた。よりによってこんな連中とつるんでいたとは。
「何が気にさわったか、先生ったら、いきなり俺の顔につば吐きかけてお帰りになったんですわ。いかに天下の亀井南冥先生でも、一言詫び入れてもらわにゃ、こっちは引きさがれませんのでね」
 父はあの状態だ。無理やり起こしたところで、どうしてツバなど吐いたのか覚えてはいないだろうし、覚えていたとしても詫びなどあり得ない。
「父がとんだ無礼を致しました。どうか今日のところは、私に免じて」
 と、昭陽は頭をさげた。
「あんたはお呼びじゃねえんだ」
 と、大柄な男が吐き捨てるように言うと、
「さっさとあのじじいを出せ!」
「ぐずぐずすんな!」
 取り巻きの連中も騒ぎだした。
 父の権威は地に墜ちている。いじけた自分を世間にひけらかしているのだから無理もない。
 だが、私だけは何があっても父を見捨てない。
「お許しください。どうか、この通りです」
 膝をつき、地面に額をつけた。
 ごろつきどもは、静まるどころか、調子に乗ってますますがなりたてる。
「まぁみんな、聞け」
 と、一人が言った。
 鼻にかかった声。聞き覚えがある。確か、父の元教え子。
「哀れな父親のために土下座までしている。朱子学の精神からすれば立派なものだ」
 罵声は騒音でしかなかったが、これには体が熱くなった。
 徂徠学派の私たちを、そんな言い方で侮辱するとは。
 しかし、言い返してはならない。我が福岡藩は幕府が昌平坂で出した〝異学の禁〟にならったのだ。ここで徂徠学をふりかざせば謀叛者になってしまう。
「この心意気に免じて、今日のところは引きあげようではないか。なぁ?」
 と、元教え子。
 ごろつきどもは不満の声を漏らしながらも静かになった。
 どうやら、先ほどの大柄な男でなく、こちらが本当のまとめ役らしい。
「顔を上げてください、昭陽さん」
「……」
「ところで、ぶしつけではありますが、厠をお借りしても?」
「は、それでしたら――」
 と、立ち上がって案内しようとした時、頭上から生温かいものが降ってきた。
「ああ、ここにいい厠があった」
 下衆どもの哄笑。
 悪臭。
 地獄のような時間は、永遠に続くかのように思われた。
 地面をつかんで耐えた。爪と肉の間に、濡れた土が食いこんだ。

 小便を浴びせられてまで、守ってきたのだ。
 尽くしてきた。
 朱子学の精神などでは断じてない。
 私自身の意思でそうしてきた。
 当の父からは邪険にされても一向にかまわない――と、思っていた。今までは。
 日田から来た内山玄簡(げんかん)という十四歳の少年が、すべてを変えた。
「そうですか。四極さん、そんなことを言っていましたか」
 玄簡の話を聞いて、父は笑う。あんな明るい声を聞いたのはいつ以来だろう。

 亀井塾が潰された後、昭陽は藩校「修猷館(しゅうゆうかん)」で教鞭を取っている。父と違い、朱子学派の人間を演じることができた。
 福岡藩では徂徠学派を追いやると共に、藩校に他藩の人間を入れてはならないという決まりが作られた。他藩の者が混じれば朱子学派以外の勢力が再び盛り返さないとも限らない。それを警戒しての措置であろう。
 玄簡の元の名は寅之助。日田の商人の息子で、流浪の学者――というより父の飲み仲間――四極の紹介でここへやって来た。福岡藩の人間になるために、これまた四極の紹介で、内山玄斐(げんぴ)という医者の養子にしてもらったという。
 玄簡は、美男子であった。目鼻が整っているというより、知性と、どこか儚げな雰囲気が、見目を映えさせている。額の中心にあるごく薄いほくろも、知的な印象を際立たせていた。
 玄簡は実際、記憶力も思考力も優れていた。学問への意欲は、その若さで焦りすぎではないかと思うほどであった。討論では年上の生徒たちにまだ及ばないが、詩作は抜きんでていた。
 そんな玄簡が、父は大いに気に入ったらしい。蟄居の身であるのもおかまいなしに、自室に呼び、個人教授をした。玄簡が軽くたしなめただけで、酒の量が減った。

 庭の甘棠(花梨)は見ごろを過ぎ、散った花びらが地面で朽ちている。
 ずっと私が父を守ってきた。亀井南冥は偉大な学者である。敬愛している。敬い、愛しているから、守ってきた。小便をひっかけられても、耐えた。
 志賀島の金印を研究していた頃のような、いきいきとした姿を、笑顔を、もう一度見たかった。必ず復活する。そう信じてきた。
 信じた通り、父は復活した。ただし、長年尽くしてきた私ではなく、突然現れた少年の手で。
 私の詠んだ詩については「良し」か「悪し」しか言ってくれなかった――それもほとんど「悪し」だった――のに、玄簡の詩に対しては雄弁になった。絶賛し、どこを直せばより良くなるか、事細かに語った。
 喜ぶべきだ。本来は。いきさつは何であれ、元気になったのだから。
 見返りが欲しくて守ってきたわけではない。父のためになりたい。その一心だった。
 報われなくてもかまわない、はずだった、のに。

 奪られた。

 横取りされた。見ず知らずの子どもに。やけに大人びた話し方をする、鼻もちならない餓鬼に。
 認めよう。私は嫉妬している。九つも年下の玄簡が羨ましいと思っている。
 父が笑顔になるのは、私のおかげであってほしかった。私に向けてほしかった。
 あんな子どものどこがいいのか。賢くはある。が、あのぐらいの頃の私と比べて、必ずしも玄簡の方が優れているとは思えない。
 神童となら、私も呼ばれた。わき目も振らずに学んだ。勤しんだ。十九の時には『成国治要』を書いた。親の七光りでなく、実力で、藩校を任されている。
 学問では、決して負けてはいない。
 ならば、見目か。
 醜男であることを、今までは苦にしていなかった。容貌など表層に過ぎない。気にするだけ無駄だと。
 無駄ではある。変えられないのだから。無駄だとわかっていても、玄簡が見目の良さで父に気に入られたのなら、どうして涼しい顔をしていられようか。
 涼やかでないのだ。私は、目もとが。見るからに賢そうではない。
「見目が悪いから愛してくださらないのですか」
 そんなこと、訊いてどうする。
 そうだと言われたらどうする。
 自分の首をはねて、祇園祭で山鉾を作っている有名な人形師に新しい顔を頼めばいいのか?

同年 玄簡( 寅之助) 十四歳

 何もかもが珍しく、心が躍った。
 福岡城。初めて見る「城」。秀吉が朝鮮攻めの時に手を焼いた「晋州城」を参考にして建てられたものだという。軍記物の好きな玄簡は、素人ながらに、この城を落とすのは確かに難しそうだと、想像して楽しむ。
 初めて見る「城下町」。商人が中心で和やかな日田と比べ、空気がどことなくきりりとしている。道場のそばを通った時、中から聞こえてくる激しい物音に、思わず聞き惚れた。木刀でのチャンバラごっこや素振りしかしたことがなかった玄簡は、竹刀での打ち合いがこれほど凄まじい音を立てるということを知らなかった。
 そして、初めて見る「海」。日田盆地に住む玄簡にとって、風景の一番奥には、いつも当たり前のように「山」があった。福岡の北には、その山が、ない。限りなく広く、常に動き、不思議な香りがする。地図の上でしか見たことがなかった。この国はこんなものに囲まれていたのかと思うと、それこそ海原のように、視界が開けていくのを感じる。

 修猷館で受ける指導も刺激的だった。
 句読にこだわらず、解釈を重視するという意味では、四極先生の教え方に近い。
 規範となるのは「服労・徳班・責善」。机上の空論をこねくりまわすのでなく、世の中の役に立つ学問をしようと、最初に教えられた。金吾が「医者を目指す」と決意したのは、この方針のもとで学んでいた影響もあったのかもしれない。
 厳密に言えば、金吾が学んでいた亀井塾は潰されてしまってもうないのだが、同じ亀井家の学者が指導しているのだから、学風は亀井塾を踏襲していると見ていいだろう。
 玄簡を夢中にさせたのは、「奪席」と呼ばれる討論会だった。漢文を読みあげ、ある部分の解釈について二人が討論し、審判役に勝ちを認められた者は、一つ上の「席」に移動する。すなわち、席順で優劣があらわになる。はじめはずっと末席だった。それが悔しくて、励んだ。強い人を観察した。初めて席を奪った時の喜びは格別だった。
 修猷館は、良くも悪くも、生徒に委ねられている。規範はあっても規則はなく、罰則もない。奪席で負けても席順がさがるだけで、何を言われるわけでもない。長福寺にいた頃、元俊先生が皆の前で徳兵衛を叱ったのは、一種の優しさだったのかもしれないといまは思う。修猷館は遅れる者を救わない。素行が目にあまる者は、指導されるのでなく、退学となる。
 玄簡が入学してすぐの頃、色々と親切にしてくれた先輩がいたが、やがて万引きだの覗きだの、悪い遊びに誘われるようになった。断ってもしつこく誘われた。それがある日、突然いなくなった。退学になったのだと、他の先輩が教えてくれた。
 合理的ではある。ただ、少し冷たいとも思う。
 四極先生は、玄簡の気分が優れず、学問に身が入っていない時、
「おら、シャキッとしろ」
 と、喝を入れてくれた。おかげで怠け心は吹き飛んだ。
 修猷館に四極先生のような指導者や先輩はいない。諭さず、追い払う。
 その冷たさは、亀井南冥先生の気質によるものかもしれない。

 玄簡は南冥先生に贔屓された。あからさまだった。幸い、ねたんで嫌味を言ってくるような先輩はいなかったが、玄簡の方では気兼ねした。
 南冥先生は、誰が相手でも丁寧な言葉を使う。玄簡や生徒たちにはもちろん、実の息子である昭陽先生にまで敬語なのには驚いた。酒好きで――玄簡が気に入られていたせいかもしれないが――いつも穏やかだった。
 ただ、朱子学派を批判する時には、ぞっとするほど冷たい目になった。自分の塾を潰されたのだから不自然なことではない。とは言え、その変貌ぶりには目を見張った。
「彼らはクズです」
 と、語尾だけは穏やかなまま、刃物で刺すような言い方をした。
 また、どうやら昭陽先生を煙たがっているらしいことに、玄簡は気づいた。昭陽先生が何か話しかけても、南冥先生はごく短い返事しかしない。南冥先生から昭陽先生に話しかけることは滅多にない。自分で言えば済むような言伝を頼まれたことも何度かある。
 あの親子の間柄について、藤左仲(ふじさちゅう)という古株の先輩に尋ねてみた。
「南冥先生はあまのじゃくなところがあるからなぁ」
 と、左仲は言った。
「亀井塾を潰されてしばらくは、そりゃもうひどい有り様だったんだよ。一日中酒を飲んで、ぶつぶつ恨み言を言ってばかりいた。いまの先生からは想像もつかないだろ」
 玄簡は頷いた。
「そんな南冥先生を、昭陽先生はかいがいしく世話してた。よく嫌にならないなって感心したよ。もし昭陽先生がいなかったら、南冥先生はとっくに体を壊しててもおかしくなかったと思う」
「では、なぜ南冥先生は昭陽先生を避けるのでしょうか」
「だから、あまのじゃくなんだよ。正面切って感謝するのが恥ずかしいんだろ」
 左仲は玄簡の二つ年上。二十人いる生徒たちの中で、句読の覚えは一番遅いが、奪席では常に主席という、不思議な少年だった。
「そうだ。君が仲裁してやればいいんじゃないか?」
「はい。できれば、そうしたいと考えています」
 玄簡には南冥先生の気持ちがわかる。
 土蔵の二階で腐っていた頃、友達がみな疎遠になっていく中、安利と金吾だけがずっと声をかけ続けてくれた。今思えばあの二人にはずいぶん助けられていた。なのに、当時は邪険にした。
「頼むよ、玄簡。君が来てくれてよかった」
 自分も南冥先生も、この左仲のように、温かい心をさらりと伝えられればよいのにと、玄簡は思う。
 左仲をはじめ、修猷館では仲間に恵まれた――好ましくない仲間が退学になったせいとも言えるが。今まで学問の友と呼べるのは金吾しかいなかっただけに、非常に喜ばしいことだった。
 南冥先生と昭陽先生は、何と言っても実の親子なのだから、仲裁はそう難しいことではないだろう。
 と、この時点では、気楽にかまえていた。憧れの遊学は、まだまだ続くはずであった。

同年 安利 十二歳

 距離が離れると、否応なく、心も離れる。
 兄が福岡へ旅立ってから、安利は自分の祈りが以前より雑になってきていると感じていた。
 良い友達がいるとか、偉い先生に気に入られたとか、楽しそうな手紙が届く。それを読むと、安心すると同時に、くすんだ気持ちもわいてくる。
 兄を支える。そう決意したのは私だ。けれど、兄の方では支えられていることを知らない。病気がちだった体が丈夫になったのは、能天気にも、毎朝の素振りのおかげだと思い込んでいる。
 それでいい、はずだった。感謝されたくて支えているわけではない。支えたいから支えている。まじりけのない思いで、兄が日田を発つまでは、祈り続けることができた。
 今は、ひどく、孤独であった。
 兄から感謝されなくても、ほめてもらえなくてもいい。それを望むのはおこがましい、けれど、京にいる豪潮律師を除いて、誰も安利の苦心を知らない。
 誰も知らないということが何よりつらかった。もう目をつぶってもたどり着けるほど通い慣れた大超寺への道を歩きながら、安利は孤独に押しつぶされそうになっている。
 人の気も知らないで、自分ばかり楽しそうに――と、合掌したまま兄を恨みそうになる気持ちを、安利は必死に押さえる。
 だめ。出てきてはいけない。
 標をつけられた兄には、呪いも届いてしまう。
 念願叶って遊学の機会に恵まれたのだから、思う存分、良い経験をさせてあげたい。
 ――遊学が終わったら、どうするのだろう。兄は、私はこれからどうなるのだろう。
 定められた十九歳まで、残り五年。あと五年間、毎日祈り続ける? それから先は? 祈りの力で寿命を延ばすことができたとして、その先もずっと祈り続けなければならないのだろうか。誰にも知られずに?
 そこまでするほど、私は兄を大切に思っているだろうか?
 ――だめだったら。
 安利は閉じた瞼に力をこめて、雑念を追い払おうとする。

同年 玄簡

 放学(休日)は月に三、四日。先輩たちは思い思いに過ごしていたが、人より時間がない玄簡は、放学の日も一人で復習をし、書物を読み、詩を練っていた。
 体調にかげりはない。今やすっかり頑健になった。修猷館の人々にとっては、玄簡がかつて病弱であったことなど思いも寄らないだろう。
 が、十九までという定めが消えたわけではあるまい。
 駆け抜けられるようになった――と、思い定めていた。患い、悶々としながら朽ちていくのではなく、存分に学び、その喜びをかみしめながら死んでいける。
 書物を残すとか、大きなことがしたいと、以前は思っていた。今は、死後のことをあまり気にかけていない。気にかける暇がない。読むこと、詠むことが、面白い。
 八月十五日。中秋の名月とされる日。修猷館では毎年、博多湾に小舟を浮かべて、月見を楽しんでいるという。
「たまには休みなさい」
 という南冥先生の言葉もあって、玄簡は久々に、学問から離れて過ごすことにした。今日だけは詩の題材も探すまい。
 亀井両先生の仲裁がずっと先延ばしになっていたが、今宵、輝く月の下でなら、それも叶うかもしれないと、玄簡は考えていた。

 夕闇の中、修猷館の面々は、五艘の小舟に分かれて乗りこみ、漆黒の博多湾へ漕ぎだした。
 南冥先生は当然のように玄簡を自分の舟に乗せた。
 昭陽先生も一緒に――と、玄簡は思ったが、大人たちと年長の先輩たちは別々の舟に乗ることになっているようであった。
 南冥先生は屋台で買ってきた団子をつまみに、徳利から直に酒を飲んでいる。
 沖へ出ると、各船、提灯の灯かりを落とした。
 光がほとばしるような満月であった。杵をつくうさぎの模様がはっきりと見える。
「月へ行ってみたいと思いませんか」
 と、だしぬけに南冥先生が言った。
 驚いた玄簡は、
「月へ、行く?」
 と、おうむ返しに言った。
 そもそも月が場所であると、今まで考えたこともなかった。
「地球儀を見せたことがあったでしょう」
「はい」
「月もきっと地球のような玉の形をしていて、人が住んでいるのだろうと、私は思っているのですよ。あちらから見ればこの地球が月のように見えているはずです。そして、遠い異国の船が日本へやって来たように、いずれ地球と月の間でも行き来が始まるでしょう」
「しかし、月は天にあります」
「ええ。数十年では無理でしょうが、数百年あればわかりません。今からおよそ千七百年前、志賀島の金印を漢の国から授かった頃、日本人はこんな未来を想像もしていなかったはずです。彼らはまだ鉄さえ知らなかった。刀の切れ味を見たら、妖の仕業とでも思うでしょう。人間の技術は進歩しています。この先千年のうちには、きっと空を飛ぶ乗り物が作られ、月へも行けるようになります」
「では、先生。月と我々、どちらが先に相手方へたどり着くか、競争ですね」
 と、玄簡が言うと、南冥先生はそれには返事をせず、ただ玄簡をじっと見た。
 何かまずいことを言ったのだろうか。
「やはり君は賢い。その通り。先んじるべきです。異国との交易を長崎に限って、長い間自分たちの殻に閉じこもっていたこの国は、世界ではすっかり遅れを取っています。そこへきて、朱子学以外は学問と認めないなどと、狂気の沙汰です」
 朱子学派の批判であるのに、南冥先生の目が穏やかなままであることを、玄簡は不思議に思った。
「玄簡くん、あなたはいずれ、家業を継ぐのですか?」
「内山の父のことですか?」
「いえ、それは姓を借りているだけでしょう。実家は日田の掛屋でしたね」
「はい。しかし、父は弟に継がせようと考えているようです。私には、思う存分学問をしてこいと」
「そうですか。では――」
 南冥先生は一口、酒をあおると、
「――私のあとを継ぎませんか?」
 と言った。
 静かな海上で、その声はよく通った。
「……南冥先生のあと取りは、昭陽先生でしょう」
 と、玄簡には、当たり前のことを言うのが精いっぱいだった。
「あれはだめです。朱子学派に迎合しています」
 と、南冥先生は、今度こそ氷のような冷たい目で言った。
「ですが、学問で身を立てようとする以上、やむを得ないことなのでは」
「徂徠学派は必ず復活します。異国が本格的に日本に迫ってくれば、いつまでも伝統ばかり守っている場合でないと、幕府も気づくでしょう。恐らく数十年以内に、流れが変わります。その時、玄簡君、あなたに、徂徠学派の先頭に立ってほしいのです」
 玄簡の中では、光栄さよりも、不安が勝っていた。
 同じ舟の先輩たちには、間違いなく聞かれている。聞かれてもかまわないというつもりなのだろう。
 けれど、昭陽先生には? 舟の位置はそう離れていない。潮騒が遮ってくれているだろうか?
「いかがですか」
「……」
 昭陽先生の様子を窺いながら、玄簡は考えた。
 亀井南冥の後を継ぐ。学問を志す者には、このうえない大出世である。
 いつか金吾と討論をした時、自分は自然と徂徠学派に近い考え方をしていた。ここで南冥先生の誘いを受けるのは、四極先生や金吾には自然なことと思えるだろう。
 けれど、そもそも学派というものについて、玄簡は引っかかるものを感じている。いがみ合うばかりで、対話がない。相手の考え方は間違っていると決めてかかり、自分を省みない。
 心情的には徂徠学派に寄っている。が、朱子学派への憎しみという「古いもの」にいつまでも固執しているのでは、朱子学派と同じではないかとも思う。
「今すぐに決めなくてかまいません。ゆっくり考えてください」
 南冥先生の言葉に玄簡が返事をするより先に、笛の音が聞こえてきた。
 吹いているのは昭陽先生だった。
 本職の楽士にもひけをとらないという噂に違わず、透き通るような、見事な音色。
 玄簡は安堵した。南冥先生の話が聞こえてしまっているのではないかと思ったが、この様子なら、どうやら杞憂だったらしい。
 昭陽先生の横笛の音は、舟の揺れと同調し、ときに相克し、複雑なうねりを伴って玄簡の耳に響いてきた。
「……?」
 不意に、奇妙な想像が浮かんだ。
『御伽草子』を題材にした祇園祭の山鉾。まるで生きているかのような、精巧で力強い源頼光の人形。その首がぽろりと落ち、竹ひごで組まれているはずの胴体から血が噴き出した。酒呑童子の人形が動き、醜悪な口を大きく開いて、血まみれの頼光の上体にかじりついた。
 強烈な吐き気に襲われ、玄簡は海へ身を乗り出し、こみあげてきたものを吐いた。その嘔吐が終わらないうちに、硯で殴られたかのような頭痛が生じ、腕の力が抜け、耳の横を舟べりに強く打ちつけながら倒れた。
 全身が震える。視界がかすむ。心臓があばらの外へ出たがっている。
 猛烈な耳鳴りの向こうで、南冥先生や先輩たちの声がする。
 玄簡。大丈夫か、玄簡。
 げんかん?
 誰だそれは。
 俺の名は寅之助。
 いや、俺は頼光。
 まだ志なかば。愛刀童子切安綱にかけて、こんなところで力尽きるわけには……。

同年 安利

 私のせいだ。
 学業の途中で病に倒れ、日田へ帰ってきた兄の枕元で、安利は自分を責めた。責め続けた。

 この哀れな妹は、昭陽の呪いがあったことを知らない。自分の祈りに邪気が混じったせいでこんなことになったと信じている。

 兄は丸一月、うなされていた。
 長作先生の薬のおかげで容態は落ちついたが、どうにか体が起こせるようになった時、兄の眼差しはすっかり昔に戻っていた。四極先生と出会う前の、底知れぬ、闇夜の色をしている。
 乾いた唇は薄い粥をわずかにすするばかりで、ほとんど言葉を発しない。
 旅立つ少し前から病に伏せることはなくなっていただけに、両親もひどく心配した。夜中、母が泣いているのを、安利は何度か聞いた。
「兄上」
「……」
 このままでは、豪潮律師の言っていたように、寿命が縮まらないとも限らない。それも自分のせいで。
 安利は今まで以上に祈った。指先が痺れるほど、強く掌を合わせた。

 しかし、安利の必死の祈りも、現状を維持することしかできなかった。それほどまでに昭陽の嫉妬は強烈だったのである。
 玄簡が去ったのち、修猷館は突然の火災で全焼するという悲劇に見舞われるのだが、これは昭陽が放った呪いの延焼のようなものだったのかもしれない。

 どれほど祈っても、一向に回復の兆しが見られない。
 張り合いがない――と感じてしまうのも無理からぬことと言えるが、そんな淀みがまた毒になってしまうにちがいないと、安利は恐れ、苦しんだ。
 情けないけれど、支えが必要だった。
 支えとは、誰かに知ってもらうこと。
 誰かとは、金吾。
 かつて金吾に教わった文字で、安利は金吾に手紙を書いた。
 すべてを伝えた。

 ――どうかこのことは、胸のうちにしまっておいてください。
 勝手を申しあげていることは承知しております。お許しください。金吾さんが知っていてくださるというだけで、私はずいぶん救われるのです。
 兄は私が守ります。
 金吾さんの学業がはかどりますように。日田の空からお祈り申しあげます。

寛政八( 一七九六)年 徳兵衛 二一歳

 行く先々で、徳兵衛は百姓たちの様子を紙に書きとめた。それはまぎれもない学問であった。
 同じ田んぼでも、村によって、仕事のやり方は異なる。使われている農具も、肥料も違う。働く人々には酷なことだが、優劣があるにちがいない。
 父は伊兵衛の伝えた稲架がけを突っぱねた。けれど、あれは意地を張っただけだ。大した手間や資金がかかるわけではなく、稲架がけをしない理由はない。稲の干し方に関しては日田より庄内の方が優れている。
 最良のやり方を集めれば、収穫量は必ず上がる。問題は父のように、よその真似を嫌がる百姓が多いと思われることだけれど、それはさておき、まずは自分が各地の技術を知ることだ。
 どこへ行っても、伊兵衛は非常にありがたい存在だった。
 概して百姓はよそ者を歓迎しないが、
「精が出ますなぁ」
 伊兵衛がそう一声かけるだけで、一気に距離が縮まる。話が聞きやすくなる。自分一人ではこうはいかなかった。
 旅の中で徳兵衛は、稲作の改良とともに、副業が極めて重要であるという認識を強めていった。
 ある村では、畑のすみに(こうぞ)を植えて、和紙を作っていた。またある村では、冬の間、田んぼの水を落とし、菜種をまいて、菜種油を作っていた。いずれもかなりの収入になっているとのことであった。
 肥後の熊本藩で、一つの理想を見た。徳兵衛にとってはなじみ深いろうそく作りが、藩の指導のもとで行われていたのである。
 藩の指導で、空き地という空き地にハゼが植えられた。工場も藩が経営していた。百姓たちはろうそくを作る技術がなくても、ハゼを管理して実を持っていけば、工場で買いとってもらえる。
 この頃、ろうそくは灯かりだけでなく、髪油や家具のつやだしにも用いられるようになり、消費が増えていた。ろうそく作りから得られる利益は、百姓の暮らしを楽にしたばかりでなく、藩の財政をもうるおした。
 徳兵衛は興奮にふるえた。新しい方法を学び、効率を考え、需要に応える。百姓の仕事は産業なのだ。先祖伝来のやり方にこだわり、百姓とは貧しいものだとあきらめていては、何も変わらない。
 ちょうど伊兵衛が最初に貸してくれた路銀も底を尽きかけていたので、しばし留まり、ろうそくの工場で働くことにした。
 その間、伊兵衛は伊兵衛で、文字が書けない客に代わって文を書く〝代書〟の仕事をしたり、いつものように子供たちと遊んだりしていた。
「細川さまは偉い」
 と、工場の職人たちも、ハゼを売りに来る百姓たちも、みな口々に藩主をたたえた。

 熊本藩六代藩主・細川重賢(しげかた)は、着任早々、合理的な産業振興を次々に実行して、借金まみれだった藩の財政を建て直し、のちに「肥後の鳳凰」と呼ばれた。全国で初めての身分不問の藩校「時習館」や、これまた日本初の公立医学校「再春館」を作ったことでも知られている。

「働いた分はきちんと賃金を支払ってくださる。それに、ろうそくという選択も見事だった」
「よく売れているようですね」
「それもあるが、それだけじゃない」
「というと?」
「何だかわかるか?」
 と、徳兵衛の横で働く職人は嬉しそうに言った。
「いいえ」
 と、徳兵衛が素直に答えると、職人はますます嬉しそうに、
「ろうそくは腐らない」
 と言った。
 新たな発見に、徳兵衛は魅了された。
 そうか。腐らないから、遠くまで売りに行けるし、余っても取っておける。副業として作るならぜひそういう作物にすべきだ。
 だが、ろうそくばかり作られては値が下がってしまう。傷みにくくて需要のある作物、他に何があるだろうか?
「ほら、手ぇ止まってんぞ」
 と注意され、徳兵衛は慌てて仕事を再開した。

同年 寅之助 十五歳

 焦りすぎた。意識の外で溜まっていた疲れが、突然爆発した。せめて月に数日、塾の定める放学の日ぐらい、きちんと心身を休めるべきだった。
 しかし、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。
 ようやく、ものを考えられるぐらいには回復した。少しずつでも学業を再開しよう。
 ――と、南冥先生がくれた書物を開いた。そのときだった。
 文字がかすんでいる。
 読めない。
 いや、目を凝らせば、どうにか読むことはできるが――。
「嘘だろ」
 視力が落ちている。劇的に。
 その衝撃と、小さな文字をにらみ続けた反動で、倦怠感が倍以上になった。
 文字が読めなくては、学問などできるわけがない。
 今のところ、かろうじて読めはする。文字の大きい書物ならもう少し楽に読めるだろう。
 が、恐らく、この視力は消費する。削れていく。見ようとする行為に、以前は考えもしなかった負荷がかかっている。ろうそくの灯かりなどで小さな文字を読めばたちどころに失われていくだろう。

 この時代にも眼科医はいる。
 しかし、何故か眼科の技術は一子相伝という伝統があり、医師の数が極めて少なかった。どうしても治療を受けたい者は、はるばる医師のもとまで出かけていき、順番待ちのために何日も、ときには何ヵ月も逗留しなければならない。
 肝心の技術も、当然ながら科学的な西洋医学ではなく、経験則に基づくものである。治療の成功率は決して高くなかっただろう。
 端的に言って、目の衰えは受け入れるしかなかった。

 ああ、それならもう、だめだ。
 終わった。何もかも。
 福岡へ戻って南冥先生のあとを継ぐなど到底不可能だし、自分自身の喜びのための学問すらできない。
 学問一筋だった。この道を失ったら、他に何もない。
 中途半端な高さの、鋭く尖った岩山の頂に独り、取り残された。これ以上、昇ることも降りることもできない。
 希望に燃えた記憶は今や真っ白な灰になった。風の中にさらさらと消えていく。
 こんなことなら、学問などするんじゃなかった。
 どうせ十九までの命だ。もうここで終わらせてしまおうか。
「二度目が危ない」
 と、長作先生は言った。
 スズメバチ、どこかに飛んでいないか。
 俺は昔、一度刺されているぞ。格好の獲物だ。ほら、刺しにこい。
 死ねば楽になれる。土になれる。土になって、詩人が一首詠みたくなるような景色の一部に――

 ――ふざけるな。くそ。冗談じゃない。
 あまり根を詰めては目が悪くなると、どうして誰も教えてくれなかったんだ。

同年 徳兵衛

「またお前か。いい加減にしろ」
 と、門番が言った。
 自分より背の高い相手は、徳兵衛にとって珍しい。棒を持つ腕は太く、陽に灼け、赤銅のようである。
「お願い致します。どうしても砂糖の作り方を教えていただきたいのです」
 と、徳兵衛は頭をさげた。
「ならんと言っているだろう」
「お願い致します」
 この頃、砂糖は貴重品で、ほぼ中国からの輸入に頼っていた。国内で唯一、砂糖づくりに成功していたのが、この南の果ての薩摩藩である。
「死にたいのか、お前は? 製糖の技術を盗もうとして死罪になった者が何人もいる。これほどかたく守っている秘密をどうして、どこの馬の骨とも知れないお前に教えてやらねばならんのだ。もうあきらめろ」
「こりゃ潮時かもしれんぞ、徳兵衛」
 と、伊兵衛が後ろから声をかけた。
「確かに俺は甘いものが食いたいなと言ったが、何もそこまで砂糖にこだわることもなかろう」
「いえ、砂糖がいいのです。腐らず、売れる。砂糖の作り方がわかれば多くの百姓が救われます」
「話ならよそでしろ。邪魔だ」
 と、門番。この人物ばかりはさすがの伊兵衛も懐柔できなかった。
「お願い致します、なにとぞ」
「くどい! さっさと消えんとこの棒で打ちすえるぞ!」
「何をもめている」
 と、現れたのは、門番とは対照的に、ずいぶんと覇気のない、青白い顔をした武士であった。声をかけられるまで、その場の誰も近づいてきたことに気付かなかった。
「これは、御殿様!」
 と、門番は慌ててかしこまった。
 徳兵衛はあまりのことに驚き、門番に着物のすそを引っぱられるまで、ただ立ち尽くしていた。
「何があった?」
「は、この者たち、日田から来たとのことですが、その、砂糖の作り方を知りたいと」
「なんと、真正面から来たのか。これは驚いた」
 と、薩摩藩第九代藩主・島津斉宣(しまづなりのぶ)は、大して驚いていないような声で言った。
「申し訳ございません。ただちに追い払いますゆえ……」
「うん……」
 と、斉宣は少し考えたのち、
「そこの二人、話を聞こうか」
 と言った。

 ソテツやレイシ(ライチ)が生い茂る藩営植物園「吉野薬園」の東屋で、
「堂々とした盗人もいたものだな」
 と、斉宣は言った。
「盗もうというのではありません。出所は明らかにします。熊本で教わったと必ず言います」
 徳兵衛は淡々と言った。
 藩主という立場があまりにも上、雲の上の存在で、その恐ろしさが実感できなかったせいかもしれない。
「栄誉を守ってくれるのはありがたいが、なぜ砂糖の作り方が秘密なのか、理解しているか? 誰にでも作れるものになってしまったら、価値がさがるからだ」
「はい」
「それを承知で、教えろと」
「はい」
「うーむ、面白い」
 と、斉宣はさほど面白くもなさそうに言った。
「砂糖で儲けているのだからここは豊かだと思っているか? 確かに収入源はある。が、金はいくらあっても足りない」
 薩摩藩は幕府から、いやがらせとも言えるような大規模な手伝普請(土木工事)をたびたび割り当てられている。
 特に、宝暦四年、木曽三川の治水事業は、多数の死者を出すほどの難工事で、現場が遠く離れていることもあり、大変な出費となった。
 また、薩摩は台風の通り道でもある。
「常に備えが必要なのだ。薩摩の領民たちを守るため、砂糖の製法は独占する」
「恐れながら申しあげます」
 と、伊兵衛が口を開いた。
「この図体の大きな子どもは、自分や、自分の故郷の金儲けのために、砂糖の製法を知りたがっているのではありません。日本中の百姓を救おうとしているのです」
「日本中?」
 と、斉宣は眉間にしわを寄せた。
「技術を分かち合えば誰も飢えなくなると、単純な、安易な考えです。それを大真面目にやりとげようとしています」
 伊兵衛の改まった話し方を聞くのは、徳兵衛には初めてのことだった。
「日田往還の宿場町で盗賊に遭った時、刀を抜いた私にこいつは〝助けてやってくれ〟と言いました。食うに困るからこんなことをせざるをえなかったのだと。一歩間違えれば自分が死んでいたにもかかわらず」
「……」
「砂糖の製法をお教えくだされば、いつか、何らかの有益な情報を、この薩摩にももたらすことができるでしょう」
「いつか、何らかの……か」
 それから、かなり長い沈黙が続いた。
 斉宣の肩にトンボが止まり、はねを休め、また飛び立った。
「君は、私の親戚(、、)の……名は何と言ったかな」
 と、斉宣は伊兵衛を見て言った。
 親戚?
 徳兵衛は驚いて伊兵衛を見た。
「伊兵衛でございます。ご無沙汰しております、伯父上」
「弟は息災か」
「は、元気でやっております」
「親戚になら教えてやれる。砂糖づくりの工程、自由に見ていくがよい。ただ、君も何かと忙しかろう。あまり長居はしないことだ」
「ありがとうございます。この御恩は生涯忘れません」
「たかが砂糖で、何を大げさな」
 と言って、南国の木々が放つ、むせかえるような香りの中、斉宣は去っていった。
「伊兵衛さん、確か筑前のお生まれでは」
「ああ、実は御殿様の甥っ子だったのだ」
「それは、これまでとんだご無礼を」
「今さっき御殿様ご本人に啖呵を切ったお前が何を言う」
 と、伊兵衛は笑った。
「さて、伯父上のお許しもいただいたことだし、砂糖の工場を見に行こうか」
「はい!」
 伊兵衛が徳兵衛に、御殿様が機転を利かせてくれたのだと説明したのは、薩摩を脱したあとであった。その方がぼろが出ないと言ったが、単に面白がっていたという方が当たっているであろう。

 のちに徳兵衛が書いた『甘蔗大成』には、このとき学んだ砂糖の作り方が詳細に記されている。
 ――砂糖キビの肥料は三度に分ける。苗を植える前に一番ごえとしてたい肥をすきこんでおく。二番ごえは人糞と油かす。三番ごえは干したイワシを用いる。
 収穫の時期を見極めるには、両手で茎を折ってみればよい。ポキンと折れれば頃合いである。
 砂糖キビの茎から汁をしぼるには、ろくろという圧搾機を使う。ろくろは水車もしくは人力で動かす。
 しぼりとった汁を鍋に入れ、松の薪を用い、強火で煮立てる。小さな泡が出始めたら、石灰を加え、しゃもじでかき混ぜる。やがてねばり気が出てくる。汁を少量、水の中に入れてみて、指で丸められるぐらいの固さになったら、火を止める。
 別の鍋に移して冷やせば、砂糖の完成である――
 厳重に守られていた薩摩の秘密をどうやって知ったのか、という点については、著書の中では一切触れられていない。人に訊かれても決して語ることはなかったという。

寛政十( 一七九八)年 安利 十五歳

「お願いだから、もう一度よく考えて」
 と、母ユイは目をにじませて言った。
 安利は、自分の祈りがまたかげり始めたと感じていた。兄は一日中けだるげで、いつも不機嫌で、学問に目覚める前よりもずっと棘々しい。病の――特に目の――せいなのだから、理解してあげなければと思うけれど、苛立ちをおさえきれず、今日こそ寺へ行くのをやめてしまおうかと思うことが何度もあった。
 このままでは、「兄は私が守る」という、金吾への誓いも破ってしまう。あんな大仰な手紙を書いたのに。
 揺れない人間になるしかない、と、安利は覚悟を決めた。
 尼になることについて、家族のほとんどは理解してくれた。きっと大賛成ではないのだろうけれど、毎日寺へ通う安利を見ていれば、自然なことと思えただろう。
 母だけが、かたくなに反対した。
「仏様にお仕えしたいという気持ちは、とても立派だと思います」
「でしたら、いいでしょう」
「でもね、安利、私はあなたにも、母親になってもらいたいの」
「……それは、どこか力のある商家の、ですか」
 安利がそう言うと、ユイは笑って、
「寅之助みたいなことを言うのね。やっぱり兄妹だわ」
 と言い、目尻の涙を指でぬぐった。
「お父上も私も、あなたを商いの道具にしようなんて思っていないのよ。私はただ、あなたに子を持つ喜びを知ってもらいたいだけなの」
「喜び」。
 それは意外な言葉だった。
 六つ下の久兵衛だけは、いかにも商家の息子らしく育っていた。愛嬌がある。兄に似て物覚えはよいけれど、兄と違って腹に一物ありそうな顔など決してしない。
 一方、兄はあの調子で、私もきっと毎日難しい顔ばかりしている。次の子は、死産だった。
「悲しみ」を感じることの方がずっと多いのではないかと、安利には思えた。
「もちろん、悲しいことや、心配で胸を痛めることもあります。でも、それも全部ひっくるめて、自分のおなかに授かった命が、外の世界で生きているというのは、本当に素晴らしいことなの」
「……」
「安利、金吾さんのこと、どう思っている?」
「何ですか、突然」
「仲良くしてくださっていたわよね」
「兄上のお友達です」
「お父上と長作先生とで、安利を金吾さんのお嫁にやってはどうかって話をしたことがあったのよ、何度か」
「……それは、金吾さんも」
「いいえ。金吾さんがこちらへお帰りになってから、話を進めようとされていたみたい」
「でも、尼になりたいと言ったとき、父上はそんなこと一言もおっしゃいませんでした」
「言えば、あなたを迷わせてしまうとお考えになったんでしょう。でも私は、あなたの将来のために、迷ってほしいと――できれば、母親になる道を選んでほしいと思っています」
「……」
 金吾さんと、私。
 考えもしなかったといったら嘘になる。でも、はかない空想で終わるはずだった。
 私がお寺通いを始めて、金吾さんは四極先生のもとで学問を始めて、一緒に遊ぶということはなくなったけれど、たまに目が合えば、少なからず、気持ちが華やいだ。
 あの人と所帯を持って、あたたかい家庭を築く――本当にそんなことができたら、どんなによかっただろう。
 あの状態の兄を残して、自分だけしあわせになるなど許されない。
 標をつけてくださいと頼んだのは私なのだから、責任をとらないといけない。
「金吾さんはお正月に帰ってくるそうだから……」
「でしたら私は、今年のうちに家を出ます」
「どうしてそんなこと」
「どうしてもです」
「……」
「嫌いです、あんな人」
 と言って、安利はその場を離れた。
 これ以上話せば泣いてしまうと思った。

 三度日田を訪れた豪潮律師のすすめで、安利は尼になるのではなく、律師の帰依者である宮中の女官・風早局(かぜはやのつぼね)に仕えることとなった。
 話がまとまってすぐ、安利は長作先生のもとへ挨拶に訪れた。
「ずいぶん急なことで、驚いたよ」
「以前から考えてはいたのです」
「ご家族はなんと?」
「……ご理解いただきました。私の決意がかたいことを」
「そうかね。しかし、残念だ。金吾のやつもさみしがるだろう」
 金吾という言葉を打ち消すように、安利は早口で、
「長い間お世話になりました。どうか兄のこと、よろしくお願い致します」
 と言った。
「うん。私なりに、最善を尽くすよ」
「ありがとうございます」
「ところで、夜は眠れているかね」
「夜、ですか?」
「目の下にクマがある」
 気づかなかった。日頃、鏡などろくに見ない。
「初めての遠出を控えて、不安な気持ちもありますけれど、おかげさまで、眠れてはいます」
 安利がそう言うと、長作先生は何か言いよどんでいる様子だったが、結局、
「体を大事にしなさい」
 とだけ言った。

 安利を乗せた船は、中津から瀬戸内の海を順調に進んだ。
 日田の子どもたち――寅之助も金吾も徳兵衛もそれぞれに旅をしていたが、九州を最初に出るのが安利になるとは、誰も思わなかっただろう。
 明け方、船主に立ち、東を見た。兄へのこじれた気持ちも、金吾を失った悲しみも、潮風に吹かれて、西の空に消えていくように感じられた。
 瞳を閉じ、そっと掌を合わせ、祈った。
 私はどうなってもかまいません。兄の体がよくなりますように。

同年 徳兵衛 二三歳

 安利に遅れること数日、徳兵衛と伊兵衛も東へ向かう船に乗っていた。
 薩摩から大阪へ砂糖を運ぶ菱垣廻船(ひがきかいせん)である。縦に長い帆は風を受けてぐんぐん進んだ。
 御殿様の甥である伊兵衛は、所用のため、供の職人とともに、大阪にしばらく滞在するということになっていた。
「どうだ?」
「何がです?」
「平気か?」
「ですから、何のことで?」
「気分が悪くはならないか?」
 船酔いのことを言っているらしい。
「そうですね。どうやら、酔わない体のようです」
 と、徳兵衛が答えると、
「俺が初めて船に乗ったときはひどい目に遭ったものだが、そうか、酔わないか。それは何よりだ」
 と、伊兵衛は心なしか残念そうに言った。
 船中で、筆をとった。
 書物を書くということを、以前から考えていた。
 この頃出まわっていた農業に関する書物としては、宮崎安貞(みやざきやすさだ)の『農業全書』がある。安貞は筑前の浪人で、西日本を放浪して各地の田畑を見まわったのち、福岡の周船寺村で自らくわを手に取り、その経験を書き残した。
 徳兵衛も『農業全書』を読んでいた。ただし、この書物は元禄十年、百年も前に出たものである。情報は古い。当然、稲架がけについても書かれていない。
 安貞自身、内容が不完全であることは承知していたようで、
「後世、文才と農業の知識とをあわせ持つ人が現れたならば、どうかこの書を補ってほしい」
 と、謙虚に書いている。
 文才はともかく、知識はある。出版の仕方もわからず、つてもないが、船上にあって他にすることもないいま、書いておいて損はない。
 まずは、家業であるろうそく作りについて書いた。

 いざ始めてみると、思いのほかすらすらと書けた。道徳や国策でなく、技術を説明するだけのことだから、当たり前と言えば当たり前だが、一年間だけでも学問に触れた甲斐はあったのかもしれないと思えた。
「ほう、もう書きあがったのか」
 できたものを、伊兵衛に読んでもらうことにした。
 大阪は大きい町だから、書店もたくさんあるだろう。どうやって出版するのかは飛び込んで訊いてみればいい。もし書物が評判になったら、もう路銀の心配はしなくて済む。そうだ、題名はどうしようか。
 あれこれ考えているうちに、船は淡路島を越え、大阪湾から安治川へ入った。「天下の台所」と呼ばれる大阪の川沿いには、ひしめきあうように白壁の倉が並び、さまざまな生業の人々が行きかっている。徳兵衛の期待はふくらんだ。
 安治川橋の手前に港があり、錨が下ろされ、荷おろしが始まった。
 緩衝材であるむしろを取り払い、樽を担ぐ。砂糖職人として仕事をしていると、伊兵衛が声をかけてきた。
「ちょうど読み終えた」
「ありがとうございます」
 いかがでしたか、と訊くのが憚られ、徳兵衛は次の言葉を待った。
「ちょいと言いづらいが、これでは駄目なのではないかな」
 と、伊兵衛が言った。
 自信があっただけに、徳兵衛はひどくうろたえた。砂糖樽がずしんと重くなった。
「ハゼを植えるのがいかに有益か、ろうそくはどうやって作るのか、読めばわかる。そこはきちんと書けている。しかし、肝心なのは、実行に移そうと思えるかどうかではないか? これまでにも何度か、貧しい百姓にろうそく作りをすすめて、うまくいかなかっただろう。あれと同じことになる気がする」
「……」
 調子に乗って題名など考えていたのが、急に恥ずかしくなった。
 やはり俺には書物など無理だったか。
「何か工夫すればいいはずだ。一緒に考えよう」
 と、伊兵衛は言った。

寛政十一( 一七九九)年 久兵衛 十歳

 主屋を出ると、雪が積もっていた。そのまぶしさに、久兵衛は思わず目を細めた。それから、土蔵の二階を一瞥して、雪を踏みながら代官所へ向かった。
 時の代官・羽倉権九郎(はくらごんくろう)に気に入られた久兵衛は、ちょっとした使い程度なら一人でこなしていた。権九郎の息子・左門(さもん)とも親しく、役人たちにも顔を覚えられている。
 久兵衛は博多屋の跡取りとしての自覚を強める一方で、いつまでも土蔵に引きこもったままの兄に対して苛立ちをつのらせていた。
 みな、兄に甘い。
 病は確かにつらいだろう。どれほど苦しいのかは本人にしかわからない。けれど、兄の病は、体より心にあると、久兵衛は思っている。
 何しろ、治そうという気迫が感じられない。家の厄介になっているという恥じらいもない。具合の悪さを言い訳にして、このまま学問も仕事もせず、だらだら過ごそうとしている節がある。
 父上はなぜ叱らないのか。母上はなぜ毎朝火鉢の炭を入れてやるのか。それぐらい自分でやらせればいい。
 一時は高名な学者の弟子になって、十年に一人の秀才と噂されたそうだけれど、昔は昔。今の兄は尊敬できない。
 が、久兵衛はそんな気持ちを、どこであろうと、誰に対してであろうと、おくびにも出さない。笑顔に長けている。
 豆田の町並みを抜け、花月川にかかる御幸橋を渡る。欄干も河川敷も、遠くの山々も一様に白く雪をかぶっている。
 橋を渡りきればすぐに代官所である。
「さすがに今日は休んでいるだろう」
「いや、あの親父のことだからわからんぞ」
 と、二人の役人が話をしていた。
 二人は久兵衛に気づいて、
「やぁ、久兵衛」
「この寒いのにご苦労だな」
 と、親しげに挨拶した。
 久兵衛は父から預かってきた書類を渡し、
「誰の噂をされていたのですか?」
 と尋ねた。
「田島村の与兵衛(よへえ)という男さ」
「たった独りで井路(水路)を掘っているんだ」
 二人の話によると、与兵衛は村の代表として、過去に何度か井路の建設を代官所に願い出ていたが、受け入れられず、ついに単独で工事に乗り出したということであった。
 田島村は豆田町の東南に位置し、北の花月川からも南の三隈川からも離れた、水に不便な土地であった。飢饉の折にはこういう場所が真っ先に被害を受ける。久兵衛は知る由もないが、かつて徳兵衛が体験した天明の大飢饉においても、田島村は多数の餓死者を出していた。
 与兵衛は、三隈川と花月川を南北につなぎ、田島村とその周辺をうるおす井路を作ろうとしているらしい。
「助けてやりたいのは山々なんだがな」
「井路を作るのは大変な仕事だ」
「金も時間も人手もかかる」
「かわいそうだが、我々にもそんな余裕はないんだ」
 と、二人の役人はかわるがわる言った。

 届け物を済ませたあとは、遊びに行っていいと父に言われていた。そこで久兵衛は、雪の中、田島村を訪れた。距離にすればほんの一里程度だが、十歳の久兵衛にとってはこれが初めての冒険であった。
「邪魔だ。帰れ」
 と、与兵衛は言った。
 顎と鼻が異様に尖った、狂犬のような顔をしている。背中は筋肉で大きく盛り上がり、この寒さの中、汗が湯気を立てていた。
 井路というのは、地面に溝を掘って作るのだろうと、久兵衛は思っていた。ところが、与兵衛のしている仕事は、山に隧道(トンネル)を開けることであった。
 掘っても掘っても上の土が崩れてきて、一向に進む気配はない。けれど、確かに二間(約三・六メートル)ほどの隧道はできていて、与兵衛はその突端で作業をしている。
 ここまで掘るのにどれほどの時間がかかったのか。手伝ってくれる人はいないのか。井路が実現すると思っているか。訊きたいことのすべてを飲み込んで、久兵衛は与兵衛の背中をじっと見ていた。
 久兵衛が帰りそうもないと見たようで、
「きょうだいはいるか」
 と、岩をノミで打ちながら、与兵衛が言った。
「姉が、いまは、京にいます」
 と、ノミの音の合間をぬって、久兵衛は答えた。
 兄のことは言いたくなかった。
「俺にも姉貴がいた」
 と、与兵衛が言った。それから、
「記憶の中の姉貴は、いつも水汲みをしている」
 と続けた。

同年 求馬( 寅之助) 十八歳

 数え年で十八となった。
「十九まで」というのは、厳密にはいつまでを指すのか。来年の正月か、生まれた四月十一日か、年の終わりか。
 早ければ早いほどいい。仮にいま、体のだるさや目のかすみがすべて消えても、どうせ一年そこらでは何もできない。このままだらだらと死を待つだけだ。布団のかび臭さも感じなくなった。
 あの夜、舟上で倒れてから、一度も木刀を振っていない。腕は麻がらのように細くなっている。
 頭の中身もやせ衰えている気がする。何も考えずに漫然と過ごすことが、苦痛ではなくなってきた。
 おもてから、
「行ってまいります」
 と、久兵衛の元気な声がする。
 久兵衛は顔を合わせても俺の目を見ようとしない。きっと軽蔑されているのだろう。

 これでも、何度かは、本気で立ちあがろうとした。
 まず、名を変えた。求馬(もとめ)
 修猷館で玄簡と名乗ったのは入塾の手続きのためだったけれど、実際、生まれ変わったような気分にしてくれた。それを再現しようとしたのである。
 居ずまいを正し、厳かな気持ちで墨をすり、半紙に大きく「求馬」と書いた。その時は、気合いがみなぎった。けれど、三日後には、慢性的な倦怠感に押し流された。
 それから、視力が目減りしないよう慎重に読んだ『陰隲録(いんしつろく)』に、感化された。
 ――明の袁了凡(えんりょうぼん)は、科挙(官吏登用試験)合格を目指して学んでいるとき、一人の老人と出会った。老人は袁了凡に、
「県での試験は十四番目、府の試験では七一番目、省の試験では九番目の成績で合格するだろう」
 と予言した。さらに、
「廩生から貢生を経て、四川の県長にまで出世するが、子どもは授からない。そして五三歳で死ぬだろう」
 とも言った。
 果たして科挙は老人の言った通りの成績で合格した。貢生になる頃、袁了凡は完全に宿命論者となっていた。
 ところが、雲谷禅師(うんこくぜんじ)という人に出会って、考えが変わった。
「徳を積み、善を極めた人間に宿命の束縛は及ばない」
 という教えにいたく感激した袁了凡は、特別な日記をつけ始めた。一日に行った〝善〟の数を数え、〝悪〟の数を引くのである。
 三千の善が溜まった翌年、老人の予言に反して、子どもを授かった。その後も善を数え続け、袁了凡は八三歳まで生きた――
 過去にも自らの力で宿命に打ち勝った人がいたのだ。希望を見出した求馬は、袁了凡を真似て、善を数え始めた。
 が、折悪く、流行の風疹にかかった。熱にうなされ、首の後ろが腫れ、小便の出が悪くなった。熱と腫れが引いたあとも小便の出は悪いままだった。不快感につきまとわれて、いつしか善を数えるのをやめた。
 もう一つ、機会はあった。水岸寺という寺では長福寺と同じように子どもたちに学問を授けていたのだが、講師を務めていた僧が京へ行くことになり、その代役を頼まれた。
 今度こそ、と、引き受けた。
 しかし――案の定、と言うべきか――熱と頭痛にたびたび襲われて、休みがちになり、まもなく辞めてしまった。

 亀井昭陽の嫉妬がいかに激しかったとは言え、いつまでも残るものではない。
 安利の祈りも届いている。
 にもかかわらず、求馬の体がたえまなく病に蝕まれている原因は、二つある。
 一つは、確かに期限が近づいているということ。
 そしてもう一つは、自分自身への呪いである。
 奮い立とうしても、失敗した。気持ちに体がついていけず、折れた。その経験が積み重なり、どうあがいても無駄だという気持ちがどんどん強くなっていった。
 もうどうにでもなれ。
 俺は袁了凡じゃない。負けを認める。宿命が絶対ではないとしても、俺のような病弱な凡夫には覆せなかった。それだけのことだ。
 もう余計なことはすまい。死ぬはずの人間は死ねばいい。

 安利の訃報が届いたのは、夏、鳴りやまぬ蝉時雨に辟易しながら、伸びた爪をぼんやりと眺めている時だった。
 それまでに届いていた安利からの手紙によると、風早局は安利を実の妹のようにかわいがり、「秋子(ときこ)」という名を授けてくださったという。
 その風早局が熱病にかかって息を引きとると、秋子もあとを追うように、同じ病で亡くなったとのことであった。
 秋子が死の床で書いた手紙の文字を、求馬は落ちくぼんだ目で追った。
「――先日、仏様が夢枕に立たれて、
〝本当によいのか〟
 とおっしゃいました。
 私は、
〝はい〟
 と答えました。
 兄上が福岡で倒れられてから、私はずっと、自分を兄の身代わりにしてくださいとお祈りしていたのです。その願いがついに叶うようです。
 このことをお伝えするのは、恩を着せるためではありません。兄上のこれからの人生に、私の魂も連れていっていただくためです。
 兄上は十九を超えて生きます。目も完全に見えなくなってしまうとことはありません。そして、世の中のためにきっと大きなお仕事をなさいます。
 私がついております。どうかご自分のお力を信じてください――」
 ぽたぽたと、涙が落ちた。
 来る日も来る日も寺へ通う安利の後ろ姿が思い出された。
 まさか、いや、そのまさかだ。
 ずっと俺のために祈っていたのか。
 かたく握った拳を胸に当て、今度こそ、今度こそは本当に立ち上がらなければと、決意した。

 けれど、立ち上がって、何をする?

 三年以上に及ぶ不毛な暮らしは、求馬の心身を絶望的に衰えさせていた。
 秋子の文字通りの献身は、確かに求馬の命をこの世に繋ぎとめた。しかし、心の健康を回復させるには至らなかった。
 求馬は、すがるような気持ちで、金吾に手紙を書いた。金吾はとうに日田に帰ってきて、立派に医者をやっているが、会って話す勇気がわかなかった。
「――俺はどうすればいいだろう。
 今さら亀井先生のところへは行けないし、四極先生にも見限られてしまった。学者として身を立てる道は完全に閉ざされた。
 一から医学を学んで、医者を目指そうかとも思った。けれど、この病身ではどうせ遊学は叶わないし、医者の不養生と笑われる。
 眼科医への道は一瞬だけ開きかけた。修猷館の先輩であった鯵坂右京(あじさかうきょう)という人がたまたま日田を訪れて、診察をしてくれた。弟子にしてほしいと頼んだら、一度は了承してくれたのに、書物を一冊貸してくれたきり、どこかへ行ってしまった。やはり眼科医は一子相伝ということなのだろうか。それならそうと、はじめから断ってほしかった。
 学者も医者もだめとなると、何かの職人か、百姓か。しかし何にしても俺には下積みがない。体も弱い。
 家業はやはり弟が継ぐようだ。早くも六代目として張り切っている。博多屋に俺の居場所はない。昔のように土蔵の二階でなすすべなく過ごしている。
 せめて水岸寺の講師を続けていればよかったのかもしれない。が、数人の子どもに教える程度では、どのみち生計は立てられない。
 進退窮まった。
 ここだけの話、俺は病で近々死ぬだろうと思っていたのだ。それが、結局生きのびた。まるで準備ができていなかった。この痩せた体で、何ができるだろう――」

数日後 金吾 十九歳

 金吾は怒りに燃えていた。それはめらめらと踊る赤い炎ではなく、太陽のような、白い灼熱の塊であった。
 足を踏み鳴らして土蔵の階段をあがり、湿気て潰れた布団を引きはがした。
「起きろ」
「……金吾か。なんだ、いきなり」
 と、寅之助が言った。
 こけた頬、目やにだらけの目。
 額のほくろが消えていることに、こいつは気づいているのだろうか? 少なくともその重大さはわかっていない。だからこんなところで寝ている。
「起きて掃除をしろ」
「ちょっと待ってくれ。俺は、あまり具合が……」
「もう悪くないはずだ」
「……本当なんだ」
「いつまでも引きこもっているから気持ちにかびが生えたんだ。もう十分休んだだろう。立て、寅之助」
「……言わなかったか。名前を変えたんだ、求馬と」
「馬鹿馬鹿しい。新しい名など、今のお前には似合わない」
「……」
 座り込んだまま動こうとしない寅之助を放っておき、窓を開いて、その淵に布団をかけた。手のひらで力任せに叩くと、ぞっとするほど大量のほこりが舞った。
 寅之助が弱々しい声で、
「手紙は読んでくれたのか」
 と言った。
 金吾は勝手に周辺を片づけながら、
「何のことだ?」
 と言った。
「届いていないのか?」
「いや、思い出した。こんな恥知らずな男がいるのかと驚いた」
「……」
「安利の死を無駄にすることは、俺が絶対に許さない」
「聞いてくれ。俺だって無駄にしたくはないんだ。だから手紙で助言を……」
「お前は助言なんぞ求めていない。つらつらと弱音を並べ立てて、同情を誘っているだけだ」
「……確かにそういうところもあるかもしれない。けど、本当に、何をしたらいいかわからなくて困っている」
「答えならとっくに出ているだろう」
「答え?」
「お前には学問しかない」
「だから、その学問で身を立てるには……」
「生徒は俺が呼んでおいた。十七歳と十二歳、今はたった二人だが、すぐに増える。場所は長福寺の学寮を借りられることになった」
「おい、何だそれは。何の話だ?」
「私塾を開け。お前の生きる道はそれしかない」
「……待て。俺の仕事を、お前が勝手に決めるな。だいいち、水岸寺から頼まれた時もうまくいなかったんだ」
「しょっちゅう休めばうまくいかないのは当たり前だ。もう休むな。多少気分が優れなくても無理をしろ。自分に鞭を打て。生徒が数人じゃ生計が立たないとお前は言ったが、家の厄介になっているよりはずっとましだろう。それに、良い教え方をしていれば必ず生徒は増える。信じろ。絶対に増える。幸いお前には福岡の修猷館で学んできたという実績もある」
「……」
「思い出せ、学ぶことの豊かさを。そして後世に伝えろ。お前にならできる。誰よりもその力がある。十九までという焦りもあったんだろうが、お前ほどいきいきと学問をする奴を俺は見たことがない」
「……金吾」
「立ちあがってくれ。頼む。安利のために。俺のために」
 寅之助はうつむいたまま、片膝を立て、その膝を拳で強く叩いた。そして、顔を上げた時、目には光が戻っていた。
「その意気だ、求馬」
「すまない、金吾、ありがとう」
「礼なら自分の胸に言え。そこにいるんだろう」

 懐かしき長福寺で始まった講義は、のちに大坂屋林左衛門という男の持ち家に移り、「成章舎(せいしょうしゃ)」と名づけられた。このとき塾生は六名。
 さらに、求馬の実家を経由して、二年後には「桂林園(けいりんえん)」という塾を新築した。このとき塾生は二十余名。伊予屋義七という男が建築資金の半分を出資し、作業は塾生たちの手で行われた。梅雨晴れの空に槌音と笑い声が響いた。
 桂林園は二階建て。一階は求馬の居室と講義室、二階は塾生たちの居室とされた。
 この頃、求馬は羽倉代官に依頼され、その息子の左門にも講義を行っている。
 桂林園が完成した年の秋、求馬は流行の重い風邪にかかり、激しい頭痛と、背中に冷水を流し込まれたような悪寒に苦しんだ。この病によって塾は一時閉鎖に追い込まれたが、もう求馬の心が折れることはなかった。金吾の治療と塾生たちの治癒祈願を受けて、無事に再開した。

 塾生が三十名を超えた頃、三隈川の流れつく先、長崎では一触即発の事態となっていた。
 イギリス軍艦・フェートン号が港内に侵入、敵対するオランダの商館員を人質に取り、食糧と薪水を要求したのである。
 この海賊行為に対し長崎奉行は、まず要求通りに物資を渡して人質を保護したのち、一戦交える方針を立てた。
 が、武装も兵力も著しく不足していたため、攻撃は中止となり、物資だけをむざむざ差し出した。
 たった一隻の軍艦に、手も足も出なかった。長崎奉行は恥じ入って自刃した。
 沿岸警備の甘さを痛感した幕府は、異国船打払令を発令。
 一方、長崎の防備を任されていた佐賀藩は、この日の屈辱を忘れず、のちに研究機関「精錬方」を創設。ペリー来航の直前にアームストロング砲を完成させるが、その砲口は異国船ではなく、彰義隊に向けられることとなる。

天保三( 一八三二)年 宗太郎 八歳

 人からは朴念仁と言われる大村益次郎だが、決して冷血漢ではない。
 長州藩は吉城郡鋳銭司村(すぜんじむら)、医師・村田孝益の長男として生まれる。幼名は宗太郎(そうたろう)
 その日、父の患者につまらない憎まれ口を叩いたのも、宗太郎としては仕返しのつもりだった。
「もう一度言ってごらんなさい」
 と、母・梅は、宗太郎と膝を突き合わせて言った。
 ツクツクボウシの鳴く午後であった。
「〝夏が暑いのは当たり前です〟と言いました」
「〝今日は暑いね〟と言われて、そんな風に返されたら、宗太郎、お前ならどんな気持ちになる?」
「別に何とも」
「困った子だねまったく。ちゃんと考えなさい。いやな気持ちになるでしょう」
「なるかもしれません」
「相手の気持ちを考えなさい。〝今日は暑いね〟というのは挨拶なんだから、〝そうですね〟、〝暑いですね〟と答えればいいの」
「では、目の前の相手をいやな気持ちにさせなければ、何を言ってもいいのですか」
「何だって?」
「さっきの研蔵さん、父上のいないところで、〝孝益さんはどこの具合が悪いと言っても葛根湯しか出さない〟と言って笑いものにしていたのです」
 悔しさを思い出して、宗太郎は膝の上の拳を握りしめた。
 梅は少し考えてから、
「だったらお前、その場で〝葛根湯はいい薬なんだぞ〟と言いなさい。あとになって回りくどい仕返しをするんじゃないの」
 と言った。
 母の言うことはもっともであった。
 宗太郎は素直に、
「はい」
 と言った。

 驚くべきことに、夏が暑かったのはこの年までで、翌年の夏は、百姓たちが綿入れを着込んで草取りをするほどの極端な冷夏となった。そして、懸念された通り、収穫は激減した。
 異常気象は実に五年間も続いた。およそ五十年前に起こった「天明の大飢饉」と比肩する惨事であった。
 ロシア人ラクスマンの来訪やイギリス軍艦フェートン号の襲来が外からの力とすれば、「天保の大飢饉」は内からの力である。
 徳川幕府はこの飢饉に対して、適切な対応策を取ることができなかった。大坂東町奉行の元与力・大塩平八郎が貧民救済を訴えて武装蜂起するのは天保八年。
 内外から加えられたひずみは、のちに大きなひびとなって、徳川幕府を瓦解させるに至る。
 とは言え、天保三年の時点では、宗太郎はそんな未来など知る由もなく、ごく当然のこととして、大きくなったら父のあとを継いで医者になるのだと思っていた。

文化十四(一八一七)年 求馬 三六歳

 宗太郎が生まれる七年前、求馬は桂林園を伯父・平八の住む秋風庵の近くに移築し、「咸宜園(かんぎえん)」と名付けた。
 塾生が増えたため、桂林園では自分の居室を塾生たちに譲って実家から通っていたが、やはり塾生たちと起居を共にしたいと考え、自分用の住居も改めて造り、これを「考槃楼(こうばんろう)」と名づけた。
 この年、塾生は七十人を超える。求馬の指導は評判を呼び、日田の外からも入塾希望者が訪れるようになっていた。
 その多くは医者の子や修行中の僧であったが、武士が門を叩くこともあった。
「拙者は佐伯藩士、時枝金左衛門(ときえだきんざえもん)と申す者。天領日田に優れたる私塾ありと聞いたが、そなたが塾主か」
「は。求馬と申します」
 本来は担当の塾生が応対するのだが、
「おぬしでは話にならん」
 ということで、求馬自ら出てきたのであった。
「意外に若いのだな」
「今年で三六になります」
「拙者の二つ下か。まぁ仲良くしようではないか」
「は」
「して、如何なる指導を行っているのだ」
「入門をご希望で?」
「無論そのつもりだが、まず方策をうかがおう」
 こういう輩がたまに来る。はじめの頃は対応に戸惑ったが、もう慣れた。
「漢文の句読・会読(回し読み)・解釈を中心に、算術や詩作も学びます。月に一度、成績によって〝級〟の評定を行います」
 これは修猷館の「奪席」を参考にした仕組みであった。
 優劣がはっきりすると、意欲がわく。もっと上に行きたいと感じる。自分がそうだったので、塾生たちも同じことを期待した。そして、狙いは的中した。
 求馬は、毎日の課業で、塾生一人一人を細かく採点した。その点数が一定以上溜まると翌月に進級となるのである。塾生にやる気を出させる目的だったが、求馬と塾生の絆が深まるという副産物もあった。よく観察しなければ採点などできない。
「無級から始まり、上は九級まで。五級より上は個別に進級試験も行います。これはせせこましい点数稼ぎで級が進んでしまうのを防ぐためです」
「なるほどな。拙者は佐伯の藩校、四教堂(しこうどう)で四年間学んできた。さすれば、四級あたりが妥当であろう」
「いえ、無級から始めていただきます」
 金左衛門の太い眉がぴくりと動いた。
「……何だと?」
「みな無級から始めます。成績さえよければ、飛び級もあります」
 求馬はかけた時間にこだわらなかった。出来の良い者は次々と進級させた。これは、ひたすら句読を積むべしとされていた頃、四極先生が歳には不相応の解釈を授けてくれたことに由来する。
 反対に、出来の悪い者はどんなに熱心でも進級させない。新入りが先輩を追い抜くことも珍しくなかった。
「四経堂で四年間学んだと申したであろう。その実績を無とするのか?」
「咸宜園では、無級からです」
 金左衛門の額に青筋が浮かんだ。
「おぬし、父親は?」
「日田の博多屋五代目、三郎右衛門でございます」
「町人だな」
「は」
「拙者は武士だ」
「は」
「塾主より歳も立場も上の拙者が、無級から始めよと申すか!」
「咸宜園では、年齢も身分もありません」
「は?」
「誰しも平等に無級から始まり、力のある者が進級します」
「な……な……」
 と、金左衛門はしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて、
「不愉快だ。帰る!」
 と言って、帰っていった。
 佐伯藩士の怒れる肩が見えなくなると、陰でこっそり見ていた塾生が吹き出した。
「絵に描いたような武士でしたね」
 陰口はよくないと求馬はたしなめたが、正直なところ、自身も笑いをこらえるのに必死だった。

 塾の運営は順調だったが、気がかりなこともあった。
 求馬が三十歳を迎える前後、人の死が続いた。
 まず、羽倉権九郎代官が亡くなった。その息子の左門は身分を振りかざさず桂林園(当時)に自らの足で通い、博多屋としても厚遇され、羽倉親子は非常に親しみやすい存在であった。権九郎の死後まもなくは左門が父の代わりを勤めていたが、のちに越後の代官に任ぜられ、日田を去っていった。
 翌年、商家の子で塾生の樋口熊二郎が病死した。在籍の塾生を看取るのはそれが初めてであった。
 その翌年、母ユイが亡くなった。原因不明の急死であった。いつも優しく見守ってくれた母の死は求馬をうちのめし、一時はわらじを結ぶ力も入らないほどであった。しかし、この塾を盛り立てていくことが母のためでもあると考え、どうにか立ち直った。
 さらにその翌々年、亀井南冥先生の訃報が届いた。同じ年に四極先生も死んだ。四極先生とは、土蔵に引きこもっていた頃に疎遠になっていたが、桂林園ができた時には祝いに訪れ、
「ずいぶん待たせやがって」
 と言ってくれた。咸宜園も見せてあげたがったが、それは叶わなかった。
 金吾の師匠・倉重湊先生も亡くなったとのことであった。
 医者であれ、誰であれ、いつか人は死ぬ。
 以前の求馬にとって「死」は自分の終わりでしかなかったが、今は人との別れであった。自分もそう遠くない未来、塾生たちと別れなければならない。
 求馬は二九歳の時にナナという女性と結婚したが、七年が経った今でも子宝に恵まれていなかった。
 咸宜園の後継者をどうするか――という問題がそろそろ気になり始めていた。

文政六( 一八二三)年 久兵衛 三四歳

 咸宜園が評判になっていることを、久兵衛はあまり快く思っていなかった。
 あの優しかった姉の訃報を受けて、ただちに奮い立ったのならまだよかった。けれど、それから数日経って金吾さんが訪れるまで、兄は土蔵の二階から降りてこなかった。甘えるにもほどがある。
 兄が塾を始めると言ったとき、周囲の人間はみな、赤ん坊がつかまり立ちをした時のように、もろ手をあげて喜んだ。父は着物を仕立ててやり、母は赤飯を炊いた。久兵衛も笑顔で、
「きっとうまくいきます」
 と言ったが、胸のうちでは少しも笑っていなかった。
 そんな確執も、十年以上時が経てば、普通は風化していくものなのかもしれない。けれど、関係が好転するきっかけが何もなければ、逆に摩擦が大きくなっていくこともある。
 兄は昔のことなど忘れたかのように、塾に没頭している。それを久兵衛はどうしても祝福できない。商売なら信用第一。根っからの商人である久兵衛には、約束をきちんと守る職人や顧客こそが尊敬の対象であり、兄の気まぐれが我慢ならない。
 そして不幸にも、衝突の要因がまた新たに生じたのであった。

 母ユイが、四三歳という高齢で、末弟・謙吉(けんきち)を産んだ。久兵衛からは十八、求馬からは二六も離れている。ほとんど親子のようなものと言える。
 謙吉が六歳の時にユイが亡くなり、父・三郎右衛門は謙吉を厳しくしつけた。母親不在の淋しさに負けない、強い子に育てようとしたのだろう。
 そんな父のしつけが妙な形で現れたのか、持って生まれた気質か、おそろしく従順な少年となった。
 よく訓練された犬のように、命じられたことは何でもその通りにしてしまうのである。しかも、犬と違って、主人を選ばなかった。
 あるときなど、近所のガキ大将に、
「花月川の水がどこから来ているか確かめてこい」
 と言われて、朝から本当にずんずんと川沿いをさかのぼっていき、もう陽も落ちようという時、帰り支度をしている釣り人に保護された――ということがあった。
 以来、そのガキ大将は謙吉の根性を認め、もうからかうことはしなくなったが、家族の間では、謙吉に妙なことを命じてはいけないという暗黙の約束が交わされた。
 桂林園(当時)に通わせるというのは、確かに妙な命令ではないかもしれない。しかし、兄は間違いなく、謙吉を後継者として意識している。それも、塾生になるよう兄が言ったのは、謙吉十歳、久兵衛の教える算盤がちょうど様になってきたところであった。
 率直に言って、久兵衛も謙吉が欲しかった。塾へ通うことに反対するわけにもいかないが、学問にばかり傾倒しないよう、家業の手伝いをさせた。
 謙吉が十七になった今年、兄が謙吉を養子にしたいと言い出した。やはり大っぴらに反対することはできず、久兵衛はせめて謙吉の意思を問うことにした。
「お前は何がしたいのだ」
「はぁ」
「はぁ、じゃない。何がしたいのかと訊いているんだ」
「そうですね、うーん……」
 と、謙吉は少し考えて、
「……強いて言うなら、人様のお役に立つこと、でしょうか」
 と言った。
 久兵衛はため息が出た。
「少しは自分の意志を持ちなさい、謙吉。お前は他人の言いなりになり過ぎる」
「はぁ」
「素直でえらいとほめられるのは子どもの頃までだ。ずっとそのままでは、いつか悪い人間に騙されるぞ」
「悪い人間、とは?」
 求馬兄さんのことですか、と訊かれている気がして、久兵衛はどきりとした。
「例えばだ、両替のとき、百文あたり四文の切り賃(手数料)をもらうだろう。それを取らないでくれと言われて、お前がその通りにしたら、商売にならない」
「はい」
「自分が損をしないように気を付けなければいけない。しかし、人助けをするなと言っているわけでもない。本当に困っている人間は助けるべきだ」
「わかりました。いま、久兵衛兄さんに言われたので、そのようにします」
「……」
 またため息が出た。
 結局、早い者勝ちだったのだろうか。
「謙吉、お前は、商いと学問、どちらがやりたいのだ」
 肝心なのはそこだ。謙吉がもし学問より商いの方がやりたいとはっきり言うのなら、兄とて無理強いはできまい。
「うーん……」
 と、謙吉は考え込んだ。
「よく聞け。塩谷代官はいま、大きな事業を画策しておられる」
 塩谷大四郎(しおのやだいしろう)が日田代官に着任したのは、謙吉が求馬の塾生となった文化十三(一八一六)年のことであった。
 親子揃って穏やかな人柄だった羽倉代官に比べ、塩谷代官は着任早々、「挨拶の仕方が悪い」と言って地元の人間とひと悶着起こすなど、くせのある人物だった。しかし、久兵衛は塩谷代官の力強さに惹かれ、信頼していた。
「役人たちだけでは大仕事はできない。我々商人の力が必要になる。要するに、これからは忙しくなる」
 それは謙吉欲しさの詭弁ではない。事実、久兵衛は即戦力の右腕を求めている。
 謙吉はしばらく考えた末、口を開いた。
「今までずっと、人の言う通りにしてきて知ったのは、実際やってみれば何でも結構面白いということです。商いも学問も面白いです。比べることはできません」
「……商いをするなら、これまでのように、手伝いでは済まなくなる」
「そうですね。私の体が二つあればよかったのですが」
「……」
 そうか、と、久兵衛は思った。どうやら諦めるしかないらしい。
 答えが出た以上、いつまでもこだわっていても仕方がない。これも巡り合わせだ――と、久兵衛は自分に言い聞かせた。が、謙吉を連れていくのがあの兄上であるというところは、どうにも得心しがたい部分であった。

同年 伊兵衛 六二歳

 布団からのそりと起き出す。膝が痛まないから、今日は晴れるだろう。
 顔を洗いに出る。外はまだ暗い。俺もすっかりじいさんだ、と伊兵衛は思う。
 かたや、大蔵永常(おおくらながつね)と名を変えた徳兵衛は、もうすっかり立派な農学者であった。このとき、四二歳。数々の書物を世に送り出していた。
 処女作『農家益』の文章を二人で練ったのは遠い昔だが、まるで昨日のことのように思い出される。
 芝居の形を取った。大坂の乗合船にさまざまな地方の客が居合わせ、たがいにお国自慢をする。筑紫から来た男はろうそく作りについて語る。これに大和から来た男がケチをつけ、論争になるが、最後には乗客一同耳をそばだてて、筑紫の男の話に聞き入る――という寸法である。
 この形式は正解だった。多くの人に読まれ、もっと詳しく教えてほしいと、手紙を寄越してきたり、訪ねてきたりする者もあった。知恵をしぼった甲斐があった。
『農家益』の成功に勢いを得て、ふくれあがった入道雲が大雨をはき出すように、永常はたくわえた知識を次々と書物にしていった。
『老農茶話』では、稲架掛けについてと、シナノキの皮から繊維を取り、布を織る方法を書いた。
『農具便利論』では、永常が各地で見てきた農具の中から特に優れていると思われる農具三七種類を紹介し、挿し絵と、大坂における値段を添えた。さらに「他にも良い農具を知っている人はぜひ知らせてほしい」とも書いた。
『除蝗録』では、水田を襲うウンカを、クジラなどの油で撃退する方法を書いた。
『再種方』では二期作について、『農稼肥培論』では肥料について書いた。
 さらに、読み書きのできない百姓向けに、『文書仮名づかい』という書物も出した。
 ずいぶんたくさん書いてきたが、永常の好奇心と使命感はまだまだ尽きない。もっと高く飛べる男だ。
 間違っても、こんな道なかばで死なせるわけにはいかない。

 麦飯とたくあんと味噌汁。いつもの朝飯をかきこみながら、
「すまん永常、三河田原へは今日発つはずだったが、俺はちと急用ができた。お前一人で先に行ってくれ」
 と、伊兵衛は言った。
 江戸で「尚歯会(しょうしかい)」という勉強会を開くなど、先進的な考えを持つ渡辺崋山(わたなべかざん)という人物の目にとまり、永常たちは三河田原藩に招かれ、農業の指南役に就くことになっていた。俸禄は六人扶持、足軽と同等とは言え、百姓の息子が武士と肩を並べるのである。
 伊兵衛は崋山に「明日発つ」と言ってあった。
「それはかまいませんが、急用とは?」
「急用というか、野暮用だ。まぁ、察してくれ」
 と、小指を立てて見せた。
 永常を見送ると、伊兵衛はゆっくりとした動作で、茶をすすった。
 今宵、来るだろう。
 不穏な気配が西から近づいてきているのをいく日か前から感じていた。予感ではない。不思議と確信がある。
 いつかは来るだろうと予想もしていた。そういう意味では、案外遅かった。

 初夏の一日を、伊兵衛はじっくり味わった――と言っても、特別なことをしたわけではない。近所の子どもたちと遊び、そばをたぐり、湯を浴びた。そして、畳の上に寝っ転がり、来客を待った。
 畳。
 い草を編んだ建材。
 誰か知らないが、よくぞ作ってくれた。板の上ではこうもくつろげない。
 人の暮らしはつくづく技術に支えられている。
 各地で眠っていた農業の技術を、永常は広めた。大した男だ。
 あいつのために死ねるのなら悔いはない。

 おもての戸が叩かれた。
 さて。
「大倉永常殿はおられるか」
 と、男の声。
 伊兵衛は戸を開け、
「永常は私だが、何用か」
 と言った。
「……おぬしが?」
 と、男はいぶかしげに言った。頬の刀傷が自慢気であった。
 伊兵衛はさりげなく視線を走らせた。
 六人か。
 裏にも何人かいるだろう。
「永常殿は相当な大男と聞いているが」
「ああ、噂の一人歩きだな。私が大きいのは器だ」
「……我らは薩摩の者だが」
「それは遠路はるばるご苦労であった。して、ご用件は」
「とぼけるな、盗っ人めが」
 と、男が語気を強めた。
 周りの男たちがかすかに緊張する気配を見せた。
「何の話で?」
「おぬしの書いた『甘蔗大成』とやらのせいで、砂糖の価値は急落した」
「急落とは大袈裟であろう。以前より需要が増えたと見て発表した」
「どうやって製法を盗んだ」
「書いた通り、それは言えん」
「言えばまだ楽に死なせてやるが?」
「私を斬るのか?」
「おぬし一人の暴挙のためにどれほど薩摩が痛手を負ったと思っている。ただでさえ薩摩は苦しいのだ。なまじ雄藩なだけに、ご公儀から目をつけられている」
「苦しいのはどこも同じだろう。それぞれに事情があるのだ」
「その言葉が、遺言でいいか?」
 と、男が刀を抜いた。
 周りの男たちもそれにならった。
「砂糖のおかげで多くの百姓が救われた。薩摩には感謝している――と、これを遺言ということにしてくれ」
 三河田原へは、永常宛で、既に文を届けてあった。
 もう一度名を変えろ。今後は日田義太夫(ひたぎだゆう)として生きよ。大倉永常はいま、ここで死ぬだろう。
 伊兵衛は、すい、と刀を抜いた。
 そして、静かに息を吐きながら、下腹に力をこめ、正眼にかまえた。

天保十三( 一八四二)年 宗太郎 十八歳

「君は表情がないな」
 と、梅田幽斎(うめだゆうさい)先生は言った。
「ちと笑ってみろ」
「はい」
 と、宗太郎は答えて、笑おうとした。
「おかしくもないのに笑えるか、と思っているだろう」
「いえ、そのようなことは」
 本当に思っていない。
「真意がどうあれ、そう思っているように見えるのだ。それが問題だ」
 宮市にある梅田塾。本格的な医者修行の第一日目であった。
「医者に表情など関係あるか、と思っているだろう」
「いえ、思っていません」
「だから、そう見えるのだ」
 そうなのだろうか。
 しかし、思い返してみると、どうやら先生の言う通りだ。
 母の言いつけを守り、人を不快にさせないように努めてきたが、それでも宗太郎は人によく誤解された。
「もう一度笑ってみろ」
「はい」
 と答えて、今度こそ笑おうとした。
「むしろ怒っているように見えるぞ。どれぞれ……」
 と言って、幽斎先生は両手を伸ばし、
「ふーむ、骨格の問題かもしれんな。解剖してみればわかるだろうか」
 などと言いながら、宗太郎の顔にべたべたと触った。
「ここだ、宗太郎くん」
 と、幽斎先生は両手の親指で宗太郎の口の端を押し上げた。
「ここを口角という。口角をあげれば笑っているように見える。やってみろ」
「はい」
 と答えて、宗太郎は口角をあげようとした。
「……」
「先生、いかがでしょうか」
「……君は医者に向かないかもしれん」
「……」
「だから医者と表情に何の関係があるのか、さっさと説明しろと」
「思っていないのですが、そう見えるのですね」
「そうだ。賢くはあるな。いいか、宗太郎くん。理由は二つある。一つは、医者も客商売だからだ。患者も医者を選ぶ。愛想の悪い者には寄りつかん」
 なるほど、と思いながら、宗太郎はまた口角を上げようとした。
「練習はあとにしたまえ。もう一つの理由は、安心を与えるのも医者の仕事だからだ。〝病は気から〟と言うだろう。医者が笑顔でいれば、患者は安心して、病が治りそうな気がしてくる。だが、医者が仏頂面では?」
「不安になって、気分が落ち込む」
「そういうことだ」
「医者に向かないのなら、私は何を目指せばよいのでしょうか」
「大丈夫だ!」
 と、幽斎先生は突然、とびきりの笑顔で言った。
 なるほど、確かに安心できる。
「私が大丈夫と言う理由は二つある。一つは、〝成せば成る〟からだ。練習すればどうにかなる、かもしれん。もう一つは、ひとまず医者を目指して勉強しておれば、無駄になることはないからだ」
「ひとまず、ですか」
「これからの医学は蘭学だ。必然的に蘭語(オランダ語)を用いる。蘭語が扱えれば、まず食うには困らん」
 長州藩の藩校・明倫館では、長い間、伝統的な朱子学を教えていたが、この頃から蘭学を採用している。
 藩を挙げて西洋の学問に取り組むところが現れた。亀井南冥が蟄居させられてから五十年、ようやく時代は変わろうとしていた。
「わかりました」
「……うむ、不服そうに見えるぞ。実に興味深い。君が早死にしたら解剖させてくれ」
「はい」
「……冗談を聞いたときくらい笑いたまえ」

文政十一( 一八二八)年 求馬 四六歳

 時はまた少しさかのぼる。
 求馬が謙吉を養子に取って五年後、咸宜園は暗礁に乗りあげていた。
 晩秋、曇天の下、求馬は足取り重く花月橋を渡る。代官所へ呼び出されるのは今月もう四度目だ。
「たびたびすまんな、塾主」
 と、塩谷代官が言った。
 この人物と初めて相対したとき、求馬は『水滸伝』が頭に浮かんだ。宋の裏組織・青蓮寺を牛耳る袁明(えんめい)は、こんな顔をしていたのではないだろうか。眼光鋭く、猜疑心と自信に満ち満ちている。
「先月の月旦(げったん)(成績表)を見せてもらおうか」
「月旦なら、すでにお見せしたはずですが」
「裏の方だ」
「裏? 何のことでしょうか」
 と平静を装いながら、求馬は内心冷や汗をかいていた。
 日田の外からも塾生が集まってくるという咸宜園を大いに気に入った塩谷代官は、求馬を用人格(家臣)に取り立て、規則の改訂や都講(塾生の長)の人選など、塾の運営に対してさまざまな指導を行った。
 要するに、咸宜園を我が物にしようとしているのである。
 塩谷代官の介入を、求馬は日記の中で密かに「官府の難」と呼んだ。月旦表を見せよと言ってくることもその一つであった。代官が目をかけている役人の子には、高い評価を与えるよう要求されていた。
「裏月旦なるものがあると、小耳に挟んだのだがな。塾主が存ぜぬと言うのなら、まぁいい」
 正しい評定は咸宜園の要。代官に見せる表向きの月旦表とは別に、本当の月旦表を、事実、求馬は作っていた。
 しかし、あれは本当に信頼できる数名にしか見せていないはず。信じたくないことだが、あの中に代官の息のかかった者がいたのだろう。
「塾主よ、俺は咸宜園のためを思って言っているのだ。妙な真似はしない方がいい」
「……」
「わかったらさがれ」
「は。失礼致します」

 塩谷代官は間違いなく咸宜園を欲しがっている。
 けれど、その影には久兵衛の意思も働いているのではないかと、求馬は見ている。
 久兵衛と塩谷代官は不思議と仲がいい。そして、久兵衛は今でも――昔からずっと――求馬を嫌っている。
 咸宜園に痛手を与えるために、おそらく、久兵衛は代官に入れ知恵をしている。
 酒が入った勢いで、求馬はつい、金吾にそんな話をした。
「考えすぎだろう」
 と、金吾は言った。
 そう、考えすぎだろうと誰でも思う。だからこそやりかねない。やはり兄弟だからなのだろうか、久兵衛の考え方は、何となく想像がつく。
「とにかく、そう辛気臭い顔をするな。かわいい息子の門出じゃないか。明るく送り出してやれ」
「ああ……そうだな」
 謙吉が豊前の浮殿に私塾を開く。その祝宴であった。
 塾生となって十年。二十歳の若さながら、謙吉の非凡さは誰もが認めるところであった。謙吉に何か問えば必ず鋭い答えが返ってくるので、「活字典」というあだ名がついた。
 求馬の養子ということもあり、謙吉が私塾を開くのは、周囲から見ればまったく不自然なことではない。けれど、求馬としては、あくまでこの咸宜園を継いでほしかった。独立するとは思ってもみなかった。
「おい、求馬。お前まさか、謙吉が独り立ちするのにも、久兵衛が裏で糸を引いていると思っているんじゃないだろうな」
「……正直に言って、そのまさかだ」
「……」
「資金は久兵衛が出した」
 とは言え、追及などできない。
 久兵衛も謙吉を欲しがっていることはわかっていた。だから、取られないように、先に養子に取った。そのことをきっと、久兵衛は恨んでいる。
「求馬、仮に何もかも、お前の想像している通りだとして――」
 と言いながら、金吾はうまそうに酒を一口呑んだ。
「――それが何だ? 二、三人、お前を嫌う人間がいたとして、それがどうした? いまや咸宜園には百人以上も塾生がいる。みな、お前に導いてほしくてここにいるんだ」
「……」
「どうにもならないことは気にかけるな。腐るな。尊敬を集めろ。それがお前の長生きの秘訣だ」
「……医者のくせに、まじないめいたことを言うじゃないか」
「まじないじゃない。何度でも言うが、病は気からだ」
 お前こそ長生きしてくれ――と、求馬が心から感謝するこの男は、いまだに独身を通している。
 左胸がちくりと痛んだ。

 金吾の言う通り、無駄に気を病むことはやめようと思った矢先、たたみかけるように、厄介ごとが襲ってきた。
 その男が現れたのは、いつものように西の講堂に集まり、全員で朝食をとっているときであった。
 なじみの茶屋に顔を出すような気安さで、
「やぁ皆さん、仲のよろしいことで」
 と、男は言った。
 塾生たちがざわついた。
 厚手の股引に細い帯という、変わった服装であった。
「洋装をご覧になるのは初めてで?」
「君、突然押しかけてきて、なんだ」
 と、塾生の安民(やすたみ)が言った。
「いやいや、失敬。僕は高野長英(たかのちょうえい)という医者です。先日まで長崎にいて、シーボルト先生という人のもとで勉強していました。これから江戸へ向かうところなのですが、求馬先生の噂を耳にして、一目お会いしてみたいと思ったのです。どうぞお食事を続けてください。僕はここで待たせてもらいます」
 求馬は箸を置いて、
「求馬は私です」
 と言った。
「ようこそおいでくださいました、高野さん。食事はちょうど終えたところです。よろしければ私の部屋でお話をしましょう」
「これは恐れ入ります。でもせっかくですから、ここで話しませんか? 皆さんの勉強にもなると思うのですが」
 求馬は少し考えて、
「いいでしょう」
 と言った。
 安民が求馬の食器をさげ、長英は嬉しそうにそばへ寄ってきた。
「将棋盤はありますか? 一局いかがです?」
「あいにくですが、ここでは碁や将棋を禁じているのです」
「そうなのですか、もったいない。あれはなかなか優れた遊びですよ。兵学の基本です。兵隊というものはいざ武器を使う時間よりも、移動している時間の方がはるかに長い。その現実をよく表しています」
 突然何を言い出すのだ、と塾生たちも思っているだろう。
 けれど、求馬は黙って聞いていた。
「現実と合っていない部分もあります。今は馬があっても桂馬のような働きはなかなかできません。地面にいる鉄砲隊の方が強いですからね。でもね、先生。僕は長崎で『三兵答古知幾(さんぺいたくちいき)』という本を訳して知ったんですが、西洋では兵隊を歩兵、砲兵、そして騎兵の三種に分けて考えているそうなのです。騎兵もちゃんと一種に数えられているのですよ」
 長篠の戦いで武田の騎馬隊が織田の鉄砲隊に破られたという話は広く知られているところである。その絵面自体は後年の創作とも言われているが、実際、鉄砲の登場以降、騎兵はあまり重視されていない。
 長英は腰の袋(ポケット)から一枚の桂馬を取り出し、
「仮にいま、異国が攻めてきたとして――」
 と言いながら、その駒をぱちりと床に置いた。
「――当面は水際の攻防でしょうから、やはり騎兵の出番はないでしょう。しかし、騎兵の持つ機動・索敵という能力は、どんな戦でも意識されるべきです。船同士の戦なら、頑丈で砲門の多い船ばかりでなく、足の速い船も必要です。それに、いつか大陸で戦うときが来たら、必ずや騎兵隊が大きな役割を果たすでしょう」
 長英の予言に反して、のちの明治政府は騎兵を軽んじ、その導入に消極的であった。その結果、日露戦争においてはミシチェンコ将軍率いるコサック騎兵に大いに苦しめられることとなる。
「つまり、何がおっしゃりたいので……」
「日本は騎兵の研究を始めるべきです。さぁ、先生はどうお考えですか」
「……騎兵について?」
「いえ、国防について。異国船が日本の周りをうろうろしていることはご存じでしょう。ご公儀は打払令を出しましたが、命じれば打ち払えるというものでもありません。迅速に備える必要があります。違いますか?」
「あいにくですが、うちは兵学校ではありませんので」
「では、学問とは何ですか? 仮にいま、また長崎にイギリス船が現れて、三隈川をさかのぼってきて大砲をぶっ放しても、先生はのんきに漢文を読んでおられるのですか?」
「そんなことはあり得ない」
 と、安民が口を挟んだ。
「仮にと言いました。だいいち僕は先生と話をしているんです」
 まだ何か言いたげな安民に目配せをし、
「高野さん、あなたのおっしゃることはもっともです」
 と、求馬は言った。
「しかし、果たして戦になどなるでしょうか? こう見えても商家の息子ですから、軍隊を移動させるのにどれほど金がかかるか、おぼろげながら想像はつきます。はるばる海を越えてこの狭い土地を占領しても、あまり儲けになるとは思えません」
「土地よりも、人です。商家のご子息なら、買い手の存在がどれほど重要かもよくご存じでしょう」
 このときすでに、イギリスは清(中国)に対して大量のアヘンを売りつけている。長崎にいた長英はそれをよく知っていた。
 アヘン戦争が起こるのはこの十二年後、清が敗北して香港を失うのはそれから二年後である。
「塾生の皆さんに道徳を説くように、異国の軍隊に向かってお説教をなさいますか?」
 長英の指摘は正しい。が、部屋で話すべきだったと、求馬は後悔していた。
「私が不勉強でした。異国の脅威に対して、何をすべきか、改めて考えてみたいと思います」
「嬉しいです、先生。僕は知恵のある方々に、日本の未来について現実的なことを考えていただきたいのです。どうかよろしくお願いします」
 長英は床に打った桂馬の駒をそのまま残し、去っていった。
 彼に悪気はなかったのだろう。けれど、求馬の威信は明らかに傷つけられた。この二日後、三人の塾生が辞去した。
 さらに、謙吉の塾に移籍していく者もあった。
 官府の難も続いている。
 このままでは完全に潰れかねない――と、求馬は戦慄していた。

同年 久兵衛 三八歳

 井路を作る工事を塩谷代官からおおせつかった。三隈川の上流・玖珠川から取水し、花月川、及び豆田町内を流れる城内川へつなぐ。
 かつて田島村の与兵衛が掘っていた穴は、誰にも引き継がれず、自然に崩れるままになっている。ついにあの人の無念を晴らせるのだと思い、久兵衛は武者震いした。
 人足の賃金、弁当代、工具・火薬類――予算は整った。が、肝心の人足が足りない。
 賃金が出るとは言え、百姓や職人は自分の仕事もある。山を掘削するのだから危険も多い。井路ができたとき、その恩恵にあずかる田島村周辺の住民以外、なかなか手を挙げてくれない。
 こんなときに謙吉がいれば、何かよい知恵を出してくれたかもしれない。謙吉は兄に取られた。そこで、塩谷代官が咸宜園に口出しをするよう仕向け、謙吉には独立をすすめた。
 必ずしも間違ったこととは言えない。咸宜園は代官の庇護を受けるのだし、謙吉には新しい道が開ける。そんなわけで、久兵衛はさほど心を痛めていなかった。
 けれど、腹いせはやはり腹いせだったのだろう。以前は人集めのようなことこそ得意だった。多少条件が悪くても説得する自信があった。なのにいまは、まず話を聞いてもらえない。天罰なのだろう。自分の人相もどうやら昔より悪くなっている。
 しかし、いまさら兄に頭をさげる気にはなれない。

「まだか、博多屋」
 塩谷代官はあからさまに不機嫌であった。
「期日はとうに過ぎておる。人足はまだ集まらんのか」
「申し訳ございません。どうかいましばしのご猶予を」
「しばしとはいつまでだ」
「それは……」
「待ったところでどうなるとも思えん。請負人のまとめ役を桝屋に変えようかと考えている」
「お待ちください。どうか、この仕事は私めに」
「なぜだ? 儲けにはなるまい。むしろ大変な出費だろう」
 公金は経費必要の半分も出ない。大部分は博多屋を含む豪商たちの私財でまかなわれる。
 豪商とは、豪快に富を積み上げるから豪商なのではない。身銭を切る豪胆さゆえに豪商なのである。
「なぜ井路を作りたがる。名誉のためか? 俺はそうだがな」
「与兵衛さんの背中を、私は見ているのです」
「よへい? 誰だ?」
「その昔、同じ場所に一人で井路を掘ろうとした男のことです」
「そんな痴れ者のことは知らん。お前の意気込みがどうあれ、工事には人足がいるだろう。それとも、そのよへいとやらと同じように、お前が一人で掘るか?」
「……そんなことはできません」
「ならばさっさと人を集めてこい。三日だけ待つ」
「わずか三日では……せめて十日ほど」
「十日あれば集められるという算段があるなら言ってみろ」
「……」
「では、三日だ」

 賃金を上げて、もう一度募った。百姓の家を一軒一軒たずね、頼みこんだ。
 こちらが賃金を上げたことで、案の定、もっと吊りあげようとしてくる者もいた。
 いちいち応えていてはキリがない。これ以上は上げられないと言うと、ぴしゃりと戸が閉まった。
 丸一日駆けずりまわって、一人も色よい返事がもらえなかった。
 百姓たちの連帯は強い。よそがやらないのならうちもやめておこうという空気が支配している。

 久兵衛は途方に暮れて、夕刻、与兵衛の掘っていた穴の跡にたどり着いた。
 こうなったら、本当に一人でやってやろうか――と、穴をのぞき込んだとき、中から巨大な生き物が現れた。
 熊――と、尻もちをついたが、熊のような大男であった。
「驚かせてすみません。私は日田義太夫という者です」
「日田、ですか」
「この土地で生まれました。三河田原で仕事をしていたのですが、お役御免になり、こうして帰ってきたのです」
「そうでしたか」
「ただ、恥ずかしながら父と折り合いが悪く、家出だったもので、まっすぐ帰るのもはばかられて、ぶらぶらしていたところ、この穴を見つけたという次第で」
 久兵衛は義太夫に、この穴について、そして、いま自分の置かれている状況について話した。
「――ご苦労はお察しします。私は三河田原で農業のやり方を指導する仕事をしていたのですが、人はいますぐ、自分の利益になることしか、なかなかやりたがらないものです」
 ハゼの実でろうそくを作れるようになるまで、苗を植えてから十年かかる。苗代の何倍にもなって返ってくるのだと、いくら説明しても、三河田原の役人は受け入れなかった。そして、義太夫は無能とののしられ、放り出された。
「井路をつくるというのは素晴らしいことです。生きた土地が俄然増えます。私で良ければ、喜んで参加しますよ」
「本当ですか。それは助かります。どうかお願いします」
「しかし、私一人ではどうにもなりませんね。会う人には声をかけてみますが、あまり期待はなさらないでください。何しろ三十年以上も昔に日田を飛び出したわけですから、覚えている人がいるかどうか……」

同年 求馬

「『農家益』は読みました。『老農茶話』も、『農具便利論』も」
「ありがとう。でも、百姓でもないのに、どうしてまた」
「とても大切なことだと思ったからです。書物を読むばかりが学問ではないということを教えられました」
「いやぁ、どうも恥ずかしいな。子ども時代を知っている人に読まれるというのは」
 その日、日田義太夫という男がふらりと訪ねてきた。数瞬の間があって、求馬は思い出した。巨体はさらに大きくなっていたが、優しい眼差しは変わっていない。
「まさか大蔵永常という人が、あの徳兵衛さんだったとは」
「俺の方では、咸宜園の求馬という人の噂を聞いて、寅之助のことなんじゃないかと思っていたよ。あの頃からお前はずば抜けていたもんな」
「いえ……」
 俺は、安利と、金吾と、塾生たちと、たくさんの人に支えられてようやく立っているに過ぎない。土蔵にひきこもったまま、比喩でなく腐り果てていてもおかしくなかった。
「そうだ、寅……いや、求馬。お前に会えたら一つ、謝りたかったことがあるんだ」
「謝る?」
「俺が両親に連れ戻されたとき、さほど親しくもなかったのに、世の中を変えてくれなんて大仰なことを頼んだだろう。あとで思い返してみたら、なんて自分勝手なことを言ったんだと、恥ずかしくなった」
「そんな……俺は、俺の方こそ恥ずかしくなりました。何のために学問をするのか、わかっていなかった。今でもわかっているとは言えません。人が飢えず、不当に奪われず、努力したぶんだけ報われる世の中であるべきだとは思います。でも、一体どうすればそれを実現できるのか、その道筋はいまだ見えていません。書物から学んだことを、淡々と伝えているだけです。誰か俺の代わりに、見つけてくれと」
 なんて話しやすい人なのだろう。日頃溜めこんでいたことが、口をついてすらすらと出てくる。
 長福寺にいた頃は、徳兵衛を平凡な百姓の子として軽んじていた。そのことをいま頃になって求馬は激しく悔やんだ。
「俺のあんな頼みごとを、お前は覚えていてくれたのか」
「……」
 義太夫は――ただ優しげなだけではない。言いしれぬ凄みがある。
 きっと大切な人を失ってきたのだろう。お互いこんな歳になれば、そう珍しいことではないが。
「それなら、求馬、改めて一つ頼みがあるんだが、聞いてくれるか」
「何でしょうか」
「弟さんに偶然会った。それで、人集めに難儀しているという話を聞いた」
「……」
「稲だけじゃない。どんな作物も、人も、水がなければ生きていけない。塩谷代官と弟さんの計画は、正しい。水が通れば血が通う。手を貸してやってくれないか。もちろん俺も人足に加わる」
「……」
「二人の間には、他人には言いにくい何か、隔たりがあるんだろう。それは俺にも何となくわかる。けど、お前がそれを飲み込んでくれさえすれば、たくさんの百姓の命が救われるかもしれないんだ」

 翌日、咸宜園の中庭は、人という人で埋めつくされた。
 塾主の求馬から大切な話があると、前日、義太夫と塾生たちが大声で触れまわってくれたのだった。
 久兵衛や金吾の姿もある。義太夫と塾生たち以外、これから何が起こるか知る者はいない。
 求馬は、考槃楼の二階の障子を取り払い、軒先から群衆に語りかけた。
「みなさん、聞いてください」
 長年の講義で鍛えられた求馬の声は、遠くまでよく響いた。
「今日は折り入って頼みがあります。私の弟、久兵衛はいま、三隈川から花月川につながる井路を作ろうとしています。どうか弟の仕事に力を貸してやってほしいのです」
 一瞬にして、群衆の視線が久兵衛に集まった。
 久兵衛はただ驚き、あ然としている。
 それから、何人かの百姓がつまらなそうに去っていった。
「弟も言っていたことですが、井路ができれば、豆田の町中を流れる城内川の水量が増えて、舟を浮かべられるようになります。田島村の人々ばかりでなく、皆さんも便利になるのです」
「けどよ、そんなことのためにわざわざ重労働をしたいとは思えねえな」
 と、野次が飛んだ。
「子どもたちに、誇りたくはありませんか? この水は、俺たちが山を掘って引いてきた水なんだと。人のためになる仕事をやり遂げたんだと、胸を張りたくはありませんか。子どもたちだけではない。井路は、残ります。この先何十年も何百年も、ここに立派な人々がいたということを証明し続けます」
「私は田島村の者ですがね、求馬先生」
 と、群衆の一人が言った。
「お気持ちはありがたいです。けど、水が通って今より米がたくさん作れるようになったところで、どうせ年貢も増えるんだから、自分らの取り分はそこまで増えるわけじゃないんです。だったら、山を掘るなんて大変な工事をわざわざすることもないだろうって、うちの村でも話してるんですよ」
「年貢の取り方は改められるべきです」
「べきです、と言って、変えられるものでもないでしょう」
「武士のあり方を変えれば、重い年貢を取らなくても国は成り立ちます。例えば、参勤交代には莫大な費用がかかっています。あれをやめるだけでもずいぶん違うはずです。もともとは御公儀が諸国の力を削ぐためのものでしたが、いまや百害あって一利なしです」
 求馬はこの主張をのちに『迂言』という著書にまとめている。
「徳川憎しで反乱を起こす国などありません。もし憎むとしたら、それこそ参勤交代のせいです」
 そのとき、群衆の一角がどよめき、割れた。人々の間を進んできたのは、塩谷代官その人であった。
「ご高説、聞かせてもらったぞ、塾主。俺はこれでも百姓の味方のつもりだ。今の話にもおおむね賛同する。しかしお前は、将軍様を前にしても同じことが言えるのか?」
「言えます。言ってみせます。咸宜園は、弟のおかげで、塩谷代官の庇護を受けています。恐れることは何もありません」
 この言葉に、塩谷代官はニヤリとしただけで、何も言わなかった。
「みなさん、どうかお願いします。世の中をよくするために、私もできる限りのことをします。弟に力を貸してやってください」
 静まり返った中から、
「しょうがねえ」
 という声があがった。最初に野次を飛ばした男であった。
「俺はやるよ。まぁ、代官のいらっしゃる前でいやとも言えねえしな」
 笑いが起こった。
 その中から、やろうという声が続いた。
 求馬はふと、久兵衛を見た。
 久兵衛は、その視線をかわすように、頭をさげた。

 こうして小ヶ瀬井路掘削工事が始められたが、作業は困難を極めた。
 取水地点から即、文字通りの山場が待ち受ける。大地が拳を握るように、阿蘇山の灰が固まってできた源ヶ鼻(げんがばな)の岩盤はおそろしく頑強で、人足たちのノミをたやすく跳ねかえした。三月一日からの二十日間で進んだのはわずか八尺五寸(約二・六メートル)。人数を大幅に増やしての続く七日間でも二尺八寸(約〇・八メートル)しか進まなかった。
 必死の思いで源ヶ鼻を抜けたら、次は会所山(よそやま)である。ただ掘ればいいというものではなく、酸素を送るための竹筒や、落盤を防ぐための石垣も組まなければならない。
 久兵衛は毎日現場に通い、人足たちを励まし、ともに土を運んだ。雨の日も蓑をまとって作業をした。
 苦節三年、ついに達した。玖珠川から流しこまれた水はぐんぐん走り、山の下を這い、花月川に注いだ。泥だらけの人足たちは勝鬨をあげた。
 筋金入りの旅人であった義太夫は、このときできた仲間たちと共に農業の研究に励み、生涯日田を離れることはなかった。
 一方、久兵衛と塩谷代官は、立ち止まらなかった。井路の通水を見届けると、すぐさま周防灘沿岸部の新田開発に乗り出したのである。疾風の日々であった。のべ十四もの新田が開かれ、その一つは「久兵衛新田」と名付けられた。
 そして、咸宜園をおおっていた暗雲もようやく晴れた。塾生は再び増え始め、一時は二百人を超えた。ただし、ここには皮肉もある。新事業を強力に推し進めた塩谷代官が、一部の百姓たちから負担が重すぎるとして訴えられ、左遷されたのである。長年求馬を悩ませた官府の難は意外な形で幕を閉じた。
 日田を去るとき、代官は、
「苦労をかけたな、博多屋」
 と労った。
 久兵衛が涙を流したのは、小ヶ瀬井路の着工以来、そのときが最初で最後であった。

 私塾と、事業。
 それぞれの働きが認められ、兄弟は揃って永世苗字帯刀許可という栄誉にあずかった。
 しかし、二人の間柄は、依然いびつなままであった。

天保十四( 一八四三)年 宗太郎 十九歳

 宗太郎の前で入門簿に名前を書いているのは、せいぜい十歳ぐらいの子どもである。
 身分も学歴も、そして年齢も問わないという噂は本当なのだった。
 係の塾生に促され、宗太郎も記帳した。
 長州藩出身、宗太郎。紹介者、梅田幽斎。
「……」
 習字は苦手だ。
 先ほどの子どもの方が――と思いながら入門簿を見比べていると、係の塾生が、
「こんな歳の離れた子と同期とはご不満かもしれませんが、これが咸宜園ですので」
 と言った。
 宗太郎は誤解を解くのが面倒で、
「いえ」
 とだけ言って済ませてしまった。
 こういうときはきちんと説明しろと、幽斎先生に言われてはいる。

 咸宜園は、戒律の厳しい山奥の寺――行ったことはないが――のようであった。
 はじめに規則の説明があった。
 ――夜間は外出禁止。昼間でも外出の際は事前に舎長に届け出る。外出先で女人と飲食を共にしてはいけない。通行人を指さしたり嘲ったりしてはならない。
 園内でも、身だしなみはきちんとしていなければならない。はち巻き・もろ肌・腕まくりは禁止。
 現金はすべて主簿に預ける。
 討論はしてよいが喧嘩はご法度。
 退塾はいつしてもかまわない。ただし、最低一ヵ月は頑張ること――
 塾生は全員、何らかの「職分」につく。「舎長」や「主簿」、入門の際に応対してくれた「書記」も、みな職分である。
 宗太郎は「履監」をおおせつかった。はきもの係である。全員の下駄が揃っているか、じいっと見た。並びが乱れていればそのつど直した。
 起床は明六ツ(午前五時頃)。全員で掃除をし、全員で朝食。そして、陽が落ちるまで学ぶ。句読は「句読師」、会読は「会頭」が指揮する。夜もほとんどの者が自習に励んでいる。
 物事を真面目にこなすことは、宗太郎にとって苦痛ではなかった。さすがは西国一と称されるだけあると、感心もした。
 ただ、「詩作」だけが苦手であった。詩の心など、ない。興味がない。古の詩人が詠んだという有名な詩も、ただの漢字の羅列にしか見えない。
 四月に入門して半年で三級まで上がったが、詩作で行き詰まった。
 医者が不向きだとしても、詩人よりはまだましだろう……という思いを、宗太郎はうっかり顔に出してしまっていたが、外見上はまったく変化がないので、気づく者は誰もいなかった。

 秋のある晩、句読の復習をしていると、安民という先輩が声をかけてきた。
淡窓(たんそう)先生のところへ行かないか?」
 求馬先生は、弟さんの手掛ける井路の工事が終わった翌年、考槃楼を増築するとともに、「淡窓」と改名したとのことであった。
 宗太郎が入門したときの書記が安民先輩で、以来、何かと目をかけてくれていた。
 先生のところへ行こうというのは、詩を詠みに行こうということである。先輩は宗太郎が詩作でつまずいていることを知っていた。ありがたい――けれど、正直気は進まないと思いながら、
「はい」
 と言った。
 頭の中の幽斎先生に、
「行きます、お誘いいただきありがとうございます――と、そういう風に、笑顔で答えなさい」
 と叱られたが、もう手遅れだった。
孝之助(こうのすけ)、お前も行くか?」
 と、安民先輩は、宗太郎の同期にも声をかけた。
 孝之助は八歳。いまは日田の外で私塾を開いているという淡窓先生の養子の子であった。その養子は謙吉といって、もとは淡窓先生の歳の離れた弟だから、孝之助は先生にとって孫でもあり、甥でもある。
 先生の家系は優秀な人ばかりのようで、この孝之助も例外ではなかった。
「行きます。お誘いいただきありがとうございます」
 と、孝之助は元気に答えた。
 頭の中で幽斎先生が、
「ほら、あのように」
 と言った。

 先生と連れ立って四人、中庭へ出た。
 見事な満月だった。
 見事だ、きれいだ、とは思うのだけれど、それをわざわざ詩にする理由がわからない。
 それよりも、あの月が何であるかということの方が、興味を引く。どうして満ち欠けをするのだろう。
「月へ行ってみたいと思いませんか」
 と、淡窓先生が言った。
「月へ、行く?」
「福岡で学んでいた頃、亀井南冥という先生に、そう訊かれたことがあります。あそこにもきっと人が住んでいるだろうと、その先生は言っていました。当時は無邪気に、月の人に会ってみたいと思ったものですが、もしもあちらによからぬ野心があったら、やがては空の戦に備えなければならないでしょうね」
 あまりにも途方のない話で、宗太郎は返事をするのを忘れていた。
「詩作は嫌いですか」
「はい」
 と、あわてて答え、
「いえ、その、未熟です」
 と、さらにあわてて訂正した。
 淡窓先生は優しく微笑んで、
「詩人のような詩を詠めというのではないのですよ。物を見る力を養うために、詩作を課題としているのです。粘り強く、さまざまな角度から、一つの風物をよく見ることです。患者の病を診るという医者の仕事にも、きっと役立つと思いますよ」
 と言った。
 気持ちがするするとほどけていくようであった。
「そういうときこそ笑顔です」
 と、頭の中の幽斎先生に言われたが、左頬がひくついただけであった。
「医者に、なるのでしょうか、私は」
 と、つい言ってしまった。
「梅田幽斎先生からの紹介状には、蘭方医を目指していると書いてありましたが、違うのですか?」
 この頃の蘭語は、漢文の返り点の要領で読解されている。ゆえに、漢文は一般教養であると同時に、蘭語の基礎でもあった。
「実は、医者になると、はっきり決めているわけではないのです。ひとまず蘭語を読めるようになろうと、それだけを考えているのですが」
「……」
「淡窓先生、私は、何に見えますか?」
「こんなことを言っては、ご両親に叱られてしまうかもしれませんが……あなたには武道が向いていると思います」
「武道、ですか」
 それは思ってもみなかった言葉であった。
「何を考えているかわからない、と、よく言われるでしょう」
「はい」
「武道ではそれが強みだと聞いたことがあります。こちらの考えを相手に読ませないことが肝要なのだと」
「……しかし私は、いままで竹刀を握ったことすらありません。だいいち、武家の子ではありませんし」
「剣ばかりが武道ではありませんよ。兵法も武の道です。あなたは長州の出でしたね」
「はい」
「いま、異国との窓口は長崎となっていますが、海防の意味でより重要なのは長州です。本州と瀬戸内海、どちらにとっても西の玄関口に当たります」
「兵法も学ばれていたのですか?」
「独学でかじった程度ですが」
 と、淡窓先生は懐から将棋の駒を取り出し、月に透かすように見た。
 安民先輩が、
「先生、その駒、まだお持ちだったのですね」
 と言った。
「約束しましたからね……考えてみる、と」

 高野長英と淡窓は、あれ以来、会うことはなかった。
 江戸で長英は、渡辺崋山――永常を三河田原に紹介した人物――と組んで、蘭学の研究を始めた。そして、幕府の異国船打払令を批判し、獄につながれた。火災に乗じて脱獄したが、やがて隠れ家を突き止められ、最期には脇差で自ら喉を突いた。

「優秀な兵法家が長州に必要です。その人物は、最新の兵学書、すなわち蘭書が読めなくてはなりません。蘭書の研究で名を知られれば、きっとお声がかかるでしょう」
「……ですが、やはり、戦は武士にお任せすべきでは」
「武士が蘭語を学んで、大砲の弾道が計算できるようになるなら、それでよいかもしれません」
「……」
「宗太郎くん、私は――兵法家に限らず、兵一人一人も、家柄にこだわることはないと考えています。戦などめったに起こるものではない、もとい、起きてはいけないものなのですから、戦しかできない人間を大量に抱えておくのは非効率的です。手に職を持つ人々が定期的に訓練を受けて〝民兵〟となれば、いまより年貢はずっと安く済み、しかも兵の数は大幅に増やせます」
「戦に出るのを嫌がる人もいるのではないでしょうか」
 と、宗太郎は気づいたことを率直に言った。
 安民先輩が驚いた顔で宗太郎を見た。
 淡窓先生は、本当に悩んでいる様子で、
「そこが難しいところです。準備は万端だと見せつけさえすれば交戦は避けられると思うのですが……武器を手にする以上は、覚悟が必要ですからね」
 と言った。
「勝ち目がないと承知のうえで突っこんでいく、という美学もあるかもしれません」
 と、宗太郎はまた気付いたことを言った。
 安民先輩はひどくあわてていたが、淡窓先生は、
「ありがとう。人の命がかかっているのですから、穴は必ず指摘されるべきです。宗太郎くんはやはり兵法家に向いていると思いますよ」
 と、ほめてくれた。
「とは言え、これはあくまで私の意見です。これから蘭書をたくさん読むのですから、興味のわいた方向へ進めばよいでしょう」
「はい」
 そのとき、孝之助があくびをかみ殺したことに、どうやら三人とも気づいた。そして、微笑を見せあった。この瞬間は宗太郎も、わりと自然な笑顔ができたという実感があった。

 宗太郎は在籍二年、四級で咸宜園を辞去し、良庵(りょうあん)と名を変えて、今度は大坂の適塾に入門した。
 そこは何もかもが咸宜園と好対照をなしていた。
 似ているのは昇級の仕組みぐらいで、素行に関する決まりなどない。掃除の習慣も時間割もない。乱れた服装で、めいめいが勝手に勉強している。夏などふんどし一丁である。
 食事の用意をする女性たちがいたせいでもあっただろう。咸宜園では日常のあらゆる仕事を分担していたが、他人に世話を焼かれているうちは自治の精神など芽生えない。
 塾主の緒方洪庵(おがたこうあん)先生は「勝手にやれ」という方針らしかった。「らしい」というのは、姿さえめったに見せず、直接話を聞く機会がほとんどなかったからである。
 ただ、適塾が咸宜園より劣っているかと訊かれれば、そうは思わない、と良庵は答えるだろう。
 規律はめちゃくちゃである。ただし、誰もがめちゃくちゃに勉強する。書物を読みながら眠り、目覚めるとそのまま続きを読む。辞書が少ないので、取り合いになる。
 咸宜園は人間を育てる塾という気風があったが、適塾には当代随一の蘭学塾という自負があった。
 良庵は、必修の教科書である『和蘭文典前編(ガラマンチカ)』と『後編(セインタキス)』を読み終えると、主に医学書を読みつつ、ときおり兵法書も開いていた。

 適塾で四年学んだのち、故郷の鋳銭司村へ帰って診療所を開いたが、おそれていた通りの結果となった。無愛想ゆえ、評判が悪く、患者が来なかったのである。
「やはり骨格ですね。あきらめなさい」
 と、頭の中の幽斎先生がいった。
 そして、淡窓先生が予言した通り、蘭語で書かれた兵法書の翻訳家・研究家として、宇和島藩よりお呼びがかかった。
 長州が瀬戸内海の西の玄関なら、宇和島は南の玄関である。この地で良庵は、
「軍艦を建造せよ」
 という突然の無理難題を、持ち前の地道さで突破し、兵法家としての頭角をめきめきとあらわしていった。

嘉永五( 一八五三)年 淡窓 七二歳

 考槃楼を出ると、如月の空に浮かぶ雲の美しさに、淡窓は思わず目を細めた。
 塾主は、林外(りんがい)と名を改めた孝之助が継いでくれた。若干十八歳ながら、その実力は誰もが認めるところであった。
 淡窓は「老先生」と呼ばれ、いまでも講義をすることもあるが、塾の運営はほぼ林外に任せてある。
 今日は毎月二七日の「礼謁」である。塾主が進級した者を称え、停滞している者を励ます。それから、全員で『休道の詩』を唱和する。

休道他郷多苦辛(愚痴を言うな)
同袍有友自相親(仲間がいるだろう)
柴扉暁出霜如雪(外に出れば霜がおりている)
君汲川流我拾薪(さあ食事の支度をしよう)

 その若々しい声を背中で聴きながら、淡窓は北へ向かう。
 途中、酒屋に立ち寄った。久兵衛の好みは店主が知っていた。

 この日、シュー・カルブレース・ペリー遣日大使を乗せた蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ号は、西回りで上海を目指し、マラッカ海峡を越えたところであった。

 府内藩の財政顧問という大役を終え、隠居の身となった久兵衛は、主屋の裏手に「隠宅」を建てた。
 小ヶ瀬井路の完成によって水量が豊かになった城内川から水を引き、庭内に小さな井路を通した。その流れは城内川と並走して西へ進み、やがて三隈川に合流する。
 井路に二本の石橋をかけ、周囲にさまざまな植物を植えた。
 松、樫、檜、紅葉、梅、黄楊、木瓜、つつじ。決して広大無辺の庭園ではない。私財をなげうって世のために尽くし、慎ましやかな暮らしをしてきた久兵衛の、ささやかな贅沢であった。
 一本きりの桜を、淡窓と久兵衛は二人で眺めた。
 通りから主屋を隔てたこの場所は、静かであった。
 久兵衛は淡窓に酌をし、
「長い間、おつとめご苦労様でした」
 と言った。
 淡窓はその言葉を、澄んだ酒とともに、じっくりと味わった。
 それから、
「すまなかった」
 と言った。
「私は、人に誇れる兄ではなかった」
「何をおっしゃいます」
「子どもの頃、さぞ苦々しく思っていただろう。病を言いわけにだらだらと過ごして、安利が命を託してくれたのに、すぐ立ちあがることもできなかった」
「……」
「それに、謙吉を奪った」
「……」
「本当はお前も、謙吉に自分の手伝いをしてほしかったんだろう?」
 久兵衛は少し考えてから、
「実を言えば」
 と答えた。
「私もそれを察していたから、気がはやって、養子に取ってしまった。もう少し待てば謙吉自身の意志もはっきりしたかもしれないのにな。それに、謙吉はどちらかと言えばお前の方になついていた気がする」
「では兄上、これもきっとお察しだろうと思いますが、謙吉に独り立ちをすすめたのは、仕返しのつもりでした。塩谷代官をけしかけたのも」
「うん。わかっていた」
 桜の花びらがはらはらと舞って水面に落ち、小さな波紋がアメンボの脚をくすぐった。
「昔、伯父上に育てられていた頃、父上と伯父上が私を巡って言い争っているのを、図らずも盗み聞きしてしまってな。そのとき、子ども心に、自分が大人になったら、人間をもののように奪い合うことなど決してすまいと誓った。それをつい最近、思い出した」
「……」
「子どもの頃に学んだことすら忘れてしまっていたんだ。国策を論じる本もいくつか書いたが、書いたきりだ。世の中は何も変わっていない。私は大した学者ではなかった。それに比べてお前は、人の役に立つことをいくつも成しとげた」
 そして、淡窓は久兵衛に酌をし、
「自慢の弟だ」
 と言った。
 久兵衛はその酒をゆっくりと飲み干すと、腰をあげ、庭の中へと歩いていった。
 やわらかな風が吹いていた。
 久兵衛は石橋の上で言った。
「この庭、実は、私なりに咸宜園を模して造ったのです。〝流れの庭〟と名づけました。さまざまな個性が集い、お互いを尊重し、やがてその花びらは川をくだって、海へ出る。この庭は世界とつながっています。兄上の咲かせた花は、世界中、どこへでも行けます」
 淡窓の足元から、あたたかい気流のようなものがふわりと生じて、全身をなでた。
 十九で死ぬはずのところ、ずいぶんと生かされてきたが、もう少しだけ長生きができそうな気がした。

 三年後、安政三年十一月六日。
 咸宜園初代塾主、広瀬淡窓の葬儀には、粉雪の舞う中、千を超える人々が参列した。
 享年七五歳であった。

明治二( 一八六九)年 益次郎( 良庵) 四四歳

「異国かぶれが」
 ――異国かぶれ? まだそんな言葉を口にする奴がいるのか? いや、驚くようなことではないか。考えてみれば終戦からたった二ヶ月だ。
 時間の流れは案外遅いものなのかもしれない。何しろ痛みがまだ襲ってこない。確かに額を割られたはずだが。ああ、そうか。これが世に言う走馬灯か。
 体はゆっくりと仰向けに倒れていく。それに比べて思考の速いこと。ずっとこの速度でものが考えられたら、私はきっと世界一の軍師になれるだろう。
 けれど、そのつど死にかかるのでは命がいくつあっても足りない。
 それに、軍師にできることなど限られている。戦術はある程度現地で判断できても、事前に練る戦略はまず思い通りにはならない。仲間の思惑に振りまわされる。
 旧幕府討伐軍の英雄たちをそのまま親兵に転用することも、韓国に乗りこんで大公の轍をふむことも、どちらも賛成できなかった。武士は全員、いさぎよく刀を捨てるのが正しい。美しくもある。
 明治兵制の最善手として、国民皆兵を主張した。が、受け入れられなかった。
 まぁ、何もかも自分の思い通りに物事を運べる人間などいないのだろう。私は稀代の軍師と呼ばれ、御太刀料として三百両も下賜されたのだから、ありがたいと思わなければ。
 師にもつかず、蘭書を読むだけで、実戦にたえる兵法をよく修めたものだと人には言われた。確かに兵法の師は持たなかったが、人生の師に恵まれていた。
 咸宜園で兵法への道を示してくれた淡窓先生。
 適塾で覇気と胆力を授けてくれた洪庵先生。
 いつでも声をかけてくれる幽斎先生。
「いいから反撃なさい」
 無理です。刀が手の届くところにありません。
 ああ、やっと痛みが来た。たまらんなあ。戦とはこんな痛みを強いるのか。知らなかった。私の兵たち、すまなかった。何らかの防衛は必要としても、やはり民兵というのは考えものかもしれないな。
 手に何かが当たった。燭台か。闇に乗じて、いや、無理だ。どうやら賊は多勢。
 先生たちのおかげで、私個人はまずまずの人生だった。けれど、数多の犠牲を出してつかみとった新しい時代は、結局古い体質から抜けきれないものになってしまうだろう。それだけが心残りだ。もっと笑顔の練習をして、味方を作っておくんだった――
「先生」
「先生!」
「大村先生!」
 若者たちの声。
 見知らぬ天井。
「……ここは?」
「大阪府仮病院です。先生、よくぞ生きのびてくださいました」
「おい、大村先生が目を覚まされたぞ!」
 伏見兵学寮の学生たち。
 ……そうか。私もいつの間にか、「先生」と呼ばれていたんだな。

          (了)

流れの庭

流れの庭

大分県日田市出身、幕末の学者・広瀬淡窓の生涯を描いた歴史小説です。一部、史実と異なる部分があります。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-29

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 天明七( 一七八七)年 平八 四一歳
  2. 同日 長作 四五歳
  3. 同日 寅之助 六歳
  4. 寛政三( 一七九一)年 安利 八歳
  5. 翌日 寅之助 十歳
  6. 同日 安利 八歳
  7. 翌日 寅之助
  8. 寛政四( 一七九二)年 安利 九歳
  9. 同年 寅之助 十一歳
  10. 同年 三郎右衛門 四二歳
  11. 同年 寅之助
  12. 寛政五( 一七九三)年 徳兵衛 十八歳
  13. 翌日 寅之助 十二歳
  14. 翌日 徳兵衛
  15. 翌日 寅之助
  16. 寛政六( 一七九四)年 徳兵衛 十九歳
  17. 寛政七( 一七九五)年 昭陽 二三歳
  18. 同年 玄簡( 寅之助) 十四歳
  19. 同年 安利 十二歳
  20. 同年 玄簡
  21. 同年 安利
  22. 寛政八( 一七九六)年 徳兵衛 二一歳
  23. 同年 寅之助 十五歳
  24. 同年 徳兵衛
  25. 寛政十( 一七九八)年 安利 十五歳
  26. 同年 徳兵衛 二三歳
  27. 寛政十一( 一七九九)年 久兵衛 十歳
  28. 同年 求馬( 寅之助) 十八歳
  29. 数日後 金吾 十九歳
  30. 天保三( 一八三二)年 宗太郎 八歳
  31. 文化十四(一八一七)年 求馬 三六歳
  32. 文政六( 一八二三)年 久兵衛 三四歳
  33. 同年 伊兵衛 六二歳
  34. 天保十三( 一八四二)年 宗太郎 十八歳
  35. 文政十一( 一八二八)年 求馬 四六歳
  36. 同年 久兵衛 三八歳
  37. 同年 求馬
  38. 天保十四( 一八四三)年 宗太郎 十九歳
  39. 嘉永五( 一八五三)年 淡窓 七二歳
  40. 明治二( 一八六九)年 益次郎( 良庵) 四四歳