クリームぜんざい
「風船っていうのは、どの季節に合うと思う?」
唐突にそんな質問を繰り出す彼の目の前には、どんぶり一杯のクリームゼンザイが澱んでいる。今は夏。立秋を過ぎたとはいえ、夏はいよいよ燃え立っていた。
「喫茶店は冷房がききすぎている。例えば夏、だからこそ、オープンカフェで甘味を食べたいとは思わない?」
丸い籐のテーブルの一つ一つに茶事に使うような赤い傘が、微妙にかしいで立っていて朱色を帯びた影の内は、ひときわ熱を孕んでいる。気まぐれに吹き抜ける風が、意外な程呆気なくこのまつろう暑気を吹き払っていくのが、たまらない癒しに感じられたが、風は決して止まらず、行き過ぎた後には朝の地下鉄のような有り様で、熱が一挙に押し寄せてきた。
「風はどこから来るのかしら。このどこもかしこも暑い夏の地上の、どこに、こんな涼風を蓄えているのかしらね?」
「それは君、風は動いてくるからだよ。川の流れだってそうさ。澱みは温い。せせらぎは冷たい。ダム湖の水はきっと温い。それが流れ始めた途端に冷たくなっていくんだろ」
「逆ならどうかしら? 流れないプールの中を泳いでいっても、水は温いままでしょ?」
「しかし、人の身体は冷たくなっている。動くものが冷たくなるんだ」
「運動してるわけだから、暑くなるんじゃないの。汗もかくし」
「いや。体温が下がるから相対的に周囲の温度が高くなったように感じるんだ。このガラスのコップを見てごらん。汗をかいているね。このように、水滴がつくのは、熱いものと冷たいものの接した、熱い側の方なんだ。身体に汗をかく、ということは、中が冷たくて外が熱いからだ。以上」
「でも、この炎天下を疾走すれば風を感じるわ。それはとても心地良いはず」
カチリ、とグラスの氷が動く。コップまで溶け出しそうな暑さだ。あちらの森は黒い塊で、そちらの海は白い空。そのあいだの朱色の中で、時を告げるのは氷だけだった。
「波の音と、ミンミン蝉の音を一緒に聞くのは、なかなか良いね」
「松原遠くって、知らない? 地元じゃ、風物詩にもならないくらい普通の事だった」
「僕の田舎には海が無かった。でも海は知っていた。もっと綺麗なものだと思っていたから、始めて見た時にはたいへんに衝撃的だったな。海の家のござも、浜辺の焼きそばも、家からもっていったメロンパンも、みんな砂まじりで、海は緑色に泡立っていた。それ以来、僕の海は緑色の格子縞になったんだ。きっと、わかめや、こんぶが溶けだしているのにちがいないと思った。みそ汁にしたら旨いだろうと」
「塩分の採りすぎね」
「だから、糖分も取っているわけさ」
ぜんざいは、すくってもすくっても減らないように見える。真ん中のアイスクリームはどういうわけか、全く形を変えないままだ。どんぶりと口とを往復する金の四角いスプーンだけが、汚れ、疲れていく。スプーンの上にいびつな塊のまま震えている小豆群。偶然に隣り合った小豆達の結束は、意外と強い。そして、丼の中だろうが、スプーンの上だろうが、今いるところが自分の場所だ、とでもいいたげな頑固さで、塊っている。男はいったんすくった小豆を丼に戻し、それから丹念に小豆をつついた。
「たまらないわね」
と女がハンカチを頭に広げる。
「この傘じゃ紫外線は防げない。この夏の日焼けは、ぜんざい一杯分の紫外線を浴びる間の日焼けだから、小麦色にはならないな。小豆色だ」
「そんなてかてかしてる?」
巾着のようなバックからコンパクトをカチリと開いて小鼻や額を覗き込む女の顔。ちょとバクに似ている。と男は思う。スプーンの上から小豆を落とさないように口をすぼめる男の顔を、アリクイのようだと女は思っている。それぞれが、心の中で小さく微笑む。
「あ、蝉が……」
女が勢い良く振り向いた。肩のラインで切りそろえられた髪が、放射状の広がり、白い首すじが現れる。から傘お化けの足は、そういえば妙に生白かった。そりゃ、お化けは太陽光線を浴びないからな。と男は真面目な顔の下で、そんな事を思っていた。ほのかにヘアスプレーの香りが漂ってくる。男は一瞬、女の乱れた髪に覆われた枕を見下ろしていた今朝の事を思い出しかける。
「蝉がね。映ってたの。驚いたな。ね。蝉が映ってたのよ」
「君の後ろで、蝉が止まれそうな木は、あのクヌギの木かな?」
「ちょっと、この鏡、覗いてみて」
女は唐突に鏡を男に向けて差し出した。男は鏡の中の顔が、蒼白の上に赤黒い斑が膨れ上がっているように見えて仰天した。
「ちょっと借してみて」
男はコンパクトをもぎとって、しげしげと自分の顔を眺める。白い丼に入った小豆に朱色の光が反映しているのが、顔を彩っていたのだろう。角度をかえると、顔はいつもの顔に戻っている。
「別に、普通だよ。蝉がうつったって? 何かの反射じゃないの?」
男は伸ばした手から、コンパクトを落とした。ペールブルーのコンパクトは傘の柄にぶつかり、貝殻のかけらのような破片を散らした。
「あーあ。気にいってたのにな」
「悪かった。手が滑った」
男は、目の前に油蝉の顔を見たような気がしたのだった。赤い三つの複眼が、額に並んでいるように見えたのだ。それも、夏の日差しの悪戯だろう。だが男は女に対しておどけてみせるだけのゆとりを確かに無くしていた。
女はしばらく欠けたコンパクトを撫でたり、開いたり閉じたりしていた。
「かけらの方は?」
「何?」
「かけらの方は気にはなりませんか?」
「あげる。記念に」
かくして、ペールブルーのかけらは男の手に入り、男は指先で、想像を越えた形のかけらを、ためつすがめつしている。
「ああ。あれだきっと」
女が椅子の上で身体を捩じって背後を見て叫ぶと、くるりと腰を回転させて、男の方に向き直った。男は女が最初に腰を捩じった方向と、今捩じり戻した方向とがどうも合っていないような気がしてしかたがなかったが、些細な事、と気にしない事にした。
女は、明らかに笑った口許のまま、しばらく形相を凍りつかせていた。女の目には、男の顔が、いびつな白い風船の上に小豆を散らしたように見えたからだった。が、それも、暑いせいだろう。と無理やり疑問をねじ伏せて、なんとか表情に血を通わせる事に成功した。
「あれって、何?」
「あれ。蝉よ。蝉。あの店でうってる、ふ、風船」
そう言ってから、女は背筋がぞくぞくした。男は、女の指さす先には、センダンの緑陰しか見つけることは出来ず、身を乗り出して彼女と顔を並べると、そっと彼女の横顔を伺い、そこに満面の笑みを見いだすと、膝からガクリと力が抜けた。
「ね!」
「ね! って何も見えない」
「えー。あの縁日だよ。ふ、風船を売ってるじゃない」
男はもう一度、祈るような気持ちで女の指先を目で追った。爪が妙な具合に曲がっている事は意識しないように、ただひたすらにセンダンの木陰を探した。女は、すぐ傍らの男の顔を、見ないようにしている自分が嫌だった。しかし、頬を接する程ちかくにあるはずの男の顔が、今は何より恐ろしかった。
「あー。あったあった。変な風船ばっかりだ」
「ね。蝉のもあるでしょ。誰かが買って、それが私の後ろを通ったのね。きっと」
いや、誰も通らなかったんだよ。と男は言いかけてぐっと堪えた。女は男が縁日を見つけてくれたのが嬉しくて、思い切って男を見た。そして、あやうく悲鳴を上げる所だったのを、恐ろしい精神力で乗り切ったのだった。
「人騒がせな子供もいたもんだね」
「やっぱり、風船は夏には似合わないわね」
「おまたせしました。冷し飴です。」
店の老婆が、注文の品を運んできた。
「まだ、クラゲは出ないかしら?」
「そりゃ、あなた。まだまだ出ません。波も静かです。これから、ですか?」
「ええ。やっぱり泳がないと、ここに来た甲斐が無いでしょう」
「それじゃ。十分、お気をつけなさって」
額から汗が滲む。男と女は申し合わせたように、ハンカチやタオルで顔を拭う。互いに見合わせた顔は、普段見知った顔だった。
「それじゃ、これのんだら泳ぐか」
「体温計持って泳いでみようかな」
男は、「体温計、持ってきたのかよ」と思い、女は「そんなに食べて呑んでじゃ、お腹が痛くなるわ、きっと」と思いながら、二人で空を仰いだ。
傘の中には、真っ赤な入道雲が、真っ赤な海の向こうからもくもくと沸き立っているのが見えた。
おわり。
クリームぜんざい