孤島生活

なおち

序章 前半

「お父様ぁ。木の枝に珍しい鳥が止まっていますわ!!」

元気にはしゃぐ少女の名前はマリン。
この物語の主人公である、太盛(せまる)の娘の一人だ。

9歳にしてはお嬢様らしく落ち着いた雰囲気がある。
少しクセのついたショートカットの黒髪。
知性と品性を帯びた琥珀色の瞳。

紺色のスカートから伸びる足はまだ幼い。
黒いタイツをはいている
上は高級感のあるグレーのコートを着ていた。

マリンは美少女なので、たとえ地味な服でも
子供モデルなみに着こなしてしまう。

父親から受け継いだ美貌は、
残念ながら世間の目にさらされることはない。

「はは、そんなにはしゃいだら小鳥さんが逃げてしまうよ?
 ここは孤島だから、本土にはいない珍鳥がよく見られるねぇ」

まるで先生のような口調で話すのは父の太盛(せまる)

せまるとは読めない漢字のために
学生時代のあだ名は「ふともり君」だった。
年は33歳。童顔なので実年齢よりずっと若く見える。

ジーンズにダウンジャケットというラフな格好だ。
春を迎えたばかりの時期なので
ニット帽をかぶっていた。

瞳はくりっとしていて、顔の輪郭は女性的。
高校生の時は平凡な女性より美しさで
勝ってると言われたほどの女顔だった。

彼の顔は母親から受け継いだものだ。
平凡な服装の割に物腰は柔らかく、品性を感じさせる。
一見すると人畜無害そうな紳士だ。

「……まあ、遠くへ飛んで行ってしまいましたわ。
  双眼鏡を構える暇もありませんでした」

「鳥はね、こちらから近寄ろうとすると逃げるんだ。
  逆に鳥さんが来そうなポイントで待ち伏せすると、
  不思議と出会える確率が高くなるんだよ?」

「そうなんですの? お父様は物知りですわ」

「はは。物知りって程でもないさ
  バードウオッチングでは常識だからね」

父は慈愛に満ちた瞳で娘の髪の毛をやさしくなでる。
マリンは目を細めながら、されるがままになっていた。

大好きな父。この島では使用人と家族親戚しかいないから、
父は貴重な遊び相手であり、教育者でもあった。

彼らは長崎県からほど近い孤島で暮らしてる。
孤島は、資産家のおじいさん(太盛の実父)が大昔に
買い取ったものである。

遭難者以外で部外者が立ち入ることはまずない。

マリンは生まれた時から孤島暮らしをしてる。

島に住んでる親族で同年代の子供がいるが、
それ以外の子供との関りはない。

悪く言えば閉鎖的な環境で育ってきた。
父は、娘が寂しい思いをしないようにと
毎日暇を見つけては遊びに付き合ってあげていた。

「冬鳥のオオモズがいますの。
 ほら、あそこの枝の上。
 鳴き声で分かりました」

「ほんとうだ。もうすぐ春になるのに、
 まだオオモズはいるんだね」

父が独身時代から続けていた趣味である
バードウオッチング(鳥見)は、
愛娘にもしっかりと引き継がれていた。

娘は、父の興味のあることにはなんでも興味を示した。
父が流暢なアメリカ英語を話すこと。西洋絵画や
クラシック音楽を好むこと。他にも外国趣味はたくさんある。

娘もすっかり西洋趣味になってしまい。
夜寝る前の聖書の音読をしているほどだ。

「あんたたち、こんな時間まで鳥なんか見てたの?」

威圧感のある声。娘と父に緊張が走る。
彼らがもっとも苦手とする女が現れたのだ。

「よく飽きないもんだ。もう夕方だってのにさ」

女は太盛の妻であり、マリンの実の母である。
太盛とマリンは顔が引きつっており、先ほどまでの
のほほんとした雰囲気は消えてしまった。

母のあだ名は「キム、ジョウン」である。

その女の相貌さ、言動、容姿、態度などが
朝鮮労働党の委員長に酷似していたからだった。

あだ名が示す通り容姿に褒められるところはない。
それでも何とか探すとしたら、長い黒髪があげられる。
しかしながら、星の数ほどある欠点によってやはり台無しになる。

不思議なことにジョウンは朝鮮労働党員の服(軍服)を
好んで着ており、孤島生活者の中でもぶっちぎりの異端者とされている。

労働党の服は、数年前に難破した朝鮮の漁船が置いていったものだ。
屋敷で保管しておいた軍服をジョウンは大喜びで手に入れた。
ジョウンが党員服を好む理由はただ一つ。狩りに向いてるからだ。

本名はナツミというが、彼女のことを誰もその名で
呼ぶ人はいない。彼女は人間の女性であるというより、むしろ……。

グルルルルルル

ここは森の中だ。といっても奥深くに入ったわけではない。
父は娘を連れて森の開けた場所で待機し、
お気に入りの極楽鳥がねぐらに帰る瞬間を待っていたのだ。

ガルルルル

では、この森の奥から響いてくる声は何か?

「熊だねぇ」

ジョウンが言う。

同時に両手の拳を合わせ、指をボキボキならす。
普通の人間なら命の危険性を感じるところだが、
ジョウンは非常に好戦的である。

太盛の腕時計は夕方5時を指していた。

「ガルルr……!?」

熊は人の背丈ほどもある薮(やぶ)の間をくぐって姿を現した。

それと同時に反転して逃げ出した。
その間、わずか10秒にも満たない。
驚異的な判断の速さである。

熊は見てしまったのだ。人にして人あらざる者。ジョウンの姿を。

「逃がしゃしないよ」

「が~~~~~!!」

追いかけっこを始めるジョウンと熊。

もちろん追いかけてるのはジョウンだ。
熊は、ジョウンと目が合った瞬間に戦うことをあきらめた。
彼女らが駆け回るたびに木々の間から鳥が飛んでいく。

遠目から見てる旦那と娘からは、巨大な黒い影(ジョウン)が
茂みの中を高速で動き回ってるように見えた。

「お父様ぁ。お母さまが暴走してますの」

「あの熊さんはとんだ災難だったね。
 最初は僕とマリンを襲うつもりだったんだろうけど、
  ジョウンに終われたら最後。もう助からないぞ」

娘は父の腕にしがみつき、ふるえていた。

本当は父も絶望的な恐怖を感じており、
足のふるえを抑えるのに必死だった。

「お母さまが熊の後頭部に
  ウエスタン・ラリアートを決めましたわ」

「かわいそうに。熊は川に転落したぞ。
  岩場に頭を強く打ったようで目を回してる」

熊はやがて意識を回復させる。
逃げても無駄なのが分かったので徒手空拳での戦闘を
挑むのだった。戦わなければ殺される。

己の死すら覚悟した全力の一撃を繰り出した。

「邪魔っ!!」

「がっ!?」

熊の放った超高速の右ストレートは、ジョウンの手の甲で払われた。
まるで、うっとおしいハエを追い払うかのような動作。

  うわっ、俺のストレート……弱すぎ!?
  ワンパンをしただけで……戦闘力の差が分かってしまう……!!

  無料5分で戦闘能力や生存能力を判断。
  孤島の森をさまよい、ジョウンと戦闘するだけ。
  「戦闘力テスト」受けた人は60万を突破!!
   受けた後は反撃され、天国に昇るかもしれないと評判だ!!

以上のように悟ってしまう熊。

それでも攻撃を止めるわけにはいかない。
止めたら殺されるからだ。
パンチがだめでも体重ならばと、
自重を生かしたタックルを仕掛ける。

人間であるジョウンはさすがに熊の体重を支えきれず、
背中から倒れる。すると熊はジョウンのマウントを取る。

熊が圧倒的に有利な体制になった!!

「ぐるうううおおおおx!!」

咆哮(ほうこう)をあげるヒグマ。
(極めて凶暴なクマ。人が襲われた場合、
  ほぼ確実に殺されるといわれてる)

熊はジョウンの肩に噛みつこうとするが……

「ぶ」

間抜けな声のあと、動きが止まる。

熊は、どういうわけか肺中の空気を吐き出し、
地獄の苦しみを味わっていた。

実はジョウンの拳が熊のみぞおちに突き刺さっていたのだ。

俗にいう腹パン(しかもカウンター・アタック)

このゼロ距離で、しかも馬乗りになった相手に対して
ジョウンは腹パンを放ったのだ。

しかも熊という巨体に対してである。
熊の毛皮、筋肉、脂肪など、あらゆる防壁を破って戦闘不能にさせた。

熊は地面にうつぶせになり、苦しそうに咳をしていた。

しばらくして咳が収まると、明後日の方向へ
匍匐(ほふく)前進をはじめる。

少しでもジョウンから距離を取ろうと必死なのである。
熊から戦闘の意思は完全に失われてしまったのであった。


それにしても、あの状態からカウンターの腹パン。
言葉にするのは簡単。物理的には不可能に近い芸当なのだが、

「お母さまは戦闘力の高いお方ですから」

と娘が言う。妙に説得力のある言葉だった。
父も無言でうなづいた。

力およばす、熊はジョウンに狩られてしまった。
その日の夕食は熊の肉となった。
ジョウンは肉が大好物なのである。


「ジョウンさま。本日のメニューは熊鍋でございます」

うやうやしくお辞儀をするシェフの後藤。

後藤は、かつて帝国ホテルで多数の部下を
持つほどの地位にいた男だ。

顔つきはいかめしく、オールバックの黒髪は
やくざを連想さるが、性格は冷静沈着であり正義感が強い。

彼は一年前にホテルを退職し、長い就活の末に
この屋敷にたどり着いた。定年退職までのわずかな
期間をこの屋敷の料理長として過ごすつもりでいた。


「うむ。見た目はなかなか悪くないようだ」

食堂の長テーブルの中央に鎮座する(武将座りともいう)ジョウン。

彼女はいつも早めの夕食(六時半)を一人で取る。
なぜ旦那と娘とは取らないのか?

理由は簡単で、2人がジョウンの放つ圧倒的なオーラに
耐え切れず、スープをこぼしたりするからだ。

「熊の鍋を食すのは初めてである」

スープの入っている鍋を見下ろし、
スプーンを手に取るジョウン。

野菜がたっぷり入っており、肉のだしも効いてる。
湯気を立てる鍋からは濃厚な香りがして、
ジョウンの腹がぎゅるぎゅると鳴った。

肉をレンゲですくい、口へ運ぶと……。

「おい。熱いじゃないか!!」

「も、もうしわけありませんっ……
 このメニューは出来たてでございまして。
 この温度によって鍋のうまみが最高に
  き立つと心得てる次第でございま……」

言葉をさえぎるようにジョウンの拳がテーブルを乱打する。

「私に出すなら少し冷ましてからにしておけ!!
 貴様のせいで舌を火傷してしまったではないか!!
  味など全然わからなかった!!」

「ただいま氷をお持ちいたします。
  少々お待ちくださいませ」

後藤は奥の厨房へと消えていく。

なんとジョウンは猫舌だったのだ。

叱責を受けた彼は心臓をわしづかみに
されたほどの恐怖を感じており、足元がふらついてる。

後藤が臆病だからというわけではない。
彼は今年で57の誕生日を迎える。

前職は帝国ホテルのシェフ。料理の腕は自他ともに認める超一流だった。
彼は帝国ホテル時代に自分のやりたいことは
ほぼ全てやってきたと自負していた。

長年勤めていると、自然と人は入れ替わっていく。

彼は後から入ってきた若い連中の無意味な派閥争いに
疲れ果てて辞めることにした。長く悩み続けた末の
結論であるので後悔はしてない。


この屋敷で数年働き、還暦を迎えた後は
田舎で別荘を購入して静かに暮らそうと考えていた。

もう二度と、価値のない人間達のいさかいに
巻き込まれたくなかったから。


「ジョウンさま。冷たい氷と水でございます」

レストランでいうところのお冷を差し出す後藤。
彼の手は不規則にふるえ続けてる。

「ふん」

それをボクシングのフックのような動作で奪い取るジョウン。
水を一気に飲み干した後、つまらなそうに鼻を鳴らした。

「あたしは、ちんたらメニューを出されるのが嫌いなんだ。
 デザートとかおかずもあるなら今のうちにテーブルに
 並べておきな」

「はっ、ただいまご用意いたします」

後藤は駆け足で厨房へ行き、待機させておいたメイドに指示を出す。
配膳用のカートに、大食いのジョウン用の食材を満載させた。


「ジョウン奥様。お待たせいたしました。
  本日のフルコースでございます」

29歳のメイドが、愛想笑いをしてジョウンの前に現れた。
テーブルに食材の乗った皿を並べていく。

メイドの名前は、ユーリという。

色白で長身の女だ。背筋がすらっとしていて、
理知的な印象を与える。

切れ長の瞳の奥には確かな知性が宿っている。

後ろでまとめた長い茶色の髪には妙齢の
女性特有の色気があり、女優やアイドル並みの美貌を持っていた。

きっちと着こなしたメイド服に彼女の生真面目さが
宿っている。茶髪の上のカチューシャも良く似合っていた。

ユーリが食堂にいるだけで高級レストランの
雰囲気になるほどだ。

ジョウンとは比較にすらならないほどの美女だ。
両名が対峙すると、まさに美女と野獣というにふさわしい。

「ほう……」

ジョウンが今夜の夕食に見とれる。

ブラジル風にチーズとアジを絡めたフライ。
チーズの粘っこさとアジの肉がうまく絡んでいて、
一度食べたら病みつきになる。

日本で定番の鶏のから揚げには、少し辛目の
スパイスをふんだんにまぶしてあり、食欲をそそる。

厚めに切ったステーキ肉には、慎重に火を通してあり、
冷めても風味を損ねないよう配慮されてる。

ジョウンはこの牛肉を食べた時の、
鼻の奥から抜けていくような香りが好みだった。

バターロールのお皿のわきには、
控えめにマーガリンが盛ってある。

脂っこいものばかり食べてるときには、
こういうパンの質素な味が恋しくなるものだ。

ココナッツ風味のプリンケーキは、これまた
シェフ自慢のブラジル家庭料理の味だ。

南国特有の太陽を浴びたココナッツの深く、
とろける甘さがたまらない。

後藤はブラジルだけでなく、様々な外国料理に精通してる達人だった。

彼が採用試験で太盛の父にフレンチ、イタリアンを
ふるまった際、感動した親父殿が友人として
振舞うことを許可したほどだった。


ちなみにサラダはジョウンが嫌うため出してない。
  後藤自慢のイタリアンサラダと白ワインは
   ジョウンに不評だったと知ったとき、
   彼は相当なショックを受けたものだ。

そのため、飲み物はワインの代わりに缶ビールが何本も
並べられている。ジョウンが本土に住んでいた時に
毎日夜にビールを飲んでいたからだ。

この貴族の食卓といえる大食堂に缶ビールである。
あまりのシュールさにユーリは笑いそうになった。


「ジョウン奥様。以上が本日のフルコースでございます。
  食材についてのご質問は
   直接後藤へ伺(うかが)ってくださいませ」

使用人を呼ぶベルはテーブルに設置してある。

「ご苦労だった。どのメニューも実に美しい。
  見てるだけで満足できるほどにな」

「恐縮でございます」

「あー、世辞で言ってるわけではないんだよ?
  そんなにかしこまるなよ」


ユーリの言動、動作一つ一つに品があり、
使用人というよりこの館のお姫さまといったふうだ。

こんな孤島の別荘で
働いてるのはもったいないと誰もが口をそろえていた。

また、その年で独身であることも。

ここではまだ明かさないが、彼女が独身でいるのには、
忘れがたい過去の苦い経験によるものだった。


「ごゆっくりお食事をお楽しみくださいませ。
  わたくしはこれで失礼いたします」

「待ちな」

「はっ?」

「ユーリは実に気が利くな。良い召使である。
  今夜は私の酒に付き合うがよい」

「わ、わたくしがですか?
  しし、しかし……奥様とお食事の席を共にするのは、
   私ども使用人にとっては……」

「奥方と使用人とかではなくでだな。
  おまえに向かい側の席に座ってほしいのだよ」

「だ、旦那様や他の使用人たちに対する示しもありますので、
  恐れ入りますが承知しかねます……」

「ええい、私が飲めと言っているのだぞ!!」

ジョウンの怒声はそれはすごい迫力だった。
ぴしゃりと、脳天にハンマーの一撃を食らうほどの衝撃である。

ジョウンが切れるのは、お湯を入れたカップラーメンができるより早いのだ。

ユーリは恐ろしさのあまり委縮してしまった。

ユーリは年の割には大人びていてる。
職務に忠実な姿勢は、メイド長や後藤からも高く評価されてる。

その彼女でさえ、ジョウンの前では小動物のように
縮こまるしかないのであった。


「大変失礼いたしました
  すぐにワイングラスを持ってまいります!!」

深くお辞儀をしてから、厨房へと走るユーリ。

ジョウンとかかわった人間は誰でもこうなるのだ。
それは、人間なら誰しも(熊もだが)本能で
ジョウンは本質的に怪物なのだと悟っている証拠。

ユーリの赤ワインとジョウンの缶ビールで乾杯しているのを、
太盛とマリンは庭の雑木林の陰から見守っていた。

ユーリのワイングラスは終始ふるえ続けていた。
精神的に限界が訪れるのは時間の問題だろう。

マリンはお気に入りの熊さん人形を抱きながらパパに言う。

「ユーリちゃんはお酒が苦手なのに、
  無理やり飲ませるなんてかわいそう」

「仕方ないよ、逆らったらあいつに何されるか
 分からないからね。もっともあの状態じゃあ、
  ユーリちゃんには味なんて分からないだろうけど」


ところで、なぜ彼らが庭の木の陰などという、
屋外から食堂の窓をのぞき込んでいるのか、理由は簡単である。

ジョウンの近くにいるのが怖いのだ、

仮に使用人たちがジョウンの機嫌を損ねた場合、
食堂で暴れかねない。そうしたらワイングラスやお皿が
四方八方に投げつけられることは必至である。

同じ部屋にいるのは論外。廊下から扉をこっそり
開けて様子をうかがおうものなら、3秒以内に気配を察知される。

したがって、10メートル以上離れた庭から、ニコンの
双眼鏡を使ってジョウンを観察しているのだ。

太盛は使用人たちがジョウンに危害を加えられないか
本気で心配していた。
彼らが倒れてもタンカで運ぶ用意はすでにできてる。


「太盛様、こんなところでじっとしてたら
  風邪をひきますわよ?
   早く屋敷へお入りになって」

「エリカこそ何してるんだよ、こんなところでさ」

エリカと呼ばれた女性は、太盛のもう一人の奥さんだった。

太盛には奥さんが二人いて、一人はこのエリカ(本妻)
もういっぽうはジョウンである。

奥さんが二人いる理由は後述する。

「夕方の散歩をしてましたの。最近は日が暮れるのが
  遅くなってきましたから、外の空気を
   吸っておこうと思いまして」

「君こそこんな薄着で大丈夫なのか?
  僕は君が風邪をひかないか心配だよ」

旦那が指摘するように、エリカは着物姿で草履をはいていた。
この格好は彼女にとって普段着なのだ
エリカは古風な家で育った本物のお嬢様である。

太盛とエリカの両親の間で縁談が持ち上がり、
この島での生活を始めて、はや10年が過ぎた。

出会ったばかりのころは、互いに20代の若者だった。

季節は3月のお彼岸が過ぎたころだった。
孤島の潮風は冷たく、朝晩の冷え込みは真冬とほとんど
変わらないほどだった。

太盛は自分のダウンジャケットを脱いで
エリカの肩に乗せた。するとエリカの頬が朱に染まり、
婚約者時代を思わせる乙女の顔になってしまう。

「うれしいですわ。
  わたくしを心配してくださるのですね」

「君は僕の大切な妻だ。当然だろう?」

彼の男性的な思いやりがエリカは大好きだった。
太盛は格好つけてるわけではなく、こういう
キザなセリフが自然と口に出てくる男だった。

こういう優しさが、ふいにどの女性を虜(とりこ)にするか
わからないという危険性も帯びているのだが。

とん、とエリカは体重を太盛に預ける。

太盛はエリカの腰へ手を伸ばし、ゆっくり抱きしめた。
エリカは黙ってじっとしていた。

外は風がだんだんと勢いを増していくが、
密着している夫婦は互いの体温を交換しあっていた。

太盛のセーターから優しい香りがして、
エリカの気持ちはますます盛り上がってしまう。

太盛もエリカを肌で感じて
顔が赤くなり、少し吐息が荒くなっている。


そんな2人をつまらなそうな顔で見つめる少女がいた。

マリンである。

マリンは少しうつむき、にらむような眼で父とエリカを見ていた。
口には出さないが、不満そうな顔であった。

子供の見てる前で何をしてたんだろうとエリカは空気を読む。

エリカは腰をかがめ、マリンの髪を撫でながらこう言った。

「ごめんなさいね。マリンちゃんのことほったらかしに
  していましたわ。わたくしとしたことが、恥ずかしい
   シーンを見られてしまいました」

「わたくしのことは気にしなくていいんですのよ。
  エリカおばさまもお父様の伴侶なのですからね」

「マリンちゃんはいつ見ても綺麗です。
  髪もお肌も……お人形さんのように綺麗。
   太盛さんの血を深く受け継いでる証拠ですわ」

「うふふ。エリカおばさまったら、いつもお上手ですわ」

マリンをほめるエリカのほうこそ、絶世の美女だった。
旦那と同じ33歳ではあるが、年齢的な肌の衰えを
全く感じさせない。

30台特有の大人の色気に、すっかり魅了された太盛は
何度一緒に肌を重ねても飽きることはなかった。

粗暴で野獣としか思えないジョウンとは、
比べること自体がエリカに対する冒とくである

ジョウンは暇さえあれば狩りをするか酒を飲むかしているが、
エリカは教養のある女性であり、芸術を好む。

西洋趣味の太盛とは出会った当初から意気投合していた。

国内の交響楽団の演奏を聴きに行こう、
むしろ特定の楽団の定期会員になろうとか、
あるいは各地で開かれる美術展にはぜひ足を運ぼうとか、
計画は無数にあった。

だが、ずっと孤島で生活してるため、すべて夢で終わった。

彼らには太盛の父が残してくれた遺産であるこの島だけが
人生のすべてだった

目にできる絵画は、あらかじめロビーや大広間に
飾ってある風景画と肖像画だけ。

音楽は、屋敷のリビングと食堂に設置された高級オーディオで聴ける。
音楽のジャンルはクラシック、ジャズの名盤CDとレコードのみ。

若者文化であるポップスは存在しない。
歴史や伝統を好む父の性格がよく現れていた。

「マリンちゃああん。早く屋敷に入りなよ!!
  今日のお夕飯は熊の鍋だよぉ!」

「レーナちゃん。うん、今行きますの!!」

玄関から元気に呼びかけた、レーナ(玲奈)という少女は
太盛とエリカの間にできた子供だ。

年は9歳でマリンと同学年。

つまり、エリカとジョウンは同じ年に出産していたのだ。

マリンは、心も体も完全な父親似であり、
少しほほえむと花が咲くほどの美少女である。
ジョウンの獣っぽさは存在しない。

いっぽうのレナは、母からも父からも美貌を
受け継げなかったのか、顔は10人並みだった。

体型は小太りで、言葉遣いもお嬢様らしくなく、
本当にその辺の学校に通ってる女の子と変わらなかった。

エリカが徹底的なお嬢様教育を施したのにも
かかわらずである。いつまでたっても娘がお嬢様らしい
気品が感じられないことが母の悩みの種となっていた。

いっぽうで娘の髪質だけは認めていた。

腰まで伸びている美しい黒髪。癖が全くなく、
お人形さんのように整っていた。

「レナ。女の子が大声をあげるものではありません。
  はしたないですわよ?」

「はーい。ごめんなさいママぁ」

なんともやる気の感じられない声だ。
母の小言はとっくに聞き飽きていたから、
何を言われてもこうして受け流すことにしているのだ。

「はぁ……」

レナの双子の妹であるカリンは、玄関の扉の前で
つまらなそうに立っていた。

双子だけに容姿は瓜二つだ。カリンのほうが
いくぶん痩せているが、標準体型より太っている。
背中に丸みがあり、よく言えばぽっちゃりした体型だ。

日本人らしいスレンダーな体系の母と対照的である。

カリンは使用人たちにレナと間違われるのが嫌で、
髪の毛を両サイドで結ぶ、いわゆるツインテールにしてる。

「カリン。今日も日中は家で勉強してたのかい?」

「はい。学生は勉学に励むべきだとママに言われてますから」

「えらいね。カリンは」

頭を撫でられ、うれしいような恥ずかしいような
複雑な表情をするカリン。

彼女は内向的で皮肉屋。意見を述べるのが得意だが、
人の気持ちを考えるのが苦手だった。
エリカから可愛げがないとよく言われていた。

外で遊ぶのが好きなレナとは違い、家で本を読むことを好んだ。

この日のカリンは、自宅用の学習教材で
算数や理科の勉強をしていたのだ。彼女は理数系に強い。

積極的に勉強に励むカリンのことを父は気に入っていた。

父はしゃがんで、カリンと目線の高さを合わせる。

「たまには森を散歩してみないか?
  お母さんにお弁当を作ってもらって
  ピクニックとかさ。もうすぐ春だから
   この島でも桜が咲く時期になるよ?」

「お外に出るよりも
  この前買ってもらった小説の続きが読みたい……。
   レナみたいにお外ではしゃぐのは子供っぽくて
    カリンにはあわないよ」

「本は夜でも読めるよね?
  たまには自然の中ですごすのもいい経験だ。
   いろんな生き物がいて、たくさんの発見がある。
     何事も勉強だよ?」

「うーん、どうしようかしら。
  お父様がずっと一緒にいてくれるなら行くかも……」

「じゃ、約束だ」


太盛には妻が二人いる。エリカとジョウンである。

ジョウンとエリカには、それぞれ太盛との間に
作った娘がいる。

真凛(マリン)はジョウンが生んだ。
エリカが生んだのは怜奈(レナ)と花梨(カリン)である。

なぜ太盛には奥さんが二人いるのか。

なぜ、二人の奥さんとの間に子供を作ったのか。


それについて説明を始めよう。

時間を10年前に巻き戻す。


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「この屋敷での暮らしは、思っていた以上に退屈ですね」

太盛にそう言ったのは同居人のエリカである。

「毎日同じ景色を見てるからね。この景色はもう見飽きたよ。
  たまには本土の空気を吸ってみたくもなる」

太盛は2階のテラスにいて、椅子に腰かけていた。
エリカは太盛の横に寄り添うように座っている。

椅子の前に頑丈な三脚に備え付けられた大型双眼鏡がある。

太盛はここで鳥の観察をするのが好きだった。

テラスからは、島の自然が一望できる。
大きな古びた屋敷の前には、森が広がっており、
野鳥の観察にはぴったりだった。

毎朝早く起きては野鳥の鳴き声に耳を澄ませ、
風を肌で感じ、自然と親しむのが日課だった。


ここは資産家の父が20年以上前に買い取った島。

どれだけのお金があればそんな芸当ができるのか、
太盛には想像もつかなかった。

壮大なお屋敷は古さを感じさせないほど立派だ。
遠目から眺めると圧倒されるほどに。

「あなたのお父様は、俗世間は穢(けが)れてるとおっしゃいました。
  ですから、この孤島での生活でご自身を
   見つめなおしてはいかがかと......」

「いったい、なにを見つめなおせっていうんだろうね?
  僕達はここで暮らしてもう半年になる。
   緊張感のない毎日だからか、時間が過ぎるのが早いもんだよ」

テーブルの上にはティーカップと経済新聞がある。

太盛は新聞を隅々まで読んでいくのが日課だった。

目立たないところに素朴で
面白い記事がたくさんあることに気づいた。

会社勤めをしていた頃は新聞を読む時間が
作れなかったから、贅沢な時間の使い方であった。

休日は日曜だけで土曜も祝日も休みなく働かされた。
仕事のためだけに生きてきたつまらない人生。

仕事の量が多すぎてとても定時までに終わらず、
平均で22:30まで働かされていた。繁忙期になると毎日
日付が変わるまで働いた時もある。

太盛はストレスから異を壊し、油物を食べるたびに吐いた。

会社の社員で将来を絶望視して飛び降り自殺する人が後を絶たない。
新聞に載っていた、つい一週間前に電車に飛び込んで死んだのは、
太盛の隣の部署で務めていた男性(妻子持ち)だった。

その事例は氷山の一角なのだから恐ろしい。
太盛の上司は、報道されるだけましだと言っていた。

太盛の勤めた会社は完全なブラック企業だったのだ。

心の病気になる前に他の会社を探そうと思い、
父に直談判したところ、激怒された。

家長である父から、就活以前に早めに
結婚して身を固めろと言われたのだ。

会社には長期休暇を取っているが、もう半年も休んでいる。

おそらく自動的に解雇されてるに違いないと太盛は思った。

というのも、外部との連絡手段は限られてる。
この孤島にはインターネットや電話はなく、
定期的に訪れる連絡船が、唯一の外界との接点だ。

息子思いの親父殿が、
あえて外界から隔離されたこの島へ招待したのだが、
時代を変えれば島流しと呼ぶにふさわしい。

『太盛!! おまえはいつになったら長男の貫禄が宿るのだ!?』

父は、息子に以上に厳しかった。同時に過保護でもあった。

温厚な母とは対照的に、成人してからも息子を
公然と叱ることで近所でも有名だった。

『男児、所帯を持って初めて一人前の男として認められるものだ。
 長男としての自覚を持て。本土(シャバ)の世界へ戻るのは
  それからだ。島での生活でおまえ自身のことをよく知るがいい』

父は一代で財を成した資産家だったから、
彼のいうことは家では神の言葉に等しかった。

父の決めた大学に受かるために勉学に励み、
資格を取り、本を狂うように読み漁った。

父が息子をこの島で暮らせと命じた。
逆らう権利は息子には存在しない。

「わたくしの父は、太盛様のお父様にお金を借りていましたの」

愁(うれ)いを帯びた瞳のエリカ。
肩の上で切りそろえられた黒髪。

知性を帯びた黒い瞳とつやのある魅力的なくちびる。
肌は透き通るように白い。

彼女は岸に沈む夕日を見ていた。

「倒産しかけた会社が、太盛様のお父様の
  融資によって軌道を取り戻しました」

彼らの縁談は親同士の話し合いで決められた。
エリカの家は都会の名家だった。

幼いころから着物を着こなし、
休日家にいるときは常に着物だ。

この屋敷でも完璧な着物ルックで草履まで
履いてるのは彼女だけだ。

屋敷の使用人たちは、慣れない着付けに
最初のころはずいぶんと手間取ったものだ。

「はっ!?」

エリカの整った顔が引きつった。

それと同時に森中の鳥が一斉に飛び立つ。

鳥は、敵が一定距離内に近づくと逃げる傾向にある。
それはどの野生生物も同じだ。

鳥たちは身の危険を感じたのは、ある女が原因だった。
それを確認するまでもなく、男がつぶやく。

「やつだな」

「そのようです。この全身に鳥肌が立つほどの
  圧迫感は彼女しかありえませんわ」

エリカは、微笑した。

彼女の恐ろしさは身に染みてるが、
半年も生活を共にしているので扱いは心得てる。

「お、お帰りなさいませ」

玄関では、若いメイド(ユーリ)が恐縮してその女に頭を下げる。

「すまない。今日は帰りが遅くなった」

「あの、どこかで寄り道を?」

「あ? そんなこと、いちいち話す必要があるの?
  私が外で何してようと私の勝手じゃん」

「ひっ」

「あーごめん。別におどかすつもりはなかったんだ。
  それよりご飯の準備はできてるかな?
   おなか減ってるんだよね」

「は、はい。すぐに用意をいたします。
  それまでリビングでお待ちください」

「うむ。すみやかに頼むぞ」

エリカは本物のお嬢様なので物腰が柔らかい。

もったいぶるような動きで階段を下りていき、
一回の大広間を開ける。

部屋の中央を占領する大型ソファに腰かけ、
偉そうにホオズエをついてスマホをいじってる。

孤島なので電波は通っていない。
スマホのアプリでパズルゲームをしてるのだ。

腰まで届く長い黒髪を指でもてあそんでいる。
機嫌が悪い時の彼女のしぐさなのだ。

ちなみに彼女の普段着は軍服(朝鮮労働党だ)だ。

ジョウンを接待するような口調でエリカが話しかける。

「ジョウンさん。おかえりなさい」

「うん」

ジョウンとは女のあだ名だ。本名は男も含めて誰も知らない。

「今日もお外で狩りを?」

「うん」

「成果はいかがでしたか?」

「ぜーんぜんだめ。私が森の中に入ると、
  獣の気配がしなくなるんだもの。
  昨日なんて飢えた野犬に出会ったのよ?
  そしたらね......」

ジョウンはコップの水を飲みほし、荒々しくテーブルに置いた。

「目が合った瞬間に逃げちゃったんだ。
  もちろん私じゃなくて向こうがね」

それはそうでしょう、とエリカは思ったが。
ここはポーカーフェイス。

言葉にも表情にも出さなかった。

「まあ。それは臆病な犬だったのですね」

「エリカ。あたしはあんたのそういう
  気を使ってくれるところ、嫌いじゃないよ。
   でもはっきり言ってくれてもいいよ?」

「な、なにを言えばいいのですか?」

「私って怖いよね?」

「怖い......でしょうか」

「エリカ、おびえてるじゃん。
  声が震えてるよ?」

「最初のころは正直話しかけづらかったです。
  時間をかけてだんだんと打ち解けてきましたから、
   今は昔ほどではないですのよ?」

実はものすごく怖かった。

ジョウンが座っているだけで部屋全体の空気が悪くなる。
不安。焦り。緊張。全てが人に害を及ぼす。

エリカは勇気を出してジョウンと目を合わせ続けているが
やがて歯のかみ合わせが合わなくなり、ガタガタ音を立て始める。

使用人たちは必要以上にお辞儀をして
視線を合わさないようにする。

そうしないと恐怖で押しつぶされそうになるのだ。

「わたしね、野犬を見たとき怖かった。
  ほんとは死ぬかと思った。
  だって武器はナイフしか持ってなかったんだ。
   でも結果的にはさ、あっちのが何倍も怖かったんだろうね?」

「本能で勝てない相手と判断したのでしょうね」

「本能で勝てない相手か。これでも私、女なんだけどな」

「……気を悪くしたらごめんなさい。
  そんなつもりで言ったわけではありませんの」

「別に気にしてないよ。私と対等に話せる存在って
  エリカしかいないし。太盛って私の前だと
  オドオドしておっかしくてさぁ。
   かしこまりすぎると逆に失礼だってわからないのかな?」

「あの方は、礼節をわきまえた方ですから。
  年上のジョウンさんに気を使ってるんですのよ?」

「そんな必要ないのに。
  私はただの居候なんだよ?」

ジョウンがこの島に漂流したのは2か月前になる。

太盛が趣味の鳥探しをしに海岸に行ったところ、
ゴムボートが波打ち際に打ち付けられていた。

ボートから瀕死のジョウンを救助して島で療養させた。
1週間ほどして心と体の健康を取り戻したジョウン。

さっそく島から本土(日本の本州)に帰りたい旨を伝えるが、
定期的に訪れる連絡船が来ない限りは
帰れれないことを知らされ、絶望する。

太盛は遅れてリビングに入ってきた。

「ジョウンさん、もうすっかりお元気になられたようで」

「おかげさまでね」

太盛は恐怖のあまり顔が引きつらないように
意識していたが、無駄だった。

「ごめんね。私がいるとエリカとイチャイチャするのに
  邪魔だよね。本当は二人の邪魔をしたくないんだけどさ」

「なにをおっしゃいますの。ジョウンさんは
  わたくしにとって貴重な同性の話し相手ですわ」

花のようにほほえむエリカ。
愛想の良さは幼少のころからの母のしつけのよるものだ。

「そうだよ。僕とエリカは退屈で死にそうなんだ。
  なんど島を脱走しようかと思ったことか」


脱走すれば死ぬ。エリカと太盛にはそれがよく分かっていた。
本土との距離がどこまで離れているのか彼らには
知る由もなかったが、ここは長崎県にほど近い孤島だった。

舟や飛行機など気の利いた物はなく、イカダを作っても
風や潮の流れによって日本本土へは絶対に帰還できないと
考えられていた。また周辺海域にはサメやシャチなどが生息する。

領海侵犯した中国の漁船がやってきたことも一度や二度ではない。

漁船の話を聞いた時、ジョウンは船を襲撃して
食料を奪おうと密かに計画を練り始めた。

連絡船は、どういうわけか2か月も島を訪れていない。
島に残された食料その他の備蓄も、
そろそろ限界を迎えようとしていうのに。

(このままでは、飢え死にしてしまうわ。
  わたくし達だけではなく、使用人の方々まで)

エリカは何度も太盛に相談したが、対策は思い浮かばなかった。

電子メール、電話、ネットなどあらゆる連絡手段が
閉ざされた島での生活。

一度感じた不安は、やがて飢餓への恐怖へと発展していく。



さらに1ヵ月がたったある日。

食料を乗せた船は一度だけやってきた。真冬の2月下旬だ。
新鮮な魚や野菜、牛肉や豚肉、豊富な乳製品。

その日は使用人たちも椅子に座らせて盛大なパーティーをやった。

この島に住んでるのは、使用人を含めて7人。
誰もが生の喜びを感じあったものだ。



半年が過ぎた。船はほとんど来なくなった。

太盛たちは飢えに備えて
食料を自給する生活が始まる。

食べれそうな木の実を採ったり、川魚を釣るなどして、
自給自足の生活を始めるようになった。

冬の燃料の不足に備えて森で木こりまでやり始めた。
井戸も屋敷の周りに2か所掘ってみた。

それだけでは生きていくのに全然足りない。

メイドの一人が空いた土地で農業をしてみたらどうかと
提案したが、肥料や農機具がないため断念した。


いっぽう、ジョウンはカヌーを開発した。
大木を削り取って作ったものだ。

たまたま島の周辺にいた中国漁船を
襲撃しようとしたところ、
恐れをなした漁船は面舵いっぱいで離脱していった。

ジョウンは激しく舌打ちした。
ジョウンのプレッシャーは海上でも圧倒的だったのだ。


春を迎えて梅の花が咲き始めたころである。

エリカが告げた。

「わたくし、子供を身ごもりましたの」

「へえ、誰のだい?」

太盛はとぼけて見せたが、とっくに父親になる覚悟はできていた。

太盛は、食糧危機が訪れつつあるこの状態で
エリカが子供を身ごもることの危険性を十分に
承知していたが、今は父になる喜びのほうが大きかった。

その日の夜にエリカを抱き、
熱っぽい愛の言葉を交わしたものだった。


問題なのはその一月後に、ジョウンも懐妊したことだった。

エリカは茫然とし、鏡に映った自らの容姿とジョウンを比較した。

ジョウンのどこに女としての魅力があるのか。
ジョウンは太っている。

161センチのエリカより10センチ以上背が高いのだ。
太盛よりも大きいのでバランスが悪い。
一般的に男性は自分より背の高い女を好まない傾向にある。

顔も決して綺麗ではない。言い方を変えれば不細工である。

エリカは金持ちの社交界では有名な美人だ。
ジョウンは粗暴で、犯罪者らしい雰囲気さえかもしだしてる。


(なのに......太盛さんはどうしてジョウンなんかと......)

エリカは解せなかった。太盛の浮気がどうしても許せなかった。


動転したエリカは料理人が使う包丁を失敬して
太盛に迫ることにした。

深夜、太盛の寝室へと足を踏み入れ、深刻な顔でこう言った。

「包み隠さず事の真相を話してくれないのならば、
   いっそこの手であなたとわたくしを......」

「分かったよ。全部話す。話すから落ち着け!!」


事の由来は、ハルカという一人の女性のためだった。

ハルカとは、太盛が本土に残した恋人の名前だ。

ある日、エリカが何気なしに太盛の部屋を物色していたところ、
太盛がこっそり書いていた手紙を発見する。

まだこの島に着いたばかりの近況を書いた手紙。

ハルカは、会社勤めをしてた頃の太盛の恋人だった。
当時の太盛は22歳。大学を出たばかりだ。

ハルカは少し年上で28歳。結婚を焦っている時期の女で、
彼女はわざわざ6年も付き合った彼氏と別れ、太盛との交際を始めた。

エリカは激しく嫉妬した。

「太盛さま。わたくしたちは親同士が決めた婚約者ですの」

「うん。どうしてそんなことを聞くの?」

「婚約者に恋人がいたらおかしいと思いませんか?」

「恋人?」

「この手紙。失礼だと思いましたが、読ませていただきましたわ」

エリカが見せたのは太盛の書いた恥ずかしい手紙だった。
まだ君を愛してるとか、会えなくても心は一緒だとか、
無責任な言葉がつづられていた。

太盛は深呼吸して、脳をフル回転させる。
なんとかしてエリカを落ち着かせようと真剣な表情になった。

「それは……古い手紙さ。この島に移住して間もないころに
  書いたんだよ。昔の気持ちだ。今はエリカ以外の女性は
  考えられないと思ってるよ」

エリカは目を細めた。

「ならば、どうして?」

「え?」

「どうして……ハルカという言葉があなたの口から出てきますの?
  太盛様は気づいてらっしゃらないようですけど、
   寝言でたまにおっしゃっていますわ。
    ハルカ……ハルカ……さみしいよって」

「バカなっ、僕がそんなことを口にしてたなんて」

「わたくしは、太盛様の気持ちが分かりませんの。
  わたくしだけを見てくれるといったのは嘘だったのですか?」

「嘘じゃないよ。僕の婚約者はエリカだ。
  僕はこれからもずっとエリカのことだけを……」

それ以上言葉をつづけられなかったのは、
エリカから無言の圧力を感じたからだ。

今、エリカと太盛は、邪魔の入らない夫婦の寝室で
向かい合って話している。距離は一メートルも離れていない。

それなのに、まるで遠い場所からエリカに話しかけられてるように、
心がどんどん離れていくのを太盛は感じていた。

その感覚が底知れない恐怖となって太盛を襲っていた。

「メイドのユーリに色目を使っていたことも知っていますわ。
  先日、前髪を切りすぎて恥ずかしそうにしていた
  ユーリに、その髪型のほうが似合ってる、
  お姫様みたいで綺麗だねって褒めたそうですわね?
  
「ちょっとしたリップサービスじゃないか。
  そのくらいの誉め言葉ならイタリアなら日常茶飯事だ」

「ここは日本ですわよ?」

鋭い視線が太盛に突き刺さる。
それは質量をもっているかのようだった。

「太盛様が会社勤めをしていた頃も同僚の女性に
  積極的に声をかけていたとか。
  ハルカという女性もその中の一人だそうですね」

「く……よく知ってるじゃないか。
  親父殿がばらしてしまったのか」

「太盛様のうわさなら全て知っていますわ。
  男性の浮気性は治らないと言いますが、
  太盛様の場合はどうなのかしら」

「僕はエリカと結婚すればきっと変われるって自信がある」

エリカは、明らかに侮辱する目で太盛を見た。

直接的な表現で男性を軽蔑するべきではないと
母から教えられて育ったため、今回の尋問も
言葉には気を付けてるつもりだったが、表情までは隠せない。

「太盛様のお父様がこの島で愛をはぐくめといった理由、
  本当は分かってらっしゃるのでしょう?」

「もちろんだ。自分を見つめなおすという言葉の意味もね」

「そちらは分かっていないようですわね」

「え?」

「自分を見つめなおすという意味です。
  私たちが本土へ帰還を許されたら、
  太盛さんは会社勤めが始まります
  私の目の届かない場所で太盛さんが、
  仕事のストレスを理由にどんなことに身を染めるか……」

彼女は暗に浮気を疑っているのだった。
太盛も彼女の言いたいことは十分に察していた。

言葉に詰まった太盛は、話の途中で彼女を抱きしめて
全てをうやむやにしようとする。

耳元で愛の言葉でもささやけば
誤魔化せるだろうという甘い考えだ。

「うっ、なんだ。急に眠気が」

まぶたの重みに耐えきれず、エリカに寄りかかるように
倒れてしまった。エリカは彼の体重をしっかり支え、
器用にも懐中時計を袖の中から取り出した。

「うふふ。ちょうど薬が効いてきたようですわ。
  後藤の言っていたとおりね」

エリカは、睡眠薬で昏倒してる太盛の頬に
優しくキスをした。薬は後藤に命じて夕食に混ぜておいた。

手をたたいて廊下に待機させておいた使用人を呼び、
太盛を地下へ運ばせた。

地下には牢獄がある。この屋敷は、太盛の父の恐るべき
管理下に置かれているのだ。

全ての部屋に監視カメラや盗聴器が設置しており、
行動はすべて筒抜けになっている。

それらは極秘裏に設置したものであり、父が心を
許した友人である執事長の男性のみが知っている。


太盛の牢屋での生活は過酷だった。

床も天井も壁もコンクリートで囲まれた四角い空間。
鉄格子越しに見えるのは、薄暗い廊下の明かりだけ。

廊下は長く、どこまでも続いているように見える。

牢屋何には簡易トイレとベッドが用意されていて、
太盛は一日の大半をベッドで寝て過ごすことになる。
他にすることがないからだ。

太盛は、女好きを反省するためにここに収容された。


エリカは、彼と同居するうえで気に入らないことがあれば
牢屋に閉じ込めていいと、太盛の父から事前に許可を得ていた。

彼と婚約し、正しく結婚するためにあらゆる手段を
使って構わないことになっていたのだ。

牢屋の鍵はエリカが大事に保管してる。

エリカの許可が下りない限り、太盛は出られない。

この孤島での生活で、エリカは太盛のことが
本当に気に入っていた。
いつか彼の子供を身ごもることを夢見るほどに。

「あおーげばー、とおぉとしー、まだーみぬー」

獄中での太盛は、発狂しそうになる心を抑えるために
よく歌を歌った。中学の卒業式で歌った仰げば尊しである。

天井をにらみながら歌うと、かつての
クラスメイト達の顔が頭に浮かんだ。

(みんな、今頃どうしてるんだろか……。
  あの頃は本当に楽しかった)

他にも歌のレパートリーはあったはずだが、
今はこれしか出てこなかった。
ピアノの伴奏もなく、合掌してくれる仲間もいない。

ここでの生活は、気が狂う。

孤独がこれほどつらいと思ったことはなかった。

さみしくて。人恋しくて。冷たいコンクリートの感触が、
ますます彼の心を凍り付かせてしまって、舌を噛んで
自殺したくなることもあった。

ここでは、太陽の光さえ入らない。

風の音も聞こえない。

時間の流れさえ感じない。

(ちくしょう……なんで……こんなことに……)

震える拳を何度も壁にたたきつけるのだった。

床には熱い涙が何粒も落ちてくる。

彼は絶望と孤独にいつまでも耐えられる自信はなかった。


コツコツコツと人の歩く音が廊下から響いてくる。

うたた寝をしていた太盛は備え付けの
ベッドから半身を起こし、鉄格子越しに廊下を見る。


ユーリが昼食の配膳にやってきたのだ。

「太盛様。お食事の時間でございます」

「もうお昼になってたのか……。そういえば腹減ったな」

「では、食べ終えたころに回収に来ますので
  これで失礼いたします」

「待ってくれよ。エリカはどうなってる?
  エリカに会わせてくれ。あいつはいったい
  何が目的なんだ?」

「そういう質問に答えるわけにはいきません。
  エリカ様から命じられておりますので」

「ユーリさん、待ってくれ。少しでいいんだ。
  僕と話を……」

「午後も仕事がありますので、失礼いたします」

うやうやしくお辞儀をして背中を見せるユーリ。

規則正しい足音が廊下の奥へと消えていく。

悔しさのあまり、太盛は握りしめたこぶしで床を叩いた。

何度も何度も。手が擦り切れて血が出た。

赤い血を見て自分が生の人間なんだと気づかされる。
痛みを感じるのは、生きているからだ。

太盛はユーリの事務的な口調が気に入らなかった。

確かに彼女が職務に忠実でエリカに従わなければ
ならない立場なのは分かる。

しかし太盛もユーリにとって主人である。
今太盛の置かれてる状況を考えれば、
多少の同情心があってもいいはず。

この時のユーリはまだ19の娘だった。
生真面目な横顔に少女らしいあどけなさが残っている。

使用人の少女にも見放されたのかと思い、落胆した。


「人に会いたい……。誰でもいいんだ。僕と少しでいいから
  会話をしてくれ。そして抱きしめてくれ。
  こんなコンクリートに囲まれた生活……もう耐えられない」


太盛はここでは何もすることがなかった。

牢屋に入れられる前からそうだ。

この孤島で彼は無職だ。エリカも同様である。

婚約者の2人は勤めていた会社を強制的に休職扱いにされ、
長期旅行と称してこの孤島での生活を余儀なくされてる。

すべて太盛の父の計画だ。

父は、息子のふがいなさを見抜いており、
気楽なニート生活をさせるつもりはなかった。

(自分を見つめなおす良い機会とは、
  こういった苦痛をともなうことなのか……)

ここでの生活は、定期船が本土から運んでくる食料や
日用品を頼りにしてる。父の気まぐれでそれが絶えれば、
全員が飢え死にする可能性すらある。

脱走用の船もなく、外部と連絡する手段すら絶たれている。
この島は長崎県の行政区分に入ってはいるが、
実質的には父が作り上げた王国の一部である。

島には警察も裁判所もない。一種の無法地帯といえる。


何歳になっても父に逆らえず、また自立することもできない。

父の背中はあまりにも偉大であり、
太盛はどこまでも小さい存在だった。

「うわあああああああああああああああああ!!
   あああああああああああああああああああああああ!!
   出せよおおお!! 誰かここから出しくくれよおおお!!」

どれだけ騒いでも反応はない。

太盛は、声をあげて泣いた。


その日の夜。ユーリがエリカの部屋をノックした。

「入りなさい」

「はい。失礼します」

事務的な表情を崩さず、ユーリが入ってくる。

エリカはお風呂上りで髪を乾かしたばかりだった。

お気に入りの寝間着は普段着の和服とは違い、
庶民階級の女性が好みそうなファンシーなデザインだった。

エリカは市販のパジャマで寝たほうがリラックスできるのだ。

「あなたから話があるなんてめずらしいわね。
  仕事じゃなく個人的なことかしら?」

就寝前に飲むハーブティーのカップを口に運ぶ。
ハーブの香りが、緊張感の高まろうとしてる
部屋の空気をにわかにやらわげていた。

ユーリは質問に対し、ただうなずいた。

いつものメイド服をすきなく着こなし、
口は一文字に引き締めている。

「太盛様を地下室へ連行してから1週間がたちました。
  エリカ様は、いつまで太盛様をあの部屋に
   置かれるつもりなのですか?」

エリカの顔が一瞬だけムッとした。

ユーリが太盛に同情して彼を釈放するよう直談判を
しにきたと瞬時に悟ったからだ。

仕事のこと以外で口数が極端に少なく、本土でも友人らしい
友人のいなかった彼女が、意を決して話をしに来たというなら、
下手にあしらうのは逆効果だと感じた。

エリカはイスに深く腰掛けていった。

「たとえ話だけれど、あなた、見知らぬ他人からお金を
  貸してくれと言われてすぐに貸せる?」

「……それは、難しいです」

「同じことなのよ。人を信用するってことは本当に難しいことなの。
  わたくしはあの方を伴侶として迎え、生涯を誓い合うの。
   中予半端な覚悟で結婚されては困るのよ。お分かり?」

「それで、あのようなお仕置きをされているのですか」

「うふふ。お仕置きというより、調教になるのかしら?」

太盛の前では一度も見せたことのない残酷な笑み。

彼女は使用人の前でしかこうゆう顔はしないようにしてる。
ユーリは同性だから、余計に遠慮する必要がない。

「人の心は目に見えないけど、移ろいやすいものなの。
  日本国の平均離婚率の高さは大きな社会問題よ。
  うふふ。でもね、人の心をつなぎとめるには、
   簡単な方法があるのよ」

「それはどのような?」

「恐怖よ」

「は……?」

ユーリは動揺のあまり間の抜けた声を上げた。

最初は軽い遊び感覚で監禁をしたのだと思っていたが、
話がどんどん悪い方向へ運んでいる。

ユーリは、将来の夫を精神的肉体的に虐待してるという自覚はなく、
今回の監禁事件を将来の夫婦生活を送るうえで必要な儀式だと
考えてる。

「企業労働でも同じでしょう?
  上司や先輩に叱られるのが怖いから真面目に仕事する。
   逆にみんながのほほんとしていて、穏やかな職場だと
   規律が乱れる。軍隊や政治も同じね」

エリカがハーブティーに口をつけると、
さらに饒舌(じょうぜつ)になった。

「国の政治も同じことなのよ? 例えば、独裁政権がそうね。
  ソビエト連邦のような社会主義国では、広大な領土と
   多様な民族を支配するために恐怖政治をしいた。
    人民を恐怖で洗脳し、支配する」

「反政府主義者を強制収容所へ送ったりしていたわけですね。
  今の北朝鮮政府が同じ事をやっております」

「わたくしのお父様がお酒の席でよくおっしゃっていましたわ。
  わたくしの家系図をたどると、どういうわけか外国の
  血が入っているんだけど、人を信用するのは
  本当に難しいってことは、おじいさんの遺言。
  たとえばお金を貸すのだったら、
  それなりの保障や対価が必要でしょう?」

いつになく元気に話すエリカから、凶器を感じるユーリ。

エリカの透き通るような肌の白さの秘密は、
北方民族の血が入っているからだと察した。

エリカの家系は、北アジア(カフカース)に
住んでいたソ連系住民の移民だった。

彼女のおじいさんは、かつてソビエト連邦の内務人民委員部
に所属しており、秘密警察の管理を行う地位にいた。

主な仕事は国内の反政府主義者の摘発、拷問、収容所送り。

エリカのおじいさんは、やがて党内の権力闘争に
巻き込まれて自らも銃殺刑になる。

身寄りのなくなったエリカの父は、過酷なソ連での生活を
見限り、亡命目的で日本へやってきた。

おじいさんの残したわずかな遺産をもとに事業を
始め、一定の成功を収める。始めは小さな呉服店だったが、
今では大勢の従業員の生活を守る立場になっている。

父は、エリカの教育には力を入れた。

教育は投資。それが父の口癖だった。

成人するころには洗練されたお嬢様として
近所でも評判だった。大学内でも数多くの男性から
アプローチされては丁寧にあしらい、恋人を
作ったことは一度もなかった。

彼女にとって凡人の恋人などいらなかった。


「男女の関係も同じなのではないのかしら?
 私は太盛さんのことを気に入ってるの。
  彼を正しい方向へ導くのが妻としての私の役目。
  自由恋愛なんて民主主義的な考えで
  夫婦生活がうまくいくと思って?」

「しかしお嬢様。太盛様の気持ちはどうなるのでしょうか。
  監禁生活が続けば最悪、精神的なストレスから
  廃人同然と化してしまう可能性も」

「何か問題でもあるのかしら?」

「えっ?」

「それでいいのよ。彼には私しかいないって
  思わせるのが目的なのだから」

彼女が唯一執着した男が太盛だった。

始めは親同士の決めた、勝手な縁談。
しかしエリカにとってはそうではなかった。

気立てがよく、穏やかで西洋趣味も一致する
珍しい男性。外国語に堪能で、日本語の会話でさえ
身振り手振りをさせながら楽しそうに話す。

紳士的なのに子供っぽい一面もたくさん持っている。
エリカは彼の屈託ない微笑みを見るのが好きだった。

天然のジゴロでエリカの些細な変化に気づき、
褒めてくれる彼のことをどんどん意識するようになった。

彼女の脳内では、出産後の子供の教育方針まで
出来上がっていたから、彼の笑顔が他の女性に向くのは
どうしても許せなかったのだ。

監禁生活が10日を迎えた時の夜である。

序章 後半

鉄格子の先にエリカがいた。


「ごきげんよう。太盛様。夜分遅くに失礼いたします」

「エリカ……よくすずしい顔をしてここに来れたな。
  こんなことして何になる!? 監禁は立派な犯罪だ!!
   君は僕を虐待している自覚はあるのか?」

太盛は鉄格子を両手で握り、
エリカと鼻先が触れるほどの距離まで近づいた。

眼前で失跡しているのに、エリカに動揺は見られない。
まるで午後のティータイムを楽しんでいるかのごとく冷静だ。

「うふふ。お食事なら日に3回出しているではありませんか」

「そういう問題じゃないんだ。
  君に僕の自由を奪う権利があるのか!?
  いつここを出してくれるんだ!?
   目的を言ってくれ!!」

「目的だなんて……」

エリカが手で口を押えながらクスクスと笑っていた。

「ご自分で分かってらっしゃるのでしょう?
  すぐよその女に目移りする、いけない旦那様に
  制裁をしているんですの」

「今すぐ僕をここから出してくれ!!
  君との婚約は解消させてもらう!!」

「それは難しいですわ。なぜなら私たちの
  縁談はあなた様のお父様が強く望んだことだからです。
   お父様は目的のために手段を選ばない方なのではなくて?
    ご子息のあなた様が一番よく知っているのでは
    ないのですか?」

「親の顔色をうかがって生きるのが嫌なんだよ。
   僕は結婚相手すら自由に選べないのか」

「自由とは堕落の証拠ですわ。
  古風だと思われるでしょうが、決められた相手と
   結婚し、長く夫婦生活を営むのが一番幸せなのです」

「よく言うよ……」

太盛が目を細めるが、エリカは笑顔のままで動じない。

壁を相手に相撲をしてる気分だった。

冷静さを失った太盛は、つい口が滑ってしまった。

「君に比べたら、ユーリのように
  おとなしい女の子のほうがよっぽどましだ」

エリカの顔から笑みが消える。

琥珀(こはく)色の瞳には何の意思も宿っていないように見えるが、
太盛は経験からエリカの逆鱗(げきりん)に触れたのだと理解していた。

太盛は、ジョウンとは違うプレッシャーを感じ、
全身の血が凍りつく思いがした。

「まあ。まだそんなことを言う元気がありましたの。
  わたくしは太盛さんと楽しくお話をしてますのに、
  どうしてユーリさんのお名前が出てくるのでしょうね?」

太盛は、もうエリカと目を合わせることができない。
うつむき、エリカの怒りが収まることを祈るしかなかった。

「本当は明日にでも解放してあげようかと思っていましたけど、
  もう少し監禁日数を増やして差し上げますわ」

「ま……待ってくれ。お願いだ。考え直してくれ」

「うふふ」

「エリカぁ。頼むよ」

「うふふふふ。だーめ」

強力な電流が太盛の全身を襲う。

エリカが鉄格子越しにスタンガンを彼のお腹に当てていたのだ。

太盛は短くうねり声をあげたあと、
視野が暗転して死んだように床に倒れこんだ。


「しばらく反省してるといいんですわ。
  次は少しきつめのお仕置きをしてあげます」


それから食事量を減らされた監禁生活が始まった。

基本的に1日に1食。気まぐれ2食出してくれることもある。

メニューも栄養を考えた学校給食のようなメニューから
一転し、ごはん、みそ汁に漬物が少々と、極めて質素だ。

これに煮干しや焼き魚がつけば、ましなほうだった。


高級食材になれていた太盛にとって、十分な虐待となった。

エリカに言わせれば、太盛には婚約者としての
自額が足りないらしい。

父と離れて暮らしていても、結局父の分身のような
エリカが圧政をしき、弱者である人民は従うしかない。


思いつめた太盛は、いよいよ自殺の方法を考えるようになる。

涙はすでに枯れ果て、白髪の割合がどんどん増えていく。
配膳係のユーリは事務的な対応に徹底してるために
しゃべる間もなく、最後に会話らしい会話をしたのは
いつだろうと思った。

島で趣味のバードウオッチングをしていた日々を思い出す。
あの鳥たちを双眼鏡で観察できる日は2度と戻ってこないのか。

実家には厳格な父とは対照的に優しい母がいる。

幼少のころ、外に出かけるたびに
はしゃぐ太盛をやさしく見守っていた母。
子に甘く、愛情を惜しみなくそそいでくれた。

太盛は将来子供ができたら母のように子煩悩な
人間に成りたいと思っていた。

こんな生活では、幸せな結婚生活など望めるはずもない。

枯れてたはずの涙が頬に流れる。

腹の音が鳴た。

この年の男性にとって質素な食事は耐えきれるものではない。
何もすることがないと、おいしい食べ物のことばかり頭に浮かぶ。

ユーリは食器の乗ったトレイを牢屋の前に置き、
無言で去っていく。取りに来るときも一言も話さない。

太盛も、エリカに気を使うためにユーリとは
話さないようにしていた。牢屋の天井の一角に
監視カメラが設置してあるのだ。

白米を一瞬で食べてしまい、みそ汁も飲み干す。

腹が減っていると、つい早食いになってしまうのだ。

太盛はベッドに仰向けに寝て、
今日も変わらぬ天井を見上げる。

洗面所に用意されてる歯磨きセットを
使う気にもなれず、髪もぼさぼさ。

お風呂は3日に一度くらいの頻度で入れてくれるが、
護衛付きなので自由はない


太盛が地下で監禁されてる間に地上では変化が起きていた。

「島に侵入者ですって?」

「左様でございます。エリカお嬢様」

ここは大広間。ソファで偉そうに足を組むエリカのよこに
うやうやしく立っているのは、鈴原という執事長だ。

蝶ネクタイにタキシード姿の洗練された紳士である。
短い白髪を整髪料で固めた中肉中世の壮年男性だ。

仕事上の会話はもちろん、日常会話ですら
たんたんとした口調で話すのが特徴だった。

彼が使用人の中で最も地位が高い。


「ボートは未明にミウが発見したのね?」

「はい。早朝の定期監視の際、波打ち際に
  打ち付けられたゴムボートを見たそうです。
   モーター式のボートと思われます」


職務に忠実で、主君に使えることがわが名誉と
考える古風な人物だった。

太盛の父から信用を得ており、孤島全体の
管理を任されている。時と場合によっては
太盛への制裁を行うことも許可されてるほどだ。

言い方を変えれば、エリカと太盛という
若者たちにとって保護者代わりでもある。

「侵入者は森の中にでも潜んでいるのかしら?
  それともすでにこの館の中へ?」

「お館様が用意した監視システムは健在でございます。
  生身の人間がこの館に侵入するのは難しいかと」

監視システムとは、太盛の父が旧ソ連の内務人民委員の
友人から着想を得た、モスクワのクレムリンに実在した
侵入者迎撃用のシステムだった。

この島を買い取り、洋館まで立てるほどの財力を生かし、
領空侵犯した敵国の戦闘機すら迎撃できるほどの
システムが存在すると噂されていた。

エリカは、防犯対策に関してはすべて鈴原に
一任しているから、詳細は知らない。

「そうね。この館に部外者が侵入するのは不可能に近いわ。
  侵入者は森の中に潜んでいるのかしら」

この島は大きく二つに分けて平野部と山岳部に分かれてる。
山岳部には標高の低い山がいくつか並び、平野には森が広がる。

平野部のもっとも開けた場所に館があるのだ。
館は海岸からそれなりに離れている。

この島の、ちょうど中央部を占領する広大な森。
森の奥地に迷い込むと、帰り道が分からず迷うほどだ。

森の内部は日光がほとんど入らず、風の音、
鳥や小動物の鳴き声が響く野生の空間だ。

エリカは1人では絶対に森に入らないようにしていた。

「エリカお嬢様。ほとぼりが冷めるまでは
  外出を控えてくださいませ」

「ええ。もちろんよ。
 ミウとユーリはどうしているのかしら?」

「ミウには引き続き監視塔で警戒に当たらせています。
  ユーリに地下の武器庫から最低限の装備を
   取り出すよう指示を出しておきました」

「最低限の装備……か」

エリカの脳裏には、歩兵の標準装備並みの武器弾薬が
思い浮かんだ。ここの使用人の雇用の最低条件として
自動小銃や拳銃、ナイフの使い方を教えられているらしい。

いざというときは主人の盾となる。
文字通り命を張らなければならないのだ。

仕えるというのは、そういうことだった。

太盛の父が教えたことは、中世ヨーロッパの
主従関係に近いものがある。

こういったことから、太盛の父は欧州の文化や風習に
深く染まった人物なのだとエリカは思った。

自分の祖先との共通点が多いので親近感がわく。


「侵入者が来たせいでサボる暇もないよ。
  監視って神経使うからなぁ」

メイドのミウがぼやいた。

日本の誇る1流ブランドであるNikonの文字が刻まれた
大型双眼鏡と、高倍率の望遠鏡を使い分け、監視塔の
頂上から地上の変化を見守る。

ニコンの高解像度は桁が違った。望遠してるというより、
遠くの景色が眼前で巨大化したというほうが正しい。

監視カメラの映像とは違い、双眼鏡越しに
見える景色はどこまでも鮮明ですき渡っていた。

現に海上保安庁でも監視にニコンの双眼鏡が使われているのだ。


海上に新たな侵入者が現れる可能性もある。
侵入済みの不審者は森の中にいるのは間違いない。

沿岸部に人影はなく、たまに森の小鳥たちが
不自然に飛び立つ場面がみられる。

森の深い茂みの中までは確認できないが、
ある程度の見当はついた。

(いるね。おそらく森の小川が流れてる当たり。
  あそこには大きな岩場もあるし、大木のほとりで
   テントを張ったりできそう)

ミウの感は正しく、実際に侵入者は小川のあたりで
狩りの計画を練っていた。

メイド服のポケットから袋入りクッキーを取り出す。
監視業務の神経疲れで甘いものがほしくなるのだ。

クッキーは後藤に焼いてもらっている。
後藤は料理だけでなく菓子作りも超一流だった。

ミウの大好物は後藤徳性のチーズタルトだった。
あの生地の硬さと濃厚チーズのハーモニーを
思い出すだけでよだれが垂れてくる。

ミウは身長が150と小柄で、164もある長身のユーリと並ぶと、
デコボココンビと揶揄(やゆ)された。

年はユーリの2つ下でこの当時17歳だ。

長い髪を後ろでとめてアップにしてる。
外見は今どきの女性がメイドルックをしてるといった風だ。


「なるほど。あそこに侵入者はいるのだな?」

「へっ!?」


突然後ろから声をかけられ、食べかけのクッキーを
床へ放り投げるミウ。テーブルに置いていた
カチューシャを急いで頭に装着し、かしこまる。

「ジョ、ジョウン様。いらしてたのですか」

「うむ。島に侵入者ありとの報告をエリカから
  聞いたのでな。急いでここに駆けて来たのだよ」

堂々とした風格のジョウン。急いできたという割に
息が切れた様子はない。監視塔の頂上までは
長いらせん階段を登しかないのだが……。

肉厚の彼女が塔内を動くたびに
監視塔がぐらぐらと揺れるような錯覚すら感じる。

「私にもその双眼鏡で見せてくれ。犯人はどの辺りだ?」

「Over there.my majesty」(あの辺りでございます)

「ふっ。日本語で言いなよ」

ジョウンが大きな口をあけて笑う。

英国暮らしの長かったミウはとっさの場面で
英国式メイドの言葉が出てしまうのだった。

「そんなに私がいると緊張するのか。
  クッキーも捨てることなかったのに。
   食べ物を粗末にするものではないぞ?」

「はっ。申し訳ありません。ジョウンさま」

規則に厳しいエリカと違い、ジョウンはメイドが
仕事中に飲食をしていても叱ったりはしなかった。

そもそもジョウンは居候であり、エリカの友人と
いうことになってる。ジョウンに直接メイドたちに
指示する権利は本来ない。

それでも主人の友人という設定だから
使用人たちがかしこまるのは当然でもある。

エリカ同様に使用人たちもジョウンの風貌と
言動にビビりまくっているのだが、
どういうわけかジョウンはメイドたちは優しかった。

「ミウ。あの侵入者は単独犯で間違いない。
  おそらく金目当ての泥棒か、珍獣ハンターといったところだろう」

「はい」

「私がやつを狩ってくる。君はここで様子を眺めていくれ」

「ジョ、ジョウン様。
  まさかおひとりで行かれるおつもりですか?」

「生身の人間なら大したことないさ。
  それに太盛とエリカにはこの屋敷に住ませてくれたた恩がある。
   こういう時こそ私の出番だろう?」

自信満々に笑うジョウン。不細工だった。
彼女の戦闘力なら全く問題なさそうだとミウは判断。

深々と頭を下げる。

「お……お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「心配するな。私は森にピクニックに行く程度の軽い気持ちだから。
   帰ってきたら後藤にパーティー料理でも
   用意させような? おまえももちろん一緒に飲もう」

「はっ。もったいないお言葉でございます」

「ドンと うぉーりぃ。アんど グッどらっく」

ジョウンは下手くそな英語でそう言い、
窓から降下していった。
(監視塔の高さはマンションの4階に相当する)

自殺したわけではない。

パラシュート用のランドセルを背負っており、
ジョウンが一定高度まで落下するとパラシュートが開き、
庭に下り立った。

そのあとは虎を連想させる速さで森内を疾走。
進路を邪魔をする樹木や茂みをもろともせず、
土煙を上げながら目的地の小川(森の中心部)へと迫る。


「まるで森でダンプカーが爆走してるみたい……」


ミウはキャンディーを舐めながらそう言った。


さて。視点を侵入者に移す。

侵入者の名前はシンヤノモリといった。

漢字になおすと深夜の森である。

彼が森で登場する人物だからではない。
彼の母が、ある人気バンドメンバーの名前をもじって
シンヤノモリにしたのだ。

本人はこのおかしな名前をずっと不満に思っていた。


「イタチやヒグマのような生き物はいるようだが、
  俺の目当ての鹿はなかなか出てこないな」

彼は鹿ハンターだった。長崎県の沖合の島に
珍しい鹿がいると聞いてこの島にたどり着いた。

船上からそびえ立つ不自然な塔(監視塔)が見えたが、さっさと
狩りをしてから逃げるつもりだったので気にしてなかった

今日も夜明けごろ、餌を食べてる鹿を狙っていたのだ。


「む? なんだこの足音は?」

シンヤノモリが地響きがするほどの足音を警戒し、
大木の根元に伏せる。vixen の名を冠する双眼鏡で
あたりを警戒すると、いた。

熊とも人間とも思えない女が、全力疾走する姿が。

女はジョウンだった。

まっすぐにシンヤノモリを目指してやってくる。

瞬時に勝てないと判断したシンヤノモリは、波打ち際の
ボートを目指して疾走するが、距離はだんだんと縮まっていく。

「おいおい、嘘だろあの女。
  どうして森の中であんなに早く走れんだよ。
   ……ちくしょおおおおお!!」

まるで警察のパトカーに追われる犯罪者の気分。

シンヤノモリは足元に落ちていた太い枝でつまずいて倒れた。

急いで起き上がると、目の前には仁王立ちしたジョウンがいた。

「う……うああぁ……」

その迫力たるや、ハンパではなかった。

野生の獣でも出せないと思われる、圧倒的な殺気。

脂肪と筋肉に覆われた肉体は、どんな銃弾さえも
跳ね返してしまいそうだ。そして足に自信のあった
シンヤノモリを一瞬で追い詰めた俊敏さ。

スピードとパワーは、熊やライオンと同等かと思われた。
(実はもっと強い)

「許して……ください……命だけは……」

シンヤノモリは、手のひらを地面につき、服従の証とした。
ボロボロと涙を流し、ジョウンの靴の裏を舐めてでも
助かりたいと思った。


(へえ。結構いい男じゃん)

ジョウンは無言で立っており、圧力を加えていたが、
心の中ではシンヤノモリを悪く思ってなかった。

シンヤノモリの外見は、分かりやすく言うと
ゴールデンボンバーのボーカルが狩人になったと
いったところだ。

細い顔にクセのかかった長めの髪の毛が、彼の目元を隠している。
普段館でみる紳士ぶっている太盛とは違った魅力があった。

学生時代から男にモテたことのないジョウン(当時25歳)は、
容姿の整ったシンヤノモリに惹かれてしまった。

この未開の地では人間との出会いは貴重なのである。

どうせ侵入者なので屋敷に連れて行ったら
エリカに尋問と称される拷問されるのは確実だ。


そのことをシンヤノモリに伝えると、彼の表情が凍り付く。
狩りを生業にしてる以上、自然環境の厳しさ、残酷さは
身に染みていたが、地下で監禁拷問される恐ろしさは桁が違う。

「助けてください。二度とこの島を訪れないと誓います。
 いっそ狩りも今日で終わりにします」

「それが、私も困ってるんだよね。あんたを連れて帰ると
  約束しちまった以上、ここで帰すわけにも
  いかないし、エリカは侵入者をいたぶりたくて
   しょうがないみたいだし」

腕組するジョウンはこの男に対し、珍しく慈悲の心を
もっていた。狩りの対象が動物ではなく人(しかも男)
だったということが大きい。

十字架をふところから取り出し、神に祈りを続ける男に対し、
ジョウンは一つの判決を繰り出した。


「あんた、しばらく私のおもちゃになりな。
  私が満足したら無事返してあげる」 

「は……? それはどういう意味ですか」


固まるシンヤノモリに覆いかぶさるジョウン。
器用にもシンヤノモリの服を脱がしていく。

「うわああああ!?」

叫ぶシンヤノモリ。
口の中に丸めたハンカチを入れられて黙らせる。

男に飢えていたジョウンはなんとこの状態で
逆レイプを始めるのだった。

エリカいわく、ソ連の収容所では女性監視員から
囚人逆へのレイプは頻繁に行われていたらしい。

そんなソ連での過酷な事情を聞いていたために、
なんと孤島でソ連式虐待を実行してしまうジョウン。

戦闘力で圧倒的に劣るシンヤノモリはまだ現実が
受け入れられず、手足をめちゃくちゃに振り回して抵抗する。

ジョウンに耳元で、逆らえばエリカの命令で
地下監禁されると言う。彼は絶望のあまり抵抗を諦めた。


それから1時間後、屋敷へ帰ってきたジョウン。

大広間で待っていたエリカに報告する。

「侵入者は若い男だった。悪いね。
  あまりにも抵抗するものだから逃がしちまった」

「……そうですの。ジョウンさんから逃げれるとは
  中々のツワモノですわね」

「奴の正体は鹿ハンターだよ。
  証拠として奴が残していった備品を渡すね」

テーブルの上に彼の身分証明書、猟銃、双眼鏡、
コンパス、地図、メモ帳、携帯用テント、
サバイバルベストなどの衣服まで置かれていく。

「まあ、所持品がこんなに手に入るなんて
  魔法のようです。彼は着るものさえ置いて
   逃げたのでしょうか?」

エリカは猟銃を慎重に手に取り、
装填されてる弾薬を確認していた。

「ほとんど新品の銃ですわ。サバイバルに必要な
 道具をこれほど揃えていたとは、手練れですね」

「奴は私にビビッて所持品を全て捨てて帰ってしまったのさ」

「いっそボートも置いて行ってくれれば良かったものを」

「……はは。まったくさね」

エリカは、ジョウンの返答のぎこちなさと
視線の動きから嘘を見抜いていた。

ソ連のスターリンはかつてこう言った。

恐怖と暴力以外に人を従える方法はない。
また、恐怖は信用にまさる。

スターリンは部下の報告を聞く際、
必ず細かい質問をいくつかする

5秒以内に返答しない者、目をそらして
返答する者にスパイ容疑をかけて粛清したことがある。

するどい洞察力を持つエリカでも、
さすがに逆レイプのことまで察することは
できなかったものの、ジョウンが秘密裏にボートなど
脱走する手立てを手に入れたものとして警戒した。

この島に住んでいる以上、ジョウンもエリカと運命共同体だ。

特に定期船が来ないなどの理由で食糧事情に困った場合、
ジョウンの森での狩りは貴重な栄養源だ。

勝手に脱走されては困るため、翌日、エリカはメイド2人を
連れて海岸や入り江に舟がないか探し回ることにした。


それが、ジョウンにとって好機となった。


ジョウンはエリカたちが外出してる間に
地下監禁室へ足を運ぶ。


「おーい、起きろぉ。外はもう昼前だぞ」

「うーーん……ユーリの声じゃない?
  そこにいるのは誰だ?」

時間の感覚がなく、日中は寝ていた太盛。

眠い目をこすりながらジョウンの巨体を確認していく。


「太盛よぉ。ずいぶんやつれちまったじゃないか。
  頬がこけて頭は白髪だらけだぞ。
  おまえをここから出してやろうか?」

「……そんなことしてもエリカにすぐ捕まって逆戻りだよ」

「エリカは屋敷の外を散歩してるんだ。海岸のほうだから
  ここから結構距離がある。今ならばれないぞ」

「ここから出て、どうするんだよ?
  ここは孤島だぞ。逃げ場でもあるのか?」

「モーターエンジンで動くゴムボートの都合がついてね。
  今なら脱走するのに時間はかからないぞ。
  私もこの島での生活は飽き飽きしていたんだ」

ちなみに、シンヤノモリにはお手製のカヌーと
木でできたオールを渡し、気合で本土まで帰れと言って見送った。

彼がその後、どうなったかは誰にもわからない。

「どうやってボートを手に入れたのかはあえて聞かないよ。
  逃がしてくれるっていうなら賛成だ」

太盛の瞳に強い意志が宿る。廃人だった彼が、
夢にまで見た外の世界に出れるのだ。

ジョウンのことは苦手だけど
仲間としてうまくやっていく決心もついた。

ジョウンはうなずいた後、剛腕で鉄格子を破壊した。
素手で鉄の檻を破壊したのである。

確かに普通の人間なら物理的に不可能な行為だが、
ジョウンなら朝飯前だ。

牢屋に入るなり、ジョウンは恐るべき条件を出してきた。

「逃がしてやるお代として、あんたの身体をもらう」

「は……?」

シンヤノモリで味を占めたジョウンは、
巨体で覆いかぶさる。

またしても逆レイプを始めてしまったのだ。

ジョウンが太盛の子を妊娠するのはこのためなのだが、
生まれてくる子供がシンヤノモリの子か、
太盛の子なの子はそのあともはっきりしていない。


ジョウンは男にモテない生物のため、
こうすることでしか子孫を残すことができないのだ。

行為が終わり、服を着たところで
エリカ一行が都合よく探索から帰ってきてしまった。

鉄格子が壊された牢屋の中で気絶してる太盛を見て絶句する。

ジョウンは、レイプに夢中でエリカとメイド達が
帰ってくるまでに脱走することを忘れていたのだ。間抜けである。


「これはいったいどういうことですの!?
  わたくしの許可なく勝手に地下に
   入ることは許しませんわ!!」

あのジョウンでさえ、エリカのヒステリーにひるんでいた。
ばつが悪そうに視線を下げ、黙ってエリカの叱責に耐えている。

「太盛さんは、わたくしの未来の夫になる人です!!
  わたくしの管理下に置かなければいけないのです!!
  これは彼の父上殿からも任されていることなのですよ!?」

「すまないエリカ。
  ちょっと彼がかわいそうかなっって思っちゃって」

「かわいそうですって……?
 お仕置きに情けは無用ですわ。
  早いうちに徹底的に教育してあげないといけないんですの。
  彼にはよい父親となるべく、自覚を持っていただけなければ。
   子供ができてからでは遅いんですのよ!?」

「う、うむ。そうだな。
  浮気相の男はよく飼いならさないといけないな。
   これからは女性が家庭をリードする時代だ」

「太盛様は、このわたくしの。わたくしの夫になるんですの!!
  彼はわたくしが導いてあげますの!!
   他の誰でもない!! このわたくしが!!」

「ああ……」

泣きそうになるジョウン。

エリカは右手を自らの胸に置き、感情たっぷりに訴える。
まるでオペラ歌手のように派手なジェスチャーを交えながら。

ジョウンは、もはや白人女性に説教されてる気分になった。

エリカはもっと大声が出したくて
後半は英語が出てしまった。

「Did you bllody understand it!? haa!?」
(理解されましたの!?)

「……え!?」

「Ahh...excuse me,madam.
i'm afraid you are speaking english now」

(あのー、奥様、英語が出てますけど)

「shut up you'r bllody mouth!! miu!!
i am talking to joun!!」

(黙りなさいミウ!! 今ジョウンと話してるんですの!!)

その後、無限に続くような説教の間、
ジョウンはエリカの機嫌取りに終始した。

逆レイプのことは、ばれてなさそうなのでほっとしていた。

普段は優しい語り口調のエリカが声を荒げることは
めったにない。本気で怒ったエリカの声はカン高く、
威圧的で耳障りだった。

英語の凄まじい大音量と迫力にジョウンは漏らしそうになった。

ジョウンがアイムソーリー、ヒゲソーリー、
アベソーリーなどと言って茶化すと、エリカはさらに切れた。

エリカの後ろに立っているユーリとミウは、
エリカから放たれる鬼のような殺気にふるえながら
時間が過ぎるのを待っていた。

しばらく説教したあと、
落ち着きを取り戻したエリカがミウに命じる。

「太盛さんを私の部屋にお連れして」

「はっ、よろしいのですか?」

「檻が壊れれた以上は仕方ありません。
  監禁はもう十分にしたわ。
  今度は別の方法で太盛様を管理する」

「手錠や足枷(あしかせ)を用意しましょうか?」

「必要ないわ。私の部屋のベッドで寝かせておいて
  ちょうだい。彼の世話は私がする」

「かしこまりました」

ミウとユーリがタンカを用意し、彼を運び出そうと
するが、さすがに成人男性なので重い。

太盛は167センチと男性にしては小柄なほうだが、
気絶してる人間を運ぶのは骨が折れる。

「私に任せな」

ジョウンが彼を肩に担いで運ぶことにした。

その勇ましさにエリカ達は関心てしまう。



ベッドで目を覚ました太盛は、見知らぬ天井を見ていた。

牢屋ではなく文明的な部屋の明かりの中にいた。
半分開かれたカーテンから陽光が漏れる。

日が沈む時間帯だった。開けっ放しの窓から
入ってくる生暖かい風が太盛のさらさらの髪を撫でた。

(俺の髪がさらさら!?)

近くにあった姿見で確認すると、太盛は監禁される前と
同じ服を着ていてることに気づいた。
痩せ細っていたはずの顔も元通り、白髪も生えていなかった。

「これは本当に俺なのか?
  それにエリカの部屋じゃないのかここは?
   いったい何が起きたのかさっぱり……」

「……さま」

「え」

「……太盛様」

「エリカ……?」

「お昼寝から目覚めたのですね?」

今まで気づかなかったが、部屋の長椅子に腰かけ、
編み物をしていたエリカが立ち上がって声をかけていた。

何度も名前を呼ばれていたのに、意識がそちらへ
いかなかったために気づくのが遅れたのだ。

「寝起きだから喉が渇いたでしょう?
  紅茶でもお飲みになります?」

慈愛に満ち溢れた瞳。監禁した時の冷徹な
エリカとは、まるで別人のようだった。

「僕を出してくれたのか。
  いったいどんな気まぐれなんだ?」

「なんのことでしょうか?」

「とぼけるのか? 僕を監禁してただろうが」

「ですから、なんの話をしておりますの?」

長い沈黙が訪れる。

太盛は、エリカが知らぬふりをしてる理由が読めなかった。
なにより凄惨なお仕置きをしておいて、まるで
罪の意識がなさそうなことに腹が立った。

いっそエリカの顔にビンタでも食らわそうとすら
思うが、怒りよりも恐怖のほうが勝り断念する。

本来は自分専用の使用人であった鈴原、ユーリ、ミウの
3人がエリカの支配下に置かれてるのは間違いない。

名義上、この館の支配者は太盛の父だが、
裏で支配してるのはエリカだった。


沈黙を続ける太盛が引きつった顔をしてるのに対して、
エリカは花のような笑顔を向けてる。

エリカにとって、あのお仕置きは幼児を軽くしかる程度の
軽妙なものであり、酷いことをしたという自覚は全くない。

太盛を愛するという気持ちに微塵の変化すらなかった。

「太盛様ぁ。おびえていますの?」

エリカの手が彼のほほにやさしく振れた瞬間、
太盛の全身をふるえが襲った。

太盛は、生理的にエリカのことを恐れた。

ジョウンの放つ分かりやすい圧力や殺気とは違う、
心の内に秘められた本物の狂気を目の当たりにしたからだ。

「太盛様のそんな顔も素敵ですわ。
 うふふ。わたくし、たまに太盛様のことを
  さん付でよんでるのはご存知?」

「……ああ。気づいてるよ」

「太盛様はどっちで読んでもらうのがお好きですか?」

「好きなほうで呼べばいいじゃないか。
  僕たちは夫婦になるんだから、いずれ
   ダーリンとかあなたという呼び方に変わるかもよ」

少しエリカに気を使った言い方をすると、
エリカはさらにうれしそうな顔をして
太盛に体重をあずけてきた。

よく手入れされたお嬢様の髪が目の前にある。
リンスの香りが、太盛の尾行をくすぐった。

見た目だけなら、エリカは相当に美しい。

彼女の本性を知らない頃だったら
遠慮なく抱いてしまったことだろう。

「太盛様もお腹がすきませんか?
  今日は精のつくものを後藤に
   用意させておりますの」

「良いね。一緒に食堂まで行こうか」


エリカと肩を並べて長い廊下を歩く。

何気なしに太盛が手を伸ばすと、
エリカは嬉々として手をつないでくれた。

細くて長い指。手のひらは冷たかった。

「わたくし達、もうすぐ恋人から夫婦になりますの。
  ずっと一緒にいたら手をつないだくらいで
  こんな初心な気持ちになったりしないですわね」

「ああ。そうかもね」

「太盛様と一緒ならどこにいたって天国ですわ」

「僕も同じだよ。僕にはエリカしかいないんだから。
  エリカさえいてくれたら他には何もいらない」

「うふふ。お上手なんだから。素直な太盛さんは大好きですわ」

その横顔に愉悦の笑みがあるのを太盛は見逃さなかった。

(エリカは監禁の効果があったと思っているのだろうが…。
  誰がこんな女のことを好きになるものか)

太盛はエリカを赤の他人としか思っていなかった。
虐待と監禁の記憶を簡単に消せるわけがない。
愛の言葉も口から出まかせだ。

横幅のある中央階段を、太盛がエスコートして降りていく。
太盛に手を預けて降りるエリカの優雅さは、映画のワンシーンのようだった。

その時だけは恨みの感情を忘れ、エリカの姿に見惚れてしまう。

「太盛様は優しいですわ」

「当然さ」

男性だから麗しい女性に惹かれるのは当たり前なのだが、
そんな自分がたまらなく嫌だった。


「前菜をご用意いたします」

今日はミルが食事を運んでくれた。

花の刺繍がされたテーブルクロスの上に置かれたのは、
白ワインの入ったグラスと、イタリアンサラダの盛り合わせ。

そこのあるサラダには厚みがあり、サラダの下に
パスタや細切れのウインナー、クラッカーなどが入ってる。

見た目はサラダの盛り合わせだが、
計算されて食材が入れられており、、
上から順に食べていくと様々な味が堪能できる。

「乾杯♪」

エリカと二人きりの食事である。

主人らの食事中はメイドのミウが
壁際に立っている決まりのなのだが、
空気を読んで厨房へと消えていった。


(ワインの味は……こんなにも染みるものだったのか。
  一口飲んだだけで酔いが回りそうだ……)

太盛は、何週間ぶりかに普段通りの食事ができたことに
涙を流しそうになった。

濃厚なブドウの香りが脳を焼き尽くしてしまいそうだった。
暗い地下での記憶がかすれていくのを感じる。

「いつもより食が進みますの」

「僕も同じだよ。ついがっついてしまいそうだ」

エリカの前で監禁時代の話はタブーだ。
彼女の考えは読めないが、太盛に日常を返してくれたのだ。
下手に刺激してもメリットはない。

大好きな白ワインをたしなみ、上機嫌になったエリカ。

ワインを口にするたびに、どんどん饒舌(饒舌)になっていった。


「明日は晴れの予報らしいですわ。
 太盛さんがよろしければ、海岸でピクニックでも
  しませんか? 天気の良い日の海の眺めは最高ですの」

「それはいいね。海にはカモメもたくさんいそうだし。
  大自然の中で食べるものは何でもおいしく感じるよね」

「わたくしは太盛様と一緒にいられるなら、
  どこにいても天国ですわ」

「僕も一緒だよ。僕はエリカのことを愛してるからね」

「まあ。嬉しいですわ」

エリカは、太盛の空になったグラスにワインを注いでくれる。

「もっと言ってくださいな」

「え?」

「わたくしのことを愛してるって」

「……愛してるよ。僕はエリカのことが好きだ」

「うふふ。うふふふ」

「うれしそうだなエリカ」

「それはもう。こんなに楽しい夜は久しぶりですわ」

白い肌が朱色に染まりポーっとした目で太盛を見つめるエリカ。


エリカにとって太盛の気持ちなどそこまで重要はなかった。
彼女は太盛が本心から愛を口にしてないのは良くわかってる。
ただ、夫婦になるという形がほしいのだ。

若い時の気持ちなど、いつかは冷めて消えてしまう。
彼女が求める永続する愛の形とはなにか。

それは強制する力だった。彼を縛っておく鎖が必要だった。
彼がエリカを恐れ、機嫌を取るようになるのも
監禁があったため。エリカにとって監禁は十分に意味があったのだ。

一方で太盛はすきあらば島から脱走しようと
策をめぐらす日々になる。いっそエリカを殺してでも
かまわないと思うほどには恨んでいた。

くやしくみじめだった日々を、
今はお酒の力を借りてすべてを忘れることにした。



「太盛様。準備はできてますわ」

入浴後の深夜、エリカは色っぽい声でそう言った。

それは、男を迎え入れる準備ができてるということだった。

エリカと一緒に寝るのはこれが初めてではない。

監禁後に肌を重ねあうのは新鮮で、
太盛は初めてエリカという女性を知った気がした。

美しいエリカの肌を見た瞬間、太盛の男性としての
本能が活発になる。残酷な過去すら乗り越えて
しまえるほど、太盛の身体を突き動かした。

エリカは、それはもう激しく太盛を求めるようになった。
いきり立った太盛に奥まで突かれるたびに、
激しく身をもだえ、女の声をあげるのだった。

その次の日も同じことが続いた。

次の週も。

子孫を残すという本能的要求のために、
エリカの部屋では夜のたびに行為が行われるのだった。


「愛してますわ」

「ああ。俺もだよ」


それは、一方的な愛にすぎなかったかもしれない。

とにかくエリカは無事に子供を身ごもるのことに成功した。

身ごもったのは、皮肉なことにジョウンの子と
ほぼ同時期だったこと。

その後、2人の奥さんの間で大喧嘩になり、激論が交わさた。

最後は父から届いた一通の手紙により、
子供全員を養育することを命じられた太盛。

子育てに必要な資金は全て父が出してくれることになった。


こうして物語は冒頭のシーンへと戻る

「レナとカリン」

9月の彼岸を迎える頃だった。

台風が接近するたびにもろに被害を受けるという、
孤島生活最大のデメリットがある。

幸運なことに屋敷には軽妙な被害しか出なかった。

暴風に備えて窓や扉を補強したり、
盛り土をして雨水の侵入を防いだりと、
台風に備えてやることはたくさんあった。

快適なリゾート地は住むうえで苦労が多いが、
孤島生活を10年以上もしてる彼らにとってこれが日常だった。

「うちの食事って毎日西洋料理じゃん。
 もう飽きちゃったよ。
 たまにハンバーガーが食べたいな」

「そうね……。テレビでしか見たことないから
  どんな味がするの気になるわ」

能天気なレーナの声に答える、双子の妹のカリン。

普段はパパとママも一緒に食卓に座るのだが、
今日は用事があったので子供たちだけで食べてる。

マリンは低血圧で朝に弱いので9時以降までまず起きない。

現在の時刻は朝7時。この屋敷では子供たちは
7時ちょうどに食堂で食べるようエリカに躾けられていた。

食事前に顔を洗う、パジャマを着替えるなどの
身支度が出来てないと叱られる。

レーナは朝食のサラダ皿に盛りつけられたミニトマトを
手でつかみ、大きな口を開けて放り込むと、

「レナお嬢様。お行儀がよろしくないかと」

壁際に立つ鈴原からツッコミが入る。

「はーい。わーってるよ」

レナはつまらなそうに足を椅子の上でぶらぶらさせる。

「エリカ奥様に見つかったらなんと言われることか。
  レナ様にはもう少し淑女としての自覚を
   持っていただかなければ……」

「んもおお。いちいちうるさいなぁ。
  鈴原がいるとご飯がまずくなるじゃなぁい」

歌うように話すレナ。

いちおう怒っているのだが、のんびりとしゃべるので
そんなふうには見えなかった。いわゆる幼児声なのだ。

「バカレナ。あんたがママの言いつけを守らないと
  私まで叱られるんだからね」

「ああー。カリンがまたバカって言ったぁ。
  バカっていうほうがバカなんだもん!!」

「世の中はレナの思った通りにならないの。
  カリンたちはもう小学3年なんだから、
   もう少し大人になったらどう?」

「むぅ。その言い方、ママみたいでむかつくぅ」

双子がナイフとフォークをテーブルに置いて
口喧嘩を始めてしまったので、あきれた鈴原が咳払いをする。

「お嬢様方。お食事が覚めてしまいますよ?」
  今日の午前中は英語のレッスンがありますから。
   時間に遅れないようにお願いします」

「あー、今日は英会話の日か」

カリンが溜息をつくと、レナも賛同する。

「ほんとめんどくさーい、英語なんて
  しゃべれなくても生きていけるもん」

「語学は淑女のたしなみの一つでございます。
  華道や茶道と同じく習っておいて損はありませんよ?
   お二人の将来のために」

「はいはい……。鈴原はお母さまということが
  全部いっしょなんだもの。耳にタコができたわ」

食事後、メイドのミウが家庭教師になって英語を教える。


場所は双子の子供部屋だ。子供部屋といっても
大きな屋敷の一室なので相当な広さがある。


「What would you like for todays' dinear?
  pretty little girls?」
 (今夜の夕飯に何が食べたいですか?)

ミウの英語だ。彼女は英国暮らしが長かったので
流暢なイングランド英語を話す。

ロンドン下町英語といわれるコックニーなまりだ。

「I want hamburger」(ハンバーガーだよ)

レナが舌足らずの声で答える。
幼少から英才教育をされていただけあり、発音はかなり本格的だ。

ミウは双子の姉妹専用のお付きであり、教育係だ。
気さくで人当たりの良い彼女の性格がエリカに気に入られたためだ。

英会話のレッスンは、基本的に一問一答形式。

レッスンの最初は先生から質問を始める。

「Hanberger?  
maybe it's a plaice name of german? humburg?」

 (ハンバーガーですって? それはドイツの地名の
   ハンブルグのことをおっしゃってる?)

「no」(違うわ)

とカリンが答える。カリンもレナと同じく英国アクセントで話す。

「We want hamburger. because we've never
tried that before. we wacht it in only tv」

(私たちが食べたいのはハンバーガーよ。
  テレビで見るけど口にしたことないもの)

(Ladys.you don't know that,
fast foods will be good friend for you.
if you would be fat women like american.
you mast be lady. so you should eat europian foods
like you'r mother. that's all we want)

(ハンバーガーのようなファストフードは太りやすくなるし、
  体にもよくありませんわ。淑女のお二人は
   お母さまのように欧州の食事をたしなむべきですわ)

少し説教臭い言い方だが、鼻の上に刺さるような甲高いアクセントには
威厳を感じさせる。ゆったりと身振り手振りを加え、
しっかりとお嬢たちの目を見て話すあたりに本場英国の香りがした。


「それでも食べたいの!!」

「レナ様。レッスン中は日本語は慎んでくださいませ」

「英語で話してると頭がかゆくなってきてうざいんだもん。
  レナたち日本人なんだから日本語で話したほうが楽だよ」

「うふふ。お嬢様はご存じないでしょうけど、
  本土では英語の話せる人はすごく貴重だと思われるんですよ?
  お嬢様ほどしゃべれる人はそうそういないと思われますよ?」

「別に話せたってうれしくないけどね。
  私たちはパパとママが英語に堪能だったから
  話せるようになっただけだし」

カリンがふてくされた顔で言った。

「パパのアメリカ英語は、なんていうか音が濁ってて
 田舎っぽい。ママの言う通りイギリスのが綺麗」

「カリン様。地域差で言葉を差別してはいけませんよ?
  お父様がよくおっしゃってるでしょう?
  人の違いは個性なのだと」

太盛は大学時代に独学で英語を学んだ。

ただ英語を学ぶだけではなく、その背景にある文化も学んだ。

西洋文明の根幹をなすキリスト教を知り、
音楽や絵画、彫刻、さらに政治や歴史について学ぶ。

その学習の果てに、卒業するころには
フランス革命をきっかりに生まれた近代民主主義の原点が、
『思想の異なる人が自由に生きていける社会』と認識していた。

「それならさ」

とカリンが言う。

「私たちにもケンタッキーフライドチキンを食べたり、
  ピザーラの出前とかとっていいのかな?
  これも私たちの自由なんでしょ?」

「う……」

思わず言葉に詰まるミウ。

困った顔でカチューシャの乗ってる頭をかく。

カリンはこうやって話の矛盾を突くのが得意だった。
9歳にしては聡明でエリカ寄りの
頭脳をもっていると言われていた。

英会話の基礎文法も、英国ドラマと映画で
だいたい把握してしまったほどだ。

つまり母親似の子供なのだ。

それに引き換え、レナの能天気さは誰に似たのか
さっぱり分からなかった。

「あとね。レナ達はディズニーランドってとこに
  行ってみたぁい」

「そうね。それに大阪のユニバーサルスタジオにも
  行ってみたいわ。素敵なアトラクションが
   たくさんあるそうじゃない」

「日本本土には楽しい遊び場がたくさんあるんだよ。
  デパ地下で買い物とか」

「アイドルグループのライブとか行ってみたいわね。
  テレビで見るよりずっと臨場感があるんでしょう?」

姉妹のそんな会話を聞いて、ミウは哀れみで涙が出そうだった。

生まれてからずっとこの孤島で生活してる娘たちは、
島以外の世界を知らないのだ。

こんな田舎の島にマックやケンタッキーがあるわけがない。

ちなみに離島なのでピザーラの出前も取れない。
アマゾンの配達は別料金を取られるし、
荷物が届くのに最短で一週間かかる。

他の配達業者はもっとだ。

英国育ちのミウは何度もディズニーに何度も行っている。
本場合衆国へ旅行に行った時も必ず立ち寄っていた。

東京都心も観光と買い物目的で何度か訪れた。
ピーク時の満員電車のすさまじさはロンドンの地下鉄ですら
あり得ないほどだったのをよく覚えてる。

地下鉄迷宮のような新宿駅や渋谷駅での乗り換えにはうんざり。
それ以来、人込み恐怖症になった。

USJは混雑が半端ではないと聞いてるので一度も訪れてない。


「はいはい。気をとりなして授業を続けますよ。
 あんまり話が脱線してるとエリカ奥様に怒られちゃいますから」

授業と言ってもただ英語で日常会話をしてるだけなのだが、
これが外国語にとって非常に重要であり、
自分が思ったことを口にしなければ訓練にならないのだ。


「Teacher. may i ask you something?」(先生。質問してもよろしくて?)

「Go ahead. lady karin」 (どうぞ。カリンお嬢様)

「Now i and rena are 9 age. but we still live in this island.
i'm always wandering how do feel like? if we go to
a primary school. could you tell me about you'r
story in you'r school life in japan?」

(カリントレナは9歳になるのにまだ孤島暮らしをしてるでしょ?
   学校生活をしたことがないから、どんなものか気になるの。
    あなたの日本での学校生活を語ってくださる?)

「in japan...my lady...?」(日本の、でございますか……)


ふと目を閉じて浮かぶのは、中学3年時代の思い出。
ミウがイングランドから日本に来たのは中学3年の6月だった。

「uhh it was rainy days every day...
whem i was only...15 years old.
wow it's japanese calls tuyu」

(15歳のころ……あれは毎日が雨の日でした。
  ああ……日本では梅雨の時期って言いますよね)

先生が話し始めると、双子の姉妹は真剣な顔で聴き始めた。
自分らにとって未知の世界を語ってくれる先生の話は、
たとえ英語で話されても大好きだった。
 
「I was a lonly girl in my class. because...
i...i was a stranger.i came from england.
i spoke english perfect...and...」

(私はクラスでは……孤立してましたね。なぜかって、
  私は英国帰りで完璧に英語を話したから、
   目立ってたんですよね……それで……)

おしゃべりなミウにしてはめずらしく言いよどむ。

「Go on please?」(続けて?) とカリンがせかす。

ミウは難しい顔をしていたが、
やがて決心がついたので語り始める。

「There was a bull in my class」(クラスでいじめがあったんですね)

「Really? it's not story in tv drama?」
  (ほんとー? いじめってドラマの世界だけじゃないのね?)

「Shre.That is a true story.lady karin」
   (ホントの話ですよ。レナ様)


ミウは英国で生まれ育った。
父がロンドンの金融会社に勤めていたからだ。

ミウは生粋の日系人で、白人の血は一切入っていない。
両親が日本人のため、英語と日本語のバイリンガル
(2か国語話者)なのである。

英国は国民投票によってのEU離脱を決定し、
英国に進出していた各国の企業が撤退を開始することになる。

これは金融業にとって致命的な打撃になった。
EU離脱は、共通通貨であるユーロからの離脱を意味したからである。

そのあおりを受け、ミウの父は日本での暮らしを望み、
神奈川支社で務めることになった。

ミウは横浜にあるごく普通の市立中学に通った。


「ミウ、お願い。ここから先は日本語で話して。
 レナたちはミウの過去を真剣に聞きたいの」

ミウは「分かりました」と言い、ゆっくりと語り始めた。


「中学生ってすごく多感な時期だと思うんですけど、
  日本人の女子って無駄に結束感が強いというか、
   なんでも平等じゃないと気が済まないって気持ちがあるんですよね」

さらに続ける。

「私が英語を話すだけでも嫉妬されることは結構あしました。
  日本って国際データによると実は第2言語が英語と
   なっていますから、てっきり誰もが英語を話せるものだと
   勘違いしてました。転校したての頃にいろんな生徒に
   英語であいさつしてたらすっごく浮いちゃいました」

「あらそうなの? 本当に日本人って英語を話せないのね」

カリンが目を丸くして言った。

「英語の授業で教科書をスラスラ音読したら
   先生からはすっごく褒められて男子からは羨望の目で
   見られましたよ。女子たちからはそうでもなかったですけど」

「ふーん。帰国子女はそんな風にみられるのね。
  それにミウは綺麗だから余計に目立ちそうね」

「お世辞でもうれしいですよカリン様?」

「お世辞じゃないって……」

「ミウは誰かと付き合ったりとかしなかったの?
  中学にはかっこいい人もいたんでしょ?」とレナ。

「まあいましたねぇ。サッカー部やバスケ部の人とか。
  いわゆる日本系のイケメンってやつですか。
   付き合った人は……1人だけいたかな」

「その人とは続いたの? デートとかは?」

とカリンが身を乗り出して聞くと、ミウは

「それが……すぐ分かれちゃいました」

と言って顔を伏せた。思い出したくないことだったのだ。

サッカー部員で女子から大人気だった男子に告白され、
何気なしに付き合ったまではよかったのだが、
しょせんは日本人気質の男でレディファーストの文化がない。

欧州的な、洗練された男性を好むミウにとって日本人的な、
本音を直接言わずとも察しろという文化が気に入らなかった。

もっと言葉ではっきりとアプローチしてくれる男性が好みだった。


「日本の人ってどうして初めてのデートの時に手をつないで
  くれないんでしょうね。電話をしても愛してる(love)って
  言葉をくれないし。町を歩くときに車道側に男性が
   立たないし。扉を開けてお先にどうぞってしてくれる人も
   めったに見ませんよね?」

「そうなのかしら? お父様と鈴原たちは
  カリン達にもやってくれるじゃない」

「鈴原は執事だから当然ですけど、太盛様は特別ですねぇ。
  欧州人の考えをよく理解している方だから、
   女性を立てる考えが身に染みてるんでしょうね。
    あそこまで気が利く男性って、日本ではまずいませんよ」

「パパってそんなに気が利くのぉ?」

「レナ様は普段から優しくされてるから気が付ないんですよ。
  ほら。食堂で座るときに太盛様が椅子を引いてくれるところとか」

「え? そういうのって当たり前なんじゃないの?」

「まさか」

とミウが言う。

「話すときは常に笑顔、視線を泳がせない。
  これは相手に不信感を与えないための
  国際コミュニケーションの基本です。
   太盛様はきちんと守っていますよ」

「へえ」と感心する双子。

「残念ながら、私は日本の学校では浮いた存在だったんですよね。
  英国から来た目立ちたがり屋女とか、男に色目を使ってるとか
   言いたい放題陰口を言われてましたね。
   しかも私が振った男子の1人が、校内かなりの人気者だったみたいで。
    彼のファンの子たちからしつように嫌がらせを受けました……」

ミウが話し続ける。

「女子の目立つグループを敵にまわしちゃったせいで
  体育の時間とか誰もコンビを組んでくれないんですよね。
   バレーボールとか。好きな人とチームを組んで
    練習しないといけないのに。話しかけても無視とか
     聞こえないふりをされました」

「陰険ねぇ。そういうことする奴らってバカみたい。
  死ねばいいのに……」

いまわしそうにカリンが吐き捨てる。

「あと嫌だったのは国語の時間ですね。
  日本語は話せるんですけど、読み書きが全然できないから
   授業についていけなかったんです。男子は味方だったんですけど、
    女子たちは漢字に無知な私をバカにしてきました。
    なにせ小学生レベルの漢字さえ勉強してやっと分かる
     レベルでしたから」

「外国育ちのミウに漢字は難しいに決まってるじゃん。
  ミウだって好きで英国で生まれたわけじゃないのに、
   その女たち、お父様が良く言う差別主義者だねー」

「そう。まさにレナ様の言う通りなんです。
  日本人って閉鎖的なんですよね。
  同じ島国でも中東やアフリカ、東欧など、幅広い
  国から移民が集まるイングランドとは全然違います。
   どうして外国人に対して寛容(かんよう)になれないんでしょうね」

「お父様がよく言ってたわね。寛容の精神こそ外国人との
  付き合いの第一歩だって。違いとは優劣ではなく、
   個性の違いだと考えなさいって」

カリンが神妙な顔で言った。


「友達は、よく選ばないといけませんよ?
  私だって女子全員が敵だったわけではありません。
   中には優しくしてくれる子たちもいました」

「いい人もやっぱりいるのね」とカリン。

「もちろんいますよ。悪い人ばっかりだったら
 世の中うまく回りませんからね。ただ、女社会は本当に疲れます。
  料理係の後藤も帝国ホテル時代はそうとう
  人間関係に悩まされたそうですよ? もっとも
  彼の場合は男同士の意地の張り合いだったらしいですけど」


実際に後藤のような大ベテランのシェフでも対人トラブルを
理由に退職に追い込まれる人は少なくない。

特に若者では3人に1人が人間関係を理由に辞めていくという。
同僚、上司、先輩、後輩。社会では胃が痛くなるほど
我慢をしなくてはならない場面がたくさんある。

近年、うつ病は日本人の国民病と呼ばれてるほどだ。


カリンが質問する。

「ミウの高校時代はどうだったの? 
  やっぱり中学と同じでつまらなかったの?」

「もともと漢字が読めないせいで日本の勉強は
  すっごくつまらなかったんですよ。
   文化にもなじめなかったし、途中で辞めちゃいました」

「途中っていつ?」

「高校2年の夏でしたね。パパから猛反対されたけど
  就職先を探して、この島の使用人になりました」


その時の求人案内にはこう書かれていた。

『急募。長崎県の離島での使用人(メイド)
  高収入。好待遇。衣食住完備(豪邸)
   主な職務内容は下記の連絡先まで。
   年齢、学歴不問。外国語が話せる方、留学経験がある方尚可』


「ご党首様と面接した時はそれはもう緊張しましたよ。
   心臓が止まるんじゃないかってくらいに。ご党首様の
    威厳というか迫力にのまれましたね。
     あの御父上のご子息が温厚な太盛様なのですから不思議なものです」

カリンがさらに聞く。

「面接ではどんなことを聞かれたの」

「最初は英語で質問されたので普通に答えていきました。
  生まれとか育ちとか、両親のこととか。
   あと何か国語話せるか聞かれたので、
   フランス語も少し話せると言ったら喜んでました」

それに加えて党首とはキリスト教徒という点でも一致した。
教派は違うものの、同じ神を信仰している以上、根底にあるものは同じだ。

「ええっ。ミウはフランス語も話せるのぉ?
  かっこいいね!!」

「そんなに褒められたものではないですよ、レナ様。
 英国の中学ではだいたいどこもフランス語を学びますからね。
  私にできるのは旅行会話程度です」

「それでも私たちからすれば憧れるわ。
  なによりロンドンに住んでたこと自体がすごいわ。
   ミウは面倒見がよくて優しいし、おじいさまに
    気に入られたのがよくわかるわ」

「うふふ。ここは素直にお褒めの言葉を
 受け取っておきますね、カリン様」

カリンは父に似て素直に人を褒めることができる女の子だった。
日本だったら歯の浮くセリフと言われるだろうが、
カリンにとってはごく自然のことだ。

「あっ。もうこんな時間だね」

レナが時計を指した。

「まあほんとですわね。そろそろ授業を終わりにしましょう」

「はーい」

「それとレナ様、カリン様。先ほどのハンバーガーの件ですが、
  それに近いものならお出しできるかもしれませんよ?」

「ほんとう!?」


翌日の昼である。

ミウが料理人の後藤に頼んでハンバーガーの
ようなサンドイッチを作ってもらった。

「これがハンバーガーなんだぁ。生まれて初めて生でみたぁ!!」

スコットランドから輸入した丸皿に置かれたハンバーガー。
それを見て目を輝かせるレナ。他方、カリンは冷めていた。

「よく見てみないさいよ。テレビCMで見たのと
  ずいぶん違くない? パンが丸くないし、肉に
  ずいぶん厚みがあるわ。マックのはもっと薄っぺらいでしょ」

それもそのはず、パンはフランスパンの生地だった。
もっちりとした触感でいかにもファストフードっぽく
しているが、そもそも生地が高級すぎる。

それに挟まれてる肉も、なんと高級和牛だった。
牛肉の一番良い部位を切り取っており、
焦げ目がつくほど焼いていてこおばしい香りが漂う。

他にも千切りのレタス、トマトはいいとして、
肉の臭みを消すためにオリーブと黒糖まで入ってる。

こういうアクセントのつけ方がいかにもフランス流だった。

そもそもハンバーガーは普通、高級皿の上に置かれてない。
ようするに品がありすぎるのだ。

本物に似てるのは、ぱっと見の外見だけである。
(しいて言えばモスバーガーに近い)

「……すごく美味しい。なんていうか、優しい味。
  でも、ほんとにこういう味なのかしら?
   ケチャップの味が強いとか、独特の匂いがするって
   お父様がおっしゃっていましたけど」

「美味しければなんでもいーじゃん」

いぶかしむカリンと能天気なレーナ。

レナはパクパクと食べて口の周りを汚していくが、
カリンは、一口ずつ慎重に食べては首をかしげている。

「レナ様。お口を吹いてくださいませ」

ウエットティッシュを差し出すミウ。

「ありがとー。ミウはほんとに気が利くんだからぁ」

「うふふ。これもお仕事ですからね」

「ねえミウ。このハンバーガーは本場の味と比べて
 どうなの? あなたも少し味わってちょうだい」

とカリンに言われる
本来なら使用人が主人たちのご飯を口にしてはいけないのだが、
カリンがしつこいので仕方なくほおばる。

(う……うますぎる……。
 こりゃ、貴族階級が食べるサンドイッチといったところね。
  まずお肉の質が良い。食べたあとにお肉の風味が残るのは
   高級牛肉の証拠……。おそらく国産のいいのを仕入れたわね。
   それにオリーブと豆がパン生地と絶妙に合わさってる……。
    かなり計算されて作ってあるわね……さすが後藤)

総合すると、世界一美味しいハンバーガー(自称)と
いったところだったが、本当のハンバーガーが実は
安っぽくて100円程度の味しかしないとは言えない。

あれほどハンバーガー(庶民食)にあこがれて
目を輝かせていた姉妹に対してミウは苦し紛れにこう言った。

「まっ、かなり本物に近い味なんじゃないですかね?
  私が昔食べたのもこんな感じでしたよ」

「そーなんだぁ。ほんとはコーラもあるといんだけどねぇ」

純粋なレナは言葉を額面通りに受け取る。

コーラは低俗だからとママが許可してくれなかったので
フルーツジュースを飲んでいる。もちろん果汁100パーセントだ。

絶品ハンバーガーをまじまじと見つめてるミウを
カリンがいぶかしむ。

「ミウ。あんたペテン師みたいな顔してるわ。
  もしかして私たちに気を使ってる?」

「そんなことありませんって!!
  あぁ懐かしい味だなぁ。
  私もあとで後藤さんに作ってもらおうかな!!」

まさにレナリ姉妹は、皇室の息女並みの箱入り娘たちなのであった。

のちに、話を聞いたエリカと太盛が後藤特製の
ハンバーガーもどきを食べ、激しく感動した。


2人は、「貴族向け高級ジャンクフード」

    「おそらくマリー・アントワネットでも満足するレベル」

と称したという。

のちにこの料理は屋敷の正式なメニューに加わった。

「メイドのユーリ」 A

「太盛様。そろそろ起きてください」

「ん……もう朝なのか」


時刻は朝の5時半。太盛の起床時間にユーリが起こしに来てくれる。
太盛は眠い目をこすりながら身体を起こす。

「着替えはここに置いておきます」

「ありがとう」

ユーリ丁寧に畳まれた衣服をベッド前の椅子に置いた。
太盛お気に入りのクッション性の高い椅子だ。
底にキャスターがついていて、ゴロゴロ転がすことができる。

秋の深まるこの時期、外では木枯らしが吹き、
庭の芝に枯葉が舞う。日の出の時刻もすっかり遅くなってきた。

「先に玄関の前で待っています」

「僕も準備ができたらすぐ行くよ」

最低限の身支度を済ませ、玄関へ急ぐ太盛。

2人は島の森林を散歩するのが日課となっていた。

森は、庭の巨大な門を抜けて少し歩いたところにある。
島の内陸部は一帯が森となっていて、
そのほかは山岳部と海岸に分かれている。

ほとんど人の手が入っていない大自然なのだ。

森の入り口に着いた。

太盛は冬物のジーンズにアウターを着ている。
幼いころから喉が弱いのでネックウォーマーもしている。
少し季節を先取りした服装だが、晩秋ともなると朝は冷える。

「すっかり火の出る時刻が遅くなってきたな。
  この時間は風が肌寒く感じるよ」

「はい。ついこの間まで暑いと思っていたのに……。
  季節が過ぎるのは早いものです」

ユーリは仕事服であるメイド服だった。
冬服なので生地が厚めになっている。

中世の英国で使われていたものと同様のデザイン。
いわゆるエプロンスカートにカチューシャの格好だ。

都会のメイド喫茶でみられるメイドとの違いは、
しぐさ、態度、言動などが洗練されたプロであるということ。

使用人としてお金をもらう立場は楽ではない。
時間で帰れる労働者と違い、住み込みの仕事なのだ。
覚えるべきことはたくさんあるし、主人たちの生活に合わせた
行動を心掛けなければならない

「毎朝散歩に付き合わせてしまってすまないね。
  朝は仕事がたくさんあるだろう? 掃除とか」

「6時すぎには屋敷に戻れますから、
  そんなに負担ではないです。
   それに、こうして歩くのも私にとっては楽しいです。
   大自然の空気の中にいると心が落ち着きますわ」

「気休めで言ってくれているんだろうけど、
  僕は君のそういう優しいところは好きだよ」

気を利かせた言い方をする太盛にクスクスと笑うユーリ。

「気休めではありませんわ。
  散歩は本土にいるときから好きでしたから」

ユーリの声はたんたんとしているが、澄んだ音色をしていた。
太盛は彼女の話声が好きで、
一流奏者の木管楽器の演奏を聴いている気分だった。

彼女の顔は、屋敷で子供たちの相手や
クセの強い奥様方の相手をしているときの鉄仮面を
かぶったメイドではなく、自然体だった。

(ユーリのこういう顔を知っているのは、
  使用人のほかでは俺くらいなんだろうな)

太盛は肺にいい空気をいっぱいに吸いながら、
木漏れ日の道を歩く。早朝の森林は、絵画の世界が
目の前に広がっているかのごとく神秘的だった。

「森の中はどうしてこんなに落ち着くんだろうね?
 鳥の大合唱とか小川のせせらぎとか。
  それとこの独特のいい香りがするよね」

「太盛様は、アロマセラピー効果をご存知ですか?」

「アロマセラピー?」

不思議そうに聞き返す太盛に、ユーリはくすくす笑いながら返す。

「太盛様がおっしゃった独特の香りの正体が、フィトンチッドと
  呼ばれているものです。この森林から発せられている
  フィトンンチッドの匂いが、人の精神を落ち着かせるといいます」

「なるほど。ユーリは物知りだね」

2人は開けた遊歩道を歩いている。
太盛の親父殿が散歩用に作ってくれた一本道である。
歩道の両側は深い樹木でおおわれていて、その先に
どんな生物が潜んでいるか分かったものではない。

「ま、どこにいても襲われるときは襲われるんだけどね」

「はい。ですが、森林は身を隠せる場所が多いので
  姿を見せる動物はあまりいません。草原などと
   違って群れを成して行動する生き物も少ないのです」

「動物たちは樹木の中に隠れちゃうんだろうね」

「特にこれから寒くなる時期ですから、余計にですわ。
  暖かい時期なら生態系の宝庫と呼ばれる森林部は
   生態観察を趣味とされている太盛様にはベストな
    場所でございますね」

「君は実に自然に詳しいね。まっ、詳しいのは自然だけじゃないけど。
  まるで自然学者の先生と一緒に歩いているみたいだよ」

「ありがとうございます」

「君をマリンの教育係に任命した僕の目に狂いはないようだ」

「まあ、それは褒めすぎですわ」

使用人は主人の後ろを歩く。それが決まりだ。

早朝なら人目がないので遠慮なく隣を歩いていいと
太盛は言うが、ユーリは聞き入れない。
メイドとしての仕事にプライドを持っているユーリは
ささいな規則やぶりでさえ嫌う性格だった。

ユーリにとってのアイデンティティは、
主人である太盛に尽くすことだった。


太盛が早朝の散歩を好むのは、趣味のバードウオッチングを
するためだ。一人で森に入るのは危険のため、同伴者が必要だ。
それは館のルールで決められているのだ。

それにしても、日の出時刻の散歩である。

妻のエリカとジョウンは鳥に興味がないし、
レナとカリンはまだ寝ている。太盛お気に入りの
マリンは低血圧なので昼前に起きることがよくある。


「この辺りでいったん止まろう」


目印になる大木から、少し離れた茂みのあたりで待機。
大木に寄って来る鳥を観察するためだ。

太盛は片手に持っていた三脚を組み立て、しっかりと固定する。
三脚の上に大きめの口径の双眼鏡(ニコン製)を設置した。
双眼鏡の光景が大きいほど、薄暗い場所で視界が明るくなるのだ。

早朝の木漏れ日にはこの双眼鏡が合うと決めていた。

これを定観観察といって、決められた場所で
やってくる鳥を待ち伏せするのだ。

言葉でいうほど簡単なことではない。

鳥が食べる餌の種類、行動のクセ、季節や時刻など
正確に把握してないと目当ての鳥には巡り合えない。

耳を澄ませて、鳥の気配を探る。

早朝の森は、まさに鳥の鳴き声のオーケストラだ。

どの野生生物も薄暗い時間帯にエサを探し求める。
暗闇だと外敵に襲われる心配が少ないからだ。

食べている最中は、どの生き物も無防備なのである。

「あの木。たくさん木の実がついているのが分かりますか?」

「あぁ。あのぶつぶつみたいなのがたくさん幹についているね」

「あれをギランイヌビワの身と言います。イチジクのような身でして
  鳥たちが食べに来る可能性が高いかと」

と言っていると、さっそく一羽がやってきた。
小鳥が木の幹に止まり、くちばしで実をつつく。
せわしなく木の周りを移動し続け、幹から幹へと飛び移っていく。

熟れた実を食すのに夢中の鳥は、太盛が双眼鏡でのぞいているのに
気づいていても逃げようとしない。枝に生えた緑色の葉が
うまい具合に鳥の姿を隠しているのだが、そこは太盛も手慣れたもので
小刻みに動き続けて隠れようとする鳥をしっかりとらえていた。

「ユーリも観てくれ」

「はい」

三脚に固定した双眼鏡をユーリに魅せて種類を問うた。

「ムクドリに似ていますけど……亜種でしょうか。
  木の幹に溶け込むような自然色をしています」

「やっぱりユーリでもわからないか。
  えーっと……ちょっと調べてみるか」

太盛はポケット野鳥の図鑑をだして種類を特定しようとするが、
鳥は食事を終えて、いずこかへ飛び立ってしまう。

無数の鳥の鳴き声はどこからでも聞こえる。
しかし、背の高い樹木は多くの葉に覆われており、
鳥たちの姿を視認するのは非常に困難だ。


「太盛様。そろそろ6時前です。
  お屋敷に戻られたほうがよろしいかと」

「ああ。分かったよ」

双眼鏡をリュックにしまう。大型なので首からかけると疲れるのだ。
三脚の足を畳むとリュックと一緒に地面に置いてしまう。

「その前に、ユーリ。こっちに来てくれ」

「はい」

おもむろにユーリの肩を抱き寄せて口づけをした。

ユーリは抵抗しない。

貞操観念とか、倫理観とか、色々なものが狂っていた。

太盛には奥さんが2人いるのに、メイドに手を出している。
人からクソ野郎と罵倒されてもおかしくない。人気の全くない
早朝の森林の奥でこんなことをしているのは卑怯者の行動といえた。

しかし太盛は、婚約中にエリカにされた監禁虐待への
恨みの感情から、暴走する気持ちを抑えることができなかった。
まるで恋人のように早朝散歩(一種のデート)に付き合ってくれる
ユーリを異性として求めるようになってしまった。


「ユーリ。目は閉じたままにしてくれ」

「はい……」

盛り上がった太盛が、むさぼるようにユーリの口の中を堪能した。
軽いキスではなく、舌まで入れていた。

絡み合う舌と交わる唾液の音が、
朝の新鮮な空気の中で怪しく響いていた。

2人は恋人ではない。あくまで主人と使用人の関係の
延長線上として、こういう行為があった。

「君が一番きれいだ。ユーリ」

「ありがとうございます。でも……
  太盛様はきっと……他の女性にも
  同じことを言っているのでしょう?」

微笑。そして皮肉交じりの言葉。

太盛はユーリのだらりと垂れた両手を、
それぞれの手で正面から握ってもう一度顔を近づけた。

「んん……」

彼に情熱的に迫られると、ユーリもついその気になってしまう。
雪のように白い肌が真っ赤に染まっていた。

キスをしたのは今日が初めてではない。


「ユーリ。俺はお前のことが好きだ」


ユーリは答えない。

立場上、その言葉に返事をすることは禁じられていた。

太盛は気持ちが高ぶると平気で女性に
愛の言葉を吐く男性だと知っているのだが、
面と向かって言われると女性としてはうれしかった。

(うれしくないわけがないと、
  本当は口にして言ってしまいたいのに……)

エリカにばれた場合は極刑に処される恐れがある。
最悪、地下での拷問もあり得るだろう。

子供ができてからエリカはすっかり教育ママになってしまい、
学習用の教材が本土から届くたびに厳しく先生役を
やるようになった。

出来は良いが、憎まれ口を叩くカリンとやる気のないレナの
相手にやがて疲れてしまい、先生役を放棄した。

ある日を境に教育役をメイド2人に任せるようになった。

レナとカリンにはミウ。マリンはユーリをあてた。

「そろそろ屋敷へ帰ろうか」

「はい。太盛様」

ユーリは常に主人の後ろを歩く。それが使用人の務めだ、

2人はキス以上のことはしていない。

太盛は、メイド服越しに見えるユーリの胸の
ふくらみになんども手を出しそうになったが、
理性がギリギリのところで制御をしていた。

屋敷の中ではみんなの監視の目があるので論外。
そんなことをする時間もない。

だから、太盛は早朝の鳥観察と称して散歩をしている。

実際に鳥が一番よく見られる時間は夜明け前と日没後なのである


「最近化粧を変えたのか? 前と違って明るい印象になったな」

「エリカ奥様が化粧品を貸してくださったので試しているのです」

「そうか。よく似合っているよ。
  君はどんなファッションをしても最高に輝いているからな。
   その髪型も素敵だ」

「ふふ。太盛様からお褒めの言葉をいただくのも
 これで何度目でしょうね?」

「何度でも言ってやるさ。君が飽きるまでね」

風がユーリの茶色い髪を撫でていく。

ユーリはおしゃれが好きで、日によって髪をカールにしたり、
地毛のストレートにしたりしている。

長身でメイド服のスカート越しでも腰の高さが分かる。
手足の長さはモデルが歩いているようだ。
主人の後ろをゆっくりと歩く姿は優雅であった。

ユーリは国立大学を出ている秀才のため、
博識で太盛の質問にはなんでも答えてくれる。
その知性が歩き方にも出ていた。

ユーリは読書家で、ジャンルを問わず色々な書籍を読んでいた。
この屋敷の採用基準である外国語に関しては、
英語、フランス語、スペイン語に堪能だった。
留学経験はカナダのケベック。フランス語を第二言語としている地域だった。

大学時代に履修した中国語も少し話すことができる。

「マリンはすっかり英語がペラペラになったな。
  外国に留学できるレベルだそうじゃないか。
  フランス語のレベルはどうかな?」

「初級文法を理解されておりますから、言葉は
 すらすら出てきます。発音の強制に一番苦労されておりますね」

「あぁ、つい英語風に発音しちゃうんだろう?」

「リズムとイントネーションが英語風ですと
  フランス語に聞こえませんからね。
   それでもあのお年ですばらしく外国語に堪能ですわ。
   ご息女は素晴らしい才能をお持ちですよ。
    お父様によく似て」

「あはは。ユーリも口がうまいね」


ユーリと手をつなぎたくなって手を伸ばすと、
今はだめですと断られる。

ユーリの美しさはエリカでも目を見張るものがあった。

29になっても美しさに陰りは全く見えず、
大人の色気を増していくばかりだ。

妙齢の、こんな美しい女性が森でなく人でにぎわう
都会の街を歩いていたら、どれだけ多くの男が
振り返るだろうと太盛は思っていた。

不思議ななことにユーリには結婚願望はなかった。

彼女はできるなら一生金持ちの家に仕えて、
仕事のためだけに生きたいと思っていた。

結婚とか、永遠の男女の愛とか、
そういったまやかしを彼女は信じる気になれなかった。

(人の思いは、はかないもの。
  いずれ消えてしまうものだから……)

前を歩く太盛に、その沈んだ表情を見られることはなった。


「ユーリ。君がしっかり面倒を見てくれているおかげで
  マリンはあそこまで優秀になったんだ。
   君の教育の成果だと思っているよ」

「そんな……。私はなにもしておりませんわ」

「謙遜するなよ。ユーリには本当に感謝してる」

「うふふ。今日の太盛様はいつも以上に口が達者ですわ」

「僕がよくしゃべるのはいつものことじゃないか」

「お散歩中は、ほんとうにおしゃべりなこと」

「はは。なぜだろうね?」


ユーリは太盛とのあいまいな関係は嫌いではなかった。
使用人は主人の心の機敏に一番敏感でなければいけない立場にある。

太盛がエリカの凶悪さから逃れたい一心で自分に
逃避している気持ちはよくわかる。太盛の最大の欠点は心の弱さ。

彼には監禁虐待された暗い過去もあるから
彼の弱さを罵倒する気にはなれなかった。

子供が生まれてから太盛はささいな愚痴や
悩み事などをユーリに話すようになった。

4歳年上の太盛が心の弱さを打ち明けるのは、
実は妻たちではなくユーリだった。


古来、英国では主人を慰めることもメイドの
仕事の一つとされていた。それには夜の生活を
共にするという、いわゆる愛人的なことも含まれていた。

だからユーリは、自分の森での行為が
メイドの本分から外れているとは思わないようにした。

そう思わなければ、太盛とのあいまいな関係を続けることはできなかった。



「そろそろ屋敷に着くぞ」


森から一歩を踏み出した瞬間から、太盛は父親の顔。
ユーリはプロのメイドの顔になっていた。

「メイドのユーリ」B

7時の朝食の時間である。

エリカはいつものように食後のホットコーヒーを飲んでいた。
食べるのはクロワッサンとサラダのみ。
シンプルな朝食だが、エリカは朝が弱いのでこれで十分だった。

国営放送のラジオ局からクラシック音楽が流れている。

エリカは本土から送られてくる、1週間遅れの新聞記事に目を通していた。
孤島なので新聞は1週間分がまとめて船で送られてくる。
これでは世間を知ったことにはならないかもしれないのが、
孤島生活をしているので仕方がない。

世間で騒がれていたのは、与党政治家の献金不正受給問題だった。


食堂の扉の開く音がして、太盛が入ってきた。

エリカはにっこり笑って新聞から目を離した。

「太盛様。おはようございます。
 今朝の野鳥観察はいかがでしたか?」

「おはようエリカ。今朝は、はずれかな。
  知らない鳥が一羽だけいたけど、種類が分からなかったよ」

太盛は偽の笑みを浮かべながらエリカの対面側に座る。

しょうじきエリカに愛想笑いをしたところで
何も感じるものがない。本当は孤独に食べたいくらいなのだが、
夫婦なので食事は共にしないと不自然だ。

結婚して10年。もうエリカに対する感情は嫌でも悲しくもない。
ただ、無関心の一言に尽きた。

「朝食をご用意いたします」

エリカのそばに控えていたミウが配膳する。

いつも通り洋食だった。

ドイツ風スクランブルエッグといわれるのは、
ベーコンの上に半熟卵2個を加えたものだ。
太いウインナーもさりげなくそえられている。

ベーコンの厚みと脂っこさが半端ではなく、
見ているだけで胸焼けしそうだ。
それにケチャップがたんまりとかけられていた。

それにエリカと同じクロワッサンが2つ。
バター風味の地味なパンではあるが、こういうパンこそ
シェフの腕前が瞬時に判断できるとよくいわれる。

サラダの盛り合わせはレタス、ミニトマト、コーンなど
一般家庭で出されるものと違いは特にない。
日本風の胡麻ドレッシングがかけてある。

それに熱々で濃い目のコーンスープが
浅めのスープ皿に盛ってある。


「ミウ。今日もありがとうね。すごくおいしそうな食事だよ」

「いえいえ。これが私どものお仕事ですから」

ミウは気さくでおしゃべりが大好きな女の子だ。
太盛の使用人に対する心からの笑顔と感謝を素直に受け取っていた。

太盛はミウ達を使用人だからとこき使うことはない。
むしろ日頃屋敷中の管理をしてくれている彼女たちの
労をねぎらっていた。

彼女らの誕生日を忘れたことはなく、
毎年必ずプレゼントをあげていた。

「へえ。このパンチの利いた卵焼きはドイツ風なのか。
 どおりで豪快なわけだ」

「後藤さんは各国の料理に精通しておりますからね。
  そうそう。ドイツと言えばシュトーレンという
   黒糖パンがおすすめですよ。
   さくっとした触感で私も大好きなんですよねー」

「へえ。紅茶に合いそうだね。
  こんど3時のおやつに焼いてもらうかな。
   よかったら君も一緒にどうだい?」

「ええっ、よろしいんですかぁ? ならぜひご一緒に」


そんなミウを絶対零度の視線で見るエリカ。

(うわ……こわっ。小姑みたい)

身震いするミウ。せめておびえが顔に出ないよう全力を尽くした。

エリカの睨みは一瞬の流し目だったが、
太盛も妻の鬼の顔をはっきりと確認した。

すぐに話題をそらすことにする。

時刻は7時を少し過ぎている。ラジオはクラシックを流し続けていた。


「エリカ。これはブラームスのヴァイオリン協奏曲だね。
  ヴァイオリン・ソリストは誰かな?」

「……オイストラフですわ。
  これは生演奏でなく録音のようです」

「彼が生きている頃に生で聞けた人たちが羨ましいね。
  技巧派のハイフェッツとは違い、情感豊かな音色だ」

「ハイフェッツも、アキュレートを極めた演奏スタイルで
  聴きごたえがありますのよ?
   うふふ。おすすめの録音がいくつかありますの。
   よかったら太盛様もあとでお聴きになって」


太盛がかまってくれると、すぐに笑顔を取り戻すエリカ。
鬼の本性を持つ一方で寂しがり屋の少女の一面も持つのだ。

太盛はエリカとの生活を経て、すっかり彼女の相手をするのが
疲れてしまっていたが、間違ってもそれを口に出すことはできない。

「ところで太盛さん。一面の記事は読まれましたか?
  例の献金問題。与党と学園の理事、ちらが黒とお思いですか?」

「それは与党側だろうね。具体的な証拠も集まってきているし、
  予算委員会で野党の連中があそこまで責め立てているんだ。
   根拠があるから奴らが元気に騒いでいるんだろう」

「うふふ。やっぱりそうですわよね。
  最近の国会はすごく面白くて目が離せませんわ」

エリカは私立大学の外国語学部出身だった。
経済学部を出ている太盛のほうが詳しいと思い。
政治経済のことを何でも質問するのだ。

太盛は院をでているわけではないので、政治経済について
それほど詳しいわけでもないが、エリカは先生に質問するように
太盛の意見を聞きたがった。

たまに返答に困って適当なことをしゃべっても
エリカは真剣に聞いてくれるのだから不思議だった。

これはエリカが、伴侶となる男性に頭脳を求めているからだった。
エリカは幼少のころからソ連のサンクト・ペテルブルク大学
(日本でいう京都大学に相当)で外国語を学んだ父から、
社会主義や政治学についてよく聞かされていた。

高校生のころから知識欲が盛んになり、分からないことは
父に何でも聞いた。父は教育熱心な人で、エリカの欲しがる教材や
本は御金に糸目をつけずに買ってくれた。

孤島で暮らし、父のことをさみしく思うこともある。
そんな時は、太盛にこうして世の中の動きについて質問するのだった。

「自民党が考えている、北方領土の共同管理案は机上の空論だろうな。
  たとえ日本企業が実質支配に成功したとして、主権がロシア国にある
   以上、のちの争いの火種にもなりかねない。
    むこうの大統領はあれこれ屁理屈を言ってくるぞ」

「確かにロシアの外交は老獪(ろうかい)ですわ。
  日本からいかに利益を引き出そうとするが、
  虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのがよくわかります」

「米国内務省にサイバー攻撃をしかけたのもロシアだ。
  大統領選にまで影響を及ぼすなんて国家的スパイ行為だよ。
   ソ連から名前だけは変わったが、現在でも世界的脅威と言えるね」

エリカは祖先の故郷であるロシア国を批判されて少し胸が痛くなったが、
太盛が一生懸命に語っているので黙っていた。


「お父様とお母さま、おはようございまーしゅ」

寝ぼけた顔で食堂に入ってきたのはレナだった。

髪もボサボサでパジャマ姿。
スリッパをパタパタ言わせながら廊下を歩いてきた。

エリカが母の顔になる。

「レナっ。ちゃんと顔は洗ったの?
  パジャマは着替えてから食堂に来るように言ってあるでしょ。
   すぐ部屋に戻って身支度を整えてきなさい」

「ふぁい」

寝ぼけたレナは厳しい言葉など軽く受け流し廊下へ戻っていく。
エントランスの中央階段を登ったすぐ先に子供部屋があるのだ。

階段ですれ違ったカリンが「レナのバーカ。また怒られたんでしょ?」
と言ってからかう。レナはいつものように言い返して喧嘩になる。

太盛は、子供たちを厳しくしかる妻を見るのが好きではなかった。
太盛の子育ては放任主義に近く、伸び伸びと育ってほしいと思っていた。


「カリン。スープは音を立てないで飲みなさい。
  スプーンの持ち方がなっていません」

「こうですか。お母さま」

「手の角度が違う。こうよ」

「はいっ」

エリカが細かいことで口を出している。

太盛は聞こえないふりをして新聞を読んでいる。
ミウは興味なさそうに窓の外へ視線を泳がせていた。

「椅子の背もたれは、拳一個分開ける感覚よ。
  もう一度座り直してみなさい」

「は、はい」

「いいわ。ちゃんと背筋が伸びたわね。
 そうやって座ると食べ物を消化しやすくなるし、
  こぼしたりもしなくなるわ」

カリンも緊張のせいか、動作がぎこちなくなって
それが余計にエリカのカンに障るのだった。

隣に座っているレナが大口を開けて笑う。

「カリンも怒られてるじゃん。バぁカ」

「こらレナ!! はしたない言葉遣いは
  やめなさいっていつも言っているわよね?」

「ひいっ。ごめんなさぁい」

空気の悪さに居心地の悪くなった太盛は席を立つ。

「メイドのユーリ」C

太盛は早朝散歩の他にも日課がある。

屋敷の庭でほそぼそとやっている家庭菜園である。
小さな畑にはサツマイモや里芋、ゴボウが植えてあるのだ。


親父殿に頼んで農機具一式、苗、肥料を送ってもらった。

父とのやり取りは基本的に電話である。

太盛に子供ができてから父が島に文明的な措置をほどこした。
電波塔や電信柱を設置し、発電所を作った。

ラジオ、テレビ、インターネットがあるおかげで、
太盛たちは世間から取り残されなくて済むのだ。

皮肉なことに子供たちはネットよりもテレビを好み、
太盛はラジオを好み、エリカは新聞や本などの紙面を好むというありさまで、
実際にネットを活用しているのは使用人たちだった(特にユーリ)

エリカに至っては高校時代からニュースは
新聞で読む習慣が抜けきらないので、
読んでいて目が披露するパソコンのニュースは苦手だった。


「そろそろ収穫のタイミングだと思うんだが、
  どうなんだろう」

独り言をつぶやき、サツマイモのつるを手で触ってみる。
つるは複雑に絡み合っていて地面を覆っている。
遠目に見るとジャングルのようだ。

葉は黄色く色づいている。

「一般的にこの色なら収穫してもいいといわれているが、うーむ」

「それなら試し掘りをされてみますか?」

ミウがニコニコ笑いながら太盛にハサミを渡す。

太盛は作業着姿。ミウはジャージだった。
彼らは屋外作業の時は基本的にこの格好なのだ。

ミウは特例として屋外作業中はメイド服を着用せずとも
良い決まりになっている。もちろんカチューシャはしていない。

「まずはつるの根元を切るんですよね?」

「その通り。よくわかってるね」

「毎年太盛様と一緒に菜園をやっておりますからね」

「中の仕事は大丈夫なのかい?」

「ユーリが、ちゃちゃっとやってくれていますから。
  私がいると邪魔しちゃうかなって思いまして」

「さすがユーリだな。あの子の仕事は無駄がないからね」

ユーリは屋敷内の掃除をミウと鈴原と手分けして行っている。

ユーリの掃除は屋内担当で、主にリビング、廊下、
食堂、大浴場などが担当だ。太盛、ジョウン、マリンの部屋も担当している。

なにしろ屋敷の面積が半端ではないので、掃除をするにも一日がかりだ。
掃除に厳しいエリカ奥様を満足させるために日々清掃に力を入れている。

一方でミウは外で体を動かすのが好きなので太盛とともに
家庭菜園や薪割り、森林や山での山菜取りなどに参加している。

太盛も太陽のもとで活動するのが大好きなので2人は
長年の友達のように仲が良かった。互いにフランス人や
イタリア人なみにおしゃべりなところも気が合った。

「おっと。つるは取っておかないといけないんだったね」

「そうですよー。後藤さんが料理に使いますからね」

料理人の後藤は、すでに世界クラスの腕前をもっているのに
料理への余念がなく、常に新しいレシピを求め続けている。

菜園を始めた当初の太盛は、つるは不要だと判断して
生ごみと一緒に捨てていたが、ある日後藤に注意されてしまった。

後藤はつるの皮をキレイにむいて
下ゆでし、キンピラやてんぷらにするのだ。

孤島生活においてはどんな食材であっても貴重である。
嵐が続けば舟が来ないので本土から食料の供給が途絶えるからだ。
波浪の情報は彼らに追って死活問題といえた。

太盛が丁寧に土をどかしていき、サツマイモの生育状態を調べる。
イモは直径が8センチほどあった。
飢えた種はベニアズマなので十分な大きさである。

「よし。掘ってしまおうか」

「かしこまりましたぁ。ただいま一輪車を持ってきますね」

まずは邪魔なつるの根元からすぐ上をハサミで切っていく。
つるは一か所にまとめておき、土の上にシャベルで掘っていく。

サツマイモは実に個性的で、一つとして同じ形をしているものはなかった。
太さや長さ、しなりぐあいなど、まるで人間と同じように多種多様だ。

ミウが持ってきた一輪車に次々にイモを入れていく。

「ふぅ。暑いな」

秋の午前中。心地よい日光を浴びながら汗をかく太盛。
ミウにタオルを首に巻いてもらい、もうひと頑張りする。

地中深くまで埋まっているイモもあり、シャベルで掘るのは
けっこうな重労働だ。これでもゴボウの収穫に比べたらまだ楽なほうなのだが。
誤って地中のサツマイモに刺さらぬよう、慎重にシャベルを差し込む。

太盛は天気の良い日は何かやることを見つけては外に出たものだ。
その一方でエリカと同じく読書家でもあるので、
まさしく晴耕雨読の生活を好む人物だった。

「お疲れまでした。太盛様」

ミウが一輪車を何度か往復させて屋敷の裏の納屋まで野菜を運んでくれた。
収穫後の畑は土が盛り返されてデコボコになっている。
太盛はこの光景を見るのが好きだった。

連作障害を防ぐため、この場所には来年用に別の野菜を植えることになる。

「今年も良いサツマイモがとれましたな。太盛様。
  実に良い収穫ぶりです」

と後藤が屋敷から出てきて賞賛の言葉をくれた。
後藤は息子くらいの年齢の太盛が
汗水流して収穫してくれることをうれしく思っていた。

「太盛様。まもなく10時のお茶の時間です」

ユーリも畑に出てきて声をかけてきた。

太盛は農機具を納屋にしまい、館へ向かった。


太盛の部屋の前にテラスがある。
テラスにはテーブルといすが置かれていて、休憩の時間にぴったりだ。

「本日はレアチーズタルト、と紅茶でございます」

「どうもありがとう。いつもすまないね」

テラスは見晴らしが良く、広大な庭が一望できる。
大半を芝生が占めるが、そのわずか一角に太盛の畑がある。

庭にはテニスコートもある。ちょうどレナとカリンがテニスをしていた。
今日先生役をやっているのはエリカだ。厳しい顔で腕を組んでいる。

ミウに対抗したのか、エリカはわざわざジャージまで着ていて、
小学校の女担任といった風のたたずまいだ。

双子がふざけて遊ばないように、しっかりと点数をつけている。

きちんと網でくくられたテニスコートも太盛の親父殿が
整備してくれたものだ。淑女たるもの、テニスができて
当然という古風な考えを彼はもっていたのだ。

子供たちの教育は米国式のホームスクール制度を
実施しているため、家庭内が学校と同じなのだ。

彼女らが使う教材一式は
文部科学省が定めるものと同じものを使用している。

外国語に関しては太盛が口を出し、いつまでたっても
身にならない日本式の教育を全面的に否定した。
その結果、ミウやユーリが個人指導を行って
娘たちをバイリンガルにしたてあげた。

「エリカが体育の授業をしているなんて珍しい光景だね」

「あれはちょっとしたお仕置きみたいなものです。
  ミウが教えていた時にお嬢様たちがふざけて
  遊んでいたみたいでして……」

「あー……それは気の毒に」

チーズタルトの風味が口に広がる。
まろやかで甘い香りが脳を落ち着かせる。
さすが後藤の自信作だった。

後藤は金持ちだからといばらず、野良作業にまで
精を出す太盛のことを気に入っていて、彼に出す食事は
全てに気を使って特上のものを提供してくれていた。

「後藤が、太盛様が野菜作りをしてくれて
  本当に助かっていると言っています。
 特に台風の季節などは食料供給が途絶えがちになりますから」

「こんな僕でもみんなのためになれるなら光栄だよ。
  適当に作った野菜でも一流の料理人が調理すれば様になるからね」

「うふふ。ずいぶん謙遜なさるのですね。
  この10年で太盛様の野菜作りは十分な
   レベルにまで達していると思いますよ」

「田舎に住んでいる祖母がたまたま地主階級だったから、
  大学時代の長期休みのたびに畑仕事を手伝いに行っていたんだ。
   その経験が生きたのかね」

「おばあさまが農家の方だったのですか。
  おばあさまはどこに住んでいたのですか?」

「北関東の田舎だよ。埼玉県の北部地方。群馬県に近かったかな」

コートに入ったエリカが、鋭いサーブを連発していた。
娘たちはおろおろしながらエリカのサーブと格闘する。

ネットを挟んでエリカの反対側には娘がダブルスのポジションで
横並びになっており、母が無作為に投げる球を受ける格好になっていた。

ストレートやカーブを巧みに使い分け、ネットぎりぎりの角度を
狙ってきたりと、とても小学生で受けられる球ではなかった。

「うわああ」

強烈な球を受けたレナのラケットが手からすっぽ抜けてしまう。
まさにお仕置きと呼ぶにふさわしい授業であった。

「楽しそうな親子の姿。うらやましい……」

「え? 何か言ったのか?」

「いいえ……。たいしたことではありませんわ」

ユーリは、たまにこういう目をするときがある。

教育のママのエリカが娘たちを厳しくしかっても、お仕置きを
している時でさえ、どこか遠くの思い出に浸っているような、
消え入りそうな顔をしている。

太盛はこの10年間、一度もユーリの過去について聞いたことがない。
国立大学を卒業した秀才で出身地が東北であること以外、太盛は何も知らない

ユーリのことを深く知っているメイド仲間のミウにこっそり
聞いたことがあるが、いつも話をはぐらかされて終わってしまう。

太盛はそれ以来ユーリの過去について聞かないことにした。
エリカは、ユーリが家族を見てうらやましがるので
孤児院出身なのではないかと疑っていたが、真相は分からない。

太盛は、いつかユーリから話してくれる日をずっと待っていた。

「スーパーマリンちゃん」A

今日は週2回行われる薪(まき)割りの日だ。

太盛はミウとマリンを連れて森で薪割りをするのが趣味だった。

屋敷にはリビングに1台だけ薪ストーブがある。

屋敷には石油ストーブとヒーター、エアコンが
用意されていて不便はないのだが、
石油燃料が枯渇した万が一の時にそなえて薪を備蓄しているのだ。

大自然の中で肉体労働をするという、
お金持ちにしては珍しい趣味である。


「太盛様とマリン様、お乗りになりましたか?
 それでは出発いたします」


運転席に乗ったミウがエンジンをかける。

作業用の小型トラックが小刻みに揺れながら森の中を進んでいく。


「この小さな揺れが少し心地良いくらいです」

「そうだね。電車に乗っているみたいだよ。
  この揺れが心地よくてつい眠っちゃうんだよね」

「まあ、お父様は電車に乗ったことがありますの?」

「そりゃもう。通勤と通学で毎日乗っていたからね」


ミウは荷台の上の太盛とマリンの会話を楽しそうに聞いていた。

トラックの荷台の上には所狭しと森林伐採に使う道具が
並べられているのだが、空いたわずかなスペースに
寄り添うように親子が乗っていた。

トラックは軽トラを少し大きくした形で車内は2人乗り。
荷台は露天になっており、荷物を運搬しやすいようになっている。

トラックの走るペースは遅い。主人と令嬢を車内ではなく
荷台に乗せているのだから慎重な運転になる。
この速度で走ると目的地まで10分で着く。

エンジンの音に驚いた小動物たちが木の陰から
飛び出ては逃げていった。


「私、日中の森は大好きです。
  木々の間から光が差し込んで、おとぎ話の世界にいるみたい」

「僕も何度訪れても飽きることはないよ。
  森には動植物の宝庫だからね」

「お父様、本土には森がほとんどないと聞きました。
  本当なのですか?」

「日本は国土の大半が山なんだ。周りを海に囲まれた弓上列島。
  内地には欧州みたいな深い森はほとんどないんだよ。
   雑木林とかはたくさんあるけど、こんなに立派ではない」

「そうなんですの。勉強になりますわ」

マリンは父の話を聞くのが大好きなのだ。
何度もうなずきながら、一字一句聞き漏らさない。

こういう姿勢が勉強にも生かされていて、
たとえば本土の学校に通っていたら
間違いなく成績上位者だったことだろう。


「私は山にも興味があります」

「低山のこと?」

「はい」

「あそこは危険だからと、ジョウンお母さまが行くのを許可してくれません。
  ですから、山がどんなものなのかすごく気になりますの」

「うーん……」

太盛はあごに手を当てて悩む仕草をした。

マリンは9歳だから、親同伴のハイキングなら全く問題はないと
思っている。マリンは娘たちの中でひときわ優秀で機転もきく。

それに大切な娘だからこそいろいろな場所に連れて行って
経験を積ませるべきだと太盛は考えていたが、ジョウンは過保護だった。

つい忘れがちになるが、この物語でマリンの実の母はジョウンである。

エリカにマリンを直接教育する権利はなく、関心もない。
しょせんは腹違いの子供というわけだ。


ジョウンはマリンを溺愛していたが、マリンは獣のように
凶暴な母から距離を取り、父にべったりだった。当然である。


娘に相手にされなくて心に傷を負ったジョウンは、
山でクマ、イノシシ狩りをして憂さ晴らしをしている。

ユーリの報告によると、沖に潜水して
魚を取ってくることもできるらしい。
もはや人類とは別の生き物である。

いずれの生物も館では貴重な栄養源となっていて、
料理人の後藤はジョウンに頭が上がらない。


「パパがジョウンを説得してみるよ。
  マリンはいつまでも箱入りじゃなくて
   アウトドアでも生活できる強い子を目指すってね」

「はい。お父様。期待しておりますわ」


肩をぴったりとよせるマリン。父の腕にしがみつき、
心地よい揺れに身を任せていた。

マリンの肩より少し下まで伸びた髪が小刻みに揺れる。
途中までストレートの髪が肩辺りから癖がかかってふわふわしていた。

太盛が娘の髪を撫でると、
マリンはくすぐったそうにして喜んでいた。


「着きましたよー!!」


エンジンが止まり、ミウの元気な声が聞こえる。

さっそく荷台から降りて道具を準備する太盛。
本日の作業開始である。

トラック乗り場から少し歩いて、木々が立ち並ぶ場所まで行く。

作業着姿の太盛は安全ヘルメットまでつけた本格的な姿だった。
マリンとミウはジャージ姿で帽子を深くかぶっている。

メイドのミウがメイド服以外を着るのは、
寝るとき以外ではこの時だけだと言われている。

全員が作業用の頑丈な手袋をしていた。


「よいしょっと」

チェーンソーの電源を入れると、森中に響くほどの動作音が鳴る。
傾斜してる木に狙いをつけ、根元から切れ目を入れていく。
切断面からキリカスが飛び散り、太盛のゴーグルを染めていく。

倒木作業は、大変な危険の伴う作業である。

倒す方向をしっかり見極めないと跳ね返りや木の落下があり、
事故の危険性を兼ねているのだ。

倒木の際には周囲の地面の凹凸、障害物の有無、立木の傾き、
風の方向などを考慮して決める。

ミウとマリンには3メートル以上離れた立木の陰に隠れてもらっている。
木の周囲3メートル以内が危険区域となるからだ。言うまでもないが、
倒木の下敷きになればただでは済まない。

木の傾斜がきつくなった。チェーンソーでぐるりと円を描く軌道で
動かしていくと、あっという間に木が倒れ込む。

何もない場所に大木が倒れ、落下の衝撃で轟音が鳴る。
付近の木々から鳥が一斉に飛び去った。


「ふぅ。今日もけがなく成功したか」

「お疲れ様です。太盛様」

ミウが持参したスポーツタオルで太盛の汗を拭いてくれる。

マリンは父の華麗な倒木作業を見て感動していた。
穏やかで文系男子の父が長い孤島生活の中で
肉体労働者としての技能まで身に着けていたのだ。


自分も父の手伝いがしたいと思い、薪割りに参加してる。

トラックの荷台に乗っていたのも、最初は太盛が
労働者らしい気分を味わうためにと言って始めたことだが、
マリンもぜひやりたいと言って父の隣に乗ることになった。

マリンはとにかく父のすることにはなんでもあこがれる子供だった。



太盛「さあて。ここからが本番だぞ」

横倒しになっている木にチェーンソーを当てていく。
ストーブで使用する長さの玉木にしていくのだ。
玉木の長さを誤ると、実際に燃すときに困る。

30センチほどの玉木をたくさん作り、一輪車に入れて運ぶ。

「よいしょっと」

この運ぶ作業がつらい。玉木は一つでもかなりの重量がある。

膝までしゃがみ、玉木を持ち上げる。作業は繰り返しである。
腰にも足にも負担がかかり、大汗をかく。
最初に始めたのは10年前だった。
あのころ太盛は筋肉痛に何度も悩まされたものだった。

重量物を運ぶ一輪車は、左右の角度を均等に保たないと荷物が
転げ落ちてしまうこともある。

森は平地だからいいものの、
山の斜面から運び出すのだから力が要る。
この10年間の孤島生活で、かつて会社の営業部で
働いていた太盛の身体は鍛えられた。


「しろいー、アルバムのなかぁにぃ。かくれてぇ。思い出ーがぁ」

慣れとは不思議なもので、太盛は歌を歌いながら作業するようになった。
軽やかに一輪車を走らせて作業場から薪割り場まで移動していくのだ。

肉体労働をする時は歌うと気分が晴れるというのは、
江戸時代の大工たちの残した言葉だった。

大木についた小枝などの小物はナタで伐採し、
小さな一輪車に入れてマリンが運んでくれる。

よせばいいのに、マリンは使えそうな枝を
一輪車に満載してしまう。中にはとげがたくさんついた
枝まで入っていて、手袋越しに触れるだけでもつらい。

とても小学生の女の子が運べる量ではない。
温室育ちのマリンに気を使ってミウが、

「マリン様。重くないですか?
  疲れたらいつでも私が変わりますからね」

と言ってくれてるのだが、あいにく余裕だった。

「お父様が運んでいる玉木に比べたらなんでもありませんわ。
  わたくしもお父様みたいに立派な人になりたいんですの。
   サバイバル技術だって身に着けて見せるわ」

「……さっすがマリン様。万能すぎて怖いくらいですよ」

「うふふ。そんな大したものではありませんわ」

マリンが怪力なのはジョウンの娘だからだった。

ミウは主人たちの後についてチェーンソーやナタなどの
道具を運ぶ係をしていた。救急セットと飲料水を
満載したクーラーボックスも車内に用意してある。、
作業中にけが人が出た場合の看護役も兼ねているのだ。

薪割り場に着いた。いよいよ薪割り開始である。

「ふっ」

台の上に垂直に玉木を立て、斧を振り下ろす。

この時、力任せに下すのではなく、重力を利用するのがコツだ。

二の腕が痛くならないように斧の柄のお尻の部分と中心部を
両手で持ち、体がぶれないように片足を前に出す。
肉体労働は全身の筋肉を連動させて行うのだ。

「よっしゃ」

一撃で、綺麗に真っ二つに割れた。

「さすがお父様ですわ」

娘の満面の笑みに、ますますいい気になる太盛。

あせらず、ゆっくりと玉木に斧を振り下ろしていく。
秋とはいえ、天気の良い日はどんどん体温が上がる。

顔を流れる汗のせいで気が散るので拭こうと思ったら、
ちょうどミウがスポーツタオルを渡してくれた。

さらに喉も渇いた太盛に気を利かせて
大きめの水筒でお茶を入れてくれた。

ミウはプロのメイドなのである。

「ありがとうミウ。君がいてくれると作業がはかどるよ」

「いえいえー。それほどでもないですよ」

口調は軽いが、ミウは太盛に褒められるのが大好きだった。

ミウの口調は自然とくだけた感じになるが、
太盛はそういうことで文句を言う人ではなかった。

ミウのことは使用人ではなく家族の一員として見ていたからだ。
よそよそしく感じるので敬語もやめてほしかったが、
さすがにミウもそこまでは譲らなかった。


途中でだれないように慎重に玉木を割り続ける。

ミウが薪を取って一輪車に入れていく。
満載になった一輪車をマリンが運んでいく。

力のない男性なら10分でヘタレるほどに一輪車は重い。

年齢を考えればミウとマリンの役割が逆なのだが、
マリンは前述したようにジョウンに似て怪力だった。

これで容姿までジョウンに似なくてよかったと
屋敷の住人全員が口をそろえて言ったものだ。

一輪車をトラックに横付けし、薪を入れるスペースに積んでいく。
薪は高く積まれ、トラックの積載ぎりぎりまでなった。
空いたスペースにはチェーンソーなどの道具も入れなくては
いけないから、全体の半分くらいが薪のスペースになった。

「スーパーマリンちゃん」B

ミウが一輪車を満足げに眺めながら言う。

「太盛様。今日も結構取れたんじゃないですか?」

「そうかい? もう少し頑張ってもいいけど」

「これは石油燃料が枯渇した場合に備えての
  備蓄用ですからね。今日はいっぱい汗もかきましたし、
   そろそろお昼にしませんか?」

「おっ、もうそんな時間だったのか」

腕時計をみると正午を過ぎていた。

薪割りを開始したのが10時半ごろだったが、
夢中でやっていた太盛は時間が立つのを忘れていたのだ。

「今日のお昼はハンバーガーをお持ちいたしましたよ」

ミウがさらにアウトドア用の木製のイスとテーブルを並べる。

テーブルの上にピクニック用の巨大なバスケット(カゴ)を置く。
中を開けるとサンドイッチ(ハンバーガー)やお菓子が入っていた。


「わぁ。これがレナ達が言っていたハンバーガーですのね。
  思っていたよりずいぶん大きいですわ。
  マックのハンバーガーを食すのはこれが初めてです」

マリンは後藤がマックと同様の食事を用意したものと
素直に信じていたので、太盛もミウもあえて何も言わなかった。

ウエットティッシュで手を拭いてから、
さっそくハンバーガーを手に取るマリン。

「コッペパンの生地を薄く焼いてますのね。
  パンに挟んであるローストビーフがすごく美味ですわ。
   ビーフの周りにクリームチーズと豆がまぶしてあります」

一口ずつ味わいながら食べていくマリン。

礼儀作法でパンは手でちぎって食べるものだと教わっていたが、
レナ達から米国食はかじるものだと聞かされていたので、
大きな口を開けてほおばっていた。

「こういう食べ物は片手で食べられるから便利ですわ。
  アウトドア生活にぴったりですわね」

「あはは。本当だね」

「ひと汗かいた後のハンバーガーは美味しいですわ。
  チェーン店の味とは思えないほどです」

(これが外食チェーンの味なわけねーよ。
 これを値段で換算したらマックのハンバーガーが
 いくつ使えると思っている?)

と心の中で思っていたが言葉を飲み込む太盛。

(しかもこの前食べたのと中身が違う。マリンの好みに
  合うようアレンジしてあるぞ。贅沢に入れられたクリームチーズの
   おかげでわやかな食味だな。このチーズいくらするんだろう?)

ミウはポットを用意して紅茶を注いだ。
アウトドアなのに、ご丁寧なことにティーカップを用意している。

「今日のお飲み物はダージリンです。
  ハンバーガーによく合うと思いますよ」

「まあ、飲み物は英国式なのね?
  カリンがお店のハンバーガーはコーラがセットなのだと
  言っておりました」

無邪気な顔で言う娘に父が言う。

「すまないねマリン。
 コーラは本土から仕入れないと手に入らないんだよ」

「私はコーラも飲んでみたいですの」

「そんなに美味しいものでもないよ? 
  パパは今飲んでいる紅茶のほうがずっと美味しいと思うけどな」

「そう言われるとますます飲んでみたくなりますの。
  お父様たちはピザーラなどテレビでよく見るものを
   食べられてうらやましいですわ」

「ささっ、レナ様。今日はフライドポテトもあります。
  どうぞ召し上がってください」

バスケットから、丸くして厚紙に包んであるポテトを取り出したミウ。

「これがマックのポテトなんですの?
  写真で見たのはもっと細くスライスされていましたが……」

さすがに怪しむマリンがポテトを受け取る。
まだほのかに暖かかった。

(これはどう考えてもモス風のポテトだな。 
  ポテトの切り方が厚いが、それにしても)

後藤がモスとマックを混同している可能性もあったが、
太盛がそれより気になったのは、ポテトのスパイシーな香りだった。

ファストフードと呼ばれているものは
ふんだんに使われた化学調味料の匂いが人間の嗅覚を刺激し、
食欲をそそるようにできている。

科学的に食欲を促進させるという、
アメリカ式合理主義がもたらした食べ物なのである。

「ミウ。君はこのポテトについてどう思う?」

と耳打ちしたのでミウも小声で返事する。

「はい。なんというか、すばらしく洋食風味のポテトです。
  おそらくベルギーかオランダ風かと」

「マヨネーズが少し辛くておいしーですわ。
  マックの料理は味が濃いんですのね」

厚紙にくるまれたポテトを細長い楊枝(ようじ)で刺し、
小さな容器に入れられたマヨネーズをつけて食べる。

美味しそうに食べるマリンにつられて
大人2人もポテトを口に入れる。

「確かに変わったマヨネーズの味だ。市販のマヨネーズとは違う」

「昔オランダ系の店で食べた味と似ていますね。
  少なくともマックのポテトの味とは完全に別物です」

「食べた後にスパイスの香りが効いてくるな」

「病みつきになりそうな味ですよね」

「揚げ方も絶妙だね。外のカリッとした触感に、中のふわふわ具合」

「後藤さんの料理の腕は確かですね。こういう地味な料理こそ
  その人の腕が分かると言いますから。このコッペパンとか」

「確かにこのコッペパンはいい焼き具合だ。
 コッペパンとは思えないほど薄く柔らかくしてある。
  これがお肉と合うように考えてあるんだよ」

「そうそう。サンドイッチ用のパンの焼き方が上手なんですよね。
  後藤さんが都市部でパン屋でも始めたら
   荒稼ぎできるんじゃないですかね」

「前から思っていたんだけど、
  あの人孤島じゃなくてもっと良い就職先あるよね?
  なんでこんなとこで働いてるんだ?」

「人間と関わるのに疲れたって言ってましたよ?
  前職を辞めた理由もそれらしいです」

「あー、なんていうか、ほんともったいない人だよな。
  僕はここの生活が気に入ってるからいいけどさ」

「私もです。こうして太盛様と一緒に
  屋外作業をするのは好きですよ?」

「あはは。うれしいけど、どうせお世辞で言っているんだろ?」

「お世辞じゃないですよー」

話に花が咲いていると、放置されていたマリンは
ハンバーガーを食べおえてナプキンで口を拭いていた。


「お父様たちったら、さきほどから楽しそうにお話しして
  とっても仲のよろしいことで」

分かりやすく嫌味を言うあたりはエリカのようだった。

会話が弾んでいる太盛とミウに嫉妬していたのだ。

中央のテーブルをはさんで、太盛とミウが隣同士に座り、
向かい側の席にマリンが座っている。

ミウは奥様の監視がないアウトドアではこうして
太盛と一緒に食事を楽しんでいた。上下ともにジャージ姿で
いつもの髪留めも外し、クセのついた長い髪の毛を垂らしている。

灰色の作業着姿の太盛は、いつのまにかミウと肩の触れ合うほどの
距離に座っていた。ミウの髪の匂いがするほどの距離だ。
両名とも意識したわけではなく、
話が弾むうちに自然とこうなってしまったのだ。

罰の悪くなった太盛とミウはわざと椅子の距離を離すが、
それがマリンにはかえって気に入らなかった。

「お父様はミウとお食事をするのが楽しみで
 森で木こりさんをやっているのかしら?」

「そ、そんなことないんだよ?
  ミウとはあまり屋敷の中では話をする機会もないし、
   ここでゆっくりコミュニケーションを取ることも
    大切かなって思っているんだ」

「その割には楽しそうでしたわ。お父様ったら、エリカおばさまと
  お話しするときより饒舌(じょうぜつ)でしたわ。
   それに隣にぴったりくっついて、ひそひそ話までされて。
    あれはもはや夫婦の距離でしたわ」

「マリン。今度君の好きなものを買ってあげよう。
  だからね、エリカにはこのことは黙って……」

「お父様のバカ!! お父様はマリンのことを
  全然かまってくれないんですわ!!
  マリンのことはどうでもいいと思っているんですわ!!」

おしとやかなマリンが声を荒げるのは非常に珍しいことだった。

父がメイドとイチャラブしていたのがそれだけ癇に障ったということだ。

「怒らせちゃってごめんね、マリン。
  パパはマリンのことが大好きなんだよ?」

「嘘ばっかり!! 私がここにいてもお二人の邪魔をするだけです!!
  私、ここから歩いて独りで家まで帰ります!!」

「それはだめだ!! 野生の獣にでも襲われたらどうするんだい?   
 森を歩くときは二人以上で(ジョウン以外)ってことは
 家族みんなで決めたことじゃないか」

「着いてこないでください!! 
  とにかく私はもう帰りますから!!」

そう言い捨てて駆けだそうとするマリン。
マリンの瞳から熱い涙がこぼれ落ちていた。

太盛は驚異的なスピードで移動して
マリンの前に立ちはだかり、こう言った。

「そんなこと言わず、こっちにおいで。パパと仲直りしよう?」


マリンは左右のフェイントを利かせて父の右わきを通り過ぎていった。

太盛は、欧州サッカーで右サイドバックの
選手が敵ドリブラーにごぼう抜きされてるシーンを思い出した。


「ミウっ、見失ったら終わりだ。一緒に探しに行くぞ!!」

「はい!!」


森は樹木が生い茂り、緑色だけが支配する空間だ。

娘の足音は、鳥の大合唱にかき消されて聞こえない。

彼女の紺色のジャージ姿は目立つはずなので、
木々の間に目を凝らして変化がないか探す。

こういう時にバードウオッチングの経験が
役に立つとは皮肉なものだった。

「どうしよう……お嬢様が見つからない……」

ミウはやみくもに走り続けて息が上がっていた。
マリンが行方不明になったのは自分が原因だと
深く責任を感じており、表情は重い。

太盛には逃げ場所の見当はついていた。遊歩道をそれた場所は
人の踏み入れてない原子の自然。道中に落ちている小枝や
落ち葉を踏めば音はするはず。そして生物の修正として
開けた場所で休息をとるとしたら、ある場所が思い浮かんだ。


「お父様の馬鹿……」

そこは小川のほとりだった。
今日は風がおだやかなので川の流れはゆるい。

小川の周りはじゃり道になっている。マリンは
川の近くのイスほどの大きな岩の上に座ってふてくされていた。


じゃりの上にハクセキレイ(小鳥)が飛び降りたかと思うと、
小石の間をくちばしでつついて餌を食べている。

(なぜあんな場所にエサが……?
  そうか。風が吹くと木の実が地面へ落ちていくのね)

真面目なマリンはこんな時でも自然観察をおこたらなかった。

少し離れた木の根元には別の小鳥の集団がいた。
翼に黄色い模様のついた美しい鳥だった。
鳥の無邪気な姿が少しだけマリンの心を癒したのだった。


「鳥は……自由と平和の象徴ですの。
  どこへでも自由に飛んで行ってうらやましいですわ。
 私はこの小さな島で……ひとりぼっち……」


じゃりを踏む音。マリンが顔を上げると、申し訳なさそうな
顔をした太盛とミウが立っていた。

「マリン。今日はパパが悪かった。日が暮れる前に帰ろう」

マリンはふてくされて何も答えなかった。

うつむいていて、長い前髪が目元を隠している。
ジャージの裾(すそ)を指で強く握っていた。

太盛は優しく溜息を吐いた後、しゃがんでマリンと
目線の高さを合わせてからぎゅっと抱きしめた。

「あうっ」

マリンは、肉体労働で
鍛えられたパパの腕の中でおとなしくなった。

太盛がマリンの頭に手を乗せ、髪の毛をやさしくなで続けると、
もう悪い子ではなくなったのだった。

太盛がマリンの前髪をかきわけ、おでこにキスをすると
マリンはうれしいけど恥ずかしそうな顔をした。

「……今回は特別に許してあげますの」

「ありがとう、パパはマリンの優しいこところ、大好きだよ?」


そんな親子でラブコメをしている時だった。

絹を裂くような女の悲鳴が響き渡る。


「きゃああああああああああああ!!
  太盛さああああん!! 助けて下さあああい!!」

「なんだ!?」

腰を抜かしているミウのすぐ先には、なんとヒメハブという名の
巨大なハブがいた。クサリヘビ科の毒蛇である。

地面をすべるように、のそのそと頭を先頭に動いている。

表面は灰色を基調とし、どす黒く長い模様がまだらについている。
全長は70センチ以上。こんなものが近くにいたら
誰でも腰を抜かすか、発狂することだろう。

ミウはいちおう戦闘訓練は受けていたが、爬虫類が大の苦手だった。

「太盛さん助けてええ!! 怖くて足が動かないんです!!」

「う……。とにかく距離を取るんだ」

ミウに肩を貸し、蛇から距離を取る。

すると蛇はのそのそと動いて盛たちを追ってくる。

長い舌をレロレロと伸ばし、太盛たちを見上げる蛇。
爬虫類特有のヌルヌルした肌。極悪人のような体の模様。

太盛は全身に鳥肌が立ち、戦意を失った。


「お父様たち、大丈夫ですか!?」

「マリン!! 君は来ちゃだめだ!! 離れていなさい!!」

「そうもいきませんわ!!」

マリンちゃんはヒメハブを見て
一瞬顔をしかめたものの、ひるんだりはしなかった。

「なにか、武器はありませんの?」

「よ、よせマリン。野生の生き物はこちらが敵意を
  出さない限り襲ってくることはない……」

「でもこの蛇は今すぐにでもミウの足にかみつこうとしていますの!!」

ミウは森の中で歩きやすいようにとウォーキングシューズを履いていた。
それがグレーっぽい色だったので蛇に気に入られたのだろうか。

「マリン様……トラックの運転席にアサルトライフルが置いてありますが」

「何を言っているんですか?
  ここからじゃ遠すぎて間に合いませんの!!」

「護身用に持ってきたナタならありますけど……」

「ならば、それで我慢しますわ」

と言ってナタを受け取るマリン。意外とさまになっている。
マリンの戦闘力が数倍上がったのだった。

「ここから、いなくなれえええ!!」

マリンのナタが一直線に振り下ろされると、
蛇はするすると動いて回避。

もう一撃振り下ろすと、また蛇はよけてしまう。
体の動かし方がうまく、マリンの攻撃をよけるなど朝飯前といった様子だ。

蛇は大口を開けて今度は飛び掛かるようにマリンに噛みつこうとした。

「わっ」

マリンは飛び上がってよけた。あと少しで左の足首を噛まれるところだった。

「マリン、もうやめるんだ!!
  その蛇は毒をもっているんだぞ!!」

「いいえ。ここで戦わなかったら淑女として失格ですわ」

マリンは、生存競争をしようとしない生き物は
やがて淘汰(とうた)されるという、ジョウンママの教えを守っていた。

様子をうかがう蛇とマリン。間合いを保ち、両社ともにらみ合う。

殺気で周囲の空気が張り詰めていく。
遊びではなく、生き残りをかけた戦いなのだ。

それが、野生で生活するということだった。

「それっ」

沈黙をやぶったのはマリン。ナタをぶん投げた。

蛇の頭部を狙って直線状にナタが飛ぶ。

蛇はそんな攻撃に当たるわけがないと言いたそうな顔で
顔をひねってかわわしたが、それはおとりだった。

「いまですわ!!」

素早く駆け出し、蛇のしっぽを両手でつかむと、

「えいっ」

そのままぐるりと回る。遠心力を利用して
近くにあった木にたたきつける。

これには蛇もたまらず、ぐったりしてしまう。
マリンの攻撃はまだ終わらなかった。

何度も蛇を木の幹に叩き続ける。ジャイアントスイングを
する要領で蛇を痛めつけていると言ったら分かりやすいだろうか。

ようやく地面におろされた蛇は満身創痍だった。
そこでマリンが大きな石を持ち上げ、蛇の頭に落とした。

嫌な音がしてケチャップをぶちまけたように血が飛び散る。
蛇の頭だった部分は半分くらい陥没してしまい、絶命した。

あまりにもあっけない勝負の幕引きであった。

肩で息をするマリン。

ジャージの足元についた返り血を見て嫌そうな顔をした。

キリスト教では、蛇は現在の象徴とされて
忌み嫌われていた。聖書を愛読するマリンにとって
蛇は倒すべき象徴だ。

それ以上に父とミウを助けるために
体が勝手に動いていたということもあるが。


「僕たちの前に現れなければ、死ぬこともなかったろうにな」

慈悲深い言葉をかける太盛。

護身用に持ってきたスコップを使い、
木の根元に即席の墓を掘ってあげた。

穴掘りは重労働だ。
中腰でスコップを振り下ろしているとひたいに汗が流れてくる。

「私も手伝いますわ」

「ありがとう。助かるよマリン」

マリンの怪力によって蛇が3匹は入れそうな穴が一瞬で掘れてしまう。

(やはりマリンはジョウンの娘だ。
  小学生の女の子なのに腕力は成人男性並みというわけか。
   末恐ろしい女になりそうだな……)

本土と引き離された島での生活は、
つねに自然との闘いと言っても過言ではないのだ。

父は、これからも娘に自然の中で生きるということについて
色々なことを学んでほしいと思っていた。

そしていつかは都市部での生活を体験させてあげたいと思うようになった。

「ユーリが消えた」A

「ユーリがいなくなった?」

「はい。奥様。この件は急を要します」


その不穏な報告は朝一番にやってきた。

鈴原が早起きのエリカの部屋の扉をノックし、
緊急事態だからとリビングへと呼んだのだ。


「最後にゆーりを見たのはいつかしら?」

「昨夜、ミウが夕食を共にしましたが、
  そのあとは誰も見ていないようです」


リビングの高級ソファに優雅に腰かけるエリカ。
鈴原の話を聞いているうちに眉間にしわが寄る。


「ミウとユーリの夕食の時間は8時以降よね?」

「はい。そのあと夜の見回りの当番がありますが、
  昨夜はミウが当番だったようです。ミウは見回り後、
  ユーリが自室で睡眠をとってるものだと
   思っていたのですが、今朝起きると
   部屋には誰もいなかったそうです」

そばで立っている鈴原は冷静な態度を崩そうとしない。

エリカは、緊急事態だというのに鈴原の執事としての
徹底した態度に感心していた。

鈴原は執事長の立場だから、若いメイドのユーリが
行方不明になって気が動転しそうなほどのショックを
受けてもおかしくないのに。

「みんな、おっはぁ!! お腹すいてやばいんだけど。
  朝ごはんの支度はできてるぅ?」

アホっぽい口調のレナが空気を読まずに入ってきた。

レナは毎日島の大自然で遊ぶのが楽しくて
早起きなのだ。時間は朝の6時を過ぎたあたりである。


「レナお嬢様。口調に品がないかと」

「は? うぜーし。お嬢様言葉とか使ってるやつ
  今どきいないっしょ」

鈴原の指摘もどこ吹く風。
これでは不良少女と呼ばれてもおかしくなない。

「はぁ……」

鈴原の深いため息。

「またお嬢様はテレビドラマの影響を受けたのですね。
  多感なお年頃とはいえ……エリカ奥様の前でも
   その口調で通すおつもりですか?」

「あったりまえじゃん。ママなんかこわくねーし!!
  つか、鈴原もいちいち細かいことばっか言ってきてうっせえし」

すると部屋のすみのソファに腰かけていたエリカが立ち上がり、

「私ならここにいますが?」

「げ……!! ママいたの!?」

「レナ。その品のない口調はどうしたの?
  ふざけてるの? それにパジャマ姿のまま
  リビングに来るとはどういうつもり?」

「ぐ……うぜー」

「早く顔を洗ってらっしゃい。髪の毛もぼさぼさじゃないの」

「もうそういうの嫌だぁ!!」

吠えるレナ。

「なんでレナはいっつもママの言われた通りにしないといけないの!?
  レナは自由に生きたいんだよ!! 起きたいときに起きて、
   寝たいときに寝るの。ママの操り人形になるのはいやぁ!!」

レナの魂の叫びだった。

「レナだけじゃないもん。カリンだって言ってるよ!! 
  自由が欲しいって!! ママは細かいことばっかり
   言ってきてうるさいんだよ!!
    こんな生活じゃあ息がつまっちゃうよ!!」

ママに厳しい教育をされた反動で早めの反抗期を迎えていたのだ。

レナの訴えをエリカは黙って聞いていた。


本来ならば長時間説教コースが始まるところだが、
今はユーリが失踪したばかりで
子供の反抗期に付き合っている場合ではなかった。


「……言いたいことはそれだけかしら?」


レナの頬のすぐ横を、何かが通り過ぎた

壁に何かが当たった後、床に転がる。

それは食事で使われるナイフだった。
豪華な代物なので切れ味はそれなりにある。


「レナ。私は着替えて顔を洗ってらっしゃいと言ったのよ。
  理解できたかしら?」

「はい……お母さま」

もしここでふざけでもしたら、
自分が今夜のひき肉にされるかもしれない。

レナは全力疾走で自分の部屋に戻っていった。


そのあと遅れてやってきたカリンと一緒に
仲良くお食事の時間になった。

いつもパパやママがいてくれるはずの食堂の席はガラガラだった。
横長の白テーブルを双子の姉妹だけが占拠しており、
なんともさみしい朝の光景だった。

時計の針はもうすぐ7時を指そうとしている。
この時間に大食いのジョウンさえいないのは不自然だった。

「あるぇ? 今日はママたちは一緒に食べないの?」

「えっと、奥様達は忙しいので今日は時間をずらして
  食べるそうですよ?」

レナの問いに対し、ミウがばつの悪そうな顔をしたのを
カリンは見逃さなかった。

「ミウ。それは事件が起きたってこと?」

「正直分かりません。私が聞きたいくらいですからねぇ」

真剣な顔で聞いたのに軽くいなされてしまい、
腹を立てるカリン。ミウは罰が悪くなって目をそらした。

子供たちが不安がるから、ユーリの失踪は
口にしないようエリカから言われていたのだ。

大人たちはリビングで緊急会議を開いており、
朝食どころではない。ユーリが外部の者によって
さらわれた可能性もある以上、子供たちの外出は厳禁とした。

実はジョウンすでに外へ捜索に出てる。
ジョウンは使用人の中で特にユーリに思い入れがあったのだ。


「こんな地味なご飯ってめずらしいねぇ」

「ほんとね。やっぱり何かあったに違いないよ」

レナとカリンが後藤の作ってくれたご飯を
もしゃもしゃとつまらなそうに食べてる。

レナの語尾は間延びしていて、よくカリンに
からかわれる。いわゆる同性から嫌われるぶりっこの口調だ。
レナはつくっているわけではなく、素の話し方なのだが。

「マリンちゃんはまだ寝てるのかなぁ?」

「ああいうのを低血圧っていうんだっけ?
  病気みたいなものだってお父様が言ってたわ」

今日のメニューはご飯とみそ汁と焼き魚。
申し訳程度に特製のカスタードプリンがついてる。

「レナのプリンちょーだい」

「は? うぜーし。バかりんなんかにやるわけないじゃん」

「なにそのしゃべりかた? 時代遅れのギャルみたいじゃん」

「今どきの若者はこういう口調で話すっしょ。まじパないよね?」

「あははっ。分かった。あのドラマのセリフを真似してるのね」

ママが見てたらすぐにお叱りを受けたことだろう。

盛り上がる双子を壁際に立つミウは黙って見ている。

彼女は子供の世話を任されてるからここにいるのだが、
頭はユーリのことでいっぱいになっている。

今すぐにでもジョウンに着いていきたかった。

この屋敷にきて実に10年。メイド仲間のユーリとは
友を超えた深い絆で結ばれていた。

「ミウってば!!」

「……は?」

考え事をしていて、怜奈(レナ)に呼ばれてるのに気づいてなかった。

「今日はお外で遊んでいいのかな?
  よほーだと午後まで晴れてるんでしょ?」

「それは……奥様が許可してくれないのであきらめてください」

「なんでー!!」

「レナお嬢様、世の中には分からなくて良いことが
  たくさんあるのです。今日はお部屋で私と
   遊びましょう。お勉強の後にですけどね」

「うええ」

嫌そうな顔をするレナ。カリンも同じ表情だった。

意気地のない2人に活を入れるために、ミウが声を張り上げる。

「Eat up!! ladys!! it's not time for joke!!
eat or call you'r mather right hire」

(さっさと食べてしまいなさい。冗談ではないのですよ。
   さもないとお母さまを呼びますよ)

双子はミウの甲高い英語で言われるとおとなしくなるのだった。



さて。お昼を回るごろにジョウンが捜索から帰ってきた。

くやしそうに歯を食いしばっている。

鈴原がいぶし銀にお辞儀をして玄関で出迎える

「おかえりなさいませクッパ様。その様子ですとユーリは……」

「森中を駆け回ったのだがな。ついに見つけられなかったよ。
 もちろん海岸沿いも見てきたが、いなかった」

「ユーリが島から脱出した可能性は考えられますか?」

「おそらくないだろう。なにせ海岸に足跡すらなかった。
  ボートなどを使った形跡は見つからなかったぞ。
  それにあの子に脱走した後の行く当てがあるとは思えないな」

ユーリに身寄りがないことをジョウンは知っていた。

それは彼女の不幸の過去が関係しているのだが、
ここではまだ明かさない。

ちなみに島を海岸沿いに走り続けるには
マラソンランナー並みの体力が必要になる。

その程度の距離などクッパ(ジョウン)にとっては朝飯前なの
だからおそろしい。ちなみにジョウンのあだ名はクッパに変わった。

なぜなら、結婚してからのジョウンはますますたくましい
ガタイになり、また顔つきも鬼のように怖いので
スーパーマリオのクッパにそっくりだった。

彼女にはナツミという本名があるのだが、
まじめな鈴原も含めて屋敷の全員が忘れてしまった。

「左様でございますか。他に探していない場所となると……」

鈴原の顔が渋みを増す

「うむ。あの険しい山岳しかないな」

クッパも忌(いま)まわしそうに目を閉じている。

島の半分を占める山岳部は、低山や高山が連なる峠道もある
その道程は、基本的に獣道であるから一からの開拓になる。
まさしく人の手をかかっていない自然の山であった。

登れそうな斜面を整備するだけでも至難の業である。

低山(250メートル)の神社へ
続く道だけは太盛父が整備してくれた。


「だが普通に考えて、ユーリがそんなところへ行ったりするだろか?
   あそこは人間の手がかかってない本物の大自然だ。
    命知らずにしてもほどがある」

「私もクッパ様と同意見でございます。
  となると、あと考えられるのは」

「誘拐……か?」

クッパが目を細める。

ここは島であるから、陸続きの土地と違って国境があるわけではない。
侵入経路はいくつもある。海上からはもちろん、山などに
パラシュート降下して館へ侵入したという可能性も考えられる。

「ユーリが消えた」B

「2人とも、中に入って頂戴」

玄関の中からエリカの声。隣に太盛も立っている。


「犯人から脅迫状が届いたわ」

その言葉に戦慄するクッパと鈴原。
さっそくリビングへ集合する。

犯人の手紙は丁寧にも封筒に入っていた。

手紙にはこう書かれている。

『拝啓。突然お屋敷の使用人であるお嬢さん(ユーリ)を
  さらってしまったことを申し訳ないと思っている。
  だが私はどうしても知りたかったのだ。
  この島に住むと言われる怪獣のことを』

『怪獣は、熊を素手で倒せるレベルの武闘家だと聞く。
  私は君たちが低山と呼称する山の神社で待っている。
  安心してくれ。怪物君が来るまではお嬢には手を出さない』


読み終えた太盛は激しく動揺し、

「実にくだらない子供だましの手紙だ!!」

柄にもなくが拳をテーブルに振り下ろした。

「ユーリを誘拐した犯人が手紙を出すだって!?
  ありえない!! 仮にこの手紙が本物だとして、
   犯人はどうやって手紙を玄関の前に置いて行ったんだ!?」

「太盛様の言う通りですわ」

とエリカが言う。

「本当にユーリを誘拐した後にこの手紙を出したのでしょうか?
  この屋敷の庭中に赤外線センサーが網のように張られていて、
   部外者が接近すると警報が鳴ります」

「僕の親父殿の作ってくれたソ連式の迎撃システムを
  かいくぐってくるほどの手練れ?
  もしくは内部にスパイがいた可能性も……」

「お気持ちはわかりますが、さすがにスパイ説は
  言いすぎですわ。わたくしたちはみな家族であり、
   運命共同体です」

「……そうだな。すまないエリカ」

この手紙は、どういうわけかクッパが帰ってきくる
少し前に、何の前触れもなく玄関の前に置いてあったのだ。

まるで米国の新聞配達員が、玄関前の芝生へと
自転車から新聞を投げ捨てていくかのように。


「それが……奥様」

鈴原が申し訳なさそうに言う。

「実は今朝から何者かのサンバー攻撃を受けていたようで、
  コントロール室のすべての危機が故障しております。
   監視カメラの映像も操作されております」

「なんですってぇ!?」

館の外部に設置された監視カメラ(暴風防水仕様)の映像は、

信じられないことに録画済みの平穏な景色だけを移し続けていた。
つまり録画した映像を繰り返し流していて、
あたかもいつもの日常が続いてるように見せかけたのだ。


今日の午前中、ミウと後藤が地下のコントロール室で
監視していたのに犯人を見つけられなかったのはそのためだ。

ちなみに家族として認められない不審者が館に侵入した場合、
警報が鳴って館の使用人たちが臨戦態勢になる。

武器は非常に豊富であり、地下にある武器庫には
対戦車ロケットランチャーや重機関銃を含む、
籠城戦に備えたあらゆる武器弾薬が揃えられていた。

弾薬の量も豊富であり、まる一か月は戦い抜ける量である。

裏の格納庫には2丁の重機関銃を装備した装甲車が2台もある。
屋敷そのものを一つの塹壕や要塞に見立てて防戦をするのである。

これら武器の管理を任されていたのは、執事の鈴原である。
太盛の父が万が一の場合に備えて用意してくれたものだ。

確かに日本の法律では銃刀法違反になるのだが、
この孤島は実質的には法の外にある僻地(へきち)である。

侵入を防げなかった場合の最後の手段として、
館の地下に自爆装置が用意してある。
死ねばもろとも。これがソ連式なのである。


「どのようにサイバー攻撃を行ったかは不明ですが、
  犯人は計画的にユーリを誘拐したものと思われます」

「確かに鈴原の言うとおりね。これは明確な犯行の意思があるわ。
  それもただの愉快犯ではなく、
   訓練されたスパイだと思わったほうがいいわね」

「おい。まだ不審なものがあるぞ」

太盛が見たのは、巨大な封筒のほかに置かれていた不思議な帽子だ。

クっパが手に取ってみる。

「このデザイン、懐かしいな。太盛とエリカは知ってるんじゃないのか?」

かぶりを振る2人。

クッパはやれやれといった様子で

「スーパーマリオの弟だよ。
  お前たちも子供のころはよくプレイしたろ?」

「あぁ。ルイージのことを言っているんですの」

「ってことは、それはルイージの帽子ってわけか。
  マリオのとは色もデザインも違うから最初は全然気づかなかったな。
   しかし、なぜ帽子を置いて行ったんだ? 何か意味があるのか?」

長考の末、太盛に鈴原が答えた。

「……分かりませんな。犯人の趣向なのかもしれませんが」

エリカは難しい顔をして黙っていた。

クッパも目を閉じて考え事をしてる。


犯人の得体が知れないために今回の事件の異常さに
全員が戦慄していた。シンヤノモリのような鹿ハンターとは違い、
相手はプロの誘拐魔である。それもサイバー攻撃を
実施してくることから、事前に館の情報を知っていたことになる。

永遠にも似た沈黙を破ったのは、寝坊魔のマリンだった。


「みなさん。ごきげんよう。
  今日もお布団が気持ちよくて、
   こんな時間まで寝てしまいましたわ」


きちんと身支度を整えているあたりがレナとはまるで違う。
お嬢様口調も板についてる。話すときの笑顔も自然で好印象だ。

エリカはマリンがいると不機嫌そうに視線をそらすのだった。

自分の生んだ娘ではないのにレナカノ姉妹よりも
洗練されたお嬢様になっていて、内心は気に入らないのだ。

クッパは大好きな娘の頭を撫でてあげようとすると、距離を取られて
ショックを受けた。マリンはクッパに襲われると思ったのだ。


「いけないことだと分かっておりましたが、
  先ほどからお父様たちのお話を聞いていました。
   ユーリをさらった犯人を倒しに行くのですか?」

とクッパに言うマリン。

確かに話の流れからして彼女のお母さまであるクッパが
山を登って倒しに行けばいい話なのだ。


犯人は山で待ってると果たし状まで書いてある以上
いかなければなるまい。

なによりクッパの戦闘力ならば、たとえソ連軍特殊部隊なみの
戦闘力を持つ男だったとしても相手にならないと思われた。

太盛たちは、クッパが拳を振れば竜巻が起こると信じていたので、
英雄として見送ることにした。


一行は館から出て山岳部の入り口である低山のふもとまで来た。

念のため、エリカと太盛は銃(サブマシンガン)で武装してある。
見送り組は太盛、エリカ、鈴原、そしてマリンである。

マリンは両親から猛反対されたが、どうしても見送りに
行きたいと言ってきかなかったのだ。

「どうかお気を付けて。私はここで
  お母さまが無事に帰ってこれることを神に祈ってますわ」

「JC様。できることなら犯人を殺さないようお願いします。
   館で尋問をいたしますので」

マリンと鈴原に言われて、任せておけとにっこり笑うJC。

ちなみにJCもクッパのあだ名だ。ジョウン・クッパを略してる。
ここの人々は気分によってクッパ、JCと呼び分けた。

太盛とエリカにも応援の言葉をかけられ、いよいよ
彼らに背中を見せて山の入り口に
一歩を足を踏み入れようとしたその時だった。


一発の銃声が鳴る。

それはスナイパーライフルの狙撃だった。
銃弾の直撃を受けたクッパがうつぶせに倒れる。
彼女の頭から血が出ている。
目は見開いたままだ。

とつぜんだが、クッパは死んでしまった。


「は……?」


間の抜けた声を発した太盛と同様、他の全員も立ち尽くした。
あまりにも突然の出来事だったので現実とは思えなかった。

クッパの死体の周りに血が広がっていく。
銃弾は後頭部を貫通していたのだった。

「ここにいるとみんな撃ち殺されますわ!!」

声を張り上げたのはマリンだった。
全員が我を取り戻し、館へと疾走する。

クッパの死体は重くて持ち上げることができないので
仕方なく現場に放置した。

鈴原が後衛につき、何度も後ろを振り返りながら
追ってくるものがいないか警戒をつづけた。

幸いなことに追撃はなく、4人は無事に館についた。
すぐに手分けして屋敷中の窓と扉を施錠した。

「ちょ……いったい何があったんですかぁ!?」

驚くミウに太盛が一部始終を説明し、すぐに武装させた。

家族全員をだだっ広い食堂に集めて、テーブルやいすなどを
窓と扉の前に集めてバリケード代わりにする。



エリカは緊張を通り越して過呼吸になっていた。

「はぁはぁはぁ……ふぅ……はぁはぁはぁ……」

太盛を監禁した10年前の残酷さはどこへ消えたのか。
いざ自分が命を狙われる側になると小動物のように縮こまるばかり。

「エリカおば様。どうか落ち着いてください。
  これだけ人数がいれば、犯人はすぐには
   仕掛けてきませんわ」

太盛にはおびえるエリカの姿が滑稽(こっけい)だった。

マリンの励ましの声も耳には入っていないよで、
頭を抱えて椅子に座り込んでいた。

「太盛様……せまるさまぁ……絶対にエリカのそばを
  離れないでくださいね……」

「エリカ。大丈夫だ。僕がついてる」

子猫のように太盛の胸に頭を沈め、しくしくと泣き続けている。

太盛の片方の妻であるクッパが銃殺されたのだ。
それもエリカたちの見てる前であっさりと。

殺害現場を見た人で精神的な後遺症を残す人はどこの世界にも存在する。

クッパは犯人が頂上で待っているという手紙に油断した。

犯人はいつでも家族全員を銃殺できるよう、スコープ越しに
狙いをつけていたのだ。この大自然の中で、どこに潜んでるか
見当もつかない。それこそ訓練された軍人でもなければ。

「マリンは無理して強がらなくていいんだぞ。
  こんな状況じゃあ発狂してもおかしくない。
  怖くはないのか?」

「私だって本当は怖いですわ。
  でもお父様たちと一緒にいれば安心ですの。
   みんなが守ってくださるんですから」

「君は……強い子だね。マリン」

娘の気丈な様子に底知れぬ恐怖を覚える太盛。

現に自分の母親が殺されたというのに、取り乱さないところか、
涙一つ流さないのだ。人の血が流れている子供なのだろうかと
疑ってしまうほどだ。

山で引き返すよう全員を先導したのもマリンだった。
この危機的状況で恐るべき機転が利くことに驚愕(きょうがく)する。

狼狽してるエリカとはまるで正反対。
わずか9歳の娘にしては異常なほど落ち着いていた。
ミウも同じことを考えていたので、ためらいがちに聞く。

「お母さんのこと、悲しくないですか? 
  泣きたかったら遠慮なく泣いていいんですよ?」

「わたくしは、強い子になれとお母さまに命じられましたから。
  まだ犯人が生きてる状況で泣いている暇などありません」

「そ……そうですか」

真顔で言われてしまっては、ミウには返す言葉がなかった。

レナとカリンはミウから離れようとしない。
緊急の呼び出しを食らってお勉強がサボれると喜んでいたら、
とんでもない事態になっていた。

「……ここにいたら、わたくしたちは
 全員殺されてしまうんですわ。
 この館がわたくしたちの墓場になるんです」

「エリカ。僕たちが結束すればどうにかなるさ」

取り乱すエリカの様子が、子供たちの不安をますますあおるのだった。
子供を叱るときの鬼の顔も迫力もなにもない。

父親にすがるように太盛の胸に顔を預ける母の姿は
本当に弱い女性として映った。

「太盛様。手を握ってください」

「あはは。さっきからずっと握ってるじゃないか」

「その手をずっと離さないで。
  太盛さんにはずっと私のそばにいてほしいのです」

深い意味の言葉だった。

いよいよ命の危険を感じた時にこそ人の本音が出るというもの。

エリカは形こそ間違えていたかもしれないが、太盛のことを
心から愛していた。だから仮に犯人の襲撃を受けて
皆殺しにされたとしても、せめて太盛のそばにいたかったのだ。

そんなエリカの手を強く握って話さない太盛もまた、
エリカに情がある証拠だった。

(なぜだ? エリカのことは殺したいほど憎んでいたのに)

愛想をつかしたはずの妻の知らない一面を見てしまったから。
たまらなく弱い存在だと知ってしまったから。

考えても理由は分からないのでやめた。


「……こんな時に夫婦のイチャラブシーンなんか見たくないぜ。
  私らガチで殺されるんじゃね?」

「……うん。マジはんぱねー状況だな」

チャラい口調のレナとカリン。

この状況ではどういう口調で
話してもママに注意されることはないので緊張感がなかった。

「あのさぁレナ」

「なんだよカリン? つかおまえまで
  なんで私の口調が移ってるの?」

「ぶっちゃけクッパが即死だったんでしょ?
  私らが戦ったところで勝ち目なくね?
   つーかここにいても確実に襲われるでしょ」

「あー。私も同じことを考えていたんだよ。
  こっちから襲い掛かるとか、いい考えだね」

そして双子がそのことをミウに報告すると怒られた。

「外に出るなんてもってのほかですよ!!
  レナ様にカリン様。犯人が庭にでも潜んでいたら
   すぐ撃たれちゃいますよ!!」

「あっそ」とふてくされるレナ。

「ならせめて私たちにも銃をちょうだい?
  自分の身くらい自分で守らないといけないでしょ?
   カリンたちだって武装すれば少しは戦力になるんじゃないの?」

と冷静にカリンに突っ込まれると、ミウは太盛に助けを求めた。


「別にいいんじゃないか? 
  無反動のマシンガンなら使いやすいだろう
  簡単に操作を教えてあげてくれ」

「太盛様がそうおっしゃるなら、仕方ありませんね」

ミウがウージー(小型サブマシンガン)を姉妹に渡して、
構え方、セーフティの外し方、照準のつけかたを教えた。

「この銃、まじかっけー!!」

「イギリスのスパイ映画に出てきたのと似てない!?」

女の子だというのに、目を輝かせる2人。
事の深刻さが分かっている割りには軽いノリだった。

「ほんと、まじパねえっす!!」

「こら、3人ともこんな時にふざけないでくれ。
  自分たちの命がかかってるってことを忘れたのか?」

「全くですよ。今銃の使い方を教えますから、こっちにきてくだs……」

太盛がめずらしく腹を立て、ミウが子供たちに銃の使い方を教えようと
した時である。いよいよ部屋にいた全員が異変に気付いた。

『ん!?』

一同が唖然としたのは、いつのまにかリビングに知らない人が
現れたからだった。つい先ほど、太盛は3人とも……と言った。

つまり3人がふざけていたわけだ。レナとカリンはいいとして、
マリンがふざけるわけがない。ということは……

「うっす。俺様登場っす」

このチャラい口調で話す者こそ、不審人物に違いなかった。
例のルイージの帽子をかぶり、細長い顔に口ひげを生やしている。

本物のルイージにそっくりだが、唯一違うのは
凶悪な悪人面だった。恐ろしく目つきが悪い。

「お、おまえは……いったいなにを……」

「あっ、太盛さん。なんか急にお邪魔しちゃってサセンっす。
  館のみんながパニック起こしちゃってる
   みたいなんで、ちょっと気になって中に入っちゃいました。
    あ、俺のことはルイージって呼んでもらって構わないんで」

太盛は、それ以上の言葉が出なかった。

ルイージという男はどういうわけか、リビングのソファに座っている。
いつからいたのか、どうやってここに入ったのか。見当もつかなかった。

ルイージのノリは軽い。それに多弁だった。

寡黙(かもく)なスパイを想像していた大人組はまさしく言葉を失った。
ルイージがJCを射殺した本人とはとても思えないほどだ。

(こいつを殺せ。殺すんだ)

太盛はテーブルに置いた銃へ手を伸ばそうとしていた。

このルイージ帽子をかぶった中肉中背の男が
犯人だと断定する根拠は十分にあったが、いまだ決心がつかない。

エリカは隠し持っていた銃を構えようとしたが、
恐怖と同様のあまり照準が合わない。

一番最初にショックから立ち直り、行動に移ったのはミウだった。

「動くと打ちます」

「ちょ……いきなり銃を構えるとかありえねえっす!!
  なんすか俺ここで死ぬんすか!? 
  ほんとありえねーし。まじ勘弁してもらえます!?」

「無駄口をたたかないで!!
  おとなしく手を上げないなら今すぐ射殺するわ!!」

「その前にちょっと見せたいものがあるんすけど」

ソファから立ち上がってコートを変質者のように開くと
内側に手りゅう弾が大量に張り付けられていた。
その数は軽く10を超える。

「あのー。打つのは自由なんすけど、俺の体に当たった瞬間
  手りゅう弾が誘爆してパねえ威力になるっすよ?
  グレネードランチャーを連射したくらいの
   被害が出ると思ってもらっていいっすか?」

グレランは、主に米国の警察が使用している。
犯人のこもっている部屋全体を爆破、制圧するための兵器だ。

つまりルイージを打てば確実に全員が死ぬ。

「ならば足を打てば!!」

「サーセンミウさん。信じてもらえないかもしれないんすけど、
  実は俺、ズボンの内側にも手りゅう弾を仕込んでるんで」

チャラ男口調で言われて信じろというほうが無理だが、
つい先ほどコートの手りゅう弾を見せられたばかりだ。

それに誰にも気づかれずリビングでくつろいでいたという、
驚異的な潜入能力を持つ超人であることは絶対の事実。

「ちなみにヘッドショットを狙おうとしても無駄っすよ。
  手りゅう弾のピンをはずすの、ミウさんが打つのより
   たぶんこっちのが速いんで」

ミウは怒りに震えながら銃をおろした。

「ユーリが消えた」 C

ルイージは不敵な笑みを浮かべてソファに座る。

「あざっす。これで普通に話ができそうっすね」

「何が目的だ!!」

太盛が声を荒げる。

「ちょ……。いきなり怒鳴られると心臓止まるじゃないっすか。
  俺、ビビりなんで勘弁してくださいっすよ」

「そういうのはいいから、早く本題を話せよ。要求はなんだ?」

「いや、最初の目的はジョウンを倒すことだったんすよ。
  素手じゃ無理だと思ったんで、銃殺しちゃいましたけど」

「なぜ殺した!? おまえはジョウンに何の恨みがあった?
  ジョウンと面識はなかったはずだ」

「別に館の人たちに恨みはねえんすよ。むしろファンっす。
  実は3年前から日本周辺の離島の調査とか
  やってたんすよね。ちょっと仕事でね。
   そしたら太盛さん一家を偶然見つけちまって、
    すげえ興味がわいたんすよ」

「仕事だと……? しかも3年前から?」

「ちなみにジョウンは戦闘力が高かったんで、さきにやっちまいました。
  あいつがいるといろいろ邪魔してきそうじゃないっすか」

とんでもない事実が次々に明らかになり、
さすがに理解が追い付いていかなかった。

3年前は今と変わらず家族全員が平和に暮らしていた。
コントロール室と連動してる監視カメラは常に
確認していたし、監視塔からの目視もある。

島に接近しようとする怪しい船はすべて追い返すか、
海上保安庁に通報するなどして対処していた。

太盛とエリカの婚約時代にシンヤノモリが
潜入してきた教訓を生かして、太盛の父が警備にかかる
費用を払ってくれたため、現在の迎撃システムがあるのだ。

「太盛さん、顔色悪いっすよ?」

ルイージの言う通りで太盛は血の気が失せていた。
このまま気絶してしまえばどれだけ楽かと思った。

エリカは彼の腕にしがみついたまま離れようとしない。

あの鈴原でさえ頭を抱えており、ミウは絶望的な
顔で立ち尽くしている。後藤は十字架を取り出して神に祈りをささげていた。

「あの。話し続けていいっすか?」
  実は俺、北朝鮮の外務省でアルバイトやってるんすよね。
   で、今回の任務は外国語に堪能な日本人を拉致して
   こいってことなんですよ。嘘じゃねえっすよ?」

「つまりおまえは……屋敷中の人間を北朝鮮に拉致するのが目的なのか……」

太盛の問いに対し、ルイージが答える。

「俺が欲しいのは若い女だけっすかね。
  ユーリさんなんか美人だし、英語もペラペラで最高っすよね。
   あと欲しいのは、そこにいるミウさんす」

指をさされたミウは発狂しそうなほどの衝撃を受けていた。

「人身売買の世界だと、日本人って実はアジア人で
  一番値段が高いんすよね。若い女2人ならなおさらっすよ。
    あ、話長くてサーセンっす。
    つーわけで、ミウさんさらってもいいっすか?」

あまりにも軽すぎる誘拐宣言。

エリカはショックのあまり気を失ってしまい、後藤も続けて倒れた。

使用人であり家族の一員であるミウが、なぜ北朝鮮の
外務省から派遣された男に拉致されなくてはならないのか。

この男にそんな権利があるのか。

太盛は濁流(だくりゅう)のごとく
押し寄せる怒りの感情を抑えることができなかった。

ルイージにばれないように鈴原とアイコンタクトした。

最悪、自分たちが全員死んでもこの男を銃殺するべきだと。

ルイージは確かに手りゅう弾を大量に保持しているが、
ミウを黙って差し出すなら全員死んだほうがましだと考えた。

ユーリは、おそらく舟か何かに乗せられてまだ生きているのだろう。
人質だからだ。自分たちが全員木っ端みじんになっても、
ユーリだけは生き残るチャンスがある。それで十分だった。

家族とは死んでからあの世で再開すればいい。

覚悟を決めた太盛と鈴原が、3秒後に
合図して銃を構えようとしたその時だった。

「そんな要求を受け入れるわけにはいきませんの!!」

なんと。それはマリンの声だった。

「勝手に人様の家に押し入ってきた強盗に、ミウを渡すわけが
 ありませんわ。渡す理由がありません。ユーリも返してもらいますの」

「ちょ……まさかマリンお嬢さんからツッコミが入るとは
 予想外の展開っすよ。悪いんすけど俺も仕事でやってるもんで、
 時間ないんでー、そろそろ答えを聞きたいってゆうか」

ルイージはそう言って44口径マグナムをマリンのおでこに押し当てた。

汚れのない瞳をした9歳の女の子に銃を突きつけるなど、
まさしく鬼畜の所業であった。

それに44口径は戦車の暑い装甲を貫通するほど威力がある。
もともと人に向けて撃つには力がありすぎると
されているハンドガンであった。

怒り狂った太盛がルイージに襲い掛かろうとしたが、
鈴原が後ろから羽交い絞めにして抑える。

「離せ鈴原ぁあ!!俺のマリンが! マリンがぁぁぁ!」

「今はなりません!! 犯人を刺激してはいけません!!」

ルイージはそんな太盛を見てニヤニヤしていた。

「あー、やっぱお父さんは切れたっすね。
 まあ無理もねえっすよね。こんな状況じゃあ」

と言ってマリンの肩をつかみ、リビングの扉まで歩かせた。

「めんどくせけど、この子もついでに誘拐していきますね?
  ミウさんも一緒に来てもらっていっすか?
   あ、少しでも反抗のそぶりを見せたら
   マリンちゃんの頭に風穴あいちゃうんで」

ルイージは、若い女性を見るときにニヤニヤするくせがある。
この時もミウを舐めまわすようにみて、口角を上げていた。

ミウにとってこれ以上ない不愉快な笑みだった。

ミウはバカでもなく臆病でもないから、一瞬であらゆる
選択肢を頭に浮かべて最善策がないか考えた。

しかし、何も思いつかなかった。

目の前でマリンを人質に取られているのである。
もう一人の人質であるユーリの居場所もいまだ分からない。
ユーリが今どこにいてどんな状態なのか、すべて推測の域を出ない。

ミウは、太盛がユーリに特別な感情を抱いているのを
知っていた。午前中の散歩が、実は彼女と話をするのが
楽しみで歩いていることも。

少しだけユーリに嫉妬したこともあったが、メイド仲間だから許せた。
ミウが大事にしたいのは太盛の意思だった。
太盛がエリカを心の底で拒むのも、代わりの愛情をユーリに求めるのも、
全ては彼の自由意思。彼の意思を尊重するのがミウの務めだった。


今回はそれが、自分が拉致されることで終わる。

今日まで太盛と過ごした10年間がここで終わる。

ミウはルイージのうしろを着いて行った。
一瞬だけ太盛を振り返り、ニコッと笑った。
マリンは最後まで目を閉じたままだった。


「うわああぁぁぁあぁあぁあああぁぁぁ!!」


太盛の獣のような咆哮(ほうこう)が響く。
鈴原は暴走する太盛を力づくで抑えていた。

エリカとの婚約から始まり、10年続いた孤島生活。
使用人とは家族のきずなで結ばれ、幸せな家庭を築いた。

2人の奥さんがいるという破天荒な関係ではあったが、
娘たちは健康的に育って父を喜ばせていた。

森での散歩、木こり仕事、山菜取り、子供たちのお勉強。
全ては大切な日常だ。

本土に比べたら原始的な生活をしているのかも
しれないが、誰もが心は豊かだった。

ユーリを失い、ミウを失い、マリンを失ったら、
太盛は生きる意味すら失ってしまう。


「ぐおうおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」

これはルイージが吹き飛ばされた音だった。

やったのは太盛でも鈴原でもない。
立ち尽くしていたレナカリ姉妹でもない。

「マリン。ミウ。助けに来たぞ」

そこにいたのは、死んだはずのJCだった。

幽霊でもゾンビでもなく、生身の人間である。

JCは、死ぬ直前に覚醒したのだ。

確かに頭を打たれればどんな生物でも死ぬはずだが、
あいにくクッパに常識など通用しない。

頭には自分で包帯を巻いており、痛々しい。
しかしながら体つきはさらに良くなり、
もはやプロレスラー並みである。

解放されたミウとマリンはJCの後ろへ隠れた。

「ちっくしょおぉ……まじいてええ……つかなんで
  今の衝撃で手りゅう弾が爆発しなかったんだ……?」

ルイージがコートの裏側を確認すると、
なんと手りゅう弾がすべて消えていた。

「おまえの手りゅう弾な、邪魔だったから
  その辺に捨てておいたぞ」

「は……?」

太盛たちはルイージがあせる様子を初めて見た。

ルイージが玄関を開けて外を確認すると、
大量の手りゅう弾が芝生の上に転がっていた。

さらにどういうわけか、ルイージが持っていたマグナムは、
なぜか銃口の先端が折られており、使い物にならない。

いつのまにとか、どうやってとか。そういった常識は通用しない。

これでルイージは丸腰だと思われた。

「常識外れなのは、お互い一緒だろうが!!」

ルイージは、これまいつのまにか太盛が持っていたはずの
サブマシンガンを所持しており、クッパの腹に向けて
20発くらい連射した。その間、わずか4秒。

「ふふん」

どや顔のクッパ。

腹の厚みによって全ての弾を跳ね返していたからだ。

「さて。今度はこちらの番だな」

ルイージを本気の顔でにらむクッパ。

常軌をいっした化け物の存在に、百戦錬磨の
スパイであるルイージですら戦慄してしまった。

クッパは、握った拳に、自分の旦那、娘、ほかの家族や
使用人たちの全員分の怒りを込めた。

クッパの拳にはファミリーの意思が宿り、神々しい光を放っていた。
その質量は、少し振り下ろせば大地に地割れすら起こせるほどのものだった。

クッパは一歩前を踏み出した。

踏み出した部分には大きな穴が開いており、
まさつで煙さえ立っているほどだった。

「うぐあああああああああああああああ!?」

ルイージはクッパの腹パンをまともに食らい、衝撃を殺しきれず
リビングの壁を貫通し、さらに奥にあるトイレの
壁まで貫通する。最終的に裏庭まで飛んでようやく止まった。

「あぁ……うぅ……あぁ……」

ルイージは完全に戦闘不能になった。
みぞおちの痛みのために何度も吐血を繰り返している。

腹パンはルイージのあばら骨を粉々に砕き、
それが内臓まで痛めてしまったのだ。
これでもまだ生きているのだから、かなりの生命力である。

そのあとは太盛が引き継ぎ、ルイージを地下の牢屋へ閉じ込めた。
エリカが用意しておいた電気椅子に座らせて尋問を開始。

ユーリの居場所を聞いた。

北朝鮮から派遣されたスパイは中々口を割ろうとせず、
無駄に時間だけが過ぎていった。

ユーリの命がかかっているため、電気椅子のスイッチを
入れて拷問を開始しようとした太盛を、エリカが止めた。

エリカはルイージの正体がロシア系であると見抜いており、
ロシア語で何事か話し始めた。

「Поговорите с быть честным Мой
 враг не является Вы
  благополучно домой в Россию」

(私は敵ではありません。正直に話せば
  あなたを無事ロシアまで送り届けます)

これを聞いたルイージはどういうわけか
涙をぽろぽろと流し、ロシア語で答え始めた。

黒髪でショートカットのエリカ。日本人なので瞳も黒い。
年齢を感じさせないほど白くて美しい肌。
知性を感じさせる鋭い瞳ときゅっと引き締まったくちびる。

東アジア人の基準でいえば相当な美人になる。
そんなエリカが聖母マリア様に見たのか、ルイージは
自分のことを正直に話し始めた。

彼の祖先はエリカと同じく旧ソビエトの人間だった。
祖父の生まれはソ連領のカムチャッカ半島だ。

日本など極東の国と近い。ベーリング海峡を隔てて
アメリカのアラスカに達することができる地域で、
冷戦時は原子力潜水艦の基地があった。

有事の際はまっさきに米国から軍事攻撃を受ける危険地帯であった。
軍港の他はまったくの田舎であり、極寒で火山活動の活発な地域であった。

幼少のころのルイージは祖父に連れられてよく鹿狩りをしたものだ。
木を削って作ったカヌーで川を下り、移動する。
冬は凍った湖の上に座り、氷をけずって釣竿を垂らす。

そんな田舎の少年が、やがて成長し、都市部の学校に通うように
なってからは成績優秀で奨学金で大学まで進んだ。

卒業後、国際スパイとしての道を歩み始めたのだ。


のちにソビエト政府が崩壊し、
行き場を失ったルイージ(44歳)は、北朝鮮に亡命した。

彼の能力を高く評価した北朝鮮政府は、外務省の職員(スパイ)として
彼を起用した。中国、韓国、日本への諜報活動。および人質を
確保することを命じられ、この島までたどり着いた。

この島は長崎減の行政範囲だが、実質孤立した島といっても
過言ではなかったので狙うにはもってこいだったのだ。

ルイージは、その後日本国の警察に極秘に引き渡された。
彼のスパイ事件が明るみになれば、大きな国際問題に発展してしまう。
最悪戦争の可能性すらあり得るだろう。

太盛たちの住んでいる島が日本海側にあり、
北朝鮮に近かったのが災いした。



そしてユーリだが、彼女は信じられないことに
自分の部屋のクローゼットの中で縛られていた。

これも太盛たちの裏をかいた恐るべき作戦であった。
ユーリをさらっと見せかけて、実は本命のミウを
奪っていこうという作戦だったのだ。

無類の女好きのルイージは、ミウを自分の奴隷とするために
拉致しようと思った次第で、実は今回の誘拐は
北朝鮮政府から命令された任務外のことであった。つまり愉快犯である。

「あぁユーリ……生きててよかったぁ……」

ミウとユーリは抱きあって再開を喜んだ。

屋敷の住民のだれもが無事に生き残れたことを神に感謝した。

孤島生活史上、最大の危機を乗り越え、彼ら家族のきずなは
ますます深いものになっていくのだった。

それと当時に孤島生活そのものに対する将来的な不安も露呈した。

次にルイージのような男の侵入を許せば、今度こそ
家族全員が殺されるか拉致されてもおかしくない。


特に強い危機感を抱いたのがエリカだ。

彼女は太盛に家族と使用人たち内地へ移して生活を
することはできないかと相談した。

もっとも本土への帰還は太盛の父の許しがなければ不可能。
孤島そのものを含め、この生活の出資者であり、
生殺与奪の権利を握っているのは父なのだ。

今回の騒動は異常であり、もし報道されたら日本中を
震撼させるほどの誘拐未遂事件となっていたことだろう。

のちにこの事件は日本国の一部の権力者たちに知られることになった。
その1人に太盛の父である金次郎も含まれているのだった。

「ルイージ襲撃事件のあと」A

ルイージの襲撃が与えた影響は大きかった。

孤島での生活の厳しさとは、過酷な自然環境や生活物資の確保ではなく、
第一にルイージのような不審者の侵入を許してしまうことにあった。

誰もが不安と戦う日々。口には出さずとも、この島での生活が
いつ終わってもおかしくはないと全員が覚悟するようになった。

やがて人間関係に変化が表れる。


「太盛様ぁ。今日もお外に行ってしまいますの?」

「……日課の木こり仕事があるからね。
  それに日中に家でじっとしているのは性に合わないんだ」

太盛は朝食を食べ終え、新聞を広げながらコーヒーを飲んでいた。
エリカも同様だ。ここに子供たちはいない。双子は朝寝坊。
朝に弱いマリンは正午近くならないと起きない。

エリカは子供たちのことなど気にもしないで
太盛の隣の席に座って語りかけていた。

「薪(まき)の備蓄は十分にあるではないですか。
  石油も定期的に船で送られてきますわ。
  今日くらい、わたくしと一緒にいてくれてもいいではないですか」

エリカはうるんだ瞳で太盛を見上げていた。

「うーむ」

30代の女のする顔ではないと太盛は思っていたが、
整った妻の顔だと実にさまになっている。
一流女優の演技を見ているようだった。

「太盛様ぁ、こっちは準備できましたよ」

玄関の前でミウが声を張り上げた。ジャージ姿で帽子をかぶっている。
太盛との木こり仕事はミウにとって
合法的に二人きりになれる絶好の機会であった。

(ち……またあの女か)

太盛は妻のこの顔を何度見たことだろうと思っていた。
嫉妬に歪む女の顔である。エリカは表情を作るのがうまい人なので
一瞬で鬼の顔を隠してしまうのだが、太盛にはバレバレだった。

「ミウ。すまないけど、今日は家でエリカと過ごす約束があったんだ。
 薪割りは日を改めることにしようか」

「えー」

「ミウ。頼むよ」

「まっ、太盛様がそうおっしゃるのでしたら、仕方ないですけど」

太盛は、エリカがミウに見えない角度でガッツポーズを
しているのをはっきり見てしまい、落胆した。

前々から使用人の間で噂になっていたが、
エリカはミウのことを良く思っていなかった。

一方でミウも婚姻前の監禁事件以来、エリカに秘められたソ連的鬼畜さに
あきれてしまい、こんな女と結婚を強いられた太盛に同乗していた。

太盛とのアウトドア生活(いちおう仕事)は楽しかった。
家庭菜園、山の山菜取り、木こり仕事。どれも重労働なのだが、家計の足しにと
始めたことなので、あくまで副業的に行っている。

どんなに働いても半日程度で切り上げ、あとは散歩したりピクニックしたりと、
二人で思い思いの時間を過ごしていた。ミウは半分、自らが仕える主人との
デートの気分でいたのだが、なんと太盛も同じ気持ちだった。

太盛にとって浮気に等しい行為だが、前述した監禁事件は太盛の心を
決定的にエリカから突き放してしまった。ようするに妻が嫌いなのだ

太盛はハルカという本土に残した恋人もいたのだが、現在は音信不通だ。
なにせ島暮らしをしているので今更会うこともできない。
溜まり切ったうっぷんを、早朝散歩でユーリにぶつけてしまうこともある。

太盛はユーリの寛大さに心から感謝していた。
それと同時に、ミウにまで手を出そうとしている自分を恥じた。

それでも、浮気性の太盛が自制することはなかった。

「はぁ」

わざとらしく溜息をついて去っていくミウを太盛は
申し訳なさそうな目で見つめた。

(すまないミウ。あとでたっぷり二人きりの時間を作ろうな)

突然、テーブルをたたく音がした。

「あら、ごめんなさい。ここにハエがいたものでして」

エリカである。季節は11月を過ぎて12月の半ば。

庭中の草花が枯れて、家庭菜園の畑には
霜が降りるようになった。

ハエがいるわけがない。

これではもはや小姑(こじゅうと)と呼ばれても仕方なかった。
現にミウは心の中でエリカのことを小姑と呼んでいた。

「エリカ。よかったら後藤さんにココアでも淹れてもらおうか。
  僕の部屋で一緒に飲もうよ」

「うふふ。お願いしますわ」

エリカはストレスを感じると頭を押さえる動作をするくせがあった。
彼女の言葉を借りると目の奥が痛むようだ。

後藤がコーヒーを出すことが多いのを後で思い出し、
少し後悔する太盛。頭痛にはカフェインがよく効くのだ。

太盛が席を立つと、エリカが腕をからませて着いてきた。
さながら新婚夫婦の距離感である。

太盛は妙に接近してくる妻をいぶかしく思い、また
うっとおしいと思っていたが、へたくそなポーカーフェイスで乗り切る。

「ふわぁ。レナたち今日も寝坊しちゃったねぇ」

「寒いからお布団が気持ちいんだよね。
  またママに怒られちゃうのかな?」

レナとカリンが階段を下りてくると、その先に太盛とエリカがいた。
エリカと目が合う双子姉妹。

(やべ、怒られる!!)

いすまいを正して言い訳をしようとしたが、

「おはよう。ふたりとも。ご飯は食堂に用意してあるから、
のこさず食べるのよ? いいわね」

「はいっ。ママ」

「ふふ。食べ終えたらきちんと宿題をやるのよ?」

「はい!! 分かりました」

なんと、おとがめなしであった。

普段なら小言が確定であったのに、エリカ、まさかのスルーを選択。

双子は何か裏があるものだと思い、逆に恐怖を感じて
次の日は早起きをするのだった。

下手に叱るより効果のあるしつけであった。
もっとも、エリカにしつけをしたという自覚はない。

「今日は太盛様と二人っきりですわ」

ベッドに隣どうしに腰かけた夫婦。エリカは太盛の肩に頭を乗せ、
子猫のように甘えていた。太盛からひと時も離れたくないという
思いがよく伝わる。

太盛は妻の髪の匂いに色気を感じ、頭がぼーっとしてしまう。
性格はどうであれ、エリカは性的に非常に魅力のある女性だった。

本棚から適当な画集を取り出し、エリカの前で開いてみた。

「ルノワールですか」

「ああ。大学時代に印象派の画家にはまっていてね。
  ルノワールの肖像画は見事だが、
   風景画も悪くない。たとえば今の季節にはこれ」

と言って太盛が見せたのは『冬景色。庭の前』と
フランス語で題名が書かれた絵だった。

「まあ、すごい量の雪。北海道並みの積雪ですわ。
  夕日が雪に反射してきれい」

「ルノワールは冬が大嫌いな画家だった。特に雪を嫌った。
  彼はこう言ったんだ。なぜ冬の景色を描く必要があるんだい?
   雪は自然の病気じゃないか、とね」

「病気とまで言いますか。人によっては冬のほうが好きという方も
  いるでしょうに。そんな冬嫌いの画家が描いためずらしい絵なのですね」

「晩年はリューマチを患ったというから、ルノワールにとっては
  冬は憎むべき敵だったのかもしれないね。それよりも」

太盛は画家の言葉をさらに引用する。

春から秋にかけて、あれほど活発だった虫たちは姿をひそめる。
草木は枯れ果て、色とりどりだった花たちは散ってしまう。

家にこもる生活は憂鬱で、さみしく、陰気になる。
屋外での創作意欲もわかず、ただ辛抱してこの季節が過ぎ去るのを待つのみ。

「まるでロシア人の書いた詩のようですわ。
  今ちょうどこの島も真冬に差し掛かっている時期ですから、
  彼の気持ちがよく分かります」

「フランスの冬も長くて過酷らしいね。
  観光に冬だけはやめとけってよく聞くよ」

「それはそうですわ。雪だらけの街を観光したって楽しくないですもの」

エリカは本棚を物色していた。ルノワールの本の段には印象派の画集がずらりと
並んでいる。ゴッホ、ゴーギャン、モネ、マネ、セザンヌなど。
どれも日本人に人気のある画家ばかりだった。

その下の段には、中世キリスト教画家からピカソのような近代派まで、
実に幅広い蔵書の数であった。

「太盛さんの本棚は、本屋さんの売り場がそのまま移植されたかのようですわ」

「はは。ただコレクションしているだけだよ」

「やっぱり太盛さんは勉強熱心なお方ですわ。
  他の男性とは全然違うんですの」

エリカが会社勤めしていた頃は同僚で頭の良い男性はたくさんいた。
一流大学を出たエリートばかりの職場で、みな仕事は優秀だった。

だが、プライベートは反対にだらしなく、ギャンブルや
キャバクラ通いをしている連中ばかりだった。
特にひどいのが中年男性で、管理職の地位にいながら風俗通いや、
アイドルにはまって給料の大半をつぎ込んでいる猛者までいた。

エリカは彼らのお金の使い方を知って幻滅した。

いくら仕事が優秀で高給取りでも、会社を一歩離れれば
ろくでなしという男性はお断りだった。

「太盛様は歴史が本当にお好きですのね」

「それも大学時代からずっと読み続けているやつだね。
  歴史は何年研究しても飽きることはないから、最高の暇つぶしだよ」

本棚には歴史系、特に戦争関係の本が大量に集めてある。
近代史が多く、もちろんロシア革命、ソビエト史に関する本もある。

エリカはおじいさんの故郷であるソビエトには興味津々だった。
ソビエトに関することは何でも知りたがった。
ソ連の歴史と書かれた本をぱらぱらめくっては、

「わたくしは太盛さんの勤勉なところ、大好きですわ」

と言って笑った。嘘偽りのない笑みであった。

太盛はエリカの子供っぽい一面に驚いた。
新鮮な気持ちになり、気が付いたらエリカを抱きしめていた。

「太盛さん……」

「エリカ。おまえはおれのものだ」

つい、チャラい言葉が出てしまう。

太盛は勤勉とか勉強熱心という言葉に弱く、
女性に言われると舞い上がってしまったのだ。

少しの間見つめあった後、エリカがそっと目を閉じたので、
太盛はキスをしようとエリカの肩を抱き寄せた。

「失礼いたします。お茶のご用意ができました」

後藤が控えめにノックしたので、太盛はエリカから離れて素の顔に戻った。
食堂を出る前にホットココアと茶菓子を頼んでおいたのだ。

「では、ごゆっくり」

「いつもありがとう後藤」

ニコニコと笑いながら後藤は頭を下げ、廊下へ去っていく。

ホットココアは日本でも有名なオランダ製で非常にコクがあって甘い。
一口飲んだ瞬間に心まで温かくなってしまうほどに。

「後藤のココアはこんなに甘いのですね。
  少しカロリーオーバーかと思って今まで遠慮していましたが」

「そう思うなら少し運動するのが一番だ」

「でも私、体を動かすのはあまり得意ではないのです」

太盛は心の中で思った。

双子たちに強烈なサーブをお見舞いしていたテニスの授業は何だったのかと。
持ち前の運動神経と努力の結果が、あのテニスの腕前ではないのかと。

そのことをエリカに控えめに聞いてみると、

「テニスは……お父様にしつこく勧められてやっていただけです。
  好き好んでやっていたわけではないのですよ?
  確かに体を動かすと心がすっきりはしましたけど」

「エリカも僕と一緒に外を歩いてみるか?
  日中の暖かい時間ならそこまで寒くはないよ」

「そうですね。歩くだけなら、いい気分転換になりそう」


昼食後の午後1時、真冬の晴天である。
サングラスなしに見あげるのが辛いほど陽光が指している。

風はこの季節にしては比較的穏やかではあるが、
わずかな風でも顔など肌に当たる部分が凍り付くように寒い。

「冷凍ビームを受けているようですわ」

「ほんとだね」

「寒いけれど、太盛様と一緒に外を歩くのは久しぶりですわ。
  新婚のころを思い出しませんか?」

「懐かしい思い出だね。あれからあっという間に
  10年もたってしまったのか。
  ほら、新婚気分を出すなら手をつないで」

「はい」

島の外側は、一帯が海岸線になっている。
森へのルートとは違う方向を歩くとすぐ海岸にたどり着くのだ。

「20分くらい歩くとだんだんと暖かくなってきますね」

「僕なんて暑がりだからすぐマフラーを外したくなるよ」

2人とも厚めのコートを着込み、ニット帽やマフラー、手袋など
完全な防寒装備で歩いていた。ヒートテックの下着は歩けば歩くほど
発熱効果で体を温める。

「この時間じゃあ、あまり鳥は見られないか」

太盛が双眼鏡越しに見たのは、いつも海面に浮いているカモ類だった。
遠くの漁船の周りを飛んでいるカモメの集団もいる。

太陽光を浴びてキラキラ輝く海面のすれすれをカモメたちが飛び、
宙に飛び上がってはまた海面に急降下する。海面の魚を狙っているのだ。

カモメたちの動きを太盛は双眼鏡で追いかけていたが、
エリカは別の方向を見ていた。

内陸である森林地帯は、草木がすっかり枯れてしまい、
ルノワールの言うように冬特有の陰鬱な景色が広がっていた。

ふと強い風が吹いたので、エリカは身震いした。

別の海岸を見ると人影が見えた。
エリカたちも波打ち際にいるが、そこからはだいぶ離れた位置だ。
島の形に円を描くように、海岸は広がっている。

そこに立っていたのは、エリカのよく知っている人物だった。

「ユーリ……!?」

太盛は鳥に夢中でユーリに気づいていない。
エリカがじっくりとユーリを観察していると、驚くべきことに気づいた。

ユーリは波打ち際を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。
いつものメイド服の上にグリーンのダウンジャケットを着てはいるが、
冬空の下じっとしているのは相当に寒いはずであった。

ユーリは微動だにせず、涙を流していた。

エリカにはその涙の理由が分からない。

ユーリの唇がかすかに動き続けており、独り言を言っているのは
間違いなかった。もちろんここからでは遠すぎて聞き取れない。


(この時間のユーリは洗濯物を取り込んだり、夕飯作りの手伝いをしたりと
  決して暇ではないはずだけれど、どうして海岸にいるのかしら?)

エリカがもう一度太盛を見ると、彼は今度は上空の鷹を追っていた。
趣味に生きる夫を放置してエリカはユーリのもとへ駆け出した。

「奥様!?」

ユーリがエリカに気づいて声を荒げた。
ハンカチで涙をふき、鼻声で謝罪をしてくる。

「申し訳ありません、奥様に許可もなく勝手に外出をしてしまって」

「それは別にいいのよ。要領のいいあなたのことだから
 どうせ仕事は後藤と鈴原たちに任せてあるのでしょう?
 ……それよりあなた、ここにいたら寒いでしょう?
  こんなところで一人でいるなんて、考え事でもしていたの?」

遠回しに先ほど泣いていた件について聞いた。

「いえ。特には」

「何もないってことはないでしょう?
  だって、あなたはさっき……」

一瞬言いよどんだエリカだったが、ついに口にしてしまう

「泣いていたじゃない」

ユーリは沈黙した。潮風を受けてほほも唇も温度を失っている。
泣きはらした目は赤く、視線が左右に泳いでいる。

鉄壁のメイドと呼ばれたユーリとは思えないほどすきだらけだった。

ユーリは秘密を打ち明かすことを決心した。

本当は適当なウソを言ってごまかしても良かったのだが、
ルイージ襲撃事件のあとなので今更隠しても仕方ないと思うようになった。

「私は福島県出身です。私が千葉の大学に通っているときに、
  家族は全員福島で暮らしていました。太平洋沿いの小さな町です」

それを聞いたエリカは全身から血の気が失せてしまった。

ユーリがメイド仲間のミウと使用人頭の鈴原以外には
決して話さなかった秘密は、彼女の家族の不幸だったのだ。

聞かなければよかったと、さすがに罰が悪くなったエリカ。
エリカが、無神経に聞いていしまったことを謝ろうとすると、
それより先にユーリが言った。

「いずれ皆さんに言おうと思っていたことですから、
  気にしないでください」

口に出さずとも、自分の言いたいことを察しているあたりは
さすがプロの使用人だと感心したエリカ。
同時に気を使われていることに恥すら感じていた。

「ルイージに襲われた時、私は本気で死を覚悟しました」

ユーリは少し間をあけて続けた。

「私は……運良くあの津波の被害にあうことはありませんでしたけど、
  ついに家族と再会することができると内心で喜んだものです」

エリカは黙って聞いていた。

「でも私は今回も生き延びました。
  私は生まれた時からカトリックです。私が生きているのは
  主の導きによるものだと好意的に解釈してはいます。
  けど、死の運命をたどった家族や友達のことは、
   何年たっても忘れることができません」

ユーリの頬から涙が流れる。
本当に大切な人を失った人だけが流す悲しみの涙だった。

エリカは、できることならこの場で土下座をしたい気持ちになった。
主人とメイドの関係だからそれはできないのだが、
今エリカに出来る唯一のことはユーリの話を聞くことだけだった。

「島での暮らしは、本当は好きではないのです。
  海を見るたびに失った人たちを思い出してしまうから」

「そ、そうなのね」

「大学を卒業した後は、人との絆とか、そういうのを信じる気になれなくて、
  誰とも関わらない仕事はないかと思っていて、今の仕事を希望しました」

ユーリがはるかに自分たちより遠い位置にいる人間だったと、
この時初めて気づかされたエリカ。

エリカも祖父がソ連邦で粛清されているから、家族を失う悲しさはよく分かっていた。
粛清のあとに残ったのは、政府に対する恨みだけであった。
その恨みが、やがてエリカの中に、ロシア人が遺伝的に持っているという、
暴力と支配の法則を植え付けることになった。

太盛の監禁事件を強行したのはこういう事情がある。
彼女は日本人の顔をしているが、厳密には日本人とは
異なる思想を持っていたのだ。

エリカと彼女の父は、恨むべき対象であるソビエト政府が存在した。
しかし、ユーリは何を恨めばいいのか。

災害という自然現象を神のいたずらとするならば、
それを黙って受け入れるのが正しい選択なのか。

(いえ、ユーリはもしかしたら自分を……)

エリカがそう思ったのは、ユーリの使用人にしても事務的すぎる態度が
良くみられること、レナやカリンを見つめる視線に嫉妬の感情が
混じっていたことだった。

エリカは器量の良いユーリに20代のうちの結婚を強くすすめていたが、
ユーリは興味がありません、と繰り返すばかりだった。

膨大なる喪失を経験した人間は、未来への希望を失ってしまうのだ。
ユーリはエリカの生んだ子供たちを可愛がりはした。
マリンも同様だ。だが、それはユーリが得られる宝ではなかった。

永遠なんてものは存在しない。太盛のエリカへの
気持ちが冷え切ってしまっているように。

そう思うと、ユーリは恋愛や結婚は自分と関係ないものと考えるようになった。
若い女性にしてはあまりにも悲観的な考え方だった。

「ルイージ襲撃事件のあと」B

「ユーリ、すまない。全部聞いてしまったよ」

エリカが驚いて横を見ると、太盛がそこに立っていた。
妻と同じように申し訳なさそうな顔をしている。
太盛は鳥見の最中にいなくなっていたエリカを探してここへ来たのだ。
もちろんユーリは分かったうえで全部話していたのだが。

「気にしないでください。つまらない昔話ですから。
  風が強くなってきたのでそろそろ館へ戻りましょうか」

「ああ……」

エリカと太盛のあとを着いてくるユーリ。
館に着くまで3人の間に会話はなかった。

風が勢いを増していく。太盛は一度外したマフラーをもう一度巻いた。
エリカと手袋越しに手をつなぎ、夫婦らしく歩いた。

放射能で汚染された大地にも春が訪れ、風が吹くように、
この島でも彼らのせつなさとは関係なしに風が吹き続ける。


エリカは夢の中で懐かしいロシア語の歌を歌っていた。

ソビエト連邦に住んでいた頃、近所の人たちと
歌っていた古いロシア民謡だ。
あの頃のエリカはレナ達より幼かった。

カチューシャという名前の曲で、はかない歌詞と対照的に
リズミカルに歌いあげるのが特徴だ。
エリカは子供のころからロシア民謡を歌うのが好きだった。

夢の中の彼女は、どういうわけか祖父の生まれ故郷であるカフカース
の山のふもとの町にいた。牧場の先に広がる一面の菜の花。
黄色の絨毯に交じり、見たこともない極彩色の花も咲いている。

高原の冷たい風を受けながら、くるりとダンスを踊るかのように
草原を歩き回り、ロシア語特有の巻き舌と長母音で歌うエリカ。


「おじいさま……」

ふと深夜に目が覚めたエリカは泣いていたことに気づいた。
祖父のことは写真でしか知らない。それにカフカース地方にも
旅したこともない。

なのに、なぜ祖父の故郷が鮮明に夢に出て来たのだろうか。
ソビエト権力の中枢にいながらも、やがては国家が新陳代謝するかのごとく
政権争いに敗れて殺害された祖父のことを思うと悔しさで涙が出た。

エリカの父が日本に移住してから成功を収めたのも
祖父の資産があったからだった。

(太盛さんがいない?)

キングサイズベッドで共に寝ているはずの伴侶の姿がないのだ。

太盛とエリカは数年間寝る場所を別々にしていたが、
ルイージ事件のあとは一緒に寝るようになった。

太盛はトイレにでも行ったのかと思い、エリカは夫婦の寝室から廊下へ出る。

トイレの明かりはついてなかった。さらにおかしいと思って中央階段を
降りてエントランスの方へ行くと、人影があるので身を隠すエリカ。

信じられないことに太盛とユーリが、深夜だというのに言い争っていた。

「余計なお世話ですわ。私はここの生活に満足していますから」

「何が満足なものか。ミウから聞いたぞ。
  本当は海や海岸を二度と見たくないそうじゃないか。
   転職先が必要なら僕が親父殿に頼んでやる。明日にでもな」

「それは太盛様の独善的な考えですわ。
  私は自分の意思でこの職場を選び、ここで働いておりますので」

「口ではそう言っても、君は無理しているんだよ」

「何度も言っているはずですが、無理などしていません」

「嘘をつくなよ。この島に住んでいても君は不幸になるだけだ」

「それを決めるのは私ですわ。これ以上余計な
 おせっかいをして私をこまらせるのはやめてください」

「……この島は極端に狭い世界だ。君が本土で暮らして
  いろいろな人間と会っていれば、考えも変わったかもしれない。
   きっと理想的な男性とも巡り合えたんだ。
   君の美貌なら男なんて選び放題だったのに」

「そうかもしれません。ですが私はこの島で働くことに決めました。
  それが主の定めた運命なのです。私は決められたレールの上を
   歩くだけで満足しております」

「満足してるだって?」

太盛の声のトーンが下がった。先ほどまでの怒りの感情が静まり、
今はただユーリを哀れんでいた。

「ならどうして、そんな悲しそうな顔をしているんだよ?」

「え……」

海岸にいた時と同じ涙を流していたユーリ。

ユーリは一度決めたことは最後までやる生真面目な性格だったため、
今更転職する気にはなれなかった。しかし心の奥底では、
また侵入者がこの島に襲ってくれば今度は確実に殺されると覚悟していた。

だから、死ぬ場所としてこの島を求めていたにすぎない。

「死ねれば、まだましだよ」

「え?」

考えを読まれたユーリが顔を上げた。

「北朝鮮のスパイにつかまれば最悪、収容所行きも考えられる。
  僕やエリカは仕方ない。親父殿に命じられた夫婦なのだから。
  でも君や他の使用人たちはあくまで雇用されてここにいるだけだ。
   逃げる権利はもちろんある」

「それは少し悲観的すぎる考えかもしれませんね。
  ルイージが外交ルートで北朝鮮に身柄が引き渡されてから、
   海上保安庁の巡視はさらに強化されましたわ。
    屋敷の迎撃システムも同様に強化されております」

「理屈でものを考えてほしくないんだ。
  僕はただ、君のことを心配して言っているだけなんだよ」

「ふふ。太盛様がお優しい方なのは使用人一同が認めておりますわ。
  もちろん私もです」

「……僕にはたまに君という人間がさっぱり分からなくなる」

「私は、もともとこういう性格ですから」

そう答えるユーリの幽霊のような無表情は恐ろしかった。
彼女の心は、震災によって一時的に死んでしまったのだ。

目には見えない死者たちの霊が彼女の肩を
奈落の底へとひっぱろうとしているのだ。

「だめだ!!」

「え?」

意味のない叫びだったが、その声がユーリに取りついていた
死者の残留思念を一時的に取り払った。

太盛はユーリを一人きりになんてさせたくなかった。
人生に希望があるのだと教えてあげたかった。

太盛がユーリの肩に手を伸ばし、抱きよせると、
ユーリは全く抵抗しなかった。太盛の耳元で暑い吐息を吐き、
信じられないことに太盛の背中を抱き返してきた。

「ユーリ、本心で答えてほしい。
 この島で僕のメイドとして生きるのは苦痛じゃないか?」

「ぜんぜん。ぜんぜん嫌じゃないよ」

ユーリが敬語を使わずに答えたので太盛は飛び上がるほど衝撃を受けた。
以前から二人きりの時は敬語はいらないと言っては断られていた。
メイドでなく一人の女性としてのユーリが突如姿を現したのだった。

「太盛のことが嫌いなわけないでしょ。
  島に来た時からずっと私のこと気づかってくれたんだから。
   本当に嫌だったら最初の一年で転職してたよ」

「そりゃよかった。てっきり僕はユーリに逆に
  気を使われて朝の散歩に着いて来てもらってると思ってたからね」

「何度も言ってるでしょ。あなたと歩くのは私にとっても楽しみなの。
  あれは仕事じゃなくて趣味だと思ってるんだけどな」

高揚した太盛はユーリの唇を奪った。
ユーリはしっかりと受け入れ、舌まで入れて来た。

2人の吐息と唾液の絡まる音がエントランスに小さく響いている。

その光景を陰で見ていたエリカは拳(こぶし)を強く握っていた。
拳は怒りとくやしさで震えている。

(あのユーリが敬語を使わずに話しているなんて信じられない……。
  太盛様ったら、私のことを形の上で抱いてはくれても、
   やっぱりユーリのことを愛しているんだわ)

もしエリカがナイフか包丁を持っていたら、
今すぐ二人の背中を刺してしまうところだった。

エリカは浮気中の二人の間に割って入ろうかと思ったが、
盗み見していたとばれるのを恥だと思ったのでやめた。

寝室のベッドで横になり、何事もなかったかのように戻ってきた太盛に
気づかないふりをして寝ることにした。本当は太盛の首を
締めてしまいたかった。そのあとに自分も消えてしまいたかった。

女として、旦那の裏切りを許すつもりはなかった。

全ては明日以降に決める。そう割り切って、その日は朝方に眠りについた。


「奥様。今朝は具合が悪そうに見えますが」

「大丈夫よ鈴原。少し寝つきが悪かっただけ」

「お薬をお出ししましょうか?」

「けっこうよ。朝ごはんもいつも通りだしてちょうだい」

翌朝。エリカが食堂の長テーブルに肘をついてふてくされていた。
礼儀作法に厳しいエリカがだらしない恰好を
するのは非常に珍しいことだった。髪に少し寝癖も残っている。

鈴原は彼女が不機嫌なのだとすぐに察し、
それ以上余計なことを話しかけないことにした。

『お母さま、おはようございます』

双子が声を重ねて食堂へやってきた。
7時の朝食の時間に合わせて身支度もできていた。

「おはよう。2人とも今日はちゃんとしていて偉いわね」

母に褒められることはめったにないから、
双子は顔を見合わせて驚いた。

カリンは母の微妙な表情をすぐに察して聞いた。

「ママ。元気がないようですけど、体調でも悪いのですか?」

「……体調は、問題ないのよ」

「でも、声もいつもと違って沈んでいます。
  お父様と喧嘩でもしたのですか?」

エリカは、カリンの洞察力の高さに驚愕(きょうがく)した。

実際にエリカが不機嫌になるのは体調のこと以外では
太盛と娘たちのことが多いのだが。それにしてもカリンは
食堂で一目見ただけでエリカの不機嫌の原因が分かってしまった。

「カリンは……私が太盛さんと喧嘩中だと思ったのね」

「はい。だって今朝のパパはこの時間でもまだ起きてないのでしょ?
  さっき廊下でユーリにあったので聞いてきました」

ユーリの名前を出された瞬間にエリカの表情がゆがんだ。

本当はユーリのことを殺したいほど憎んでいると言えれば
どれだけ楽だったことだろう。

「パパは昨日遅くまで起きていたから疲れているのよ」

あの真面目な父が夜更かしをした理由をカリンは知りたがった。
夫婦一緒に寝ているはずなのに、片方だけが起きてこない理由は
なにか。カリンはもっと質問をしたいと思った。

しかし、エリカの細められた目が。
それ以上余計な詮索をするなと言っている。
カリンは母の感情を害するのが恐ろしかった。

「お食事が覚めちゃうでしょ。
  しゃべってばかりいないで食べてしまいなさい」

レナはずっと黙ってクロワッサンとスクランブルエッグを食べている。
カリンも話している最中手を付けていなかったサラダを口にして、
それ以上母に話しかけないことにした。

生まれてからずっと島暮らしをしている2人にとって
母ほど恐ろしい存在はいなかった。母を怒らせると
雷のような叱責が飛んでくるからだ。

(いつもなら勉強の進み具合とか聞いてくるのに……。
  なんか静かでつまらない食事だなぁ)

レナはさっさと食べ終えてしまい、食後の紅茶を飲んでいた。

食事を配膳してくれたミウもおとなしく壁に立っている。
話し相手がいなくてつまらなかったレナはミウと
会話しようと思ったが、カリンがアイコンタクトでやめさせた。

(あれ?)

レナがそう思ったのは、エリカの食事が全く進んでいないのだ。
サラダを少し口にしただけでパンとおかずはそのまま。
ホットコーヒーはとっくに冷めてしまっていることだろう。

エリカは食事に時間をかけるほうだったが、それにしても異常だった。
娘たちの奇異な視線に気づいたエリカは、
コーヒーを一気に飲み干し、ミウに命じた。

「エスプレッソのお代わりをもらえるかしら?
  砂糖を多めにね」

「かしこまりました」

慣れた動作で厨房へと消えていくミウを視線で追う双子。
エリカは彼女らの食べ終えた皿を見ながらこう言った。

「今日は算数の小テストの日だったわね。
  2人とも、そろそろ、ごちそうさまをしなさい」

『はい。ごちそうさました』

双子はいつものように声を合わせて退席するのだった。


ミウが入れ替わりで食堂へ戻ってきた。

「奥様、エスプレッソでございます」

エリカは返事をせず、テーブルに置かれた
コーヒーを見つめていた。ありがとうとか、ご苦労様という
決まり文句が出てこないことにミウは不思議に思った。

「ミウは知っていたのね?」

「はっ、なんのことでしょうか?」

「ユーリのことよ。ユーリのご家族のこと」

「それは……確かに知っていました」

「ずいぶんと不幸な過去があったのね。
  昨日海岸を散歩しているときにユーリにあってね、
   そこで詳しい話を聞いたのよ」

「あー、海岸ですか」

話の流れである程度言いたいことを察したミウ。

ユーリが海岸で立ち尽くして泣いているのを
ミウは過去に何度か目撃していたのだ。

「あの子、心を許した人には過去を話していたのね。
  私はあの子の主人の立場にあるけど、何も知らなかったわ」

「それは……人には思い出したくない過去の一つや二つは
 あるものですから、仕方のないことではないかと。
 家族を失った心の痛みはあの子にしか分からないことですよ」

正論だとエリカは思った。エリカが気に入らないのはユーリが
隠れて旦那とあいびきしていることだった。

どちらから迫ったとか、そういうことは重要ではない。
浮気現場を見たのは昨夜が初めてだったが、
実は早朝散歩の際に二人はキスやハグなど日常的にやっていた。

婚約時代の監禁事件の際、太盛の釈放を
望んでいたユーリの顔を今でも覚えている。
まだ10代の幼い少女だったが、瞳に強い意志が込められていた。

(あの二人が両想いになったのは、偶然ではないわ)

一口飲んだ後に、コーヒーの濃厚な後味が残る。
苦味などまるで感じなかった。

(孤島での生活を父に強制された太盛様。
  身寄りをなくして自ら孤島生活を望んだユーリ……。
  お互いに同乗しあっているから惹かれているのよ
  それにしても私に隠れてこそこそと……)

昨夜の逢引のシーンが脳裏に浮かび、歯ぎしりをするエリカ。
ミウはゾッとして厨房へと消えてしまう。

ミウは空気を読むのがうまいのでエリカを
一人にさせてあげたほうがいいと判断した。

エリカはコーヒーを飲んだ後も食堂に残り、考え事を続けていた。

(二人にお仕置きは……無理ね。私には娘達がいる。
  もう婚約者の時と違って一人の母なのよ)

主人である自分をないがしろにしたユーリは処罰の対象であった。
地下室に監禁を命じるのは簡単だったが、子供ができてからの
エリカはそういった中世を思わせる残酷な行為はひかえていた。

ユーリなしで屋敷の管理は大変だ。
鈴原や後藤の仕事の負担を増やすことになる。

それにユーリの親友のミウのこともある。
ミウがエリカに絶対的な不信感をいだくのは確実。
最悪ミウが転職のため島を去ってしまうことも考えられる。

ここの使用人は、党首の許可をもらえば島から
脱出することは可能となっている。

エリカや太盛など親族は党首に命じられた通り
孤島生活を続けなければいけないのだが。

太盛を処罰しても同じことだった。レナ、カリン、マリンの三人は
父が大好きで、母達になついていないのは周知の事実だった。

娘達が監禁されている父を見たらどう思うだろうか。
想像せずとも分かることだった。強い家族のきずなで結ばれた彼らを
古臭いソ連式の恐怖と支配で縛っておくことはもはや不可能だった。

ならば、もう一人の太盛の妻であるクッパに聞けばどうかと思った。
テーブルのベルを鳴らしてミウを呼ぶ。

「御用でしょうか奥様」

「クッパをリビングに呼んでちょうだい。
  少し話したいことがあるのよ」

「……あいにくですが」

「なに?」

「クッパ様は山籠もりをされておりますので、
  すぐにお呼び出しをするのは難しいかと」

「山籠もりですって? 地中に穴を掘って
 熊の冬眠のまねでもしているの?」

「そのようですね。あの方は一度外に出ると
  一週間ほど帰ってきませんから」


12月の寒空の下、山で冬眠である。
クッパはアウトドア生活になれるための訓練と称して
冬の山籠もりという暴挙をしていた。

確かに常識外れであるが、
クッパはすでに人類を超越した生命体だと
館の全員が思っていたので心配はしなかった。

「クッパと無線で連絡を取りなさい。
  無線機は持たせているのでしょう?」

「わかりました。少々お待ちください。」

1分ほど会話をした後、ミウが言った。

「山を降りるのに時間がかかるため、
  館に戻るのは明日以降になるそうです。
   いつ戻れるかは天気次第だとおっしゃっていました」

「了解したわ。クッパさんが戻ってきたら、
  リビングに来るように言っておいて」

「承知いたしました」

エリカはようやく食堂を後にした。
時刻は8時半を過ぎている。

ミウはほとんど口をつけていないコーヒーカップを
恭しく片付けるのだった。


その次の日の午後。クッパはまだ帰ってこなかった。

エリカと太盛の関係は非常に気まずかった。寝食を共にしている同士だから、
太盛はエリカに不信感を持たれていることにはもちろん気づいている。
エリカも気づいていながら、夫の浮気を口にすることができない。

「今日は雨だから外仕事がない。
  レナ達の相手をしてあげようと思うんだけど、いいかな?」

「かまいませんわ。子供たちは午後の授業がありませんから、
  たまには父親とスキンシップを取るべきですわね」

太盛は昼下がりのコーヒーブレイクを
切り上げてレナ達の部屋へ遊びに行った。

リビングにはエリカが一人残されてずっと考え事をしている。
新聞を手にしてはいるが、心はここにあらず。

使用人たちもエリカを気遣ってあえて一人にさせていた。

「二人とも。いるか?」

「え? パパ!?」

「暇だったらパパと遊ぼうか。カリンもいるんだろ?」

「うん!!」

レナがノックされた扉を開けて父を中に通した。

床にまで響く重低音のリズムが太盛を迎えた。

レナはユーチューブでアイドルのPVを流していたのだ。
画面の動きに合わせて踊りの練習をしていたので汗ばんでいる。

暖房をつけているとはいえ、ゆったりとしたジャージのズボンに
上は長袖Tシャツという薄着だった。
ダンスレッスン中の女性アイドルのようであった。

双子の部屋は広い。中央にペルシア絨毯(じゅうたん)が惹かれていて、
ベッドは隣り合わせで二つ。子供用なのにふかふかのキングサイズである。

高級な木材を使用したテーブルにノートPCが置かれている。
イスは踊りの邪魔なので部屋の片隅に移動していた。

PCはケーブルで足元のデノン製のアンプ(オーディオ装置の一種で、
音を増幅させるための装置)に接続されている。

アンプからケーブルが伸び、PC台の両脇に並ぶスピーカーに
接続されている。

スピーカーは小型ブックシェルフと呼ばれるタイプのものだ。
いわゆるミニコンポについてくるスピーカーと同サイズだが、
中身がまるで違う。英国製品でマーキュリーと呼ばれるブランドだった。

クラシックなど生演奏の音源を得意とする、
世界中のマニアから定評のあるブランドなのである。

レナにとってそんなことはどうでもよく、
ポップス以外の曲を流したことはなかった。


レナはベッドにうつ伏せに寝て雑誌を読んでいた。

レナの音楽がうるさいのでヘッドホンで
ゲームのサントラを聞いていた。
ヘッドホンはウォークマンに接続されている。

普段はツインテールにしているが、この日は髪をおろしていた。

父のがいることに気づくと、ヘッドホンを勢いよく外して首にかけた。

「え? パパ来てたの!?
  来るなら言ってくれればよかったのに」

「ごめんごめん。今日は雨だったから、たまにはカリンたちの
 遊び相手をしてあげようかなって思ったのさ」

「ほんとー? やったぁ」
 
「なにして遊ぼうか?」

「そうねぇ。なにしようかしら」

ワクワクしながら、頭の中で考えが次々に浮かんでいく。
カリンはパンツルックにピンクのパーカーを着ていた。

レナとカリンの髪は腰まで届くほどの長さがある。
2人とも髪を降ろしていると、外見だけでは見分けがつかない。

「じゃあゲームしよう!!」

レナが元気に言い、テレビ台の中にしまってある任天堂Wiiを取り出す。
ソフトはレナの得意なマリオカートである。

コントローラーは2つしかないので、パパは固定でカリンと
レナが交代で対戦する。同時に8人で行うレースで、
他の6人はコンピューターが操作する

最初にパパとプレイしたのはカリンだった。

「パパ、結構上手なんだね。ドリフトのためとか良く知ってるじゃん」

「パパも中学生の頃は友達の家で良くやっていたからね」

「パパの時代からマリカーってあるの?」

「僕が小学3年の頃には発売されていたよ。
  最初はスーファミ盤から始めたんだ。
   これでも結構ベテランなんだよ?」

カリンはヨッシー、太盛はピノキオを選択していた。
ゲームに精通した者たちは、彼らが選択したような
軽量級のキャラクターを選ぶ傾向にある。

「今度は私の番だよぉ」

レナは好んでクッパやドンキーなど重量級のキャラを使う。
レナは見た目が面白いからクッパを使うことを好んだ。

「マリンちゃんのママ、大暴走だぁ」

「うおっ」

クッパが後ろから太盛のピノキオに激しくぶつかり、
勢いに負けたピノキオはコース横の路肩に落ちてしまった。

クッパは得意げに笑い、どんどんスピードを上げていく。
重量級はコーナリングに弱い一方、直線での加速性能に優れていた。

「レナもなかなかうまいな。もうパパじゃレナには勝てなくなっちゃったよ。
  レナが小さいころはパパのほうが強かったのにね」

「えへへー。レナはオンライン対戦で鍛えられてるからね」

「レナ。早く私と変わってよ。次は風船対決にしよ」

太盛は微笑ましい顔で子供たちのことを見守っていた。
レースの次は風船バトルをはじめ、さらに白熱した戦いになった。

気が付いたら2時間が過ぎ、お茶の時間になったのでユーリが扉をノックした。

「太盛様、お茶のご用意ができております」

「おおっ。今日はユーリが来てくれたのか。入ってくれ」

「失礼いたします」

ユーリがパウンドケーキとアールグレイの乗ったカートを押して入ってくる。

「今日は銀のぶどうだぁ」

「これさっぱりしてて美味しいのよね」

パウンドケーキは実際に販売されている銘柄だ。
彼は本土時代に、デパートのケーキ売り場で試食して
美味しかった菓子を帰宅後にまねて作るのが得意だった。

ふわふわの生地の中に干しブドウがふんだんに入っている。
ケーキにホワイトクリームが掛けられていて、その上にも
干しブドウがたくさんまぶしてある。

「ユーリ、今日もありがとう」

「うふふ。これが私の務めですから」

「それと、ちょっと話があるんだけど」

「はい?」

もしゃもしゃとケーキを食べている子供たちを部屋に置いて
太盛は廊下へ出た。

「ルイージ襲撃事件のあと」C

(あの二人、こそこそ何を話しているのかしら?
  それにさっきの仕草……)

めざといカリンは父の行動を見逃さなかった。
部屋を出る際、自然とユーリの腰へ手を伸ばしていたのだ。

あれは、恋人の距離感であった。おやつを運んだ時のユーリも、
太盛と普通に話しているように見えて笑顔が自然だった。
仕事上の愛想笑いではなく、心を許している女の顔をしていた。

「ねえレナ。パパたち、廊下で何話しているんだろうね?」

「さあ? 仕事の話でもしてるんじゃないのぉ?」

レナはパクパクとケーキを食べ、すっかりご機嫌であった。
能天気な姉を羨ましく思い、カリンはそれ以上聞かなかかった。

(もっと紅茶の砂糖を増やしてもらおうかな。
  これじゃちょっと苦いかも)

と花梨(カリン)が思っていると、太盛が何気ない顔で戻ってきた。

二人で何話していたの、とカリンが利くと、
太盛はちょっと仕事のことでね、と言葉を濁した。

(なんか怪しいな……)

カリンは母の不機嫌の理由がユーリにあると考えて納得した。
彼女は大人向けの恋愛小説をよく読んでいたから、
上流階級で主人がメイドと不倫をする話を知っていた。

けど優しくて子供思いの父が、そんな不潔な人だと思いたくなかった。
それに姉のレナもここにいる。今はまだ聞き出せなかった。

「ゲームにも疲れたから、映画を観ようか?」

「さんせーい」

と歌うような口調で怜奈(レナ)がパパに答える。

「レナとカリンはどんなジャンルが観たい?」

「うーんと、ぶっ殺し系が良い!!」

「私も派手なアクション系か、サスペンスが良い」

「うーむ、分かった。それらしいのを持ってきてあげよう」

太盛は自分の部屋からブルーレイのソフトを持ってきた。
作品は90年代に全世界でヒットしたサスペンス映画である。

猟奇殺人犯と、FBIの新人捜査官が高度な心理戦を
繰り広げて事件の謎を暴くという内容だ。

太盛が日本語字幕なしで再生を始めると、警察や医学に関することなど、
専門用語が多すぎて半分以上理解できなかった。

「ごめんごめん。この映画の英語は大人向け過ぎたね。
  パパも全然わからないよ」

リモコンで字幕表示を有りにすると、カリンが安心してため息をついた。

「そもそもカリン達はアメリカの英語が聞き取れないんだよ。
  イギリスのと全然リズムが違うんだもん」

「へえ。そんなに違うものかな?」

「ずっと高い音が続いて耳が痛くなる。
 なんかオランダ語?とかそういう音に聞こえるよ」

「レナ達はママとミウの英語で慣れちゃったからねー。
  ぶっちゃけパパの英語も映画と同じでほとんど聞き取れないよ」

太盛はショックを受けながら画面を見ていた。
学生の時に見たきりだから、久しぶりに観る映画になる。

映画とは面白いもので、10代の時に見たのと父親になった時では
見る視点がまるで違っている。
それは小説や芸術などにも同じことが言える。

本当に名作といわれるものは時間を空けて観ると
次々と新しい発見があるものだ。

物語が中盤に差し掛かると、牢屋に閉じ込めた犯人と捜査官との
会話劇が中心になる。この会話が見事な心理戦の応酬になるのだが、
レナは退屈になって寝てしまった。

太盛とカリンはハラハラしながら画面を見続けていた。

殺人のシーンに変わった。人は殺害後に被害者の体中の
皮をはがしては喜んでいるキチガイだった。

気持ち悪さに鳥肌が立つカリン。
怖いシーンを見ると急に人恋しくなるものだ。

カリンはソファの隅で寝ているレナを放っておいて、
パパの隣にぴったりと体を寄せた。

太盛の肩に頭を乗せると、優しくなでてくれた。

「パパ……聞きたいことがあるの」

「なんだい?」

「パパはさ……ユーリのことが好きなの?」

心臓を突き刺された気持ちになった太盛は
娘の顔をまじまじと見つめた。

姉妹そろってふっくらした頬。丸みのある体系。
カリンは、母譲りの知性を帯びた漆黒の瞳をしている。

太盛は、カリンが感づいていることを知っていながらも
なんとか話題をそらそうと必死になった。
あたり触りのない返事をする。

「それはそうだ。大切な家族だからね。
 パパはユーリのこともカリン達のこともみんな大好きだよ」

「そういうことを聞きたいんじゃないの」

カリンは少し語尾を強めて続けた。

「男と女の関係なのかって聞いてるの」

「なっ」

さすがに言葉を失う太盛。カリンの質問はあまりにも直球過ぎたのだ。

おませさん、などと可愛い言い方ができる娘ではなかった。
エリカがカリンを苦手にしている気持ちがよく分かった。

男と女の関係といった言葉は、普通の小学生からは出てこないはずである。

(しかし、カリンはいつ気づいたんだ?
  俺がユーリと二人きりになるのは深夜と早朝の森だけだ。
   カリンが見ていたとは考えにくい……。
   まさか、こっそり見ていたミウが告げ口をしたか……?)

太盛が思考をめぐらしている最中も、
カリンは父の引きつった顔をじっと見ていた。

「その顔はやっぱり図星だったんだね」

太盛はカリンのことを怒鳴り散らしたい衝動にかられた。
娘たちは目に入れても痛くないほど可愛いがっている。

それでも、ユーリとの秘密の関係に踏み込まれるのは不愉快だった。
父として、夫として最低のことをしている自覚はある。

それでも動き出した感情は止まらない。
ユーリの過去を知ってしまったから余計に。

「ママが、ここ数日ずっと機嫌悪そうだったよね?
  パパも、もちろん知っていると思う」

「ああ……」

「ママが苦しんでるのってパパが原因なんだ?」

太盛は大きく深呼吸した後にこう言った。

「カリン。ませたことを言うのもいい加減にしなさい」

「そうやって逃げたって無駄だよ。ママがかわいそうだよ。
  このままじゃ離婚するかもしれないよ?」

「……パパとママに離婚はありえないんだよ。
  おじいさんがこの島で暮らすよう命じているんだから。
   おじいさんは絶対に離婚は許さないって、
    婚約してた頃から決めていたんだよ」

「じゃあ、ママはどうなるの? パパに裏切られたまま、
  ずっとこの島で暮らさなきゃいけないの?」

太盛には返す言葉が思い浮かばなかったため、重い沈黙が続く。

映画のセリフだけが部屋に流れている。

カリンも太盛も映画の内容など頭に入っていなかった。


太盛はカリンの聡明さに驚きを通り越して恐怖すら感じていた。
なぜユーリとの関係に感づいたのか、今更聞いても意味がない。

この尋問に近い質問攻めと、鋭い洞察力はエリカの家系である、
ソビエト閣僚の血を受け継いだからだと考えられた。

カリンは無意識のうちにソビエト人がもつような、
疑い深さや執念深さをもっていたのだ。


「失礼します。お父様。わたくしも一緒に映画を観に来ました。
  ご一緒してもよろしくて?」

品のある動作で入ってきたのはマリンだった。白いタールネックの
セーターに赤と黒のチェックのスカート。濃い青のタイツをはいていた。

太盛もベージュのタートルネックのセーターを着ていたので、
上着の種類はお揃いだった。

「もちろんだよ。こっちが開いているから、おいで?」

「はい」

マリンはカリンとは反対側に座る。
父は大型ソファの上で娘二人に左右を囲まれた形になった。

(なんでこんな時に入ってくるのよ)

カリンは良いタイミングで邪魔をしてきたマリンに舌打ちしそうになる。
ニコニコして父の横に座るマリンは、してやってりという顔で
カリンことを一瞬見た。

(マリンのやつ……)

カリンは勘が良いのでマリンの意図を一瞬で察した。
頭の切れる者同士だからこそ分かるコミュニケーションだ。

太盛が知ったら発狂しそうな事実だが、実は太盛と
ユーリの深夜の逢引の件は使用人の間で噂になっていた。

深夜の密会を偶然目撃したミウが後藤に相談したところ、
後藤が口を滑らせてしまい、鈴原の耳にも入った。

マリンは盗み聞きをするのが得意なので、後藤達が
使用人室の前の廊下で小声で話し合っているのを、
通りかかった際に全部聞いてしまった。

(あんた、私たちの部屋の前で聞き耳を立てていたんでしょ?)

とカリンが視線に込めてマリンをにらむと、マリンは
すました顔でとぼけてみせた。このアイコンタクトだけで十分だった。

カリンはさすがにマリンがいるのに尋問する気にはなれず、
それ以降は行儀を良くしてずっと映画を見続けた。


その後も数日間雨は降り続けた。

エリカはクッパが帰ってくるのを待っていたが、雨の中の
下山は危険のため、クッパは熊のごとく地中で休んでいた。

「よくこの寒さで山にこもっていられるものだわ。
 あの方は、山で凍え死んだりしないのかしら?」

「さ、さあ? 
 あの人の生命力は超人並みですから考えるだけ無駄ですよ」

ミウは適当に答えて、エリカの食べ終えた皿を片付けていた。
エリカがユーリを嫌っているのを使用人たちが心得ているので、
二人を関わらせないよう、ミウが積極的にエリカのお世話をしていた。

時刻は7時半。この時間になると国営放送がFMで
西洋古典音楽(クラシック)を流し始める。

今日は声楽曲の日だった。バッハのミサ曲が流れる。
壮大なオルガンの伴奏に合わせて合唱が始めると、
扉が開かれて太盛とマリンが入ってきた。

驚いたエリカが聞いた。

「マリンちゃん……? こんなに早く起きてくるなんて……何かあったの?」

「いいえ。特に理由はないですわ。
  たまにはお父様達と朝ごはんをご一緒しようと思いまして」

理由がないわけがないだろうと、エリカは
口にしてしまいたかったが、軽く流すことにした。

「……あらそう。早起きなのはいいことよね」

自分の子供だったら毎日早起きしなければ叱るところだが、
腹違いの子供を教育する気などなかった。

エリカはそのあと太盛を見て言った。

「太盛さんも、今朝は、お早いんですね?」

たっぷりと皮肉を込めた一言だった。

「ああ……」

太盛は沈んだ声でこう答えるしかなかった。

太盛があの夜から、こっそりベッドを抜け出して
ユーリの部屋に通うようになった。太盛が朝寝坊をするように
なったのは、雨だから仕事がないこと以上に、夜の行為が原因だった。

エリカは夫を刺し殺したい衝動にかられながらも、今日まで黙ってみてきた。

しかし、エリカも人間だから、遠回しに文句の一つも言いたくなる。
監禁や尋問など、薄暗い感情が頭に浮かんでは消えていく。
暗い感情の正体は嫉妬だ。

夫を使用人に奪われた屈辱は、言葉で言い表せるものではない

エリカは目を閉じたままミウに言った。

「ミウ。レナとカリンはまだ寝ているのかしら?」

「先ほど起こしに行ったのですが、着替えをしている最中でした。
 まもなく食べに来ると思いますよ」

「そう。なら娘たちの相手を任せるわ。
  食べ方が汚かったら遠慮なく注意してちょうだい
  私は頭痛がするから部屋で休んでいるわ」

「かしこまりました。お薬をお出ししましょうか?」

「けっこうよ。自分で厨房へもらいに行くわ」

エリカは重い足取りで扉を開けて去っていった。


ミウが朝食の皿をテーブルに並べていく。

今日のおかずはキンピラゴボウ、サツマイモのバター焼きである
この日の朝はめずらしく和食だった。
ご飯と、豆腐とわかめのシンプルな味噌汁。スープの上にセロリが乗っている。

「ありがとうな、ミウ」

「いいえ」

太盛はずっと落ち込んだ顔をしていた。

ミウは太盛と大の仲良しであるが、
今回の件はあえて知らないふりをしていた。

「それじゃあ。マリン。いただきますをしようか?」

「はい。いただきます」

二人でサツマイモの味などを評価しながら、たんたんと食べていく。
マリンは向かい側よりも隣の席を好むので、太盛の左隣に座っていた。

食堂の長テーブルは無駄に席が多いので、ほとんどは空席のままだ。

(エリカに対する気持ちなんて初めからなかったんだ。
  結婚する前から俺は監禁されていたんだぞ?
   俺のしていることは本当に罪なのか?  
   俺は……もうユーリのことが頭から離れられないんだ)

父が考え事をするといつもうつむいて目を閉じるのをマリンは知っていた。
行儀よくおかずも残さずに食べ、デザートにヨーグルトを食べてから言った。

「お父様は悪くありませんわ。私はお父様の味方ですの」

「マリン?」

それはつまり、君は事情を知っているのかと喉元まで
出そうになった言葉を飲み込む太盛。親の浮気事情など
娘の前でする話ではない

マリンは大人っぽく笑って話題をそらした。

「ところでお父様。今日の午前中は雨の予報ですの。
  今日は私と遊んでくださらない?」

「あ、えっと、そうだね。
  昨日は双子ちゃんだったから、今日はマリンちゃんの日にしよう」

カリンと違うのは、マリンには父を責めるつもりが全くないこと言うことだ。
浮気の事実を知っていてもマリンにとって父は父だった。

「マリンは何をして遊びたい?」

「一緒に本を読んでもらいたいんです。
  最近世界史の本を読んでいるのですけど、
  難しくて理解できないところがありますの」

親子で手をつないで階段を登る。

並んで歩くとマリンのセミロングの髪がかすかに揺れる。
今日のマリンは薄ピンクのカーディガンにベージュ色の
スカートを履いていた。いつも以上にフェミニンな格好で
視覚的におっとりした印象を与える。


二階の広い廊下を歩き、レナカリ姉妹の部屋のさらに奥にマリンの一室がある。
扉がゆっくり開かれ、中からユーリが出てきてお辞儀した。

「お掃除はすんでおりますので」

「うん。いつもありがとう」

少し堅苦しく礼を言う太盛。マリンは黙って見守っている。
マリンには、特に怒った様子も悲しんだ様子も見られなかった。

それが逆に太盛には恐ろしかった。

マリンの部屋はレナカリ姉妹の大部屋を少しだけ
小さくした形である。パソコンやテレビは同じものを使っている。
二人掛けのソファと、一人用の巨大ベッド。
二つある本棚は大きくて立派だった。片方は勉強用。もう片方は漫画だった。

レナカノ姉妹の部屋にも漫画はたくさんある。
他にも小説やアイドル雑誌やファッション雑誌など、本は非常に豊富だった。

マリンは勉強用の本棚からハードカバーを一冊取って太盛に見せた。

「これは……ロシア革命史について書かれた本じゃないか。
  マリンの年齢じゃあ、これは難しすぎるよ。
   普通は高校生とか大学生が読むべき本だよ?」

「でも、知りたいんですの。特にロシアのことが」

「どうしてロシアなの?」

「エリカおばさまの祖先がソビエト連邦のご出身なのでしょう?
  家族に関することは何でも知っておきたいと思いまして」

「うーん、勉強熱心なのはすごく偉いと思うんだけど、
  ……政治、経済、歴史に関することはちょっとね」

「お父様はエリカおばさまとは
 朝によく政治の話をしているではありませんか」

「ユーリから聞いたのかい?
  あれは大人の人の会話だから、マリンはまだ早いんだよ?」

「でも……」

マリンが悔しそうに唇をかむので、太盛は何を言い出すのかと身構えた。
マリンは、何かを思い出したのか、はっとした顔をして言いよどむ。

「い、いえ。なんでもないですの」

「そこまで言われたら気になっちゃうな。
  最後まで言ってごらん?」

「言ってしまったら、お父様は私のことを生意気だと思いますわ」

「そんなことないよ。僕がマリンのことを嫌いになったことが一度でも
  あったかい? 怒らないから言ってみて」

「はい。それでは言います。実は私、ずっと前からユーリからお父様の
  ことを聞き出していましたの。お父様の婚約時代のことです。
  エリカおばさまに、その、愛を強制された事件のこと」

太盛は、衝撃のあまり吐きそうになった。
カリンと同じくらい知恵の回るマリンは、持ち前の探偵のような
行動力で、子供たちが絶対に知らないはずの監禁事件のことも知っていたのだ。

「はじめてその事件を知った時は、嫉妬深いエリカおばさまを
  嫌いになりました。お父様がエリカおばさまを好きになれない理由は
  すごくよく分かります。それと、私が生まれた理由も知ってしまいました。
  私は実の母でさえ好きになれません」

クッパの逆レイプ事件のことを言っているのだ。
自分が監禁中に行われた性的暴行の末に生まれた事実を知れば、
不良少女になってもおかしくない。

それなのにマリンは父をここまで気づかってくれる良い子に育った。

「私は、お父様がユーリを選んだとしても、
 仕方のないことだと思っています」

太盛の汚れた心さえ認めてくれるという意味だった。
尊敬する父だからこそ、欠点でさえ許してしまう。
それがマリンの父に対する愛の形だった。

マリンは9歳という若さで
全ての過去を受け入れるだけの強さを持っていたのだ。

太盛は何も言わずにマリンの体を抱き寄せた。

マリンの頭がすっぽり太盛の胸の中に埋まり、少し息苦しかった。
マリンも何も言わずに、父に体重を預けて甘えていた。

(ユーリも、父に抱き締められた時はこんな気持ちだったのかしら)

マリンは、太盛が思うよりもずっと早く大人に近づいていた。
エリカの望んでいた理想のお嬢様とは、実はクッパの娘だったのだ。

マリンがもっとこのままでいたいと言うので、
気が済むまで抱きしめてあげた。マリンの幼い吐息と髪の匂いが、
太盛のセーターに香水のようにつくまで。

その頃、自分の部屋にいたエリカは、恐るべきことに彼らの会話を盗聴していた。
マリンのベッドの下に設置してある盗聴器がすべてを教えてくれていた。

「どうして……太盛様はわたくしからどんどん離れていきますの……。
  マリンも実の娘とはいえ、陰でイチャイチャして……自分が
   彼女にでもなったつもりですか……気に入らないわ」

ノイズが混じるものの、太盛とマリンの会話はしっかりと聞こえる。
エリカはモノラルイヤホンを外して受信機に巻き付けた。

頭痛薬を服用しても目の奥の痛みが消えなかった。
エリカは、深いため息をついてからベッドに横になった。

午後になると雨は止み、待望のクッパが帰ってきたと
鈴原から報告される。エリカは急ぎ足でリビングへ向かった。

「ここ数日ずっと天候が悪いものでな。遅くなってすまなかったなエリカ」

「いえ。天候はクッパさんのせいではありませんから。
  それよりお飲み物はコーヒーでよろしいですか?
   たまには私が淹れてきましょう」

「いいのかい? エリカにやらせちゃ悪いなぁ」

「うふふ。お気になさらず。いちおうこれでも主婦ですからね」

淹れたてのコーヒーの香りがエリカの気分を落ち着かせた。
ずっと野生生活を続けていたクッパにとっても
コーヒー豆の香りは文明社会の象徴であった。

クッパはさらに体格が良くなり、顔つきも男らしく
たくましくなっていた。エリカにとって彼女の顔など
床に落ちているほこりよりどうでもいいことだった。

「で、話ってなんだ?」

「単刀直入に言います……」

太盛の浮気の件を包み隠さず説明すると、
クッパは大きな口をあけて笑った。

「なんだぁ。相談ってのはそんなことだったのか。
  私はもっと深刻なことかと思ったよ。党首様のこととかさ」

「思っていたよりも冷静ですのね。
  太盛さんはあなたにとっても伴侶であるのに、
   驚かないのですか?」

「太盛は少し気が弱いけど、良い男だよ。
  良い男には自然と女ができちまうものさ。
  エリカだって昔は本土に住んでいたことがあるんだから
   よく分かっているだろう?」

「それはそうですが……。太盛さんは所帯を持っている男なのですよ?」

「結婚してたって同じだよ。モテる男は会社でも出張先でも
  どこにいたって女と付き合えちまうんだ。太盛は
   オーラっていうか、なんか他の男とは違う魅力があるからなぁ」

ろくに恋愛経験のないはずのクッパに偉そうに語られて
エリカは少し腹が立ったが、文句は言わなかった。

「では、ユーリのことはどう思いますの?」

「ユーリか。私は別にあいつが愛人だったとしてもかわまないけどな」

「なっ?」

エリカはクッパの正気を疑いたくなったが、クッパは
さっぱりした性格で、良くも悪くも本心しか話さないのを知っていた。

クッパは後藤特製のクッキーを食べながら続ける。

「昔から太盛が女にだらしない奴だってのは知っているよ。
  浮気は男の解消だって言葉もあるしな。
  ユーリは良い子だし、少しくらい太盛を貸してあげても
  別にそこまで怒るほどのことじゃあ……」

「怒るほどのことですわ!!」

エリカの怒声が廊下にまで響いたが、クッパは気にしていなかった。

「そう怒るなって。別にエリカをバカにしてるわけじゃないんだよ。
  今言ったのは私の考えだから。あくまで私の意見だよ。
   エリカが許せないっていうなら、お仕置きでもなんでも
   好きにすればいい。私は止めないから」

「……私はもう二児の母なのです。独身時代のように
  好き勝手するわけにもいきません」

「だから、その怒りのほこさきをどこへ向ければいいか分からないってか?」

エリカは黙ってうなずいた。

短い沈黙のあと、クッパは紅茶を飲みほした。

クッキーの盛られた皿は空になっている。
食欲のあるクッパが次々に食べていくので
エリカは一つも食べられなかった。

日が沈みかけ、雨上がりの庭を優雅な色に染めていく。
クッパはまぶしそうに窓から見える庭を眺めてから言う。

「なあ、エリカよ。私は思うんだけどな」

それからクッパの長い語りが始まった。

「人の一生には流れがある。人はちっぽけなものだ。
  流れには逆らえないんだ。その流れってのはさ……
   私らにとってはこの島で暮らして子供を作ったことだ。
   エリカが学生の頃、こんな島で子供と一緒に
   暮らす生活を想像できたかい?」

エリカは首を横に振った。

「私は宗教を信じる柄じゃあないが、もし神様ってのが
 存在するとしたら、私らの運命は間違いなく操作されているんだろうな。
  ありていに言えば運命ってことだな。その運命ってのは、
   まさに流れのことだ。全ては逆らえないことなんだよ。
   下流から上流へ川の水が流れないのと同じでな」

「……太盛さんとユーリが愛し合っているのも
運命だからあきらめろと?」

「それに近いニュアンスだが、厳密には違うな。
  エリカは頭の回転が速すぎて、少しせっかちに
   考えすぎるきらいがあるな。この世に永遠の関係なんてないんだよ。
    それこそ血縁関係でもない限りな」

まだ続ける。

「私ら夫婦3人は結婚していても血のつながりはない。
  ユーリだって同じだ。ユーリの過去はエリカに教えられるまで
  私も知らなかったが、あいつらは傷をなめあってるだけなんだよ。
  そんなあいまいな関係がいつまでも続くか?
  長年連れ添った夫婦だって子育てが終わったら
   とっとと離婚しちまうような、こんな世界でさ」

エリカは、自分より広い視点で世の中を見ているクッパに
感心した。彼女について野生で暮らす獣程度の認識しかなかったが、
きちんと彼女なりの哲学を持って生きていたのだ。

彼女はエリカより2歳年上である。言っていることに説得力があった。

エリカは、マリンの優秀さは父からの遺伝だけでは
ないことをこの時知るのだった。

「太盛はむしろ良いところのほうが多い男だぞ?
  子供たちの面倒見もいいし、野良作業や木こりまで
   やって生活を支えてくれる。使用人からも信頼されているぞ。
   私はあいつなしの島暮らしは考えられないと思ってるけどな」

「そうですね。私もクッパさんの意見に同意します」

「おっ、分かってくれたのかな?」

「はい。目からうろこの話でしたわ。
 あなたと話せてずいぶん気が楽になりました」

「それりゃあ良かったな。これでも太盛の奥さん仲間だからね。
  また相談に乗ってほしければいつでも呼んでくれ」


これでエリカの悩みの種であった相談は終わった。
エリカとクッパは長い目で夫の浮気を見守るという点で一致した。


ルイージ事件のあと、島内の人間関係に若干の変化が現れた。

エリカは結婚して10年たっても太盛に恋をしていた。
太盛と仲良くする女はたとえマリンでも嫉妬した。

クッパはそもそも恋愛感情を一時の気の迷いとしか思っていなかった。
ユーリも同じだった。恋人とか夫婦とか、
そういう肩書きも薄っぺらいものに感じて好きではなかった。
肩書きを好むエリカとは対照的だ。

それなのに魔が差したのか、ユーリはうっかり太盛の前で
弱さを見せてしまい、恋人の関係に発展してしまった。

ミウと後藤は太盛を信頼しているから今回の件は容認した。
同じ主人でもエリカより太盛のほうに着いてきたいと思っていた

鈴原は立場上、中立を維持した。

レナは能天気だから浮気のことすら知らなかった。
カリンは父とユーリの汚らわしい関係を嫌った。

マリンは、エリカに負けないくらい父のことを愛していた。
父がひそかにエリカを憎んでいることを知っていた。
そしてマリンとエリカは太盛を奪い合う関係で憎みあっていた。

太盛は、ユーリとの関係を続けながら、
マリンのことを溺愛するようになった。
それは古い言葉で過剰愛と呼ばれるほどに。


ルイージが来ようが、浮気が始まろうが、食糧危機が訪れようが、
島での生活はこれからも続いていく。

島には次の日も太陽が昇るのだった。

「マリンの誕生日」A

マリンは2月28日に生まれた。父は同じ月の22日である。

太盛は生まれつき喉(のど)が悪く、真冬の乾燥した空気で
喉(のど)をやられてしまい、喉風邪をこじらせることがよくあった。

長い時で丸二週間も風邪が続いたこともある。

父から喉の弱さが残念なことに娘のマリンへと遺伝してしまい、
誕生日を2週間後にひかえた今日、風邪で寝込んでいた。


「ユーリ。マリンの熱は下がったのか?」

「今は平熱より少し高いほどです。
昨日から高熱は出ておりませんので、発熱は問題なさそうです。
それよりも声の調子が悪いですわ。
  のどのはれが治らないので話すのもつらいようです」

太盛とユーリが声をひそめて話している。
ベッドで寝ているマリンを起こさないようにと、身を寄せ合っていた。

マリンの部屋はカーテンがしかれ、日の光は入らないようにしている。
時刻は夕方。マリンは食べるとき以外はほとんど寝て過ごしているのだ。

「そっか。ひどいな……。あんまりひどいようだと
 本土から医者でも呼ぶか?」

太盛の顔が怖いくらいに真剣だったので、
ユーリがやんわりとした口調で諭すように言った。

「今は薬が効いて落ちついていますから。それに風邪はいつか治りますよ」

「しかし……細菌性の風邪だったらどうする?
 やっぱり心配になっちゃうよ。館の常備薬だけで良くなるんだろうか?」

「大丈夫です。マリン様が風邪をひいて一週間たちますが、
  少しずつですが、様子は良くなっていますよ?
  高熱が出たのも最初の三日間だけでしたし、
   ご飯だってきちんと食べておられますよ」

ユーリの母のようにやさしく、また理性的な目で言われたので
太盛は納得した。太盛がユーリに恋していることもあるが、
彼女の聡明さを心から尊敬していた。自分より4つ年下とは
思えないほど大人びているのだ。

「お父様達……そこにいますの?」

枕から顔を上げるマリン。眠気のため、まぶたは半開きだ。

斜光カーテンで外界と区切られた室内は夜のように暗い。
マリンは寝てばかりの生活なので昼と夜の区別もつかないのだ。
ベッドサイドの目覚まし時計を取る。

「夕方の5時ですのね。夕飯の時間まで、まだ少しありますの」

「起こしちゃってごめんねマリン」

「いいえ」

「パパたちがいると迷惑じゃないか?」

「そんなことはありませんわ。一日中ベッドの上で過ごしていると
 気が滅入りますもの。今日は十分寝ましたわ。
 夕飯の時間までお父様とお話しをしたいです」

「無理して話さなくていいんだよ? 喉が痛くてつらいだろう?」

「お水をたくさん飲めば、それほどでもありませんわ」

部屋にはペットボトルが用意されていたのだが、すでに空になっていた。
太盛が目配せして、ユーリに新しいペットボトルの水と
コップを持ってきてもらった。

「それでは私は食事の準備がありますので、これで失礼いたします」

「いつもありがとうユーリ。マリンの夕食は少し早めに
  持ってきてもらえると助かるよ」

「承知いたしました」

ユーリが丁寧に扉を閉めると、親子は2人きりになった。

太盛はベッドのわきに腰かけて娘のおでこへ手を伸ばした。

「うん。熱はなさそうだね」

「たぶん温度計で測っても平熱だと思います」

実際に計ってみたら、なんと35.9℃だった。
マリンは平熱が低いほうなのである。
熱だけなら風邪をひいているとは言えないだろう。

だが、全身の倦怠(けんたい)感、頭痛、やのどの炎症などは続いている。
熱がないのでお風呂にはいれるのが幸いだった。
マリンは綺麗好きなので毎日お風呂に入らないと気が済まないのだ。


「毎日天井ばかり眺めていてウツになりますわ。
  たまには本が読みたいですの」

「風邪をひいている時に頭を使っちゃダメなんだよ?
  本を読むのは集中力が必要なんだ。
   読むなら治してからにしなさい」

「むー。ユーリにも同じことを言われましたわ」

ユーリはマリン専属メイドで教育係も兼任しているので
看病は基本的に彼女がやる。太盛は真冬で外の仕事がほとんどないため、
ユーリにくっついてマリンの看病を手伝っていた。

「お父様。冬は虫がぜんぜんいませんわ。あのうっとおしい蚊も、
  12月を過ぎれば消えてしまいますの」

「虫や昆虫の類はある程度の暖かさがないと地上で暮らせないのさ。
  中には地中に潜って冬をやり過ごすのもいる」

「冬眠のことですか? ならマリンのお母様も同じですわね。
 雪山で地中に穴を掘ってカマクラ?を作って生息していますの」

「あれは……いろいろ規格外だから話題に出すのはよそう……。
  それより冬は家で読書するのが楽しい季節だね」

「私はお父様とリビングの薪ストーブで暖まりたいですわ。
  そして本を読んでもらいたいんですの。絵本でいいです」

「絵本か。昔は寝る前によく読んであげたね」

「夢でお父様が読んでくれたシーンがよみがえりましたの。
  あのグリム童話の絵本。小説版も読みましたけど、
  本当は幼児向けではなく、すごく残酷なお話」


グリム兄弟が、ドイツに古くから存在した数々の昔話を
一つの本にまとめたことから、グリム童話という名がついている。
日本では赤ずきんや白雪姫などが有名である、

原作ではどの作品も劇中の人物がむごい死に方をするのが特徴だ。
拷問や虐待、虐殺など。悪役に設定された人物には
最後に容赦のない仕打ちがなされてハッピーエンドとなる。

「マリンは原作版の小説も読んでしまったのか。
  ああいう話は大人でも苦手な人が多いんだけど、
  怖くはなかったかい?」

「いいえ。グリム童話はすごく現実感のある小説だと思いました。
  ファンタジー風にぼかした、子供だましの作品を見せるのは
   日本の悪いくせだと思います。本場のドイツではあの手の
   お話をおばあさんが孫に言い伝えていたのでしょう?」

「まあ。そうだね。向こうは文化が全然違うから。
  獅子はあえて子を谷底に突き落とすを地で行く国だよ。
   ドイツの母親はね、子供が風邪をひくことを怖がらないんだ」

「どうしてですか?」

「小さいうちにどんどん風邪をひいて、体に免疫をつけさせるためさ。
  涼しい時期でも森へ子供を連れてどんどん遊びに行く。
  日本のママなら子供が風邪ひいちゃうからって
 遠慮するだろうけど、ドイツ人はむしろ積極的に遊ばせる」

「そうなのですか。ドイツは森と親しむ民族と聞きますからね」

「ユーリが言ってたな。カナダのユーコン川でカヌーを楽しんでいるのは
  八割がドイツ人だって。なんでカナダにドイツ人があんなに
   たくさんいるか不思議だって言ってたよ」

「カヌーも楽しそうですね。いつか乗ってみたいですわ」

「クッパが樫の木で作ったカヌーがあるはずだよ。
 マリンと二人で乗れる大きさだから、
 春になったら乗ってみようか?」

「はい。今から待ち遠しいですわ」

川からの自然の眺めは、地上からの景色とは全然違うのだと
太盛が言う。マリンは目を輝かせた。

マリンは布団を肩までかけた状態で、枕の上で顔を横にしている。

もっと父と話がしたいと思って
上体を起こそうとすると、めまいがする。
息を大きく吐いてから枕に頭を沈めた。

「マリン。無理しちゃだめだよ。横になってなさい」

「うぅ。早く健康な体になりたいですわ」

トントンと控えめなノックの音。

ユーリが来たのかと思って太盛が扉を開けると、
自分の妻の顔がそこにあった。


「太盛様ぁ。今日もマリンちゃんのお世話に夢中になって
  お夕飯の時間を忘れてしまいましたか?
  私は食堂で太盛さんが来るのをずっと待っていましたのに」

皮肉っぽいエリカのセリフに太盛はむっとしたが、

「ああ、確かにもう6時を過ぎているな。
 僕はあとで行くから、先に食べててくれ」

「それはいけませんわ。家族そろって夕飯を食べるのが
  館のルールです。これは家族のきずなを深めるためだからと、
  父上殿が奨励された決まりではないですか」

父の名前を出されると辛かった。太盛は仕方なくエリカに
着いていくことにした。実際に食堂にはレナカリ姉妹もいる。

「太盛様をお借りしちゃって、ごめんなさいねぇ。マリンちゃん。
  もうすぐユーリがお食事を運びに来ますからね」

「私は一人でも構いませんわ。
どうせ食べたらすぐ寝てしまいますから」

この会話のやり取り中、互いの視線に火花が散っていた。

マリンはこの部屋で父と一緒に食事がしたいと思っていた。
一食くらいユーリに頼めば簡易テーブルごと運んでくれる。
それに太盛は子煩悩だから喜んで一緒に食べてくれるのだ。

それを分かっていたから、エリカはわざわざ太盛を呼びに来た。
たとえマリンが病気中でも仲の良い親子が二人きりなのが
気に入らないので邪魔をしに来たのだ。

(あの小姑め……)

とマリンが心の中で毒づくのも無理はなかった。


マリンは食事のあと薬を飲んで眠りについた。
一度眠るとなかなか起きない体質なので朝まではそのままだ。
太盛は心配で居ても立っても居られない。

マリンの様子を見に行こうと2階へ足を運ぶ。
すると廊下の反対側からユーリが歩いてきたので話しかける。

「マリンの風邪、ずいぶん長引くね。熱はなくても
  めまいやのどの痛みは、ほとんど治っていないじゃないか。
  しつこいようですまないが、薬を変えてみたらどうかな?」

「太盛様。焦る気持ちは分かりますが、病気は薬の力
  だけで治すものではありませんわ。薬は対症療法にすぎません。
   病原菌を治すのは本人の治癒力です。
    これを高めるためには十分な栄養と睡眠が必要なのです」

「そ、そうか。マリンは食欲も出て来たし、良くなっているんだよな?」

「うふふ。その通りでございます。
  今日の夕方も太盛様と楽しそうにおしゃべりをされました。
   病は気からと言いますから、お子様思いなお父様が
    そばにいてくれれば、すぐ良くなりますよ」

「ありがとう。ユーリ。
君に優しく諭されるとすごく安心する」

「あっ。太盛様、こんな場所では……」

衝動で抱きしめてしまう。困り顔のユーリが太盛の腕の中で
小さく抵抗をする。ここは子供部屋の前の廊下だ。
すぐ近くにレナカリ姉妹の大部屋があるのに、軽率な行動である。

舞い上がると空気が読めなくなるのが太盛の悪い癖だった。


「太盛……。また誰かに見られたら悪いうわさが立つじゃない」

「ご、ごめん。つい夢中になっちゃって」

太盛が軽くキスをした時に耳元でユーリにささやかれて
ようやく我を取り戻した。もっとも、一番知られてはいけない
エリカやジョウンにはすでにバレてしまっているのだが。

「ん?」

太盛が後ろを振り返る。
階段のほうから物が落下したような、にぶい音がしたのだ。
夕食後の落ち着いた夜の雰囲気には似合わない音だった。

「なんだ? 誰か階段で転んだのかな?」

「さあ……? 私にはわかりませんわ」

ユーリはあえて口には出さなかったが、最近屋敷を歩くときに
エリカに尾行されることが多いことを知っていた。エリカは
浮気の現場を生で見るために尾行しているのだが、見るだけで
何も言ってこないのが逆に怖かった。

今の音は、逆上したエリカがその辺の物に八つ当たり
をしているのだろうと思った。


「太盛様。まもなく8時半になりますので
 お風呂にお入りください」

「え? 少し早くないか。いつもは9時過ぎに入るのに」

「いいから、今日はお早めにお入りください。
  お湯は沸いておりますわ」

「レナ達はあがっているのか?」

「はい。もう自室で休まれていますわ」

「んー。そこまで言うなら分かったよ」

多少強引だが、太盛を自分から引きはがしたユーリ。
お風呂に入ってほしいというのは方便であり、遠くからコソコソ
こちらの様子をうかがっているエリカの視線が怖かったのだ。

太盛が去った後、エリカが廊下の隅から姿を現した。

笑顔である。おかっぱに近いショートカットヘア。
クセのないストレートの黒髪だ。普段着の和服を着こなし、
まるで背の高い日本人形がそのまま歩いているかのようだった。

細い2つの眼がユーリを射抜くように見ている

「ごきげんようユーリ。今日もお勤めご苦労様」

優雅な口調だが、声に重みある。

ユーリは一瞬たじろぎ、ついにこの時が来たのかと身構えた。

「今日太盛さんと一緒にお風呂に入ろうと思っているのよ。
  たまには、夫婦らしいことをしても罰は当たらないわよね?」

「それは……そうでございます」

「うふふ。くれぐれも邪魔はしないでいただきたいわ。
  わたくしたち、夫婦が二人でいるときは……ね?」

「かしこまりました。奥様」

「それと、主人が気になって仕方がないみたいだから、
 マリンちゃんの風邪も早く治すよう全力を尽くしなさい。
  適切な治療は施しているのでしょう?」

「はい。医療の知識のある鈴原にも協力してもらって
 おりますので、ぬかりはありません」

「あらそう。ならばいいのよ。
  うふふ……。私もあなたくらい髪を伸ばせば主人に
   優しくしてもらえるのかしら。ねえ、あなたはどう思う?」

嫌味を言われ、何も返せないユーリ。
どう返事をしてもエリカを不愉快にさせると思ったからだ。

怖さのあまりエリカの顔を直視できなかった。
浮気のことを口に出されれば、明日にでも解雇される恐れがある。

主人の妻であるエリカは、使用人の管理をする立場にある。
本来なら太盛の仕事なのだが、太盛はユーリ達を使用人扱い
したくないので、彼らの仕事ぶりのチェックなどしたくなかった。

それに外仕事をするのが大好きなので、屋敷内の管理は
エリカに任せている。

2週間に一度島を訪れる定期船とのやり取りも
基本的にエリカが行って生活必需人を館に届けている。
必要なものがあれば島の外と電話やネットでやり取りしている。

ホームスクールで子供たちに受けさせるテストの採点をするのは
エリカである。授業はメイド達に任せるから、採点係がエリカなのだ。
娘の成績は党首である太盛父に報告する義務がある。

島暮らしでは海上監視も仕事の一つだ。
ルイージ時事件以降、エリカは鈴原、ミウと共同で監視を行っている。
地下の迎撃システムにはレーダーと隠しカメラの映像で確認できる。

監視塔ではもっぱら望遠鏡と双眼鏡を使う。
島周辺の海洋生物や鳥などの調査にも使える。
風や波の状態を知るのにも便利である。

話が脱線した。ユーリが黙り込んだシーンへ戻る。

「あらあら。そんな引きつった顔をしたら
  美人さんが台無しよ?」

「い、いえ。私は奥様ほど美しくありませんので」

エリカは小声で、よく言うわ、とつぶやいた。

「そんなに謙遜(けんそん)しないで頂戴。
  私は別にあなたを取って食おうと考えているわけではないの。
   太盛さんが望むなら、あなたはずっとこの屋敷で働いて
   くれてかまわないのよ?」

ユーリは何も答えない。言葉を慎重に選ぶあまり、
つい無口になってしまう。エリカは言葉通り本当にユーリを解雇する
つもりはないのだが、言われた本人のユーリは彼女の本心を
分かりかねていた。

ユーリは、エリカとクッパの話し合いの結果を知らない。
浮気をしばらく放置すると決めたことである。

「私と太盛様の分の着替えを用意しておきなさい。
   少し長いお風呂になるかもしれないけど、かまわいわね?」

「はい。それは奥様の自由でございますので。
  着替えはすぐにご用意いたします」

エリカは、お願いね、と言って立ち去った。

怒りのエリカが去った後、ユーリは気が抜けて
大きなため息をついたのだった。

「マリンの誕生日」B

屋敷の風呂は大浴場である。
欧州の貴族を思わせる豪華な作りで広々としていた。
浴槽は泳げるほど広い。

2月の本格的な冷え込みは体を芯から冷やしてしまう。
マリンのことが心配で夜も少ししか寝ていない太盛は
湯船に肩までつかっていた。

まぶたを閉じると、睡眠不足のためうとうとしてしまう。

「お背中をお流しいたしますわ」

と、つやのある女の声が聞こえたので驚いた太盛が身構えた。

(だれだ? ユーリかミウか?
  今日は頼んでないのに来るなんて珍しいな)

振り返ると、脱衣場から見知った妻の顔が見えた。
エリカは熱いシャワーを浴びて体を清めた後、
太盛の湯船につかってきた。

身体を密着させてこう言った。

「たまにメイド達をお風呂場に呼んで話し相手に
  なってもらっているそうですわね?
  本人たちに聞きましたわ」

「その……一人で入っていると退屈だからね。
  僕は長湯するタイプだから、話し相手がほしいなって思って」

「あなたったら、つれないです。わたくしでは
  話し相手にならないのですか?
  わたくしは太盛様の妻ではありませんか」

妻という言葉を使われると太盛は弱かった。
彼らの結婚は太盛の父が強く望んだことだから、
すさまじい強制力がある。

夫婦でなければこの島で生活する意味がないのだ。

「エリカ。こっちにおいで?」

「はい」

太盛に誘われるとエリカは従順な乙女になる。
湯船の上で二人は抱き合った。湯気が幻想的な雰囲気をつくり、
互いの気持ちを盛り上げる

湯の注ぎ口はライオンの形をしている。太盛は無意識に
エリカの豊満な胸へ手を伸ばす。
乳首をつまむと、エリカが甘い吐息をはいた

「よかった。私のことをちゃんと
 女として見てくれているのですね」

「エリカ。君はとっても魅力的なんだよ。
  君の魅力は10年たった今でも変わっていない」

「太盛様から褒められるなんて、素直にうれしいですわ。
  でも太盛様はいけないお人ですから、
   私以外の女性も魅力的に見えてしまうのでしょう?」

言葉に詰まる太盛。エリカは遠回しにユーリとの関係を
皮肉っているのだ

妻の嫌味は一度始まると長い。今は湯船につかっているので
のぼせてしまうと思ったので、強引にエリカに口づけした。

「ん」

エリカの髪が湯に濡れる。湯の温度とは関係なしに、
エリカの顔が上気した。押し付けた唇を一度離し、
今度はもっと強くキスをする。

口を少し開けて舌を絡ませた。

「……苦しいですわ」

とエリカがせつなそうに言うので唇を解放した。

「ごめんね。ちょっと強引すぎたかな」

「違うんですの。
 愛情のないキスをされるのが苦しいんですの」

太盛は胸に長ヤリを突き刺された気持ちになった。
確かに自分がエリカの立場だったら同じ気持ちだろうと思った。

太盛はエリカを性的に愛していても、彼女の心まで
好きになったことは一度もない。恋愛感情というものを、
一度も妻に持ったことがないのだ。

「太盛様に愛していただけるのなら、なんでもいたしますわ」

エリカは太盛の首の裏へ両手を伸ばし、距離を近づけて言った。

「明日から和服を脱いで、ユーリのようにメイド服を
 着ればいいのですか? それともミウのように
 ジャージを着て木こり仕事のお手伝いをすればよろしいのですか?」

その言葉に若いメイド達に嫉妬していたエリカの感情が表れていた。
太盛はこの時になって、エリカが食事中に赤ワインを何杯も
飲んでいたことを思い出した。

「さみしいです……。私の心はずっと孤独でした……」

一滴の涙が、エリカの頬へ流れ落ちた。

人の思いは目には見えない。だから言葉で伝えるか、
行動で示すしかない。太盛はいつもなら前者を好む。
しかし、いまさらエリカへ愛の言葉を並べたところで意味はない。

だからまたキスをした。

エリカが飽きるまで、何度もキスをつづけた。

「太盛様は、これからもずっと私の夫ですからね?」

「ああ」


自分たちは夫婦である。それしかエリカには強みがなかった。
若さでも美貌でも自分はミウとユーリには勝てないと知っていた。

監禁事件の時に失ってしまった太盛の心も2度と自分に
戻ってくることがないことも。

それでもエリカは狂おしいほどに太盛だけを求め続けた。
女の意地は簡単には収まらず、これからも太盛を見えない
鎖で縛り続けることになるのだった。


マリンの風邪が治ると同時に雪が降り始めた。
騒ぐほどの積雪ではないが、また館に引きこもる生活が
続くと思うと、家族たちの気持ちが重くなる。

今朝、ミウが監視塔の頂上から見た雪景色は幻想的で、
あまりの美しさに監視業務を忘れてしまったほどだ。
島一面に降り注ぐ雪。森と山の木々を白く染めるその光景は、
まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。


お昼の食堂である。
マリンは父の隣の席に座ってべったりであった。
最近早起きができる良い子になったので、
朝昼晩とも父と一緒に食事をとっている。

「今日はお父様と一緒にすごしますの」

「いいよ。午後はマリンの好きなことをして遊ぼうか」

「お父様がおすすめしてくれる本が読みたいですわ」

「本か。良いね。どんな本が良いの? 童話かい?」

「小説とか、長く読めるものが良いですわ。
  真冬は外で遊べないので退屈ですから」

「ならミステリー小説でもおすすめしようかな。
  パパの本棚にまだあったはずだ」

そんなマリンと太盛を向かい側の席で見守る人物がいた。
太盛の妻であるエリカである。エリカの隣にレナとカリンもいた。

「マリンちゃん。すっかり風邪が治ったみたいで良かったわね?」

笑顔だが、目は笑っていなかった。
病気が回復するなり愛する旦那を独り占めしようとする小娘の
事が気に入らないのだ。その矢のような視線を、マリンは
軽く受け流しながらこう言った。

「ええ。ありがとうございますエリカおばさま。
  お父様とユーリが献身的に看病をしてくれたおかげですわ」

「ユーリねぇ。ユーリもすごく良い子よねぇ。
  マリンちゃんのことを実の子供みたいに可愛がっているわ。
   太盛様とユーリが夫婦だとしたら、お似合いだと思いません?」

「う……」

太盛、思わずうねる。エリカの直球過ぎる表現に
またしても返す言葉が思い浮かばす、うつむいてしまうのだった。

助け舟を出したのはマリンだった。

「おばさまの言う通りですわね。お父様は思いやりがあって
  優しい女性が好みのようですから。お父様だけでなく、
  世の殿方は思い込みが強かったり、気性の荒い女性のことを
  好まないようですわよ?」

「あらそう……。うふふ。マリンちゃんったら、
  ずいぶんと知ったようなことを口にするのね。
   うふふふ。笑いが止まらないじゃない」

「気に障ったらごめんなさい?
  わたくしは思った通りのことを口にしただけですわ。
  お父様から自分の意思をはっきり述べるのが
   スマートな女性だと教えられておりますので」」

この言葉にエリカが顔をさらにひきつらせた。
あおっているマリンも顔は笑っていても、
獣のように鋭い目つきである。

見えない火花が両者の間に散り、
食堂の空気がどんどん凍り付いていく。

「なら、私もはっきり言わせてもらうわね?
  マリンちゃんは賢くて早熟な子だけど、
  少し目上の人に対して口が過ぎるんじゃないかしら?」

「私はお父様をかばっただけのことですわ。
  エリカおばさまがお父様を責めるようなことを
   話されていたではないですか」

母を怖がって静かに食事をしていたレナとカリンは、
まだ皿が半分以上残っているのに席を立った。

幼い双子にこの刑務所のような緊張感はとても耐えられなかった。

「ごちそうさまでした。
午後は理科の課題が残っているので、お先に失礼いたします」

と声をそろえて出ていく。ご飯をほとんど食べてないので、
食堂にいる意味がなかった。お腹が減ったので
あとでミウにこっそりお菓子を部屋に運んでもらうのだった。


エリカの番である。

「私が太盛様を責めているように感じているのなら、
 その原因が太盛様本人にあることはもちろん知っているのよね?」

暗に太盛とユーリの浮気のことを聞いているのだ。
マリンは黙ってうなずいた。

「これは、わたくしたち夫婦の事情というものなの。
 マリンちゃんはもうすぐ10歳になるわけだけど、本土では
  小学生の年齢にあたるわけ。大人の関係に口を出すのは
   生意気だと言われても仕方がないわよ?」

「そうでしょうか? 私は自分の父が苦しんでいる姿を
  見て心が痛んだのでフォローをしているだけですわ。
   父の手助けをするのが、そんなにいけないことなのでしょうか?」

「それが生意気なことなのよ。自覚がないのかしら?
  そもそもあなた、太盛様に外仕事がないのをいいことに
   休みの間ずっと独り占めしようと考えているでしょう?」

「何か問題でもあるのですか? 父も私といるのを楽しみにしていますが」

「太盛様はね、私の旦那なの。お分かりかしら?
  夫婦で過ごす時間はとっても貴重なものなの」

「それはよく分かりますわ。おばさまが妻であるように
太盛お父様の娘は私ですから、親子で仲良く過ごしたいだけです」

「太盛様にとって第一は私で、あなたはそれ以下よ。
  調子に乗らないで頂戴」

「そんな決めつけを……」

マリンは途中で言葉を区切り、軽蔑する目でエリカを見た。

「されるのでしたら。お父様に直接うかがえばいいのですわ。
 そうすれば白黒はっきりとつくと思いません?」

「いい考えねえ。それでは、太盛さん。
  私とマリンちゃんのどちらが大切なのか
   はっきりおっしゃっていただけます?」

と妻と娘に真剣な顔で見られ、緊張と圧迫により固まる太盛。
二人の喧嘩の当事者であるので黙ってうつむいていたが、
何か答えなくてはこの修羅場を乗り切ることはできない。

本音を言えばエリカはどうでもいい。
夫婦という形式なだけで同居人の延長である。
性的に愛してはいても、心から好きになれないのは
何度も説明した通りだ。

娘3人の中でもマリンは特別に利口で気が利く。
学問も趣味も父を真似して、どんなささいなことでも
父を尊敬してくれる自慢の娘である。

マリンと答える選択肢もあったが、問題はエリカの顔である。
エリカのソ連人の血筋を思わせる冷酷な表情と目には、
強い猜疑心(さいぎしん)が宿っている。

下手に刺激して怒らせれば、また監禁事件が再現される
かもしれないと太盛はおびえていた。

「どっちも大切だよ。僕はこういうことに
 優劣をつけるのは無意味だと思っている」

「太盛様ったら、またそういうご冗談をおっしゃるの?
  白黒はっきりさせていただきたいのですが?」

「しかしだな……エリカも大人になってくれ。
そうやって喧嘩口調で話したら
余計に関係が悪くなるだろ。僕はマリンと……」

「Please answer yes or no. you want me or marin?」

(マリンとわたくしを選ぶか。二つに一つしか
 回答はありえませんわ)

ついに妻の英語が出てしまった。
突き放すような冷たい言い方であり、
エリカが相当に怒っているのがうかがえた。

仕方ないので太盛も英語で答える。

「I’m a man honest. so… today i have a promise that i'll read
books with marin.then i am going out of hire.
I finished today’s lunch time.」
(マリンと本を読む約束をしてある。僕は正直者だからね。
 食堂を去るよ。今日の昼食はもう終わりだ)

「No. you didn’t answer me. My lovely husband?
You meaned you want marin?」

(答えになっておりませんわ。あなた様はマリンを
選ぶということなのですか?)

「I am leaving hire. That’s i want to say.
i will stay with my marin this afternoon.
and erika, i want to talk with you tonight. is that all right?」

(僕はここを去る。それが言いたいだけだ。
 午後はマリンと過ごす。ただしエリカ。
 君と夜に話がしたい。了承してくれるか?)

「Well.no problem.my husband」

(それなら、問題はありませんわ)

これで話し合いが終わった。英語は白黒をはっきり
させる特徴を持つので、話し合いにはぴったりなのだ。
直接的にものを言いすぎて喧嘩になりやすくもあるのだが。

去り際にマリンが余計なことを言った。

「Excuse me,lady Erika? i must go.
i am going to have a lovely time with my great father.」

(それでは失礼いたしますわ。エリカ様。
  私は尊敬すべきお父様と素敵な時間をすごしますので)

エリカはいらだちを込めて、英国風に言った。

「I see. i wish you had a bloody time.」

(あらそう。最低な一日になることを祈っているわ)

それにマリンは笑顔でThank you と答えて父をおびえさせた。


マリンの部屋に着いて二人きりになると、
マリンは太盛に抱きついてきた。
身長差があるのでマリンが父を見上げながら言う。

「お父様は私のこと嫌いになりましたか?」

「いきなりなんのことだい?」

「私がおばさまと口喧嘩をしたことです。
 醜いことだと分かっていましたが、あの人が
 相手だと止まらなくなってしまうのです」

くやしそうに唇を噛むマリン。勢いで喧嘩をしたのだが、
幼いマリンにとって怖くもあった。
相手はただでさえ年上で老獪(ろうかい)なエリカである。

レナカリンという実の娘たちが怖がって手も足も出ない
相手にマリンは一人で挑みかかったのである。

勇気というよりは蛮勇(ばんゆう)といえた。

「エリカは気が強いからつい言い返したくなる気持ちもよく分かるよ。
 あいつはとげのある言い方をするから、自業自得って
  ところもある。喧嘩のことを僕は気にしてないよ。
 それに、マリンはパパを守るために戦ってくれたんだよね?」

父に頭を撫でられると、そこにはあどけない9歳の女の子の
姿があった。父の前だけで見せる、マリンの素顔だった。

「お父様は優しい方ですわ。私のことを一番よく
 分かってくれるのはお父様だけです」

「マリンは特別だからね」

「特別なのですか?」

「ああ。特別だ。僕はマリンのことを一番かわいがってるよ」

「お父様は私のことを本当に大切に思ってくださるのですね。
  レナやカリンよりも大切ですか?」

「それは……」

親として愛情に優劣をつけてはいけないのは分かっている。
双子姉妹も可愛がってはいるが、どうしてもマリンの順位が上になる。

双子は憎むべきエリカが生んだ子供だから、子供らに罪はなくても
エリカの血を引いた双子をどこか遠い目で見ることがたまにある。

太盛はそんな自分が嫌だった。

「ごめんなさいお父様。答えにくいことを聞いてしまいましたわ」

「マリンはいつもそうやって僕を気づかってくれるけど、
  子供は聞きたいことを素直に聞いていいんだよ?
  君の知ってる通り、僕はエリカが苦手だ。
   結婚だって親が勝手に決めたこと。でもね、
世の中の流れには逆らえないことがある。
僕は流れのままに生きてるだけなんだ」

「流れですか……クッパお母さまも
同じことを言っていましたわ。」

「運命には良い流れも悪い流れもある。少なくとも僕は
島生活に満足しているよ。おじいさん(太盛の父)の
おかげでお金に困ることはない。素敵な家族
を持つことができた。人生ってのはさ、良いほうに
考えたほうが得なんだ。先のことを悩む必要なんてないんだよ。
パパが教えてあげた新約聖書の一文を覚えているかな?」

「はい。人は明日のことまで悩むことはない。
まずは今日のことを悩むべき、というくだりですね」

「その通り。マリンはお利口さんだね。さあ、難しい話は
これくらいにして、絵本でも一緒に読もうか?」

「はい。お父様」

イエスが生まれる以前には旧約聖書のみが聖典として扱われてきた。
人は過ちを犯しやすく、また人は過ちを犯すからこそ
人間らしいのだと、太盛は解釈している。
また多くのユダヤ人たちは、人生で最も悲しいことは
貧困といさかい(争い)であるといってきた。

太盛は聖書の教えを絶対だと信じて来たから、神の存在しない
世界など考えたことがなかった。地球の始まりは旧約聖書の
創世記の書いてある通りだと信じてきた。

そしてその教えはマリンにも引き継がれた。

レナやカリンは宗教など古臭いと相手にせず、
エリカは無宗教国家のソ連人の血を引いているから、
聖書を読んでいながらも、心のどこかで否定していた。


その日の夜、太盛はベッドでエリカと寄り添っていた。
お昼に約束した通り、太盛はエリカと二人きりの時間を作ったのだ。
寝るにはまだ早く、夜の9時半だ。

2人ともお風呂は上がっていて、あとは寝るだけ。
夫婦の寝室は余計なものが置かれてないので広々としていた。
コンパクトなビクター製の木製スピーカーがオブジェのように
置かれている。

ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲のミサが流れていた。
合唱曲であり、短調である。パイプオルガン伴奏が床にまで
響くほどの重苦しい低温を奏でている。

「エリカがミサを聞くなんて知らなかったな。
  信仰心はあまり強くないと聞いていたけど」

「党首様(太盛父)がCDを送ってくださったのです。
 いちおうこの島は長崎県の一部ですから」

「そうか。長崎は日本のカトリック教徒の本拠地だったね」

長崎の出島は欧州との唯一の玄関口だった。

鎖国していた日本は、当時世界の海上帝国だったオランダと
貿易することで世界の情勢を知った。
長崎は欧州文明の根幹であるキリスト教が入ってきた場所でもある。

「本当はあまり信じてないのだけど、気分だけでも
  聖なる人になろうかと思って聴いているんです。
   太盛様の心が日に日に私から離れていくようですから、
    どうしたらいいのか悩んでいるところですの」

「……少なくとも聖書に答えは書いてないだろうね」

「分かっておりますわ」

「エリカは深く考えすぎなんだ。心はどうであれ、
 僕たちは夫婦関係であることに変わりはないだろう?」

エリカは答えなかった。
自分が話したいのはそんなことじゃない
という気持ちを込めて少しの間黙っていた。

太盛が困り果て、何が話そうとする前にエリカが口を開いた。

「私に可愛げがないのはよく分かっています。
  マリンちゃんのように従順で気の利く女の子のほうが
  太盛さん好みなのですわ。ユーリも同じ特徴をもっています。
   よく考えてみたら、マリンちゃんとユーリは似ていますのね」

「エリカ……。その、なんて言ったらいいのか。
  僕は大馬鹿だ。それは否定できない」

「結婚する前に危惧した通りになってしまいましたわ。
  太盛様は浮気性が治らない。私は攻撃的で嫉妬深い性格が治らない。
   本当に性格は治せないものなのですね。私たちは10年前の
   婚約者時代から心の根っこの部分は何も変わっていません」

「すまない……」

「謝らなくていいですわ。ひどいのはお互い様です。
  この前ジョウンさんと相談したのですけど、あなたは
   監禁事件のことを今でも恨んでいるのでしょう?」

太盛が黙ったのでエリカが急かした。
太盛は無言でゆっくりとうなづいた。

「だからといって君と別れるつもりはないぞ?」

「私だって同じ気持ちですわ」

夜の暴露大会は続いていく。エリカは太盛のユーリとの浮気を
ジョウンと相談したことも話してしまった。そして容認するという
結論に至ったことも。太盛は天と地が裂けるほどの衝撃を受けた。

「マリンの誕生日」C

「私には2人の仲を引き裂くことはできません。
 ユーリに暇を与えれば話が丸く収まるでしょうか?
  ……違いますよね? 感情が抑えきれないのです。
  愛する人を横から奪われた私の気持ちは
  私にしか分かりませんわ」

「違う。僕が勝手にユーリを誘ったんだ。
 悪いのは全部僕なんだよ」

「この際、どちらが誘ったかは問題にはなりません。
 あなたは口先だけで私に愛を誓ってくれて……。
  いつも心の中では別の女のことを考えていますの……」


CDの演奏はいつの間にか終わっていた。時計の針の音が
聞こえる静かな寝室で、エリカの泣きじゃくる悲しい音だけが響いていた

「あなたは最低の嘘つきですの」

「すまない。エリカ」

エリカが取り乱したので太盛はベッドに押し倒すように
エリカを抱きしめた。男性の肌のぬくもりを
感じて安心したエリカは、少しずつ泣き止んできた。

おとなしければ、これほど可愛い女もいないものだと
太盛は思った。

長いまつ毛。少し日本人離れした大きな黒い瞳。
カフカースの血が入っているエリカの顔は美しかった。

また、太盛の情熱が沸き立つのだった。

呼吸が落ち着いてきたこところで何度もくちびるを重ねる。
最初は太盛からせまった。やがてエリカのほうからも
太盛の首の裏へ手を回し、求めるようになってきた。

「ユーリのことはまだいいのです。マリンのことになると
  自分でもおかしいほど逆上してしまって。あんなに
  きつい言い方をするつもりはありませんでした」

「いいんだよ。やきもちを焼くところもエリカらしくて
かわいいじゃないか」

「うふふ。もしかしてからかってます?」

「そんなことは、ないんだよ?」

「あっ」

今度はエリカの胸やお尻にも手を出し、愛撫した。

ただ体を求めあうだけの、むなしい愛の形だったかもしれないが、
エリカはこの瞬間だけは太盛を独占することができた。
それに少しだけ満足した。

寝室だけが彼を独り占めできる唯一の空間だった。
それが彼らという夫婦の形であった。

もはや夫婦とも呼べないこの関係がいつまでもつのだろうと、
太盛は毎日悩むようになった。そして悩んでもどうすることも
できない自分が許せないようになった。




いよいよ28日になった。マリンの誕生日である。
マリンは10歳になる。レナとカリンは1月14日の生まれなので
マリンより少しだけ先輩だった。

昼下がりからさっそく夕飯の準備を始める使用人たち。

ユーリが厨房に入りっきりで後藤の仕事を手伝っている。

ミウはいつものようにニコニコしながら食堂の飾りつけを
行っていた。華美にならないよう気を付けながら、
テーブルに花を飾り、テーブルクロスを特別仕様のものへ変更している。

レナは飾りつけされていく部屋をのぞきに来ては、
期待に胸を膨らませていた。ミウは子供らしく
はしゃぐレナを微笑ましく見ていた。

「今夜は盛大なパーティーをしますよ?」

「わーい。肉が食べたーい。にくー」

「うふふ。お肉ならたくさんご用意してありますからね」


今日は特別な日なので勉強しなくていいことになっている。
妹のカリンはリビングでアニメの録画を見ていた。

クッションを枕代わりにソファに横になっている。
たまに顔を上げてクッキーを食べたりと、だらしがない恰好である。

最近は子供にあまり関心のないエリカ。

カリンのワイドショーを観ている主婦のような姿勢を注意しない。
カリンとは別の三人掛けソファに太盛と座り、彼の腕を抱いている。
夫婦というよりカップルのようだった。

「太盛様に言われた通り、豪華なケーキを用意させましたわ」

「ありがとう。エリカ」

「後藤が作る品ですから、それはすごいケーキになりますわ」

「今から楽しみだね。ケーキが並べられたら写真にとっておこうね」

「あなたの誕生日が22日ですので、それほど日が経っていません。
  ケーキの食べ過ぎで太ってしまわないか心配ですわ」

「エリカはスリムじゃないか」

「油断してるとすぐ太ってしまいますのよ?
 またテニスでもやろうかしら」

マリン用のケーキは、太盛の誕生日よりも上等なものを
後藤に頼んである。長かったマリンの風邪が無事治ったこともあり、
盛大に誕生日を祝うつもりだった。

厨房では高級食材を遠慮なく使い、洋食中心の品が用意されていく。

これからイベントが始まる。そのわくわく感で夫婦レナやエリカは
浮足立っていた。山籠もりが趣味のJ・Cも今日の夕方には
館に帰ってくる予定だ。

「はぁ……なんか最近なにやってもむなしいのよね。
 やる気でないなぁ」

カリンはソファで一日中ふてくされていた。

早めの反抗期を迎えてしまったので、父にもあまりなつかなく
なってきた。前回のユーリとの浮気を知ってから、父と距離を
置くようになった。能天気なレナと父にべったりなマリンのことも
心の中で馬鹿にしていた。

(どうしてママはパパとイチャイチャしてるの?
  全然理解できない。パパって優しいけど、ドラマに出てくる
  浮気性の男そのものじゃん。ちょっと軽蔑しちゃうな)


エリカは太盛と片時も離れようとしない。
廊下を歩く時でさえ手を組んでいたほどだった。
朝起きてから寝るまでに何度もキスするのが日常だった。

キスしているところを子供たちに見られたこともある。
エリカは全然気にせず、どんどん太盛といちゃつくものだから、
ユーリが近づく暇を与えなかった。

そのためユーリが仕事以外のことで太盛に近づけることは
ほとんどなくなっていた。エリカの作戦勝ちともいえる状態だ。


「秩父って素敵なところですのね。東京の奥多摩もこんなに
 自然がきれい。カヤック体験とか、星空展望とか素晴らしいですわ」

行けもしない観光地を夢見て、夫婦でるるぶを広げている。
女性向けの華やかな観光案内がされていて、エリカは興味津々である。

太盛はおばあさんの実家が秩父に近い場所なので、
親近感を感じていた。

「バーベキューとか憧れるね。鳥もたくさんいそうだ」

「太盛さんは鳥のことばっかりなんだから。
 本当にお好きなのですね」

「鳥も好きだけど、食べ物にも興味があるぞ
  天然水で作ったかき氷とかいいね。
  レナがテレビで特集してたって言ってたよ」

「大自然の中で食べるかき氷って素敵ですわ。
  あとこれ、高尾山のロープウェイで楽に頂上まで……」

吐息がかかるほど至近距離で話していた。
もちろんこの部屋にはごろ寝しているカリンもいるのだが、
完全に気にしていなかった。

(夫婦のイチャラブ、うっぜ。
 子供の見てる前でやるんじゃねえよ)

カリンは早熟なのでそろそろ彼氏がほしくなる時期だった。
恋愛ドラマやアニメを見ては、たくましい妄想をする日々だった。


「あー、おじいちゃん? どうしたの急にぃ!?」

廊下からレナのよく通る声が聞こえて来た。

(おじいちゃん? 鈴原のことじゃないわよね?)

耳の良いカリンがソファから立ち上がり、食堂前の廊下へ行ってみると
驚くべき光景が広がっていた。なんと、太盛の父である金次郎から
電話がかかってきたのだ。時はパーティ開始一時間前である。


党首からの電話を知った大人組は騒然となり、太盛はパニックを
起こしそうになった。

党首はマリンの誕生日に向けてメッセージを送りに来たのだ。
すぐにテレビ電話の用意を始める。

リビングから運んできたノートPCを
巨大な液晶パネルにHDMIで接続して、準備完了した。

エリカは外出中のジョウンに連絡して15分で家に戻ってもらった。
使用人も含めて全員が着席したことを確認すると、いよいよ
党首の話が始まる。


党首はマリンの誕生日を無事迎えたことを祝福し、使用人たちには
日頃の勤労への感謝の言葉を述べた。

「君たちを雇った私の眼に狂いはなかった。
  ふがいない息子とその家族をここまで支えてくれたことを
   心から感謝する」

着席した大人組はテレビ画面の向こうの党首に
恐縮しきっており、一歩も動かないほどだった。

レナとカリンはリラックスしていて、マリンだけは
大人たちと同じように行儀をよくしていた。


金次郎は白髪を撫でるようにオールバックにしており、
一見するとやくざの親分にも見える。高級スーツに身を包んでおり、
背は同年代の平均よりもやや小さい。目つきの鋭さは
ナポレオン将軍のようだと取引先の外国人からよく言われていた。

意思に迷いがなく、また自らの決断に絶対の自信を持っている。

金次郎は、自分の命令通りに動けない人間は、たとえ
その計画に無理があったとしてもその人間に問題があると考えていた。
そして、それを認めさせるだけの業績を今までに築き上げてきた。


社長の地位を次世代に引き継ぎ、現在は会長をしている。
初老ではあるが、凡人を超越した軍人的な威圧感は健在である。

金次郎は笑顔を作ることはないにしても穏やかな表情であった。

しばらくは祝辞の言葉を壇上で述べていて、
ほがらかな雰囲気だったのだが、やがて青空に雨雲が
接近するかの如く変化していく。



「さて、諸君。今後のことについて大事な話がある。
 この食堂には太盛とエリカ君とジョウン君のみ
 残りなさい。申し訳ないが、他の者は席を外してくれたまえ」

この言葉の強制力は半端ではなかった。

全員が同時に返事をして、使用人一同は急ぎ足で去っていった。
レナとカリンも同様である。マリンだけは残り、不思議そうに
見つめる金次郎におじけづかずにこう言った。

「私も、話に加わりたいのです。いいえ。聞いているだけで
  かまわいませんわ」

エリカは射るような眼でマリンをにらんだ。
党首は理由があってエリカたち三人を残したというのに、
子供が出てくる幕ではないからだ。ジョウンも母として
娘の勇気を称賛しつつもあきれていた。

「……大人たちの話し合いになるから、内容は少し難しくなるが、
  それでもかまわないのかね?」

真剣な顔で問われ、マリンは首を縦に振る。

金次郎が家族たちと会話するのはエリカと
ジョウンの出産祝い以来の10年ぶりとなる。

成長したマリンを一目見て、凡俗とは違うと見抜いたからこそ、
金次郎はマリンに話し合いの席にいることを許した。



「さて。諸君」

金次郎が飲んでいたコーヒーカップを置く。

「君たちはこの島での暮らしがいかに危険かを
 身をもって味わったはずである。
  前回に起きた、ルイージ君の襲撃事件についてだが」

長テーブルの上座側に液晶がある。金次郎に対し、
右手側に太盛、マリン。左手側にエリカ、JCが座っている。

「私は君たちを叱っておこう。君たちが警戒をおこたったために
  ルイージ君という国際スパイの侵入を許してしまった。
   私が用意しておいたソ連製の迎撃システムを効果的に
   運用できなかったためだね。違うか?」

エリカは迎撃システムに関して言い訳をしたいと思ったが、
口にはできない。ルイージは規格外のスパイで、
とても民間人が侵入を防げるレベルの相手ではなかった。

「恐れ入りますが、お父さん」

と太盛がエリカに変わってルイージの異常性を説明した。
実の親子だからこそ言いたいことを遠慮なく言えるのだ。

「つまりおまえは、今回の件はルイージが優秀すぎた。
  迎撃システムの性能とか、そういう次元の話ではないと。
   そう言いたいのか?」

「はい……」

うつむいている太盛に対し、金次郎は一言

「この、馬鹿者が」

と言った。声を荒げたわけではない。

それなのに太盛は心臓をぎゅっと締め付けられるほどの衝撃を受けた。

「話が変わるが、例えば中国の海兵隊が尖閣諸島を瞬時に武力占領したら
  それも相手が悪かった、で済ませる問題なのか?」

「それは……」

「ここは日本海であり、長崎県の沖合だ。佐世保には日清戦争時代に
 作られた要塞が今でも残っている。極東とは日中韓、北朝鮮、
  ロシアと軍事強国がせめぎあう火薬庫だ。この島は極東の
  軍事バランスを左右する立地にあるのだ」

たじろぐ太盛に対し、父はさらに責める。

「この島の迎撃システムはお前たち家族の身を案じて
  私が出資したものだ。軍事設備は、使用されない限り意味がない。
   見返りのない投資と同じ。減価償却のできぬ設備投資と同様。
    おまえは父の投資を無駄にしたのだ。違うか?」

「お父さんのおっしゃる通りだと思います……」

「どんなモノにも用途がある。使えなければただのガラクタだ。
  人の頭脳や手足も同じことよ。太盛。貴様の手足はなんのために
   ついている? よく考えてみるがいい」

「はい……」

「国防論の名著は大学3年の時に渡しただろう?
  読んでないわけではあるまいな?」

「もちろん読みました」

太盛はいつまでも続くと思われる説教に耐える覚悟はできていた。
実際に父の話は長く、下手をしたら日付が変わるまで
続いてもおかしくないと思われるほどであった。

太盛はただ頭を垂れて父の言葉を聞くふりをしている。

「次にナツミ君だが」

「はっ、ふぁい」

まさか自分に振られると思っていなかったジョン・クッパ(本名はナツミ)が
間抜けな声を上げてしまった。

「君には私から感謝の言葉を述べておく。
  ルイージを直接戦闘不能にしたのは君だ」

「あ……ありがとうございます」

「君の武術は実に見事だと何度も聞いているよ。
  どこかで武道を習った経験があるのかね?」

「いいえっ。ほとんど独学でございます」

「なおさら素晴らしい。ならば、今度マリンたちにも
  指導をしてやってくれないか?
   孫たちも自分の身は自分で守るしたたかさが必要だ」

「かしこまりました。御父様」

クッパは緊張のしすぎで口が渇いていた。
あの傍若無人を絵に描いたような野生児のクッパでさえ、
一流の起業家の圧力には到底かなわなかったのだ。

「次にエリカ君」

「はい」

「君のルイージ君への尋問も見事だったようだね。
  彼をソ連系と見抜いた洞察力、とっさにロシア語で
   尋問する機転。どれも素晴らしいよ」

「ありがとうございます。
  わたくしにはもったいないお言葉ですわ」

「ルイージ君は日本の外務省を通して外交ルートで
  北朝鮮政府へ返還した。ちなみに政府はマスメディアへ
  報道規制をかけたので国民の大半はまず知らないだろうが」

「そうだったのですか……。どおりで。長崎警察へ
  引き渡したあとに情報が何も入ってこなかったわけですわ」

「ルイージ君は元KGBのスパイだから、生半可な拷問では
 口を割らないのだがね。最悪自殺する場合もある。
  ユーリ君を救ったのはエリカ君の働きによるところが大きい」

「そんな……。いくらなんでも褒めすぎですわ。御父様。
  みんなで戦って守った孤島での生活ですから」

「謙遜することはない。誉め言葉は素直に受け取っておきたまえ。
  わしは嘘を言わない主義だからな。さて……」

次に金次郎は太盛をにらむ。エリカの時とは全く違う表情だ。

「それにくらべて。おまえは何をしていた?」

矢のように突き刺さる言葉だった。

「おまえの妻2人は、形は違うが家族と使用人を守るために
  懸命に戦った。おまえはどうなのだ?」

太盛には、返す言葉はなかった。

父の言うことはいつも正しい。
そして本人の一番弱いところを突いてくる。

「父の与えた学業への投資、おまえに付けさせた教養はすべて無駄だったのか?
 いざという時に役に立たない人間は故障した機械と同じ。まさに
 ガラクタだ。息子の不出来で私をこれ以上悲しませないでほしいものだな。
 母さんが聞いたらどれだけ悲しむことであろうか」

「すみません……」

太盛は唇をかみしめ、さらに言った。

「早く一人前の人間になれるよう、もっと精進します」

この光景に一番衝撃を受けていたのはマリンだった。
マリンは父がここまで辛そうにしている顔を
見たことがなかった。

優しくて穏やかだったあの父が、
親に怒られて縮こまっている姿を見せられているのだ。
やるせなかった。できるなら父の素晴らしいところを
いくつも説明してあげたかった。

だが、権力者の前で何も言い返すことはできなかった。

その気持ちはエリカとジョウンも同じだった。


「太盛、顔をあげなさい。私は、おまえに長男としての
  自覚を持ってもらいたくて話をしているのだ」

太盛は言われた通り顔を上げたが、
恐怖で眼の焦点が合わない。

「この孤島生活を支援するために金に糸目はつかないつもりだ。
  定期船も休まず行かせ、不自由ない生活を送らせているだろう?
   太盛よ。お前たち家族と使用人たちは生活の糧を得られるのだよ。
   この私が生きている限りはな。だが、防衛となると話は別だ。
    九州から一番近い位置に北朝鮮という最大の敵国が
    いることを忘れるでないぞ」

「あ、あの。お父様、発言してもよろしいでしょうか?」

とクッパが聞いたので党首は許可した。
いつもの雑な口調でなく、エリカの見様見真似の
お嬢様口調であった。

「お父様は北朝鮮や防衛問題を頻繁に口に出されておりますが、
  それはこの島が北朝鮮からの攻撃や拉致被害などに
   あいやすいからなのですか?」

「君はまるで記者のような質問をする……。ふむ。
 マリンに知性が宿っているのは君のためかな。
 さて、質問に対する答えだが、ずばりそのとおりだ。
  もっとも、攻撃にあう可能性が高いのは日本本土だよ」

『なっ!?』

さすがに全員が驚愕した。確かに北朝鮮の最高権力者が
入れ替わってからこの数年間、ミサイル発射実験を繰り返してはいる。
しかし、現実のものとして戦争の可能性など考えられなかった。

最大の理由は核の抑止力である。在日米軍と日米安保がある限り、
日本を攻撃する国には、米国からの核ミサイルの反撃の可能性がある。

「北朝鮮の保有する生物化学兵器の保有数は実に世界第三位。
  ミサイル保有数は大小合わせておよそ1000発ともいわれている。
   そのうち何割が核で、実際の射程距離がどの程度か、
    現段階で明らかなことは分かっていない」

さすがにそれは過大評価ではないかとエリカは疑った。
太盛も同じだった。朝鮮が軍事一辺倒な国とはいえ、
GDPや国民の生活水準が低く、対中貿易が9割を占めるという、
経済的には破たんしている国家だ。
強制収容所では20万人が酷使されている。

エリカが言う。

「危険でしたら、なおさらこの島で暮らす意味は
 ないのではないですか? 恐れ多くもお父様が用意してくれた
 迎撃システムをどんなに磨いても完璧な防衛はとても不可能です」

「いや。意味はある」

「それは、どのような?」

「これは私の推測であるが、おそらく10年以内に北朝鮮、韓国、日本は
 交戦状態になる。韓国と日本の主要都市は半分以上が攻撃される。
  つまり本土は核、毒ガスなどの科学兵器で汚染され、地獄になる」

エリカと太盛は父の正気を疑った。
おとぎ話の世界を語っているようにしか見えなかったのだ。

顔に出さないよう、2人ともうつむいて考え事をしてしまう。
歴史に詳しい夫婦の脳裏に出て来たのは、東西冷戦が
核戦力の均衡によって数十年間維持されたこと。
地獄のキューバ危機でさえ、対話で分かりあうことができた。

父の考えは歴史を否定しているようにしか見えなかった。


しかし、金次郎は確かな権力者である。
金次郎の傘下にある企業は世界中の拠点を持っている。
年齢は今年で68。太盛を生んだのが35歳と遅かったのは、
今の妻と結婚したのが31の時と晩婚だったためだ。

その彼が戦争の危機を大真面目に語っているのである。
面と向かって意見を否定する勇気は誰にもなかった。

ここでマリンが初めて声を出した。

「もし攻撃されるとしたら日本のどのあたりなのですか?」

「大阪、神戸、名古屋、福岡、長崎、広島、沖縄がそうであろう。
  日本海近郊は敵軍がもっとも攻撃しやすい地点であり、
   戦前からもっとも警戒されてきた地域だ。
   開戦したら西日本は東日本大震災よりも悲惨な状態になる」

「それは、日本は敵に滅ぼされるということですか?」

「逆だ。最終的に米韓連合軍主力が国境を越え、さらに海岸からも
  上陸し、ピョンヤンを陥落させてこちらの勝利となる。
  最終的にはな。なにせ陸海空軍の戦力は圧倒的にこちらが上だ。
   ただ、勝ったところで国土が荒廃しては意味がないのだよ」

「おじいさまが言いたいことは、そうなった場合に
  この島のほうが安全だというのですね」

「その通りだ。この島には軍事的な攻撃目標が何もない。
  ただの孤島だからな」

次にエリカが聞いた。

「恐れ入りますが、お父様は本気で戦争の可能性を考えてらっしゃる?
  お父様ほどのお方ならば米国の内務省にお知り合いが
   いてもおかしくはありませんわ。ずばりお聞きしますが、
   その戦争とは、米国海軍の先制攻撃から開始されるものですか?」

「軍事とは、可能性の学問である。政治も同じようなものだ。
  具体的な返答をすることをこの場では拒否させてもらおうか。
   私が述べたのはあくまで可能性である。可能性だ。
    君ほど聡明な女性ならば、これで言いたいことは伝わったと思う」

「はい……」

「会長とはいえ、多忙な身でね。これ以上のお説教は息子にも
  悪影響かもしれないな。そろそろ失礼させていただこう」



テレビ電話が終わった後、太盛はストレスと心労で部屋のベッドで横になった。
電話の時間は一時間ほどであったから、食堂では予定通り誕生日パーティが
始まっている。太盛は楽しみにしていた誕生日会に出席できず、ベッドで悔し涙を流した。

ルイージ事件の残した傷跡で一番心を痛めたのが太盛であった。
もともとメンタルの弱い彼は、幼少のころから父に叱られるたびに
部屋にこもって何日も音楽を聴き続けて自分を慰めていた。

マリンと妻たちの前で長々と説教されたのもショックだった。

(お父様は大丈夫なのかしら……)

マリンは父のことが気になり、贅沢なお肉やケーキをたんたんと食べていた。
エリカとジョウンも表情が沈み、主人たちの心情を察したメイド2人も
明るく振舞うことはできなかった。

会場の雰囲気は恐ろしく暗い。レナとカリンは母の機嫌を損ねないようにと、
可能な限りお上品に食べる。それでも子供なので
心の中では豪華な食材が並ぶバイキングを楽しんでいたのだった。

こうしてマリンの誕生日が終わった。
ルイージ事件の傷跡は、太盛の心をさらに変えてしまうのだった。

「エリカの嫉妬。太盛の過ち」(修羅場)

時は3月の末になり、日中は暖房なしで過ごせるようになった。

朝晩の冷え込みは冬並みであり、三寒四温が続いた。
今年の3月は例年よりも寒い日が続き、春の訪れを
待ちわびる日々であった。

「太盛様。おはようございます。もう朝の9時過ぎですわよ?
  そろそろ起きられてはいかがですか?
   後藤が作ってくれた朝ごはんが冷めてしまいましたわ」

エリカが布団でごろ寝している旦那の背中をゆする。
太盛は目を閉じたまま返事をした。

「まだ寝足りないんだ。後藤には悪いけど、
  しばらく朝ごはんはいらないと言っておいてくれ」

「あなた……。毎朝マリンちゃんが
  あなたのために早起きして食堂で
  待っていますのに」

「すまないエリカ。僕がバカだってことは一番僕が
  よく分かっている。でも、もう疲れたんだよ。
   この島で生活することがね。僕は父親でも何でもない。
    ただのろくでなしの息子さ」

「お父様に言われたこと、まだ悩んでいるのですか。
  お父様は自分にも人にも厳しい方ですから、
   あまり深く考えないほうがいいと思いますわ」

「分かっているよ。でもね。家族の身を危険にさらしてしまったのは
 事実なんだ。親父の言葉は素直に受け止めているよ。
  だからね、しばらく1人にして考えさせてくれ」

エリカはため息をつき、寝室を出ていった。

マリンの誕生日以来、太盛は魂の抜けた人形になってしまった。
趣味の一環であった早朝散歩、外での薪割りもしなくなった。

マリンと一緒に食事をとることもしない

たまに深夜にふらふらと食堂に現れては、作り置きの
食材を電子レンジで温めて食べていた。

エリカはつきっきりで旦那の面倒を見て励ます日々が続いた。
どんな時でも太盛のそばを離れないようにした。

特に怖いのが夜だ。ある日の夜、太盛が急にベッドから
いなくなったので、ユーリヘ夜這いをしにいったのかと思った。
しかし、ユーリの部屋に彼の姿はなく、驚いたユーリも
一緒に彼を捜索したら、彼は庭のベンチに座っていた。

時は深夜の1時半であった。

エリカとユーリに説得された太盛はなんとか寝室へ戻る。
エリカに抱かれながら寝ていると、音もなく涙を流し始める。

完全に異常者だった。太盛は一種のうつ病にかかっていたのだ。
党首の話で北朝鮮との開戦の話がでた時、彼の心の中で
何かが崩れ去った。

彼はルイージ事件で家族を喪失する恐怖に押しつぶされそうになった。
その記憶が簡単に消えるわけがない。

父の話では、朝鮮人民軍は第一にソウルを破壊するために設立された。
次にミサイルを使って米国と同盟関係にある日本を破壊する。

日本へ向けて発射体制に入るミサイルは軽く200基を超えるという。
韓国向けは400基である。
想定されるミサイルの種類はスカッドやノドンであり、
これらは核弾頭が搭載可能である

太盛は、まるでソ連人のように悲観的に物事を
考えすぎる性格だった。一度感じた恐怖はなし崩し的に増加し続ける。

普通に考えれば開戦の可能性は非常に低い。
戦争が政治の延長である以上、国家が最終的に滅ぼされると
分かっていて北朝鮮から攻めることはない。

しかし、米国の意図が分からない。
北朝鮮のミサイルが米国西海岸を射程に収めれば、
いったい米国がどのような反応を示すか。
父の言葉はいつだって正しいのだ。

太盛は大学時代に専攻した経済とは別に、趣味で歴史と軍事を学んだ。
その知識から、現在の極東情勢はキューバ危機時の
米ソ関係に近いと分析していた。下手をすれば日本など消し飛ぶ。

「そろそろ起きるか」

今日は昼の2時まで寝てしまった。昨夜寝たのが朝方だったのだ。
早朝散歩と野鳥観察を生活の一部にしていた彼とは
思えないほど、自堕落な生活をしていた。

「あっ、太盛様。起きられたのですね。
  たまにはお外で食事されてはいかがですか?」

食堂前の広い廊下ですれ違ったミウが言う。
太盛を気遣っていつも以上に明るい笑顔だった。

「外で……? まだ外は寒いんじゃないのか?」

「うふふ。今日は五月並みの陽気ですから、お洗濯ものも
  ばっちり乾いているほどなんですよ?
  後藤さんの得意なイタリアンをご用意してありますから、
   ぜひお外でお食べください」

「うん……そこまで言うんだったらお願いしよう」

ミウが念を押して外で食べさせたのは、太盛に少しでも
外の空気を吸ってほしいからだった。

アウトドア仲間の太盛が引きこもりになってしまい、
ミウは心から悲しんでいた。

屋外用の折り畳み式テーブルと椅子を用意した。
前菜と白ワインが用意される。

太盛はワインを口にすると、頬がほのかに赤くなった。
庭の芝生と奥に見える森の木々を明るく照らす太陽。

太盛は熱くなり、パジャマ代わりに着ているスェットの
腕をまくった。彼はパジャマすら着替えていなかったのだ。

不規則な生活のために眼の下には濃いクマができている。
もちろん誰も指摘しなかった。

「ミウ。ありがとう」

「えっ。急にありがとうって、なににですか?」

「僕を外に出してくれたことさ。自然の風ってこんなに
  暖かくて気持ちいいものだったんだね。先月の末から
  ずっと引きこもっていたから自然の偉大さを忘れていたよ」

「喜んでもらえたなら、なによりですよー。
  太盛様が喜ぶことでしたら、なんでもしますからね。
  今日はパスタとミネステローネだけですけど、
   他に食べたいものはありますか?
    頼めば後藤さんがすぐ作ってくれますよ」

「寝起きだからこれで十分だよ。後藤には夕飯まで
  休んでいるように伝えておいてくれ」

「ははっ。かしこまりましたぁ」

おどけた口調でいうので、太盛は笑った。
死人のように青白い顔をしていた太盛が久ぶりに笑顔になった。
ミウはそれがたまらなくうれしかった。

「ミウ。午後は暇な時間はあるか?」

「1時間ほどでしたらありますよ?」

「なら、一緒に海岸沿いを歩こうか。
  エリカは子供たちのテストの採点中だったね?」

「そのようです。ただいまお子様たちは
  学力テストの真っ最中ですから」

「そうか」

太盛はパジャマ姿でサンダルを履いたまま歩き出した。
まるで寝起きに新聞受けへ歩くような格好である。

もちろんミウは文句は言わない。太盛は情緒不安定である。
着替えに部屋に戻るのが面倒になり、
散歩を取り消してしまう恐れがあったからだ。

海岸の眺めは見事だった。カモメたちが群れを成して空を飛び、
その先では大きな魚が水しぶきを上げて水面を飛ぶ。

アオサギ、カワウ、シギなど水鳥が海岸沿いに集まり、
潮風を受けている。

傾き始めた太陽が海面を美しく染めていく。

太盛はサンダルで砂浜を歩いているのが辛くなり、
急にバランスを崩した。

「おっ」

ミウがとっさに手を握ってささえた。

「あっ」

ミウが赤面した。今日は何気なしに隣で歩いていたのだが
(本来は規則違反)、こうして手をつないでいると、どうしても
異性として意識してしまう。

彼とイチャイチャしたことは何度もあったが、
手をつないだことは一度もなかった。

「その、太盛様」

「いいよ。このままで。このまま歩こうか?」

ミウは一瞬だけ驚いた顔をした後、黙ってうなづいた。
太盛はうつだから、彼の言うことは最大限尊重してあげること。
これは屋敷中の人間の暗黙の了解であった。

「そんなに離れてないで、もっとこっちに来るんだ」

「はい……」

「どうしたの? 緊張してるの?」

「だって、太盛様と手をつないで歩くのは初めてじゃないですか……。
  奥様じゃなくて私でいいんですか?」

「僕は君じゃないとダメなんだ。ミウが僕を自然へと連れ戻して
  くれたんだから、君と手をつなぐのは当たり前だろう?
  僕はミウの明るい性格と思いやりのあるところ、大好きだよ?」

元気だったころの太盛の笑顔で言われ、ミウはくらっときた。

使用人の立場だから主人との関係は基本的にあり得ないのだが、
ユーリの前例もあるから、それほど罪悪感はなかった。

「なら、キスでもしてみますか?」

「いいよ」

冗談のつもりであったのに、あっさりと成立してしまう。

ミウは背伸びして彼の身長に唇を合わせた。

太盛は肉体労働で鍛えられた、たくましい腕で
ミウの背中を抱き、軽いキスを何度も交わした。

ミウは太盛の胸に顔をうずめ、しばらく髪を撫でられていた。

「いっそ君と結ばれるのが正しい選択だったのかもね」

「太盛様ったらご冗談を。女の子をとりこにするのがうまいんですから」

「ミウは特別だよ。ずっと君とこうしたいと思ってたんだ」

「えー。ほんとうにぃ?」

疑いつつも、まんざらでない様子のミウ。

太盛に甘えるように、首の裏へ両手を回した。
太盛は彼女の体重を快く受け止めてじっとしていた。

「私も太盛さんのことずっと大好きでした」

「うれしいな。僕たち両思いだったんだね」

どれだけの時間、そうしていたことだろう。

間が悪いことに、テストの採点中が終わった後に
後藤から太盛が寝起きの散歩をしていることを知らされたエリカ。

急いで海岸へと向かうと、太盛とミウの惨状を
目の当たりにして固まった。

この時にエリカが感じたことは、怒りとか悲しみとか
そういう次元のものではなかった。
大切な夫をまたしてもメイドに奪われたという屈辱。

エリカの献身的な介護でも好くならなかった太盛が、
なぜかミウの前であっさりと復活しているこの事実。
しかもチャラい。

もう黙って見ているのは限界だった。

「あなたたち、そこで何をしているの!!」

エリカの悲痛の叫び声に驚いたミウが太盛から飛びのく。
太盛は悪びれた様子もなく、めんどくさそうに妻の顔を見たので、
エリカの表情がさらに凍った。

「あなた……。今までユーリの件は黙認するつもりでしたが、
  ミウにまで手を出すとはどういうつもり!?
   北朝鮮への恐怖で気でも触れたの!?」

太盛は黙る。

「そもそも……なんでミウと一緒に海岸にいるの!?
 私がいくら起こしても言うことを聞かなかったのに、
  ミウと一緒ならご飯も食べるし、外も歩けるの!?
   ねえ、これはどういうことなのか説明してくれる!?
   本当はうつになる前からミウとできてたんじゃないでしょうね!?」

逆上したエリカは、夫を立てるための敬語を使っていない。
これはエリカがかつてないほど激怒している証拠だった。

太盛は何も答えず、だるそうに立っているだけ。
エリカに胸ぐらをつかまれ、揺らされても動揺していなかった。

「夫が答えないなら、代わりにあなたが答えなさい!!
  ミウ!! 逃げることは許さないわよ!!」

「ひぃ………」

「ほら!! はけ!! 吐けよっ!!
  なんでどいつもこいつも、うちの主人と仲良くなろうとするの!!
  どうして私は彼の一番になれないの!! おかしいでしょ!?」

エリカはミウのカチューシャをひきはがし、捨ててしまう。
髪留めも外して足で踏みつけた。長い髪をむしるようにつかむと、
ミウが痛さのあまり目に涙を浮かべる。

「あんたたちは……!! どいつもこいつも!!」

エリカはミウの頬をひっぱたいた。二度、三度と交互にはたく。

ミウは抵抗できず、されるがままだ。

ミウのほほに涙がこぼれ落ちるが、泣いているのはエリカも同じだった。
怒りでゆがむ目元が悲しみの涙で真っ赤になっている。

エリカの怒りはまだおさまらない。

ミウを突き飛ばし、転ばせる。ミウの服が砂だらけになった。
エリカが馬乗りになり、ビンタしようと手を振り上げると、
太盛が止めに入った。エリカの左手首を抑えながら言う。

「その辺にしとけよ。エリカ」

「どの口がそれを言うの!?
  あなたに止める権利があると思って!?」

「そういう話じゃない。僕のミウをこれ以上痛めつけるな」

「僕のミウ、ですって……?」

「ミウをぶつなら代わりに僕をやれよ」

「なら、望み通りにしてあげましょうか?」

エリカが凶悪な顔でにらむが、太盛は落ち着いた声で
やれよ、と言った。エリカは冷静な旦那の態度にさらに腹を立てた。

「私は護身用にナイフを携帯しています。
 いっそあなたを刺し殺してしまえば、二度と浮気される
  こともなくなりますね。もしくは地下室行きがよろしいですか?」

「好きなほうにすればいいじゃないか。
  お前に何されようと、今さら傷つく心なんて何もない。
  僕はお前なんてどうでもいいんだぞ?」

「な……」

「なに驚いた顔しているんだ? 僕は聖人でも何でもない。
 ただの人間だぞ。自分を地下監禁した女なんて誰が好きになるかよ」

「……そう、ですか。分かってはいましたが、
 あなたの口から言われるとは思っていませんでしたわ」

「口に出されるとショックが大きいか?」

エリカはこれ以上ないほどの勢いで夫をにらんだ。
大好きな人だからこそ、言われたくない一言がある。

同時に一番言われたい心からの言葉を一度も聞いたことがなかった。
彼の純粋な愛情は、結婚した時から妻たち以外の女たちへと注がれていた。

「うぅ……っ……く……」

恥も外聞もなく泣き続けるエリカ。
どれだけ涙を流したかも分からない。

偽物の愛とはいえ、いつもなら悲しい時は夫が抱きしめてくれた。
たとえつらい過去があっても、時間をかけてゆっくりと
関係を修復していく自信はあったつもりだった。

なのに今の太盛は、妻を放置して
ミウの傷ついた髪と顔を心配していた。

倒れたまま声を上げて泣いているミウを
抱きしめて慰めの言葉をかけていた。

エリカはたまらなくみじめな気持ちになり、
逆手に持ったナイフを自分の首に刺そうとした。

「やめろぉ」

太盛が飛び掛かって妻からナイフを奪い、海へ投げてしまう。

「死ぬことは許さないぞ!!
 俺とおまえがどういう関係になろうと、親父の命令で
 俺たちはこの島で生きなくちゃならないんだよ!!」

先ほどのエリカに負けないほどの気迫であった。

「し、島暮らしでなければ……もうあなたと離婚したい」

「前も言っただろう。それはお互い様だよ」

「私には死ぬ自由もないのですね」

「あるわけないだろ。ここまで僕らを生かしてくれた党首への恩がある。
 どんな薄汚れた関係でも僕たちは夫婦でなくちゃいけないんだよ」

「でも……死にたいわ。もうこんなとこで生活したくない。
  あなたの顔も。ミウの顔も二度と見たくない……」

「おまえは死んでおじいさんのところに行きたいのか?」

「え……」

「粛清されたエリカのおじいさんが悲しむんじゃないのか?
  おまえに天国という概念があったらの話だがな。
   エリカはよく寝る前におじいさんの話を聞かせてくれたな。
   家族、生命、財産を国に没収されても、なお生きようとする
   ソ連国民たちの悲惨さを。おまえは本当にこの島で死にたいのか?」

太盛の説教が続く。

「僕はおまえに監禁されても自殺だけはしなかったぞ。
  今はおまえが苦しむ番になっただけのことだ。
   そういう順番が回ってきたんだよ。苦しいだろう?
   おまえはどうする? あるいは僕とミウ、ユーリも
   刺し殺して終わりにするか? それも自由だぞ」


どうしようもなくなったエリカは屋敷の方へと駆けていった。


(そうなんだ……。私のおじいさまもおっしゃっていた……。
  生きなきゃ……国が滅びようと、住む場所がなくなろうと……
   人に裏切られようと……人間は生きないといけないのよ……)


その日から、エリカは猜疑心(さいぎしん)がさらに強くなった。

誰のことも信じられなくなり、
太盛とエリカは別々に寝ることになった。
今では夫婦の寝室は空き部屋に近い状態になっている。

一方で太盛は引きこもりが治り、季節も4月になったので
外仕事を始めるようになった。

今日は天気に恵まれたので
低山でミウとマリンを連れて山菜取りをした。

夕方になると気圧が下がり、雨雲が近づいてきた。
太盛たちは早めに作業を切り上げて館へと戻る。

着替えて自分の部屋へ入ると……

「これはどういうことだ……?」

本棚に収納していたはずの本が引き裂かれ、床に散らばっている。
マリンと撮影した写真もアルバムから出されて
床に乱雑に落ちている。
黒いマーカーでマリンの顔の部分を塗りつぶされている。

さらにひどいのは、窓ガラスが割られていることだ。
開いたカーテンが風に揺られている。
天候が悪く、今にも雨が降ってきそうだ。

「エリカぁぁっ!!」

こんなことをするのは妻以外に考えられない。
太盛は衝動で怒鳴り声をあげてしまった。

温厚な彼が大声を発するなどめったにないため、
屋敷中から人が集まってきた。

「どうしました太盛様!? こ、これは……」

最初に入って来たのはユーリ。
部屋の惨状を見て片手で口を押さえ、言葉を失った。

次はマリンが入って来た。

「お父様……。あのクソババアにやられたのですね……。
  お父様の大切にしていた写真が……」

マリンは怒りで震えている太盛のそばに寄り添う。
マリンはいつだって父の味方だ。
太盛に心から同情し、同時に怒りの炎が燃え盛った。

「私がエリカに怒鳴り込んできますわ」

「マリンお嬢様。どうか気を静めてください。
 今奥様を刺激するのは逆効果です」

「お父様にこれだけのことをしておいて、
  おとがめなしというわけにはいきませんわ!!」

「エリカ奥様も……その、色々とお考えというか、
  感情の変化があったようですから、お気持ちを
   察してあげないといけません」

遠回しな言い方であるが、ユーリがミウとの件を言っていることは
太盛とマリンにはすぐ分かる。

ちなみにミウとの浮気はレナ以外の全員に噂が広まっている。
島は狭いので情報が伝わるのが速いのだ

マリンはさらに声を張り上げる。

「あんな女が父の妻を名乗っていいのでしょうか!?
  今までの父に対する数々の横暴、許せませんわ!!
  おじいさまに頼んで離婚させてもらうべきですわ!!
  お父様の妻にはジョウンお母さまがいるではないですか」

ユーリは一瞬だけ戸惑った。自分も太盛の浮気相手の一人であるから、
罪悪感からエリカに同情的な見方をしてしまうのだ。

「ご党首様のご意思は、夫婦円満で幸せな家庭を築くことです。
  喧嘩腰ではものごとは解決しませんわ」

「ユーリはそうやって交わすのがうまいんだから。
  あんただってパパと夜は仲良くしてるんでしょ?
  汚らわしい」

これはマリンの言葉ではなかった。騒ぎを聞きつけてやって来た
カリンであった。マリン、太盛、ユーリの視線が
カリンへと注がれる。

「なーにが夫婦円満だよ。バッカバカしい。この前の
  おじいちゃんのテレビ電話の時もさ、みんなかしこまって
  媚び売ってさ。大人は嘘つきなんだよ。私はママに同情しちゃうな。     
  パパがすぐ他の女と浮気するのがいけないんでしょ?」

太盛は娘の遠慮のない言い方にムッとした。カリンの言うことは
もっともなのだが、小学生なのに生意気が過ぎるのだ。
ユーリも胸が痛いむのを我慢していた。

すぐマリンが反撃する。

「カリンもバカじゃないならエリカの監禁事件のことは知ってるよね?
  好きでもない女と無理やり結婚させられるなんてオママゴトだよ。
  最初から愛なんてあるわけないよ」

「あっそ。じゃあなに? 浮気は自由だって言いたいの?」

「そこまでは言わないわ。お父様は使用人たちにも
  子供たちも大切にしてくれる優しい方よ」

「優しい? エリカママには冷たいけど」

「あの人は特別変わり者だから、仕方ないよ。
  本当はユーリもミウもあの人のこと苦手だと思う。
   カリンもレナもエリカのこと怖がってたじゃない」

「ま、怖いことは怖いけどさ。いちおう実の母親だし」

「カリンはお父様より実の母の味方をするつもりなの?」

「そういうことになるのかな。私はあんたと違って
  熱烈なファザコンじゃないし」

それは禁句だった。マリンは言葉を話せるようになってから
父にべったりで片時も離れたくないほど大好きだった。
ファザコンの自覚はあっても、他人から言われるのは大嫌いだった。

ファザコンという言葉が子供を
小ばかにしているようで気に入らなかったのだ。

「いつもお父様、お父様ってストーカーみたいにひっついて、
  バッカじゃないの? そろそろ父親離れしなさいよ。
  娘を溺愛してるお父さんもすっごく変!!」

「そんなにお父様のことが気に入らないのなら出ていけば?」

「は……?」

突然の言葉にカリンが固まった。
マリンは拳を握り、うつむいて見上げるようにカリンをにらんでいた。

「この島にはお父様とジョウン一家だけで十分なの。
  エリカ一家はまるごと本土へでも移住すればいいのよ」

「なんですって……? なんであんたにそこまで
  言われなくちゃいけないのよ……」

「私ね、カリンといると不愉快だから。
  あんたの顔、二度と見たくない」

「奇遇だね。その言葉そっくりそのまま返してあげるよ」

カリンがマリンへ飛び掛かった。

ごろごろ床を転がり、互いの髪を引っ張り合いながら、
金切り声をあげる。体格は互角なので、いつまで
戦っても勝負はつかない。

淑女としての教育を受けたとは思えない、野蛮な喧嘩だった。

さすがにこのままにしてはおけないので、
太盛がマリンを、ユーリがカリンを羽交い絞めにして止める。

「離しなさいユーリ!! 
 マリンの顔をぶん殴ってやる!!」

なおも感情を爆発させるカリンに対し、父に優しく
抱かれたマリンは声を荒げることはなくなった。
それでも眼光は鋭い。敵を見る眼でカリンを睨んでいる。

「カリン。鏡で自分の顔を見てみなさいな。
 母親にそっくりで醜いよ」

「うっせえ!! いっぱつ、ぶん殴ってやる!!
  あんたのことは前から気に入らなかったんだよぉ!!」

カリンとマリンは学業成績でライバル関係にあった。
カリンは相当に優秀であり、母に褒められたくて
勉強に真面目に取り組んでいた。

得意の理数系でも、ミウに親切に
指導された英語でもマリンには及ばなかった。

いつしかそれが小さな不満になり、大きな嫉妬へと成長した。
さらに父とエリカのあいまいな夫婦関係が重なり、すべての
怒りをマリンへぶつけるに至ったのだ。

「お二人とも、止めなさい!!」

扉から降って来た重い声で子供たちの喧嘩が止まる。

まとめ役の鈴原が来たのかと一同が思ったら、なんと後藤だった。
料理の仕込みをしていたので調理服を着ている。

料理以外では寡黙で、自分の感情というものをめったに
表に出さない後藤。そんな後藤が大声を出したのだから、
マリンたちに与えた影響は大きかった。

「お嬢様方は早熟ですから、つい大人の考えや行動を
  読みたがってしまうのです。ですが、時には余計な
   お世話という言葉もあります。太盛様と奥様の関係は、
   本来お子様の踏み込む領域ではありません」

長い説教が始まるのかと、太盛とユーリも緊張した。
鈴原と後藤がこの屋敷では年長者である。

年齢差を考えれば太盛とユーリなど子供のようなものだ。

「カリンお嬢様は、大人が嘘つきだとおっしゃいましたが、
  大人は誰でも社会では自分を偽って生きていかなければ
  ならないのです。それは、生きていくために必要だからです」

「どういう意味?」

とカリンが聞いたのでユーリが補足する。

「わかりやすく言うと本音と建て前ですよ。カリン様。
  世の中の夫婦なんてみんな離婚したいと心の中では
   思っている者なのですよ」

「そうなの? よく離婚しないで一緒に住んでいられるわね」

「我慢してるからだよ」と太盛。重苦しい顔である。

さらに後藤が話す。

「太盛様のおっしゃる通りですな。会社勤めも同じことですな。
  お金がなければ生きていけません。私たちにとって
  この島以外に生きる場所はありませんから」

不思議に思ったのでカリンが聞く。

「生きる場所がない? ママが言ってたけど、後藤達は
  本土の会社に転職することもできるんでしょ?
   後藤の腕なら自分で店開くのも余裕だってみんな言ってるけど」

「おほん。料理の腕はともかくですね……。
 本土へ帰るなど冗談ではありません」

「どうして?」

「あそこには、嫌な思い出ばかりがありますからな。
  私には子はおりません。長年連れ添った妻とは
  帝国ホテルを辞めた際に別れてしまいました」

衝撃の事実に驚愕する一同。太盛は唾を飲み込んだ。
後藤のプライベートに関することは全員が遠慮して
今まで聞いてこなかったのだ。

「ホテルを辞めた理由は、第一に人間関係が嫌になったことです。
  簡単に言うと、人と関わるのが嫌になったのです。
  人間は本音で話しすぎると後戻りできないところまで
  行ってしまいます。そう、今のカリン様とマリン様のように」

カリンとマリンが顔を見合わせた。

「妻と別れたのも、転職先を探している間の
 わずかな期間がきっかけでした。毎日家にいて
  酒ばかり飲んでいる私を妻はいら立ちつつも、
   遠慮して話しかけないようになりました」

まだ続ける。

「ある日、ささいなことで口論になり、私は言っていけない
  一言を言ってしまったのです。詳しくは言いませんが、
  専業主婦として家を支えてくれた妻の努力と苦労を
  すべて無駄にする一言でした。それをきっかけに
  別居が始まり、二度と妻が帰ってくることはありませんでした」

「後藤は……別れたことを後悔しているの?」

とカリンに聞かれて後藤は肯定する。

「私の経験を振り返ると、人には第三者のブレーキが必要なのですな。
  当事者たちだけで話し合ってもらちが明かない。
   話が平行線をたどったら、あとは関係が悪化するだけ。
   それではだめなのです。重要なのは、うまく関係を
   維持することですよ。そうは思いませんか、太盛様?」

「まったく、後藤さんの言う通りだと思います」

「太盛様。使用人に対して敬語は不要ですよ」

「はは……つい敬語になっちゃいますよ。
  こんな話を聞いた後だとね」

さらに部屋には鈴原が入って来た。
ガムを噛んでいるレナも隣に立っている。

鈴原がいつもの堅苦しい口調で言う。

「さあ、今回のことはなかったことにするのが一番です。
  窓の修理が終わるまで、太盛様は他の寝床を確保しましょう。
  お嬢様たちは各自の部屋に戻るように。
   後片付けは大人たちがいたします」

マリンとカリンは素直に部屋を後にした。
何も知らないレナが能天気すぎてカリンは深いため息をついた。

大人たちがうまく丸め込んでくれたとはいえ、マリンとカリンの
確執はこれで終わったわけではなかった。

太盛のエリカへの不信感は極限状態まで高まり、また怒りを
ぶつけられるかとおびえながら過ごす日々になった。

波乱に満ちた孤島生活はなおも続いていく。
 
                  

「関係改善」A

四月の半ばになってソメイヨシノが散り始めた。
山桜としだれ桜が満開になっている。

晴天で日差しが心地よい。わずかに吹く風が、
美しい花びらをやさしくなでている。

山のふもとの桜並木を、太盛はマリンを連れて歩いていた。

マリンは父からプレゼントされたニコン製の
ミラーレス一眼(ようは薄い筐体の高級カメラ)を手にしている。

「枝から垂れている桜はこんなに素敵ですのね。
 毎年見ているはずなのに、見るたびに新しい発見が
 ありますわ」

「僕も毎年見ても全然飽きないよ。山桜の緑の葉も
 綺麗だ。花びらの色もはっきりしてるし、見てて
  癒されるぇ」

「美しい景色を毎日眺めていれば、
嫌な考えなんて浮かばなくなりますわ」

「ああ……。本当にね」

「お父様はよくおっしゃっていましたね。
 この桜並木は、本土の観光地と違って
  人で混雑していないから快適だと」

「うん」

「私は人がたくさんいる場所に行ったことはありませんが、
 人が集まるところは嫌なことばかりだと後藤が
言っていました。お父様はどうなのですか?」

「僕も後藤と同じさ。僕も、人はあまり好きじゃない。
 会社の同僚も、学校のクラスだって良いやつばかり
じゃなかった。むしろ合わないやつのほうが多かったかな」

マリンは立ち位置を変え、角度を変え、撮影を続けていた。
最後に花びらに接近して撮影して満足し、
父の手を握って歩き出した。

「もう撮影は良いのか?」

「十分撮りましたわ」

桜並木は低山の参道へ続く遊歩道に作られている。
山を背にして歩く親子。このまま進めば屋敷の方へたどり着く。
まだ開花を迎えていない八重桜の木の近くに、ミウがいた。

ミウは太盛たちの様子をうかがうように、木の近くに隠れていた。
太盛が駆け寄って声をかけた。

「そんなところに一人でいたのか。
いるんだったら声をかけてくれよ」

ミウは暗い顔で答える。

「いえ、その……。私も桜が見たくて、ここまで来たんですけど、
  太盛様達のお邪魔になるかなって」

「邪魔なわけないじゃないか。
  言ってくれれば屋敷から一緒に歩いたのに」

「あんなことがあったばかりですから、太盛様のおそばに
  いるのがつらくなったのです」

「ミウ……。あんなに明るかった君はどこへ行ってしまったんだ?
  あれは、全部僕が原因だ。君が気にすることじゃない。
  エリカのことなんて全部忘れちまえばいいんだよ」

「簡単に割り切るわけにはいきませんよ……。
  私は使用人としてここで働いている身ですから」

太盛は沈んだ彼女の表情を見るのが耐えられなかった。
鬱になっていた自分を励ましてくれたミウ。

一緒に外仕事で汗水を流したミウ。
6歳年下で友達もあり、妹でもある存在だった。

太盛はユーリやミウ達が使用人という言葉を使うのが嫌いだった。
太盛にとってミウ達は家族だからだ。

「俺はミウにずっと一緒にいてほしい」

「え……」

「俺は、ミウなしの生活は考えられないと思っている。
  ミウがいないんだったらここの島で暮らしても楽しくない」

「また、そんなことを言って……。女たらしなセリフが
  よく出てくるものです。奥様に聞かれたら
   ただじゃすみませんよ?」

「もうばれてるから、今更遅いよ」

と太盛がおどけて言うと、つられてミウも笑った。
太盛のつまらないジョークでも、
落ち込んでいたミウにとって良い気晴らしになった。

ミウは、太盛に遠慮する気持ちがあったから、部屋を荒らされた
事件の時も現場にはいかず、知らないふりをしていた。

エリカを恐れて太盛と距離を取らざるを得なかったのは
さみしくて胸が締め付けられそうだった。
彼女はただ、太盛と話をしたくて仕方がなかった。

「ミウ。妻にぶたれたところは大丈夫か? 痛むところはないか?」

「あざが少しできただけで、今は全然平気ですよ」

「よかった。あれ以来ミウと全然話ができなかったから、
  ずっと心配してたんだよ」

じっと太盛に熱っぽい目で見つめられ、ミウは頬を赤く染めた。
太盛に真剣な顔で言われると、心が宙に浮いたように
高揚してしまうのだ。

「太盛様は、やっぱりお優しい方です」

「家族なんだから、心配もするさ」

マリンが見ているというのに、かまわず抱擁する二人。
どちらともなく手を伸ばし、自然に抱き合ったのだ。

マリンは胸が締め付けられるような痛みを感じつつ、
二人の様子を観察していた。

父が非常に魅力的な男性で、本土でも多くの女に
人気があったことをよく知っていた。

だから、ミウが父のことを好きになる気持ちはよく分かった。
同時にエリカが父へ異常な執着をみせるのも。

エリカのような嫉妬女になりたくないので、
ミウを責めるつもりはなかった。
なにより邪魔をすれば父を怒らせるかもしれなかった。

父にとってユーリとミウは必要な女性なのだ。
本土では許されないこの愛人関係も、この島でなら合法になりうる。

「ごめんなマリン。君がすぐそばにいるのに、
こんなところをみせちゃってさ」

「気にしていませんわ。お父様がされることなら、
私はなにも不満はありませんもの」

「マリン……。それは従順というより卑屈だよ。
  思ったことを素直に口にしてごらん?」

「……私のことも大切に思ってくれればそれでいいですわ。
  私のこともミウと同じように抱きしめてくださいます?」

「ああ、もちろんだ」

ミウから離れてマリンの前でしゃがみ、
視線の高さを合わせる太盛。娘の少し背が伸びたなと思いつつ、
外人のように勢いよくハグした。

「私はお父様にとって一番良い子になりますわ。
 だから、マリンのことをずっと大切にしてください」

「マリンは、赤ちゃんの時からずっとパパの一番のお気に入りだ。
  パパがマリンのことを嫌いになることなんて、一生ないと思う。
   無理に背伸びをしなくていいんだよ?
   パパはマリンの子供っぽいところも見てみたいな」

「私は、子供っぽいのは好きじゃないのです。早くユーリや
  ミウみたいに素敵な大人になりたくて日々勉強しているのです」

ミウもしゃがみ、マリンの髪の毛をなでながら言った。

「マリン様はもう十分に素敵な淑女になっていますわ。
  ご自身で気づいていないだけですよ」

「そうなのかしら?」

「ええ。本当です。言葉遣いや言動に落ち着きと品があります。
  マリン様のお年でそこまで作法ができる方は
   本土でもそういないと思いますよ」

「ミウにそこまで言ってもらえると、少しうれしいわ」

いつもなら、子ども扱いするなとミウを叱るところだが、
マリンは黙って頭をなでられていた。太盛は娘のことが
たまらなく、いとおしかった。

気圧が下がり、雲模様が変化してきた。

西の方から雨雲が接近しつつあり、風の勢いが増してきた。
つい先ほどまでの晴天がウソのようだ。

桜の花びらが舞い、地面へ落ちていく。

太盛が腕時計を見ながら言った。

「午後から天気が急変するって言ってたな。そろそろ帰るか」

「そうですね。最近荒れた天気が多くて困りますよね。
  ゆっくり花見もできやしないですよ」

ミウもいつもの調子で返しながら早歩きで屋敷へ帰る。

雲が雷の音を鳴らし始めた。太盛たちが屋敷の玄関を
開けてからまもなく大雨が降り始めた。滝のように強い雨音が
屋敷の内部へと響いている。

「あなた、おかえりなさい」

玄関の奥からエリカが歩いて来て言った。

いつもの着物姿とショートカットの髪型。
今日は薄化粧で色気がなく、童顔なので少女のようだった。

目元に泣きはらしたあとがあった。
エリカは口元だけで薄い笑みを浮かべて言う。

「ちょうど大雨が振ってきましたね。
太盛様が雨にぬれなくて良かった」

「そうだな」

太盛の反応は淡白だった。
エリカがどんな状態だろうと関心がないからだ。
玄関先に同行していたミウとマリンがいる。

エリカの大嫌いな二人だ。この三人は互いに憎みあっている。
ミウとマリンは何もせず、夫婦のやり取りを見ていた。

ミウは仕事があると言えば場を切り出すことも出来たのだが、
太盛の怖いくらいに冷たい表情に驚いて動けなかった。

マリンはエリカがヒステリーを起こした場合にそなえて
待機していた。父を援護するためだ。

エリカは太盛のためにわざわざバスタオルを手にしていたのだが、
太盛は指摘しなかった。

「桜のお写真は綺麗に取れましたか? 今日は
 マリンちゃんたちとお散歩をされていたのですね」

「写真ならマリンが上手に取ってくれたよ。
  あとで僕の部屋のプリンターで印刷しようと思っているんだ」

「まあ、マリンちゃんが。きっと素敵な写真になりますわ」

エリカが嫉妬心を表に出さないどころか、良妻のふりを
続けていることに太盛は腹を立てた。エリカの腹の内が
黒いことは誰よりも太盛がよく分かっている。

エリカにどういう心の変化があったのかなど、どうでもいい。
過去にどのような事件が起ころうと、夫婦生活を絶対に
維持するのみ。夫婦円満という、おままごとには興味なかった。

「エリカ。すまないがお茶を飲みたいから、リビングに行くからな」

「なら、私が淹れてきます。何をお飲みになりますか?」

「君がわざわざすることないだろう。ミウに頼まないのか?」

「いえ。たまには夫に
  お飲み物をお出しするのも本来は妻の役割ですわ」

「……分かったよ。レモンティーをお願いしよう」

「はい。ただいまお持ちいたしますわ」

妻の日本語は実に優雅で、洗練されていると太盛は思った。
少し鼻にかかるほどの高いトーン。早口だが、
活舌が良いのでリズミカルに聞こえて心地よかった。

ミウは太盛に会釈してから仕事場へ消えた。

マリンは、エリカに許可も得ずに太盛と一緒にリビングの
大型ソファに腰かけた。レモンティーを持ってきたエリカは、
マリンが旦那の隣を占拠しているのを見て一瞬だけ顔を
しかめたが、すぐ笑顔になった。

「マリンちゃんは何か飲みたい?」

「あいにくですが、けっこうですわ」

マリンは丁寧に返事をしたが、エリカはませた返事の仕方が
かんに障ったので蛇のような眼でマリンをにらんだ。
押し殺した感情の恐ろしさに、さすがのマリンも鳥肌が立った。

太盛が口出した。

「エリカ。マリンがここにいるのが
 気に入らないんだろう?」

「さあ? なんのことかしら」

「とぼけなくていいから。はっきり言ってくれ」

「……はっきり言えば、あなたを怒らせるじゃない」

「怒るとか、そういう話じゃないんだ。
  演技するのはもうたくさんだから本音で話そうじゃないか。
   エリカは僕に何か話したいことがあるんだよな?」

エリカはマリンを横目で見ると、つまらなそうに鼻を鳴らした。
まるでジョウンのように品のない態度だ。

「実は先日、またクッパと相談しましたの。あなたの浮気性が
 治らないからどうすればいいのかと。そうしたらクッパは言いました。
 どうやっても治らないものは認めてしまったほうが賢いって」

「なんだそれは……」

「浮気性は不治の病ですわ。」

「確かに治らないな。僕はユーリとミウに手を出したクズ野郎だ」

「メイドだけですか?」

「ん?」

「娘も……」

「娘?」

「あなたの娘も、愛人の一人なのですか?」

と、マリンを流し目で見ながら言うエリカ。
マリンは油断のない表情で聞いていた。

「言っている意味がよく分からないが、僕はマリンを
 大切に思っているよ。親バカって言われるくらいにね。
 よく言えば子煩悩ってことにならないか?」

「そうなのですか。太盛様はそう思っておられるのですね」

「……何が言いたい?」

「いえ。俗世間的な言い方をすると、ロリータコンプレックスの
 一種なのかと思いまして。知っていますか? ロリータの語源は
  ロシア語にあるのですよ」

「な……」

「マリンちゃんの風邪が治ってから太盛様はずっとべったりですわ。
  どこへ出かけるにしても一緒。勉強のない時間も同じ部屋で
  すごされて、おそらく太盛様はマリンちゃんと一緒にいる
  時間が一番長いですわ。
  うふふ……愛する旦那様が幼女趣味とは思いませんでした」

太盛は歯ぎしりし、飲んでいたティーカップをテーブルに置いた。

そこまで言われて腹が立たないわけがない。
いっそエリカが自分の部屋を荒らしたことを問いつめてやろうと思った。

「無礼な!!」

マリンが声を荒げる。

「先ほどのおばさまの発言は、お父様に対する侮辱ですわ」

「なにが? ちょっとした感想を言っただけじゃない」

「ロリコンという言い方は失礼ではありませんか。
 お父様は子煩悩な方ですわ」

「そうかしら? 片時も娘のそばを離れたくないなんて異常よ。
  赤ん坊ならともかく、マリンちゃんは10歳なのよ?
  たぶん、他の人が見ても同じ感想を持つわ」

「父と一緒にいたいと言ったのは私です。
 父は学校通いをしていない私に気を使って
  いつも一緒にいてくださるのです」

「あらそうなの? それで妻の私は放置されているのだけど、
  これは私に対して失礼に当たらないのかしら?」

「どちらを選ぶかはお父様の自由意思ですわ」

「うふふ。自由意思だなんて、まるで欧州の学者みたいな
  言い方をするのね。難しい言葉をよくご存じねえ」

「欧州的な文化、価値観はお父様から教えていただきましたから。
  私は小さいころからお父様と常に一緒でした。
   エリカおばさまと違って本当の家族のきずなで結ばれていますの」

「家族……ね。マリンちゃんは子供らしくレナやカリンたちと
  ゲームやネットで遊んでいればいいのに」

「お父様と一緒にいるほうが楽しいですわ」

「同年代の子よりも父親といるほうが好き?
  あなたも相当なファザコンねえ」

マリンは禁句を口にされたので拳を強く握った。
父の前で品のない行動はできない。
本当は怒鳴りたかったが、我慢して冷静に言い返した。

「私がファザコンなら、おばさまは旦那に相手にされない、
  哀れな捨て犬ではないですか」

「捨て犬、ですって?」

我慢の限界を超えたエリカが、飲み終えたティーカップを
壁に投げた。破損音が鳴り、何事かと別室からユーリがやってきた。
ユーリは現場を見て固まるしかなかった。

顔の一部が引きつり、握った拳をふるわせながら
マリンをにらむエリカはまさに鬼のようだった。

ユーリは、この現状を止められるのは太盛しかいないと思った。

太盛にアイコンタクトで助けを求めるが、太盛は
眼を閉じて黙っていた。まるで瞑想するかのように
ソファに姿勢を正しくして座るのみ。悟りを開いた僧侶のようだ。

エリカが口を開く。

「ユーリ」

「は、はい」

「ティーカップが割れたわ。片付けておきなさい」

「ただちに」

掃除道具を持って破片を片付けるユーリ。
その間もマリンとエリカの間で無言のにらみ合いが続いた。

マリンもエリカに負けず、少女とは思えないほど凶悪な顔で
エリカをにらんでいた。

永遠に続くかと思われた沈黙の時間。

エリカがふいに口を開いた。

「……マリンちゃん。あなたは私の敵ね?」

「今更気づいたのですか?」

さらに無言のにらみ合いが続いた。

空気が限界まで張り詰め、部屋中の
窓ガラスが割れてしまいそうだった。

猛烈に太盛の胃腸の調子が悪くなる。心労のためだ。
眼を閉じていたのは寝ているわけではなく、
鬼の形相の妻と娘を見たくなかったからだ。

今すぐトイレに駆け込みたくなったが、つとめて冷静に言う。

「すまないエリカ。体の調子が悪いから失礼する」

「あら。つれないですのね」

楽しいおもちゃを取り上げられた子供のようにがっかりするエリカ。

太盛の去り際に

「では、またのちほど」

と言うが、太盛のあとに続くマリンには一言もかけなかった。

「関係改善」B

エリカに破壊された太盛の部屋は無事普及された。

しかしあの事件以降、太盛は自分の部屋で過ごすのが
嫌になり、マリンの部屋へよくお邪魔するようになった。

マリンも生粋のパパっこなので遠慮はいらなかった。
太盛はベッドに仰向けに寝た。ふて寝である。

「お父様。音楽は何をお聴きになりますか?」

太盛はバッハの無伴奏チェロ組曲を頼んだ。

CDは二枚組になっている。オランダ人の演奏家の作品だ。
この曲は文字通り伴奏を伴わない、チェロの独奏曲であり、
ヨハン・バッハの傑作のひとつである。

甘ったるい中低音から、低くうねる低音。
チェロの弦が息を吐くかのごとく、音を奏でていく。
マリンの部屋には太盛が指定したオーディオが設置している。

チェロ演奏者の表情とか、演奏のニュアンスまで
スピーカーから伝わってくるほどの再現度の高さった。

「お父様、お体は大丈夫ですか?」

「少し胃が痛むね。でもダイジョブだよ。もう少しで……」

といったところで扉が開き、胃薬と水を持ったユーリが
入って来た。太盛が薬を頼んでおいたのだ。
ユーリもマリンと同じように心配そうに太盛に言った。

「お薬をお持ちいたしましたわ。具合はどうですか?」

「神経痛だね。たいしたことはないんだ。  
どうもありがとうね。薬はテーブルに置いておいてくれ」

「はい」

ユーリは踊るような優雅さでテーブルにお盆を置き、
すぐに去ろうとしてしまう。

「少し話がしたいな。君と話すのは久しぶりじゃないか?」

「……奥様の機嫌を損ねるかと」

「そんなことは気にしなくていいよ。
  あいつの嫉妬狂いは何があっても治らないんだから。
  今の時間が無理ならあとでもいいよ。
  少し時間を取ってくれないか?」

「なら、今でいい?」

「ありがとう。その辺に適当に座ってくれ」

ユーリはカチューシャを外した。後ろでまとめていた髪を
ほどくと、ウェーブのかかった長い髪が肩から下へと垂れる。

冷静な瞳の奥に熱が宿る。心を許した男性を見つめる目だった。

マリンは驚いた。ユーリが椅子に腰かけて足を組んでいたからだ。
ここまでリラックスした姿を見せるのは太盛の前だけだ。

ユーリはこの時間を休憩時間とした。彼女の中で
綿密に組まれたスケジュールのわずかな空き時間が今だった。

屋敷の清掃と管理は、要領さえ分かっていれば
時間をずらして行うことも出来る。

「品のいい音楽ね。チェロの独奏曲か。たぶんバッハね」

ユーリは欧州製のスピーカーを見て言った。
彼女は幼少の頃、親に連れられて定期コンサートへ
よく足を運んだものだ。

「ねえ太盛。あれから奥様とはどうなったの?」

「おかしなことにエリカは仲直りしたいらしいんだ。
  あいにく僕は家庭の中では赤の他人でも構わないと
  思っているんだけどね」

「話し合いはできたの?」

「それが……喧嘩になってしまってね」

「なにやってるの。言い争ったら逆効果じゃない。
 せめて軽くあしらうとか、方法を考えなさいよ」

「違うのユーリ。喧嘩したのは私……ですわ」

とマリンが申し訳なさそうに言う。
ユーリは納得した顔でうなづいた。

「はっきり言ってマリン様とエリカ奥様の愛称は最悪です。
  2人を同じ場に引き合わせちゃだめだよ」

「全くその通りだ」

と太盛が言う。

「実は僕もマリンと同じ気持ちだよ。最近エリカが近くにいるだけで
  いらだってしょうがないんだ。倦怠期夫婦っていうのかな?
   仲直りしようとか、そういう気持ちにすらならない。
   マリンの写真に黒マジックでいたずらされて僕は
   心から腹が立った。いまだにあいつのことは許せない」

「気持ちは分かるけどさ……太盛のしてることだって
 人のこと言えないでしょ。ここは少し大人にならないと」

「分かってるつもりだけど、僕も人間だからどうしてもダメなんだ。
  なんであんなのと結婚してしまったのかと悩む毎日だ。
   結婚したことを心から後悔している。下手したら
   エリカよりジョウンのほうがまともかもしれない」

「そう……。重症ね。そこまで深く悩んでるなら、
 考える時間を作るべきね。今は無理にでも奥様から
  距離を取って、しばらく外仕事とか趣味に没頭すればいいのよ。
  そうすれば考えも変わるわ」

「なるほどね。押してもだめなら引いてみろってか。
  やっぱりユーリは頼りになるね。相談すべきは、
  良き隣人。良き家族ってか」

「なによそれ? おだてても何も出ないんだけどなぁ」

マリンは、父が相談役として信頼しているユーリに少し嫉妬した。
マリンは子供だから父から本気の相談事を
一度もされたことはない。それは当然なのだが、ませた
マリンにはそれが不満だった。

父はマリンの前で愚痴一つこぼさない男だった。
今年の2月で34になった太盛。実年齢より
内面はずいぶん大人びていると、会社勤めをしているときから
よく言われていた。温厚で達観したところがあるためだ。

太盛はエリカと距離を取ることにした。
直接妻にそう話したと時は険悪な雰囲気になったが、
関係改善のために必要なことだと説明して納得してもらった。

5月になり、本土ではGWでにぎわう時期になった。
ラジオの交通情報がゴールデンィークの高速道路の込み具合を
報じている。島暮らしの彼らには混雑など無縁である。

夜、良く晴れた空には満天の星空が並んでいた。
本土と違い、光害がないため星空がはっきり見えるのは
孤島最大のメリットの一つである。

太盛はマリンとレナを連れて天体観測をしていた。

レナが双眼鏡を見ながら言う。

「ねえパパ。あれが北斗七星だよねぇ? 頭の方にある一番星はなにぃ?」

「あれはアークトウルスと言って、うしかい座の目印になる星なんだよ」

「そーなのぉ? 真上の方にあるから首が疲れちゃうねぇ」

「双眼鏡を三脚でよく固定してみなさい。
 疲れたら芝生に寝転がってみるのもいいよ」

太盛たちは外用のリクライニングチェアに腰かけ、星空を見上げていた。
マリンは暗闇で光る星座板を見ながら、星空と星座の位置を確認していた。

レナは星が大好きで、風のない夜は父を誘ってよく星空を眺めたのだった。

「宇宙って広いんだね-。星を見てると嫌なこと全部ふっとんじゃうよ」

「宇宙に比べたら僕ら人間なんてちっぽけなもんだよ」

レナが無邪気に芝生に寝ころび、はしゃいでいる。
太盛も隣に横になり、組んだ両手を枕代わりにして空を見た。

レナの言うように空はどこまでも広い。島の夜空は、
まるで宝石箱をひっくり返したかのように美しい。

三脚に備え付けたニコン製の大型双眼鏡から見る星空は、
まさしく英語で言うところのスターダスト(星屑)である。
今夜は風もなく晴れているので星空観察に最適だった。

「あ、流れ星……」

マリンが言い終わる前に星は流れてしまう。
マリンが首からかけた双眼鏡を構えるころには遅かった。

「残念ですわ」

「元気出しなよぉマリン。
GWの終り頃にふたご座の流星群っていうのが
見えるらしいよぉ?」

「あらそうなの? でも早朝とか明け方でしよ?」

「夜の十時ごろってパパが言ってたよぉ。ね、パパ?」

「ああ。ネットで調べたらそう書いてあったよ。
  六日の夜だから三人で一緒に見ような」

「うん!!」 「はい」

レナとマリンの順で返事をし、
この日はたっぷり星空を堪能してから屋敷へ戻った。

「なにかしら?」

マリンが一瞬だけ後ろを振り返ると、流れ星や流星群と違う、
不思議な軌道を描いて飛ぶ物体があった。

それは飛行機のジェットエンジンの軌道に見えた。

マリンは特に深く考えることもなく、その日はそのまま寝た。

次の日のニュースで、北朝鮮が長距離弾道ミサイルの発射実験を
成功させたと報じた。

太盛はエリカと子供たち三人で朝食をとっていた。
夫婦はぎこちない会話を中断し、ラジオに傾注した。

国営放送のアナウンサーはこのように報じた。

「北朝鮮の弾道ミサイルは、米国西海岸一帯へ到達する能力を
  持つとのことです。また、これに搭載する核弾頭の準備も
   進められており、米国は韓国、豪州と
  連携して迎撃に当たる姿勢を見せています」

そして米国国務長官と副大統領の会見が行われ、必要とあれば
さらに艦隊を日本海付近へ派遣すると答えた。

現在派遣されている艦隊は、米国第七艦隊に属する、空母第一打撃軍である。
この艦隊は、原子力空母を中心とする護衛艦や潜水艦など六隻からなる。
各護衛艦は最大で150発ずつミサイルを搭載可能であり、
空母の艦載機は80を超える。

護衛艦はイージスシステムを搭載しており、対空、対潜など、
すきなく迎撃をすることが可能となる。
この艦隊だけでおよそ小国の軍事力を上回るとさえ言われていた。
高度に組織化された精鋭艦隊なのである。

米国はこの艦隊をさらに六セット持っており、今回は
さらにもう一セットを朝鮮海域へ向けるというのだ。



「太盛様は今回のニュースをどう見ますか?」

とエリカがいつものように聞いた。
口調は穏やかだが、表情は硬い。

「ここまで米朝間で緊張感が高まったことは
 今までないね。はっきりいって非常にまずいと思うぞ」

「やはりご党首様がおっしゃっていたように
 戦争の可能性が見えてきましたか?」

「それは……」

太盛が言いよどんだのは、マリンとカリンがじっと
太盛を見ていたからだった。2人とも夫婦が緊張しているのを
見て食事が止まってしまっている。

戦争の危機は高まった。しかし、子供たちの前で米朝戦争が
始まりそうだと言うわけにはいかない。

「まだ分からないよ。
  米国大統領は朝鮮労働党の委員長と会談を申し出た。
  朝鮮側に攻撃の意図がなく、専守防衛のための
  措置だと米国が理解すればどうにでもなるさ」

「パパ。北朝鮮から攻める気はないのね?」

早熟娘のカリンのつっこみに太盛が返す。

「その通り。北朝鮮は小さい国だから
  米国と戦っても最後は負けるんだよ。
  カリンは自分が負けると知ってたら戦いをいどむ?」

「しないわね。ばからしいもの」

「だろう? だったら、あとは話し合いでも
  平和に終わらせたほうがお互いのためさ」

エリカは複雑そうな顔をして食後のコーヒーを飲んでいた。
娘と旦那のやり取りを黙って見守っている。

カリンが続けて質問する。

「北朝鮮ってサリンとか持ってるんでしょ?
  毒ガスとか生物兵器とか危険なものを
  集めて、とんでもない国じゃん、
ああいうのを打たれたら日本はどうなるの?」

「うーん。まあけっこうな被害が出るんじゃないかな。
  もっとも戦争になる可能性がほとんどないから
   心配することはないと思うよ」

「パパ。誤魔化さないで真剣に答えてよ。
私は本当に気になったから聞いてるのにさ」

「パパだって難しいことはよく分からないんだよ……」

太盛は第一次世界大戦の戦記を大学時代に
さんざん読んでいる。マスタードガス、ペリオットなど
毒ガスを食らった兵隊たちがどれだけ苦しんだかを知っている。

ガスのために目の神経をやられ、顔に包帯を巻いた英国兵が
長蛇の列を作っている写真を思い出してぞっとした。

兵隊たちは一時的に失明し、一命を取りとめても
内臓器官に後遺症が残った。毒ガスと言えば、あの
ナチスのアドルフヒトラーも従軍時にフランス軍の
攻撃で被害にあった。彼は一週間失明したという。

そんな話をどうして可愛い娘たちの前でできようか。

子供には知らなくていいことが山ほどある。
それなのにカリンやマリンは知的好奇心が高すぎて
何でも質問してくるのだった。

この食堂の席は不思議なもので、太盛という先生に対して
エリカや子供たちが生徒のように質問してくる。

「あの、お父様」

「なんだいマリン?」

「北朝鮮から攻める気はなくても、アメリカから攻撃
 する可能性はあるということですよね?」

「……まあ、そういうことだね」

「アメリカの偉い人たちが空母艦隊を増やそうと
しているのは、アメリカに攻撃する気が
あるからではないのですか?」

「……うむ。どうしてそう思うの?」

「湾岸戦争やイラク戦争の時も空母艦隊の空襲から
 始まったとお父様がおっしゃっていたからです。
 過去の歴史が証明しているではないですか」

これは今回のニュースの核心をついていた。
エリカと太盛は目を見開き、あまりにも知恵が回る
マリンを羨望と恐怖の眼で見た。

天才とは、物事の要点を説明せずとも一瞬で理解
出来る人のことをいう。わずか10歳の娘が、この島で
生活してきたマリンという幼い子供が、ここまで
優れた頭脳を持つに至ったのは偶然か、あるいは奇跡か。

実は太盛もマリンと同じ考えを持っていた。

米国はかつて日本帝国に真珠湾を奇襲攻撃され、
わずか一日で太平洋艦隊が壊滅した。
それ以来、全ての領土で厳重な警戒を解いたことはない。

特に太平洋のど真ん中にある真珠湾はその経験を
十分に生かしている。

イージス防御システムや洗練された空母艦隊にも太平洋戦争で
日本軍の執拗な攻撃を防ぎきれなかったことを教訓に
作られており、それをベトナム戦争や湾岸戦争でさらに
発展させた。

米国は、日本帝国との戦争で待っていたら攻撃される
ことを学んだ。つまり、機先を制することを是正とした。
やられる前にやれである。

今回の空母打撃軍の増派は、先制攻撃することが
ほぼ確定なことを意味している。

「マリン……。君はいつも良い質問をするね。
  出来の良すぎる生徒を持つと先生は
  困ることも時にはあるんだよ」

「あ……もしかして答えにくいことをまた
  聞いてしまいましたか?」

「答えは、そうかもしれないってことだね。
  いいかいマリン。軍事とは可能性の学問だと
  昔の偉い人は言ったんだ。ドイツの参謀なんだけどね。
  未来のことは誰にもわからないのさ」

「そう……ですか」

父の困り顔にがっかりしてしまうマリン。

最近父はマリンが質問するたびにこういう反応を
するようになったので逆にマリンが困ってしまった。

マリンは、自分の質問が核心をついているとは思っておらず、
純粋に気になったことを聞いただけであった。

食堂がきまずい空気になるが、レナがそれを破った。

「北朝鮮さぁ。マジかんべんしてほしいよねぇ。
  サリンとか、困るんだけどぉー!!」

歌うように話すので大人たちは笑った。
つられてマリンとカリンも吹いてしまった。

「なんでみんな笑うのぉ?」

不思議そうに言うレナがおかしくて、一同はさらに笑った。

レナのくったくのない明るさが、孤島で生きる
彼らに希望すら与えてくれたのだった。

(僕の可愛い娘達よ。この子たちから平和を奪おうと
 している北朝鮮が僕は憎い)

太盛は笑顔の裏でそう考えていた。

(最悪僕とエリカは死んでもいい。娘たちは
 なんとしても未来を生きてもらうんだ。
 だが、戦争になったら本土への帰還など……)

「関係改善」C

その日の夜、太盛は自室で考え事をしていた。

暇さえあればマリンの部屋かリビングで過ごしていたが、
今日は誰とも関わりたくない気分だった。
イスに深く腰掛け、目を閉じている。

(日本の未来は、父の言う通りになるのか……。
 娘たちはどうなる? あの子たちに希望はないのか)

ここが島暮らしである以上、本土からの補給物資が
届かなければ最悪餓死するか、冬に凍死する可能性がある。

戦争の開始はもはや避けられないと民法メディアまで
報じるようになる始末。太盛もそう思っていた。
開戦になれば、日本は間違いなく北朝鮮に攻撃される。

米国の同盟国だからだ。日本に向けられたミサイルは
最低で200基と言われている。

「あなた、いるのよね? 入るわ」

エリカが緊張した顔で入って来た。
もはや夫婦喧嘩などしている場合ではなくなったのだ。

「率直に聞くわ。戦争になるのね?」

「そうだな」

「本当に?」

「ああ。まず、間違いなく米国が空襲を始めるな。
 ステルス爆撃機と対地ミサイルが火ぶたを
  切ることだろう」

「時期はいつだと思うの?」

「おそらく米朝首脳会談が決裂した後だな。
 あくまで想像にすぎないが、早ければ今月中にでも……」

「えっ、あなたは会談が失敗に終わると考えているの?」

「情報筋の人が語っていたが、北朝鮮は会談中にも
 ミサイル実験を強行するそうだ。アメリカをバカに
 しすぎている。そろそろアメリカも我慢の限界が……」

太盛は言っている最中に手の震えが止まらなくなり、
頭を両手で抱えて黙り込んでしまった。

党首にテレビ電話で失跡されているときと同じく
子供のように幼くなった。

エリカは、夫へ手を伸ばし、なだめるように抱きしめた。

「お父様に連絡して指示を仰ぎましょう?
 それが一番だわ。私たちはどうなってもいいの。
  せめて子供たちだけでも安全な場所へ
  避難させましょう。ここは北朝鮮に近すぎるわ」

エリカは執事長の鈴原と後藤を食堂へ呼んだ。
もちろん太盛もいる。クッパにも召集をかけて
大人5人の話し合いになった。

今後、戦争が起きた場合のことについてである。
遅れてユーリとミウも合流させ、
子供三人を除いた大人全員の会合となった。

エリカが開戦後の不安点をまとめて党首へメールで
質問し、党首がそれに対する返答をした。

鈴原がメールを印刷したコピー用紙を手にして言う。

「ご党首様からの返信を読み上げます」

以下は党首の文章である。

開戦後、本土からの食糧供給が途絶えても、
飢えない程度の自給自足体制を整えること。

孤島は空襲を受ける可能性がほぼないという点では
安全地帯である。特に本土と九州を中心に
ミサイルの波状攻撃を受けることが予想されるため、
二次、三次被害を考慮に入れると日本全域が核汚染する恐れがある。

以上の理由によって孫たちを日本列島のいかなる地域へも
移住させることはできない。

孤島が長崎県佐世保軍港に近いため危険で
あるというエリカ君の指摘は正しい。

万が一、北朝鮮の特殊部隊など海上からの
侵入を許した場合は、各自で迎撃すること。
戦争となれば民間人も武器を持って戦う必要がある。

「有事の際は各自で迎撃ですか……」

後藤が眉間にしわを寄せた。彼はめったに
自分の意見を言わない男だが、この会合では進んで発言した。

「ご党首様は孤島が敵軍に上陸する恐れが
 あるとおっしゃっているようですな」

後藤にクッパが返す。

「軍事的な視点で考えると、長崎への侵入口として
 ここを占領することも考えられなくはない。
  だが可能性はかなり低い。そうだろう太盛?」

「そうだな。なにせ開戦後は38度線から米韓軍の
  攻撃が始まる。北朝鮮の陸空軍力ではまず
  防ぎきれないだろう。こんな島を攻撃する余力はない」

エリカが旦那に賛同する。

「北朝鮮が敗北するのは確定として、問題は
 日本がどれだけの被害を受けるかということですわ」

鈴原が言う。

「現在までのミサイル迎撃能力は米国の演習結果で
 49パーセントと言われています。
 日本国の保有するイージス艦6隻と地対空ミサイルを
  総動員すれば、それなりの効果は期待できるかと」

鈴原が真顔で言うと不思議と説得力があった。
さらに在日米軍の援護もあるから、日本国の防空力は
冷静に考えてかなり強い。

一国で日米韓という軍事大国を一度に相手にする
北朝鮮に対し、情勢は有利と言えた。

「露国と中国の関与がなければ、ですな」

と後藤が言うと、また空気が重くなった。
特にロシア政府のあきらかに北朝鮮寄りであるから、
今後の行方は全く読めない。

米朝戦争が世界大戦にまで発展する恐れすらあった。

どのみち核ミサイルの打ち合いになる可能性が高い。
米国軍は高性能兵器を集中的に使う先制攻撃で
北朝鮮を一撃で仕留めるつもりだが、はたしてうまくいく
保障などなかった。

後藤がそのことを口にすると、全員の顔が恐怖と
緊張で引きつるのだった。

「あはは……つまりこういうことかしら?
 もう孤島がどうとか、家族がどうとかではなくて、
 へたしたら地球から文明社会が滅ぶかもしれないと?」

自嘲気味に言うエリカに対し、答える者はいなかった。
黙って話し合いを見守っていたユーリとミウは
青ざめている。ミウは、本土と違って核や毒ガスで
汚染されないことだけを幸運に思って自分を慰めていた。

ユーリは、多くの人が死ぬことへの恐怖で心が
押しつぶされそうだった。津波の記憶が鮮明に
よみがえる。

「さあみんな。もう日付の変わる時間だ。
  今日の話し合いはここまでだ。各自休んでくれ」

太盛が音頭を取って全員を退席させた。
みんな明日からの日常があるので一斉に
食堂から去っていく。

残ったのはエリカと太盛。エリカは太盛の手を
ぎゅっと握って言った。

「今日から一緒に寝ませんか?」

「いいよ」

太盛は手を離さずに夫婦の寝室へ行った。

あれだけ憎みあっていたのがウソのように
どちらともなくキスをし、ベッドへ横になる。

「太盛様ぁ……」

「ああ。こいよエリカ」

太盛がエリカにおおいかぶさり、くちびるを奪う。
唇を開いて舌を挿入し、複雑に絡み合う。

今度はエリカが上になり、太盛に甘えながら
ひかえめにキスをした。

何度も互いの位置を入れ替えながら、服を一枚ずつ
脱いでいき、肌と肌を重ねた。

「太盛様……私、ずっとあなたと一緒にいたい」

「僕も同じことを考えていた……。
 どうして今まで気づかなかったんだろう」

開戦が迫っている。いよいよ極東アジア全域で
核戦争が開始される直前になり、彼らはついに
本当の夫婦として結ばれつつあるのだった。

結婚して10年。実に長い月日であった。
死ぬかもしれない恐怖が、彼らを深い絆で結び付けた。

太盛は、ルイージ事件の時にエリカの手を握り続けた
時のことを思い出した。今もエリカの細い指は太盛の
指と絡んだままだ。

「絶対にお前と離れ離れにならないぞ」

「私も同じ気持ちですわ」

強烈な愛撫に耐え切れず、体をいじらしくよじらせるエリカ。
太盛が挿入を始めるとさらに甘い吐息をはいた。

2人が初めて感じる、長くて充実した夜だった。

この日から太盛はメイド達と浮気するのをやめた。
エリカも嫉妬心が不思議と消えてしまい、あいかわらず
主人にべったりなマリンを見ても優しく微笑むようになった。

翌日から子供たちへのホームスクールが無期限中止になった。

子供たちに屋敷の清掃や家庭菜園のやり方を指導した。
使用人たちは手の空いた者から底網漁、狩り、山菜取りなど
食料を得るための仕事にでるようになった。

太盛は冬に備えた薪割りの仕事をさらに増やした。
エリカは節約術を磨き、少ない食材と日用品で
いかにサバイバル生活をできるか研究した。

「戦争とかまじうぜーし。北朝鮮くたばれ」

「ぼやいてないで、早く種まいちゃいなよ。
 ダラダラやってたらいつまでたっても終わらないよ?」

カリンのどやされたレナが大根の種をまいていく。
定規を使い、等間隔にまくようにする。
綺麗に一直線に作られたうねへ2人が協力して
種をまいていく。

うねも自分たちで鍬(くわ)を使って作らされた。
いわゆる、さくきリと言われる作業である。

鍬は重量がある。力の入れ具合を知らないとすぐに
足腰が疲れてしまうし、集中しないとまっすぐな
列にならず、盛られた土がでこぼこになってしまう。

家で上品な生活をしていた双子には大変な労働であった。

「すぐ腰が痛くなるし。日差しも強いし、喉かわいた。
 農家ってこんなにつらいのぉ?」

「レナ様。しゃべってばかりで手が止まっていますよ?」

「これに比べたら算数の勉強のがずっとましだよ」

「お父様は10年間、自ら進んで畑仕事をされていたんですよ?
 娘のレナ様も覚えてしまえば楽になりますわ」

「ほんとに楽になるのかなぁ?」

拡大した農地で子供たちに農家を指導しているのは
ミウと太盛だ。

子供たちには戦争の危機を説明して生き残るための
実用的な仕事に取り掛からせることにした。
つまり、勉学よりも生きる知恵という、現実的な発想である。

「カリンはすじがいいね。まだ少ししか教えてないのに
 自分から進んで覚えようとしてるから上達が早い」

「ふん。そうやっておだてたって何も出ないよ?」

と言いつつもうれしそうなカリンの作業は
はかどった。力よりも頭脳を使って、くわをぱっと
手から離し、後ろに少し滑らせる。

力を最小限に使い、また体の向きをよく見ながら
まっすぐ動かすコツをすぐにつかんだ。

「さすがカリンはうまいな。
 勉強のできる子は畑仕事も利口にできるね」

「だからパパ。おだてても無駄だっての」

作物に肥料と水が必要なこと。
定期的に雑草を取らなければ栄養を吸い取られて
しまうことも学んだ。

消毒の仕方も太盛が実践するとすぐに覚えた。

大根は栄養豊富で冬の間に栽培しておけば
年中収穫できること、葉っぱもみそ汁のだしなどに
利用できる貴重な野菜であることを説明すると、
さらにやる気を出した。

終始文句を言い続けているレナと対照的である。

レナは口では文句を言いながらも、
母から丈夫な体を受け継いでいたから
慣れるとどんどん体が動くようになってきた。

レナは体育会系なところがある。作業した分だけ
成果がはっきりと見える畑仕事は嫌いではなかった。

そんな生活が2週間もするころには
草取りを欠かさないようになった。

あぶら虫に食われている葉を見つけると
消毒の必要性がよく分かった。

今では双子そろって麦わら帽子にジャージ姿で
畑仕事をするのがさまになっている。

「北朝鮮、まじぶっころす」

と言いつつ、レナは収穫できる野菜をプラスチックの
バケツに取っていく。朝の5時半である。

「ほんと北朝鮮とかこの世から消えればいいのに」

すぐ後ろでカリンが野菜を一輪車へ積んでいく。
カリンも愚痴をこぼしながらも手は休めない。
手慣れたものだった。

レナが不出来な野菜とそうでない野菜を見分けながら言う。

「いっそ私らが戦いに行きたいくらいだ。
 武器の使い方をミウに教えてもらうぜ」

「いいね。今のカリン達は力もついたし、
 重い銃も使いこなせるんじゃない?」

「この島には一兵たりとも上陸させないぞぉ」

「そうだそうだ。たとえ攻めてきても
 ぜんぶ海岸沿いでぶっ殺してやる」

2人とも農家の仕事をしてからさらに朝が早くなったが、
戦争の危機を理解しているので早起きが
苦痛ではなくなった

屋敷の納屋まで何度も往復して仕事を終えた。

以前の二人なら朝早くからの仕事など苦痛以外の
何物でもなかった。今の彼女たちを動かしているのは戦争の恐怖と
北朝鮮への怒りである。

まもなく朝食の時間になる。

レナとカリンは着替えてから食堂へ行く。
仲良く隣通しに座った。

メニューは野菜を中心とした日本食が中心であるが、文句はない。
明らかにおかずの皿数が減っているのが全員の危機感をつのらせた。

「いただきます」

太盛とエリカ、マリン、山籠もりをやめたジョウンも食卓に座っている。
家族一同がそろっての朝ごはんとなった。

レナがみそ汁を飲みながらカリンに言う。

「あー体がだるい!! 今日は真夏並みの日差しになるんでしょ?」

「そうらしいね。五月の暑さはもう夏だよね。
  昼の外仕事で熱中症になったらどうしよう」

「倒れたらその時だし、気にしないよ。
 汗かいても冬の寒さに比べたらましじゃね?」

「あー確かに。あの冷たい風を受けながら
 作業するなんてゾッとするわ」

「私、腰痛いの少し治ってきた」

「私も。なんか前より汗かかなくなってきた。
  風が吹くと汗が渇いてすごく気持ちいよね」

メニューはご飯、みそ汁、煮物、漬物、デザートのプリン。
話しながらでも食欲があるのでどんどん皿が空になっていった。

双子の会話は話し好きのレナから始まるのが定番だった。

「毎朝早起きで眠いんですけど」

「お昼ご飯を食べた後、急に眠くなるよね。
  つか今も結構眠いんだけど」

「畑仕事ハードすぎっしょ」

「本土の農家はもっと広くて大変らしいじゃん?
 農家の人たちを尊敬するよ」

そんな双子をミウが見かねて言う。

「今日は夕方から作業を開始しますから、
 それまで好きにされていいですよ」

「まじ? じゃあ昼寝しよ!!」

レナが元気にはしゃぐ。前向きなのは素晴らしいことだと
太盛が良く褒めた。エリカはレナの俗世間風の話し方を
注意しなくなった。

勉強に乗り気でなかったのに、外の仕事に精を出すレナ。
カリンは家にいるのが好きだったのに
積極的に畑に出てくれる。
そんな2人のことをエリカは微笑ましく思っていた。

「二人とも毎日お仕事を一生懸命に頑張って偉いわ」

「お、お母さま?」

まさかの誉め言葉を頂戴した双子は目を丸くした。

「お父様とミウの言うことをしっかり聞いて汗水流して
  働いていると聞いているわ。おこずかいをあげるから、
  食べ終わったらママの部屋に来なさい」

「やったー!!」

目を輝かせる双子を邪魔するようにラジオが速報を報じた。
国営放送のアナウンサーの言葉である。

「自民党は閣議の結果、内部に駐留する自衛隊予備役を緊急招集することを
 決定しました。自衛隊の総戦力は31万人に達し、これに加えて全国で
 隊員を募集する予定です。イージス艦全六隻を日本海側と太平洋側に
 分散配置し、米国海軍と共同で防衛に当たらせる方向で調整をしています」

太盛とエリカは言葉を失った。ジョウンも血の気が失せてしまい、
はしが止まった。

子供たちには話が難しすぎたが、大人たちが深刻そうな顔をしているので
計り知れない不安を感じていた。レナとカリンが顔を身わせてから、
マリンにアイコンタクトで質問しろとうながした。

マリンはうなずき、いつものように口を開く。

「お父様。ニュースの内容はどういう意味ですの?
 よびえき、とはなんですか?」

「自衛隊は予備として用意していた人たちまで戦争に
  備えさせているんだよ。今言った31万というのは、
  いま日本国が使用できる全戦力だ」

マリンはつばを飲み込んだ。遠慮なく質問を続ける。

「イージス艦という船で日本は守られるのですか?
  敵が山みたいにミサイル攻撃をしてくるのに、
  日本はどうなるのですか? 31万人で守れるのですか?
  敵は陸軍だけで100万いると言われていますが」

「こっちの海軍力がすごく強いから、
  敵兵が日本海を渡ってくることはまずない。
  問題はミサイルだが、実際の迎撃率は未知数。
  はっきりいって半分は打ち漏らすだろう」

「半分も!? 北朝鮮は数千発もミサイルを持っているのでしょう?
 日本はどうなるのですか!? おじいさまも本土に住んで
 らっしゃるのに、みんな殺されてしまうのですか!?
 それに北朝鮮の核はどうやって防ぐのでしょうか?」

娘が質問攻めをしたい気持ちは痛いほど太盛にはよく分かる。
だが、太盛は国防省に勤務しているわけではないので戦争の行方など
分かるわけがない。父である党首は敵国に近い位置にある、
日本海側を含む西日本全域が壊滅するという予想を立てている。

太盛は父の予想が間違っていることは一度もなかったことを
子供の時から知っている。しかしそれを娘に言っていたずらに
不安をあおるわけにはいかなかった。

「落ち着けマリン」

とジョウンが言う。皮肉なことに彼女は朝鮮国の最高権力者に酷似している。

「この島は攻撃を受けないとご党首様も言ってただろう?
  そのために島暮らしをしてるんだからさ。
  私たちは生き残れるさ」

「私たちだけ生き残れても、他の人たちはどうなるんですの!?
  本土から定期船が来なくなれば生活できなくなってしまいますわ!!」

「そのためにエリカと鈴原が自給自足の計画を作ってくれてるじゃないか。
  定期船も戦争前に急ぎで必要な物資を運んでいる。
  先月に漁船が届いたから底網漁で海の幸が取れるようになるぞ」

「でも船の燃料がすぐになくなりますわ」

痛いところを突かれたジョウンはこめかみを抑えた。
なだめるために言っているのだが、強烈なツッコミをされたら
言葉が続かなくなる。

太盛が入れ替わりで言った。

「マリン、戦時中は国民に自由はなくなるんだ。
  生きることだけを考えよう。生きなくちゃいけないんだよ。
  たとえ国土がめちゃくちゃになろうと、帰る場所がなくなろうとね。
  ジョウンの言う通り、僕らは住む場所が確保されているから幸いだ。
  パパに未来は分からない。毎日しっかりニュースで朝鮮とアメリカの
  動きを確認しようね?」

太盛の言葉は前半部分がエリカの祖父の受け売りだった。
ソ連の政情が不安定だったころに、祖父が
息子であるエリカの父によく言い聞かせていた言葉だった。

ソビエトが崩壊するまでの70年間で一億人を超える人間が
粛清されたという。
エリカはつらいことがあるたびに祖父の言葉を思い出した。
人として生まれたからには、人として死ぬ義務がある。
死ぬまでに自らがすべきことをしろ、ということである。

朝食が終わり、レナとカリンは肩を並べてエリカの部屋にやって来た。
エリカは机の引き出しから封筒を二つだし、双子に手渡した。

「これはあなたたちのお仕事に対する成果です。
 畑仕事だけでなく、自分の部屋とお風呂場の掃除もしっかり
 やっているとユーリから報告を受けています。
 立派な娘に育ったわね。褒美を受け取りなさい」

「え……」

見間違いかと思い、カリンが何度も中身を確認した。
レナはエリカの顔をじっと見て、金額を
渡し間違えたのではないかと疑った。

金額はそれぞれ五万ずつ。計十万であった。
島暮らしをしている二人にも大金だと分かる。

「あの、お母さま……。こんなにもらっていいのでしょうか?」

「もちろんよ。あなたたちが自由に使っていいお金よ。
 ネット通販が使えるうちに好きなものを買ってしまいなさい」

双子は困ったときは互いの顔を見合わせる。戸惑いと混乱で
素直に喜ぶことができなかった。カリンが真剣な顔で口を開く。

「お母さま」

「なあに?」

「このお金があればお肉や魚が買えます。
 私たちが無駄遣いしたら、もったいないと思います。
 みんなの生活のために使ったほうがいいのではないですか」

隣のレナが首を何度も傾けて同意している。

「そんなこと、気にしなくていいのに。どうしてそう思うのかしら?」

「だって……戦争が始まるじゃないですか。
 マリンが遊ぶのは自粛して
 生きるための知恵を身に付けろとよく言ってるんです」

「マリンちゃんがそんなこと言っていたのね」

マリンは山の山菜取りから、ジョウンの漁船で漁まで手伝っている。
太盛も海へ出ている。マリンと太盛は船酔いに悩まされた。
船上で吐いたことは一度や二度ではない。

慣れない漁はそれだけ過酷だった。
双子も最初の頃は畑仕事の辛さを何度も嘆いたものだ。

夕方に真っ黒に日焼けして海から帰ってくる太盛とマリン。
彼らが船酔いと疲れで体調を崩しても、翌朝にはめげずに
漁に行く姿を見ると何も言えなくなった。

「畑仕事をして食べ物の大切さを学びました。
  これからどんな食べ物を残さず食べるつもりです。
  マリンはお姉さん面して生意気だけど、今は
  あいつの言うことが正しかったと思います」

「ふふ。面白いわね。マリンちゃんは食の大切さまで
  あなたたちに話していたの。質素倹約を常とする
  太盛様の教えがしっかりと守られているのね」

エリカは優しく手を伸ばした。カリンとレナの頭を
交互になでてからこう言った。

「あなたたち二人の成長を母としてうれしく思うわ。
  そのお金は受け取りなさい。これは母としての気持ちよ。
  もちろん使わなくても構わないわ。
   大事に取っておくのも一つの手よね」

鈴原と話があるからと言って、エリカは部屋を去っていった。
双子は大金の入った封筒をいつまでも握り続けていた。

開戦前夜ともいえる昨今。戦争への恐怖が屋敷の住人たちを
大きく変えてしまうのだった。子供たちは少し早く大人へと成長していく。
子供たちを見守る親たちはただ生き延びることだけを考え続けた。

鈴原は、党首からの連絡をメールで頻繁に受けるようになった。
党首が政府の情報筋から受けた情報によると、いよいよ米国の
空母艦隊が日本海付近に集結しつつあり、一斉攻撃をかけるとのことだ。

「すべてが終わる時」

五月の半ばを過ぎ、今日も畑仕事に精を出す双子姉妹。

夏野菜(トマト、キュウリ、ナス)をビニールひもをつかって
支柱へと誘因し、固定するのだ。

まずは支柱を地面に深く刺し、ひもで結わくのだが、
形をしっかり整えないといけないからコツがいる。

「カリンは手先が器用だねー」

「慣れれば誰でもできるって」

「こうして支えとかないと夏野菜はだめなんだね」

「めんどくさいけど、ちゃんと育つためには仕方ないみたいね」

今日の昼は曇り空である。湿度がないので風が心地よく、
作業しやすい日だった。
支柱立ては簡単なように見えて手間がかかるので時間は早く過ぎていく。

いつか食べられる夏野菜を夢見て作業に精を出す姉妹。

カリンがふと空を見上げると、
不思議な閃光がいくつも見られた。

「ん?」

「どうしたのカリン?」

「流れ星みたいなのが飛んでるんだけど」

「昼なのに流れ星? って、ジェット戦闘機みたいな形してる……」

館から後藤が飛び出てきて、姉妹たちを急ぎ屋敷へ招き入れた。
2人ともジャージが泥で汚れているが、お構いなしだった。

リビングにエリカと鈴原がいる。ユーリが無線で太盛達、漁船組に
早く引き返すよう大声で急かしていた。双子はユーリが
声を荒げていることにまず驚いた。リビングには常設のラジオの他に
テレビとノートPCも用意されている。

テレビは信じられないことを報じていた。

「現在も北朝鮮からの断続的なミサイル攻撃は続いている模様……」

ついに全面戦争が開始されたのだ。

米国は三個まで増やした空母打撃軍で、朝鮮のミサイル基地を
集中攻撃したが、壊滅には至らなかった。

報復で北朝鮮が地下や山脈に隠していた基地から大量のミサイルを
発射しているのが現状だった。

党首の予測通りとなり、最初に長崎、福岡、沖縄が攻撃の対象になった。
佐世保軍港では以前から侵入していた北朝鮮スパイ(特殊部隊)が
暴れまわり、港の防衛機能をマヒさせた。

北朝鮮が発射したのはノドン、スカッドなどの短距離から中距離の
ミサイルであり、自衛隊の地対空ミサイルと護衛艦、イージス艦の
防御力では防ぎきれなかった。

北朝鮮が350発以上のミサイルを連続発射したのに対し、
実際の迎撃率は信じられないことに17パーセントしかなかった。
戦争とは演習通りにはいかないものである。

日本国の都市はさらに広島、名古屋まで被害を受けた。
発射したすべてのミサイルが着弾したわけではないが、
ミサイル飽和攻撃の破壊力は圧倒的だった。

核攻撃はされていないとの報道だけが、エリカたちにとっての救いだった。

一方、国土三十八度線では朝鮮軍と韓国軍の死闘が続いていた。
北朝鮮の2万門の大砲が火を噴く。韓国は主力戦車と
航空機の空爆で答えた。陸戦部隊は双方の合計で300万を超えた。

韓国の三大都市にもミサイルの雨が降り注ぎ、壊滅的な打撃を受けた。
米海軍の主力はピョンヤンへの爆撃を強め、戦争開始からわずか六時間で
北朝鮮の主要都市は全て壊滅。地上から確認できる軍事施設の
90パーセントは消滅した。

北朝鮮の敗北は必至であった。

「ついに始まったのか……」

帰って来た太盛達はリビングにとどまり、メディアから流れる
情報にかじりついた。テレビは時々映像が乱れるが、
ラジオだけはどんな時でも情報を流してくれた。

初日以降はミサイルの応酬は止まり、朝鮮半島での地獄の地上戦が展開された。
米韓両軍の最新式の装備に北朝鮮軍はじりじりと後退していく。

米韓軍の総兵力は350万を超える。韓国軍は予備役を招集して
総兵力を450万へ増やした。極東アジアにおいて空前の大兵力である。
自民党は緊急時に際して憲法を改正させて攻撃用の部隊を編成するに至った。

戦争が始まって5日が経った。ピョンヤンへ米韓地上部隊が
進行する直前になって北朝鮮政府は敗北を認める。
停戦条約が結ばれた。

北朝鮮の最高権力者は逃亡し、クーデターが起きた。
キム一族が長年支配していた国家は終わりを告げたのだ。

停戦の仲介をしたのはロシアだった。ロシアは開戦前から
外交での解決をするよう米国に促していた国だった。

国営放送が報じる。

「政府と外務省は停戦が結ばれたことを確認しました。
 今回の米朝戦争で核の使用はなかったとの正式な発表がありました。
 ミサイル攻撃を受けたいかなる地域でも核汚染はされていないとのことです」

さらに韓国メディアも韓国内で生物化学兵器が使用されなかったと
報じた。日本も同様である。懸念されていた毒ガスは使われなかったのだ。

「太盛様。戦争が終わったのですね」

「そうだな……」

エリカが太盛の隣に座り、手をぎゅっと握っている。
エリカは太盛の手のぬくもりが心地よく、頼もしく感じた。

旦那の眼の奥に浮かぶのは、被害にあった西日本一帯の地域の悲惨さである。
現地のメディアが断続的に被害の状況を伝えている。

ミサイルで破壊された街並み。巨大ビル、鉄道、橋などあらゆる
インフラ設備が破壊された。初日の大火災は火の海と形容されたものだが、
いつのまにか鎮静されていた。とにかく被害が大きすぎる。

がれきの山。その下から下敷きになった人間が救助隊によって運び出される。
戦闘装備を解除した陸上自衛隊が復興作業に当たる。

「ご党首様が私たちに島暮らしを強制させた理由は
  この時のためだったのですね」

「僕のお父さんは、本当に未来のことがよく分かる人だよ。
 まるで、占い師みたいにね」

軍事施設のある佐世保、呉、嘉手納が破滅的な打撃を受けた。
日本の艦艇の30パーセントが被害を受けたが、
損傷が大半で沈没船はわずかだった。

航空機部隊の被害は軽妙である。陸軍の被害は
朝鮮上陸作戦に加わらなかったので皆無だった。


戦後は予想通り定期船はやってこなくなった。
島は自給自足の生活が始まった。

「みんな。本土が復興するまで我慢の日々が続くぞ。
  希望を捨てずに頑張ろうじゃないか」

と太盛が音頭を取り、家族たちをはげますのだった。

漁船の燃料はまだ十分に備蓄がある。

野菜の収穫も順調である。肥料も買い込んである。
井戸は五か所掘った。

米は作っていなかったが、父が戦争前に相当な量を送ってくれた。
さらに倉庫に山積みされた缶詰もある。

今すぐ飢えることは考えられないから、太盛の言う通り希望はあった。
日本は阪神大震災や東日本大震災でも復興の速度が速かった。
今回の被害は甚大であるが、いつかは復興すると太盛が頻繁に口にした。

戦争が終わったことへの安堵感。
そして破壊された本土に対する哀しみ。怒り。

マリンは、一度も足を踏み入れたことのない日本本土の
ことを思い、涙を流した。

「お父様。どうして北朝鮮は日本の人をたくさん殺したのですか?
 日本人のことをそんなに恨んでいたのですか?
 昔日本が朝鮮を植民地にしていたから、その恨みなのですか?」

学校や病院にもミサイルは降って来た。マリンと同い年の子供たちも
たくさん死体となって運び出されている映像を見た。

「戦争は、こういうものなんだよマリン。
  起こってしまったものは仕方ないんだ」

優しく言う父。太盛は涙を流す娘を心から哀れに思った。
マリンは父の腕の中で震え続けていた。

「私は北朝鮮のことを許せませんわ。
 日本人だけでなく韓国人やアメリカの軍人もたくさん殺して。
  あの国の人たちは血に飢えた殺人鬼の集まりですわ」

「ああ。そうだねマリン。君の言うことはもっともだ。
 その悪の北朝鮮は、もう滅びたんだよ」

「戦争が終わってもただで終わらせてはいけませんわ。
  今の北朝鮮の政府に賠償してもらうべきです。
  死んでいった罪のない人たちに償いをさせるべきですわ」

「ああ。そうだ。そうだね」

「あんな国。この世になければよかったのに」

朝鮮の北半分の地域は韓国が吸収することになった。
多くの世論の反発を受け、多額の赤字を背負いながらの朝鮮半島合併である。
国連が資金援助を申し出て韓国は快諾した。

マリンは戦争のショックが大きく、その日から家にいることが多くなった。
外仕事に精が出ないのも無理はないので、大人たちは何も言わなかった。

レナカリ姉妹は元気なもので、畑仕事にますます力を入れた。

戦争は五月の末に終わり、季節は六月になった。
島特有の蒸し暑さは双子の体力を消耗させる。

日中の仕事中に汗をかく量が増えた。
喉が渇くので水筒は欠かせない。

それでも日の出前はまだ涼しくて快適だった。
朝は鷹やカモメの鳴き声を聞いて目が覚める。

手間暇かけた野菜が順調に育つのが楽しみだった。
玉ねぎや大根の収穫も順調である。野菜を入れて
重くなったバケツが心地よかった。

レナがカリンに言う。

「今日も良い天気になりそうだねー」

「そーだねー。これ以上暑くなると困るけどねー」

「こんどさ、料理も覚えてみようよ。
  私らが作った野菜を料理してみたいじゃん」

「あっ、それ私も前から思ってたんだ。
  後藤とかユーリに教えてもらうか」

ユーリは後藤の調理の手伝いをよくしていたから、
料理の基礎はしっかりできている。家の仕事は
ユーリに聞くようにと父によく言われていた。

部屋や廊下の無駄のない掃除の仕方もユーリに教えてもらった。
ユーリは利口なので雑巾の掛け方、掃除機の使い方に
無駄がなかった。

自分が見てどう思うかではなく、人から見て綺麗だと
思うように掃除をしなさいというのが彼女の口癖だった。

朝の収穫のあとは屋敷の掃除の手伝い。
午後は天気の様子を見て畑に出る毎日。

テストの点数を気にしていた時期が懐かしかった。
雨の日は外の仕事がないので家で思い思いの時間を過ごした。

六月の第二週になり、梅雨が始まった。

「いただきます」

今日も家族そろっての朝ごはんである。
ジョウンとマリンはいない。

ジョウンはテントを張って森で暮らしている。

戦争が終わっても自らの身体を鍛えることに余念がなく、
たまに屋敷に帰っては飼った獣や釣った川魚を提供してくれる。

ジョウンの生活スタイルは屋敷に来た時からほとんど変わっていない。
家族にとって貴重なタンパク源を提供してくれるありがたい存在だった。

漁船は燃料の備蓄を考えて今は操業を停止している。
マリンはふさぎ込むことが多くなり、朝寝坊の日々が続いた。

朝から雨なのでレナとカリンは少し遅く起きた。

「今日も私たちのおかずの皿多くね?」

レナが言うと、カリンも首を縦に振った。
いぶかしげにエリカを見る。

「レナ達は成長期なのだからたくさん食べないとだめよ?」

「お母さまたちと量が違うのは、ちょっと……」

とカリンが控えめに言うが、太盛は遠慮することはないと笑った。

定期船が来なくなってしばらくたった。現状で本土の復興は
ほとんど進んでいない。戦争の被害は震災とは比較にならず、
インフラ設備が破壊されたために関東から関西への食糧が
十分に供給されず、一部地域で飢餓が発生していると報道があった。

自衛隊のヘリや輸送機が連日空を飛び、生活必需品を
戦争被災者らへ供給する毎日だった。

エリカの提案によって子供たち三人に優先的に
食料を提供することになった。
質素すぎる食事だと将来のトラウマになりかねないので、
できるだけ手間をかけた料理を出すようにした。

親たちはごはんとみそ汁と焼き魚だけ。

子供たちには牛肉、チーズ、アイスクリームなど
保存していた食材を惜しみなく出してあげた。
後藤自慢のイタリアンサラダも庭の野菜を使って
和風にアレンジし、朝食によく並んだ。

後藤サラダはボリューム満点で見ているだけで満足できる。
それだけでなく子供たちに気を使い、例のハンバーガーまで
昼食に出したこともある。残り少ない高級食材を使ったのだ。

「レナ達ばっかりじゃ悪いよぉ。パパたちも
 野菜炒め食べなよ。これ、豚肉も入ってるよ」

「子供たちがそんなこと気にするもんじゃない。
  レナ達はお腹いっぱい食べていいんだよ」

「太盛様の言う通りよ。出されたものはきちんと
 残さずに食べなさい」

「うん……」

食事のたびにこのような会話が繰り返されたものだった。
子供たちは空腹が我慢できないのでエリカに言われた通り
全部食べた。

本土で親兄弟をなくして生きる人たちを思い出すと
どれだけ食料が貴重か分かるものだ。今では姉妹にとって
農業は神聖なものになった。

双子が家の掃除を手伝ってくれるおかげでミウは外仕事の
頻度が増えた。彼女はほとんど森か山へ行く。
太盛やジョウンに付き添って仕事の補助をしていた。

六月の不安定な梅雨空のもと。ミウは太盛と森を歩いていた。
森で長くテント暮らしをしているジョウンの様子を見に来たのだ。

最終話 「戦後の孤島」

「ジョウン様。ここにいらしたのですか」

「おうミウか。こんなところまでどうしたんだ?
 今日は悪天候だから獣はいない。おとなしく家にいるといいぞ」

ジョウンは米国製の頑丈なテントを小川の近くに貼っている。
洗濯物を干すための竿(さお)がわりに、ロープが一直線にはられている。
支柱となっているのは細い枝を改良したものだ。

アウトドア用の大型テーブルにはコンパス、手書きの地図、懐中時計、
欧州製の小型ライト、チャッカマン、マッチ棒などが置かれている。
その横にはメーカー品の綺麗なたき火台がある。

「エリカ奥様がジョウン様のことを心配しておられましたよ。
 これから梅雨で雨が続きますから、たまには屋敷に
 戻られてはいかがですか?」

「ありがたい心配だが、私は外で過ごすほうが性に合うんでね。
 私は去年、冬の山籠もりも経験した。梅雨の時期なんてなんでもないさ」

くったくなく笑うジョウン。釣り上げた川魚たちがバケツに満載されている。

「おい太盛。この魚を屋敷へ持っていけ」

「いつもすまないな。君の食べる分は間に合っているのか?」

「なに。魚ならまだ釣れるし、その辺の獣を狩ることもできるからな」

太盛はバケツを受け取る。釣ったばかりの魚はバケツの中で
まだ動いていた。川魚特有のしつこい匂いも今では気にならない。
川の浅瀬にはザリガニもいて、煮たり焼いたりして食べることができる。
森の木々には食べられる実もある。

ジョウンはリクライニングチェアのうえで大きなあくびをした。

「太盛よぉ」

「なんだ?」

「マリンは元気か? 戦争が終わってからふさぎ込んでいると聞くが」

「六月に入ってから部屋で過ごす事が多くなったな。
  テレビで見た戦争の被害者たちのことが忘れられないみたいだ」

「そうかい。あの活発だった娘はどこ行っちまったんだろうね。
  あの子が風邪ひいたときのことを思い出したよ。
  食事はちゃんと食べてるのか?」

「食欲はあるみたいだな。出されたものは残さず食べてくれるよ。
  作ってくれる後藤に気を使ってるんだろう。後藤も冷凍保存していた
  肉と魚をマリンに出してあげてるんだ」

「はは。あの子のことだからお父様達より上等な食べ物は
 食べられませんわ、とか言うんだろうな。良い子だからな」

「ジョウンの言う通りさ。説得して食べさせてるけどね」

雨雲が接近してきた。優しいが湿った風が太盛達の頬をなでる。

「おまえたちはそろそろ戻りな。太盛もミウも元気そうでよかった。
 私はしばらくここで生活するから、また魚を取りに来るといい。
 何か変化があったらすぐ教えてくれよ?」

「かしこまりました。ジョウン様。
 何もお渡しできるものがなくてすみません」

「がはは。こんな戦後の非常事態にそんな気遣いは無用だよ。
  お前たちの元気な顔が見れただけで十分だ」

太盛はアウトドア用カートにバケツを入れてガラガラ音を立てながら歩く。
ミウも自然と隣に寄り添い、屋敷へ続く遊歩道を歩く。
いつ雨が降ってもいいようにミウが大きめの傘を持っていた。

「ミウ。一つ教えてくれ」

「なんでしょうか?」

「君は日本に来たことを……いや、この島に住んだことを
 後悔してないか?」

「うふふ。なぜ、そのようなことをお聞きになるのですか?」

「日本は戦争に巻き込まれたじゃないか。
  君は英語圏の国ならどこにでも住めるよ。
   ここで働かずに他の国へ移住する選択肢もあったはずだ」

「ここの暮らしも外国みたいなものじゃないですか。
 家族はほぼ全員英語が話せます」

太盛は、ミウが住民のことを家族と呼んでくれるのがうれしかった。

「英語を話すと故郷を思い出すかい?」

「はい。とっても。倉庫の曇り空も英国みたい。
  晴れた空なんて無効じゃめったに見れないです。
  この新緑の景色も、むこうの田園を思い出します。
   地味な景色で、本当に緑ばっかりなんですよ」

「僕もいつか行ってみたいな、イギリス。いや、イングランドに」

「その時はぜひご家族そろって行きたいですね」

その日は昼食のあと、午後から監視塔での監視をすることにした。
天気は小雨がたまに降る程度で安定しない。

太盛は目の良いミウに付き添う形で監視塔のらせん階段を
一段一段登り、頂上へ着く。


2人とも息が上がっている。
足が疲れたので椅子に座って一休み。
蒸し暑さのせいで汗が止まらない。

ミウがタオルで太盛の汗を拭いてあげた。

監視塔からの眺めはいつ見ても壮大である。

監視塔は全天候型のガラス張りだ。
太盛は備え付けの双眼鏡で海岸を見下ろす。

風がほとんど吹いてないので波は穏やか。
最近戦争があったとは思えない平和な海だった。

かつて連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を迎えた日本海である。
今回の戦争では北朝鮮のミサイルが海上を飛び、
日本へ深刻な被害を与えるに至った。

「核攻撃がないだけよかった……」

太盛は自分を慰めるためにつぶやいた。
そんなささいな言葉をミウが拾ってくれた。

「あちらも核で報復されるのが怖かったんでしょうね」

「全面核戦争なんてシャレにならないもんな」

「ここの景色は皮肉ですよね。向こう側に朝鮮半島が
 見えますから。あの国と日本は戦争していたんですね」

晴れならはっきり見える半島。曇り空の今日はうっすらと
見える。2人は敵意と憎しみをもって半島を眺めた。

「もう戦争の恐怖はないんだ。今日は悪天候だから
 夕方までここでのんびりしないか?」

「いいですよ」

屋敷の仕事は双子姉妹とエリカも手伝ってくれるので
ミウの手はほとんど必要としなかった。

この監視業務は、いつ本土からの船が来るか分からないので
非常に重要な業務だった。太盛達はホームラジオと
連絡用のトランシーバーだけ持ってきた。

ラジオは大きいスピーカーを積んでいる。
太盛がFM放送を流すと往年の洋楽ポップスが流れた。
今日の特集は80年代前半のヒップホップとソウルだ。

踊りだしたくなるほど明るい音楽が、
二人の憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれる。

太盛とミウは肩を並べて座っているが、エリカの目が
ないからといってキスはしなかった。

以前の怪しい関係から仲のいい友達の関係を保っている。

「海鳥がいないな。はるかに遠くを漁船の群れが
 通過していくのみだ。はたしてどこの国の漁船なのやら」

太盛が独り言を言いながら備え付けの大型双眼鏡を
真横に動かしていく。ぐるりと島の周囲を見渡しても
変わったものは見られなかった。

監視は15分か20分ごとに双眼鏡や望遠鏡で確認する。

太盛は念のためもう一度見てみようと思い、
双眼鏡へ目を近づける

「おぉ……」

「何か見えましたか太盛様?」

「ついに見えたぞ。あれは定期船じゃないのか?」

漁船とは明らかに違う。太盛達が見慣れた荷物を
満載してそうな綺麗な船が見えた。

距離は果てしなく遠い。
高倍率の望遠鏡で見ると、船の詳細は分からないが、
漁船とは違うのが分かった。船は間違いなくこの島へ
進路を取っていた。

「エリカ。聞こえるか?」

トランシーバーで館のエリカに連絡する。

船への出迎えは太盛とミウ、それとマリンもついてきた。
マリンは部屋で音楽を聴いていたが、定期船らしいもの
見るとの報告を受けて嬉々として飛び出してきた。

戦争が始まってから島以外の人と関わるのは初めてだ。

太盛達は小型トラックに乗り、海岸沿いを走った。
荷揚げ場へ着くと、さっそく話を聞きつけたジョウンが
先にいた。ジョウンは太盛から双眼鏡を受け取ると、
何度も海を眺めたのだった。

「太盛、気を付けろよ」 

「どうした?」

「あの船。少し怪しくないか?」

「なぜだ? あのデザインは本土からくる船じゃないか。
  ほら。あの色とかさ」

「確かに外見はそうだが、人が乗っている気配がないぞ」

「なに? てことは漂流してるってことか?」

「漂流とは少し違う気がするが、とにかく油断するな。
 全員銃を持っておけ」

ジョウンの油断のなさに全員が緊張した。
太盛達は小型トラックの荷台に積んでいた銃を
それぞれ装備した。全員全て自動小銃である。


「船の上に人が乗っていますわ!!」

マリンは双眼鏡から目を離して言った。
太盛達が確認すると、無人と思われた船の甲板に
中肉中背の男が立っている。

こちらを確認すると手を振って来たので、太盛も振りかえした。

やがて彼の姿が肉眼で見えるようになると、恐るべきことが
明らかになった。

「うーーっす。ひさしぶりっすねー」

その男は太盛達のよく知った男だった。
スーパーマリオに出てくるルイージの帽子を被った男だ。
日本語に堪能な、ロシア出身の北朝鮮のスパイ。

朝鮮国籍のルイージに違いなかった。

「待て!! まだ撃つな!!」

射殺しようとしたマリンをジョウンが制した。
ジョウンの言葉がなければミウも銃のトリガーを
引いてしまうところだった。

「もう戦争は終わってるんだぞ。
 奴の態度を見ろ。敵意はないようだ」

ルイージは分かりやすいように両手を上げている。
船が海岸沿いに近づくと声を張り上げた。

「俺たちは太盛さんたちに降伏するっす!!」

激しく当惑した太盛達だが、ジョウンの指示で
船を港に横付けすることを許可した。

ルイージは右の太ももと胴体に包帯を巻いていた。
船の内部から他の仲間たちも出てくる。

仲間たちは朝鮮語を話していた。屈強な体格をしているが、
怪我をしていて満身創痍だった。顔に包帯を巻いている者。
足が折れたのか、自分の力では歩けないものもいる。

「あのー、サーセンすけど医療品とかないっすかね?
 俺の仲間、傷が化膿してやばいことになってるんで」

「あらそうですか。ならいっそ、腐った足なんて
 切り落としてしまえばいいんですわ」

マリンが無機質な声で言い、ルイージへ銃を向ける。

「ちょ……降伏するって言ってるのに撃つつもりっすか?
  うちの国は日本と停戦してるはずっすけど」

「北朝鮮がどれだけ多くの日本人を殺したか
  知ってて言っているんですか?
  あなたにその報いを受けてもらうわ」

「あのーマリンさん? 非戦争下で俺らをやっちまったら
  殺人罪で罪に問われること分かってて言ってますか?」

「そんなの関係ないわ!! お前たちも
  たくさん日本人を殺したんでしょう!?」

「あ、俺たちっすか? 俺たちはちょっと佐世保に
 侵入してイタズラしただけっすよ」

「な……」

軽い口調で衝撃的な事実を告げるのはルイージの癖だ。
マリン達の表情が引きつった。

ニュースで戦争初日に佐世保軍港で北朝鮮の特殊部隊が
暴れまわったという話は聞いた。

目の前の男が特殊部隊の一員だったと知らされて
驚愕するしかなかった。

太盛がルイージに聞く。

「貴様は事件のあと外交ルートで北朝鮮へ返還された後、
  今度は長崎へ潜入してたってことなのか?」

「そうっすね。変換された後、本国で制裁されて
 指の爪と歯が全部折られたっすけど、そのあとは元気に
 職場復帰っす。うちの国って任務が果たせない人は
 即制裁されるんでこっちも必死っすよ」

「まてまて。長崎に潜入した特殊部隊は全部22人いたという。
  そいつらは自衛隊の反撃で全員死んだと言われたが……」

「俺らはその中の生き残りっすよ。
 佐世保脱出後は日本海をさまよってました。
 もちろん傷だらけでご覧のありさまっすけど。
 ちなみに銃弾もほぼ打ち尽くしたし、そもそも
 持っていた銃も日本に置いてきちまったんで丸腰同然っす」

「おまえのことだ。どうせ何かを隠し持っていて、
 こちらが油断すれば爆弾でも爆破させるつもりだろう?
 この島に来たのはそれが目的なんだ」

「ちげーっすよ。信じてもらえないかもしれないっすけど、
 日本本土で捕虜になると拷問されるって俺らの国では
 教わってるんで、太盛さんたちのとこで捕虜になろうと
 思ったんすよ」

「……虫のいい話だな。俺たちがおまえらをただで帰すと思うのか?」

「サセンすけど、俺ら傷口がシャレにならないほど
 いてえっす。包帯も交換してねえから血と膿がやべえっす。
 真水、ガーゼ、消毒液とか持ってきてもらっていいっすか?
 太盛さんはキリスト教徒だから俺らを見捨てたりしないっすよね?」

あつかましく手当てを受けるのが当然だと思っているルイージに
太盛は腹が立った。それはマリンとミウも同じだった。
ミウはかつてルイージに襲われたことを思い出し、
目が血走り、息が荒くなっている。

マリンは非業の死を告げた本土の人たちの恨みを
今ここで晴らしたかった。銃を握る手に力が入る。

冷静なのはジョウンだけだった。
ジョウンが彼らを手で制す。

「みんな落ち着け。無抵抗の捕虜を殺して
 得るものがあるのか? このクズどもを屋敷へ連れていくぞ。
 下手なことをされないように十分に警戒しよう」

落ち着きのある声に説得力があった。
太盛達は素直に従い、捕虜たちを館まで歩かせた。

ルイージの他に三人の捕虜がいた。足が不自由な捕虜は
他の捕虜の肩を借りながら歩く。傷口が痛むのか、
ルイージ以外の捕虜は歩くたびに苦しそうな声を発している。

ルイージは重傷を負っているのにヘラヘラした態度を
崩そうとしない。

捕虜の列を囲うように太盛達が銃を構えて歩く。
少しでも抵抗しようとしたら即銃殺するもつもりだった。

館まで着くと、エリカの指示で捕虜全員に手錠がされて
地下へ閉じ込めた。地下牢の鉄格子越しに
エリカ、太盛、ジョウン、マリン、ユーリ、ミウがいる。
マリンを含め、全員が銃を装備していた。

エリカが直接尋問する。

「日本語で質問するから、日本語で答えなさい。
 まずは所属部隊を述べなさい」

「朝鮮人民軍偵察局っす。階級は上尉っすね」

「それは特殊部隊ということなのね?」

「うっす」

「あなたは重傷を負っているけど、
  まるで悲壮感を感じないわ。なぜなの?」

「もともとこういう性格になっちゃったんすよねー。
  死を恐れない人間に怖いものはねえんす。
  平和な暮らしをしてるエリカさんたちには
  分からねえと思いますよ」

エリカが目を細めて睨むが、ルイージはまるで動じない。

「それより俺ら、もう帰る場所がなくて困ってるんすよね。
  日本に行っても朝鮮半島に行っても地獄。
  うちの国が戦争で負けちゃいましたからね」

「この島にいても同じことだと思うわよ?
  家族たちはあんたを殺したいほど恨んでいるわ」

「あっ、やっぱ俺らって殺される流れなんすか?
  なんかそういう殺伐とした展開って
   あんまり好きじゃねえっす」

ルイージの緊張感のない態度に激高したのはユーリだった。

「いつまで減らず口を!!」

ルイージの足元にマシンガンを連射した。
短い連射音が木霊し、エリカ達を驚愕させた。

エリカは横目でユーリを見ながら言う。

「よしなさい。まだ話は終わってないでしょ」

「はっ。すみません奥様……」

「気持ちは分かるけどね。
 本当は私もすぐに銃殺したいくらいよ」

ルイージはいつこの島から出られるか聞いた。
エリカは、それは一緒ないと答えた。

日本にも朝鮮にも米国にも彼らを引き渡さないと言った。
ルイージが仲間にそれを朝鮮語で伝えると、牢屋の中で
騒ぎが起き始めた。仲間たちは口々にエリカたちをののしり始めた。

虫のいい話である。島に逃げたからと言って安全が保障される
ことはなにもない。そもそもルイージたちを生かすとして、
自給自足生活の貴重な食料を彼らに分け与えることになる。

エリカはカフカース人特有の冷徹な顔で言う。

「手当てする必要もない。かといってこいつらを銃殺して
 私たちが殺人の罪を背負う必要もない。
 このまま牢屋に放置しておきましょう」

「しかしエリカ……。長崎に引き渡さなくていいのか?」

「本土は復興が全然進んでいないわ。
 いつ定期船がやってくるかもわからない。
 それにこいつらを船に乗せてこちらから運ぶのは
 危険すぎる。閉じ込めておくのが一番だと思うけど?」

妻があまりに真剣に言うので太盛はうなづいた。

「閉じ込めるのは分かった。だが監視をつけないとね。
 こいつらはプロの軍人だ。それも特殊部隊。
 いつ脱走されるかわかったもんじゃない」

「そうね。負傷してるとはいえ、ルイージのことだから
 何をしでかすか分からない。なら……」

ルイージが目を見開き、口を開く前にエリカが発砲する。

「ぐ……」

ルイージの無傷だった左の太ももを銃弾が貫通した。
激痛でのたうちまわるルイージ。大量出血で
牢屋の床がどす黒い色に染まっていく。

「あんたたちもね」

エリカが絶対零度の視線で言うと、ルイージの仲間たちも
抵抗する間もなく次々に撃たれていく。
全員が腕や足に一発ずつ食らい、床に倒れた。

軍人たちのうめき声、血と汗の匂い、牢屋は地獄絵図になった。

殺してはいないとはいえ、致命傷だ。
重症者の彼らがさらに銃弾を食らったのだ。

放置しておけば確実に死ぬ。

エリカは感情のこもらぬ瞳で言った。

「あんたたちは自分から墓場に来ただけね」

「ふ……ふふ……。エリカさんたちに殺されるんだったら、
 まあいいっすよ。日本の軍人に拷問されるよりましっす」

「まだそんな軽口が叩けるなんて尊敬するわ。
 あんたさ、初めからここで死ぬつもりだったんでしょう?」

「そうでも……ねえっすよ? またスキをついてエリカさんたち
 から武器を奪おうとか考えてましたから……でも……
 そこまでうまくはいかなかったっすね……。
 俺たちは以前知り合ってしまいましたから……」

「もしあんたが赤の他人だったら、助けた可能性もあったわね。
 自業自得よ。あんたはここで死になさい」

エリカは自分と太盛以外の人たちに地下から出るように言った。
捕虜の監視はエリカと太盛だけが担当した。

捕虜たちはその日の夜を超えられず、
出血多量が原因で全員死んだ。

エリカは太盛と一緒に彼らの死ぬ様子を眺めた。

エリカは無抵抗の捕虜を撃ったことの罪の意識で
過呼吸になり、太盛にささえられた。

ルイージは最後に太盛の目を見てこう言い残した。

「俺は太盛さんたちのファンっすから、ここが死に場に
 なったことは後悔してねえっす……」

敵である自分らを本当に手当てするようなお人よしだったら
救いようがなかったと、得意げに言って絶命した。

最後まで態度のでかい男だった。

彼らの墓は森の奥に掘った。
土葬したのはせめてもの情けだった。

その後、敵兵の乗った船が島を訪れることは二度となかった。
米朝間で正式な講和条約が結ばれて極東アジアが平和になったのだ。
北朝鮮という国家はこの世から消滅した。

島の住民はもう北朝鮮の脅威におびえる必要はなくなった。

党首は太盛家族たちの本土への帰還を許したが、
太盛達は住み慣れた島を離れるつもりはなかった。

彼らにとってここが唯一の住む場所だった。
党首はそれを許した。

党首は10年後にガンで死に、残された莫大な遺産は
太盛達にたくされた。太盛家族があと200年生きても
使い切れないほどの金額だった。

太盛達を戦争から救おうとした父の思い、そして遺産を
引継ぎ、家族たちは島で幸せに暮らしたのだった。

ある日の昼下がり、エリカが二階のテラスでお茶を
飲みながら、太盛にこう聞いた。

「太盛様。ここの暮らしは退屈ですか?」

「ぜんぜん。だって僕は、大好きな家族たちに
  囲まれているんだから」

                  終わり

孤島生活

孤島生活

大学を卒業したばかりの主人公、太盛(せまる)。 富豪の父の命令で、島(長崎県の沖合)で暮らすことになった。 島は父が買い取ったもので、館には使用人達がいる。 婚約者のエリカとの生活は波乱に満ちたものだった。 使用人の若い女性たちに次々に手を出す太盛。 浮気性の治らない太盛を地下へ監禁する鬼のエリカ。 可愛い子達が生まれてからも夫婦の冷え切った関係に 変化はなかった。だが戦争がすべてを変えた。 米国と北朝鮮が開戦したのだ。 日本海で300を超える弾道ミサイルが飛び交う。 西日本一帯がミサイル攻撃によって壊滅するなか、 島に住む家族と使用人たちは生き残りをかけて 究極のサバイバル生活を送るのだった。 これは全く新しいジャンルの小説。 すなわち……「弾道ミサイル系ラブコメ」である!! (昼ドラのようなシーンを多数含む)

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-07

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  1. 序章 前半
  2. 序章 後半
  3. 「レナとカリン」
  4. 「メイドのユーリ」 A
  5. 「メイドのユーリ」B
  6. 「メイドのユーリ」C
  7. 「スーパーマリンちゃん」A
  8. 「スーパーマリンちゃん」B
  9. 「ユーリが消えた」A
  10. 「ユーリが消えた」B
  11. 「ユーリが消えた」 C
  12. 「ルイージ襲撃事件のあと」A
  13. 「ルイージ襲撃事件のあと」B
  14. 「ルイージ襲撃事件のあと」C
  15. 「マリンの誕生日」A
  16. 「マリンの誕生日」B
  17. 「マリンの誕生日」C
  18. 「エリカの嫉妬。太盛の過ち」(修羅場)
  19. 「関係改善」A
  20. 「関係改善」B
  21. 「関係改善」C
  22. 「すべてが終わる時」
  23. 最終話 「戦後の孤島」