滝をのぼる
前回、私の周りには沢山の人間がいて、サポートしてくれた。報道もいた。前日までの雨が上がり、テレビにはもってこいの日和となった。ただ、滝を登るにはいささかハードな状況となっていた。
普段の三倍の量の水が、五倍の速さで落ちているように見えた。しかし、私には自信があった。
かつては、鮮やかなオレンジだった傷だらけのヘッドギアに金の巻き毛を納め、アーミーブーツの紐を結び、モスグリーンのタンクトップと同系色のキュロットスカートとの間にある、命よりも重要なザイルの固定金具の点検をしながら、私はインタビューに応えたのだ。
―なぜ、こんな危険なことをするのですか?
―何故? 私には、そうするよりほかにないからよ。
滝つぼに身を沈め、滝の落下点に入る。
何万本もの鉄柱が落ちてくるかのようだ。背と顎を思い切り反らせて呼吸を確保する。全ての圧力が私のバストにかかる。次の支点をまさぐる瞬間の三点支持の状態は、登るためには不可欠だったが、恐ろしい水量に持ちこたえるためには心もとない。歯を食いしばりながら身体をせり上げる。
人が二足歩行する状態もまた、おそろしく不安定なのではなかったか。その恐怖がなければ、人は一歩たりとも歩を進めることはできなかったのではなかったか。そんなことを頭の中でくり返しつぶやいていた。
川原には大勢の人間がいた。しかし、私を捉えているのはテレビカメラだけだ。しかし、私は誰かに見せるために滝を登るのではない。
既に、腕と足には感覚が無く、焦点は定まらず、腹がしくしくと痛み始めていた。
その後のことは覚えていない。意識が戻り、自分がベッドに横たわっていると知るまで、私は身体中を鉄柱に貫かれながら、フワフワと宙を舞っていた。
人生で最初の、そして最大の屈辱だった。この後、私を顧みるものは誰一人いなくなってしまった。
それから三年。今回が私の最後の挑戦となる。
あの時と同じ気象条件が揃う日を私は待ち望んでいた。償いはそのように行われなければならないのだから。
あの頃よりも二周りは太くなった腕、はちきれそうなタンクトップ、そして、新素材のザイル。けれど、私の頭には、あのかつてオレンジだったヘッドギアが乗っている。髪は切った。私が巻き毛だったことを記憶している人間は、もう誰もいない。
轟々という音を間近に聞いた。崖を曲がってすぐ、道路が抉られたように陥没した場所、そこが滝つぼだ。私の全てを奪い、私の未来を固定した場所。今日も、三年前のとおり、垂直に落下する数万本の鉄柱が岩を抉っている。
見上げると、その隙間から、一輪の花が羽毛のような可憐さで咲いていた。ゆらりゆらりと花弁を揺らせて、紫のような桃色のような小さなな四枚の花弁が、私を嘲笑している。
あの花を手折るのだ。
ザイルを固定する。花が私を見下ろしている。激励と屈辱。滝つぼは零下の水温だ。胸まで沈んで、最初の腕の位置を慎重に定める。ヘッドギアの懐中電灯が一直線に花を照らす。
空がにわかに掻き曇る。
私はあの花を折りこの巻き毛に飾るのだ。
周辺に幾筋もの流れが現れた。遥か上流に降り注いだ雨が、早くもここに到達し始めたのだ。
筋肉が隆起する。全てはこの挑戦のため、この贖罪のため。
私はあの花を掴むのだ。
すさまじい水圧が肩、胸、頭の骨を打つ。ヘッドギアが砕けて吹き飛んだ。僅かずつ、私は体をねじ上げていく。
見え隠れする花に向かって、私自身の誇りをかけた闘いを、私は挑みつづけなければならないのだから。(了)
滝をのぼる