廻り廻る、季節の中で。
第1話 ある冬の夜の記憶
春はまだ来ないの? と山々がざわめいていました。
冬はいつまで続くの? と曇天の空から降りてくる雪片がはらはらと問いかけていました。
いつになく長い冬でした。
日は既に落ち、夜空を覆う雪雲が薄ぼんやりとした明かりを発しています。
空気は刺すように冷たく、降り積もる雪は街からすべての音を消し去っていくかのようでした。
そんな静かな街の片隅に、ちいさな家がありました。
ちょうど晩ごはんが終わったところでしょうか。テーブルの上の食器を片付けているお母さん猫と、琥珀のような色をしたお酒を飲んでいるお父さん猫がいます。
空になった食器を集めながら、お母さんが「今年の冬はずいぶん長いわねぇ」となにげなくこぼします。
それを受けて、お父さんは不思議そうに「春の女王さまはまだこないのかな」と返します。
ふたりとも、どこか浮かない顔をしていました。
ベッドに入っていた仔猫のチカは、そんな両親の不安そうな声に思わず顔を向けました。
いつも元気でハツラツとしているふたりにしては深刻そうな話をしていたので、ちょっと気になったのです。
「ほらチカ。ご本の続き、読もう?」
そんなチカを見て、となりで横になっているお姉さんのリッカが優しく語りかけました。
まだ幼いチカが寝つくまで、絵本を読み聞かせてあげるのはお姉さんの役割なのです。
リッカの声は穏やかで、両親の不安がうつってしまったチカの気持ちをやわらかくほぐしてくれました。
なにも心配することなんてないんだよ、とでも言うかように。
ベッドの側の暖炉で、薪がパチパチと音を立てていました。
チカはリッカお姉ちゃんと一枚の毛布にくるまりながら、枕元に広げた絵本に目を向けました。もう何度も何度も読み返していて、あちこちがぼろぼろになっています。
けれどそれでも飽きないくらい、お気に入りの一冊でした。
「……けれどある日、旅人はようやく道を間違っていることに気がつきました」
両親のささやきを打ち消すように、リッカの朗読する優しい声がチカの心を穏やかにしてくれます。
暖かなその語りを聴いていると、チカのまぶたはゆっくりと重くなっていきました。
しかしその視界の端に、ゆらゆらと揺れる気になるものが映ります。
チカは、思わずそれをはしっとつかんでしまいました。
「わっ」
びっくりしたリッカがあわてて『しっぽ』を引っ込めると、少しむくれながらチカに言います。
「こら、チカっ。勝手に人のしっぽさわっちゃダメだって言ってるでしょ?」
「ごめんなさーい」
リッカはチカの猫耳をゆびさきでピンとはじきます。
けれど怒られたはずのチカはどことなく嬉しそうでした。
第2話 停滞する季節
あるところに、動物の耳としっぽをもった人々が住んでいる国がありました。
猫や犬、うさぎやねずみ。中には牛や馬の耳としっぽをもった人までいます。
子どもからお年寄りまで、みんなみんな同じでした。
そこはとても自然豊かな国。季節の移ろいは、人々にたくさんの恵みを与えてくれました。
けれど人々は知っています。その四季の廻りは季節の女王と呼ばれるえらい人達が、魔法の力で与えてくれているものなのです。
季節の女王さまは、それぞれが司る季節が来ると『四季廻りの塔』という塔に住むことになっています。
春なら春の、夏なら夏の女王さまがその塔に住むことでこの国に四季の廻りを与えてくれているのです。
国の人達はみんな女王さまのことが大好きでした。
自分達が幸せに暮らせること。四季の変化を感じながら、毎日を送れること。
かけがえのない恵みを与えてくれることに、感謝の気持ちを忘れたことはありませんでした。
しかし、その年の冬は少し様子が違いました。
霜が降り雪が積もり。草木も地面の下で静かに雪解けを待ち望んでいるのに、いつまで経っても春の気配が訪れないのです。
人々は不思議に思いました。
春の女王さまはいつ来るんだろう。
冬の女王さまは、一体何をしているんだろう。
そんなある日、王さまから国民に向けてひとつのお触れが出されました。
なんでも『四季廻りの塔』にいる冬の女王が、どういうわけか塔から出てこないというのです。
しかも次に塔に入るはずの春の女王が行方不明になっていて、そのために季節の廻りに遅れが出ているとのことでした。
王宮内であらゆる手は尽くしたものの、春の女王の消息はわからないまま。
冬の女王はどんな説得にも耳を貸さず、塔の一番てっぺんの部屋に閉じこもったままだというのです。
できるだけ国民を不安にさせまいと黙っていましたがある王宮だけではどうにもならず、とうとう広く国民にも助けを求めることにしたとのことでした。
もし、春の女王をみつけて冬の女王と交代させた者には好きな褒美を与えよう。
しかし冬が再び訪れることを妨げてはならない。四季の廻りを妨げることはしてはいけない。
なんとも難しく、しかし国の誰もが黙ってはいられないお触れでした。
* * *
そんなお触れが出されてから、国中の人達はその話で持ちきりになりました。
塔に毎日のようにやってきては冬の女王さまに出てくるように頼む人。
女王さまを力ずくで塔から出そうとする人。
行方不明の春の女王をあてどなく探そうとする人。
いっそのこと春を飛ばして夏の女王さまを迎えたらどうか、なんて提案する人。
数多くの人がこの問題に挑戦したものの、何の成果も上げられませんでした。
そうしている間も長い冬は明けることなく、冷たい雪は人々の心にもしんしんと降り積もります。
やがて人々の気持ちは、冬の女王への怒りへと変わっていきました。
冬の女王さまは、どうして塔から出て来ない。
一体何を考えてこんなことをしているんだ。
どんな理由があったとしても、春の訪れを妨げるなんてひどすぎる。
冬の女王に対する人々の気持ちは、どんどんささくれだったものになっていきました。
しかし冬の女王は『ミミナシ』でもあったのです。
この国ではめずらしい動物の耳しっぽをもたない不思議な人のことを、人々はそう呼んでいました。
そしてそういった『ミミナシ』の人達は、決まって強い魔法の力を持っているのです。
季節を廻らせるなんてすごい力が使えるのも、冬の女王さまが『ミミナシ』だからです。
そしてこの国の住人では、たったひとりの『ミミナシ』にすら歯が立ちません。
今までなら国民も女王さまも、信頼という気持ちで繋がっていたので、たとえ女王さまが『ミミナシ』だとしても気にする人はいませんでした。
けれどいつまで経っても冬の女王が塔から出てこないことで、国中の人々の心に『ミミナシ』そのものへの不信感が芽生え始めていたのです。
動かない状況に、国中のだれもが不安と不満を抱えていました。
けれど誰一人としてそれを直接言葉に出せる者はおらず、ただ時だけが流れていったのです。
しかしそんなことは、子ども達にはなんの関わり合いもありませんでした。
身体の芯まで凍てつくような寒さの続く冬でも、雪が積もれば子ども達は雪遊びに夢中でした。
池には分厚い氷が張ってつるつる滑って楽しいし、みんなが集まればあっという間にスケートリンクに様変わりします。
冬にしかできない遊びが子ども達の退屈を紛らわせてくれていました。
でも、それも本格的に食べるものがなくなるまでのお話。
大人達は冬の寒さにも負けずにはしゃぐ子ども達を家の中に閉じ込めて、できるだけ外に出ないようにしてしまいました。
食べ盛りの子ども達が遊び疲れても、出してあげるごはんすらなくなってきていたのです。
そうして街中ではしゃぐ子ども達の声も途絶え、春の来ない国はしんしんと降り積もる雪に全ての音が覆い隠されるかのように、静かになってしまいました。
王宮のお触れを見て、なんとかして冬の女王を塔から出そうとしていた大人達も為すすべもなく、いつしか誰もがただ祈るように春の到来を待ち続けるだけになってしまいました。
ゆっくりとした停滞。
誰も口にしないままの、行き止まり。
どこまでも静かな衰退が訪れようとしていました。
第3話 隠れていた春
そんな中、家の中で退屈な日々を過ごしていたチカは家族の目を盗み、こっそりと家の外へと出てしまいました。
いつまでも来ない春に、お父さんもお母さんもすっかり元気をなくしていました。
そんなふたりを気遣うようにリッカだけが明るく振る舞っていましたが、それはチカから見ても無理をしているのが一目でわかったのです。
みんなみんな不安でした。それはもちろん、チカの家族だって同じです。
チカは気落ちした両親の姿も、気丈に振る舞うお姉ちゃんの姿も見るのが嫌になっていました。
幼いチカにも、みんながこんなに暗い顔をしている理由はちゃんとわかっています。
冬の女王さまが塔から出てこなくて、いつまで経っても春が来ないからです。
多くの大人達がこの問題をなんとかしようとしても、どうすることもできなかったことはチカも知っています。
けれどこれ以上黙って春を待っているのも、チカにはもう耐えられなくなったのです。
そしてそのためには、なにをするにも冬の女王さまに会いに行かないといけないことはわかっていました。
チカはいても立ってもいられず、冷たい雪の舞う家の外へと抜け出しました。
どうしたい、という具体的な想いがあったわけではありません。
ただこれ以上、お父さんやお母さん、それにお姉ちゃんの暗い顔を見ているのが嫌だったのです。
外は一面の銀世界。
空からは牡丹雪があふれるように降り続けていて、雪はさらに積もることになりそうです。
あまりの寒さに、チカのしっぽがぶわっと膨らんでしまいました。
しかしそんな中、チカは意を決して傘も差さずに雪道へと踏み出します。
目指すは冬の女王のいる『季節廻りの塔』です。
* * *
やがて街の大通りにまで辿り着きましたが、人々は家にこもっているためか誰ひとり姿は見えません。
いつもだったら賑わっているお店もみんな閉まっています。
あしあとひとつ付いていない雪原を見て少し嬉しくなったチカでしたが、やはりひとりで遊んでいても面白くありません。
思うがままにあしあとをつけると、すぐに飽きてしまいました。
みんなで遊んでいた分厚い氷の張った池まで来てみますが、やはり誰もいません。
ひとりで氷をつるつる滑ってみても、ちっとも楽しくありませんでした。
「わ、わわっ」
それどころか、氷で滑って尻餅をついてしまいます。
しかしそんなチカを見て笑う意地悪な男の子もいなければ、心配して駆け寄ってくれる友達もいないのです。
少し前まではみんなの楽しい遊び場だったこの池も、チカだけではちっとも楽しくありませんでした。
――ひとりぼっちって、寂しいな。
突然襲ってきた寂しさに立ち上がることもできず、チカは涙ぐんでしまいます。
そこに一本の手がすっと差し伸べられました。
「だいじょうぶ?」
顔を上げると、深緑色のフードを目深に被った女の人が腰をかがめてチカを見ていました。
歳はリッカお姉ちゃんよりさらに上でしょうか。フードで顔をほとんど隠しているので表情まではよくわかりません。
しかしチカは、その人からどこか暖かな印象を受けました。
「あ、ありがとう……」
差し出された手を取ってゆっくりと立ち上がると、チカは見知らぬお姉さんのことをまじまじと見つめます。
「こんな大雪の日に、キミみたいなちいさな子がひとりでお外に出ちゃ危ないよ」
そう言うと、お姉さんは持っていた傘をチカに差し出します。
「もうおうちまで帰った方がいいよ。なんだったら、あたしがあなたのおうちまで送ってあげてもいいからさ」
もう帰りなさい、と言われてチカの決心がぐらりと揺らぎます。
でも次に思い浮かぶのは、不安そうな家族の表情でした。
「帰らない……」
「どうして?」
「わたし、冬の女王さまに会いに行きたいの。早く春にしてくださいって、頼みに行くの」
その言葉を受けて、お姉さんは少し驚いたようでした。
「もしかして、キミも冬の女王を塔から出してご褒美をもらおうと思ってるの?」
「違うもん!」
お姉さんの言葉に、チカは少し感情的になって返します。
「春が来ないと、みんな悲しいままだから。わたし、もうお父さんやお母さんが暗い顔をしてるのも、お姉ちゃんが無理してるのを見るのも、嫌なのっ」
チカの口からは、知らず知らずのうちに言葉が溢れてきました。
それは幼いながらも大切な家族のことを想う、純真な気持ちでした。
それを受けて、お姉さんは何を思ったのでしょう。
何も言わないものの、口元が優しく緩みます。
「つまり、キミも四季廻りの塔に行くところなんだね」
「え?」
「実はあたしもなんだ。どうしても会わないといけない人がいてね」
塔にいる会わないといけない人。
そんな人、ひとりしか思い浮かびませんでした。
「お姉さんも、冬の女王さまに会いに行こうとしてたの?」
「まあ、そうだね」
そういうとお姉さんは、フードを少しだけあげて顔を見せました。
綺麗だけどどこか子供っぽさの残る、あどけない表情を浮かべていました。
「あたしはヒナタっていうの。四季廻りの塔に行きたいんだけど、この雪で道に迷って困ってたんだ。もし場所がわかるようなら案内をお願いしてもいいかな?」
それを受けて、チカは少し困惑してしまいます。
「お姉さんも、冬の女王さまを塔から出そうとしてるの?」
「うーん」
そう訊くと、ヒナタと名乗ったお姉さんは少し考え込んでしまいます。
「そういうわけじゃないんだ。でも冬の女王に用事があるんだよ」
「どんなご用事?」
「それはちょっと言えないの。ただ、とっても大切な用事なんだ」
ぴょこんと猫耳を立てて、チカは考えます。
確かに悪い人には見えないし、冬の女王さまにひどいことをするようなことはないでしょう。
でもチカは、今までご褒美目当てで冬の女王さまに乱暴なことをしようとする人の話を何度も耳にしたことがありました。
チカは早く冬を終わらせて欲しいとは思っていたものの、冬の女王さまに会ってどうするかまでは考えていませんでした。
しかし女王さまを傷つけるようなことだけは、何があってもしたくはなかったのです。
そんなチカの様子を見て、ヒナタはごまかすように笑いました。
「それじゃ、ひとつだけ教えてあげる」
被ったフードを捲りながら、ヒナタは頭を外気にさらします。
その下から黄金色の髪が風に舞い、はらはらとたなびきました。
「じつはあたし、春の女王なんだ」
そう言ったヒナタの頭には、動物の耳は付いていませんでした。
それは冬の女王と同じ、強い魔法の力を持った『ミミナシ』の証でもあったのです。
第4話 ミミナシとミミツキ
大雪の中、ふたつの影が塔のそばまで近づいてきていました。
ひとりは猫の耳しっぽをもった、まだ幼い少女。
もうひとりは深緑色のフードを被った、背の高い女性。
ふたりはひとつの傘に入り、雪から身を守るように身を縮めて歩いてきます。
その後ろにはふたり分のあしあとが点々とついているものの、降りしきる雪でそれはすぐに隠されてしまいました。
「着いた」
やがて塔の入口に辿り着くと、背の高い女性が正門を力強くノックします。
しかし中からは誰の返事もありませんでした。
「……こりゃ見張りの兵士さんも逃げちゃったかもしれないね」
何の反応も返ってこない扉に、ヒナタは思わず苦笑いを浮かべました。
大切な場所のはずの四季廻りの塔も、この長い冬の間に人がほとんど訪れることのない場所になっていたのです。
「チカ、だいじょうぶ?」
そう言って、ヒナタは隣を健気に歩いてきたちいさな少女を気遣います。
ヒナタはチカに何度も「歩くのが大変だろうからおんぶしようか」と提案しましたが、チカは言うことを聞きませんでした。
そしてここまで頑張って、自分の足で歩いてきたのです。
「……さむい」
ただ、チカの体力はもう限界に近づいていました。
猫耳はへたっとしてしまい、しっぽもだらんとしていて見るからに元気がありません。
どんなに強い気力があっても、この大雪の中を歩くのは大人でも大変なことなのです。
それがわかっていてもヒナタは何も言わず、チカのその気持ちを汲み取ることを選びました。
しかしそれも、これ以上は無理だろうと判断せざるを得ないようです。
「よくがんばったね、チカ」
そういうと、ヒナタは立っているのもやっとなチカを無理やりおぶさります。
チカはそれに抗議の声をあげたものの、さすがに限界なのかすぐに大人しくなりした。
「ここまで来られただけでも大したものだよ。チカは胸を張っていい」
そういうとヒナタは正門をぐるりと周り、塔の裏口を目指します。
そこにはちいさな扉がひとつ。
ヒナタは持っていた鍵を鍵穴に差し込み、がちゃりと開錠しました。
「関係者専用の裏口、だよ」
言い訳するように、背中のチカにそう告げるヒナタ。
「……ヒナタさんは」
本当に春の女王なんだね、と続けようとしたところでチカの体力は底をつきました。
* * *
次にチカが気がつくと、目の前には黄金色の草原が広がっていました。
キラキラと輝く草葉が一面に広がっています。
どこか暖かくて、なんだか懐かしい匂いがしました。
もっとよく見ようと顔を上げると、チカの視界は一転します。
草原は消えてなくなり、あたりは石造りの壁で覆われた場所に変わりました。
空気は冷え冷えとしていて、少しカビくさくてじめっとしています。
チカは思わず、さっきまでの黄金色の草原はどこに行ったんだろうときょろきょろしてしまいました。
「あ、チカ起きた?」
目が覚めたチカに気づいたのか、黄金色の世界が答えます。
そこでようやくチカはヒナタの背中におんぶしてもらっていることを思い出しました。
草原だと思っていたのは、どうやらヒナタの金色の髪の毛だったみたいです。
「そのまま寝てても大丈夫だよ。女王の部屋まではまだあるから」
螺旋階段でしょうか。円形の空間の壁沿いを縫うように長い長いループが続いていました。
中央は吹き抜けになっているのに階段には手すりもありません。落ちたら大変なことになりそうです。
「ここ、は……?」
「四季廻りの塔の中だよ。いつもだったらてっぺんまで直通のエレベーターがあるんだけど、スイッチが入らないから仕方なく非常階段でのぼってるところ」
「降りる……」
「いいから。チカはそのまま寝てなよ。もう十分頑張ったんだから」
ヒナタの背中から降りようと態勢を崩したチカを、ヒナタはおぶさり直します。
チカの目の前に、再び黄金色の草原が広がりました。
綺麗でつやつやとした、ヒナタの髪の毛。
そしてその頭には、やはりなんの動物の耳もついていないのです。
「……耳、本当にないんだね」
「んー、そだね。チカ達と同じような耳はないかも」
「なんだか不思議」
「あたしからすると、チカたち『ミミツキ』の方がよっぽど不思議だけどなぁ」
ミミツキ。チカは初めて聞く言葉でした。
しかし幼いチカでも、『ミミナシ』の人達が自分たちのことをそう呼んでいるのに気づきます。
「ヒナタ達は、わたしたちのことを『ミミツキ』って呼んでるんだ」
「そうだね。チカ達はあたし達を『ミミナシ』って呼んでるんだろ?」
「耳がない人ってめずらしいから……」
「あたし達からすると、耳がある方がよっぽどめずらしいんだけどなぁ」
ヒナタは笑いながら、チカの言葉に応えます。
「王宮と街とで住むのを分けてるの、やっぱりあたしは反対だな」
「え?」
「この国はね。ミミツキは街に、ミミナシは王宮の中で暮らさないとダメっていう決まりがあるんだよ。本当は一年に一回、『渡り』のときしかお互い関わっちゃいけないことになってるんだ」
渡り。これもチカには初めて聞く言葉です。
「渡りって、なぁに?」
「あれ、チカはまだ経験してないんだ」
ヒナタは意外そうに答えます。
その知っていて当然といった返しに、逆にチカの方が不安になりました。
「この国に春が来たら行われる、大切なお祭りだよ。チカはまだこの国で春を経験したことはないの?」
一瞬、ヒナタの言っている言葉の意味がわかりませんでした。
「春は何度も迎えてる、よ?」
「……それじゃあ、チカはこの国に来たのはまだ最近の子なんだね」
声を落とし、無言になるヒナタ。
チカはそんなヒナタの反応に困惑の色を隠せません。
「どういうこと?」
「うーん。あたしから言うのはちょっとなぁ……」
「そんなこと言われても、気になるよ」
「それじゃあ、チカはいつから今のパパとママと暮らしてるか覚えてる?」
「いつからって、そりゃあ……」
生まれた時からだよ、と続けようとしたチカはどういうわけか言葉に詰まってしまいます。
「……いつから?」
そういえば、チカにはお父さんやお母さん、それにリッカお姉ちゃんとの昔の思い出がありません。
それどころか記憶をさかのぼると、どういうわけか両親と「はじめまして」の握手している自分や、リッカに「これからよろしくね」なんて言われている思い出が蘇ってくるのです。
「……あれ?」
いつからでしょう。お父さんとお母さんをそう思うようになったのは。
リッカのことを、お姉ちゃんだと思うようになったのは。
「チカ、ついたよ」
混乱しているチカに、ヒナタが声をかけました。
螺旋階段の果てにひとつの扉が待っていました。
そしてここが、塔のてっぺん。
季節の女王がそれぞれ司る季節に住まう、不思議な魔法の部屋でした。
第5話 冬の明かり
長い長い階段の突き当たり。
金のような銀のような、不思議な色合いをした扉がふたりを出迎えました。
ヒナタはゆっくりと扉に近づくと、コンコンとノックします。
「もしもーし、冬の女王さまー? あたしだよ、ヒナタだよ。ちょっと話したいことがあるからここ開けてくれないかな?」
しかし何の返事も返ってません。
ヒナタは何度か呼びかけてみましたが、まるでなしのつぶてです。
「……ごめんね、開けるよ」
そう言ってヒナタは先ほど使った鍵を取りだすと、躊躇うように鍵穴に差し込みます。
しかしそれをくるりとひねったところで、ヒナタは思わず驚きの声をあげてしまいました。
「どうしたの?」
「鍵が、かかってない」
「え……?」
冬の女王さまは、季節廻りの塔から出てこない。
何人もの人が説得に来たけれど、耳を貸そうとしない。
力尽くで出そうとした人も居たけれど、結局無駄だった。
チカの聞いていた話とはだいぶ違います。
女王さまの部屋に鍵がかかってないのなら、今まで説得に来た大人達はどうして部屋から出すことができなかったのでしょう?
「もしかして……」
ヒナタが何かを言いかけましたが、そのまま言葉を飲み込みました。
ゆっくりとヒナタが扉を開きます。
扉の向こうは一面の暗闇でした。
開けたドア隙間から、明かりが差し込んで室内が照らされます。
部屋はがらんとしていて、どこか冷たい空気が流れていました。
「スイ、居る?」
そんな暗闇に向けて、ヒナタは問いかけます。
その声に応じてか、部屋の隅でがさりと衣擦れの音がしました。
「……ヒナタ」
闇の中、ひとりの女性が明かりも灯さずに椅子に座っていました。
腰まで伸びた銀色の髪に、新雪を思わせる真っ白なドレスが暗闇の中で薄ぼんやりと光って見えます。
その額につけられている上品な装飾を施したティアラが、やけに目を惹きました。
そして女性の頭にはヒナタと同じく、なんの動物の耳もついていません。
それを見て「この人が冬の女王さまだ」とチカは気づきます。
まっくらの部屋の中、冬の女王の顔は少しやつれて見えました。
「久しぶり。……元気ないね、スイ」
ヒナタが気遣うようにいうと、スイと呼ばれた冬の女王は顔を伏せました。
「何しに来たの? あなたも私を塔から追いだしてご褒美が欲しいの?」
「違うよ」
言いながら、ヒナタは暗い部屋にランプを灯します。
ぼんやりとした明かりが部屋を照らし、スイ女王の顔を照らしました。
チカは、スイ女王の目が泣きはらしたようにはれぼったくなっているのに気がつきました。
「ただ、スイの気持ちが知りたかっただけ」
「…………」
「『お告げ』が来たんだよね?」
その言葉に、スイ女王はハッと顔を上げました。
「どうして、それを知ってるの」
「調べたんだよ。王宮から街から、いろんな人に話を聞いてね」
「…………」
「ソラとキサのところにも行ったんだ。近いうちに季節の女王みんなで集まろうかなんて話もした。……どこかの寂しがり屋の冬の女王さまのためにもね」
ソラとキサ。それぞれ夏の女王と秋の女王のことです。
ヒナタはスイ女王が塔から出ない理由を探るために王宮から姿を消していたのでした。
「お告げ?」
思わず聞いたチカに、ヒナタは寂しそうに答えます。
「スイはね。春が来たら、この国を去らないといけないんだよ」
ヒナタの言葉に、スイ女王ははらはらと涙を流します。
その涙はすぐに氷となって、床にぽろぽろこぼれ落ちました。
「……行きたくないの」
その声はあまりにも悲痛で、胸が痛くなるようでした。
「わがままだと思う。私のせいで多くの人に迷惑をかけてしまってることも、ちゃんとわかってるの」
「うん」
「でも、嫌なの」
もしもこの場にヒナタとチカ以外の人がいたら、なんて勝手なことを言ってるんだと怒ったに違いありません。
けれど事情を知っているらしいヒナタと何も知らない幼いチカは、さめざめと涙するスイ女王を責めることはありませんでした。
「私はこの国に来るまで、ずっとひとりぼっちだった」
「知ってる。前に話してくれたよね」
「なんの温もりも知らないまま生きてきた。人の優しさに触れることさえ、一度もなかったの」
この国に来るまで。
スイ女王の言葉に、チカの心の中でチクリとするものがありました。
「この国に来てからなの。私が初めて幸せだって思えたのは。……人の優しさに触れることができたのは」
「……うん」
「こんな私に、みんな優しくしてくれた。お友達も初めてできた。本当に本当に、幸せだったの」
再びスイ女王の目から、つうっと涙がしたたり落ちました。
「離れたくない」
スイ女王の目からは、止めどなく氷の涙がこぼれました。
それをヒナタは何も言わず、ただ黙って眺めることしかできません。
しかしやがて涙が収まると、女王は一転して鋭い目つきでキッとヒナタを睨みます。
「出て行って」
その口から出てきたのは、冷ややかな拒絶の言葉でした。
「私はここから出ていくつもりはないわ」
「…………」
「春なんて来なければいい。この国にあなた《春》なんていらないのよ。ずっと冷たい雪に埋もれていればいいの」
心を閉ざそうとする冬の女王に、ヒナタは軽くため息をつくと淡々と事実を告げることにしました。
「でも、部屋の鍵は開いてたよ」
その言葉に、女王の口から呪詛はぴたりと止んでしまいます。
「本当は待ってたんでしょ? 誰かが来てくれるのを、ずっと」
「そんなことない」
「じゃあ、どうして部屋を閉ざしてなかったの?」
「それは、鍵をかけ忘れて……!」
「スイ、もっと上手い言い訳は思いつかないの?」
呆れたように言うヒナタに、冬の女王は口をぱくぱくさせるだけで何も言い返すことができませんでした。
「……本気で閉じこもろうと思ってるなら、一度鍵をかけたら開けたりしないはずだよ。確かに以前は鍵をかけてたのかもしれない。でもいつしか誰も来なくなって、ひとりぼっちになって、それで鍵を外したんじゃないの?」
「な、なんでそんなことがわかるのよっ!?」
「スイ、キミはちょっとわかりやすすぎるんだよ」
「だって、だって……!」
先ほどまでの威勢はどこへやら、だだをこねるようにだってだってと繰り返すスイ女王はまるで子どもみたいです。
どんな悪態も、女王の本音を知ってしまえばただただ虚しいだけでした。
「……だって……」
やがて肩を落として、力なくうなだれる冬の女王。
そんな彼女に何を言ったものかとヒナタが考えていると、成り行きを見守っていた一人の少女が動きました。
一連のやりとりを見ていたチカは、何を思ったのかぴょんとヒナタの背中から床に飛び降りました。
急に重さがなくなって、ヒナタが驚いたように床に降りたチカを見つめます。
「チカ?」
ヒナタが驚いたように呼び止めるも、チカはそのまま何も言わずにスイ女王へと近づいていきます。
ちいさなミミナシの少女に、スイ女王は思わず後ずさりました。
「な、なによ、ミミナシっ!」
てとてとと歩いてくるチカを見て、スイ女王は吐き捨てるように怒鳴りつけます。
けれどその様子は、これから叱られるのを待っている怯えた子どものようでした。
「ど、どうせあなたも私を追いだして、ご褒美が欲しいんでしょう?」
女王の虚勢にも負けずチカはそのまま歩いていきます。
その澄んだ瞳は、じっと冬の女王に向けられています。
無垢な瞳に見つめられるのが辛くなったのか、スイ女王は目線を逸らしてしまいました。
「おあいにくね。でも私はあなたたちが思うような大したものじゃないのよ。だって季節の女王なんて、ただの……」
そう続けようとするスイ女王の手を、チカはぎゅっと両手で掴みました。
スイ女王にもヒナタにも、その行動は予想外だったようでした。
「あのね……わたしには女王さまが悲しんでる理由はわからないの」
チカは冬の女王に伝えるべき言葉を探していました。
事情はわからない。女王さまがここまで悲しんでいる理由もわからない。
渡りとかお告げとか、なんのことかさっぱりわからない。
けれど今のチカにしか言えない言葉があると、確かにそう感じていたのです。
第6話 欲しいものはなんですか?
ちいさな仔猫に手を取られた冬の女王は身動きが取れませんでした。
ただ手を握られているだけなのに、まるで手錠でもかけられたかのようにその場に凍り付くことしか出来なかったのです。
「あのね。誰かがいなくなるのは、とっても寂しいの」
チカは少しずつ思い出してきていました。
遠い昔、誰か大切なひとがいたこと。
そのひとと一緒に居るのが嬉しくて、本当に幸せだったこと。
けれどある日を境に、二度と会えなくなってしまったこと。
「だけど、それでも季節は過ぎていくの」
大切なひとがいなくなっても、季節はただただ廻っていきました。
チカはもうずいぶんと長いこと、そのひとの居ない時を過ごしてきたのです。
「でもね、冬はいつか終わって、春が来るんだよ」
春。
チカの記憶の中にあるのは、この国の春ではありませんでした。
けれどきっと、この国でも廻る季節はあの頃と同じはずなのです。
「雪が溶ければ春になって、桜が散ればだんだん暖かくなって夏が来るの」
廻る季節の中で、大切なひとと過ごした日々。
チカは遠い記憶を思い返しながら、拙いながらも言葉を紡ぎます。
「山が色づけば秋になるし、木枯らしが吹けば冬が近づいてくるんだよ」
「…………」
「そうやって、冬がやってくるの。女王さまの季節は、また廻ってくるんだよ」
この冬が終わっても、また来年もう一度冬はやってくる。
季節は廻り、再び訪れる。
「もう冬が来ないわけじゃないんだよ」
チカは、ヒナタやスイ女王の内心なんて知るよしもありません。
しかしひとつだけ確かなこと。
季節は廻り、またやってくることだけは伝えておかないとと思ったのです。
「きっとまた、会えるんだよ」
一年 が過ぎれば、また冬がやって来るように。
お別れは寂しいけれどいつかまた会えるはずだと、そう信じてチカは告げました。
「あ……」
チカの言葉は届いたのでしょうか。
想いを乗せた拙い言葉は、心の氷を溶かすことができたのでしょうか。
スイ女王の瞳から一滴の涙が流れました。
けれどその涙は雫のまま床に落ち、氷に変わることはありませんでした。
「……暖かい」
チカの両手に包まれながら、スイ女王はその温もりを確かめるように繰り返します。
「あなたたちは、本当に暖かい子ね」
スイ女王はそっとチカの両手を離すと、優しくチカを抱き寄せます。
冬の女王に抱かれながら、チカは確かな温もりを感じていました。
「私はあなたたちにひどいことをしてたのに、どうやって償えばいいかもわからないのに」
スイ女王の口から堰を切ったように、悔いの言葉が溢れてきます。
「私は、間違った道を選んでしまったのに」
その言葉に、チカはふるふると首を振りました。
「あのね」
チカはスイ女王をまっすぐに見つめながらはっきりと答えます。
「間違った道なんて、どこにもないんだよ」
それは、お姉ちゃんから教えてもらった大切なことのひとつでした。
* * *
そのお話を初めて読んだのはいつのことだったでしょう。
寝付けないチカの枕元にきたリッカが持ってきたのが、その絵本でした。
わたしが一番好きな本なのよ、と言ってリッカは静かに語り始めます。
「むかしむかし、あるところに一人の若者がおりました」
ちいさな村で農家の一人息子として生まれた若者は、自分の生まれた村が大嫌いでした。
こんな辺鄙なところで一生を過ごすなんて、冗談じゃない。
ぼくには夢がある。大きな夢がある。
その夢を叶えるために、ぼくはこの村を出て都に行かなくちゃいけないんだ。
「そうして夢に向かって想いをはせた若者は、やがて両親の反対を押し切って村を出て行ってしまいます」
やがて若者は都に辿り着き、夢を叶えるためにがむしゃらになって働きました。
昼も夜も構わずに、ごはんを食べることも寝ることも忘れて一生懸命働きました。
なのに、若者の夢は一向に叶うことはありませんでした。
「ある日若者は決意します。ぼくが欲しいものはこんな都じゃ手に入らない、ずっと新しいものなんだ。もっと発展した都会に行かないと、ぼくの夢は叶えられそうにない」
そう決意した若者は都の友達が止めるのも聞かず、自分を認めてくれる場所を求めて旅に出ました。
その日から若者は、一人の旅人となったのです。
「それからの旅は決して楽なものではありませんでした。旅人はなんどもだまされたりどろぼうにあったり、時には命の危険まで感じる日もありました」
街から街へと続く街道では、何度も盗賊や追いはぎに襲われました。
なんとか大きな都に辿り着くも、田舎から出てきた物知らずな旅人はいいカモでしかありません。
熱く自分の夢を語る旅人に、多くの人が彼の夢を叶えてあげようと声をかけてきました。
しかし彼らは旅人を利用して富を得ようとする、強欲な商人だったのです。
「何度もだまされて裏切られて、旅人はすっかり人が信用できなくなってしまいました」
そしていつしか、追いかけていたはずの大切な夢すら忘れてしまい。
旅人はその日をどう生きるか、それだけのことしか考えられなくなってしまいました。
「そんなボロボロになった旅人は、ある日一人の女の人と再会します」
それはもう遠い昔、生まれた村で一緒に遊んでいた女の子でした。
子どものころはおとなしくて引っ込み思案で、いつも女友達の後ろから一歩引いて旅人を見つめていた子です。
いつも元気に先頭を切ってみんなをあちこちに連れ回していた旅人からすれば、地味で目立たないつまらない子という印象しかありませんでした。
なのに、大人になった女の子はすっかり見違えるほど立派になっていました。
「女の子は旅人を家に招き、あたたかいごはんとふかふかの寝床を用意しました。しかしすっかり人を信じられなくなった旅人は、彼女の好意に裏があるんじゃないかと疑います」
見返りはなんだと聞く旅人に、女の子は笑顔でふるふると首を振るだけです。
――ただ、私がこうしたかっただけだから。
それ以上、女の子は何も言うことはありませんでした。
「そうして女の子の家でお世話になった旅人は、やがて元気を取り戻しました。しかしいつまでも厄介になってるわけにもいかないと、女の子の仕事を手伝うことにします」
女の子はその街でちいさなお店を開いていました。
決して繁盛しているとは言えないお店で、お客も近所の人がちらほら来る程度です。
たくさんの街を点々として。あくどい商人を見てきた旅人は女の子のやり方に呆れます。
どうしてもっと儲けようとしないんだ。
どうしてもっと人を利用して、のし上がろうと思わないんだ。
そんな旅人の問いに、女の子はなんの躊躇いもなく答えるのです。
「これが、私の夢だったから」
ちいさくてもいい。儲からなくてもいい。
ただ私が用意した品物を、お客さんが買って喜んでくれればそれでいい。
それが私の欲しかった幸せの形だからと、女の子は笑いました。
夢を追い続け、夢やぶれた旅人にとって女の子の言葉はショックなものでした。
まさか、軽んじていた女の子が自分よりも先に夢を叶えているなんて。
こんなちっぽけなお店しか持っていないのに、夢を叶えたなんて言えるだなんて。
「その答えに、旅人は当然納得がいきません」
それを認めてしまったら、旅人が今までやってきたことはなんだったのか。
たくさん頑張ってだまされて、傷ついてボロボロになっても夢を叶えることができなかったのに。
どうしてこの子はこんなちっぽけなお店をもったくらいで夢を叶えたなんて言えるのか、旅人にはわかりませんでした。
「それから旅人は、女の子への怒りを抱えたままお店の手伝いを続けました」
やがて旅人は、女の子のお店のやり方に口を出すようになりました。
もっとこうしたらどうだ、ここはこうした方がいいんじゃないか。
ただ売るだけじゃなくて、もっと考えたほうがいいんじゃないか。
女の子はその言葉に時には従い、時には反発しました。
けれど、一度も旅人の言葉に対して「私の夢に口を挟まないで」と言うことはありませんでした。
「旅人の手伝いもあってか、女の子のお店は前よりもずっと繁盛するようになりました。お店を手伝う旅人に近所の人達も好意的になり、心を許せる友達も作ることができました」
やがて、ふたりは結ばれました。
それはとても自然な成り行きで、きっと誰にも止めることはできませんでした。
そして、いつしか旅人は旅人ではなくなっていたのです。
「けれどある日、旅人はようやく道を間違っていることに気がつきました」
ある日のこと、女の子がふいに旅人にごめんねと涙ながらに謝りました。
何か悪いことでもしたかと慌てる旅人に、女の子は言うのです。
誰よりも大きな夢を追いかけていたあなたを、私は自分の夢に巻き込んでしまった。
あなたが夢を叶えたい気持ちを知っていたのに、それを邪魔してしまった。
どんなに謝っても償いきれない、と。
その言葉を受けて、旅人は思います。
確かにぼくはたくさんのものを手に入れた。友達もたくさんできたし、大切な人もできた。
道を間違えたかもしれないけれど得たものはたくさんあったし、なんの不満も後悔もない。
けれどぼくが本当に欲しかったものはこれだっただろうか。
ぼくは、本当に自分が欲しかったものを手に入れているんだろうか――?
第7話 そして、また春が来て
「へんなの」
そのお話にチカが最初に抱いた感想は、その一言でした。
「欲しいものがわからないなんて、この旅人さん変だよ」
「どうして?」
不満げなチカに、リッカお姉ちゃんは穏やかに微笑みながら問いかけます。
「だって自分の欲しいものくらい、ちゃんとわかるもん」
「じゃあチカは何が一番欲しいの?」
「えーと、んとねー」
聞かれたチカは、うきうきしながら欲しいものを思い浮かべます。
「新しいお洋服でしょ、それに綺麗なアクセサリーも欲しいな。それからおいしいごはんもお腹いっぱい食べたいし。あ、あとは楽しい遊び道具も!」
「あらあら。チカったらよくばりなのね」
返ってきた答えに、リッカはくすくすと笑います。
「お姉ちゃんの一番欲しいものってなぁに?」
「わたしの?」
逆に聞かれて、リッカは少しの間物思いにふけります。
やがて答えに辿り着いたのか、寂しそうな表情を浮かべるとその問いに答えます。
「たぶん……もう手に入らないもの、かな」
先ほどまでとは違い、憂いを帯びた声でした。
「どうして手に入らないの?」
「なくしてしまったから。遠い遠い昔にね」
「また見つけることはできないの?」
「……それは」
無邪気な問いに、リッカは思わず口ごもります。
「昔は見つかると信じてたの。……でももう無理かなって、そう思ってるんだ」
「どうして?」
「長い長い時間をかけて探したけど、見つけることができなかったから」
「もう探すのをあきらめちゃったの?」
チカの言葉に、リッカは少しだけ猫耳をぴくりと動かしました。
「あきらめたわけじゃないよ」
リッカは少しだけ語気を荒げて、そう返します。
しばしの間があって、ぽつりと囁くように言葉を紡ぎました。
「……ううん、嘘。ほんとはね、もうダメかなってあきらめてる」
俯いたリッカの横顔からは暗闇が漂っていました。
「お姉ちゃんも、この旅人さんみたいに道を間違えちゃったの?」
「そう……かもしれないね」
残酷なまでに無邪気に問うチカに、リッカは儚げに微笑みました。
そんなリッカを見て、何か思うところがあったのでしょうか。
チカはもう一度絵本をじっと眺めると、ぱっと顔を上げてリッカに告げます。
「あのね、きっと道を間違えたっていいと思うの」
チカの言葉に、リッカが目をまんまるにして顔を向けました。
「ううん。間違った道なんて本当はきっとどこにもないと思うの」
「……どうして、そう思うの?」
「だって、その間違えた道の先で、この旅人さんみたいにたくさんの素敵なものと出会うこともあるだろうから」
きらきらした瞳で告げるチカにつられてか、濁っていたリッカの瞳にゆっくりと光が戻ってきます。
「探していたものよりも、ずっと素敵なものと出会えることもあると思うから」
絵本の旅人は確かに道を間違えたのかもしれません。
そのせいで描いていたはずの夢は叶わなかったのかもしれません。
けれどその道の先で、何も得るものがなかったわけではないのです。
「ありがとう、チカ」
言いながら、チカを優しく抱きしめます。
「確かに、素敵なものと出会えてた」
きょとんとするチカを撫でながら、リッカは想いを口にします。
「道は間違ったのかも知れないけど……でも代わりに、思いも寄らない大切なものを手に入れてた」
言いながらチカをじっと見つめます。
チカはお姉ちゃんの瞳の奥に、今までにない輝きが宿っているのに気づきました。
「でもね。今のチカの言葉で思ったことがあるんだ」
その言葉には、力がこもっていました。
「間違えた道の先でどんなにたくさんの素敵なものと出会っても、それでもまだあきらめきれないものがあるのなら……」
そこまで言ってから、リッカは少しだけ躊躇いながら続きを口にします。
「また、歩き始めてもいいのかなって」
その瞳には、未来が映っていました。
「来た道を引き返すんじゃなくて、歩いてきたことを否定するんじゃなくて。……今の場所から、また欲しいものを手に入れるための道を探してもいいのかなって。そう思ったの」
そういうと、リッカは何かを成し遂げたような表情でにこりと笑いました。
「チカのおかげだよ」
感謝の言葉を告げられるも、その時のチカにはその理由がわかりませんでした。
「あきめてたけど……もう少しだけ、探してみることにするね」
リッカの探している大切なものが何か、チカにはわかりません。
そんな不思議そうなチカを見て、リッカはただただ穏やかな微笑みを浮かべるのでした。
* * *
「だからね……女王さまも、間違った道を歩いたなんて後悔しなくていいと思うの」
お姉ちゃんとの語りを話し終えると、チカは穏やかな声でそう告げます。
かつてのリッカが、チカにそうしてくれたように。
「間違った道を歩いたとしても、それはきっと悪いことじゃないと思うから」
今のチカなら、あの時のお姉ちゃんの気持ちがわかるような気がしました。
それはチカがあの語らいをしたときより、少しだけ前へ進んでいる証拠でもあるのです。
「…………」
その話を聞いたスイ女王は何を思ったのでしょうか。
俯いたまま顔を上げない女王に、チカは少し心配そうな表情を浮かべます。
「……ありがとう」
だいぶ間があってから、女王は絞り出すようにそれだけを告げました。
「あなたの気持ち、とってもあったかい」
ゆっくりと冬の女王はちいさなミミツキに瞳を向けました。
その表情に、もう陰はありません。
「でもね、それなら私はミミツキのみなさんに謝りたいと思うわ」
そう告げるスイ女王の瞳には、かつてのリッカと同じ輝きが宿っていました。
「今から取り返しがつくかなんてわからないけど……このまま納得できない道を歩いていくのは嫌だから」
言いながらチカの頭を軽く撫でるその様は、どこか晴れ晴れとしています。
「間違った道を歩いたことは悪いことじゃなくても、間違ったことをしたのはちゃんと認めないとね」
そう言って、またひとつ笑顔の花が咲きました。
冬の女王が咲かせた、とても綺麗で素敵な花でした。
「チカ」
それを見て、ヒナタが優しい声で告げます。
「キミは、本当にまっすぐな子だね」
どんなに複雑な理由も、事情も、想いでさえも。
チカの純真な気持ちの前では、手も足も出すことができませんでした。
翌日、長く降り続いていた雪がやみました。
街中の家々から閉じこもっていた住人達が出てきます。
待ち望んでいた春が来たことにみんなが気がつきました。
そしてそれは、誰かが冬の女王を季節廻りの塔から出したことも意味しています。
久々の青空と太陽の陽射しの下で、みんな明るい顔で「誰が女王さまを塔から出したんだろう」とか「なんにしても春が来てよかった」とか話しこんでいます。
そこへ驚きの一報が飛び込んできました。
なんでも冬の女王さまが国民に話があるから、よければ王宮前の広場にまで来て欲しいというのです。
誰もが顔を見合わせました。
みんなの気持ちは戸惑いでいっぱいです。
あれだけのことをされて、あれだけのことをして、今さらどんな顔で冬の女王さまと顔をあわせればいいのでしょうか。
春が来ても、ミミツキとミミナシの溝はまだ開いたままなのです。
けれど王宮前の広場には、たくさんの人が集まることになりました。
やがて広場に用意された壇上に、ひとりの犬耳を持ったおじいさんが出てきます。
この人こそがこの国の王さまでした。
「うぉっほん」
咳払いをひとつすると、王さまは国民に向けて語り始めます。
「皆も既にわかっておるだろうが、今年も無事にこうして春を迎えることができた。季節の廻りが確かに行われたことを、まずは高らかに宣言しようと思う」
そう言って、壇上にひとりの女性が上がってきます。
薄桃色をしたドレスを身に纏い、流れるような金髪を惜しげもなく風にさらすミミナシの少女。
春の女王、ヒナタでした。
その額には上品な装飾を施したティアラが燦然と輝いています。
かつて冬の女王が身につけていたこのティアラこそが、季節の廻りを司る象徴だったのです。
春の女王の登壇に、集まった人々は盛大な拍手を持って迎えます。
それに応えるようにヒナタ女王は優雅な仕草でスカートの裾を軽くつまみ、深々と頭を下げました。
まるであのヒナタとは別人みたいですね。
割れるような拍手の中、春の女王はそのまま後ろに下がります。
しかし続いて登壇した人物を見て、場は一気に静まりかえってしまいました。
「…………」
季節の冠を外した冬の女王が、見るからに気まずそうな顔でゆっくりと壇上へと昇ってきました。
その一挙手一投足を、たくさんの目が見つめています。
その瞳の裏にある感情は、きっと人それぞれなのでしょう。
けれど決して好意的なものばかりではないのは疑いようのない事実なのです。
「……スイ」
その空気に怯える冬の女王を見て、春の女王がそっと側に寄り添いました。
そして何も言わずにその手を取ると、ぎゅっと力を込めて握りしめます。
「がんばれ」
囁くようなその言葉は、ほんのひと押しに過ぎませんでした。
けれどその一言で、スイ女王はようやく集まった人達の方を見ることができたのです。
「みなさん」
怯える声色、震える身体。
それでも構うこともなく、冬の女王は人々に向けて言葉を発します。
「私の勝手なわがままで冬を長引かせてしまったこと、本当にごめんなさい」
深い深い、一礼。
ずいぶんと長い間、時が止まったかのように静けさだけが場を支配していました。
そしてゆっくりと顔を上げると、スイ女王は意を決して語り始めました。
「私は春の訪れと共に、この国を去ることになりました」
その言葉に、群衆からどよめきが起きました。
「しかし安心してください。冬の女王は私ではない、別のミミナシの方が引き継ぐことになります。季節は無事に廻ります。来年、また冬はやってきます」
どよめきはさらに強くなりました。
季節の女王がミミナシだということはわかっていても、それが引き継ぎのできるものだなんて誰も知らなかったのです。
「――今の女王さまは、どうなるの?」
誰からともなく、そんな声が上がりました。
「……私は春の『渡り』とともに、この国を去ります」
渡り。
その言葉を聞いて、集まった人々からざわめきがぴたりと止みました。
それの意味を知る人は、誰もがそれがどういうことなのかを理解していました。
だからでしょうか。集まった人達からだんだんと怒りの気配が消えていきます。
渡りってなぁに? という幼い子どもの声だけが響き、大人達は何も言えなくなってしまいました。
そしてみんなが理解するのです。
冬の――スイ女王が塔に閉じこもって出てこなかった、本当の理由を。
「今まで迷惑をかけてばかりで、本当にごめんなさい」
そう言って、スイ女王は再び深く頭を下げました。
しかし顔を上げたとき、その表情にはもう悲愴さは感じられません。
スイ女王の瞳は、はっきりと前を向いていました。
「だから、今までありがとう」
穏やかな声でそう告げると、かつての冬の女王はひとつの花を咲かせます。
それはとても晴れ晴れとした、満面の笑顔でした。
「本当に、ありがとう」
笑顔のスイ女王の目からひとしずくの涙がほろりとこぼれ落ちました。
その涙はもう、氷になることもありませんでした。
――その後、集まった人達から女王を責める言葉が飛び交ったのか、それとも大きな拍手が起きたのか。
それは、この後のお話を読んでから想像してみてくださいね。
第8話 渡りの日
季節の戴冠が行われた次の日。
街はずれにある広々とした草原に多くの人が集まりました。
天気は快晴。
早くも雪解けが始まったのか、雪化粧を施した山々から少しずつ新緑の芽が顔をのぞかせています。
「ほら、チカこっちよ」
長い冬が終わり春が来て、元気になったリッカに連れられてチカも原っぱに来ていました。
なんでもこれから話に聞く『渡り』が行われるらしく、それを見に行くというリッカに連れられてきたのです。
ちなみにお父さんとお母さんはおうちでお留守番です。
出かける前にリッカとなにやら長い話をしていましたが、何を話していたのでしょうか。
「それにしても、チカが冬の女王さまを出しちゃうなんて思わなかったなぁ」
感慨深そうに、リッカがしみじみと言いました。
春の到来を成し遂げたのは誰なのか、スイ女王の引退のあとに王さま直々に国民に告げられていたのです。
壇上におずおずと上がってきたチカを見た人達は、春を連れてきたのがちいさな少女なことを知りとても驚きました。
しかし誰よりびっくりしたのは、他でもないチカの家族なのです。
「チカはもう、ご褒美何にするかもう決めてるの?」
「ううん」
そう訊かれるも、チカはご褒美目当てで冬の女王さまに会いに行ったわけではないのです。
ただ春が来て欲しかったから。ただそれだけの理由。
チカにとっては、ご褒美はおまけみたいなものでした。
「ゆっくり考えてもいいと思うよ。でも、チカが一番欲しいものをお願いしたほうがいいんじゃないかな」
「一番欲しいもの?」
「そう。まわりに何を言われても絶対に曲げたくない、チカが心から欲しいと思ってるもの。お父さんもお母さんも、これはチカが自分で決めることだと思ってるから何も言わないんだと思うよ」
実際にチカがご褒美をもらえると知っても、お父さんもお母さんもチカに何をもらったらどうだろうとは一言も提案しませんでした。
当然、リッカお姉ちゃんも。
「でもだいじょうぶ。チカは自分が欲しいもの、ちゃんとわかってるもんね?」
くすくすと笑いながらリッカはそんなことを言いました。
その言葉にはかつてのチカとの語らいの思い出があるのでしょう。
「…………」
けれど、今のチカはあの時のチカとは違います。
前よりも少しだけ大人になったチカには、本当に自分が欲しいものがなんなのか少しわからなくなっていました。
新しいお洋服。
綺麗なアクセサリー。
おいしいごはん。
楽しい遊び道具。
当時のチカが望んだそれらは、今のチカにとっても欲しいもののままなのでしょうか。
その答えはチカ自身、よくわからなくなっていました。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なぁに?」
「お姉ちゃんは欲しいものって、今もあの時と同じままなの?」
だから訊くのです。
リッカがあの時探していたもの、手に入れようとしていたものが今もそのままなのかということを。
「そうだよ」
チカの問いかけに、リッカは即答します。
「わたしが欲しいものは、あの時からずっと変わらないままだよ」
「そう、なんだ」
その迷いのない答えに、チカはどうしてかリッカのことがまっすぐ見られなくなってしまいました。
そんなチカの様子を見て何か思うところがあったのでしょうか。
リッカはえいっとチカを抱き寄せると、何も言わずただぎゅっと抱きしめるのでした。
「……ねぇ、チカ」
「うん?」
チカをぎゅっと抱きしめたまま、リッカは何かを口にしようとします。
その表情は抱きしめられているチカからはうかがうことはできません。
「……ごめん。なんでもないんだ」
長い沈黙の後、体を離したリッカの顔にはどこか心細い笑顔が張り付いていました。
* * *
「皆よく集まってくれた。良き日柄にも恵まれ、今日はいい『渡り』になるだろう」
草原の端にあるちいさな丘。
そこに犬の王さまとたくさんの人たちが集まっていました。
集まったのは数十人くらいのミミツキでした。
先日冬の女王の言葉を聞くために集まった人達に比べれば、ずいぶんと少ない印象です。
「ねぇ、結局渡りってなぁに?」
王さまが集まった人達に話をしている中、チカは気になっていたことを手を繋いだままのリッカに問いました。
本当は昨日だってお父さんにもお母さんにも、当然リッカお姉ちゃんにも訊いたのです。
けれどみんなごまかすように微笑むだけで話してくれませんでした。
その様子から、何か大切なことだということはチカにもわかりました。
けれどこれからそれが行われるに至ってもなんなのかがわからず、チカは少しモヤモヤしていたのです。
「うん……」
けれどリッカはどこか上の空で、王さまの言葉に聞き入っていました。
「此度渡りを迎えるにあたってお告げを受けた者。そしてその者に寄り添い、この国で長い日々を過ごした者。……皆よく頑張ってくれた。残る者も去る者も、皆があたたかな微笑みの中で別れを告げられることを願っている」
「……え?」
お告げ。
残る者、去る者。
別れを告げる。
王さまから語られる不穏な言葉にチカは思わずリッカをじっと見つめました。
しかし、リッカは目を合わせてくれません。
「お姉ちゃん……?」
知らず知らず、チカは不安に飲み込まれそうになっていました。
冬の女王も受けたという、『お告げ』。
この国から去りたくないと泣いていた、春を遠ざけた悲しい想い。
そしてこれから行われるという、『渡り』。
「……ごめん」
そして。
リッカは、その繋いでいた手をそっと離したのです。
「ごめんね、チカ」
離されたその手から、お姉ちゃんの温もりが遠ざかるのをチカは感じました。
その手をぎゅっと握りながら、リッカは俯きながら言葉を紡ぎます。
「わたしね……お告げが来たの。今日の渡りで、この国からさよならすることになるんだ」
リッカのその言葉を、チカは理解することが出来ませんでした。
いいえ、もしかすると頭ではわかっていたかもしれません。けれど心のどこかで認めることを拒んでいるチカが居たのです。
「……どうして?」
チカは、ただリッカだけを見つめていました。
濁りのない純粋な瞳に見つめられ、リッカは射すくめられたようになってしまいます。
「ごめんね。どうしても言えなかった。この国で過ごした時間が……チカと暮らした日々が幸せだったから。チカはこの国に来たばかりだし、渡りのこともお告げのことも知らない。それにこの国に来る前のことも、ほとんど覚えてなかったから」
この国に来る前のこと。
ヒナタと話したことで少しだけ思い出した、遠い昔のおぼろげな記憶。
夢うつつのはっきりしない、『かつてのチカ』だったころの思い出。
「ねえ、チカはもう忘れちゃった? わたしたちが初めて会った日のこと。あの時のチカはずいぶん元気がなくて、わたし、なんとかしてこの子を元気にしてあげたいって思ったんだ。また笑えるようにしてあげたいって、本当にそう思ったんだよ」
「…………」
リッカの言葉に、チカは遠い記憶を少しずつ呼び覚ましていきます。
暗くて冷たくて、とても寂しいところを抜けて辿り着いたあたたかな国。
そこで出会った、たくさんの同じような境遇の人たち。
与えられた服。暮らしていく家。
そして、新しい家族。
「あ……」
チカはようやく、それをはっきりと思い出しました。
「わたし、死んじゃったんだ」
チカの口からどこか実感のない、呆然とした言葉がこぼれました。
リッカはその様子に一瞬泣きそうな顔をしたものの、下唇を噛んでそのまま下を向いてしまいます。
抱きしめたい。ぎゅっと抱き寄せてチカの気持ちを少しでも和らげてあげたい。
けれど自分にそんな資格はあるんだろうか。この場に及ぶまで切り出すことのできなかった、弱いわたしに。
そういう気持ちが全身から滲み出るように。
「……この国の人達は、みんなそうだよ」
「…………」
「チカだけじゃないの。お父さんもお母さんも、それにわたしも。チカと一緒に遊んでるお友達も、王さまも。……ミミナシの女王さま達も。みんなみんな、チカとおんなじなんだよ」
リッカの言葉をチカは無言で聞いていました。
遠い昔の記憶。それはかつてチカが生きていたころの思い出でした。
誰かと過ごした穏やかな日々。ある日会えなくなってしまった大切なひと。待ち続けて待ち続けて、それでも帰ってこなかったあたたかな日常。
そして、冷たい雨。
強い衝撃。宙に放り出される感覚。力の入らない身体。遠のいていく意識。
アスファルトの道路に雨水とともに広がっていく、赤。
「……あ、あ……」
『その時』のことを思い出して、チカは思わず顔を覆ってしまいます。
「……っ」
そんなチカを見てさすがに気持ちを抑えきれなくなったのか、リッカはチカに駆け寄ってぎゅっと抱きしめます。
リッカが抱きしめたチカの身体は小刻みに震えていました。
「……だいじょうぶよ、チカ。ゆっくりと思い出せばいいの」
チカを優しく撫でながら、穏やかな声でそう言い聞かせます。
「慌てなくていいの。怖がらなくてもいいんだよ。……その思い出が痛いのは、チカだけじゃないんだから」
この国のすべての人が、今のチカと同じ痛みを経験していました。
お父さんもお母さんも、それにリッカも。
けれどそれを受け入れて乗り越えたからこそ、チカの気持ちが痛いくらいに理解できるのです。
「……どうして、わたしはここにいるの?」
チカはしぼり出すように、ひとつの疑問を口にしました。
「……かみさまが、そうしてくださったんだよ」
「かみさま?」
リッカの口から出てきた言葉に、チカはただ問い返すことしかできません。
「傷ついた魂のままでは天の国に進むことが許されないの。私達はかみさまにこの場所で、傷を癒すように告げられてるんだよ」
「意味わかんない」
「チカの心の深いところがとても深く傷ついてるの。生前のチカに何があったのかはわからない。でもそのままの姿で天の国に入るのは、かみさまが許してくださらないのよ」
「……意味わかんない!!」
チカは怒りを隠さずにそのままぶつけます。
その大声に驚いたのか、王さまやその話を聞いていた人達がチカ達の方を振り向きました。
「……その様子」
犬の王さまが取り乱すチカを見て、何かを納得したかのように頷きます。
「そうか……。チカよ、そなたは『まだ』だったのだな」
その言葉で、集まった人達にも事情がわかったみたいでした。
なぜならこの場に居るすべての人が、今のチカのように取り乱したことがあるからです。
死の理不尽さとかみさまの身勝手さ、そして自らの置かれた境遇へのどうしようもないやるせなさ。
それは忘れたくても忘れられない、苦い記憶としてしっかりと残っているのです。
「王さま、みなさん。騒がせてごめんなさい。……もっと早く伝えておこうとは思ったんです。お父さんにもお母さんにも、チカにはわたしからちゃんと伝えるって約束もしました。なのにわたしは、この場に至るまで真実を告げることが出来なかった。……情けないです」
「いや……よい。この場の誰も咎めることはせんだろう」
リッカの言葉に、王さまは頷きます。
他の人達も怒るようなそぶりは見せず、むしろ自分の時を思い出したのか、チカの代わりに涙を流している人さえ居ました。
そんな様子に、チカは戸惑いを隠せません。
「じゃあ、いつまでここに居ればいいの?」
誰にでもなく、チカは疑問を口にします。
リッカの言うとおり魂の傷が癒えるまで天の国に行けないのなら、一体いつまでこの国に留まっていなければならないのでしょうか。
「わたしは、ずっとこの国に居るしかないの?」
「違うよ」
その疑問に、リッカははっきりと答えます。
「この国にも一年に一度だけ、天の国への扉が開かれる時が来るの」
「それは、いつなの?」
「今日だよ」
リッカの返しに、チカは心の中で何かがかちりと音を立ててかみ合ったような気がしました。
「一年に一度、天国への道が開かれる日。かみさまからのお告げを受けた人だけがその先に進むことを許されるの。それが『渡り』なんだよ」
その時、集まった人達がにわかにざわめき出しました。
みんながみんな、ひとつの方向を向いています。
「架かったか」
犬の王さまも同じ方向を向いて、何かを見上げるように顔を上に向けました。
同じようにするリッカに釣られて、チカもみんなが見ているものに目をやります。
するとそこには丘の上から雲の上まで続く、大きな虹の橋が架かっていたのです。
第9話 いつか約束の場所で
――この世を去った動物たちは、天国の側にある虹の橋のたもとに集まると言われています。
虹の橋のある、緑の草原と丘の上。
そこはおいしいごはんも温かいおひさまもいっぱいで、みんなとっても楽しく暮らしています。
病気で苦しんでいた子も歳をとった子も、その場所では元気いっぱいの姿になって、動かなくなった手足さえ元に戻ります。
一番元気だったころの姿に戻ることができるのです。
そこではみんな、とても幸せに暮らしているのですが……。
ただ、ひとつだけ。
離ればなれになってしまった、大切なひとのこと。
それだけがいつまでも消えない染みのように、彼らの心に暗い影を落としているのです。
* * *
チカが空に架かった虹の橋を目をまんまるにして眺めていると、集まった人達は再び別の方向を向きました。
つられるようにチカもその方向に目を向けると、緑の草原を複数の人達がこちらに歩いてくるのが見えました。
「いらっしゃったようだ」
それを見て、犬の王さまが感慨深そうに一言呟きました。
だいぶ遠くではありましたが、チカはその一団の中に見覚えのある姿を見つけます。
春の女王ヒナタと、冬の女王スイ。
どうやらやってきたのはミミナシの人達のようでした。
「……あ……!」
それを見て、丘の上に集まったミミツキのひとりが何かに気づいたように走り出しました。
脇目も振らずに丘を降り、草原を駆けるうさぎ耳のその子はやってきた人々の元へと一目散に走って行きます。
そしてその中のひとりを目掛けて、飛びつくように抱きつきました。
抱きつかれたミミナシの女性は、最初は驚いた表情でそれを迎えました。
けれど、どうしたことでしょう。
うさぎ耳の子をまじまじと見つめるうちに、何か大切なことを思いだしたかのようにその瞳は潤み、はらはらと涙を流し始めたのです。
……また会えたね。
ずっと、待っててくれたんだね。
それはもう、遠い思い出の中の話でした。
決して叶うことはないとわかっていても、それでも願わずにはいられない祈り。
果たされるはずのなかった、約束。
「……これが、渡りだよ」
その様子を眺めながら、リッカがチカにぽつりと呟きました。
「わたしたちはこの国に来る前のことをほとんど忘れちゃってるけど、それでも消えない約束を持ってるの。それが果たされるのが、渡りの日なんだよ」
渡り。
それはこの国で一年に一度、初春にだけ緑の丘に架かる虹の橋を渡ることでした。
ミミツキもミミナシも、みんながみんなこの橋の向こうに渡るためにこの国にやってきたのです。
この国に来る前のことはほとんど覚えてないけれど、誰もがこの橋の向こうに行かないといけないことはちゃんとわかっていました。
そして大切な約束を抱えているという強い想いだけは、何があっても忘れることはありませんでした。
――いつか、虹の橋のたもとでまた会おうね。
その言葉がこの国の人々の心に深々と刺さって抜けない棘のようになっていました。
誰もが忘れてしまった、遠い記憶。
けれど決して違えることのできない、大切な約束。
「この虹の橋を渡れるのは、お告げを受けた者だけだ」
その様子を眺めるチカの側に、犬の王さまがやってきました。
「だがもうひとつ、渡りに必要なことがある。それがこうしてミミツキとミミナシの再会が果たされることなのだ」
その言葉にチカは思い出します。
かつてヒナタが言っていた、この国ではミミツキとミミナシは街と王宮で住む場所がわかたれているということ。
そして、それに反対しているということ。
「……わたしたちが住む場所を分けてるのも、かみさまなの?」
「いや」
その言葉に、王さまは頭を振りました。
「それはわしが決めたことよ。わしはこの国ではかなり古いミミツキでな。もうずいぶんと長いこと、ここでこうして多くの民が虹の橋を渡っていくのを見守ってきたのだ」
老犬は目を細めるようにして、うさぎの子に続き丘から草原へと駆けていく何人ものミミツキを眺めました。
しかしその中に入る資格までは、さすがの王さまも持っていないのです。
「かつて、渡りより前に互いが出会ってしまうことで起きる不幸もあった。この国に虹の橋が架かるのは一年に一度だけ。しかしそれよりも前に互いが出会うことで満たされて渡りを拒む者が出るようになった」
遠い目をしながら王さまは続けます。
「それに、先日の冬の女王のようにこの国から離れたがらない者も多かった。天の国に至るための通り道であるはずのこの国が、逆に民を天の国から遠ざけてしまっていた」
言いながら、この国を治めるミミツキは軽く息を吐きました。
「先に進むことを畏れるのは無理もない。しかしいつまでもこの国に留まっているのもまた、よいことではないのだ」
どんなにおいしいごはんやおひさまに囲まれた幸せな場所だったとしても、この国はただの通過点でしかありませんでした。
本来この国に来た人々が行くべき場所は、虹の橋の向こうなのです。
「……そう、ですよね」
その言葉にリッカが苦しげに同調します。
リッカもまたこの国から離れがたいと思っていただけに、今の言葉に思うところがあったのかもしれません。
「どんなにかけがえのないものに出会ったとしても、いつまでもこの国に居たんじゃダメなんですよね」
その目はじっとチカへと向けられていました。
「ねぇ……チカ」
「うん」
「わたし、行くね」
「……うん」
リッカはチカを優しく抱き寄せました。
もうそれ以上、ふたりの間に言葉は必要ありません。
仮初めの姉妹は、何も言わずに声を殺して涙を流し続けました。
* * *
「…………」
「…………」
「来ないね……」
「うん……」
待ちぼうけ。
お別れの挨拶を済ませてふたりの気持ちが決まったにも関わらず、リッカの相手はいつまで経っても現れませんでした。
丘に集まったお告げを受けたミミツキは、そのほとんどが運命の相手との再会を果たしています。
草原のあちこちでずっと会いたかった相手との抱擁がかわされていました。
そんな様子を、チカとリッカはしっぽをぱたぱたさせながら眺めていました。
「王さま。お告げを受けたのにひとりで虹の橋を渡ることなんてあるんですか?」
「いや、さすがに前例はないが……」
気を遣ってか、ふたりの側にいてくれる王さまに尋ねてみるもどこか戸惑った様子です。
……リッカが出会うべき相手は、どこに行ってしまったのでしょうか?
「ねぇ、お姉ちゃん。ひとつ訊いてもいい?」
「なあに?」
「前にお姉ちゃんが言ってた本当に欲しいものって、もしかして……」
あの絵本を初めて読んだ時、リッカと話したことをチカは思い出していました。
リッカがずっと前から欲しいと思っていて、一度はあきらめたもの。
でもやっぱり捨て切れずに、再びその手を伸ばしたもの。
「そうだよ」
最後まで言わずとも、リッカはチカの言いたいことがわかったみたいでした。
「わたしがずっと欲しかったのは、願ってたのは……大切なひととの約束が果たされることなの」
「……約束って?」
チカが何気なく訊くと、リッカは目を細めて穏やかに言いました。
「……いつか、虹の橋のたもとでまた会おうねって」
その目は自然と、丘に架かる虹の橋へと向けられました。
「二度と会えないのはわかってたのに、別れ際あの人はそう言ってくれたんだ。目の前がまっくらになって何も聞こえなくなって、体中の感覚がなくなっていく中で、確かにわたしにそう言ってくれたんだよ」
リッカは再びチカの方を向いて、にこりと微笑みました。
「だからきっとチカも、大切なひとと約束したからこの国にたどり着いたんだと思うな。今はまだ忘れてるかもしれないけどね」
「……でも、わたしは」
残念ながら、チカにはそんな約束をした覚えはありませんでした。
ただ、かつてリッカと同じようにとても大切なひとが居たこと。
そしてその人と二度と会えなくなってしまったことだけは、漠然とした寂しさとともに記憶に残っていました。
「……だとすると、チカの場合は逆なのかもしれないね」
「逆?」
チカのうっすらと思い出した記憶を語ると、リッカはそんなことを口にします。
「虹の橋で待ってるのは、わたしたちミミツキだけじゃないのかもってこと」
「……どういうこと?」
「もしチカよりもその人が先に亡くなってしまったのなら、一足先にこの国に来てるのかもしれないなぁって」
チカが予想もしていなかったリッカの言葉に驚いていると、そこになにやら聞き覚えのある元気な声が響きました。
「あー、やっと着いたー!!」
そこに春の女王、ヒナタがやってきました。
その後ろではスイ女王が不安そうに辺りをきょろきょろしています。
ふたりとも先日のようなドレス姿ではなく、動きやすそうな若草色のワンピースを身にまとっていました。
「チカ、おはよ。来る途中あっちこっちで再会の嵐が起きててなかなかここまで来られなかったよ」
「おはよ……ヒナタさんも渡りなの?」
「ううん。あたしは付き添い。っていうか見送りかな。スイがこの国を去るのをちゃんと見届けてあげたいなと思って」
本当は夏の女王と秋の女王も来たがってたんだけどね、と言いながらスイ女王の方を振り向きます。
するとその冬の女王に向けて、ひとりのミミツキから熱い視線が注がれていました。
「スイ……さま……」
「え?」
突然リッカが立ち上がると、そのままうるんだ瞳でスイ女王の元へと駆け寄り、その身を深く埋めました。
そしてそのまま優しく強く、その身体を抱きしめます。
「え……? あれ……?」
リッカに抱きつかれたスイ女王の瞳から、自然と涙がこぼれます。
どうして自分が泣いているのかわからないのに、次から次へと涙が溢れて止まりませんでした。
「やっぱり、あなたでした」
リッカが顔を上げて、紅潮した顔でスイに告げます。
「初めてその姿をお見かけしたときから、どういうわけかずっと気になっていたんです。今までそれは、あなたが冬の女王という特別な方だからと思ってました。でも本当は、そうじゃなかったんです」
季節の女王を退いたひとりのミミナシであるスイは、その言葉に目を大きく見開きました。
「ようやく、ようやく会うことができました。ずっと探してた……大切なひと」
「あ……」
ようやく気がついたのでしょうか。
スイの両手がゆっくりと、その胸に抱かれたリッカの背中に回されます。
そしてガラス細工を扱うように、壊れないよう、そっと優しく抱きとめたのです。
「そっか……あなただったんだ。私がずっと探してた、とっても大切だった……愛しい子」
「はい……」
「冷たくなっていくあなたをただ見ていることしか出来なかった。願いが届くなんて思ってなかったけど、それでも信じていたかった。でも本当にまた、こうしてめぐり会うことができた。……約束、ちゃんと叶ったのね」
「……はいっ!」
リッカの歓喜の声をきっかけに、ふたりはぎゅっと抱き合います。
瞳は涙でいっぱいだったものの、その表情はこの上ない幸せであふれていました。
虹のたもとで再会したふたりは、もう二度と離ればなれになることはないのです。
「……え?」
呆然とその様子を見ていたチカとヒナタが、同時に我に返ります。
「「えええええーーーっっ!?」」
ふたりの声が、澄み渡った空に響きわたりました。
第10話 廻り廻る季節といのち
それから。
緑広がる草原で再会したミミナシとミミツキ達は、再会の喜びを分かちあうと虹の橋のたもとに集まりました。
見送りに来たかつての家族や友人に囲まれながら、約束を果たしたふたりはお互いの手を繋いで丘を登ります。
もう二度と離れない。
その決意を示すかのように強く強く。
失ってしまったはずの大切なものを、決して見失わないように。
「スイ元女王よ。皆そろったようだ」
丘の上、虹の橋の前に、ちょっとした人だかりができていました。
その先頭には犬の王さまとただのミミナシに戻ったスイ、その隣には手を繋いだままのリッカが並んでいます。
「渡りを行う前に、大事なことを伝えるのを忘れていました」
そう切り出したスイはこれからこの国から去るものと残るもの、みんなに向けて語り始めます。
「今日この場には来ておりませんが、次の冬の女王が無事引き継がれたことをお伝えします。季節の女王はこの国のミミナシからそれぞれひとり、かみさまからのお告げによって選ばれます。新しい冬の女王はかつての私のように冬の心を持った、ひとりのミミナシへと受け継がれました。季節は廻り、来年もまた冬がやってくるでしょう」
その言葉に場が少しだけざわつきました。
「かつての私のように冷たく、雪に閉ざされた心を持つ女王です。おそらく次の冬まで皆さまの前に姿を現すことはないでしょう」
そういうと、スイは少しだけ目を伏せました。
新しい女王にかつての自分を重ねているのかもしれません。
「けれどいつか、新たな冬にも春が訪れることを願っています。……冷たい氷に覆われていた冬が、ちいさな春の使者に雪解けをもたらされたように」
そう言いながら、スイ女王はチカのことをじっと見つめました。
「改めてありがとう、チカ」
チカは自分がお礼を言われるのは違うんじゃないかな、と思いました。
冬の女王を塔から出した一番の貢献者は、その隣に居るリッカだと思ったのです。
「……それでは、これより渡りを執りおこなう」
しかしその想いは、王さまの声でかき消されてしまいました。
「一度虹の橋を渡ればこの国には戻ってこられない。先に進むことはできても、後戻りは許されない。心に迷いがあるものは、意を決してから橋を渡るといい」
その言葉に、お告げを受けたミミツキとミミナシたちがお互いの顔を見合わせ始めます。
これで最後。
本当に最後。
そう思うと、みんなどうしても名残惜しさがわいてきてしまうのでした。
ここにいるお告げを受けた人達は、みんなこの国で魂の傷を癒したからこそ虹の橋を渡ることが出来るようになりました。
この国を去りがたい気持ちはスイ女王だけではなく、みんなが持っている気持ちなのです。
「……誰も先陣を切らないなら、私たちがよろしいですか?」
そんな中、最初に虹の橋へと歩を進めたのはスイとリッカでした。
「わたしたちの心は決まりました。お別れする人にはみんなお別れを告げてきましたし、ちゃんとわたしたちを見送ってくれる子も居ますから」
落ち着いた声でそう言うと、リッカはゆっくりとチカの方を振り向きました。
その瞳は優しそうなのに、どこか儚さを感じさせます。
そんなリッカの姿を見て、チカの胸中はぐらぐらと揺れ始めました。
行ってしまう。
お姉ちゃんが虹の向こうに行ってしまう。
もう二度と、会えなくなってしまう。
チカが何か言葉をかけようと必死で考えていると、その隣に居たヒナタがすっとスイのそばまで歩いて行きました。
「じゃあね、スイ。同じ季節の女王だからとかじゃなくて、本当にスイが好きだった。友達になれて……この国でめぐり会えて、よかった」
「…………」
春の言葉に、去りゆく冬は無言でうなづきました。
そして軽く抱擁をしたあと、そっと身体を離します。
「……チカ」
伝えるべき言葉が見つからず、ただじっとリッカのことを見つめているチカに向けて、リッカが最後のメッセージを送ります。
泣きそうになっているチカの表情にリッカは一瞬だけ目を伏せるも、ぱっと笑顔の花を咲かせました。
「また、いつかね」
その笑顔には、一点の曇りもありません。
「わたしがスイさまとまた会えたみたいに、きっとチカともまためぐり会えるって信じてる。……虹の向こうで、待ってるからね」
立花はそういうと、踏ん切りをつけるようにチカから目をそらしました。
そしてその目はまっすぐに虹の向こうへと向けられます。
スイの心もリッカの心も、確かにもう定まっていました。
集まった多くの人達が見つめる中、ふたりは虹の橋の一段目へと足を向けます。
繋いだその手は強く繋がれ、引き返したいと思うお互いの弱い心を支え合っているかのようでした。
そのままふたりは虹の橋をのぼり始めました。
その先にはもう、チカもヒナタも進むことはできません。
遠のいていくふたりの背中は、こちらを振り返ることはありませんでした。
「……お姉ちゃん。それに冬の女王さま」
そんな背中に向けて、チカは言い残した言葉を口にします。
ふたりは振り向くこともなく、何も言わずその場でゆっくりと足を止めました。
「元気で、幸せにね。……いつかまた、きっと会おうね」
笑顔でそれだけ言い残すと、散花は虹の橋に背を向けてゆっくりと丘の下へと歩いて行きます。
これ以上、名残惜しさや未練が強くならないように。
このお別れが、悲しい思い出にならないように。
進むことを決めたふたりが、このまま虹の先へと迷わず歩いて行けるように。
そうして遠ざかるチカの背中を、虹の橋のたもとからヒナタは無言で見送りました。
橋の途中で足を止めていた渡りのふたりも、繋いだ手を強く握り直し、再び歩き始めます。
ここから先はそれぞれの道を。
けれど一緒に過ごしたあたたかな日々は、大切な思い出として心の中に。
スイとリッカはもう振り返ることなく、虹の先へと歩き始めました。
* * *
「…………」
草原に一本だけ立っている大きな木の下に、一匹の仔猫がちょこんと腰掛けていました。
春の木漏れ日を受けながら、その瞳は丘から空の上まで続く虹の橋へと向けられています。
その虹の上では何人ものミミツキとミミナシが、天の国へ渡りを始めていました。
「ここに居たか、チカよ」
虹の橋を渡るミミナシとミミツキ達を眺めているチカの元に、犬の王さまがやってきました。
どこかぼうっとした目で見るチカに少し頬を緩ませると、そのままチカの隣にゆっくりと腰かけます。
「そういえば、褒美がまだだったな」
チカと同じく虹の橋を眺めながら、王さまは思い出したように言いました。
「冬の女王を塔から無事に出して春を到来させたその働き、深く感謝する。遅くなったが、なんでも望みのものを言うといい」
「望みの、もの……」
チカの目は、自然と虹の橋の方に向きました。
その先には橋を渡っていく、たくさんのふたり組みが映っています。
幸せそうな、笑顔の群れ。
あの人達が渡っていく虹の向こうには、どんな素敵な世界があるのでしょうか。
しかしその虹の橋を渡ることは、チカはまだ許されていませんでした。
「…………」
王様は、その様子を見ただけでチカの望みがわかったようでした。
「チカよ」
王様は心苦しそうに、チカに告げるのです。
「お前もあの橋を渡りたいのだろう? 大切なミミナシの誰かとともに」
王様の言葉にチカが振り向くと、その瞳はとても優しい光を帯びていました。
「……わしもじゃよ」
そのぽつりと紡がれた言葉はとても寂しそうでした。
「王さまも?」
「わしにもとても大切な方がおったのだよ。今ではおぼろげな記憶しかないが、わしにあたたかなぬくもりをくれた方だった」
「……王さまは」
その言葉に何かを言いかけたものの、少し迷ってからその続きをチカは口にします。
「王さまは、その人と会うのをあきらめたことはないの?」
チカの頭にはかつてリッカが浮かべていた暗い笑顔が浮かんでいました。
待ち続けて待ち続けて、それでも出会えない大切なひと。
何人もの渡りを見届けて、その度に置いていかれる気持ちを味わっても、その気持ちに変わりはないのでしょうか。
「ないさ」
しかしその問いに、王さまは即答するのです。
「あの方が約束を違えるはずがないと、信じておるからな」
そう言って、ひとりの忠犬は優しい目でチカを見つめました。
「わしはこの国に来てから、ずっとあの方を待っておるのだ。別れ際に虹の橋のたもとでまた会おうとおっしゃってくれたことだけは、どれだけの時が経とうと忘れることはないからな」
そういうと、その老犬はニカッと歯を見せてごまかすように笑いました。
「あの方の顔は忘れても、その約束だけは覚えとるのさ」
王さまはどのくらい、この国でその人を待ち続けてきたのでしょう。
どれかけの人がこの国を訪れ、そして先に去って行くのを見届けてきたのでしょうか。
「じゃからの、チカ。いつになるかはわからんが、この国のミミツキは、みなミミナシの方々と虹の橋を渡る時が来る」
チカにはその言葉はどこか、自分に言い聞かせているような響きがあるように感じられました。
「故に、渡りを叶えることはできないのだ。代わりに他に望みがあれば、多少の無理でも聞くことにしよう」
「…………」
チカにはたくさんの欲しいものがあったはずでした。
新しいお洋服、綺麗なアクセサリー、おいしいごはん、楽しい遊び道具。
でもこの光景を見てしまうと、そのどれもが霞んでしまうのです。
だって虹の橋を渡るミミツキとミミナシ達は、この世の幸せを詰め込んだように満たされた笑顔を浮かべているのですから。
……いつか。
いつか、わたしもお姉ちゃんにとっての冬の女王さまみたいな人と会えるのかな。
わたしはすっかり忘れちゃってるけど、その人の顔を見れば思い出すのかな。
遠い記憶の中の、おぼろげな誰か。
チカに優しくしてくれた、たくさんのぬくもりをくれた、とても大切なひと。
――虹の橋のたもとで、先に待ってるからね。
「……あれ?」
ふいに、ひとつの言葉がチカの思い出箱からぽろりとこぼれ落ちました。
誰かとの別れ際、かすれた声で紡がれた一言。
冷たくて細い指で触れられた、かさかさの感触。
空気の止まった部屋。窓から差し込む春の陽射し。ずっと敷かれたままの布団。
まっしろな服を着た難しそうな表情をするミミナシの人と、あのひとに似たふたりの男女。
弱々しくなっていく、大切なひと。
『……先に待ってるからね、チカ』
あのひととかわされた、最後の言葉。
チカにぬくもりをくれたその手から、少しずつ失われていく、体温。
「あ、チカこんなところにいたー!」
遠い記憶に想いをはせていると、突然の元気で我に返りました。
声のした方を見ると、春の女王ことヒナタがこっちに走ってくるところでした。
「探したんだよ? 色々あってお礼言い忘れてたから、ちゃんとありがとうって言わないとダメだと思ってたんだ」
「そんな……いいのに」
そう言いながら春の陽射しのような笑顔を浮かべると、ヒナタはチカの隣に勢いよく腰掛けます。
そしてそのまま目線を上に上げると、チカたちが見ている虹の橋を何も言わずに見つめました。
その瞳からはヒナタの内心をうかがい知ることは出来ませんでした。
そうして少しの沈黙があって、ミミナシと仔猫と老犬は、晴れ渡る空に架かる虹の橋を眺めていました。
そこに、ひとすじの強い風が吹きました。
風は草原をさらさらと鳴らしながら通りぬけ、ヒナタの金色の髪もバサバサとかき乱します。
慌てて髪を抑えるヒナタから、ほのかな甘い春の香りが漂いました。
――あれ?
その香りに、チカは遠い記憶を揺さぶられます。
もう忘れてしまった遠い春の日に、それと同じ匂いを嗅いだことがあるような気がしたのです。
おひさまとひだまりの匂いに混じった、かすかな甘い花の香り。
そしてそれは、チカにとって誰よりも大切なひとの匂いでもあって……。
「どうかした?」
にっこりと微笑むヒナタには、チカの気持ちなんて知る術はありません。
しかしチカは、心の中でなにかがカチリと音を立ててはまったような気がしました。
もしかして。
いつかわたしが、虹の橋を一緒に渡る相手は――
「……ねぇ、王さま」
「なんだ?」
「わたし、季節廻りの塔にヒナタさんに会いに行きたい。それがお願いじゃダメですか?」
チカは王さまをまっすぐに見つめながらそれを口にします。
王さまは、チカとその言葉に目をまんまるにしている春の女王を交互に見つめ、しばらく何かを考えているようでした。
「……なるほどな」
そしてふふっと穏やかに微笑むと、「構わんよ」と短く答えました。
「ヒナタ女王。わしも考えを改めないとならんのかもな」
「……はい?」
「ミミナシとミミツキ、それぞれが渡りまで別々に暮らすのは正しいのかどうか、今一度改めてみようと思う」
そう言い残すと王さまはあっけにとられているヒナタをそのままに、その場を後にしようとしました。
「……待って!」
その去り際に、チカは叫びます。
老犬はゆっくりと振り向くと、何も言わずに仔猫をじっと見つめました。
「いつかきっと、王さまも虹の橋を渡れる日が絶対に来るよ。大切なそのひとと、まためぐり会うことができるはずだよ!」
チカの言葉にはなんの根拠もありません。
しかしその言葉を受けた王さまは、ただにっこりと笑顔を浮かべると、お礼を言うように片手をあげて去って行くのでした。
「え、なに? どういうこと?」
「あのね。本当はわたしたち、季節廻りの塔に近づいちゃダメって言われてるの」
今までチカ達ミミツキは、ミミナシの人達が利用している場所に近づくことは禁じられていました。
四季を司る季節廻りの塔もそのひとつなのです。
「だからね、王さまへのお願いはそれにしたの。今度からはヒナタさんが塔に住むんだよね? 遊びに行ってもいい?」
最初こそヒナタは「お願い、それでよかったの?」と言いたげな顔をしていましたが、まっすぐに自分を見つめるチカを見て、ようやく納得した様子で快活な笑みを浮かべました。
「いいよー! 大歓迎っ!!」
……チカの直感は、もしかしたらただの思い過ごしなのかもしれません。
その日が来るまではお互いが探している相手なのか、本当にわかることはないからです。
けれどお告げが来るまでは、チカもヒナタもこの国の住民でしたから。
だから、今はまだ。
「それじゃあ、チカのためにとっておきのごはんを用意しておくね。春の味覚料理、いっぱい作っちゃうから」
「……うん!」
そう言って立ち上がると、ふたりは手を繋ぎます。
――いつかの春。
やがてお告げを受けたときに、ふたりはすべてを思い出すのでしょう。
その時もこうやって手を繋ぎながら、あの虹の向こうへ歩いて行くのかもしれません。
しかしそれは、まだまだ遠い春のお話。
それまではこの悠久の国で、ただ穏やかで優しい日々を。
「ねぇ、チカ」
「うん?」
「今さらだけどさ。あたし達って、昔どこかで会ったことない?」
その問いかけにチカは何も言わず、ただ笑顔の花を満開に咲かせるのでした。
廻り廻る、季節の中で。