薄茶の瞳

「金目銀目星型瞳。別に特別な物が見えるわけじゃないの。普通よりもデリケートなのに働きは特に違わないって、何だか損してるみたい」
 真っ赤な首輪に金の鈴をつけられて、先程までくるくると回っていた黒猫は、静那の膝でくったりとしている。静那はずっと猫を見つめ、その輪郭をなぞりながら、猫の代わりに不貞腐れてみせた。
「疲れたんだな。それで目が覚めたら、もう、鈴の事なんて、産まれた時からついていたみたいな顔をしているんだろう」
 午後になっても雨は降り止まず、雨水で飽和した五月の大気はかすかに冷たい。黒い猫は静那の腕の中にきっちりと丸くなっていたが、時折、伸びをするように後ろ足を突っ張って、静那の腹部に鼻先を突っ込んだ。霧尾はふと、自分の鼻先に、暖かくて柔らかな静那の腹を感じた。
 静那が神経質なほどゆっくりとテーブルのコーヒーカップを取上げる。黒い猫の手が、何かを抱えるかのように、キュッと丸まる。
「そいつが来て、もう何年になる?」
「忘れたわ。ずっといるのよ」
「猫は十年生きると化けるっていうぜ」
「百年じゃなかった? でも化けてもいいわ。死んじゃうよりも、ずっといい」
 霧尾のコーヒーは静かに冷めていく。雨は次第に細かくなっていった。四時の鐘が鳴った。
 霧尾は突然、乱暴にコーヒーカップを掴むと、冷たくなったコーヒーを一気に飲み干した。口の中に苦味とコーヒーの滓が残り、その忌々しさが、自分を徹底的に冷酷にするような気がした。
「あ」と静那が短い声を上げる。黒い猫が寝返りを打ち、そこだけは真っ白の腹を上にむけ、四肢を静那の腕からはみ出させようともがき始めた。金の鈴が細かく震える。霧尾は何故だかその鈴の音が、自分の体にねじ込まれてくるかのように不快だった。
「静那」
「駄目よ。落ちちゃうじゃない。ほら、ちゃんと丸くなって」
 静那の無造作に束ねられた豊かな黒髪が、なだめらている黒い猫のようなシナを作る。黒い猫は何故だか、その場にいることが、もう1秒足りとも耐えられないとでもいうような勢いで、静那の腕を掻い潜る。
「イタチかウナギのようだね」
 飛び出した黒い猫の腰の辺りを辛うじて捕まえた静那の手の先から、だらりと垂れている黒い猫の半身が、何事も無かったかのように顔を洗っている。その様子が面白いのか、静那は猫を半分だけ抱えたまま身動きしない。

 こんな時だった。霧尾にとって静那が遠くにいるように感じられるのは。

「早く抱いてやれば。辛そうだよ。その姿勢」
 静那は答えずにそのまま立ちあがると、ダイニングを出ていった。全く、こんな時だった。静那とは随分と長い時間を一緒に過ごし、同じ物を見て、同じ事を感じられると思っているのに、それは霧尾の独り合点でしかなく、本当に通じ合うものなど何も無いのではないかと、考えてしまうのは。

「出ていったわ。きっと抜けられない寄り合いがあるのね。雨も上がったみたい」
 静那はそう言って寂しく笑った。顔に落ちかかる黒髪の下には、滲むように白い肌と大きな瞳が覗いている。今日、こうして顔を見るのは始めてだった。静那はいつも黒い猫を見ていた。霧尾は、黒い猫が時折くれる一瞥の中に、静那の感情を読み取っていた。それはまともなコミュニケーションでは無いと、霧尾は思っていた。
「静那」
「なあに?」
 向かい合って座る二人の瞳が交錯し合う。静那の瞳。右目は甘露飴のような漆黒の瞳。そして、左目は、様々な色彩の点を散らした薄茶色の瞳。
「君はさっき、金目銀目星型瞳の話をしていた。働きは同じだと言っていた。でも、僕はそうは思わない。君は、いや君達は、きっと僕の見られない物を見ている。違う世界を見ているに違いない。こうして顔を合わせていても、君の左目はきっと僕ではなく、他の世界を重ねてみているに違いない。ただそれが産まれつきだから、君には違いが分からない」
「そうかな? 同じだと思うけど」
 静那は微笑を浮かべて頬杖をつき、左右の眼を交互に閉じたり開いたりしてみせた。
「どっちにも貴方がいるわ。あなたは今日は疲れたのよ。ずっと家にいて、私のお守をしてくれたから。少し外の空気を吸ってきた方がいいわ」
「そうだな。そうかもしれない」
 玄関先で、静那から手渡された包みから鈴の音が響いてくる。それが金色だという事は、あけて見なくてもわかる。庭先の車は無数の猫の足跡で泥だらけだ。霧尾は無力感に打ちひしがれたまま、ギアをバックにいれた。

 傾いた五月の日差しが浅い角度で助手席の窓越しに霧尾の顔を照らしていた。道路に車を出すために覗いたバックミラーに映る自分の顔が、これまで見知っていた顔とまるで違っていることに、霧尾は気付いた。左目のせいだった。夕日が霧尾の左目を浅く貫き、赤茶けた色に変わっている。霧尾は我を忘れて辺りを見渡した。
「これか。これがその世界なのか」
 バンパーが激しい音を立ててコンクリートブロックに突っ込んでいく瞬間、嘲るような鈴の音と一緒に、金色の星がひらりと舞った。遠くで静那の声が聞こえた。
「お帰り。早かったのね。ご飯にしようね」

終わり

薄茶の瞳

薄茶の瞳

こんな時だった。霧尾にとって静那が遠くにいるように感じられるのは。

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更新日
登録日
2017-03-07

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