横たわる男のいる世界
一人の男が横たわっている。畳の上だ。六畳間の真中の、蛍光灯の傘の真下に、男の臍が丁度ある。頭を北東にむけて、男は真っ直ぐに横たわっている。
朝は新聞配達が来る。昼は幾度となくチャイムが鳴る。しかし、男は出ない。夕には食材の配達がある。男はあお向けのまま畳を滑り、玄関から、新聞と食材とを獲り込む。鮮度の悪いものと良いものを一緒に。いつも、誰の顔もみないうちに日は沈む。
東向きに一枚だけある窓の外へ、肘のあたりまで手を伸ばせば、五階建てのアパート兼テナントビルの、油じみた茶色の壁に指先が触れる。ひっきりなしの音。縦にずらりと並んだ空調機のファンの音。男の耳は、それを無視することで静寂を生成しようとしていたが、不定期的に、つんのめるように停止するファンの打撃音が、男の鼓膜を叩く。「そうはさせない」とわめきたてる。男はあと少しで自分の物になるはずの静寂に、いつも逃げられ苛ついている。
この部屋に、光が差し込む事は無い。畳から膝小僧の高さほど床から離れたアルミの引き違いサッシのガラスは、かつては透明だったようだ。今では幾層にもこびりついた埃のせいで、池に堆積した泥の色をしている。かすかながら感じられる天空からの反射光も、濁った池の泥にひそむ鯰が見上げているであろう光に似ていた。
濁った茶色の六角形が連なったガラス越しでは、昼と夜の区別はごくわずかだった。男は光を嫌う両生類のように、泥の底に潜んでいる。
室内の西の壁は、平米三百円のビニルクロス張りで、以前の住人達の生活のうちの最も獣じみた欲求の発露が定着させられている。黒い手形、ポマードの後頭部、後ろ姿。
影は光が無くても存在する。原爆で投影された階段上の人物のように。この部屋の住人は、皆、この壁の影となって消えた。男はふとそう思ってみる。このガラスが突如として透明となり、テナントビルの茶色の壁が、超常現象的に消失した瞬間に、この部屋で暮らしていた人間達は皆、この壁の染みになって消え、三百円の壁紙になるのだろう。
天井と壁との間で45度の斜辺を形成した蜘蛛の巣だけが、純粋無垢な白色にきらめいている。この白に捕らえられる虫達は、だから蜘蛛の花嫁なのだと思う。従順で献身的な花嫁達。だが、そうさせるために蜘蛛はめまぐるしい活動をしなければならないのだ。
横たわる男にとって、天井までの距離は遥かだ。畳に背をべったりとつけているこの床上が現在だとして、あの暗がりにぼんやりと浮かぶ天井は、一体、未来なのか、それとも過去なのか。
垂れ下がる蜘蛛の巣の残骸が、暗がりの中から一条の光として弱弱しくある。それは打ち捨てられた空間が内包し続けた時間が、つららとなって垂れ下がってきているようにも見える。とうてい、あんな物を登れるはずは無いのだが、招き寄せるかのように、垂れ下がるつららに向かって手を差し伸べてみたりもする。すると、確かだった筈の指先がまるで粒子の気まぐれな集合によって、その場を限り、創出されただけの錯覚かと思われてくる。実際、感覚はひどくあいまいで、通奏低音のような痺れだけが唯一の実感でしかない。無感覚という感覚だけが、男の手を、腕を肩を、そう、そうやって全身にまで広がっていく。ばたりという音と、かすかな痛みとの奇妙な時間差。その間隙にだけ、男は存在しているような気持ちになる。
直方体であるはずの部屋が輪郭を曖昧にした卵型をしているのだという事実と、消失した四箇所の隅では、全く別の時間、別の空間が存在しているのだという確信は、やがて、どんどん小さくなる卵を夢想させたが、果たしてこの卵が自分の体の寸法よりも収縮した時には、自分も収縮しつつ泥の中の現実を生きねばならないのか、殻からはみ出した自分が、今度は四隅から浸潤した闇の世界に移住できるものなのかについては、分からなかった。
葉書が届く。「まだいるのかい?」それだけが書いてある。返事は必要ない。
泥の色が闇に掻き消されるのが夜だ。減圧室の減圧が完了したのと同じ原理で、男は玄関を出ていく。
広大な戸外などなかった。男は自分の周辺しか感知できず、その範囲が六畳の卵内と同等だという事を知っている。「その向こう」は常に曖昧だった。男にとって戸外を歩くことは夢を見ることと似ていた。男は人攫いの風貌でじっと前を見詰める。はるか彼方の曖昧な、過去だか未来だか分からない天井を凝視したまま、時折ふっと、闇の粒子に紛れながら…
横たわる男のいる世界