御伽夜話

一 霧の虹

私は、明らかに夢と判る場所にあって、深夜の山間に車をとばしていた。道が上下に分かれる処で、ぼんやりと滲む赤い光が、斜面に被さる滑らかなコンクリートに彩りを添えていた。気がつくと車は停まっており、鮮やかな藍色に沈みかけている。
青い制服の者達が数人、こちらに注意を寄せている。工事用のランプの明滅の隙間から、一人の男がため息と共に近づいてくる。手には、赤と白の旗を持っている。
「もういけません」
 振りかえりながら男が言う。つられて私も目を転じる。なだらかな坂道にも、切り立った斜面にも、隙間の無い程に老若男女が爪先立ちをしているのが見える。
「なんなのです?」
 そう尋ねた先から、私にはもう、「霧の虹」が出現しているのだということが分かっていた。すると、自分はこんな深夜に、まさにそれを見るためだけに、こんな山深いところまで車を走らせてきたのだという事を思い出した。
 眼を上げると、青い男は元の位置に戻ってしきりに首を傾げている。私は車を降り、踵を引き上げながら、群衆の間を泳いだ。そして、斜面を抉るように建っている和風住宅の二階の高さにあるガードレールに硬い尻を乗せ、尻の汚れるのを気にしながら、忘れさられた洗濯物の翻るのを眺めている。
「……地域が限定されているので、climateよりはweatherの方が適切だ……」
 私はふと、そんな思考を洩らした。すると、着物をからげた色の黒い女が、姉さん頭の下からきまりが悪そうに洗濯物を取り込むと、暗い室内に引き下がっていった。
 何千という瞳の先には、テレビのアンテナが立っていた。そこには、ミョウバンの結晶のようなものが、ヒトデ形に凝縮していて、月の光に照らされていた。それが白から青くなり、赤になり、やがてゆっくりと回転し始めたとき、群集は堪えていた息を一斉に吐き出し、低く長いどよめきを作った。
 私は落胆して車に戻り、サンルーフを開けて空を仰いだ。すると、白い帳の向こうに、二重の虹が映っているのが見えた。光の拡散も、反射も無い。ただ、ペンキ絵のようにはっきりとした虹が、二重になって映っていた。

ニ 十歳と十三歳の姉妹

 私はこの家に招かれている。中に入ると騙し絵のような空間が曲芸をしている。吹き抜けを見下ろす廊下の突き当りには、障子の腰窓があって、内側には木のベッドが三つ並んでいる。腰を屈めて首を差し入れ、直角に捻ると、その部屋の突き当たりの壁には、やはり障子の腰窓があって、内側には木のベッドが並んでいるのが見える。首を抜き出して目の前の壁を撫でてみるが、入り口らしきものは見当たらない。当惑して、吹き抜けを見下ろすと、遠くに白く光る細い筋が見えた。あれは、川だろうと思う。
 再び階段の上り口まで戻ると、突然に、廊下が奥へとのびていて、左手から、家族の団欒が漂ってくる。私は遅れた詫びを言いながら、その団欒に加わる。主人も奥方も見えない。ただそこには、十歳と十三歳の姉妹がいて、豆のスープを飲んでいる。カウンターの奥では、冷蔵庫が何かを咀嚼するような物音を立てている。
 十三歳が私にスープをくれる。私はそれを啜る。冷たく冷えたスープで、喉にニガリのようなものが残った。
 ようやく皿を片付けると、遅れた詫びを言いながら一人の男が入ってくる。だが、姿は見えない。ただ、十歳がそわそわし始めるので、それと知れる。
「そうです。せんだってにはね、庁舎の主事がやってきて、玄関先に記念碑を建てていきました。何、天然石の大ぶりなやつですよ。はは、出入りに難儀をするほどです」
 さては、あの邪魔な石のことだろうと、私は見当をつける。主人はまんざらでもないように、髭を撫でているらしい。喉に残ったニガリをまとめて吐き出し、席を立とうとすると、十三歳がもう一杯のスープを私の前に置いた。
 やがて、夜も吹け、十三歳に手を引かれながら私は件の部屋に案内される。屋外に面した窓があり、その隣にはコインを入れると電源が入るテレビがある。
 十三歳の身体は細く冷たく、頑なだ。私は寝つかれなかったので、十三歳を解放する。屋外にテントを張って、固形燃料で湯を沸かしたかったためでもあったが、一人になると、私は自分の身体を持て余した。壁土をはがしながら、私はまたもや階段の上り口に立って、縦横に走る廊下を眺めている。すると、腰窓から十歳が覗いているのが見える。
「君も寝疲れないのか」
 そう言うと、十歳は身体を丸めて飛びついてくる。そして、私は先程のベッドとは別のベッドに十歳を包んで眠る。

三 水底の

 小学校以来、音信の途絶えていた友人が、この夏、貯水池の水番になって戻ってきた。私はそこの金網にもたれて彼を待っている。貯水池は清掃のため水が抜かれつつあり、下流では一つの村が沈んだのだ。そう空想しながら彼を待っていると、不意に肩を叩かれた。彼はニコニコと笑いながら
 「君の趣味は歪んでいる」
 と言う。
 「僕は、完全な物が好きなんだ」
 と躍起になって反論していると、反対側からも肩を叩かれた。すっきりと痩せた、これも彼と同じくらい音信不通だった幼馴染が、笑っている。
 午後の陽射しが、水面で幾万にも弾け、帽子の鍔を持ち上げる。淀んだ水は緑で、半透明の裾を引きずりながら気まぐれに吸い込まれていく。水路沿いの桜並木は満開で、ときおり花びらが緑に散る。
 「こいつが、水路を塞いじまうんだ」
 彼はいまいましげに舌打ちする。膝ほどの嵩になった水底に、幼馴染が何かを発見する。
 「――だ!」
 聞き返す暇もなく、彼女は桜を縫って走り去る。僕の目には、ただの緑の水と幾万もの光だけしか映らない。
 彼が小さく声をあげ、一点を指し示した。そこに僕はようやく二人の見つけたものを発見する。赤と緑のずんぐりしたものだ。名前を探しながら、私もその一点を指差す。
 「あれは、サンダーバードだ。しかし、なんだろうか?」
 彼は挑発的に瞳を光らせる。僕はその時、ある一つの物体が明らかな像を結んだので、間髪入れずに叫んだ。
 「サンダーバード2号だ。ずんぐりとした形。ジェット噴射口の二つの赤。間違えっこなしさ」
 彼は下唇を噛んで、貯水池に飛び込む。はでな水音と飛沫とが、私の帽子を吹き飛ばす。やがて、緑になった彼が水底からその物を掴み挙げてこちらに振る。逆光になってよく見えなかったが、それはサンダーバード2号ではなかった。
 ずんぐりとした形。ジェット噴射する二つの黄色。それは、サンダバード4号だった。
 戻ってきた彼と、現れたサンダーバード4号とを見比べながら、僕は
「色だ」
 と呟いた。彼もやはり
「色だよ」
 と呟いて、フェンスの上に危なげに乗っているサンダーバード4号の黄色を見つめている。

四 戸村

 格納庫でも体育館でもいいのだ。つまりそこで盛装の紳士淑女達がパーティーをしてさえいれば十分だ。鉄骨の骨組みに木造の屋根を載せた建物ならば、尚のこと好都合だ。屋根裏には足場があり、身を隠す材木が縦横に走っている。高窓に沿ったキャットウォークから、間仕切り用のネットを伝って、水銀灯の眩しい天井に到達する。突き当たりの鉄梯子を登って、点検口から天井裏に入れば、そこは、脆い足元から光の漏れる、薄暗い夜の廃墟そのものだ。
 戸村は、決して大勢の前には姿を見せない。こっそりと宴を抜け、屋根裏に逃れた若い男女にすら、その熱い息と血のたぎりは隠されている。今、男が憮然として出ていって、女が一人とり残された。梁を伝って、破れた緞帳の向こうから、戸村は、真紅のイブニングドレスの女の胸元を飾る薔薇の飾りに狙いをつける。
 歪んだシルエットが女の背中に落ちて、細く狭い階段の踊り場でなすすべなく白い肌が血飛沫に染まる。下では怠惰なダンス音楽が鳴り止まず、喧騒とお世辞の真っ最中だ。
 真っ赤に染まった女。天井を抜けて、一輪の薔薇のように髪を乱してくるくると、最初は首、続いて剥き出しの腕。ピンヒールを履いた足が最後に、特別誂えの噴水池の中へ、はでな飛沫をあげて、ぽとりぽとりと落ちる。
 主催者のアナウンスよりも早く、原色に糊塗された人々が出口へと殺到する。何人かは捻れて死んだ。何人かは潰れて死んだ。しかし、まだまだ、生きた人間の方が多いから、そして、出口は決して開かれないから、戸村は上方でゆうゆうと、女の子宮のあたりに下をのばしている。

五 猫

 その日以来、家人は私と起居を共にするようになった。三日目に猫が戻らなくなった。だが、家人がいたため私は何らの欠如をも感じることはなかった。
 「私のせいですわ」
 家人が猫の皿を見つめる。七宝の小皿、かすかなミルク、旧い新聞が、夕暮れの中で宙に浮いていた。
 「猫のやつめ、焼餅を焼いた」
 家人の唇が細かく震えた。
 「そんなふうに、言うものじゃないわ」
 家人は睫を濡らし、私の背後にぼうと立ちあがった。その瞳は奥に緑の炎を宿していた。
 「猫のやつめ。出て行くなら一人で出て行けばよいものを」
 私は独りごちた。
 しっぽりと夜である。
 家人に猫が降りた。ベルの音がきっかけだったのかもしれない。私は家人を宥めるのに手一杯で、電話の世話まではできなかった。家人は頭を振り、四足で襖といわず、畳といわず、ずたずたに掻き毟った。またたびを与えてみたが、効果は無かった。仕方が無いので、布団を引っ被り私は目を閉じた。家人の声が、首の後ろから滑り込んでくる。家人は私にのしかかり、跳ねまわった。非常に面倒だったが、家人の顔は端正なままだったので、私は家人を外に出すには忍びなかった。だから、うろつきまわる家人を、私は布団に押し込め、抱きかかえた。夜中の二時を回る頃、家人の憑き物が落ちた。だが、猫だった頃の余韻が冷めないのか、その後、夜が明けるまで、家人の中に留まらなければならなかった。

以上

御伽夜話

御伽夜話

エリックサティーのピアノ曲のような、環境小説になればと書きました。ぼんやりとした夢のエスキス。お好みのものがあれば幸いです

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  • ファンタジー
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-15

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  1. 一 霧の虹
  2. ニ 十歳と十三歳の姉妹
  3. 三 水底の
  4. 四 戸村
  5. 五 猫