瞼裏の残層1.5 午後の爆撃
中庭の緑の池にうつる百日紅の花にむかって、巨大な口を開けている黒鯉は、金色を透かして午後の陽射しを反映し、一層複雑になったさざ波立つ水面が作りだす金糸のモアレは、教室の天井を揺らしている。千志摩はその金色の菱形が黒板の右上方の、丁度数直線のマイナス3からプラス2の辺りにまで映っているのに気づいてからというもの、教師の持った黒板用コンパスのちらつきを、邪魔だと思いはじめていた。
「だから、絶対値というのは、この符号をだね……」
どこかに、百日紅も映っているはずだと、千志摩は考えた。一番前の一番窓際の席に座る千志摩の探検は、たとえそれが眼だけの探検であったとしても、困難を極めた。特に、算数の時間、教師は好んで千志摩を指名する事が多かった。国語と社会が好きだった千志摩にとって、数字と記号は特殊な言語として親しく、既に連立二次方程式を独学するほどだったが、図形はあまり好きではなかった。思うに、観念的モデルの導入が言語の豊穣さを失わせてしまっているのではなかろうかと、千志摩は考えていた。
「もう、自分はとっくにこの過程はマスターしてるっていう顔するのはよくないな。授業を真剣に聞くというのは、大切な事なんだ」
千志摩には、そんな理屈が我慢ならない。午後のこの時間になると、池の水面と教室の天井とが位相幾何学的に等しい値となる事さえ、教師は知らない。そして、千志摩の眼はさらにその奥へと分け入っていく。
天井に映る水面とは、水の成分と高低差による光の反射のみを抽出したモデルである。水面を純粋に光学的に解釈したものが、天井に投影されているのだ。これは光の働きによるのか、それとも水の性質によるのか、千志摩の興味はそちらに移っていった。
「いいか。数直線に表せない数はありません。数というのは、点の集まりです。この点はとても小さくて、その一つ一つを数えていくと、こういう線になるんだ。少数だって、みんなこの中に入っているんだぞ。0・0000000000000000001の次には0・00000000000000002がある訳じゃないんだ。何があると思う?0・0000000000000000001999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999まだまだ続くぞ、という数字があるわけだ。こうして、線とは無限の点に分割され、しかもこの分割された点には必ず対応する数があるわけだな。こうして、」
と教師はさらに、黒板の端から端に一直線に白いチョークを走らせる。微小な白い粉が辺りに舞い散る。千志摩は、ふと、こんなに小さなチョークの粉でも、今、この教室の正しい位置に影を落としているんだ、と思い、何だか、自分の胸のあたりがぱっくりと開いて、中から幾重にも折り畳まれた自分がどんどん広がっていくような気がしてくる。
「お前たちはまだ勉強をはじめたばかりだから、このように点をうった数直線を使えれば十分なんだ。この1と2の間はスカスカだな。だが、この中には本当に沢山の数字がぎっちりと詰まっているんだってことは、覚えておいてほしい。普段は見えないものでもな、そこにあるっていう事があるんだ世の中には。千志摩。聞いてるのかお前は」
最も入口側の角度から不定型な白い物体が、美しい放物線を描いて千志摩の机で乾いた音をたて、幾つかに別れたチョークの断片のうちの一つは、窓を越えて池へ飛び出し、もう一つは千志摩の左の眼に落下して波紋を描いた。机の上には、微細なチョークの粉がおびただしく積もり、ばったりと後ろに倒れた千志摩の顔にも降り積もり、息が詰まった。千志摩は見ていた。天井には、金色を巧みにくぐり抜ける魚雷型の黒い影が、目標深度に達しようとしていて、金や紅の鯉達がモアレに引っ掛かってもがいている様子が、くっきりと映し出されている。
「大げさだな。千志摩。おい千志摩」
教師はコンパスを取り落として窓際の席へ駆け寄ってくる。教卓にひっかかるサンダル。そしてヘッドスライディングする教師のジャージも、いつしか真っ白になっている。
転げた教師の立てた音。生徒らがこの事態に一斉に反応すべく息を吸った瞬間に、魚雷が設定深度に達した。轟音が響く。池に白い水柱が立ち、天井が崩れ落ちてくる。瓦礫と共に、無数の鯉がもがいている。鯉の口からは、次々と、百日紅の花が吐き出されてくる。全てを覆うように、白い粒子が急速に降り積もっていく。その重みで床が軋み始める。
瞼裏の残層1.5 午後の爆撃