遠い世界に願いを込めて。
prologue.
未開の森が、夜の帳に覆われつつあった。
時刻はもう黄昏時、逢魔時。
すべてが茜色に染まり、陽光は次第に弱まっていく。
木々の隙間から差していた明かりも、すっかりおぼろげなものになってきた。
草いきれの匂いが強くなった気がする。
少しずつ夏が近づいていた。昼は長く、夜は短くなっていく。
けれど、いつか必ず日は落ちる。
そして星々の広がる夜がやってくる。
あの冬の日に見た星空とは違う、夏の星座が並ぶ天宮が、置いていかれたあたしを見下ろす時間がやってくるんだ。
第1話 死を孕んだ少女たち
飼い猫のいちごがいなくなったのを知ったのは、学校から帰ってすぐのこと。
いちごはおうちが大好きで、なかなか外に出ようとしない臆病な猫だった。
家の庭に出るだけでも怖がるような子だったのに、そんないちごが急に姿を消したと聞かされたときは、さすがに耳を疑った。
お母さんの話だと、洗濯ものを干してる時に半開きにしてた庭へのガラス戸から抜け出して、そのままどこかに走っていくのを見たらしい。
それが最後の目撃情報だった。
あたしも家族も、いちごがインドア猫だからって油断し過ぎてたんだ。
いちごは子猫のころからずっと室内飼いの猫だった。
外の世界の怖さを何も知らずに今まで生きてきた。
もしこのまま見つからなかった場合、最悪のケースも考えなきゃならなくなる。
猫は気まぐれ。
それは、うちのいちごにも言えることだった。
そのまま見つかるあてもなく、だからと言ってじっとしてられないあたしは、夕暮れの街を走り回り必死でいちごの姿を探し続けた。
やがて商店街のアーケードまで来たときに、部活帰りの友人たちとばったり出くわす。
ファーストフードのドリンク片手に談笑していた彼女達は、全身汗びっしょりなあたしを見てぎょっとした表情を浮かべた。
「ちょっと翔子、どうしたの?」
息を切らせながらいちごがいなくなったことを告げる。
普段からあたしが猫バカなのを知ってる彼女達は、それだけで察してくれた。
「そういえば、いちごちゃんに似た猫をさっき見たけど……」
すると、その中のひとりから目撃証言を得ることができた。
その子は前にうちにも来たことがあって、いちごがどんな猫なのかをちゃんとわかってる猫好きな子だった。
「どこで見たのっ!?」
「え、えっと……町外れの森の方に行った……ような?」
その言葉を聞いたとたん、勝手に足が走り出していた。
友達の叫ぶ声なんて、全く意にも介さずに。
†
「ここ、どこなのよーっ!?」
……その結果、見事に森の中で迷ってしまい現在に至る。
友人のその言葉だけを頼りに、勢いで森の中に入ったあたしがバカだったのかもしれない。
森の中は、暗い。
夏に近づき昼が長くなったとはいえ、木々の間から差し込む陽光もすっかり薄くなってしまった。
今はまだ足下も見える明るさだけど、これから日が沈むにつれてどんどん闇に覆われていく。
なんにしても、このまま森の中で夜になったら間違いなく迷子になる。
迷子なんて甘いものじゃなくて、遭難なんてことになるかもしれない。
もちろん懐中電灯なんて持ってきてない。
それどころか学校から帰っていちごの失踪を聞いて、そのまま家を飛び出したから制服姿のままだ。
靴はローファーで走りにくいし、普段はパンツスタイルなことが多いから、スカートは動きにくくてものすごく鬱陶しい。
とてもアウトドアに向いた服装とは言えなかった。
スマホのライトなら使えるだろうけど、もし何かあったときのためにもバッテリーは温存しておきたいところ。
そう思い、あとどれくらい充電が残ってるかを確認する。
ついでだし、一度家に連絡をしておいた方がいいかもしれない。
しかしそこに表示されていたのは、今まで見たこともない二文字の単語。
――『圏外』。
「……はい?」
その表示を見たとたん、背筋を冷たいものがすり抜けた。
いくらこんな森の中だからって、携帯の電波くらい届いてないわけがない。
だってここ、富士の樹海でもなんでもない、ただの町外れの森の中だもの。
いくらなんでも、電波くらい来てないとおかしい距離のはず。
急に寒気がした。
携帯が使えないってことは、あたしは本当にひとりぼっちになってるってことだ。
誰とも繋がれないし、繋がることもできない。
完全なひとりっきりの状態。
「冗談……」
半笑いになって思わずそう独りごちると、背後のしげみからガサリと音がした。
思わず悲鳴を上げそうになりながら、反射的に後ずさる。
こういうパターンは映画やドラマで何度も見たことがあった。
そしてそこにいるであろう、ホラー映画に出てくるような化け物を想像して、バッと後ろを振り返る。
でもそこにいたのは怪しげな仮面を被った狂人でもなければ、この世のものとも思えない怪物でもなくて。
「…………」
女の子だった。
烏のようなしなやかな黒髪が腰まで伸びて、その先端はまっすぐにカットされている。肌は透き通るように色白で、どこか日本人形を思わせた。
歳は高校生のあたしよりも少し下、中学生くらいだろうか。
ただその服装は、あまりにも常軌を逸したものだった。
(……死に装束?)
真っ白な着物。
左前に揃えられたその着方。
頭に三角巾こそつけていないものの、その薄衣はどう考えても見間違いじゃない。
自然と、封じたはずの記憶の蓋がゆっくりと開かれた。
半年前、あたしの弟が病気でこの世を去った。
国から難病指定すらされていない、免疫系の稀有な疾患。
その葬儀にて、棺桶の中に入れられた時に着せられていた、儚いまでに白い衣。
「……っ」
ざっ、と記憶にノイズが走った。
一瞬視界が歪む。それ以上考えるなと、耳元で誰かが囁く声が聞こえた気がした。
思い出したくない、閉じ込めておきたい。
まだ向き合うには、辛すぎるから。
この眩みは、そういう警告。
あたしがどうにかなってしまうのを防ぐための、あたしの、無意識の防衛反応。
「……どうしたの? こんなところで」
だからか、自然とそんな問いかけをしていた。
思い出したくないと思った自分を騙すために、意識を逸らすために。
「道に迷ったの?」
「…………」
なんの言葉も返ってこない。
まるで棺桶から出てきたような、生気のない子だった。
でも幽霊なんかじゃない。足がちゃんとある。しっかりとした実体がある。
「……わからないんです」
やや時間を空けてから、女の子はか細い声で答えた。
「何も、覚えてないんです」
「え?」
「あの……私、誰なんですか……?」
予想外の答えに返す言葉が出てこない。
自分が何者かを訪ねるその表情はどこかすがるようで、からかっている様子はなかった。
これっていわゆる、記憶喪失とかいうやつだろうか。
「や、そんなこと訊かれても……」
「…………」
困惑気味に答えると、女の子は心細くなったのか俯いて目に涙を浮かべてしまう。
それを見て、慌てて次の言葉を続けた。
「じゃ、じゃあさ。何か身につけてるものとか、持ってるものとかない?」
「持ってるもの、ですか?」
「お財布とか携帯とか、何か自分のことがわかるようなものってないの?」
「なまえ……」
そう言うと、白衣の少女は自分の身体をあちこちぺたぺた叩き始める。
しかし着ているのはあの世に行くときに身につける死に装束だ。ポケットも何も付いてるわけがなくて、当然持ち物らしいものも見つかるわけもなく……
――しゃらん。
「……あれ?」
「はい?」
今、女の子の首元で何かが光った。
「その、首元につけてるのってなあに?」
「くびもと?」
そう言いながら、自分の首にかけられた何かにようやく気づく。
女の子が手に取ると、それは十字架のようだった。
「なんでしょう、これ?」
「……ロザリオ、かなぁ」
死に装束に、十字架。
和洋折衷もいいところな組み合わせではあるけれど、そこに介在するイメージは共通していた。
双方とも、想起されるものは「死」だ。
「……しのみや、おとぎ?」
「え?」
「あの、書いてあるんです。これに」
そう言って、首から十字架を外してあたしに見せてくる。
受け取るとそこそこの重量感があった。大きさはあたしの手の半分くらい。
素材はわからないけど鉄やプラスチック製じゃない、本格的なものだった。見た目からだと銀に見えるけど、純銀なのか銀メッキなのかはわからない。
とはいえデザイン自体はシンプルで、この手のものにありがちな架刑にされた大工の息子が掘られてるわけでもない。
ただ真っ平らな平面に、これと言った装飾もない。実にあっさりとした作りだった。
くるりと裏面にひっくり返してみると、そこには子どもが書いたような字で『しのみやおとぎ』とマジックで記されていた。
不思議とそれだけで、高価そうなロザリオが急におもちゃみたいに見えてくる。
「……あ」
「うん?」
「もうひとつありました、持ってるの」
手がかりを見つけてどこか嬉しそうに、一枚のカードを差し出してくる。
死に装束のどこに入っていたのかはわからないけど、ほんのりと人肌の残ったそのカードを受け取り、中を見てみると。
「……障害者手帳?」
表面にそう記された、二つ折りのちいさな手帳だった。
開いてみると目の前の女の子の写真とともに『篠宮乙木しのみやおとぎ』という名前と、生年月日や住所などの個人情報がつらつらと書かれている。
そして見慣れない表記が一つ。
『障害等級 2級』。
「これって……」
つまりこの子、篠宮乙木ちゃんはなんらかの障害を持った子だってことだ。
見た目的には障害らしい障害は見受けられない。けれどこれを持っているってことは、どこかが普通の子とは違うことを証明している。
もしかしたら、記憶がないのもそのせいなのかもしれない。
死に装束なんて突飛な格好で出歩いてるのも、もしかしたら。
あたしはこういうのに詳しくないからわからないけど、そう考えるとつじつまがあうような気もした。
「なんて書いてありましたか?」
「あー、うん……」
手帳を女の子――乙木ちゃんに返しながら、あたしは少し答えに迷う。
「……とりあえず、あなたの名前は篠宮乙木ちゃんで間違いないみたい」
「本当ですかっ」
「で、ちゃんと乙木ちゃんの家の住所も書いてあったよ。この森から出たらちゃんと送ってあげられそうかも」
「おうち……?」
あたしがそういうと、乙木ちゃんはどこか遠い目をした。
この世ではないどこか遠い世界を見ているような、そんな瞳。
「おうち、帰らないと」
「え?」
どこか呆然とそう呟くと、乙木ちゃんは何かに取り付かれたかのようにふらふらと歩き出した。
さすがに心配になり、慌ててそれを静止する。
「ちょっと待って、どこに行く気なの?」
「おうち、です」
「うん、帰るのはいいと思う。でも乙木ちゃん、ここがどこだかわかるの?」
「わからないです」
迷いなくそう答えた乙木ちゃんの目は、相変わらず虚ろなままだ。
あたしのことを見ているのに、どこかあたしを透かして違うものを見ているようなその表情に、少しだけぞわりとした。
「わからないけど、こっちに行かなきゃいけない気がするんです」
「……えっと、森の出口とかわからないでしょ?」
「わからないです。でもこっちに行かないといけないのは、なんとなくわかるんです」
……困った。
乙木ちゃんの言ってることを否定したくはないけど、何らかの障害を負っているのを知ってしまった以上、その発言をそのまま鵜呑みにするわけにもいかない。
あたしはできるだけ乙木ちゃんを傷つけないように、なんとかして別の突破口を作ろうと試みる。
「でも、もう暗くなるよ? 日が落ちたらこんな森でも出るのは簡単な話じゃなくなっちゃうよ」
「帰らなきゃ、ダメなんです」
「帰るって……」
見せてもらった手帳に書かれていた彼女の住所は、こんな町外れの森の中なんかじゃなかった。
迷ってるあたしが断言できることじゃないけど、乙木ちゃんが行こうとしてる方向はどう見ても街に向かう道とは違う気がする。
森のさらに奥に続く道。それを乙木ちゃんは辿ろうとしていた。
手帳には緊急連絡先の電話番号も書いてあったけど、スマホは相変わらず『圏外』の二文字を表示したまま。
乙木ちゃんのご家族に連絡することもできない。
だからといって、乙木ちゃんをこんな森の中に残していくこともできない。
「……お姉さんは、どうしてここに?」
あたしがどうしたものかとあれこれ考えていると、乙木ちゃんが小首を傾げながら訊いてきた。
「あたしはちょっと、猫を探してるんだ」
「……ねこ?」
「飼い猫なんだけどね。こう、全身黒毛で口の周りだけが白い、くりくりっとした瞳の猫なんだけど、見かけなかった?」
「見かけてないです……」
「そっか」
無理もなかった。こんな広大な森の中で、一匹の猫と出会う確率なんてそう高くない。
あたしだって、本音を言えば見つかるだなんて思ってない。
……だからって、探さずにはいられないじゃない。
大切な家族がいなくなったんだから。
「でも……」
「え?」
「もしかしたら、あそこにいるかもしれないです」
「あそこって?」
その問いかけに、ようやく焦点を取り戻した瞳で、しっかりとあたしを捉えながら答えを返す。
「この森に入ったのなら、他に行く場所なんてないはずですから」
力強く断言されたものの、発言の意図がよくわからない。
「えっと、ここの森っててっきりまだ開拓の手が入ってないと思ったんだけど……」
あたし達の住んでるこの街は、近年急激に開発が始まったばかりのいわゆるニュータウンだ。
それまで鬱蒼とした木々に覆われていた寒村を、都心で働く人向けに新たに開発された計画都市のひとつ。
開発が行われるまで既存の住民とあれこれあったらしいけど、それも今ではすっかり収束して穏やかな街になったんだよ、と前にお父さんが話していた。
もしかすると、乙木ちゃんは古くからこの地域に住んでる子なのかもしれない。
だとすれば、あたしみたいな新入りが知らないこの土地の側面を知ってたとしても不思議じゃない。
「もしかして、何か行く宛があるの?」
「この先に、森のおうちがあるんです」
「……なにそれ?」
「これから私が帰ろうとしてるところ、です」
『帰る』という言葉には、自宅に戻るという以外の意味があっただろうか。
もしくは第二の邸宅とか、そういう意味での『帰る』なんだろうか。
「……ただ、ひとりだと少し心細いので、お姉さんにも来てほしいです」
急なお誘いだった。
「ご一緒してくれますか?」
どこかすがるような問いかけ。
会ったばかりの素性の知らない相手にここまでぐいぐい来られるあたり、乙木ちゃんはやっぱりどこか少しズレてるのかもしれない、なんて思った。
日はすっかり傾いていた。
スマホで時刻を確認すれば、結構いい時間になってしまっている。
空気は次第に夜の冷気を纏いつつある。
このまま森の中で野宿するか、乙木ちゃんの言葉を信用して『森のおうち』に一晩お世話になるか。
この二択だと、選択権なんてあってないようなものだった。
「それじゃあ……お言葉に甘えようかな」
「はい、ぜひっ」
『森のおうち』がどんなところかは知らないけど、たぶん電話くらいはあるだろう。
着いたら家の人に事情を説明して、電話を借りて自宅に連絡を取れるかもしれない。
……もしかしたら、今ごろいちごも家にひょっこり帰ってきてるかもしれないし。
「遅れたけど、あたしは成瀬翔子っていうの。好きに呼んでくれていいから」
「翔子お姉ちゃん、ですね」
一瞬、表情が凍りつきそうになった。
『翔子お姉ちゃん』。
あたしのことをそう呼んでいた、もう二度と会えない家族のことを思い出してしまって。
「……翔子お姉ちゃん?」
「あ、うん。なんでもないの」
自分から好きに呼んでいいなんて言っておいて、撤回するわけにもいかない。
「それじゃあ、翔子お姉ちゃん。こっちです」
乙木ちゃんはまるで道を知っているかのように、あたしを先導し始めた。
あたしはと言えば、この状況に腑に落ちない薄気味悪さを感じながらも、黙って乙木ちゃんについていく以外の選択肢を持ってはいなかった。
第2話 逃げた猫を追って
手入れされていない木々の間をひたすら進む。
途中、何度も木の根に足を取られそうになり、蔦に絡まりそうになりながら、なんとかついていく。
先を行くのは白衣の少女。
記憶がないというのに、目指すべき場所がわかっているかのように迷いなく歩を進めていくその様は、まるであの世に誘われているかのような印象を受けた。
その後ろ姿を見ながら、本当にこの子を信用してもいいんだろうか、なんて疑惑が今さら渦巻き始めたころ。
――急に視界が開けた。
「……わ」
そこにあったのは、赤レンガ造りの古びた洋館。
ただし遊歩道もない。生け垣もない。そして門すらついていない。
森の中の空き地に突如姿を現したその館は、ただ屋敷だけを残してあるべき物が全て失われた状態で、堂々とそこに座していた。
その悠久の時を経た古城のような佇まいに、あたしの頭に一つの単語がよぎる。
――幽月邸。
クラスのゴシップ好きの子が以前話してたことがある。
なんでもこの街には、幽月邸と呼ばれる都市伝説があるのだとか。
町外れの森の中、ひっそりと佇む廃墟と化した洋館がある。
その館はあの世への入口。入ったら二度と現世に戻ってこられない。
そこではこの世を去った霊魂たちが集い、毎夜宴を開いているという。
そのために誰もいるはずのない無人の館から、多くの人々の話し声や楽しげな音楽が聞こえてくるのだとか。
森に入って迷った人がようやく明かりのついた屋敷を見つけ、助けを求めて入ってしまえば、そこですべてが一巻の終わり。
入ったら二度と出られない。幽月邸はあの世への入口。
この世とあの世を繋ぐ場所。
もし森で道に迷っても、決して入ってはならない禁断の屋敷――
……なんて話を、あたし達を怖がらせようと声を低くしながら語っていた。
その話を聞いて怖がる友達とは逆に、「そんなのあるわけないじゃん」と笑いながら返したら、「翔子はロマンがわかってないっ!」とむくれられたことがある。
そんな馬鹿げた話が、一瞬頭をよぎった。
日はすでに山の向こうに隠れ、辺りには薄闇がただよいつつあった。
そんな中、件の屋敷の窓からは紅いカーテン越しに確かに灯りが漏れている。
それは誰かのいる証明。
こんな街はずれの森の中に住む、もの好きな誰かがいるという証拠。
「……ここ、ですっ」
あたしを連れてきた乙木ちゃんは目的地に無事辿り着けたのに安心したのか、ほっとした表情でつぶやいた。
でもあたしは乙木ちゃんとは逆に、不安しか湧いてこない。
「……ここって、乙木ちゃんの家の別荘か何かなの?」
「わからないです」
そんなけろっとわからないって断言されても困る。
「でも、ここに来なきゃいけない理由があった気がするんです」
「……へぇ」
記憶はないのに、この場所への執着心だけはちゃんと残っている。
それほど乙木ちゃんにとって印象の強い場所ということなんだろうか。
とにかく、このままでいても|埒があかない。
あたし達は館の入口まで近づいて、とりあえず呼び鈴やインターホンといったものを探してみるが、見つからない。
仕方ないからエントランスを抜けて、直接入口の大扉にコンコンとノックしてみる。
なんの反応もなかった。
「……そりゃこんだけ大きなお屋敷なのに、ノックで気づくわけないわよね」
しかしこうなるとどうしたものかと考えていると、扉の中央になにやら窪みがあるのに気づいた。
本来なら鍵穴があるだろう場所に、ぽっかりと空いたちいさな空洞。
……それは紛れもなく、十字架の形をしていた。
「……乙木ちゃん?」
「はい?」
「あのさ、さっきのロザリオ、貸してもらってもいい?」
ある種の確信を持って、乙木ちゃんからロザリオを受け取る。
そしてそれをその窪みに当てはめてみる。
……予想通り、ぴったりと当てはまった。
がちゃり、と鍵の開く音がした。
試しにドアを押してみると本当に開いたらしく、なんの抵抗もなくスッとドアは開閉に応じてくれる。
「ずいぶん変わった……いや、凝った仕掛けなんだね」
「……私もびっくりです」
それこそゲームでしか見たことのないようなカラクリに思わず感想を口にすると、同じく乙木ちゃんもそんなことを言った。
危うく口元まで「乙木ちゃんの家じゃないの?」という言葉が出かかったが、かろうじてそれを押し留めるのに成功する。
ともあれ、これでひとつ確信したことがある。
乙木ちゃんは間違いなくこの屋敷の関係者だ。
そうでなきゃ、こんなに凝った扉の鍵を持っていることの説明が付かない。
「とりあえず行きましょうか、翔子お姉ちゃん」
「あ……勝手に入っちゃっていいの?」
「ダメなんですか?」
そう訊かれると何も言えない。
外から内部の人間と連絡を取る手段がないのは既に確認済みだ。
それに少なくとも乙木ちゃんと一緒なんだし、何かあっても事情を説明すれば不法侵入にはならないだろうと腹をくくった。
「……そうだね、行こうか」
あたし達はふたりで屋敷の中に入る。
ふいに『この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ』なんて一節が、少しだけ頭の片隅をよぎった。
†
館の中は光に満ちていた。
天井を見上げれば、宝石のようにまばゆい光を放つシャンデリア。
壁には等間隔にキャンドルライトが配置されていて、まぶしいというほどではないけど独特な明かりで室内を照らしている。
入ってすぐ、大エントランスホール。
両サイドには上階に昇るための長い階段。
あの階段の手すりを滑り台みたいに滑り降りたら面白そうだなぁ、なんて子どもっぽいことをちょっと思ってしまった。
血のように真っ赤なカーペットには、ゴミひとつ落ちていない。
高価そうな調度品の数々も、ちゃんと念入りに掃除されているらしく埃ひとつ被っていない。
そして中に入るや否や、どこからかずっと流れているこの音楽。
曲名こそわからないものの、バイオリンとピアノと、あとは名前も知らないなにかの楽器で演奏されているらしいこの曲は、ずっと鳴り止むことなく流され続けている。
録音では感じられない、生演奏特有の鼓膜に響くような音だった。
これはつまり、今現在演奏中の曲だということだ。
明らかに人の気配がある。
少なくとも、噂で聞くような無人の館じゃない。
「やっぱり、乙木ちゃんちの別荘か何かなのかな?」
「わからないです……」
「でも、なんかちょっとほっとしたかも。ここが噂の幽月邸だったらどうしようかと思ってた」
「幽月邸、ですか?」
「あ、いいのいいの。気にしないで」
まさか自分の家が都市伝説の類にされてるなんて夢にも思わないだろう。
それに知った所で、乙木ちゃんが傷つくだけだ。
「あのー? どなたかいらっしゃいますかー!?」
大声で叫ぶも返事はない。
むしろ流れている楽曲の方がよっぽど大きく聞こえている。
「さすがにこれじゃ聞こえないか……」
そう思い、今度は館中に響きわたるような大声で叫んでみようと、大きく息を吸いこんだところで。
「あ」
乙木ちゃんが何かを発見した。
「ねこさんです……」
「……え?」
思わず叫ぶのをやめて、乙木ちゃんの視線の先を見る。
階段の上、二階フロアのすぐそこ。
そこに全身まっくろで口元だけが白い、見慣れた愛猫がちょこんと座っていた。
「いちごっ!」
ようやく見つけた。
なんでとかどうやってとか、そういう疑問は一気に吹き飛んだ。
「…………」
いちごは何も言わず、ただあたし達をじっと見つめていた。
いや、猫なんだから何も言うはずはないんだけど。
「やっと見つけた……いちご、あんた今までどこに……!」
そう言ってあたしが階段を上ろうとすると、いちごは急にあたし達に興味をなくしたように、すっとどこかへ去って行ってしまう。
「いちごっ!!」
慌てて階段を駆け上がり、二階フロアへ。
辺りを見回すもいちごの姿はなく、既にどこかに行ってしまったようだった。
思わず呆然と立ち尽くしてしまう。
頭の中はすっかり混乱してしまっていた。
……いちごが逃げた?
あたしから? どうして?
なんで……?
「……今のが、探してたねこさんですか?」
あたしに遅れてゆっくりと階段を上ってきた乙木ちゃんが、あたしの顔色を窺うように声をかけてくれた。
その声で我に返り、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「うん、そう。いちごっていうの。あたしの大切な、飼い猫……」
「……はい」
「でも、どこか行っちゃった……。なんでだろ。あたし、いちごに嫌われてたのかな……」
「そんなこと、ないと思います」
「…………」
乙木ちゃんが元気づけてくれるが、普段あれだけの愛情を注いできたいちごに逃げられたのは、あたし的にかなりこたえることだった。
いや、もしかしたら愛情を注いでたと思ってたのはあたしだけで、当のいちごはうんざりしてて、それが嫌で家から逃げ出したんじゃ――
「……翔子お姉ちゃん」
その呼び方に一瞬びくりとする。
あたしを呼んだのは、口元をきゅっと結んだ死に装束の少女だった。
「いちごちゃんを探しましょう。きっとまだ、このおうちのどこかにいるはずですから」
その声色はさっきまでのどこかぼんやりした乙木ちゃんとは思えない、強い意志を秘めていて。
あたしの辛さをすくい取ってくれるような、そんな力強さを感じさせた。
「……そう、だね」
そうだ。
これくらいのことで、いちいちショックなんて受けていられない。
「乙木ちゃん、いちごをさがすの手伝ってくれる?」
「もちろんです」
「それと、勝手に入っちゃってごめんね」
「とんでもないです」
「それに、おうちの人を探して乙木ちゃんのこともちゃんと話さないとね」
「あ……はい……」
最後の返事だけは、少し弱々しい乙木ちゃんだった。
第3話 屋敷、見えない影
「…………」
館内を歩き回って、どれくらい経っただろう。
誰でもいいから人がいないかを確かめ続けてから、かなりの時間が過ぎていた。
厳密に言えば、人の気配は嫌というほどあった。
なのに、これだけ探しても猫の子一匹見つからない。
いや、猫を探してるのは紛れもない事実なんだけど。
†
この館の異質さに気づいたのは、いつだっただろうか。
わりと早い段階で気づいた気もするし、気づくのが遅すぎたような気もする。
それはあたしが鈍いだけなのか、それともこの館が巧妙にあたしを騙そうとしてるだけなのか、判断が付かなかった。
紅い漆喰で彩られた天井。
金色の花々の彫刻が踊る壁。
定期的な距離ごとに置かれている、高級そうな調度品の数々。
そして、数え切れないほどのドア。
そんな廊下を歩くあたし達の足音は、防音製の高い絨毯に吸いこまれて一切聞こえない。
そのせいなのかと最初のうちは思ってたけど、どうもそれだけじゃないと気づいたのは、いつからだろう。
硝子越しに映る影達は、どこか遠い異国を思わせるメロディを奏でている。
くぐもった声で楽しげに談笑する声たち。
かわされるワイングラスの音。
そんないかにも大勢の人がいるような音が、あちこちの部屋から聞こえてきてるのに。
なのに、ドアを開けると誰もいない。
だれも、いない。
こんなにも明かりに満ちているのに。
こんなにも、人の気配が溢れているのに。
それなのに、あたしがドアを開け放ったとたん、その朧気なシルエットは一瞬のうちに泡沫と化してしまう。
最初からそんなもの、存在しなかったかのように。
「……乙木ちゃん?」
「なんですか?」
「その……ご家族とか、お家の人ってどんな人達なの?」
「…………」
思わず問いかけるも、乙木ちゃんは済まなそうに目を伏せるだけ。
「……ごめんなさい。わからないんです」
……覚えていない。
乙木ちゃんを疑うつもりはなかった。
けれどこうもオカルトじみたことが続くと、乙木ちゃんに騙されてるんじゃないかという疑惑がどうしても生じてくる。
――この子は本当に、ただの記憶喪失なの?
あたしはオカルトなんて信じない。
絶対に信じない。
……もし本当に幽霊なんてものがいるとしたら、絶対に「あいつ」が会いに来るはずだもの。
会いに来ないってことは、そんなの存在しないってことだ。
だから、絶対に信じてなんかやるもんか。
当たり所のない怒りからか、疑念ばかりが膨れあがっていくのがわかる。
だからといって、思考を止めることはできそうになかった。
これはもしかしたら、あたしみたいな何も知らない一般人を巻き込んで驚かせてやろうという、金持ちの余興に巻き込まれただけなんじゃないの?
溢れんばかりの人達の音も、ドアを開けると一瞬で消える気配も、なにかのトリックでしかないんじゃないの?
この館のあちこちに監視カメラでも仕掛けてあって、今ごろあたしの怖がる様子を見て笑ってる誰かがいるんじゃないの……?
「……ごめんなさい」
あたしの猜疑心を読んだかのように、再び申し訳なさそうに謝る白衣の少女。
無意識のうちに苛立ちが滲み出てたのかもしれない。
「あ、ううん……ごめんね、なんかイライラしちゃって……」
乙木ちゃんのその言葉としゅんとしょげた様子からするに、嘘は言っていないように思えた。
少なくとも、悪意のようなものは感じられなかった。
――乙木ちゃんからは。
もしかすると、何も知らない乙木ちゃんを騙している誰かがいるんだろうか。
だとしたら乙木ちゃんの分まで、あたしがその人に文句を言ってやらないといけない。
こんないたいけな子を使ってまでして人を怖がらせるとか、どう考えても悪趣味だ。
(こうなったら、意地でも誰か見つけてやる……)
いちごを探すのはもちろんだけど、それと同じくらいにこの館の住人を探し出してやろうという気持ちでいっぱいになっていた。
でも内心、あたしは気づいていた。
これは怖さからの精一杯の強がりなのかもしれない、と。
もしこれが、本当に霊現象だというのなら。
ここがもし、本当に噂の幽月邸であるのなら。
だとしたら……その館に足を踏み入れたあたしは、一体どうなる?
――入ったら二度と出られない。幽月邸はあの世への入口――
例の都市伝説を思い出して、頭から追いだすようにぶんぶんと首を振った。
†
いくつものドアを開けながら、何度も何度も空振りを繰り返して。
それでも誰も見つけることができないまま、広い屋敷の奥の方まで来てしまう。
すると、突然すべての音が消えた。
「……え?」
さっきまでずっと続いていた音楽が止まった。
人々のざわめき、グラスの音、どこか遠くで鳴っていたたくさんの物音。
それらすべてが一斉に消えて、完全な無音の世界が唐突に訪れた。
「音楽、止んじゃいました……」
乙木ちゃんは不思議そうにあたしの方を見ながら報告してくれるけど、あたしは全身から冷や汗が吹き出していた。
あたしだって、なんの前ぶれもなく音楽が消えただけなら不思議には思うけど、深く追求しようとは思わない。
でも、今あたし達がいる場所は。
「…………」
あたしはちょうど入ろうとしていた、今までのドアとは作りが全く異なった大きな扉をじっと見つめた。
あちこちに繊細な細工が施され、ずっしりとした存在感を放つ、どこか荘厳さの漂う巨大な扉。
廊下の先にこの扉が見えたとき、今までの部屋とは明らかに雰囲気が違うのはわかっていた。
だからきっと、今度こそ何かあるだろうとある種の期待を込めて駆け寄ってみた。
その結果が、この無音だというのなら。
もしこの静寂が、あたし達がここに訪れたことで起きたというのなら。
「ここが、ボス部屋ってわけね……」
「……ぼす?」
怖さを紛らわすために減らず口をたたいてみたけど、乙木ちゃんには全く通じていなかった。
心の中で、呪文のように繰り返す。
――あたしはオカルトなんて信じない。信じない。信じるもんか。
あたしは覚悟を決めて、その扉をぐいっと押してみる。
すると見た目の重量感とは裏腹に、玄関のドアを開けるくらいの力ですんなりとその扉は開いた。
ずいぶんと広い空間だった。
入ってすぐに目に付くのは、巨大なステンドグラス。
青ガラスを基調としたそれ越しに月明かりが差し込んでいて、その光はどこまでも蒼く、室内を深海のように染め上げている。
その模様は様々な形の月が描かれていて、満月から新月に至るまでのすべての月齢が表されていた。
この雰囲気からするに、礼拝堂だろうか。
中央通路の両側に、参加者の座る長椅子がずらりと並んでいる。
入ってまっすぐのところには、儀礼の際に牧師が登壇すると思われる聖壇。
その後ろには例によって、架刑にされた大工の息子が人類全体の罪を背負った姿で配置されていた。
あたりはしんと静まりかえっていて、空気は止まっているかのように身じろぎもしていない。
そしてこの部屋だけはどういうわけか、一切の灯りが点されていなかった。
ステンドグラス越しの月光だけが唯一の光源になっていて、他の部屋と比べて明らかに光量が違う。
――空気が、違う。
「……ここ、ずいぶん雰囲気違うね?」
先ほどまでの不自然な賑やかさとは対照的に、急に音の消えた聖堂の雰囲気に少し不安になって、思わず乙木ちゃんに話しかける。
「…………」
けれど、乙木ちゃんはあたしの方を見てはおらず。
その視線は、聖堂の端の暗闇をじっと見つめていた。
「……そこにいるのは、だれ?」
「え?」
思わず振り向くが、その先にはまっくらな闇しか存在しない。
でも乙木ちゃんの視線は逸らすことなく、まっすぐに闇を見つめている。
「あそこに、誰かいるの?」
「…………」
静まりかえる聖堂。
あたしの目では、どんなに目をこらしても闇の中の何者かを目視することはできない。
しばしの無音。
ややあって月明かりの届かない暗がりから「はぁ」と何者かの呼吸音が聞こえた。
「……ずいぶんと遅かったじゃない、乙木」
静寂を破るように、闇の中から高圧的な少女の声が響いた。
第4話 狭間の双子
声のした静謐な暗がりから、月明かりの下に一人の少女が姿を現した。
ウェーブのかかった金髪に、一見喪服のような印象を受ける、闇を溶かした真っ黒な衣装。
しかしそのワンピースは全身フリルであしらわれていて、頭につけられた黒と赤を基調としたヘッドドレスがそれが慎むための服ではなく、魅せるための服であることを象徴している。
ゴシックロリータ。
クラスでこういうファッションが好きな子がいて、それ関係の雑誌を見せてもらったことがある。
あたしにはとても似合わないなぁ、とか言って済ませたはずのその衣装は、目の前の少女には異常なまでにしっくりあっていた。
「…………」
その容貌は、あまりにも乙木ちゃんに似過ぎていた。
明らかに血の繋がりのある相手だというのは、見た目からしてわかった。
少なくとも、姉妹か従姉妹か。
でないと、ここまでの相似性に説明が付かない。
ただその子の発する雰囲気は、乙木ちゃんとは何もかもが対称的だった。
静と動。白と黒。生と死。和と洋。
乙木ちゃんが和風人形なら、その子は西洋人形といったところだろうか。
「もうとっくに月は出てるわよ、乙木?」
「……だれ?」
乙木ちゃんがそう訊くと、その子はわざとらしく深いため息をついた。
「また忘れてるのね、あんた」
「忘れてる……?」
「これでもう何回目なのよ……本当、勘弁して欲しいんだけど」
「……?」
あたしには、ふたりのやり取りの意味がわからない。
そして当の本人でもある乙木ちゃんにもわかっていないみたいだった。
そんな困惑気味のあたしを見て、その子がにやりと意地悪げな笑みを浮かべた。
おっとりとした乙木ちゃんなら、絶対に浮かべないような表情だった。
「で、そっちの付き添いがあの子の待ち人ってわけね」
「あの子?」
あたしが問い返すと、ふふ、と含み笑いをされる。
「ま、いいわ。久々の客人だもの、特別に名乗ってあげる」
そういうと金髪の女の子はロングスカートの端をちょこんとつまみ、うやうやしく頭を下げた。
「私は篠宮琴羽。そこの乙木の双子の姉ということになっておりますの」
双子と言われ、腑に落ちた部分と、落ちない部分があった。
確かにふたりとも顔立ちはそっくりだけど、髪の色が決定的に違う。
純日本人にしか見えない黒髪の乙木ちゃんと、外国の血が混じってるとしか思えない琴羽と名乗った女の子が、双子?
こういうの、なんていったっけ。
……二卵性双生児?
「ふたご?」
他でもない乙木ちゃんも、言われた意味がよくわかっていないようだ。
そのどこか他人事のような言い方に、金髪の女の子――琴羽ちゃんが少しイラッとしたのがわかった。
「いつものことだけど、本当に何にも覚えてないのね、あんた……」
「え……?」
「……月が満ちて約束の時が来たっていうのに、いつまでたっても乙木が来ないからすっかり待ちくたびれてたんだけど」
「やくそく……?」
乙木ちゃんが不思議そうに問い返すたびに、琴羽ちゃんの表情が少しずつこわばっていく。
怒りで口元がひくひくしてるあたり、感情を抑えるのは苦手なタイプみたいだ。
「まぁいいわ。乙木、あんたちょっとこっちに来なさい」
「え……やだ」
琴羽ちゃんがちょいちょいと手招きするも、乙木ちゃんはあたしにぎゅっとしがみついて近づこうとしない。
あからさまに琴羽ちゃんのことを警戒してるみたいだった。
「やだじゃないわよ、早く来なさい」
「やだ……」
「乙木」
「……やだ」
「…………」
「やだ」
頑なにあたしの側から離れようとしない乙木ちゃんに、言葉を重ねるごとに冷静さを失っていく琴羽ちゃん。
……なんというか、子どもの言い争いを聞いてるような気分になってきた。
「あーーーーーーーっっっっっ! もう、めんどくさいっっっっっ!!」
そしてとうとう臨界点を超えたのか、聖堂に琴羽ちゃんの絶叫が響いた。
……今の叫びで、さっきまで保っていた気品や雰囲気が、一瞬で吹き飛んだような気がした。
「説明するのもめんどいっ! いいから乙木、あんたさっさとこっち来なさいっ!!」
「え? ……え?」
「このやり取り、もう何度目になるってのよっ! いつもポケポケしてっ、忘れるのも大概にしなさいよ、あんたっ!」
そう言うと琴羽ちゃんは乙木ちゃんの手を取り、無理やりぐいっと自分の方に引き寄せた。
そしてそのまま頭突きするような勢いで、乙木ちゃんの額に自分の額を合わせる。
ゴン、と鈍い音が響いたような気がした。
「ちょっ……!?」
いきなりのことに、慌ててふたりの間に入ろうとする。
その瞬間、薄暗い礼拝堂に光が満ちた。
光源はわからない。ただ、ふたりの間から閃光が放たれたとしか言い様がなかった。
やがて光が止むと、礼拝堂は次第にまた闇に侵食されていく。
そしてふらりと気を失う乙木ちゃん。その体を、倒れないようにしっかりと支える琴羽ちゃん。
何が起きたのか事態が把握できないあたしがふたりを見ると、乙木ちゃんの背中から何かが抜け出ていくのが目に映った。
それはまるで、さなぎから羽化する蝶のように見えた。
死に装束の少女の背中から、生気を纏った別の「何か」がゆっくりと姿を現していく。
それは人の形をしていて。
その顔は、乙木ちゃんそっくりで。
ただし髪は黒髪ではなく、星のような白銀を描いていた。
「なに、これ……」
魔法少女の変身シーンじゃあるまいし、なんてバカみたいな感想がでてくる。
目の前で起きたことが、特撮にしか思えなかった。
「……ああ、そっか」
さっきまでの死に装束の身体から、真っ白なドレス姿に『羽化』した乙木ちゃんが、何かを納得したようにつぶやく。
「そういえば私、『そう』なんだっけ……」
「……毎回毎回、思い出すのが遅すぎるのよ、あんたは」
気を失った黒髪の乙木ちゃんを支えながら、ゴスロリ少女は呆れたように言う。
死に装束の女の子から抜け出た銀髪の乙木ちゃんは、そのまま音もなく地面に降り立った。
真っ黒ドレスの琴羽ちゃんと、真っ白ドレスな乙木ちゃん。
その対照的な双子が並ぶと、不思議と一枚の絵画を見ているようなしっくり感を覚えた。
まるでふたりでひとりであるかのような、そんな錯覚を覚えるくらいに。
「……あなたたち、なんなの?」
素直な疑問を口にする。
これはトリックなのか、それとも本当に超常現象の類いなのか、判断が付かなかった。
困惑しているあたしに気づいたのか、『羽化』した乙木ちゃんがたったっとあたしの方に近づいてきて、ぺこりと頭を下げた。
「翔子お姉ちゃん……怖がらないでくれると嬉しい、です」
フリルの着いた白衣のふりふりドレスに変身した乙木ちゃんが、あたしを見ながらおどおどと告げる。
……こういうのは確か、ホワイトロリータとか言ったっけ。
そんなどうでもいい知識が頭の片隅をよぎった。
「この館のかりそめの主よ。私も乙木もね」
あたしの問いかけに答えたのは琴羽ちゃんの方だった。
「簡単に言うと、この館は特異点なのよ。新月と満月の夜にだけ、現世に顕現することができるの」
「……は?」
「で、私たちはそれを利用してる住民の一人ってところかしら。主って言っても、所詮は一時的なものだしね」
……何を言ってるのかさっぱりわからなかった。
「……此岸と彼岸、あの世とこの世を結ぶ場所」
混乱しているあたしに、白い乙木ちゃんが説明を付け加えてくれる。
それを見て、黒い琴羽ちゃんも追加説明してくれた。
「私たちは本来、双子として生まれてくるはずだったのよ。でも天の偉い人の間違いで、片方は死産になってしまった」
「でもいくら偉い人でも、死んだ人間を生き返らせることはいけないこと。そこでどうにかしてふたりとも『生きる権利』を持てるようにするための処置が、この『入れ替わり』なんです」
双子が、お互いの言葉を補い合うように言葉を紡ぐ。
「私とことはは、新月と満月を境にひとつの身体を入れ替わってる」
「で、乙木は新月から満月にかけての間が『生きる権利』を持つ約束になってる。その代わり、私は満月から新月の間だけ乙木と入れ替わって生きることを許されるの」
あたしの目は琴羽ちゃんに支えられたままの死に装束の乙木ちゃんに向く。
気を失っているだけなのか、ゆっくりとではあるもののちゃんと呼吸はしているみたいだった。
「ただ長く人の世で生きてると、こういうことを忘れちゃうみたいなの」
「……乙木みたいにね」
苦々しく、琴羽ちゃんが悪態をついた。
「乙木が今まで何度このことを忘れては、私が思い出させるのに苦労してきたこと、わかってもらえるかしら?」
「……ごめんね、ことは」
「まったくよっ」
もしさっきの光景を見てなければ、子どもの妄想ということで割り切れるような話だった。
でも実際にこの目で乙木ちゃんの『羽化』を見てしまった以上、それを否定する言葉をあたしは持っていない。
「……ってことは、本当に……?」
――この世とあの世を繋ぐ場所。
「ここが幽月邸……なの?」
「そう呼ばれることもあるみたいね」
あたしの言葉に、琴羽ちゃんがしれっと答えた。
†
礼拝堂を出ると、館は元の活気を取り戻していた。
先ほど急に消えた音も音楽も、再びうるさいくらいに流れている。
「あのさ、ここが例の幽月邸ってことは、この音楽や人の気配って……」
気になってたことを訊いてみる。
すると琴羽ちゃんが何を今さら、という顔で答えてくれた。
「そりゃ当然、噂通りってことよね。あの世の霊魂達が集まってわいわい騒いでるだけよ」
「……あたしに見えないだけで、ちゃんと『そこ』にいたってこと?」
「そういうことね。あたしの見た感じ、あんた霊感全然ないみたいだし。見えないのも当然なんじゃない?」
「じゃあ、さっき一斉に音がやんだのは……?」
「この館の主ふたりが会うってことで、みんな空気を読んでくれたんじゃない? 幽霊って言っても、なんだかんだそういう気遣い屋が多いのよ」
急に寒気がした。
いや、さっきの乙木ちゃんの『羽化』を見た時点で、もう何が起きても不思議じゃないのは事実なんだけど。
「じゃあ私、『わたし』をベッドに寝かせてくるね」
かく言う白い乙木ちゃんは、死に装束の乙木ちゃんの『身体』をおぶさってそんなことを言う。
見るからに重そうで、腕がぷるぷるしていた。
「……あたしがおぶっていこうか?」
この状況を全て飲み込めたわけじゃない。
でもそこにいるのは紛れもなくさっきまでの乙木ちゃんなわけで、なんとなく見ていられずにそんなことを言った。
「ううん、翔子お姉ちゃんはお客様だから」
「お客様?」
「このお屋敷に久々に招かれた、大切な生あるお客様なんです」
そこでようやく気づいた。
――影が、ひとつしかない。
「……影」
「そういうこと。あたし達死者には影がないの」
あたしの言葉を聞きつけた琴羽ちゃんが、両手を組みながら答えてくれる。
その足下を見ると、琴羽ちゃんにも影が存在していなかった。
今この場所で影を持つのは、あたしと気を失っている死に装束の乙木ちゃんだけ。
つまり乙木ちゃんも琴羽ちゃんも、ふたりとも死者ということになる。
「どう? これでオカルト否定派のあなたも少しは信じる気になったかしら?」
「……ことは、翔子お姉ちゃんをからかっちゃダメ」
くすくすと意地悪そうに笑う琴羽ちゃんに、乙木ちゃんが文句を言った。
その親しげな様子は、紛れもなく血縁関係のそれを思い起こさせた。
「ま、いいわ。それじゃあ乙木、先行ってるわね」
「うん。あとから私も行くから」
そう言うと、双子はそれぞれ別々の方向に歩いていく。
しばらくして、離れていくふたりを呆然と見ているままのあたしに気づいた琴羽ちゃんが、怪訝な顔でつかつかとやってきた。
「なにしてんの、早く行くわよ」
「え、あたしも?」
「言ったでしょ、あんたを待ってる子がいるって」
「や、それは聞いたけど」
そもそもあたし、ここにはいちごを探しに来たはずなんだけど……?
「……あ」
そんなかみ合わない会話をしていると、生身の乙木ちゃんを背負った死者の乙木ちゃん(ややこしい)が何かを思い出したように戻ってきた。
「翔子お姉ちゃん、ごめんなさい。私、すっかり忘れてました……」
「忘れるって?」
「私、翔子お姉ちゃんをここに連れてくる役目があったの。だからここに戻ってくる前に、森で翔子お姉ちゃんを探してたんです」
「……役目?」
あたしが訊くと乙木ちゃんは少し気まずそうにするも、何かを決したようにくいっとまっすぐあたしの目を見つめた。
「あのね」
あたしの目から視線を逸らさずに見つめながら、乙木ちゃんは言葉を紡ぐ。
「悠人くんが、屋上で待ってるって」
――その言葉を聞いて、あたしの脳髄に火花が走った。
第5話 悠人
あれからもう、半年も経つことに気がついた。
それは空気が凍えるように澄み切った、まだ冬の日の出来事だった。
いつごろからだろう。
悠人がよく体調を崩すようになったのは。
昔は風邪もめったにひかない元気な子だったのに、いつからか原因不明の発熱がよく起きるようになった。
虫刺されがやけに腫れて、それが原因になって高熱を出すことも多かった。
日光にあたると水ぶくれのようなものができるようになって、帽子や手袋をしないと満足に外出もできなくなった。
そんな風に、明らかに体調がおかしいのに、どこの病院でも原因不明としか診断されない。
いくつもの病院を回っても、なかなか病名が特定できない病気だった。
ようやく原因がわかったのは、かなりの時間が経ってからのこと。
判明した病名は、『慢性活動性EBウイルス感染症』。
通称、CAEBV。
国の難病指定も受けていないという、発症率の極めて低い奇病。
そのために医療関係者の間でも認知度が極めて低く、あちこちの病院を回っても病名がなかなか判明しなかったのもこのためだった。
この難病は免疫力を低下させる病気で、皮膚炎や他臓器不全、悪性リンパ腫といった合併症を引き起こすことが多いという。
どうして発症するのかの原因は明らかになっていない。
病気の全容も未だ解明されておらず、抜本的な治療方法も確立されていない。
症状を抗がん剤で抑えながら、骨髄移植で相性のあうドナーを待つ以外に救いの道は存在しない。
そして運良く適合するドナーが見つかったからと言って、完治するわけでもない。
そんな、不治の病だった。
その告知を受けた日から、あたしの家は悠人を失う不安に押しつぶされ続けることになった。
悠人はドナーを待つことしかできなかった。
日に日に悪くなっていく病状。免疫力の低下。合併症の発症。
あたしは学校が終わるとその足で病院に駆け付けた。
そして毎日欠かさず、悠人の病室に顔を見に行った。
あたし達は、それまでそんなに仲のいい姉弟とは言えなかったかもしれない。
ちいさなころは姉の特権を使って悠人に無理やり言うことを聞かせてたし、悠人が中学に入ったあたりからは、なんとなくよそよそしい態度を取ることが多かった気がする。
今思えば、急に背が伸びてあたしを軽く追い越した弟に、どこかジェラシーを持っていたのかもしれない。
それに全然勉強のできないあたしと違って、悠人は頭が良かったから。
お父さんもお母さんも、悠人のことを褒めた。
あたしは勉強が苦手だったから、友達と連れだって外に遊びに出ることが多かった。
そんなあたしを見たお母さんに「翔子も少しは悠人を見習いなさいよ」と言われ、姉としての立場がボロボロになったのが、今思えば決定打だったのかもしれない。
それ以降、どこか悠人に対して敵意にも似た気持ちを抱えたままだった。
けれど、今ならそのままでもよかったと思う。
そうやってすれ違ったままでも、いつか大人になってから笑い話として話すことのできる将来もあったかもしれないから。
でも、そんな未来はもう永遠にやってくることはないんだ。
†
ある日のこと、「星が見たい」と悠人が口にした。
病院の個室。茜色に染まる夕日が病室のカーテンから室内に差し込んでいた。
部屋の中には、あたしと悠人のふたりだけ。
その言葉が、あたしに向けられたものなのは間違いなかった。
「……星?」
「うん、星」
思わず問い返したあたしに、悠人はにこやかな微笑みで返してきた。
これもいつ頃からだっただろう。
悠人はあたし達家族の不安を汲み取ったのか「大丈夫だから」とでもいうかのように、優しい微笑みを浮かべることが多くなっていた。
「いきなりなんでまた、星なの?」
「翔子お姉ちゃん、知らなかったの? 僕、一応これでも天文部なんだけど」
あたしよりずっと図体がでかくなったのに、悠人の口調は相変わらず昔と変わらず幼いままだった。
でもきっと、あと数年もすれば精神的にもどんどん大人びていくに違いない。
あと数年。それまで、生きていてくれたなら。
「……ごめん、初耳」
悠人がこんな難病になるまで、実の弟なのに無関心を貫いてきたツケが出た。
でもそんなあたしを、悠人は笑って済ませてくれた。
「でさ、できれば今夜にでも久々に星が見たいなーって」
「今夜って……」
「この病院って屋上があるでしょ? それにここって町外れにあるから、街灯に邪魔されない分、星がよく見えると思うんだ」
……悠人は、自分の容体がわかってて言ってるのかな、と思った。
CAEBVは医者に予測されていたとおり、悠人の身体に重篤な合併症を引き起こしていた。
今、悠人の身体はがん細胞に侵されている。
抗がん剤で症状を抑えているものの、その副作用で髪の毛は抜け落ちて、見るのも痛々しい姿になっていた。
それでも悠人は笑顔を崩そうとはしなかった。
その様子は健気すぎて、こっちが苦しいほどだった。
なのに悠人は弱音ひとつ吐かずに、あたし達家族に笑顔を振りまき続けた。
誰よりも苦しんでるのは、他でもない悠人のはずなのに。
そして誰よりも自分の病状を自覚してるのも、悠人のはずだった。
「……車椅子で、夜の屋上まで行くつもりなの?」
「無理だろうね」
「じゃあ、松葉杖をついたまま階段を上る気?」
「それもちょっと大変だよね」
悠人はにこにことした笑みを絶やさない。
弟があたしに何を期待してるのかを察して、思わずため息をついた。
「……言っとくけど、肩を貸すくらいのことしかできないよ、あたし」
「うん。それで十分」
「面会時間が過ぎたら追いだされると思うんだけど、その辺はどうするつもり?」
「大丈夫、巡回の人が来る時間はちゃんとわかってるから」
用意周到。
こういう所だけは抜け目がないのが、悠人というあたしの弟だった。
†
満天の星空。
誰にも見つからないように、こっそりと入り込んだ夜の屋上。
一枚の毛布をふたりでかぶり、あたし達は星空を眺めていた。
「なんか、こうやって外に出たのも久々な気がするよ」
「ずっと長いこと病室暮らしだったもんね、悠人は」
夜風が冷たい。
空気は刺すように寒く、はぁと息を吐けばまっしろな煙に変わる。
あたしは悠人の体に障らないように、かぶった毛布を悠人の方にこっそりと寄せた。
「ねえ、天文部だったら星の名前とか知ってるんじゃない? 教えてよ」
「いいよ。あれがデネブ、アルタイル、それにベガ」
「なにその、どこかで聞いたような言い回し」
「ちなみにこれは夏の大三角形だから、今の時期じゃ見えないんだけどね」
「こらっ」
ちなみに冬の大三角形はあれとあれと、と指を差して教えてくれる悠人。
シリウス、ベテルギウス、プロキオン。
悠人の口から溢れてくる星の名前は、どこか遠い世界を思わせた。
「悠人、そんなに星が好きだったんだ」
「じゃなきゃ天文部になんて入らないでしょ。っていうか、これくらいのことなら理科の授業で習わなかった?」
「あー。そういえば習ったような、習わなかったような……」
「相変わらず翔子お姉ちゃんは、勉強全然ダメだよね」
「うっわ、生意気」
こつん、と軽くその頭を叩いてやった。
「それじゃあ、夏になったらまた見ようよ、星空」
「…………」
あたしの提案に、悠人は無言で返した。
あたしだって、ちゃんとわかってる。
……悠人がもう、夏まで生きられないことくらい。
「ね、見ようよ。夏の星座」
でも、あえてそう繰り返した。
きっと一緒にまた星を見られるときが来るって、そう思いたかったんだ。
他でもない、あたし自身が。
「……ほら、約束」
あたしは小指を悠人に差し出した。
たとえ形だけでもいい。
夏になったら悠人とまた、こうして夜空を眺めることができること。
ただただ、それを願った。
星に願いをかけるように。
遠い世界に願いを込めて。
「……うん」
あたしの差し出した小指に、軽く微笑みながら悠人が小指を重ねる。
か細い指。冷たい指。
肌が荒れてがさがさで、でもまだちゃんと生きている、悠人の小指。
「約束だよ、翔子姉ちゃん」
「うん。約束」
星空に、一筋の流れ星が弧を引いた。
†
それから数週間後、悠人の体調が急変して。
覚悟はしてたはずなのに、実にあっけなく最期を迎えた。
その時あたしは授業中で、ぼんやりと窓際の席から外を眺めていた。
確か英語の授業中だったと思う。担当の教師が教壇で教科書を読んでいるところに、急にドアをノックする音が響いた。
がらりとドアが開くと、うちのクラスの担任教師が固い表情で室内に入ってきて。
英語の先生に耳打ちして何かを告げると、まっすぐにあたしの方を見て言った。
「成瀬、今すぐ職員室まで来なさい」
その雰囲気だけで、何があったのか想像がついてしまった。
両親から学校に連絡があって、そこで悠人が危篤なのを知った。
あたしの携帯に直接かけなかったのは、先生達に事情を知ってもらうためだったとあとでお母さんは話していた。
その後、担任の先生の車で病院まで送ってもらって。
入口の自動ドアが開くのも待ちきれず、エレベーターが来るのも待っていられず、無我夢中のまま駆け足で階段を駆け上った。
そうしてようやく悠人の病室に入ると、両親や親戚が集まっていて。
そして。
ベッドの上の悠人の顔には、白い布がかけてあった。
――あたしには、悠人の死に目に会うことが許されていなかった。
葬式では、あたしも含めた家族の誰もが実感を持てないままだった。
ただ慌ただしく葬儀の準備に追われて、悲しむ時間も持てないままで。
あたしは悠人の遺影と、棺桶の中で死に化粧された最後の顔を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
そして悠人は煙になって。
そのまま天に昇っていって。
この世に残された白い忘れ形見も、ちいさな壺の中へと収められた。
そうやって、すべてが終わって。
まだ後片づけが残ってるから、という両親を置いてあたし一人が家に戻ると、いちごが玄関口でちょこんと待っていた。
「にゃうん」
あたしの顔を見て、どこか嬉しそうにひと鳴きするいちご。
そういえば、ここ数日葬儀の準備で慌ただしくて、いちごのことを構ってあげられなかった。
ごはんはあたしかお母さんがあげてたけど、それ以上のことは何もしてあげてない。
気づいたあたしは部屋に戻り、私服に着替えていちごと遊ぶことにした。
悠人を失った現実から、少しでも目をそらしたくて。
リビングはあちこち散らかったままだった。
悠人の入院生活のために、たくさん揃えた介護道具の数々。
これらは今日からはもう必要のないものになってしまったんだなと、ぼんやりと思った。
喉が渇いたから何か飲もうとキッチンへ行くと、悠人が愛用していたカップが目に付いた。
もう二度と使われることのないその器をなんとなく手に取り、冷蔵庫を開ける。
悠人の好きだった、独特な味わいの炭酸飲料が入ったペットボトルが、まだ少し量を残したままそのまま置いてあった。
なんとなく、それをカップに注いで一口飲んでみる。
口の中に薬っぽいフレーバーがじんわりと広がった。
「……まっず」
うちの家族でも、これを好んで飲んでいたのは悠人だけだった。
だからきっと、今後このジュースが冷蔵庫に置かれることは、もう二度とない。
「…………」
この家にいたくない、と思った。
ここはあまりにも、悠人の面影が散らばりすぎていたから。
元気だったころの悠人の姿が幻視できそうなほどに、あちこちに悠人の気配が残されたままだったから。
すると、そんなところにいちごがやってきた。
口にくわえて持ってきたのは、悠人がまだ元気だったころ、いちごとよく一緒に遊んでいたおもちゃだった。
「みゃうん」
それはもしかしたら、ただ単に「遊んで」と言っただけだったのかもしれない。
けれどその時のあたしには、いちごが悠人がどこに行ったのか、あたしに問いかけているように思えて。
……悠人とはもう会えないんだよ、といちごに伝えないといけない気がした。
「あのね、いちご」
あたしはいちごと目線を合わせて、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「悠人はね、もういないんだよ……」
いちごの目は、あたしをじっと見つめていた。
そのくりくりっとした瞳に、情けない顔をしたあたしが映っていた。
「もう、会えないんだよ」
そう。
どんなに会いたくても、もう二度と会えない。
「二度と、会えないんだよ……」
それを口にしたとき、ようやくもう悠人はこの世にはいないんだという実感がじわじわと湧いてきて。
あの優しい笑顔も、一緒に見た星空の記憶も、交わした儚い約束も、すべてが終わってしまったのだと、ようやく気がついて。
涙が、溢れた。
どんなに願っても、どんなに手を伸ばしても。
星に手が届くことがないなんて、わかってたはずなのに。
それでも手を伸ばしたあたしは、バカだ。
叶わない願いもあることなんて、当たり前のことなのに。
わかってた、はずだったのに。
†
「ここよ」
遠い回想から、先を行っていた琴羽ちゃんの声で我に返る。
あたしは今、館の階段を琴羽ちゃんに先導されて上へ上へと昇っているところだった。
「……泣いてるの?」
「え?」
言われて、自分の頬の冷たさにようやく気づく。
長い間蓋をしていたはずの記憶が、乙木ちゃんの言葉でぼろぼろとあふれ出ていた。
「あれ……あたし、なんで……」
「…………」
困惑するあたしを、琴羽ちゃんは黙って見つめていた。
「この館のお客様は、そうなることが多いのよ」
「え……」
「……生と死を行ったり来てる私には、よくわからない感覚だけどね」
その声は、どこか寂しそうで。
けれど確かに、暖かみを持ってあたしの心にじんわりと響いた。
「この先が屋上になってるわ。そこであんたを待ってる子がいる」
「…………」
あたしを待ってる子。
この世とあの世の狭間の屋敷で、あたしに会いたいと思っている子。
「いってらっしゃいな。私はここで、乙木が来るのを待ってるから」
琴羽ちゃんは、そう言って一歩後ろに下がった。
その先にあるのは、屋上に出るという大きな扉。
そしてこの先にいるのは、きっと、おそらく。
「…………」
意を決して扉を開くと、まず感じたのはむわっとした夏の夜の空気。
そして目に入るのは、満天の星空。
森の中で街灯もないから、より一層多くの星が見えるんだろう。
「みゃうー」
そしてあたしを見つけて、近寄ってくるちいさな影が一つ。
「いちごっ!」
あたしはしゃがみ込んで、思わずいちごを抱きかかえる。
いちごは暴れることもなく、あたしの腕の中に抱かれてくれた。
「あんた、どうして逃げたりなんかしたのよ」
「みゃう」
あたしをじっと見つめるいちごの瞳に、顔をくしゃくしゃにしたあたしが映っていた。
その目はじっと、あたしに何かを訴えかけているように見えた。
なんとはなしに、いちごの走ってきた方を見てみる。
すると、屋上の端にひとつの人影があった。
そこで欄干に寄り掛かりながら、夜空を眺めていたのは。
「……あ……」
そこに、半年前にもう二度と会えなくなったはずのあたしの弟――
悠人がいた。
第6話 手を伸ばしたその先に
その姿を見て、絶句しているあたしに気づいたのは悠人の方だった。
「翔子お姉ちゃん、久しぶり」
あっけらかんとそう言いながら、あたしのそばまで歩いてくる悠人。
その態度は、本当に久々に会った相手とあいさつを交わすような軽いもの。
対するあたしは、これは夢か何かじゃないかとそういう認識から抜け出せずにいた。
「影……」
屋上は暗く、満月と星明かりしか光源となるものはない。
しかしそれだけでも、悠人の足下に「影がない」のがわかった。
「ああ、うん。僕もう死んじゃってるから」
そう言いながら浮かべた笑みは、見間違えることもないあの優しい微笑みで。
そのせいで、目の前にいるのが本物の悠人だってことを認めざるを得なかった。
「……何がもう死んじゃってるからよ、ばか」
「でも、事実だし」
「あんたね、あたしやお父さんやお母さんがどれだけ悲しんだか、わかってて言ってるの?」
「……もちろん、わかってるよ」
そう言いながら、悠人は再び欄干に手をかけて夜空を見上げた。
「自分でも不思議な感じだったんだ。四十九日の間、僕はずっとみんなと一緒にいたのに、誰も僕に気づいてくれなかった」
「え……」
「翔子お姉ちゃんも、気づいてくれなかったよね」
そう言いながら、どこかからかうように笑った。
「ちゃんと見てたよ。翔子お姉ちゃんが僕のカップを使って、僕の好きなジュースを飲んでたところ」
「な……」
「あの時、いちごには僕の姿が見えてたみたいだよ。たぶんそれを伝えたくて、僕と遊んでたおもちゃを持ってきたんじゃないのかな」
思わず腕の中のいちごを凝視してしまう。
いちごは知ってか知らずか、あたしをじっと見つめるだけだった。
「翔子お姉ちゃんの泣いてるところ、初めて見たよ」
「…………」
「……ごめんね、死んじゃって」
死んじゃってごめんね、なんて。
こんなにも残酷な言葉が、この世に存在してたんだ。
「悠人さ」
「うん」
「悠人は、生きてて幸せだった?」
もう、幻でもなんでもよかった。
二度と会えないと思っていた、あたしの弟。
夢でもいいから会いたいと願い続けたその相手が、今目の前にいる。
話したいこと、聞きたいこと、言いたいこと、言い残したこと。
想いはぐちゃぐちゃになったまま、上手く言葉にならなかった。
「幸せだったよ」
そんな気持ちの中からようやくひねり出した言葉に、悠人は笑顔で返した。
「本当に、幸せだった」
「……そっか」
「でもね。だからこそ、もっと一緒に生きていきたかった」
「…………」
「お父さんやお母さんや……翔子お姉ちゃんと、ずっと一緒に」
悠人のその言葉に、思わず涙腺が潤む。
「そんなの……あたしも同じに決まってるじゃない」
「……だよね」
「勝手に死んで、勝手にいなくなって、勝手に……あたしの未来からも、消えてなくなって」
「…………」
「本当、勝手な弟」
「……ごめん」
これからも続いていく、生きていかなきゃならないあたしの未来。
その中に、もう悠人が現れることはない。
もう二度と、重なることはない。
「でも、また会えてよかった」
あたしは涙がこぼれないように、できるだけの笑顔を作って悠人に向き合った。
「これでちゃんと、さよならって言えるね」
「…………」
「悠人の最期に立ち会えなかったの、かなり引きずってたんだよ、あたし」
「……知ってるよ」
悠人の死に目に間に合わなかったことを、このままずっと引きずったままで生きてくのは嫌だった。
この想いを抱えて生きていくくらいなら、あたしも悠人のところに行きたいとすら思ったこともあった。
悠人のいない世界はあまりにも空虚で。何もなくて、何も感じられなくて。
それで一度だけ、悠人に会いに行こうとしたこともあった。
「今考えれば、本当バカだよね」
悠人はもう全部知ってるみたいだから、隠す必要もない。
「一歩間違えれば、うちにとんでもない賠償金の支払いが届くところだったもん」
一度だけ、電車の来る踏切に飛び込もうとしたことがあった。
どうしてもっと優しくしてあげられなかったのかとか、どうしてもっと早く駆け付けることができなかったのかとか、そんな後悔の念がぐるぐる渦を巻いて。
やがて悠人のいない世界に耐えられなくて、あたしはこの世界から飛ぼうとした。
でも、失敗した。
確実に電車があたしに向かってきていたはずなのに、気がついたら黄色と黒のポールの外側に引き出されていた。
それはまるで、この世とあの世の境目みたいに見えた。
「あの時助けてくれた人には、本当感謝だね」
あたしは全然覚えてないけど、電車にぶつかる直前に線路上から引っ張り出してくれた人がいたらしい。
その後しばらく鬱状態でからっぽの日々を過ごしてたから、詳しいことは覚えていない。
ただ両親がその人の家に手土産を持ってお礼に行ったのだけは、ちゃんと記憶に残っている。
「……翔子お姉ちゃんは本当バカだなぁって思ったよ、あれは」
「知ってる」
これについてはなんの反論もできないし、するつもりもない。
あの時のあたしはどうかしてたとしか、他に言いようがなかった。
「約束を果たす前にこっちになんて来て欲しくないよ、僕は」
「え?」
「もちろん約束を果たしても、当分の間はこっちになんて来て欲しくないけどね」
約束。
悠人と交わした、かけがえのない約束。
「翔子お姉ちゃん、約束してたじゃない」
「…………」
「この星空をまたふたりで見ようね、って」
そう言って、悠人は天を仰いだ。
そこに広がるのは、夏の天宮。
あの日見た冬の夜空とは違う星々が並ぶ、手の届かないはずだった星空。
叶うはずのなかった、約束。
「ね、お姉ちゃん」
「うん」
「約束、叶ったよ」
「…………」
「こうやって、一緒に夏の大三角形、見ることができたよ」
手が届いた。
届かないと思ってた星に、手が届いた。
ただ無邪気に、けれど願いを込めて伸ばしたその手は、確かに星を掴むことができたんだ。
「うん」
あたしは泣きそうになるのを必死でこらえて、悠人のその言葉に頷いた。
「……うん」
何度も何度も、頷いた。
そんなあたしを、悠人はあの全てを受け止めるような、穏やかな笑顔で見守っていてくれた。
†
ずいぶんと長いこと、悠人と話していた気がする。
そのほとんどはとりとめもないこと。けれど、とても大切なこと。
もう二度と訪れることのない、奇跡の時間。
「……翔子お姉ちゃん」
ふいに声をかけられて、振り向くとあたしの後ろに白と黒の双子が立っていた。
「ごめんなさい。大切なこと、まだ言ってなかったの」
真っ白な衣装を身に纏った乙木ちゃんが、おずおずと口にする。
「残念だけど、悠人くんと会えるのは夜明けまでなんです」
「え……?」
「…………」
乙木ちゃんの言葉に、悠人は何も言葉を返さなかった。
たぶん最初から、このことを知っていたんだろう。
「……この時間、この場所はあくまでも特異点だから」
琴羽ちゃんがその後を継いだ。
「新月の夜と、満月の夜」
「その夜にしか、この館はこの世に現れない」
「そして屋敷に入ることができるのは、資格の持った生者だけ」
「それ以外は、みんな死者だけ」
双子特有の言葉つむぎ。
代わる代わる言葉が繋がっていく。
「だけど、悠人くんは頑張って手に入れたんだよ」
「その限られた一夜の間、会いたい人に『ひとりだけ』会えるっていう『特別な権利』をね」
「……え?」
その言葉に、思わず悠人の方を振り向く。
悠人は……笑っていた。
誰かひとりだけって。
お父さんもお母さんも、学校の友達も、もしかしたら恋人だっていたかもしれないのに。
悠人には、たくさんの会いたい人がいたはずなのに。
それが、あたし?
「あたしでよかったの?」
思わず訊いていた。
「本当は……あたしよりも会いたい人とか、いたんじゃなかったの?」
「いないよ」
その答えは、すぐに返ってきた。
「僕は翔子お姉ちゃんに一番会いたかった。また一緒に、この星空を見るためにも」
そう言って、悠人は夏の夜空を見上げる。
あの冬の星空は、今はもう遠い。
「約束だったから」
――約束。
約束ってこんなにも重い言葉だったんだと、改めて気づいた。
「もうじき、夜が明けるわ」
琴羽ちゃんが、空の彼方を見つめてつぶいた。
木々に遮られてはいるけれど、星空の裾が確かに明るくなりつつあった。
「夜明けとともに、この屋敷はこの世から姿が消える」
「このお屋敷で過ごした一夜は、全部泡沫の幻に変わる」
「あの世のものは死者の世界に、この世のものは生者の世界に」
「此岸と彼岸が別れてしまうの」
双子が、残り少ない時を告げた。
こんなに朝が来て欲しくない、なんて思ったことがあっただろうか。
けれどいつか、必ず夜は明ける。
暮れない昼がないのと同じように。
「ねぇ、翔子お姉ちゃん」
目の前に迫った夜明けに内心の動揺を隠せずにいると、悠人が穏やかな声で語りかけてきた。
「星ってさ、昼間は見えなくても、ちゃんとそこにあるんだよ」
「…………」
「見えなくても、ちゃんとあるんだよ」
はっきりと言葉にしなくても、わかる。
悠人が今、あたしに伝えようとしていること。
見えなくても、ちゃんと側にいる。
「……そうだね」
あたしは精一杯の微笑みを、悠人に返した。
†
空の彼方が次第に白みつつあった。
星の世界が、だんだんと薄くなっていく。
風が夜の冷気を奪い、朝の気配が大気に満ちていく。
あの世とこの世の繋がった、奇跡の一夜が幕を閉じようとしていた。
「じゃあね、乙木。次は新月の夜に」
「うん。ことは、忘れちゃダメだからね?」
「……あんたにだけは言われたくないわ、そのセリフ」
夜明けを確認して、早くも双子が別れの言葉を口にしていた。
彼女達の言葉をそのまま飲み込むなら、世明けとともにこのふたりも再びひとりに戻るということになる。
……つまり、乙木ちゃんとはこれでお別れになる。
「乙木ちゃん。それに琴羽ちゃんも、今日は本当にありがとう」
だから、その前に一言お礼を言っておこうと思った。
こんなにも素敵な一夜を過ごさせてくれた、狭間の双子たちに。
「悠人に会えて、本当によかった」
あたしがそう告げると、双子はお互いの顔を見合わせてくすくすと笑った。
「翔子お姉ちゃん、お礼を言うのは私たちにじゃないよ」
「そうよ。あんたが礼を言わないといけないのは弟さんの方でしょ」
そういうと、双子は悠人の側まで駆け寄る。
悠人はそんなふたりを見て、どこか微笑ましいものを見るような笑顔を浮かべた。
「なんたって、彼が自分の力で手に入れた奇跡なんだからね」
「だからお礼を言うのは悠人くんに、だよ」
そう言うと、乙木ちゃんはそのまま悠人の元に、琴羽ちゃんはあたしの側まで近寄ってくる。
悠人と乙木ちゃん。あたしと琴羽ちゃん。
これは夜明けとともに分かたれる、違う世界に住むふたりの姿だった。
生者と死者。
本来交わらないはずの両者が出会える夜が、終わりを迎えようとしていた。
「それじゃあ翔子お姉ちゃん。元気でね」
「うん、色々ありがとう。乙木ちゃんに会えて、本当によかったよ」
その言葉に少しだけ瞳を潤ませるも、乙木ちゃんは満面の笑顔をあたしに返した。
「いちごちゃんも、ばいばい」
そして、あたしの腕の中ですやすやと眠るいちごにも声をかけた。
眠っているいちごにはその声は聞こえていないだろうけれど、なにか感じるものがあったのか、ほんの少しだけ身じろぎしてその言葉に応えた。
自然と、悠人と視線が重なった。
これで本当に最後なんだという気持ちと、叶わない願いが叶ったという喜びとで、上手く言葉が出てこなかった。
「悠人」
「うん」
「……ばいばい」
でも、多くの言葉はいらなかった。
もう十分すぎるほど、悠人からはたくさんの言葉をもらっていたから。
二度と聞けないと思っていた悠人の声。
永遠に失われたと思っていた、悠人の姿。
たとえこの夜が明けたとしても、あたしは今日のことは一生忘れられない。
あたしの中に空いていた穴は、確かにしっかりと塞がっていたのだから。
「またいつか、あの世でね」
「うん。でも当分こっちに来ようなんて思っちゃダメだよ。翔子お姉ちゃんは残った人生を十分に謳歌してから、こっちに来て欲しい」
わかってるよ、悠人。
あたしはもう悠人の影を追って、自分に残された生を投げ出したりなんかしない。
「悠人の分まで、しっかりと生きるから」
その言葉に、もう迷いはない。
悠人のいない世界で生きていくのは、とても辛いことだけど。
でもそんな世界の中で、あたしはちゃんと生きていく。
悠人の分まで、生きていくんだ。
「ばいばい、悠人。あたし、あなたのお姉ちゃんでいられてよかった」
「さよなら、翔子お姉ちゃん。僕もお姉ちゃんの弟に生まれて、本当に幸せだった」
山の向こうから、朝の太陽が姿を現した。
その新しい始まりの陽光に包まれるように、幽月邸が光に包まれていく。
光の中に溶けていく、悠人と乙木ちゃんの姿。
ふたりは最後まで、笑顔のままだった。
――ばいばい。
その言葉を最後に、朝焼けの中にふたりの姿は消えた。
第7話 見えなくても、そこに星はあって
気がつけば、青空。
あたしは何もない草の上で横になっていた。
ゆっくりと上体を起こせば、あたりには幽月邸の痕跡は何一つ残っていない。
そよ風があたしの髪を揺らす。夏の朝の心地よい空気で、曖昧な意識がゆっくりと覚醒していく。
――今までのは、全部夢?
「やっとお目覚め?」
声のした方を見ると、死に装束の女の子がいた。
大きめな石に座っていて、そのひざの上にはいちごの姿。
いちごは女の子に撫でられて、ごろごろと喉を鳴らしていた。
「……乙木ちゃん?」
夢じゃなかったと喜ぶも、その姿はどこか違和感があった。
「私よ、琴羽の方」
「……琴羽ちゃん?」
そう聞いたあたしに、乙木ちゃんの姿をしたその子はにやりとした笑みを浮かべる。
それを見て、ああ本当に琴羽ちゃんだと確証を得ることができた。
「言ったでしょ、月齢で交代してるのよ。新月になったら乙木が、満月になったら私が『生きる権利』を得るの」
「そう言えば、そうだったね」
「これから新月までの間、あたしがこっちで人として生きることになるわけよね……いいんだか悪いんだか」
そう言いながらも、琴羽ちゃんはどこか嬉しそうだった。
その足下には、生者の証でもある影がしっかりと伸びていた。
本来は双子として生まれてくるはずだったふたつの命。
けれど永遠に失われた、片方の『生きる権利』。
ふたりの間柄を見るに、それをどちらかが一方的に独占しようだなんて考えてないのは明らかだった。
本来生まれるはずだったのはどっちだったのかなんて、きっとふたりの間ではどうでもいいことなのかもしれない。
生きている権利、ひとつだけの命。
それをこうやって、ふたりで分け合って生きている子たちもいる。
そんな双子の姿は、あたしが自分ひとりで生きていられることの尊さを感じさせてくれたような気がした。
「ほいっ、と」
琴羽ちゃんはいちごをひざの上からどけて、勢いよく座っていた石の上から飛び降りた。
しかし着地の瞬間バランスを崩し、そのまま盛大に地面に転がる。
「琴羽ちゃん!?」
慌てて駆け寄ると、かんしゃくを起こした子どもみたいにぎゃあぎゃあ騒ぎ出した。
「あーもうっ! これだから生身の身体は嫌なのよっ!!」
「え」
「なんていうか、体が重く感じるのよ。死者でいるときはすごく身軽だったから、慣れるまでは上手くバランスが取れなくなるの」
無重力状態で暮らしていた宇宙飛行士が地球に戻ったとき、その重力を負担に感じるっていう話と同じ理屈なのかもしれない。
「それにしても、毎回鬱陶しいったらありゃしないわ。乙木ももうちょっと体力つけてからあたしに代わってくれればいいのに」
乙木ちゃんとは対照的に「棺桶から出てきたような」というよりは、棺桶の中で目を覚まして慌てて飛び出してきたような、そんな感じの印象を受けた。
本当に対称的な双子の有様に、思わず頬がほころぶ。
「不思議な話だね」
「何よ、今さら」
「あたし、死後の世界があるなんて信じてなかったから。それをこんなに簡単に行き来してる琴羽ちゃんたちを見てると、今までのあたしってなんだったんだろうって思うの」
人は死んだらどうなるか。
誰もが一度は考えて、結局死んだ人間にしか本当のことはわからない問いかけ。
「一応言っとくと、あんたが思ってるほどあの世とこの世の境なんてはっきりしたものじゃないからね」
「え?」
思わず問い返すと、琴羽ちゃんはどこか偉そうに語る。
「乙木が彼岸と此岸、ってよく言ってたでしょ?」
「この世とあの世、って意味だよね?」
「そうよ。でもあんたが思ってるみたいに、このふたつははっきりと分かれてるわけじゃないの。昨日みたいに時々陸続きになって、重なり合うこともあったりするの。それくらい曖昧なものなのよ」
陸続き。
それは、あたしのいる世界と悠人のいる世界はどこかで繋がってるということを意味していた。
あっちの世界でも、星空はあるんだろうか。
悠人は、向こうの世界でも同じ星を眺めているんだろうか。
そしていつか、あたしもまた悠人と一緒に星空を眺められる日が来るんだろうか。
確かに心の片隅に、また悠人に会いたいという想いがないわけじゃない。
でもその日が来るのは、きっとまだまだ先のこと。
――悠人の分まで、しっかりと生きる。
悠人との新しい約束、破るわけにはいかないからね。
「それはそうと帰るわよ。ほら、後ろ向きなさい」
「は?」
「見ての通りこっちは病人なのよ、病人。わかる? せめておぶっていくくらいの見返りはしなさいよね」
乙木ちゃんと比べると、なんというかずいぶんとわがままな子だと改めて思った。
そのあまりにも違う性格に、ふと気づいたことがあったから訊いてみる。
「ね、確か乙木ちゃんが障害者手帳もってたよね」
「あー、一応持ってるわね」
「もしかして、その病名って……」
あたしの問いに何を聞こうとしてるのか察したのか、ため息まじりに琴羽ちゃんは告げる。
「解離性同一性障害、よ」
通称、多重人格。
「……医者の診断なんて、人知を越えた出来事には対応できないもんよね」
こんなことが科学で実証されることなんて、かなり先のことになるだろう。
そうであれば、このふたりの『入れ替わり』を説明できる病名なんて、他に思いつかなかった。
自由に体が動かないとぐずる琴羽ちゃんをおぶさると、いちごがあたしの足下にすり寄ってきた。
もう逃げるような様子はない。
いちごも、悠人に会いたかったのかな。
もしかするとすべてを知っていて、あたしを悠人に会わせるために、わざと家を抜け出したのかもしれない。
「…………」
けれど、その何を考えているのかわからない、いちごの表情からは真意を読み取ることはできなかった。
「ちょっと、あんまり乱暴に歩かないでくれる? 振動で頭がふらふらするのよっ!」
あたしについてくるいちごを眺めながら歩いていると、背中から抗議の声が上がった。
「一応これでも病人なんだから、ちゃんといたわりなさいよっ!」
「…………」
「帰り道なら私が森の外まで案内してあげられるから、感謝しなさいよね?」
「はいはい」
背中で騒ぐ琴羽ちゃんに苦笑気味にそう答えて、あたしは森の出口に向かう。
朝焼けの空には、もう星は見えない。
でも見えないだけで、そこにちゃんと星があるのはわかったから。
見えなくても会えなくても、悠人はちゃんと生き続けてる。
だからきっと、あたしはもう大丈夫。
「にゃうん」
朝焼けの空、まっすぐ前を向いて歩き出したあたしを見たいちごは、どこか満足そうにひと声鳴いた。
遠い世界に願いを込めて。