あぶく

 「あの角を曲がらないと家には戻れない」
 大月入玲はブロック塀の路地の半ばまで進んできたところで、ふとそんな事を思った。
 いつも通っている道だった。自宅から駅までのおよそ15分ほどの道のりだ。
 入玲は立ち止まっていた。何故かは分からなかった。左右にはブロック塀が続いていた。振り返った道の消失点の彼方にまでブロック塀が続いていたが、改めて、進むべき方向に向けた視線の先には、同じブロック塀が行く手を阻むかのように立ちはだかっていた。
「あの丁字路を左に曲がって、それから三本目の角を右へ。そう。板塀の細い道。あそこを通るのが一番近いから」
 脳裏には、その板塀の路地が克明に映し出されていた。何も変わらないいつもの道だ。水溜りも無い。車もほとんど通らない住宅街の二車線道路では、電柱までもが冷たく静かに整列している。いつもの道。だが、入玲は、足を止めた拍子に歩き方を忘れてしまったかのように棒立ちのまま、上体を窮屈にねじって、きれいに舗装された二車線道路が消失していく風景を眺めていた。誰もついてきていないし、電柱の影には恐怖が潜む死角もなかった。まだ、日は高く、入玲の影は、足元からわずかに右に傾いている。
「一体、どうやってここまで歩いてきたんだろう。何を考えながらここまで来たんだったっけかな。いつの間にここまで来ていたんだろう」

 入玲は電車を降りて、改札を抜けて、燕の飛び交う駅舎を出て、止まったままの噴水の基台を眺めたとき、「今日は蛙が鳴いてないな」と気付き、「早く修理すればいいのに」という感想と、「夏に噴水が出ていたら気分がいいだろうな」という感想と、「誰か水をあげないと、ツツジが枯れかけているのに」という感想と、短い毛の密生した葉っぱのむず痒さとを思い出した。青くどろどろと濁った水の匂いと共に。
 噴水は、駅前のロータリーの中央にある。入玲はそのロータリーを、右に回ったのか、左に回ったのかなんて、当然、思い出せると思った。捻った腰が痛み始めていた。ふんばった脹脛に痙攣がきていた。入玲は、午後の太陽の下、道路の真中でこんな態勢をしているのは奇妙だと思い、上体を戻した。しかし、何故か顔を上げることが出来ず、俯いたまま回れ右をしていた。入玲は、道路が彼方の消失点に消えて行く風景を、こんどは真正面に捉えてため息をついた。
「どっちだっけ。いつもどっち回りをしてたんだっけ。パチンコ屋のある方? それとも放置自転車で狭くなった歩道の方? 電話ボックスがあるのはどっち側だっけ。あっ。自転車は駄目だ。自転車はパチンコ屋の前にもいつもぎっちり並んでいる。本屋だ。本屋のある方と、喫茶店のある方だ。その間に私がいつも通る道がある。だから……」
 今日、どちらを回ったか、どころか、いつもどちら回りをしていたかをも思い出せないかもしれないという不安が、入玲の心をよぎった。
 「でも、確かに毎日通っている道なのに」
 ついさっきまで、歩きながら何を考えていたのかを思い出すことに、入玲は集中していった。額からは汗が滲み、シャツの背中は冷えはじめていた。十分に高かったはずの太陽は急激に傾き、闇の先触れの朱が、風景の輪郭をぼかしていった。
「いつまでもこうやっててもしょうがない。さあ、帰ろう」
 しかし、足は動かなかった。入玲の心は、一瞬のうちに不安に染め上げられてしまった。それは、今日、家に戻れないかもしれないという不安ではなかった。燃え上がる空の下で、入玲の、何か重要な物を喪失してしまったのかもしれない、というぼんやりとした不安が、絶対的な恐怖へと豹変した。
「そんな馬鹿なことって…… だって私はいつもあの角を曲がって、左へ回って、そう、それから三番目の板塀の細い路地を通って家に帰っていたはずなのに。どうして、こんなに不安なんだろう。一体、どうしちゃったんだろう」
 本日最後の光の一筋が、電線を伝わって、全ての電柱のてっぺんを均等に撫でていく。入玲の立っている道に、宵闇が降りてきていた。まるで、貧血で倒れる瞬間に現れるような世界だった。闇は、消失点から一気に広がって、恐ろしい速度で辺りを覆っていった。

「会社で…… 会社で今日は課長と一緒に……」
 入玲は、今日一日の全て思いだそうとしていた。そうやって確かめてみることが、この恐怖を祓う唯一の望みだと思えたからだった。だが、そういう衝動こそが、恐怖の症状なのだということにも、入玲は気付いていた。
「電車の色は? 何色だった? 水色? 銀色? それとも緑だったっけ。何線? 私は今日、会社を何時に退社したんだろう。明るいうちに帰ってこられる時期じゃないのに。課長が帰れっていったんだったっけかな。それとも無断で…… 今は何時? 五時? でももう暗くなってきてる。八時? それじゃ私がここに立ち止まって何時間経ったっていうの? 街灯無かったっけ? ここは暗くなると痴漢が出て、この間も誰かが襲われかけたって言ってた。今日もいるのかしら。誰か、いるのかしら。私を狙ってる? ああ。早く家に戻らないと。でも、あの丁字路が。あれが何だかおかしいような気がする。あそこを左に曲がって、それから…… まだどっか曲がるんじゃなかったかしら。歩道橋があったんじゃなかったかしら? でも、毎日私、歩道橋なんて渡ってたかしら…… あの路地を右だったかしら。左に曲がった女の人が、襲われかけたんだわ。きっと右! でも、そっちには陸橋がある。それは確かだわ。ベスの散歩で休みによく渡ったもの。ベス? あの茶色のかわいらしいテリア。もう死んじゃったんだったな。かわいそうだったな。あれはいつだったかしら。まだセーラー服を来てた時だったんじゃないかしら。ベス。陸橋から飛び降りてしまって、私、一人しかいなくて…… ううん。だからやっぱり左よ。陸橋は休みにしか渡らないことに決めていたんだもの。でもあれは高校生だったからかもしれないし…… もう。いやだ。誰でもいい。誰かこの足を無理やりにでも引きずっていってくれないかしら。お父さんはもう家に戻ってるのかな。この道通って帰ってくるはずなのに。今何時なんだろう。ああ、もうこんなに暗くなって、きっと私、見られてるんだわ。でももし追いかけられたら、きっと私の足も動くわ。そして一目散に家にたどり着けるはずだわ……」

 結局、入玲はこんな事を考えながら、何時の間にか家の前にたどり着いていた。ぼんやりと点る玄関灯に浮かび上がる表札に見覚えが無かったことが不審だったが、思いきってチャイムを鳴らすと、聞きなれた両親の声があったのだった。
 入玲はもう、自分がどうやって家にたどり着いたのかを考えようとはしなかった。夕食に遅れたという理由で、母は機嫌が悪かった。先に食事を終えていた父が新聞を持ってソファーに移ると、「何チャンだ」と怒鳴った。母はキッチンカウンターの向こうで、チャキチャキと食器を洗いながら、「34じゃないの?」と当然のように答えた。その途端にテレビには野球が映し出された。

「入玲。ツツジとサツキの違い分かるか?」
 父が唐突に質問してきた。普段の入玲ならばまともに取り合う事の無い質問だった。だが、父が、こんなどうでもいい事をわざわざ尋ねてくるという事そのものが、奇妙に感じられた。入玲はのろのろと箸を使いながら、それと同じ速度で父の質問に答えていた。
「ツツジは、駅前に植えてあるやつでしょ。すっかりしおれちゃって、だれか水をあげないと駄目ね。サツキは、もっと花が小さくて葉っぱの形が全然違うんでしょ。比べてみないとよく分からないけど」
 父親はソファの上で体を捻って食卓の方を見た。その顔には得意げな笑みが浮かんでいた。
「違うんだなー。ツツジ、という花は無いんだ。いいか、そんなものは何処にも無い。ただツツジ科というのがあるだけなんだ。駅前のやつはサツキさ。何とかサツキって名前がついている。だが、ツツジ。と言って済ませているのはだね。トラやライオンを見て、猫だ。といっているのと同じなんだ」
「へえ。そうなの。でも急にどうしたの。そんな雑学まめ知識なんてひけらかせちゃって……」
 母親がまずそう答えた。その声には先程までの不機嫌さは微塵も感じられなかった。そして入玲は、箸の動きが止まっていた。虚をつかれたという表情を浮かべている。「早く食べなさい」母親が叱責する。不機嫌な声だった。

 その時、入玲の体の中には、無数のあぶくが湧き立ち始めていたのだった。入玲はむず痒さをこらえるように息をつめ、身体を固くした。だが、あぶくはなおも湧き立ち、喉元へと上がってくる間にどんどん大きくなっていった。それは押し止めようがなかった。まず、最初のあぶくが「フツ」という音を立てて、唇の間で弾けた。それからは、もういつ果てるとも知れないあぶくの噴出が始まったのである。
 「ふざけてないで、ちゃんと食べなさい」
 母親は入玲の様子に気付いて、まずそう言った。それから後、夕食後の団欒は完全に崩壊した。入玲は椅子から転げ落ちて、なおもあぶくを吐き出しつづけている。父親が新聞を放り出して、入玲を抱きかかえて、ソファーに寝かせる。母親はコップ一杯の水と、タオルを持って、入玲に口に水を流し込もうとしたが、タオルで押さえている時間の方がおおく、むしろ必死で口を押さえているようにしか見えなかった。
「馬鹿。手を離さないか。息ができないだろ。おい。落ち着け馬鹿」

 原因が何なのか、両親には分からなかった。誰にも分からないのかもしれない。

 入玲のあぶくは、まだ尽きない。

おわり

あぶく

あぶく

「あの角を曲がらないと家には戻れない」 大月入玲はブロック塀の路地の半ばまで進んできたところで、ふとそんな事を思った。 ささいな迷いから、私が壊れていく……

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-30

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