日記

 日記を書いていますか?

 日記ばかり書いている知り合いがいました。久しぶりにこちらへ戻ってきた、古い友人です。入院をしているという事を人づてに聞いたのですが、誰から聞いたのだったか、はっきりとしません。見舞いにいったら、精神科でした。

 高校を出てあちらへ行き、今はデザイン事務所に勤めているのだと、酒を飲みながら話したのは、何年も前の夏の事でした。その時はきっと、盆休みでこちらへきていたのでしょう。
「他人の懐から金を巻き上げるための詐欺みたいな仕事さ。クライアントから掠め取った金は、結局、僕達の仕事にあおられた連中の虚栄心の代金なんだ。僕達は、その両方に、ありもしない欲望を植え付けて、生活しているんだね。医者は自ら病原菌を撒き散らしたりはしないし、歯医者はバレンタインフェアに協賛しない。でも僕達は、それをやるんだよ。たまらないね」
 そんな愚痴ききたくないよ。私はそう言ってハイボールかなにかを飲み干しました。
「僕の仕事だって、同じ事だ。ただ、そのからくりから遠いところにいるから、自分が誰をだましているのかを見なくても済む。肉を食べていながら屠殺場を思わないでいるのが僕だ。肉を食うのに変わりは無いさ」
 彼は私の言葉を聞いていなかったようです。私だって、こんな一般論を口にしたくはありませんでした。久しぶりの再会で、互いの仕事の愚痴しか言えず、しかも相手に返せるのは、一般論だけだなんて、情けないではありませんか。
「僕はこんな風に生きているなんて、恥ずかしい」
「止めればいい。とは言えないな。誰だってそうやって生きている。それが嫌なら、死ぬしかないだろ」
「それだ」
「何が?」
「僕が休みの前に関わっていた仕事だよ」
 彼は三杯目のウイスキーを注文しました。彼の関わっていた仕事とは、自殺の名所となった崖に設置する看板のデザインだったのです。コピーは既に出来ていました。心理学や、行動学などの資料にもとづいて、自殺を、最も効果的に抑止できるデザインを、というのが、クライアントであった、市の要望だったのだそうです。
「コンペなんだったんだよな、それが」
「コンペ?」
 市はいくつかの定評のあるデザイン事務所を指定して、デザインのコンテストを行っていたのだそうです。公共事業ですから、税金が動きます。オンブズマンの目が光っているので、入札のつもりで、デザインコンペを開いたのだということです。
「実際、たまらないよ。僕は死にたいという人間を止める必要は無いと思う。死んじゃいけない、なんて言っておいて、後のことは面倒見てくれるつもりもない連中ばかりが、騒ぎ立てる」
「デザインは有効なのかい?」
「死ぬ気でやってきたくせに、迷っている奴が対象なんだ。はなから死ぬつもりだったら、親兄弟恋人が止めたって無駄さ。でも、迷っている奴の背中を押してやりたいと思って、僕はデザインをした。色とか、書体とかね。それなりの技法はあるんだ。あとは、念じる事だよ、やっぱり」
「念か。オカルトじみているね。人の気持ちが乗り移るなんて、僕には信じられないな」
「うん。でもそう思いながら作った看板がもし一位になって、自殺者が急増したら、僕なんかは、とても救われるよ。この仕事も悪くないと思う」
「そんな縁起でもない仕事、そうは回ってこないだろ。それに看板が逆効果だったら、君の立場がまずくなるんじゃないの?」
「呪いは刑法には引っかからないんだ。僕は念じてデザインした。だから呪いなんだ。ありもしない欲望を植え付けて、そのためにあくせく働かせて、ささやかな喜びまで用意してやる。僕達の仕事がなかったら、連中はみな途方にくれるさ。自分が何をしたいのかわからないんだから。生きつづけろと言うのは、消費活動を鈍らせないための方便だよ。死は経済活動への最後のご奉仕なんだから。僕はこの仕事をしながらこの最後の奉仕を先送りしているだけさ。何の為か分からない」
「経済活動に魂を売ったつもりでいるんだね」
「誰だってそうだって、言いたいんだろ。僕には分かる。デザインを剥ぎ取られた生の自由資本主義が、どんなに醜いものか。そりゃそうだろ。僕達がそいつに化粧をしているんだから。素顔を知っているからぴったりの化粧ができるんだ。君達は、その上っ面を撫でているだけのことさ」
 この酒だって…… 彼はそう言うと、ワンショットグラスを床に叩きつけました。カラオケステージでタンバリンを振りかざしていた店員が駆け寄ってきて、私と彼とを外へ連れ出し、数回殴りつけました。
「二度と繰るんじゃねえ」そう怒鳴りつけられて。

「あいつは、高卒だろ。しかも年下じゃないか。だが奴は俺達にむかってあんな罵詈雑言を浴びせ掛けることができる。何故だと思う」
「君が非常識だったからだろ。器物破損」
「あのガキは、別にあの職場に愛なんて持ってない。奴らはただ殴りたい、怒鳴りたい。それだけさ。だいたい、コップ一個割られたからって、あのガキに何の損がある? 何も無い。ただ、俺達を殴りつける理由が出来たと判断したんだ。そういう判断基準さ、僕がたまらないのはね。君にも分かるだろう。友人として、また人間として分からないなどと言うのは止めてくれ。そういう義務的な愛情にはうんざりしているんだから」
 私は自分の顔がだんだん変わっていくのを感じ、嫌な気分になりました。
「君は変わったよ。僕は帰る」
「僕も帰るよ。だがいつか、あの看板を見てもらいたいな」

 それが彼と話した最後の夜でした。酔いも手伝って、珍しく、青臭いことを話したためか、看板の話が印象的だったためか、暴力沙汰の痛みのためか、この夜のことは、鮮明に覚えています。

 そしていま私はベッドの上の彼を静かに見下ろしているのです。

 彼の胸の上には一冊のノウトが置いてありました。私はそっと手にとってページを捲りました。それは、彼があちらに住んでいたときの日記のようでした。やけに黒々とした太い文字は、擦りつけられて失敗したデッサン帖のようでした。下敷きを使わないで濃い鉛筆で力いっぱい書きなぐった文字は、鉛の光沢すら帯びていて、文字というよりも型抜き機で打ち抜いた金属片のようでした。
 捲って行くと、あの夜の日付が見つかりました。私は周囲を見回してから、その日の日記を読みました。

月日
 Kに電話をしたが留守だった。明日には戻らなければならないのに今回は会えず仕舞いかと思うと疼く。目的の半分が消えてしまったようだ。一人でむなしい酒をあおる。僕はあちらでまたKの事ばかり考えて暮らさなければならない。多分、Kにとっては、毎回毎回同じ事の繰り返しなのが無刺激なのだろう。僕は終生変わらぬ穏やかさだけをKに求めていた。毎日では飽きられるだろうから、盆と正月だけに限定したのだが、それも二回三回と繰り返されるうちに慣れてくるものなのだろう。インターバルを置いても駄目なのだ。それが規則的であるかどうかが、問題だったのだ。だから、僕は今度突然Kを驚かせてやることにしよう。Kを限りない循環から一時でも解放してやる事が、僕の喜びだ。

 彼は、あの夜の出来事に、そっけなく背をむけていました。私は、乱暴にページをめくりました。来る日も来る日も書いてあるのは、Kの事ばかりでした。私はだんだと自分の顔が変わっていくのを感じながら、いつしか、彼とKとの関係を読み取ることに没頭していったのでした。

 ふと、顔に残照を感じ、日記から目を上げると、私の傍らにKが立っていました。Kは少し印象が変わっていました。多少やせて、どことなく慈愛に満ちているように見えました。
 私はきまりが悪くなって日記を彼の胸の上に戻し、小さく会釈をしました。Kは私と並んで彼を見つめています。気まずい沈黙がたまらなくなって、私は声をかけました。
「何故、こんなふうになってしまったんです。あなたなら分かるでしょう」
 日記に書いてあるように、これほど親しくすごしていたあなたになら、と言いかけて、私は口を噤みました。こんな責めているような口調では、そこに私の押し隠した感情が露になってしまうのではないか、と思ったからです。
 Kはうつむいたまま、日記を手にすると、頁の一枚一枚をいとおしむようにパラパラとめくりました。
「意識が戻ると、彼は日記を書くんです。私は、この日記を読んだ彼のご両親と主治医に呼び出されてここに来るまで、彼がどこで何をしていたのか知りませんでした。本当です。」
「しかし、現に……」そう言いかけて、私はKの言葉に嘘は無いのではないかと、考え直そうとしました。
「それじゃ、この日記は、この病室で書かれた、作り物だということですか?」
 捏造された欲望の記憶。または、病魔に冒された脳が生み出した幻影。そういったものであるならば、私にも受け入れることはできるのでした。けれども、Kは、そっけなく首を横に振りました。
「いいえ。彼はこの日記を抱えたまま昏倒していたのだそうです。デザイン会社の方が、無断欠勤を続ける彼の家を訪れて、それで救急車を手配してくれたのだそうです。そしてご両親がこちらへ転院の手続きをなさったと聞いています」
「それで、この日記を元に、あなたに連絡が入ったと。そりゃ、驚いたでしょうね」
 私は自分の声が嘲りの調子を帯びていることを感じていました。けれども、この感情はKも共有できるだろうと思って、あえてごまかしたりはしませんでした。 Kは、はにかむように笑いました。そして、彼の腕をそっと布団の中にしまいました。
「もっと早く連絡をくれれば良かったのに」
「それじゃ、あなたは……」
 私は自分の声の、ひどく醜いことに驚いて、あわてて空咳をし、顔の半分を手で覆いました。自分はいったい、どんな顔をKにみせていたのだろうと、それがとても不安になりました。しかし、Kは、私の動揺を無視して、話しました。
「連絡を受けて、こちらへきたんです。みんなは反対しましたが、何だか放って置けなくて。私の責任みたいな気がしてきて。日記を読ませていただいて、皆に、弁解みたいに、説明しているうちに、だんだんと。おかしいでしょ」
 私は唖然とするしかありませんでした。

 彼は意識を取り戻すと、この日記を最初からしまいまで丹念になぞるのだそうです。そして、最後のページまで来ると昏倒するのだそうです。彼と話したあの夏の記憶は、ただ私の記憶にとどまっているのみで、客観的な証拠はどこにもありませんでした。あの夜、彼はこの日記に書かれた彼の記録そのままに、Kと会えない夜を一人寂しく過ごしたのかもしれません。何回も何回も。彼は意識を取り戻すたびに、彼の日記にかかれた時空を繰り返し生きているのでしょう。そしてKの現実は、彼がくり返し鍛え上げている日記の現実の方に、取り込まれているのだということが、ひしひしと感じられました。

 彼の記憶に、私は存在していません。彼はただ一途にKを求め、Kもまた、私が不在である彼の世界の住人となって、彼の願いに応えようとしているのです。そうだとしたならば、二人を断罪するために私が立つ余地は無いのです。いや、ただ一つだけ、あの夜が、私が記憶している通りの夜であるという物証がありました。

「僕も帰るよ。いつか君にはあの看板を見てもらいたいものだな」

 見たものを、死に誘うべくデザインされた看板の実在。それこそが、彼とKとの世界には、私だって存在したのだ、という唯一の客観的な証拠です。

 Kと正式に離婚した日の夜から、私も少しずつ日記をつけ始めました。悔恨と希望とがないまぜとなった、祈りのような記憶を、抉り出すように書きつけてきました。先日、三人目の子供に恵まれ、毎日平凡ではありますが、幸せな家庭を築いています。
 本当に、長いことかかって、日記を書き終え、それからは同じ日記をなぞり続けています。何回も何回も。
 最後のページには、あの看板を確認しに出かけると、書かれています。実際に私がそこに赴くことで、この日記は、完全なものとなるのです。靴と一緒に置かれた日記が、再びKを呼び戻してくれることでしょう。

終わり

日記

日記

同じ日記を綴り、くり返し昏倒する男と、それを見舞う私。自殺防止の看板は現実に存在するのだろうか。そして日記はいかにして現実になっていくのだろうか。

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更新日
登録日
2017-01-25

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