冥界解明迷宮 ~朝顔の棘~
1.迷宮
全国ツアーの最終日、彼女たちはカラフルなバニーガールみたいなコスチュームの耳をしきりと気にしていた。僕はステージスタッフアルバイトとして舞台袖にいて、さまざまな物を号令一つで出したり引っ込めたりする仕事についていた。開演ブザーが鳴り、大歓声が起こった。その時、僕は、幕の襞に隠れるように垂れ下がっているロープの輪を見つけた。前奏が始まっていた。僕は、慌ててロープを掴むと、思い切り背伸びをした。その下を、彼女たちの耳が跳ねていった。そんななか、一対の兎の耳が僕の顎を撫でた。一瞬ではあったが、その時確かに、彼女は僕に目配せをくれた。僕は三ヵ月ぶりに彼女と目をあわせることが出来たのだった。会えなかった期間が、薄い透明な板の重なりみたいになって重さを無くしていった。
そのゲームは『冥界解明迷宮』という。二人一組で、鍾乳洞の地下迷宮を攻略するというものだ。エスケープルートは無いらしく、生還率は30パーセントに満たない。残りの70%以上の人々は迷宮をさまよい続けており、いつしかそこで職につき、地下でしか通用しない通貨を得て、生活を始めているともいう。身内から捜索願いが出されているという話もちらほらとあるのだが、参加誓約書の署名があるので、警察が介入することも出来ないらしい。数名の刑事が潜入捜査と称してゲームに挑んだというが、彼らも結局地下の住人となって久しいともいう。
なぜ、彼女がこのゲームに参加したいと思ったのかは分からない。参加者リストは公開されており、そこに彼女の氏名が載ったのが引退会見の翌日のことだったため、ワイドショウのネタになった。巷間の興味の中心は、彼女が誰をパートナー選ぶのかだったが、テレビでは、彼女の電撃引退と、その直前に暴かれた、ある俳優とのスキャンダルとの関連を、下世話に嗅ぎ回ってばかりいた。
僕が彼女との約束の17時に30分ほど遅れて『冥界解明迷宮』の入口に到着した時、人だかりの中からようやく見つけた彼女の傍らには、知らない男がいた。僕は男を見てすぐ「負けた」と思った。それは例の俳優では無かった。それはそうだろう。あっちはまだ芸能活動を続けていくのだろうし、今回の件が、そちらサイドからのリークだというのは、既に公然の秘密となってもいた。あの俳優にとっては、スターになる可能性を捨てて、光の無い地下迷宮へ挑むなんて馬鹿げたことだという以前に、選択肢にすらならなかったろう。テレビカメラでも付いてくるのならば別だが、その時には、地下迷宮らしいセットをスタジオに組むに違いない。このゲームに参加しようという二人の間には、現世のどんな絆とも違う強靱なものが通っていなければならないのだと思う。その入口に、彼女は、痩せこけた白髪の男と立っていたのだ。
僕はあのくたびれた男のどこに負けたというのだろう。男はひどく猫背で、ボサボサの白髪が顔の大半を隠していて、膝が曲がり、ガクガクと震えていた。何の生気も感じられない、しなびた男。そんな男を遠くから見ただけで、僕は、敗北を認めたのだった。
彼女のように華やかでかわいらしい子が、僕とつきあってくれていた事が奇跡だったのだ。年齢、学歴、年収、顔だち、視力、身長、体力、職歴、どれをとっても、中の下というランクに納まる僕にとって、唯一飛び抜けていたのが彼女だった。僕が、こんなことを口にすると、彼女はきまって「あなたのいいところは私が知ってるから、いいの」と言ってくれた。付き合いはじめた頃の僕は、そんな彼女に引け目を感じたものだ。でも一緒にいる時間が長くなるにつれて、僕は彼女に対して安心できるようになっていった。
やがて彼女がデビューして、僕は陰の存在になった。テレビや雑誌で彼女を見るという生活を続けていくうちに、僕の劣等感は再び募っていった。彼女が仕事で疲れたり、悩んだりしている時に近くにいられないというのが、何よりもこたえた。一緒にいる時間の量だけが、僕と彼女とを結び付ける唯一の証だったのだと、その時には思っていた。
全国ツアーを終えてからも彼女はあいかわらず忙しく、メールのやりとりすらできない日々が続いていた。僕は、彼女と二人きりでいるときにだけ存在することができたが、そのとき世界は彼女を失い、彼女は世界を失ってしまう。そんなこと、僕一人の存在であがなえるものではないだろう。
ほどなくして、週刊誌が彼女のスキャンダルを報じた。相手は、僕ではなかった。彼女が初出演した映画に準主役で出ていた俳優だ。僕は「負けた」と思った。
写真は男の車から彼女が降りるところ。車を止めた男が、待っていた彼女の肩を抱いて男のマンションのエントランスへ入っていく所。そして明け方、スエット姿の二人がマンションから出て車に乗り込む所だった。僕は雑誌を買って、それをぐちゃぐちゃに丸めてごみ箱に放り込み、それからまたごみ箱から拾い上げて、そのページを破り捨てて、またその破ったページを机の上で広げてみたりした。ワイドショウが彼女の話題を始めると、即座に別のワイドショウにチャンネルを変えて、またそこでも彼女の事に触れられるとすぐに、別のチャンネルに変えてみたりした。雑誌は復元できないほど細かく千切った。ワイドショウが終わると、僕はチャンネルをあちこち切替えて、今度は彼女の話題を扱っている番組を探し始め、見つからないと分かると、録画していたワイドショウを見た。雑誌の切れ端が入ったゴミをコンビニのごみ箱に捨てにいくついでに、新しい雑誌を二三冊買ってきたりもした。月曜日に記者会見が開かれるとテレビでは言っていた。僕はその会場にもぐりこむ方法を考え続けた。
記者会見の席上、彼女は唐突に引退を表明した。弁明する彼女の怒哀を楽しもうと思っていたレポーター達は、一瞬だけ言葉を無くしたが、直ぐに罵声と質問が飛び交いはじめ、フラッシュが間断なく焚かれた。そこにマネージャーが駆け込んできてこけた。テーブル上にあったガラスの花瓶が落ちて砕けた。「本日はこれで会見を終了いたします」だがそんな一方的な宣言を聞き入れるレポーター達ではなかった。最前列に座っていたレポーターは、転がっているマネージャーを介抱するふりをしながら「続けないと、四年前の封印破っちゃうよ」などと脅していた。場内は騒然としていたが、彼女は大きな丸いサングラスをかけたまま、正面を見据えていた。
「引退は今回のスキャンダルと関係があるんですか?」
どさくさに紛れて僕はそう怒鳴った。会場が静まり返った。彼女はサングラスを外して僕の顔を見つめた。会場全体が固唾を呑んで見守る中、彼女の頬を一筋の涙が流れた。ストロボが彼女の涙をひときわ美しく輝かせていた。「それではこれで終了させていただきます」
顔が血で染まったマネージャーが、彼女の前に立ちはだかり、会見は終わった。
僕はうれしかった。彼女は僕のところへ戻ってくるために、仕事をやめると言ったのだと思ったからだ。何故そんな虫のよい事を一番に思いついたのかといえば、結局それは僕の望みだったからなのだろう。彼女の涙は、僕の質問に対する抗議だったのだと思った。彼女の前に這いつくばって許しを乞う自分を思い浮かべ、その幸福に涙がこぼれた。
その翌日、僕は、久しぶりに、彼女と、ペントハウスで一日を過ごした。
2.朝顔
朝顔の芽が伸びるところを見た。未明、湿った土をわずかにはね除けて、一列にまっすぐ、一斉に立ち上がった。黒い種子の半分に割れたものを窮屈に被ったままだったが、瑞々しい白から黄緑色への階調は、種子の重さからは解き放たれているように見えた。谷底から届く沢の音は、雨をはらんで柔らかかった。冷めやらぬ夏の日の濛気が、立ちのぼることも、地に降りることもできぬままじんわりと止まっている。七年目の蝉がジーという産声をそこここで上げた。
「夜の田の稲は揺れない」と言った男がいた。続けて、「夜半の風は音ばかりで気流は起こらないからだ」とも言った。
細い月の明かりに浮かぶ山々のシルエットは、青白い夜空よりも黒かった。山を形作っている無数の葉っぱは闇に塗り込められて、ただ山という一塊になった。除虫灯の下には焼かれた蛾や甲虫が落ちつくした。動くものは何も無かった。
そういった全てのものを背後に感じながら、男は、十二本の朝顔の芽吹きを見ていた。
男は懐中電灯を携えた一群に混じっていて、頻繁に顔を照らされるのに辟易していた。「懐中電灯でむやみと人を照らしてはいけない」
と、男が手を翳しながら諭すと、子供たちは「何でー」と、言いながら光を集めてきた。
子供たちは男を知らない。だが男は、この子供たちと、その親たちとを知っていた。ふとしたときに浮かび上がる子供の表情が親の面影に結びつくと、様々な感情がわきおこり、それは残像のようにいつまでも目の前を漂っていた。
「戸草。お前たいそうな人気やのう」
青年団世話役という腕章を巻いた男が、子供の囲みの中にいる男に怒鳴った。酒の匂いが辺りに広がる。子供たちは、
「臭い臭い。おいちゃんまあた呑んじゅうな」
と言いながら、世話役も取り囲んでいく。
「この村には子供が多いな。お前もここに戻ってきているし。村長も安心だな」
戸草と呼ばれた男は、子供達に揉みくちゃにされながら答えた。世話役はペッと唾を吐き捨て、
「横着モンが」と怒鳴った。
「二十五ンなったらみんなここさ戻るが掟じゃ。長はえらい心配なさっとったぞ。キサンが戻らんちゅうてな。そんが五年もひょんがってから、モヤシみてえになりよって。ヨイガシぐらいは顔を出さんか、このボケが」
世話役は、蟻のように群がる子供たちの中でびくともしない。
「そんな掟は知らないよ。今度の帰省だってそう長居をするつもりは無いと、長にも言っておいた。しきたりだのなんのって、別に強制されてるわけでもないんだよな。長はよかろうと一言いったきりだ。今の俺は、ここに来るのがやっとの死に損ないだ。役なんて勤まるものかよ」
「はっ。ヤクタイもねえ。勤めも果たせんかったもんにおぶせる役なんぞあるかよ」
世話役は、そう言った後、はっとした様子で戸草の顔をうかがった。そして、わずかに目を伏せた戸草を見ると、肩をいからせながらくるりと背を向け、法被を脱ぎ捨てた。背中一面を彩る大輪の花の彫り物が懐中電灯の明かりに浮かび上がり、子供たちがはやし立てた。
「ああ、出た出た。お花のおいちゃんの花が出た」
「おいちゃんお花がまた増えとーじゃなかか。こないだは四つだったけんど、今夜は六つ咲いとー」
「つるも伸びとー。もう背中が見えんくらいじゃ」
「おおよ。おいちゃんの花は怒るとでっかく咲くんじゃ。餓鬼どもあんまりおいちゃんを怒らすな。こん花は餓鬼の血ば吸うてでかなるんじゃ」
「嘘ぞー」
子供たちと世話役はぞろぞろと社へ移動していった。五年に一度のヨイガシが始まるのだ。男は、遠くから聞こえる鼓や笛、そして大勢の人間の声の塊から隔てられた閑静な棚田の畦道に、懐かしさを感じながら、再び一人で立っていた。
3.ペントハウス
ペントハウスとはいっても所々ガラスが破れ、サッシも錆びてぼろぼろだ。これが高層マンションの屋上に立っていて、しかも壁や天井のほとんどがガラスというのでなければ、相当なあばら屋に見えたことだろう。管理会社が倒産し、競売にかけても売れず、建物の解体費用も出ないこの場所は、都会の空白地帯だ。
浴室の目隠しの為に作られた蔓棚は、白茶けた蔓だけになっていたが、その棘はいっそう固く鋭い。僕は、結局この町でも居場所を見つけられず、この場所へ流れ着いてしまったのだ。眼下を濁流が流れていくのが見える。この建物自体が、流れからはじき出されて引っ掛かり、戻ることも進む事も出来なくなった漂流物で、自分もまたそんな澱みに引っ掛かったゴミのようなものだと思った。枯死してなお頑に鋭い棘に人指し指をこわごわと押しつけ、「痛い。けっこう痛い」などとひとりごちるしか能の無い敗残者にとっては、こんな場所でも勿体ない程だと思う。
この高層マンションは、壮大な失敗作だ。ただあまりにも堂々としすぎているので失敗作というよりも、新しい廃墟のように見えた。新しい廃墟に、しかしなんの意義があるだろうか。いずれ更地にされるまで、その巨大さのみを拠り所にして建っている。建っている事が、新しい廃墟の抵抗になる。そのてっぺんに、抵抗する気力も能力も無い自分がいて、十本の指先から遙かな地上を流れる濁流に、おそるおそる血を落としているのだ。
「飛び下りるなら屋上からがいい。真っ赤な夕焼けが分厚い雲を紅蓮に焼いた、そんな空の下がいい」
ヨレヨレのナイロン製のパーカーで陽射しを遮り、埃まみれのソファーで寝ている僕に気づかない様子でふらりと現れたのが、彼女だった。その時の彼女の服装がどうしても思い出せないのだが、飛び下りるつもりだったようなので、スカートではなかっただろうと思う。地面に激突してからスカートの乱れを直せるという保証は無いのだ。やっぱり死ぬなら無様な姿は晒したくないだろう。もっとも脳みそをアスファルトにまき散らすのが、無様でないかどうかは知らないが。
「自動車のね、屋根を狙って飛び下りるの。知らないかな。アメリカのロックフェラーセンターから飛び下りた、世界一美しい飛び下り死体の写真」
彼女はフェンスの無い屋上のへりに腰掛けて、足を宙でブラブラとさせながら話していた。午前11時を過ぎ、ビルの窓という窓から、黒い板をかざした人々が顔をのぞかせていた。彼女も大きなサングラスをかけていた。そうだ。丸い形の顔の半分も隠れそうなサングラスだった。僕はガーデンテラスのなれの果てに腰を掛けて、フード越しに彼女の声を聞いている。
「人がいるビルだとね、落ちていく時、中の人とつい目があってしまうことがあって、それはそれは気持ちの悪いものらしいのよ。ま、どうでもいいんだけどね。こっちは死んじゃうんだから」
「じゃ、なんにしても、今はやめといた方がいいね。なにしろ人目が多すぎる」
ひび割れたガラスに、三日月の太陽が落とす奇妙な光と影の交錯していた。彼女は天を仰ぎ、空高く手を差し伸べた。
「どうしてそんなに死にたいの?」
僕は尋ねてみた。彼女はそれまで、ずっとあちらを、つまり中空を見ていたのだが、その時はじめて腰をぐるりと捩じってこちらを見た。凄まじいビル風が吹き上がり、彼女のスカートが大きく風をはらんだ。ああ、彼女はスカートを履いていたのだ。白い、簡素な、ロングスカートを。
「そういう質問をされたくないから、ここに来たんだけどな」
そう言って、彼女は目を閉じると背筋をピンと延ばし、両足をこちら側へくるりと回した。そして真っ直ぐな白い棒になって狭い縁の上を半回転したところで、干してあったクッションにどさりと落ちた。仰向けのままじっと目を閉じた彼女の側まで僕は歩いていって、しげしげと見下ろした。半袖の白いワンピースで、靴は履いていなかった。僕は、彼女と何ものかを共有できるとは思っていなかった。また彼女の「死にたい」という欲望を人質にして、何かの要求を通せるとも思わなかった。そもそも要求自体が無かった。それでも、僕は彼女に近づいていった。サングラスに、僕と、僕の背後の空と、鎌形の太陽とが映っていた。
「どう思う?」と彼女が言った。
「満点だと思う。練習にしては。でも本番ではきっと、こんな旨くはいかないと思う」と僕は答えた。
「やっぱりね」
彼女はそういうと、さっぱりと立ち上がり、スカートをパンパンとはらった。
「また、来るかもしれない」
そう言われた時、僕は肩を竦めることしかできなかった。なんの言葉も浮かんでこなかったのだ。彼女とまた会える、なんてあり得ないと思っていたからだ。
彼女は裸足のまま帰っていった。これが僕と彼女との最初のエピソードだ。彼女が屋上の縁に立ち、地上を覗き込んでいる時、最初にどんな会話があったのかを、僕は覚えていない。きっと、その会話に失敗していたら、彼女は今この世にはいないのだろうと思う。だからといって、別に僕は彼女に恩を着せているわけではないのだ。そこで死んでいたほうが、マシだったかもしれないのだから。
――田舎を出たかった。そんなありきたりな衝動だけだった。保証なんて何もなかったけれど、可能性ですらない可能性を夢見てそれに人生を賭けられる若さだけで、私はもうはち切れそうだった。始めて乗る急行列車は、私の夢に向かって進んでいるのだと思っていた。でも、現実は違っていた。密かに、でも強靱に編み上げてきたはずの私の夢なんて、クモの巣よりも弱かった。来る日も来る日も私は自分に問いかけた。こんな夢でも持ちつづける事が大切なんだって言えるのかしら、って。
4.穴
静寂のしじまの向こう側で提灯がいくつも明滅した。上社へ登る行列の灯だ。戸草は最後の煙草を取り出し、惜しげもなく火をつけた。そうしなければ、自分というものが消えてしまいそうな気がしたのかもしれない。新月の星空は地上を照らすこと無く、林立する杉の木立も厚みを無くしていた。山には空間の濃淡しかない。人はその濃淡に取り込まれて消えていくだけだった。戸草は、ゆっくりと煙草をくゆらした。「この火が消えたとき、自分はどこにいるのか分かったものではないぞ」と思いながら。
「ヨイガシ」という風習はこの村に独特のものだ。五年に一度、そのとき三歳から五歳の子供達は皆このヨイガシに参加する。そしてこれに参加した者は必ず二十五才の夏に伴侶と伴ってこの村に戻ってくるのだといわれている。戸草は岩屋の頂へ揺らめきながら登っていく提灯行列の火を目で追いながら、自分が参加するはずだった時の様子を思い出そうとしていた。その時に岩屋へ入った連中が、今ヨイガシへ出ている子供たちの親なのだ。あの親達は、子供たちにこれから何が起こるのか、承知しているのだろうか。戸草は、フィルターのところまで吸いつくした煙草を捨てた。チンチンという鐘の音が聞こえてきた。この音が戸草に昔の事を思い出させてくれた。
上社には神体となっている巨大な円錐形の岩がある。周囲をぎりぎりと蔦のようなものにまきつかれた、その裂け目に入っていくのだ。そこで、子供達は白い着物に着替えさせられる。その時、着物は前後左右を逆さまに着せられ、草履も左右逆に履かされる。そして、一人一人、岩屋の突き当たりにある祭壇の裏に穿たれた穴に入っていくのだ。そこは、ぼんやりと青白い。恐怖に泣きだしたくなるが不思議と声が出ない。怖くてしようがないのに、前から引っ張られるがごとく、後ろから押されるがごとく、整然と穴に入っていくのだ。奥から犬の吠える声が聞こえる。それから、それからどうなるというのだろう。五歳だった戸草には、その先のことは分からない。だが、そういう自分にしか分からないこともあるのだと、戸草は思った。
鐘の音は続いている。だが提灯の火はもう見えない。
小学校の頃、すでに両親はいなかった。村長の世話になりながら中学校を卒業するとすぐに村を出た。そして二十五の春に失業した。幸い、貯えがそこそこあったので食うに困るという状況にはならなかった。拘束時間が長く、給料と休日が少ないという仕事だったし、とりたててそれを天職と決めていたわけでもなかったので、悲壮な感じではなかった。貯金といっても、それを使う暇がなかったというだけの事だ。一週間程は、ビデオを借りて見ていたり、散歩したりして過ごした。仕事に追われている時には、いろいろな事をしたいと思ったものだが、いざ自由な時間をどっさり与えられるとかえって何も手に付かないものだ。やがて、戸草は部屋からほとんど出なくなった。腹が減ったら貯金を下ろしてコンビニに行く。それも日に一度あるかないかだった。
「結局、自分のやりたいことが分からない人間は、生きている意味は無い」戸草は「餓死」を選択した。
いや選択という言葉は当たっていない。ごく自然に、食欲が失われていったのである。その分、貯えは長続きするというのが奇妙な気もしたが、敢えて空腹を我慢するつもりは無かったので、腹が減れば金を下ろしてコンビニへ出向いた。筋肉はごっそりと落ち、髪は肩につくほどになった。部屋ではほとんど裸でごろごろしていた。風呂にも入らなかったのか、というとそんなことはなく、寝ているのに飽きるとそのままゴロゴロと黴だらけのユニットバスへ転がっていき、シャワーを浴びたし、髭剃りをしたりしていた。それから鏡の前に立ち、目ばかりが大きくなっていくのを見るのだ。瞳はどんどん透明になっていくようだった。鼻もどんどん尖っていくようだった。いっそ坊主にでもなろうかと思って、笑ったりもした。しかし、今更、何か新しい事を覚えるなんて、御免だった。天命でも降りてこないかななどと考え、その馬鹿馬鹿しさにまた笑ったりもした。同じ季節が巡った。5年が経って、戸草はまだ生きていた。そして、あの村を見ておきたくなった。これが最後、というつもりで、故郷を、ヨイガシを、見ておこうという気になったのかもしれない。
――実現不可能な夢なんて、生きていくのに邪魔なだけだと思う時もあった。その時は、生きていても仕様がないなと、思った。何にも楽しくなんてなかった。モデル事務所に籍だけ置いていたけど、来るのはチラシの仕事とか、地方イベントのアシスタントばかりだった。ストリートで歌っていた時もあったけど、酔っぱらいに絡まれるばかりだった。ギターが弾ければよかったのかな。ピアノを持って歩くわけにはいかないし、キーボードは高かったし。ダンスレッスンにも通いはじめたけど、モデルの仕事だけじゃレッスン代も出ない。結局アルバイトに明け暮れて、やっぱり夜の仕事に入っていくしかなくなっていった。始めは、バーでピアノを弾かせてもらうっていう話だったけど、席に付かなきゃ首だとか言われて、住み込みだったから文句も言えなくて、嫌なことばかりだった。でも、そこに来ていたプロデューサーが、私の歌とピアノを聞いてくれて、オーデションの話をくれた。死のうと思って屋上まで行った日の夜だった。あの時、死んでたら今の私はいないんだと思う。あそこに、彼がいなければ……
あーあ。こうやって書いてみると、なんてありがちなストーリーなんだろうって思う。テレビドラマならこんな古臭い展開、即却下よね。でも、そんな展開を地でいかなきゃならなかった私は、もっと悲惨だった。それに、日の当たる場所へ出てからだって、やっぱり、夢と現実のギャップの大きさを、改めて思い知らされる事になった。
5.棘
彼女とその男とは、『冥界解明迷宮』参加者の列から少し外れたところで、楽しげに話していた。参加の記念写真を取るフラッシュがあちこちで焚かれた。僕は、その中にきっと写真週刊誌のカメラマンもいるのだろうと思ったが、もはやそんなものは無関係だと思った。生還率30%のこのゲームへの参加を決めた時から、彼女も僕も、その30%に入りたいなどという希望は無かったのだ。互いにそれと口にしたわけではなかった。だが新月の星空の下、飛行機の明滅を一緒に見上げながら、僕たちは覚悟を決めたはずだった。
「なんて事はないさ。屋上から地下に移動するだけのことだから」
「そうね。どっちにいても二人だけの世界にかわりはないわ」
地表を流れる水が最も汚れている。水蒸気となって上昇した雨も、地下にしみ入る伏流水も、途中で自然に濾過され、しかも公害が無いからだ。僕たちは美しい水になりたかったのかもしれない。
「やあ。遅くなってごめんね。朝顔の手入れをしていたものだから」
少しおどけ気味に声をかけると、彼女は一目散に駆けてきて、体をぶつけるようにして僕に抱きついてきた。
「こないかと思った。こないかと思った。やっぱり来てくれないんだと思った」
僕はとても驚いた。驚きながら嬉しかった。そして誇らしかった。フラッシュがひっきりなしに焚かれた。僕は細くて小さな彼女の体をきつく抱きしめながら、少しびっくりしたような顔をしている男の方を見た。男は老人のように見えた。僕が見ていることに気づくと、彼は、ボロボロに抜け落ちた歯を見せて笑った。
「ねえ。ねえ。彼は誰?何の話してたの?」
僕は彼女の背中や髪を撫でたりして、なだめながら尋ねた。彼女は「え?」といって僕の胸に顎をつけるようにして上を向いた。鼻と目が真っ赤だった。僕は微笑んでいつものように彼女の額に自分の額を軽くこすりつけた。こうすると、気持ちが落ちつくらしいのだ。
「あ。彼? 彼はね今ここで会ったんだ。おもしろいんだよ。ヨイガシって知ってた?」
「ヨイガシ?」
僕はそう繰り返して、再び彼を見た。彼は先程と同じ位置に立って、同じように口をあけていた。僕は、先ほどの劣等感と同じ大きさの、苛立ちを感じていた。ともすれば、相手の貧相さをなじりたくなるのを必死でこらえ、むしろこの哀れな男に、彼女のすばらしさのほんの少しだけでも、恵んでやろうと思った。そうすることで、僕が感じた惨めさと、残虐さとを帳消しにしてしまえるのではないかと考えたのだ。
「知らないな。それで、その話は終わったの? もし途中だったら、僕も聞いてみたいから、終わりまで聞かせてもらえると嬉しいな」
僕の心の中にわだかまったのが何かなど気付かない彼女は、僕の中でクスクスと笑った。
「途中だったの。いいところ。聞いてみようか」
彼女は僕の腕の中でくるりと後ろ向きになると、男に向かって呼びかけた。
「戸草さあーん。この人。私のパートナー。でね、さっきの話、聞きたいって、いうんだけど、いいかなあ?」
僕は彼女を背後からまたぎゅっと抱きしめた。なんと嬉しい事だろう。彼女は僕をパートナーだと、なんのてらいもなく紹介してくれたではないか。それにひきかえ僕は、なんと馬鹿なのだろう。さっきまでの僕の逡巡は、結局、彼女を冒涜しているのと同じことだった。
「ごめんね」
と僕は囁いた。その囁きはあまりに小さかったので、こちらにやってくるみすぼらしい男を喜々として見つめる彼女の耳には届かなかったようだった。また、僕の胸にかすかな棘が生えてきた。
――夢は近づけば近づくほど遠くなっていくものね。現実がブレンドされて苦いブラックになるの。でももう、逃げる事は出来ない。目の前を見ると、ほら、もう分かれ道なんてどこにもないから。どうしてだろう。どうして私はこの道を選んで来てしまったのかしら。本当に、この道で良かったのかしら。目の前を見ると、ほら、もう分かれ道なんてどこにもないから。目の前を見ると、ほら、もう、すぐそこに、深い崖が、口を開けているから。だけど立ち止まるなんて出来ない。この道の先に、ゴールは無いけれど。夢は踏みにじられてしまったけれど。
6. メントール
夜の底が白くなる。そんな言い回しが思い出される。まだ昇らない朝日を受けて、川面が鈍く光始めた。せせらぎや、さえずり、ジーっという蝉の産声が、寝ぼけたように聞こえてくる。夜は白い靄になって流れて消えていく。再び、人の目がそれと分かる山村の風景が戻ってくる。空は空となり、大地は大地となり、音は音となり、命は命へと帰っていく。
夜を徹して行われたヨイガシの熱もすっかり冷め、大人達が上社から降りてくる。戸草は、棚田の畦道に立ち尽くしたままで、山道を通りすぎていく大人たちの灰色の影を、見るともなく見ていた。
「戸草ぁ。おんしまだこげんとこにおったんかい」
世話役の腕章を外して、酔いも冷めたかにみえるさきほどの男が、山道を外れて畦を歩いてきた。戸草は煙草を探った。だがもう煙草は無い。
「ほれ。吸え。メントールじゃ」
「サンキュ」
戸草は素直に緑の箱から一本抜き取り、自分のライターで火をつけ、男も一本くわえたので、そのライターで火をつけてやった。煙は、夜が流れていく方向に渦を巻いていった。
「今年は何人いった?」
戸草は尋ねた。
「十二人じゃ。まあこげんもんじゃろ。俺らんときゃ、少しばかり多すぎたようじゃ。あんが異常やったんよ。十人から十五人あたりが、送りも楽ぞ。なんぼしきたりじゃちゅうても、むごい事には変わらんよ」
「お前でもそう思うのか。」
戸草の言葉に男は語気を荒げた。
「思わんでか! 次は俺の子ぞ。きさんは嫁もとらんで、ねぐさりくさって、ほうけぇ抜かすな、こんよこがみもんがっ」
男は怒鳴って煙草を吹き捨てた。青々としげる稲の中でジュという音がした。蛙になれなかったオタマジャクシが眠る数千匹が、怯えたように体を震わせた。それは田んぼ中の青黒い全ての稲に伝播した。男はぬれた手ぬぐいでゴシゴシと顔を拭った。
「すまん。ちっくと疲れた。おんしが勤めんかったんは、おんしのせいじゃねぇず。そん親も……」
「ほんで、いくたり戻るとふんじゅうや?」
戸草が突然、国の言葉で尋ねた。男は、うっと息を詰めた。その日最初の風が棚田を吹き上げていった。
「五人。いや、三人か。わからんよ。戻ってきたところで……」
男はそう言ってから、忌ま忌ましげに煙草の箱を取り出した。
「今度は長旅になるんじゃろ。選別じゃ。持っちょれ」
戸草は、素直に緑の箱を受取り、頭を下げた。
「ええか。子ば作りよるな。メントールば吸うても、子は出来るぞ。あんは、噂ぞ。お陰でわしはもうこの村離れられんくさ。おまんはええのお。糸ン切れた凧みてぇに、風の向くまま気の向くままじゃもんね」
「凧は糸が切れたら、飛んじゃおれんよ」
戸草はぼそりと、答えて、畦道を下りはじめた。
「あン? 何ぞいうたか。おい。戸草。戸草よぉ。次のヨイガシにゃ、せっくと戻ってきょ。きっと。きっと約束ぞ」
戸草は、振り向かずに、ただ手を上げて、メントールの煙のたなびく方へと、歩いていった。
7. 冥界
芽吹いた十二の朝顔は、競い合うように双葉から本葉を出して、蔓を延ばし始めた。まだ十分に張っていない根は、蔓の激しい動きを支えきれずに、ぐらぐらと揺らめいた。この一角には支柱は4本しかなかった。首尾よく支柱に取りついた朝顔は、精一杯に葉を張って、他の蔓を寄せつけぬように威嚇した。朝顔同志で絡み合い、横倒しになった。棚田へずるずると落ちていく物もあった。あまりに勢い良く絡まりすぎて支柱を引き抜いてしまった物もあった。早々と蕾を膨らませてしまい、身動きが取れないまま別の朝顔の蔓に巻きつかれて腐っていくものもあった。支柱を奪った朝顔も、てっぺんまで巻きつくしてしまって、新たな支えを求めて青白い闇を嗅ぎ回っている。やがて日の出の数分前になると、巻いた物も巻かれた物も巻けずに倒れた物も、一斉に蕾を膨らませた。そして、日の出の瞬間、全ての蕾が解けた。艶やかな大輪が岩屋の下に広がった。だが、その瞬間から全ての朝顔が白茶け始めた。
戸草は二人にせがまれて話しているうちに、自分が、その枯れた朝顔のことを、ことこまかに説明している事に気づいた。女は大きな瞳で戸草を見ていた。男は、迷宮の地下から涌いたという、水をごくごくと飲んでいた。
「だけど、ヨイガシってよく分からないな。結局、子供たちはどうなったの?」
話しを終えた戸草に、女が尋ねた。戸草は、痰が絡んだように、ひとしきり咳払いをした後、肩をすくめてみせた。
「なんだか、生贄みたいな感じだったね。未だにそんな風習が残っている村なんて、ちょっと信じられないな」
男はそう言って、もう興味を失ったとでもいうように、頬杖をついて窓の外を見た。ガラスには三人の姿が半透明に映し出されていた。男の肩口のあたり、切り立った岩山の合間に、沈みかける三日月が貼りついていた。
「このゲームだって同じようなものですよ。全財産をチップに変えて、地下がどうなっているのか分からないまま、いそいそと参加していく、あの連中をご覧なさい」
「私たちもだけどね」
女はそう言って男を見た。男は、いつの間にか、戸草をじっと見つめていた。
「その朝顔だけど」
と言うと、男は一旦言葉を切り、コップの水を飲み干してから続けた。
「その朝顔だけど、蔓に棘が生えるやつじゃない?」
戸草は、自分の咽喉がヒューヒューと鳴っているのを聞いた。
「覚えていないんですよ……」
戸草の脳裏に、世話役の男の顔が浮かんできた。額を冷たい汗がしたたり落ちた。
「そうですか」
男は簡単に返答をすると、窓の外へ視線を移した。白い月から冷たい光が滴っていた。戸草は、自分の周囲の空気が薄くなっていくような気がした。5年間の不摂生の報いが、一度に押し寄せてきたな、と思った。それから、案外これは、過去25年分の報いだったのかもしれないとも思った。
「何。どうしたの? 二人とも変な空気になってるよ。ヨイガシの話、不思議な話ですよね、戸草さん。出来れば私も…… 戸草さん。どうしたんですか? 戸草さん」
戸草には、もはや、とりつくろう余裕はなかった。女の目の前で、戸草の顔はみるみる青くなっていった。吐き気に耐えるように、幾度も深呼吸をする姿に女は慌てた。
「お水を」
女は、テーブルの上の、自分の飲みかけのコップを手にテーブルを回り込み、戸草の隣に膝をついた。男はそんな女と、戸草とを睨んでいた。
「戸草さん。お水」
戸草は、女から震える手でコップを受け取り、口へ運んだ。だが、わずかに唇が濡れたというところで、激しく咳き込み、コップの水は、テーブルと、女の髪や顔、戸草のジャケットやズボンに飛び散った。
「離れろ!」
突然、男が怒鳴った。女は初めて見た男の態度に慄いた。コーヒースタンドの全ての人の目が三人に注がれていた。呆然とする女の顔を、戸草はそっと覗き込んだ。
「大丈夫です。この水は、私には、清冽すぎるようです」
「だけど、お体が悪いんじゃあないですか?」
「大丈夫だといっているんだから、大丈夫だろう。戸草さん。そうですよね」
男は席を立ち、女の肩をつかんで、椅子へ引き戻した。戸草は、顎をカタカタとならしながら、うなずいた。
「大丈夫です。ちょっと、むせただけですから。みなさんも。本当にお騒がせしました」
戸草は、よろよろと椅子からたちあがって、店内にむかって頭を下げた。
「だけど、ヨイガシの話、とてもおもしろそうだと思わない? ちょっと不思議な、風習ね」
「もし、ヨイガシのことがもっと知りたかったら、是非、村へ行ってみることをお勧めますよ。村は、恋人同士のお客様をとても歓迎します。有名な縁結びの神社があるんです」
女の目が輝いた。
「ねえ。私行ってみたい」
男は女を見つめた。
「ここのエントリーは、どうするの? けっこう話題になっちゃっているみたいだけど……」
男がそういうと、女はぷぅ、と頬を膨らませた。
「そんな意地悪言わないで。そういうことを気にしなくてもよくなるように、引退したんだからね」
男は、そんな女を心の底からかわいい、と思い、大切だと思った。そして、この日、この時に、この『冥界解明迷宮』があったことを感謝した。
「それじゃ、行ってみよう。ここで戸草さんに会ったのも何かの縁かもしれないし。ここの攻略は、その後で」
「うん。その後で」
二人は立ち上がった。
「それじゃ、戸草さん。また」
女は戸草にむかって手を差し出した。戸草も、おずおずと手を差し伸べた。二人の手が重なった瞬間、彼女の掌に刺すような痛みが走った。だが、突然に手を引っ込めるのはあまりにも失礼だと思った女は、その痛みに耐えて、固い握手を交わした。
カフェスタンドを出てから女は自分の手を見た。掌には、ボツボツと血が滲んでいた。
「大丈夫?」
男はそう言って女の手を取ると、滲む血を嘗めた。
「う、うん。平気。それより、戸草さん」
女はそう言って、店を振り返った。明るい店内は外からはよく見渡せた。戸草はタバコをくわえていた。一条の煙が立ち上り、それから再び激しく咳き込む姿が、幻燈のように映った。
「あっ」
咄嗟に女は店に駈け戻ろうとした。だが、その肩を男がしっかりと掴んだ。
「僕らは、後戻りしちゃいけないんだ。大丈夫。お店の人が救急車を手配してくれるさ」
女は男を見つめ、コクリとうなずいた。
「じゃ、行こう」
二人の背後からは、メントールの香りが漂ってきた。
――なぜだか、分からないけれど、あなたと離れていると、胸がぎゅっと締め付けられるみたいになって、すごく痛くて。こんな気持ち初めてだった。夢と現実がブレンドされるって折り合いをつけるんだって、思い始めていたけれど、これでいいんだと思おうとしてたけれど、私は等身大の私の、夢じゃなくて、幸福を、見つけたような気がしたの。きっと、本当の幸せって、よく分からないものだから、幸せなのかもしれないね。これからは、ずっと一緒だよ。
――僕達の出会いは、運命、だったのさ。
戸草は、店員の申し出を固辞してトイレに入った。出てきたとき、戸草の装束はひじょうに奇妙なことになっていた。ジャケトもシャツもズボンも後ろ前に身につけ、どうやっているのか革靴までもが前後さかさまだった。さらに奇妙だったのは、この不自然な姿の戸草を、店内の誰もが、見咎めなかったことだ。そのなりで、戸草は一人で、地下迷宮へと入っていった。係員からコース図もヒントも受け取らず、食料もチップもないまま、ふらふらと冥界へと下っていった。
「次のヨイガシに。きっと」そう呟きながら。
おわり
冥界解明迷宮 ~朝顔の棘~