フーガ

フーガ

少年愛ものですが、ショタコン小説やBL小説ではありません。

少年のにおい

「近頃、木ノ牧小学校から中学校の児童の行方不明が多発しています。」

*

溝口夢二(ゆめじ)少年は白と紺の体操着を派手に汚している。白帽はゴムが弛んで肩へずりおちている。怒気のこもった幼稚な喧騒・騎馬戦の主役に、溝口君は選ばれたのである。

「かなんなあ。」
テレながら笑う溝口君はクラスで一番人気の男の子である。

白帽代表の脆弱な英雄、うぶげ一つない美しい生足が、ふたつ、折り曲げられていて、すらりと長く骨と皮だけの裸足で見える突端のつま先まで扇情的な後光に包まれている。小学二年生の気味の悪い植物と泥の香に羽場先生は息を呑み、そしてほんの数十秒の虚脱感に駆られるのであった。

「まいったなあ。」
眼をこすりながらつぶやく羽場先生に、同僚の深沢が云った。
「おい羽場、おまえんとこの溝口くん。あら危ないらしいな。そろそろボディガード(守護神)ちゅうのつけたらどうや。」
「そらあ俺もいま悩んどったんや。」
「まあちょっくら今日はなんていうかクイっと。」
と遠まわしにノミに誘われるので、イライラして
「別にええよ。」と羽場先生は眉間にしわを寄せながら云った。

*

確かに溝口君の体操着を欲しいという気持ちに変わりはなかった。あの汗くさい、少年の汗くさいにおいは恐ろしく優美なものである。そうして羽場先生が事件を起こすのである。溝口君の上衣は先に引越しのため本校を離れることになった千葉雄一君の帽子のうらに輝く砂鉄のにおいに等しかった。羽場先生は溝口の体操着をズタズタに切り裂いていた。溝口君はお星さまを眺めていた。いつか天文学者になるのが彼の夢だった。少年愛という性癖から、逃れられぬ宿命のように、羽場先生は鼻息たてて体操着を破いた。
(これで使い物にならん。)
羽場先生は結局何も獲らなかった。しかし溝口君の体操着をズタズタにしたという爽快感と恍惚感だけが、彼のこゝろの中に芽吹いていた。

*

溝口君は千葉君のくちびるにじぶんのくちびるをこじつけた。抵抗するようでもなく、千葉君の歯はその扉をひらいた。ぬめっとした唾液が溶け合い、おたがいを辱めた。
夢から飛び起き、息荒く溝口は千葉君を求めた。少女よりも美しいあの千葉の肌に触れたくてたまらなかった。これは同性愛などではない。少年期に訪れる神秘的な現象なのである。

*

哲ちゃんはどうしてか登校の日は下着を履かないでいた。それは何かのジンクスなのかイジメなのか、彼の親には明瞭(はっきり)しなかった。校内でもトイレ好きの哲ちゃんとよばれていて、授業中一時間に一度はトイレに行く。羽場先生も呆れたようすで
「どうぞ。」と汗をぬぐう。猛烈な日差しが教室に照りつけていた。
夏の光の中、蝉がミーンミーンと煩く啼いていた。よどんだ空気にまどろむ野良猫たちの給水場は既にやんちゃな子どもたちでいっぱいだった。遊具はとりあいだし、野球のボールが昼寝をしていた老人をどついたり、猫は退散せざるをえないし、賢明なものは家で勉強しているだろう、と羽場先生は思っていた。

*

「哲ちゃん、いっつも『大』してるの。お、おトイレのとき。」
みんなのタブーをやぶったのは、知恵おくれの裕子ちゃんだった。こゝろの裡で瀬間悠太君と葉口詩宗君は拍手した。
(裕子、ようやった。)
ふたりはぼんやり思った。
ほとんど質問の内容を解しているのに哲ちゃんは少し意地悪をして答えた。
「大、て何や。」
「おしっこやないやつ。」
「ああ、せやでせやで。何か文句あるか裕子。」
「あそこについて知りたい。」
「なんやそれ。ええ大人から学べや。俺みたいな。」
にかっと笑った哲ちゃんの歯に血がにじんでいて痛々しかった。
「哲ちゃん…ええ大人てどんなんどんなんおせえて哲ちゃん。」
「そらもう俺みたいな大人や。」
「あんた餓鬼やないの。」哲ちゃんのお母さんの純子さんが駄菓子を二階の客間まで持って来てくれた。
こんな会話は裕子ちゃんを介せば日常茶飯事である。
「んじゃ裕子も明日からトイレ行く。」
「俺についてくるか。」
哲ちゃんは眼を輝かせていた。すると横でずっと黙って話を聞いていた空ちゃんが哲ちゃんの手を掴むと、
「ついていく。何人でもええやん。あの、見たいものあるさかい。哲ちゃんかてあれへん? 男の子と女の子の違い。裕子ちゃんにはわかられへんやろか。」
続いて裕子が云うた。
「でもな、ひとつ問題あらへん? 裕子、女の子やから男の子便所入られへん。」
哲ちゃんは空ちゃんに向かってうなずくと、
「アホか。おまえまだ小二やろ。銭湯でも俺、母ちゃんと女風呂入るで。プールの脱衣所だってせやで。誰が気にするかいな」と裕子を宥めた。
「ねえ裕子ちゃん。男の子の人のからだってどんなんかしら。」
「裕子見たことある。なんかねぶらーんてついてるねん。」
訊いたほうの空ちゃんは頬を真っ紅に染めてしまった。そして眼を両手で押えてしゃがみこんだ。
「シャベル使い。」裕子ちゃんの無知が空ちゃんのこゝろを辱めたのだ。

*

翌日学校ではテストがあった。算数のテストで、詩宗君がやっぱり98点を獲っていた。相場だと哲ちゃんが70点くらいで、溝口君は80点くらいだろうか。裕子ちゃんは例外の問題集が出されていた。それにしても、62点しか獲れなかった空ちゃんはあの裕子ちゃんの云った言葉が頭を離れずにいてテストにも集中できなかった。
(なんだろう、やっぱりあのぶらーんというのは男の子の何か重要なものなのかなあ。)
トイレに籠ってそんなことを考えていると、あっというまにチャイムが鳴っていた。

詩宗君のみたい

空ちゃんは詩宗君の陰茎なら見てもいいと思った。そしてそれをいつか口に含みたいという渇望にかられだした。空ちゃんはブランコに揺られながら、黄昏の時を詩宗君の陰茎の空想に費やしたのだけれど、それはじっさい全く退屈でも不必要でもなかった。空ちゃんの空想は膨らんだ。それはとてつもなく長い緑色の陰茎に、自分のおくちが犯されている姿を思い、ゾクゾクするような至極性的なものであった。じじつ、小二の少女がませすぎてはいないか。しかし最近では小学校で事を為す小学生も少なくないらしい。

職員室と理科室へとつながる廊下で羽場先生と葛本先生が話しこんでいた。
「小学生で毛が生えるなんて、ずいぶんと気のはやい話をしますな葛本先生。」
「ところがぼくの見たところ、本校の生徒で性交のマネをして遊んでおる童児が数人いましてん。」
「まさか。」羽場先生は欲情している顔を見られまいとうつむいた。
「羽場先生うけもってますか。」
「まさか。男児が包皮を捲っているいるところをもくげきしたことがあります。」
羽場先生はその光景に思わず(性的に)興奮してしまった、などとは云えるはずもなかった。うつむきながら、額から耳元まで汗を垂れた。
「女児は至って冷静ですよ。」葛本先生が云った。
「そうでしょうか。宇井裕子という障碍児は、やっかいですよ。無垢だけにもっているわずかな知識でも吹聴してしまいますからね。男と女の性の形成だとか…。」
葛本先生は羽場先生のこの言葉に少しクスっと笑い、
「立派な性教育にはなりませんか。」と云った。
「ばかにしているのですか。」羽場先生はけんとした。
「とんでもない。それより、葉口君のいもうとの芋子ちゃん。彼女も知恵おくれですが、まだ学校にはあがってこれない。ぜひうちにいれたいのですね。」
羽場先生は、
(そんなかんたんに知恵おくれを教育できるものか。)と内心思った。

*

空ちゃんはついに男子トイレにもぐりこんだ。排便室に入っていると、
「空、来いや。」と哲ちゃんが云った。
「だってよ、哲ちゃん。うちやっぱりやめるわ。男の子のトイレ覗いても犯罪やん。」
「あいつやろ、葉口呼び出したらええんやろ。あいつも膀胱パンパンや。」
哲ちゃんは笑いながら自分の用をたし、瀬間君に葉口をトイレに誘きだすそう命じた。
空ちゃんはそこから逃げ出したい気分だった。

「ごめん、哲ちゃんっ」空ちゃんは男子トイレから飛び出た。そのままランドセルを背負って校庭を抜け、もう校門のところを急いで駆っていった。

しばらくして瀬間君が詩宗君をつれてトイレにやってきた。
「逃げちった。」と哲ちゃんはへらへら笑っている。いちばん迷惑なのは大好きな粘土で遊んでいた詩宗君。

「なんのようや。おまえらおれのこといちびってるんか。」と詩宗君が云うと瀬間君は
「俺、頼まれて。」と云うし、哲ちゃんは
「ま、ええやん。ところでおまえら剝けたんかい?」と好奇心にあふれた眼で詩宗君と瀬間君に訊くのだった。
瀬間君は「俺はもう毛はえてもてるからな。」と云った。
詩宗君と哲ちゃんは目をあわせ笑った。そのうち瀬間君も笑い出した。

俺はもう大人や

あくる日、哲ちゃんは学校を休んだ。瀬間君が心配して学校が終わってから、西本哲の家を訪ねたのだ。

「哲ちゃん、元気かー? 元気ちゃうわな、学校来てへんねんもんなあ。」
哲のお母さんの依子さんが戸口に出て、
「入ってビスケットでも食べ。」と云ってくれた。

哲ちゃんは瀬間君が居間に入ると、自分の部屋から片手を出して、手招きした。
「ビスケットなんて幼稚なもん食わんと、俺から話しあるねん。」
と哲ちゃんは云った。

「なんや。」
口にビスケット二枚を銜えて、瀬間君は哲ちゃんの部屋に入った。
「しっかりしめとけ。」と哲ちゃん。
「なんやボケ。」と瀬間君。
「じつはな、おまえに云わなならんねん。…おれ、射精した。」
哲はキラキラした笑顔で云った。
「まじか。」瀬間君が身を乗り出した。

いま、哲ちゃんを取り巻くグループの間では誰が最初にオナニーに成功するかの話題でもちきりだったのである。

「ほいで、どないしたんや。」瀬間君もキラキラした笑顔をしている。
「精通てのがあるらしいんやけど、俺はそれを破った。」
「精通? 聞いたことあらへんな。」
「つまり、女のヌード写真」と云って哲ちゃんは雨に濡れたプレイボーイの一面にでかでかと載っている黒人美女の裸体を瀬間君に見せ、
「これを見てたらむくむくとでかなった。」と云った。

「ほおじゃ俺も。」と瀬間君はその写真を凝視しながら、ズボンの上から確認した。暫く見ていると、ふしぎな気持ちになった。だんだんと気持ちが恍惚としていくのである。
「この気分か。」と瀬間君は云った。

「せや。そいでから俺はものすごいはやさでズボンを脱いで…」と云い終る前に、瀬間君はズボンとパンツをおろして、いきりたつ陰茎をしごき始めた。どうやら自然にオナニーを学習したようだ。

しばらく行為をなしていると、漸く瀬間君は限界に達したらしい。
「おしっこ出る。」という言葉と同時に、白濁液を噴出した。
「まあこれはすごい量。」哲ちゃんが茶化す。瀬間君は暫く吠えている。
「くるしい…なんやこれ。」
「すぐなれるよ。」哲ちゃんは平静に云った。

羽場先生が家庭訪問にやってくる時間だ。案の定、チャイムが鳴った。依子さんが戸口に出て応対していると、哲ちゃんはむくと起き上がって母親と先生のもとへ走っていった。羽場先生は元気そうな哲ちゃんを見て朗らかになり、依子さんは
「どうま迷惑おかけしております。」とわびた。

このわびる、というのが哲ちゃんにはとてもわかりっこなかった。羽場先生は何か哲ちゃんがひとかわむけたように思われたので、ひとつここはふたりだけになって話してみることにした。依子さんは台所へもどった。

「何かあったんか西本。」どことなく羽場先生は厭らしかった。
「果てた。」
「果てた? 意味わからん。」
「わからんでもええんとちゃう。」
「そんなこといわんと、話してくれよ。」羽場先生はつばをのんだ。
「オナニー。やったんや。初めて。ほいで成功して喜んどったところや。」
羽場先生は狼狽して、
「やや早すぎるんと違うか。」
「やろうな。でも俺はもう大人や」という哲ちゃんの笑顔を羽場先生はいつまでも見つめていたいと思った。そして
「せやな、大人や。」とだけつぶやいた。

羽場先生の勇姿

給食時間が終わると、裕子ちゃんが三人の男子生徒と共に男子トイレへ消えていくのを溝口君は見ていた。溝口君は誰よりもモテるが、じつは裕子ちゃんを想っていた。溝口君は何やら厭な気分になったので、跡をつけた。大便室に連れ込まれた裕子ちゃんは、六年生の秋葉稔君、熊江尚吾君、谷町真治君の三人に取り囲まれ、裸にされ、その猛り狂う陰茎の餌食になろうとしていた。溝口君は勇気を振り絞って
「待ちいな。」
と恐々しい声を出した。

「あ? 誰やこいつ。」
と秋葉君が云った。

裕子ちゃんは、
「溝口君やん。」

「あ、二年のチビか。」と谷町君が馬鹿にしたように云う。
「こないだの騎馬戦、良かったな。羽場のホモが狙っとったで。」
笑いながら熊江君が云うと、溝口君はぶちとキレたように、
「はあ? 何げすげすぬかしとんねん。」と喧嘩を売った。

これには狼狽した三人だったが、六年生三人と二年生一人ではとても敵わない。ただ、裸にされた裕子ちゃんへ悪い気がしながらも、
「ここにおれよ。仲間を呼んでくる」と云ってトイレから駆け出た。
「勝手にせー」谷町は不気味に笑った。

*

溝口君は瀬間君と哲ちゃん、詩宗君を連れてトイレに戻った。六年生の三人はいた。
「誰じゃ裕子ちゃん虐めとるんわ。」と人一倍とでかい瀬間君が腕まくりしながら云った。
「俺らや。文句あるけ?」熊江君が云った。

「まさかいれたんやないやろな。」と詩宗君が云うと、
「せやけど、何か問題でも?」
「貴様…」

(こいつらに勝てるのは誰や?)

四人は思った。そしてすぐにそれが誰か判明した。その人はトイレに入ってきた。
「羽場先生。」溝口君が甘い声を出した。
「おお溝口に、瀬間に、西本に、葉口やないか。それに六年の熊江、谷町、秋葉。どないした?」
羽場先生は怒気をこめて云った。

溝口君は
「先生、守らな。こいつら…」と六年生三人を指差して、
「裕子ちゃん犯しよった。」と云った。
「なんやと。」

溝口君は裕子ちゃんに服を着せると、肩を抱いてやった。みんな、羽場先生の次の行動を待っている。六年生の三人はさすがにやりすぎたと思った。

熊江君は
「でもいれてへんねん。」とほんとうのことを云った。
羽場先生は三人を拳骨で殴った。三人は大泣きした。
それが痛快で、二年生の四人は爆笑した。

そして、羽場先生は四人にウインクをして裕子ちゃんに
「今日は休め。このことは先生が処理するから。」と云って抱き上げ、彼女の家まで送っていった。
瀬間君、哲ちゃん、詩宗君、葉口君の四人は今まで見たことのない羽場先生の格好良さに呆気にとられていた。初めて見たようだ。羽場先生の勇姿を。

峰崎皇子自殺事件

恐ろしいことがおきた。哲ちゃんは走って学校へ行った。朝礼で東屋(あずまや)校長は全校生徒にいちおうの説明をした。

「同校生諸君は哀しみにくれ、啼き腫れた瞼を乾かすひまもなく次々にやってくる未来からの受難を真摯に受けておらねばならぬ。私は君たちを不憫に思う。なぜ峰崎皇子が服毒による自死をとげたが、君たちは考えざるをえぬだろうからだ。私は君たちに云いたい。自殺は勝利ではない。自殺は敗北だ。」

小学生には少々むつかしすぎたか、と校長はあとで笑ったが、こんな馬鹿な挨拶をした校長を蔑視するものもいた。詩宗君である。詩宗君の意見は一貫してこのようなものだった。

「峰崎さんが死んだこと、これは大きな悲劇ですが、彼女に同情することはできないのではないですか? 峰崎さんはエイズをもらってそれに狂って死んだのですよ。誰も知りません。しかもお金を稼ぐために黒人にからだを売ったのです。六年生とはいえ、只ならぬことです。『ロリータ』という小説を知っていますか? 中年男が幼い妖艶な娘に恋をするという話です。彼女はロリータを愛する心をもつ男性を手玉にとって二百万もの金を稼いだそうです。これはうちの親が云っていました。校長の云うことなど信用してはなりません。どの親も校長を蔑視しています。彼女は死ぬ宿命にあったと僕は思っています。彼女にとっては自然に死が訪れたのです。」

多くの生徒が彼の意見に同調した。しかし羽場先生が教室に入ってくると、みんな大人しく席について何事もなかったかのように教科書を開くのだった。

「みんなどうしたんや。峰崎さんのことか。ここで何か話したか。」
みんな黙りこんでいる。

「峰崎さんのいもうとさんが隣のクラスにおられるので、お悔みにでもいってやれよ。」
みんな黙りこんでいる。

「陰気くさい顔すな。彼女が自殺した理由(わけ)が君たちにら伝わっているどうかは知らないけれど、あんまり深く考え込むなよ。今日は授業終わり。校長が決めた。帰りなさい。」
羽場先生はそう云うと、そそくさと教科書を束ねて胸に抱き、教室を出て行った。

哲ちゃんがぱっと席を立った。
「俺、峰崎さんのいもうとのとこ行ってくるわ。」

裕子ちゃんはあまり意味を解していないらしく、ルービックキューヴで遊んでいる。

「俺はいかへん。」と詩宗君はつぶやいた。

そんなことお構いなしに哲ちゃんは教室を出て行った。

*

帰路、哲ちゃんと瀬間君が一緒に帰っていると、詩宗君が駆ってきた。

「どないしてん。」と哲ちゃんが訊くと、
「峰崎さんのとこ。」どたけ答えた。
哲ちゃんはすがすがしい気分になった。

「俺たちアウトローに生きへんか。」と哲ちゃんは突然云った。
溝口君が後ろから日傘をさしてあらわれた。
「よお溝口。」瀬間君が云った。
溝口はしどろもどろになったあと、「よ、よお」とだけ答えた。
「おまえのちからが必要なんや溝口。」
「俺のちから?」
「人生一回ぽっきり。しかも俺ら小学生は期間六年間しかあらへん。なんか思い出残せへんか。いま、俺たちにできることって、オナニーくらいやろ?」と自信満々に哲ちゃんは云った。
「西本、そんなことしてんのか。」溝口が訊いた。
「そんなんもうええねん。それよりオナニー以上のことせえへんか。」
満更でもない顔をしたあと、哲ちゃんは、
「ここはこう、あと四年間で童貞を捨てるてのはどうや。」と咳き込みながら云ったが、
「なんか映画で観たことあるぞ。」と詩宗君が茶々をいれる。

「そっかあ。うんじゃ盗撮せえへんか。」と哲ちゃんが云うと、
「それは奇抜やなあ。ちょっと現実離れしとれへんか。」と瀬間君。
「溝口はどう思う?」と詩宗君。
「俺、そんなん興味あらへん。」
「こいつはモテるから。」と哲ちゃんが苦笑しながら云った。
「盗撮もあきませんな。」瀬間君は道端の石を拾い、遠くに向かって投げた。
「こういう話ならあるで」と瀬間君は話し始めた。

「俺の家を西方にずっといくと樹海がある。そこをずっとえんえんと西へ行く。こら断念したなるけれどそこを堪えてもうえんえんえんえん歩き続ける。ずーっと歩き続ける。すると山荘みたいな建物にたどりつく。そこにはエロスのために発狂した謎の科学者が住んでいて、連れ去った人間の児や動物の児を解剖し、去勢し続けているのだ。あと四年でそいつに出会えるかってのはどや。」

哲ちゃんの眼がキラリと光った。

秘密の冒険

「哲ちゃん、まじでいくんか。」
と瀬間君は不安気だ。詩宗君はランドセルを背負った侭で、中身は水筒と食物の詰め合わせ。

「行くに決まってるでしょ。」
詩宗君は八月で転校が決まっていた。みんな急なことで驚いていた。

もう会えなくなるんだ…と思うと、むしょうに詩宗君との思い出を作りたくなった。哲ちゃんは詩宗君と最後の冒険を愉しみにしていた。

詩宗君は
「俺には時間がない。」とか重病の患者みたいなことを云っていた。

瀬間君はおどおどしていて、あんなこと話さなければ良かったと思っていた。
「なんやおまえ怖いんけ。」と哲ちゃんが瀬間君に云った。
「そんなことあるかえ。」瀬間君は強がってちょっとキレた。
「おれかてその科学者いうの見たいけど、樹海には近づくな、てうちの親が。」

「それは子どもがようけ行方不明になっているからやろ。そら心配やわな。」
今にもわくわくが心臓から飛び出しそうな詩宗君が云った。

「ぜんぶその科学者が人体実験に使こてるゆう話や。」哲ちゃんがごくりと唾をのんだ。瀬間君がおどおどしているのには、もう一つの理由があった。

「どうしても云うからえらいもん連れてきてもた。」と瀬間君が云った。

とおりのカーブから勢い良く走ってくる少女がいた。裕子ちゃんだ。しかも愛犬ベルも一緒だった。

「アホ。」
哲ちゃんは瀬間君の頭をコツンと突いた。

「裕子いきたいわ。えらい先生に会いたいわ。」
裕子ちゃんはどうやら『偉い先生』に会いにいくと思っているらしく、これを吹きこんだのは瀬間君であった。

「なんでやねん。」と哲ちゃん。
「おれもまさか来る思わへんからちょっとええ気になって云うてもたんや。おれら秘密の場所いくねん。そら、ついてこられへんでとは云うてんけど。」

瀬間君の言い訳を聞き終えたあと、詩宗君が

「うーむ。しかたあるまい。裕子の世話係として、渋井つれていくか。」

「えー渋井!?」哲ちゃんと瀬間君が同時に声をあげた。

渋井龍。二年生。学級委員。知恵おくれの弟をもち、そのためか裕子の世話を率先して指揮してきたクラスのリーダー的存在。哲ちゃんのいちばん苦手なとっつぁん坊やだ。しかし付き合いが悪い。だけれど今回は裕子が自から行くと云っているので、彼もついてくるだろう、と詩宗君は考えた。

*

さっそく渋井の帰り道を見張った。裕子がつれてきたベルがうるさい。渋井は先生と何か話しこむことがよくあるので、それから二十分ほどしてから現れた。
「よー渋井。」詩宗君が抜け出て渋井の肩をとんとんと叩いた。
「また君には勝てんかったね、テスト。」と渋井は苦笑した。
「まあ、人生、テストで図れるほど甘くないさ」と詩宗君は皮肉に宥めた。

「ところで渋井、…」あとからきた哲ちゃんが説得を始めた。

遁走

裕子ちゃんも一緒だと知って、渋井を何とか首肯させ、彼らは愈々出発した。
いったん瀬間君の家にあつまり、お菓子やら水筒やらなんかを用意してから、親にはそれぞれ口をそろえて午後六時には帰ると云い、冒険の幕は開けた。

首くゝりの名所を通って鬼山野を突っ切る。するとそこから爛れた一本の怪路がまっている。そこからえんえんと西へ西へ行くのだ。路が拓けたところに、水所があった。だれがこんなところにこんなものを…とも考える余裕なく歩きつかれた五人は、浴びるように水を口に含んだ。

哲ちゃんは幸せそうな顔をした。それにつられるかのように、みんなすがすがしい顔をした。裕子ちゃんもずっとげらげら笑っている。二度とは訪れないこの冒険にめいめいがいたく感心しているのだ。

それから何時間たっただろう。ずっと歩きつかれ、水筒の水もお菓子もぜんぶなくなった。鴉が啼き、小鹿がぎらりとこちらを睨んでいた。

(こんなところにも生き物がいるのだなあ…。)

(いや、いるはずがない。ではなぜだ?)

(誰かに飼われている。ということは?)

五人は疲労のため倒れるごとく木翳で昼寝をした。そして夢うつつのなか、五人は一軒の荘にたどりついた。明瞭(はっきり)現実だとは思えなかった。そこに、声がした。

「科学はお好きかね。」



あとがき

フーガとは音楽用語として余りにも有名であるが、実は精神医学的用語でもある。「遁走」の意味をもつ。思春期の少年たちにみられる悪夢のような鮮明な異質体験の一つであろう。ほとんどそれぞれ見えているものはちがう。しかしながら、西本哲ご一行が体験したのは、このフーガであろうか。だとしたら間違いないことがある。それは、彼らは永久に遁走し続けなければならないということだ。
西本哲 この物語の主人公だ。樹海から戻らなかった五人のうちの一人。小学二年生。
彼の言葉を借りてこの物語を終えたい。
「みんなごっつ幸せそうな顔してる。それみてるだけでわくわくしてくるんや。」

フーガ

フーガ

少年愛をテーマに童児たちの不思議な体験を描く。

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • ミステリー
  • 成人向け
更新日
登録日
2012-07-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 少年のにおい
  2. 詩宗君のみたい
  3. 俺はもう大人や
  4. 羽場先生の勇姿
  5. 峰崎皇子自殺事件
  6. 秘密の冒険
  7. 遁走