八月の残響 ~破~

八月の残響 ~破~

これは、−彼ら−の物語です。
だから、−誰か−が語るべきなのです。
理屈や動機なんてありません。
この人知れず起きていた−誰か−の生き様が貴方の手にとって読まれるならば、それが、若者たちの描く、生きる残響だと言い残すことができるのです。
願わくば、多くの糸がゆっくりと解けてゆくように、それらの真意を持って、夏の果てへと至ることを、お祈りします。

破 ~蝉時雨~

五十一章
前編『今よりも、もっと青く』~14年前~
真夏の昼下がり。
「そうだよもっと高く!…ほら!」
「届かないって!…あ、いける!」
天高く飛んでいった拳ほどのボールがゆっくりと空から落ちてきた。落下線上を辿りながらスカートが捲り上がるのも気にせず、今年の春から小学校に入ったばかりの松岡は、走り出していた。深みがかったどこまでも青い夏の空の向こうからボールが落ちてくる。陽射しのせいか、空を仰ぐのは少々眩しくてならない。
「まっちゃん右だよ!み・ぎ!」
蝉時雨鳴り止まぬ今日この頃。
「わかってるよ!…っ!ここだっ!」
青々とした緑に恵まれ、
「おかくんが投げるの高すぎ〜」
今日もこの町には、
「今だっ!」
淀みなき夏風がそよいでいる。
「…掴んだ…!掴んだよっ!!」
「「「「グローブじゃない手で…」」」」
今から14年前の夏は、昨年と何も変わらず、まるで遠い昔からそうだったように、同じ子供達が、それぞれの仲良しに分かれて、気ままな日々を過ごしていた。
「昨日の手作りプールもっかい行こーよー」
ブーたれる夏菜子に裕翔や上川が鼻で笑って返す。やさぐれ気味な幼稚園児の年長さんふたりに成長の早さを思い知らされながら、玲奈はそんな夏菜子をなだめていた。
「れな姉ちゃん今日は学校ないの?」
岡本が野球帽を投げながら玲奈に問いかけた。
「先週から夏休みなのよ?おかくんも夏休みでしょ?」
優しく返されてやや頬を赤くしながら岡本は知ーらねーと返して裕翔と上川を連れてキャッチボールを再開させに走って行った。
「みんなよく体力もつね〜。私もう疲れちゃった。マキちゃん、嘉山さんちのカキ氷行かない?」
蝉があらん限りの底力を出して鳴き続けている中、大木の根元の日陰でハンカチを顔に乗せて休んでいた真希子が口をようやく開いた。
「あぢぃ…あぢぃぃぃよう…玲奈…私も夏菜子に賛成。プールに氷入れよ。嘉山さんちの氷ぜんぶ」
大はしゃぎし始めた松岡や夏菜子たちを横目に笑いながら玲奈は呆れ気味にはいはいと答えた。
「潤くんは敷島爺ちゃんの秘密基地でここの所は用事も多いし、おかくんたちも暇だろうね〜」
潤という名にピクッと反応しながら真希子はミーンミーンという夏特有の空間の中でボンヤリとしていた。町内会議のためにこの町の親たちがあざみ野の公会堂におもむく日が時折ある。稀でもないそんな日のちびっ子達はどこかの近所の年寄りや歳上の兄弟的姉妹的存在の若者に託される事が普通の習慣だった。言わば近所のお姉さんに世話を見てもらうというものだ。今年になってようやく地元の高校へ入り、そのお姉さんのような立場になった玲奈や真希子は、役目をほっぽり出してどこかへ出かけてしまった幼馴染の潤の分も担うこととなっていた。もともと仲の良いちびっ子達と彼女らは今年もまた同じような夏を過ごし、蝉時雨の中でこの町を駆け回っていた。7月にもなると平日よりも商店街は賑やかになり、いわみ野やあざみ野だけでなく他の地域からも催し物や祭りがある度にガヤガヤと人が集まる町になるのだった。
「もぉ潤くんは…。よし、まっちゃん、あっちの男の子たちを呼んできて。今からカキ氷とプール祭りだよ!」
やったぁ!と叫び散らすちびっ子達に起こされて真希子もやる気が出てきたのか何やら氷を敬愛するヘンテコな歌を歌い始める始末。玲奈はふふっと可憐に笑うと、夏の青空を見上げた。どこまで続くか分からないほど、その先は遠くに感じられる。夏はこの世界を色濃くする。樹々も青空も、人間も。まるでその価値を際立たせるかのように。多分、夏の思い出が毎年残るのは、そのせいなのだろう。そう思う…。真希子は早々に焦がした肌に汗を滲ませながら玲奈に言った。
「玲奈行くよっ。夏は、まだまだ始まったばかりなんだから!」

後編『語られぬ大人の都合』~14年前~
「わかっているのか。この現状では町の資産がもたない。ましてや新居住区では移住民だけのブロックが出来ようとしているんだ。ただでさえ原住民との不仲は前々から続いていた事だ。これ以上の溝を作ることは町の人間の為にも…やめなければ」
あざみ野の公会堂では、いくつかある楽屋の一室で幾人かの町民たちが集まっては話し合っていた。冷房がやたら聞いておりあたりはヒンヤリしている。遠くの方から少しだけ蝉の鳴き声が聞こえてくるようだ。
「みんなも知ってもいる通り、この町に流れる小川や小夜川はそのすべてが仁乃山の水も含めて湧き水だ。余すところなくこの町の水が透き通っている理由も、この町の中だけで漁業組合がしっかり今も続いている理由も、この町の水が湧き水だからだ」
同意するように場内の大人たちはゆっくりと頷きあう。あたりは少し暗く、小さな机を囲んで佇むのはどうやらこの町で代々生活を営んできた原住民と呼ばれる町民たちのようだった。何世代にもわたって地を耕し根を張り子孫を残してきたこの町生粋の住人なのだ。とりたてて上下関係があるわけではない様子だが、ひとつだけ彼らは問題を抱え込んでいた。それは、
「多岐にわたってこの町は市や郡の合併をせずに独立を保ってきた。それはあくまでこの町が、我々も知る通り、特有の伝統と、代々受け継がれ続けてきた古来からの住人たちと、独自の自給自足を発展させてきたからだよな?」
ああそうだとしわがれた声が聞こえる。他の面々もその言葉に促されるように口々に物を言った。なだめるように主題を語る男が言った。
「まぁそうだ。その通りだ。それからだ、それから。…この町は資金を自分たちだけで補い合ってきている。現町長だって町のいち住人として種をまいて生きてるんだ。それなのに……」
彼の言葉が詰まると同時に周りは一気にシンと静まり返った。何かを呟きあっていた連中も会話を止めてこちらを見る。
「…来る分には、何も文句はないわ」
場内の空気を変えたその一言に誰かの声が返す。
「そうだ、俺んとこの地区だってみんなそう言うんだ」
暗がりの向こうではその他の誰かが返した。
「町を好きでいてくれるなら問題はないな」
「ええそうよ、多いのは少しキツイけどそれでも私たちからしたら大歓迎なのよ?」
意見は…定まっているらしい。だが誰ひとりとして、的を得ようとはしない。みんな、わかっているのだ。原因が…。移住民の存在に問題があるのではなく…、
「住むと言うことそのものが…」
まるで常識外…だった。
「そうなんだ。住むとなると話は別だ。ここは…観光地でもなければ、見世物なんかじゃない。町興しや催し物で近隣の町の人々と触れ合う機会があったとしても、ここでは町民たちとの諍いが無いわけでも無いだろう」
自分たちだけの居場所。まるでそのテリトリーを守るかのように楽屋にいる大人たちは口を揃えてこの町を心配していた。
「何がどうあれば、以前起きた移住民たちのキャンプか何かでも、ゴミで溢れかえったままだったじゃないか」
「親御さんたちでも何やら怪しい話をしていて私怖いわ」
それぞれの言葉を手で制しながら主題を語る男が言った。
「話はここまでだ。まだ問題点は数多いが、今はこのことは伏せておこう。解決できる道があるならなるべく早急に済ませたい内容だ。なにせもうこの町には10年ほどで移住民たちがそこかしこに住み始めている。今更なことだが、何か策はあるはずだ」
話を終えた面々は互いに話し合いながら楽屋を後にし、公会堂の本会場へ足を運んでいくのであった。この町に少しだけ陰りが射し始めている、そんな気をそれぞれが感じながら、誰もが口にせず、各々の気持ちを隠して歩くのだった。

五十二章『お札と入道雲』~現代~
梅雨が過ぎてから1週間ほどがたった。旅する劇団の演劇は見事に成功したようで、その日のうちに、催し物も2週間近く経てようやく開催された。町民たちによる風変わりな物品屋さんが多くある中を松岡は先日知り合ったばかりの涼と共に過ごし、楽しいひと時を堪能したのであった。この頃は彼女と過ごす日々が続いているようだ。それからというもの何かのタガが外れたかのように季節は本格的に夏へと突入し、今に至っては都会の効きすぎた冷房が恋しくさえ感じられるほどだ。町のほとんどの家が高性能な機械をを取り込んでいないせいで、やたら時代遅れを思わせるやり方で涼んでいる。氷の横で扇風機をガンガンにつけたり、水風呂にとりあえず浸かりに行ったり、不思議な事ばかりの続くこの町の日常に松岡はどこか懐かしくも感じながら生きていた。育ての親が都市から時折連絡をくれるが、旅をしているとは言っているだけで、実際にこの町でしばらく滞在することにしたとは言わないことにしておいた。無論、事務所にもだ。
「お前さんは、覚えてるんじゃね?」
そんな松岡は、今日、とある民家の玄関前に立っていた。じんわりと汗が服に染み込んでいるが、今更気にするものでもない。夏菜子から借りた服なのであとで洗えばいい話だ。なんならこの際もっと濡れてしまえばいいとさえ思える。だが、今はそんな汗すらどうでもよくなるほど、松岡は目の前に立つ老婆をひしひしと見つめていた。しばらくぶりなんてものじゃないだろう。何せ、13年ぶりに再会したのだから。
「旭婆ちゃん…。ごめん、半月くらい前からここにはいたんだけど、どうしても…何から話せばいいかわかんなくて」
旭の顔は穏やかなものだった。
「祖母の顔なんざ見る気も起きんじゃろうに。わざわざありがとうさね」
「…元気?」
「当たり前さ。あんたの爺さんの分も生きてんだからね」
「けど婆ちゃんの旦那さんでもあるでしょ?…まぁ、もう、アレだけど」
「まぁそうさね、けんど、この歳にもなれば、夫婦なんてものはさして大した問題でもなくなるんよ…。たかが十数年行方知れずってだけさね。それより、向こうの親御さんはしっかりされてるかい?」
「13年でしょ。うん。凄く優しいよ?芸能界に出る事も、お父さんの方は少し反対気味だったけど、今は全然。サインなんて一番最初に貰おうとしてきたんだから」
「隣町の、名も知れぬ夫婦が、ねぇ。今や列記としたアンタの家族なんだから、世の中何があるかわかんないさね…」
旭はゆっくりと頷くとシワを気にせずにニッコリと笑った。なんだろう、松岡は少しだけ泣きそうになった。けれど多分、泣くのはここじゃないんだろう。そんな気がして、黙って俯く。
「あがりんさい。茶屋じゃないから出せるものも少ないけんどゆっくりしていき」
よいしょと足を持ち上げながら土間で草履を脱ぐと松岡に手招きした。松岡は少し目をこするとうんと笑顔で頷き、足早に玄関をくぐった。すると、土間に入った手前の壁には何やら手書きのようなポスターがあり、大文字で『この町に、大きな花火を』と題された言葉があった。少しだけ喉が詰まりそうになりながら松岡はふっと目を離すとその横を通り過ぎていった。花火…。それは…どうしようもなく、禁忌であり、そしてそれ以上に、誰かの希望でもあった。わかっていてもその言葉がまるでいつだったかの裕翔の夢とそっくりそのままのような気がして、松岡は帰り際にこっそり見ておこうと内心で決めたのであった。

五十三章『花を咲かす男』~1年前~
今より1年前の夏。上川は唯一の肉親である父親の反対がありながらも、この町へ向かう事を選び、かつての高校時代の担任からの繋ぎもあってようやく、この町の住民登録を終え、晴れて密かにではあったがこの町の住人となったのであった。すべてがいちからの生活であり、苦難を強いられることも覚悟はしていたが、なんせ住むところがない。新しい家を建てるのにかかるコストも、この先どこかのアパートを借りるかも考えずに飛び出しものだった故に、上川は担任であった米田教師に相談することにした。教師と言っても副業として花火職人を営むこの男は様々なツテを使って空き家を探したが、田舎である割に住民のバリケードは案外に強く、そう簡単に住めるような場所はどこにもなかった。自身の存在はこの町にとって大きな波紋となることも承知の上だった上川は己の存在を隠すためにも、山にある小屋を探そうかと悩んでいた時、これを言っていいのかわからないがといった様子で米田教師はポツリとある提案をした。それは上川がここに、この町にやってきた理由であり、それがその提案と関係があると言うものだった。食いつかないわけがなかった上川はそれを是非にとお願いしたが、米田教師の顔にはあまりいい表情が見られなかった。どうやらその部屋を貸してくれるかもしれない人物は、花火師だったからだ。人里離れた山のどこかで隠れ隠れ住んでおり、この町の人間ですら行方不明だと思い込んでいると言う。米田教師の副業柄、関係のあったその人物の情報をどうにか探り探りで手に入れた米田教師と上川は、1週間を経て、ようやく発見した森の隠れ屋敷で、たった今、当の人物である老人に…門前払いを受けていた。
「お願いします!!」
「頼むよ、もう無理だって言ってるだろ。おいヨネちゃんよ。この子は誰なんだ。知りもしないガキをこんな所で住まわせてどうなるんだ?」
「敷島の爺さん。さっきも言ったように、こいつは俺が受け持った生徒なんですよ。詳しい話は後々話したいんだが、まだ何せこいつにはこの町での住む場所がないんだ。どうにかして部屋ひとつだけでもくれてやってやれませんか?」
うーんと腕を組んだまま顔をしかめる敷島と呼ばれた老人は年の割に頑丈な体格でガキと呼んだ上川を威圧していた。まず根本的な話に直すとこの場合、敷島の意見の方が最もだと言える。だがふたりは急を要しているようだ。多分、1週間探し続けたと言うのも嘘ではないだろう。だがまだ知りたいことが山ほどあった。それはまず、
「おいガキ。お前さん、どこの町の、どこの家で生まれた?」
上川は言うべきかを悩んではいたようだが、躊躇いを捨て、それを口にした。
「この町で生まれ、十六で隣町に移住し、高校卒業後、上京しました。…母親は…この町で高校の教師をしていました…」
引っかかるものを感じた敷島はその上川の言葉が終わるか終わらないかあたりで再確認をした。
「お前さん、もっかい苗字を言ってくれ」
「………か、上川…です」
「…まさか…そんな…生きていたのか…⁈…お前さん、上川先生の、あのガキか⁉︎…いやそうじゃない!…覚えて、いるんだな?」
そうだろうと言わんばかりに驚愕した様子を見せる敷島は上川の肩を掴んで詰め寄った。状況がわからなくもない上川はそれでもその問いにどこか不安を感じ黙ったが、やはり言うべきだと踏み込んだのだろう。横に立つ米田教師をチラッと見てから、はい、と力強く頷いた。
「……13年前だぞ?」
「…はい」
「何もかも、か?」
「…はい…」
「町の人間たちから嘘を植え付けられたんじゃ…なかったのか?」
「父が、今、上京先で一緒に住んでた父が、この町を出る中学卒業まで特枠定時制として家で匿ってくれてました」
「その間、ずっと…か?」
「父が全部教えてくれました。母のことも含めて」
その顔は、どこかあの美人教師に似ていた。いや頑固な父親に似たのだろうか?敷島は呆然とその場で立ち尽くしていた。こんなことが、あるのだろうか?誰も彼もがあの年を忘れ、忘れさせて生きてきた。忘れちゃいけないと思っていたはずなのに。敷島は何かを納得したように頷くと、土下座したままだった上川を立ち上がらせて、どうにか、ようやく口を開いたのだった。
「お前さん、この町に、何をしにきた?」
梅雨の明けた夏空の下、樹々の至る所で、ミンミンゼミが鳴いていた。

五十四章『停滞感』~現代~
平常授業も昼飯を終えて午後に突入していた。眠気と戦いながら必死に黒板を写すクラスメイトの中で大石はせっせと誰よりも早くそれを写し終えると他の勉強を勝手に始めていた。自習というものを自ら進んで行うのはこの中学校でもこの女子中学生くらいだろう。年の割に凛とした目つきでいつもよりも低めに教科書と葛藤していた大石はダンダンとどこからともなく聞こえてきた騒音にはぁとため息をする。
「こら!またお前らか!授業中だろ!教室に戻らんか!」
何人かの生徒指導の教師らが廊下で反対側にいる連中を叱っているようだ。
「まただ。もう彼女として何か言ってあげなよぉ」
隣の席の女子が大石にヒソヒソと喋りかけてきた。化粧をしたそいつはなんだか引き気味な表情だ。真面目に授業を受けるくせにやたら悪名高い大石とあって向こうはチャラついていても警戒心が強いようだ。死角で向こうにいる連中が見えないはずなのだが、教室内の誰もがその存在を知っているようだ。
「年頃よ、ほっといてあげて」
他人事のように返した大石は廊下からようやく歩いてきた不良連中に目もくれず教科書を読みつづけていた。
「てめーらみてーな御厄介はいらねんだよ」
「先輩、それ言うなら御節介すよ」
「うっせぇ口出しすんなよ山本」
「厄介になってんのは授業受けてる子たちだろ…お前、指導室にはお前だけ来い」
乱闘が始まろうとした刹那、チャイムが待っていたかのように校内を響き渡らせた。一同が一息つく中、お前と呼ばれた先陣を切っていた金髪で細身な男子だけが、目だけでその他の連中とやり取りして後へ引き返させていた。どうやら指導室には自分ひとりで行く気のようだ。10人程度のだらしない格好をした屈強な連中は金髪のボスの命令には忠実なようで、その場でボスに対して申し訳なさそうに引き返して行く。こうして、後に残った金髪の青年は幾人かの教師らに囲まれて連れていかれていった。何度この景色を見たことだろうと大石は倦怠感のようなつまらないこの日常に再びため息をついたのだった。いじめグループのリーダーの姿が向こうに消えていく。移動授業だった隣のクラスの孝大がその場にいなくてよかったと少しだけ安心してから、そんな自分の変な安堵感に吐き気を覚え、大石は苦虫を噛み潰したような気分になったのだった。

五十五章『誰が為に風鈴は鳴る』~現代~
「うちで採れた野菜とか少しだけ、どう?」
「うわぁ、すみませんこんなに」
何度も頭を下げながら礼を言う桃園民宿舎の若いお手伝いさんに夏菜子は玄関前で二ヒヒと笑っていた。ジンワリとアスファルトの向こうにはほのかに陽炎が漂っているようで、炎天下の中、さすがに引き返させるわけにはいかなかったのか、採れたての野菜をご近所さんのよしみとして、そしていつも働いているお礼として受け取った関根は夏菜子と誰もいない家の中でのんびりアイスを食べることにした。
「なんか夏って感じね〜」
仁乃山の方からそよ風が流れ、蝉時雨の中、縁側に吊るされた風鈴がチリンチリンと鳴っている。箱から2本目のアイスの袋を開けながら関根も頷く。にわかに汗が滴るも、どこか清々しい。遠くの空の上で太陽さえ受け止め切れそうなほどの積乱雲が悠々と青空を覆っていた。積乱雲の下が山の向こう側で、そのあまりの遠さに少し絶望する。
「涼ちゃんはまっちゃんとこの頃この町の探索にいそしんでるし、私はひーまーやー」
笑いながらそう言う夏菜子を横目に関根は和かに笑い返して「それを言ってしまえば、俺なんかもっと酷いですよ?」と反論する。比較的いわみ野といっても見渡す限りの土地が田んぼか集まる集落くらいなもので、夏と言っても里帰りでくる家族もあまりいないもんで、町民だけによる時代遅れな夏の過ごし方が多い。例えるなら、今日もその1日だった。
「ね、関根くんは何願うの??」
夏菜子は食べ終わったアイスの棒を見てお茶が入っていたコップにそれを投げ込むと言った。
「そういや今日は七夕でしたね〜。うーん、何も考えてないですよ?」
「とか言っちゃうんだよねぇ関根くんらしいんだけどさ、こう、なんかないの?!」
夏菜子がバタ足で縁側にから投げ出した交互に上げている。21歳を終えようとしているこの女性はいったいどこまで中身が幼いのだろうか。関根はそんな夏菜子に変わらぬ安心感を覚え、そうですねぇと口にする。
「そうですねぇじゃないよ〜!何ならいつもお世話になってるし、私がその願い叶えてあげるから!」
え?と突飛な発言に戸惑いながら関根はいつもの爽やかな笑顔のままで少しだけ間を置いた。夏菜子が忙しなく問い詰める。
「お?言っちゃえ言っちゃえ!何かな?涼ちゃんは?恋の発展狙いとか〜??」
涼という文字でギョッとした関根は慌てて顔を赤くしながら夏菜子に言った。
「え?!あ、あの、わかっちまってますか?!」
適当に茶化したつもりだった夏菜子が一瞬「え?」と言葉を漏らす。ぎこちない空気が漂う中、夏菜子が聞き返した。
「関根くん、涼ちゃんのこと…」
認めるかのように、そして相談相手に呟くかのように、関根はそれを口にした。
「俺、涼さん好きっすわ」
時間が…夏菜子の時間が…止まった。
「引越しの手伝いが終わっても、ここんところ話し合う機会が多くて…なんか、気がついたらって感じなんですけど、ね」
涼が初めてこの町に大荷物を抱えてやって来たのは6月の始まりぐらいだった。まだ梅雨と言っても大したことのない時期で、既に1ヶ月も前のことだった。夏菜子は唇を少しだけ噛んだかと思うと、マジかよっと笑いながら叫んだ。腹をかかえて笑い転げる夏菜子に関根が顔を赤くしながら「町の皆さんには秘密ですよ!?」と焦っている。一番こういうネタが好きなこの女に打ち明けたのが運の尽きだったと思われる。
「だから、あのう、言ってしまえばの話なんすけど、夏菜子さん、手伝ってもらえませんか?」
笑い転げていたはずの夏菜子が向こうを向いたまま少しだけ黙った。関根からは見えない角度で、夏菜子は笑い過ぎたのか、両手で顔をこすると、いつものえくぼ笑顔をほぐしているようだった。
「そう、ね。よし!私はぁ関根くんと涼ちゃんの愛のキューピットになってやろうじゃないか!」
本当ですか?と救いのさしかかったような声音で関根が夏菜子の後ろ姿を見やる。コクリと頷く向こうを確認してから関根は本当に嬉しそうな声で礼を言った。
「お願いします!」
刹那、夏菜子が向いてる視線の先にあった風鈴が風に揺られてさりげなく鳴った。遠くで鳴いているはずの蝉の音がどことなく近くに感じれた。そんな束の間の風景の中で、関根が安堵の息を漏らしている。そんな吐息を直に感じるかのように胸を締め付けられながら、夏菜子は笑顔のまま、泣いていたのであった…。

五十六章『13年後の友よ』~現代~
あれほど降りしきっていた雨はどこへ行ってしまったのだろう。巨大な積乱雲と蝉時雨の中で、顎先から汗を滴らせつつ、裕翔は近くの自販機で買った冷水を顔から全身に浴びせた。びしょ濡れの世界で視界がぼやける。これで最後の一本だ。もう手持ちの飲み物はない。まぁ、いっか。朝からランニングとも思ってはいたがどうにもこうにも、屋外というものは不便でならないと実感した。そう遅くない時間のはずではあったが、熱中症にでもなりそうな気温が、照りつける太陽と共に裕翔を焦がす。にしても暑い。居ても立っても居られなくなった裕翔は影を探して横伝いに通り抜けれる道から仁乃山の下山ルートに位置する仁乃神社に走って来た。神社の周囲は囲まれた巨木によって大きな影の空間を作っているため温度も低く、裕翔は地から盛り上がった巨大な木の根元に腰を下ろすと、しばらく休もうと安堵のため息をついた、その時だった。
「バテちまったか?」
いきなりかけられた渋い声音に、裕翔はバッと反射的に立ち上がる。影のある場所だったせいか。はたまた影の薄い存在だったせいか何も気づかなかったが、目の前には時折ジムとかでも見かける同じくらいの背丈をした屈強な体格をした男だった。
「あんた…ジムによくいる、」
裕翔がぶっきらぼうに問うその言葉に男はああそうそうとバレたのが嬉しかったのか唐突に自己紹介をした。
「一年前からジムでは一緒だな、遅れてすまん。俺は、」
その名は。裕翔が前のめりに耳を傾ける。ふたりの目がそこで初めて繋がった。
「上川…だ」
「お、俺は…町の連中からは名前呼び捨てで、裕翔って呼ばれてる。けどまぁ、好きに呼んでくれ」
「ありがとう。裕翔、か、もしかして歳同じか?」
上川は緊張しているのか妙にそわそわしながら裕翔に問うた。
「ああそうなんのかな?俺は4月で20歳になった」
「俺もだ!俺も…20歳、8月で」
そよぐ風がどこか涼しく、ふたりの間を通り過ぎて行く。夏の木陰の中で、仁乃神社の社が優しく立っているようにさえ見えた。
「じゃぁ同い年ってわけだ…」
初めて…なのか…?裕翔は影揺れる刹那、ふと何かに疑問が誘われたような気を感じ取った。そんな…気がしただけだろう。
「そうなるな」
上川は裕翔から目をそらすと鳥居をくぐってはるか下まで続く石段を一段降りた。何を思ってか、その足はたどたどしい。
「そうか、にしても一年前からジムに通って、だいぶ変わったよ上川の体格は。俺も見習いたいくらいや」
裕翔はまるで羨ましがるように上川の後ろ姿を見た。上川はハハッと下手な笑い方をすると「裕翔がそれを言うかいな」とボヤいていた。初めて呼び合う名前のはずなのに…やっぱり、変だった。躊躇のない会話が、どこか安心さえしてしまうような、そんな、遠い昔から呼び合っていたような、そんな、馬鹿みたいなおとぎ話のような、そんな、そんな…気持ちだった。
「よろしくな、たまにここらへん走ってんだ。ひとりじゃつまらん時もあるし、いつか一緒に海まで走ってみようぜ」
山岩に隠れるようにしてそびえ立つ神社を背景に、裕翔は上川の後ろ姿にそう言った。
「おう。俺も海までは行ってみたいと思ってたんだ。……よろしくな」
上川はそう返すと、二段三段と石段を降りて行った。足音が遠のいていく。面白い出会いもあるもんだなと裕翔は感慨深く感じながら、蝉時雨降りしきる夏の空気を吸い込んで、もう一度来た道を帰って走り出したのであった。

五十七章『夏の菜』~現代~
「たまにはふたりでお素麺も乙なものね〜」
夕暮れ時。カラスがいつもより声を張っているような気もする。さすれば蝉時雨も鳴きやむとも思ったのだろうか。
「子供たちがいないと案外のどかなもんだ」
夏菜子の父と母はそんなことを口にしながら昼の残り物と茹でたての素麺を氷と一緒に冷やしてすすっていた。
「夏彦さん。まっちゃんは…どうしてこの町に、わざわざ帰って来たのかしら」
珍しく弱音を吐くように母は呟く。松岡という名前で予約の電話が入った時はまさかとは思っていた。ただの偶然だろうと。だが顔を見て、彼女は直感でわかってしまった。あの子が帰って来たのだ、と。
「松岡んとこの娘さん、か…。懐かしいな、もう13年と言うが、この町の人間にとっては、知れた十数年に過ぎんのだろうな。まだ先週の事のようだ」
夏彦と呼ばれた父はようやく口に出せたと言わんばかりの声音でそう返す。
「菜々絵や俺には気づいているんだよな?あの子は…俺たちの事を気遣ってか、何もそういう話題を持ってこようとさえしないな」
菜々絵と呼ばれた母は箸を置くと、しんみりとした様子で口にした。
「多分…夏菜子がもうそんな過去を知らない事を…わかってて、黙ってくれてるのよ」
ふたりは黙った。別段憂む様子も見せず、ただ懐かしむような、表情で。
「…この頃、ご近所さんからもあの子似てない?って聞いこられるもんだから、私なんて返したらいいかわからなくて」
松岡を心配するかのように言った菜々絵に、夏彦は「今はまだ黙っておこう」とだけ返しておいた。何が起こるかわからない。そんなご時世だからこそ、この夫婦は我が子を守り、その大切な友達を、もう一人の我が子のように大切にしている。だからこそ、守らねばならない信念があった。ふたりはそれからというもの、夕飯の席ではその事を口にはしなかったが、共に同じ気持ちだった。

五十八章『ある夏の町交番で』~現代~
見た目とは裏腹に中が広い交番所には、いつもより多めのパイプ椅子が敷かれており、その上にはだらしない格好で町中のチンピラが集まっていた。とは言っても高校のないこの町では実質的に権力を振るっているのが平均的に中学生が多く、その被害も知れたものだ。だが…取り巻きに囲まれても揺るがず佇む警察官らでさえ、どこか居心地の悪さを再認識していた。
まだ高校がこの町に存在した最後の年、少々荒れ気味だったこの町のいわみ野高校の男子高生の乱闘騒ぎで、その場に居合わせた警察官らの取った暴行という手段は当時の若者やその弟分たちに心身傷を負わせた。未だ語られぬ出来事ではあるが、その結果、卒業していった彼らは恨みと憎しみの情を自らが可愛がっていた当時の弟分たちに委ねていったのである。その年からというもの、その意志を受け継いだ生徒たちは今日に至るまで代々に渡り交番所との諍いを起こし続けていた。無論のこと、かのいじめグループとしても有名な、大石の恋人でもある男を筆頭とした連中もその一部だ。高校も行かぬままダラダラと周辺の街を荒らすようになった卒業生たちもまた然り、近辺の連中と抗争を繰り返しながら弱肉強食の世界で、子供なりのケジメを通してきたのだろう。大人には決して見えることのできない、思い出すことのできない、盛りの時期、とも言うべきものだろう。いずれはそんな事も忘れ、時に追われながらやがてシワを持ち老けては腰をかがめて生きていくのだろうけれど、そんな事を彼らは知る由もなく、そしてわかる由もなく生きているのだ。知らぬが仏とはこの事だろうか。
「赤城のおっさんはいねーのかよ?」
「赤城さんだしてくださいよ〜?今日は訳あった話なんすよ駐在さん」
「今日は火なんかつけませんからぁ」
口々に色分けでもできるかなような独特の髪色をした子供達が40人ほどこの町唯一の町交番に押し寄せてくる風景は、町の人々からしたら見慣れた風景だったのだろうが、見習い駐在として今週より新しく勤務に入った新任の警察官からしたら、もはやビビりまくりだったであろう。そんな警察官らを睨みつけながらパイプ椅子に座ってる後ろの何人かがそれを見て笑っていた。先陣を切って入ってきた連中とは違って誰もが自分から椅子を開いて差し出した彼らはおそらく幹部クラスの連中とも言うべきだろうか。全員が10代であると思い込んではいたが、パイプ椅子に気だるげに座り込む面々は、なかなかの出で立ちであり、あまり目を合わせたくないような獰猛さのある面構えだった。そんな睨み合いもかれこれ20分ほどがたっている。短期揃いな若者たちがイライラし始めた頃、しばらく黙り続けていた4人ほどの警察官の1人がおもむろに口を開いた。
「もう何年たってると思ってるんだ」
屈強なその警察官に全身をくまなく睨むかのように所内だけに入れた10人ほどが今にも首に爪を立てるかのような威嚇で睨んでいると、端っこの椅子に割と普通に座り込んでいた男子中学生がゆっくりと立ち上がった。校内でも数えるほどにしかいない喧嘩番長とも言うべき存在が立ち上がると、周りのチンピラは一気に静まり返り、察したかのように道を開けた。なんたる上下関係だろう。
「花形。随分と偉くなったな。狂気の左アッパーで成り上がってきたガキはグループのリーダーになることも簡単というわけだ」
屈強な警察官に花形と呼ばれたその青年は右手とは異常にサイズの違う左拳を握ると怒りを抑えるように話を変えるようにそのハスキーボイスを口にした。
「敬さんよ。今日は真面目な話があってきてんだよ。まぁここにいるやつらも今日は何も手にせずきてんだ。世話んなるが赤城さん呼んでくれんけ?」
その言葉に後ろの警察官らが目を合わせると、足元にある机の下に目をやった。すると、今までチンピラたちの死角にあった机の下からゆっくりと顔が上がり、苦笑いで済ましながらその顔が口を開いたのであった。
「あ、あれ?今日は殴り込みじゃないの?」

五十九章『そして、幕が上がる』~現代~
夏は暑い。7月が始まり、あれほど止むことのなかった雨はいつの間にか、忘れたようにどこかへ行ってしまった。幾度となく繰り返されてきたであろう万物の流れに、岡本はどこか懐かしくさえ思えていた。ああ、これが未視感。見たこともないはずの風景を懐かしそうに思い出してしまうのは、久方ぶりの再会を果たした、あの存在によるものなのだろうか。
『開演、10分前です。お席をお立ちになられる方は左通路側からのご通行をお願いします』
司会の言葉が公会堂内に響いていた。マイクの音声が前準備されていたようで、抜かりがない。岡本は空いていたパイプ椅子に座ると、広々とした会場内を眺め回した。すると、向こうの座席から立ち上がりこちらに手を振る者がいた。小さな町とはいえ公会堂内は人でいっぱいだ。いったいどこからこれほどの町民が湧いたのだろうと言うほどだ。そんな矢先、岡本は目を細めると手を振りながらこちらの列に入ると近づいてくる存在をようやく認識した。
「お!春香じゃねーか!久しぶりだなおい」
春香と呼ばれた茶髪の女性はお辞儀をするように顔を下げながらやって来ると岡本の左隣に座った。
「岡本さんお久しぶりです。まさか演劇に見にこられてるとは思ってませんでしたよ〜」
どうして来たかなど言えるわけもなく岡本は苦笑しながら「暇なんだよ」とだけ皮肉めいた返事をしておいた。いや冗談のつもりだ。
「最近シフト合わないから辞めちゃったのかと思ってました。生きてたんですね〜?」
「うるせぇ。ピンピンしてるよ。それより店長どうだ?そっちにはだいぶ戻れそうにないからなぁ」
「店はいつも通りですね。もうほとんど落ち着いてますよ?店長と喧嘩なんて岡本さんぐらいですよ〜。逆にみんな尊敬してます」
「バイト先で問題起こすのはあんま好きじゃないんだよな。春香くらいだろ?普通に俺に話しかけてくんの」
「いやいや岡本さんが優しすぎるんですよ。ホールの人だってよく噂してますからね?」
バイト仲間らしい春香は岡本の顔を見ずに話している。たまに横目で見るその容姿は端麗であり、化粧なんかされた日にはちょっと話しづらいほど可愛い。美人なんて腐るほどいるこの世界だけど、救いようのない人間ばかりだと岡本は内心で卑下していた。だけど隣の存在だけは少し違うような気がする。元々時代の流れについていけない岡本は、同じ年頃の若者と遊ぶことが無い。そんな不器用かつ時代遅れな男に対しても普通に話しかけるのはこの町で上川という男かこの春香くらいだろう。だからだろうか?岡本は若干、春香の側とは反対の方向に肩が向いてしまう。気を許せる相手なのはわかっていたが、今日だけは、今日この演劇を見ることには、許せない、譲れない気持ちがあった。多分、まだ沙織というひとりの女性に見ておきたい舞台があったのかもしれない。そう思いながら岡本はゆっくりとステージを見上げた。客席は既に人で溢れており家族連れや隣町からの老人ホームの連中なんかがほとんどだ。そんな風景を眺めていたら唐突に公会堂内に開演五分前を伝えるブザーが鳴った。1ベルと言うやつだ。
『本日は大変お暑い中、タカハシ劇団による演劇公演にお越しいただき、誠にありがとうございます。本日は晴天にも恵まれ、蝉時雨も降りしきることながらー』
司会の挨拶が始まると辺りは少しずつ静まっていった。にわかにざわついているところが田舎臭くてちょっと安心する。
「そういえば、演劇好きでしたっけ?」
春香の言葉に岡本は言葉に詰まった。
「ぁ…いや、まぁ、結構前に演劇部だったんだよな、俺」
「嘘、初知りですよ…。そうだったんですか」
「…いつの間にか見なくなってた」
「何をですか?」
「……演劇」
司会の言葉が締めくくられると同時に公会堂を照らしていた明かりがゆっくりと消えていった。
「じゃあ、今日は、特別な日。そういう事なんですね」
春香があえて受け入れた返事を返してくれる。多分、わからないことに疑問を持たない性格なんだろう。岡本は度々その器量の良さに救われてきた。
「…ああ。そういう演劇なんだよな。今日だけは…」
暗闇の世界で岡本は呟く。
「私も、楽しみです」
触れることの許されないような気配に、公会堂内が満たされていく。静寂に包まれた空間で、ふたりは舞台前方を見上げていた。
「…」
劇の題は『琥珀色の雨にぬれて』。
「いよいよだな」
「…はい」
最後の開演ブザーが高らかに鳴り響く。ライトアップが正面を照らし、ゆっくりとそれが持ち上がっていった。
「幕が、上がる」

六十章『シケイド団と迷子』~13年前~
灼熱の真夏。陽炎と飛行機雲が交差する地平線の向こうで、ひとりの女の子の泣き声が聞こえた。水色のワンピース姿だ、そんなもの着てる友達なんてこの町にいない。もう、誰かと笑いあえる夏は二度と来ないと思えていた。じゃあ、泣いているのは、誰?
「……ねえ、なんで泣いてるの」
ひとりの少年が駆け寄って泣きじゃくる女の子を見つめた。
「…う、うう〜」
少年は少しだけ膨よかなお腹の上で父親の真似をして腕組みをする。
「泣いてばっかじゃわかんないよう」
降参したかのように少年は泣いてる少女の前であぐらをかいて座り込んだ。泣きじゃくる女の子もそれをチラッと見ると黙り込んで俯いてしまう。誰だこの子。
「転んだのか?」
しばらくして黙り込んだ少女に口を開いた少年はそう言ってその顔を伺った。すると、
「だって…パパがいなくなったんだもん」
ようやく少女の口からまともな返事が返ってきた。なんだ迷子かと少年はため息をつく。
「なんだぁ、それなら心配ないよ」
え?と少女は頬を伝う涙を拭き取りながら顔を上げた。少年は気取った態度でフフンと鼻を鳴らすとこう言った。
「この町の正義を守るのが、俺たちシケイドの役目だから!」
少女は呆気にとられると数瞬おいてプッと笑ってしまった。「かっこいいだろ!」と顔を赤くして反論する少年に少女はなんだか笑ってしまっていた。なんだ。笑えるのかよコイツ。そんな華奢な笑顔に少年が気づいたその時、暑苦しい夏を真っ向から受けていたふたりのもとに走ってくる横幅が広い自転車が一台。
「おいおいおい!!乗り込め!兄ちゃんと父さんにバレる前に逃げるぞ!」
そう叫ぶ黒焦げに焼けた少年がサイドカーのような改造を施された自転車を立ちこぎしながらふたりのもとへ全力疾走してくるではないか。
「わわわわ!!??まただ!また変なもの作ったんだろ!!」
走り迫ってくる裕翔とそのヘンテコな乗り物に再び少女が泣きじゃくりそうになるのを必死で押しとどめながら少年は、手前までやって来て、少しだけ速度を落としたまま横を通り過ぎ去ろうとする少年の乗ったヘンテコな乗り物の横にあるサイドカーの手すりにつかまり、一緒に走り始めた。
「君も!」
まるで当たり前かのように手を差し伸べられ、少女はえっ?とした表情を見せる。
「一緒に乗るぞっ!」
その叫び声がどう通じたのか、少女はどうしようもなく、そう、答えていた。
「うん!!」
自転車をこぐ少年が「誰だか知んねーけど振り落とされるなよ!」と笑いながら叫んでいた。
「俺の手を離すなよ!」
少女は先に足をかけてこっちに手を伸ばした少年の伸ばされた手を必死に掴んだ。多分、少年もこれ以上にないってくらいの勢いで、少女の手を掴んでいるのだろう。
「乗り込め!」
猛スピードで走り始めた少年の自転車のサイドカーにふたりは…飛び込んだ。少女はその時、宙に舞った瞬間、陽炎とその影の中で、不思議な気分だった。
「よし!!!」
バサっとサイドカーにふたりが飛び込んだ。勢いよく中に入ったが、中には毛布のような物があり、衝撃を吸収したようで、痛くもなかった。少女は怒涛の展開に毛布から顔を出すと楽しそうに笑い始めた。つられてふたりの少年もニヤニヤしながら笑いだす。
「ああ忘れてたけどよ、そこにアッキーいるからな!踏むなよっ」
えっ?とつられて下を見やったふたりはそこでノビてる一匹の柴犬を見つけた。ゲッと太り気味な少年の方が慌てて驚いている。犬が苦手のようだ。その一方少女の方ははかなり喜んでいる。なんとも真反対の反応だったふたりの光景に立ちこぎしながら田んぼ道を駆け抜ける少年は腹から笑い続けた。
「ところで君って誰なんだ?」
サイドカーでアッキーと呼ばれた柴犬を撫でまわす少女は、太り気味の少年の言葉に、顔を上げると、思い出したように言った。
「私、涼!…えと、6歳!…パパがどっかにいっちゃったの…一緒に!…探してくれない?」
「「当たり前だろ!」」
さも当然かのようにゲラゲラと笑うふたりの少年に少女は安堵の息をつく。すると、立ちこぎの少年が口にした。
「涼だな?」
「うん!涼しいって意味の涼!」
風で舞い上がりそうになるワンピースのスカートを両手で抑えながら涼が答えた。
「よし!涼!お前のパパを今から探しに行くぞ!」
「お前はお前の父さんと兄さんから逃げたいだけだろ!?」
「だって外に出るなって怒るんだぞ!」
すかさずツッコミを入れる太り気味の少年に、涼が優しく笑う。未知なる異性の可愛らしさに一瞬頬を赤くするふたりの少年だったが、気を取り直すと立ちこぎの少年が涼に言った。
「俺たちはこの町を守る正義の味方!シケイド団だ!」
「何それ!シケ、イダ?」
「シケイド団!」
3人が口早に会話をする。涼は疑問符を浮かべるがこのふたりの野生感に圧倒されたのかその事には何も返さずに、こう締めくくった。
「よくわからないけど!…よろしくねっ!あなた達の名前は、何?」
時折ガタガタの道で跳ねたりしながらも走り続けるサイドカー付きの自転車の中で、立ちこぎの少年と最初に声をかけた太り気味の少年が、口々に返した。
「よろしくな!俺は裕翔!7歳!」
「女に名前は言わん!俺は上川や!6歳やけど、裕翔と一緒で、もうすぐ7歳や!」
「うん!覚えたっ」
それは、涼がこの町に来て初めて見つけた友情だった。蝉時雨降りしきる炎天下の中、3人を乗せた自転車が積乱雲を見上げるように、上り坂を登っていったのであった。この夏が、いつしかたたり年と呼ばれるようになっていくとは、少年たちには…知る由も無かった。知る由も…無かったのである。

六十一章
前編『君が望んだ永遠』~14年前~
「ほら真希子、あれだぞ。北斗七星」
「うん…?。ぁ、あれかな?」
詰襟の学生服を着た男子高生と、セーラー服を着た女子高生が仁乃山にある広い草原に寝転がって夜空を見上げていた。横には大きな望遠鏡が三脚で固定されており、少しだけ雨の去った後の残り香が宙を漂っている。
「さすが潤くん!じゃあその周りにある星座とかってあるの?」
潤と呼ばれた青年は、長い髪の隙間から目を輝かせつつ指をさしながら言う。
「近くにあるっつったら、おおぐま座か、うしかい座じゃないかな…あ、もしかしたらうしかい座の流星群がこの時期に通るんだっけ…」
「うそっ?見たい見たいっ!でも聞いたことない流星群だよね〜っ」
「バタバタするな。って痛えんだよ暴れるな。それと、うしかい座流星群なんてレア過ぎる。やっぱ見れるわけないだろ」
ちぇっと舌打ちをするかのように口でボヤきながら真希子はあひる口で潤を見やる。どこまでも澄み渡った夜空を眺めながら、潤は少しだけ頬を緩ませていた。その瞳には目の前にある宇宙が広がっているようで、漠然としながらも輝き続ける何かがあった。
「潤くん」
「なんだ?」
「どうして学校じゃ私が話しかけても無視ばっかなのに、今日はわざわざ誘ってくれたの?」
潤は黙り込むと風が少しだけ止んだ隙に、息を吸った。
「さぁな。たまたま放課後残ってたの真希子だけだったからじゃねーか?」
なにそれーと項垂れる真希子はそれでもニヤニヤしている。相変わらず夜でもテンションの変わらない奴だと潤はため息をついた。
「こういう時は私なんかよりも、ちゃんと潤くんの面倒を見れる玲奈とかを誘うんだよ?わかってるんですかー?」
人差し指を立てて説教モードに入った真希子の顔を手でどかしながら潤は苦笑する。ぶっきらぼうな潤の、そんな笑い方は不器用なりの笑顔だった。
「俺そういうの下手なんだから仕方ねーだろ。俺のことなんかよりも自分のこと心配しろよな?いい加減彼氏とか作らねーと老けババアになるぞ」
うっるせぇとポカポカ潤を叩き始めた真希子はそんな時間が、何というか、とても楽しかった。多分、いつまでもこのままでいたいと思ったのは、大袈裟なんかじゃなかったんだろう。
「梅雨も明ければ、あっという間だな」
話題を変えようと唐突にそう言った潤は、暴行罪で訴えてやろうと心に秘めていたにもかかわらず、ふっと切り替わるとそう言われてみればと言わんばかりに頷き始めた真希子にやはり冗談交じりの殺意を覚えた。…だが、そんな事よりも、聞かなければいけないことがあった。だけど…まだそれを口にするのは、少しだけ野暮のような気もして、潤はそれを黙っていた。多分、そういうところに真希子は魅力を感じていたのかもしれない。言うべき時と、その価値を認めているこの男の生き様を。
「まだ7月手前なのにね〜。潤くんは夏休みの予定なんか決めた?」
「んあ?そうだなぁ、いや、俺は…敷島爺さんとこで、花火師になるための勉強…くらいかな」
花火…か。真希子の呟きが、夜空を見上げるふたりの心に少しだけ、突き刺さった。
「あのね…潤くん」
「どうした?」
「今度は、私が誘っても…いい?」

中編『許婚』~14年前~
「おやじ、それ…どういうことだよ」
「だから許婚だ。今度、向こうの親御さんところと話をしてもらった上でのことなんだが、とりあえずはお前に話さなくてはいけないと思ってな」
わけが…わからなかった。
「なんだよそれ…聞いてないぞ。そんなこと親が決めるとか、一体どんだけ昔の話なんだよ」
「だから今言ったんだ。この町じゃこういうことが案外と親同士の中で内々に決まっていたりするもんなんだ」
「…」
「突然の話だ。決まったわけではないからそう慌てるな。だが、俺も高校の頃に親に教えられたんだ」
「だからって…」
「俺も当時こそ受け入れられない現実だったが、今ではいい夫婦になってるんだ。俺にとっても、この町で生まれてよかった、そう思えるひとつの理由なんだ」
潤は黙って父親の言葉を聞いていた。いや、知らない顔をしていたと言えば嘘になる。そんなこと、従兄弟や学校の友達にもいたような気がするから。だが例え父親の経験が『この町に生まれてきてよかった事』だったとしても、潤にとってそれは、その耳は…多分馬の耳よりも念仏を通さないものになっていたであろう。
「許婚って…。長男だからか?」
「……」
「だって…。そんな、さ…」
返す言葉を失い、潤の父親である高雄はその瞳と目を合わせられずに窓からの景色に目を移した。
「相手は…?」
親が言う以上、子は反論の余地を持たず、してその心には焦燥のような風が吹いている。そんな空気を打ち破るかのように、潤は背を向けた高雄に問いた。すると、その背が、ゆっくりと語った。
「……忍さんところの…玲奈ちゃんだ」
「っ…」
喉に何かが詰まったかのように、潤は高雄の背を睨んでいた。
「だ…だってよ、ほら、玲奈って…お嬢様だろ…?なんで俺なんかと…」
高雄は蝉時雨が遠くに降りしきっている音を聞きながら何も返す言葉を持っていなかった。
「おやじの仕事を、玲奈と引き継げってか…?」
高雄は口を開く。
「花火師というのもまた代々の家業だ」
ただ、それだけだった。潤は紅く空を焦がし始めた夕暮れの隙間に、行方知れぬ不安感を、感じたのであった。

後編『恋の放物線上に』~14年前~
「ねぇ潤くんってば!聞いてる?」
ふと目を開けた潤は真希子の呼び声に我へと返る。大の字に寝転がったふたりのはるか上空では、変わらず見渡すすべてに散りばめられた星々が輝いている。悠久なる時の流れに身を委ねるように雲が時折通り過ぎていき、そんな夜空の空気を吸い込んでから潤は答えた。
「すまん、ちょっと考え事してた。で、何だっけ?」
「だからさ〜、伊場島市の花火見に行こうってさっきから言ってるでしょ〜!」
「伊場島かぁ。島の方は行ったことないけど、海の町の夏祭りもいいかもな」
「でしょでしょ!そんで先月あたりにそこが特集でテレビに出たらしくってさ、今年の伊場島の花火大会は盛り上がりそうなんだよねぇ!」
「いつも盛り上がってるお前が言うか?」
「ともかくっ!いわみ野を南方に歩けば1時間くらいで着くだろうし!敷島爺ちゃんも送り迎えしてくれるらしいからさっ!行こ?」
「なんで敷島爺さんに話つけてんだよ。つかあの爺さん仕事で行くとか言ってたな…ああもう、仕方ねぇな」
夜の目も慣れたふたりの空間で、真希子が顔を近づけると、避けるようにして顔をそらした潤は、しばらくしてから「行くか」とだけ呟いた。「っしゃぁ!」と叫びながら寝転ぶ真希子、その声に苦笑しながら耳を塞ぐ潤。
(すまねぇ。おやじ…)
夜空に広がる満天の星空のもと、真希子と潤の目がいつの間にか互いを見つめあっている。その視線をずらす事ができないふたりは、気のつかないうちにもたらされた淡い恋心の静寂さに自然と…。
(『この町に生まれてきてよかった事』…って言ったよな?)
ふたりは絡み合う視線の先に、己の瞳を映していた。多分、これ以上ないってほどに、それは、儚く…。
(俺にとってはさ…)
優しく…。
(真希子が、そういう『事』なんだと思う)
美しかった。
「ねぇ…潤くん」
「ああ?」
「馬鹿だと思うけど、さ」
「おう」
「…言ってもいい?」
「……いいぞ」
「…ーーーーーーーーーーー好き…や」
どこかで…世界の時計の針が止んだ。
「「……」」
夏の風が、闇夜の草原を隙間無く走り抜けてゆく刹那。
「「……」」
なびく髪を手で抑えた真希子がハッとして夜空を仰いだ。つられて潤も同じ方角を見上げる。
「「あっ」」
それは…ふたりの願いを、高らかに歌うように…。
「「流れ星!」」
満天の夜空を覆うかのように…。
「「…」」
ふたりの上空をかけてゆくのだった。
「…真希子」
「うん?」
「あれが、うしかい座の流星群やぞ」
「…レア、だね」
「…ああ」
一瞬のうちに過ぎ去っていったその光の放物線に、ふたりはひとときの間、息をするのも忘れたかのように夜空を見上げ続けていた。そうして過ぎてゆく時間にどこか苦しみのかけらでも感じ取れそうな想いを胸に。
「ホント、馬鹿だ」
ふいに潤が呟く。
「…わかってる」
「けど」
「…?」
その言葉は、まだ…言葉にはできなかった。潤自身の中にも、整理のつかないままに言うということを許せない潤という男がいたからだ。だからこそ、潤は何も言わぬまま、夏の大三角に目を移し、数分前の彼女の一言に、少しだけむずがゆい気分になるのだった。憶測でしかない。にわかな気持ちじゃ伝わらない。曖昧にできない。そんな事…もうわかってた。長い間ふたりがこの町で紡ぎ続けてきた人知れぬひとつの物語にようやく大きな転換点が到来した瞬間であった。
「夏って感じだな」
もう…ただの幼馴染じゃいられない。いつも遊び合っていたはずの子供たちはいつの日か互いを想いはじめ、いつしかひとりで夢を描き、ひとりの人間として人を見るようになっていった。
「それわかる。蝉がうるさいけどね?」
時には嫌い、時には好み、そんなありふれた人生の真っ只中で、ふたりはふたりにしかない窓から互いを、見つめ合った。
「それも夏の醍醐味だ」
「言えてる」
変に気取る事なく、ふたりは何ら変わらぬ会話をしている。多分、そうしている間が平静を保っていられるからだろう。だが、潤は闇夜に紛れて、何かを悲しむかのように、少しだけ、ほんの少しだけ、締めつけられるような気持ちだったのであった。そんな、夏のある日の夜の出来事は、いずれふたりに降りかかるであろう逆境への、道しるべとなってゆくのであろう。そうに違いないんだ。

六十二章『立ち上がる者たち』~現代~
日も暮れ頃。世はこともなく夏の息吹を風にのせてくる。闇夜に染まりかけた空が傍若無人の大変貌を遂げていたとするならば、それもまた無きにしもあらず、いずれ別れゆく時の節々に己の情念があったかの如く、いつの日か、彼らを引き合わせて行くのだろう。
「この町であんな張り紙なんか見つけられたら…捨てられるどころか村八分に合うかもしれないってのに…」
松岡は祖母である旭の玄関を閉めるとそう呟いた。土間の壁にあった張り紙には花火と題された広告のようなものであり、どこか手作り感の漂う雰囲気もあった。芳しくない。そう思えてならない松岡は考え事にふけりながら小道の角を曲がろうとした、が。
「わわわわわ!!」
勢いよく飛び出してきた自転車の男性の声でハッと顔を上げた松岡は眼前の事態にようやく気がつき、よろけるように後ろへ下がった。
「あっぶねーなぁ君!つかケガとかは大丈夫?」
体格のいい厚くも薄くもないような体型の男性は怒り半分にこちらを心配している。都会でもよくある失敗に松岡は「ごごごめんなさいっ」とこれまたいつもの如く即座に謝った。長らくこの町に滞在するのも然り、松岡は先程の家で旭に教えてもらったこの町での助言に倣って名前だけでも知っておくことにした。
「あれ?そいや見ない顔だな。…ああ例の引っ越してきた美人さんか?…いや…たいして美人というわけでも…ないような」
撲殺しようと自然に動く左手を抑えて、松岡は「か、観光で…」とだけ返しておく。
「そっちこそどこか傷とかない?自転車」
「俺の方は心配しねーのかよ…」
松岡は少し笑うとつられてため息気味に笑い返してくれた相手の男性に別れを告げ先を急いだ。強引だが今はそれどころではなかった。「もう行かなきゃ」「そうか!じゃまたどっかでな!」「はい!」そんな会話を終えてから足早にその場を去った松岡は男性の名前を聞くのも忘れ、とにかく例の張り紙の件について話さなければならない相手のところへ赴くことにしたのだった。
「って、銭湯なんかこの町にあったんだ」
ついさっき入って行くのを見かけたと言う通りすがりに出逢った件の美人こと涼の言葉のもと、松岡は見たこともない通りの中心部で本当にあった銭湯の大玄関を前にひとり立っていた。
「男って確かお風呂とか早いんじゃなかった??な・が・す・ぎ!」
銭湯の前にこじんまりとかまえられた店で見知らぬ中年の男性に買ってもらったアイス棒を食べ尽くした松岡はそれぞれの指にその棒を挟んで見せながら、ようやく暖簾をくぐって銭湯から出てきた男にそう言った。すると、
「あ、あれ⁉︎…まっちゃん!…さん?」
「誰だ!私のあだ名をこの男に教えたのは誰だっ!くそ!あのセーラー女かっ!」
「いや見た目とは裏腹のツッコミ⁈」
「今更訂正したところで駄目だからな!そもそもちゃんさんという呼び名がおかしい‼︎」
「むしろ…チャン、さん?」
「私の名前が◯國人っぽくなってしまった!というかこの会話を独走しても何にも面白くないっ」
「む、そいやまっちゃんさん何かいい香りが…」
「もしもし警察ですか。犯人はここです」
「ちょっ⁈電話しないでくださいっ」
出会い頭から割と気の合った弾丸トークを繰り広げるふたりに町の通りを行き交う人々は愉快に横目で流していく。そんな今日の暮れ頃、おそらくドライヤーを使わずに自然乾燥を狙ったであろう髪を濡らしたまま銭湯の玄関で立つその男に、はじめのご挨拶を終えた松岡は気を取り直すと、バッグからその張り紙をその男だけが見えるように手渡した。
「この張り紙について何か知ってることはない?」
「これは…」
「何か…君のやろうとしている事と関係が繋げられるんじゃないかと思って」
「まっちゃんさん。ちょっとどっかで話しませんか?この張り紙の件について」
「私もそのつもりよ。裕翔くん」
こうしてふたりは、この後から近頃張り紙を始めた人間たちをこの町の中で探し始めたのであった。

六十三章
前編『ふたりの願い』~1年前~
「とまぁ、兎にも角にも、どうにか弟子という立場で部屋を借りているわけだが…」
唐突な説明に横の老人が疑問符を浮かべた顔でこちらを見やる。
「なんせ虫が多すぎだろ⁈あとクセェんだよ!」
「てめぇ何様だっ」
借りた身の分際でと突っ込みながら喚き立てる敷島と我ながら馴れ馴れしい上川はそんなやり取りを日々続けていた。上川という男がこの町の記憶を持つ人間であると知った敷島はあの梅雨終わりの夏以来、上川への接し方を変えると上川の目的について話に乗ることとなったのであった。花火師でもある敷島は世間にこそその身を露わにはしないが、立派なこの町の住人だった。だからこそ、行方不明の無職であったとしても、かつての有数なる花火師のひとりだったとしても、自らの生まれ故郷を愛していたのである。だから、その身を伏せなければいけなくなった時でさえ、自らが選んだ道を否定された時でさえ、敷島はその場にあった名誉やら家族やらを捨て、その身を消したのであった。そんな老いぼれを少なからず信用し、そしてあのたたり年を個人の意見で生き抜いたその男を、上川は素直に尊敬していた。何があったかなんて思い出したくもないが、そんな過去ですら今では生きる糧にすら感じられるように、敷島は今を生きているようだった。遠くの隣町からわざわざお忍びでやってくる米田教師の頼まれごとや、他の地区からの花火の依頼を様々なルートを通して花火事業所としての顔を持つ米田教師たちの仕事を請け負い、生計を立てながら、人知れず、名も知れず、その存在すら遠の昔の伝説かのようにほのめかされながらも、花火を作って生きている。そんな鋼の意思を抱く敷島は、誰よりも強く見えた。
「じいさん」
「誰がじいさんや!」
「俺なんかが弟子でえんかすか?」
「あ?お前さんが決めた事だろう」
「そりゃそうだけどさ、あまりに早すぎっすよ…金が目的なら諦めてください」
「たわけ…んなもんヨネちゃんからガッポリ稼いどるわい」
「じゃなんでー」
「ーなんで…お前さんはここに来た?」
「質問返しですか…。そんなもん、花火を打ち上げたいからっすよ、この町で」
「わぁってる。そんな事を聞きたいわけじゃない」
「……12年前に起きてしまった惨劇は、二度と起きちゃいけねぇもんです。あの年は散々でした。血生臭いあの年の町に、互いの目的がひとつになったのは、唯一誰しもが願っていた事は…子供達の…」
「子供達…つまり、お前さんたちのことだな…」
「…」
「お前さんたちの願いこそが、まさしく…親たちの願いだったわけだ」
「……はい」
「鼻っからわかりきってたことだったんだ。我が子の夢が、親にとってどれほど幸せな願いなことか。そんなもん、問うまでもなくな」
「じいさん」
「…あ?」
「じいさんの願いって…何ですか?」
「……」
「俺は、弟子です。この気持ちを理解してくださったから、じいさんは俺を弟子にしてくれた、そうっすよね?」
「……ワシもまた、お前さんと同じ願いだ…」
「…」
「だから、お前さんは俺の弟子なんだ」
森に囲まれた家の一角で、ふたりは会話を終えると、少しだけ笑ったのであった。

後編『夜明けを走る』~1年前~
「とまぁ色々あって世話になってくださるじいさんのおかげで、なんとか生活してるんすよ」
「このあたりの人のことはよくわからないけど、それならよかったじゃん」
夏の夜明けは早い。まだ6時にも満たないこの時間の町はどこか忙しない。畑に出る者。新聞配達のエンジン音。どこからか下界を見つめる鴉の鳴き声。宅配ミルクの自転車が駆ける音。
「こんなに霧が多い朝なんて正直生まれてこの町が初めてだよ」
「以外と海抜が高いですもんね〜この町あたりって」
「牛乳瓶が配られてるなんて聞いたこともないしね」
口々に息切れをギリギリまで粘りつつ走り続けるふたり分の足音が隣の小山にこだましている。天気も心地よく霧が漂いながらも空は晴れているようだ。ようやく陽も照りつけ始める頃合いだろうか。どこかあたたかみのある空間がやけに心地よい。こんな涼しい朝もあと数時間ほどたてば蝉もうるさく陽炎ただよう灼熱の時間に切り替わるのだろう。岡本と上川はそんな夏の朝を共に走っていた。
「運動がてら久々に朝早く起きてみましたが、案外いいランニングになってますよね」
「結構きくだろ?朝だし暑くもないからな」
「大学でぼーっとしてたらこの有様でしたよ。こんな腹も、まぁ来年までくらいには引き締めたいと思ってます」
「精進せぇ」
「ははぁ!」
あざみ野よりもはるか北にある、よだか野の集落を越え、呪術の専門家ですら聞いたこともない伽藍の聖域の手前まで来たふたりは妙な不気味さを山々からひしひしと感じとると引き返し、同じ道を走ってあざみ野へ帰って来た。人の気配があると、なんだかこんな町でも愛おしささえ感じてしまうものだ。
「伽藍の聖域なんて名前からして不気味なのに、人の気配すらわからない町ってのも難儀なもんでしたね〜」
「所詮は人里離れの町だ。あざみ野やいわみ野がどんだけ恵まれてることか」
「同感です」
「町で生きる人には失礼だろうけど、一生涯を過ごすってのはそれなりの覚悟がいるもんだろうな」
「都市伝説とやらも多いこの町のことすらから、飽きることはないんでしょうけど、まぁ一難くらいはきてもらわな逆に怖いっすよ」
「それ以上は曲がった見方はしないほうがいいぜ」
「善処しやす」
「よし、ようやくゴールだっ」

六十四章
前編『漠然とした』~現代~
「もう朝だって…」
「…わかってる」
きしむベッドにしなやかなくびれが影を作る。艶かしく、豊満なからだが男を包み、その露わになった身体を熱く染めながら大石の妖艶な笑みが室内の温度を上げた。
「…ん…もう少し…?」
「…ああ」
揺れゆく影が何度となくふたりを溶かし合う。絡み合い、もつれあい、愛を歌っていた。突如として世界が急変したかのように波が押し寄せ、男は腰の上にまたがる大石をそのままベッドに押し返し、自ら動き始めた。
「ちょ、ちょっと…」
「黙ってろ」
どちらの汗かもわからないような雫が跳ねる。奥をかすむほどに大石の15の少女とは思えない胸が踊る。本能のままにとはこのことだろうか。男は大石がさし広げた両手を掴むと彼女の身体に覆いかぶさった。頬が紅潮し、こすれあう身体が赤く艶を見せる。透き通るほどの肌を曝け出して大石は髪を揺らした。快感の淵に立つふたりがお互いを見つめ合う。大石は性質なのかその瞳を潤ませると自らの細くしなやかな両足で男の腰を支えた。笑わぬふたりの口が互いを慰め合い、そして、
「「……っっ‼︎」」
男の下半身で絡みついていた大石の細いふくらはぎに肉つきの良い太ももがゆっくりと解かれる。ふたりの荒い息だけが室内に残り、不思議なほどに静かな空間へと戻ってゆく。シーツをかぶる大石の横で、男が避妊具を外し終えるとその横に寝そべった。彼女の乱れ髪が妖艶にすら感じれる。前髪を切りそろえたショートヘアの彼女からは想像もできないほどその顔は虚空を見つめるかのように少女のそれではなかった。
「ようやく終わるみたいだ」
「…なにが?」
男の言葉に大石は口を開く。声変わりを終えたその男は、体こそ屈強だが同じ中学生のようだ。
「…赤城んとことの戦争」
「…ガキ。戦争とか言わないでしょ普通」
「あれは戦争だった。けど…それも終わるようだな」
「赤城さん何かあったの?」
「んや。多分長門さんか日向さんに何かあったんだと思う」
「結局最後は内輪揉めとかやめてよ?」
「あり得る話だ。正直」
「日向さんたちはあざみ野の東地区を制圧し終えたとか豪語してたよ。男っていくつになってもあんなのなの?」
「さぁな。あざみ野も広いし、俺もそのひとりだろ。それよりも問題は5年続いたこの町のサツとの争いが終わりを迎えることで、金柴興業のお歴々がまた何かやらかすんじゃないかってことだ」
「金柴興業って…まだ解体されてなかったの?」
「町も警察だけじゃ信用がなんねぇんだろうよ。商業的な問題を埋めてくれるのはいつもああいう汚れ仕事をケジメとかいう独自の道徳規範で引き受ける連中だ。多分わんさかと金が動いてるはずだ」
「この町の闇ね」
「…どうだか」
男は下着とズボンを履き終えるとベッドから立ち上がってベランダの窓を開けた。
「今日は柴田たちスクイードメンバーやあざ中の連中が赤城んとこに向かう予定らしいわ」
「…いくの?」
「ああ」
「あざ中の子らもってことは…花形くんも多分ー」
「ー言うな」
「いつまでたってもあんたたち仲悪いよね」
「今回はそれ抜きの話し合いだ」
「わかった」
ベランダに出た男は手に取っていたピースのクラウンから一本口にくわえると、ライターで火をつけた。大石は閉められた窓の向こうのベランダで、タバコを吸う恋人に、漠然とした虚無感を感じていた。孝大に半ば約束のように呟いたあの願いが脳裏をよぎる。隣町や遠くの街へ花火を見に行くことはあったが、この町の花火なんてものはどこに行っても見たことがない。そこにどんな闇が隠されていようと、どんな真実が隠されていようと構わないが、やはり、孝大という存在が大きいことは否定のしようがないのだった。それは、まだ…出来心でしかなかったのだろう。

後編『家路』~5年前~
「もー早く帰ろーよう!家路鳴ってるよ」
「知ってっか?家路が鳴り終わったら人影様が町を見回るために出てくるらしいぜ!」
「その話聞き飽きた〜。きいちゃんバイバーイ!」
夏の夕暮れは春に比べて遅く、その時間はどこか忘却の彼方にでも置いてきたかのように、虚しさが漂っている。家路がどこからともなく町に鳴り響き、それを聞いた子供たちは各々の家に向かって帰り始めるのだった。どこにいても、変わらない風景というものは未視感であるにもかかわらず、どこか懐かしくさえ思えてならない。それぞれに笑ったり泣いたり喧嘩したり慰めあったりしながら解されていくその時間が、子供たちの存在意義を成し得るかのように、まるで、彼らにしか見えない世界でもあるかのように、淡くささやかな美学に満ち満ちているのだった。
「お母さん、相変わらずか?」
「うん、相変わらず」
家路が鳴り渡る町の中で大石と孝大の帰途は同じ方角だった。たいして話題に出すものもないわけだが、ふたりはそうして淡々と繰り返される日常と互いの会話の中に、ちょっとした安堵感を覚えていることだろう。
「今年も、また児童相談所の人が学校に来るし、今年こそ話しに行けば?」
「…嫌、かも」
「どうして?」
赤みがかった黄金色に染められ、夕空はしんみりと町を見守り続けていた。カラスの鳴き声も、友達の笑い声も、どこからか漂う知らない家の夕飯の香りも、今では意図的にかと神を疑うほどに、すべてがひとつの風景だった。そんな町に溶け込むように、大石は口を開く。
「『愛してる』って言う時の母さんの顔ってなんか怖いの。まるで心配させないかのようなんだけど、それが逆に不気味っていうか…多分、誰にも言っちゃいけない気がする」
「モンペ?」
「そうじゃないんだけどね。なんか、こう…異常?なのかな。挙動不振に私のこと見てくるときもあるし…時折文句も言ってしまうことだってあるんだけどね。もっと優しくなってしまうの。変だよね?」
「変っていうか…ちょっとわかんないことはあるよね。去年や一昨年よりもそういうの多くなったのか?」
「多分、気のせいかな、気にしすぎのような時もあるんだけど…多分気のせいじゃない」
「相談に行っても、逆効果になってしまうから、か」
「そういうことね」
ふたりの影はさっきよりも伸びていた。大石の左手と孝大の右手が、影の中でくっついているように見えて、大石は孝大からそっぽを向くと、少しだけ赤面する。そんな光景を野良の狐がのんびりと眺めながらあくびをしていた。
「ごめんね、また変な話はじめて」
「いいよ」
「でも秘密ね」
「何回も聞いたよ、姉ちゃんにもだろ?」
「これは恋愛相談じゃないからね」
「はいはい」
遠くの空に闇夜が迫っていた。ふたりは少しだけ互いの距離を縮めて歩く。今頃ラーメン屋あたりが店でも開く頃合いだろうか。普遍的光景を通り過ぎながら、そんなふたりの日常は今日も締めくくられるのだった。

六十五章『偽悪なる』~14年前~
「夏菜子、もう一度言ってくれないか…?」
「だから、けんちゃんや、あやのちゃんたちに石投げられたの…。飛鷹くんとかも恵津子先生がひまわりの種を植える勉強でお外に行った時に泣いてた。多分智樹くんのお兄ちゃんに何かされたんだと思う」
「夏菜子はそれで、大丈夫だったのか?」
「うん、私とまっちゃんで止めようとしたんだけど…先生が帰ってくるまでけんちゃんたちずっと笑って『げんじゅーみーん』って言ってた」
夏菜子の父親である夏彦は驚いた表情を隠すように顔をしかめた。台所では手を止めた妻の奈々絵が夏彦と夏菜子を心配そうに見ている。
「夏菜子、このことはまだ他に人には言わない方がいいかもしれないね。石を投げられて怪我したお友達はいなかったかい?」
「うん、言わない。多分いないと思う。でも、あやのちゃんのママがお迎えに来た時にもそういうことがあったんだけどね…」
「…あったけど?」
「あやのちゃんのママ、叱らないであやのちゃんの手を無理やり引っ張って帰って行っちゃったの。先生たちも気づいてるはずなのに、何も言わないんだよ?」
正直に言って、状況は芳しいものではないようだった。事が親世代の中だけでのことならまだしも…もう、彼らから影響したであろう子供達にまで広がっているのだ。
「教えてくれてありがとうね。もうすぐ夕飯の支度もママが終えてくれるだろうから夏菜子は上に行って着替えてくるんだ」
「わかった!」
来年の春にいわみ野小学校の入学式をひかえた夏菜子は、この時こそその現状には気づいていなかっただろう。もっと早く気づいていればなどと後悔の念を抱いたところで修復できるものではないのだと、夏彦も、奈々絵も、気付き始めていた。
「原住民…か」
夏菜子の出て行った食卓の席で夏彦は顔を曇らせた。奈々絵がそこにやって来て、彼の肩に手を添える。わかってはいた。わかっては、いたんだ。
「問題は一体何だ…」
「こんなにも早く子供たちに浸透するなんてね」
「考え方が違うだけだ。俺たち原住民にしろ、移住民にしろ。解決しなければいけない事が山積みだな」
夏彦は真面目で謙虚な性格だ。故にこの町の事情には深入りすることはこれといって無かった。今になって現れ始めたひとつの問題に疑問を持つ住民たちが近頃様々な場所で会議をしているという事は耳にしてはいたが、どうにも腑に落ちないことばかりだ。だからと言って何か自分にできるとも思わず、ただふたりは我が娘と、ようやく1歳を迎える息子を守らなければいけないということだけを、胸に刻み込むのであった。

六十六章『人知れぬ患い人』~現代~
湯気の立つ急須から湯を注ぎ、茶葉がふんわりと湯の中で浮かび上がっていく。濁りなく浸透してゆく緑茶に岡本は汗をかきながら気だるげに眺めていた。
「冬じゃないのにこれはきついっすよ」
「夏だからこそ出せる味もあるさね」
旭はクックッと喉で笑うとそう返す。正午を過ぎあたりになると、昼飯休憩でも始めるのか、毎日のように蝉が鳴かなくなる。暑すぎると鳴かなくなるとは聞いているが確かにこうも暑ければ人間同様やる気もなくなるというものだ。
「家の冷房もつけない覚悟でしたが、やっぱりつけることになりそうです」
「使わなくなった扇風機が裏の川端の倉庫にあるから持っていきな」
「すみません、お言葉に甘えさせていただきます」
梅雨とはまた違う夏らしさがどうにも恋しくてならなかった冬に比べて、今はもう充分といった気持ちだ。そんな岡本がびくびくしながら熱いお茶に口をつけようとしているのを楽しそうに見つめていた旭は、ふとうちわを仰ぐ手を止めて岡本に口を開いた。
「ところで、今日はどうしたんさね?」
火傷したかのように舌を出す岡本は、旭の言葉にようやく、本題を持ちかけてきた。
「旭婆さん、またお薬、飲んでないんじゃないですか?」
「…」
「あれほど飲めってお医者さんにも言われてたんでしょ?じゃあ飲まないと」
「薬で治るもんなら飲む前から治せるさ」
店の前を氷屋の中年が自転車を転がしながら通り過ぎてゆく。たまに吹く風が影だからこそ心地よく、夏故の吸い込めない空気感が漂っているような気がして岡本は口を開くのにも抵抗感を感じる。
「こう見えても俺は医学の卵みたいなもんです。かじっている程度ですが、それなりに旭婆さんの容態が今後どうなるかもわかります。だから、そうなる前にでもしっかりお薬飲んで治って欲しいんですよ」
「気持ちは本当にありがたいけどね…まぁ、仕方ないんだろうね。善処いたします」
笑いながらそう返す旭に、岡本は心配の表情を和らげると少しだけ笑ったのであった。

六十七章『ひとり娘の前日談』~14年前~
「どういう、こと…?」
「だから許婚だ、玲奈。お前は潤くんが将来の旦那になるということだ」
「……へ?」
理解できないその言葉に、玲奈はぼんやりと父親の顔を眺めて考えた。驚くべき事実に直面した時、人が導く心理とは驚くことではなく、その理由にある信憑性だろう。片思いの男子高校生が将来の旦那と決まってしまったからと言って、その前日に同じクラスメイトの男子に告白されていたからと言って、そんな経緯を真っさらにかき消されたかの如く、事は実に信じられない展開だった。
「………ヘェエッ!?」
アスファルトを焦がさんばかりに照りつける太陽。そんな日照りもまだ5月だというのににわかな雨なら寄せ付けないほど天地を制しているようだった。
「お母さんは反対とかしなかったの?」
差し伸べられた疑問に横に並ぶ母親は旦那の顔を見てやや困り気味だ。どう説明すべきかをまだ考えていなかった顔だ。すると、父親がそれを口にした。
「元々はお母さんたち同士で考えられていた事なんだ。どうしても言うのが遅くなってしまったが、潤くんのお父さんであり、お父さんにとってもひとりの親友である高雄は玲奈ちゃんならと言ってくれているらしいんだ」
戸惑う表情が夫婦の瞳に映って返ってくるようだ。
「じゅ、潤くんって…この事は」
「まだ知らないよ」
「…じゃあ言わない方がいいよね」
「これもまた話してた事なんだけどね、ふたりきりで一度話し合ってみてはどうだろうか?」
「…本気で言ってるの?」
「忍、君からも何か言ってあげなさい」
「お母さん…」
広い居間で忍と呼ばれた母親は、ようやく口を開いた。
「そうね。お母さんたちも実は許嫁で随分と幼い頃から相手は決まっていたのは知ってるわね?それもまだ幼いというより恋を知らない頃からだったから、あまり漠然としすぎていてよくわからなかったと思うんだけど…決して他の男の人を好きになってはいけないということではないの、つまり、決められた道じゃないってことは、覚えておいてね?未来を決めるのはあなた自身なのだから」
「そうだ、これは玲奈に提案としてある話だ。だから、強制されたとは思うなよ?そういう話もあるってことは覚えておいてくれ」
母親と父親からの言葉がいつも通りで、玲奈は安堵する。突拍子もなく出てきた言葉に初めこそは耳を疑っていた玲奈だったが、改めて冷静に考えられる機会を待っておくことにしたのであった。
「潤くん…」
ただの片想いというのは、いつもの如く、どこの話にもあるかの如く、人知れず散っていくものだとどこかで決めつけていた。ただ好きでいればいいやら、見守っておくなどと言った自分への慰めにも近い抑止力。そんなものばかりを考え続けていた玲奈は今、思いもよらぬ展開に胸の高鳴りを抑えきれずにいたのであった。両親ともにそれぞれの用事で出かけた午後の暮れ頃、玲奈はなぜか無性に歩きたくなり、生まれつき弱いと言われているにもかかわらず、珍しくもそんな事を知らないかのように、いわみ野の果てまで歩いていったのであった。

六十八章
前編『5年戦争の終結宣言』~現代~
「…すまん、長すぎて途中からわからなくたった。つまりどういうことだ?」
荒くれ者の集う町交番の真ん中で、赤城は疑問符を浮かべてそう言った。
「んやろう!ナメてんのか!」
玄関口あたりまで詰め寄っていた年上のチンピラのひとりが怒鳴っているのを気にせず、花形は冷静な口調で赤城にもう一度、それまでとは簡潔に一定して返した。
「率直にいうと、冬月さんから伝言だ」
「最初からそう言えよ〜。久々の殴り込みかと思って隠れた俺の恐怖心を返せ」
「俺たちとあんたらは多分いつになっても修正のできん路線を歩きあっている。だから、今日をもって、」
「…?」
「この戦争を終わらせる」
突如、場内が騒然とする。誰もが口々に今しがた聞いたばかりの終戦宣言に驚いている。中には煮えくり返った怒りのやり場を失う者や、わけもわからず壁を蹴り始める者もいる。そんな喧騒とした中で、花形はひときわ大きな声で中心に佇む警察官たち特に赤城に向かって言うのであった。
「俺たちは5年もの間様々な世代を通してあんたらに復讐をしてきたつもりだ。けんど、それもまたひとつの失敗だと冬月さんは俺たちに言ったんだ」
理解すら諦めて喚く連中の中で、それぞれのグループのリーダーたちが花形を中心に集まってその場に立っている。顔さえ見れば大人ですら警戒するような名の知れた不良たちのリーダーばかりだ。一癖二癖あるような身の毛もよだつ雰囲気を醸し出しているのが、目を合わせずともわかってしまう。
「花形、それとお前たちはあれ以来の古参の連中なのは重々承知してる。お前たちが背負った傷もまた然り、だが冬月は当事者じゃないのはお前たちもわかってるよな?終わることは町の安全にも繋がるから俺たちからしたら嬉しいもんだが、疑問点は少々あるぞ?」
赤城の冷静な問いに花形や後ろに立っていたリーダーたちの目が少しだけ細くなるのを巨漢の警察官のひとりである敬は見逃さなかった。彼らとは町内でも鑑別所への強制連行を促されるほど対峙しあった仲だが、今更の如く決まったその話に赤城同様疑問を持っていた。それを察したのか、花形の後ろに立っていたスキンヘッドの男が前に出て口を開いた。
「あんたらに話す義理はない。冬月さんは俺たちスクイードメンバーやここにいるグループたち、それに花形みてぇな1匹者たちをずっと保護してくださった方だ。俺らはこの町が嫌いなんじゃない…あんたらが異常すぎんだよ、そろそろ上が面倒だと思ったんじゃねーのか」
一利はあった。だが冬月という男には縁のない事のはずだ。なのに何故彼が決めてしまった?5年前の事件とはまた別で問題児であったことは変わりない。だがそれも隣町での話だ。そう、彼はこの町に住む人間ではないからだ。
「柴田、たしかに冬月はこの町の人間じゃない、いくらお前たちを世話できる存在であっても、奴はー」
言うべきだった言葉を忘れ、敬は窓の向こうでこちらを伺いながら話し合っているふたりの若者を見つめた。ああ…なるほど、と。
「あ?何が言いたいかはだいたいわかるけどよ、これにて終戦だ。終わりだよ全部」
柴田と言われたスキンヘッドの男は言いくるめたと判断したのか、スクイードメンバーと呼ぶ自身の取り巻きを連れてさっさと帰っていった。彼もまたこの数年の間で随分と警察官らに迷惑をかけた男だ。花形やそこらへんにいる中学三年とは比べものにもならないほどの体格を備えているせいか、老けているようにも見えるせいか、年頃とは思えぬ面倒事ばかりを起こしてきた問題児だ。そんな奴がさっさと帰っていったのを見送ることもなく、花形や他のリーダーたちは赤城たちの質問に、答えられる範囲内で口々に言い合うのであった。

後編『過去への恨みを持ったところで、人はそれを晴らすことはできない。だからこそ人は未来に託すのだろう。今に賭けるのだろう。失われた気持ちを、隠された真実を取り戻す時、人はそれまでとは違う世界を知ることとなるだろう』~現代~
荒くれ者の集う町交番の中ではこの度の終戦宣言が1匹者の花形から発せられているようだ。1匹者であるにもかかわらず、花形という大男は町の不良どもを仕切る連中には友好な関係を持っているようで、いつしか彼らの傘下につくようになった。あまり町内では知れ渡る話ではないが、実際のところこの町にたむろするそんな若者は少なくない。とある児童同士による強姦事件が引き金となり、当初から危険視されていた若者たちが反乱。それによって警察との暴行事件などが多発し、結果として、いわみ野高校は5年前に廃校へと追い込まれた。当時の若者は遠くの隣町へ歩いて登下校するか、家族共々引っ越していくしか手段がなかったのであるが、そんな世代でも根強くこの町へ根を張り続けた彼らはそれからというもの、町の駐在つまるところ警察官たちや当初赴任してきたいた赤城らと表沙汰にならぬ抗争を繰り広げていたのであった。だがそれもまた、終わったようである。
「とうとう終わんのかよ」
金髪の青年が取り巻きから少し離れたところでもうひとりの青年と話していた。
「筋はもう通してある。そんだけだ」
「筋だ?たんにあっちの隠蔽が異常だって気づいただけだろ?」
金髪の青年の質問にもうひとりの青年は何も答えず扇子をあおいでいる。半袖のカッターシャツには照りつける太陽によって湧き出た汗が染み付いているようだ。はたからみたら真昼間から会社を抜け出してきたサラリーマンのようだが、その見た目は町交番で野次を飛ばしているゴロツキとは正反対に違い、整えられた黒髪はどこか滑稽にも見える。いささか場違いなその若者は、金髪の青年とふたりだけで話しているようだ。多分、かのいじめグループのリーダーであり、狂気じみたあの女子中学生の恋人であるこの金髪青年と対等に話しているということだけで、もはやこの黒髪青年が只者ではないということを、遠目に見守っている取り巻きたちは実感していた。いや、顔見知りだと言ってもいい。なぜなら、
「金柴興業との仲介役である寺内さん、あんたがいなけりゃ今頃俺たちは冬月さんら率いる俺らこの町のバカどもは徹底して潰されてたよ。だが今回ばかりはちっとばっか納得いかねぇ」
そう言う金髪青年の言葉に、窓から中を伺う黒髪青年はいつも通りの笑顔で返すと口を開いた。
「こっちもサツにGマークつけられて以来色々ややこしいんよ。それに僕もただのケツ持ち。正直この先おおっぴらにされちゃ困るんだろうね」
「わかんねぇ。わかんねぇよ寺内さん」
「何がだい?」
「赤城んとことやりあうのは俺らが復讐がてらやってきてることだ。別段もう恨みなんぞ消えたけどよ、そんなもの鼻から覚えてる輩なんぞ今じゃすくねぇ。だったら問題は何なんだ?」
「…金だ」
「ショバ代が減ったっつう件か?」
「それもある。けど、カスリやショバ代が異常に減ってるのにも訳があるんだよ」
「噂で聞いてはいるぜ。寺内さんにもいつか聞こうとは思っていたが…もしかしてそっちの金柴興業で、何かあったのか?」
「まぁ、そんなところだね。僕はこのケツ持ちが唯一のシノギみたいなものだけど、連中は町との繋がりが強いだろ?皇道会みたいな極道の化け物たちと、対等に話していられるのは、僕たちがオツトメも無しにこれまでやってこられてるのは、町との繋がりがあってのことだ。もちろん、サツも例外じゃないよ?」
「そんなことはわかってる。俺だって何度も助けられてんよ」
「ここからは僕の推測なんだけどね。今までうまくいっていた金の流れがとある理由で悪くなったならば、それまで君たちが暴れていた落とし前をつけてくれていた冬月さんのお金、つまるところ、この町からくるお金が減ったか無くなったかということになるんだよ」
「冬月さんにくる金が?寺内さんら金柴興業も、それと同じような問題に今は頭抱えてるってわけか?」
「そういうこと、つまり、町との繋がりがある同業の兄弟たちはみんな何かしら気付き始めてるってことだ」
「町からの金の出が」
「減っている、ということにね」
風が吹く。蝉時雨に呼ばれて、夏風が吹き荒れている。乾ききった大地には干からびたミミズの死骸。晴天の先にそびえる巨大な積乱雲。ふたりは共に窓の向こうで話す花形とその前に立つ赤城を見やった。向こうがこちらに気づいたように目を向ける。
「寺内さん、サツらに俺らが暴れた分の口止め金が冬月さんあたりから入ってんのは薄々気づいてはいたけどよ、それが出せない状況になったから、今回の戦争も無理矢理終わらせた、そういうことになるんだな?」
「そういうことになるね」
扇子を仰ぐ手を止めて、寺内はにじむ汗を取り出したハンカチで拭いた。金髪青年はそんな寺内を見て、少しだけ納得する。だが、
「けどよ、まだ疑問はある」
「うん?」
「俺たちが一斉検挙されないのも、おそらく赤城の野郎だけがその裏ネタを知らないのも何となくわかった。だがな、何でだ?何でそんだけの金が町から消えた?町っつうことは町長あたりに聞けば話がわかってることなのか?」
寺内はうーんと悩むように地面を見つめると、自身の予想を言うようにそれを口にした。
「金柴興業は長門組長や妹さんの陸奥さん、それに副代の日向さんらを含め、頂点から下っ端までが、町の経済力に精通してる。だけど、そんだけ繋がりがあったとしても、実は町にも何か隠している力が、あるようなんだよね」
「ち、力?」
「うん、町内会でも正式にあるふたつの勢力のようなんだけどね、陰と陽の関係とさえ言われてるらしいんだ」
「つうことは、そのふたつの勢力のうちのどっちかがデケェ山を貼ろうとしてるってことか?」
「もしかしたらの話だよ?けど、そうとしか言えないね。こっそり予算案可決表をのぞかせてもらったんだけど、財政もそのふたつに集中しているようだし」
「知らなかったな…で、その片方ってのは?」
「ああ、僕たちの金を吸収した片方の連中は、改革復興委員会だ」

六十九章『宇宙の果てを、目指して』~現代~
鳴り止まぬ拍手の喝采にしばしば、沙織は息を飲んでその空気を肌で実感していた。手を叩く音や、口々に漏れる人々の言葉が、肌を通じて身に染みる。幕の降り切った舞台では劇団員たちが静かに笑っていた。
「大、成功…!」
台詞本を握りしめて呟かれた沙織のひとことに仲間たちが彼女の背中を押す。誰もがこの瞬間を待っていた。幾度となく繰り返されてきた演劇の旅も、これにて完結だ。
「みんな並べた?もうすぐ上がるよ」
ああ、最後に来たこの町で、とんでもない再会を果たしてしまったなと、沙織は少しだけ笑う。全員が幕の前に立ち終えるとそれぞれが顔を前にやった。数秒がたち、一度降りた眼前の幕がゆっくりと鳴り止まぬ拍手に持ち上げられるかのように上がってゆくのであった。
「よう」
「あ、先輩…どうでしたか?」
片付けやらで劇団員たちが荷物を運んでいる最中、公会堂の裏玄関にいた沙織に岡本が声をかけた。約束通り自分の演劇を観に来てくれて
「…まぁなんだ。うん、正直驚いた」
「私の美貌にですか?」
「そんなわけあるか。というか沙織は演出家だろ?最初にお前の名前見つからなくて少しビビったけど」
「高校の時に演出家の道を教えてくれた先生がいたんです。吉岡先生って言うんですけど…」
「沙織の主義感まで変えれたんだなその先生は。今も教師を?」
「それが、私たちを見ていたらなんだか自分には嘘がつけなくなったようで…途中からもう一度演劇の道に進むことにしたんですよ」
「もう一度?」
「元々は演劇の女王って呼ばれるほど才能がある人だったらしいんですけど、訳あって教師になっていたんです。はじめはやっぱショックだったんですけどね?何となくその気持ちがわかってしまって…。気がついたら私ものめり込んでました」
「中学校で演劇辞めるって本気で俺は思ってたからな。スゲェよ。沙織」
ふたりの会話を邪魔せぬよう、岡本に連れ添っていた春香や劇団員はいつの間にかどこかへ消えていた。いやここはいてくれた方が気まずくならなくて済むのであるが…。
「…いつ帰るんだ?」
「明日です。もう片付けを終えたら今日中に町長さんたちにお礼を言いにいって、お終いです」
「…そっか」
「それよりさっきのお連れさんは彼女ですか?さすがですねぇ先輩は」
「は、はぁ?馬鹿か!あれはバイト仲間だ。そんなんじゃねぇよ」
「ムキになるのがまた怪しいですよ〜?はぁこれだから面食いの男は困るんですよね」
「だから違うっつってんだろ⁉︎」
別れた後でもこのふたりのコントは今日も変わらぬ。なんだかんだ言ってこのふたりは恋愛よりも友情に近いのかもしれない。しばらくして、岡本は別れゆく風の気配を感じ、言わないでおこうと思っていたそれを口にした。
「この夏のあいだに、もっかいこの町に来いよ」
風が通り過ぎてゆく。刹那、沙織はその瞳孔を開くと、ようやく岡本の顔を見上げた。その顔が言わんとしているその気持ちが、わかってしまうような気がして、胸が痛い。
「夏の予定は…」
けれど、それだけは確かめたかった。
「予定、は…」
将来の夢のためでもあり、そしてかつて心から好きだと思えた目の前の男をもう一度知りたいためでもあるのなら、自分から一歩前に踏み出せる世界があるのなら、
「ありま…せん」
今こそ確かめられる時だと思うんだ。
「だから、その…一度劇団として帰ってから、講義も休みだし、また戻ってきます」
「うん…わかった。待ってるな!」
「はい!」
「そういやさ…」
「何ですか?」
「沙織って、どこまで目指してんだ?将来の事とかよ」
「強いて言うなら、」
「言うなら?」
「宇宙の果てを、目指してます!」
「…宇宙、か」
こうして、沙織は再び劇団員たちとバスに乗り込み、旅の終着点である彼女たちの都市へ帰って行ったのであった。

七十章『後輩からの電話』~13年前~
梅雨の終わりが不吉にも町に静けさをもたらした13年前の7月、降りしきる大粒の雨をかき分けるかのようにワイパーが右へ左へと動く様を眺めながら、幼くも6歳になる涼は助手席にある補助シートの上に座って、濡れた窓の向こうの世界にどこか虚ろな目をしていた。父親と母親の喧嘩が絶えないことなど別段嫌だと口にしたこともない。ただ自分の母親が父親にとって2人目の妻であることも些細なことだろう。当人こそまだ知りもしない話だが、最初の妻にはいつしか自分にとって最愛の姉たちとなる三姉妹が伸び伸びとどこかで生きていることも、全くもって関係性がなかった。ただ、
「ねえパパ?どうしてママはまたお家を出て行ってしまったの?」
運転席で窓の向こうの目的地を探していた丸眼鏡の父親はうん?と優しく娘に顔を向けると、少しだけ考える動作をしてからそれを口にした。
「そうだねぇ。今はパパが謝るために、ママのいる場所を探しに行ってるんだ。パパだって謝るときもあるからね?涼にはそんなパパも見ていて欲しいと思ってさ」
「また喧嘩したの?」
「ごめんねぇ。ママは仕事が忙しいパパのことを心配してくれてるだけなんだよ。だから、ありがとうって言いに、ね?」
「そしたらまた一緒に、あの海に行ける?」
「そうだよ?…多分このあたりだった気がするんだけどなぁ。ママの実家」
空が晴れているはずなのに、あたりは水浸しに雨が降っていた。狐のなんとかとかいうやつだろうか。父親は丸眼鏡の縁を指で持ち上げると、「駅から近かった覚えがあるよなぁ」と呟いている。涼は何かを安心したかのように両手を繋ぐと父親に真似て外をキョロキョロとしていた。と、そのとき、父親の携帯が鳴り出した。
「もしもし」
一旦車を止めた父親は携帯を耳に当てながら何かを喋っていた。その声音からすると、どうやら相手は母親では無いようだ。淡々と相槌を打っていた父親は何かを耳にしたのか唐突に口調を強張らせると、腕時計に目をやった。
「ああ、今は娘と外出中だった。そのまま直行するよ。場所は?」
涼はそんな父親のことも気にせず外を眺めていた。気のせいか、ボヤけた窓の外の遠くで自分よりも歳のある少女が手を振っているように見える。
「誰か…手を振ってる?」
涼はそんな向こうの相手を認識するかのように、手を振り返すためにと腕を上げようしたがその時、その手を下げるかのように父親が後ろから声をかけてきた。
「涼、すまないがママを探すのはもう少しだけ待ってくれないか?」
「お仕事?」
「ごめんよ…隣の田舎町で大きな事件が起きたみたいなんだ。近くにいるのがパパしかいないみたいだから、先に行って後から皆んなと合流するんだって。向こうについたら車の中で待ってられるね?」
「うん、わかった!」
「偉い子だ、ママも絶対会いに行くからな」
それまで携帯の口元を隠していた父親は、涼が頷くと同時に携帯に向かって言うのであった。
「了解だ。お前もか?僕も初めて入る町だよ。それじゃまた後で。連絡ありがとうな、赤城」

七十一章
前編『真夏の不協和音』~14年前~
「どいうことだっ…」
夏も暮れ頃、ひときわ暑苦しい部屋では揃いも揃って頭を抱えた大人たちが口々に何かを話していた。子供たちのいないその空間は暑苦しいはずなのにどこか冷たい気配が漂っている。その中のひとりが唐突に口を開いた。
「私たち全員がここに集められたのは言うまでもないでしょう。私たちは皆この町に移り住んできた、言わば移住民というやつです」
「アホが。移住民などと差別的な言葉は慎め」
どこからともなく野次が飛び交う中、話を切り出した男性は話の続けた。
「都来人などと罵られたりする我々はいよいよこの問題を公にしなければいけないと思います」
賛同の声がどこからともなく湧き立つ。
「今回お伝えしないといけないのはそればかりでなく、我々大人たちの問題が、子供たちを通していじめなどに発展していることです」
ざわついていた周りの大人たちが一段と静まり返る。
「問題はなんだろうなどと向こうの連中は会議などと自治会を通して話を進めているようではありますが」
「なんだいそりゃ?自治会に入らないってだけで差別か!」
「落ち着いてください。まずは」
「これだから田舎の老いぼれたちは。視野が狭すぎるんだよ、視野がな!」
「落ち着いてください!」
「子供達にまで被害がかかるなんて耐えられないわ、安心して保育所にも預けられないじゃない」
「私たちだけの児童預かり所を設けましょうよ」
「皆さん、お気持ちはわかりますが、今は何も行動はとらないでください」
「どういうことですか?」
「子供達までもが心に傷を負ってはいけない。我々はもういい歳をした大人だ。向こうの人たちと話し合う場をもう設けることにしましょう」
「何言ってるのよ?さっさと対峙しに行けばいい話じゃない。ここにはそれだけの男たちもいるわ」
「勘違いしないでください大石さん。私たちは同じ町に住んでいるんです。これ以上はお互いが平穏に共存していく方法を話し合わなければ、何の解決にもならないんです」
「関根くん、あなたの言ってることは偽善者そのものよ。共に生きると言うのなら自分というものは貫かなければいけないのよ。あなたたちにも私たちにも守らなければいけない子供達がいるじゃない!」
「だからと言って過剰に私情を押し付け合うのは違います。今回はその案件について、向こう側と対等に話し合うための代表グループを決めるために、皆さんには集まっていただきました!」

後編『シケイド団の冒険』~14年前~
町の平穏を守るのが、シケイド団の仕事だった。俗に子供たちはそれをシケイドの役目と呼び、周りからはちょっぴりカッコいいとさえ思われていた。泣いている子供がいるならすぐに駆けつけてくるし、怖い先生と対峙しなければいけない時は一緒に立ち会うことさえしてくれる。探し物から喧嘩の仲裁役まで買ってでる少数精鋭の彼らは、今日も昼過ぎからリュックを背負ってある冒険に出ていた。
「で、今度は何の伝説なのよ?」
「だーかーら、さっきも言ったべ?」
「かーくんは裕翔くん話聞かなさ過ぎー」
「だってよ?俺らんとこだけ先生全然終わらしてくんねぇんだもん」
「あんたがまた何かやったんでしょ」
「今日は伽藍道山(がらんどうざん)を超えるぞ!」
「「「「えええええ」」」」
「なんだよ〜ビビってんのか?」
「そういうのはマキちゃんたちも呼んだ方がいいんじゃない?」
「そうだそうだー」
「シケイド団が弱くなっちまうだろ、だから肝試しってやつだ!」
また裕翔くんが何か変なこと言いだしたと夏菜子や松岡がため息をつく中妙にやる気になった上川と岡本が策案を2人で練り始めていた。大人がいないというのは奇妙なほどに冒険心に掻き立てられるもので、遮られてきた外の世界への魅力すら今では手に届くような気がしてどこかやってはいけないことをやってしまおう、そんな夏のノリが無性に楽しくなってきたシケイド団の5人なのであった。
「伽藍道山とかあんま人いないしな、反対側の仁乃山は仁乃神社やめっちゃ広い草原もあるから人もいるけど、ここらは来たことないよな」
「もったいぶらないでよ裕翔くん。今日もまた変なの探すとか言い出すんでしょ?」
呆れたように呟く松岡にため息気味だった夏菜子はなんだかワクワクしているようだ、えくぼがやたらと似合う夏菜子を見てニッと笑った裕翔は威勢良く本題を口にした。
「天狗火(てんぐび)が出る川が伽藍道山の向こうにあるんだってよ!」

七十二章
前編『行きつく果て』~現代~
「あと残るはここくらいっすね」
適当な探りを入れながら松岡は裕翔と共に、例の張り紙について何か知っている者がいないか、小企業の集うこの町唯一の経済的地区あざみ野の至る所を歩き回った。花火という言葉を使うたびに、家の者から工場や仕事場の男たちまでもが眉間にしわをよせながら会話を無視していく。ここまで一致の取れた連携があるのだから笑えたもんじゃない。誰もが口裏を合わしていないにもかかわらず、何処に行っても花火というものを、避けるかのように憎むかのように訝しむかのように蔑むかのようにして、松岡と裕翔を押し返した。これほどまでにご丁寧な接待を受ける裕翔も既に異変に気付いていた。松岡はまぁ何となくそうであるのはわかってはいたが、やはり現実的に直面すると、あまりいい気持ちにはなれなかった。だが、懲りないのか果ては飽きることすら忘れたのか、裕翔は松岡を引っ張るようにこうなったら意地だとも言わんばかりにあざみ野中の人間に聞き回ったのであった。朝から銭湯でさっぱりとしてきたはずの身体にはべっとりと夏に絞り取られた汗が湧き上がり、裕翔に対してなんだか申し訳ないような気持ちになっていた松岡に、裕翔は、ようやくここが最後だと呟いた。
「ここって…さ」
「そうっすよ、言わば町の表としての総本山」
「大げさよ。と言うか、じゃ裏は何なの?」
「けれどここが承諾してなかったら、違法ってやつですからね。うん?あー、それは金柴興業とかじゃないすかね。そんなことはともかく」
「いよいよ町役場…か」
ふたり町随一のボロさを誇る木材でできた大きな建物を睨む。遠い昔は町唯一の小学校だったようだが、今ではグラウンドが駐車場となって、見た目に反してあっさりと町の風景に溶け込む町の頭脳だ。
「直に町長ってのは、ちょっとキツイわね」
「ただ正面から聞きに行くとマズイっすよ」
「確かに。もしも花火の件がこんな所でバレたら私たちはともかく、この張り紙を貼った人は村八分にでも合ってしまいかねないしね」
「ところで、それどこで貼って合ったんですか?」
「それはあとよ。とりあえずは印刷部署か、印刷機を所有している所にでも急ぐわよ」
「わかりました。なんだかんだまっちゃんさんも、コソコソしたの好きなんじゃ?」
「人をコソ泥みたいな言わないでよ、それとチャンさんも禁止」

中編其の一『誰が親とかじゃない、だけど』~17年前~
お爺ちゃんもお婆ちゃんも、豆腐屋さんもご近所さんも、皆んなが親だった。松岡にとっては、父と母が仕事で多忙な日でさえも、親の愛とやらを誰かしらから受け取っていた。毎日が決して平和かと言われるとそうでない日もあったし、家計的に苦しい年も何度も過ごしてきたと思う。そんなこと当の本人がわかっているわけではなかったが、17年の月日が経つと、そうだったのだろうと何となく気づく。思い出の断片というのはちょっとばかし、センチメンタルだ。
「おかえり、今日のシケイド団は何と戦ってきたんや?」
春よりも少し手前の季節、まだ寒さの残るこの町の風で頬を赤くして帰ってきた幼き松岡を、ちょっとばかしふざけたように年中決まった格好である法被姿の敷島が聞いてくる。お茶の間ではその様子を呆れたように見守る旭とその息子家族である松岡家の父と母がこちらを見て笑っていた。見慣れた風景、相も変わらぬ時間。なんだか、まぁ、言葉にするにはちょっとばかし恥ではあるが、子供ながらに松岡はそれを幸せだと認識していた。大人たちが暗い顔をして時折話す会話だって、正直気にもしないほど、町のみんなが声をかけてくれることさえ、日常にすぎないのだ。
「もう春だけど、全然サンタさん来ないよ?」
駆け足でやってきては、立ち上がった父を見上げて呟く松岡に、父はうーんと悩むような表情をすると、こう切り出した。
「それは困ったなぁ。パパからもお願いしてるんだけどねぇ。けど、明日は誕生日じゃないか??」
「あっ!そーだ!誕生日ならサンタさんも覚えてくれてるよ!きっと!」
敷島が屁をこきながら湯気の立つ緑茶をすする。旭と母は、奥で夕飯の準備ができたのか、お盆に載せると料理を机に置き始めた。父は腰くらいの位置でバタバタする小さな頭に手をやって言った。
「去年もサンタさん来てないけど、今年は急ぎ過ぎて誕生日に来ちゃうかもな?パパも頑張って仕事行ってくるよ!」
「ぇーまたパパ夜からお仕事?」
「ここんとこ夜勤続きだからねぇ。それに明日は昼間も繋ぎだからなぁ。ごめんよ?ケーキ作るんだったよな?じゃあまた作ったら写真を見せてくれよ?爺ちゃん婆ちゃんや、ママと食べるんだよ?」
「…わかった!サンタさんと食べるもん!」
そうして頷く笑顔の娘に寂しげな顔を隠して、父は今日も笑い返すのであった。

中編其の二『束の間の自慢話』~17年前~
「えっ本当に買ったんですか松岡さん??」
驚いたように袋を覗き込んでくる仕事の後輩に、松岡の父が全力でVサインをしながら自慢する。
「抜かりはないぜ!はっはっは!」
「いやでもコレって、アレっすよね、予約殺到してて去年のクリスマスなんか在庫切れだかなんだかで地方発送とか取りやめになったやつっすよね…テディベア…!」
「愛娘のためだ!去年買ってやれなかった分も奮発して巨大版を買ってたんだけど、さすがにバレるからこっちのスペースお貸してもらってたよ〜」
「にしてもデカイ…。いきなり経費で先輩が変なもの買ったのかってちょっと…いつだったかの飲み会以来ビビってましたよ」
松岡は自慢気に事務所内の片隅に置かれた巨大なクマのぬいぐるみが箱に収まりきらずに顔を出している姿を見ながら後輩に言った。
「ちゃんと自腹だよ。そいや関根くんとこはどうなんよ?もうすぐ1歳だっけな??奥さんのほうは??」
関根と呼ばれた後輩は照れ気味に返した。
「参っちゃいますよ。女房なんかデレデレで、言うこと聞きゃしない。自分も息子が出来たってのにまだ女房愛ってもんが足りなさすぎるようで…20歳以上離れてても息子と2人で甘えてばかりです」
そりゃ甘えたいよなぁと笑い返しながら松岡は時計に目をやる。そろそろそんな楽しい子供の自慢話も昼休みが終わると出来なくなる。毎日やっていてもやっぱりここのところは夜勤からの繋ぎ仕事のせいで疲れてるようだ。そう松岡は少し溜め息をすると、関根と頷きあって空の弁当箱を畳んで鞄に押し込むと、どこからともなく午後の休憩から帰ってくる同僚たちと共に、それぞれのオフィスの席へつくのであった。
「こーれーなーにっ!!ねーねー!」
と思った矢先に、突如として聞こえた少女の声に松岡は冷や汗を吹き飛ばしながら立ち上がった。
「どぅああ!?夏菜子ちゃん!?なんでここに…!ちょ、え」
「あ!すみません松岡さん!ちょっと目を離したすきに!」
どういうわけかオフィスへこっそり忍び込んでいた今日も変わらぬお転婆娘こと桃園旅館の長女夏菜子が、水鉄砲を片手に、オフィスの片隅に置かれた巨大な袋の上に首だけ見えたクマの頭を見て口をあんぐりとさせていた。だが、お散歩にでも出かけていたのかお付き添いの旅館の人に引きずられて帰っていった。
「とんだ客人だ。バレないといいが…」
「そういやシケイド団?でしたっけね、お遊び仲間のような、夏菜子ちゃんもそのひとりらしいですし、ちょっと気が抜けない1日になりそうですね」
関根の言葉に、松岡は冷や汗をかきながら苦笑するのであった。
「関根くんとこの長男くんを見習いたいよ」

中編其の三『本当の贈り物』~17年前~
死闘の末なんとかプレゼントを守りきった松岡は日も変わりそうな夜中になって、ようやく残業を終えることができた。日も変わらぬうちに帰りたかったが、帰ったところでみんなはもうお祝いを済ませてゆっくり寝てくれているだろう。そんなわけで松岡は静かに家の駐車場に車を止めると、音を抑えながらドアを開け、ゆっくりと帰って来た。
「さすがにこのプレゼントならアイツも喜んでくれるだろう…朝になって椅子に座ってたらビックリするだろうから、ここに置いとくか…」
独り言のように呟きながら自分ほどの大きさをした巨大なぬいぐるみを音もなく落ち着かせた松岡はふーっと息をつく。静かにみんなは寝静まっているのだろう。なんとなく、そうであって欲しかった。
「おう、帰ってきたか、ギリだな」
下着の中をかきながら出てきた敷島に、若干挙動不審だった松岡が音も無く飛び跳ねて驚く。
「ちょ、オヤジ…!なんでまだ起きてんだよ」
真夜中の食卓に父と息子が無言で佇む中、敷島の方が先に口を開くと、食卓に置かれてあるものを指差した。
「まだなんじゃよ」
「お、おい、これ…ケーキ」
そこにはまだ誰も手をつけていないケーキが下手くそにおめでとうとクリームで綴られて、傘の形をした食卓カバーでそこに置いてあった。なんで…いや、それじゃ今日のお祝いはどうしたんだよ。
「オヤジ…アイツは?」
「『パパが帰ってきたら起こして』ってな」
「…」
「『もうサンタさんは来なくてもいいから、パパとケーキを食べたい』だとよ」
父はハッとする間も無くその足は廊下に出ていた。娘の寝る、娘しかいない部屋の扉に。
「静かにな」
向こうで敷島が囁いている。
「…」
ギィと音がして、父は顔をゆっくりと上げた。部屋の隅にあるベッドで、星柄をした布団に丸々くるまって、娘が…背を向け、向こうを向いて…。
「…あなたは…、サンタさんですか?…それとも、パパですか?」
そう呟く。ああ、俺としたことが。
「ど…」
子供の成長は早いものだ。親の嘘なんてすぐバレてしまう。だから、会えないなんて平気で言えてしまう。正直であることばかりが親として正しいと思えるから。けれど、
「どっちが…いいですか…?」
けれど、正直であっても、平気でそんなことを言うってことは…やっぱりキツイ。でも、親がちょっぴり傷ついている以上に…子供は、俺の娘は…。
「…パパがいいですっ!!」
泣いて、俺を待っていてくれてるんだ。
「…ただいま」
駆け寄ってくる娘は、大粒の涙を頬に伝うのを拭うと、しゃがんだ父に抱きついた。
「遅くなったけど…ケーキ、食べるか?」
「うん!…うん…!食べるっ」
それは、松岡家で起きた、ちょっとしたハッピーエンドだった。夜な夜な家族を全員起こしてきた敷島によって、その日のうちに、彼女のお祝いが開かれたことも、翌日からしつこく夏菜子が松岡の父に質問攻めをしてきたことも、そして、父が少しだけ仕事の時間を減らしたことも、今は語れぬ和やかな後日談である。

後編『ジャージ姿の行き先案内人』~現代~
裕翔と松岡の入った町役場の中は、思いの外天井も狭くやや説明のしづらい構造をしていた。だがひそひそと動くには案外都合がよく、松岡は裕翔に倣うように自然に進入した。フロントには、田舎ともあってか呼び鈴を押さない限り出ても来ないらしく、廊下に沿って案内図にあった印刷室にやって来た。だだっ広い休憩所のようなそこでは、隅のソファに足を上げて寝てるジャージ姿の女性と思われる人と、並び並んだ印刷機の横に立つビール腹のよく出た男性職員のような人がいた。ジャージ姿はともかく、確実にふたりは職員っぽい男性の方に声をかけることにしたふたりは、その男性からここのところで使われた印刷名簿帳を見せてもらった。基本的には知ってる町工場とかのものなどが多かったが、その中でもふたりは記入欄の枠外に経費引き落としと書かれた物を見つけるとすぐにそれを指差した。
「これ、役場さんから作られた印刷物ですよね、ポスターとかだったりします?」
そう問う松岡に、男性職員は少し鬱陶しげに聞き返す。
「ポスター?そんなの滅多に無いからこの夏はまだ無いんじゃないか?印刷部署っつても俺んとこは休憩所みたいなもんだからよ、なんか探してんならアテになんねーぜ。つか学校の自由研究って、どこの学校だ?」
ちょっとこのままではふたりの安い嘘がバレそうだった為、引きつり笑いで誤魔化そうとしていたふたりは、ふいに後ろから声をかけられることとなった。
「あれあれ、あれってアレなんすよね、いーやー、そうっすよー間違いニャイ」
眠たげにだるそうに起き上がったジャージ姿の女性は、そう口にすると疑問符の浮かんでいるふたりを見て半笑いしながらやって来るとそれを口にした。
「ココでポスター刷ったのってー、今年はアッコだけっしょー」
起きてきたジャージ姿の女性に、男性職員はというと触らぬ神に祟りなしとも言わんばかりに遠ざかると自分の椅子に座ってしまった。何やら関わってはいけないものにふたりは声をかけられたようだ。
「アッコてどこ…?君、場所を知ってるの?」
「お姉さんよりはぁ詳しいよー?」
なんだか腹の立つ返しに少しイラっとしながら松岡は裕翔と頷きあうと彼女について行くことにした。
「そいや貴方って高校生、よね?なんかそのジャージ姿って遠い隣町で見たような気がする」
町へやって来る途中に見つけた高校生のジャージ姿を思い出しながら口にした松岡に、ジャージ姿の女性はヘラヘラっと笑うピンポンと答えた。裕翔はそんなふたりを見ながら妙に普通だ。奴にとってはこのジャージ姿の女子高生は趣味の範囲外なのだろうか?いや真希子は一体なんだ…一応セーラー服を着た女子高生だろうが…。
「でもなんであそこのオジさんに毛嫌いされてたんだ?様子が変だったしな」
裕翔はそう切り出すと彼女を見やった。
「あえ?あーね。神楽さんも私と一緒で町役場の中でもグループ外みたいな扱いだかんねー」
グループ外というのはつまり、はみ出し者ってやつだろうか。それとも変人はやはりああいう孤独な扱いをされるのだろうか。
「おふたりさんも知ってるだろうけど、ここの職員は思いの外けっこう多いからねー。公務員と言えど食物連鎖ってやつだ。その枠外で働いてるといつの間にかそういう連中ばかりのゴミ溜めに行き着くんだよ」
ジャージ姿の女子高生はやけに詳しくそうふたりに説明すると廊下を突き進み何度も何度も角を曲がった。
「そいや全然話変わるけど、貴方ってここの職員、なわけないよね、さすがに高校生は」
と言う松岡に、ストンと落ちたクールなフレンチショートの髪をした女子高生は袖から手を隠すと二ヒヒと笑って返した。
「ざーんねーん。あの人らと同じような給料は貰ってないけど、一応はここで働いてるよん」
まるでニートね…という松岡の囁きを聞いて聞かぬふりをした裕翔は、女子高生を見て思っていた。
「…(こいつ、今までこの町で見たことがない。というか隣町の高校って俺が行き損ねたとこだよな。この町から高校が消えた初めての世代だった俺たちはバラバラに遠くの高校や定時制に通ったけど、隣町は受け入れが厳しくて入れたのは1人だけ…だったような。いや、もうあれから何年もたってるから違うんだろうけど…やっぱり知らねー顔だ)」
「あいあい、着いたよん」
考え事をしてる間にさっと差し出された扉を前に裕翔と松岡は意を決して立った。
「いやぁーこんな委員会なんかにふたりの若い人が来るなんてねぇ。やっぱ若もんに人気なんかねぇ」
そう言う女子高生にふたりが「いやお前が言うな」と突っ込む。見たことも聞いたこともない名前だった。いや、正確にはこんな委員会が町役場なんぞにあるのがちょっとした不可思議だったくらいだ。だけど、
「裕翔くん、いよいよこのポスターの印刷者がわかるかもね」
「はい、もうあとは、ここだけってことっすよ」
ふたりは町のあの雰囲気を知ってもなお花火のポスターを刷った存在を知りたかった。そしてそれは何よりも裕翔本人の今後の希望ともなりかねない事態になっているからだ。手がかりとして始めた探偵ごっこだったが、ここらがいよいよ幕開けといったところぁろうか。ふたりは息を飲む。
「ありがとね、えと、ごめん貴方の名前って何かな」
そう言う松岡に、女子高生はジャージ姿を少し正すと至って真面目な顔で答えた。
「私?名前、名前かぁ、うん…まぁいっか!私は蘭夢(らむ)だよ!」
「蘭夢…ちゃん、ね!よし、覚えた。変なことに付き合わせてごめんね、案内ありがと」
ニヤニヤっと笑う蘭夢に裕翔と松岡はお辞儀をした。
「そいや、どうしてこんな部署の場所がわかったんだ?」
と言う裕翔に、蘭夢はちょっとだけ笑うとそれを口にした。
「うん?そりゃアレよ、私の部署のライバルだからね、ココは」
なるほどなっと笑いかえすふたりに蘭夢は手を振って帰って行った。ライバルを前に何か口を滑らしたような気もしないこともなかったが、ふたりは唾を飲み込むと、頷きあってその扉を叩くと開けるのであった。
「最後の扉は、聞いたこともない委員会ですか…」
「でも行くしかないよ。この、改革復興委員会ってとこにね」

七十三章
前編『講習会へ』~1年前~
その日は、梅雨以来の雨の日だった。暑い夏も七夕という今日はなんだかやけに涼しく感じる。花火師の一年の仕事について大まかな知識を短期間で頭に叩き込んだ上川は、相変わらず岡本とトレーニングの日々を繰り返しながら、山奥にある敷島の隠れ家で自らが火薬に手をつけられるよう臨時の花火師としての勉強を終えると、町を出、煙火協会主催の年に一回開かれる講習会へと向かっていた。
「かー坊。てめぇ会員証忘れてねーだろうな?」
運転しながら米田教師がフフッと笑う。その横の助手席で偉そうに古いサングラスとマスクをつけるいかつい敷島の問いに上川は、苛立ちまぎれに教科書を指でなぞりつつ、持ってきてるに決まってるじゃないすかと答える。このふたりのコントはまぁなにはともあれ慣れたものだと米田教師は心中で呟く。4人乗りの軽トラックはよく上川も使わせてもらっていたりするため、馴染み深い。あの町で敷島との陰気臭い生活が始まってからというもの、度々米田教師を含めた3人組で動くことが多い。無論花火師としての勉強を怠っていたわけではないが、講習会を聴講するにもその知識を持たないじゃ話にならない。というわけで今、上川は非常に焦っていた。それも、ちょっとばかし受験シーズンの頃を思い出さずにはいられないほどだった。故に花火師としての資格を持つ米田教師からの手伝いもあってどうにか講習会までにはこぎつけれようとしていた。
「ヨネちゃんもこんな奴に教えてやる必要なかったんやぞ。おい聞いてるか?かー坊よ、お前さんは盗むって技を覚えろ」
米田教師は、膝の上にノートを広げて集中してはそれと睨み合っている上川をミラー越しに見ると、敷島に答えた。
「爺さん、それくらいにしてやってくださいよ。彼ももう一人前に知識持ってますよ?あとは講習会を受けて、そんで手帳を交付さえすりゃこっちのもんだ」
「玉貼り3年、星掛け5年。ケッ!若ぇのは楽に資格なんぞ取りたがるもんだ。ワシが取ったのなんぞ手伝いで弟子入りしてから10年はかかったぞ」
「時代が変わったんですよ。それに花火師ってやつはどこも家柄代々ってのが相場だ。だから新進気鋭の若手でいいじゃないですか」
「ちょろっと花火職人の日常に付き合わせただけだぞ?」
「これから、ですよ?自分も教えますんでそこんとこお願いしますよ。彼だって本気だ。それくらいは分かりますよね?」
「言われんでもな。だからそっちの煙火業者に名前だけ入れてもらってるしな」
煙火業者とは花火職人たちの大まかな業界用語である。形としては会社のようなものだが実際は花火師がいてその補助作業員やプロデューサーがいる仕組みだ。米田教師の言葉通りその仕事は全国的に見ても代々家業としてやっている組合がほとんどであり、上川のような一般人としての講習会には参加できないようになっている。故に米田教師を通して彼の所属する煙火業者の組合に加入させてもらうという形をとって今に至る。
「まぁ何かしら出会いもあるでしょうし、彼にはいい経験にもなりますよ」
「そいやヨネちゃんの講習会も今日で被ったんだよな?場所は同じか?」
「同じですよ。初めて聴講する人たちは多分受講室が違ったって聞いてるんで、彼とは別々ですけどね」
「おい!かー坊!お前さんちゃんと聞いてこいよ!」
初めて顔を上げた上川が暗記するように頭の中で整理すると敷島に返した。
「もちろんすよ!っていうかちょっとは静かにしてください。あとちょいで取締法のテキスト終わりそうなんすから」
顔を見合わした敷島と米田教師はニヤリとした。引っ越して来てからというもの上川のマイペースぶりには慣れたものだが、その心意気は誰しもが買っていた。それほどまでにかの青年が本気だということだからであろう。こうして、3人の乗った軽トラックは、町から随分と離れ、煙火協会の講習会へと走り去っていくのであった。

中編『期限切れの手帳』~1年前~
「だいたいは覚えれたか?」
駐車場で、先に行った米田教師の後ろ姿を眺めながら、ふたりきりになった車内で敷島がそう呟く。
「なんとか。そういや煙火協会で講習会は受けるくせに、どうして火薬類保安協会の方は受けにいかなかったんですか?米田先生もあまりそれ言ってくださらんかったんで」
上川が教材をバッグにしまいながらそう問う。
「うーん。あっちは元々国の経済産業省所管の奴らだからな。火薬の取り扱いを説明して試験を受けたら国家資格として、そういう類の責任者にはなれんだが…」
「だが…?」
「まぁなんせあっちで資格取ったところで花火を打ち上げられるわけじゃないんだわ」
「けど、今日受けにいく講習会だって民間の業者が主体の法人ですよね…?」
「国よりも民間企業の方が今は実権がデケェんだ。お国さんから派遣される責任者が花火大会に来たところで打ち上げ花火を作ってプロデュースして夏の絵にすんのは結局ワシらだからな」
納得したように頷く上川はふとそこで、今まで聞いてこなかったある疑問を口にした。
「…そういや爺さんて…12年も行方不明って扱いっすよね?」
「だったら何だ?そうでもなけりゃこんな面倒な変装してこないぞ。マスクってのは嫌いなんだよな」
「爺さんが手帳所持者ってのは知ってますけど、火薬なんか扱えないじゃないすか…?一発で爺さんが花火作ってんのバレて行方不明もパァっすよ」
「縁起でもないこと言うな。ほら、これだろ?」
敷島はどこからともなくその手帳を上川に見せつけた。黒色で彼特有の物扱いの悪さが目立つようなボロボロのそれは、言わば花火師としての立派な証だ。
「煙火消費保安手帳…まぁ名前なんてくだらんが、これはそれこそ銃刀法の唯一の抜け駆け切符みたいなもんだ」
「それこそ縁起でもないですよ」
「それにワシはヨネちゃんの名義で打ち上げ花火を作っている」
「立派すぎるほどの詐欺ですね」
「奴も了承の上だよ」
「捕まりますよ?」
「お前さんが言いふらさなけりゃな」
「脅しですか…」
「たわけ。そんなもんにいちいち気にしてたら花火職人なんかやってらんねぇよ」
「けど…いつか捕まりますよ。爺さんはもうこの世にはいない扱いじゃないすか。旭婆さんとか言う奥さんも、爺さんが生きてるなんて知りもしないはず、です」
「かー坊。これだけは覚えとけ」
「なんですか」
「他人の家族事情には口を出さない方がいい」
「…なんか、すみません」
敷島の声音が低くなったような気がした。スイッチが入ったかのように黙り込んだ老人に、上川は準備を終えるとドアを開けようとした、が、敷島がそれを止めた。
「行方不明だとか、詐欺詐称だとかよりもな、よっぽど花火職人には大事なことがある」
「…充分それだけで犯罪ですけどね」
「結局は意志を曲げずに貫くのが一番ってわけだ」
「はあ…」
「中途半端な出来心で玉打ち上げてんじゃねぇ!!ってことよ」
唐突に出た怒声に上川はスッと肩をすくめる。ビビったわけじゃ、ない。
「…それは」
「お前さんが今から行く道はな、曖昧な決断じゃ通用しない道だ。そんな気持ちで打ち上げられた花火を誰も美しいとは言わねぇよ!誰かがいるからってのはこれまでの考えだと思え」
上川は言葉に詰まっていた。まるで自分の何かを見透かされたかのように、敷島の言葉は痛いほど自分の弱いところを突いてくる。たった数週間しかいない仲なのに、どこまでこの老人の目は鋭いのだろうか。上川は、やはり黙っていたが、それでも頷きはした。それが最もな意見であり、確かなことである事は、否定できなかったからだ。
「ほら、もう行け。講習会始まんぞ」
敷島の言葉に動かされるように上川は彼の後ろ姿を見て、はいと勢いよく言うと、すぐにドアを開けて出て行ったのであった。

後編『出会いというもの』~1年前~
講習会は3時間もの間続いた。上川は知り合いもいない受講室でひとり席に座っては講義に聞き入り、それまで学んできたことと当てはめては繰り返し覚えることに専念していた。大学にあるような大きな講義室のような広さの中には、上川と同年代くらいの若者たちがメモ帳を片手に必死になって役員の説明やら法令に関する知識を走り書きさせていて、まだ花火業者として半人前な若人のみが集められているようだ。上川は周りの集中力に負けず劣らずと必死にそれを書き留めたのであった。
「いやぁバテちまうよなぁ〜」
「…え、俺?」
長きに渡る講習会を終え、拘束から解放された新人たちは各々の落ち着く場所へと移動していった。こんなに集中した講習会なんてものは上川にとっても初めてであり、そんな中でゆっくりと座る姿勢を崩した瞬間にかけられたふいの言葉に少々上ずった声で反応してしまったのであった。
「そうだよ!ひとりで話してる奴がいるかよぉ。お互い花火職人の卵だけど頑張ろうぜ!あ、いや俺もさっきまでここで受けてたからよ」
「あ、ああ、全然気づかなかったよ。よろしく、俺は…上川だ、今年で19」
話しかけてきたのは妙に派手な男だった。もちろんここに集められたのはほとんどが若人なわけで、彼も実際上川と同年代くらいの若者のようだ。
「二ヒヒ、よろしくな上川…か、うーんとな、かー、かー…かみさん、ってのはどうだ?」
「お、おう。全然かまわんよ」
「よし!俺は青木だ!そんで、あっこから眺めてきてるスキンの奴が篠原、あと篠原の横でスマホばっかいじってんのが野村。あいつはあまり喋らんけ、そこんとこは察してくれ。みんな同い年やな」
人の見分けなどあまり得意でない上川はどうもと顔だけ下げながら、チャラチャラしたこの青木って奴の首元に、名前通り青い木の刺青がしてあるのを発見し、それを勝手ながら印にしておくことにした。ついでに言うと眺め続けてくる妙に変な篠原とかいうスキン男はいかつい目をしているくせにどこか会話下手なようでこっちにやって来やしない。そんでもってスマホから目を離さない野村は…印象がわかりやすいので放っておくことにしよう。やたら髪も長く、多分前から見たら目が隠れて見えないやつだ。そんなことはともかく、
「よく知ってるんだな…えと、青木?はどこから?あのふたりも一緒とか?」
チリチリ頭の短髪刺青男、青木は鼻をくすぐりながら言った。
「ああ幼馴染とかいうやつだしな、女がいないのが残念ってとこだが…。俺らは伊場島の方からや!かみさん知っとるけ?」
「ああ!知ってるも何も伊場島市の花火はガキの頃よく行ってたよ〜。まぁうちの町に花火が無いってのが理由だったんやけどな?」
「そいつは難儀だな〜。あ、そうか!それで煙火協会に入ったっちゅうわけやな?」
「まぁ…そうなるな。町自体が花火が禁忌ってのもあってよ。これが苦労する町でな…」
苦笑する上川に青木は鼻をくすぐりながらへぇっと笑い返してくれた。見た目に反して意外と気の合いそうな男だ。というか話す前に鼻をくすぐるのは多分癖だろう。またひとつ3人の見分け方を見つけた上川はなんとなく調子付いてきたせいか青木と共にスキン男の篠原とスマホ男の野村も呼んで4人でその日の講習会の実技に挑んだのであった。そこから始まる物語は上川にとっても、そして、この3人組にとっても、予期せぬ道への一歩となったのであった。

七十四章
前編『静かなる兄弟』~現代~
「ど阿呆が。ここは都会じゃねぇんだ。金じゃなくて身分ってやつが物を言う世界だ。てめぇもわかってんだろ?」
長身の金髪青年が取り巻きを並べて隣町から帰って来たばかりの高校生にいつもの如く金を巻き上げ終えると歳上もお構い無しに灸を据えた。後ろの方では大石を中心に不良どもと関係を持つ女子中学生たちがクスクス笑いながらその高校生を眺めていた。珍しくあまり面白くもなさそうに見続ける大石に野暮だと察したのか、恋人であるリーダーの金髪青年がしばらくしてから舌打ちだけ残すと周りを解散させた。中学生と言えど、その野蛮な暴走力は計り知れない。彼らはまたその上の高校や大学にもいかない連中でさえも同等に立ち向かい、果ては冬月という顔も見たことのない強大な権力者の支配下に置かれている。彼の名前さえ出せば正直なところ町交番の面々ですら眉間にしわを寄せるものだ。安寧と停滞のこの町では山々に囲まれたせいで町民はその広大な敷地を狭窄した小さな村だと勘違いしている。町を統べるあざみ野や遥かに北に位置する人里離れのよだか野、あざみ野から南に行けば田園風景の広がるいわみ野がある。人の行き交いが無いだけで山々の向こうには名も知れない村々がこの町の一部としてひっそりと生き潜んでいる。そんなのは知ってるだけで誰も口にはしないが、この町は大袈裟すぎる程に漠然とした広大な敷地を持っている。だからこそ金じゃ成り立たない世界では人知れず暴力すら横行してしまう。そんな道外れの駆け出しが今を生きる彼ら若者たちだ。
「おい、どこ行くんだ」
適当にグダッて解散した連中の居なくなった静かな夏の交差点で、金髪青年が彼とは反対方向に歩き始めた大石に声をかける。時折、こういう気分になる大石に、金髪青年はタバコを一本取り出しながら言った。
「なんか言いたいことあんなら言えや」
相変わらず愛想のない喋り方がまぁなんというか逆に安心できるのだが、大石は何も答えずにその場から何を言うわけでもなく歩いて去っていった。
「…」
誰もいなくなった交差点から歩いて小夜川を越えた金髪青年は、ふと緑豊かな青田が広がる稲の根元に、1匹の猫を見つけた。誰かが放し飼いでもしているのか、呑気な様子でその猫は金髪青年を見つけると、足元にすり寄って来る。蝉の音が少しだけ休まる正午。試験日だった為に早く学校を出て来た金髪青年は仲間との解散後にどこか暇を持て余していた。知りもしない間に様々なことが自分を越えて進んでいて、けれどむやみやたらに怒りをぶちまけるのもどこか身勝手で。けれど猫を見ているとそんな事がどうでもよくなるほどにこの町は平和だと思えてくる。金髪青年は誰もいないことを確認してから吸っていたタバコを猫には気づかれないように水田に投げると、猫の前に座り込んだ。
「俺たちは…何と戦ってんだろうな」
猫は金髪青年を目の端で少しだけ見つめるとゆっくりその腕に尻尾を巻きつけてくる。所詮は聞いてもいない相手だから金髪青年は溢れるように口から吐いた。
「面倒な奴がいんだよ、花形っていう1匹もんがな。…だいぶ前は、まぁそうでもなかったんだけどよ…。これがちょっとした喧嘩でさ。俺の彼女はこのこと知らねーけど、実はその彼女の取り合いだったんだ。視界が真っ白になるほど殴り合ったけどよ、結局俺は負けてた。あいつの左アッパーは狂気じみるど強くてな、けんどあいつ…わざと俺に譲ったんだ」
そんな事言ったところで猫なんてものが真面目に聞いているわけでもなく、金髪青年がかいたあぐらの上で伸び伸びと寝始めた。そりゃそうだと呆れ気味に笑った金髪青年は、その頭を少しだけ撫でると、自らもゆっくりと空を見上げた。徐々に蝉たちが鳴き始めている。どこまでも深く青い空がその遙先をゆく入道雲とやらと混じり合うことなく天空を支配していた。じんめりと暑い夏の田園に時折風がそよぎ、金髪青年はふと目を閉じようとした…その時だった。
「うわ、人が寝転んでるよ?!」
「夏バテですか!ちょ、早く水を」
こっちに向かっていつの間にか歩いて来ていたふたりの男女がこちらを見て叫びだしたのである。確かにこんなところで寝転んでいたらバテたと思われても仕方ない。金髪青年はしまったとばかりにガバッと起き上がると猫の首を掴んでとっさにどこかへ逃げようとした。不良グループのリーダーともなる人間がこんなところでいると不快に思う町民も少なくない。そんなこと鼻からわかっていたリーダー当人は男女のふたりを一瞥すると猫の首根っこを掴んだまま立ち去ろうとした、が…そんな事は…できなかった。だから、思わず口にしてしまった。
「おい、こんなところで何してるんや。女と仲ようやってよ」
「どうしていわみ野に来た…?」
金髪青年の問いに男女2人組の男の方がそう聞き返していた。そこに立つ男女は手足が泥だらけの夏菜子と、彼女を連れて帰っているであろう関根だった。夏菜子の親が営む桃園民宿舎ではお手伝いとして働く関根がその子たちの世話も行なっている。たとえそれが少し歳上の夏菜子だったとしてもだ。故に2人は別段恋人というわけでもなく連れ添っていたわけだが、恋人のような発言をした金髪青年に対しニヤニヤした表情となる夏菜子は、その言葉を口にした金髪青年の正体に気づき思わずそれを口にした。
「あいやぁ、そう言うのもありかなぁ〜って…え…うそ!?ちょ!い、いじめっ子のリーダー…!しかもうちの…弟の…」
思わず関根の背に隠れた夏菜子は頭半分だけをだして金髪青年を伺っている。
「あぁ、あんた孝大の姉さんか…。いつもよろしゅうなっとりますわ」
嫌みたらしくそう口にする金髪青年に、関根は普段は見せないほどの真剣な眼差しで怒りを隠すように彼に言い放った。
「ここはお前の来るとこやない」
「え、関根くん?もしかして知り合い?」
当然の如く問う隠れ気味の夏菜子に、関根は彼女に目も合わせず、ただ金髪青年だけを睨みながらそれを口にした。
「この町唯一の肉親…俺の、弟です」
唇を噛みそうなほどに歯切れの悪い口調で呟かれたその言葉に、舌打ちをする金髪青年は、手で口を隠す夏菜子は、黙って、ただ関根と同じように黙って互いを見つめ合うのであった。

後編『近く狂気は』~5年前~
あざみ野からいわみ野へ道にもなる垣根通りでは、店を開けだした町民が水を道々にかけ始めていた。ちょっとは足元が涼しくなるのだろうが、すぐに乾くだろう。夏とは、そういう季節だった。
「ねえ、何度言ったらわかるの?どうして保護者会でお母さんがモンペなんて言われなきゃいけないのよ?誰がそんな嘘を吐かせたの?」
大石は母の握る自分の肩が、痛くてたまらなかった。爪を立て、震えるように、それは大石自身の重圧となってのしかかってくる。
「ごめんなさい。多分孝大が…」
「また孝大くん?あの旅館の息子…」
「でも多分違う!誰だかわからないのよ、きっと」
「嘘をつくなと言ったでしょ!?」
「ひっ…」
がっしりと握り締められた肩をすくめる大石を尚も圧倒しようとする母は、豹変したかのように大石を睨みつけた。命の危険だと、瞬時に理解する。
「か、母さん…やめてよ、い、痛い!」
大石のか細い声が喉から僅かに出る。怒りに満たされるようにして母の顔は、実に恐ろしく悍ましいものだった。
「あなたを放すわけないじゃない。手放すわけないじゃないっ!お父さんと約束したのよ!?なんでいつもこうなるのよ!?どうして私だけ!!」
双極性感情障害。母が医師からの診断も認めないのが何よりの証拠だと、近所の人が言っていたのを、大石は思い出していた。
「やめてよ…お母さん…んぐ」
「ええそんな言い訳聞きませんよ?!いつだって誰だってそうして私のことばかり責めて全部投げつけてくるのよ!あんたがここに住めてる理由分かっているの?!わかっていないのに勝手ばっかほざかないでよ!!」
今日は薬飲んでないんだ、と大石は暗闇の中で気づく。これまで母は娘に隠しきれているつもりなのか、こっそり精神作用剤を何種類か服用している。お母さん…気づいて。
「私だってもううんざりなのよ!町内会のじじいばばあやら、学校のクソ親や先生たちに愛想笑いされて!影で可哀想にとか思われてさ!?口伝いに変な噂まで広がってさ!!ああああもう皆んなあんたのせいなのよ!!こんな娘っ…こんな!娘なんか!!」
その先は、言ってはならない一言なのだろう。多分、もう親子として、家族として、すべてが否定される最初で最後の言葉になるのだろう。そう確信できた。大石にはそう理解できた。だから、もう叫ぶしかなかった。
「私は!!お母さん愛してるよ!!!」
嘘でも言うしかなかった。これまで通り。そう…これまでのように。
「…ゃ…」
それまで天井を仰いで目を見開いて叫び続けていた母は急に静まり返ると、大石の言葉に荒い息だけを残してその場に崩れ落ちた。大石はその時、視界の端で、窓際の外から大きなショベルを持った手がその場を去る瞬間を見逃さなかった。安全だと確認したのか、そいつはどうやら帰ったらしい。崩れ落ちた母が娘をなだめるように瞳を潤ませながらそれを口にする。
「や…やだぁ…わか、わかってるじゃないの…」
大石は必死で口に力を込める。思わず、嘔吐しそうだった。いや胃酸じみた苦酸っぱいものは今にも床にぶちまけそうだ。これが…親というものなのだろうか。胸の何かが悲鳴を起こして痛みを訴えている。神経を逆撫でされたように、大石は震えるのを堪えた。
「ご、ごめんなさい…ね?」
その母の言葉に、手のひらに血豆ができるほど、大石は両手を静かに握り締めた。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ…。けれど、いつものように、言うしかない。
「だからお母さん…娘なんて産むんじゃなかったなんて…言わないで…ね?」
「ええ言うわけないじゃないの」
先ほどまで瞳孔が散大していた母の顔が気味が悪いほどに整えられた笑顔へと変わっていく。ああ…死にたい。いや…むしろ。
「お母さん…ごめんなさい」
「ううん、お母さんが悪いのよ」
先ほどまで千切れそうなほどに握り締めていた娘の肩を抱き寄せると、母は言った。
「愛してるわ」
………。
…狂ってる。

七十五章
前編『いつもの風景』~現代~
「で、見たの?あの女の子のやつ」
「そうさね、あまりに遠いもんでどうにも遠て手を振る事もなく帰ったんよ」
夏菜子が興味津々に畳の上を転がりながら旭のしわがれた声が楽しそうに茶屋を和ます。夏でも最も日照りのよい昼前のこの時間は休日ということもあってか、人通りも多く、ここ垣根通りは屋根のない商店街のように町民が商売を趣味程度にたしなんでいる。無論買い物に来る若者や休みだからと駆け回って遊ぶ子供たちも今日は一段と増しているようだ。陽気な休日の昼前にあって、夏菜子はいつもように茶屋に来ては旭とここのところの近況を楽しそうに喋り合っていた。短いデニムのショートパンツに何歳から着てるのかわからないような安いシャツは、夏菜子はそんな格好がどこか彼女らしくて町民からも親しまれている。
「手を振る女の子かぁ…まるで都市伝説だね!みんな知ってるし、あ、都市ではないか」
「そうさねぇ…今年になってからも見つけよる人も増えよったわ」
「あれ、旭婆ちゃん、そのお薬は?」
会話の途中にふと夏菜子が見つけた棚の上の処方薬に旭は若干真顔になって説明をしようとするも、口が動かずなぜか黙ってしまう。それが余計な心配になったのか夏菜子が言わないの?とばかりにどこか不安げな表情をした、その時だった。
「ちわーす。あ、旭婆さん、と…えーと、夏菜子さん?でしたっけ」
ふいに茶屋の暖簾をくぐって入って来たのは上川だった。旭が安堵する中で夏菜子が疑問符を浮かべながら旭に聞いた。
「あれ、婆ちゃん、えと、この人は?」
すかさず上川が汗を拭きながら夏菜子に口を開く。
「あ、すみません自分上川って言います。去年からこの町で旭婆さんとかにお世話になってるもんで」
夏菜子はじんわりとした頭痛を覚える。いや、なんだろ…夏になってから、そんな事が前にもあったような。それ以前に…この人どこかで見たことがある…えと、どこだっけな。
「上川くん、ね!…よろしく!私は夏菜子でいいよ!えと、もしかして歳上だったり、するのかな」
笑いまじりに言うその笑くぼの顔が、どこか懐かしいのか、上川は言葉に詰まっていた。いや、冷静を保つ方もこの1年で鍛えられたといったら過言ではないが、それでもかつてのシケイド団であった、そして親しき友でもあった彼女をまっすぐに見る事ができないせいか、どこか目を泳がせてしまう。本当に覚えていない事が、嘘のように夏菜子は人懐っこく、まるで前からいたかのように話しかけて来る。返事がたどたどしくなりそうで怖い。嬉しさと懐かしさの波がどこからともなく押し寄せて来て、上川は下手くそに笑い返してしまっていた。
「何言ってんすか自分は歳下ですよ、夏菜子さんのことは旭婆さんから聞いとります!よろしくお願いします。旭婆さん、すんませんが今日は預けに来たもんがあって」
「そうだ」
「「?」」
上川が旭に封筒を渡そうと思った刹那、これまで持病がバレなかったことに安堵していた旭がふと思い出したかのように上川と夏菜子に言った。
「ふたりに手伝ってもらいとうもんがあんべさ」
「「…え?」」
炎天下の夏真っ只中。蝉も鳴き始めるうるさいこの垣根通りの一角で、旭のいたずらっぽい顔が、やけに2人の背筋を凍らすのであった。

後編『頼まれ事と頼み事』~現代~
「な、何の間違いだ…くそぉぉ!!」
旭に笑われながら上川は今しがたこけたばかりの泥の中で悲嘆にくれていた。横では汗まみれになりながら夏菜子もこっちを見て笑っている。
「畑仕事なら‪田園派遣なんか雇ってたんじゃないんすか…!‬」
対する夏菜子は慣れた手つきで泥に何やら手探りで突いたりしている。それ仕事か?
「上川くんも夏菜子ちゃんも若こうしちょんのに宝の持ち腐れさね。田園派遣の子も今日はお休み」
「だからってこんな天気のいい日に畑仕事って!!」
「まぁまぁ上川くんも元気出して、これも筋トレとか思えば男になれるっしょ!」
どこからそんなやる気が湧いているのか、夏菜子が鍬を上川に振りかざしながら元気にそう返して来る。あぶねぇよ!
「あ、暑い…バテる…いや死ぬ…!」
垣根通りの裏にある田園風景広がる青々とした世界でトンボが飛び去っていく中、上川は夏菜子の言葉に気圧されながら意地で体を貼り続けた。炎天下の割に人の賑わいがあるせいか、茶屋に寄りに来た知り合いたちが各々に育ちのいい野菜やら果物やらどこから取ったかわからないような魚なんかを独自の調理で食い物にして持って来てくださる。中には久々に氷屋をやり出したとか言うオカマなんかが上川たちにカキ氷をこしらえたりしてくれた。それは氷屋の仕事ではないような気もするが特に気にしないでおこう。
「ところでさ、用事とかって上川くん言ってなかった?婆ちゃんに」
疲弊しきった足を小さな川に浸しながら休める夏菜子は顔を洗い終えた上川に言った。鍛えられてる身体といえど田舎の生活にいまだ慣れてないところがあるのか、やたら疲れた表情の上川はその言葉にあぁと何かを思い出していた。夏菜子が何か歌を鼻で歌いながら足をバタバタするせいで水がこっちまで飛んでくる。この町の水はそのすべてが町を覆う山々や川の源泉などから溢れ出す湧き水でできている。故に漁業も盛んで民家でも透き通った湧き水を小川として家の前に引くことで集落の中をめぐる水路として使っている。上川も何度かその源泉にあった水と町に降りて使われている水を比較したことがあったが何ら変化はなかった。この町でも特有の川端(かばた)という生活用水のシステムらしい。水の文化も美しい田園風景も、意外と知らないだけで地域住民のひたむきな努力があるようだ。
「そんなことはどうでもよくてだな!」
「うん?上川くんどしたの?」
いきなり解説にツッコミを入れた上川にまったくもって理解のできていない夏菜子が疑問符を浮かべている。
「旭婆さんどこすかね?」
「川端で洗い物してなかったけ?ほら八百屋さんたちが茶葉の件で納税組合員の人らとどっか行っちゃって以来さ」
「ありがとうございます!ちょい行って来ますわ」
「あいあい、私も連絡してたから迎えが来ると思うし、先帰ってるって伝えといて、今日の分はもうやり終えてるし…あ!来た来た!」
泥まみれの夏菜子が笑顔で向こうから来る若い青年に手を振っている。ああ、あれが迎えか。上川は少しだけ関根くんと呼ばれた青年にお辞儀だけすると旭のもとへと去って行った。
「旭婆さん、もう仕事終わったんで夏菜子さんら帰りはりましたよ」
「そうかい、あの兄ちゃんが迎えに来たんやろうね」
「関根くんとかって呼んでましたけどね」
小さな鯉が時折流れて行く透き通った小川の中で食器の手入れをしている旭が夕暮れ前の陽に背を照らし、こちらを向かずにそれをくちにする。
「覚えてるんさね?」
言葉にはできない何かが旭から語られ、上川はその背を眺めながら答えた。
「…はい。夏菜子…ちゃんも、あんなに大きくなった関根さんのお子さんも…」
「よう我慢したの。あの子らは何も思い出せまい。人ならざるものによってその時間が消されている。ましてやこの町で生きていくという代償すら優しく感じるほどに…、あなたたちには、頭が上がらないんよ」
旭の言葉は重く、そして寂しそうだった。上川は…もう何も、それ以上の過去を口にはせず、未来を口にした。
「俺は、終わったなんて思っとりませんよ旭婆さん。13年前の惨劇にはまだ…影が憑いてまわっている」
「…」
「けんどね、けんどですよ」
と上川は声を少し荒げて、前を向いて語った。
「俺たちは進みます。絶対に!」
後ろを振り返る旭は、目の前に差し出された一枚の紙を目にする。上川の手にするその紙には。
「これは、その第一歩です」
上川の口にする言葉通りの文字が、そこにあったのだった。
「打ち上げ…花火」

七十六章『男を子に持つ三夫婦』~14年前~
「かーくん遅いよ!」
「ちょ待てって裕翔!岡くんだって早すぎんだよ!」
「2人ともおせーんだよ!」
「「言ったなぁ!」」
岡本に続くように裕翔と上川の3人が陽炎をはねのけるかのように走って行く。裕翔がまた変なおもちゃを改造したようで暴走が止まらなくなったおもちゃの車を3人で追いかけている。多分、いつものように裕翔がまた機械いじりでソーラーパネル式に走る変なものを作ったせいだろう。蝉時雨の止まぬ山々に囲まれたいわみ野のはずれにある、仁乃神社近くで遊ぶ3人の子供を眺めながら、それぞれ親たちはそれとは別の話をしていた。
「男は外で遊ばせときゃ勝手に成長してやがる」
気だるげにそう言うかーくんの父こと上川は、そんなことを言いながらも、出張の仕事から久々に帰って見る子供たちに、どこか楽しそうだ。その横顔を見ながら、いわみ野高校の美人教師にして幼き上川の母がニヒヒと笑っていた。確かにそうだと呟くのは裕翔の父である高雄、そしてお盆にカランコロンと氷を転がせながら冷えた6人分のお茶をのせて来た妻の利根を手伝うようにして、岡本夫婦はどこか場所を空けるように縁側に座っていた。ふと岡本の母が口を開く。
「こんな時期に、自分たちまで呼んでもらってすみません。息子までお世話になって本当に」
「いいのいいの!元気な奴ら同士でいるのもいいじゃない。裕翔だって関根くんと上川くんが来るってわかった途端もうアレだからね」
はしゃぎまわるガキどもを指差す利根がどことなく寂しそうな表情をしたことに、上川教師は見逃しはしていなかったものの、やはりと言っていいのか、三夫婦はしばらく間を空けていた。なんとなく言いたいことはわかっている。元よりこの町で代を重ねて生きてきた裕翔の家や上川家と違い、岡本家は数年前に引っ越してきた家族だ。自然と町の中に溶け込むこうした移住民は少なくなく、差別的な表現を除けば移住民は少なくとも新しい町興しの流れにもなっている。だが問題があることも事実だった。
「ここんとこは、こういう機会も作りづらくなってきおるからなぁ。町内会は何やってんだよ」
上川の父の言葉に、周りが言わんとしている気持ちをため息で流す。確かに、否定はできなかった。これといった原因があったわけじゃない。モヤモヤした何かから始まったのかすらわからない。けれど、明らかに町の中には、
「できはじめてますよね…」
利根の言葉に、他の五人が静かに頷く。
「岡本さんも、ホンマすまんなぁ。どないしてこうなってゆくもんか…」
上川の呟きに、隅の方で岡本夫妻が首を横にふる。どんなに人類平等と国が言えど、綻びはどことなく存在する。百も承知だ。
「昔からどことなくあったんだよな、元からここに住む連中と、外から来た奴ら同士の差別ってのはよ」
高雄は苦い顔をする。岡本夫妻を前にして言うのを少しためらっていたのだろう。そんな気遣いが夫妻にとっては心からの感謝でもあった。
「藤原一族は…?」
利根の言葉に、誰もが顔を上げる。そうだ、彼らなら。
「そうね〜、あんましあの一家に迷惑を預けるのも気がひけるけど…今はそんなことも言ってられないわね」
上川教師の返事が波を打ち、岡本夫妻が何のことかもわからない様子をするも、他の4人は納得するように頷きあった。
「そうだな!藤原さんたちに話を少し聞きに行くだけでもいいかもしれねぇ」
高雄の言葉に疑問を唱えるように岡本夫妻が口を開く。
「あの、藤原?一族とは誰のことでしたっけ?…すみません、まだ町のことはわかってても、そういうことが知らないことだらけで…」
岡本の父の言葉に、高雄があぁと口を開く。
「すまんすまん、確かに移じゅ…この町の生まれじゃないと…藤原さんのような事とかは機密扱いみたいなもんだしな」
笑いながらそういう高雄にはぁと首をかしげる岡本夫妻に、上川教師がお茶を飲み干すと、それを口にした。
「話は長くなるんだけどね〜、とりあえずは、頼りになる家族がいるって事は覚えといたくださいね、産婆の旭さんみたいな感じ?」
屈託のない笑顔が特徴的な上川教師の無理矢理な言葉にとりあえず鵜呑みしておく岡本夫妻だった。だが後に、この謎の一族の存在が岡本夫妻たちのような移住民たちの、原住民に抗して決起する要因のひとつとなっていくことを、彼らは互いにまだ、知る由もない。
「いっそのこと、みんなで花火でも打ち上げりゃ、な」
上川が、うちわを仰ぎながら夏空を見上げつつそう呟く。呼応するかのように横に座ってはしゃぐガキどもを眺めながら高雄が、岡本の父の方を向いてそう返す。
「デケェもんをぶっ放そうと思えばひとりでに誰もが同じ夢になるもんだ」
蝉が鳴き続けている。気だるげな毎日もいつ止むのか分からない蝉の音を聞いていると、なにか無性に湧き上がってくるものがある。
「きっと、天を覆うんですよ。分け隔てなく、誰もが心に空いた穴を埋め合えるように」
何を意味して言ったのか、岡本の父の言葉は誰にも理解はできなかったが、だが、確かに夏の始まりを謳うには、何か、思わず頷いてしまうような、そんな、すっぽりとおさまるように閉じられた、3人の父の会話だった。

七十七章
前編『高校の夏』~14年前~
子供が大人へと変わる瞬間というのは、そう難しい頃合いではない。イレギュラーと呼ぶなら、ただ少しだけ、曖昧な時間がそこに介在するくらいだろう。
「潤、さっきの数学の板書うつさせてくれ。寝ちまっててさ」
「おい秋葉にしては珍しいな…。授業中で寝てるようじゃ裕翔みたいにアホになるぞ」
それは次第にゆっくりと解釈されていくものもあれば、唐突に思い知らされるものもある。時の流れ方は人それぞれというように、感情の起伏や、他者との距離をどう捉えるかは、彼ら若者たちの歳に託されることが、青春の根本的転機にもなる要なのだ。
「こら潤くん、一応は君の弟なんだから、裕翔くんだってちゃんと天才的な機械の知識あるじゃん?えーとなんだっけ、天才も馬鹿も髪なんちゃら?、てきな。ほらマキちゃんも何か言ってよー。」
「玲奈…こいつらに言っても駄目よ。アホにアホと言ったところでそんなこと理解すらできやしないんだから、それと軽くあんた侮辱してたでしょ。にしても潤くんだって秋葉なんかに教えられるほどの脳もないくせによく堂々としてられるなぁ?」
少し早めの夏休みを堪能し始めたガキたちと、子供たちの知らない場所で、町の問題に立ち向かおうとしていた大人たちとは別に、彼らとはまたひとつ世界を違えた、曖昧な世代の子らが、今日も変わらぬ日常を過ごしていた。
「ぐらぁ真希子てめぇ何つった!」
「へ、陸連1位の私のピッチに追いつけるかな!」
廊下へ飛び出して颯爽と駆けていく真希子を追いかけるように潤がこれもまたいつものように走り去って行く。取り残されたようにガヤガヤとした教室の中でありきたりのない会話が各々のグループで適当に交わされる中、ふたりを引き笑いで見送った玲奈と秋葉がその場でふと黙り込む。どこか忙しなく目を泳がせながら玲奈が何と口にしようかとモゴモゴしていると、秋葉が声音を抑え気味に玲奈へ口を開いた。
「そ、そういやぁよ」
「う、うん」
「ぇと…その、先週のアレ…急で悪かったな」
「ううん、大丈夫よ。秋葉くんからだし、ちょっと、びっくりはしたけど…」
「だよな」
「うん…」
ふたりのか細い声で交わされる会話が教室の騒音に包まれるように消えていく。先ほどまで真希子や潤がワイワイといつものくだらない会話で4人共々笑っていたのは笑っていたが、どうも今は、あまりそんな平静を保つのは難しい。口から後押しするように今度は玲奈が口を開いた。
「でも…さ。あの…その」
相手に悟られないためか、いや純粋にここまで育った玲奈のその顔は、地元の友達なら誰もが知る隠しきれていないソレだった。
「うん、わかってるよ」
秋葉が茶色い巻き毛を目元の上で直すと、玲奈にそう返した。いや、うん、わかってたんだよな?
「玲奈にも…好きな人がいるんだもんな」
弱々しくそう呟いた秋葉の瞳は元からなのか気のせいなのか少し潤んでいる。他の女子にはよく好かれているのに…何故…私なんかに。
「大丈夫だよ!駄目元だったからな。それに、僕は応援してるし」
秋葉の言葉に、不安げな顔をしていた玲奈が少しだけうんと頷いた。よほどふった事に罪悪感が残っていたのか、どこかその表情は、友達でいられる事に安堵しているようにも見えた。ただ、それ故に…そんな玲奈が、秋葉には遠くに感じてしまっているのであろう事を、真希子は薄々、廊下の向こう側でひとり立ち尽くしたまま、気づいていたのであった。

後編『忠告は生きている』~14年前~
蝉時雨の降りしきる夏の始まり。どこから沸いたのか、近隣のちびっこたちがいわみ野高校のグランドに散歩に入ってきてる。どこまでも広い田園風景の中に佇み、木材で建てられて長くもこの町の高校としてあり続けるその校舎の屋上で、ひとり寝転んでいた秋葉は、読んでいた本に栞を挟むと、ふいに口を開いた。
「いつまで見続けているんですか…。笑いたきゃどうぞご自由に」
その言葉と共に風が吹き、陽炎の戯れる屋上に、どこからともなく真希子が現れる。秋葉は目をつむったままやっぱりかとため息をすると大の字に寝そべった。真希子が少しだけ神妙な顔をして口を開く。
「敬語やめてよ。ここ学校だし…あっちじゃないんだから」
真希子の言葉がどこか寂しく漏れる。それを横目でチラッと見た秋葉は起き上がると言った。
「玲奈の…こと、ですか?」
「言わずもがな。秋葉、あなたの気持ちは…人間のものよ」
静かな風が屋上を通り過ぎる。真希子の口調は、いつものふざけたそれではなく、秋葉もどこか真希子を警戒するような姿勢だった。まるで、日常と分け隔てた世界に今、立っているかのように。
「恐れ入りますが真希子様…いいえー」
「ー真名を、誰が使えと?」
「はい…。ですが僕は…」
真希子のセーラー服が風でなびく中、秋葉の口が少しだけ開く。
「彼女が好きなんです」
「神仏混淆(しんぶつこんこう)と祀(まつ)られる君がね。…もう、昔話を忘れたの?」
あれほどうるさく鳴いていたはずの蝉の音がいつの間にか止んでいた。そこにある自然界の脅威に、恐れおののいたのか、あたりには漂う気配すら無い。秋葉が閉じた本を見つめながら口を開いた。
「あなたはどうなんですか…」
何か優勢の如く立ち振る舞っていた真希子が、ふいに眉をピクリと動かした。
「恐れ入りますが、我々は信仰の境を無くし共に人として生きる身。そう仰られたのはあなたのはずです」
仁王立ちの真希子がどこか別を見つめる。棚に上げるとはこの事か。
「人に為るとは、そういう事ではないのですか?」
畳み掛けるように発せられたその言葉が耳に痛かったのか、真希子は返す言葉も反論もなくその場に立ち尽くす。
「仁乃神社付近で人影様なるものを見たと町民が噂しています。…これ、あなたは気づいているんですよね…?」
真希子はそう言う秋葉の目を見ると、ためらうようにしながら言った。
「人影様とかいうのなら、随分と前から聞いてるじゃない。それにこの町の話だけじゃないってこともね。古くから世界中に突如現れる影ってだけ。だからどうしたのよ?」
「わかっておられるはずです。我々ほどじゃ…近づくことすらできやしない。この町で、何かが起きようとしている事も」
真希子は踵を返すと秋葉を通り過ごして歩いて去って行く。
「人の世は、事も無し。例え私に見えるものがあったとしても、人として、それはズルいでしょ?」
秋葉が悔しそうに下を俯くなか、いつしか風に乗って消えていた真希子の言葉が、屋上に残響だけを残すのだった。
「忠告は、生きているのよ」

七十八章
前編『終わりと始まり』~現代~
7月も中旬に差し掛かったある日、住民がお隣さんの家の中から聞こえる愉快な喧嘩に声を抑えながら笑っている。洗濯物を干す向こう側では今日も変わらぬ日常がそこにあった。
「これだって絶対回ってきたやつじゃん!信じない!」
「だぁぁ何回言ったらわかるんだよこれこそ中古じゃない新品中の新品!ノートパソコンだろ!いいから使ってみろよ!」
「それはこっちのセリフよ!だいたい毎回嘘ばっかついておきながら反省の色も無くまた変な安もんのノーパソ持ってきて!私の目が誤魔化せるわけないでしょ!?」
「警察の力なめんなよ!?どんだけの金叩いて買ってきてるとおもってんだ!」
「なーにが警察の力よ!大した仕事もこなしてない不良のお遊び人形が偉そうに!」
「だだ、だからアレはそういう連中ってだけだ!それになんかもう抗争とやらも終わったようで俺はすんなり駐在長に、って、ちょ!?こらっ!ノーパソ投げてくんなっ真央!」
相変わらずの光景が繰り広げられる中、真央は最近になってから何となく赤城の様子が変わったような気がしている事を考えていた。特別付き合いがいいわけではない。何なら田園派遣先の御宅の方がよっぽど気のいい人で仲もいい。だからというわけではないが、赤城に何があろうと勝手だし知った事ですらないはずなのだが、何となしに真央には違和感があった。いや多分気のせいだろう。そんな気がするってだけだ。
「ったく、わかったから、ノーパソじゃなくて本格的なのがいんだろうが。今度こそ持ってきてやるよ」
こう見えてこの警察官は自分が何をしているなどは特に話さない。不良連中との諍いだってついこの間知り合ったばかりの孝大という物優しい少年から聞いて初めて知ったくらいのものだった。
「わかってるのならいいのよ。ちゃんとしてよね〜駐在長さん?」
「難儀だよ俺…」
本当に、本当に、だからというわけじゃない。最近町民でもよく町内会とかで仕切る爺さん婆さんや大人たちが忙しなく赤城と何か密談をしている事も、大して気になることでも…、無い。きっとそうだ。
「おっさん。アンタいつまで警察なんかやってんの?」
「んあ?俺がか?」
「よく飽きないでやってられるよね」
「そらぁお前さん、警察ってのはそういう仕事だからだろ」
「どーゆうことよ」
「嫌な仕事でも引き受ける。誰かに嫌われてでも誰かを守る。そういうのが、使命ってもんだ」
「そういうもん?」
「ああ。そういうもんだ」
よくわからない世界だと思う一方で、少しだけそんな赤城を嫌いでもない自分がどこかにいることが、真央は楽しかった。
「それより、さっきモメてる時にピンポン鳴らなかったか?」
「そういえばインターホン鳴ってたような」
ふたりはいささか足早に廊下へ出るとすぐに玄関の向こうに立つ影を見つけ、すぐさま玄関のドアの前に立った。一人暮らしの真央のところに来る人間などこの町じゃ赤城かご近所さんくらいだろうけど、この男の影とは…?
「はーい、どちらさんですか?」
試しに声をかけた真央に、向こうの男は気がついたのかすみませんと言いつつ、野太い声でこう言った。
「ここは真央さんの御宅、ですよね?」
「え、うん、そうですけど…?」
「いや、そうじゃない…か」
「ん?」
男は少し間を開けると、それまで真央が予想にもしなかった名前を口にした。
「魔王、ですよね?君」
驚くようにドアを開けてしまった真央が、隠しきれぬ表情のままにそれを口にした。
「どこで…それを」
男は屈強な身体を隠すようにお辞儀をすると用件を淡々と口にするのであった。
「突然ですみませんね。自分は町内会で改革復興委員会という部署を設けております上川、と申します」
真央が立ち尽くす後ろで、赤城が苦い顔をする。…こいつ、なのか。
「そうじゃなくて、何でその名前を知ってるのってわたしはー」
「ーこの度は真央さんに、お願いがあって伺ったんです。それが」
「ー簡潔に言わないと…聞きませんから」
「…我が町内会には、住民に隠し続けている機密電子文書というものがあります。魔王さんには、その法的開示を目論む我々が、町内会において、バックに宗教を置くふたつの勢力を盾にして隠れ潜む、皇道会や町内会そのものの、法的保護の破棄および日本国政府への指揮権の委譲を誘発すべく、その原因として証拠の機密電子文書を、君にハッキングをしてもらいたいんだ」
「あなたは…一体何を言ってるの?」
「パンドラの箱を、開けて欲しいと言ってるんです」
それは、憎むも憎みきれぬふたりの日常に、終わりを告げる、最後通告だった。

後編『痛覚の残留世界へ』~13年前~
夕暮れが騒音の都市を闇へ誘う。人と生きとし生けるものの調和性が、まごう事無き己の無知を停滞させる。虚無が互いの愚かさに気づくこともなくその深淵へと戯れる時、神域から闇がほくそ笑むかの如くして、こちらを手招きするのだ。
「あぁ…とうとう察庁だった横山執行官も人事院を退官させられたらしいよ?」
暮れゆく都内の高層ビル群を背景に、黄金色に輝く街に反射して、照らされる室内に、2人の男がいた。
「鬼の公安部長様がねぇ。ま、そりゃそうだろ。聞くぶんにはなかなかの泥仕事を任されてたようだしな。公安の世界から足を踏み込んだらお先は真っ暗ってやつだ」
オフィスは閑散としていて所轄の刑事たちは出払っているようだった。ネクタイを少し緩めたオールバックの男が、まだ自分の席に座って残りの仕事をこなす同僚に声をかけた。
「俺ぁ今日はお先だ。お疲れさん」
何やらパソコンに対峙する生真面目そうな方の男はその声に反応すると、おうと手を挙げた。
「お疲れい。夜勤続きってキツイわ。警察に入ったのが運の尽きだろうけど」
「当たり前だ」
「今日は特に問題もないし、俺もこれさっさと済ませたら帰るよ」
「呼び出しは御免だぞ?」
「まかせろ」
「和久んとこと一杯やってくるよ」
「うぃーす」
オールバックの男が涼んだ顔で透明なガラス越しに去って行く。残された方は一度伸びを終えると、ふうと息をついてパソコンともう一度相対した。
「…とは言ったものの…」
そこに表示されたものは、この都市からは程遠い内陸部の町中でちょっとした違和感を感じさせる表記があったことだ。
「先月から駐在所の移動が連絡されてたはずなんだけどなぁ…」
1ヶ月前から、とある田舎町に、わずかではあったが、気にならない程度の異変があった。
「これさえ片付けられたら俺も帰れんのによぉ」
ぶつぶつと戯言を呟きつつ、男はキーボードに署内暗号を入力していきながら過去数週間のデータを検索する。だが、
「やっぱり無ぇ。どんな駐在所でも、週末には必ずこっちに連絡あるだろ常考」
そこにはあるはずの伝達事項が1ヶ月も前から途絶えているものだった。所在地は都市から最も遠くに離れた奥地であり、地図で探してもそこには町名すら記載されていない土地だ。というかそもそも、
「つかこんなとこに町って」
あったのか…?
「…ったく。来月から俺も中央鑑別所の管理官だってのに…あぁ安定の人事異動季節だってのによぉ」
目をこすると男はうーんと項垂れる。大して気にもしなかった、多分伝達の誤作動か向こうの駐在員のミスであろうものに目がいってしまったばかりに、なんだか無駄な時間を過ごしている気しかしない。
「電話電話っと」
その時、急に回線連絡の方から音が鳴ると、男はギョッとして、その電話を手に取る。
「はいこちら中央警察署刑事総務課」
向こうから焦ったような声が飛び交い、バラバラと騒音が鳴る中で一際大きな声の主がこちらに何かを言おうとしてた。
「あの〜すみません、聞き辛いんですが」
「こちらーー…市所ー山岳警備隊ーー上空ー近にてーー異常ーさーーを目視で視ー認。ーーえー要ーーもーむ。…」
それは聞くに耐えぬ雑音と何かを言おうとしている伝達事項だった。だが唐突に回線は切れ、辺りには非情な静けさが漂う。男は黙ると、眉間にしわを寄せた。
「逆探してるだけ俺が優秀だってこと忘れるなよヘリの兄ちゃん」
逆探知式の機材を打ち込みながら己の優越感に浸りつつ男が少しニヤける。どうも向こう側の騒音がヘリコプターからの連絡だと直感で認識した男は、ある人物に連絡をしまいと受話器を握るも、またも遮るようにして入ってきた回線連絡に驚く。
「ちょ、今度はなんだよ」
すると、今度はノイズの入らない普通の応答だった。だが、男が名乗る前に向こうは威風のある声音で、それを遮るように一方的な命令を出してきた。
「こちらーー」
「ーー中央警察署の署員だな。これは至急報だ」
「すみませんが名乗ってくださらないとそういうわけにもー」
「ーこれは…特一級の総監令だ」
男は受話器を片手にその場で立ち上がる。至急報…まさか、いや。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。ここは地方の警察署ですよ。一体何が」
「特使以外に通告する義務はない。今は警視庁の特機が現場へ向かっている。署長がそちらでは不在のため以下の手順で連絡させてもらった。話は以上だ。1時間後には特捜がそちらに臨時後援本部を建てる。貴様らは余計な荷物だけを片付けておけばいい」
プツっと切れた受話器をしばらく握ったままだった男はその場で静かに座り込む。
「ど、どいうことだ…?臨時本部?…警視庁って…。何がどうなってんだ…。しかも特別機動部隊まで動かして…って」
男は半ばパニックに途切れた受話器を見つめながら先ほどまでの連絡事項を反復して言葉にする。謎に途切れかけた山岳警備隊ヘリからの無線連絡。警視庁からの至急報。緊急指令とやらはマニュアルにはあるがこんな地方都市の警察署に勤めて未だかつてそんなことは聞いたことがない。
「いや…待て待て。そうだ、さっきのヘリの現在地すら分かればなんとかなる」
焦る男は資料をあさりながら逆探知から引っ張り出した地図をデータ化し、そのままパソコンに繋がるとそれを確認する。
「かなり奥地だな…。こんな所に警備隊のヘリが行ってるなんて聞いてねぇ。クソ、所轄ってのは知らないことが多すぎるぜ」
それは聞いたこともない山々の地形に囲まれた田園地帯のようだった。ただの茶畑にどうして…いや、
「もしかして…至急報ってのは、ここのことを言ってたのか?…」
名も無き集落の続くその町で、一体何が起きているのか、男には理解できなかった。どのみち警察の闇など知りたくもない性分のせいか、関わりたくない自分がいたわけだが、ことはそうもいかない。
「先輩に連絡するしかねぇ」
そう呟いた男は早急に警察無線用の番号に決められた数字を入力すると、すぐに受話器を耳に当てる。すると、しばらくして相手が出た。
「お疲れ様です赤城です。今休暇中でしたよね?申し訳ないんですが、至急報がかかりまして…はい、そうなんです。それでですね、山岳警備隊がヘリから連絡を先に送ってきてるんですけど、多分先月から連絡が途絶えてる地域なんですよ…あ、はいそこです。えと、今どこですか?…あぁもちろんキャリア組ですよアレは。ええ。…はいわかりました。地図にデータ化しているのでそちらで確認してみてください。…ええ。え、近くですか?…しかし現場入りはさすがに…あ、はい。わかりました!自分も向かいます。はい!屋上で整備の父っつあんが待ちくたびれてると思うんで…はい、了解です。すみませんお休みのところ…いえ。…はい…はい。一応確認とってみます。ああ…大丈夫です。それじゃあ、現場で」
赤城は受話器を置くと自身の荷物をざっと詰め込むと蒸し暑いオフィスの中を颯爽と駆け抜けていった。事件の真意を知らぬ彼らが出くわすものの正体に気がつくはずもなく、彼らは未知なる領域へと足を踏み込んでしまったのであった。国の警察すらも警戒して近づくことのできない、その町に。

七十九章
前編『沙織の事情』~現代~
学生演劇は色々と忙しい。高校演劇に比べて世界が広がることもあってか、幅の広い分野に分けられていく漠然とした何かに置いていかれそうだ。自由な想像力の世界だと言ってもそれを表現する者も、表現される者も様々な苦労も重ね重ねあるものだし、何せスポーツライクのような勝ち負けも期待できない。そもそも演劇の世界というものこそが、誰の目で決められるかもその会場によって異なるわけだし、神様にでも統一して欲しいものだと常々感じるものだ。
「それにしてもさお(沙織)久々よね〜。どう?他の大学生たちも集めての劇団旅行は?」
「そうですよ僕もそれは聴きたかったです」
久々に出会った高校演劇時代の名女優杉田先輩と名俳優わび助に質問攻めに、沙織はうーんと考え込むように下を向くとぽつりと呟いた。
「元彼さんに再開してしまいましてね」
ワーワーとテンションを上げるかつての先輩と後輩に囲まれながら沙織は旅する劇団当初の話から現在に至るまでを欠くことなく話していった。話をしていても何故か岡本のことが頭をよぎり、どことなく気持ちの中に入り込んでくる。どうしたもんだか。
「人間の日常はドラマティックな出来事の連続ではなく、静かで淡々とした時間が多くを占めるが、人間のそのものの存在が十分に劇的であり、驚きに満ちている」
車の行き交う都会の街を窓から眺めつつ、杉田先輩がストローに、口をつけてそう呟いた。
「ワークショップに参加してるんだけど、そこの先生がよくそうおっしゃるんだ…」
演劇は偶然に頼れる産物ではない。計算された演技が、繰り返しどこでも行えて当たり前なのだ。だけど感情は…。
「感情はどうなんだろうね」
久々に深く心が突き動かされる。沙織はどこかの男を思い浮かべながら、自分の選んだ道と、その存在への想いに決着をつけるために、もう一度足を踏み入れる覚悟を、密かに決意したのだった。

後編『岡本の事情』~現代~
「ちょっと!聞いてますか?」
えっ?と顔を上げた岡本の前に、珍しく化粧をして働いている春香と目が合う。あまりの至近距離で、やや挙動不振気味に一歩後ずさった岡本はいかにも平静を装うと、
「…聞いてるよ。で、何だ?アイツがどうしたって?」
「ほーらやっぱり聞いてないじゃないですか!急に告られた話でいいところだったのに〜」
「ああ?辞めた奴と遊んでるお前が悪いだろ。それより仕事中だろうが」
ランチメニューの盛り付けに勤しむ岡本の前でカウンター越しに春香がフフッと笑いながらお盆を抱えてテーブル席の片付けにまわっていく。意外と気の抜けない可愛さを持つ彼女の後ろ姿をふいに眺めながら岡本は少しばかり安堵する。勘の鋭い春香のことだから、バレずに済んだのが幸いだった。言うまでもなく岡本の考え事は、沙織に至る。
「中学の頃と変わり過ぎだろ…。高校で一体何があったんだよ。ま話には聞いたけどよ…やっぱ帰宅部やってた頃のアイツしか思いつけねぇ」
ひとりボソボソと呟く岡本は盛り付けを終えた料理を前に並べていくとオーダー表にチェックしてから前に出した。久々にバイトに戻ってはいるが…正直気持ちは元カノの事しか頭にない。恋愛感やら罪悪感やらがあるわけではないが、ちょっとばかし心残りが記憶の切れ端に焼き付いているせいで、なぜか忘れられずにいた。好きだったと言えば話はそれまでになるんだろうけど…やはり彼女は特別だ。自分を持っていないくせして周りへの思いやりは、本人も気づいてはいないが誰よりもあった。だから惹かれていたのかと問われれば否定はできない。
「まさか…よりによって男…?」
「何が男なんですか?」
「どわぁっ!!」
またも考え事に明け暮れていた岡本の目の前に春香の顔が現れる。今度こそ驚く岡本に、ナチュラルに化粧の施された彼女の妖艶な瞳が薄く笑う。
「な、何でもねぇ!」
「そんなムキにならならいでくださいよ?それより前から気になってたんですけど、岡本さんて来年うけるんですよね?」
「…うん?あぁ、国試?」
「そう、救急救命士の国家試験です」
救急救命士の国家試験は、年度末の春頃に開催される。年々法律の改正に伴いその制度はここ数年で静かに大きな変化を遂げていた。一般試験という、特殊な実習を重ねていない者でもその容量によっては受けることができるとされ、実質経済的負担を伴わない超実力主義の一般試験は岡本たちのような地方の人間にとっては大きな足掛かりになる。元よりそこそこの頭脳明晰で地元の高校でも名があった岡本からすればこれは他にないチャンスだった。この町の救急救命士だなんて、正直わかってもらえるはずもないが…。
「どうして岡本さんはこんなとこで試験対策なんかしてるんですか??もっと、こう、地方の都市でもいいから、街の方に出れば国試向けの学校とか、そうでなくても環境はまずここよりもいいはずじゃないんですか?」
春香のその言葉はもっともで、岡本は何と言ったらいいかと少し悩んでしまう。沙織にも確かに理由は言ったつもりだが正直わかってもらえてる気はしない。いやこっちの予想だが…。もとより理解してもらえることもない気でここまでやってきたわけだからどの道これまでの言い分は行動で答えられたらそれでいいわけで、素直なところ今は答える気もない。いや答えてもいいけど。
「そのうち話すよ。つかそんな事気にしてどうなんだよ。もっと若い奴らと流行にでも乗って楽しめばいいのに」
「そうもいかないですよ〜ここはそんな物とは無縁の世界なもので。何せ流行って言っても周りの子らってアレですよ?ほら、幼馴染てきな?実際の幼馴染なんてジャンル誰が嬉しいって思えるんですか」
笑うのをこらえるように話す春香の大きな瞳を若干避けながら岡本ははぁとため息をつく。
「ここはそういう町だ。けんどそれも味があるって俺は思うけどな?友達もご近所さんも家族みたいなのって外に出たらねーぞ普通」
「ああそう言えばですね」
「人の話聞けよ…」
「なんか一昨日あたり?にこんなポスターを貼ってくださーいって来られた人がいたんですよね。それも体格のいい男性で」
「体格のいい?どんなポスターだ?」
岡本はそのポスターの表紙に目が止まると、なぜかおや?と気づく。
「打ち上げ花火?」
「花火なんてこの町じゃ無い…というか聞いたことすら今まで無いような気がしますね…」
「その人は?」
「あぁ確か町内会のなんとかって。多分宣伝係てきな?」
「花火、ね」
「心当たりでも?」
「正直無い。けどなんか聞いたことがあるような、つかもっと前から知ってるような…」
「岡本さんたまにそういうのありますよね〜?厨二病ってやつですか?」
「いやガチだから」
「ひきますわぁ」
「ともかく…そのポスターは店ん中にでも貼っとけばいいだろ。チェーン店でもないし、店長もそういうのは自由だしな」
「はーい」
どこなく、それとなく、なんとなく、だが着実と何かが始まろうとしている。それに気づく者はおらず、けれど何かに怯えることもなく、蝉時雨降りしきるこの炎天下の夏をただ滲み出る汗の雫と共に、生きているのだろう。それでも誰かがふと願い始めていたその気持ちは、確かに誰かの鼓動を動かし、そしていつしか広く躍動していくように、それぞれがそれぞれの生きる世界で、何かを感じ取るようになっていたのであった。

八十章
前編『男の語る夢はいつの日も』~現代~
ーー関根兄を松岡や涼を通してしる裕翔
ーー男として2人は互いの夢を一つにする
ーーそんな馬鹿2人を眺めながら涼は悟る
ーー新たにお客さんが??裕翔が呼んだ

中編其の一『涼風舞う』~半年前~
夏の始まりは特に雨日和だ。当たり前のようだが梅雨の季節は蒸さ苦しい。だから水なんて気持ちいい程度の温度だと思っていた。いや、涼が実際にこの町の川の温度を知ったのは引っ越す手前の日に遡る。
「だいたい町は廻った…かな?」
この町に引っ越す目処がたった涼は、空き家としていわみ野に残っていたボロい木材式の一軒家の手入れをある程度自分で終わらすと、ひとり町の散策に出かけていた。町と言ってもここは田舎、広大に田園風景が広がり、山々も多く囲まれていてどれくらい面積があるかなど途方も無いように感じる。涼は春の心地よい風を浴びながら点々とあざみ野やいわみ野、果てはよだか野の手前まで歩き、少し疲れたので夏の新居へ向けて帰途についていた。
「まぁ風太にも説明できてるし、千佳姉たちもわかってくれる、か。つか風太のやつ、本当に引越しの手伝いに来るのかな…」
スポーツ特待生枠で入学した高校から卒業後、涼はそれまで秘密にしていたことを周りに告白した。それはこの町に住みたい、という単純な願いだった。サッカーが好きでわざわざ都市部の強豪校にまで引っ越して行けたのにと、周りは口々に言ったが、三人の姉たちや風太という元彼なんかは、しっかりとその話に耳を傾けてくれた。家族ってのはちょっとばかし他人とは思えないくらい繋がっていて、なんか言うだけ親不孝ならぬ姉不孝のような気がして少し嫌だった涼だったが、風太の押しもあってどうにか話すことができたのだった。別れた男とは言えど風太は中学からの幼馴染。今ではいい親友だ。そういう関係でいられたのもまた姉たちのおかげであるのだが、今はその話は別に置いておこう。
「にしても、もうすぐ梅雨かぁ。引っ越しが本格的になったら早く取り込まないと…うん?」
小夜川に繋がる別の浅い小川の河川敷を歩きながら、涼はふと遠目に立つ青年の後ろ姿を見つける。浅い小川の流れのない大石の上でバランスよく立ったままの彼は、川の中にある何かを見つめながらぼーっとしているようだった。というか、あの髪型…。
「ふう、た?…え、風太じゃん?」
服装はあまり見たことのないものだったが、確かにあれは風太の後ろ姿みたいだ。にしてもやたら風景に馴染んでるもんだ。
「つかもう来てたの…?!…よし、これは驚かすしかないっ…」
涼は思ったが否や、音もなく女子サッカー部で鍛えられた素早さで駆け出したのであった。

中編其の二『記憶の裏側』~半年前~
水飛沫が辺り構わず飛び散り、関根はドゥワッと自分でも理解不能な奇声をあげると綺麗に螺旋を描いて川に落ちたことに気がついた。一瞬、逆さまにびしょ濡れの世界とそこに佇む女性が瞳に映り、記憶する間も無く関根は澄み切った川の中で目を開いた。
「(何が起こったんだ?!)」
時は1時間前に遡る。関根が桃園民宿舎のお手伝いとしての仕事の休憩時に、どこからともなく現れた夏菜子の河川敷あたりに御守りを落としたという能天気な一言で、夏菜子と共に御守りの探索を強いられていたのであった。二手に分かれた関根は小川の岩辺で流れる川に何か御守りのような形をしたものを見つけていたのだが、どうにも深さの距離感がつかめず手を伸ばせずにいた。いや、正確には濡れるのが若干嫌だったという言い訳だ。だが、そんなこと御構い無しに関根は何者かに飛び蹴りを食らったのだろう。普通の人間とは思えないほどの気持ちいいくらいにぶっ飛んだ蹴りが綺麗に背中に入った関根はこれまた綺麗に川へ飛び込まざるをえなかったわけである。
「ゲボッゔっ、かな、夏菜子さん!!…」
浅瀬の小川であっただけに腰から上を出して服を搾り取りながらそう言う関根は、ふと上を見上げて絶句した。もちろんのこと、飛び蹴りをして来たであろう人物が夏菜子ではなく、自分のしらない童顔の美人だったからだ。
「「ええっ?!」」
双方ともに同じリアクションで動揺するなか、たった今飛び蹴りをしたであろう美女は何故かとびっきり間抜けな顔でこちらを見て驚いている。いや…いやいやいや。
「だ、誰ですか…?」
佇むワンピース姿の美女に関根は恐る恐る口を開く。もちろんのこと初対面だ。だが彼女も何を思ったかこっちを見て黙り込んでいる。こんな人は町で見たこともなかった。
「え…えーと、蹴り間違いですよね?!」
「…ぇ…は!…はぃ」
後押しされるように彼女が透き通った声で返事をする。間抜けすぎる。にしてもテクニカルな蹴りが今頃に背中を痛める。
「ぁだ…痛ぅ…」
「わぁ!!??人違いでした!ごめんなさい!!…えと、大丈夫ですか?びしょ濡れだぁ」
いやそりゃ川に落ちたからね…。関根は呆れ気味に笑いながら大丈夫ですと答える。なんというか、斬新な出会いだった。今でもそう覚えている。涼しい風が河川敷を通り、彼女は凛々しくも少し幼げな顔で笑いながら名乗った。
「涼って言います。よろしくっ、とにかく着替えないと!アザとかできないかな…」
そんな経緯もあり、関根は夏菜子の落し物を探索中に、引越しがてら町を散策中だった涼という美女に、人違いで飛び蹴りを入れられたのであった。以上が事の結末である。

中編其の三『忘却音』~現代~
「懐かしいね〜」
「つい数ヶ月前っすけどね」
蝉が鳴き、青々とした緑生い茂る河川敷を涼と関根は食べ終わった弁当を片付けながらお座敷の上でつぶやいていた。
「あの後すっかり忘れてたんですけどね、夏菜子さん御守り見つけて自分だけ帰ってたんですよ?どう思います??」
「それを忘れてる関根くんも悪い!」
日照りはさほど強くない今日はお出かけ日和だった。出かけるといってもこの町から外への外出公共機関などないものだから、獣道から涼の車でちょっとばかし隣町へ行くくらいになるのだがこれまた時間がかかるもので、そうともなれば近場の河川敷でピクニックとなった。ふたりらしい意見である。だがふたりは妙に今日は喋らない。出会いの場というものは少し口数も少なくなるのだろうか。
「なんかね、色々悩んでたんだ。私」
「あの時…ですか?」
「うん」
風がのどかに吹き、関根は片付けを終えるとふいに涼の顔を見た。ずっとなんて見られるわけないのだが、けれど魅入ってしまう。
「…関根くんは、さ。ただこの町に1日だけ思い出があるからって理由だけで引っ越してきた私のこと、変だと思ったでしょ?」
「そんなわけ…!そりゃ、住んでも面白い町とは言えないし、よっぽど大切な思い出だったんだろうなぁとかは考えましたけど」
「ありがと。でも…そう、よっぽど大切な、思い出だったんだ」
涼は川を流れる透き通った水を眺める。関根が川に落ちて飛んできた水飛沫は、冬の雪解け水のように冷たく、そんな記憶が今更のように思い出す。あの時、確かに私は悩んでいたんだ。
「でも…思い出せないことも多くて、ほら、私的には13年前のあの日以降から生活が変わりやすくなって、お母さんは呉服屋で育った娘だったからただでさえ前の奥さんに3人も娘を置いてきたお父さんに違う人ができてしまった時は本当に大変だったし、仕事柄お父さんとの時間もなくて、どんな人かって言われたら、病院でお見舞いに毎日行ってた時のお父さんしか知らなくてさ…」
「…」
「けどね、13年前にこの町に初めてきた時は、本気で探したんだ。お父さん。ちょっと出てくるって言って仕事中に居なくなったお父さんを探してたら、なぜか迷子になって、あとは関根くんにも前に話した通り、何人かの同い年くらいの男の子たちや女の子たちが一緒になってお父さんを探してくれて。あんなに泣いてたのにその時はすっごく楽しくなっちゃってさ。いまだに覚えてるよ」
「…たった1日…。でもそれ、わかる気がします」
「でしょ?」
「弟と今はあまり仲がよくないのは涼さんも知ってると思うんですが、そんなアイツでも、まだお互い仲が良かった時期があるんです。いや、普通の兄弟ですからね、元々。…それでその日は父と母もでかけてて、バカみたいに喧嘩した日があったんですけどね、なんか弟の方があざみ野の向こうまで行って道に迷ってしまったみたいで、だだっ広い田舎だけど、ちょっと道が狭いとことかあるじゃないですか?…だから必死に探して、見つけたら泣きながら叱った覚えがありますね」
「かなり泣きっ面なんだね、関根くん」
「ちょー、やめてくださいよう」
「今も結構うるうるきてるじゃん?」
「嘘だぁ」
関根は頬に手で触れる。あれ、暖かい。…ヤバイ。目の前がブレてる。…なんで?
「ともかく、そんな時だったから…余計に元彼なんかを思い出していた部分もあったのかな、あ、この話は内緒ね?夏菜子ちゃんたちとかに笑われそうだし」
「笑わないっすよ。夏菜子さんは」
関根が周りの草に手を伸ばしながらそう言う。いつになく少し真面目な顔で。涼はそれを羨ましそうに眺めるとふいに目を閉じた。そよ風、だろうか。夏は至って暑い毎日のはずなのに、時折山からくる涼しい風が、妙なリアリティをもって頬を撫でてくる。不思議だ…。
「約束…したんだ」
「……誰にですか?」
涼のふいな一言に関根が川に石を投げながら返す。いや聞いてみたのは、たいして理由もないんだけど。
「13年前…あの日…この町で…出会った、子たちに、ね」
蝉の音が、踊る陽炎が、大空を突き抜ける雲が、すべてがどこか幻想的に記憶をかすめてゆく。
「引っ越してきたのは、会いたかった、ってわけじゃないんですか…?」
関根の言葉に涼がふふっと微笑んで返す。
「そうよね…会いたい、のかな。ううん、多分、約束」
「約束?」
そう、と涼は答える。懐かしそうにちょっと笑いながら涼は空を見上げてそれを口にした。
「あの日、あの子たちと約束したんだ。世界の平和を守るために…打ち上げようって」
「…何を、ですか」
涼はゆっくり関根に振り向くと笑顔で、
「…花火」
と言ったのであった。
「…」
関根は素で黙り込んでしまった。彼女の瞳に映る何かが、あまりにも脆くて儚さに溢れていて、そしてその願いの価値が如何許りのものであるかを、覗いてしまったような気がしたから。
「涼さん」
「再会すらしてもいないのにこんなこと言うのってやっぱり変だよね〜。というかみんなどうせ引っ越したりしてるだろうし、第一覚えてすらいないだろうしね。あーこれも内緒ね?」
「…」
関根はそんな涼のたてられた人差し指が口を塞ぐのを眺めながら、いつもの笑顔に、距離を置いたのであった。約束、か。…それが彼女の願いというのなら…。

中編其の四『見返り絵図』~現代~
「けどさ、その年のことはこの町でも禁忌だから」
「…禁忌?」
「どこにも載ってないのよ、あの年のことは。どのデータにも、当時の新聞にも」
「どういう…ことですか…」
関根は少し焦ったように涼を見やる。先ほどまでとは変わり、どこか空気が変わった。寒気がする。風は止まっているのに。
「この話は…関根くんに話すのは、本当は気がひけるんだ」
どうして。
「多分、町のなかでこれを知ってるのは…ごく限られた人だけだと、思う」
13年前…。
「それでも…聞く?」
関根は迷うことなく答えていた。
「はい」
うん、そっかと涼は頷く。その瞳は躊躇いのない輝きを持っており、人一倍に強い気がした。だから、もう迷わなかった。
「この話は、私のお父さんが生真面目な刑事だったことと、その仕事の後輩にとある優秀な方がおられたこと、そして、13年前にこの町で何か起きな事件が起きていたかかもしれないという、私の憶測も含めた話よ」
関根は蝉時雨降りしきる夏の空の下、涼の目を見た。
「ここからは、私の覚えてる限りの、あの日のすべてよ」
涼の顔はいつになく声を殺すようにそれを一言ずつ言葉にしていった。

後編『亡き骸』~13年前~
(※非人道的描写有り)
ーー涼を乗せた父の車は獣道の末、辿り着く
ーー町は燃えており、泣き喚く者や、動かぬまま何かを唱える者、道には人の腐敗した肉塊で埋め尽くされ、川には人々の血で染まっていた。ヒグラシが鳴いており、狂気の沙汰とは思えないほどの呻きが山々を小玉していた。腕のない者、足のない者、舌を抜かれた者、目を抜かれた者、皮を引き裂かれた者、子供を殺された者。すべての悲しみを背負い、町は燃えていた。
ーー何も見ることを許されず車に閉じ込められた涼はそこで窓の向こうから気分を害するほど泣き叫ぶ断末魔のごとき声の主である鵺がこちらをみて微笑むのを見ていた


八十一章『』~14年前~
に続く

八月の残響 ~破~

八月の残響 ~破~

揺れる陽炎のはるか上空で巨大な積乱雲が悠々と空を制していた。 人と人とがすれ違いに出会い別れてゆくこの世界で、夏に生きる彼らの願いとは何だったのだろうか。 進みゆく時間のなかで得られた価値を誰が決めていくのだろうか。 今一度蝉時雨の時の中で始まる若者たちの物語が、その答えを導き出してくれるだろう。 人の願いと記憶に問う、 つかの間の青春群像劇。

  • 自由詩
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2016-10-30

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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