さくら日和のねこだまりにて
さくらびよりの楽園で
さくらの花びらが風に舞っていた。
そよ風さやさや、お日さまあたたか、春爛漫。
ざざぁんと波音のような音をたてて揺れる巨大な桜の木からは、親元を離れた薄紅色の妖精たちが、それぞれの行き先を目指してはらりはらりと揺蕩っている。
地面には名残を惜しんでいるのか、まだ行き先を決めていない花弁が広がる桜色のカーペット。
そして、まわりには大量の猫。
(楽園だ……)
ここは市内の自然公園の一角。遊歩道から外れた林の中にぽっかりと広がった、ひっそりとした隠れ家のような場所。
かつては憩いの場所だったのがいつの間にやら木々に覆われてしまったのか、古いベンチが置いてある以外には人工物のない、ちょっとした広場。
周囲は手入れされていない木々や藪で鬱蒼としてるのに、この場所だけは不思議と綺麗になっている。上を見上げれば空が見えて、晴れた空からはお日さまが暖かな春の陽射しを降り注いでいた。
その広場の中央には、大きな桜の木が一本。ちょうど満開真っ盛りの見所を迎えていて、そこに集まるノラ猫たち以外には花見客のいない桜吹雪を巻き起こしている。
猫好きでぼんやりするのが大好きなわたしにとって、ここは近年まれに見る最高のお気に入りスポットだった。
春は変化の季節と言うけれど、今春晴れて小学生から中学生になったわたしは相変わらず消極的で、人見知りの強いわたしのままだった。
新学期が始まって早くも数日が経って。今だクラスに馴染めず、友達もできず。
だからといって何かの部活に入る気にもならず。自然と帰宅部になって、時間をもてあましていて。
そんな時に見つけたのが、この『ねこだまり』。
ノラ猫たちの集会場になってるのか、いつ来ても必ず猫がいる。
しかもぽかぽか陽気で警戒心も薄らいでいるのか、わたしみたいに人間が来てもあんまり警戒することもない。
というわけで、最近は授業が終わると真っ先にここに来ては、猫たちとひなたぼっこするのが日課になっていた。
そんな至福に浸ってるわたしに向けて、ふいにパシャリとカメラのシャッター音が鳴る。
はっと気づいた時にはもう遅く、スマートフォンのカメラでわたしを撮った相手が、にやりとした表情でこっちを見ていた。
「……肖像権侵害で訴えるよ?」
「いや、だってあまりにもいい表情してたから」
「ちょっと今撮った写真見せて? 変な顔してたら消してほしいんだけど」
「大丈夫、大丈夫。いつも通りの気の抜けたマキマキの写真だから」
「だからその呼び方はやめて!」
わたしの言い分なんて聞きもしないで、あははと笑うとその子はくるりときびすを返し、再び猫たちの写真を撮る作業に戻っていった。
この子さえいなければここは本当に最高の楽園なのに、とかちらっと思ったのは、彼には言わないでおこうかと思います。
ふたりの仔猫の出会い方
その猫たちの隠れ家を見つけたのは、本当にただの偶然だった。
不登校気味だったわたしを見かねたのか「小学校卒業を転機に環境を変えましょうか」というお母さんの提案で、春から他のクラスメイトたちとは違う私立の中学校に進学したわたし。
それまでの自分を知らない人たちの中でなら、小学校のころみたいな消極的でダメダメなわたしから変われるかもしれない、と少しだけ期待してたけど。
いざ入学式を終えてみればまわりは知らない人ばかりで、クラスメイトの自己紹介でも緊張して声が震えて、気の利いたことも何も言えなくて。
そんなわたしとは対照的に、社交的な子や小学校が同じだった子たちがどんどん仲良くなっていくのを、ただ眺めてることしかできないままだった。
初対面のクラスメイトに積極的に話しかけることもできないわたしは、「誰か話しかけてくれないかな」なんて都合のいいことを考えたまま、これから一年お世話になる自分の席にじっと座ったままで。
いくつもの友達グループが形成されていく様を、物欲しそうに見つめたままで……
そして気がつけば、誰にも話しかけられないまま放課後の教室にわたし一人になっていた。
(……うん、まあ)
(完全に自業自得なのはわかってるし……別に気にしてないし……)
そう自分に言い聞かせながらの、孤独な帰り道。
とはいえそんな自己暗示が効くわけもなくて、入学早々これからの学校生活に陰りが差してしまい、先行き不安で落ち込みっぱなしだった。
そんな憂鬱な気分のまま家に帰る気にもならなくて、「どこかに寄り道してから帰ろうかなぁ」なんて思いながら、とぼとぼ帰路についていた時のこと。
「あ」
すいっ、と目の前を黒猫が通り過ぎた。
一般的には、黒猫が目の前を横切るのは縁起が悪いと言われてる。
でもあれは目の前を連続で三回横切った時の話で、一回だけなら何かいいことが起きる前兆だという説も聞いたことがあった。
「ねこ……」
とはいえ、そんな話はその時のわたしにとってはどうでもよくて。
ずーんと落ち込んでる時に大好きな猫を見つけて、ぶわっと一気にテンションアップしてしまった。
(どこに行くんだろう?)
このまままっすぐ帰るつもりもなかったわたしは、何の気なしにその黒猫の後を追いかけてみることにした。
てとてとてと。
目の前を歩く不吉の象徴は、わたしが後を着いてくるのを気づいているのかどうなのか、全く意にも介さない様子でどこかに向かって歩き続けている。
走って逃げるようなスピードじゃない。わたしの足でも十分に追いかけられるような、ゆったりとした歩調だった。
そしていつの間にやら黒猫は、市内の大きな自然公園の敷地の中に入っていって。
さらに人気の少ない、公園のはずれの林の中へと歩を進めていく。
「…………」
だんだんと人の世界から遠ざかっていくような気がして、だんだんとうさぎを追うアリスの気分になってきた。
もしかしたら、この先に猫たちだけが住む猫の王国があるのかもしれない。
そんな夢見がちな空想を浮かべながら、黒猫のあとを追う。
鬱蒼と茂った林の中を、木の枝や蔦に髪や真新しい制服をひっかけないように気をつけながら、見失わないように半ば必死で。
やがて視界がざぁっと開けて。
まず目に映ったのは満開の桜。そして舞い散る桜吹雪。
そしてあたりに漂う、むせるほどの甘い匂い。春の香り。
林の中にぽっかりと開けた空間に、樹齢どれくらいになるのか見当もつかないほどの大きな桜が、ずしんとその大きな巨体を据えていた。
まるで私がこの場の主だと言わんばかりに。
人間風情に衆目を晒すのは品がないと言わんばかりに、どこか神々しさを感じさせるまでに、威風堂々と。
「…………」
その現実感を失いそうになるほどの光景に一瞬我を忘れる。
けれど、それもほんの刹那のことで。
「にゃー」
その鳴き声が聞こえたとたん、バッとわたしの目線が桜からそっちの方に向いたのは言うまでもなく。
巨大な桜を見上げていた眼を地面へ移せば、何十匹もの猫たちが桜の下でひなたぼっこをしていた。
それこそ大人猫から子猫まで。明らかに飼い猫とわかる毛並みのいい子から、ノラとして生きてきたのを誇るような貫禄のある猫まで、バリエーション豊かな面々がぞろぞろと、ぞろぞろと……
「……っっ!!?」
さっきとは別の意味で言葉が出てこない。
感極まりすぎて嬉しい悲鳴とか声なき叫びとか、そういうレベルではないほど瞬間的に、まるで冷水が一瞬で熱湯に沸騰するように、わたしの猫好きセンサーは一瞬にしてフルスロットルに入ってしまった。
「ね、ねこねこぱらだいす……っ!!」
大興奮してわけのわからない単語を発するも、自分で自分が何を言ってるのか全く把握できていなかった。
そしてこの時に勢いで口走った言葉を、わたしはずっと後悔することになる。
「……ねこねこぱらだいす?」
ふいに、人の声がした。
びくっとして声の方を振り向くと、猫を抱いた同い年くらいの男の子がぽかんとした表情でわたしのことを見ていた。
もちろん見たことのない子だった。ただしその制服には見覚えがあって、本当ならわたしが行くはずだった中学校の制服を着ていた。
猫の毛がびっしりとついていて、黒い詰め襟が毛だらけになってはいたけれど。
「あ、や、その……」
勢いで発した歓喜の言葉をばっちり聞かれてしまい、さらに従来の人見知りもあわさって完全にパニクってしまう。
猫と桜の不思議な世界に迷い込んだと錯覚してた自分が、急に恥ずかしくなった。
「それにしてもすごいね、よくここを見つけたね」
「……え?」
先に次の言葉を紡いだのは男の子の方だった。
「僕以外にこんな穴場、知ってる人いないと思ってたんだけどなぁ……どうやって見つけたの?」
知らない子に何の屈託もなく話しかけられて、人見知りのわたしは少し戸惑ってしまう。
「あ、あの……ね、ねこを……」
「ああ、この子についてきたわけか」
そう言ってさっきまでわたしが追いかけていた黒猫に目をやった。
黒猫は男の子の足下に頭をこすりつけてすりすりしている。
少し羨ましい。
「ずいぶん懐いてる……懐いてます、ね?」
同い年くらいとはいえ初対面の相手にどう話せばいいのかもわからず、タメ口と敬語がごっちゃになってしまった。
「ん、まぁ……この子たちには毎日ごはんあげてるからね」
「毎日、ごはん……?」
そう聞くと男の子はにやりとした顔で、秘密の話をするかのように小さな声で囁く。
「そ。この『ねこねこぱらだいす』のノラ猫たちにこっそりごはんをあげるのが僕の日課になってるってわけ」
「…………」
……いきなりネタにされた。
意地悪そうにこっちの反応を伺っている男の子を見て、この子とは気が合わなさそうだなぁ、なんて漠然とした印象を受ける。
同時に初対面の相手なのに、よくこんなにフレンドリーな対応してくるなぁ、なんて感想を持ったのも事実だけど。
「……あなたも猫が好きなの?」
その態度に悩むのが正直どうでもよくなって、わたしも口調を崩して返すことにした。
「好き好き、超好き。大好き、愛してる」
対する男の子はわたしの問いかけに、興奮気味に一切の迷いもなく即答で返してくる。
これが最近流行りの猫好き男子とかいうやつだろうか。
「ふわふわの毛にぷにぷにの肉球でぬいぐるみみたいに可愛いのに、すごいしなやかな身体の動きをしてて一日中見てても飽きないし」
「…………」
「普段素っ気ないのに慣れてくると顔見るだけで近づいてくるし、頭すりすりこすりつけて甘えてくるし、落ち込んでる時とか自然と側に寄ってきてくれるし」
「…………」
「でもどこまで行っても気まぐれで自由奔放だし、時々なに考えてるかわかんないのもすごいミステリアスだし」
「…………」
「なんかもう猫種とか関係なしに、存在そのものがやばいくらいに大好き」
……やばい、急激に親近感が湧いてきた。
この子たぶん、本物だ。
同じ同類として、直感的にピンときてしまった。
「そういう君も、猫が好きなんでしょ?」
「……うん」
「猫、最高だよね!!」
「うん……」
どうしよう。
会ったばっかりの相手なのに、なんだか生涯の友と出会ってしまったような気分になってきた。
性格的にはわたしと真逆の、どう考えても気が合わなさそうな相手なのに。
とはいえ、ここであえて嘘をつくことなんてできそうにはなくて。
わたしはごくりとつばを飲み込んで、情熱的に猫愛を語る男の子に向けて言った。
「ねこ……可愛いよね」
「だよねー!!」
「最高だよね?」
「ですよねーー!!」
「ネコいいよね」
「いい……」
多くは語らない本物同士の会話で、同じ猫好きの目に見えない繋がりがしっかりと結ばれたような気がした。
▽▲▽▲▽▲▽▲
そんな会話を経た後、お互いに猫愛を語り合いながら広場に一つだけ置いてあった古いベンチに座る。
広場でまったりしてるノラ猫たちをできるだけ刺激しないように、そろりそろりと移動、着席。
もちろんそのベンチの上にも先着猫がいたから、ひなたぼっこ中のねこさまの邪魔をしないように気をつけながらの着席になったのだけど。
「…………」
ベンチに座ったとたん、一瞬にして魂を抜き取られたかのような心地よさを感じた。
ふんわりとしたそよ風が気持ちいい。
桜の木の枝から差し込む木漏れ日が、ほどよい春の陽射しをベンチに落としている。
そしてねこ。
左を見てもねこ、右を見てもねこ、どこを見てもねこ。ねこ、ねこ、ねこ。
「ここ、すごくいい場所ね……」
素直な感想を口にした。
「だよね? こんな猫だらけの場所なんて他にないっしょ」
「桜にお日さま、そよ風、たくさんのねこ……すごい幸せ……」
夢見心地でそう呟く。ここになら、本当にいつまででもいられそうな気がした。
「あ、そっち系なんだ?」
「え?」
意外そうに声を発した男の子に思わず問い返す。
「なにがそっち系?」
「いや、猫に対する姿勢というか」
いきなり姿勢とかそっち系とか言われてもわけがわからない。
「……あなたは何系なの?」
「僕は、どっちかというとこっち系」
そう言いながら男の子はスマートフォンを取りだす。
「猫の写真を大量に撮って、その可愛さを全世界の人と共有したい系」
「ふうん?」
「通称、撮り猫系」
そんな撮り鉄みたいな言い方をされても反応に困る。
「……じゃあわたしは、ねこと一緒にひなたぼっこしてぽーっとしてたい系?」
「乗り猫系だね」
「いや、乗らないから」
男の子が笑う。
同じ猫好きとはいえ、愛し方にはいろいろなバリエーションがあるらしい。
「あ」
そういえば、お互い自己紹介も何もしてないままなのに気づいた。
「わたし、牧野マキっていうの」
ちょっと今さら感があったけど、一応名乗っておいた。
「略してマキマキだね」
「その呼び方はやめて……」
小学校のころに、その呼び方をされて散々からかわれた記憶が蘇ってくる。
あんまり楽しい思い出じゃなかった。
「そっちは?」
わたしが聞くと、男の子は「うーん」と何かを考えるような仕草を見せる。
一体何を考える必要があるんだろう。
「ぶにゃ」
するとそこへ、一匹のノラ猫がのそのそと近づいてきた。
でっぷりとした大人の三毛猫。たっぷりとごはんをもらっているのか、それともこの群れのボスなのか、他のノラ猫たちよりも一回りくらいどっしりとした体格をしていた。
その猫を見て、男の子は思いついたように言う。
「じゃあ、ミケってことで」
「……なにその『じゃあ』って」
「いいじゃん、本名なんて。お互い呼び合えるあだ名さえあればそれで十分でしょ」
「わたし、本名を言っちゃったんだけど?」
「マキマキ?」
「だから、その呼び方はやめて!」
「じゃあ、ねこねこぱらだいす……ぷくくく」
思い出し笑いで、いじわるそうに笑うミケ。
「あ、これはずっとからかわれるな」と元いじめられっ子の直感が判断したけど、ここはあえて無視することにした。
なんというか、ミケはどこか「対等」な感じがしていたから。
今までわたしをからかってきたクラスメイトとは違う、どこか近しい雰囲気があったから。
そして、そうこうしてるうちに日が暮れて。
風がだんだんと冷たくなってきた。夜の帳が近づいてくる。時間を確認すると、そろそろ家に帰らないといけない時間になっていた。
「わたし、そろそろ帰るね」
そう言ってベンチから立ち上がる。ミケと話したり猫を愛でたりしてたら、あっという間に時間が過ぎていた。
「ね、マキはまたここに来る?」
「え?」
「いやさ、こんなに猫について熱く語れる相手って今までいなかったから。マキさえよければまた話そうよ」
一瞬言葉に詰まる。
なんだかんだ言ってもわたしはまだ中学生なわけで、思いっきり思春期なわけで。
しかも本名こそ知らないとはいえ、相手は同い年くらいの男の子なわけで。
そんな相手にまだ会いたいと言われるのは、さすがにある種の気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。
「…………」
とはいえ。
確かにここはねこだらけだし、桜は綺麗だし、居心地はいいし。
まだ会ったばかりだけど、ミケもそんなに悪い人には見えないし。
それに、何よりもねこだらけだし。
大事なことなので二回言いました。
「うん……そだね」
どっちにしても、春からの新生活はもう絶望的なのは間違いなくて、放課後に早々に家に帰ってもこれと言ってやることもないのが事実だった。
その余暇をこの場所でねこに囲まれて過ごせるのなら、それも悪くない。
「それじゃあ、また明日来るよ」
「明日!?」
「……なんでそこで驚くの?」
「いや、まさか今日の明日で来るとは思わなかったから」
「ミケから言い出しといてそれはないでしょ」
「もしかして、マキって相当な暇人?」
「ミケには言われたくないかなー、そのセリフ……」
とかいうわけで。
つまりは暇をもてあました猫好き同士が、なんとなくこの桜の下のねこだまりで会うようになったわけです。
とらっぷ・にゅーたー・りたーん
パシャリ、とすっかり聞き慣れた音が鳴った。
その音でうつらうつらしかけてたわたしの意識が、ハッと現実に引き戻される。
「あ、ごめん。起こしちゃったかな」
そんなわたしを見ながら、ミケがすまなさそうに言う。
「また寝顔を撮られたかと思った……」
「やだなー、そんなしょっちゅう撮るわけないじゃん。僕の被写体はね、基本的に猫オンリーなの」
「たまにわたしのことも撮ってるくせに」
「それはたまにマキが猫っぽい表情してるから悪いんだよ」
「……そんな表情、してる?」
「してる」
……断言されてしまった。
▽▲▽▲▽▲▽▲
この桜のねこだまりを訪れてから、早くも数日が経っていた。
学校の方では相変わらず友達もできないままだったけど、あの日以来、わたしは放課後になると毎日この桜の広場に足を運んでいる。
林を抜けてこの広場に辿り着くといつもミケが先にいて、わたしを見るなり「また今日も来たの?」なんてあきれ顔で訊いてくるのもすっかり慣れっこになった。
それを無視して広場で微睡んでいる猫たちに「今日も来たよー」と声をかけつつ、すっかり定位置になった感のある桜の下のベンチに座るのがいつものパターン。
わたしたちの時間の導入部分。
というわけで、わたしはベンチに座って猫たちと一緒にひなたぼっこ。
ミケはそんなわたしをたまにからかいつつ、スマホで猫の写真撮影。
交流はするけど、基本的にはお互いに不干渉。
いつの間にかそんな光景が日常の一部になっていた。
ミケはわたしにあんまり深入りしてこない。
どこに住んでるかとか、今何歳かとか、そういうことを一切聞いてこない。
そして、わたしもミケのことを深く詮索しようとも思わない。
どうやってここを見つけたのかとか、学校での生活はどんな感じなのかとか。
聞こうと思えば聞きたいことはいくらでもあったけど、なぜかそういうことを訊くのは躊躇われて。
だから、話すことはお互いに猫のことだけ。
そして知ってることもお互いに猫好きだということだけ。
なのに、この距離感がとても居心地よく感じられるのだった。
春は変化の季節。
そういう意味では、わたしにも変化のおこぼれが与えられたのかもしれないな、なんて思った。
そんなミケは、今日もスマートフォンでノラ猫たちの写真を撮っている。
なんでもInstagramとかいうSNSに投稿してるそうで、見せてもらったらたくさんの猫たちの写真がアップされていて、それぞれの写真に「いいね!」がいくつもついていた。反応は上々といった感じ。
さすがは『撮り猫系』、と言ったところだろうか。
「いいなー」
ミケがアップした写真を見せてもらいながら、素直な感想を口にする。
わたしもスマホが欲しいけど、お母さんは高校生になるまでは買わないの一点張りで、スマホを持つことを許してもらえない。
でも同学年の子も学校にスマホを持ってきてる子が多くて、入学して間もないのにLINEで繋がったとかで初日早々仲良しグループを作ってる子も多かった。
当然LINEなんてやったこともないわたしは彼女達のグループに入る権利すらないわけで。
結局はスマホを持ってなかった時点で、友達作りは最初から難航してたってことだったのかもしれない。
「やーい、ぼっちー」
そのことを話したらミケに冗談交じりでそう返されたけど、放課後にこんなところで一人ノラ猫たちと戯れてる時点でミケも大概だと思う。
たぶんミケも、わたしと一緒でぼっちなんだろうなぁ……
「にゃうー」
撮影に精を出しているミケを眺めながらそんなことを考えていると、ノラ猫の一匹がわたしに近づいてきた。
ちょっと灰色がかった、ノラにしては結構いい毛並みをした子。
人懐っこいことから、昔人に飼われてた子なのかも知れない。
「いいこいいこ」
わたしはしゃがみ込んで、その子を優しくなでなでする。
ふわふわでさらさらの毛並みの感触が心地よかった。
「あれ」
なでているうちに気づく。
その猫はぱっと見こそノラとは思えないほど小綺麗な感じなのに、片耳の先が何かで切り取られたかのように欠けていた。
「この子、喧嘩でもしたのかな? 耳に怪我してるみたい」
ノラ猫の写真を撮っていたミケは振り返り、わたしがなでている猫を見て言った。
「ああ、その子はさくらねこだよ」
「さくらねこ?」
何とはなしに頭上を見上げた。さくらの花びらがはらはらと舞っている。
「地域猫ともいうね」
「なにそれ?」
「えっと……なんていったかな」
そういうと、ミケは手元のスマホで何かを調べ始めた。
「ほら、これだよ」
そして目的のものを見つけたのか、わたしの方にスマホの画面を向けてくる。
スマホを受け取り画面を見ると、そこには「TNR運動とは」というタイトルが踊っていた。
そこにはTNRとは
Trap:トラップ(ノラ猫を捕獲して)
Neuter :ニューター(不妊手術を施してから)
Return:リターン (元の生活場所へ戻すこと)
の略語のこと、と書いてあった。
なんでも飼えないからという理由で捨てられたり、繁殖して増えすぎたノラ猫たちを一代の命で終わりにすることを目的にしたノラ猫対策とのことだった。
そして不妊手術をした証として、麻酔をして片耳をちょこんと切り取ることでノラ猫ではなく、地域猫としての目印にする。
地域猫とはノラ猫と違い、不妊手術を施されることでその地域で生活することを人から認められた猫のこと。
その耳の形がさくらの花片に似てることから、別名さくらねこと呼ばれてるらしい。
「……つまり、この子も地域猫なんだ」
アゴの下をこしょこしょされて気持ちよさそうにしている、そのさくらねこをじっと眺める。
「人の都合で耳を切られるなんて、なんかかわいそう……」
ぽつりと呟いた。
わたしにとってはなんてことのない、ごく自然な感想。
もちろんミケもそれに同意を示してくれるはずだと思った。だって、同じ猫好きなんだから。
けれど返ってきた答えは、わたしの想像とは全然違うもので。
「……耳を切られて人に保護されて生きるのと、保健所で殺処分されるの、どっちがいいと思う?」
その問いかけは、一瞬だけ世界の時間を止めたような気がして。
ひらひらと舞うさくらの花弁が、中空でぴたりと静止したかのように感じられた。
「……え?」
その言葉をすんなりと飲み込むことのできなかったわたしは、思わず問い返す。
ミケはそんなわたしを真剣な眼差しで見つめていた。
「…………」
そんなミケに、わたしは何の言葉も返すことができなくて。
今さらながら、自分の浅はかさを思い知ったような気がした。
人の世界で生きるしかなくて
道端に置いてある、水入りペットボトル。
あれが猫よけだということは知ってる。効果があるのかどうかは知らないけど、でもそれはノラ猫に近づいて欲しくないというサインでもある。
ノラ猫にエサをやるな、という看板。
無責任にノラ猫にごはんをあげて、後のことは考えないでそのまま放置する人がいること、その結果ノラ猫の糞尿被害で迷惑してる人がいる。それも知ってる。
そして猫の存在そのものが大嫌いな人がいることも、気持ちは全然わからないけどそういう人もいるんだってことは、ちゃんとわかってると思ってた。
道路際で車にはねられたと思われる、ノラ猫の遺体も何度も見てきた。
その無残な姿を見るたびに胸が苦しくなって、せめて埋めてあげたいと何度も思った。でもどうしても怖くて近づけないうちに、いつの間にかその遺体はなくなっていて。
そしてわたしは「それ」がどうなったのか、どこの誰が「処理」してきたのか、そこに目を向けることを無意識に拒んできたんだ。
けれど。
帰り際に書店に寄れば、猫関連の雑誌がずらりと並んでいて。
家に帰ってテレビをつければ、出てくるのはねこ、ねこ、ねこ。
わたしが好きでよく見てる猫番組も、「空前の猫ブーム到来!」とか煽っては、YouTubeから探してきたらしい猫の動画をいくつも紹介している。
「…………」
そのギャップに、強い違和感を覚えてしまう。
可愛らしさで多くの人を虜にする飼い猫。
多くの人に忌み嫌われて虐げられるノラ猫。
同じ猫のはずなのに、どうしてこんなにも扱いが違うんだろう。
……飼い猫だって心ない人に捨てられれば、同じノラ猫の一員になってしまうのに。
飼い猫とノラ猫の境目なんて、それくらい曖昧なものでしかないはずなのに。
「あ」
自室で制服を着替えていると、背中の部分に桜の花びらが一枚くっついてるのに気がついた。
この花片があの広場の桜のものなのか、それとも帰り道で通ったどこか別の桜のものなのか、それを判断する術はない。わたしには、あんなにもたくさん散っていった桜の花びらの行き先を知ることはできない。
……そうだ。
ノラ猫もさくらも、最終的にどうなるのか、わたしは知らない。
あれだけ大量に舞い散った花びらも、きっとどこかの誰かが「処理」しているから街は花びらだらけにならずに済んでいる。
そしてそれは、きっとノラ猫も同じ。
確かに猫は可愛い。それはわたしも全面的に認めるところではあるけれど。
でも「可愛い」だけで済ませてて、本当にいいのかな。
▽▲▽▲▽▲▽▲
「そりゃ、ノラ猫は害獣だもの」
仕事から帰ってきたお母さんに聞いてみたら、あっさりとした答えが返ってきた。
「人の家の敷地に勝手に入ってきては糞をするし、爪研ぎして家に傷をつけるし、夜鳴きでぎゃーぎゃーうるさいし」
「…………」
「それに、出したごみ袋を破いては辺りに散らかすし。うちのマンションもノラ猫対策がされるまで酷かったのよ? 毎日ごみ捨て場の掃除をみんなでやって、そりゃもう大変だったんだから」
……悔しいけど、何の反論もできない。
「それに、世の中には猫嫌いの人だってたくさんいるじゃない? 猫アレルギーの人からしたら、猫になんて近づきたくもないんじゃないかしら」
「……お母さんは、猫が嫌いなの?」
疑問に思ったから聞いてみた。
なんだかさっきから、猫に対して恨みのこもった話し方をしてる気がしたから。
「あ、ううん。嫌いじゃないけど……そうね。飼い猫なら可愛いと思うけど、ノラ猫はちょっと苦手、かな?」
わたしが猫好きなのを知ってるからか、慌てて気を遣った言い方をしてくれた。
前にわたしが猫を飼いたいと言ったのを覚えてくれてたのかもしれない。
うちはペット禁止のマンションだから飼えないのよ、の一言で諦めざるを得なかったけど。
「そういえばノラ猫で思い出したけど、最近すっかりノラ犬も見かけなくなったわね」
お母さんがふと気づいたように呟く。
「ノラ犬?」
「私が子供のころは街を歩けばノラ犬なんてそこらじゅうで見かけたんだけど。小学校のころなんて、授業中にノラ犬が教室に入ってきてちょっとした騒ぎになったこともあったのよ」
想像もつかなかった。
わたしの知ってる犬は、みんなみんな飼い犬ばかり。
もちろんノラ犬という言葉は知ってるけど、考えてみれば実際に見たことは一度もなかった。
「ノラ犬に噛まれることもなくなったって面では、いい時代になったのかもしれないわね」
そう言いながら、お母さんは夕食の準備に取りかかるためにキッチンへと行ってしまった。
……仕事帰りのお母さんは、大抵ピリピリしてる。
聞いたタイミングが悪かったかな、とちょっとだけ思いながら、わたしも自室へ戻ることにした。
▽▲▽▲▽▲▽▲
部屋に戻り、ベッドにぼふっと横たわる。
そして枕元に置いてある猫のぬいぐるみをぎゅっと抱き寄せながら、少しだけぼんやりとする。
「…………」
けれど、頭の中では今日聞いた言葉がぐるぐるしていた。
さくらねこ。
殺処分。
害獣としてのノラ猫。
そして、街からいなくなってしまったノラ犬。
考えたくない、と心が叫んでいた。
けれど考えないといけない、と頭ではわかっていた。
少なくとも、ミケと同じように猫を愛する気持ちがあるのなら、これは避けては通れない問題だということには気づいていた。
でもそのことについて深く考えようとすると、胸がきゅっと苦しくなって、思考が止まってしまうのだった。
(弱虫……)
自分で自分が嫌になった。
気分を変えようと窓を開けて夜風を部屋に招き入れる。
春の夜の空気が、密封した部屋に優しく流れ込んでくる。
どこか懐かしいような、遠い昔を思い出すような、そんな香りがした。
夜空には半分に欠けた月が昇っていた。
欠けた月、欠けた耳。
さくらの形をした、共生の証。
「…………」
やっぱりどうしても、思考はさくらねこのことに移っていってしまう。
気にはなってる。
気にはなってるけど、考えるのが怖い。
そんな堂々巡りが、さっきからずっと止まらない。
「……はぁ」
意を決して、窓をぴしゃりと閉めた。
そして自室を出てリビングへ。真っ暗な部屋の明かりをつけて、向かうのは家族共用のノートPC。
そしてブラウザを立ち上げて検索サイトを開き、慣れないキーボードで「さくらねこ」と打ち込んで検索。
さくらねこに関するページがずらりとディスプレイに表示された。
「…………」
とりあえず、一番上にあるページから読んでいってみる。
地域猫、捕獲器、TNR、さくら耳、避妊・去勢手術、殺処分、一代限りの命。
ミケに見せてもらったサイトにあったような単語が、たくさんの片耳が欠けた猫の写真とともに並んでいた。
「……耳をカットされてかわいそうと思うかもしれませんが、そうじゃないんです」
画面に表示された文章を、無意識のうちに声に出して読んでいた。
これは昼間、さくらねこのことを初めて知った時のわたしの感想そのものだった。
「……同じノラ猫が何回も捕まり、不妊手術を受けるのを避けるための大切な目印になっているんです」
その文章からは、優しさが滲み出てるような気がした。
何度も捕獲器で捕まること、何度も手術を受けること。
それが猫にとって苦痛になるから、だからこそ目印が必要なんだと丁寧に書かれていて。
そこからは、猫に対する愛情がひしひしと感じられた。
「…………」
思わず両手で顔を覆ってしまう。
猫のことをしっかりと考えていたのはどっちだったのか。
耳を切られて単純にかわいそうと思ったわたしと、猫が何度も辛い思いをしないように耳をカットしてるという人達と。
言うまでもなく、考えるまでもなく。嫌というほど、それを痛感してしまった。
そうして読み進めていくと、さくらねこに関連した他のサイトへの関連リンクに辿り着く。
その中に、「【閲覧注意】殺処分の現実」という動画へのリンクが貼ってあるのが目についた。
「…………」
無意識のうちに、ぴたりと手が止まる。
サムネイルには、狭い部屋に犬や猫が何匹も入っている画像が表示されている。
これはきっと、「その」シーンを撮ったものだ。
殺処分のむごたらしさを、映像でダイレクトに伝えるために撮られたであろう動画。
こんな悲惨なことが現実に起きているんだと、多くの人に知らしめるためのもの。
「見ないといけない」と誰かが叫んでいる気がした。
けれど同時に、「何があっても見たくない」という声が聞こえたような気もした。
それはどっちも、わたし自身の心の声で。
そしてどっちも、わたしの本来の気持ちそのものだった。
「……っ」
気がつけばブラウザをそのまま閉じていた。
見る勇気なんて出なかった。
湧いてくるのは恐怖ばかりで、その現実を直視するのが怖くて仕方なくて。
……結局逃げてしまったんだ、わたしは。
「はぁ……」
少しげんなりしながらパソコンデスクに頬杖をつく。
そこに夕食の準備を済ませたお母さんがやってきた。
「あら、めずらしい。なにか調べ物?」
普段パソコンなんて滅多に使わないわたしがPCの前にいるのが気になったのか、不思議そうに尋ねてくる。
さっきよりも若干ピリピリ感が消えて、表情が少し和らいでいるように見えた。
「うん……」
とはいえ素直に言うのは、なんだか少し抵抗があった。
「友達に気になる猫のサイト教えてもらったから、ちょっと見てたんだ」
一応嘘は言ってない。
ミケが友達か、と訊かれるとなんとも言いかねるところではあるけれど。
「え……」
それを聞いて、どういうわけかお母さんが驚いたように口元を抑える。
「マキちゃん、お友達できたんだ!?」
「…………」
「よかった……心配してたのよ? 新しい学校に入ったはいいけど、マキちゃんお友達できるかなって」
「…………」
「でも本当によかった……これで一安心ね!」
……心がみしり、と音を立てた気がした。
そして沸き上がる、ほろ苦い罪悪感。
ごめんなさい、お母さん。わたしは相変わらず学校では友達の一人もいない、ぼっちのままなんです。
……なんて、とてもじゃないけど言える雰囲気じゃなかった。
「それじゃあマキちゃん、ごはんできたから冷めないうちにいらっしゃい」
「……はーい」
あんまり深く追求されずに済んで、ほっと一息。
パソコンの電源を落として、とりあえず一度部屋に戻ることにする。
「あ、マキちゃん」
「なあに?」
「さっきは猫のこと、色々悪く言っちゃってごめんね」
そう言ってお母さんは申し訳なさそうに両手を合わせた。
「……気にしてないから、大丈夫だよ」
そう。ピリピリしてない時は、本当に優しいお母さんなんだ。
わたしはそんなお母さんに笑顔で返して、一度自室に戻ることにした。
▽▲▽▲▽▲▽▲
夕食とお風呂を済ませて、明日の準備も終えて。
あとはもう寝るだけになった、今日という日の終わりの時間。
歯磨きを済ませてベッドに入ったわたしは、どうしても眠れずに布団の中でもぞもぞしていた。
「…………」
やっぱりどこかで引っかかっている。
わたしの大好きなもの。その子たちの在り方について、どうしても考えてしまう。
今日一日で言われた言葉が、次から次へと掘り起こされてしまう。
(眠れない……)
明かりを消した部屋。カーテン越しに差し込む月明かり。
枕元に置いてあるデジタル式の目覚まし時計を目をやると、時刻は午前二時をさしていた。
「うわ」
逆に目が覚めた。
布団に入ったのが日付の変わる前だから、かれこれもう数時間は眠れずにぼんやりしてたことになる。
さすがに自分でもちょっと引いた。
「はぁ……」
観念してパジャマの上からカーディガンを羽織り、カーテンを開いて窓を開ける。
部屋に入ってくる夜風は冷ややかで心地いい。
深夜の空気はどこか澄みきった、涼やかな香りを孕んでいる気がした。
「…………」
しんと静まりかえる街。
物音ひとつしない、静寂。
そんな中、どこか遠くで犬の遠吠えが一つ聞こえた。
(犬……)
連鎖的に、お母さんから聞いた話が思い出された。
昔はノラ犬がそこらじゅうに、当たり前のようにいたという話。
教室の中に犬が入ってくることもあったという話。
今吠えているこの犬は、果たして飼い犬だろうか。それともノラ犬なんだろうか。
「…………」
狂犬病という病気については、授業で習ったから知識としては知っている。
でもどこか遠い世界の話にしか感じられず、身近な危機として感じたことは一度もない。
ノラ犬に噛まれたと思って、という言い回しがあることも知ってる。
でもわたしには、そもそも犬に噛まれる痛みそのものを想像することができない。
それはわたしが犬を飼ったことがないからなのか、それとも飼い犬以外の犬と出会うことがなかったからなのか。
それは、街からノラ犬たちが消えたことと関係があるんだろうか。
お母さんが子供のころはたくさんいたというノラ犬たち。
それじゃあそのころにいたはずのノラ犬は、今はどこに行ったんだろう?
――保健所で殺処分されるのと、どっちがいいと思う?
ふいに、ミケの言葉が思い返された。
「……そっか」
つまり、『そういうこと』なんだ。
捨てられた犬猫、保健所、殺処分。
今までずっと怖くて、できるだけ考えないようにしてきた言葉。
でもそれは現実に存在してて、きっと今この瞬間も、たくさんの犬や猫たちが――
「…………」
さっきの殺処分の動画を思い出して、少し気分が悪くなった。
あんなに可愛いのに。
こんなに人の生活に密着した存在なのに。
人から「不要」の烙印を押されたとたん、犬も猫もモノと同じように「処分」されている。
生きているのに。
人と同じ、たった一つの命のはずなのに。
なんとかしたいと思った。
わたしに何かできることはないかと考えた。
「…………」
でも、ノラ犬やノラ猫たちをどうやったら「救える」のか、わたしにはさっぱりわからなかった。
ノラ犬もノラ猫も、いまさら本当の意味で自然界に帰ることなんてできない。
完全な弱肉強食の野生の世界で生まれたわけじゃない。
人の街の中で生まれて、育ち、その生涯を終える。
どんなに過酷でも、人の世界で生きるしかない。
人と共存して生きる以外に、ノラ犬やノラ猫に生きる道はないんだ。
「……あ」
自ずと、学校でひとりぼっちのわたしを連想した。
どんなに過酷でも、人の世界で生きるしかない。
それはそのまま、自分にも刺さる言葉だということに気づいてしまった。
わたしは人間だから、たとえぼっちでも人の世界である程度の尊厳を与えられた生き方が許されている。
でも、ノラ犬やノラ猫たちは……
いつの間にか、街中からいなくなってしまったノラ犬たち。
それはいつかノラ猫たちにも訪れる日が来るような、そんな気がした。
宇宙人は人類を愛玩する。けれど
「やっぱりわたし、ノラ猫にごはんあげるのはよくないと思う」
次の日ミケに会うなり、開口一番そう言った。
「……いきなりどうしたの?」
いつものように桜の下でノラ猫にごはんをあげながら写真を撮っていたミケは、わたしの言葉にあっけにとられたように見えた。
わたしは昨日考えたことをミケに話す。
ノラ猫問題のこと、殺処分のこと、さくらねこのこと。
人のためだけじゃない。
他でもない猫たちのためにも、心を鬼にしてごはんをあげない方がいいと思った。
人とノラ猫の共存のために。
そしてその意見を、他でもない同じ猫好きのミケにどうしても聞いて欲しかった。
ミケは黙ってわたしの話を聞いてたけど、最後まで話し終えてから少しむすっとした表情で問いかけてきた。
「それじゃあ、お腹ぺこぺこで餓死しそうな猫を見かけても、そのまま放っておけってこと?」
「それは……」
理屈の上ではその通りだと思う。
でも実際にそんな場面に出くわして、何もしないで立ち去ることに抵抗がないかと言えば、どうしても嘘になる。
だけど。
……だけど。
「……それでも、あげない方が猫のためなんだと思う」
わたしは声を振り絞って、あえてそう言った。
ごはんをもらえば、ノラ猫はあちこちで糞をする。
不妊手術をしていなければ、ノラ猫はどんどん増える。
そうして結局は、ノラ猫たちが人から嫌われる理由がどんどん膨れあがっていく。
その流れを放っておいたら、いつか猫そのものが害獣扱いされる日が来るかもしれない。
そうなることだけは、何があっても嫌だった。
本当にそんな場面に出くわしても無視できるのかと聞かれれば、「できる」とは断言できないけれど。
「ふーん……」
ミケはわたしの答えをどう受け取ったのか、しばらく虚空を眺めて何かを考えているようだった。
「ミケはさくらねこのことを知ってて、どうしてノラ猫にごはんをあげてるの?」
ふと疑問に思ったことを聞いてみた。
ノラ猫が増えすぎてたくさんの人達に迷惑をかけてることを知ってて、どうしてそれでもごはんをあげてるのか、その理由が知りたくなったから。
「んー」
ミケは少し考え込んでから、また口を開く。
「例えばさ。ある日宇宙人が地球を侵略しに来て、あっという間に人類全体が宇宙人の支配下におかれたとするじゃん?」
「……その前提の時点で、続きを聞く気がなくなったんだけど」
さっそく出鼻をくじかれた気がした。
「まあ聞いてって。でね、その宇宙人からすると人間は物凄く愛らしい生き物に見えるんだ。でもって人間はその宇宙人の愛玩動物として生きる道を選択せざるを得なくなるんだよ」
「なんかのSFみたい……」
「でも人間が一人生きるにも、ごはんやトイレや他にも色々と必要になるだろ。だからそういうのに嫌気が差した一部の宇宙人が、人間を飼うことに飽きてぽいっと捨てちゃうんだ」
「…………」
「で、そういう宇宙人の勝手でノラ人間がたくさん出てくるわけさ。もちろんほとんどの人間は宇宙人に逆らわずに生活を続けるけど、中には宇宙人に刃向かう人達も出てくる」
「うん」
「すると宇宙人達はこう思うわけさ。『あれだけ可愛がってやったのに人間はなんて迷惑な生き物なんだ、こんな連中滅ぼしてしまえ』って」
さすがにここまで聞けば、ミケが何を言いたいのかはわかった。
「つまり、一部の人間のせいで宇宙人全体から人類そのものが恨まれることになるんだ。それも自分達で強制的に愛玩動物にしておいてだよ? これって、ずいぶん勝手な話だと思わない?」
「……つまり宇宙人が人類をどうこうするのは理不尽だ、って言いたいの?」
「そゆこと」
……わざわざ例え話にする必要があったんだろうか、と少しだけ思った。
「で、だったら宇宙人の中にも人類の味方をするようなヤツがいてもいいんじゃないかって話」
それがミケのノラ猫にごはんをあげる理由のようだった。
ミケは人類の味方をする異端な宇宙人として、自らを認識している。
「だから僕は、悪いことだってわかっててもノラ猫にごはんをあげるのをやめようとは思わない」
「…………」
言いたいことはわからなくもない。
わからなくもない、けど。
「でもなんか、それは違うと思う……」
それだと、かわいそうなノラ猫を延々と増やすだけだ。
本当に猫が好きなら、それはやっちゃいけないことだと思う。
「ミケがやってることは、宇宙人と人類との溝を深めるだけだと思うよ」
「…………」
わたしがそう言うと、ミケは黙ってしまった。
たぶん、ミケも本当はわかってるんだ。
自分がやってることが、本当は猫たちのためになってはいないこと。
でも他に自分がノラ猫たちのためにできることが思いつかないから、隠れてこっそりノラ猫たちにごはんをあげてるんじゃないのかな。
なんとなく、そんな気がした。
「……マキが言ってるのは、『人の尺度』での話なんだよ」
ミケがぽつりと呟いた。
「ひとのしゃくど?」
「つまり、人間の視点から見た意見だってこと」
「???」
ミケが何を言いたいのか、いまいち見えてこない。
「さっきの宇宙人と人類の話さ、なんでわざわざ人と猫との関係を言い換えたと思う?」
「……その方がわかりやすいからじゃないの?」
「違う。人間を猫の立場に置き換えることで、人間が猫に対してどれだけ勝手なことをしてるかってことを言いたかったんだ」
「…………」
わたしがバカだからなのか、ミケの言ってることがわかりづらいのか、話の筋がどうにも見えてこない。
そんな頭に「?」をたくさん浮かべてるわたしを見かねたのか、ミケがため息交じりに言い直してくれた。
「つまりさ、マキは人間でしょ?」
「まぁ、一応……」
「それじゃあ、自分が猫だったらどんな生き方をしてたかとか、そういうことって考えたことない?」
「……ねこだったら?」
もしもわたしが猫だったら。猫に産まれて、猫として生きていたなら。
「生まれ変わったら猫になりたい、なんてことを妄想したことなら何度かあったけど……」
「それだよ」
「……どれ?」
「もしも自分が猫だったとして、この世界でどういう生き方をしているか。どういう風に生きざるを得ないか。その結果、何を大切に感じて何を鬱陶しく思うか。それが僕の言う『猫の尺度』。人から見た価値観じゃなく、猫視点から見た価値観のことを言いたいんだよ」
「…………」
なんとなく、ミケが何を言いたいのかわかってきた気がする。
この世の中は、どこまで行っても人に都合のいいように作られている。
それは当然のことで、「社会」は人が人のために作ったものだから。人が人の都合のいいように作ったのが「人の世」なんだから、それは当然のことだとも言える。
ただ、この人の世で生きているのは人間だけじゃない。
開発やらで住処を追われ、人の作った街の中で生きることを選択せざるを得なくなった、人間以外の生き物も数多く住んでいる。
それは例えば、猫だとか。
そして猫視点から「人の世」を見た時、理不尽なことだらけで仕方がないんじゃないか。
たぶんミケはそういうことを言いたいんだと思う。きっと。
とりあえず自分の中で整理したことを話して、ミケが言いたいこととあってるかの答え合わせをしてみる。
すると「マキって意外と頭いいんだね」というリアクションが帰ってきた。
失敬な。
「でも、わかりやすくかみ砕いてくれて助かった。僕はまさにそういうことが言いたかったんだよ」
「ミケって、結構説明下手だよね……」
「ほっとけ」
むすっとしながらそう呟いたあと、ミケは急に真顔になる。
「……ただ、猫よりも人の方が『強い』。だから猫たちは人に従うしかない。それだけの話なんだよ、きっと」
ミケが初めて見せる嫌悪の表情をしながら、強い語調でそう主張する。
そこでようやく気がついてしまった。
ミケはきっと、人間が嫌いなんだってことに。
だから人の尺度よりも、猫の尺度で物事を捉えようとしてるんだ。
「それに、そんなに人類にとって害になるものを排除したけりゃ、さっさと宇宙に進出して人間だけしか生き物のいない星で暮らせばいいんだ」
ミケが吐き捨てるようにそんなことを言った。
今まであんまり気にしてなかったけど、ミケは結構むちゃくちゃなことを言うことが多いような気がする。
「人にとって都合のいいものだけを集めて、不都合なものは一切ない新天地で暮らした方が人にとっても猫にとっても、他の動物にとっても最善の解決策になるはずだよ」
「ずいぶん極論だよね、それ……」
そう答えながらも、わたしは昔読んだ子供向けに書かれた宇宙開発の本を思い出していた。
いずれ人類は地球から離れて違う星で暮らすことになるだろう、というどこか夢のある話。
けれどその際、人類にとって害になる生き物は絶対に連れて行かないし、移住船に紛れ込まないように厳密なチェックを施す。
蚊。
ゴキブリ。
ネズミ。
カラス。
人にとってはみんな害虫・害獣なのだから、人にとって都合の悪い生き物を連れていかないのは、少しモヤッとしたものの確かに理にあってると思えた。
じゃあ、猫は?
猫を捨てるのもエサをあげるのも殺処分するのも、全部人間側の勝手だ。
ノラ猫は何も悪くない。
悪くないけど、人の生活に悪影響を与えるからこんなにも嫌われてる。
そして人間側の勝手で、可愛がられたり殺処分されたりと、両極端な扱いを強いられている。
「やっぱり、さくらねこじゃないのかな……」
わたしは言った。
「ちょっとかわいそうだけど、ノラ猫を地域猫にするのが一番いいんだと思う」
人の都合で耳を切られて、子を作ることをできなくされて。
でも他でもないノラ猫たちのためにも、さくらねこにすることが人との一番の共存方法じゃないかと思えた。
少なくとも、ミケが言ったみたいに保健所で殺処分されるよりは何倍もマシのはずだから。
もちろんこれもまた「人の尺度」での話であって、「猫の尺度」からすれば人間のやってることなんて似たようなものでしかないんだろうけれど。
「それは同意見だけどね」
片手間に猫を集めるスマホゲームをやりながら、ミケがわたしの方を向いた。
「でもノラ猫にTNRをするとして、僕たちだけでなにができるの?」
そうだ。
わたし達はまだ中学生で、できることもそんなに多くはない。
ノラ猫を捕まえることができたとしても、手術をするお金なんてない。
わたし達だけじゃ、ノラ猫をさくらねこにすることなんてできない。
だったら。
「この街って、てぃ、てぃーえむ……?」
「TNR?」
「そう、TNR運動をしてる団体とかってないのかな?」
少なくともここにこうやってさくらねこがいるんだから、この街のどこかにTNR運動をしてる人がいないとおかしい。
それは個人でやってるのかもしれないけど、もしかしたらそういう活動団体があっても不思議じゃない。
もしもそういう場所があるなら、参加すればわたしたちでも何かできることがあるかもしれない。
他でもない猫のために。
ノラ猫を殺処分するのも人間なら、救えるのもまた人間だけなんだから。
「そんなこと言われても、どこでTNRの活動やってるかなんてわかんないじゃん」
「はい?」
再び手元のスマホ画面に目を移しながら、ミケがそんなことを言う。
なんだか少しいらっとした。
「……わからなかったら調べればいいんじゃない?」
「調べるって、どうやって?」
……いらり。
「あんたが手に持ってるそれは、ただの板きれじゃないでしょうがっっ!!」
びしぃっと勢いをつけて、ミケの持ってる板きれを指さしてやった。
それでも猫は……
「……やっと見つけたよ」
無言でスマートフォンを操作していたミケは、少しうんざりした感じで画面をわたしの方に向けてきた。
それによると、なんでもわたし達の住んでる市はノラ猫問題に積極的らしく、小規模ながらTNR運動をしているボランティア団体が存在する、とのことだった。
「あ、うちから結構近い」
活動場所の住所を見てちょっと驚いた。
まさかこんな近場にそんな活動をしてる場所があるなんて思いもしなかった。
灯台下暗し。
「ここ、行ってみようよ」
わたしはミケに提案する。
「わたしたちだけじゃできないこと、わからないこと、色々教えてくれるかもしれないよ」
そういうと、ミケは居心地悪そうにわたしから目を背けた。
「……でもさ、ハードル高いよ」
今まで独断でノラ猫に餌やりをしてただけに、やっぱりどこか罪の意識があるのかもしれない。まるで警察に自首しに行く犯人みたいな表情だった。
気持ちはわかる。わからなくもない。
だから。
「わたしも、一緒に行くから」
だから、そう言った。
違う。自然と口からそんな言葉が出てきていた。
……わたし、いつからこんなに積極的になったんだろう。
引っ込み思案で人見知りで、クラスの隅っこで誰にも興味を持たれずに細々と生きてきた小学校時代だった。
何をやるにもおどおどしてて、そんな自分が嫌で仕方なくて。
けれどいつの間にか、知らない人でいっぱいなはずのTNR運動に参加しようなんて、自然と思えるくらいにまでなっていて。
そんな自分に、自分でちょっと驚いてしまう。
これももしかすると猫のなせる技なのかもしれないな、なんてちょっと思った。
「…………」
それを受けて、ミケは少し戸惑ってるように見えた。
「なんかマキさ、ずいぶん印象変わったよね……」
「そう……かな?」
「変わったよ。初めて会った時の気弱でおどおどした感じが、ほとんどなくなってるもの」
「…………」
ミケにも言われるくらい変わったんだろうか。
……変われたのかな、わたしは。
「……よっし」
ぼんやりと考えていると、隣に座っていたミケがすっくと立ち上がった。
「僕も、負けてらんないよね」
「え?」
「行ってみるよ。マキと一緒に」
そう言ったミケの瞳には、確かな光が感じられた。
変わりたいと思うまっすぐな気持ち。今の自分から前に進もうとする、はっきりとした意志。
(……そっか)
たぶん、ミケもわたしと同じだったんだ。
ダメダメな自分が嫌いで、変わりたいと思っても変われなくて、「みんな」の中に溶け込むことが怖くて仕方なくて。
だから、自由奔放な猫に憧れた。
きっとわたしたちは、猫になりたかったんだ。
人間社会のいざこざから解放されたくて、猫みたいな生き方がしたいと望んで。
でもそれはあくまでもきっかけで、猫のことを知れば知るほど猫への愛情は深まっていって。
やがてその愛らしさの虜になって、猫を大切に想うようになって。
そしてさくらねこの存在を知って、猫でも人間社会からの影響を避けられないことを悟って……
そして、ミケは人間社会への反発としてノラ猫にごはんをあげることを選んだ。
わたしは、人間社会とノラ猫たちとの共存方法について考えた。
きっとそれだけ。
ただそれだけの違いでしかなかったんだ、わたしたちは。
「……うん」
わたしは変わろうとしているミケに、深く頷いた。
一人で無理だったら、ふたりでやればいいんだ。
わたしたちは、きっと協力できるはずだから。
変わりたいという想いを共有する、猫好き同士なんだから。
「でもその前に、ミケの本名教えてくれない?」
「なんで?」
「じゃないと、人前でミケって呼ぶことになるんだけど」
「別に構わないけど?」
いらり。
「……知らない人の前でミケって呼ばれるの、恥ずかしくない?」
「別に僕は恥ずかしくないけど」
「……あだ名にしても、ミケって結構恥ずかしいと思うんだけど?」
「だから、僕は恥ずかしくないってのに」
……ぷちん。
「……呼んでるわたしの方が恥ずかしいんだよっ!!」
思いっきり怒鳴ってやった。
▽▲▽▲▽▲▽▲
次の日、わたしたちはTNR運動を行っているというボランティア団体の住所を訪れた。
狭いテナントに大人の人が数人。みんな慌ただしく、部屋中を行ったり来たりしている。
部屋の片隅には大きめのケージに入った猫たちがにゃーにゃー鳴いていて、猫ボランティアの人が笑顔でお世話している。
大人の猫もいたけれど、ほとんどが子猫だった。
「この子たちは保護猫って言って、引き取ってくれる里親さんを待ってる子たちなのよ」
じっと見ているわたしに気づいたのか、ボランティアの人らしいお姉さんが近づいてきて説明してくれた。
「保護猫……」
やっぱりわたしは、まだまだ猫のことについて知らないことが多い。
改めて、そう思い知らされる。
「ところで、いらっしゃいませ、かな?」
「あっ、はいっ!」
「…………」
慌てて答えたわたしとは対照的に、ミケは言葉一つ発しない。
「今日はどのようなご用件でしょう?」
「…………」
「……?」
「あ、あのっ……! TNR運動について、詳しく知りたいんです、けど……」
てっきりミケが口火を切ってくれると思ってたのに何も言わないから、わたしが焦ってお姉さんにここに来た理由を話すことになった。
……もしかしてミケも、かなりの人見知りだったりするんだろうか。
「へぇ、TNRを知ってるんだ。まだ若いのに、ずいぶんと物知りさんだね」
そんなわたしたちを見てどう思ったのかはわからないけど、お姉さんはくすくすと笑いながら応対してくれた。
そしてわたしたちは来客用の席に案内されて、ここに至る経緯を話すことになる。
ミケはあれだけ決意のこもった表情をしてたのに、いざとなると何も言えなくなったみたいで、ずっと黙ったままだった。
だから仕方なく、必然的にわたしがお姉さんと話をすることになってしまった。
普段はあんななのに、ミケってば肝心なときに全然役に立ってくれない。
一応わたしも、人見知りのはずだったんだけどなぁ……
「……そっか」
そして一通り話を聞いてくれたお姉さんは、優しげに微笑んだ。
一応話すことは話したつもりだった。
さくらねこの存在を知ってTNR運動に興味を持ったこと、殺処分の現実を気にしていること、そしてミケが今までノラ猫にごはんをあげてたことも。
ただ、あの桜の広場のことだけは話す気にならなかった。
あの場所は上手く言えないけれど、下手に多くの人に知られることはなんとなく憚られるような気がした。
「…………」
隣で俯きがちに話を聞いていたミケが、わたしが一通りの事情を話し終えたのにあわせて顔を上げた。
完全に会話はわたしに任せて、自分は聞き役に徹するつもりらしい。
(あとで絶対文句言ってやる……)
そんなミケを横目で睨んでいると、お姉さんが棚から二枚のパンフレットを持ってきた。
表紙には猫のイラストが描かれていて、可愛らしいフォントで「地域猫とのつきあい方」と書いてあった。
「ネットで見て知ってるかもしれないけど、よかったらどうぞ。TNRのこととか譲渡会のこととか、色々と書いてあるから」
譲渡会。またわたしの知らない単語が出てきた。
わたしたちだけじゃ、まだまだ知らないことがたくさんあるみたい。
やっぱりここに来たのは正解だったのかもしれない。
「へぇ……」
それを受け取り、ここに来て初めて言葉を発するミケ。受け取ったパンフレットをぱらぱらとめくり、ざっと目を通しているみたいだった。
それを横目で見ながら目で訴えてみるけど、ミケは全く気づこうともしない。
「……ねぇ。もしよかったら、だけど」
そんなわたしたちを見て何か思うことがあったのか、お姉さんが伏し目がちに言葉を紡ぐ。
「実際に、保健所に見学に行ってみる?」
ぱりん、と一瞬で空気が凍り付いたような気がした。
「…………」
「……あ……その……」
「…………」
「…………」
わたしたちは何も言えない。
どう答えていいか、わからない。
実際に、この目で犬猫たちの殺処分の現場を見ること。
どれほど悲惨なことが毎日のように行われているのか、それをはっきりと痛感すること。
それは本気でノラ猫問題にかかわろうとするなら、きっと避けては通れない道だ。
その光景を目にすることで、殺処分の残虐性から目をそらすことができなくなるだろうから。
「…………」
けれど今のわたしたちには、まだそれはとても辛いことだったから。
そんな現場を見てしまったら、ノラ猫を見るたびにその光景を思い出して、素直に猫を可愛いと思えなくなってしまいそうだから。
だから。
いつかもっと強いわたしになったら、必ず見に行くから。
それまではこの暖かなひだまりの中で、猫の可愛さに溺れさせてください。
「……そっか」
わたしたちは何も言わなかったけど、お姉さんは黙りこんだわたしたちの雰囲気から察してくれたみたいだった。
「うん。じゃあ今度の日曜に譲渡会やるから、よかったら手伝いに来てくれると嬉しいな。場所はこれに書いてあるから」
お姉さんは重い空気を払うように、明るく一枚のチラシをわたしたちに渡す。
「もちろんボランティアだから、バイトと違ってお金は一円も入らないけどね。私達がどんな活動してるか、それを見てくれるだけでも結構違うと思うよ」
思わずミケと顔を見合わせてしまう。
「どう? 日曜暇だったら見学だけでも来てみない?」
言われるまでもなく、心は既に決まっていた。
「「……はいっ!」」
その返事は、わたしたちふたりの声が同時に重なって。
次の瞬間には、お姉さんもあわせて三人で大笑いすることになった。
▽▲▽▲▽▲▽▲
気がつけば、ねこだまりの桜はすっかり葉桜になっていた。
あれだけたくさん舞っていた花びらたちも、もう残りわずか。
そのほとんどは行き先を決めて、親元からの巣立ちを済ませていた。
「ここに来るのも久しぶりな気がするねー」
「だねぇ」
「そういえば、もうノラ猫にごはんあげなくなったの?」
「まぁ、さすがにね。衰弱しきった猫がいたら、獣医のところに連れて行けばいいいんだってわかったからさ」
「おお……ちゃんと勉強してる……!」
「でしょ?」
あれからわたしたちは、放課後になるとこの広場ではなく猫ボランティアのテナントに集まるようになった。
あの時対応してくれたお姉さんは、どうもこの辺りの地域におけるTNR運動の第一人者と言われてるすごい人だったみたいで、そのお姉さんに紹介されたわたしたちは他のボランティアの人達ともすぐに打ち解けることができた。
初めのうちこそ喋ろうともしなかったミケも今ではすっかり馴染んでいて、どこからか聞きかじってきた猫豆知識を偉そうに語っては、ボランティアの人達を驚かせている。
もちろんボランティアの人達の方が猫について詳しいのは百も承知だし、きっとあわせてくれてるんだろうなーとは思うんだけど。
「ほらー、おいでー」
相変わらず広場にたむろしているノラ猫たちにスマホを向けて、ミケが猫なで声を出す。
しかし、その声に反応する猫は一匹たりともいなかった。
「あれだけ懐いてたのに、ごはんをくれないとわかると近寄っても来ないんだなぁ……」
残念そうに呟くミケの後ろ姿を見ながら、にやりとしつつ皮肉っぽく言ってやる。
「えー? わたしのところにはちゃんと来てくれるよー?」
いつものようにベンチに座ったわたしのところには、ノラ猫が逃げずにそのまま待機してくれていた。
それどころか久々に来た私に気づいたのか、いつぞやの灰色の毛並みをしたさくらねこが、とてとてとわたしの側までやってくる。
「みゃうー」
そして久しぶり、と挨拶をするかのようにわたしに向けてひと鳴きしてくれた。
「……久しぶりー!!」
そのあまりにもな愛らしさに、思わずその子をぎゅっと抱き寄せてしまう。
そんなわたしを、ミケは恨めしそうな顔で見ていた。
「猫に好かれる体質って、やっぱりあるんだなぁ……」
そう言いながら、わたしの隣にゆっくりと腰掛ける。
すると人間の接近に警戒したのか、ベンチの上で微睡んでいたノラ猫たちが一目散にその場から逃げていった。
「…………」
「…………」
……さすがにちょっと不憫になった。
結局この桜のねこだまりのことは、ボランティアの人たちに話せないままだった。
なんというか、この場所はノラ猫たちに残された数少ない聖域のような気がしていたから。
下手に多くの人に知られるのはよくないような、そんな気がしたから。
……こういう風に考えてしまう時点で、わたしも「人の尺度」ではなく「猫の尺度」でものを捉えてるのかも、なんてちょっと思った。
「しっかし、すっかり葉桜になっちゃったなぁ」
「そうだねぇ」
ベンチに座ったまま頭上を見上げる。
巨大な桜の木からは薄紅色がほとんど消えて、瑞々しい新緑の若葉が大半を占めている。
桜の季節も終わりを迎えようとしていた。
「…………」
あの花びらたちがどこに行ったのか、どうなったのか、わたしには知ることはできない。
でも一代で終わる命だとしても、誰にも看取られることがなかったとしても、せめて幸せな終わりを迎えられますように。
さくらとさくらねこ。
重ね合わせて、ただひたすらにそれを願った。
「にゃうー」
わたしが抱いたままのさくらねこさんが、腕の中で心地よさそうな声を出した。
「こしょこしょこしょ……」
そんな愛おしいねこの頭を、くすぐるように撫で回してみる。
するとねこは気持ちよさそうに目を瞑り、わたしの手に身を任せてくれた。
「いいなぁ、マキ……」
そんなわたしを見て隣で何か言ってる人がいたけれど、あえて無視した。
今は何よりも、この至福のねこねこタイムを堪能することに全神経を集中させていたかった。
ざざぁんと波音のような音をたてて、桜の木が揺れた。
枝の隙間から木漏れ日がゆらゆらと、地上に暖かな陽射しを落としている。
風は初夏の匂いを孕みつつある。
季節は変わっていく。
変わるもの、変わらないもの。
そして変わりたいと願ったもの。変わらせたいと思うもの。
全てはうつろい、良くも悪くも時は動いていく。
わたしは広場でひなたぼっこ中のノラ猫たちをじっと見つめた。
……いつかわたしは、この子たちがモノのように処分されている現実を、直視しなければならない時が必ず来る。
その時のわたしは、それに耐えられるわたしになっているだろうか。
その光景を見てもなお、猫を見て無邪気に可愛いと思えるわたしでいられるんだろうか。
「…………」
そんなことが頭をよぎるも、猫たちはそんな人間側の事情なんて全く知らずに、今日も平和にのんびりと生きている。
どこまでもマイペースで。
どこまでも気楽で、自由で気まぐれで、ねこねこしていて。
人間側の都合なんてまったく気にもせず、ただひたすらにのんきなままで……
「……ふふっ」
思わず笑ってしまったわたしを不思議そうに見る隣の男の子に向けて、改めて思ったことを尋ねてみる。
「ねぇ、ナオヤくん」
「なに?」
「やっぱりねこって、可愛いよね」
「……うん」
結論としては、やっぱりねこは可愛い。
それだけは、わたしたちの中では何があっても変わらない事実なのでした。
さくら日和のねこだまりにて