嘆願書 人魚の生態に纏わる仮説と実証

cap.1 発端

 これから書くことは、全て真実である。

 私は十二年前、大学の動物行動学の研究室に籍を置いており、その大学のプールでインストラクターをしていた女性と結婚をした。互いに海が好きであり、私は職業柄、あまり人の知らない海域に明るかったので、ハネムーンには南太平洋のある島を選んだ。
 満月の海は、珊瑚の産卵日で、我々は数億の珊瑚の卵が漂う海の、不可思議な感触の中で愛を交わしていたのである。

 幾度目かの交わりの後、我々は海に並んで浮かび、月を眺めていた。幻想的な気分だった。
 不意に、私は下肢にぬめぬめとした暖かなものが絡み付いてくるのを感じた。とっさに彼女を見ると、彼女も異常に気付いたようだった。そしてその直後、下肢に激痛が走った。彼女が一瞬沈み、再び浮かび上がると声にならない悲鳴を上げて、また消えた。私はウツボかウミヘビの群れに囲まれているのではないかと考え、満月の海中に潜った。
 私はそこで、信じられない光景を目の当たりにした。
 巨大なクラゲの触手のように長い黒髪がたなびいていた。光る眼と、尖った鼻の女たちが、私に纏わりついていたのだ。女? 滑らかな上半身には乳房がはっきりと見えた。そして下肢は、鮮やかな半透明の鱗のような物にぴっちりと包まれて輝いていた。その下肢を、まるでバタフライをするときのように上下させて自在に泳ぎ回る、数十匹の生き物たちが、私に身体をぶつけ、絡み付き、私の身体にむしゃぶりついていた。彼女の姿はもう見えなかった。
 私は身体中の肉を食いちぎられながら、彼女のことを想った。時折、痛みのためか、酸素欠乏の為か分からないが、頭に痺れるような快感が広がった。こうして、死んでいくのかもしれないと思った。私は両足のアキレス腱を切断し、右肩の肉をごっそりとそぎ取られていた。
 砂浜に横たわる私の身体には、藻のようなものがべったりと絡まっており、ぬめぬめとしたひどい匂いのする液にまみれて全身が光っていたそうだ。助かったのが奇跡だった。噛み跡は全身で三十二箇所に及び、とくに、背中と足とに集中していた。片足は義足となり、傷痕は消えない。
 さらにどういうわけか、男性器が青黒く腐ってしまっていた。血液が送られないで組織が壊死したのだという診断が下されたが、一体いつそんな目にあったのか、当時は分からないまま、ひどくみじめな気分を味あわされたものだった。
 島の警察に被害届を出したが、私の傷は鮫によるものとされた。海域は遊泳禁止となった。
 私は最初、ありのままを話そうと思っていた。だが、だれが信じてくれるだろうか。自分で調べるしかなかった。私は大学を辞めた。それから十二年。あいつらに復讐し、愛する人を取り戻したい、という一念で、海から海へ渡っていた。あれが何なのかなぞ、考えもしなかった。化け物だ。ただの化け物だ。私はただ、彼女を見つけ出したかっただけだった。が、手がかりは何もなかった。だから、私は我々を襲った奴のことを調べて、何か手がかりを掴もうと思ったのだ。

「あれが、人魚なのではないのか?」

 そう考えるようになったのは、それからのことだ。

cap.2 伝承

 伝承では、人魚とは魚型のセイレーンの事であった。セイレーンはその歌声で人を惑わし、眠らせて肉を食らう。1250年に魚型セイレーンに関するまとまった研究が報告され、十五世紀以降、人魚を見た、という人は大勢現れた。コロンブスもサントドミンゴ島付近を航海中に、波間で踊る人魚を見たという記録が残されている。だが、この時の人魚は歌わず、顔も醜かったようである。
 もともと備わっていたはずの美貌は、時代が下がるにつれて、猿だか鬼だか知れない、フランス万博に日本という国から出品された、人魚のミイラさながらの不気味な面相へと変わっていったらしい。
 実際に、ジュゴンや、マナティという海獣が発見され、人魚とは、長い航海の途中で、女に飢えた船員が、こうした海獣を見間違えたものであるという説明が、まことしやかになされてきた。
 だが、現在もっとも広く流通している人魚のイメージは、ディズニーによるアンデルセン童話のアニメ化による「人魚姫」のものだろう。
 「人+魚」という生物の全てが「人魚」と呼ばれ、中国の、その肉を食うと千年の寿命と若さとを得るとの言い伝えなども、そのまま継承された。
 元々、イメージだけであった人魚は、様々な地域の「魚と人間との間の生き物」のもつ伝承を自在に混交しながら、「美しい顔派」と「醜い顔派」という二つの系統へ収斂していったのである。

 だが、私たちを襲った生き物を「人魚」と呼ぶからといって、上記の性質を継承しているのだと思い込まないでいただきたい。
 科学者として、私は現実に見たものから、生物学上考え得る仮説を立てようとした。科学は、今、確認されている事物を合理的に説明する方法である。その方法で説明できないことが生じたときには、速やかに修正されなければならないのが科学だ。
 だが、現在の科学は、むしろ例外的な事物の方を亡きものにしようという権威がはびこっている。私は、仮説を立証するため、人魚を捕獲しなければならなかったのである。

cap.3 仮説

 その仮説とは、まず、人魚は人間とかけ離れた存在ではない、という事である。
 我々が襲われた人魚は、下半身を覆う膜さえなければ、人間の女とほとんど区別がつかない形態をしていた。従って、生物学的特徴も、人間のそれをある程度適用できるはずである。
 生息区域としては、あまり冷たい海には適応できないと考えられる。もし、冷たい海に適応するのなら、分厚い皮下脂肪か、毛が必要なはずだからである。赤道からプラスマイナス30度の範囲。南太平洋付近を一応の目安とする。
 だが、もしかすると、人魚は暖流によって回遊する性質を持っているかもしれない。北大西洋海流にのれば、伝説の地デンマーク付近にまでやってくることは可能だからである。いや、いけない。今は各地に残る伝説を、私の追い求める人魚と結びつけてはならないのだった。私が追っている人魚が、世界中に流布している人魚伝説に当てはまらなくてはならない理由はないのだ。

 さらに、あれらは、海中での生活に適応しつつあるが、それは人間としての特徴が消える程、長い年月を経たものではない事がわかる。
 私が追う人魚は、我々、ホモ=サピエンスの段階を確実に踏まえている。というよりも、ホモ=サピエンスそのものなのである。地上での生活に適応した身体を、再び、水中用に変化させつつある過程なのだ。我々地上人と人魚との分岐点はずっと近代になってから、いや、その変化は骨格的にはせいぜい、一世代百年で可能な範疇に過ぎない。
 現代人の体力の低下、姿勢が悪くなった、体格がよくなった、などの統計が、三十年ほどで更新されていくことを考えれば、体格的な違いはその程度しかないのである。

 人魚は、雑食性である。
 肉を食い、卵を食い、海藻を食う。

 コミュニケーションの手段としての言語は失っている。

 視力は低く、耳と鼻とが鋭敏となる。骨格的な変化に比して、器官的な変化の度合いは大きい。

 第一に、呼吸の問題。第二に塩分濃度の調整法。第三に、生殖出産方法。

 これらは、実際に解剖してみるよりほかに実証する方法は無い。肺呼吸のみでは説明のつかない水中運動能力。日本には海女という職業の女性があり、彼女たちは訓練によって水中で五分以上活動できる。血液中に酸素を有効に取り込み、しかも無駄なく使用するスキームが確立しているからである。また、素潜りの世界では超人的な記録を打ち立てる者もいる。計算上では水圧で押しつぶされるはずの人体が、無事生還する事実は、人の身体の驚くべき(再)適用能力を示唆している。海中を生活圏に選んだ人間が、短期間でどのような能力を獲得するかは、未知数である。

cap.4 観察と捕獲

 私は実際の人魚を手に入れることができないまま、島々を巡り、伝説や、噂などから、仮説の補完を続けた。そして、十年が過ぎた時、私は再び、人魚を発見することに成功した。珊瑚の産卵のたびに、現地の若いガイドを雇い、夜の海に漕ぎ出して、性的興奮の為の具を提供しては、寄せ餌をまき続けてきたことが実ったのである。
 三人のガイドは、恐ろしい人魚のうねりくねる中で茫然としていた。私は、かつて我々が人魚に襲われた時に、何が起こっていたのかを、知った。

 三人は水面に顔を出し、たち泳ぎの姿勢をとる。時折身体が水中に引き込まれたり、高く持ち上がったりする。胸、腕、肩、背中、腹、下腹部、そして両方の足に、びっしりと取りつき、歯を立てる人魚の群れは、ピラニアさながらの獰猛さである。やつらは、手をガイドが抵抗できないように押さえつけるためにのみ使い、食事の補助のためには使わない。人魚の中には、珊瑚や真珠の装飾品をつけているものもいる。何らかの序列があるのかもしれない。声は出さない。時折、キューとか、ギュエとかいう音が聞こえるが、食道に空気が入っている音のようである。身体のどの部分を食うかを争いで決している。
 だが、ガイドの下腹部に取りついている人魚は、邪魔されることはないようである。下腹部に取りついた人魚は、ガイドの男性器を咥えている。そのしぐさは人間と同じである。
 人魚の生殖について私は考えあぐねていた。雌ばかりの集団となると、子孫はどのようにして残すのだろう。卵子単体でも発生は可能だし、雌から雄への性転換する生物も存在するが、ホモ=サピエンスに近い人魚はまだ、それらの機能を獲得するにはいたらないだろうと考えていた。この集団に男はいない。なぜ、男がいないのか?
 ガイドの男性器を咥えていた人魚が顔を離すと、それは十分な硬度をもって屹立していた。人魚は身体を「く」の字に曲げて腰を、そこにあてがった。そして、腰をぶるぶるとふるわえる。ガイドの顔に一瞬恍惚がよぎる。一匹が下腹部を離れると、次の一匹が同じことを繰り返す。その間にガイドの体からは肉が削がれ、骨が露出していく。凄まじい光景だった。血と肉の匂いだけではない。何かが腐ったような強い匂いで、私はその匂いを嗅いでいるだけで、頭がぼんやりとし、性的な高揚を感じていたのである。
 人魚たちが、骸となったガイドを中心に円陣を組んだ。ガイドの下腹部には一匹の人魚が取りついている。円は三重になっている。一番内側が、ガイドと人魚。次は、二、三匹の塊だった。私にはこの少数の人魚が一体どんな理由で外周に回らないでいるのか、わからなかった。だが、よく観察すると、どうやら、その人魚たちの腰には、一様に、透明な風船のような何かが付いていることが見て取れた。違いはそれの有無だけだった。
 周辺を三角の背びれが切り裂き始めていた。人魚たちは血の匂いに引き寄せられてきた鮫のダンスに気付いたのだろう。今しかない。私はカヌーの上に半身を起こし、麻酔銃を構えた。狙いは、ガイドの上で腰を震わせている人魚だ。狙いを過たず、人魚はギュッっという音を立てた。円陣が一瞬乱れた。そこへ鮫が突入してくる。私はガイドに結びつけてあった鎖を手繰り寄せる。鮫が幾度もガイドをつついた。私は人魚とガイドとをカヌーに引き上げることを断念した。どうか、岸に付くまでもってくれ。それだけを願った。

 夜明け間近の重々しい空の下で、私はカヌーを岸へあげた。鎖の先には、下半身だけになったガイドと、そこにくっついている人魚が、かろうじて残っていた。人魚も死んだようだった。研究所に戻り、早速解剖の準備をした。ガイドには気の毒だったが、獰猛な鮫の群れから救いだすことはできなかった。私は彼の犠牲を無駄にはすまいと思った。
 夢にまで見たサンプルが手に入ったのである。しかも、貴重な生態を観察することもできた。これで、仮説はより強固なものとなるであろう。

cap.5 解剖所見とさらなる仮説

 色々調査していくうち、興味深いことが分かってきた。

 まず、最大の問題だった呼吸については、我々と同じ肺呼吸も可能だが、何よりも、皮膚からの呼吸が最も大きな比重を占めているらしいということだ。
 人魚の皮膚には毛がなく、通常、汗腺となっている筈の組織が、酸素を濾し出すフィルターのような細胞となっているのだ。
 人魚は汗をかけない。そして、身体中に毛細血管が張り巡らされていて、酸素と二酸化炭素とを交換するのである。ここで得られた酸素を肺に蓄えることも出来るようだ。さらに、腹部を切開すると、人間が誕生するときに閉鎖されるはずの臍帯血管に通ずる経路が残っていたのである。まだ不完全なようだが、臍のしわくちゃの皮膚が腹腔内に新たな組織を形成し始めており、この器官が発達すれば、人魚は臍で呼吸する。ということになるのかもしれない。いや、人魚の赤ん坊は、生後しばらくは臍で呼吸をしているのかもしれないのである。

 そして、生殖の仕組みであるが、まずその前に下肢を覆っている膜の正体を明らかにしておこう。海上で嗅いだ匂いは、この膜から発している。粘膜が長い間に固着して、ビニールのようになっているのである。これはどこから発したものか、成分を調べてみると、鮮やかな色は、海中の珪藻類、貝殻、そして血液などを取り込んでいるのである。そして、この膜は何層にも重なっていて、それがあたかも鱗のように見えるのだ。
 女性器から常時分泌される粘液が下肢に垂れ滴り、膜となる。人魚の場合、唾液も含めた全ての分泌物は、粘度が高い。私が砂浜で、半死半生で発見されたときにぬめぬめと光っていたのは、海水に洗われても落ちない、人魚の唾液だった。
 人魚のふくよかな腰、臀部は人間と同じく双丘を成している。尻の割れ目にそって見ていくと、張り詰めた太腿がその先を閉ざしている。そこを押し広げてみると、股関節の辺りに、指二本程が入る、そこだけが脂肪質のトンネルになっているのである。
 私はガイドの下半身を検分してみた。青黒く内出血をしている。根元が特にひどい。
 つまり、人魚は足を広げることができないかわりに、太腿の後ろ側に導管を持っているのである。あとは、泳ぎで鍛えあげられた筋肉、括約筋の動きで、射精を促すのである。
 では、ここでざっと他の大まかな特徴を挙げておく。
 脊椎は直線的であり、人間のようなS字曲線をなさない。頚椎は頭蓋骨に接続するあたりで直角に折れ曲がっている。うつ伏せに寝て、前方を見ているような状態である。人間のように直立すると空しか見えない。泳ぎ姿勢からすsると、それで普通なのである。
 骨はカルシウム豊富だが細い。全体にほっそりとしている。
 毛髪は特に人間のものと違いは見られない。このサンプルの場合は、黒くて太くてごわごわしていた。
 頭の比率は少々大きめだ。6.5頭身くらいであろうか。水の抵抗を考えれば、頭は小さくなると思われたが、逆のようである。
 眼は白濁しているが、これは涙腺から粘度の高い涙を常に出して眼球を保護しているためだと考えられる。生きている人魚の瞳は琥珀のように柔らかな光を湛えている。
 鼻は尖っていて鼻腔はとても細い。塩分調整のため、海鳥は鼻の辺りに塩分を濾し出す機構を備えているが、おそらく、人魚も喉の粘膜にそういった機構があるのだろう。従って、人魚は常に鼻水をたらしている。
 耳には特に変化は見られないが、聴力は低いと考えられる。
 匂いに関しては、切開して嗅覚細胞がいかにして海水に溶け込んだ匂いを感知するかを調査する必要がある。鼻の中に水の入らない部屋があるのかもしれない。匂いに敏感なことは、確実なのだ。
 腕は身体にぴったりと添わせることができる。腰のクビレに肘の出っ張りが嵌るようなバランスである。泳ぐときには、手を両脇に添わして魚のヒレのように掌を使うのだろう。泳ぎはドルフィンキックで躍動的である。
 足。これがもっとも驚いたのであるが、膜を切開してみると、足は人間のものとほとんど変わらないのである。ただずっと揃えて固定されているため、骨盤が上に広く下に狭くなり、左右に開くことは不可能である点。つま先が左右に180度開く程外側に捻れている点が異なるくらいだ。ふくらはぎはほとんど発達していないが、大腿部は素晴らしい筋肉に覆われている。
 体脂肪は26パーセント程。これではやはり冷たい海での活動は不可能である。魚中心の食事と激しい有酸素運動の結果だろう。
 皮膚は、背中側は日焼けのために幾度も皮が剥けて角質化し始めているが、腹側はむしろ白い。一般的な魚と同じだ。鳥などが上から見た場合、背中側が暗い色のほうが、海の色にまぎれて目立たず、底から他の魚に狙われた場合には光にまぎれる明るい色の方が目立たないという、自然の摂理に合っている。
 歯は出ている。耳は小さい。手には水掻きのようなものが発達しつつある。そして、肌(腹側)は非常に薄い。保湿性はまるでなく、地上に上げるとすぐにひび割れてきた。水を離れては生きていけないだろう。

 さて、ここからは憶測である。
 脚を開けない人魚はどうやって出産をするのか。
 私は、鮫に襲われた時に、輪の内側で守られていた人魚の尻についていた風船が、子宮ではなかったかと推察する。
 卵を腹の中で孵す卵胎生というものがある。爬虫類なのに子供を産むといわれていたマムシなどがそうだ。この逆に、胎卵生とでもいうべきしくみで、子宮を、あたかも卵のように体外で育てているのではなかろうか。
 海の組成は人間の体液に近いという。そして重力という制約のほとんどを、浮力で相殺できる。南海の暖かな海水で育まれる人魚の子供は、きっと水中での呼吸も会得しやすいのではないだろうか。
 母親とへその緒で繋がった体外の卵。私は、これならば、あの股の導管からでも出産できると思うのである。

cap.6 捕縛

 私はいよいよ、人魚の内臓器官を細かく検分する段階に入っていた。
 が、そこに島の警官どもが踏み込んできたのである。雇った三人のガイドの親たちも一緒だったようだ。私は、ガイドたちが、いちいち自分の親に、私との関係を話していたということに腹がたった。
 警官どもは、私の寝台で腹を開かれている人魚に駆け寄ると、脈をとったりしている。死んでいるのは明らかなのに。もう一人の警官は、食いちぎられたガイドの下半身に、シーツを被せている。身元確認でもさせるつもりだったのだろうか。
 写真が何枚も取られた。拳銃が私を狙っている。私はガイドの死について、夜の海、珊瑚の産卵を観察している途中で、誤って船から落ち、そこに鮫が来たのだった。と説明した。が、警官は私を睨みつけると、手錠を嵌めたのである。
 容疑は、誘拐、暴行、殺人、死体遺棄。であった。
 四人を猟奇的な方法で殺害した残忍な異常犯だと、発表されてしまったのである。
 私は何かの間違いだと思った。ガイドについては、研究に協力してくれたのは自発的なことであり、事故ではなく、故殺だという証拠は何一つないのであるし、被害者の一人とされているのは、人魚なのである。
 私は現場の写真を指さしてこう主張した。
 「この歯型を見なさい。これはこのオンナの歯型と一致するはずだ。また、このオンナの性器からは、この少年の精液が検出されるだろう。私はその場に居合わせただけである。
 私は研究のために少年たちとは別のボートに乗っていたのだし、彼らが恋人を連れてくるかもしれないなどと、考えもしなかった。私は海から、この2つの遺体を引き上げただけなのだ」と。
 人魚、などとは言えなかった。そんなことを言えば、きっと私は狂人扱いされるだろうと思ったからだ。こうした配慮をできる点でも、私が精神に異常を来しているなどという警察の見解は、間違っているのだということは、お分かりいただけるであろう。

 警察はどうしても私を犯人にしたがっているのだ。あのガイドに残る歯型は私の歯型であり、人魚から検出された精液は私のものだという。しかも人魚は銃で撃たれており、その銃は私の研究室から発見されたというのである。こんな馬鹿な話はないのだ。
 しかも、十二年前にも、私はオンナを一人殺したという疑いをかけられているというではないか。
 人魚のしわざなのだ。全ては人魚のしたことである。そして、人魚がいかに人間に近いからといって、人魚に人権を認める法律はまだないはずである。
 私は方針を転換した。オンナが人魚であると、真正面から主張することに決めたのである。

cap.7 人類への警告

 どうか、この嘆願書を読んで私をこの薄汚れた場所から解放してください。ここの警察は、私を犯罪者に仕立て上げているのです。証拠はみんな警察のでっち上げです。どうかこの島の警官の性器を調べて下さい。もうそうとしか考えられない。
 ここの警官たちは、いやもしかしたら、島民の男たち全員が、人魚が与える快楽の虜になっているのだ。身体を喰い千切られている最中でも射精可能なほどの激しい快楽に、操られているのだ。
 人魚には知能はない。だが、環境を利用する本能的な反応は、動物界にも普通に見られるものなのだ。人魚はその扁桃体に男への憎しみを刻み込んでいる。
 このままでは、この世界は人魚にのっとられてしまうぞ。私は人魚の、この男社会に対する怨みの原因について、示唆的なひとつの伝承を聞き込んだのだ。

cap.8 伝承

 昔、領主様の若様が、農民の娘に手を付けなさった。娘は若様の優しい言葉に騙されて、世継ぎを産んで城に入れると思い込んでいた。しかし、そうはいかなんだ。
 王はその娘の腹が大きくなってきていることに腹を立てた。世継ぎのことでもめることになるからのぉ。若は、そんな娘は知らん、と言うた。娘は泣きながら訴えたが、腹を蹴られる、水をかけられるといった散々な仕打ちを受けた。
 だが、赤ん坊は降りず間もなく臨月だ。娘は『これは若の子だ』といってきかない。民衆の耳にも広がりはじめる。
 娘は捕らえられた。細い紐で足をいましめられて、まともに立つことすらままならん格好で、崖の上に連れて行かれる。そこで娘は裸に剥かれて、突き倒される。両足を縛られているから立つこともできん。魚か海老か蛇のように身体をくねらせて王の兵隊を見つめるだけじゃった。兵隊は言う。
「見よ。若の子供を身篭った言うは、蛇の化身なり。清浄な光に照らされてついに本性を現しおったぞ。この腹にいったい何を飲み込んでおるのだ。化物め」
 すると、農民がこう叫ぶ。
「ああ。家の羊が一頭おらん」
「あ、うちの豚もじゃ」
「この腹に農民の大切な家畜を呑み込みおって、いずれ若様までも食らう積りであったに違いない。それ、海へ投げ込んでしまえ」
 娘は飛沫の中に消えてしまった。が、この話には続きがあるのじゃ。

 娘をよく知る者も、知らぬ者も、蛇の化身なんぞという子供だましに騙されるものなぞおらん。王に逆らうことができないだけじゃった。が、この仕打ちはあまりにも酷かった。女たちは、王に向かって抗議したのじゃな。国家にとって女はあまり役に立たぬと思われていた頃のことじゃ。
 王は腹を立てて、楯突く女を片端から足を縛って海へと投げ込むように命じた。みな、あの蛇憑きの仲間だと言うてな。
 それでじゃ、その国には女が減ってしまった。男は慰みを隣国に求めた。そんな国がいつまでも続くわけがない。結局、隣国に征服されてしもうたよ。その国の女王は、そうして殺された女たちを偲んで、海に投げ込まれても魚の精となって今も生きてくれとの願いを込めて、ブロンズ像を建立して祭ったのじゃ。

cap.9 人類の未来のため

 今、人間は新たなる一歩を模索しているではないか。人間がせいぜい百年という期間で、海中に適応できるとしたら、このメカニズムは今後の人体生理学にも有効な研究材料のはずだ。これは新たな人類の進化の方向を示唆しているのだ。
 人魚の研究を、この私をおいて一体誰ができるというのか。私は人魚をおびき寄せる方法だって、考えてあるのだ。この手紙を読んだ者は、私を助けなければならない。私を助けないでいることは、人類の損失である。
 この島は腐っている。
 いつもあの人魚の匂いが漂っている。時間は、ある。私は待っているよ。私はこれから先、1000年だって生きられるのだから。
 だが、地球人類の命運は、そんなに持たないかもしれないねぇ。私は、人類を救うことが出来る唯一の知識をもっているのだ。


 この手紙はいつものように、刑務所を出ることなく処分された。

 男は毎日、このような長い手紙を書いている。 終わり

嘆願書 人魚の生態に纏わる仮説と実証

嘆願書 人魚の生態に纏わる仮説と実証

ハネムーン。珊瑚の産卵する満月の海に遊ぶ二人を、人魚の群れが襲った。男は生物学者として人魚を追い、その成果は着実にあがりつつあったのだが、突如として、警察の手に落ちてしまった。 いわれなき罪を叫ぶ男が暴いたおぞましき人魚の生態。人類に未来はあるのか。男の訴えは届くのか。全てはこれを読んだ者にかかっている。 暴かれた人魚の生態の一例:人魚は上しか向けず、汗をかかない。臍で呼吸をし、常に鼻水を垂らしている 他。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-18

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. cap.1 発端
  2. cap.2 伝承
  3. cap.3 仮説
  4. cap.4 観察と捕獲
  5. cap.5 解剖所見とさらなる仮説
  6. cap.6 捕縛
  7. cap.7 人類への警告
  8. cap.8 伝承
  9. cap.9 人類の未来のため