串刺し王の玩具

0.抜粋

『彼ら飛ぶもの達は一般の人間とまったく変わらぬ生活を送っている。彼らは飛ぶという以外に何の特徴も無く、その能力が人生に益を為す事も無い。それどころか、ひたすらにその力をひた隠しにすることが、生き抜く為の必須手段なのである。もし、飛行を目撃されでもしたら、人々は彼らを八つ裂きにした上に火炙りにし、鉛の棺桶に灰をつめて下水に沈めてしまうだろう。そういう社会なのである。
 飛ぶという能力を、彼ら自身も無視しつつ生活している。ただ、不意に飛び上がったりしないよう気をつかうことは、精神に極度の負担をかけるらしく、焦燥と疲労とが慢性疾患となっている。彼らは少数者の不安と誇りとに苛まれ、少しでも多くの同類と団結したいと考えている。その特殊な処世術により、彼らは一般人とは相容れない価値観を持っていることが察せられる……』

(『串刺し王の玩具に集いし者についての考察』と題されたタブロイド紙の、完結しなかった特集記事より)

1.街は霧の中にあった

 街は霧の中にあった。

 この季節この街には霧雨が充溢し、人々は鯉のようにだらしなく顎を落し、雨滴を吐呑する。
群れなす人間の体臭、軒を連ねた家屋の窓から漏れ出る乾燥した肉の匂い、安酒の刺激臭、そして、生乾きの洗濯物の匂いなどが、地下から気紛れに吹き上がる蒸気に攪拌され、渾然一体となって狭く暗い路地を濁流の如く下っていく。行き着く先は駅前噴水広場である。

 ターミナル駅に降り立つ訪問客達の顔には、一様に新奇な皺が刻まれる。街の第一印象は非常に悪い。野良猫の食べ残し、ネズミの死骸、残飯、浮浪者達の垢と汗、職工の膚に染みついた薬液と油の匂い、そして、女達のまき散らすジャコウやハーブ類などの悪臭には馴染んでいても、この街のすえたような匂いと、沼底のように濁った色調が、精神をたちどころに萎えさせるのである。
 にもかかわらず、この街から群集の絶える事は無い。国で二番の人口を抱えた大都市である事の他に、その理由は三つある。

 一つは、数年後に控えた「世紀末祭典」の為。
 二つには、一昨年開設された総合病院施設の為。
 そして三つ目は、あの塔の存在である。

 早朝、霧と蒸気に霞む夥しい群集の中に、忍耐する一本の行列がある。その中の一人が彼である。
黒の中折れを目深に被り、黒曜石のような靴を履いた長身痩躯の若者で、黒い瞳を帽子の縁に滑らせている。周囲に、彼程こざっぱりとしていて、季節に相応しい格好をしている人間はいない。

 蒼い影の浸潤する寒々とした街路は尽く濁り、馬車馬の手綱房や、外套の隙間から覗くビロウド上着の鮮やかさも、毒々しいだけである。 他所で流行している、羽飾り付の帽子や、木枠入りのレーススカートを纏った婦人達の姿はない。

 派手派手しい帽子を被ってこの群集に紛れた令嬢は、まず真っ先に帽子を流されるだろう。文字通り、人間の頭上を木の葉のようにたゆとうて、やがて何処かの路地へと吸い込まれていくだろう。孔雀の羽も、宝石も、果ては帽子に巻かれた絹のリボン一本までも、彼女の手には戻らない。もし、盛大に膨張したスカートまで身に付けていたとしたら、彼女自身が、帽子と同じ運命を辿る羽目に陥る。そして、身体もろとも暗渠に引き込まれて二度とは還って来ないだろう。

 だから、富豪達は決して馬車から降りようとはしない。街の濁色は、忙中貧苦の色でもあった。

2.串刺し王の玩具

 様々な色や形の頭があまた蠢くこの目抜き通りの乱流は果てもなく、立ち尽くす行列との激突は阿鼻叫喚の修羅場を呈している。行列の先頭は街区の先端、駅前噴水広場に面した扉の前に達する。そこが、かの総合病院受付口なのであった。
 二十三本の大通りは駅から放射状に計画されており、街区は二十四の二等辺三角形に区分されていた。総合病院はその一街区を丸ごと高層化した巨大な近代建築で、

「王妃の残飯」

と称される、全ての専門医を網羅した巨大施設である。
 アパートに換算すると千部屋にも、千五百部屋にも匹敵する容積を持ち、東部随一の高さを誇る展望式昇降機を備えた要塞が、駅前の一等地に聳え、人々を待ち受けている。

 交通の便が良く、技術も優秀なこの病院への来院者は数を増していき、それに応じて、通訳や土産物屋などが繁盛した。それは、通りの向かいに軒を連ね、さらに、行列を当て込んだ移動式のスタンドや露店がひしめきあって渋滞した。切符や診察定期の屋外販売などは、街の大きな財源となった。
 この街独特の臭気とは、夥しい数の傷病者と、薬品の匂いなのかもしれない。行列したまま、息を引き取る者も少なくは無い。

 幸い、彼はそれほど差し迫った容体ではないらしく、ただぼんやりと前の人間の足跡を辿っているが、両の目だけは絶えず辺りを窺い、口は半開きで息遣いは荒い。
 彼は、街の変貌に驚嘆していた。かつての印象は、心の奥底に石化していた。

「樵のし損じ」

と呼ばれる駅に降り立った時、風景と呼べるのは、あの塔の異形のみであった。だが、現在は街のいたるところに塔状の建物が林立していた。駅には銀色の天蓋が被せられ

「令嬢の接吻」

と称されるようになっていたし、病院の昇降装置の天辺も怜悧に磨ぎ澄まされている。

 通り沿いの建物は診察者を泊める宿屋を始め、上へ上へと建て増しを繰り返した。壁を接した家同士で話をつけて、勝手に部屋を打ち抜いたり、地下通路を繋げたりするのも、宿としての厨房や食堂、大部屋を確保する為だった。

「屋内を歩くのに地図と綱が要る街。」

と、ある建築家は述懐した。構造計算など知らぬ素人達の仕業に、肝を冷やしながらの探索の結果、吐息混じりに吐き捨てられた言葉である。

 病院を建設する時、そのあまりの高さに、太陽の光を求める近隣住人が訴えをおこしたという嘘のような話もある。一年に数日だけ降り注ぐ陽光につけられた値段は、長距離列車の片道分の運賃と同額だったという。

 性急な原案承認や、手回しのよすぎた土地買収などは、今にして思えば、「祭典」の前奏に過ぎなかったのだろう。当局が懐にしている計画図によると、駅と病院の他に、現在の街を髣髴とさせるものは何もない。
 特に改編が大きいのは、あの塔のある街区だったから、以前からまことしやかに囁かれていた憶測が、俄に現実味を増した。

「当局は、あの塔を極めて穏便に始末する為だけに、祭典開催地に名乗りを挙げたのに違いない。」

 あの塔は、名称を「串刺し王の玩具」という。

「串刺し王」の治世は伝承に残るだけで、真偽は定かでないので、これは俗称なのだが、最古の俗称である事だけは間違いが無い。
 その街区の最初の都市計画は、

「開発は破壊では無く、再生である」

のスローガンによって押し進められた。半世紀あまり昔の事である。

 当時、この街は広漠とした荒れ地だった。配属された役人達は、草原に聳える一基の塔を恰好の道標と定めて、計画を進めた。駅に人々が集まり、交通が頻繁になるにつれて、塔は街の名物となった。そして外地からの調査隊がやってきたのである。

 外国の歴史学者並びに建築史家は全土の遺跡調査報告『旅の友』の中で、この塔の事を『羽の無い風車。埋葬者の無い納骨堂。』と酷評した。開発効果第二位の実績を誇っていた街の尊厳は一挙に崩落した。

 内部調査をした科学者が謎の死を遂げたとか、絨緞を踏むと、未だに血がしみ出してくるとか、新しい死体がいくつも転がっていたとか、子供達の剥製が並んでいたとかいう噂が、街中に流布した。一歩でも足を踏み入れたら、建物全部が屋台崩しになるのだとか、底知れぬ穴に落ちるのだとかいう誤解は、既に事実として認知されていたし、タブロイド紙は写真入りで、この塔の周辺で発見された場違いな落下物を紹介していた。行方不明になった子供たちの九割は、この建物の鐘楼で生皮を剥されているのだとか、実は、人造人間を生み出した偏執狂が住んでいたのだ、などという戯言に震えて眠る子供時代を過ごした大人達は、自分の子供がまったく同じ話に怯えている事を感に絶えない様子で語り合った。

 塔の窓や門は厳重な板塀で塞がれて、鎖が幾重にも取り巻き、三交代勤務の張り番が右往左往している。当局が内部の何物かを厳重に秘匿しているのだと勘繰る者も後を絶たない。
 本当のところは、単に崩壊の危険があるための処置に過ぎないのだと、窓口の担当官は肩をすぼめた写真付きで、談話を発表した。
 当局は一刻も早く始末をつけたいと考えていた。しかし、通りには人馬が絶えず行き交い、露天の天幕が畳まれる事は無い。交通規制と、周辺住民の強制移転は大変な出費となる。という事で、周壁をぐるぐる巻きにして、不可侵措置かつ不可視措置を講じる事で、これまでだんまりを決め込んでいたのであるが、近年になって突然強行手段を行使し始めた。

「何人たりとも建物への出入りを禁ずる」

 という立て札は、本来安全確保の為だったが、いつしか機密漏洩防止とでもいった内容へと読み替えられ、当局はあらゆる可能性を断つべく綿密な、そして言語道断な規制を成立させ、即刻施行したのである。秘密の通路の調査、屋根伝いにこの建物へ取り付く可能性の完全なる排除、対面する建物との間に洗濯ロープを張り渡す習慣の根絶、さらに、棒高飛びの要領で三階の窓から飛び込む手段を防止する鉄条網など、近隣住民に提出を要求した誓約書の数は、年末の確定申告よりも大量でしかも事細かかったという。
 結局、この塔付近の住人は家を引き払っていった。
 あくまでも自由意志という建て前だったため、何の補助も出ないまま、住み慣れた街を捨てて夜行列車に乗ったのだ。後足で砂を掻けるように、である。

 下宿屋を営んでいた老夫婦は商売を続けられなくなり、地下室の穴で首を吊ったと言われている。宿泊客の獲得競争が熾烈を極める昨今、老人は一か八かの賭けに出て、虚しく破れ去ったのであろう。世論は最初この老夫婦に同情的だったが、地下室から毛髪の束や、稼ぎに合わない肉の塩漬けが大量に押収された事をすっぱぬいた大衆紙が飛ぶように売れ、老人は名誉回復の余地を失った。遺体は地下の竪穴に吊るされたまま埋められ、親類は住所と姓とを変えなくてはならなくなった。
 塔のある街区の住人はその三軒先まで災禍に遭い、現在はさらに四軒目が危ないと言われている。あまりにも冷徹な執行と、日に日に厳重になる塔周辺の監視から、噂はますます詳細かつ断定的となった。それは、塔の内部に可及的速やかに処理すべき公的問題が隠匿されているのだ。という物で、そこには魔女か伝染病患者の死骸があるに違いないというのである。

3.波頭の薔薇

 行列が動いた。

 真っ白な毛皮を纏った看護婦が、兎の尾のように流れてきた。彼女の周囲を後光のように漂う消毒薬の匂いは、群集を正気付かせ、一時的に混乱が治まった。彼女の手にしたプラカードには、こう書かれている。

「ただ今の待ち時間。三時間。」

 彼は傍らを過ぎる清涼な香りを大きく吸い込んだ。そして、自分の境遇を振り返り、力なく頭を振った。彼は自分自身を顧みる時、決まって溜息をつき、頭を振る。思い出す甲斐の無い人生、しかし、自分にはそれしかないのだという諦めが、彼に年齢以上の沈着さを与えている。
 彼の故郷は海を隔てた小さな島だった。だが、その場所に見切りをつけたのは、自分の故郷が島であるという事を知る以前の話だった。彼は家を出ようと決め、初めて海を知った。

 「波頭の薔薇」

 という種類のレース製作に従事していた両親は、長男だった彼に仕事を覚えさせようとしたが、生憎、彼の指先は両親の希望通りには動かなかった。周囲の失望を感受した途端、彼は自分の居場所を失った。
 金持ちがいくらでレースを買うのかは知らなかった。生活は苦しかった。彼は窮乏する家を出なければならない事を悟り、両親は止めなかった。三等客室の匂いと揺れとは、彼の心に深い傷を負わせた。目の前に霧が漂い始め、彼はこの国へ降り立った。それ以来、彼の視界から霧の晴れる日は無かった。

 彼は勉強に精を出しながら、好奇心の欠如を自覚した。金時計を受領したが、職工への紹介状を手にする事は出来なかった。かといって、学校に残る算段を採る情熱も無かった。 この街に落ち着いたのは、この匂いのせいかもしれないと男は思った。それは忌まわしい三等船室の匂いに酷似していた。

 彼は広場の噴水に腰を下ろし、「串刺し王の玩具」の奇観を目の当りにした。

 一階から三階までの基壇部は、病気のトウモロコシのような形に積み重ねられた花崗岩で、風化した壁肌は、白癬のような模様に覆われている。そして、乳白色の粒子が浮遊する蒼い中空には、挑発的に煌めく三本の長大な槍が揺らめいていた。どうした加減か、この槍の反射は時として眩惑される程に強かった。塔の名称は、まさにその三本の長大な槍に由来していた。

 長い間、風雨と盗掘の危険に曝され続けていたにもかかわらず、基壇部のさらに三分の二を超える長さを誇る三つ叉の槍が、現在に至るまで視界を圧する反射光を発する奇跡は、霧深く光に乏しい街中にあって妖気すら漂わせていた。陽光とも月光とも違う、温度も色も無い光に彼は魅入られていた。そのうち、上空に染みのような物が現れた。真中がくびれていて、女のような形をしていた。彼は、光を見続けた為の残像だと考えた。染みはふらりふらりと漂いながら、塔の屋根に張り付き、二三度腰を振り立てると、唐突に消えた。鳥以外に空を飛ぶ物は、虫か蝙蝠しか無いが、染みはいづれとも違う形をしていた。

「幻覚まで結ぶようになった。俺ももう長くは無い。」

 彼はそう考えて、自分が辿ってきた道を思い返した。それが最初の自省だった。それ以来、彼は飽くことなく追憶し続けていた。

 のんびりと空を見るのは天文学者か、奇跡を待つ司祭の類だけであった。いづれもこの街とは無縁の職業だ。貧民は路上に落ちているかもしれない銅貨や残飯を探すか、通行人を値踏みするばかりだった。金持ちはもっと性急な娯楽を求めていた。空を眺めようなどという物好きは、すぐさま怠け者と罵られ、狂人扱いされた。

 学士だからと気を良くして宿を貸した女主人は、牛の体に棍棒の四肢を持ち、山羊の目と懸巣の口を持っていた。耳は年増女の純正品で、彼は引っ越した翌日から後悔し始めていた。

 彼は未来に一筋の光明をも見い出せなかった。目の前を粉ミルクのような白い粒子に隈取られ,傍らを行き過ぎる人も街路樹も、全ては白の濃淡でしかない。こうした世界に生き続ける意志を失ってから、彼は固い寝台を自分の棺桶と定めた。

 女主人は彼の惰弱を嘆き、薪割り、水汲み、模様替え、家畜の世話などを任せてきたが、全て満足に出来なかった。若く学もあり、見たところ健康そうな彼を、女主人は病気だと決めつけ、屋根裏部屋に閉じ籠もろうとする彼に昼夜を問わず「医者にかかるように」と勧めた。

 彼はしつこい勧誘を拒否する事に疲れ、とうとう折れたのである。そしてようやく、順番が回ってくる今朝を迎えたのだ。
 彼は遅々として進展しない行列の一員となり、か細い太陽の落とす影の動きを追いかけるのに忙しい。かつて眺めた空は無い。圧倒的に聳える街区と、張り渡された洗濯物とが、空を完全に塞いでいる。

「もっと高い所へ行きたい。」

 と彼は思った。ここはあまりにも底辺でありすぎた。周辺に高い建物がひしめきあえばひしめきあうだけ、人間は卑小になり、底で蠢く虫のようになってしまう。

 背後には、全身全霊で樫のステッキに縋り付いているフロックコートの老人がいた。行列の振動で老人を折らないように、彼は細心の注意を払った。老人はすまなさそうに帽子を取って会釈したように見えた。だが、会釈した老人の頭は彼の肩に乗り、曲がった腰が彼の背中にはまり込んだ。彼は老人を背負って、ひたすら受付窓口が現れるのを待った。

「只今の待ち時間 四十分」

 看護婦がにこやかに列の脇を歩いていく。彼は覚えず腕に目をやったが、そこに時計は無かった。先月、家賃の代わりに女主人が取り上げていったことを忘れていたのである。様々な肉体奉仕をさせておいて、給金は愚か家賃の割引さえしなかった女主人のがめつさ、それにも増して、彼女が彼に功徳を施してやっているのだという自惚れが、たまらなく不快だった。

「時計だけではない。」

 彼は自分が供出した様々な物品や尊厳を思い出そうとした。だが、他には何も思いつけなかった。彼は拍子抜けするような、何となく恐ろしいような妙な気分になった。

 街路の舗石は様々な物が踏みつけられ、踏み締められ、踏み固められていた。

「久しく通わない内にこの街区もすっかり色褪せたものだ」

と、彼は改めて感慨しながら、無意識に背広のポケットを探った。煙草を探すしぐさのようだった。しかし彼は煙草を嗜まない。それだけの税金を支払う能力が無いのだ。仮にゆとりがあったとしても、買い置きが無くなった時の事を考えると、堪らなく不安になるのである。そんなことも忘れて煙草をまさぐる自分が、ますます恐ろしく思えてきた矢先、自分の手は両方ともズボンのポケットに納まっていたことに彼は気付いた。

 手は老人のものだった。何かを探しているようだった。蛞蝓のような無器用さが哀れだった。枯れた指がシャツの釦にかかったところで、彼は耳元に響く老人の、喘息性の息遣いを感じた。爪を立ててシャツを掻きむしる老人は、健康な肺を求めていたのだ。だが、その指は、命と引き換えるにしてはあまりにも無力だった。彼は改めて憐憫を感じた。

「じいさん。」

と彼は声をかけた。乾いた風がそれに応える。

「じいさんは、なぜ生きたいんだ。」

再び、乾いた風がそれに応えた。

 回答が欲しい訳ではなかった。実際、この行列に紛れ込んで、腎臓やら肝臓やら眼球やらを抜き取る犯罪が頻発していた。背後の老人がそんな悪人でない、いや体力的な問題で、そんな犯罪の遂行が不可能だと分かっただけで、充分だった。老人の焼けるような息遣いが、彼の耳へ送り込まれていた。老人の八十年程の人生の全てをかけて、何かを伝えようとしているのだろう。だが彼にとってそれは仁丹臭いだけだった。

4.診断

 長い時間が過ぎた。

 件の老人が力尽き、踏み固められた。だが振り返る暇は無かった。突如として、行列の進行が早くなったからである。自由意志という言葉が彼の脳裏を掠めた。目の端に噴水のほとばしりが映った。一面を覆う霧が、上空の一転に微少な渦を作り、先ほど見た染みのようになった、と思ったのも束の間、彼は薄暗い受付口へと吸い込まれていった。
 
 噂では、「予防医学」などという夢のような技術を研究する機関まで備えているという巨大戦艦のような院内は、耳が痛くなる程静かで、目の当りにしている群集が幻灯と見える程、不均衡だった。受付で六つ折りの地図と、自分の名前の入ったカルテを受け取り、彼は順路に従って様々な計測機器を通過した。

「つまり、痛みなどの主観的な感覚は、言語による意志伝達の不可能性を露見させます。刺すような痛み?どんな物でどんな角度で、どんな速さで、どんな力で、どのくらいの深さで、などなど。まあ、苦労して聞き出しても結局は比喩でしかないわけですね。部位の特定は愚か、実際には痛いのか、痛くないのかすら曖昧です。だから、この病院では患者の主観を一切排して、科学的根拠のみを材料として症状を特定し、膨大な統計調査資料などを援用しつつ診察を行なう訳です。それにしても、そんな質問をなさる貴方はよほど疑り深いお人ですね。疑念は無知の仮装だといいますよ。貴方の事は、貴方よりもよく知っておりますから」

 銀の皿を額に翳した医師達とそんな会話をしながら、彼はさながら一個の発掘土器のような扱いを受け、カルテには呪術めいた記号とスタンプが増えていった。

「次は六階の二百三十五番へ行きなさい。ああ、その前にこのカップへ小水を入れるのを忘れないように」

 白磁のカップに複雑な思いで尿を溜めながら、彼は自分の中の不安が減じていくかのような錯覚を覚えていた。おそらく、階段をぐるぐると回っていく螺旋の行列者全員が、同じような安堵を感じている事だろう。一体何処が悪くて病院に来ているのかと近くの男を見ると、一人は左手の中指が無い。もう一人は目脂で片目が塞がっている。風体は労働者であった。彼らは身体の欠損など日常茶飯時だが、手当が出るので医者に来るのだ。元気なのは当たり前だった。深刻な患者はこの列にはいない。となると、自分も大して悪くは無いのだろうと、彼は嘆息した。

 しかし、もともと固太りの女主人がでっち上げた病気のせいで、彼はここにいるのだった。そもそも病気では無いのだ。だが、あれだけの診察である。未知の病魔が進行中とも考えられる。実はそちらの方に、彼は望みをかけていたのである。カルテの欄が全て埋まり、彼はついに最後の部屋を指示された。そこは高層楼の最上階にある応接室のような部屋で、医師と数人の看護士、それに事務員が執務している。

 部屋へ通じる昇降機を独占して上昇する時、その不規則な律動に鼓舞されるように、彼は眼下に蠢く大衆の愚かさを嘲笑った。彼らは奈落へ向かう昇降機の前に行列していたのだ。昇降機からの展望は、艶消しの金色に焼かれる街のパノラマだ。遙かな地上は軒並み石化し、熱の放射に揺らいでいた。

 扉が開く寸前、彼はあの塔を垣間見た。夕日を浴びていても、槍は白光を纏い、屋根は烏のように黒く沈んでいた。

 昇降機を下り、医師の前に進み出ようとすると、事務員二人が彼を制止した。両脇から抱えられるように引っ張られたため、シャツの釦が千切れ、床を転がっていった。

 尤も年嵩に見える医師は、豪奢な木製の壇上へ厳粛に鎮座している。二段目の両側には若い男が二人、向き合って羽根ペンを走らせている。そして最下段には五人の青い制服に身を包んだ屈強な男達が、彼に鋭い視線を浴びせている。この一番下の段でも、彼の目の高さである。

 事務員は私を奇妙な診察椅子に座らせて、背後に引き下がった。周囲は全てガラス張りだった。天井からの明かりは無く、ひな壇から照射されるランプの尽くが彼の方を向いていた。街の明かりを足下に見ながら、彼は這いつくばらされているかのように惨めであった。

「君はいつこの街に来たのか」

 誰が言ったのか分からない質問に彼は戸惑った。背後から、「答えろ」という罵声が飛ぶ。

「三年前です」

「職業は」

「いえ、何もしていません。あのこれは一体何の診断なのでしょうか」

「聞かれた事にだけ答えれば良いのだ」 と再び背後から声が飛ぶ。

「君は職人の家で生まれた。何故、この街へやってきたのだ」

「理由なんてありませんでした。ただ、列車を降りただけです」

 自分の過去を他人の口から聞かされるのが苦痛だという事を、彼は初めて知った。だが、抗議しても無駄なのだという事は、了解していた。

「『波頭の薔薇』は最上級品だ。君はその技術を継承していないのか」

「私には無理でしたから。家に居ても役に立たないので、私は船に乗りました」

「家で役に立たないと自覚した人間が、のこのことやってきやがって」

 これは三段目の誰かが言ったらしかった。彼の胸に、この病院にまつわる不穏な噂が蘇って来た。

「私は、学士の資格を持っていますし、徴用されれば立派に勤めてみせます。ですが、今は職も無くて・・・ 幸い、少しばかりの貯えが、これは奨学金ですが、あったので安い部屋を借りて、誰にも迷惑を掛けないように暮らしてきたつもりです」

「体力は問題ありませんし、病気もありません。ただ、思想的に少しばかり・・・」
 
 先程とは違う三段目の男が、囁いた。

 空が彩りを無くし、ただの薄闇となった。照らされた彼の視界に、霧が流れ始めた。この霧は、一種の疾患ではないだろうか。そして時折現われる染みは、視覚障害の一種に違いない。

「私は目に異状を感じます。その点を……」

「何の問題もありません。視力も色覚も正常です」

 二段目の左側が、すかさず言った。彼は目眩を感じた。

「学校では、倫理社会学を修めているな。では正常な大人が何をなすべきかはもちろん、正常な社会秩序を保つ為に当局がなさねばならぬ事にも、十分な理解がある筈だ」

 彼が倫理社会学を専攻した理由は、他に奨学金給付枠が無かった為だったが、そんな言い訳が状況を好転させるとは思えなかった。

「ここは病院だと聞いています。私の身体に異状が無いと診断なさるのなら、もう結構です。これから帰って、と言っても宿にはもう部屋は無いでしょうから、住み込みの活字拾いの職でも探す事にします」

「勤まる訳はありません。この男には気力が無い。ただ気力だけが無いという、極めて危険な状態なのです」

「活字拾いは、不穏結社の機関誌製作で富を得ているという報告もあります」

「職が無い、という意識は、この社会についての批判と取れます」

「冗談じゃない。私は何も悪い事はしていない。ただ、宿の女主人に・・・」

 彼は思わず声を上げた。そして唐突に全てを理解した。ここが本当は何の健康を守っているのか、また何の予防をしているのか。
 女主人は、幾つもの時計を振り回しながら、麻袋に金貨を貯めているのだ。だから、あんな郊外で宿屋を続けられるのだろう。

「診断の結果、君は入院が必要なようだ。直ちに療養所へ送るよう」

 最上段の医師が重々しく宣言し、ランプが一斉に消えた。彼は暗闇に両脇を挟まれ、昇降機の方へ引き摺られていった。

「何処へ連れていく気だ。こんな事が許されるのか」

「下へ降りるだけだ。そう喚くな」

 冷徹な声がした。チンと言って扉が開き、彼は昇降室へと投げ込まれた。そこには何もなかった。階数表示も、釦も、明かりも、床さえも無かった。頭上で慌ただしい足音が聞こえたが、すぐに遠ざかってしまった。彼は意識を失った。

5.成層圏迄はどんなに急いだってひと月はかかるものと思わなくてはならん

 見上げると落下の航跡が飛行機雲のような帯となり、重力に引かれてゆっくりと下りてきた。それは彼の鼻先に白粉花のような匂いを残しつつ、彼の前方に流れていった。彼は躊躇することなくそれに付き随い、黴臭さにむせそうになりながら、地下道らしい一本道を這って行った。

 道は上下左右均等に狭まっていった。苔の感触を腹に感じながら、彼は匍腹前進を続けた。圧迫は次第に強くなった。背中も柔らかな苔になぶられ、とうとう頭の先を、もう数ミリたりとも前進させることが不可能な状態に陥った。止まろうとする彼の意志に反して、ぎこちない歯車仕掛けのような身体が前進の為の運動を継続していたが、その踵ですら、もう天井と床との間に斜めに固定されていた。

 頭をくねらせて尚も先へ進もうとしている内、身体を失ったような感覚に捕われた。四方を柔らかな苔に固定され、しかも圧力が身体全体に均等にかかっている為なのだろう。彼は、無辺縁の空間を浮遊していた。鼻に苔の旋毛を吸い込んでくしゃみをしたくて仕方がなかったが、もはや腹筋の一筋ですら動かすゆとりはなかった。それでいて彼は完全にどこからも支えのない、まるで羊水の中に浮かんでいるかのような平安を感じていた。かすかな息苦しさに気づいたのは随分後のことだった。

 押し込められてどれほどの時間が過ぎたのか知れない。彼の目の前を、再び霧のような微粒子が覆っていった。それは徐々に密度を増していき、彼の身体や周囲の苔や石組を覆い隠して、全く別の世界を形成し始めていた。この閉塞と開放の中で、窒息の恐怖だけが彼を現実に繋ぎ止めていた。

 彼は確かに死の誘惑を待っていた。しかし、このような自意識を無視された死を望んでいたのではなかった。彼の髪がかすかに揺れた。もっとやせ細った人間がほんの少し先の、つむじに触れるか触れないかといった所に詰まっているような気がした。体内にも霧が侵入し、この圧迫も浮揚も身体の内も外も、そして、地下道の内と外ですら曖昧になり、彼は深い深い夜に漂いながら、死はどんな物でも死なのだと悟った。

「迂闊な事をするから、あんな特集記事を残されるのだ。発見が早かったから良かったようなものの、もしあの続きが公になっていたら、我々は磔火刑になるところだぞ」

 最初に彼の耳に届いたのは、初老の嗄れた声だった。彼は自分がまだ死んでいないという事に気づいて、身体を起こそうとした。鼻先も見えない闇の中で、彼は、ゴツゴツしたものに、額をいやというほどぶつけ、うめき声を上げた。

「何か聞こえたようだがな」

「鼠よ。地下にうようよいるのよ。全く、嫌になる」

「それで、計画はどうなっているんだ」

「だからだ。成層圏迄はどんなに急いだってひと月はかかるものと思わなくてはならん。問題なのは、そのための食料と水を背負った身体で、その高度にまで昇れるか否かだが、これは近々実験をしてだな・・・」

「成層圏は寒いらしい。防寒の準備も忘れちゃいけない」

「紫外線。肌にとても悪いのよ。だから私は辞退するわ。もっと素敵な所があれば、そちらの方がよっぽどいいわ」

 声は上から聞こえてきた。だから彼は自分が地下室にいるのだと思った。額と、背骨と、股関節の痛みを堪えながら、彼は慎重に顔を上げた。闇に目が慣れてくると、自分のいる場所がマントルピースの中だという事が分かった。マントルピースから這い出ると、わずかに空間が広くなった。彼は、ゆっくりと背筋を伸ばした。その途端、彼は再び額に軽い衝撃を受け、戦いてしゃがみこんだ。

 コツコツという規則的な打撃音が、彼を中心に波紋のように広がっていった。彼はおずおずと天井を見上げた。頭のすぐ上で何かが揺れており、そこを中心に、闇が揺らめいていた。彼は、息を詰めて目を凝らした。

 揺れているのは、靴だった。木靴からエナメル靴まで、夥しい数の靴が部屋一杯にぶら下がっているのだ。微かな隙間明かりを反映する鋲の瞬きは、彼の神経の奥深くに達した。

「靴の先にはズボンがある。そしてその先には・・・」

 彼は、激しい嘔吐感に苛まれた。咽喉から、ねじ切られるような音が漏れた。ともすれば大声で叫ぼうとする身体を、死に物狂いで抑え付けた。身体のあちこちが、バラバラに、ここから逃げ出そうともがいていた。それらの相克のなか、結局、彼は、指先一つ動かすことができないで、静止し続けていた。コツコツという音のくり返しのなかに、会話の続きが聞こえてきた。

「駄目駄目。今回の目的は匿名で同志を募る事にある。広範囲に呼びかける為には、どうしたって昇る必要があるんだ」

「だって、一月もかかるんでしょう。ひたすら空を見ながら。馬鹿みたい。気儘な身分じゃないのよ。有給だって満足にもらえないっていうのに」

「なんて、志の低い女だ。なぜ、お前のような者に、この能力が備わっているのか、理解に苦しむ」

「まあまあ、もめても解決はしませんよ。さりとて、学識経験者に意見を聞くこともできず、性格も生活もばらばらの三人が集まったところで、良い知恵が出る訳もなし。頭なんぞ使うとろくなことはないんだから」

「いつもこうだ。能力は素晴らしいものだ。しかし、何故こう揃って無能ばかりなんだ。建設的議論など一度もできやしない」

「何よ。こんなもののせいで随分肩身の狭い思いをしてるんじゃないの。こうやって時折気儘に飛ばなくちゃやってられないし、それだけで十分よ」

「そういう迂闊な事をするから、危ない目に遭うんだ。全く、自覚がまるで無い」

 話し声は明瞭だった。彼は、とりあえず正体不明な者達が話している言語を理解できることに、安堵した。だが、内容は支離滅裂だった。連中は鳥のように飛べるとでも言うのだろうか。
 彼の脳裏に、噴水広場で見た染みの記憶が、呼び覚まされた。やはりそれは女で、それが、今話している女だったのかもしれない、と思った。彼女達もまた病院で診断を受け、この療養所へ送り込まれてきたのだろうか。すると、自分もまた……

 考えているうちに、彼は平静さを取り戻しつつあった。ゆっくりと前進し、探り当てた扉を少しずつ開いた。闇が薄くなった。彼はようやく正気を取り戻せたと思った。だが、すると先ほどまでの推論が、荒唐無稽に思われてくるのだった。

「飛べるのなら、何処へだって逃れられるはずだ。やはり、飛べると思い込んでいるだけの、狂人達の集まりなのだ」

 彼は溜め息をついた。手掛かりを得る為には、彼らと話す必要があった。しかし、狂人達はどんな振舞いに及ぶか分からないのだ。

「自分も、飛べる。と思い込んでいる芝居が出来れば、彼らの仲間に入れるかもしれない」

 方法はこれしかないように思えた。彼は意を決して足を踏み出した。が、その途端につま先を激しく何かにぶつけた。まるでドラを打ち鳴らしたかのような音響が響き渡り、風化していたらしい壁の一部を崩落させた。

「よほど古い建物のようだ」

 濛々たる粉塵のなかで、そのようにつぶやく彼の冷静な部分は、無力だった。そうつぶやき終えるのと同時に赤い衝撃が走り、彼はまた意識を失った。

6.死にたいなら、場所を選べよ

 鼻の奥に痛みを感じて、彼は目を開いた。切子硝子の小瓶と、それを摘んでいるか細い指が見えた。
 彼の朦朧とした視界の中にある室内は、紅と金とに輝く温気に溢れていた。彼はいよいよ煉獄に入ってしまったかと思い、再び気が遠くなりかけた。すると、彼の額をコツンと何かが叩いた。彼は顔を上げた。そこには、上等な革靴のつま先が浮遊していた。地下室のおぞましさを思い出した彼は身悶えたが、身体は椅子に括り付けられていて、その場を離れる事は出来なかった。

「珍客だな」

 老人の声が降ってきた。彼はさらに顔を上げた。シャンデリアの光を背負った老人が、部屋の中空に漂っている。彼はあまりの事に唖然として、抗う気力を無くした。

「落ち着いたようよ。この小瓶の効き目は絶対なんだから」

 背後で若い女が言った。勝ち気な口調だった。腕に刺青のある若い男が、彼に向かってグラスを差し出した。

「まあ、一杯やって気を落ち着けることだ。乾杯」

 突然、背後から柔らかな丸い物が舞い上がり、彼を飛び越していった。そして大きく膨れ上がった絹のスカートと、羽根付きの帽子を目深に被った女が、向かいのカウンター上へ優美に舞い降りた。続いて、彼のすぐ傍らで重厚な靴音が響いた。恰幅の良い富裕そうな老人だった。老人は膝を庇うようにしばらく静止してからゆっくりとソファーに体躯を沈めた。

 鼻眼鏡を乗せる為にあつらえたような鼻と、ぴったりとなで付けられた銀髪。仕立てのよい背広からビロウドのチョッキが、血統書付きの猫のような光沢を滑らせている。大振りな指輪を包むような指毛。赤ら顔。瞳は緑色で前頭部が大きく迫り出している。カットグラスを回しながら、初老の男は彼を見て微笑んでいた。

 前方の若い男は、彼に背を向け、隣の優美な曲線に何やら耳打ちしている。シャツの上からでもはっきりと分かる背中の厚みと、カウンターへの肘の突き方を見て、船乗りだろうと彼は思った。三等客室を嘲笑しながら覗いていた男を思い出した。

 そして女だ。顔は地味だが船乗りのあしらいは慣れていて、社交会に退屈し、趣味で月給取りの生活を経験しているのだというような放逸さが感じられた。

 彼は自分が比較的冷静な事と、観察の細かい事に安堵した。けれども、結局単なる類型を当てはめているだけの事で、事態の収拾に役立つとも思えなかった。

「何を考えているんだね」

 老人があやすように尋ねた。彼は胸中に荒波が立つ思いがした。

「分からないことばかりです」

「分かったような事をいうなよ」

 船乗りが茶々と入れ、老人の眉が痙攣した。

「興味ある問題だな。君は見たところ健常態に見えるが、なかなかの食わせものかもしれん」

「首を刎ねておしまい」

 くすくす笑いながら女が叫び、老人は再び眉を跳ね上げた。

「私には知る権利も無いのでしょうか?」

 彼は俯いたまま呟いた。老人は大げさに両手を広げ、手にしたグラスから酒を零した。

「おっと勿体無い。権利などという事を言い出すから、仰天してしまった。君はまさか、自分が何故ここにいるのかすら分からないなどと言い出すのでは無いだろうね」

「その通りです」

 カウンターの二人が笑い崩れた。老人も嘆息しながら酒を飲み干した。彼は沈黙を恐れた。だが、彼には病院での診断について話す事しか出来なかった。頭上のシャンデリアの軋む音が、それを伴奏した。三人は意外な程おとなしく、それぞれのグラスを傾けていた。
 話は言語道断な程に馬鹿げていた。話している彼自身も、途中で訳が分からなくなった。

「だから、私には何も分からないのです。何故自分がここにいるのか、ここが何処なのか、貴方達が何者なのか」

「そして、自分が何者なのかも、だろ」

「あまり時間がないんだがね」

「これは、どういった集まりで、ここは何処でしょうか」

 彼は最大の疑問を口にした。しかし、老人は彼を無視し、ゆっくりと立ち上がった。そしてそのままシャンデリアを越えて、カウンターの方へ、ふわふわと漂って行った。彼は老人の背中に、有る筈の無い黒い翼を見たような気がした。

「見たとこ健康そうな若者じゃないか」

「甘えておるんだ。私の若い頃は、リヤカーに野菜を入れて行商したもんだ」

「それ、いつの話よ」

 三人は、時折彼に視線を走らせながら、そんな話をしていた。彼は後ろで縛られた手を動かしてみたり、きっちりと揃えて括られた足をそっとばたつかせてみたりした。

「死にたいなら、場所を選べよ」

 突然、船乗りが彼に向かって飛んで来た。老人も眉を潜めて彼の前に降り立った。

「そう乱暴なことを。彼にも彼の事情があったのだろう。我々に何事にも優先する事情があるように。そして」

「相克の決着は、常に力関係によって付けられねばならない、ね」

「頭使うなよ」

「そんな乱暴なことはせんよ。ただ、我々には何の手助けをする義理もありませんな」

「どういうことでしょうか」

 彼は常識の通じない人間に弄ばれて、初めて常識の効能を実感した。

「一体ここは。そしてあなた方は」

「記憶喪失なら、強い衝撃を与えればいいんだろう」

 船乗りはカウンターまで歩いて戻ると、グラスを取り上げて神経質に磨き始めた。女はハンドバックからコンパクトを取り出して自分の唇を検分し、紳士は彼の鼻先で葉巻をもみ消した。

「教えてください。あなたがたは一体どういう人達で、ここは一体」

「玩具の天辺だよ。皮剥ぎの部屋と呼ばれているところだ。我々がここにいる事は無論違法だ。法律が我々に届くかどうかは疑問だがね。これはクラブ活動のようなもので、他言は無用だ。まあ、不可能だが」

 老人は立ち上がって、明かりを消した。気がつくと、濃色の色硝子が色付き始めていた。蒸気の吹き上がる音も聞こえてくる。

「もうすぐ鐘が鳴る」

 宿の寝台に横たわったまま聞いた始業の鐘は、もう書物の中にしか存在しない、異国の奇妙な風習のように聞こえたものだった。だが、今朝の鐘は紛れもなく自分の暮らしてきた街から響いてきた。

「君は知ってしまった。私達にとっては大変な誤算だった。けれども依然としてこの地は安全であるといえる。この塔の管理は厳重だ。入り口は全て封鎖されている。出口もない。よしんば君がここから出られたとしても、当局の監視網に捕縛されて終身刑だろう。死にたがっている君にはおあつらえ向きだな。食料は地下に残っているから自由にしたまえ。その縄を解いて、首を括ってもいいだろう。次の定例会までには、片を付けておいて欲しいものだがね」

 老人は鷹揚に彼の肩を叩くと、時計を引き出して眺めた。女は鏡の前へ飛んでいって髪をいじったりパフをはたいたりし始め、船乗りはせっせとグラスを磨き、酒瓶を並べ直したりしだした。彼は絶望の極致を知った。真の絶望は全てを無効にした。いつしか緩んでいた両手の縄を手首からぶら下げたまま彼は立ち尽くした。

 三人の靴音が遠のいていった。本当に最後の生への可能性に気づいた彼は、椅子を跳ね飛ばして後を追った。

「彼らはここから出ていくと言っていた。ならば、私もそこから出れば補縛されずに済む筈だ」

 彼は、彼らの靴音を辿った。そして見たのだ。黒い円錐形の屋根の側面にくり貫かれた天窓から、風船のように脱出していく三人の姿を。彼らはもやい綱を解かれたかのように天窓を超えていった。そして、三人の姿が遙か上空へと消えていくのを、彼はただ手をさしのべて見送るしかなかった。

 一縷の希望も断たれた。彼には彼らのような芸当は出来ず、ここに一人滞在している彼は、どう考えても極刑に値する犯罪人となったのである。

7.昇れ。昇れ。そこに全てがある

 彼は先程の部屋へ戻ってきた。色硝子を透過する朝日に照らされた部屋は、夜間の豪奢さが嘘のように作り物めいて見えた。外の喧噪が、塔の中に虚しく反響している。
 木偶のように座り込んだ彼の目の前で、硝子が輝き、そしてくすんでいった。終業の鐘が鳴り、始業の鐘が鳴る。しかし彼にはもはや何の意味も無いことであった。眠っているのか、眠いのかも判然としなかった。時折、落下直前にやってくるような不安が、彼の鳩尾を執拗に襲った。そんな繰り返しの中で、彼の精神を奮い立たせたのは、飢餓感だった。

「何をしても無意味である。しかし、何かをせずにはいられない。空腹だという感覚は、つまりは生き続けたいという本能の現われである。だが、この衝動的欲求はあまりにも無目的すぎる。何故生きようとするのだ。」

 彼は卓上のランプを取り上げて部屋を出た。奇形茸を型取ったランプの明かりは、モザイク硝子の傘に弾けて拡散し、跋扈する魑魅魍魎を照らし出した。
 そこは階段の途中だった。下方へ果てしなく続く階段を降りるのは躊躇われたが、足は勝手に動き始めた。

 「串刺し王の玩具」の内部は、この螺旋状の階段と、両端に均等な間隔で取り付けられた扉とに終始していた。扉は樫の木に鉄帯を打ち付けた重厚なつくりで、目の高さには引き抜き蓋の付いた小窓があり、足下には横長の隙間が開いている。途中幾つかの部屋を覗いてみたが、一筋の光も射さない室内はただ暗いだけだ。コツコツと壁を叩く音が聞こえたような気もする。幻聴なのだろうと彼は思った。
 階段が尽きると、足下がぼそぼそした。絨緞が敷き詰められているようだ。厳重な戸張を潜って昼の光が漏れていた。仄かに青みがかった冷たい大気の色だ。そして忘れかけていた街の匂いが彼の胃を刺激した。
 平坦な廊下を壁伝いに歩いていく。壁には百号の肖像画や、タペストリーがかさぶたのように隆起している。そして厳重に封印された大扉の両脇には、甲胄が二体、尻を高く上げた犬の姿勢で倒れていた。彼は薄闇の中に現われた無様な騎士を見て、声を上げて笑った。
 食料を得る為にここまで降りてきたのだが、食料庫らしき部屋は見当たらなかった。彼はそこかしこに散乱している調度品や衣類などを蹴散らしながら、さらに下階を巡回した。

 階段脇の埃の山を蹴り上げた時、一枚の布が靴にからみついた。月にかかる傘のような光を纏った白い生地で、細かい糸玉が無数に突起していた。彼は生地をポケットに突っ込んで、さらに下った。

 最下階にあったのは、中途半端な石組と、だだっ広い闇だけであった。
 彼は黴臭い空気に鼻を慣らしながら、自分が通って来た筈の通路を丹念に探した。石組は崩壊した竈らしかった。マントルピースも、隠し扉も、食料も、何も無かった。彼は室内をぐるぐると回った。壁を蹴飛ばした。挙げ句の果てに、ランプを投げつけた。飛散したモザイク硝子を包み込むように炎が上がった。明らかになったのは、壁の染みと、天井の梁だけだった。彼は放心した。体に跳ねた油を拭うのは無意識の所作だった。掌に違和感を感じて見てみると、先程拾った奇妙な布切を握り締めていた。揺れ動く炎の中で彼はしげしげとその小さな布を眺めた。髪より細い亜麻糸を丹念に編んだレースだった。

 床の目地を這いずる炎に覆い被さるようにしゃがみ込み、彼は繊細な細工を検分し始めた。だが、そうする以前に彼は確信していた。 
 これが、全ての発端だったのである。

 周囲には昼なお暗い森が迫っている。上空を、幾何学的な隊列を組んだ渡り鳥が行く。曲がりくねった枝の上から、梟が取り澄ました眼差しを向けるのは中央の草原だ。斜めの木漏れ日が、乗馬する若い恋人達の間を裂いている。小振りな胸を空に向け、鞭を小脇にした女の口元は、微かな緊張に引き締まっており、背後からついてくる男の鷹揚さと良い対照を成している。猟犬の群れは既に走りすぎ、前方の沢に駆け降りていく寸前だ。装飾的な薔薇や菖蒲などの草花が馬の蹄を上手に避けて咲き乱れ、その上を蝶が舞い踊っている。向かいの茂みから孔雀の隊列が現われて、羽の目玉模様を競っている。その前を、悪戯な兎が跳ねる。林の向こうには小高い丘がある。丘には羊の群れと、それを追っていく牧童が腰の角笛を揺らしている。群れを遠巻きに見ながら、鹿が跳躍している。そして、遠景には聳え立つ山、雲をついて聳える半透明の三つの峰が残雪に輝いている。
 
 炎が翻り、レースの図案は消え失せた。それは紛れもなく彼が家を出る時に、母親が丹精していたレースだった。遠景の連峰と中景の牧童を編み上げている母親の指先と、立てかけてあった前景の台紙を、彼は良く覚えていた。牧童は彼であった。幼い頃、まだ両親が継承者の成長を心待ちにしていた時の自分の姿が、紛れも無く編み込まれていた。

「あれは完成していたのだ。そして僕よりも先に、この地へやってきていたのだ」

 彼は年老いた両親の事を改めて思った。不肖の息子だった。自分は最高学府から金時計まで拝領しながら、何もなせず、もはや何かを成す機会すら失われてしまった。両親の誇りだったレースが、屑同然に打ち捨てられていた事に対するやるせない思いと、理不尽に貶められた自分の境遇とを思った時、彼は自分の体内を循環する血流の激しさとその温度とをまざまざと感じた。これまで無気力な受容者として生きてきた自分の位置は、常に安定していた。世間に何の対価も求めず、与えられた物だけで充足する事に慣れ切った彼が最後に与えられたのが、この不条理な境遇と憎しみだった。

 彼には憎むべき相手がはっきりと見えていた。彼は彼らと彼らが従属する社会とを、自らの心に刻印した。この塔の最下階には彼の過去があった。だから未来は天辺にあるのだ。

「昇れ。昇れ。そこに全てがある」

 彼は猛然と走った。甲高い足音を追い越すべく、螺旋階段を一息で駆け上がった。頭上には光があった。屋根裏を巧妙にくり貫いた天窓から、光を纏った霧が浸潤していた。彼は微細な白い粒子を掌に掬い上げると、一滴も零さぬようそろそろと立ち上がり、精一杯背伸びをした。これ以上昇る術を持たない彼は、苛立ちながら跳躍を繰り返した。天窓は中空彼方に浮かんでいる。指先は、闇に漂う斑の霧を無為に掻き裂くだけだった。彼は低く唸りながら、直上の天窓を凝視し、ひたすら待ち続けた。時折、天空を横切る影があった。彼は緑色に染まった双眼を痙攣させて呟いた。

「違う。雁か椋鳥だ。数が多すぎる」

 煙る大気の中を滑るように月が変わった。街路の狂操は途切れる事無く屋根裏に響いていた。蒼い満月が天窓を塞ぐ中、彼は見える筈の無い三本槍の影を見た。彼は強ばった身体を起こした。額に冷風を感じた。霞がかった視界の中に、明滅する無数の眼があった。彼は目茶苦茶に手足を振り回した。すると指先が固い物に打ち当たった。ぶつかった何物かは戦いたように身を引いた。彼は慌てて辺りを探り、気配を頼りに何処までも追いかけていった。

「引き摺り下ろせ。こいつを引き摺り下ろすのだ」

 彼は、いつしか握り締めていた石塊をポケットに詰め込んで、無音の咆哮を上げた。東の地平は牛血色の黎明を迎えていたが、光は濃霧に捕縛され、彼の所までは届かなかった。彼は執拗に闇を追い、闇を打った。

8.塔はさらに伝承を加えた

 ようやく辺りが薄明りに照らし出された時、彼は全身を切り裂かれて恍惚としていた。以前に味わった落下の感覚が、再び彼を襲っていた。それきり、彼の自意識は消失したのである。

 霧が凍ってダイヤモンドダストとなると、人々は顔を分厚いマフラーで覆い、横歩きをしなければならない。行列は、肩幅分だけ長くなり、凍死者が相次いだ。

 そんなある早朝、一人の男が群集の淀みに落ちてきた。衣服は目茶苦茶に千切れ、手には一塊の石を握り締めていた。切り裂かれた皮膚からは血が滴り、彼の墜落の軌跡は中空に朱色の放物線を描いていた。深い靄に覆われた先端は紛れもなく、塔の天辺に結ばれているようだった。
 群集が息を呑んで彼と彼の軌跡を凝視していると、朱色の糸が滲んでいき、鮮やかな紅鮭色の霧となって街全体に広がっていった。落下した男の身元は、背広の隠しに押し込まれていたレース生地によって判明し、遺骸は船便で送り返された。

 塔はさらに伝承を加えた。それは紙面に掲載されなかった騒動の連続写真の一葉について、同日の夕刊に掲載された話である。

 写真家は群集に揉まれながらシャッターを切っていた。問題の写真は一面に流れる霧の濃淡しか写っていない代物である。恐らく、空を撮ってしまったのだろう、と写真家は語っていた。

「いつもなら、ここに光の筋が三本現れる。槍の反映はどんな曇った日だって無くなりはしないんだ。それからここを見てくれ。このうっすらとした黒い影。どうやら槍の本体だが、いつからこんないびつに膨れ上がったんだろうな。
 俺はこう思うんだ。
 ここには三人の人間が串刺しになっているのさ。あの高く聳える槍は血塗れなんだ。だから光が反射しない。それにこの赤い霧や匂い。これは血の匂いだ。当局はもう知っている筈だ。あの後すぐに役人が飛んできて、報道管制を引きやがったからな。」

 夕刊には写真も掲載された。だが、どこをどうみても、手ブレと、輪転機のゴミにしか見えなかった。

 けれども、好奇心旺盛な観光客を集めるのに、これ以上の餌は無かった。街を覆う血染めの霧と、三っつの串刺し死体。弧を描く巨大な鳥影と、悲鳴じみたた鳴き声などは、見る者達を充足させた。
 墜落事件の朝には、駅前噴水広場を隔てた病院の展望室のガラスの一枚が割れるという事件も発生していたのだが、こちらの事件は、室内に散乱するガラスの破片の中に、ただ一つ転がっていた石ころのように小さく、誰にも取り上げられないまま打ち捨てられてしまった。
 再び脚光を浴びている塔について当局は、新たな対応は考えていない。と短い談話を発表しただけだった。

 祭典の支度は着々と進んでいる。塔の解体はもう間近である。

(了)

串刺し王の玩具

串刺し王の玩具

家業だったレース編の技法「波頭の薔薇」を修得することができず、貧困の家庭にいられなくなった男は、職を求めて国で二番目の都市へやってきた。 無為に日々をすごす男は、宿の女主人に「病気に違いないから病院へいくべきだ」と勧め進められ、押し切られる形で病院へかかる。 診察は尋問のように行われ、なすすべも無く療養所送りとなる。 気がつくと男は「串刺し王の玩具」と呼ばれる塔の内部にいた。そこでは、「飛ぶもの達」の集会が行われていたのだ。 出口の無い塔を自由に出入りする飛ぶものたちを尻目に、男は食料を求めて塔の内部をさまよい続ける。なぜ、生きようとするのかも分からなくなった時、遠い日に、母が丹精していたレース編に出会う。男は螺旋階段を駆け上がり、空を見上げる。飛ぶものたちの出現を待って……

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 0.抜粋
  2. 1.街は霧の中にあった
  3. 2.串刺し王の玩具
  4. 3.波頭の薔薇
  5. 4.診断
  6. 5.成層圏迄はどんなに急いだってひと月はかかるものと思わなくてはならん
  7. 6.死にたいなら、場所を選べよ
  8. 7.昇れ。昇れ。そこに全てがある
  9. 8.塔はさらに伝承を加えた