ミヨ・モノローグ
四月 山椒魚
私の身体は粘液質の膜の様なもので覆われているので、体温が籠もって外の春と同じくらいの温度になる。だるくてしようがない。
最近では、骨同士が擦れてキシキシという音がして、歯が浮いてくるようで気持ちが悪い。首や肩を限界まで折り曲げたり、回したりしてみる。とても痛い。私はこの痛みが、膜を突き破ってくれないかと何時も思う。でも埒があかない。
この間、手首にカッターを当てて引いた。手首が一番薄いからだ。別に血を流したかったわけではない。だから、流水に手首をさらす必要も無いわけで、自分の部屋で簡単に試すことができた。でも、口を開いた私の皮膚からは、どうしたわけか、全く、一滴の血さえ流れ出ては来なかった。拍子抜けした。もう傷も残っていない。
もしかしたら、私は両生類の眷族なのではないだろうか。身体のぬめぬめを拭い去られたら、呼吸が苦しくなって死んでしまう。
それ以来、手首にカット絆を貼っておくことが癖になった。三日に一度、絆創膏を取り替えるとき、生々しく湿った白い肌が、いかにも頼りなく見えることが、今のところの私の希望だ。
春になると、身体中がちくちくと痛い。陽に当たると、チリチリと音がしそうだ。内蔵がぐずぐずに溶けていくみたいだ。だから、私は春が嫌いだ。
つばめが軒に巣を作り始めた。私は、不貞腐れながらその作業を眺めている。泥やら藁やら、今時どこにそんなものがあるのだろうというような材料を、何度も何度もくわえて来る。つばめは度胸が座っていて、私が不意に立ち上がろうが、大きくのびをしようが、全く怯えない。目の前で、見事に白い胸毛を見せて、とんぼをきったりもする。これは、雄だろうか、雌だろうか。私は雌であってほしいと思う。雄がこんなに一生懸命働いてはいけない。
庭に水を撒いていると、郵便配達がベルを鳴らしてやって来る。青いカッターシャツの背中を汗で透かしていていかにも暑そうだ。ホースをそちらにむけて、水を飛ばす。一瞬、虹が出来る。久しぶりに見た虹は、何だかぎらぎらしていて、いかにも作り物めいていた。
「やめなさい。」
という大きな声がした。気がつくと、郵便配達は、頭から濡れ鼠になっている。健気にも、ハンドルの前にとりつけてある黒いがま口を必死に庇っている。私は、とてもつまらない気持ちになって、頭の上にホースを垂らす。とろとろと水がしたたって、シャツの中に入り込む。郵便配達は、ブツブツ言いながら、私を睨みながら、出ていく。郵便配達の目からは肉の匂いが漂っていた。俯くと、シャツが肌にぴったりと貼り付いていて、胸が透けていた。私は、いよいよがっかりする。
こんな田舎で、学校にも行かずにいると、近所の連中の口がうるさいのだと、母は小言を言う。私だって、好き好んで学校へ行かない訳じゃない。理由は、口にするのもためらわれるほど、簡単で絶望的なことだ。
いくら無理して学校へ行っても、本当に必要なことを教えてくれる訳じゃない。私が死ぬ気で学校へ行っても、それに見合うだけのことをしてはくれない。それは不公平だと思う。「友達」とか「協調性」とか「常識」とか? 馬鹿馬鹿しい。
セーラー服を着た娘達が、昔はよくやって来た。私は、その恰好で来るのだけは止めて欲しいと申し渡した。何故、学校でもないところで、そんな恰好をした娘達の相手をしなくてはならないのか、こう考えるのは、誰に聞いてもおかしなことじゃないと思う。そうしたら、誰も来なくなった。「私が醜いせいだ。私はあの山椒魚のように顔にぶつぶつができていて、いつもヌラリとてかっていて生臭いから、友達もできないんだ。」
そう言って泣いてやった。その夜、母親は、私の好物ばかりを食卓に並べてくれた。あの微笑みと一緒に。私は、おいしいおいしいと言って食べてやった。これが思いやりというものだ。皆は、思いやりのかけかたも知らない。
私は何で生きているのだろう。たいして広くもない家に閉じ込もって、誰にも会わないで、私を見る目はみんな暖かくて。私はそれを望んだわけではなかった。なのに、皆は、しめしあわせたように私を暖かな目で見つめて、私がいないところで、大きく息をついて、肩なんかを叩き合って言うのだ。
「全く、気を遣うったらない。少し、甘やかしすぎなんじゃないか。」
何度でも言うけれど、私はそんなことを求めている訳ではない。でも、それを言わないことが、せめてもの、私の、思いやりなのだ。一体、気を遣っているという姿勢そのものが、気を遣われていると思う人の重荷そのものなんだということに、どうして皆は気がつかないのだろう。私のような子供に気を遣わせておいて、それに気がつかない大人は迂闊だし、そんな大人たちの作ったこの世の仕組みが、まともなはずはない。
この頃の日記は、同じ文句ばかりが並んでいる。生活に変化が無いのだから当たり前なのだけれど、この文句自体が、だんだん大げさになってきているような気がする。大体、こんな田舎の小娘が、世界を相手に文句を言ったって、無駄なことなのに。
もしも、私が壮絶な死を遂げて、この日記が世に出たら、少しは世界の改善の、お役に立てるだろうか。それならば、壮絶な死も悪くないように思える。だいたい、不慮の死とか、自殺とかは、世に出る手段の一つに過ぎない。「早熟の」とか「夭折の」とか、死んだ人間に対して、この世界は本当に寛容だ。 生きている人たちは保守的なくせに、貪欲でもあって、死んだ人間の残したものは、徹底的に食い物にしなくては気がすまない。個人的なコンプレックスであろうが、下手糞な文章、独り善がりの空想画などは、世界を暴く視点を持っているとかなんとか理屈をつけられて、それが陳腐になるまで、決して忘れては貰えない。それは、死んだ人間にとって、とてもとても恥ずかしいことのように思える。だからやっぱり、私は死なないことにする。 死ぬときには、私がこの世界に生きていた痕跡を、完璧に拭い消しておくことを心がけよう。あーあ、馬鹿馬鹿しい。ニッと笑ってみる。
(四月 山椒魚 完)
五月 焚書
雨が続く。菜種梅雨だという。新緑の緑が白々しい程の雨雲の色。部屋の中までしんとしていて呼吸が楽だ。
この頃、母親が外出することが増えて、苛立つ事が減った分、ますます退屈に拍車がかかる。雨が降ると野良猫も出てこないし、燕も飛ばない。
私は日がな一日本を読んで過ごす。この家には、影のように本がある。そして私はそれを読んで、もとどおり仕舞う。梶井基次郎とか、佐藤晴夫とかを読む。じとじととした人たちが、胃を痛くしながら文句を言っている。
その難しい漢字の新鮮な読み方、妙に口幅ったいような言い回しに魅かれて、この当たりの時代の作品を読む。こういう本は何故だか活字が凹んでいて、目を閉じて頁を撫でているだけでも気分がいい。窮屈に並んだ文字達を見ていると、催眠術にかけられているみたいだ。私も何か、こういう具合に文字を並べてみたくなる。
でも、そう思うだけだ。
私の中からは、私の気に入るような文章は一つも出てこない。どれだけ本を読んでも、いろいろな事を考えても、独言を言い続けても、それらは文章にはならないし、紙に書き付けることもできない。日記を読み返してみても、その退屈な、つまらない文句の羅列にため息を付く。私から離れた私の言葉、私の気持ちは、私から見て、全然面白くない。
退屈なとき、私は本を読む。この家は、本で翳っている。私はその匂いが好きだ。でも、私はそれを読む虚しさを知っている。一番の暇潰しは、私自身を空っぽにしてしまうことだ。
雨の合間に、うんうんと唸りながら、焚書を決行した。
裏庭から、黄ばんだ煙が渦を巻いて上っていった。竜神様への捧げ物。私は紙の焼ける匂いに陶酔して、人柱の快感を知った。
(五月 焚書 完)
六月 エクソシスト
親戚の姉さんのこと。
私は彼女をそれなりに認めていた。彼女は短大を卒業した後、花嫁修業をして、人生を順調に航行している。
彼女はモラリストだ。天下無敵の常識人だ。ナイチンゲールのように気高く優しく、マリアテレサのように芯の強い人だ。彼女は洗礼を受けたれっきとしたキリシタンで、私のことを気にすることが神の御心にかなうと信じて止まない節がある。
私は、サタンに魅入られた罪深き者なのだ、彼女に言わせると。
それはとても失礼で、荒唐無稽な事だと思うけれど、彼女の思い込みは半端ではない。私はいつも体の良いお説教をやんわりと受けることになる。何気ない仕種の一つ一つに、私への教示が込められていて、彼女自身、そのことに気づけないほど板に付いている。
だから私は彼女の徹底ぶりに敬意を表して、首を一回転させたり、緑の反吐を吐いたりしないように心がけている。姉さんは、映画のエクソシストくらいでは眉ひとつ動かさないけど、私はそういう姉さんの方がよほど恐ろしい。多分それは、私が十字架に焼かれる悪魔だからだろう。
私が今のような生活を始めた当初、まだ、両親揃って、途方にくれていた頃。実家に戻って来た姉さんは三日とあけずに家に来た。教育心理学なんて専攻していたせいだと思うけれど、姉さんは、姉さんではなくなっていた。私は患者になった覚えはないのだけれど、姉さんはカウンセラーのように微笑んだ。
その姉さんが結婚する。見合いしたのだ。
私は姉さんの見合いの相手を、早速調べた。暇潰しの材料になるのと、姉さんに姉さんを分からせる材料になると思ったのと、動機は両方だ。この兄さんが、良くしゃべる。包容力豊かで優しくて、しかし、ただの男だ。私は兄さんの過去なんて必要ない。私は自分の過去にとっぷりと漬かっていて、それを悪いとは思わない。でも、それは自分の昔話だからだ。人の物なんて、関係ない。
未来について語り始めると、人の目ってどうしてああも作り物めいてくるのだろうか。現実的な夢を見ることができないで、夢はいつまでも夢のまま語られる、そのことがすなわち夢なんだ。夢は持ち続けるのが正しくて、実現させようと努力するのは馬鹿なんだ。
夢って……
寝ているときに見るものと、将来への希望とが、なぜ同じ言葉で表されるのだろう。私には納得できない。
ついでに、寝ている時に見る夢は、無意識の表出であって、自らの欲望や隠された自我を表現している。そしてそれらは皆、セックスに関係がある、なんて理屈が、どうして有り難られるのかも検討がつかない。私はそういう学説を本で読んで、唾を吐いて、本棚の一番奥へ押し込んでやったのを忘れていた。そのせいで火刑から免れて、翳の底からひょっこりと現われたものだから、怒り心頭に発し、生ごみと一緒に黒い袋へ放り込んでやった。
手付けずのままでいいもの。私はそういうどうでもいいことを、したり顔でのたまう輩が大嫌いだ。その対象が、深層心理とか、精神的抑圧とかいう述語の基に語られているのを聞くと、全身に粟粒が生じてくる。姉さんは、どうもそういう人たちの仲間に入ってしまいそうで、私は憂慮している。私の手で、何とかしてあげたいと思う。彼女の凝り固まった価値観が、アカデミズムに毒されて、いけない方向へ向かおうとしている。だから、あんな、くだらないずんぐりむっくりの医者の卵なんかと結婚することになってしまうのだ。姉さんこそ、病んだ魂の持ち主で、それを祓うのは、私の役目だ。
(六月 エクソシスト 完)
七月 白薔薇
朝、軒から雫が垂れているのを見ていたら、随分久しぶりに見る顔が門を潜ってやって来た。私は、窓枠の上でバランスを保ちながら、彼女が自分の影から顔を上げて、私に気づくのを待っている。夏服がまばゆいばかりの光を放っている。プリーツスカートは皺一つ無くて、隙を見せているのは、一つにまとめた髪が、耳の上でほつれているところだけだ。うっすらと汗が滲んでいる。玉のような汗。彼女の汗ならば良い匂いがするだろう。
彼女こそ、すっかり滅びてしまったと思われていた薄幸の美少女の系譜を引く女性なのだ。
伏し目がちの大きな瞳は黒目がち。本当は極度の近視なのだけど、彼女は絶対に眼鏡をかけない。彼女の顔は繊細な部品の集合体で、その顔に調和する人工物なんて存在するはずがない。彼女は手吹き硝子の危うさをその身に纏い、そのことを自覚しているのだ。彼女が何故、あんな学園生活に耐えうるのか、私にはそれが不思議だ。奇跡だ。私は、全身を病に冒されながら、食事も水も一切呑まないで、八十過ぎまで、激痛と恍惚とのうちに生き抜いたと言う聖女の話を思い出さずにはいられない。彼女はそれと同じ位の興味を私にかき立たせるのだ。
もしも、あの細さと白さとの裏側に、しゃこ貝の貝柱のようなものがあるのなら、それを曝け出させて見たいと思う。これは趣味の悪いことであるということは百も承知で、嫉妬がその言い訳になるとも思わないけれど、とにかく私は退屈なのだ。
才女で鳴らした彼女が、学校をさぼって家に来るということは、まさに晴天の霹靂、願ったり叶ったりの出来事なのである。
彼女は全身に力を入れたまま、手を振る私の前を素通りして、とうとう玄関に立った。そこに立たれると、熊笹や棗垣に阻まれて姿が見えなくなってしまう。明け方打ち水した飛び石は、あらかた乾いてしまって、ただ八手の大きな葉っぱの先端にかすかに露がしたたっているだけの玄関先。でも、彼女の目にはそんなもの、全く入らないに違いない。垣下の勿忘草にだって、きっと気がついていないだろう。なにしろ、門戸から真っ正面に見えたはずの、私の部屋の窓の、その窓枠の上で奇妙なV字の形を作っていた私の姿にさえ、彼女は気づかなかったのだ。彼女の繊細さはそのような繊細さだ。呼び鈴が鳴る。私は見えない彼女に声をかける。
「こっちに回っておいでよ。誰もいないし、そこまでいくの面倒なんだ」
声は届いたはずだ。近来まれにみる程の大声を張り上げたのだから。しかし、全く反応が無い。彼女のことだから、はっと顔を上げて、不安そうな目であたりを見回しているに違いない。私は観念して窓枠から飛び降りた。芝生の中に、砂利が混じっていて、運悪く私は裸足でその上に着地した。
「痛い」
「まあ。大丈夫?」
見上げると、整った彼女の顔が私を見下ろしている。真っ青な空を背景にして、リボンが後光を放っているようだ。一体、どちらが病気なのかわからない。いや、病気なのは確かに私のほうなのだった。
まあ、どうぞと、私は軽々と窓をくぐる。彼女もスカートを気にしながら、辛うじて窓枠によじ登る。しかし、どうしても右足が窓枠を越えない。ばたばたするうち、靴が部屋の中に飛び込んでくる。それは、テーブルの上のガラスコップを巻き込んで、当然中身のグレープジュースも巻き込んで、床上に惨状を呈した。私には、そうなることが、ごく自然のことのように思えた。諦めかもしれない。
ようやく、彼女はソファーにボスリとはまり込む。見ると、靴は両方脱げている。もう片方は窓の下だろうと思う。でも、私が彼女の靴を心配しているのに、彼女は自分の足に靴が無いことすら気づいてはいないのだ。ソファーの上で、身体を横ざまにして、彼女は肩で息をしている。スカートが乱れて、膝小僧が見える。小さくて白くて、精密な彼女の膝小僧。私は、とりすまして台所に下がり、サイダーなどを盆に乗せる。川井が不審気に私の手元を藪にらみする。川井というのは、手伝いのおばあさんのこと。いつも私を胡散くさそうに見る嫌な物だ。
盆を持ったまま、部屋の扉に手を掛ける。その向こうには、頬を紅潮させた薄幸の美少女が座っている。私はその状況に興奮している。でも、扉を開けると同時に、電話が鳴り始めた。
彼女はびくりと身体を震わせて、音の源の方を見る。彼女の瞳は、既に濡れている。私はどぎまぎして、「電話ね、電話。」とか口走りながら、盆を置く暇もなく電話口へと走っている。突き当たりを曲がって、玄関口へ向かう廊下の中ほどにある電話室。ようやく辿り着くと、電話は任務を果たしたかのように、切れた。私は左手にサイダーを乗せた盆を捧げて、右手で受話器を握り締めて、電話機を睨んでいる。馬鹿みたいだ。
再び、彼女の前に。感情の波をひとしきり乗り越えて、彼女は今、小康状態にいる。その潤んだ瞳。盆を置く手が震える。
「このサイダーね、裏の井戸で冷やしたんだよ。川井が邪魔をしない夜中にやるの」
聞いてない。彼女はポーチから薔薇の香りのしみ込んだハンカチを取り出して、目蓋を押さえている。それが品良く愛らしい。一言で言って、彼女らしい。それなのに、学校でジャージを着込んで、マスゲームに興じるなど言語道断だと私は思う。
「そうなの」
と突然彼女が、私の心を見透かしたようなことを言う。
「そうだよね」
と相槌を打つ私。それから、間があいたので、とりあえず、サイダーをコップに注ぐ。
「ごめんなさい。突然に、こんな恰好で押しかけてしまって。」
か細い声だ。陶器製の鈴の音だ。小さく低く、心地よい。けれども、私の興味は、彼女のポーチに移っていた。どうやら彼女は、今日、学校へ行くつもりが無いようなのだ。というのは、彼女の持っている学生鞄というのが、名の有る人の技もので、赤茶色の本皮製のものなのだ。学校へ行くなら、鞄が要る。彼女と鞄は、切っても切れない間柄にある。そして、さらに興味深い事実を述べるならば、本日は、中間テストの最終日となっているはずなのである。私のかすかな学校生活の記憶が、それを覚えているのだ。
「なんか、学校に行くのが、急に嫌になって。でも、こんな恰好のままじゃ、目だってしまって何処にもいくところがなくて。町から出るのはもっと人目についちゃうし、そしたら、貴女の事思い出して、それで」
また両の目から涙が落ちる。まさに今しかない。私は急いで移動して、彼女の肩を抱いてやる。
彼女は、制服着用だ。これが彼女出なければ、洟も引っかけないでおくところだけれど、彼女の家には大変立派な薔薇園があって、私は夜中に、忍び込んだりしている。あそこのアフガンハウンドは、私の忠実なる僕なのだ。その恩もある。それに彼女自身の存在というか、形が、私の好みに合うというのもその理由の一つ。さらに、かつて同級生だった連中が連盟でよこした私への激励文、の中に、彼女の署名が無かったことと、その後に、薔薇の香りの便せんにしたためられた、ツルゲーネフばりの手紙が素晴らしく痴呆的だったことに、感嘆したこと。
何事にも徹底した姿勢が見受けられる人間を、私は人物と見なしている。その意味では、姉さんもそうだし、川井もそう。彼女も当然その範疇に入る。
私は彼女の骨張った身体を撫でている。血でも吐いてくれたら、尚盛り上がりそうな状況だ。
「ごめんね。私こんな風で。でもこれじゃいけないと思っている。私、あの学校、駄目みたい。もう、死んじゃいたい。皆、私のことなんて、分かってくれないし、どんどん疲れていくばかりで、このまま、あの学校で普通に暮らしていけるようになるのも、嫌なの。でも、このままじゃ、何もできないまま終わってしまいそうだし、私、どうすればいいのか、分からないの。本当に、どうすればいいのか・・・」
まとめると、そういうような事を、切れ切れに、ハンカチの下から、私の肩に向かって話している。私はもう、この世界に入り込んでしまっているから、どんな台詞だって、お手のものだ。
「私、知らなかったわ。そんなに奇麗で、聡明で、世の中の幸せを一身に受けて、すくすくと成長なさっているとばかり思っていたのに、そんなにお悩みになっていたなんて。人って分からないものね。さあ、このサイダーを飲んで。そして、聞かせてくださらない。あなたのそのレースのような心を引き裂こうとしているものは何? それは、私には荷がかちすぎるお話かもしれないけれど、あなたが私を選んでくださったのですもの、きっとお力になれると思うのよ」
涙まで浮かべて。
彼女は話してくれた。私の目をまっすぐに見つめて。あのまま接吻しなかったのが不思議なくらい。二人で涙を流して。彼女の格好の良い鼻からも、鼻水が垂れて、それは透明でさらさらだった。きっと涙と同じ成分で出来ているのに違いない。それが、目から出るか、鼻から出るかの違いだけ。でも、それはとても大きな違いで、私の力の源になった。
つまり、彼女の悩みは、人間の存在の根源にまで突き詰められた風を装いながら、クラスに上手く馴染むことが出来ない自分の居場所を求めているだけのことだった。
しかも、馴染めない理由が、彼女の何と言うか、選民意識とでもいうような認識の為であると言うことが、よくよく理解できた。
その上、飼っていた猫が金魚を食べたとか、近頃、薔薇園の花が何本か手折られていて、誰かが忍び込んできているらしいことが恐ろしいとか、まあ、それは私なのだけれど、そういったもろもろの些細な出来事があいまって、彼女に登校拒否を誘発させるに至ったという訳だった。
更に、そういう行為に走った自分の姿を省みて、ますます深刻さ加減を増幅させて、その仕上げとして、地域一番の問題児の所へ足を運ばせたという次第だ。
この後の予定は、自殺未遂に違いない。悪者は私だ。彼女は悲劇のヒロインで、私は悪の化身。誰もが認める配役という寸法だ。
彼女は、自分の繊細さを演出する為に、無意識のうちに人を選別して、その通りの効果を得る技術を持っている。彼女は美しいから、それは許されることだと私は思う。天性の美しさは、多大なる犠牲によって成り立つものなのだ。美しさはかしずくことを強要する。ならば、私もそれに相応しい仕事をしなくてはならないだろう。
「私、あなたがそれほどお悩みなのを、見ていられないわ。きっとあなたは、純白の薔薇のように清らかなのよ。だけどあなたの薔薇には刺が無いのね。だから不埒な俗物共が、手折ろうと手を伸ばしてくるんだわ。あなたは、高貴だけれど、そういう汚い者達を打ち遣るほどの強さを持っていないから、そんなに疲れなくてはならないのよ。あなたは、優しすぎて、その優しさに乗じていろいろな穢れがあなたを堕落させようとているの。あんな学校なんて、あなたを真っ黒なドライフラワーにでもしかねないと、私は本当に心配しているの。あなたが、あのミッション系の学校をお選びになったのは、確かに神の摂理だったかもしれない。でも、そこで得るべきものは、三年間の学園生活ではなくて、そこにいる一人の人だったのだと、私は今確信しました。
私、聞いたことがあるのだけれど、聖書の講義をしているあのお祖父さん、あの人だけは信頼できるというお話なの。あの人のそのまたお祖母さんが、山の手に修道院を開いていて、昔はあの学校からも、シスターになるために何人も、その修道院へ行っていたそうなのね。開学当初の気高い精神を持った人たちだけが、あの門を潜ることを許されていたの。それは今でも、連綿と続いているのよ。 でも残念なことに、この数年はそういう高潔な人格が現れないで、すっかり忘れられているらしいっていうのね。
私、あなたこそ、数十年ぶりに現われた、神の御加護のもとに、立派なお仕事がお出来になる方だと、話をうかがって確信せずにはいられないわ。あなたは、そこに行くべき人なのよ。あなたが今、ここでこうしてお悩みになっているのは、全て、この御霊に叶ったことなのです。あなたは、選ばれたものなのよ。今日、私のところへいらっしゃったのも、ここで、私がこんなことをお話しているのも、あの方の思し召しに違いありません。だって私、あなたが家の門を潜った時から、その真っ白の夏服が光に包まれて、花のような芳香を漂わせているような気がしたんですもの。 私にこんな事を言う資格はないかもしれないけれど、あなたはあの修道院に最も近いお人なのかもしれない。あなたの美しさも、その感じやすい繊細なお心も、優しさも、そのためにあるんです。あなたの悩みも、その時きっと癒されることでしょう」
アーメン。
話ながら私は、自分の顔が柔らかな光に包まれているような至福を感じた。自分では一言も信じてはいないけれど、でも本当に気分が良かった。そして白薔薇の君は、涙の筋を刻んだ顔で、口を開いて、まるで微笑んでいるように私を見つめていた。尼僧服を来て聖マリア像を見上げているところでも想像していたんじゃないかしら。白痴の美というのは、ああいうことを言うのかも知れない。
私の入れ知恵がどの程度彼女の人生を変えるのか、今後の展開が楽しみだ。自分の勧めで、美人が一人尼になったかもしれないのだと想像するだけでも、結構、シュールな暇潰しだと思う。私はこのような想像が大好きだ。
(七月 白薔薇 完)
夏休み 1 主事
姉さんがやってきて、私は公民館へ行く機会を失ってしまった。
家にはクーラーが無いので、夏になると毎日、私はそこへ出かける。午前中は子供たちがたむろしているので、午後の一番哀しい時間に、私はあの鉄色の鉄柵を越える。
その公民館は、お役所の出張所と、市民センターと、図書館と、武道館と、カルチャー教室とを兼ねている。昔は、何とかいう由緒正しいお屋敷だったらしい。今では、裏の敷地に安っぽいプレハブを増築してしまって、辛うじて中庭として残された部分には、殆ど陽が当らない。
この苔むした中庭が、私のお気に入りの場所である。
よっ、と手を上げて、戸籍係のカウンターを乗り越え、主事の椅子をちょっとどけて、窓枠を越えて、中庭に出る。お決まりのコースだ。そして、唯一のコースでもある。綿密な計画というものが欠如しているのだ、この建物には。
事務の叔母さん達も、毎年の事なので、何も言わずに見ている。たまに短いスカートをはいていくと、主事が「美代ちゃん。見える見える。」と言う。私は、そういうのが嫌いなので、無視している。にも拘らず、主事は毎年「見える見える」と言う。私の感情などに、主事は気がついていないし、関心もないのに違いない。
ここの図書館には、由緒ある蔵書が保管してあり、それが充実している。貸し出し禁止のシールが貼ってある本がそれで、私はいつも、その中の一冊を選んで中庭に持っていく。そこには、私が苦労して持ち込んだベンチが置いてある。どこからも見えないところ(大きな楡の木の根元)に、木製の古びたベンチがひっそりと置いてある風景は、我ながら絵になる。
露で濡れているので、少し拭ってから腰を掛ける。葉っぱがざわざわとする。蝉がやってきて鳴いている。あまり五月蠅いようなら、竹の棒で追っ払う。蟻が膝まで登ってきたら、池に向かって吹き飛ばす。池には、無気味に巨大な鯉がいる。私が来るずっと以前から住んでいるという鯉。
ここはひんやりとしていて、苔の匂いがする。私はやっぱり水の近くでないと駄目なのだと思いながら、午後の悲しみを忘れる。
(夏休み 1 主事 完)
夏休み2 ガーナと呪い
その公民館に行く機会を逸した。姉さんは夢見るようにこうのたまった。
「あの人は、私自身を認めてくれるの。私の家系とか、家の仕事を抜きにしたところで、私を必要としてくれているのよ。美代ちゃんだってもっといろんな人に会って、いろいろな自分を見つけていかなきゃ」
全く、幸福を知ってしまった女の余裕。それは目の前の、悪魔の申し子に対する憐憫。
私は、チョコムースを金の匙でぐちゃぐちゃにかき混ぜる。うつむいて、本当につまらないのだけれど、姉さんはきっと、私が強情を張っていると思うに違いない。姉さんの幸せな瞳は、私を遙か上空から見下ろしている。聖母マリアのように。そんな顔のままで、口をつけるカプチーノのカップに、淡いピンクの口紅が付く。良く見ると化粧も念入りだから、きっとこの後、私をダシにして男と会うのだろう。つまり私は単なる時間潰しに使われているだけなのだ。そのせいで、あの中庭での憩いを棒に振ってしまった。
苛立ちが私を残酷にする。姉さんのせいだと思う。彼女は自分の幸せが、私の幸せのヒントとなるなどと思い上がっている。彼女が安住している幸せなんて、誤解と思い込みで出来た、ちんけな代物に過ぎないということを、分からせてやりたくなる。
ぐちゃぐちゃのチョコムースの中に、金の匙を押し込めて、指についたチョコを舐りながら、私は不意に明るい顔を作ってみる。午後の光が丁度私の右後方から射している。舌を伸ばして嘗める。姉さんは姉さんぶって笑っている。笑っていればいい。
「おいしい」と、猫なで声。
「うん。ここのチョコはね、カカオ豆が違うのよ」
「カカオ豆ってガーナから来るの?」
「うん。ガーナ」
「私喉が渇いた。お姉さん。そのコーヒー少し頂戴」
「いいけど、おいしいからって、全部飲んじゃ駄目だよ」
私は、わざと、口紅の跡に自分の唇を重ねて喉を鳴らす。姉さんはそんなことには気づかない。
「お姉さん」
「何?」
「お姉さんの口紅、変な味」
「うん? やあね、付いてた? 御免なさい。でも、美代ちゃんだってお化粧するようになれば、気にならなくなるわよ」
「お兄さんも、気にしない?」
「何言ってるの」
私は、へへへと笑う。姉さんも一緒に笑う。姉さんは、間抜けなほど大人だ。
「お兄さんは、優しいの?」
「優しいわよ。いつも甘えてる」
「甘えると楽しいでしょう」
「ふふふ」
「あー。いやらしい笑い方。お姉さん。いやらしい笑い方」
「美代ちゃんたら、大人をからかうんじゃありません」
私は、カプチーノをもう一度もらう。それは、コーヒーじゃなくて、カプチーノっていうんだよと、姉さんは微笑んでいる。
「お姉さん、私、お姉さんに話しがある」
「何?」
「私今まで、いい気になってた。他人なんてただのボール紙細工だと思ってた」
私が深刻そうな顔をするので、彼女は身を乗り出して来る。眉間に皺を寄せて。
「でも、それは私が今迄、人とちゃんと接したことがなかったせいだったのね。他人もちゃんと生きていて、その生きているっていう重さは、つきあってみると、私の背中にものしかかってくるものだったのね。生身の人間とまともに付き合うのは、確かに、人形や本と親しむのとは比べられないくらい重たくて、大変なものだったんだんだなって、今になってつくづく思うの」
ここで、深呼吸する。私は大筋で間違ってはいない。姉さんは、かすかな不安を感じながら、それでも、姉さんの言うように、外に出ようとする私のことを喜んでいる筈だ。
「お姉さん。私、初めてそういうことを知ったの。でも、その交流をやめたくなったの。どうすれば、終わりにできるんだろう。私、もう疲れちゃったんだ」
彼女は無言で、眉をひそめる。私は心のうちで、呪いをかける。
「もう少し詳しく聞かせてくれない?」
「うん。その人とは、散歩の途中で知り合ったの。優しい人だったよ。私は、優しさなんて信じてなかったんだけど、夏の午後だったせいかな。何となく、信じてもいいような気になってたのかもしれない。誘われた時も別にいいかって思ったの。ああ、別にそれがしたかった訳じゃなかたんだけど、その人は優しかったし、私の愚痴も聞いてくれたし、それに、多分、上手だったから、痛くもなかったし。それはいいんだけど」
姉さんの顔色が変わる。でもまだまだだ。
「その人のこともいろいろ聞いちゃった。そういう私って、私自身も信じられないんだけど、その人のこと、知りたくなったのね。でも、それ聞いてる途中から、私、やっぱり他人の苦悩まで聞かされたくなかったなと、思い初めて。それから何度か会ったんだけど、会う度に、その人とは離れたほうがいいと思うようになったんだけど、どう切り出したら一番、傷つけられるか考えてるんだ私」
「傷つける?」
「そう。だってその人、私に希望を持たせたんだよ、嘘なのに。婚約者がいるんだって言いながら、煙草吸うの。馬鹿みたい。私の事、嘗めてるんだもの。そういう事しちゃったら、むこうの勝ちみたいな顔して、悩んでいるのよ。馬鹿でしょ。そういう馬鹿には、思い知らせてやればいいんでしょ。それが、相手とその婚約してる人の為でしょ」
彼女は落ち着きなく、時計を見る。私は、姉さんのカプチーノを飲み干して、ニッと嗤ってやる。
「ミヨちゃん。御免ね、今日はあまり時間が無いの。でも、人を傷つけようと考えるのだけは、姉さんはいけないと思うわ」
そうだね。
「また、今度、その話しをゆっくりしましょう。その人とは、しばらく会わない方がいいと思うわ。それだけ、約束して頂戴」
姉さんは、人を馬鹿にしている。でも私は嗤って頷く。話せて良かったという顔で。
家に帰る道すがら、ブロック塀の上に黒い猫が座っていて、こちらを見ていた。その猫はきっと捨てられ猫だ。だから、夕焼けなどという抒情的なものには背を向けるのだ。私も夕日を背中に受けて、後ろ向きで歩いていく。ハギノトモオ。そうつぶやいてみる。一石二鳥とはこのことだ。一つの結び目を解くと、綱が二本に分かれる。私は結び目だけを見ている。それは、十一桁の数字の羅列だ。
本当に、私には、こういう暇潰しが必要なのだ。
(夏休み2 ガーナと呪い 完)
夏休み3 川井
暑い。蒸し暑い。シュウシュウという音をさせて、地面から湯気がたっている。これはもう、水を撒いたくらいでは納まらない。緑のサウナだ。体がベタベタして気持ちが悪い。あの、嫌らしい粘膜と皮膚との間に、水滴がびっしりとついているような気がする。シャワーを浴びて、そのまま外へ出る。
背中から、このごろ羽根が生える兆候がみられる。肩甲骨の裏側のあたりが、ピリピリと痺れるように痛い。これは、近来まれに見る痛みで、体内から軋み伸びる一対の骨が、私の皮膚と、この粘膜とを突き破り、私は脱皮できるのだ。この羽根の成長と共に。
だから、私はこの背中を誰にも見せるわけにはいかない。胸なんかはどうでもいい。こんなに固くて、何がつまっているのか分からない胸なんて、ただの皮膚の隆起じゃないかと思う。乳房などと呼ぶにはほど遠いこの微かな隆起には、希望なんてありはしない。私には、背中の方がよほど重要だ。
一天俄にかき曇り、雷鳴が轟く。雨があたる。肩にも顔にも、腕にもお腹にも腰にも。雨は高いところから落ちくる。高さは、もうそれだけでエネルギーだ。この力は侮れない。雨は、私の膜を突き破って、私の体に直接触れる。シャワーでは決してできないことが、雨でならできる。それは、この雨の高さと、水の生成に原因があるのだと私は睨んでいる。雨に打たれる私は、身を守る術を何一つ持たない無垢な魂そのものなのだし、雨に打たれることによってのみ祓われる穢れにまみれている。暇潰しとはいえ、このような禊が必要になるような穢れを、私は背負ってしまった。
私はそれを知りながら、その背徳に耽溺してしまった。それだって暇潰しには違い無いけれど、やはり人の欲望はエスカレートするものなのだろう。
私ばかりが穢れている訳ではない。人間世界に生きている人は、皆、穢れ切っている。ただ、それに気づく人間と気づかない人間がいる。気づかない人間というのは、自分を穢すものの存在にも、既にそれに犯されているということにも気づかないのだから、当然、禊なんて考えも付かないだろう。
薔薇園の彼女の精神的潔癖症は、気づいたためのものではなくて、穢れを妄想して騒いでいるだけのものだし、姉さんに関しては、もう、手遅れなくらい真っ黒だ。でも、その手遅れさ加減に、私は俄然やる気になってしまって、この有り様だ。
少し寒くなってきた。風が出てきたのだ。庭が騒ぐ。雲が渦巻く。私は天神様の怒りをかってしまったのだろうか。もう一度、浴室に駆け込む。泥足でばたばたと、勝手口から走っていく。
「やめて。見ないで。私は竜神様の怒りをかってしまった。もう、橋を渡すための人柱にもなれないし、雨乞いの踊りも出来なくなってしまった。私はもう、この世界に、決定的に必要の無い、無駄な物になってしまった。生きている意味を失ってしまった。私は、穢れてしまった。私は、」
ブクブクブクブク。
手伝いの川井が、私の足跡の始末をしている。砂利や、草の切れ端や、雨水を、ブツブツ言いながら掃除している。
私は、川井の幸せについて考えてやる。風呂の中に顎まで浸かって、ブクブクしながら考えてやる。川井は幸せについて考えたこともないだろう。だから、私は代わりに考えてやることにしている。でもそれは、例えば姉さんの幸せとも違うし、母さんの幸せとも違う。川井には、多分、幸せという概念は存在しない。
川井は、私が物心つく前からこの家にいて、一切を切り盛りしていた。川井には、若かりしあの頃なんて無かった。今の川井は、物心ついた頃に見た川井と寸分違わない。川井は歳をとらない。川井は川井のままで、この世に在り続ける。過去も未来も、おそらく世界滅亡のその日まで。川井は普通の人間ではないし私とも違う。
川井は私のことを、「お嬢様」と揶兪するように呼ぶ。下から嘗め上げるように「お嬢様」と呼ばれるので、私は上から刷毛で撫で下ろす様に「何? 川井」と応える。川井は私の乳母では無い。だから私は川井を一つの記号として捉えることに、何の躊躇も感じない。肉体的な接触もなく、血の繋がりも持たない者に、平等などという概念が適用できる筈がない。川井は謎ですら無い。
部屋を整える。私の身なりを、母親の気に入るように整える。庭を整える。食事の支度を整える。旅行の計画を整える。整えて、整えて、整え続けている。朝から晩まで、春夏秋冬、年がら年中無休で、片時も休まずに川井は目の端に汚れを見つけては摘み、見つけては拭き取り、見つけては始末をつける。川井は、秩序を守る為に存在する。異物を排除するためだけにここにいる。川井が一番取り除きたい異物は、私なのだ。川井は私を排除したがっている。でも、私は川井なんて怖くない。私はこの家と繋がっている。血で繋がっている。体で繋がっている。記憶と精神とで繋がっている。いくら長い時間、この空間に留まっているからといって、所詮、川井は根無し草の風来坊だ。ここで生まれ育った私とは、格が違うのだから。
体の繋がり・・・。
人間の、特に男というものは、本当に体だけのものなんだと、つくづく思う。男の仕事は、自分の動物性を隠すためだけにあるのではなかろうか。
いくら、私の台本が優れているからといって、兄さんも迂闊なものだ。あまり簡単に兄さんが屈伏するので、私は充分は背徳を感じることができなかった。
兄さんは背徳の快感に打ち震えながら、無様な麻痺を二度も引き起こす程度の男だ。お腹も脇腹も、ギリシア彫刻コンプレックスの成れの果のようだったけれど、顔は、れっきとした日本人だった。私にとっては、そんなことはどうでもいいことだけど。
私はとにかく、姉さんの更生を望んでいるだけで、兄さんはそのための手段にすぎなかったのだから。
他人の汗を浴びて、相手の吐いた息を吸って、異物を受け入れるという経験は、3Kでは足りない程嫌なものだった。私はこの時だけ、粘膜の存在を有り難く思った。そうでなければ、アトピーと金属アレルギーと、寒冷蕁麻疹を足して、百倍にしたくらいの拒否反応を起こして、腫瘍と膿とで悶絶していただろう。
私は確かに気の進まないシナリオにのっている。でも、私の生そのもの 私は確かに気の進まないシナリオにのっている。でも、私の生そのものが無意味と苦痛とに満ちているのだから、この上、苦労を重ねたところで、大差はない。私は負けてもともとのギャンブルに、体を賭けただけだ。
「川井」
私は、湯殿の中から叫んでみる。
「何でございますか。」
と、しわがれた川井の声が聞こえる。
川井は掃除を済ませて、母親もまだ戻らないので、懸案事項である私に掛かり切りになっているらしい。私さえ大人しく部屋に戻ってしまえば、川井は自分の電源を余熱モードに切り替えて、部品の消耗を減らすことができるのだろう。私の為に、最近の川井はオーバーヒート気味なのだ。湿気のせいで、歯車の調子も悪いのだろう。私は、少し優しい気持ちになって言う。
「川井、お前は風呂に入らないのかい?」
「私は、夜、皆様の後で戴いております。こんな時間からお風呂を戴くなどというふしだらなことは、いたしません」
「ねえ、川井」
「何でございますか」
「私はこの家とは血で繋がっているんだ。川井は何でこの家にいるの?」
「ここが私の御奉公の場でございますから。御用でないのでしたら、失礼いたします」
川井は台所へ歩いていく。川井のさっぱりした物言いを、私は好いている。川井から見習うべきことは多くはない。けれど、数少ない美点は、全て一点の曇りのない完璧な物だ。私は川井の一部を尊敬している。そして、それ以外の部分をごしごし擦って剥ぎ取ってしまえたら、それを部屋に飾っておきたいとさえ考えている。
(夏休み 川井 完)
夏休み 4 ボルト
夏休みという悪習によって私の庭は台無しにされる。学生諸君はこの公民館を何と心得ているのだろうか。単に暇潰しのためだけにやってこられては、純粋にこの場所を生活圏としている者が圧迫される。不作法な不感症共に身売りをし、媚びるばかりで消費され尽くしている観光地のつもりで来られては、甚だ迷惑千万だ。
私は、赤いワンピースなどを挑発的に被って、麦わら帽子を頭に載せたまま、カウンターでふくれている。事務員達は毎度のことだという顔で気にもとめない。私は迂闊なことに、あの通り道の一番奥に座っているべき主事の姿のないことにようやく気づく。
「何だ。おじさんいないの」
キキュと天板に爪を立てながら、私は本当に何でもないことのように聞いてみる。すると、一番近くにいた一番若い事務員がちょっと顔を曇らせた。その表情はやはりお面のようで私は本当に不機嫌になる。
「何。どうしたっていうの」
「ミヨちゃん。主事の伊東さんね、入院したの。それで、しばらく仕事には出られないのよ」
その囁き声が、私の背中を撫で上げた。足が震える。
「何で、何で入院したの。どこ、悪いの。もう、来られないの」
私は、自分でも信じられないくらいに狼狽している。なぜ、こんなに取り乱しているのだろうと考えている自分がいる。私が二つに分かれている。主事の一人や二人、入院したところで、一体どうだというのだろうと、眉を上げる自分がいて、そっちの方がよほど私らしいのに、今、内臓の隅々を支配しているのは、おろおろしている方の自分だった。事務員も、私の狼狽ぶりに当惑し、しばらくポカンとしていた。しかし、すぐにポンポンと私の肩を叩いて言った。
「お見舞いに行ってあげて頂戴。病院教えてあげるから。伊東さん、今日はあなたは来るだろうか、明日は来るだろうかって、おかしいくらいにミヨちゃんのことばかり気にしていて、あのベンチの脚も、折れそうだったからって、無理矢理に窓から外へ出てね、直してたくらいよ。きっと喜ぶわ」
私は、知らなかった。ベンチの脚のことなんて気付きもしなかった。事務員の机からメモをひったくって、私は主事の机を蹴飛ばし、庭に降りる。ベンチは、しっとりとそこにある。その脚は、注意深く色を合わせた板が当てられていて、丸い埋め木細工が施されてあった。その奥には多分、私の寿命よりも長持ちするくらい頑丈な、ボルトの頭が隠されているのだろう。私は、ひざまずくようにその仕事を見て、自分が泣いていることに気がついた。なぜ、泣いているかのかと訝る自分は、冷静で理知的だけど無力だった。
この涙は止まらない。主事を案じる涙ではないということは、それは絶対に確実だと思った。筋肉とは違う何かが、まるで、塔が崩れ落ちる間際のように痙攣した。
私は不意に、目も眩むような高いところから、ほとんど地図にしか見えない世界に向かって落ちていくような感覚に襲われ、冗談のように吐き気が込み上げてきた。体の中から何かを吐き出そうとするように、全身の、今度は筋肉が収縮していた。その活動の為に、私の背中は張り裂けんばかりに痛んだ。その痛みをやり過ごしている間、部屋の中から私の背中に好奇と憐憫の視線を浴びせている俗物共の存在を、私は完全に忘れていた。
主事に会わなくてはならない。
私は勢い良く立ち上がる。赤いワンピースが花のように広がって、次の瞬間、私は苔むした大地を踏んで、しっかりと立っている。
「あんた達、この場所、絶対に誰もいれないで。破ったら、殺すからね」
そんな事を叫びながら、私は主事の机で窓を塞ぎ、カーテンを閉ざす。
皆は、私が相当なショックを受けたのだと思っていて何も言えない。私は、最初から許されているのだ。皆が、私を許したがっている。そうすることで、彼らは主事への思いの代替としているのだ。
あの人達は、私のように取り乱すことが出来ないから、私の錯乱状態を黙って見つめることで、自分を慰めているのだ。何も分からないくせに、そういう知恵ばかりが達者だ。
私はカウンターを乗り越えて、病院まで走った。
太陽が私を磔にしようとしている。止まったら私、影になってこのアスファルトのシミにされてしまう。
病院は、私の世界の果てにある。三キロメートル北の外れ、山の中腹にある。そこからは、海が見えることもある。私は、外の世界のことには興味を持たないけれど、海と天とを結ぶ、白い柱には魅かれる物がある。それがあったから、こんな辺境に毎日通うことが出来たのだ。学校よりも長く、足繁く通った総合病院。その二階にあの主事が入院している。内科の病楝。死ぬ病気と助かる病気の曖昧な所だ。
自動ドアを蹴飛ばし、破れていないスリッパを探すゆとりもないままに、古株の看護婦を捕まえる。
「あら、ミヨちゃん。久しぶりね、元気」
「平気。それより、この人どこ」
汗でマーブリングのようになっているメモを判読する婦長の様子は、いやに冷静で腹が立つ。
「この人、死ぬの?」
「これ、めったなこと言うものじゃありませんよ。この人は、大したことじゃないわよ。ちょっとした胃潰瘍で、手術すれば良くなるの」
「嘘ついても駄目だからね。私、カルテ読めるし、秘密の入り口だって知ってるんだからね」
「疑り深いこと。ミヨちゃんの知り合いの方だったの。だったら、お見舞いにいってらっしゃい。後で、ジュースでも買ってあげるから」
「いらないよ」
私は病室へむかって廊下を滑る。五人部屋がずらりと並ぶ区画を、名札を確認しながら滑っていく。三つ目の部屋に主事の名前がある。私はそれに気がつかなかったけれど、覗いた視線の先に、主事の顔を見つけた。
驚いたような顔は、少し痩せていた。
「ミヨちゃん、そんな格好で走り回ると、見えるぞ。」
にこにこ笑いながら。私はその言葉をやっぱり無視する。
「私に黙って休まないでよね。」
息がはずんで言葉が上手く出てこない。主事はうんうんと頷いている。
「暑かっただろう。走ってきたのかい。元気だなミヨちゃんは。何か飲むかい?」
いらない。
「いつから戻る? あの椅子長いこと開けてると、私がもらっちゃうからね」
「ミヨちゃんが主事かい? あの公民館もそうしたら、人気が出るかも知れないね」
「それは、困る」
私は思わずそう叫んで、なぜそう叫んだのかが、叫んだ拍子に分かった。なぜ、私が、こんな汗みずくになって炎中を走ってきたのか。それは、とても冷ややかな宣告だった。
全身に鳥肌がたった。周囲を見渡すと、病室の満員の患者と見舞い客達の微笑みが溶け出していた。私は、一刻も早くここから離脱しなければならなかった。
「手術でも何でもして、とっとと直しちゃってよ」
「そんな乱暴なことは言わない、言わない。おじさんだって、こうして休んでいるのは辛いんだからね。ミヨちゃんの元気な姿も見られないし」
「だから、早く出てこい」
「ああ。なるべく早く出ていくよ」
「じゃね」
私は、くるりと廻って、今度は主事の所から一目散に駆け出した。背後で、主事の声がした。「見えるよ。」とでも言ったのだろう。私は無視する。それどころではないのだ。
私は看護婦の背中を押し退け、自動ドアをこじ開けるよう表に出て、沈みつつある太陽を追い越すように、走って、走って、走り続けた。世界の中心、絶対に私を裏切らず私と共にあり続けると信じているあの部屋の寝台だけを念じながら、ほかには何も見ないで走り続けた。
(夏休み 4 ボルト 完)
九月 泥繭
夏に眠ると書いてカミンと読む。仮眠ではない。冬眠ではなく夏眠なのだ。両生類には良く見られる習性だ。この日差しの中では体表が乾燥してしまい、皮膚呼吸が出来なくなって死んでしまうから、泥の中に潜って、それはそれは小さく丸くなって、糸ほどの息抜き穴だけを残して籠もるのだ。
いつか、太陽が隠れ、雨が落ちてくるまで、何年でも眠り続ける。でも、それは何の為なのだろうか。それほど待ち続けて、一体何があるというのだろうか。彼らにとって、生きているということが、どういう意味を持っているのだろうか。
突然にこんなことを考え始める私は、確かに少し参っていた。暑さに? そう。この大気そのものが熱を孕んだ蒸し焼き地獄に、私は参っている。でも、クーラーなんて無い。シャワーを浴びすぎて、体中が皺くちゃになって、それがあまりに醜いので、もうそれも出来ない。今、私の瞳は炙った魚の目のようにブヨブヨしているのではないだろうか。何も見えない。目を閉じても何も見えない。重力がほんの少しだけ強くなっているのではないだろうか。「川井」と叫んでみる。でも、声が出たという実感が湧かない。それでも、川井はやってくる。
「あんまり冷たいものばかり召し上がりますと、腸をお悪くいたしましょ」
「腸なんてどうでもいい。私は暑いんだ体の中から」
「腸をお悪く致しますと、お体が弱ります。しばらく難儀をなさいますよ」
「もう、私は十分に難儀をしているんだ。今、この瞬間に、私が沸騰して蒸気になったら、お前の責任だ」
「それで、結構でございます」
川井のこういう言いざまには好感が持てるが、体の方がもう限界だ。暑い。公民館へ行く途中の道も暑い。
砂漠の民はあんな毛布みたいなものを被っているけれど、あれはたいへんに暑いだろう。あの人達は、直射日光を恐れているのであって、熱気を防御している訳ではないのだ。
瞼を切り取られて、後ろ手に縛られて、砂漠に置き去りにされる刑罰があるらしい。しかし、切り取られた瞼は、一体どのような処遇を受けるのだろう。裁判官の記念品になるのだろうか。褐色の二重瞼が瓶の中で漂っているのだろうか。それは、涼しげだ。
冷やりとした所。静かに眠れる所。そう考えて私ははたと思い当たった。空気の淀みが恐ろしくて、普段はあえて意識しないように心がけている所。あの蔵の地下室。
川井は私をあの蔵の中には入れたがらない。可哀想なシャム双生児でも閉じ込められているのか、白痴の娘が捕われている訳でもなかろうに、とにかく川井は、私があの付近をうろつくだけでも怒るのだ。でも、私は、あそこで涼むという考えに取り付かれてしまった。もう、一刻も早く、あの中に忍び込まなくては済まない。
部屋をそっと抜け出す。廊下の床板が意外に冷たい。ここで裸で寝転んでいたら、さぞかし気持ちが良いだろうと思う。でも、川井がいるのでそうもいかない。つままれて捨てられてしまうのがおちだ。
電話室の前を通って、玄関の吹き抜けに出る。三和土に下りると、足の裏がひんやりと冷える。ここでもいいや、などと考える私はもう末期的だ。
ぐるりと裏へ回って蔵の前に出る。この蔵は爆撃の中を無傷で生き延びた。しかし、古さ故の傷みは相当なものだ。壁土は剥がれつつあり、そこをほじった後も無数にある。ほじったのは私だ。幼い頃、私の遊び相手はこの蔵だった。蔵は大きくて、寛大で、いかなるときもその態度を変えなかった。私がシャベルで壁を壊しても、おしっこをかけても絶対に。
かつて白く輝いていた壁は、今では、暗灰色としか呼べない色に変わっている。妻側の棟に近い部分には、小さな明り取りだか、換気孔だかが二つ開いていて、真中に、矢のような飾りが取り付けてある。それがちょうど顔のように見えるので、私はいつも挨拶をする。
「兄さん。おはよう」
蔵は、血を分けた兄さんだ。実際、壁に開けた穴から指が抜けなくなって、ぐるぐると回していたら、血が滲んできたことがあった。 体に指をつっこまれてぐるぐる回されたら誰だって血を流す。こんなに大きな兄さんを傷つけてしまったと思った私は、泣き叫んだ。指も痛かったが、兄さんはこの何倍もの苦痛に耐えていたのだと思うと、私は兄さんに済まなくて、自分がつくづく浅はかに思えたものだった。
ぐるぐると回っていると、いろいろなことを思いだす。思い出はどこにあるのだろう。蔵の回りを回っていると、ノスタルジックな気分になる。抒情的な気分になる。しかし、こんな気持、汗には似合わない。
蔵の脇には、約束通りの井戸がある。この井戸は今でも水が湧いている。この夏は、西瓜もラムネも冷やしていない。これは川井の陰謀だ。私は井戸をのぞき込んで、そのままぐるりと体を回す。おしりを少し打つ。私は確実に生長している。昔は腕をいっぱいに伸ばして、つま先がようやく触れる程度だった足掛け石にも、今は膝を少し曲げないと具合が悪いくらいだ。トントンと石を伝って下りていく。頭がすっかり隠れるころに、膝の辺りに横穴が現われる。ここから、地下室へ入ることが出来る。私が作った道ではない。昔からあるのだ。体を窮屈にかがめて、そこに頭を突っ込む。
横穴は、私の肩ぎりぎりの大きさしかない。もう少ししたら、もうこの穴は使えなくなる。でも、そうなったら、蔵の鍵を拝借するくらいのことは許されるようになるだろう。
穴の中は湿った泥でつるつると滑る。私は顔をねじ曲げて、手を伸ばして少しずつ少しずつ奥へと進む。この泥は、とても冷たい、気持ちがいい。自分の体の柔らかさが、泥のトンネルの柔らかさのような錯覚を起こさせる。
ほどよい圧迫と冷たさの中で、私は不意に静止する。無理に進む必要はないと気付く。このままで、十分に気持ちが良い。
夏眠するオオサンショウウオの気持ちが分かる。そして、そのまま長いこと生き続ける彼らの気持ちが理解できる。彼らは何かを待っている訳ではないのだ。このまま、この気持ち良さを享受し続けたいだけなのだ。私にも分かる。しっとりとした泥の中で、私は久しぶりに、ぐっすりと眠った。
(九月 泥繭 完)
十月 憂秋
私は、皆が当然のようにやっていることができない。でも、そういう人達には出来ないことを、私はやっているのだと思う。それについては、誰にも負けていないとも思う。
この私の世界は、とても限定されている。この寝台、この部屋、この家、この庭、自転車にも乗れない私の外界。金を使って空間を移動するということに対する嫌悪感。生きている時間。この時代、母親。振り返らずに、まっすぐに前を見て歩き続ける私の前に、唐突に現われる一筋の境界線。けれども、私はそれを敢えて越えようとは思わない。悪戯に広さだけを追求して、広さを獲得することが自分自身の存在を強大にするのだという頭の悪い妄想に取り付かれた人間達が、どのような不安に苛まれているのかを私は知っている。 誰が定めたのかは知らないが、私には半径三キロメートルの世界でもまだ広い。私は、これだけの要素を全て私自身の内部に取り込まなくてはいけないのだと思うだけで、存在そのものが苦痛に感じられてくる。私の縄張りを乱そうとするものを、たえず監視し、主である私の知らないところで何らかの変革が起きることを阻止し、またその変革を認めつつ、絶えず、私の内部にある世界と、現実に存在している世界との差異を克服していかなくてはならない。私は、何によって生きているのだろうか。そう考える時、私が生きていると考えている世界と、現実との差異の狭間にむかってはてしなく落下し続けているかのような、不安、恐れ、焦燥、猜疑心、悲愴感に責め苛まれ続けるのだ。
(十月 憂秋 完)
十一月 廃虚
あの入り口が塞がれた。塞がれてしまうと私はかえって、もうあの蔵には二度と入るまいと思う。鍵を使って蔵の入り口を開けることに何の意味があるというのだろう。私はすでに、薄暗い隔絶された所にいるのだ。今更、その囲いをもう一つ増やしたところで、何になるというのだろう。
目映いほどの光の中で、さらにもう一本の蝋燭に火を点すことに、何の意味があるだろう。点された蝋燭は、なんの存在価値もないままに溶けて果てるだけではないか。それは完璧な徒労だ。蝋燭は、ただ風に吹かれて倒れる事のみを夢見る。光の眷族ではなく、炎の一族として蝋燭はあるのだから。
私は、蝋燭のようなものだ。私がこのままこの身を溶かしつつ炎を点し続けたとしてもそれは、全く何にもならない。姉さんが痴話喧嘩したり、美しい尼が一人出来たりするくらいのものだ。天上にかすかな煤跡を残し、飛んでいる羽虫を焦がしたりするくらいのことしか出来ないのだから。
無数の蝋燭がぎっちりと並べられた卓上の一番端の、細い一本の蝋燭が私だ。遠くから見れば、そこに私がいるなんてことには気付かれもしない。それが、消えたとしてもやはり気付かれもしないだろう。
蔵は蔵でしかない。そこは開かれることの無い隔絶した世界で、そこに至る為の呪文は私だけが知っていた。しかし、今はそれさへ封じられてしまった。塞がれた井戸は、かつてそこで冷やされたラムネや西瓜と同じく、もう決して戻らない過去の世界へと押し込めらてしまった。井戸を塞ぐという行為によっていかに多くの物を永遠に失うこととなったかを、誰も分かろうとしない。このようにして私の夏は完全に絶たれたのだ。
仕舞うことを惜しむあまり、すっかり色褪せた風鈴が音をたてる。それは、夏のレンズのような大気の中ではあれほど不思議な音色だったというのに、この馬鹿みたいに澄み渡った秋の空気の中では、薄っぺらなものになってしまった。ゆらゆらと揺らめいていた世界は、鮮明な、超リアリズムの絵画のように嘘臭い。空はどこまでも高いけれど、手を伸ばせば案外天井に届きそうな気がする。息をすると、落ち着きを帯びた混じり気の無い気体が体の内部を分解していく。何も無いものを取り込んで、私であった何かを吐き出していく。こうして私は秋に同化していく。私の体に秋が満ち、私の外にも秋がある。ただ一枚の皮膚と、相変わらず私を包む皮膜だけがかろうじて私の形をしている。私とは、この薄っぺらな境界でしかない。内と外とが等価になったら、境界の意味なんてない。彼岸と此岸の間には必ず差異がなければならないのに、私はもう、蔦の絡まる巨石古墳だ。終わった存在なのだ。
私は泣いている。この涙にまで、空の青が映っている。私は、再び蒲団を被り、祈るように背中を丸める。この背中の痺れだけが私の証拠なのだ。ここから真っ白な羽根が生えたとき、私はこの秋を飛び越えてどこまでも飛んでいくのだ。地上にへばり着いている人間達の無様さを高いところから笑える時がきっと来る。私は笑うことで私を証明するのだ。世界は私に笑われる為にあるのだ。
食事を採らないので川井の機嫌が悪い。母親の機嫌も悪い。私のせいだ。
私だって好きでこんなふうに生まれてきた訳じゃない。私がこんな風になったせいで一番割りを食っているのは私なんだ。親だって川井だって姉さんだって、匙を投げれば終しまいだ。でも、私が私に匙を投げることはできない。
だったらせめて、こんな私を私一人くらい愛してあげなくては悲しいじゃないか。
私は学校に行かれないし、友達もいない。みんなのお荷物で、私自身にとっても大荷物だ。教会へ行けだの、カウンセリングを受けろだの催眠療法があるだの、みんな自分がちょと慈善心を持ち合わせているのだということを見せたいだけだ。この世界では、誰かに頼ったらかならずその代償を請求されるということには目をつぶって、好意の押しつけばかりする。相手はそれで満足だろう。それで疲れるのはいつも私だ。そんな好意からは、肉の匂いが漂っている。そして断ると怒るのだ。落伍者は弱々しくて素直でなくては受け入れられないのだ。私は彼らのペットではない。
秋はいつもこうだ。この秋の透明で暗すぎる影の中には、私の入る隙が無い。
衰弱して倒れたら、点滴だの流動食だのを突っ込まれることになる。そうなったら彼らの思う壺だから、夜中にこっそりと冷蔵庫を物色する。川井は私のことを知り尽くしているから、栄養剤だの、生野菜だのを冷蔵庫に貯えてあるのだ。私は川井の好意にすがりながら、意地を張っているだけなのだろうか。川井は、私が倒れることで責任を負わされることになるのが面倒なだけだ。川井の作戦がこの冷蔵庫の中身で、私はまんまと術中にはまっている。でも、川井が自分の役割としてではなく、私を見くびるような態度で私に接したら、私は川井を殺す。この世を代表する身近な人を一人一人追い込んでいくことが、私に残された唯一の抵抗なのだから。
私は世界に益を成す存在ではない。だから害を成す存在になるしかない。私を見くびる人間から、その報いを受けてもらおう。私はただ、生きているという証拠が欲しいだけだ。
こういう私の存在を許した世界に対して、私に可能な方法で、それを実行していくことのどこが、いけないというのだろう。
(十一月 廃墟 完)
十二月 翅
「ミヨちゃん。どうした。元気なミヨちゃんになってまたあのベンチに座ってくれなくちゃ。主事の椅子だって空けてあるんだからね」
おじさんが、そう言ってニコニコ笑っている。
「ミヨ様。私、貴女にとても大切なことを教えていただいたのに、肝心な時にはお役に立てないなんて。私、父なる神にお祈りしますわ。私は、本当にあなたのお陰で救われたというのに、私は何のお力にもなれないなんて。でも神の思し召しはいつでも貴女と共にありますわ。お気を確かにお持ちになって、きっときっとまた、あのお部屋でお話をいたしましょう。そうだわ。今度、貴女のお部屋に薔薇を差し上げますわ。それは良い香りですの。きっと心も晴れてよ。修道院へも遊びに来てくださらなくては困りますし。私、貴女のことを、本当に大切な友人だと思っていてよ」
彼女、全く変わらない。
「ミヨちゃん。いつまでも甘えていては駄目なのよ。ちゃんと自分で立って歩かなくちゃ駄目なのよ。ミヨちゃんは本当は頭の良い優しい子なのに、わざと神経を逆なでするようなことばかりして、それで振り向いてもらおうとするなんて、甘えんぼの証拠なんだから」
姉さん、ハギノになってしまった。私は結局彼女を救えなかった。
背中が痛い。肩こう骨がベッドのスプリングに擦れて、皮が剥けて赤い。私はこれだけのものだったんだなと、しみじみと思う。ひとしきり見舞いがあって、あとはもう誰も来ない。母親も川井も、ついていたそうな素振りをしていたけれど、ここは付き添いお断りだから助かる。この体たらくをぞろぞろと見物にこられては堪らない。私を疎んじる人々が憐れみを与える喜びを得る時なのだ。私は引き千切られるような痛みに絶えてうつ伏せになる。全身がひりひりする。そっと点滴の針を抜いて、両手を胸の下で組む。
夜が更けていく、らしい。この部屋には窓が無い。息が苦しい。生暖かい。ぼんやりとした明かりの向こうで私を取り巻いている四方の壁は、なだらかな曲面を描いている。静かだ。私はだんだん心が安らいでいくのを感じている。これまでの自分が、無様な営みをしているのが見える。春、夏、秋、冬と、辛いことばかりだったなと思う。
背中が、痛い。私はびくりと膝を抱える。うつ伏せのまま。首が折れそうなほど痛い。
どうして私は、こんなに辛い生を生きなくてはならなかったのだろうか。私の血が汚れているからだろうか。愛される努力をしなかったためだろうか。それとも、既に長く生きすぎた為だろうか。
結局、私は何の意味も無いまま死ななければならないのだろう。私は負けたのだ。自分の身体、この肉体に負けたのだ。
肩こう骨に錐を突き立てられているようだ。そこから、身体が張り裂けそうだ。
身体が裂けて、新しい物が現れたら、その新しい物には過去の記憶は残っていないのだという。蝶は青虫だった時のことを知らないし、蝉は土の中を知らない。それらは、過去の屈辱の記憶を凍結し、美しい翅に変えることで全てを忘れ飛べるようになるのだ。それは天使の羽根のようではないけれど、私にはそちらの方が似つかわしい。
全身が熱くて痛くて、寒気がする。目の前に私の部屋が立ち上がる。この部屋、あまり好きではなかった。でも、ここからしか次は始まらないのだ。今度こそ、生身の皮膚に風を受けて、自由に飛ぶことが出来るだろうか。
何て不完全な生命。眠くなる。
何て不完全な身体。だるくなる。
そして私はあの泥の繭の中で眠った至福の時を思いだす。長い長い眠りだろうか。それとも刹那の夢だろうか。
真赤な暗闇が下りてくる。
ものすごい勢いで。
苦痛も快楽も喜びも悲しみも怒りも諦めも慈愛も冷血もいっぺんに通りすぎた。
朝ぼらけの柔らかな光が満ちる。
痛みは無い。
ただ異物感だけが時折私を私だと気付かせる。
やがて、それも無くなる。
何も無くなる。
(十二月 翅 完)
(ミヨ・モノローグ 完)
ミヨ・モノローグ