さよなら四角形
一
聞いてくれてありがとう。
私は彼女にそう言いました。きっと言わなければならないから、すぐに言えるようにと何度も練習した言葉。それをなんとか声にしたら、他の言葉があふれる前に、私は彼女とお別れをしました。彼女の声が紡いだ最後の言葉を残して。
「ごめんなさい」
ふゆべさんは私の後輩でした。おとなっぽくて綺麗な女の子。彼女の澄んだ声も好きでした。初めて新入生一人ひとりに歌ってもらった時、みんなをほれぼれとさせる歌声を披露してくれたこと、今でも鮮明に思い出せます。
私の伴奏に乗せるたくさんの歌声の中に、ふゆべさんの声があったことは、この一年間において特別な幸福でした。
最大の幸福は、ふゆべさんがソロパートを歌った時。ふゆべさんは一年生でしたから、私の伴奏でソロを歌ってもらう機会なんてないものだと思っていました。だって、ふゆべさんが二年生になったら、私は三年生。そうしたらもう、私の役割は補欠のようなものなのです。二学期のコンクール曲の伴奏までは練習するのですが、三年生は二学期以降出場することができませんから。
彼女が選抜された時は、賛否両論でした。先輩を差し置いて、まだ一年も部に貢献していない後輩が選ばれるのですから、当たり前です。でも、私は、私のために賛成でした。私だけのふゆべさんがほしかったのです。
私の音は彼女のために。彼女の声は私の上に。全体合唱もソロも息がぴったりで、コンクールは大成功でした。多くの人がほめてくださって、あまり表情豊かではないふゆべさんが、少しだけ誇らしげな表情をしていた様子が愛らしかったのです。その後、彼女が言ってくれた言葉を、私は一字一句忘れません。
「はるのせんぱいの伴奏だったから、私は安心して歌えたのです」
合唱部としてあるまじき感情ではありますが、あの瞬間は、舞台の上にまるでふゆべさんと私しかいないみたいでした。私だけの特別な思い出です。
今日は卒業式でした。私は次の四月から高校生になってしまうのです。外部に出ていく私は、抱えているものを整理したいと思いました。それは自分のためでした。ふゆべさんとの関係が続くなら、私はこの感情を抑えられない。この山を乗り越えて関係を続けるか、終わらせるかの二択しか、私の中にはありませんでした。
私はふゆべさんを傷つけるかもしれないことを分かっていて、自分のためにこの感情に名前を付けて、彼女に想いを告げたのです。
二
二つ上のはるのせんぱいを初めて見たのは、入学式の時でした。合唱部の先輩方が歌ってくださった時、伴奏をひいている姿を見たんです。その時は歌声に惹かれて、私は合唱部に赴きました。
はるのせんぱいに強い憧れの気持ちを抱いたのは、近くでピアノをひく姿を見てからです。同じピアノをひく身として、こんな音を出せるのがうらやましい、悔しい。でもずっと聞いていたい。私はこの人の音の上に、私の声を乗せたい。
私にとって二年も離れている先輩は、遠い存在でした。だから、たとえとなりに立ったり話したりすることができなくても、姿を見ることができたら、同じ場所にいることができたら、私はうれしいと思ったんです。そうして合唱部に入部しました
ある時、部活の用事があった私は、お昼休み中に音楽準備室まで来ました。扉をノックしようとして、となりの音楽室から聞こえるピアノの音を、私はかすかに聴き取りました。知っている、これは夏休み明けの合唱コンクールで歌う曲の伴奏。
準備室にいらっしゃった顧問の音楽の先生に、用事を済ませてから聞いてみました。だれがひいているんですか、と。
「はるのさんですよ。あんまり人がくると困りますから、大きな声では言っていないのですが……お昼休みは音楽室を解放している時もあるんです。彼女はよくひきにきます」
ああ、はるのせんぱいの音だったんです。私が惹かれてやまないせんぱいの音。
あんまり準備室に長居できないから、私は後ろ髪を引かれる思いで廊下に出ました。廊下だと良く聞こえません。扉は二重だから仕方がない。でも聴きたい。
そっと扉に近づきます。よくみたら、一枚目は少し隙間がありました。それなら、と思って、音をたてないように、慎重に二枚目の扉に手を掛けて、わずかにスライドさせます。すると、ほんの少しだけ、せんぱいの音が聴こえやすくなりました。
昼休みも終わりに近づいて、片付ける音が聞こえるまで、私は廊下の壁に寄りかかったまま、せんぱいが奏でる音に耳を澄ませていました。
それ以来、私はときどきせんぱいの音を拾いに行くようになりました。ずっと聴いていたい、私が憧れる人の指が奏でる優しい音。願わくは、私だけの声を乗せたい。ここでお昼休みにはるのせんぱいがピアノをひいていることを、だれにも教えたくない。私だけの音。私はどんどん贅沢になっていく自分を感じます。となりに立てなくてもよかったはずなのに。廊下に立っている私は、今すぐにでも音楽室に入って、せんぱいのそばにたって、歌わせてもらいたくてたまりませんでした。
それはいけない、と何度も我慢したのに、夏休み中の家にいる時にも部活動中にも、何度かせんぱいと二人の時に歌うことを考えていました。だから、一度だけ、一度だけ音楽室に入ろうと決めました。
二学期が始まって最初のお昼休み、私は高鳴る胸を押さえながら音楽室に向かいました。今日は運よく、二枚の扉は音楽室に一筋の風を通していました。
深呼吸をして、震える手で扉にふれます。大丈夫、一度だけ。
この時、私は自分の心臓の音ばかりに気を取られて、他の音は聞こえていなかったようです。
やっと開くことができた扉の向こうには、黒く光るピアノが一台、ぽつんと置かれているだけでした。
三
みなつちゃんはよく、今日は用事があるから、と一人でどこかへ行ってしまう。
わかった、と返し続けた私には、すぐ限界が来た。どこへいくのか、つきとめてしまおうじゃないの。
「ごめんね、今日もひとりにしちゃって」
「大丈夫。気にしないで」
ひとりって、私にはみなつちゃん以外にも友だちくらいいるわよ。私が好んであなたと二人でいるだけだもの。
いろんな気持ちを笑顔の下に押し込めて、私はいつもどおりみなつちゃんを送り出した。
みなつちゃんは廊下に出て、右へ。私も廊下に出る。角を曲がる姿が見えた。少し走って角で立ち止まり、耳に意識を集中する。たぶん、ひとつ上の三階に行った。
足音が遠くなりすぎる前に後を追う。三階で翻るスカートの裾が見えた。廊下は一本道だから、どうしてもはちあわせてしまうかもしれない。緊張しながら、そっと三階の廊下に目を走らせた。
一番端の教室の前に、みなつちゃんはいた。そこは音楽室だった。私たちが毎日放課後に通う場所。
みなつちゃんはただ壁に寄りかかっているだけで、何もしない。すぐに想像できてしまった、彼女が何をしているのかということを。
合唱部のみんなは、ふゆべせんぱいを見ていた。憧れていた。きれいな姿、きれいな声を、だれもが好きと言っていた。
でも、みなつちゃんがいつも名前を出すひとは、はるのせんぱいだった。三年生の伴奏者だから、印象に残りやすい。一応二年生の伴奏者が代表で、はるのせんぱいはもう一学期いっぱいで引退らしいけど。
みなつちゃんが見ていたのは絶対にはるのせんぱい。見間違えなんかじゃない。だって、私はずっとみなつちゃんだけを見てきたのだから。
壁一枚の向こうにいるわけでもないけど、遠く離れたみなつちゃんから、私はさらに距離をとった。さっさと教室に戻って、いつもどおり友だちとお喋りするんだ。
教室の友だちは、めずらしく男の子の話をしていた。私たちの学校には男の子がいない。目にすることも耳にすることもそんなに多くない存在。
「私がここに入ったから、学校は別々になっちゃった。好きと言えばよかった」
みんなで相槌を打ったり、ささやかな意見を言ったりする。そんな中、私は思う。相手に好きと言う選択肢があってうらやましい、と。私は言えない。言ってしまえば、私はたいせつな日常すら失うかもしれないのだ。
部活動は人一倍がんばっているつもりだった。ソプラノはふゆべせんぱいだろうから、私はそこに重ねるアルトをやりたい。一年生だから無理だと言われるけど、私の声を届けたい相手がいるから。
私の音を聴いて。ピアノを奏でることはできないけれど、ピアノに乗せて歌うことはできる。歌が上手くなったら、私の音を聴いてくれますか。聴いてください。どうしても。
今日もみなつちゃんの視線の先にせんぱいがいた。
私は彼女の最大の特別になれない。そして私が抱いている秘めた感情は、彼女が私の最大の特別ですと言い切れない。この感情が間違っていないものだと信じることができないから。私は、彼女に何もしてあげられなかった。幸福な音をあげられなかった。そのことがひどくさびしかった。
きっと友だちだったら、話を聞いて一緒に落ち込んで、何か言葉をかけたり言ったりすることができたのかもしれない。
私は何も言えない。何度も聞かされた、はるのせんぱいの存在が、私の存在を許さない。秘めた感情は大きくなりすぎた。それがのどもとにつっかえて、邪魔をして、表面だけの優しい言葉すら、もう吐くことができない。
みなつちゃん、はるのせんぱいが大好きなみなつちゃん。はやく木々がすべての葉を落とし、新しいつぼみをつけてほころびはじめる季節になればいいのに。せんぱいを見つめるあなたの横顔のいじらしさが、ひどく胸にしみて痛い。
でも、その表情を知っているのは私だけ。私は、はるのせんぱいが好きなみなつちゃんのことさえも、好きなのだ。
四
三年生の十二月、風が冷たくて、渡り廊下を早歩きで通る。
音楽室よりも図書室に行くようになった私は、ちあきの姿を見つけてめずらしいなと驚いた。誰よりも先に進もうとするアルトのリーダーである彼女は、音楽室に来るのだって、いつも私よりも早かった。
「あ。こんにちは、ふゆべせんぱい」
私が声を出す前に、ちあきはか細い声で挨拶をした。こんにちは、と私も返す。
「部活は?」
「これから行きます、すみません。ちょっと、調べたいことがあって」
「何か手伝おうか」
ちあきは思い悩んでいることでもあるような顔をして、それから「高校の受験案内の本を探しているんです」と言った。それなら、と私は書架を案内する。
分厚いその本をちあきは重そうに取り出した。
「ありがとうございます。あの……」
何か話そうとして辺りを見回し、すみませんとちあきは口を閉じてしまう。廊下に出ようか、と提案したら、ちあきはうなずいて本を書架に戻した。私はコートを着て彼女と一緒に少し寒い廊下に出る。
窓際、向かい側の校舎の教室はがらんとしている。三年生の教室だからだろう、放課後に残っている人は少ないのだ。
「ふゆべせんぱいは外部受験ですか」
「うん」
受験のことで悩んでいるらしい。真面目だなと思う。私が二年生の時は、まだ歌うことで頭がいっぱいだった。いつの間にか、歌が遠くへ行ってしまったような気がしてきた。
「私と友だちは、内部進学するつもりでこの中学校に入ったんです。でも、その子、外部受験しようかなあって言い出した。だから、私も自分で考え直そうと思って」
「いいんじゃないか。今からならまだ大丈夫だろう」
「でも」
ちあきは視線を落とす。
「自分の動機が不純で許せない。私、友だちが外に行くっていうから、やけになっているんです。あの子、はるのせんぱいが行った高校を知ってから、外部受験するっていいだしたから」
懐かしい名前を聞いて私は動揺した。好きなせんぱいだったが、私の好きと、はるのせんぱいの好きは、少し違った。私もせんぱいも、お互いの違いを受け入れることができなかったから、せんぱいが卒業して以来会っていない。いつか受け入れることができたら。
ちあきの話の友だちが誰なのかわかって、私は彼女の苦悩の理由がなんとなくわかったような気がした。
「みなつか」
私が言うとちあきは目を泳がせて、わずかにうなずいて肯定した。二人もきっと、違う好きを抱えている者同士なのだろう。
「動機なんてどこから来るのかわからないものだし、気にすることないだろう。なんならみなつの動機も不純だ」
それもそうですね、とちあきは薄く笑った。
足が冷えてきた。タイツもジャージも履けば怒られる中学校とおさらばするためにも、しっかり勉強しよう、と思った。
「せんぱい、私、他に行きたい高校なんて考えられない」
泣きそうな声だった。私はなんて言葉をかけたらいいのかわからない。優しい言葉を言えたらいいのだが、本当はみなつのことを諦めてしまえばいいと思っているのだ。
「じゃあ、もし本当に外に行くことにしたら、私が受験する高校も候補に入れておいてくれると嬉しい」
えっ、と驚きの声を上げて、ちあきはぽかんとした。かわいい子。
しばらく沈黙があたりをつつんで、私は照れてきた。
「まあ、悩むのはいいことだと思うから、ゆっくり悩め」
そう言ったらちあきは、ほう、と両手に息をはいて、ちあきは少し安心したように笑った。
「悩み過ぎて困った時は、そうしますね」
私はほほえんでうなずく。何としても第一志望に受かろうと闘志が湧いてきた。
ちあきと別れて図書室に戻り、少しだけちあきに思いをはせる。第二志望でもいいから、私のことも気に留めてくれたらいいのに。
シャーペンを握り勉強に集中して、目の前のこと以外を自分から切り離す。そうやって少しずつ、いろんなことから遠ざかっていく。卒業が待ち遠しい。
さよなら四角形